ワーカーズ338号 2007.2.1.    案内へ戻る

「雇用国会」が始まった

 1月25日、通常国会が招集されました。「労働契約法」の制定、「労働基準法(特に労働時間規制)」「パート労働法」「最低賃金法」「雇用対策法(特に若年者の雇用)」の改正など、働く者にとって、これほど直接的で身近な課題が審議される国会もめずらしいと言えます。にもかかわらず、「ホワイトカラー・エグザンプション」(残業代ゼロ法案)や「解雇の金銭解決」等、重大な論点が「サラリーマンの反発を呼ぶ」として、参議院選挙後に先送りされたり、パートの「同一労働同一賃金」原則が、ほんの一部の「無期限雇用パート」に限定されるなど、早くも「骨抜き」や「棚上げ」の動きが始まっています。6千万人の雇用者をだまし、ごまかすような動きに負けずに、私達は、まずは騙されないよう、国会審議を注視し、新聞を読み、ニュース番組を見て、職場で話題にすることから始めたいものです。

破綻した「パッケージ」

 「雇用ルール見直し」国会は、招集前からすでに混乱しています。
 当初、厚生労働省は焦点の一つである「労働時間規制」について、一方で経営者側の強い要求である「ホワイトカラー・エグザンプション」(一定以上年収のホワイトカラーを労働時間規制の適用から除外する・つまり残業代をゼロにする)を強行し、代わりに労働側の要求である「時間外手当の引上げ」(残業規制の強化)を経営側に飲ませる、「労使痛み分け」の「パッケージ」作戦で、労働政策審議会をまとめようとしました。
 労使の委員が折り合わなくても「最終答申」までもっていけば、あとは政府提出法案に乗せて、与党の多数で押し切れると甘く考えていた節があります。ところが、国会召集が近づくと与党(自民・公明)の中からも「野党に格好の攻撃材料を与えて、統一地方選や参院選に不利」と棚上げの声が上がり、厚労省のパッケージ戦術は、大誤算となってしまったのです。

読み違えた「格差論争」

 厚労省の誤算の一因は、労働政策審議会が始まったころと、今日とでは、格差をめぐる世論が変化していることを軽く見ていたことでしょう。
 例えば、昨年の通常国会で「小泉改革の陰」として「格差拡大」が問題となりましたが、この時はまだ、小泉首相が「言われる程に格差は拡大していない」とか「多少の格差はあった方が良い」とか答弁するなど、「格差拡大の有無」「格差の是非」を問う初歩的な段階でした。
 しかし、あれから1年、ビジネスマン向けの雑誌や新書本等で「格差の実態」が、ルポルタージュや経済統計で、これでもか、これでもかと暴露され、世論の情況はずいぶん変わりました。「格差はかなり拡大している」ことは、もはや労働経済学者の間では共通認識となり、またそれは「是正されるべき」として、程度の差はあれ与野党を問わず共通の政策課題となった観があります。
 しかし、日本経団連をはじめとした財界中枢は、格差拡大の根源である「新しい日本的経営(雇用類型化)」路線を、さらに先鋭化することをめざしています。厚労省は小泉時代と同じ感覚で、経営者勢力の要求である「ホワイトカラー・エグザンプション」は、ストレートに首相官邸サイドが通してくれるはず、あとは、その見返りとして労働側の要求である「(ブルーカラーの)残業規制の強化」や「パート労働法」「最低賃金法」の改正を抱き合わせれば、万事うまく行くと勝手に「落とし所」を設定していたのです。
 ホワイトカラーの長時間労働は、今や極限に達しており、過労死裁判を闘ってきた遺族達が「反対」のビラを街で配るほどまでに、正社員の怒りが広がっていることを、厚労省官僚は軽く見ていたため、「サラリーマンを敵にして選挙は闘えない」という与党議員の現実感覚と乖離してしまったのです。

骨抜きにされる「パート法」改正

 「労働契約法」を始めとした「労働法制見直し」は、これまで「労働政策審議会」を舞台に、政労使の攻防が繰り広げられてきましたが、そこでの攻防は未決着のまま、国会論議に突入しようとしています。
 「パート労働法」改正では、正社員と同じ仕事をするパート労働者に、「均等待遇」(同一価値労働・同一賃金)の原則を導入する方向を示した厚労省は、経営者側の猛反対に直面するや、「期限の定めのない短時間労働者に限定する」と言い出しました。パート労働者のほとんどが「有期雇用」なのですから、ひどい「骨抜き」です。
 「パートの厚生年金」についても、週20時間以上のパート労働者の加入を打ち出しては見たものの、これまた流通業界の反発で、またもや「棚上げ」となりそうです。
 このように「雇用ルール見直し国会」は、厚労省の描いていたシナリオがすでに崩れてしまい、いわば配役も場面設定も決まらないまま、幕が開こうとしているのが現在の状況です。
 しかも今回の「雇用国会」と並行して、3月には春闘時期を迎え、4月には統一地方選、夏には参議院選挙と、働く者にとっては、発言し、議論し、要求し、行動する舞台が次々に巡ってきます。そのために、まずは「国会審議」の動きを、大いに監視し、その後の運動につなげていきましょう。(松本誠也)


《格差社会》に立ち向かおう――労働者としての階級形成を展望しながら――

 この10数年の日本社会は様々な格差が拡大した時期だった。その《格差社会》をめぐる議論と攻防は、昨年には一気に表舞台に浮上し、年が明けてからさらに厳しさを増している。
 1月末に始まった通常国会でも、民主党など野党は格差社会の是正を主たる争点として政府与党を追求する姿勢を強めている。また連合など労働団体もホワイトカラーエグゼンプション法制化やパート賃金引き上げなどを通じて格差社会の是正に身を乗り出さざるを得なくなっている。それだけ現実の雇用・職場環境が深刻になっていることの反映でもある。
 ここでは日々深刻さを増しており、夏の参議院選挙やその前哨戦としての通常国会でも大きな争点として浮上した「格差社会」を考え、それにいかに立ち向かっていくかを探ることにしたい。

■深刻化する《格差社会》

 この間深まってきた格差社会は、ほんの10数年前に比べても隔世の感がある。
 97年の北海道拓殖銀行と山一証券の経営破綻に象徴されるように、大銀行や大企業は倒産しないという神話が崩れ、リストラが首切りと同義語のように語られて失業者が急増した。
 三つの過剰などという危機感が振りまかれ、雇用削減、雇用破壊が一気に拡がった。企業は新規採用を極端に縮小し、正社員は様々な形の非正規雇用に置き換えられ、身の回りにはパート・派遣・請負など非正規労働者が猛烈な勢いで増えてきた。
 地方に行けば駅前は〈シャッター通り〉、人影もなく、他方では六本木や汐留にはヒートアイランド現象など気象条件も変えるような高層ビルが林立するようになった。生活保護世帯が急増する一方、ホリエモンのような〈にわか成金〉ともいえるようなベンチャー起業家が何人も生まれた。一方で、自己破産や自殺者が急増・高止まりする一方で、都心では高級マンションが飛ぶように売れた。こうした事例を揚げていけばきりがないほどだ。
 街の書店をのぞいてみれば、こうした格差社会化を反映してか、各種の〈格差本〉といわれる本や雑誌が平積みにされ、どの書店でも特集コーナーが出来ている。ちょっとでも関心がある人はだれでもおそらく1〜2冊は読んでいるのだろう。それだけ格差社会が深刻になり、多くの人も実感を深めていることの反映でもある。

■格差社会とは何か

 多くの人に実感され、また各種の選挙や国会でも争点として取り上げられるようになった格差社会。が、一口に格差社会といっても、それが意味する内容はそれを語る人や特定の場面によっては一様ではない。格差社会をどのように認識し、いかに立ち向かっていくのかを考える前提として、それらを少し整理してみたい。
 何を格差だとするかについては、語る人や取り上げる人によって自ずと違いはあるが、それらを区分けしてみればおおむね以下のようになるだろう。
 第一は、富裕層と貧困層の格差拡大だ。
 これは収入や資産などだけを基準にして、富者と貧者の分布が拡がっていることを指している。具体的にいえば、この間の段階的な所得税の最高税率引き下げにもかかわらず、最近では高額納税者が増える傾向にあるのに対し、生活保護世帯が100万世帯を超え、92年の58万世帯から倍増し、あるいは貯蓄残高ゼロ世帯が72年の3・2%から現在の23%と7〜8倍に増えていることにも現れている。
 こうした所得格差では、所得の不平等度を表すジニ係数という指標が有名になり、国会論戦やマスコミにも多く登場するようになった。このジニ係数の動向から日本は格差社会化が進行している現実が浮かび上がる。貧困化率でもOECDの調査によれば、日本は米国に次いで先進国中2番目に高い国になっている。
 人々が収入や暮らしで上下に大きく分断されていくという分断社会科は、かつての一億層中流社会という幻想そのものが崩壊したということであり、新たな階級社会の到来を告げるものになっている。
 こうした階級社会化を促進したのが橋本政権以降の構造改革路線、とりわけ小泉政権による新自由主義的構造改革だ。それを象徴するのが企業減税、高額所得者減税であり、労働者・庶民の社会保障費をはじめとする各種の負担増である。
 第二は、都市部、とりわけ首都圏と地方の格差拡大だ。
 これは地価の推移や有効求人倍率が東京圏など一部の都市圏での回復基調、地方での引き続く低迷状況などに現れている。要因としては勝ち組企業による地方企業の駆逐や下請け化の進行、政府の公共事業の削減、流通大手による地域に密着した商店の駆逐が進んだことがある。
第三は、一部の大企業・勝ち組企業と中小零細企業の格差拡大だ。
 これはいうまでもなく不良債権処理にともなう中小・零細企業の淘汰や、公共事業にかかわる建設・土木関連企業の衰退と、他方でのIT企業や多国籍企業の肥大化などに現れている。この直接的な要因としては、各種の規制撤廃が大きく作用している。
第四は、企業と労働者の格差拡大だ。
 これも指摘するまでもないことだが、一方でのいざなぎ景気を超えるといわれるほどに長期化した好調な企業業績であり、他方でのそうした「好景気」にもかかわらず労働者の賃金は5年以上も継続して引き下げられてきたという現実だ。その5年で株式配当は2・7倍(一社あたり)にもなり、経営者報酬は2倍(同)になっているにもかかわらずだ。当然、労働分配率は継続的に低下してきた。
 この直接的な要因としては、派遣労働の規制緩和など労働分野での規制緩和政策が大きく影響している。株主配当が引き上げられてきたのは企業買収が増えていることに対する企業側の防衛策という意味合いもある。役員報酬の引き上げにいたっては、労働者を犠牲にしての企業業績回復に対するお手盛り報酬としか言いようがない。
 この他、史上まれな低金利によって、92年から04年の12年間に本来預金者が手にするはずだった300兆円もの利息が家計から奪われてきたことも大きく影響している。
第五は、労働者の間での格差拡大。
 これも年俸制賃金の導入など成果主義賃金の拡大や労働分野での規制緩和に拠るところが大きい。いまでは各種の非正規労働者が激増し、いまでは3人に一人が不安定かつ劣悪な処遇で何らかの非正規雇用で働かざるを得なくされている。いまでも最低賃金レベルで働かされている非正規労働者も多く、また派遣労働の原則自由化によって派遣単価も引き下げられている。一方で驚くような高額の成果主義賃金を手にしているエリート労働者も増え、労働者間の賃金格差も拡大しているのが実情だ。
 労働者のあいだでの格差構造そのものは以前から存在してはいた。が、それは大企業エリート労働者を頂点としたピラミッド状の序列社会として存在し、併行して形成されてきた学歴社会もあって個人の能力や努力によっては自分の位置を選択することも不可能ではなかった。それ以上に、高度経済成長でほどんとの労働者の所得が継続して引き上げられてきという事情もあって差別分断構造が表面化しにくい状況にあったといえる。そうした事情が様変わりしたということだ。

■つくられた格差社会

 しかしこうした格差社会の拡大は自然現象ではない。その背景となっている経済のグローバル化にともなう国際的な競争の激化でさえも不可避の現象ではない。それは資本の論理に突き動かされた企業による市場の支配、あるいは生き残りをかけた〈不作為の共同行動〉の結果であって、他の選択肢、いわば第2,第3の道もあり得るのだ。今回はそれには触れられないが、格差社会の拡がりにも当然のこととしてそれ相応の背景や原因がある。
 なかでも決定的な要因となったのは財界による低コスト体質づくりに向けた意図的な雇用形態の再編、それを後押しする小泉内閣による利潤至上主義による弱肉強食の競争社会への再編政策だろう。
 具体的な要因としては、各種の格差拡大に触れた箇所でも指摘してきたので繰り返さないが、政府や財界の思惑に沿った勝ち組・負け組を造り出す政府や財界による各種の施策がある。
 ところで上記で整理してきたように、一口に格差社会と言っても少なくとも5つの格差社会がある。付け加えればこれに世代間の格差、あるいは男女間の格差などもあり、それ相応の問題を含んでいる。それらも含めて、私たち労働者にとって何を最優先で是正・克服をめざすべき課題なのだろうか。あえて絞れば第4,第5の企業と労働者、それに労働者内部の格差是正ではないだろうか。
 それ以外の格差も深刻化しており、どれもほっておいて良いというものではない。が、労働者がまず自分自身の態度や行動や闘いで直接是正可能なのは、それらの格差の是正だろう。1番目から3番目までは、制度や政策にかかわるものであり、また選挙や政治に関わってくる。そのためにもまず自分たち自身の力をつけることが不可欠だ。労働者階級の連携した闘いを拡げられなければ、そうした制度や政策に対して影響力を行使していくことなど期待すべくもない。労働者階級自身が、社会変革に影響力を行使できるような主体的な力をつけること、言い換えれば労働者としての階級形成、主体形成と連動した闘いの見通しを見いだすこと、それがすべての出発点となる。
 とはいっても労働者階級内部の格差是正も労働者の内部努力で解決するわけではない。それをつくってきた原因と相手がある課題だからだ。その直接の原因と相手は日経連(現・経団連)であり、その日経連が財界の総意として打ち出したいわゆる〈雇用の3類型化〉だ。

■奪い返す闘い

 いうまでもなく雇用の3類型化とは、95年に当時の日経連が打ち出した「新時代の『日本的経営』」で打ち出したものだ。そこではそれまで正社員中心だった日本企業の雇用形態を長期蓄積能力活用型グループ、高度専門能力活用型グループ、雇用柔軟型グループの3類型に再編する、というもので、それぞれの類型ごとに雇用管理や処遇を分けることで企業の成長をめざすというものだった。
 それぞれの類型の括り方や手前勝手な呼称はともかくとして、要は正社員中心で硬直的な雇用システムを企業にとって使い勝手の良い方式に切り替えるのが経団連のねらいだった。現にこの提言が出た直後の96年以降、正規労働者が急減し、それを埋めるように非正規労働者が急増してきたという現実がある。とりわけ02年からはパート・アルバイトという主婦が中心だった一時的、補助的業務中心の非正規雇用に対して、派遣社員、契約社員、委託社員、請負社員といった長時間、継続的雇用を前提とした、リストラされた正社員の後を埋めるような形の非正規雇用が爆発的に増えてきた。こうした現実は、まさに経団連が推し進めてきた雇用の大再編が大多数の企業を巻き込みながら進められたわけだ。
 こうした経緯を考えれば、史上最高を更新している企業利益の一部を労働者にも振り向けるべきだという要求は、説得力のある要求にみえて、じつはピントはずれの要求でしかないことがはっきりする。
 思い起こしてみたい。企業利益が膨らんでいるのは売り上げが増えたから利益も膨らんだ、ということではない。日本の名目GDP(国内総生産)は96年の502兆6千億円から05年の502兆9千億円まで、まったく増えていない。
 どういうことかといえば、大企業・勝ち組企業が労働者をリストラし、それを最小限の非正規労働者で後補充することでコストを減らし、負け組企業を押しつぶしながら史上最高の利益を上げている、ということなのだ。だからリストラ=コストダウンによる史上最高の利益なのであって、あくまでリストラ=賃下げが原因で結果が企業の高収益なのだ。いいかえれば、本来労働者が手にするべきものを奪ったからこその企業利益であり、その奪われたものを奪い返す、というのが直面する課題なのだ。だからそれを実現する主体は、資本=企業=経営者に対する労働者自身による反転攻勢以外にあり得ない。格差是正をいきなり何らかの政策に結びつけるのは、こうした自分たち自身の闘いの課題を曖昧にすることにつながるもので、結局は労働者をいつでも政策課題の対象に押しとどめておくようなものだろう。
 今春闘では最低賃金の引き上げも大きな争点として浮上しつつある。あるいはそれを闘い取ろうとする非正規労働者の当事者の闘いも始まっている。安倍政権が短命に終わるかどうかをかけた参議院選も間近に迫っている。そうした闘いに際しては、非正規労働者の正社員化を目的にするのか、あるいは均等待遇の実現を優先して戦うのかなど、労働者の共通認識をいかにつくりあげていくのかという課題も残されている。今回はそれらについても触れられなかったが、まずは最低賃金引き上げや労働者の均等待遇の要求を前進させることから反撃を拡大していきたい。(廣)案内へ戻る


そのまんま東氏の宮崎県知事の誕生と背景

 一月二十一日、四月の統一地方選や夏の参院選の前哨戦として注目されている山梨・愛媛・宮崎各県知事選が、即日投開票された。任期満了に伴う山梨知事選は自民が分裂する中、現職と三新人が争い、愛媛知事選では現職に新人二氏が挑み、宮崎県の官製談合事件で前知事の安藤前知事辞職に伴う出直し宮崎知事選は、新人五人による混戦であった。
 山梨と愛媛では選挙通の下馬評通りの展開であったが、保守王国の宮崎では、予想外の無所属新人で元タレントのそのまんま東氏=本名・東国原英夫氏が初当選したのである。
 ビートたけし配下のタレントとして知名度の高い東氏は、無党派層や若年層などから幅広い支持を集め、前林野庁長官の川村氏ら新人四人に圧勝した。結果から判断すると県民は、行政・政治経験のない「未知数」の東氏にあえて県政刷新を託し、贈賄事件で指摘された官民癒着や「しがらみ」からの決別を強く求めたと言える。
 この事件では、競売入札妨害罪で起訴された安藤前知事を含め、県幹部七人が逮捕されたため、知事選では入札制度の改善や県政刷新のあり方が争点となり、投票率は64・85%(前回59・34%)と五%も上昇した。宮崎知事選で投票率が60%を超えたのは実に28年ぶりの事であった。マニフェストを掲げて闘ったのは東氏だけだったのだ。
 宮崎知事選確定得票数は、当266807票そのまんま東=無新、195124票川村秀三郎=無新、120,825票持永哲志=無新[自][公]、14,358票津島忠勝=共新、3,574票武田信弘=無新であった。
 同県都城市出身の東氏は「しがらみのない政治ができるのは自分だけ」と清新さを強調しつつ同級生らが草の根運動を展開し、「宮崎のセールスマンとなって全国に売り込む」と訴えた。当選後、東氏がさっそく鶏肉安全を呼びかけているのは周知の事である。
 出馬表明時に芸能界からの引退を宣言し、このために離婚もした。退路を断った事を印象づけるため、選挙中は芸能人の支援は辞退し、宮崎県の観光振興や防災対策等、86項目の選挙公約マニフェストを掲げて選挙を戦った。この闘いが、眠っていた県民の共感を呼び覚まし、県内9市すべてで最高票を獲得し、出身の県西部などを中心に町村部でも票を伸ばすなど、予想を超えた大きなうねりを全県に作り出す事に成功したのである。
 昨年末に林野庁長官を辞職し、出馬を表明した川村氏は「県民党」を標榜して、農林業の振興などを主張したが、出遅れが最後まで響いた。元経済産業省課長の持永氏は自民・公明両党の推薦を受けて組織選挙を展開したが、川村氏の出馬で、保守層が分裂し、共倒れしてしまったと言える。既成政党が最近の県民の意識の動向を無視した事が敗因だ。
 私たちは、東国原氏が、腐敗した政党支配を食い破ったことを高く評価するものの、選挙公約を絵に描いた餅にして、県民の「政治不信」を増大させないように願っている。すでに新たな利権を求めて支持者面のいかがわしい人々が東氏に群がりつつある事を私たちは知っているからだ。まずは自らの政治姿勢を堅持する事に期待するものである。(木村)


天につばする教育再生会議の呆れた答申

 一月二十四日、安倍政権によって、目玉とされたにわか作りの教育再生会議の第一次報告が提出された。翌日の通常国会冒頭、この答申を安倍総理はすぐに確認したのである。
 この報告では「教育界」に「閉鎖性」があると一方的に決めつけたのだが、まさにこの事自体、天につばする行為であることを明確にしたい。そもそも、教育再生会議の会議は非公開で、その人選は安倍内閣の一方的な意思で行われ、わずかに選ばれた教育関係者もどのような基準で選ばれたかも一切明らかにされていない。自らを糺すべきではないか。
 安倍政権は、下落し続ける支持率のアップをめざし、今通常国会を「教育再生」国会と位置づけ、教員免許法・地方教育行政法・学校教育法の三改正法案を提出するとの事。高まる格差社会への批判をそらし、自らが言い出しっぺの「再チャレンジ」を売り込むために「教育」問題をとことん利用しようとの魂胆は見え見えなのだ。
 教育再生会議の第一次報告は、「7つの提言」と「5つの緊急対応」で構成されている。
 「7つの提言」とは、【1】ゆとり教育を見直し、学力を向上する 「基礎学力強化プログラム」習熟度別指導の拡充・地域の実情に留意し学校選択制の導入 【2】学校を再生し、安心して学べる規律ある教室にする 出席停止制度を活用、警察と連携・反社会的行動を繰り返す子供に毅然たる指導 【3】すべての子供に規範意識を教え、社会人としての基本を徹底する 「道徳の時間」の確保と充実・高校での奉仕活動の必修化・大学の9月入学の普及促進 【4】あらゆる手だてを総動員し、魅力的で尊敬できる先生を育てる 社会の多様な分野から積極的大量に教員に採用・メリハリある給与体系で差をつける・不適格教員は教壇に立たせない 【5】保護者や地域の信頼に真に応える学校にする 「教育水準保障機関」による外部評価監査システムの導入・副校長・主幹等の新設・民間人校長など管理職に外部の人材を登用 【6】教育委員会の在り方そのものを抜本的に問い直す 危機管理チームを設ける・教職員の人事権は市町村にできるだけ移譲・教委の基準や指針を国で定めて公表し、第三者機関の外部評価制度を導入 【7】社会総がかりで子供の教育にあたる 「家庭の日」を利用しての多世代交流・地域リーダー(教育コーディネーター)の育成である。「5の緊急対応」とは、1「ゆとり教育」の見直し=早急 2教育委員会制度の抜本改革=07年通常国会に提出 3教員免許更新制導入=07年通常国会に提出 4学校の責任体制の確立等=早急に国会に提出 5反社会的行動をとる子供に対する毅然たる指導のための法令等の見直し=06年度中である。
 「ゆとり教育」を見直すとして授業時間数の十%増加を明記した事と体罰禁止規定を見直す事に注目しなければならない。こんな事を真顔で提案するとは全くの驚きである。彼らの金科玉条である行政の継続性は一体何処へと行ってしまったのであろうか。その他確認できる事として、「出席停止」「警察との連携」「規範意識」「道徳=修身」「高校での奉仕活動義務化」「不適格教員の教壇からの排除」「教育委員会制度への外部評価機関の導入」等の権威的で外圧に頼る強制措置の強化がある。ここには無策の果ての強権しかない。
 先の教育基本法改悪の次は、統制と規律とで学校現場を縛り付けようと言う事なのだ。
 すでに東京都教育委員会では「職員会議での挙手採決」を禁止している。平教員は校長に諂い、校長は区・市教委に盲従し、彼らも都道府県教委に従順で、各県教委も文部科学省の指示に従うだけだ。安倍総理が狙っているのは硬直した官僚的教育行政なのである。
 まさに安倍総理にとっては説得や人を納得させる事は無駄で強権こそすべてだ。警察や自衛隊を積極的に利用して「規範意識と「愛国心」を養うため学校へ接触を強化する。ここまでくれば「高校の奉仕活動義務化」の具体策は、自衛隊体験入隊とならざるをえない。
 荒廃しつつある教育現場の困難の解決策がこれだとはなんと安直な考えではないか。愚か者の下した結論と言うしかない。次に進行するのは、既に進行しつつある教育における公立学校と私立学校との途方もない格差の拡大だ。今後は出生が人生を決めるのだ。
 今回の三改正法案の後には、教育基本法「改悪」を受け、教育関連二十九法令案が、次期通常国会等へ順番に上程される。それらの政府の法令「改悪」案を、どこがどのように反動なのかを具体的に批判する事で、教育基本法「改悪」阻止で積み上げてきた全国の闘いを強化・発展させていかなければならない。ともに闘っていこうではないか。 (猪瀬)


コラムの窓・・・新年の初夢

 最近歳を取ったせいか、どうも現在の世の中のスピードの早さについて行けない。色々な事が早すぎて、じっくり・ゆっくり考えている暇がない。考えている間にどんどん物事が進んでしまう、そんな感じである。
 そんなことで、一ヶ月遅れになったが私の「初夢」である「自由学校」のことについて書く。
 日本の最高学府である大学は、多くの専門知識を提供し、社会を啓蒙し、社会的にも多くの有能な人材を輩出してきた。また、60年安保や70年全共闘などに見られるように大学や社会の矛盾に立ち向かい、先駆的な運動を担ってきたと言える。
 しかし、日本の高度経済成長と共に高等教育はどんどん大衆化していき、いまではおよそ1,200余りの大学が存在し、高校卒の約50%が大学に、専門学校も含めれば約70%の高校生が進学している時代となった。
 学費も世界一高額で、国立大学でも初年度学費は80万円以上、私立大学では文系約120万円、理系約150万円、看護・医療系約200万円、薬学系300万円、獣医系250万円、医歯系1,000万円などなどである。これでは、大学進学(特に医歯系など)は負担できる高額収入の親であるか否かで決まってしまう。
 在学中にこんなにも学費(まさに投資ともいえる)がかかる訳だから、世に出て就職すればその学費(投資分)を回収しようと行動するのも当然と言える。一体、何のための大学・学問なのか、誰のための大学か、疑問をもつ。
 さらに、国家や経済界による教育・研究内容への介入が強まり、とりわけ国公立大学の「独立行政法人化」によって、予算の配分や人事権などにおいて総長や学長の権限が強化されて、教授会は形骸化する、大学自治は否定されるなど、管理と統制が進み自由に発言できない状況が生まれている。
 最近の大学構造は、社会に寄与するような「学問の継承・発展」は弱く、「自由な学問」の追及も弱く、実務・実学(資格取得)のための勉強ばかりである。学生に人気がないと言うことで、4年制大学の「哲学科」はどんどん減少している。これでは、ますます日本で哲学・思想を語る人がいなくなってしまう。
 外国から来た留学生たちはこうした日本の大学を見て「レジャーランド」と呼び、外国からの日本研究者たちは「日本の大学は死んだ」と表現している。
 さらに、高校に目を移せば、今回の「未履修問題」が示すように、少しでもランクの高い大学に入るための受験勉強が優先され、人類の歴史や文化を学ぶとか、芸術にふれて人間性を高めるなどの教養面はまったく無視され、ただただ知識の詰め込みだけとなっている。高校の予備校化現象がますます進んでいる。
 こうした閉塞状況にある大学や高校での教育を乗り越えるため、「市民のための自由学校」づくりをめざした試みがなされている。
 アジア太平洋資料センターが主催する「PARC(Pacific Asia Resource Center)自由学校」は、「私たちが生きている世界のこと、そしてその世界の一部としてある日本社会のことを知りたい。よりゆたかな暮らし方、いきいきできる生き方のヒントがほしい。表現するための技術を身につけたい。そんな人たちが出会い、学びあうのが自由学校です」と呼びかけている。
 このような自由学校は、「さっぽろ自由学校『遊』」、「なごや自由学校」、「京都自由学校」、「ふくおか自由学校」などあり、それぞれの地域に根ざした個性的な自由学校を開校している。
 また、市民のための大学をめざす「京都自由大学」は、「私たちは、この京都の地において地域にも市民にも開かれた大学づくりをめざします。・・・国際人権規約及びユネスコの高等教育宣言、憲法、教育基本法の内容をふまえつつ教育・文化事業を進めていきます。このことによって、京都自由大学が地域教育・文化への貢献をなし、このことをもって日本、全世界の平和・自由・民主主義の前進に寄与できることを願っています」と設立趣旨書で述べている。
 自律的な市民の育成や社会の変革を展望して、各地域でそれぞれが工夫したユニークな「自由学校」づくりに挑戦してはどうか。
 これから団塊世代が自由人になっていく時代である。地域や職場などの関係者に広く呼びかけて、基金を集め、各界の有能な講師に協力をいただいて、NPO立の自由学校を設立・運営していく。こうした「自由学校」を全国に広めていく夢を実現したい。(英) 案内へ戻る


 書評 『協議型社会主義の模索』(社会評論社刊行 著村岡到)を読んでの感想 阿部 文明

 数年前に「アソシエーション社会」の構想を組織的に提出した経緯もあって、私は、未来社会の、つまり現代の資本主義を克服した社会としてどのようなイメージを労働者や国民がもちうるのか、その後も興味と関心を持ってきた一人です。
 私自身はその後「アソシエーション社会」の最初の段階ないしはむしろ過渡的社会として「協同組合的社会」の構想を提案しています(2000年『アソシエーション社会への道』ワーカーズブックレット)。その後も模索を続けている次第です。したがって、最近図書館で目にした村岡氏のこの著作については関心を持って読み出しました。
 資本主義への「対抗社会」やソビエト型に代わる「社会主義構想」に係わる議論については多少のことは当然知っていましたが、村岡氏の「特色」は、抽象論ではなく具体的な方策、「生存権」「生活カード制」という提案になっていることです。このような具体的な提案についてはかなり勇気の必要なことだと想像もするし、抽象論にとどまらない姿勢も共感を覚えます。しかし、その内容については私としては、とうてい納得できないし、人類の歴史をどうとらえるかという大きな問題に係わってくるので、若干ここでコメントしたいと思います。
* * *
 氏の新たな構想である「協議型社会主義」の経済原理は、第一に「労働と分配の分離・切断」です。氏の主張を聞いてみましょう。
 「長い間、マルクス主義では『労働に応じた分配』が『社会主義の原則』だと考えられてきた。その根本には『働かざる者食うべからず』という道徳律がある。…このスローガンは実は、古代ローマの怠け者修道士を諫めるキリスト教の教えであった。…自らは労働しないで奢侈を極める富者や権力者を糾弾するためには有効であるが、それ以上のものではなかった。」(同書66ページ)。
 マルクスの「労働の給付に応じた分配」(『ゴータ綱領批判』)が「働かざる者食うべからず」といったレベルでしか理解されていないとすれば残念なことでです。それは後で見るように何ら一党一宗派の「道徳律」の問題ではありません。客観的歴史的洞察の問題であり、したがってこれを否定するのであればそれなりの歴史研究に基づくべきではないでしょうか。ともかく、村岡氏は、驚くほど簡単に「労働と分配」との関係を「分離」してしまうのです。
 このようにして、労働と分配の関係を断ち切った後で、村岡氏は「生活カード制」を提案します。つまり、生活資料などの分配にあずかるため「生活カード」は「生存権」に基づいて(決して社会に対する労働の給付に基づいてではなく)社会の個々人にあらかじめ支給されると言います。
 「@人間は、誕生すると、その生存に必要な生活資料に相当する一定量の〈生活カード〉を社会から給付される。〈生活カード〉には『ニーズ』という単位が表示される。」
「A人間は、支給された〈生活カード〉を用いて、引換場で好みの生産物と引き換える。」「B上記の引き替えが可能となるためには、言うまでもなく〈引換場〉に一定の量の生産物が用意されなければならないし、各生産物に『ニーズ』を単位とする評価数字が付けられる。」(村岡氏)等々。
 これ以上詳しい紹介や説明は省きます。興味のある方は直接この本をご覧下さい。私の問題とする点は、まさに「労働と分配との関係を断ち切る」という見解一点に絞ります。
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 旧石器時代と同じと考えられるバンド社会(狩猟採集社会)を考えてみましょう。じつはこれらの原始的社会は、それほどに共同労働が行われておらず、主たる食料は個人的に女性達が獲得する食料採集に頼っています。しかし、他方では村を挙げての狩りは集団的・組織的に行われます。このような共同労働における生産物・獲得物の分配がどのようになされているのかを知ることは、この問題を考察するには重要なことでしょう。
 バンド社会での共同労働に基づく分配は、獲物を追い立てる勢子、キャンプの火をまもるもの、射手等々の分担の上に成り立っています。獲物を見事に獲得した場合、射手が大きな分配を得ます。しかも、複数の射手によって獲物が倒された場合は一番矢の者とか、とどめを刺した者がより多い分配の権利を得ます。これらの分配方式は伝統的に各バンドによって定められています。現代風に表現すれば「労働の給付に応じた分配」といって間違いないでしょう。(この例の場合は、決して労働時間ではなく、労働の質が、成果に対する貢献度として考慮されていることに注意してください。)このような一定のルールに従って「果実」の分配は行われています。共同労働の性格によって、労働の質がより問われている場合や、他方、特に技巧等の労働の質が成果にそれほどの影響を及ぼさない場合、つまり誰がやっても同じ成果を得られる共同労働の場合は、労働時間を基準に成果物の分配が行われるのは、人間にとってきわめてなじみ深いものと言えるでしょう。
 この「旧石器時代」に行われてきた分配の様式の一端を見るだけでも、「労働に基づく分配」が人類の歴史それ自身といっても過言でないほど、深く人類の社会原理に根ざしていると考えられます。後期旧石器時代でも数万年の歴史があるとされていますが、次に述べる理由によってさらにこの問題は人類史全体とも関わっていると考えられます。
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 さて、この問題をより幅広い視野から把握する必要があります。この「労働の給付に基づく分配」とは、文化人類学及び、最近次々と新しい成果が伝えられる類人猿研究のなかで、「互酬制」あるいは「互酬的利他行動」「互恵的利他行動」などと呼ばれている、人類の起源にも及ぶところの社会的特色の、単に一つの現れと考えられるのです。
 この、類人猿では散見されるもの、そして人類においては複雑な権利体系として社会システムそのものへと高められている「互酬」とは、身近な集団(社会)の中で、自分の成果物を互いに分け合うことに基づいているのです。このような行動は母子関係とかではなく「他人」の関係においても成立するもので、例えば今日の成果の多い者が少ない者に分け与えるということ、そしてこうした行動は一方的ではなく双方的に行われることが大事です。このレベルでの「互酬」は互いに助け合うことであり、別言すれば互いに「恩」をうって保険を掛け合っていると言うことです。「今日、あいつを助けてやったから、明日自分が困ったとき助けてもらえるだろう」と。互酬関係はそればかりではなく、「もらう」ばかりで「与えない」者に対する懲罰(「道徳的報復」)によって強化されているのが普通です。
 このような協力関係は共同行動においてより発展したかたちで現れます。互酬関係のもとでの共同行動は、単独でするよりも「利」を増大させようとするものであり、その共同の成果を前にしては分け合うことなのです。チンパンジーでさえ研究者によって「(集団での)狩りへの参加が最終的な分け前の量に関係して来ること」が発見されており「獲物がつかまった後に現場にやってきたオスは、地位や年齢に関係なくほとんど、あるいはまったく分け前に与れない」(『利己的なサル、他人を思いやるサル』フランス・ドゥ・ヴアール著230ページ)。一点のみ付言すれば、チンパンジーが他のサルと比べ例外的な緩やかさをもっているとしても、人類とは違い位階性をより深い規制的「社会原理」としているのです。それでもなお上記のようなのです。
 いわんやバンド社会のような伝統と習慣ですっかり社会ルールが確立しあるいは倫理道徳の域まで到達した互酬関係の存在のもとでは、共同労働における貢献度が(例えば、すでに上記したような狩りによる分担協力関係が)分配において反映されるのはあまりにも当然のことなのです。
 くりかえしますが、狩りのように個人の能力や運によって成果が左右される場合は、「一番矢」の者とかの「労働」を高く評価する必要があるし、他方、誰でもそれなりに均質な成果を得られうる労働の場合は、労働時間を基準として分配が成されるでしょう(それら相互の組み合わせも当然あるでしょう)。ようするに「労働の給付に応じた分配」はこれだけの深い根拠があり、それゆえに村岡氏のように「働かざるもの食うべからず」といった「古代ローマの怠け者修道士を諫めるキリスト教の教え」と同一視し、投げ捨てられるべきものではないのです。
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 しかし、補足を急いでしなければなりません。これ、すなわち「労働の給付に応じた分配」のみが人類史上に現れた過去の共同体社会の唯一・絶対的な原理ではありません。というのは、労働不能者、老人、子供その他狩猟キャンプにたまたま参加できなかった者とか分配において不利であることが予想される人々に対しても、例えば「獲物の肉」は第一次取得者から気前よく分けられるか、料理として差し出されるのです(これらを暫定的に二次的分配と言おう)以前世話になったとか、これから世話になるとか、直裁的なギブアンドテークや協力への「報酬」としてではない幅広いいわば戦略的「互酬行動」(表現に問題なしとしませんが)が実行され、それによって共同体はまさに維持されるのです。これらの事実は何を我々に示しているのでしょうか。それはまさに普遍的原理であるのは「互酬」の方であることを示唆しているでしょう。「労働の給付に応じた分配」は一定の歴史条件の中でのみ「互酬」を具現化するものにすぎないことも併せて暗示しているでしょう。(後でまた述べることがあるかもしれません)。
 一次的分配が「労働の給付に基づき」、二次的分配でその「補正」をするという大雑把な過去の共同体の姿が見えてきます(これはあくまで狩りという共同労働による成果物に関することです。採集果実に関しては個々人の家庭でそのまま消費され、狩猟の肉のように村を挙げての分配にはならないのが普通です。)。そして、この分配の有り様の基本はは、未来の共同体である「アソシエーション社会の初期(協同組合的社会)」にも引き継がれると考えざるを得ません。
 資本主義経済は史上類例のない協業生産体制です。あらゆる労働が組織的に結合され行使されている社会です。その資本の支配が打破され、労働者勤労者が直接に共同して職場工場を管理する時点において現れる圧倒的な共同労働は、その一次的分配において「労働の給付に応じたもの」となるのが避けられないでしょう。
 その理由は生産力の制限があり、生活消費財の制限があり、労働の給付との関係を完全に断ち切る事ができないと考えられるからです。また、原始未開社会のような小単位の血族的集団でも地縁的集団でもない現代のアソシエーションは、顔の見える既知の関係ではなく、しかも共同体的精神が十分成熟しているとは言えな当初の段階では、分配の客観的基準の確立が「公平感」を与え共同体社会を円滑に運営するのには不可欠の条件となるでしょう。精神的労働と肉体的労働の分離・対立の解消も、まさに今から取りかかろうという時点でもあります。このような理由から現代の共同体も「労働の給付に応じた分配」を社会的分配の第一の軸に据えるべきなのです。
 他方では、社会に与えた労働の給付と関わりなく社会総労働からの控除に基づき、個々人に支給する物やサービスも増大するであろうことは、想像することが可能であるばかりではなくきわめて合理的な推論です。しかしながら、村岡氏が、上記の諸問題を考慮せず、労働の給付から切り離してすべての分配を論じるとすれば、それはあまりにも性急であり申し訳ないが空論であると考えます。
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 論点を変えてみましょう。マルクスが『ゴータ綱領批判』のなかで、このような「二次的分配」についてあまり(ほとんど)論及せず、「労働の給付に基づく分配」の説明にとどまったことは、「分配のことで大騒ぎ」すべきではないという考えとともに、当時のマルクスにおける知見的制限があったもの(原始的共同体の全貌を研究できなかった)と私は解釈しています。さらにはマルクス時代の生産力の低さが、「労働の給付にもとずかない分配」をより豊かなイメージで認識させなかったのかも知れません。
 しかし、「労働の給付」に対応しない「第二次的分配」の存在は社会進化の中で重要な意味をもちうるのです。それはマルクスの考えと本来矛盾するものではありません。マルクスの『ゴータ綱領批判』の中に少しだけわれわれの「二次的分配」に相当する部分があります。「総生産物からの社会への控除」に論及している部分ではこうあります。「第二に、学校や衛生設備等々のようないろんな欲求を共同で満たすために当てる部分。この部分は最初から、今日の社会に比べてひどく増え、そして新社会が発展するにつれてますます増える。」と。
 これはまさに当然なことでしょう。いや、われわれはこうした地点にとどまらず、子供の育児や教育、さらには個々人が日常的に消費する(共同で消費する部分でなく)もっとも一般的な個人消費財も全労働者からの「控除」に基づいて、必要な人に必要なだけ与えてゆく原資とするべきでしょう(「労働の給付」と対応しないところの、社会〈=協同組合〉からの支給です)。現代資本主義社会でも「労働の給付に対応しない国家等からの支給」はけして少なくありません。新社会では、初めからマルクスの時点よりもはるかに高いレベルにおいて系統的に「二次的分配」(社会的総生産物あるいは総労働より必要な人に労働の給付に対応することなく支給される部分)を組織すべきだし、そうすることが可能であると考えます。(したがって、更なる社会進化をとげたある時点では、この「労働の給付に応じた分配」と「労働に基づかない分配」の比率が逆転しうることは合理的に考察しうるところです。「労働の給付に基づかない分配」が分配の主役となる時点もいずれは来るということです。) 
 紙面もないので、羅列だけに止めますが、この面から述べれば「労働の給付に応じた分配」がいまだに無視できない比重をもつのが「協同組合的社会」であり、分配が労働との関連を離れ「各人は能力に応じて働き、必要に応じて取得する」社会が「共産主義のより高度な段階」とされるものです。ここに到るまではもう一つの時代、それらの諸条件を準備する時代が必要なのです。以上 


ホワイトカラーエグゼンプションを巡る政府内の攻防

 ホワイトカラー労働時間規制適用免除制度は、マスコミによって、残業代ゼロ法案と核心を腐されて、安倍総理自らが、国民の理解が得られないから撤回する展開とはなった。
 この制度は、0五年六月に日本経済団体連合会が提言を行い、0六年六月に厚生労働省の労働政策審議会労働条件分科会が素案を示していた。厚生労働省は安倍総理の発言にもかかわらず、今期通常国会への法案提出を断念してはいないのである。
 なぜ安倍総理が方針を変えたかについては、すでに、日本労働組合総連合会が猛烈に反発してきた事や与党内でも、0七年四月の統一地方選挙や七月二十二日投票の参議院議員通常選挙への影響を懸念して、0七年の通常国会への提出を先送りすべきとの意見も出ていたので、今国会での法案可決を断念したと言える。
 しかし、先に明らかにしたように厚生労働省側は断念していないので、今後の情勢は依然予断を許さない状況である。0六年十二月二十七日に厚生労働省が示した原案では、適用対象者の基準年収額については「相当程度高い」として、具体的な年収額を明示していない。また、民主党も、この制度への対案として、「格差是正緊急措置法案(仮称)」を提出する方針を固めているのである。
 一九九五年、確かに日経連(当時、現日本経団連)は、「新時代の『日本的経営』」の表題を持つ報告書で、将来的な雇用関係のあり方について、「ホワイトカラー」は、その働き方に裁量性が高く、労働時間の長さと成果が必ずしも比例しない部分があるとしており、このため、労働時間に対して賃金を支払うのではなく、成果に対して賃金を支払う仕組みが必要との要旨を提案している。この主張には、過重労働やサービス残業に対する行政の監督強化に反対して、規制緩和をいっそう推し進めたいという財界側の思惑があると言われてきた。
 しかし、0六年六月に発行された日米投資イニシアチブ報告書には、アメリカ政府が世界的に進めるグローバル資本主義導入の一環として、日本国政府に「労働者の能力育成の観点から、管理、経営業務に就く従業員に関し、労働基準法による現在の労働時間制度の代わりに、ホワイトカラーエグゼンプション制度を導入するよう要請した」とはっきり記載されている。今ではアメリカからの要請でもある。どっちが言い出しっぺなのか明確には出来ない者ものの、アメリカ政府が日本における外資企業の収益性・効率性を上げるため、日本の親米保守派と同一歩調を取っている事は疑いのない事実なのである。
 一月十八日、経済財政諮問会議の民間メンバーの八代尚宏国際基督教大教授は、内閣府の労働市場改革などに関するシンポジウムで、自分の大学教授の特権的立場に安住した上で、正社員と非正規社員の格差是正のため正社員の待遇を非正規社員の水準に合わせる方向での検討も必要との認識を示した。全く脳天気な放言ではないか。さらに『東洋経済』一月十三日号に登場したザ・アールの奥谷禮子氏の「過労死は自己責任」論に驚かされた。
 今後のため、人材派遣業界の著名人で踊らされている彼女の核心部分を紹介しておく。
 「24時間365日、自主的に時間を管理して、自分の裁量で働く。これは労働者にとって大変プラスなことですよ。自己管理しつつ自分で能力開発をしていけないような人たちは、ハッキリ言って、それなりの処遇でしかない。格差社会と言いますけれど、格差なんて当然出てきます。仕方がないでしょう、能力には差があるのだから。結果平等ではなく機会平等へと社会を変えてきたのは私たちですよ。下流社会だの何だの、言葉遊びですよ。そう言って甘やかすのはいかがなものか、ということです。さらなる長時間労働、過労死を招くという反発がありますが、だいたい経営者は、過労死するまで働けなんて言いませんからね。過労死を含めて、これは自己管理だと私は思います。ボクシングの選手と一緒。ベストコンディションでどう戦うかは、全部自分で管理して挑むわけでしょう。自分でつらいなら、休みたいと自己主張すればいいのに、そんなことは言えない、とヘンな自己規制をしてしまって、周囲に促されないと休みも取れない。揚げ句、会社が悪い、上司が悪いと他人のせい。ハッキリ言って、何でもお上に決めてもらわないとできないという、今までの風土がおかしい。たとえば、祝日もいっさいなくすべきです。24時間365日を自主的に判断して、まとめて働いたらまとめて休むというように、個別に決めていく社会に変わっていくべきだと思いますよ。同様に労働基準監督署も不要です。個別企業の労使が契約で決めていけばいいこと。『残業が多すぎる、不当だ』と思えば、労働者が訴えれば民法で済むことじゃないですか。労使間でパッと解決できるような裁判所をつくればいいわけですよ」 奥谷発言は脳天気だなどと形容する水準を遙かに超えているのだ。
 この二人は労働力の再生産の重要性すら認識できていない世間知らずなのである。
 この制度が導入された場合、一方の企業側としては、残業や休日出勤の割増賃金を払わなくて済み、試算では十一兆五千八百五十一億円もの人件費が削減できるので、競争が激化するグローバル資本主義化が進む未来においても競争力を維持する事になる。また達成すべき成果をもとに労働時間数を考えないで人員配置などの経画の立案ができる点が挙げられ、残業の多寡による給与変動がなくなる事や対象従業員の健康管理義務が容易くなる点を挙げる事ができる。
 他方、労働総合研究所は、ホワイトカラーエグゼンプションを導入した場合、十一兆五千八百五十一億円(一人あたり百十四万三千九百六十五円)の残業代を労働者が失うと試算している。また、これにより内需が大きく冷え込む事になるため、雇用状況が内需状況に依存しやすい非正規雇用者の雇用状況も大きく悪化する事や日本の貿易黒字が肥大化する事による貿易摩擦の再発する可能性が心配されている。
 さらに言えば、この制度に関しては、雇用者側でも意見が分かれていて統一的な見解が出されていない。各種経済団体においては、日本経団連は導入に全面賛成しているものの、経済同友会は「仕事の質・量や納期にまで裁量のある労働者は多くないのが現実であり、また仕事の質や種類によって労働時間は決定されるべきであるため、まずは現行の裁量労働制の制度の活用を更に推進して仕事の進め方の改革を進める方が先」と今回の制度導入には反対の立場をとっている。また、日本商工会議所は労働時間規制の強化そのものに反対であり、当制度に関しては「中小企業の実態に即した制度を望む」という立場である。中小企業の実態に即するとは、「管理監督者の範囲は実態に即して決めるべきで、範囲を狭めてはならない」との事である。また、塚本ワコール社長は「そもそも時間内に仕事を行う事が評価されず評価も出来ない日本の労働環境下では、導入しても過重労働を招いて生産性の低下を招くだけ」と反対している。見識ではないか。
 今後とも、私たちはこの議論に注目していかなければならないだろう。  (桜木)案内へ戻る


不二家を巡る闇

 今、不二家はマスコミの攻撃の渦中の只中にあり、社内は混沌としている。一月二十二日、この混乱の中で、創業から六代たらい回しで続いてきた藤井家の同族経営は崩壊し、初めて創業一族外から櫻井社長を起用することで、事態の収束と組織の刷新をめざす事とはなったのである。
 不二家の社名は創業家の藤井家の「藤」と日本のシンボルである「富士山」、そして「二つと無い存在に」との意味からつけられたのだという。今まさに名が泣いているのだ。
 0七年一月十日、大手菓子メーカーの不二家が、埼玉工場において、消費期限切れの牛乳を使用してシュークリームを製造していた事が明らかになった。その時、出荷したシュークリームの数は約二千個だったとの事である。しかも、不二家は昨年の十一月時点での社内調査で、事実を把握していたにもかかわらず、「雪印乳業の二の舞は避けられない」と判断から自ら問題を公表するのを差し控えたのだった。その結果、問題が明らかになったのは、菓子メーカーにとって繁忙期であるクリスマス商戦を終えた年明けで内部告発を受けたマスコミ報道からだった。
 埼玉での不祥事に加え、不二家の消費者無視の保身・隠ぺいの姿勢に対しては、マスコミ等が厳しい目を向け、スーパーやコンビニの店頭から不二家製品が撤去され、同社は減産を余儀なくされ、店舗は休業を強いられたのである。
 その後も相次いで不祥事が発覚した主なものを列挙してみると、九五年に泉佐野工場(大阪)で製造した洋菓子が原因の食中毒が発生・泉佐野工場で埼玉工場向けシュークリームの消費期限を、社内規定より1日長く表示・北海道旭川市のスーパーで販売されたチョコレートに蛾の幼虫が混入・札幌工場で、検出された細菌数を記録しないままの出荷があった等、それ以後の不祥事も、周知のように連日マスコミによって報道されている。
 不二家と言えば、「ペコちゃん」のマスコットで知られる老舗企業で、一九一0年には日本初のクリスマスケーキを販売して以降、一八年にはシュークリーム、二二年にはショートケーキを他社に先駆けて商品化した製菓業界きっての革新的企業である。
 しかし、八0年代以降には経営不振に伴うリストラ、また仕手集団による株買占めが行われるなど、経営環境は大変厳しくなり、最近では、主力の洋菓子事業が四期連続で赤字になるなど、万年赤字体質からの転換が迫られていた。今回の不祥事の遠因も同族企業の閉鎖的な体質にあるとの指摘もあるが、根本的には、日本の企業のコンプライアンス(法令遵守)無視と従業員に公然と格差を持ち込み差別と分断を日常化して物言えぬ職場支配を作り上げている事が何と言っても最大の原因である。今回も余剰牛乳を下請けに押し付けていたとの報道がなされていた。
 なぜ提案でなく内部告発なのか。なぜ労働組合が労働条件を規制できないのか。なぜ経営者に法令遵守が出来ないのか。これらすべては三位一体の関係にあるのである。
 食品関連の不祥事としては、森永ヒ素ミルク事件やカネミ油脂事件、そして死亡者まで出した雪印乳業とともに思い出されるのが日本ハムがある。0二年六月同社の関連会社が、国のBSE対策事業の一環として行われた国産牛肉買取事業を悪用し、輸入牛肉を国産牛肉と偽り、補助金をだまし取った事件で、発覚を恐れ、買取申請を取り下げた牛肉を無断で焼却する隠蔽工作も行っていた。まさに労働組合の力量が問われていたのである。
 しかし、不思議なことも同時に起こっている。それは株価の動きだ。事件発覚後、株価は一月十一日の終値が、前日比二十二円安の二百十一円まで大幅下落したが、同日以降も下げ続け、二百円円を割り百九十八円になる状況となった。わずか二日間で三十三円(十五%)も値下がりした。この急速な展開で大損した者が多く出たであろう。
 この事から不祥事発覚後、不二家の株価は百十七円程度に下落するとの見方があった。なぜなら、PBR(株価純資産比率)が約一倍、つまり釣り合うからだ。PBRとは、一般的に解散価値と言い、企業買収などの場合に企業価値を測定する投資尺度に用いられる。PBRが一倍とは、保有する資産と株式市場の評価が同程度だと言う事なのである。
 過去に不祥事を起こした食品会社の株価をPBRで見ると、00年に集団食中毒事件を起こして青息吐息の雪印乳業はおよそ一倍、0二年に牛肉偽装が発覚して倒産もあると言われている日本ハムは0・八倍程度でそれぞれ下げ止まっている。したがって、不二家も同様にPBRが一倍、つまり解散価値程度までは下落すると研究熱心な株式投資家が考えるのは当然だ。しかし、不二家の場合、一倍にまで下落するどころか、十二日に二百円台を割り込んだ後反発して、再び二百円台を回復して、PBRは一・八倍程度となっている。株価だけを見れば、株式市場は、不二家の将来性を資産価値以上に評価している事になる。
 そもそも、製菓業界は少子化の影響などで先細りが予想されていたが、今回の不二家の不祥事が大きな業界再編が現実化するかも知れない。不二家の再建には、同社の大株主である森永製菓が業界の再編もにらみ支援に前向きで、山崎製パンも技術協力を持ちかけているとの話がある。また、りそな銀行と早々に再建に向け協議を始める予定だとも聞く。
 最後に気」になる記事を紹介する。一月十四日、昨年末から不二家の六百七十二万株・五・三二%を持つ大株主としてゴールドマン・サックス証券が急浮上した事から、「空売り」だと告発したのが、「江草乗の言いたい放題」サイトの「これがインサイダーでなかったら何だ?1月14日」であった。
 記事を書いた江草氏は、「オレはどうも腑に落ちないのである。これが投資目的で、つまり値上がりするだろうからとゴールドマン・サックス証券が現物株を保有し、この後の暴落で大損をするのならただの間抜けということで笑えばいい。しかし、社員の平均平均報酬が六0万ドル(七三00万円)という超リッチ企業がそんな損をする取引をやるだろうか」、「東証に本当に株価操作や違法な取引を取り締まる気持ちがあるならば、なぜゴールドマン・サックス証券が不二家株を大量取得してるのか。その経緯について証券取引法違反の容疑で厳重に調査すべきである。アメリカならこんな時すぐに関係者が取り調べを受けるはずだ。あまりにもタイミングが良すぎるからである。東証は自浄能力を発揮してしっかりと調査し、同時に個人投資家を犠牲にするハイエナのようなこんな外資系の証券会社を日本から追い出してもらいたいぜ」と疑問点を率直に吐露している。
 これを受けて、私もよく読んでいて啓発される「株式日記と経済展望」の一月十六日号「なぜゴールドマン・サックス証券が不二家株を大量取得してるのか。証券取引法違反の容疑で厳重に調査すべきである」では、肯定的にこの記事を取り上げ、外資系の証券会社の傍若無人ぶりを指摘して財務省等の無力さを批判している。さらに、国際評論家小野寺光一の「政治経済の真実」メールマガジンの一月二十二日号「ぺこちゃんをわなにはめて金儲けするのかゴールドマンサックス」(http://www.mag2.com/m/0000154606.html)は、ゴールドマンサックス証券の「空売り」のテクニックを、実際に取り引きした当事者のように詳しく解説している。そして、この件には政治家も関わっていると書いている。
 この間の不二家を巡る闇は本当に深いのである。   (直記彬)


連載  グラフで見る高校生の意識調査 その7

 問7 あなたはどんな人になりたいですか。また、あなたが好ましいと思う異性はどんな人ですか。
 なりたい人のトップは男女共に「思いやりのある人」です。女子の3人にひとり、男子の4人にひとりが選んでいます。2位は男子が「頼りがいのある人」、女子は「素直な人」、3位は男女共に「自分の考えを主張できる人」を選んでいます。
 前回(1995年)、男子は1位「頼りがいのある人」2位「自分の考えを主張できる人」で、「思いやりのある人」は4位の「指導力のある人」と同程度の約13%でしたから、10%以上伸びたことになります。
 女子は全体の順位に変動はありません。「思いやりのある人」が約7%増えましたが、それ以外は「自分の考えを主張できる人」が8%減るなど、減少か横ばいです。「頼りがいのある人」は約3%から7%へ増えています。
 自分が「なりたい人」と異性が求める「好ましい異性」との間で差があるのは、「頼りがいのある人」と「かわいらしい人」です。減少傾向にあるとはいえ36%の女子が男子に「頼りがい」を求めていますが、男子でなりたいと答えたのは23%です。また、男子の15%が女子に「かわいらしい人」を求めていますが、女子がなりたいのは7%です。
 女子が男子に求める好ましい異性は、トップが「頼りがいのある人(36%)」続いて「思いやりのある人(31%)」です。前回は、6割近くの人が「頼りがいのある人」と答えています。「思いやりのある人」は19%でした。
 また、前回少数だった「素直な人」、「よく気がつく人」を好ましいと思う女子も増えています。
 男子からみた好ましい異性は、前回も今回も変わらず、1位「思いやりのある人」2位「素直な人」3位「かわいらしい人」で、数字にも大きな変化ありませんでした。前回2・5%だった「頼りがいのある人」が今回6・7%に増えています。
(「男女共同参画社会に向けての高校生アンケート調査報告書」発行者・南阪神ねっと、より転載。)

 自分自身が「思いやりのある人」になりたいを選んだ理由として、考えられるのは社会的にも高齢者が増え弱者への配慮が不十分ながらも、整備されつつあるからでしょうか。しかし、日々の生活が受験競争の真っ只中にあって、テストの成績が自身の評価となる矛盾を抱えながら、他者への思いやりを忘れない、現代の高校生は健全に育っているのだと安心しました。先日、筑紫哲也さんが高校生に講演を回っていて、感じたことを耳にしました。人のために何かをしたい、役に立ちたいと希望している生徒が多いのに驚いたと、率直な感想でした。この健全な思想を社会がどう受け入れていくのか、大人たちの力量が問われています。(恵)


長寿は罪か?

 今年73才のオババ。長い間ノラネコ同様、気分はノラネコ、生活面では無用の長物=B生産的なことは何一つできず、社会にナニも還元できない消費の王様。(食っちゃ寝、食っちゃ寝の)厄介ものの存在としてしか成立しえない身。
 1月23日の小学生新聞(毎日)の廃木材$l気−厄介ものから貴重な資源へ−という記事が目をひいた。モノ=i廃材)ならば、環境とのかかわりにおいて蘇る。しかし人間やその他の生き物については、まだ廃材の如くにはいかないようだ。
 海辺で流木を燃やして暖を取るCM、モッタイナイという字とともにTVで伝えられる。人間に関していえば役に立たなくなった人々(私もその人種に属するだろう)を、問題ある人間とみてか除去する方向性が最近目立つ。生まれた以上生きる権利(人権以前に)つまり、生存権は誰にでもあるはず。
 具体的には衣・食・住の保障であろう。すべて個人の自己責任として、つまり心がけが悪い≠ニしてきりすてる′X向が最近強くなったように思う。なぜに市民権はおろか生存権をも脅かされねばならないのか? 生きていて廃材以下の扱いを受ければ背徳的にならざるを得ないのでは?
 公的な責任と私的な責任の境界を、はっきりさせるべきであろう。すべての人々に市民権はあってもいいはず。なぜに市民権を失ったか? までにさかのぼることも必要であろう。でなければ大阪市はいつまでもワーストワンの都市であり続けるのでは?
 兵器を作らず、その費用を福祉へ。市民と非市民のはざまにいる者としてかく思う。ホームレスのオッサンがノラネコを目の仇のように言うのは悲しい。   2007・1・24 朝 宮森常子
 

横須賀の原子力空母母港化反対運動の現状

 一月十七日、「原子力空母母港化の是非を問う住民投票を成功させる会」は、蒲谷亮一・横須賀市長に対して、米海軍横須賀基地への原子力空母配備の問題について、地方自治法に基づいて、市内有権者から集めた同住民投票条例制定を請求する有効署名三万七千八百五十八人分(市内有権者の約十%)と同条例案などを提出し本請求を行った。
 0六年十一月十二日に開始されて十二月十日が最終日となった横須賀市での「住民投票条例策定を求める署名運動」では、最低法定数七千百十二筆を、既に十一月下旬には集めきり、最終集約数は四万一千五百九十一筆を集めきったのだ。この数は、この運動を遠目から見ていた保守の議員を驚かす数字であった。選挙公約では母港化反対を表明しながら当選後豹変し母港化を受け入れた蒲谷市長は、六万票あまりでの当選なので、彼自身衝撃を受けている事は間違いない。その後署名については、横須賀市選挙管理委員会で精査しその後有権者に一定期間閲覧され、有効署名三万七千八百五十八人と確定したのである。
 この署名運動の中心を担ったのは、「原子力空母母港化の是非を問う住民投票を成功させる会」で、共同代表は地元の呉東弁護士だ。神奈川新聞の世論調査では、0六年一月時点で六割が配備に反対し、六月の市長の容認発言後も依然として六割が反対を意思表示しており、署名の受任者は一万八千人もいた。五人の請求代表者の一人である呉東代表は「市長は多くの反対意見を聞かずに容認に転換したが、われわれはもうなすべきことがないのでしょうか。行政が市民の声に背を向けるようなら地方自治制度にのっとって、重要なことは住民投票で決めるべきです。住民投票は世界的な流れです」と訴えた。同じく請求代表者の新倉裕史さんは「戦争・原子力の隣で生活するのか、平和な町で楽しく過ごすのか、子どもたち孫たちのことを思い署名をお願いします。これまで長年、国家の政策に従ってきたが、この町の将来を決めるのは市民でしょう」と力強くこの運動を開始したのだ。
 当事者となった蒲谷市長は、本請求受理後、自分が添える「意見書は、原子力空母の問題は国と国との問題で、住民投票はなじまないという内容にする」と、今回の署名を行った横須賀市の住民の意思を公然と無視するとともに先に争われた市長選挙では、蒲谷氏自身が、原子力空母母港化反対の選挙公約を掲げて当選した経緯を全く無視した破廉恥な発言をして恥じなかった。この事はご都合主義の極みで許せざる破廉恥行為でもある。
 今後は二月五日に臨時議会本会議が開かれ、市長が市議会を招集した際、市長が意見書を添えた同条例案を市議会で審議する予定だ。何としても条例を可決させたい。また過去二回全会一致で、母港化反対の決議を上げてきた経緯があるにもかかわらず、保守系議員は条例案否決の姿勢を崩してはいない。彼らの無責任も充分非難するに値するものがある。
 この蒲谷市長の無責任極まりない姿勢に対して、本請求後請求代表者でかつ「成功させる会」共同代表の呉東弁護士ら五氏は署名した市民を代表して怒りの記者会見を行った。
 呉東氏は「基地問題が国の専管事項であるという考え方は、憲法九二条の地方自治の本旨に反するものだ」と批判し、他の共同代表も「市長は当選したときの公約で原子力空母配備反対を掲げた。市議会も過去二回にわたって原子力空母配備撤回の決議をあげている。市民にたいして約束を守」れ・「市民の意思を尊重」すべきだなどと指摘し抗議した。
 現在、米海軍横須賀基地では、原子力空母母港化への準備が着々と進められている。港内浚渫の実施、発電所建設のための工事、原子炉関係スタッフの移住計画等、空母配備に向けた様々な動きが活発になっている。
 「原子力空母母港化の是非を問う住民投票を成功させる会」は、こうした動きを阻止するため、条例案可決に向けて、駅頭宣伝や集会・各市議と地域懇談会を行うなどの運動を、今後とも強力に進めていくことを確認している。   (笹倉)


ファーブルの庭

 0七年一月十七日から「しんぶん赤旗」で三日間、ファーブル『昆虫記』全十巻の最終巻が発刊されてから百年たったとの理由で、今進められている全訳事業の訳者である仏文学者奥本大三郎氏と漫画家のやくみつる氏との「昆虫交遊録」が掲載されておりました。
 私自身忙しさにかまけて全く忘れていた事だったので、改めて『昆虫記』を手にとってしみじみと致しました。「しんぶん赤旗」で三日間対談を乗せるのは大変珍しかったので、私は読み啓発されました。今フランスでは、『昆虫記』を読む人はかぎられており、しかも昆虫に関心があると言うよりも、農村生活が懐かしいと感じているインテリの読み物になっている事が、奥本氏から明らかにされて、それはそれで参考になりました。そういえば、昆虫採集に走る子どもは、ヨーロッパではとても珍しいとの事です。奥本氏もこの事は昆虫と共生している日本人ならではの事だと指摘しておりました。
 しかし、三日間の対談を読んで、私は不満も感じたので、私の考えを書いてみたくなりました。その不満とは、何かと言えば、ファーブルの凜たる矜持と烈々たる気迫と飽く事なき探求心にこの二人が全く触れていない事です。
 私は、ファーブルの『昆虫記』全十巻が、彼が五十五歳から八十三歳までの間、四十八歳にしてやっと手に入れたアルマス(荒地―私)と名づけた自宅兼研究所の庭の観察から生まれたとの事実について、対談者たちが全く何の注意も払っていない事に大いに驚かされました。『昆虫記』の昔の読者たちは皆この点にこそ注目していたのです。まさにこの点でも読者層の世代交代があります。
 ファーブルは、周囲から期待されていた自分の『回想録』を遺さなかったものの『昆虫記』の中に、自分の思いを書き綴った部分があるのです。林達夫氏編集の岩波の少年文庫『ファーブル昆虫と暮らして』は現在絶版ですが、それを集大成した貴重な本なのです。
 私が読む度に感動するところを紹介しましょう。「世界じゅうの大陸や海を、南極から北極へと旅行してあるいて、あらゆる気候のもとで、動物や植物がかぎりなくさまざまな形であらわれてくるのをしらべる。こんなことができたら、ものを見る力がある人にとっては、すばらしいことにちがいない。これはわたしが子どものころ、ロビンソン・クルーソーの話にむちゅうになっていた時分に、ゆめみたことだった。ところが、旅行でぎっしりとふくらんだバラ色の夢にかわって、たちまち現れてきたのは、うっとうしいひとところで、じっとすごさなければならない生活だった。インドのジャングル、ブラジルの原始林、コンドルのすむアンデス高山もだめになって、わたしの探検するところは、四つの塀にかこまれた、この小石まじりの庭にかぎられてしまったのだ」
 このような状態の中で、ファーブルは不平をとなえたのでしょうか。ファーブルはやる気をなくしたでしょうか。そんなことは全くありませんでした。
 彼は「ものを考える種をさがすのに、そんな遠くへ出かける必要はない」と断言して、次のように書きます。「庭のごくちっぽけな部落でも、わたしにはおなじみになっている。・・・・。庭の中をあちこち航海してまわるだけでたりなければ、わたしは、遠洋航海に出かける。そうすればまた、たっぷりとえものがある。・・・。この連中のくわしい話を書こうと思ったら、一生かかっても書ききれないだろう。たしかにわたしの近所だけでたくさんだ。遠い国まで旅行することはない。
 それにまた、世界じゅうをかけまわって、つぎからつぎへと、たくさんのものに注意をちらかすことは、観察することではない。旅行する昆虫学者は、たくさんの標本を箱の中にピンでくしざしにして、分類することや、たくさん集めることのよろこびを味わうことができる。しかし、きとどいた研究材料を集めるということは、こういうこととはまた別のことだ。こういう人は、ひとところに足をとどめるひまがない。何かを研究するのに、長い間とどまっていなくてはならないときても、つぎの旅行の予定にせきたてられる。こういうことでは、ゆきとどいた研究材料を集めろといってもできない相談だ。虫をコルクの板にピンでとめたり、アルコールづけにしたりしていったらいい。時間を食うようなしんぼうづよいか観察は、旅行しないで、ひとところに住みついた者にまかせてもらおう」
 私は先に、ファーブルの凜たる矜持と烈々たる気迫と飽く事なき探求心を、高く評価しましたが、この引用文を読む度、常に生活に追われながらもファーブルの内に秘められたあっぱれな心意気がひしひしと胸に迫ってきます。彼の言葉は負け惜しみでも一時の強がりでもなく、その後約三十年の後に不滅の業績として現在に残されたのです。ファーブルのこの点に注目できない共産党の科学精神の退廃を、私は今回確認いたしましたので、この手紙を書きました。    (稲渕)


色鉛筆・・・介護日誌<17>

 毎年のことながら、年末年始は利用する介護施設がお休みになるため、気が重い。12月29日のディサービスで、2006年最後の入浴を済ませて冬休みに入った。どうか何事も起こりませんようにと祈りつつ、1月4日の再開を心待ちにする。当たり前のことだが、介護は365日24時間休みは無い。今はこうした年末年始休みなどは、家族が重い負担を背負うことで成り立っている。制度の改善をと、心から願う。
 年末は忙しく、介護する側も母も楽なのでベッドで横になる日が多かった。在宅ではどうしてもそうなりがちになる。
 さて母には、私の夫を頭に3人のこどもと9人の孫がおり、新年早々そのうちの12人が我が家に集まり夕方から食事をした。ワイワイとおしゃべりをして、気がつくともう9時近く。母は3時間も車椅子に座っていたことになる。「もう寝ようか?」と声を掛けると、母の顔が真っ青で意識が無い。いくら呼び掛けても応答が無いので、あわてて車椅子を押してベッドに向かう。気が動転している私は、とっさに土色の母の顔から死に顔さえ連想してしまった。意識不明の時間がとてつもなく長く感じられ(実際には短いのだが)救急車を呼ぶことも考える。駆け付けた義妹(母の娘)が大声で何度も「母さん!」と呼び掛け揺さ振ると、やっと意識が戻った。ベッドに寝かせた後も何度も様子を見に行き、何事も無く眠っていてほっとする。翌日の様子でも、体の麻痺や意識などに大きな変化は無く、胸を撫で下ろした。
 正月明け、さっそく訪問看護婦に相談すると、「たぶん長いことベッドで横になっていた状態から、その日は3時間近く車椅子に座り、急に血圧が下がったのでしょう。」とのこと。義妹と私は、数十年来の親しい仲だ。後日の会話は、
 妹「もう充分私たち面倒看たよね(丸4年)」
 私「あのまま逝ったら私は自分の今までの介護の至らなさに苦しんだと思う」
 妹「あの時必死で『母さん!』て呼びながら、私の頭の中は半年前から楽しみにしていた旅行(翌々日出発予定)に行けなくなってしまうっていう思いがあったよ」
 2人「あははっ」笑って済ませられて良かった。そして義妹とこんな本音の会話ができることが、わたしなとって大きな救いとなっている。さて介護5年目の今年、一体どんな出来事が待ち受けているのだろう?

 イギリス映画「アイリス」(2001年)を観た。妻のアルツハイマー病が進行する中、老いた夫は在宅で献身的な介護を続ける。妻への愛や共感、期待などの感情ののち、病の悪化に従い次第に夫の口からは、怒鳴り声や罵倒も出てくるようになる。ベッドの中での、若い頃からの妻への不満や怒りいらだちを爆発させののしり続ける場面は圧倒される。最期は、施設に入り夫に見守られながら穏やかに迎えて映画は終わる。
 私が、母の最期を迎えた時は、きっと後悔や自己嫌悪におそわれるだろう。もっとああすれば良かった、こうすれば良かったと。それは何をしても逃れられない気持ちだろうと思う。でもアイリスの夫のように、ありのままの感情をぶつけることも自然なことなのだと思う。人はいつか必ず死ぬ。それまではみっともなく不器用でも生きつづけなくてはならない。(澄)案内へ戻る