ワーカーズ376号 2008.9.1.    案内へ戻る

政局・秋の陣――生活は自力で闘いとる以外にない――効率化と対処療法の堂々巡り――

 北京での一夏の宴が終わり目を国内に転じれば、政治は解散総選挙含みの秋の陣の開幕だ。解散時期についても、年末年始説から通常国会後説まで、露骨な党利・派略を振りまきながら諸説飛び交っている。しかしどう転んでも衆院の任期はあと一年。その総選挙は05年の小泉郵政総選挙と昨年の参院選で生まれたねじれ国会の総決算となる。
 いま、世界は米国サブプライム問題を発端とする金融危機が拡がり、戦後最長の“景気拡大”を牽引してきた外需中心型経済システムが頓挫。いまや原材料の値上がりを直接的要因とする不況下の物価高。身の回りをみれば医療・介護の崩壊状況やワーキング・プアの氾濫……。
 解散総選挙が迫るにつれて浮き足だった与党内では、様変わりした経済状況を前にして補正予算論議が沸騰している。“改革なくして成長なし”を主導した小泉改革は一変し、総選挙を視野に入れたバラまき政治のオンパレードだ。
 対する民主党も根っこは同じだ。昨日までの新自由主義者・小沢代表は、今では政局最優先。“最大の改革は政権交代”、“政権を取れば財源は沸いてくる”だと。
 利潤至上主義のための効率化とその行き詰まりを修復する財政政策という堂々巡りは終わりにしなければならない。その繰り返しが格差社会、階級社会の拡がりと800兆円もの借金地獄だった。
 社会保障に関しては大規模な財政のてこ入れも必要だろう。あるいはワーキングプア対策として、働く貧困層に対する就労支援政策の充実などの政策も必要だ。しかし現状の閉塞状況を打破するには、そうした行政や財政レベルでのテコ入れでは決定的に不十分だ。
 小泉構造改革路線のもとで拡がった格差社会、階級社会を解消し、崩壊する医療・介護、福祉などを立て直すには、賃金を大幅に引き上げるなど内需主導型の再循環モデルへの大転換が不可欠だ。この間の“好景気”の中では、労働者の雇用を破壊し、賃金を切り下げた。その分、株主配当や経営者報酬は増加し続けた。そうした労使構造を転換させる闘いから始めたい。それは補正予算や行政の無駄の排除以上に、何よりも企業、政府に対する生存権に基づく労働者自身の闘いだ。
 こうした闘いを基盤として政局・秋の陣、福田自公政権を追いつめていきたい。(廣)


“ガンバッテ”――八月の国際連帯集会の報告

皮切りの広島そして長崎

 皮切りは八月六日の「被爆63周年8・6ヒロシマ大行動」である。この行動は、全国労組交流センターが取り組み、全国から千九百人が結集した。その前日の広島市東区民文化センターにおいて、全国から結集した労働者を八つの産別に区分して、つまり教育・自治体・国鉄・郵政・医療福祉・合同労組・民間運輸・民間の労働者交流集会が開催された。
 とりわけ特記すべきは、百四十五人を結集して開催された教育労働者交流集会であった。ここに、昨年十一月四日の国際連帯集会に初登場した教育労働者アーリーン・イノウエさんは再登場する。彼女は、イラク戦争募兵官の高校への入校の阻止を果敢に闘う「アメリカの校内の軍国主義に反対する連合・CAMS」代表であり、今年は自らの所属するロサンゼルス統一教組・UTLA(四万八千名を組織する)委員長の「日の丸」不起立闘争を支持・処分撤回を要求する力強い国際連帯メッセージを携えての再訪日だ。
 彼女は「アメリカの労働者も日本の労働者も同じ敵と闘っている。あなたがたの勝利は私たちの勝利」と切り出し、公立高校での貧しい生徒をイラク戦争に駆り出す募兵活動との闘い、闘う労働組合をつくる取り組みを報告して、「『日の丸・君が代』に反対して闘う皆さんこそ英雄」だとの国際連帯の発言で締めくくり、会場を大いに沸かせた。
 続く八月八日の「被爆63周年長崎反戦反核労働者集会」は、長崎勤労福祉会館で開かれ、国鉄や自治体・民間の労働者を中心に長崎・福岡の教育労働者が多数参加し、アーリーンさんも参加する中、百十五名人が結集した。
 彼女は、両親と祖父母を含めた日系アメリカ人が太平洋戦争中に強制収容所に入れられた経緯を語り、その歴史が戦後生まれの自分の存在を規定し、それが「平和への強烈な切望」を与え、「私の今を正しく認識し、一人の日系アメリカ人女性としての存在に喜びを感じられるようになった」として、「『私ってすごいかも』の表現で自らの直接行動主義に確信を持っている事を表現してきた」と発言した。さらに、ブッシュの「落ちこぼれ防止(NCLB)法」の下、公立高校の教育現場でイラクへの募兵が公然と行われる状況を許さないため、CAMSの運動を始め、それが「数百人の若者の入隊についての考えを変える意思表示」を勝ち取ったと報告した。そして「今こそ労働者が、平和と正義のための闘いで中心的役割を演じる時」だと訴え、「皆さんこそが世界を変える!」と日米の労働者の国際連帯の必要性と勝利の展望を力強く訴えた。
 ところがこの同じ八月八日、沖縄に次ぐ基地県神奈川で、米軍再編に反対して闘ってきた座間市は、市役所前にかかげた「キャンプ座間への米第一軍団等の移設反対」の懸垂幕等、市内十六カ所に設置していた懸垂幕・横断幕のすべてを撤去した。この措置は、防衛省が七月二十八日、座間市と防衛省との協議会設置の条件として、「キャンプ座間米陸軍第一軍団司令部等移転に伴う基地強化に反対する座間市連絡協議会」(市・市議会・自治会の代表で構成)の運動を止めて懸垂幕・横断幕を撤去せよとの圧力に屈したもので、市連絡協議会は、八月七日の臨時総会をもって「六万人の市民が署名で示した基地強化反対の思いと自治体ぐるみの四年間の運動」を自ら否定して解散したのである。
 階級闘争はこのようにまさに一進一退ではあるが、私たちはあきらめない。

締めくくりの横須賀

 最後に八月十日の神奈川労組交流センター・三浦半島教労部会主催の「アーリーン・イノウエさんを迎えて8・10三浦半島国際連帯集会」がある。
 前日に横須賀入りをし、セントラルホテルでの日米国際交流会(教労部会作成のDVD販売中)に参加した彼女は、翌十日の午前中は、三浦半島地区労事務局長の案内で、市街地からは想像も出来ない巨大な規模を確認するため、海上から横須賀米軍基地をつぶさに観察した。始めて外国の米軍基地を見た彼女は、その想像を超えた規模を実体験し、大変驚いていた。そして、その興奮も冷めやらないまま、午後に開催された集会の冒頭での自らの所属する補助金削減に反対した「UTLAスト」のDVDを上映の後、一気に語り出した。
 彼女は、戦後六十三年にもなるのに未だアメリカが日本を占領している事にショックを受けた事、今また原子力空母の横須賀母港化を画策しており、そのための二百頁の「ハリウッド映画」さながらの無料漫画本の配布を糾弾した。そして五月二十二日の原子力空母火災は未だ原因が特定されていないと私たちに注意を喚起した。しかし、七月十三日の一万三千人結集の反母港化行動は世界に強烈なメッセージを発信した事を指摘し、連帯の意を表明したのである。
 その後、「アメリカの校内の軍国主義に反対する連合・CAMS」の闘いに触れ、三百二十万人を組織する全米教育協会(NEA)や米国教員連盟(AFT)に対して「落ちこぼれ防止(NCLB)法」に「公立高校の中や大学や企業のリクルートと同様軍のリクルートをしてもよい」との条項がある事、またそれだけでなく親が個人情報の保護を求める書類にサインしていない限り「公立高校は軍の募兵官に生徒の氏名等を教えなければならない」とされている事を暴露したと発言した。昨年来闘いの一環として、全米教育協会(NEA)の国際部が中心となり、「日の丸・君が代」反対闘争について論議してきたが、この九月ブルッセルで日教組と全米教育協会(NEA)の委員長が協議する運びとはなった。ここで彼はこの闘いに関心がある事、またすべての処分が撤回されるべきだと主張する。さらに昨年の十一月の国際連帯集会に参加した仲間も米国教員連盟(AFT)の指導部に日教組の支援を要請しているとの事。
 最後にアーリーンさんは、「兄弟姉妹の皆さん、今やすべての労働者の国際的な連帯を確立する時代です。皆さんは、世界中の人々と大衆運動で結びつき、平和と正義の世界を作る主体です。次の世代の希望の礎です。未来はあなた方の手の内にあるのです。/私たちはあなた方に感謝し、あなた方の闘いを尊敬します。そして、いつも私たちは皆さんのことを抱きしめます。皆さんこそが世界を変える。Gambatte!」と発言を結んだ。

この一年の国際連帯の広がり

 思えばすべては、昨年の七月上旬、オークランド教組からの「日の丸・君が代」不起立で闘う教育労働者への訪米要請を受けて、職場の困難な状況下約一週間の休みを取り、全米教育協会(NEA)の大会に参加した三浦半島教労部会の英語を教える一会員が、その場で「アメリカの校内の軍国主義に反対する連合・CAMS」代表であるアーリーン・イノウエさんと「日の丸・君が代」解雇撤回の要求署名を通じての運命的な出会いが発端であった。彼女のメッセージは、私たち三浦半島教労部会へ直接に成された熱いメッセージである。
 昨年の十二月七日、ロサンゼルス統一教組・UTLAの委員長は、日教組の森腰委員長に「日の丸・君が代」不起立闘争支持・処分反対の書簡を送ったのを皮切りにして同月十四日には、CAMSとUTLAの呼びかけで訪日報告と「日の丸・君が代」闘争連帯ロサンゼルス集会、今年の一月十九日にはオークランドでも訪日報告集会が開催された。四月には、他カリフォルニヤ州教員連盟・CFA大会で「日の丸・君が代」不起立闘争支持・改憲阻止闘争支持・根津等処分反対・日教組への闘争支持書簡の送付の決議を可決した。快挙だ。
 実にこの一年間のアメリカでの日教組「日の丸・君が代」被処分者への圧倒的な支援行動の広がりこそ、日教組ばかりでなく、文科省・東京都教委の想像を遙かに超えた時空からのまさに百万の援兵であったのである。
 その他には、葉山町で闘う教育労働者からの報告、核空母横須賀母港化阻止!を闘う地域労働者についての三浦半島地区労事務局長からの報告、相模原・反核闘争についての核問題情報センター代表からの報告がなされた。今年の解雇を免れた根津さんと再任用を拒否された東京教祖の米山さんも発言した。
 この集会でもう一つ注目すべき事は、私たちも知っているジャマル・サーベリさんが、イラン労働者共産党・国外組織の日本代表として紹介され、「イランの教師組合員を死刑から救いましょう」のアッピールをした事である。いろいろなところへ出かけで挨拶しているジャマルさんではあるが、私自身、看板を背負っての彼のこのハプニングな登場には本当に驚いてしまった。
 残念ながらこの感動的で充実した三浦半島国際連帯集会の参加者は、部会会員数から見れば、全く動員不足といってよい六十三名であった。(猪瀬一馬)案内へ戻る


軍隊についての雑感

 映画館で上映する映画はあまり観ないが、最近続けて2本の映画を観る機会があった。「光州5・18」と「アメリカばんざい crazy as usual」で、どちらも軍隊が登場する。というか、軍隊の本質をこれでもかと見せつける内容だった。
 韓国映画「光州5・18」は、戒厳軍が光州市民を無慈悲に虐殺した1980年の光州蜂起を映画化したものだ。無防備な市民が軍事的弾圧によって殺害され、立ち上がった市民が武装して市庁舎に立てこもるに到るのだが、軍隊が外に向かってだけではなく、内に向かっても銃口を向けることを事実によって暴露したのである。
 それにしても、兵士はいかにして自国民に銃口を向けることが可能なのか。殺すか殺されるかという戦場ではなく武器を持たない市民に銃を向ける、平和的抗議行動に銃撃を行うことができる兵士はいかにして生み出されるのか。国家、民族、宗教の違いから、兵士が殺人≠正当化することは可能かもしれないが、それを実行するためには飛び越えなければならない壁があると思うのだが。
 軍隊とはそれを行わしめる組織であり、市民を鬼畜に仕立て上げることによって成り立つ組織であろう。軍隊のない国に生まれた私たちには理解不能であるが、韓国のように徴兵制がある国、また多くの国がそうであるように今も戦場に兵士を送っている国においては、近親者や知人が戦死するということが日常のなかにある。確かに日本は世界に冠たる軍事力を持っているが、自衛隊員はまだ兵士ではない。
 安保闘争が燃え上がったとき、自衛隊の出動が取り沙汰されたが、自国の市民に銃を向ける兵士にはならなかった。それどころか、阪神大震災に示されたように、自衛隊はもっぱら災害救助隊≠ニして市民に顔を向けている。今のところ、憲法9条に守られている限り、自衛隊員は戦死することはない。与党の自公と民主が企んでいる派兵恒久法ができてしまうと、それも怪しくなるのだが。
 そこで「アメリカばんざい」だが、人間性を剥ぎ取るためだけに行われる海兵隊ブートキャンプの一端を見るだけで、普通の市民を殺人を行える兵士に変えることの困難≠ェ理解できる。それでもなお、イラクで子どもや市民を殺してしまった兵士、同僚兵士の死を目の当たりにした少なくない兵士が、兵士であり続けることに耐えられなくなっている。帰還兵士が肉体と精神を病み、またホームレスとなっているアメリカの実態に、変な言い方だがほっとした。
 それは、人間性を破壊しつくすことはそんなに簡単ではないことを示している。問題は外的強制力よりも内的なもの、敵意や憎しみ、利害の対立、そして蔑視、殺そうとしている相手は人間ではないという意識の醸成こそが、自国市民にすら銃を向けることを可能にする条件ではないか。
 そうしたことをあれこれ考えながら、「殺すなかれ」という真理が世界を照らすのはまだずっと先なのだろうかと思ってしまう、今日この頃である。(晴)


韓国紀行 @ 慶州・ソウルを巡って感じたこと・考えたこと    北山 峻
 
(1) 空路釜山(プサン)へ

 4月11日から14日まで3泊4日で、30年来の連れ合いと一緒に、全員が60歳前後の総勢11人のツアーに混じって、釜山から慶州・儒城を経て水原・ソウルを巡る韓国旅行に行ってきました。
 韓国の総人口4820万人のうち、ソウル1300万人、釜山380万人、儒城(大田)150万人、慶州100万人、水原100万人という大都市ばかりでしたが、途中は、ガタガタとクッションの悪いバスに揺られながら、バスの中から方々の農村山間部も垣間見、途中の田舎の小都市で韓国式の定食を食べながらの強行日程でした。
 ツアーのメンバーは、筑波の男性3人組、世田谷の電気店夫妻、藤枝の退職者夫妻、北本のおばさん2人組と、私たちでした。
 1日目は成田から釜山へ行き、小休止した後、バスで一路慶州に向かいました。その日はそのまま慶州で一泊。2日目は午前中に仏国寺と石窟庵を見て、午後に海印寺に行き、儒城(旧大田)泊。3日目は午前中に大統領の別荘であった青南台と水原の古城を見て、午後ソウルに入り、添乗員の李さんの言によれば、日本で言えば上野のアメ横のような(?)南大門市場と、銀座か新宿のような(?)ミョンドン(明洞)を見学。4日の最終日は、500年にわたる李氏朝鮮の歴代の王と王妃を祭った宗廟を参観し、その後ハンガン(漢江)をはさんで北朝鮮を眺める統一展望台に行き、仁川のインチョン空港から空路成田へ、という日程でした。
 なお、これらのうち仏国寺、石窟庵、海印寺、水原の古城はいずれもユネスコ認定の世界文化遺産でした。
 
(2)新羅(シンラ)と慶州(ギョンジュ)

 慶州は日本海(韓国では東海、ちなみに渤海が西海)に面した、356年に建国し、918年まで続いた新羅の古都で、日本で言えば奈良の都というところでしょう。
 朝鮮三国時代の他の二国のうち、高句麗(コクリョ)は最も古く紀元前37年の建国、そのご中国王朝に対抗して幾度も中国軍を破り、=隋などは高句麗に対する3度の侵略戦争(610〜614、高句麗大遠征)に大敗して滅亡した(618年)=旧満州地域まで含む大国として続いた。(近年、中国が高句麗を古代中国の地方政権であると言い出して、韓国や北朝鮮との間で矛盾が起こっている)。百済(クンナラ)は、南朝鮮南部を地盤に紀元前80年ごろに成立した扶余国と、その後に成立した馬韓、弁韓、辰韓の三韓を統合して346年に建国。日本に千字文や仏教を伝えたといわれ、終始九州王朝と友好関係にあったといわれている。韓国語でクンナラ(百済)は大国の意味で、日本の奈良も韓国語の国を表すナラの意といわれている。    
 その後300年にわたる三国鼎立時代を経て、663年、他の2国に対して終始劣勢であった新羅は、唐の子分になって唐の武力によって、高句麗・百済を滅ぼしました。
 余談になりますが、このとき、当時まだ日本を代表していた九州王朝とその分家であった大和政権が百済に加勢して出兵し、白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に惨敗し、九州王朝の王が捕虜となり、その機に乗じて中大兄皇子が九州王朝から権力を簒奪し、近畿の天皇制権力を樹立したようです。=古田武彦説 
 ところが唐は674年新羅を討伐します。しかし、今のイラクのアメリカ軍のように、逆に長年にわたる戦争の混乱と朝鮮人民の全土にわたる抵抗の中で、唐は、376年、朝鮮半島を放棄し中国に引き上げてしまいました。
 その動乱の中で朝鮮を統一した統一新羅も、その後918年、高麗によって滅ぼされるまでの250年にわたって引き続き慶州を都にしていたようです。
 子供のころ、坊さんだった爺やん(祖父の長兵衛爺さん)に聞き、またその後、同じく寺(象潟の名刹・蚶満寺)育ちの土屋さん(祝郎さん)や、大類純さん(たいそう仲良くしていたが、早逝したサンスクリット学者)などに聞いていた、奈良の東大寺や興福寺の原型になった寺(仏国寺)や、爺やんが高野山で習ったお経の原本である8万2千の大蔵経(当時のお経のほとんどすべてを網羅している)があるという寺(海印寺)を一度はぜひ見てみたいと永年思っていたので、今回、慶州に行く格安ツアーがあるというので参加したわけです。
 旅行中は13日に一度ぱらぱらと小雨が降っただけで、全体に天気にも恵まれました。今回、色々と見聞することができて本当に幸福でした。爺やんや祝郎さんはどれほど羨ましがっていることでしょう。
 
(3)吐含山仏国寺

 仏国寺は仏教を国境とする新羅王によって、王都慶州郊外の吐含山に528年創建され,(日本への仏教伝来は538年か552年といわれている。最近の研究では、実際はもっと相当早かったようですが)、今のような大きさには774年に整備されたようです。だが、その数百年かけて作られた大伽藍も、一面から見れば東アジア世界の一体化を推進した倭寇の思想を受け継ぐ信長以来の、「来年の正月は明を滅ぼして北京で正月を祝う」という途方も無い妄想に取りつかれた豊臣秀吉の朝鮮侵略(朝鮮では壬辰倭寇=慶長の役、1593年)によって丸ごと焼失し、その後規模を小さくして何度か再建されて今日に至っているようです。 
 新羅は、ちょうどアメリカの子分になっている今の日本のように、当時の大国であった唐の子分になって、唐に反抗して独立を保持しようとした高句麗や百済を滅ぼした後、唐によって支配されたため、また、現代でも、朴正毅や全斗換などの軍事独裁政権の地盤であったためか、旧百済やその首都であり、金大中の地盤である光州(昔の百済の地)などに比べると韓国民の中ではあまり人気が無いようで、(そのせいか?)開発も遅れているように見えました。そのため、逆に慶州は、古い家並みが残っていて、日本の神社・仏閣のような、屋根が湾曲した瓦葺きの家が連なっていて、まるで7世紀の奈良の都を見ているような不思議な気持ちでした。
 仏国寺は山の傾斜を利用して10数棟の仏殿が並ぶがっしりとして、簡明にまとまったきれいな寺でしたが、山門には日本の阿吽(あうん)像の2体と異なって、金剛力士像ばかりでなく広目天や多聞天など4体の像があり(これはほかの寺でも同様でした。本来これらが釈迦直属の情報・武装部隊=近衛兵の象徴だったのでしょう)、釈迦牟尼仏ばかりでなく毘蘆舎那仏(びるしゃなぶつ)や、阿弥陀如来、観音菩薩、羅漢仏などが、それぞれ独立した仏殿に主仏として安置されているのに驚きました。仏教が中国から朝鮮、そして日本に伝わってくる過程では、これらの諸仏が、釈迦を中心として、キリスト教におけるキリストとマリアやヨハネ、ペテロやパウロなどと同様に、一群の聖者集団を形成してなだれ込んできたのでしょう。現代においてもマルクス主義が、マルクスやエンゲルスを中心にして、カウツキーやプレハーノフ、レーニンやスターリン、毛沢東や金日成などなどの学説として日本になだれ込んできたのも同様でしょうか。
 また俗界から仏界(西方浄土=つまりあの世)へと渡る蓮花橋・七宝橋・白雲橋・青雲橋の四つの石造りの橋や、本殿正面に立つ多宝塔や釈迦塔(三重塔)などの石塔も、小ぶりですが、高度な技巧を凝らした綺麗なもので、見ごたえがありました。少し離れた駐車場の近くにある梵鐘は、高さが3・75メーター、直径が2・27メーターもあるという今まで見たことも無い巨大なものでした。
 この鐘楼の位置からして、かつては今駐車場になっている一帯までも含めた広大な領域が、かつては寺の境内になっていたのであろうと思いました。
 これらのいずれもが国宝で、またユネスコの世界文化遺産になっているのもなるほどと思いました。
 また今回は見ることができませんでしたが、慶州の市街には、日本の前方後円墳の祖型であるだろう、20を超える円墳が散在していて、それぞれがきれいな公園になっていて、街と一体になっているようでした。
 それにつけても、2年前、古川の鈴木の本家を訪ねた折、金吾さんが小さい頃そり遊びをしていたという家の真後ろにある古墳が、その上に神社が建てられて水田地帯の真ん中にぽつんと放置されていたのを思い出しました。日本の文化的無策は韓国などと比べても全く無残なものです。
 
(4)美しい石仏と石窟庵

 石窟庵は、仏国寺の奥の山の中腹に、742年に創建された、花崗岩で作られた高さが3・48メートルのお釈迦様と、その仏像の上にドーム型に石で覆いをした建造物で、それがいわば岩をくりぬいて石仏を掘り出したように見えるところから石窟というのでしょう。そしてその石窟全体が木造の寺の一部に組み込まれて、石窟庵となっているのです。その中心にある石のお釈迦さまの姿かたちは、小ぶりですが気品に満ちていて、「鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は 美男におはす夏木立かな」と詠った与謝野晶子には悪いけれども、鎌倉の大仏よりは数段も美男に見えました。
 韓国の新学期は、日本より1ヶ月早く3月から始まっている(学制は6・3・3制で日本と同じだそうです)ようで、ちょうど日本の小学生が修学旅行で奈良・京都に行くように、たくさんの小学生が修学旅行に来ていましたが、子供たちは日本とまったく同じで、2列になっていても、列をはみ出すやつもいれば、いたずらしていては遅れるやつもおり、若いTシャツを着てGパンをはいてメガホンを持った先生が、四六時中大声で叫んでいるのが印象的でした。また子供たちの体格も服装なども日本と同じでしたが、女の子などはおしゃれをしてイヤリングをしている子が結構いたのには驚きました。
 
(5)伽耶山海印寺(ヘインサ)と大蔵経

  海印寺は、802年に創建されたようですが(空海・最澄の入唐が804年)、現在でも霊鷲山通度寺(トンドサ)・曹渓山松広寺(ソンクワンサ)と並んで韓国の三大寺殺としてさかえているようで、全体で30あまりの建物で200人余の僧侶が修行をしているそうです。また海印寺は、その傘下に16の庵子と130もの末寺を持つ韓国仏教の一流派である曹渓宗の総本山でもあるようです。
  韓国の仏教は、統一新羅時代(676年〜918年)と高麗王朝時代(918年〜1392年)は、国教として繁栄したようですが、儒教を国教とした李氏朝鮮時代(1392〜1910)の廃仏策によって、そのほとんどが深山幽谷に追われたそうで、慶州でもソウルでも、日本とは違って市街地には寺はほとんどなく、OO山OO寺と呼ばれるその文字通りに、そのほとんどが山中にあるようです。そのため逆に、日本のように安易な葬式仏教に陥ることもなく、昔の面影を保ち続けているようです。
  山の途中の駐車場から寺までは1キロメートルはゆうにある上り坂ですが、日本と同様に韓国でも、今、山登りやウォーキングが流行のようで、私たちと同じ年恰好のおじさん・おばさんたちがみな同じように登山靴をはき、チョッキやヤッケを着て、ステッキを持ち、リュックサックを背負って帽子をかぶり、集団で海印寺周辺の山道を歩いていて、韓国の民衆は日本以上に熱しやすい、流行にはまりやすいように思われました。
 海印寺に蔵されている高麗大蔵経は、1236年から1251年にかけて、当時朝鮮に伝わっていたお経の全てを、横68センチ、たて24・5センチ、重さ約3.2キログラムの金属で縁取りをした立派な四角木版に、印刷できるように印刻したもので、総数81340枚、総字数5238万2960字に上り、本にすると6791冊にもなるそうです。これが通風を考えた二棟の建物に保管されて、700年以上も経過した現在でも、カビも生えずに保存されているというのですからたいしたものです。
 私は昔から八万二千大蔵経と聞いて覚えていたのですが、韓国に行くと一般には八万大蔵経と言われていて、あれあれと思っていたところ、実際には8万1千を越えていて、切り上げれば8万2千になるので、なんとなくホッとしました。
 日本の江戸時代は鎖国といわれていますが、鎖国したのはカソリック諸国に対してであって、当時も、中国や朝鮮とは自由に貿易も文化交流も行われていましたから、日本の僧侶などもどれほどこのお経を印刷して恩恵を受けたかわかりません。これがつまり、少なくても日本と韓国の仏教の源泉の1つであったのだと思うと、感慨を禁じえませんでした。
 「これは韓民族が、世界的に見ても当時最高の印刷技術、出版文化を保持していたことを示している」と自慢しているとおりだと思われます。   次号に続く     案内へ戻る


阿波根昌鴻さんに学ぶ

 「世の中に、善人がどんなにふえても、資本家が権力を握っているあいだは、戦争はなくならない。それは人類の5千年の歴史が証明している」
 「団結道場とは学習を深め、真理を勉強し科学を学び、キリストの勇気を教え、釈迦の平等と慈愛(慈悲)、孔子の仁義、マルクス・レーニンその他を学習する場であります」
 「わしらの平和運動は、沖縄から基地を無くしても終わらない。日本の平和憲法を、世界中で実現させて、世界中の武器を全部なくす。そして、地球上の資源を、地球上の生き物が、平等にバランス良く分け合って、生きてゆけるような社会にするまでは、平和運動はやめられない」
 これは2002年101歳で亡くなられた沖縄の阿波根昌鴻さんの文章である。

 壮絶な沖縄戦を闘い沖縄を占領した米軍は、ソ連との冷戦時代を迎え、「沖縄を巨大な不沈母艦とする」との戦略的な位置づけのもと、永久軍事基地の建設に乗りだした。米軍は沖縄の人たちが住んでいた土地を「銃剣とブルドーザー」で当然のように奪い、沖縄各地に米軍基地をどんどん建設していった。
 1955年3月、沖縄本島中部の島である「伊江島」にも、米軍武装兵が上陸して阿波根家をはじめとして13戸の農家を破壊し、焼却し、農地を接収し、基地建設を強行した。当時54歳の阿波根さんは、「銃剣とブルドーザー」で伊江島の土地を奪い住民を追い出していく傲慢な米軍の態度に憤り、闘いに立ち上がり、米軍と闘う反戦運動の指導者となっていく。
 13戸の農家の人たちは家を潰され土地を奪われても、テント生活を続け土地返還を要求し米軍と闘っていく。那覇の琉球政府(米国民政府の従属機関)前に陳情小屋をたてて、座り込みを続けるが、土地が返還される見通しがたたない中、伊江島では餓死する島民が出るありさまであった。
 ついに最後の手段として伊江島農民たちは、伊江島の実情を世間に訴えるために、1955年7月から北は国頭村から南は糸満まで沖縄本島を縦断する「乞食行進」を開始、翌年2月までこの闘いを繰り広げた。この「乞食行進」の闘いが沖縄全島に広がり、ついに「島ぐるみ闘争」に発展していったのである。
 この闘いの歴史は、今現在伊江島の「ヌチドゥタカラの家」(反戦平和資料館)に展示されている。是非一度、訪問してほしいと思う。
 阿波根さんの事を知り、伊江島に通い反戦にかけたその生涯を調べてみて、大変驚いたことがある。
 阿波根さんは米軍との長い闘いの中で、粘り強い土地闘争を継続していくためには人材の育成こそが重要だと気がつき、「人材養成有志会」という会をつくり、さっそく島の若い人たちを、東京の「中央労働学院」(短期の労働学校)の受講生として9ヶ月間派遣し勉強させた。当時、沖縄の辺鄙な島から東京の学校に島の青年を送り勉強させるなど、考えられない時代であった。しかし阿波根さんは、闘いの中で理論学習(思想や哲学などの勉強)の重要性に気がつく知力をそなえていた。
 東京での理論学習を終えて帰ってきた若い人たちの報告を聞き、阿波根さんはその理論学習の重要性を再認識し、65歳の時、自らも東京の「中央労働学院」に入学し、理論勉強を開始した。
 その理論学習の中で、理論と実践の結合の重要性を認識し、自分の闘い・実践が間違っていなかったことを確信することが出来、社会科学理論の実践活動に乗り出した。
 農民の生活をしていた阿波根さんが、米軍との闘いの指導者となり、さらに社会科学・社会主義を学び、ついに「阿波根」イズムと言われるレベルまで到達したのである。
 反戦にかけた、そのひたむきさとその一途さに感心させられるが、年齢に関係なく持ち続けていたその向上心におどろかされる。
 私ももう少しで「還暦」を迎える年齢となった。やはりこの年齢になると、残り少ない人生をどう生きるか?真剣に考える日々である。(富田英司)


読書室 『わすれられないおくりもの』評論社 作・絵 スーザン・バーレイ 訳 小川仁央

 今年の夏も暑かった。だが私にとって忘れられない夏になった。
約六年間、車いす生活を送っていた母(八十六歳)が突然亡くなった、亡くなる四時間前に「また、明日ね」と別れたばかりなのに、病院へ駆け付けた時には・・・・・信じられず母を呼び続けたが、戻ってこなかった。自宅に戻り、眠っているような母の顔を見ていたら「あっ動いた、動いたよ、生き返るかもしれない」と本気で思ってしまった。夜が明けると今度は「おはよう、朝だよ、起きて」と声をかけてしまう程、穏やかな母の顔だった。それから慌ただしい日々が始まり、母のことを思い出しながら「あの夜、病院に残ればこんなことにならなかったかもしれない」「せめて、一週間、入院して、そばにいてあげたかった」「産んでくれてありがとうも言えなかった」と悔やんでも悔やんでも悔やみきれない気持ちがこみ上げ苦しかった。
 そして、母の死から一ヶ月が過ぎた。ふと、以前、私の一番大切な友人から贈ってもらった絵本『わすれられないおくりもの』を思い出し、久しぶりに開いてみた。
 絵本のストーリーは、主人公のアナグマが死んで、森のみんなはやりきれない程悲しくなり、途方に暮れてしまうのです。でも、春が来て、みんながアナグマの思い出を語り合うと・・・モグラは、アナグマからはさみの使い方を教えてもらい。カエルは、アナグマからスケートを習い。キツネは、アナグマからネクタイの結び方を教えてもらい。ウサギの奥さんは、アナグマからはじめて料理を教えてもらったのです。『みんなだれにも、なにかしら、アナグマの思い出がありました。アナグマは、ひとりひとりに、別れたあとでも、たからものとなるような、ちえやくふうを残してくれたのです。みんなはそれで、たがいに助けあうこともできました』(本文より)という言葉に出会った時、私の母も宝ものをいっぱい残してくれたことに気がついた。
 葬儀の時、孫たちが一人ずつ思い出を語ってくれた。「優しかったおばあちゃん」「元気に自転車に乗っていたおばあちゃん」「生き方を教えてくれたおばあちゃん」「おはぎやきんつばを作ってくれたおばあちゃん」「自分が精一杯で、優しくできなくてごめんねおばあちゃん」と孫たちの心の中に母は、しっかりきざまれていた。
 そして、私自身も、母からいろいろなことを教えてもらった宝ものがいっぱいあるんだ!!と思ったら、何か心が軽くなり、母は私たちに忘れられない贈り物を残してくれたんだと思うと、少しずつ、母の死を受け入れる気持ちになってきた。
 絵本の最終ページは、モグラがアナグマを思いながら空を見上げている−−頭上いっぱいに広がる空に、淡いピンクのきれいな雲−−私も秋になったら、母を思いながら、こんなきれいな空と雲を見上げたい。
 この絵本は、私にとって、忘れられない一冊となった。(美)案内へ戻る


色鉛筆  介護日誌<最終回>・・・さようなら、そしてありがとう

 雨や雷の後、いつのまにか秋の気配がやってきている。
 今、母(86歳)の部屋の介護ベッドは、跡形も無く、かわりに仏壇が置かれている。
 「その日」は、いつか必ず来る−−けれどもそれはまだずっと先のことだと思いこんでいた。つい先日の主治医による健康診断でも大丈夫と、太鼓判を押してもらったばかり。車イスであっても普通に食べ、普通に生活ができていた。
 いま思い出すと前兆だったのだろうか。死の10日前に左手指がマヒして茶碗が持てなくなった。今まで通りに持とうとするが何度でも落としてしまう。自分の左手を不思議そうにながめていた。幼い子が日々成長してゆくのとは反対に、老いはこうしてひとつひとつ不自由を受け容れてゆくのか、せつないだろうなと思った。
 マヒの原因を求めて病院でCT・MRIの検査などをしてもらったものの、それでもはっきりした原因はわからず「動脈硬化だろう」という診断だった。
 そして、その一週間後の朝食時に、食べ物を喉に詰まらせ、その日の真夜中には亡くなっていた。
 主治医、訪問看護士さんたち、そして救急車で運ばれた先の総合病院で、様々な人にお世話になったにもかかわらず、まるできっぱりと自らの意志を持っているかのような死だった。死因は誤えん性肺炎。
 8月のカレンダーには、まだ母のショートスティや訪問看護などのスケジュールが書き込まれている。それ程あわただしい「旅立ち」だった。押し入れの中には未使用の紙おむつの山。これを使い切ってもまだ生きていると思っていた私。6年間近く「介護される」立場でいた母の「もういいよ」というメッセージなのかもしれない。
 ゴールの見えない老人介護は、まるで終身刑の様な重みを持つ。嫌だ!逃げ出したいと思いながら母に八つ当たりをしてしまった愚かで未熟な自分を、悔やんでも悔やみきれない。その時、母はどんな思いだったのだろう?
 自身も老親の介護をしていた友人から通夜の時、「ご苦労さま」と心からのねぎらいの言葉を受けたとき、涙があふれて止まらなかった。つらかった事、そして自分の至らなさ、様々な思いが次から次へとわいてきた。
 介護保険制度による様々なサービスを利用し、さらに妹家族との協力体制で臨める恵まれた条件だったにもかかわらず、私は行き詰まりや怒りを常に抱えていた。妹と交換していた母の介護ノートは、いつの間にかそのはけ口になり、12冊にもなる。
 気持ちの整理は、一生つかないかもしれない。それでも母によって教え気づかされた多くのこと、そして介護や医療などの問題は、これからも向き合ってゆきたいと思う。
 長い間、この介護日誌を読んで下さってありがとうございました。(澄)


アジア型近代化とは?

 日中両国の歴史研究で、私は明治政府がめざした欧米に追いつき追いこせの政策が、あまりよいものではなかったと思っている。その矢先、中国の歴史家が明治政府を評価するのにアレッ 変だぞ≠ニ思ったのがきっかけで、アジア型近代化の道があるのでは? と思った次第。それでドンドンさかのぼって古代に迷い込みそうな現在。
 南方熊楠(和歌山)、横井小楠(熊本)、榎本武楊(北海道、共和国幻想の祖)の3人をとりあげて、各人について書いてみたいと思っている。
 以上とかかわりあるだろうと思うことは、沖縄にほれこんで通った結果、沖縄でも産廃が問題であるようだ。
 産廃を出さねばならないような、またどこに捨てるかで難儀しているような沖縄の現状から、こうした近代化の道しかなかったのであろうか。手工業を保護するような、中に取り込んで育てていくというような近代化の道は、不可能なのであろうか。
 どうしても見逃せないのは基地の問題。沖縄経済に及ぼした影響は?   08・8・13   宮森常子
 

コラムの窓ーーーオリンピック

 「中華民族の偉大な復興を実現する」として推し進められ、史上最高の二百四カ国が参加して開催された北京オリンピックが閉幕した。
 チベットやウイグル自治区では戒厳令を敷き、少数民族問題、言論や報道への締め付けを行いつつ、金メダル競争でも圧倒的な強さを見せつけた中国。 
 オリンピックの歴史は、ヒトラー政権下による一九三六年のベルリン大会では、ヒトラー政権の威信をかけたものであり、聖火リレーのルートを後日ドイツ軍がそのまま逆進し、侵略ルートにした事。冷戦下でのアフガニスタン戦争に伴う東西のボイコット合戦。一九八四年のロサンゼルス大会では、ショーアップを図るとともに、大会ごとに企業にオリンピックマークの独占的な使用をスポンサーとともに許可するなど、商業資本を大幅に導入し、一大ビジネスチャンスとして注目させるなど、アマチュアリズムや平和の祭典と言われ続けてきたオリンピックは、開催・参加国の政治的意図と収益構造により、ナショナルリズム・国威発揚や商業主義による運営・プロ化が進んだ。
 オリンピックは発足当初からアマチュア選手のみに参加資格を限って来たが旧共産圏(ソビエト連邦やキューバなど)のステートアマ問題などもあり、プロ選手の参加が段階的に解禁されるようになり、今日、自費参加のアマチュアは皆無である。
 現在のオリンピックの収益構造は、約半分が各国マスコミへの放送権料で、残りをマクドナルド、コカ・コーラ、コダック、松下電器などの毎回のオリンピックにおいて中心となる「ワールドワイドパートナー」、その下に、「メインスポンサー」や「オフィシャルスポンサー」、「オフィシャルサプライヤー」など、さまざまな企業からのスポンサー料、そして、会場への入場料などにより運営されているのでこうした「スポンサー」の意向を無視できない状況になっている。
 北京大会もこうした傾向を拭えず、開催国中国の威信をかけた大会として、チベット問題や民主化運動を弾圧・押さえ込み、選手のコンデションより放送権を優先した時間帯に競技を行うなど、健全なスポーツの精神とは裏腹に、これらの利権が絡み合った政治的イベントとして行われた。
 そして、大会開催日に、グルジア軍が南オセチアに侵攻、それを理由にロシア軍がグルジア領内に侵攻するなど、「諸民族の友愛」「世界平和」の裏側では、果てしなく続く戦争への恐怖や軍国主義の台頭など、現代資本主義の諸矛盾から目を伏せることは出来ない。
 いつの日にか、資本主義の諸矛盾を乗り越え、民族や国という枠を消滅させ、各個人が自由で束縛されない世の中が出来た時、本当の意味でスポーツを楽しむことが出来るだろうし、今オリンピック大会で産まれた多くの感動や世界新記録以上の感動や新記録が歴史に刻まれるだろう。(光)案内へ戻る