ワーカーズ378号 2008/10/1   案内へ戻る

いよいよ総選挙
 党首選。・首相交代劇も空振りの自公政権−−政権交代を政治変革の第一歩にしよう!


 戦後の混乱期が収まった1955年、日本民主党と自由党が保守合同を成し遂げて、自由民主党(自民党)を結成した。社会党との保守・革新の55年体制の確立である。
 60年安保の政治危機を乗り越えた自民党は、池田内閣の「所得倍増計画」のもと高度経済成長政策を強引に押し進めた。
 資本や貿易の自由化のもと、大企業集団(独占資本)があらゆる経済分野を支配し、日本型の会社管理社会を築き上げ、資本主義国第2位の経済大国に成長した。
 この間、幾度となく腐敗・汚職にまみれた自民党内閣が何度も倒れたが、野党・社会党との連立政権、さらに公明党との連立政権を組むなどの、起死回生を計って、戦後50年以上の長期政権を維持してきた。
 バブルの崩壊と共に、政官財のトライアングルの支配権力構造も崩壊する危機を迎えたが、「自民党をぶっ壊す」と言って登場した小泉改革によって、自民党はなんとか寿命を延ばしてきた。
 しかし、安倍・福田と二代続いた政権放り投げは、まさに自民党に政権を担当する能力がないことを実際に証明した。
 麻生の「選挙内閣」発足後、小泉は引退を表明したが、その後継者はなんと次男(27歳)を指名した。これで祖父から4代続く世襲議員が誕生する可能性がある。改革者・小泉も結局は単なる世襲政治家にすぎないのである。
 安倍・福田と続いて、今度の麻生も祖父から続く財閥世襲政治家である。麻生新内閣の顔ぶれを見ても、中曾根、塩谷、浜田、小渕と言った「昔の名前で出ています」と言う世襲議員ばかりである。
 このように今の自民党は、世襲政治家の政治集団になり下がっている。世襲議員ばかりの「仲良しクラブ」の政治は、もうごめんこうむりたい。
 今回の総選挙は、政治を私物化し甘い蜜を吸い続ける自民党政権に終止符を打つこと。さらに、予想される政権交代を私たちがめざす政治変革の第一歩となるような闘いに高め・広めていく必要がある。(若島三郎)


蔓延する世襲議員――代表民主主義の行き着いた先――

 9月24日に発足したばかりの麻生内閣。政局的に見れば解散内閣、選挙管理内閣というしかないが、抜擢された閣僚の顔ぶれを見てまたまた世襲議員の多さに批判の声が集まっている。
 誕生したばかりの麻生政権は、外国でも明治の元勲・大久保利通や戦後の吉田茂の家系を引き継ぐ“華麗”な閨閥が注目されているという。
 いまや“家業”となって一部の家系に独占されてしまった国会議員の世襲は、日本の議会制民主主義が本来の民主主義といかに隔絶してしまったかの目に見える証でもある。
 これも白紙委任を特徴とする議会制民主主義=代表制民主主義の必然的傾向でもある。

■蔓延する世襲議員

 今回の麻生内閣の誕生で、世襲議員を首班とする内閣は小泉内閣から4代連続だ。というより、平成に入って生まれた宇野内閣以降の13代の内閣のうち、世襲議員でないのは宇野、海部、村山、森内閣の4代にすぎない。その森首相も代々続く地方議員の家系からでているので、世襲議員の範疇に準じる位置にいるといってもいい。それ以外はすべて父親か祖父などが国会議員であり、そのうち4人が元首相で、そのうち直近の3人が元首相という異常さだ。
 今回の麻生内閣の顔ぶれでも世襲議員の多さが目につく。新内閣の閣僚18人のうち、首相も含めて祖父や父から地盤を引き継いだ世襲議員が12人、そのほか親が地方議員という閣僚が2人だ。なんと18人中14人が世襲議員だという。これでは議員を家業としているといわれても当然だろう。逆に言えば、有権者は議員を家業としている候補者に投票していることになる。
 こうした事態になるのも理由がある。
 閣僚候補となる与党議員、中でも自民党は世襲議員のてんこ盛りといった状況だ。現時点で祖父や父が国会議員の経験者である世襲議員は衆参併せて180人弱もいる。そのうち民主党が23人で自民党は150人余もいる。なんと自民党の4割近くが世襲議員なのだ。これでは閣僚も世襲議員のオンパレードとなるのも当然かもしれない。
 目を外国に転じてみれば、世界でも世襲政治家がいないことはない。米国ではケネディ家やブッシュ家が有名だ。他にもインドのガンジー家、パキスタンのブッド家、それに北朝鮮の金正日などがいる。が、それにしても日本ほど世襲政治家が蔓延している国はない。

■土壌は利権政治

 日本で世襲政治家が蔓延するのは理由がある。
 一番大きいのは、戦後自民党政治の特徴でもあった官僚主導の利益誘導政治だ。政官業が結びついたそうした自民党政治の土台は、端的に言って公共事業や補助金の分配政治だった。そうした世界では基本的な政治の運営権は官僚にあり、議員は個々の公共事業や補助金の“箇所付け”で自分の選挙区に利益誘導する、というのが仕事の中心だった。
 そうした政治構造の中で自民党議員は地盤、看板、カバンの三種が大事で、その一翼を後援会組織が支える構造になっていた。自民党議員にとっていわば後援会組織は独自の利権で繋がった運命共同体であって、逆に後援会組織も議員を看板とした利権集団でもあった。議員の引退時にその利権を維持するには息子をはじめとした家族、子孫を後継者にするほうが手っ取り早い。後継争いを防ぐ意味合いもあって後援会組織としてもそのほうがまとまりやすい。
 それに世襲議員の場合は、たたき上げの議員に比べて若いときに国政の舞台に立てる。それだけ当選回数を重ねることができ、自民党政治の当選回数による序列社会の世界で上位の地位を得ることも可能だ。
 結局、利権構造があればそれを継続化したいという衝動が膨れるし、結果的に私物化傾向が固定化するというわけだ。だから利益誘導政治、利権政治の傾向が強ければ強いほど、世襲議員が蔓延し、議員の家業化が進むことになる。西欧などでは見られない世襲議員の蔓延現象は、それだけ自民党政治の利益誘導政治が強かったことの結果だという以外にない。

■議員の頭の中の世界

 問題は世襲議員が増えたことの功罪だ。
 “功”などの部分は当の世襲議員や後援会組織以外にあるとは思えない。“罪”の部分はあげればきりがない。中でも人材確保の枯渇、あるいは有権者との遊離といったところだろう。
 世襲議員がどういう存在か、その一端を実感させてくれる観察に出会った。9月25日付朝日新聞に掲載された作家の高橋源一郎氏の感想で、世襲議員の生態の一面を鋭く切り取っている。すでに読んだ人も多いと思われるが、再度聞いて見ることにしたい。

 「おれはいままで2人の国会議員さんと話したことがある。いま気がついたんだが、どちらも二世議員だった。ほんとに議員の二世比率、高すぎますから。
 話して、おれは心底、びっくりした。ぜんぜん、話が通じない。っていうか。あの人たち、他人の話を聞いてないんだ。おれがなにかを質問する。でも、そいつはおれの質問への答えじゃなくて、そいつが話したいことをいう。で、おれが、だから質問への答えになっていないじゃん、というと、そいつはまたその質問への答えじゃなくて、そいつが話したいことをいう。そこで、おれは、……以上、繰り返しである。
 おれの考えでは、あの人たちは、俺たちとは別の世界に住んでいるのである。それは『政治の国』だ。通用しているのは『日本語』ではなく『政治語』、……。」

 以上、何ともわかりやすいスケッチだ。
 とはいえこうした政治家は何も世襲議員に限ってのことでははい。その格好の実例がまさに目の前で実演された。9月25日、国土交通省に登用された中山成彬の“失言”だ。中身はすでに報道され、多方面から批判の声が向けられている。その受け答えの要旨は次のようだった。

 記者――成田空港の今後の施策、整備の考え方は?
 中山――ごね得、戦後教育が悪かった。
記者――訪日観光客を増やすには閉鎖的な国民性の克服が必要なのでは?
 中山――日本は……単一民族
 記者――大分県教委の汚職問題は?
 中山――日教組の子供は成績が悪くても先生になる。だから大分県の学力は低い。
     日教組が強いところは学力も低い。その仮説が証明されたからテストの役目は終わった。

 文字通り、記者の質問とは関係なく言いたいことだけ言う、という典型的なやりとりだ。“失言”ではなく“本音”であることでかえって始末が悪い。
 世襲議員だけではない、こうした議員の目線・感性はどこから来ているのだろうか。その最大の土壌が戦後日本の利権政治にある、と先ほどは指摘した。が、もっと根源的に見れば、現在の民主政治の土台となっている(と思われている)議会制民主主義そのものに根ざしている、というのがここでの見立てだ。

■民主主義――当事者主権を

 現在の日本は議会制民主主義を採用している。大統領制にせよ、議院内閣制にせよ、一般的にはこれ以外にありようがない、といわれ、思われているのがこの議会制民主主義といわれる政治システムだ。
 一般に議会制民主主義、あるいは「代表民主制」とは、国民・住民が議員その他の代表者を選挙し、それを通じてのみ政治に参加することを建前とする民主制。その「民主制」とは語源はギリシャ語で人民と権力を結合したもの。即ち人民が権力を所有し、権力を自ら行使する立場をいう(いずれも広辞苑より)。
 問題はこの「代表制」にある。「代表制」の対極語が「派遣制」だ。
 「代表制」は選挙での有権者による議員への白紙委任が本質的なもので、「派遣制」は逆に拘束委任だ。「代表制」では数年に一回の選挙で議員を選出し、議員がどういう投票行動をしても次の選挙までは原則として解任できない。「派遣制」は議員の議会での態度を拘束し、反すれば解任も可能だ。改選も頻繁に行われる。
 結果的に「代表制」はエリート政治とその究極の姿としての世襲政治をもたらし、役者と観客という固定した関係、いわば劇場民主主義と揶揄される傾向を内包している。どうしても選挙民と遊離せざるを得ない。「代表制」では白紙委任とエリート政治、世襲政治は必然的帰結だという以外にない。
 現実の政治システムを考えた場合、「代表制」にしても「派遣制」にしても、いわば間接民主主義のシステムだ。現在のようなネット社会の拡がりを前にしては、直接民主主義の手法も多く取り入れる必要もあるだろう。現状の日本で国民投票制さえないのは、それだけ直接民主主義の拡大が抑圧されてきた結果である。
 世襲議員の蔓延に対置すべきものは、世襲議員の禁止でもなければ、公募制などの候補者づくりでの方策改善などではない。「代表制」で象徴される白紙委任を克服し、それに変えて当事者主権を本質原理とする「派遣制」こそ対置すべきだと思う。
 すでに政治は解散・総選挙を日程に組み込んだ攻防戦に移っている。目先の課題としての自民党政権の打倒という課題の実現も重要だが、中長期的課題としての「派遣制」への転換の必要性についても是非考えていきたい。(廣) 案内へ戻る


ペシャワール会 伊藤和也さんを追悼する 

ペシャワール会の伊藤和也さんが亡くなられました。志し半ばの不本意な死であり、伊藤さんの無念、関係者の悲しみの深さはいかばかりかと思います。
『ペシャワール会報』号外(9月16日)が伊藤和也さんの追悼を行い、『DAYS JAPANL lO月号』が緊急特集を組んでいます。読者の皆さんにも、ぜひ読んで頂きたいと思います。
次の文章は、「ペシャワール会報」(2006年12月6日)に掲載された伊藤さんの報告文の一部です。昨年までは葉っぱを蒸す、揉む、天日で乾燥、煎る、軽く煮出すといった方法で作っていたのですが、このやり方だと日本人(自分や新藤さん)がおいしいと思ってもアフガン人には渋すぎる、色が悪い(煎るため色が茶色になるのですが茶色になるのがダメと言われました)とうまさの基準そのものが違うため苦戦しています。また人によっては日本人が作ったというだけでおいしいという人がいるため人選びも難しいところです。そのため素直な意見をいうモハマド一アジャン、ダラエヌールで調理を担当しているダワ一ジャンの二人に飲んでもらいながら、こうした方が良いこれではダメだと意見を聞1きながら作っています。最近はだんだんと良いほうにいっていますので、近々自分たちが作ったお茶でアフガン人においしいといってもらえるのではないかと思います。最後に今年は11月12日にダラエヌールから望む山に初雪が降りました。昨年と同じ時墾の雪ですが、昨年は本来降るべき時期である冬に雨、雪が少なく、近くの農家では小麦が上手く育たなかったところがあります。文字通り命の水″の源がある山に今年は多くの雪が積もることを祈る気持ちです。
(「サツマイモとお茶の加工法を研究しています」 農業計画担当 伊藤和也)


韓国紀行(3)  慶州・ソウルを巡って感じたこと・考えたこと    北山 峻

前号より続き 
(13)ハングルについて

  連れ合いの由美ちゃんは、旅行中ハングルの読解に熱中してずいぶん読めるようになりました。
 バスの窓から見えるあらゆる看板を見ては、「イ」とか「チュ」とか発音しまくりで、私の左耳は韓国語で麻痺する勢いでした。あの熱中度はたいしたもので、韓国の熱気に十分対抗できるでしょう。数日間もそれを聞いていて、ハングルで発音したその背後には必ず漢字があるので、発音から漢字を類推して始めて意味がわかるわけで、最初は手間がかかりますが、慣れてくれば案外早く理解できるようにも思いました。
 また、ハングルは、とてもよくできた文字で、カタカナを組み合わせて一字で数音を表しているようなもののようです。
 なぜ15世紀になって(1443年、世宗が創始)このような文字を作り出したか考えてみると、やはり朝鮮にとって中国は、その巨大な文化の影響を受けながらも、それとは一線を画して自己の独自性を主張せざるを得ないものであったのでしょう。そうしなければ、中国にすべて同化されて、朝鮮民族は消失するという危機感があったのだと思います。中国とは陸続きでもあり、幾度も占領された歴史を持っているため、その経験のない日本とは切実さがまるで違うように思いました。韓国を旅していて、中国よりも徹底した儒教体制を構築したり、金日成が「チュチェ思想」を始めたのも同じような発想かと思いました。
 ちなみにこのハングルを創始した世宗大王(セジョンデワン)は、韓国の超有名人の一人で、その肖像が一万ウォン札(およそ1250円)に印刷されていて、お世話になりました。
 
(14)キリスト教と儒教と仏教

 現在の韓国は50%を越える人がキリスト教を信仰し、仏教徒が30%ほどのようで、どの街でも寺はほとんど見えないのに、(もっとも、韓国の寺院は日本でもOO山という名前がついているように、そのほとんどが本当に山中にあるようですが)十字架の尖塔ばかり目に付きましたが、今でも儒教は韓国に深く根ざしているようで、今でも親や伯父さん伯母さんなどの尊属の前ではタバコも吸わないのだそうです。だがその厳格な儒教によって、同じ本貫(祖先の出身地)の同姓の男女は、何10親等離れていようとも結婚してはいけないなどという奇妙な論理が今もまかり通っていて、問題になっているそうですが。
 キリスト教がなぜこんなにも韓国で広まっているかといえば、やはりこの苦難に満ちた韓国の近代史が大きく影響しているように思えてなりません。
 儒教や仏教は、日本の支配や貴族階級や地主階級の支配を覆して、韓国の独立や民衆の解放のための武器としては何の役にも立たなかったということなのでしょう。それに比べて、いくら欺瞞に満ちたものであるとしても、キリスト教は、現在でも、韓国民衆の民主化闘争や人権闘争において、一定の積極的な役割を果たしているのでしょう。
 高度な歴史的文化を持つ韓国民衆の民族的な誇りと自立心は相当に強烈で、行く先々での、貧しくてもいつも胸を張って生きている民衆の姿は、胸を打つものがありました。

(15)その他いろいろなこと、その1

 韓国の道は、オリンピックやワールドカップのせいか、ソウル近郊に行くと日本の高速道路と変わらず快適ですが、釜山や慶州などの地方に行くと相当でこぼこで、マイクロバスの振動も相当に激しく、最初はどうなることかと不安に思われました。
 現在、ソウルや儒城を始めの韓国の大都市はどこでも、郊外に8〜15・6階建てもあろうかというような大規模な高層アパート群が建設されていますが、見るからに壁が薄そうで、日本では到底耐震基準を満たしていないだろうと思われたので聞いてみると、韓国には地震がないので大丈夫なのだ、ということでした。そうか韓国は大陸プレートに乗っているから地震がないのか、と妙に感心してしまいました。
 韓国も日本と同様に車と携帯電話で溢れていました。ただ車の8割方は現代(ヒュンデ)とか起亜などの韓国の自動車会社製で、わずかにトヨタとかベンツなどが走っている感じでした。また韓国のコンセントは日本と違っていて、携帯をはじめ日本の電気製品は変圧器がなければそのままでは使えません。
 またソウルでロッテワールドの免税店に連れて行かれたとき、私らにはあまり関係がないので外に抜け出して、1時間ほどデパートの地下街を見て歩いたり、スターバックスコーヒー店で一服したりしました。デパ地下では、さすがキムチの国だけあってキムチが10種類以上も売られていたりしましたが、品揃えといい値段といいほとんど東京のデパ地下と変わりませんでした。ただ韓国で売られている缶コーヒーは昔の日本の缶コーヒーと同じで、香りはほとんど無くて非常に甘いものでした。わずかにあちこちにあるセブンイレブンで売っている無糖の缶コーヒーが救いでしたが、それは1200ウオン、約150円もしていてほかのジュースの1・5倍もしていて参りました。
 
(16)その他いろいろなこと、その2

 韓国のホテルはサウナ風呂などが別料金になっていて、ツアーの人は利用券をもらって入りましたが、サウナの中に薬草を入れた袋がいくつもつるしてあって、独特の匂いがしました。
 地方では、下水管が細くて尻を拭いた紙が詰まるというので、使用した紙を大きな4斗缶ほどのふたのついたポリバケツの中に投げ込んでおくのにはびっくりしました。
 食事では、毎食キムチがついてきて、またどこでもお代わり自由で、堪能しました。韓国の食事はおかずの数がとても多くて、食堂などでは23品のおかずがついていて1500円程度のようでした。朝はおかゆが多く、その点では中国ととても似ていると思いました。全体に肉はそう多くはなくて、いろいろな植物、例えば日本では決してお目にかからないつつじの根のあく抜きをしたものなども出てきて驚きました。
 食器はそのほとんどが金属性かプラスチック製で、必ず金属製のスプーンと箸が出てきますが、韓国ではご飯やスープは主としてスプーンで食べて、箸はおかずを取るときしか使わないようです。そういえば確か昔の韓国の民話に、日本に食事の作法を教えるときに、箸しか教えなかったという話が有って、奇妙に思ったことを思い出しながら食事をしていました。爪楊枝はプラスチック製で、あまり使い勝手が良くありませんでした。
 土産物屋には、高麗人参や海苔、キムチなどの定番と共に、どこでも金色の豚の置物があって驚きました。韓国では豚は幸せを呼び、金運を呼ぶ動物なのだそうで、かわいらしいのからどでかい物までいろいろの種類がありました。
 また、高麗青磁の陶器はすばらしいものがありましたが、日本の有田焼や九谷焼ほど高くはなくても、やはり相当の値がついていました。
 またテレビは、ホテルではケーブルテレビが引かれていて、NHKワールドが日本語で入りました。また囲碁の専門チャンネルがあって、言葉はわからないがプロ棋士によるアマチュアに対する3子局や4子局などもあって、感心しながら寝不足になるほど楽しみました。
 子供たちの大会などもたくさんあるようで、その真剣な熱気を見て、これは日本がかなわないはずだと思いました。
 全体として韓国は、一人当たりGNPが日本の3分の1弱(2002年で日本3400ドル、韓国9900ドル)ですから日本よりはまだまだ貧しい感じです。だが、その上昇志向とその熱気は日本よりはるかに勝っていますから、今後10年、20年のうちには次第に日本に追いついてくるように思いました。 次号に続く 案内へ戻る


コラムの窓・民営化の1年

 郵政公社の民営化から1年が経過しました。何よりも不都合な分割によって流れが滞り、不必要な仕事が増えたというか、無意味でむなしい気分になります。例えば葉書1枚、買う側にとっていはどこで買っても同じですが、売る側にとっては大違いです。葉書は郵便事業会社の商品なので、郵便局会社の窓口で50円での販売になっても、事業会社の収入は窓口会社に手数料を払った残りです。だから、事業会社は自前での販売にこだわります。
 8月末まで販売されていた暑中葉書・かもめーるですが、これを郵便配達時に売ることを求められるのです。正社員は何枚、期間雇用社員は何枚というノルマです。取りあえず自家使用分くらいは買うがあとは知らない。なかなかそうはできないのは、これが成績に直結しており、期間雇用社員には時給から月給へ(まれには正社員へ)道が開かれているからです。
 そして今は年賀状です。以前も窓口や特定局とは取り合いをしていましたが、今は完全に商売敵≠ナす。それもあってか9月1日には販売活動が始動し、まずは予約チラシの全戸配布です。残暑なのに年賀かよ≠ニいう気分で、この無意味で恥ずかしいチラシ配布を行ったのですが、案の定、もう年賀ですかと笑われてしまいました。しかし、どんなに頑張っても年賀販売が増える要素はありません。畢竟、締め付けがきつくなり、職場はそれに比例して荒廃します。
 というわけで、不祥事の話題は尽きません、私の職場でも現金書留はなくなるし、幹部社員はお金を盗るし、とうとうコンプライアンスがどうとかで支社から監視要員が来るようになりました。私にとってはそんなことどうでもいいことというか、郵便事業崩壊の一過程に過ぎないという思いがあります。
 むしろ深刻なのは、8月末に同僚が突然死したことです。前週末に職場で顔を合わせていたのに、次の火曜日に亡くなったことを水曜日に出勤したとき知りました。通夜や葬式については公表されましたが、死亡原因は伏せられています。彼は強制配転される前の職場の後輩でまだ50代前半です。欝で入院したこともあるということで、最近も長期に休んでいました。しかし、亡くなる前は特に何もなかったし、働くだけ働いて、体を壊して死んでいくのか、哀しい気分です。
 郵便事業をめぐっては、最近、大きな動きがありました。「配達記録郵便」の廃止です。赤字の元凶、ダンピングによるカード会社への奉仕、郵便屋泣かせの厄介なこの書留扱い≠フ郵便が姿を消すのは当然でしょう。そもそも、ヤマトとのダンピング合戦には勝利したものの、簡易書留を衰退させ、どんどん膨れ上がった配達記録、簡易書留の50円値下げを結果したというところです。
 これで書留扱い@X便は激減することでしょう。隙を突いて、ヤマトが再び新商品を投入する可能性もあります。こんなでたらめを行い、事業を混乱・衰退させた連中は決して責任を取ることはないでしょう。おかげで、現場は泣いています。どうでもいいでたらめな指示に振り回され、それもいつの間にか無くなっていたりするのです。例えば、接遇の一つ星とか二つ星、一時は毎日のようにうるさく言っていたのに、今は沈黙です。
 上から一直線の命令が各段階で吟味・検討されることなく形だけ実施され、その積み重ねが点検の押印を日々増やし、毎日、押印漏れの点検だけで神経をすり減らす。漫画を絵に描いたようなものです。それも、いつの間にかうやむやになるだろうというのが現場の雰囲気です。面従腹背というか、こうしたことの繰り返しのなかで、職場の荒廃は確実に進行するでしょう。
 とどめは連休明けの9月16日、朝から20分に及ぶ全体ミーティングにもううんざり、支社管内で人身事故が多発し危機的状況だそうだ。民営化以降死亡事故3件、重傷事故6件、さすがにこれは他人事ではありませんが、原因を追究することなくレッドカードと可処分の恫喝では、事故は無くならないでしょう。
 定年まであと2年半、私もこんな職場で我慢して働き続けることができるのか、自信が揺らいでしまいます。 (晴)
  


オンブズがチェンジさせっぺ地方議会!
‐第15回全国市民オンブズマン千葉大会報告‐ 
折口晴夫

(1)
 8月末の30・31日、千葉市においてオンブズマンの全国大会が開催された。大会は「オンブズがチェンジさせっぺ地方議会」をメインテーマに30日午後、380名の参加者が全国から雨降る千葉に集まるなか始まった。新藤宗幸千葉大学教授が基調講演「住民自治に応える地方議会とは」を行い、分科会や全体会で各地の活動報告を聞き、そして多くの課題を議論した。31日昼、大会宣言を採択し、16回大会(09年8月29日・30日)の開催案内を市民オンブズマン岡山から受け終了した。
 新藤教授の講演は「私の年間研究費は10数万円に過ぎない。それに比べ、議員の政務調査費は・・・」という愚痴≠ゥら始まった。大学教授の自由になる経費はそんなに少ないのかと驚いたが、ここはむしろ新藤氏が強調したかった政務調査費が異常に高額な実態を確認しなければならない。何しろ、最高額の東京都議会と大阪市議会では、議員一人当たり年額720万円あり、労働者の平均年収よりはるかに高額だ。しかも税金はかからないし、領収書の公開もしなくてよかったのだから、その厚遇≠ヤり、行政による議会の買収の露骨さにはあきれるばかりだ。
 講演の核心は、2000年の制度改革で機関委任事務が全廃され、地方自治体はもっぱら国の出先機関としての窓口事務から解放されたのだから、住民自治の実現を目指すべきであるということ。地方議会もいつまでも前例踏襲ではなく、これまでの枠に囚われない運営を目指すべきである。そして、なによりオンブズマンがそんな枠を超える発想、取り組みを行うべきということだった。確かに、手の届く成果を求めて目先の小さな改革に眼を奪われがちであり、自戒しなければならない。
 政務調査費の使途にしても、あれはいいけどこれはだめということではなく、「調査研究」(注)の成果がどのように生かされるのか問わなければならない。実態は無残なもので、自家用車のガソリン代や自宅の電話代・私用の携帯代なども、半額なら政務調査費で落としていいとなっていたりする。何年も要求してきて、ようやく公開された領収書を見たら、パソコンやデジカメから文房具まで、なんでもありの税金浪費が浮かび上がっている。

(注) 地方自治法第100条13項「普通地方公共団体は、条例の定めるところにより、その議会の議員の調査研究に資するため必要な経費の一部として、その議会における会派又は議員に対し、政務調査費を交付することができる。この場合において、当該政務調査費の交付の対象、額及び交付の方法は、条例で定めなければならない」

(2)
 私が参加した公共事業分科会においては、もっと巨大な税金の浪費との闘いが報告された。林野庁による天然林の皆伐や大規模林道による森林破壊が山奥で人知れず進んでいる。仙台の地下鉄建設では、例によって過大な乗車予測と過小な建設費計上で、ようやく費用対効果≠ェ成り立つようなごり押しをしている。滋賀からは勝利した新幹線栗東新駅起債差止訴訟の経過が報告された。さらに、八ツ場ダムと諫早湾干拓事業に反対する闘いの報告があった。
 八ツ場ダム建設に対しては、千葉・東京・茨城・群馬・埼玉・栃木と6件の裁判が行われている。関東地方の水需要はすでに減少に転じており、治水についても過大な洪水流量を想定し、この時代遅れのダム建設に9000億円もの税金を投入しようとしている。「よみがえれ!有明訴訟」弁護団の馬奈木昭雄弁護士からは、闘いは公共事業を止める段階から被害を回復する段階に入っているとのアピールがあった。
 馬奈木弁護士は「必ず勝つ。何故なら、止めないから。勝つまで止めない」と言い、「裁判長、あと何人死んだら止めてくれますか」という漁民の声を伝える。さらに2500円の巨費を投じて、成果は53億円の農地と45億円の農産物という数字をあげ、破産したこの事業≠フ実態を暴いた。闘い続けることが勝利への道だというのは真理だと思うが、その実践はなかなか困難だ。

(3)
 31日の午前は分科会報告と各地からの報告が行われた。県教委の汚職に揺れる大分からは、おおいた市民オンブズマンが倫理条例の制定を求める活動について報告した。倫理条例は2種類あり、知事や副知事、教育長、県議の行動を律するものと、職員に対するもの(俗に「口利き条例」と言われている)である。大分県職員倫理条例案には次のように書かれている。
「職員は、違法な行為又は公正な職務の遂行を損なうおそれがある行為を求める要求(以下「不正な働きかけ」という。)を受けたときは、これを拒否するとともに、直ちに所属の部課長若しくはその他職員を管理監督する任にある者(以下「管理者」という。)又は第8条第1項に規定する倫理監督者に報告しなければならない」(第4条 職員の責務)
 これは議員や有力者による口利き≠ゥら職員を防衛する手段でもあり、多くはその内容を文書化することで公文書して残し、情報公開しようというもの。そうすることによって、議員らの行動は市民の目に曝され、検証されることになる。最も、そうした悪事を暴かれても平気な議員もいるし、そんな議員を議会に送り続ける支持者もいるから、議会改革は牛の歩みのように遅々としているのだが。
 ともあれ、全国のオンブズマンの活動によってお役所の隠蔽体質や、行政と議会の癒着が少しは晴れてきた。また地方自治体の、中央に従う地方≠フ面に対して、市民が担う自治≠フ面が拡大してきているのではないかと思う。さらに、私たちの自治体を目指したい。

千葉市を訪れて!
 来年の開催地は岡山ですが、オンブズの全国大会を巡って、行ったことのない街を歩くのが密かな楽しみになっている。千葉市はもちろん初めてで、東京駅から京葉線で「千葉みなと」駅まで行くのに、どこまで下りるのかと思うほど階段を下りた。これが大深度地下鉄というもののようだが、もし停電になったらどうなるのだろうと考えたら怖くなった。そんなことで怖がるようでは大都市は歩けないのだろうが、平気でいるのも何かおかしいのではないかとも思う。
 駅の隣にある「千葉みなと公園」の池のハスが綺麗だったが、舞妃蓮というハスが「美智子妃殿下の美しさになぞらえ」名付けられたとの表示があり、いっぺんにげんなりしてしまった。何という俗悪な命名、しかしこんなのが全国にごまんとあるのではないか。気を取り直してすぐ近くの海岸へ向かう。
 千葉港のシンボルで地上125メートルあるという「千葉ポートタワー」には入らず、砂浜あたりを少し歩いていたら大雨になってしまい、会場の「ホテルグリーンタワー千葉」まであわてて歩いて行った。まだ時間があったので、隣の「千葉ポートスクエア」にある「TEPCO地球館」にでも入ろうと思ったら、すでに閉鎖されていた。こういうのもわりとあるのだが、何だか侘しくなる。
 帰りは、折角だから総武線に乗ることにした。総武線「千葉」駅まではモノレールの下を歩けばよかったので、迷うことはなかった。モノレールは「千葉みなと」から「市役所前」を経て「千葉」へ、さらにその先もある。モノレールといえば私の妻の実家、姫路にその残骸がある。手柄山に遊園地ができたときに設置されたというが、アッという間に廃止になったようだ。千葉市はそういうことはないのか、よそごとながら心配になる。
 最近、交通渋滞によって駆逐された路面電車が見直され、車体や機能も改良されて再登場しつつある。地下鉄やモノレールは乗るのに上下移動があり、お年寄りや弱者にとって優しくない。費用対効果においても、厳しいものがある。仙台市などが地下鉄に何故こだわるのか、そこに利権がるのではないか。マイカーの乗り入れ規制と、路面電車などの公共交通機関の活用によって、街は歩きやすくて安全になるだろうに。
 
関さんの森を守れ!
 いまどき、道路計画のために私有地、それも貴重な森を「強制収用」して破壊しようなんて、何と愚かなことか。その愚かな松戸市の計画は次のようなものだ。
「松戸市の北部、常磐線の新松戸駅東側徒歩10分の、幸谷地区にある『関さんの森』は、樹齢100年を越す樹木が茂った屋敷林、梅林、関家の庭、子どもの広場、小さな農園で構成されており、子どもたちは四季折々に生きた自然とふれあい、高齢者や障がいを持つ人にとっても憩いの場所となっています。
関さんは、将来、この2・1ヘクタール(約6400坪)の里山をそっくり未来の子どもたちに贈りたいと願っています。しかし、貴重な自然資産といえるこの里山が、45年前に決まった都市計画道路3・3・7号線(市道)によって、いま分断されようとしています」(関さんの森エコミュージアム)
 そこまでしてまっすぐな道をつけることに、どれほどの意味があるのか。ひとえに車の通行のためだろうが、ほんの少し迂回すれば森を破壊することはないのに、そこにお役人の硬直した思考・行動をみることが出来る。しかし、こんな連中に権力を振り回されてはたまらない。時代は変わり目にある。直線3面張りの川が人命を奪う凶器となり、蛇行こそが真理であることを思い知らされる。まわりみちを楽しもう。 案内へ戻る


色鉛筆−「障がい者」も生きさせろ!

 「障害者自立支援法」が施行されて2年。実は「障がい者」の自立を阻む悪法であることは、すでに実証済みです。各地で起こっている「行政不服審査申し立て」の行動が、生きるための抗議の手段として報じられるのも、当然のことでしょう。今回、「不服申し立て」の結果を予想し、違憲訴訟を準備している弁護士さんのお話を聞きました。
 「障害者自立支援法」の下では、「障がい者」が生きるために必要な介助・医療・装具などに、それぞれ1割負担が課せられ、また介助の時間制限も加えられています。人として生きるための最低限のことに、なぜ「障がい者」だけが個人負担をさせられるのか?
 この当たり前の怒りから、一割負担の不当性を訴える訴訟が今準備中の集団訴訟です。
 弁護団の池田直樹さんは、障がいのある人の社会参加のために、社会の側が環境整備の義務を負うが、義務の範囲=合理的配慮義務をどこまで求めるのか。これがとても難しい問題と説明されました。本来は「他の障がいのない人と平等を基礎とした環境」を整備すべきと要求すべきですが、譲歩して範囲を安易に引き下げると、今後の運動に影響するだろうと。だから、「障がいのある人の施策はこの程度で良い」と言う考えは認められないし、持つべきでないと助言がありました。
 訴訟の具体的な動きですが、「障害者自立支援法の応益負担は憲法違反である」として、東京・大阪・京都など7都道府県の18人の障害者が、生存権を問う「全国一斉応益負担違憲訴訟」に、10月末に踏み切る計画です。地方レベルでの行動で、行政に1割負担の免除を求めていますが、認められないことが予想され、その対応がはっきりした段階で提訴に踏み切る予定です。
 会場での発言で、全盲の男性が外出にガイドヘルパーが常に必要だが、一ケ月に36時間しか認められない実情を話され、その結果、仲間の多くは月の後半は座敷牢と訴えられました。選挙に行くのにも1人で行けない、なぜ選挙に自己負担の有料のガイドを付けなくてはいけないのか。国で保障すべきことだと、怒りあらわでした。
 現実の生活で、困難な壁にぶつかった時に、諦めてしまうのではなく、どうしたら自分が納得した生活が出来るか、制度を改善する行動に出ようと、提起される弁護士の池田さん。全国で70名、関西で20名の弁護団を組織し、自らも、「障がい者」の相談窓口を開き、日々取り組まれる姿勢に共感を覚えました。裁判に注目したいと思います。(恵)

 ペパーミント・キャンディ寸評後記

 ペパーミント・キャンディの寸評を書いたあと、過去の回想が未来へつながるというのが、いかにもこしらえもので、いま≠ェないということが気がかりになった。未来なぞ見えっこない。今≠、なにやかやでやっと支えて生きている。
 よかったなあと、思う過去のヒトコマが未来をつくる原動力となりえるか。なるかも?しかし、私どもは物心ついた頃から戦争で、戦後は食い物だけを求めてあがいた。谷町4丁目のさいかくホールへ行くまでの小さな広場に、月毎に写真が展示される。その中の日本海≠題した写真で荒涼した日本海の海辺に、一匹の羊が草を食む写真。私どもの心象風景にピッタリの写真。
 心楽しい過去の記憶もなかったと言い切れないが、未来へ持ち越して描き直せる風景はあったであろうか。考え方によるのであろうか。おぞましくも苦々しく、辛く、しんどいものを、美しいものに描き直せる思惟の力によるものであろうか。いま≠支える一つの力が思惟の力であると思いたい。それが未来を準備する。
08.9.7 宮森津常子


アメリカの女性・熊谷直美 ---心を病むイラクからの女性帰還兵

 9月17日深夜TV(NHKスペシャル)で、母である女性兵士がイラクでであったこと。イラクの平和≠守るためと思い込んで、イラクでの戦争に巻き込まれていく。
 ニコニコとキャンデイをもらってくれたイラクのこどもが、自分に銃を向けた。命と命、私は私の命を選んだ≠ニ発砲。イラクの子どもを殺してしまったアメリカのお母さん兵士。彼女は自分の子どもと殺したイラクの子どもが重なり、平常心を保てなくなり、現在、帰還後、落ち着けず、病院にいる。
 母たること、無心に子どもに接すること、愛することが出来なくなってしまった母。家族から彼女を奪った戦争。生きながら。彼女に残された生活は直美のように祈る≠アとだけしかないのでは?(付記)ベトナム戦争で人を殺したと言うネルソンさんでも、助けてあげられないか。

 私も、たまたま同じTVを見ていました。現場で銃を使用せざるを得なかった女性兵士の心の傷は、彼女の生き方を大きく変えてしまうことになりました。体格もよく健康そのものに見える彼女が、心身の機能をコントロールできなくなってしまうとは・・・。登場してきた女性兵士に、もう一人、若い兵士を軍に従順させるために訓練する指揮官がいました。彼女も学校に通う子どもが2人いますが、これから1年間の任務になるイラク行きを子どもに伝えることを悩んでいました。1年間離れること、もしかしたら命を落とすかもしれない任務を、子どもにどう理解してもらうか、苦悩が続きます。しかし、指揮官の立場と現地で実践する若い兵士との立場の違いは、大きなものを感じさせられました。折口恵子 案内へ戻る


編集あれこれ
 全くひどいものです。総裁選の演者が熱くなるほどに、市民はさめた目になっています。大臣は無責任に好き勝手なことを言って、市民の不信を買っています。自民党の耐用期間が過ぎたことは本紙前号で論じられましたが、自民党政権の継続はいまや耐えがたい苦痛をこの社会にもたらしています。
 この9月に入ってからでも、農水省による汚染米の野放しが底知れない食の不安をもたらし、太田誠一農相と白須敏郎事務次官の辞任となりました。社会保険庁による年金記録の杜撰な管理は、ついに記録改ざんという立派な犯罪≠フ露見へと発展しています。そんななか、突如として舛添要一厚労相が後期高齢者医療制度の廃止を言い出しました。
 命脈の尽きた福田政権の閣僚がどうなろうと何を言おうと、もう世間は信用もしないのではないでしょうか。それにしても太田というような人物が代議士になり、大臣にまでなる、それが可能な自民党の破廉恥ぶりはどうでしょう。舛添の口先だけの人気取りも酷いもので、総括抜き、責任も曖昧なまま、混乱も置き去りで廃止≠ヘないでしょう。
 もっとも、汚染米の責任は業者に、年金問題の責任は社保庁職員にある、と言い逃れることも可能です。現にそう言っている関係者もいます。理念なき制度・政策にはそれにふさわしい実態が伴うというものです。
 これを追い落としにかかっている小沢民主党に期待できないことも、本紙前号は論じています。国替えや国民新党の取り込みなど、あれこれ試行錯誤をしているようです。期待できないことは確かであっても、反自民の政権交代による政策の実行、それこそ後期高齢医療制度の廃止も含め、破壊された雇用の再建等を迫っていくことが必要だと思います。  (晴)