ワーカーズ383号 2008年12月15日    案内へ戻る

 米国金融資本の崩壊、金融恐慌から世界的な恐慌に!

 米国は、ドル基軸体制と高金利を土台に世界の過剰資金をかき集め、その大量の資金を株や証券、為替や不動産に投資するマネーゲームで巨額の利潤を上げてきた。それが大量消費社会を支え繁栄を謳歌してきた。
 また、中国、日本などいった輸出大国は、その米国消費社会に支えられて経済成長を遂げてきた。この世界経済循環構造が、今度のサブプライムローンの金融危機で金融資本が崩壊し、「負の連鎖」構造になり世界経済に深刻な不況をもたらした。
 1929年の大恐慌の再来を恐れた各国政府は、「市場への政府介入は行うべきではない」という新自由主義の信条をかなぐり捨てて、中央銀行による公的資金投入によって金融機関を救済した。その額は、米国で25兆円、英仏独の3カ国で26兆円、日本で10兆円と言われている。
 この公的資金投入によって何とか金融機関の連鎖的倒産を防ぐことはできたが、世界の株価は低落したままで、ついに実体経済に不況の嵐(消費の減退・企業の倒産・失業者の増加など)が吹き始めている。
 米国産業の花形と言われてきた自動車ビック3の倒産危機は、まさに米国経済の破綻の広がりとその深刻さを象徴している。政府支援がなければ今年中に経営破綻の危険性があり、必要とされる融資金額は最終的には1250億ドル(約11兆円)になるとの試算も出ている。
 米国労働省の発表によると、失業者は9月〜11月だけで125万6千人、11月だけでは53万人も、74年の石油ショック以来34年ぶりの大幅悪化。米国の主要産業は大規模な人員削減を進めており、各社が今年公表した削減予定人数は11月末までに100万人を突破すると。
 日本においても、優良企業のトヨタやソニーなどが相次いで「工場休止」「人員削減」を発表。11月の企業倒産は前年同月比で5.2%増の1277件。上場企業の倒産は31社で、戦後最多だった02年の29件を上回った。
 人員の削減計画も、上場企業の4月〜11月末までのリストラ計画によると、正規社員約6614人が対象。非正規労働者も少なくとも3万人が解雇される。さらに、与党でも「03年に記録した過去最悪の完全失業率5.5%を超えて、100万人以上の失業者が発生する」と想定。
 この状況をマルクス的視点で「金融恐慌」と指摘する白川真澄氏は次のように述べる。
 「こうして巨額な投機マネーは、バブル経済とその崩壊による金融危機(それが雇用や消費という実体経済の減退を招く)を周期的に引き起こすことになった。それは、1987年のブラックマンデー(株価暴落)、1997年のアジア通貨危機、2007年のサブプライム危機と、10年に1回度発生している」。
 現代の「恐慌」(金融恐慌)はマルクスの時代のような古典的な過剰生産による恐慌ではないが、資本主義における「恐慌の原理」は決して古くはない。
世界はこれから「本当の危機」、世界恐慌に直面することになるだろう。我々はこの不条理な資本主義体制を変革する道しかない。(若島三郎)


 資本注入、時価会計見直し…、会計数値に振り回される経済 社会変革と企業会計を考える

 リーマンショックを契機に始まった世界不況が深化の一途をたどっている。金融部門ばかりか、実体経済にも影響が及び、世界経済は恐慌的な様相を呈し始めている。
 こうした中にあって、金融機関への資本注入の必要や、時価会計基準の見直しなどが叫ばれ始めている。資本主義的な企業の業績は、会計に端的に表される。会計の状態がどうあるかは、企業の生き死にを左右する。最近はとみに、時価会計主義や減損会計の導入、流行によって、企業の業績が極めて敏感に会計の数値の中に示されるようになった。
 金融機関への資本注入や、時価会計主義の見直しは、この会計に示される企業業績にテコ入れし、改善を図ろうという試みだ。金融機関への資本注入は、金融機関のバランスシートを「改善」させるための直接的な手法だ。時価会計主義の見直しは、企業が抱える金融資産や固定資産の数値上の評価額を、会計技術的に操作することで、企業業績の「改善」を試みようという方策だ。

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 しかし、現在の企業会計の手法は、そもそも企業の運営や業績というものを企業家自身にしろ行政機関にしろ、人々が人為的に操作することは不可能だということを前提にして案出されたものだ。市場経済の一般化を土台として、人々が経済過程を意識的にコントロールすることが出来なくなった社会、逆に経済の無政府的な動きが人々を支配するという物神崇拝がまかり通っているのが現在の社会だ。そしてその物神崇拝を完成させたものが、数値が一切を支配する現在の企業会計だ。ここでは人が数値=会計=企業の行動を管理しているのではなく、無政府的な市場経済がまずあって、それを映した企業会計の数値が、企業の行動と人々の運命を支配しているのだ。
 したがって、現在企業家や政治家が唱えている金融機関への資本注入も、時価会計主義の見直しも、現在の恐慌状態への手だてとしては本質的に無力である。関心が注がれなければならないのは、現在の私的所有制に基づく無政府的な市場経済自体であり、意を注いがなければならないのは、我々の社会がこの無政府的市場経済を克服し、乗り越えて行く可能性やそれを現実化するための筋道である。
 もっとも、そうした試みの一環として、これからの、そして将来の企業会計がどのようになっていくか、どのようなものでなければならないかを考えることは必要であり、有意義だと思われる。こうした立場から、現在の資本主義的な企業会計の限界、それが克服されていく方向について、考えてみたい。

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 現在の企業会計は、資産や負債などを「価格=貨幣額」として扱う。この方法は企業が利益を追求するものである限り合理的だ。しかし会計の基準・方法はそれだけか。「価格」でなく「物財」を基準とする方法は、社会主義の実験を見る限り疑問だ。では他に会計の基準となりえるものはないのか。
 会計は、企業の営利活動の管理、利害関係者への情報の提示などの役割を果たしている。その場合、会計は、企業が扱う財や冨の価値の量る基準として、価格=貨幣額を用いている。
 この方法は、企業が相互に独立した一個の経営体として存在し、競争しているる市場経済においては、合理的であるのだろう。営利企業の会計において、冨や物財が貨幣の量=価格に還元され、この価格を用いて記述と処理が行われているのは、企業というものが自分一身の利益を中心に行動する存在であること、つまり市場経済が主流となっていること不可分に結びついている。

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 しかし、その企業を含むところの諸企業の社会的な相互関係の総体、様々な影響を及ぼしあう諸企業の相互関係が最初から重視される経済システムの中では、必ずしも適切ではない。
 そのような経済システムとは、例えば協同組合企業、労働者が生産手段を占有する企業などが経済活動の主流となった場合の経済システムが考えられる。協同組合企業は、消費者と生産者との協同、企業経営における組合員参加と民主主義、安全な食品、環境問題の重視、社会の全体としての福祉の向上への貢献などを謳い、実際に企業を運営し、地域の社会問題などの解決にも乗り出している。もちろんすべての協同組合がそうした質を保持しているわけではないが、協同組合の理念に沿った活動をめざしている事業体は少なくない。
 こうした協同組合企業や労働者占有企業が、もし経済活動のメインストリームとなり、企業の活動の関心事が当該の企業の利益にだけ置かれるのではなく、諸企業間の活動の影響をあらかじめ考慮し、調整すること、また社会を構成する人々の消費生活や文化活動を豊かにする事への貢献などに置かれるならば、貨幣量=価格ではない何かが、企業活動を管理する基準として用いられるようになっても不思議ではない。それはやはり企業が社会に供給する物的な冨やサービスの量と質を計り、チェックできるものでなければならないが、貨幣量=価格がその任に最適であるとは思われない。

   ◆ ◆ ◆

 そこで、市場経済と価格=貨幣量を基準にすることに慣れた我々にはいささか突飛に聞こえるかも知れないが、労働時間を基準にする事は考えられないであろうか。ガソリンの価格も、豆腐の価格も、教育サービスの価格等々も、そうした物財やサービスを生み出すまでに必要であった労働時間の累計で、表示するのである。この場合、基準となるとは当然にその財を生産するのに社会的に標準的に必要とされる労働時間である。
 なぜ労働時間を基準とすることが可能かというと、それが個別企業にとっても、社会全体にとっても大きな関心事となっており、しかも実際に労働や生産をはじめ様々な活動が時間で計られるようになっているからである。労働時間は、社会的活動、経済的活動などを計る、客観的な基準としてすでに機能している。価格=貨幣量も社会全体から関心が持たれていないわけではないが、必然的な結びつきを持っているのはやはり社会から切り離されて存在する個別企業の利益との間である。逆に、諸企業の全体的な相互関係、社会全体の生産活動と消費活動の調整を重視する場合には、諸企業間、消費者と生産者間等々の「共通の言葉」である労働時間を基準にすることが適切であるように思える。労働時間は、いまは企業利益を増大させるという目的に従属させられた形で関心が払われているのだが、もし協同組合的企業や労働者占有企業が主流となる経済システムが前提にされるなら、それは企業会計の主役の地位につくことも出来るのではないだろうか。

   ◆ ◆ ◆

 労働時間を基準にすることは、かつてのソ連や東欧などでみられた「物財バランス」を重視した経済活動がもたらした諸問題――浪費、不効率、慢性的物不足、官僚主義、無責任等々――を招かなくてもすむという利点もある。かつてのソ連や東欧などでみられたそれらの諸問題は、価格ではなく物財の量を経済活動、企業活動の基準として重視したことと無関係ではないと思われる。価格を基準にした市場経済と会計は、そうした諸問題を解決するひとつの方法であったが、個々の企業の狭い利害を重視した経済活動を前提にしているために、別の深刻な諸問題――環境問題、格差・貧困、倒産やリストラ等々――を生み出している。
 労働時間を基準にする経済活動、会計活動の物質的、技術的諸条件は、コンピューターネットワークの発展やそれを活用した統計学や数学等々として日々発展し、充実しつつある。このことも、労働時間を基準にすることを有利にしているように思える。
 もし現在の市場経済に替えて協同組合企業などを中心とする経済システムが形成されるならばという仮定の上での話しではあるが、新しい会計活動の基準について考察してみた。いまは豊かさや貧しさが時間の所有ではかられる時代でもある。価格でもなく、物財の量でもなく、それらに代わる、新しい経済活動の基準、会計活動の基準が考えられても良いはずだ。      (阿部治正)案内へ戻る


 労働者は商品や道具ではない!――“労働一揆”を拡大しよう――

 雇用破壊が急速に拡がっている。
 米国のサブプライム危機に端を発する世界的な金融危機。いまでは製造業を巻き込んだ世界的な不況となって行き着く先さえ見通せない。そのしわ寄せは真っ先に労働者、とりわけ期間社員や派遣社員など生活基盤の弱い層に向かっている。が、事態は加速している。“第2のソニー・ショック”というかたちで早くも正規労働者の雇用をも奪う局面に至っている。
 こうした事態に、矢面に立たされた当事者を含む多くの労働者が行動に立ち上がっている。私たちも全力でそうした人たちを支援し、さらに労働者をもの扱いする企業・経営に対して労働攻勢を強めていきたい。
■拡がる雇用破壊
 米国のグリーンスパン前FRB(連邦準備制度理事会)議長が“100年に一度の危機”だと表現した今回の世界的な不況。すでに米国のビッグ・スリーが経営危機に直面し、日本のトヨタが大幅な減産、減益に直面するなど、実体経済をも巻き込んだ世界同時不況の様相を日々深めている。
 こうした世界同時不況の深まりは、早くも雇用破壊となって労働者に降りかかっている。
 日本でも成長の象徴とされたトヨタ自動車をはじめとする自動車産業だけでも、今年度中に1万人以上の期間労働者などの人員削減が打ち出されている。
 それに新卒者の“内定取り消し”も多数明らかになっている。採用“内定”は雇用契約に準じたものであり、一方的な内定取り消しは違法行為だ。にもかかわらず企業の中には、人件費削減という目的だけで内定取り消しを行っているケースも多い。なかには一定の金額を手切れ金として渡して内定取り消しを押しつける企業もあるといわれる。
 こうした行為は、労働者の雇用を単に企業利益の手段視するばかりでなく、労働者を人ともみないモノ扱いする企業というほかはない。企業名を公開させるなど、労働者社会の批判を集中させる必要がある。
 人員削減の動きはすでに金融・電機・建設や他の輸出産業にも波及し、すでに厚労省が集計しているものだけでも期間労働者や派遣労働者を中心に年度内に3万人以上の労働者が職を失う見込みだという。今月9日には、あのソニーが正規労働者8000人を含む16000人の人員削減を発表している。実態としては10万人規模の雇用が奪われるのではないかと危惧されている。金融危機から始まった世界的な不況の拡大は、早くも新たな雇用破壊をもたらしている。
■労働は商品や道具ではない
 それにしても経営不振からストレートに首切りに突き進む企業の冷酷な姿勢は許せない。
 輸出産業を中心としてこの6〜7年続いた景気回復期には企業利益は過去最高を更新し続け、株主優先の経営方式によって株主への配当は増えた。が、労働者の賃金は現状維持に押さえられるか引き下げられてきた。
 不況の拡がりの中、減産と営業利益の縮小を見込んだとはいっても、これまでにため込んだ利益もある。それらをはき出すことも必要だろうし、あるいは首切りではなく労働時間の短縮による雇用の維持も選択肢になるはずだ。経営不振を招いた責任をとって辞任したという企業経営者の話はほとんど聞かない。それをとにかく減産と人員整理で乗り切ろうという企業と経営者の発想は、労働者の労働と生活を何とも思わない、労働者を人間扱いしない、むしろ企業利益のための道具扱いするものだ。
 人を人とも思わない企業の姿勢を前にするとき、労働者は生身の人間である、労働者をもの扱いするな、というあの『フィラデルフィア宣言』を思い出さずにはいられない。その『宣言』とは、1944年に開催された国際労働機関のフィラデルフィア会議で採択されたもので、ILOの目的および原則として次の4項目を掲げた。
 (a) 労働は、商品ではない。
 (b) 表現及び結社の自由は、不断の進歩のために欠くことができない。
 (c) 一部の貧困は、全体の繁栄にとって危険である。
 (d) 欠乏に対する戦は、各国内における不屈の勇気をもって、且つ、労働者及び使用者の代表者が、政府の代表者と同等の地位において、……遂行することを要する。
 いま、人員削減の対象とされた期間労働者や派遣労働者の中で反転攻勢の決起が拡がっている。その中では自分たちをもの扱いする企業への怒りと人間としての誇りを取り戻そうとする熱い思いも貫かれている。そうした思いは、まさに64年前のあの『宣言』の精神と共通のものである。
■人員削減と長時間労働
 この12月には経団連や連合の来春闘の方針が正式に打ち出される。
 連合はこのところの物価上昇を背景に5年ぶりにベースアップを要求することにしている。当然のことだろう。労働者の賃金は、本来は企業の利益が増えても減っても維持されるべき、生活費としての変数として確保されるべきものだ。物価が上がって生活費が増えれば、当然賃金の引き上げを要求すべきものだ。
 ところが連合の構成単産の中には、今回の不況を前にして早くもベース・アップ要求を断念したところもある。いつもながら企業が受け入れ可能な範囲の要求に甘んじている、あるいは経営者の意を汲んだ御用組合の卑屈な態度にあきれるほかはない。こうした態度では、非正規労働者を踏み台にして自分たち正規労働者だけの雇用にしがみついていると批判されても仕方がない。
 09年春闘についてはここでは立ち入れない。が、一言だけ言うとすれば、いまこそ“使い捨て労働者と長時間労働者の併存状況”の打破を正面に掲げるべきだと思う。キーワードは“均等待遇”と“ワークシェアリング”だ。
 いま急速に拡がっている非正規労働者を中心とした人員削減は、その背後にサービス残業を含む長時間労働が横たわっている。“名ばかり管理者”の悲惨な労働実態が次々と暴かれたのは今年のことだった。そうした事例は現在の日本の企業世界では例外といえるものではない。多くの企業・職場ではいまでも長時間残業がまかり通り、隠された長時間のサービス残業も蔓延している。
 一方における首切りと他方での長時間労働。こうしたことが同時に、あるいは隣り合わせに存在するのは労働現場が無法状態におかれているからだ。
 なぜそうなってしまうのだろうか。それは企業の利益最優先、労働者をモノ扱いする企業経営を許してしまうような法律的な規制が弱いこと、それに労働者の団結と闘いを武器とした規制力が弱いからだ。法律的な規制も結局は労働者の闘いの大きさに左右されると考えれば、結局は労働者自身の闘い如何にかかっている。
 具体的にみれば、人員削減の現場と長時間労働の現場が別の場合も多い。だから一人の労働者の目だけでは、実態や解決方法を発見することは困難だ。結局は、労働組合や労働者集団の取り組みをどれだけ拡げていけるかが鍵となる。
■“労働一揆”を拡げよう!
 労働者による企業への規制力を強化し、人員削減や長時間労働を是正していく闘いは、本来は一対のものだ。この年末から来春の年度末までの闘いは緊急なものだから、直接には政策や行政を対象とした闘いにならざるを得ない。たとえば解雇者が会社の寮に残れるような補助金支給など、政府や行政も不況対策の一環として雇用対策に乗り出している。
 しかし、そうした雇用対策だけではまったく不十分だ。何よりも雇用破壊の当事者は個々の私企業だからだ。中長期的には、労働者による規制力の強化なしに長時間労働と雇用破壊はなくすことは困難で、何回でも繰り返すだけだ。
 いま、期間労働者や派遣労働者の当事者による様々な行動が拡がっている。契約期間前の突然の解雇通告に対して、組合を結成しての団交要求や雇用維持を求める訴訟など、各地での抵抗運動が始まっている。集会を開催してのアピールも行われている。
 当面は、“労働一揆”ともいえるようなこうした個々の反乱や行動を拡げていくところから始めていく以外にない。それが長労働時間と雇用破壊という労働者の押し込められている状況に風穴を開けるだろう。(廣)


 「東京裁判史観」をくつがえせ!  日本帝国主義の自立のイデオロギーについて      北山 峻

(1)「東京裁判史観」をくつがえせ!「正論名古屋懇話会」の発足

11月7日、名古屋市西区にあるウエスティン・ナゴヤ・キャッスルで、「正論名古屋懇話会」の発会式が行われ、この間、自立を目指す日本帝国主義のイデオローグの一人である渡部昇一が講演を行ったと、11月8日付けの産経新聞はその一面で報道しています。
渡部はその講演の中で、東条英機をはじめとしたかつての日本帝国主義の頭目を死刑にした「連合国」による東京裁判は、国際法から見てもなんらの正当性もないものであるとしてこれを断罪し、この「東京裁判史観」から脱却することを訴えました。
また渡部は、日本によるアジア侵略を謝罪したいわゆる「村山談話」を、なんらの根拠もないものとしてこれを破棄すべきであるとも述べました。
これらの主張そのものは、この三十数年来、「自虐史観に反対する」などと称して「新しい日本史」の教科書などを編集発行してきた学者たちや、石原慎太郎・古賀誠・安部晋三・中川昭一・平沼赳夫・麻生太郎などの「日本会議」に結集する右翼的政治家・宗教家・学者・文化人たちの反動的な主張の繰り返しであって、なんら目新しいものではありません。しかし、この記事に私が注目したのは、この記事の最後のところに書かれているこの会の代表幹事についてです。
この会の代表幹事は、中部電力会長の川口文夫、名古屋鉄道会長の木村操、トヨタ自動車会長の張富士夫の三氏だというのです。中部電力も名鉄も中部経済界を代表する巨大企業ですが、それにも増して、アメリカのビッグスリーの没落の中で世界最大の自動車会社となった「世界のトヨタ」の会長が今、公然と姿を現した意味は大きいでしょう。
産経新聞と雑誌「正論」はこの間全国で「正論懇話会」を組織し、下から着々と世論形成を行っています。名古屋懇話会は、大阪・京都・九州・愛媛・奈良・和歌山・群馬・千葉・仙台などについで十番目だそうですが、しかしこの名古屋懇話会の結成は、今までとは段階を画して、中部経済界の頭目のみならず事実上日本経済界の中枢が、公然とこのイデオロギーを担いで姿を現したことを意味しているでしょう。

(2)何故今なのか?劇的なアメリカの衰退・EUの混乱と新興国の台頭

日本経済界は今までも陰に陽にこれらの反動的イデオロギーを支援し、財政的にもこれを支えてきたことは広く知られています。しかし、一方で、戦後世界の枠組みを作ったルーズベルト・チャーチル・スターリンによる「ヤルタ会談」とそれに基づく米・英・ソの三大国による世界の分割支配体制(ヤルタ体制)、さらにその具体化としてのサンフランシスコ平和条約と日米安保条約に基づく日米安保体制に対し、これに異議を唱えることは日本の政財界にとっては長い間禁句でした。
なぜならば、日本はこの「安保体制」の下で、圧倒的な経済力・軍事力によって戦後世界に君臨したアメリカの世界戦略に従ってアメリカのアジアにおける前進基地となり、その巨大な権力の庇護下に入ることによって逆に急速な戦後復興を成し遂げ、エネルギーや食糧までをもアメリカに依存するという極めて奇形的な形ではありますがそれでも世界第2位(現在は米・中に次いで3位)の経済大国へと成長してきたからでした。
だから、吉田茂以来、「安保体制」というはっきりしたアメリカの従属国の立場を選択した中で、日本の支配階級は文字通り「臥薪嘗胆」の心を抱き「悔しさ」をジッとこらえて経済の拡大と巨大独占体の形成に奔走したのでした。経済は一流だが政治は二流であると内外で揶揄され続けながら。
しかし、世界の憲兵として世界中で民衆の解放運動に敵対し、間断なく局地的で謀略的な軍事行動や戦争を繰り広げてきたアメリカも、十数年に及ぶベトナムでの戦争に敗北し、欧米や日本の資本主義の復活によってその工業生産力における優位を崩され、更に産油国の反逆によって1985年にはついに貯金は底をついて債務国に転落し、その後は軍事・金融・情報を中心として世界支配を維持しようとしながら腐敗した寄生的国家へと急速に転落していきました。
更に1991年、アメリカと共に世界を分割支配してきたソ連が解体する中で、ソ連圏との対峙の中で、それまでアメリカの指揮の下に甘んじていたヨーロッパも、フランスとドイツの軍事・政治同盟を基軸に独自のヨーロッパ帝国主義・EUとして台頭し、ドルに対抗する世界通貨としてのユーロを創設しました。
そして今年、軍事と石油とドルに頼って横暴の限りを尽くしていたアメリカは、自らがドル紙幣の大乱発によって作り出した巨大な仮想金融に振り回される形でデッドロックに激突し、金融・証券業全体が破産するような深刻な金融恐慌に陥っています。
これと共に、アメリカに対抗する形でアメリカと似た形の金融・情報社会を形成してきたEUもかなりガタガタになりつつあります。
劇的なアメリカの衰退・その力の弱まりは誰の目にも明らかです。
一方で、アジアではかつての超大国中国とインドが急速な経済成長によって復活し、またそれと結びついたアセアン十カ国の経済成長ともあいまって、アジアは世界最大の工業地帯として台頭してきています。またブラジルを中心にしたラテンアメリカや、イランや産油国などの中東諸国も力をつけています。
日本の支配階級は、このアメリカの弱体化と欧州の混乱そして新興国の台頭という今の状況こそ、自立へのチャンス、臥薪嘗胆して長年にわたって待ちに待ったまたとない絶好の機会であると考えているのでしょう。だからこそ今までは陰に隠れていたトヨタなども公然と表に現れ始めたのでしょう。
かつて、中国に入れ込んでアメリカを怒らせた田中角栄が、アメリカの逆鱗に触れて投獄されてから30余年を経て、今では青息吐息の惨状を呈しているアメリカには、もはやかつてのような力はないと彼らは考えているのでしょう。だが、事はそう簡単ではないのではないか?アメリカはそうやすやすと引き下がることはないだろう。長年にわたって飼いならされた飼い犬の習性で、この期に及んでも一方では彼らの心の中は疑心暗鬼でいっぱいになるのです。だから、彼らは、一方では田母神論文に見られるように、おっかなびっくりで、引け腰になりながらその論を展開しているのです。

(3)引け腰の田母神論文と国会と政府

航空自衛隊(つまり空軍)の田母神航空幕僚長の論文にははっきりした特徴があります。それは彼の論文が、アジアへの謝罪を表明した「村山談話」には公然と噛み付いて戦前の日本帝国主義の侵略戦争を正当化する一方で、アメリカのルーズベルト大統領や中国の蒋介石総統に対してはこれを直接非難せず、彼らはいずれもコミンテルン(国際共産党)のスパイ達によって政策を誤らせられたのだとして、一貫してその矛先をコミンテルンに向けていることです。しかし、これはこれでルーズベルトも蒋介石もスパイに踊らされて正しい判断ができなかった一種の「馬鹿者」扱いされているわけですから、見方によっては彼らに対する相当の悪罵ですが、しかし直接に非難はしてはいないのです。これは田母神達にとっては今の状況の中での精一杯の表現であったのでしょう。このアメリカに対する無残なへっぴり腰の姿たるや、巨大な敵に震えながらも懸命にほえている哀れなスピッツと言うところでしょう。
これに対する内外からの厳しい反響に驚いた日本政府は、即座に田母神を更迭し7000万円と言う巨額の退職金を払って円満退職させてお茶を濁してしまいました。また国会やマスコミも同様で、形ばかりの証人喚問でうやむやにしてしまいました。安部や中川・麻生などの自民党は言うに及ばず前原誠司や藤井裕久・松原仁などの30人もの日本会議会員を抱える民主党にしても、自民・民主両党にまたがる「松下政経塾」出身議員や無所属の平沼などもこぞって田母神と同じ穴のムジナなのですから、彼を追及することなど全くできないのは当然です。ムジナをタヌキが裁いているのですから、「この金でしばらく身を隠していろ」というわけです。
しかし、この田母神論文が、この時期に、日本の軍隊の中枢で発表されたとことの意味は決して小さなことではないでしょう。
これは、もしこれ以上アメリカが弱体化しアジアが混乱するときには、それに代わって日本が、そして軍部が、再び日本でもアジアでも独自に軍事力を発揮しなければならないという危険な決意とも読めるからです。この二十一世紀の日本軍国主義の侵略的イデオロギーが、再び東條英機の亡霊を持ち出している姿は誠に悲惨なものでしかありませんが、しかしそれが「日本会議」を中心として現実に軍隊の中枢にまで浸透しているイデオロギーであり、それがかつての二・二六事件のように時と場合によっては軍人のクーデターにまで発展する恐れがあるとすれば、われわれとしても無視するにはいかないでしょう。
公然とは誰も述べてはいませんが、日本はアメリカにタガをはめられながらも戦後一貫して、核燃料の再処理利用と称して長期にわたって大量のプルトニュウムを蓄積しいつでも原爆製造に入れる準備をしてきたと共に、またいつでもICBM(大陸間弾道弾)に転用できる世界最大級のロケットであるH2を独自に開発して来ており、戦艦の建造から航空機の独自開発まで、アメリカの衰退の時には再び独自の軍事大国として自立しようとして着々と準備して来ているのです。
これと併せて考えるならば、今回の田母神論文の意味は、「日本はいつでも自立した帝国主義として頭をもたげられます」という自信の表現でもあるのでしょう。

(4)二十一世紀における日本帝国主義のイデオロギーの主流

しかし私が思うに、この産経新聞や「正論」や日本会議や田母神達の復古的なイデオロギーは、二十一世紀における日本帝国主義のイデオロギーの主流にはならないでしょう。
なぜならば、あれほどの悲惨な戦争を体験させられた日本やアジアの民衆は、東条英機の亡霊の再登場などを決して許さないからです。
では、どのようなイデオロギーが二十一世紀の日本イデオロギーの主流になるのでしょう。それは、「平和憲法」を錦の御旗にして、一方でアジアに対する謝罪と平和を口にしながら、他方でアジアの資源や市場や労働力を組織し、「ぺジャワール会」などに代表されるNGOなども最大限活用しながら、最大限の利潤を追求し続ける、そのようなイデオロギーであるでしょう。
これを代表するのは、筑紫哲也のTBSの「ニュース23」などにもたびたび出演し、「週間金曜日」にもたびたび投稿している三井住友財閥のシンクタンクである三井物産戦略研究所所長で三井物産常務執行役員・日本総合研究所の会長である寺島実郎や、かつての大蔵省国際金融局長・財務官で「ミスター円」と呼ばれた、現早稲田大学教授の榊原英資などに代表されるイデオロギーでしょう。
今も日本の巨大独占資本の中枢で活動している彼らは、日本会議に代表される復古的な日本主義のイデオロギーとは鋭く対立するように見えながらも、実際はこれと相互に補完する形で、われらこそが本流と自負しながら本格的な日本資本主義の延命と繁栄策を考え、世界に張り巡らされた巨大独占体の組織を通じて日々着々と実行しているのです。
膨大な情報を手にしているために、彼らの分析は相当に的確であり、時によってはわれわれよりも迅速・正確でさえあります。
しかしそれこそが「オバマ」なのでしょう。
戦後最大の危機の中で、熱狂的な「民衆」の支持の中、アメリカ帝国主義の新しい救世主のごとくにオバマが登場したように、資本主義世界全体の危機の深化の中で、いっときの「小泉ブーム」のように様々な妖怪変化が「かつ消えかつ現れる」そのような舞台回しが彼らによって準備され、遠からず日本にも訪れることでしょう。しかしそれが新たな侵略、新たな戦争への一歩とならぬように、我々は十分注意しておかねばなりません。
いずれにしても我々は、この世界全体が激変し世界全体が大きく転回する時代だからこそ、田母神や「正論」や「日本会議」などのきわめて反動的な論調を糾弾し一掃すると共に、一方で寺島や榊原などの「平和憲法・平和共存・平等互恵」などの羊の皮をかぶった狼のイデオロギーにも十分な注意を払っていく必要があるでしょう。(了)
2008年11月20日案内へ戻る


 コラムの窓 社会の目標は「脱石油」と「脱脂肪」?

 最近どうも「地球温暖化対策」と「メタボリックシンドローム対策」とが、重なり合った課題に思えてしかたがない。
 なにしろ、どちらも「油の使い過ぎ」という共通項がある。片や「石油エネルギー浪費型」の生産と消費のあり方が、片や「コレステロールの過剰な摂取・蓄積」をもたらすストレスフルな労働と生活のあり方が、それぞれ問われている。
 どちらも、行政主導で「削減目標」が設定される。「温暖化」の方は、二酸化炭素の排出削減目標が決められ、省エネルギー型の生産設備や家電製品に切り替えたり、二酸化炭素を出さない風力や太陽光などの代替エネルギーに転換し、二酸化炭素を吸収してくれる森林を増やすため植林を奨励する。
 「メタボ」の方も、血中コレステロール値等の削減目標が設定され、食事の摂取カロリーを制限し、運動により消費カロリーを高めるよう、医師による指導や健康診断機関、健保組合による対策の奨励が行われる。
 産業革命に始まり、戦後の高度成長を通じて確立した「大量生産・大量消費・大量廃棄」の文明のあり方が、一方では地球環境を破壊し、他方では個々の人間の健康を破壊しつつある。その意味では「環境」と「健康」はメダルの裏表なのかもしれない。
 この両者は、「食のあり方」という接点でも結びついている。最近「スローフード」という考え方がイタリアから世界に広がりつつある。ストレス社会の中で、時間に追われながら手早く食べてしまうマクドナルドなどの「ファストフード」が健康にも悪く、地域の食文化も破壊しているという反省から、地元の旬の野菜や魚を、ゆっくり味わって食べるように心がけた方がいい、というのだ。
 動物性脂肪や炭水化物の取りすぎが、メタボリックシンドロームをもたらしているとするなら、野菜や魚を素材を重視してゆっくり食べることの大切さが再評価されているのは理に適っている。それだけではない、「地元の」「旬の」というところが、エネルギー浪費型の農業に反省を迫っている。例えば、ナス、きゅうり、トマトなどの「夏野菜」が、今は冬でも当り前のようにスーパーの店頭に並んでいるが、それは石油を大量に使うハウス栽培を前提にしている。旬の冬野菜を中心にすれば、それだけ石油を使わなくてすむ。
 また、価格の安い中国産の椎茸など消費することで、実は野菜の輸送にガソリンや重油を使っていると指摘されている。近隣の山間部で採れた椎茸を秋と春の旬に食べることは、価格は多少割高でも石油を使わなくてすむ。
 「地産地消」の奨励は、単に地元の農業振興策にとどまらず、石油浪費型の農業や食品流通のあり方を見直し、勤労者の食生活を健全化する、より広い意義があるといえる。
 とはいっても、学校給食で中国産の素材から地元産に切りかえれば、給食にかかる費用は割高になる。食に限らず、環境対策もメタボ対策も、しばしば社会的費用をかけることを必要とする。だが、どこの自治体も財政危機で「無い袖は振れない」状況だ。
 おりしも、アメリカの住宅バブルが引き金になった金融危機は、瞬く間に世界同時不況に発展し、各国の政府はあわてて財政出動に走り始めた。日本の浅生内閣も、「8兆円の真水」と「25兆円の事業規模」の第一次補正予算を組んだが、その中身は「2兆円の給付金」を含むバラマキでしかない。
 どうせ財政出動を行なうなら、その場しのぎのカンフル注射に終わらせず、将来を見越して、産業構造をエネルギー浪費型から転換し、農林漁業を地産地消型に転換し、労働時間を短縮し格差を是正する雇用政策に転換するなど、新しい時代の要請にそった内容にすべきではないか?
 その意味では、環境派の市民団体などが主張する「グリーン・ニューディール」は、一考に値するように思う。(誠)


 もんじゅを廃炉へ!  12・6現地集会報告

 12月6日、福井県敦賀市において「もんじゅを廃炉へ! 全国集会」が開催された。昼の時間をはさんで、前半はもんじゅの全貌が見渡せる白木海岸での屋外集会、後半は市民文化センターでの屋内集会だった。雨のあとの冷え込みが気にかかったが、吹雪のなかでの集会・デモにならずにほっとした。
 とはいえ、見慣れない日本海の冬の荒波は寒々しく、そんなところでサーフィンをしているのが車窓から見えたが、驚くよりあきれてしまう。翌日の新聞には、富山方面でサーファーが行方不明になったという記事があり、後ほど無事が確認されたようだが、まるで自殺行為だ。もちろん、その無謀さはもんじゅ運転再開とは質が異なり、かわいいものだと言えばそれはそうなのだが。
 白木海岸での集会は強風に幟旗がはためき、遥かに望むもんじゅには時折波頭がたった。さすがに、挨拶などは短時間で終了し、日本原子力研究開発機構への申し入れのため隊列を組んでもんじゅのゲート前への移動となった。閉鎖されたゲートの前で「抗議文」の読み上げが行われ、午後からの集会に向けて移動となった。
 ちなみに、このときの結集は主催者発表で800名だったが、警察が850名としたので、結局参加者は850名ということになった。当日、白木海岸への道路は警察が封鎖し検問を行っていたので、警察が把握した数字のほうが正確だったと思うが、主催者発表がこんなふうに変更されることはこれまでなかったのではないか。それでも、以前はもっと大きな結集だったということで、重要な時期にさしかかっているのに気になるところだ。
 午後の集会では、もんじゅ運転再開や原発推進の危険性が余すところなく示された。その内容は、@もんじゅ監視委員会・小林圭二氏「なぜ動かす?原型炉の役割失ったもんじゅ」、A同委員会・山内知也氏「もんじゅは直下活断層の直撃に耐えられるか」、B原発反対福井県民会議・小木曽美和子氏「決めたことが守れない原子力機構の安全・安心文化」、C原子力資料情報室・伴英幸氏「拡がるプルトニウム輸送の危険」、D青森核燃料阻止1万人訴訟・山田清彦氏「トラブル続きの六ヶ所再処理工場」など。

 @では、原子力機構側が宣伝している諸外国での高速増殖炉開発というのは、すべてウソだということが明らかにされた。その大方は核汚染された廃棄物の焼却が目的であったり、濃縮ウランを燃料とする高速炉≠ノ過ぎないということだ。いずれにしても、もんじゅは費用がかかりすぎて、ここから実証炉を経て実用できる高速増殖炉誕生とはならない以上、運転再開の意味は全くない。また、経費削減ということになればより危険な設計による実証炉建設となるほかなく、完全に袋小路に入っている。
 Aでは活断層カッター≠ニいう、聞きなれない言葉が登場した。都合の悪い活断層は連続性のない短いものにしてしまう御用学者のおかげで、地震大国日本にこんなにも多くの原発建設が可能になったことが指摘された。国は「活断層の上には原発は建設しない」と言ってきたが、今では「活断層の上≠ニは、原発の設置地盤表面上に表れている地点の直上のことを指す」と言い換えている。その姑息さには呆れるばかりだ。
 Bでは、もんじゅ運転再開に向けた総点検後に、ナトリウム漏洩検知器の誤警報が続発していること、自治体や消防署への通報が遅れていることなどが指摘された。これは、検知器を総点検の対象からはずしていたことが何より問題であり、「誤報の通報連絡は不要」と勝手に判断していたことも問題である。動力炉核燃料開発事業団から核燃料サイクル研究開発機構へ、さらに現在の日本原子力研究開発機構へと名前は変わったが、もんじゅナトリウム火災を起こした動燃≠フ無責任でデタラメな組織体質は何一つ変わっていない。それは、情報は外に出さない、隠す、外部の批判は受け付けない等、この国の官僚に共通するものであるが。
 Cでは、法改正によって核燃料輸送については事前、事後共に情報は公開しないことになってしまったが、その動きを把握してきたということだ。もんじゅの燃料は古くて役に立たないので、運転再開に向けて輸送が必要であり、運転再開が遅れるほどに搬送量も増えるということだ。輸送は東海再処理工場内にあるもんじゅ燃料製造施設から陸路で、一般道、常磐道、首都高速、東名高速、北陸道、一般道で敦賀現地へというもの。一度にプルトニウムを200キロから300キロ程度、この経路で秘密裏に♂^ぶのだが、輸送中に火災を伴なう事故を起こしたらどうなるのか、考えただけでも恐ろしい。
 Dでは、核施設がもたらす補助金≠ヨの依存から、「核半島化する下北」の現状が紹介された。六ヶ所使用済み核燃料再処理工場の本格稼動に向けて、青森県知事はメンテナンス作業の人集めをしているが、これは最も被曝の危険性がある作業に地元の人々が駆り出されることになる。その再処理工場の危険性を貯蔵プールの漏水が象徴していると指摘された。溶接技術者が足りないくてズサンな溶接が行われてきたのが原因であり、問題はプールだけにあるのではないこと、本格的に動き出したら大変なことになるだろう。

 1995年は実に禍々しい年であった。年始めの1月17日、阪神淡路大震災が起こり、我が家族は非日常へとほり出された。娘が通っていた高校の運動場には亀裂が走り、その先の校舎は座屈した。地面というものがどれほど脆いか見せつけられたが、地表であれ地下であれ活断層は地層を切り裂き、その上にある建造物はいとも簡単に破壊される。活断層カッター≠フ罪は深い。
 そしてその年の瀬の12月8日、もんじゅのナトリウム漏洩による火災が発生した。この種の火災はすでに各国で経験済みであり、小林圭二氏は次のように指摘している。
「ナトリウムは冷却材ですから、もんじゅでも一次と二次あわせ約1600トンも使います。軽水炉の水がそうであるように、ナトリウムの漏洩は、高速増殖炉では日常的と言っていいほど頻繁に発生します。水と違って燃えるナトリウムは、その都度火災事故に発展します。もんじゅ事故後の調査によると、世界で過去、英国で27件、フランスで28件、ドイツで22件、旧ソ連61件と、米国を除いても138件の発生が確認されています」(11月16日「もんじゅを廃炉に!関西集会」)
 当時の動燃の体質を示すものとして、「もんじゅ・西村裁判」がある。動燃総務部次長だった西村成生氏は、動燃本社のもんじゅ事故ビデオ隠しの社内調査にかかわり、翌年1月12日の記者会見に出席後死亡≠オた。宿泊先のホテルでの飛び降り自殺とされているが、多くの疑問点があり、2004年に遺族が機構に対して損害賠償を求める裁判を起こしたもである。
 来年2月、13年間も停止していたもんじゅの運転再開と、六ヶ所再処理工場の本格稼動が開始されようとしている。これを止め、地球環境と調和した持続可能なエネルギー政策の大転換をはからなければ、この国の未来はないだろう。なお付け加えればこの年3月、かの「地下鉄サリン事件」が発生している。いずれの事態も、再び経験したくないものである。       (折口晴夫)案内へ戻る
 

 非正規雇用を廃止しよう!

11月25日付読売新聞の朝刊に、「遠い正社員 派遣さえ恵まれず」という記事が載っていた。記事によると、36歳の女性は今年の4月に派遣社員の契約が満了となり、そこから求職活動を続けている。この女性は今まで派遣や契約社員を続けてきて、年収が250万円を超えたことは一度もなかったそうである。貯蓄残高は2万円。
 年収250万円では、生活はかなりきついであろうし休日を利用して遊びにいったり、たとえば何か資格試験の勉強をしたりの余分なお金がかかることはできないであろう。
 私が働く郵政グループでも約20万人もの非正規社員が働いている。契約期間は6か月の有期雇用である。年収も200万円を超える人はそう多くはないようである。生活は、大変厳しい。その上、いつクビになるかわからない状況である。
このような困難な状況の中、10月29日に兵庫県の郵便事業株式会社長田支店で「日本郵便非正規ユニオン」が結成された。名の通り非正規社員だけの労働組合である。自分たちの労働条件は自分たちで勝ち取るということであろう。共に連帯していきたい。 (郵便労働者)       

 ベットの中から

 脳梗塞と歩行困難のため、ベットですごすことが多くなった今日、この頃、TVで巷の様子を伺う仕儀となった。老老介護の悲劇と取り組む夕張市の若い医師たちの試みの紹介に、希望の光を見る思い。年金や社会保障の問題をおっぽらかしといて、なおも中身のないパフォーマンスに明け暮れる政治不在のこの国のありように、殺人的な悪意を感じとらざるを得ない。
 数年前、社会保障を犠牲にするならば、安楽死を認めよという一文を、ある週刊誌に投書したことがあったのを思い出す。毎日新聞だったと思うが、世界の安楽死状況を連載してくれたと記憶するが、老老介護の残酷さを目の前にして、生きる≠ノは精神だけみがいてもムリというもの。ブチ切れ寸前。 08・11・29  宮森常子


 色鉛筆 前代未聞ーー保育園閉鎖!!ーー

 11月1日、「保育園閉鎖」というニュースが流れた。保育園が突然なくなるということは今までに聞いたことがないので信じられなかった。新聞記事によると、東京都豊島区保育事業者「エムケイグループ」の経営難で、20以上の「ハッピースマイル」保育園が一斉に閉鎖されたという。保護者達に10月30日の夜10時過ぎ、保育園から突然電話が入り「会社の経営が行き詰まり、明日いっぱいで保育園を閉鎖します」と言われ、訳が分からず驚き、子どもはどうすればいいのか不安になり、眠れない夜を過ごしたことが書かれていた。なんということだろう、あまりにもひどい。 
 思い出してみると、自民党最悪の小泉政権のもとで行われた規制緩和政策により、保育園の運営を公営か社会福祉法人に限定しないで、企業参入の解禁がなされ、企業が保育事業をできるようになってしまったのだ。当時私は、この色鉛筆に「利益のみ追求する企業では、保育士の労働条件だけでなく、子ども達の環境も劣悪になることは目に見えている」と書いたが、現実にそれ以上のことが起こってしまった。今回のエムケイグループも03年から保育事業に参入、保育園や学童保育所を東京・埼玉・神奈川・兵庫で29ヶ所運営していた。開設資金の借り入れがかさみ、本来のOA機械器販売業がふるわず、資金繰りが悪化して10月31日付けで事業を停止したという。企業が保育事業をやるということが根本的に間違っている。ところが、政府自民党は、現在の公的保育制度(国や自治体の責任で必要な保育を実施するしくみ)を切りくずし、保育の公的責任を縮小することを目的として、企業参入の解禁ばかりではなく、公立保育園の民営化の推進・保育園の定員超過入園・保育士配置の弾力化などの規制緩和をすすめているのだ。
 さらに驚くことに、このエムケイグループの保育園に自治体が補助金を出していることだ。川崎市は4園を運営するエムケイグループに施設整備費を含めて約1億1300万円、東京都中野区は1園に半年分の運営費約1500万円、さいたま市は2園に約850万円を補助していたという。またまたなんということだろう。厚生労働省は認可の審査基準として「財務内容が適正」と示して、「適正」とは直近の3年間赤字ではないということだけで、審査は自治体にゆだねられ、エムケイグループの財務審査に企業会計が分かる専門家は加わっていなく、会社全体の経営面のチェックはなかったというのだから驚いてしまう。自治体は、保育園に空きがなく入園できない待機児童を解消するために、補助金を出したり、公立保育園の民営化を進めているが、あまりにもいい加減であることが今回の事件ではっきりわかった。公立保育園や社会福祉法人の民間保育園なら、突然閉鎖することはあり得ない。「保育園閉鎖」という衝撃的な事件に幼い子供を持つ親達は、子どもを安心して預けられる環境を第1に求めていることが、新聞の投書欄に書かれていた。規制緩和政策の弊害が今、いろいろなところで現れているがそのひとつとして「保育園閉鎖」という前代未聞のことが起こったわけだ。(美)案内へ戻る


編集あれこれ

 前号の1面は、「自壊する自公政権」と題して麻生自公政権の問題点を指摘しています。第二次補正予算案も今国会では出さないし、定額給付金という2兆円もの税金を選挙民にばらまこうとしています。現在医師や看護師などが不足して、病院のたらい回しで多くの人の生命が失われています。ここにこそ、税金を投入すべきでしょう。
 2面の田母神論文に対する批判ですが、こういうひとが航空自衛隊の最高幹部にいたことも問題だし、こういった考えを支持する連中も多くいます。こうしたことに反撃するためには、日ごろからの反戦平和の活動が重要になってきます。
 4面の原発の危険について述べている記事ですが、放射能被曝で身体が破壊されていくなど多くの問題があります。やはり原発は廃止して、他のエネルギーへの転換を図るべきです。
 前号の記事ではなかった、非正規・正規を問わず各会社が大減員をしようとしていることに対する記事がほしいと思いました。(河野)