ワーカーズ384.385合併号 2009.1.1    案内へ戻る
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2009年を構造改革路線の継承への労働者民衆の総反撃元年としよう!

 08年末の全世界は、09年から本格的に始まると予想される「世界大恐慌」の恐怖に打ちのめされ、資本家階級自身何をしてよいかが全く分からない不透明な状況にある。
 07年夏に出来した米国発の住宅バブルの崩壊から始まったサブプライムローン危機により、全世界的な金融恐慌が一気に拡大・蔓延して、世界的な株価の低下の中、基幹的銀行・証券会社の倒産が相次いだ。その結果発生した大規模な信用収縮により、実体経済が深刻な影響を受けている。世界各国で税金の投入による金融機関等の救済が始まった。その額は、米国で25兆円、英米仏で2六兆円と巨額であるが、まさに焼け石に水である。
 とりわけ深刻なのは、今回の金融危機の発祥地となったアメリカである。9月リーマン・ショックもさめやらぬ中、今度は自動車業界ビックスリーの経営危機の進行であった。
 「市場万能主義」だったビックスリーの経営者たちは、掌を返したように過去の発言に口をぬぐい、社長専用機のジェット機でワシントンに乗り込み支援を訴えたのである。
 恥を知らぬ米国経営者の下、今年一杯で解雇予定の人員は100万人を超えるとの事。
 ヨーロッパでも状況は同じだが、労働者の組織的な反撃による攻防が始まっている。
 日本でも今年末には非正規労働者は8万5千人が期限切れとなり、トヨタやソニーなどでは、正規労働者の解雇すら始まっている。全く天に唾する破廉恥な行動ではないか。
 景気が良いと株等の配当を増やし、不況になると従業員を解雇する。これでは経営者は不要だ、と自ら認めた事を彼らはやり始めた。だったら私たちは断固退陣を要求する。
 この怒りは爆発寸前である。労働法制のセーフティネットをズタズタにして、推し進められた小泉構造改革路線の継承に、直ちに反撃をしていこう。衆議院の総選挙で民意を問う決意すらない史上最低支持率の無為無策の麻生政権も打倒していかなければならない。
 2009年を構造改革路線の継承を許さず、労働者民衆の反撃の元年としょう!(直)
                                                  

われらの“チェンジ”を実現しよう!――“危機の時代”は“変革の時代”――

 金融危機から底知れない不況に落ち込みつつある資本主義世界。
 米国ではブッシュ政権が終幕を迎え、オバマ時代の幕が開く。そのブッシュの8年で世界の多極化はさらに進んだ。
 日本では“ねじれ国会”に象徴されるように半世紀に及んだ自民党政治の終焉を迎えようとしている。
 今世界は大転換の時代を迎えている。こうした中で私たちとしても危機の時代を切り開いていけるような独自の対抗戦略の確立が求められている。

■“米国一極支配”の終わり

 この1月20日には2期8年間在任したブッシュ大統領が退陣し、政治エリートのバラク・オバマが大統領に就任する。“チェンジ”を掲げて発足するオバマ政権。現時点で80%を超す支持率を背景に、米国を、そして世界をどこに連れて行くのだろうか。
 振り返ってみれば、1991年のソ連の崩壊によって唯一の超大国となった米国。湾岸戦争の圧倒的勝利もあって米国による世界の一極支配は盤石になったと思われた。
 が、実際には米国が一国支配を謳歌したのもほんの10年でしかなかった。01年に登場したブッシュの8年間で、ブッシュの思惑とは裏腹に世界の多極化は劇的に進んだ。米国一極支配に抵抗するEUの拡大であり、あるいは中国やインドなどいわゆる新興国の経済発展だ。
 たとえば唯一の超大国を謳歌した90年代には米国の経済力(GDP)は、世界全体の25%から30%に拡大した。しかしブッシュ大統領就任の前年の00年には再度25%に落ち込み、かわって中国が90年の1・7%から07年には6%を占めるまでになった。
 より実情を反映した購買力平価で比べると、07年の時点では米国の21%に対して中国10・8%、インド4・6%で両国だけで15%だ。EUはそれぞれ30%と22%だ。第2次大戦で圧倒的な比重を占めた米国の経済力だったが、いま相対的縮小傾向は止められない。
 経済力の弱体化だけではない。もう一つの一極支配の支柱だった米国の政治的・軍事的覇権を決定的に傷つけたのがイラク戦争の失敗だった。いま世界には米国嫌いが拡がり、米国内でも世界からよく思われていないという認識が7割の国民に拡がっているという。米国の威信はかつてないほど傷ついた。
 米国によるイラク攻撃はその前段でのアフガン攻撃とは違った意味合いがあった。イラク攻撃は単なる報復ではなく、世界に対するエネルギー覇権に直結する米国による中東支配を盤石なものにして、米国による一極支配を盤石のものにするかねてからの野望の現れだった。そうした米国の野望を嗅ぎ取ったからこそ、ロシアや中国は言わずもがな、ドイツやフランスも米国のイラク攻撃には荷担しなかった。
 そしてそのイラク戦争の泥沼化だ。今ではフセイン政権の打倒をテコとして、サウジその他の中東イスラム国家を民主化するという触れ込みの米国による中東支配の野望、ひいては米国の一極支配を盤石のものにしたいという野望は頓挫し、それを主導したネオコンはブッシュ政権から排除された。
 そして今、サブプライム危機を引き金として表面化した金融危機は、投資銀行の破綻などで金融技術を利益の源泉とする米国の経済的地位をも揺るがせている。それ以上に、サブプライムローンでしかマイホームを持てない層やそれさえも手が届かない貧困層が拡大するなど、米国社会の亀裂も深まっている。米国の閉塞感はきわめて深いのだ。
 こうした閉塞感を打破する期待を求められて登場するオバマ政権。確かに閉塞感を打破してくれるかもしれないという期待感は拡げた。が、そのオバマ新大統領もイラクからの撤退を掲げてはいるものの、アフガンには増派するという。対外政策でも単独行動主義という名の独善主義を修正する姿勢も見せている。が、オバマ新大統領とオバマを浮上させた国民の熱望が“強い米国”へのノスタルジアでありその再興であるかぎり、様々な軋轢をもたらすほかはない。
 それは現在の世界が米国によるコントロールが不可能なほど多極化しているという現実自体の中にある。米国はすでに中国封じ込め政策を実質的には放棄せざるを得ない事態に立ち至っている。つい数年前には対中封じ込めをあからさまに公言していたにもかかわらずにだ。それだけ中国の経済力・政治・軍事力の拡大は急だった。
 思い出せばブッシュ大統領が登場したときの旗は“思いやりのある保守主義”だった。それがあの9・11で一変した。ブッシュ大統領は“対テロ戦争”に国民の団結を求め、米国民も90%の支持を与えて熱狂的にそれを支持した。結果はといえば、ブッシュ大統領はネオコンに乗り換え、破綻したのだった。
 いま地に落ちた米国の威信回復のためにブッシュ政治を“チェンジ”し、強い米国の再興のために“一つの米国”のもとへの団結を呼びかけ、米国国民も熱狂的に支持した。オバマの米国が再度ブッシュ政権と同じ道をたどらない保障ははい。

■泥船の自民党

 目を国内に転じてみる。
 小泉首相が退陣して以降、内閣は安倍、福田、麻生と3代目だ。この間、何回も総選挙をする機会があったにもかかわらず、解散総選挙を回避しつづけて政権をたらい回ししてきた。日本の最高権力者が何回も変わるというのに、“主権者”のはずの国民が政権の選択権を行使できない、それ以前に選択権を取り上げられたままということ自体、果たしてこの国が民主主義国家なのか、という疑問は、ここでは脇に置いておく。
 その自民党。首相という看板を何回取り替えても国民の支持は得られない。解散・総選挙の実施、生活給付金、地方交付金、郵政民営化などなど、やることなすことすべてで前言撤回などの迷走を繰り返し、自民党内部でも公然と反旗の声が渦巻いている有様だ。今では麻生内閣の支持率は20%前後に落ち込み、政権発足3ヶ月で早くも政権末期の様相を呈している。
 なぜ麻生政権は迷走し続けるのだろうか。その理由はいうまでもなく昨年の参院選挙でもたらされた参院での野党多数という“ねじれ国会”だ。その“ねじれ国会”をもたらしたのは、小泉首相に代表される市場万能の構造改革路線によって創り出された輸出主導の出血経済であり、弱肉強食の格差社会の深まりだ。
 迷走したのは麻生政権ばかりではない。安倍、福田と続いた自公政権は、こうしたねじれ国会に対応できないから瓦解したのだ。“ねじれ国会”とは、もはや自公政治が有権者の支持を失ったことを意味する。
 “ねじれ国会”をもたらした現実が変わらない以上、今度の総選挙で自民党は政権の座から滑り落ちるだろう。それがいっそう麻生政権を迷走させる。
 麻生政権としては今年9月の衆議院の任期満了まで解散総選挙を引き延ばしたいと考えているのかもしれない。少なくとも予算が成立する4月以降の解散を考えているのかもしれない。しかしそれまで麻生政権が持つかどうかもはっきりしない。この5日に招集される通常国会のどこかで立ち往生する可能性もないわけではない。
 いずれにしても次期総選挙では自公両党で3分の2以上という現有議席を減らすのは確実だ。自民党の過半数割れも現実味を帯びてきた。次期総選挙では与野党による政権交代が現実味を増してきた、ということだ。
 これまで自民党は政権党だからこそ何とか存立できた。が、すでに自民党内部でも政権交代が確実視され、政権党という地位が足下から揺らいでいる今、生き残りを目論む有象無象による政界再編のうごめきが吹き出している。こうした意味でも自民党政治は断末魔の様相を呈している。いまでは政権交代を見込んで民主党主導による次期内閣の顔ぶれまで出回っている有様である。

■真の“チェンジ”を!

 思い起こせば、1991年のソ連の崩壊以降、資本主義は最終的に勝利したといわれたこともあった。が、それから20年も経たないいま、資本主義世界は未曾有の危機の直面し世界大不況の瀬戸際に立たされている。いわく、100年に一度の不況だという。
 たとえ比喩的だとはいえ100年に一度の不況ということは、あの1929年に始まったニューヨーク証券取引所の株価大暴落に端を発した大恐慌以来の危機、1917年に起きたあのロシア革命以来の危機、実に資本主義始まって以来の危機だということになる。
 世界的な大恐慌の瀬戸際に立たされている世界が今後どうなるのかをここで検討することは出来ない。がすでに資本主義は終末を迎えた、という議論なども出始めた。たとえば紙幣はなくなって金(きん)が復権するとか、世界は“物々交換の世界”に戻る、という議論などだ。それらは極論としても、少し前までは疑いもしなかった資本主義の永遠性が疑われ始めた、ということを象徴するものだろう。
 今回の同時不況がどこまに行き着くのかはまだ断言できない、が、今回の“100年に一度の危機”との遭遇は、少なくとも資本主義は唯一絶対の社会システムなどではなく、需要と供給の傾向的乖離を本質的原理としてビルトインさせた欠陥のある社会システムだということを満天下に示すものになった。
 とはいえ、終末論ではないが資本主義は自動的には終わりにならない。世界的な大不況も、奈落の底まで落ち込めば、またそこから新たな矛盾と対立を抱え込んで這い上がるしかない。
 そうした犠牲をさけるには、周期的に襲う不況(恐慌)を不可避のメカニズムとして内在する資本主義に取って代わる社会システムに転換していかなくてはならない。それこそが真の“チェンジ”となる。
 この新年は深刻な不況と労働者の大量解雇の嵐で幕を開けた。雇用確保など緊急課題は待ったなしだ。が、そうした対処療法と平行して、“100年に一度の危機”への根本的な解決策としてのオルタナティブづくりをめざす必要がある。今年こそその幕開けの年にしたい。(廣)案内へ戻る


〈寄稿〉世界大恐慌と歴史の転換点 @  北山 峻

 とうとう途方もない規模のアメリカの金融バブルがはじけて、世界には、1929年以来の事実上の世界恐慌状態が現れています。しかし中国・インド・アセアン・ブラジルなどの新興国に世界の工業生産の3割強が移っているために、それが支えにになって、1929年の大恐慌の後のような、帝国主義列強がこぞってアジア・アフリカなどの自己の経済圏を囲い込み(ブロック経済化)、互いに自己の勢力圏の拡張を目指して激突し、世界大戦に突入していくという道筋にはならないでしょう。
 しかしBRICsなどの新興工業諸国は果たしてこの世界恐慌を支えられるのか?
 はたして今後の世界はどのように進んでいくのか?
 それについて紙面をお借りして私なりの見解を述べてみたいと思います。
 皆様方のご批判やご意見をお聞かせいただければ幸いです。

(1)アメリカの金融恐慌の深化と欧・日への拡大

 アメリカのサブプライムローンの破綻に端を発したアメリカの金融恐慌は、瞬く間にヨーロッパや日本などの「先進資本主義」にも拡大し、アメリカ発の死に神は「死なばもろとも」とばかり、ヨーロッパや日本・カナダ・オーストラリアなどの「先進資本主義」世界全体を奈落の底に引きずり込もうとしています。
サブプライムローンの破綻が顕在化し始めた二〇〇七年の夏ごろには、ユーロ圏の経済は、実質成長率2%強を維持するなど実体経済も金融界もきわめて堅調で、ドイツの財務大臣のシュタインブリュックなども、「太平洋の両側で状況は違う」などと述べて、サブプライムローンの破綻を「対岸の火事」とみなしていたのでした。
 また日本の財務当局も全くこれと同じで、財政相や金融相であった与謝野や中川も、最近まで「日本には余り大きな影響はないだろう」という趣旨の発言を繰り返し、更に、「日本は1990年代のバブル経済の崩壊によって、もうすでにこのような事態は経験済みで、卒業した」趣旨の発言さえ繰り返していたのでした。例えば9月17日、経済財政担当大臣の与謝野は、自民党総裁選の演説の中で「蜂が刺した程度。日本の金融機関が傷むことは絶対にない。」とさえ述べていたのです。
 このような認識の中で、9月19日、三菱UFJフィナンシャル・グループは米大手証券会社モルガン・スタンレーに9千億円もの出資を発表し、野村證券も破産したリーマン・ブラザーズのアジア・欧州事業の買収を発表しました。
しかし、その後のアメリカの金融危機の拡大と深化の中で、4兆ドル(400兆円)の貸出残高を持つファニーメイやディマックなどの政府系の住宅金融公社を手始めに、損失公表額6兆7千億円の金融最大手のシティーバンクや、世界最大の保険会社AIGや証券大手のベアー・スターンズが次々に破産の危機に陥って政府からの大量の税金の投入によって救済され、損失公表額9兆7千億円のワコビアやリーマン・ブラザーズや米貯蓄金融最大手のワシントン・ミューチュアルが救済されずに破産し、更にアメリカを象徴する大工業資本であるGMやフォード・クライスラーなどのビッグ3といわれる自動車会社が倒産の危機に追い込まれて数兆円もの政府支援を要請しているように、実体経済そのものがその基幹部門から次々に機能停止に追い込まれています。
 失業者は政府の公式統計でもこの11月には1か月で53万人も増加し、総数では1060万人を超え、3億600万人の総人口のうち充分な栄養をとれない人々が3700万人、無保険者が4700万人になるなど社会の貧困化も一段と進み、労働争議と社会不安が激化するなどアメリカの危機は急速に深化しています。
みずほ証券によれば、今回の金融恐慌によるアメリカの潜在損失は400兆円、ヨーロッパの潜在損失が200兆円で欧米総計では600兆円といわれていますが(日経新聞12月16日)、そんな程度とは私には到底思えず、少なくとも1000兆円を超えると思われます。
なぜならば、米連邦準備理事会(FRB)議長のバーナンキが「サブプライム関連の損失が1000億ドル(10兆円)ある」と議会で証言したのが07年7月の ことだったのに、それからわずか1年で欧米だけでその損失累計額が瞬く間にその60倍の600兆円に膨らんだだけでなく、さらにこれには日本や中国やロシアなどの欧米以外の諸国の損失は加算されてもいないし、さらに、欧米の損失もまだ膿みを出し切ったわけではなく、今度どれほど増えるか予測もついていないからです。
 また、この間、アメリカの金融資本と同様に寄生的な投機資本として大規模な投機を繰り返し、世界中からあぶく銭をかき集めていたヨーロッパや日本などの巨大金融資本そのものも、アメリカの巨大資本が次々に破産し、自らも大量の不良債権を抱えていることが明らかとなってくる中で、彼らの顔面も蒼白になったのでした。
 例えば、モルガンに9000億円も出資した三菱UFJは、一株25ドルで購入したモルガンの株があっという間に10ドルを割り込んだために、これだけでわずか2〜3週間のうちに5500億円を失い、三菱自UFJ自体がモルガン株の減損処理で赤字に転落しそうになっています。
また、都市銀行から地方銀行、保険会社から農協や信金にいたるまで、ほとんど日本中の金融機関が、アメリカのバブル景気に浮かされて、手持ちの資金をアメリカの証券に投資していたため、日本だけでも数十兆円の損害が出るだろうと見積もられています。
 さらにアメリカへの信用の下落に伴って、ドル紙幣そのものが急激に下落しますから、外貨準備として2兆ドルも持っている中国に次いで世界第2位の、一兆ドルも所持している日本は、為替レートが一ドルにつき一円、円が値上がりするたびに、およそ1兆ドル×0・01=100億円ずつ損をし続けることになるわけですし、またアメリカや欧州に対する輸出が6〜7割にもなっている自動車などの輸出企業は円高のたびに減益になりますから、その打撃たるや想像を絶する規模になることは確実です。どれほどの減益になるかというと、少し古いですが2004年度の実績では、日本の年間輸出高は5934億ドルですから、これだけでも1円の円高でおよそ60億円ずつ減益になるわけです。輸出減と円高は、輸出企業にとっては正にダブルパンチとなるわけで、現にこれを書いている12月23日付けの日経の1面トップでは、世界最大の自動車会社で、昨年2兆2千700億円もの利益を上げた「トヨタ」が、海外での急激な販売減によって、今期は一転して1500億円の赤字に転落すると報道されています。
 世界的な需要の収縮によって、とりわけ先進国の高価な物資は、急速に生産過剰に陥り、運転資金に詰って黒字倒産さえ続出するだろうと予測されていますから、今回の世界恐慌は、田舎財閥のお坊ちゃんである麻生が言うような「全治3年」などという生易しいものではなく、アメリカばかりか欧州や日本などに対しても現在の産業構造全体の改革を迫る、少なくとも7・8年から10年はかかる(日本のバブル破綻でさえ人民からの大収奪を続けて10年かかったのです!)大事業と考えるべきでしょう。その過程で世界のいくつかの国で暴動が起こり、革命政権が成立することも大いにあり得る、資本主義にとっては深刻な危機の時代となるでしょう。
 ヨーロッパも同様で、ユーロ圏の中でミニ・アメリカを演じていたドイツやフランス・イギリス・オランダ・スイスなどの金融資本も軒並み大量の不良債権を抱えて経営危機に陥り、国家の資本注入を受けています。一例を挙げれば、イギリスでは住宅金融大手のブラッドフォード・アンド・ヒングレーやノーザン・ロック銀行が破産して国有化され、ドイツでは破産したドレスナー銀行がコメルツ銀行に、ポストバンク(郵貯民営化銀行)がドイツ銀行に買収され、バイエルン州立銀行や不動産金融大手のヒポ・レアルエステートが国家資金で救済されるなどなどです。
 新興諸国も相当の打撃を受けるでしょうが、しかし彼らはいわば今正に産業革命期のような、中小資本が乱立して日々激しい競争の中で淘汰を繰り広げている状況の中にいますから、倒産や夜逃げなどは日常茶飯のことで、社会が即座にそれを吸収して資本の集中がはかられ、次々と巨大企業が成立していくだけなのです。
これに対し日米欧などの先進資本主義国においては、新興国に比べて労賃が圧倒的に高いために、そこで作られる商品の価格は必然的に高価なものにならざるを得ないため、今回のような世界恐慌の時には、その高価な商品は世界市場では徹底的に敬遠されて、激しく需要が落ち込んでしまうのです。
この結果世界恐慌の時には、国際的な大企業は、数割も縮小した市場の激しい争奪戦を繰り広げ、自国の資本を守るため「自由主義」などの仮面をかなぐり捨てて露骨な保護主義や資源や市場の囲い込みに走る(ブロック経済化)わけです。
 今まで他国の市場(例えば日本市場)に参入するために他国の保護主義を口を極めて非難し、規制緩和と新自由主義を主張していたあのアメリカが、今では恥も外聞もかなぐり捨てて、自国の産業の維持のためにさし当り75兆円もの税金を破産に瀕した民間会社(銀行・保険会社・自動車会社)に投入する、これは誰が見てもはっきりした保護主義政策であり、それも例えば農業などの特定の重要産業でもなくて私的企業に対する極めて悪質な保護主義でしょう。このような破廉恥を見て誰がアメリカを信用するでしょう。これと同様なことを欧州や日本も実行するならば、世界は一挙に1929年の大恐慌後のようなブロック経済化へと進見、世界はさらに危機的な状況へと進んでいくでしょう。
 しかし大恐慌のときとは異なって現代では、幸いなことに、中国・インド・ロシア・ブラジル・アセアン・中南米・中東・アフリカなどにアメリカや欧州を凌ぐほどの工業地帯と豊富な資源を持つ人口40億人もの巨大消費市場が成立しているために、破産したアメリカや、準破産の欧州や日本などの「先進工業国」は、簡単に言えばこれらの「貧乏人」が欲する商品を生産する産業構造へと自己を変革して、これらの巨大な市場へと進出して危機を脱する以外にない状況になっているわけです。      次号に続く


「危機の時代」にどう立ち向かうのか

 世の中、まさに「危機の時代」。
ついこの前までは「地球環境」の危機。人類生存の危機、生態系そのものの危機、食糧や水の危機等が叫ばれていた。
 そして今は、「世界経済」の危機。金融危機、企業の倒産危機、雇用の危機等が叫ばれている。
 身近な生活でも、「秋葉原事件」や「元厚生事務次官宅襲撃事件」等の無差別殺人、食品偽装の危機、偽装請負や派遣首切りの労働者の危機、企業スポーツの危機、教育界の危機等々、数え上げたらきりがない。
 しかし、私たちは冷静にこれらの危機の根源を考える必要がある。
 世界経済を支配し、世界の労働者・貧困者を搾取し、莫大な利潤を上げてきた金融資本及び多国籍企業の破綻こそが危機の根源であり、犯罪的とも言える金融支配の実体と国際金融腐敗の結果とも言える。決して私たちの責任ではない。
 米国を頂点とする巨大な金融機関と多国籍企業は、1980年以降新自由主義(小さな政府、規制緩和、市場原理主義等の政策)で、世界の経済体制を根底から変えてしまい、国境のない「グローバル資本主義」を展開してきた。
 この世界経済のグルーバル化を推進した起動力こそが金融権力であった。この金融権力の誕生について、経済学者の本山美彦氏は次のように説明している。
 「アメリカの金融近代化法は、法案審議を主導した各委員長の名前を取って、『グラム=リーチ=ブライリー法』(1999年)として知られている。この法律によって、戦後体制は一挙に大恐慌以前の体制に戻された。恐慌を経験した後の『グラス=スティーガル法』(1933年)によって、銀行、保険、証券といったそれぞれの金融機関を分けていた垣根が撤廃され、これら金融機関の相互提携・相互参入が可能になった。・・・66年間続いてきたアメリカの金融制度がこの法律によって大転換した。以降、アメリカのみならず、世界中で、金融コングロマリットが誕生することになった。」
 ところが、今回のサブプライムローン問題でつまずき金融危機が発生し、その金融危機
が実体経済にも波及し、世界同時不況になった。1929年の世界大恐慌の再来か?とさえ言われている。
 1929年の世界大恐慌を乗り越えたとして、アメリカのルーズヴェルト大統領の「ニュー・ディール政策」が有名である。
 しかし実際は、各国とも排他的な市場とする「ブロック経済」政策を取り、それが当時の後進国ドイツ・イタリア等にファシズムを生む契機となり、10年後の第2次世界大戦に繋がることになった。
 経済の危機を打破する道として、戦争に突入していく。この資本主義の本質、道筋こそが「本当の危機」ではないのか。
 では、この危機の時代を迎えて、私たちはどう立ち向かうのか?グローバル資本主義に対して安心して生活できる経済と金融のオルタナティブをどう対置するのか?が問われている。
 先に紹介した本山氏は、この事について次のように述べている。
 「今日、グローバルな金融ビジネスに抗して、ローカルな文化と雇用を守ろうとする気運が世界的に高まっている。地域マネー、NPO(非営利組織)銀行、グラミン銀行、バンコデルスル(南の銀行)等々、グローバル経済の犠牲になった地域とその住民の活力を取り戻すべく、地域的な金融組織を作り出そうとする運動が活発に展開されるようになった。」
 そして、この地域金融運動の元祖ともいうべき思想家として、マルクスと同時代にフランスで活躍したプルードンを取り上げて、彼の「人民銀行」構想を高く評価している。
 いずれにしても今私たちは、このグローバル資本主義からの脱却という大きな転換点に立っている。それは同時に、新しい時代の入り口でもあり、次の時代を切り開く課題を担っている。
 労働現場でも地域でも、自分たちで闘いに立ち上がって様々な活動や実践に挑戦している組織・グループがある。こうしたグループとの協同活動を通じて、新しい「モデル化事業」を作り上げること、その実践の中で変革の力をつけていくこと、そのことが求められていると考える。(富田英司)案内へ戻る

前大戦の中から“自己とのかかわり”において  

 戦争は殺しあい≠セから己の命を保つために相手を殺していい≠ニいうリクツに、また巨大な圧力の前にあらがいえず、従わざるをえなかった人、対決しえず、自己を追いつめていった人々の話を掘り起こすことも反省とともに歴史認識の一端を担えるもの、避けて通れないこと、現在のありようをを決めうるものとして書いてみたい。
 それは老人の遺志を日常生活の中で少しづつでもひろがりをもち、それがひとつひとつの点として自主の民たらんとする時、それが大きな面へ流れることを期待して。これは私が沖縄へ向かったことの理由の一つでもある。
@わが師の奥方の体験から。
 奥さんが単身中国に渡り文化大革命の最中、逗留していた間のこと。旧日本の軍隊が中国を侵略、三光作戦‐殺しつくし、奪いつくし、焼きつくす作戦‐に見舞われた村がそのまま残されていて(満人坑というー文字が正確でないかも知れないが)その地に旅をしたときのこと。奥さんは自分がもしも当時の日本兵であったなら、果たして上官の命令に背いて戦線離脱し反抗しえたであろうか≠ニ、自問したという。大きな圧力を前にして自分が抗いえたかどうか、と。現在の私たちにも残されている問題ではなかろうか。
Aドキュメンタリー映画アリの兵隊≠フ告白。
 中国戦線で中国人女学生はじめ、殺さなければ上官にやられる。中国の人々を始めて殺したときのことは、今も忘れられない、と。
Bある軍艦の艦長に任命された人が、こうした連中の中に自らの名を連ねることを恥じたそうで、軍艦が沈没される時部下の兵隊を生きろ≠ニ、海中に投げ飛ばし、自分は軍艦とともに沈んでいった人もいた、という。(友の話より)
C映画でしか伺えないが、ごく最近の深夜のフランス映画「ピエロの赤い鼻」で、フランス人(民間の一般市民)を銃殺せよ、と命令されたドイツ人の一人、コメディアンでピエロを演じたことのある兵隊が、どうしても、フランスの市民を撃つことができず、銃を投げ捨てる。彼はドイツ兵の上官の命令で射殺」されてしまう。
 その時、彼の赤い鼻が転げ落ちた。その赤い鼻を拾った囚われのフランス人2人の1人が、銃を捨てて射殺」されたピエロのドイツ兵の意志を継ぎ、戦後ピエロ職を選び現在に至っている、といった映画。戦後のヒロシマ わが愛≠ニいうフランス映画も、フランス娘とドイツ兵の恋。若いドイツ兵は射殺されてしまう。その後のフランス娘を描いた映画であった。
 フランス映画にはこの手の映画が多いようだ。敵のドイツ兵士との交流。日本映画には見られないようだ。キリスト教精神の影響であろうか。終わりのせりふ私の名はヒロシマ、あなたの名はヌーベル′ツ人の名でなく地名で(不幸な傷を背負った)愛≠ェ語られる。
 @〜Bと違い、人種を超えた愛≠ェある。どちらかといえば、私はフランス映画の方が好きだ。日本映画の反戦♂f画はフランス映画のようなのは無いようだ。なぜだろう。まもなく、「私は貝になりたい」が公開されるが、どうも個人の主張や思いが押しつぶされていくのが多いようだ。いかに押しつぶされていったかの歴史から、私どもは踏み出さねばなるまい。「朝ズバ」のほっとけない≠ニいう叫びでは見て見ぬふり、知らん顔はできない≠ニいう主張であろう。   忘れたので日時は不明
 つづきのようなものだが08・12・19、天神の森の関芸で見た言葉=]アイヒマンを捕えた男‐という芝居を見た感想を書く。アウシュビッツの惨殺を指揮したナチのアイヒマンが戦後アルゼンチンに逃げ込んだのを追跡し逮捕に至る芝居だ。芝居ではなぜあのような惨禍をアイヒマンという男がなしえたかを、彼の口から言葉として引き出し国際法廷にかけようと試みる。
 これは軍律に従ったまでという逃げではなく、一人の人間としてなぜ、あの悪≠なしえたかを裁こうとするものであった。私は組織の中の個≠ニいう個≠フ人間的責任に迫るものと感じた。そこには個々の人間が、アイヒマンになりうる? という問い、それに抗いうるあかしを法廷は言葉≠ニしてほしかったのではなかったか。今後起こりうる戦争に反対するよすがとしても。真の個≠フ声が押しつぶされていきそうな流れに対しても。
 この芝居の最後の方でのアイヒマンの言葉は示唆に富む。彼はドイツで裁かれたいと。自然と人間が近代によって壊されない、近代以前のドイツの森や湖、彼の愛したドイツのふるさと≠ナ。ついには彼は軍律に従ったにすぎない戦犯として逮捕に応じるが・・・。アウシュビッツと同じような、もっとひどい惨禍かもしれないヒロシマ・ナガサキは犯罪ではないのか。戦勝国ならばどんな犯罪でも問われないのだろうか。
 原爆投下のヒコーキに同行して飛び、ヒロシマを上空から撮影したアメリカのある科学者が戦後60数年たった現在、再びヒロシマを訪れた際のこと。被爆者との対談の中で被爆者が、使ってはならない原爆をヒロシマ・ナガサキに落としたことの謝罪を求めたが、彼は拒絶し、パール、ハーバーを忘れるな≠ニ言い放った(生前のチクシ・テツヤ氏を中心とした人々のドキュメンタリーより)。ナショナルな問題ではなく世界中の人間の一人として、なした悪≠フ問題を問うているに。アイヒマンへの問いと同じく。
 また芝居の最後にアイヒマンに、迫り問いつづけた逮捕する側の一人の男が、ひょっとすればアイヒマンと並んでユダヤ人の人体、生体解剖をやってのけ死の医者と言われた男であったかも? と思わせる終わりのシーン。悪≠ヘ悪≠為す者のみがわかりうる。来春からの藤田まことの必殺仕事人≠フせりふ同じ地獄に落ちるなら、悪を為した奴を先に地獄に送ってやる≠ニいうのと似ているのではないか。08・12・20 宮森常子


今こそ市民版「環境ニューディール」を

世界金融危機の中で

 昨年は、アメリカの住宅バブルの崩壊(サブプライムローン問題)に端を発した世界金融危機や、石油や穀物価格の乱高下によって、秋から先進国も新興途上国も巻き込んだ世界不況に突入し、工場の操業短縮等で失業者が急増した。
 これに対し各国の金融・財政当局は、いっせいに金利を切下げ、緊急な財政出動を相次いで打ち出した。ついこの間まで世界を席捲していた「新自由主義」は、すっかり影を潜め、あたかも「ケインズ主義」が復活したかの様相を呈している。
 日本の麻生内閣も、第一次、第二次の補正予算、来年度の大型予算案を発表したが、そのたびに「選挙目当てのバラマキ」と批判され、それを打ち消すため「3年後の消費税率のアップ」を言い出すしまつで、内閣支持率は急落している。

オバマの「環境ニューディール」

 こうした中、アメリカの次期大統領オバマ陣営は、「環境ニューディール」と銘打つ経済政策を発表した。地球温暖化ガスの大幅削減のため、代替エネルギーの開発投資を中心にした公共事業で、150万人から200万人の雇用を拡大するという。
 実態は橋や道路の公共事業中心で「バラマキ」の批判をかわすための、口先だけの「環境」ではないか?との冷ややかな見方もあるが、いずれにせよ「環境ニューディール」というスローガンは、もはやヨーロッパの「緑派」の専売特許ではなくなったのは確かだ。
 麻生内閣の経済対策にも「環境対策」が無いわけではない。例えば「ハイブリッド車」等の低排気型の乗用車の購入に対して、課税を軽減ないし免除するなど。しかし、それはあくまで、寄せ集めのメニューのひとこまにすぎない。
 オバマの「環境ニューディール」が麻生のそれと異なるのは、「社会経済の構造を石油依存から代替エネルギー中心に大転換する」、というコンセプトに貫かれているか否かという点である。その真価については検証が必要であるが。

私達はどう考えるか?

 さて、オバマ陣営の財政政策を詳細に検討するのは、別の機会に譲るとして、今回は、私達労働者の立場から「環境ニューディール」をどう捉えるか?議論を提起したい。「環境ニューディール」などは、まやかしであり、そのようなもので資本主義の矛盾は解決できない、と否定するのか?いや、これをステップによりよい社会を構想すべき、と積極的に要求するのか?
 私は、今こそ労働者は「環境ニューディール」を要求すべき、と考える。オバマのそれが「口先だけ」なら、そうでない本当のそれを要求すべきであろう。むしろ環境派の市民団体などが積極的に経済政策を提言し、労働者もその議論に積極的に関与すべきではないだろうか?

ワークシェアと職業教育

 経済政策を「環境ニューディール」の趣旨で貫くとはどういう事か?例えば、次のような組み立てではないかと考える。
 まず第一に、新規に設備投資を行なったばかりの中小企業の多くが、予想に反する急激な受注減で、設備投資資金を銀行に返済できなくなっているとするなら、その返済期間を繰り延べるとか、利子を下げるとかして、その中小企業が倒産しないですむようにする。これはせっかく導入した設備を、将来新たな分野で有功活用するためにも必要だ。
 さらに、そこで働く労働者は、操業短縮に対応し、労働時間の短縮、つまりワークシェアリングで雇用を維持する。派遣を打ち切られたり、雇用更新されなかった期間工なども、例えば大企業でいまだに残業漬けになっている現場があれば、その残業分の業務に当てて雇用するよう、政府が大企業を指導するのも、一種のワークシェアである。必要なら雇用保険の事業主負担を財源に、政府や自治体が助成金を出す。
 それでも失業してしまった労働者には、雇用保険の基本手当の支給要件(就業期間)と支給条件(支給期間・支給額)を大幅に改善し、合わせて雇用促進住宅や自治体の住宅を確保し、公共職業訓練の枠とメニューを拡充し、職業教育を受けられるようにする。ここまでは、当面の「下支え」である。

代替エネルギー開発に人材活用

 重要なのはここからで、第二に、上記の対策で温存した設備や人材を、代替エネルギー開発を中心とした事業に振り向けるよう、政府や自治体が川上から川下まで、きめこまかいプランを策定し実施する。
 例えば、これまで輸出向けの乗用車の部品生産に使っていた工作機械を、風力発電や太陽光発電の部品生産に活用する。今の工作機械はフレキシブルなものが多いので可能なはずだ。現場の労働者は、より効率が良く使い勝手のよい風力伝導装置や太陽光パネルの開発に技術力を発揮できる。また公共職業訓練も「環境技術」を中心に、充実した講師を確保して、受講者が新しい産業社会の担い手となれるよう育成する。

電力売買制度と排出量取引き制度

 第三に、政府と自治体が「脱石油」社会へ向けて、大きな制度改革を行なう。まず、エネルギー政策であるが、電力会社に家庭の自家発電した電力を有利な条件で買い取る「電力売買」システムを制度化する。
 また市役所や学校や公営住宅は、必ず屋根や壁面を太陽パネルにし、屋上を緑化し、風車を設置するなどし、民間のマンションやオフィスビルも環境対応型を義務付け、必要なら助成金の支給や税の優遇を行なう。
 さらに、すべての企業に温暖化ガス排出量削減を義務付け、「排出量取引き制度」を現在の自主的方式から「キャッチアンドトレード方式」にグレードアップする。
 また、途上国や新興国に、公害対策技術や省エネ技術を積極的に輸出し、今も環境省が実施している助成金の支給を行ない、これを推進する。

「環境税」について

 第四に、その財源であるが、ガソリン税や自動車重量税等は整理統合し「環境税」をもうける。昨年、ガソリン税や道路特定財源を巡って、自民党と民主党が激突したが、道路族・建設族をバックにした自民党の主張も、石油依存の車社会に無批判な民主党の主張も、共にナンセンスであった。

原発・バイオ燃料は問題

 以上、私達なりの「環境ニューディール」があるとしたら、どのようなものか?簡単にスケッチしてみた。なお、注意しておきたいのは、「脱石油」「脱炭素」だからといって、「原発」を増設するなどは論外である。環境問題は「温暖化ガス」だけではなく「放射能汚染」もあることを忘れてはならない。
 また「バイオ燃料」なども、穀物価格の上昇や途上国の飢えと貧困を助長するもので、賛成できない。「温暖化問題」に便乗して、利益を上げようとしている、原発産業や穀物メジャーを野放しにしてはならない。そのためにも、労働者・市民の側からの、市民版「環境ニューディール」の運動が求められている。(松本誠也)案内へ戻る


コラムの窓・阪急西宮ガーデンズへの人波 それは何処へ通じているのか?

 西宮スタジアム跡地に11月下旬、西日本最大級という触れ込みの商業施設、阪急西宮ガーデンズが開業しました。6日間で58万6000人の来場者ということなので、1日10万人近くが訪れたことになります。これほどの人出がいつまで続くのか分かりませんが、最寄りの阪急「西宮北口」駅からの人の波は、まるで甘いもの吸い寄せられる蟻の列のように見えます。
 かつて、阪急ブレーブスの本拠地だった西宮スタジアム、競輪も廃止となって長らく放置されていたのが更地となり、いまや巨大な商業施設に生まれ変わったのです。もちろん、これまでこれほどの人波はなかったし、震災以降なくなっていた映画館が今流行のシネマコンプレックスとして出現したし、西宮市民にとってはいいことなのかもしれませんが、西宮市長のように手放しで喜んでばかりはおれません。
 西宮市は大阪と神戸にはさまれた住宅地で、阪神・JR・阪急が並行して走っています。それぞれの西宮駅に大きな商業施設があり、どこが市の中心ともいえない(市の中心というものがないのです)のですが、2005年に阪急「西宮北口」駅前に兵庫県立芸術文化センターなる巨大な公共施設が誕生し、そして今回の西日本最大級の商業施設の開業ということもあり、にしきた≠ェ優位に立ったようです。
 しかし、市役所は阪神とJRの間にあるし、阪神「西宮」駅はえべっさんの最寄り駅だし、JR「西宮」駅には快速が停止するようになったし、どの駅もこちらが市の中心とはいえないのです。そんなことより、JRの駅が最近まで「西ノ宮」と表示されていたものが「西宮」になってしまい、実につまらなくなりました。
 ところで、阪神と阪急に挟まれたそのJR駅前の再開発ビル「フレンテ西宮」が、地盤沈下で危機に陥っているのです。ここの核店舗である「コープディズ西宮」が3月末で撤退することになったのです。阪神・阪急との競合のなかで、阪急西宮ガーデンズの開業にとどめを刺され、多額の累積赤字の解消のめどが立たないのです。このビルを管理しているのは西宮市の第3セクター「西宮都市管理」であり、核店舗撤退が現実のものとなれば市財政にも影響を及ぼすことになるでしょう。
 ちなみに、甲子園球場のある阪神「甲子園」駅近くの阪神パーク跡地にできている「ららポート」(イトウヨーカドウ)も人出は減っているようで、西日本最大級の商業施設♀J業の影響は計り知れません。新たな需要の創出がないなら、利用客の奪いあいとなるほかなく、この結果は当然予想されたことです。周囲を見渡せば、そんな困難を抱えた自治体はいくらもあるのです。
 と言うか、お隣の宝塚市がまさにその状態に陥っているのです。阪急「西宮北口」駅から北へ伸びる宝塚沿線の駅前再開発ビルが核店舗の撤退で窮地の立っているのです。2006年に大手スーパーが撤退し、宝塚市が主体となって第3セクター「宝塚まちづくり会社」を設立して出直しをはかったのですが、浮上できないのです。
 その3セク(社長は元市消防局長)の能力欠如もあり、今や再々開発≠ェ必要となっているのに、その先にも光が見えないどん詰まり状態なのです。見えているのは、税金を食いつぶす姿だけです。核をなくした商業施設には個人店舗が取り残され、閉ざされたシャッターが目立つ寒々しさが目立ちます。
 阪急西宮ガーデンズは勝利者として光り輝き、12月19日には何とかのキアヌ・リーブスが新作映画のキャンペーンに登場しています。しかし、その足元には深い闇が広がり、昨日の勝者が今は敗者となった姿があるのです。にしきた≠ゥら続く専用の歩行者デッキには動く歩道もありますが、私がその蟻の列の加わることは多分ずっとないでしょう。何せ、私は人が集まるところは好きではないし、行列を作るのは嫌いだし、いい映画でもこない限り西日本最大級に商業施設≠ネどには興味すらありません。   (晴)
                                                                            
色鉛筆 ワーク・ライフ・バランス

 年賀に携わる仕事について16年、年末年始は目が回る忙しさです。郵便事業会社になり、サービス精神旺盛? となり、元旦の年賀配達は朝と午後の2回も配達することになりました。例年、元旦はアルバイトが組んでくれた年賀を配達し、午後は早く帰宅することが出来ていました。しかし、ここ数年で2日の休配日が配達に変わり、今年は新たに元旦2度配達と、更なる追い討ちがかけられたのです。
 年末年始2週間近く休みも取れず、長時間残業を強いられ、元旦でほっと一息つくところだったのに、なんということでしょう。一体、誰がこのサービスを喜んでいるのでしょうか。7桁読み取りの機械をもう1台追加してまでも(億の単位の金が購入費となる)、実行する価値があるのか。郵便事業会社のお偉方の、ただの自己満足に過ぎないのではないか。日頃からやかましく騒いでいる経費節減は、全く経済観念のない人物が自分の都合で、その場しのぎの口実と思われても仕方ありません。
 新年早々、職場の愚痴となりましたが、私たちの働き方に影響することは、読者の皆さんにも伝えたい、そんな思いの心境からです。労働者の立場がますます弱体化する今、それぞれの職場での労働内容の変更・強化に対し、個々人が判断する能力が問われていると思います。
 「ワーク・ライフ・バランス」という言葉を耳にすることがよくあります。少し前に新聞記事の特集で取り上げられていました。働く人自身が自分の生活を大切にしょうとする意志が、職場を変えていくというものです。長時間、会社に縛り付けられ、家族との会話も出来ない、要するに会社人間という片寄った生活をしている男性は多いのではないでしょうか。残業時間を減らすことで、家での時間が増え育児・家事に関わることができ、子どもや妻との交流が生まれたなど、単純なというか普通の生活に戻ることです。
 実際に、ある会社の企画の部門では、残業しない人には手当を出す方向で取り組んだところ、残業時間が大幅に減ったそうです。しかも、精神的なゆとりが新たな企画を生み出すという効果が生まれたと、報告していました。しかし、このやり方が全ての部門に適用するのでしょうか?
 郵便配達の仕事では、残業時間を減らすため、ムダな動きを省いて1分でも早く配達することを日課に上げられています。速さを競うことになった職場では、お互いがぎこちなく、速さを要求されるため誤配が増えたりで効果はあまり期待できません。誤配は自己責任になり、ますます個人攻撃と化します。ゆとりを生むためには、人員を増やすことでしか対応できないのではないでしょうか。残業時間を減らすことを狙った資本家の思惑だけでは「ワーク・ライフ・バランス」は実現できない、ということでしょうか。 (恵)案内へ戻る


編集あれこれ

 2008年を評する言葉として、リーマンショック≠欠くことはできません。この言葉のあとに「を契機に始まった世界不況の深化」が続き、年の瀬に日本においても大企業による派遣切り≠ェ強行されました。この事態が、資本主義の行きづまりのなかで必然化したことを、本紙前号も報じています。
 資本主義にあっては、一方への富の集中が他方への貧困の蓄積によってもたらされるがゆえに、労働者に残されているのは「この不条理な資本主義体制を変革する道しかない」(一面)と主張しているのです。国家に救済を求めつつ、自家用ジエット機を乗り回す米国巨大企業経営者の姿は、これまでどれほど労働者が搾り取られてきたかを示しています。
 企業は労働者を使い捨てることによって利益を得ており、資本の下では過重労働と失業は表裏の関係にあります。こうした使い捨てに対して労働一揆≠フ拡大で反撃し、ワークシェアリング・労働の分かち合いを目指そうと提起しているのです。
 資本主義の行き詰まりは、田母神論文に見られる反動的主張の台頭にも表れています。正論名古屋懇話会の発足を批判しつつ、一見こうしたごりごりの反動とは対極にある主張のなかにも資本の延命が策されているという、鋭い指摘も見逃せません。
「寺島や榊原などの『平和憲法・平和共存・平等互恵』などの羊の皮をかぶった狼のイデオロギーにも十分な注意を払っていく必要があるでしょう」(六面)
 こうして、曲がり角にある日本の選択は社会そのものの危機を招きかねないところまで来ています。その象徴が核をめぐる選択であり、もんじゅの運転再開と六ヶ所再処理工場の本格稼動です。設備の欠陥、技術的困難からすでに2月スタートは破綻しているが、「これを止め、地球環境と調和した持続可能なエネルギー政策の大転換をはからなければ、この国の未来はないだろう」(七面)
 原発をめぐっては12月13日、中部電力が浜岡原発1、2号機の廃炉と代替機新設を計画していることが報じられています。55基ある日本の原発は老朽化が進み、17基はすでに運転開始から30年を経過しています。耐震費用もかさむので、これらの廃炉と新設がセットで進むことが予想されています。しかし、廃炉には解体や放射性廃棄物の処理の困難という大きな壁があります。放射能汚染は避けられないのです。
 もっと危ないのが、新設代替としての既存原発の出力増強です。これは、日本原子力発電が東海第2原発で計画しているもので、「新しい核燃料を従来より多くするなどして原子炉の熱出力を上げ、発電量を5%増やす」(11月26日「神戸新聞」)というものです。欧米ではすでに実施されているようですが、東海第2はすでに30年を経過しており、例えれば老いた労働者にノルマを5%増しするようなもので、心臓や血管がこれに耐えられるのか、労災が懸念されます。
 既存原発の活用は、当初予定された寿命の大幅延長、定期点検の間隔延長と日時短縮、そして今回の出力増強と、危ない橋を渡るものばかりです。1歩間違えれば谷底へ転落、つまりは過酷核災害です。経済も、労働も、思想も、自然も、この社会のあらゆる場面で資本の限界が露呈しているのです。2009年も本紙はその実態を鋭く暴き、もうひとつの社会を提起します。   (晴)


今年の目標 資格試験に合格するぞ!

新年明けましておめでとうございます。今年は、4年連続で受験している某法律系資格試験に合格することを目標にします。昨年11月にこの試験を受けて、その結果発表が今年の1月26日にあります。自己採点では、合格点に達していないので結果は厳しいものになりそうです。合格するまで、何年かかっても受験します。ある本にこう書いていました。「闘いは継続している間は敗北ではない。闘いを放棄した時に、敗北は完全に確定するのだ」と。継続こそ力だと思います。
 とは言うものの、勉強を継続することはなかなか難しいです。モチベーションが継続するかどうか不安です。しかし、今年の受験日までのスケジュールを立てておおむねその通りの勉強をすれば、継続するはずです。無理な計画は立てません。それに、この資格試験は私が好きな(得意ではない)分野なので勉強をするのに苦はありません。
 来年の今頃は、この試験に合格したという報告をしたいと思います。(河野)