ワーカーズ402号   2009/10/1    案内へ戻る

自民党的土建政治に終止符を!八ツ場ダムをめぐる攻防はその試金石

 前原誠国土交通相による八ツ場ダム建設中止表明が激しい抵抗にあっている。9月23日の前原国交相現地視察は中止撤回の声に迎えられ、関係6都県は中止撤回に向けて足並みをそろえるという。この一連の動きを報じるマスコミは、まるで自民党的土建政治の復活を望んでいるかのようだ。
 9月24日、読売新聞社説は「ダム建設の総工費は4600億円だ。うち約3200億円は関連工事などに投入済みである」「結局、ダムの完成より、中止した方が余計にお金がかかる計算だ」と、デマを飛ばしている。ダム建設に限らず、日本の公共事業は建設費用がドンドンふくらんでいく。八ツ場ダムも例外ではなく、すでに2110億円から4600億円に倍増している。しかし、ダム本体はまだ着工しておらず、建設費用がさらにふくらむことは避けられない。それでも、建設続行のほうが安くつくというのだから、デマと言うほかない。
 読売新聞はまた、当初反対の立場だった地元住民が「国との長期間の話し合いの結果、次第に住民も軟化し・・・」「こうした地元にとって、いまさら中止といわれても、納得できないのも無理からぬことだろう」とし、建設中止発言の撤回を主張している。これはまた奇妙な主張である。国との長期の話し合い≠ニは何か、自民党が強行してきた恫喝と札びらによるムダな公共事業に他ならない。
 日本列島のあらゆる地域でこうした自民党的土建事業が長く続いた結果、地域経済はこれに従属し、これなしでは成り立たなくなってしまっている。しかし今、このくびきから脱するときが来たのである。
「母子家庭で、修学旅行にも高校にも行けない子どもたちがいる。病気になっても、病院に行けないお年寄りがいる。全国で毎日、自らの命を絶つ方が100人以上もいる。この現実を放置して、コンクリートの建物には巨額の税金を注ぎ込む。一体、この国のどこに政治があるというのでしょうか」(民主党マニフェスト)
その言や良し。こうして、民主党が「脱ダム」を実行に移しつつあるのも、河川を破壊しつくす政・官・業の利権トライアングル≠ニの闘いの成果であり、これを後退させてはならない。   (折口晴夫)


それでも核兵器をなくせない――核廃絶は国境を越えた労働者の闘いで――

 今年は核廃絶の試みがクローズアップされている。8月の総選挙では日本共産党もしきりにオバマ大統領の核廃絶表明を支持する姿勢を打ち出していたし、被爆都市広島からはオバマ大統領招聘の声も聞こえてきていた。当然のことだが、核廃絶の気運が盛り上がることは大歓迎だ。そうした声はもっと大きなものにしていかなくてはならない。
 が、他方ではオバマ大統領による核軍縮のメッセージは、大国による核の独占を土台とした米国主導の世界秩序再編の一環でしかない、という現実も見る必要がある。結局は、核保有国という特権の維持を土台とする大国主導での核廃絶はあり得ないだろう。
 幻想に依存せず、国境を越えた労働者の闘いを拡大することで核廃絶への道をたぐり寄せたい。

■米国の“復権”

 9月24日、国連で核軍縮に絞った安保理首脳会合が開かれた。国連64年の歴史のなかで初めてのことだという。また安保理が決議で「核のない世界」の実現を呼びかけたが、これも初めてのことだという。
 こうした動きだけを見ると、世界がオバマ大統領のイニシアティブの下で核軍縮に向けた努力が始まる画期的なシーンだと受け取ってしまうかもしれない。しかし現実はそんな単純なはなしではない。
 直接の発端は、米国のオバマ大統領によるプラハ演説だった。そこでは「核のない世界」に向けたオバマ大統領による高らかなメッセージが語られた。
 ついで7月にはロシアのメドベージェフ大統領との間で第一次戦略核兵器削減条約(START1)の後継条約の締結で合意し、イタリアでのサミットでも「核のない世界」が共同声明に盛り込まれた。発足したオバマ大統領による米国の復権をかけた試みが具体的な成果となって実現されつつあるともいえる。
 今年1月に就任したオバマ大統領は、就任直後には世界的な不況下での米国経済の立て直しに追われた。一息ついた後、国内では新医療保険制度の創設、対外的にはブッシュ政権によるいわゆる単独行動主義という独断的な外交路線の転換の一歩を踏み出した、というわけだ。
 日本でも発足したばかりの鳩山内閣。その鳩山首相は、一時は核保有の議論もあり得ると発言したことを忘れたかのように、国際政治の舞台にデビューする場面での格好のアピール材料と踏んで、オバマ演説に乗った。日米の新首脳が、国際政治の舞台に登場する場面で相呼応するかのようなシーンだった。
 とはいっても、日米両国を取り巻く状況はといえば、そうした耳障りの良い話に終始できる状況にはない。日本のことはさておいて、米国にとってはブッシュ政権時代に失われた国際社会のなかでの米国の権威の回復、という至上命題が横たわっている。
 いまや誰の目にも明らかだが、ブッシュ大統領が強引に推し進めたアフガンやイラク戦争は泥沼状況から抜け出せないままだ。当初の思惑とは違って、いずれアフガンやイラクからの撤退を余儀なくされているが、いまだその出口さえ見いだせない。米国内でのブッシュ政権による単独行動主義からの揺り戻しを背景として誕生したオバマ政権としては、いわば地に落ちてしまった世界のなかでの米国の権威を再び取り戻す使命を帯びている。核軍縮はそのための格好のテーマとなった。
 オバマ大統領が発し、国連決議にもなった核軍縮は、これで大きく前進するのだろうか。結論的にいえば、期待できそうもない、というところだろう。実際、国連決議は強制力もなく、抽象的で中途半端な表現も多い。他の核保有国の特権に切り込むこともなければ、参加国がいやがることは巧妙に避けている。全会一致を優先させたためだという。
 そもそもこれまでの核不拡散体制や核軍縮は全く形骸化している。その張本人は米ソをはじめとする核拡散防止条約で核兵器の保有を認められている安全保障委員会の常任理事国である五大国であり、ダブルスタンダードという本音と建て前を使い分ける国益優先のパワーポリティックスだ。そうした土台の上では、どんなに建前や美辞麗句を並べても、核廃絶など遠い夢物語に終わるしかない。
 現に米国内では、今回の核廃絶イニシアチブは、華々しくデビューしたオバマ大統領の人気をあまりに早く消費してしまうものだ、という批判的なマスコミ論調も見られるという。

■核拡散の“論理”

 オバマ大統領による一連の核軍縮の呼びかけや核廃絶の取り組みの意味合いを考える場合、カギとなるのはやはり今年4月5日のオバマ大統領によるプラハでの演説だろう。オバマ大統領のプラハ演説の概要は以下の通りだ。

 核兵器のない世界の平和と安全保障
核兵器が存在する限り、米国は効果的な核戦力を維持する
 “核の傘”は保証する
 米国の核戦力の削減に努力する
 包括的核実験禁止条約(CTBT)の批准をめざす
 核兵器用の核分裂物資の生産禁止条約(カットオフ条約)の創設
 核不拡散条約(NPT)の強化

 一見するとこのプラハ演説から読み取れるのは、米国として核廃絶を視野にいれた核軍縮のイニシアティブを取っていくという高邁なメッセージであり、また反面では従来の核戦略の論理の継承という米国の基本的なスタンスの表明でしかない、という欺瞞性だ。
 「世界に核兵器が存在する限り、米国は効果的な核戦力を維持する」とはどういうことだろうか。もうこの言葉だけで、オバマ大統領に核廃絶の意志があるかどうか疑わしくなる。まさにそれ自体が核拡散の論理であり現実であって、米国がそういう立場であるならば米国以外の国もそういう立場を取りうることは当然のはなしだからだ。そうした論理を否定し克服した土台の上で、初めて核軍縮も現実味を帯びる。現にこの演説でもオバマ大統領は自分の生きている時代には核の廃絶は達成できないだろうと述べている。
 プラハ演説では、こうした核廃絶の論理を内包した立場から核削減プログラムを呼びかけているが、そうした米国の立場の矢面にとして具体的に上げられている対象は北朝鮮、イラン、およびテロ組織である。プラハ演説から浮かび上がってくるのは、結局は長期的、包括的な核軍縮への転換という旗を掲げることで、米国による核管理におけるイニシアティブの確保すること、それに目の前の北朝鮮やイランによる核開発や核武装の阻止、およびテロ組織の撲滅というねらいだ。
 そうした意図で語られたプラハ演説では当然かもしれないが、すでに触れた核の特権や米国のダブルスタンダードには一切触れていない。これはこのプラハ演説にあっても致命的な欠陥となっている。北朝鮮やイランが核開発に走るのは、五大国による核独占体制としての核拡散防止条約体制の不平等制、それにその独占体制そのものの虚構性からだ。
 不平等性というのは、核拡散防止条約で実行ある核軍縮の義務を負った超大国が、核独占にあぐらをかいて有効な核軍縮を進める姿勢さえ示さず、“使える核兵器”の開発や核の実戦配備での無言の圧力の行使を繰り返しているのが現実だからだ。
 “虚構性”というのは、新たな核開発を執拗に封じ込めようとしている反面、れっきとした核保有国イスラエルに対しては問題にもせず、またインド、パキスタンには名実とも核保有を認めてしまっていることだ。
 オバマ大統領が、本当に核廃絶を実現したいと思うなら、この不平等性と虚構性の否定こそ打ち出さなければならなかったはずだ。その上でまずやるべきは米国自身が核兵器の先制攻撃禁止を打ち出すこと、さらに実効的な核廃絶への工程表の作成を含む実効ある核兵器放棄プログラムを確約してそれを実行に移すことだろう。
 しかしプラハ宣言ではこれらにはなにも触れていないし、またイスラエルのイの字もいっさい出てこない。逆に世界で核兵器がある限り効果的な核戦力を維持するなどと謳っているのだ。だから核保有国の常任理事国も含めて全会一致で採択されたわけだが、これでは他の核保有国はじめ、イスラエルやインド、パキスタンもまたテロ組織も核保有の意図を捨てるなどいうことはあり得ないだろう。

■政治・軍事戦略の再構築

 オバマ大統領によるこうした核軍縮の推進という政策の性格とはどういうものなのだろうか。
 背景には二つの要因がある。
 一つは、91年の米国同時テロで浮き彫りになった世界の軍事情勢の変容という現実だ。かつてのような冷戦構造が崩れる中、核戦争につながる国家間の軍事的な緊張関係は薄れ、新たな脅威として核兵器がテロ組織に手に渡るかもしれないという脅威が現実のものになってきたという背景がある。米国にとってロシアや中国など核大国からの攻撃という脅威よりも、アルカイダなど国家ではない集団による攻撃の脅威のほうがより現実的になってきたという事情だ。
 二つめは、アフガン、イラク戦争の泥沼化を招くことにもつながったブッシュ政権以来の単独行動主義から、国際協調主義へ転換しなければならいという米国の置かれた事情がある。要は地に落ちた米国の権威の復権のためにも、軍事力至上主義から信頼関係の構築へ転換しなければならない、という事情からの米国の対外路線の転換だ。いわば国際政治のなかでの米国の権威の復権のためにも、政治・軍事両面に渡って、これまでのブッシュ政権時代の負の遺産を精算したい、という思惑が貫かれているのである。
 こうした事情を考えてみても、核軍縮はオバマ大統領の登場で国際政治の前面に押し上げられたものではあるが、実はオバマ大統領の専売特許ではない。ブッシュ政権は一方では米国に立ち向かってくるような国の台頭を許さない、というネオコンが主導する“唯一の超大国”路線を突き進んだが、他方ではアルカイダなどを標的とした“対テロ連合”も結んだ。ロシアとも中国とも手を握り合ったわけだ。北朝鮮に核開発を放棄させるための六カ国協議もその一つだった。
 オバマ大統領によるブッシュ時代からの戦略転換の継承は、世界の軍事情勢の変化に伴う核戦略の見直しだけではない。ブッシュ政権による単独行動主義からの転換ということについても、実は第二期ブッシュ政権時代から模索されてきたことでもある。
 90年前後の冷戦構造の崩壊後には、軍事力でも米国一極支配構造を確立した。が、グローバル化が進むなかで台頭する中国やプーチン政権下で復活したロシアをまえにして、もはやかつてのような対ソ、対中封じ込め戦略は不可能になった。中国に対しては、一時ブッシュ政権が目論んだ封じ込め政策は、米中戦略対話で経済連携路線に転換せざるを得なかった。ロシアに対してもポーランドへのMD基地建設問題や昨年8月の南オセチア戦争で浮き彫りになった“新冷戦”構造下でも、ロシアに対する軍事的な封じ込め戦略が事実上不可能になった。すでにブッシュ政権二期目で、単独行動主義は事実上大きな転換を余儀なくされていたわけだ。それだけ米国の世界的な覇権は大きく削がれていたことになる。
 こうした二つの要因に付け加えるとすれば、核戦力の維持に関わる財政負担の軽減化だろう。これは85年のソ連のアフガン撤退を期に拡がったいわゆる緊張緩和(デタント)の時代、戦略兵器削減条約で戦略核の相互削減が進められたケースでも見られたことだ。ブッシュ政権以降の核戦力の比重の縮小となれば、膨大な核弾頭やそれを運ぶICBMやSLBM、また戦略爆撃機や空母などを含めて、核戦力の維持・管理の費用を削減する必要がある。カーネギー財団による試算では、現行の核戦力の維持・管理費には年間5兆円もかかっている。対テロ戦争や大不況下でふくれあがる膨大な財政赤字を考えれば、現実味が薄れている核戦力の保持に回す資金は少しでも減らしたいと考えるのは当然だろう。ロシアでも事情は同じだ。
 すでに米ロは世界の全員を何回も殺戮できる核兵器を実戦配備している。たとえば現時点で米国は2702基、ロシアは4834基だ。この他に保管しているのも含めれば米ロとも5000基を超える。それほど持たなくても核抑止力は維持できる、1000基もあれば十分だとの説もある。――むろん私たちとしては、一発でも広島や長崎の数十倍も集百倍もの破壊力のある核兵器は、たとえ一発でも許容できないのは付け加えるまでもないが――。
 これまでの戦略核兵器削減条約などで米ロ双方の核弾頭数はかなり減ってきたが、それでも多すぎるのが現実だ。だから核軍縮とはいっても、それは米国にとって核戦略に支障を来すというものではない。あくまで核戦力を十分確保した上でなおかつ核削減が可能だというのが現実だからだ。
 こうしたことを見てみれば、オバマ大統領が言う核削減が必ずしも核廃絶に直結するものではないことが明らかだろう。紆余曲折はありながらも多少の核軍縮は進むだろう。それでもそれが核廃絶に直結しているとは思えない以上、私たちはオバマ大統領が主唱する“核のない世界”の延長線上に核廃絶を期待するわけにはいかない。
 たしかに核廃絶の気運を盛り上げることは必要だ。が、それはパワーポリティックスを克服できる国境を越えた労働者の善隣友好の闘いが拡がることによってこそ前進する。(廣)案内へ戻る


紹介  落語について

 私は、落語が好きです。その中でも「代書」という演目を気に入っています。
 これは、先代である4代目の桂米團治が、副業で代書屋をやっていて、1938年この「代書」というネタを創ったのが始まりです。
 代書屋、今でいうと行政書士です。このネタができた1938年当時は、字を書けない人も結構いたのでしょう。字を書けない人が、代書屋に履歴書を書いてもらうという話です。
 依頼者「書いてもらえまっしゃろか」 代書屋「何です?」 依頼者「ぎれきしょっちゅうもんですけど、ちょっと書いてもらえまっしゃろか」 代書屋「ぎれきしょ?履歴書と違いますか?」、というふうに、依頼者は履歴書というのが何かわからないわけです。それを、代書屋が依頼者と問答しながら説明していきます。生年月日についても依頼者は、「そのせーねんがっぴも確かなかったように思うんです」と言っています。
 職歴についても依頼者は、やろうと思ってやらなかったり、2時間で辞めた仕事のことを言って代書屋から怒られます。
 さてこの「代書」ですが、私が一番気に入っているのは1999年亡くなった桂枝雀が演じるものです。この人の落語は、聞いている間まったく退屈しません。動きもそうですが、しゃべりもおもしろいのです。今現在、桂枝雀を上回る落語家はいないと思います。
 この当時の代書屋は、履歴書の代書とかの仕事が多かったのでしょう。しかし、今の行政書士は遺言や相続、その他様々な申請書類など複雑になっています。
 私自身、今年の11月行政書士資格試験を受けます。今年こそは、合格したいものです。        (河野)


反戦通信25・・・「戦争を語り継ぐ(下)」

 8月1日号の「戦争を語り継ぐ(上)」で映画「嗚呼 満州開拓団」を紹介して、少し間が空いてしまったがあと2つの映画作品を紹介したい。
 最初に紹介する作品が、海南友子監督のドキュメンタリー作品「にがい涙の大地から」である。2005年の作品で各地で上映されているのでもう観た人もいると思う。
 彼女は大学卒業後7年間NHK報道ディレクターとして働き、00年にフリーとなり、インドネシアの従軍慰安婦を描いた記録映画をつくった。その彼女が03年夏、旧満州のハルピンを旅行していたとき、一人の若い中国人女性と知り合う。
 その中国人女性から「95年に父親を道路工事中の爆発事故で亡くした。爆発したのは、日本軍が残していった砲弾である。父親の入院費を払うために、学校を中退し食堂の店員として働いた。母親も過労で倒れた」と聞く。
 その出会いをきっかけに、海南監督は旧日本軍が遺棄したとみられる毒ガス兵器や砲弾による被害者、家族約60人に対して必死に取材活動を展開する。
 旧日本軍は、国際条約で禁止されていた「毒ガス彈」(イペリット・ルイサイト・マスタード等)を中国大陸で大量に使用した。敗戦後、隠蔽するために大量の「毒ガス彈」を中国大地に埋めて逃げた。日本政府の推定で約70万発が放置されている。旧満州・東北部でも開発が進み、その工事中に土中から掘り出された毒ガスや砲弾で被害を受ける人が増加し、被害者は2千人以上と言われている。
 これまでも中国人被害者たちが三つの損害賠償を求める訴訟を起こしているが、日本政府は相変わらず「賠償問題は日中国交回復の時に解決済み」との立場で、被害者への謝罪と救済を拒否している。
 中国での遺棄「毒ガス彈」の多くは、竹原市・大久野島で製造されており、その「毒ガス彈」の製造に関わった日本人たちの被害・補償問題も起きている。さらに、敗戦時旧日本軍は隠蔽のために「毒ガス彈」を国内各地(土中や海洋)に放置した。
 これまでも、工事現場で地中から発見されたり、漁船が底引き網で海底から引き上げて被害が出た事例が幾つも報告されている。環境省も、2003年11月に「旧軍毒ガス彈等に関する全国調査結果」を取りまとめ、全国138か所の事案(陸上を確実性が高いランク順に「A事案」「B事案」「C事案」「D事案」と、海中を「水域」と類型している)を発表している。
 このように旧日本軍が製造し遺棄した「毒ガス彈」の被害が21世紀の今日でも起こっており、これからも新たな被害者が生まれる可能性がある。
 後世に災いを残さない意味でも、遺棄兵器の処理は重要な戦争責任の一つである。

 もう一つ紹介したい映画は、酒井充子監督の初作品「台湾人生」(2008年・81分作品)である。彼女も大学卒業後民間会社勤めや新聞記者を経て、映画作りへの道に進んだ人である。
 1998年、台湾映画「愛情萬歳」を見て感銘し台北を訪れた時、小さな村で一人のおじいさんと出会う。そのおじいさんが「日本から来たですか?」と流暢な日本語で話し掛けてきて会話をする。
 戦後生まれの若い彼女には、なぜこんなにも日本語がうまいのか?ビックリする。その後、足かけ7年におよぶ台湾取材を経てこの作品が完成する。
 この作品の中心は5人の「日本語世代」(日本統治時代に日本語教育を受け、日本人として生きてきた台湾人)の人生を振り返る作品である。
 台湾は1895年(明治28年)から1945年(昭和20年)までの51年間、日本の統治下にあった。日本帝国主義の日本最初の植民地になった台湾は、まさに植民地政策の試験場となり、台湾は日本になった。
 しかし当然、台湾人の反発は強く抗日ゲリラの抵抗が続く、その最大の台湾原住民の抵抗蜂起が1930年の「霧社事件」である。太平洋戦争が激化する1942年〜43年には「志願兵制度」が開始、さらに1944年には「徴兵制度」が開始され台湾の若者達が戦場に駆り出されていく。台湾の軍人・軍属約21万人のうち、約3万人が死亡。台湾の主要都市も米軍の空爆の標的になり、市民の死傷者・行方不明者は1万5千人も出ている。
 日本敗戦後の台湾は、1945年蒋介石の国民党が台湾を統治するが、1947年国民党の暴政に台湾人の怒りが爆発する「228事件」が起こる。1949年から国民党は台湾全土に1987年までの38年間も「戒厳令」を敷き、軍事力で独裁支配した。
 台湾の最も激動の時代を力強く生き延びた5人の「日本語世代」の言葉は重く、おどろきの歴史を語る。この映画で、是非その声を聞いてほしい。
 最後に、今回紹介した二作品とも30代の若い女性監督の作品である。台湾・中国への侵略戦争と植民地支配の歴史を、若い人は若い人の感性でその戦争に翻弄される人間模様を描き問題提起したと言える。若い世代の新たな挑戦を評価したい。
 私たちは次の世代にどう戦争を語り継いでいくか?どう平和運動を継続させていくか?「つなぐ役目」という課題を突きつけられている。(富田 英司)案内へ戻る


「バンキシャ」を見て

 中田市長を追及してきた太田正孝横浜市会議員が出演するとのホームページでの告知をうけて、私はどんな内容になるのかとの大変な関心を持って、私は午後6時からの「バンキシャ」を注視しておりました。
 しかし今回で降板する菊川怜に対する呆れるほどの馬鹿話に比較しても、開港祭の報道はたった十五分ほどでしかなかったので、正直がっかりしましたが、開港150年祭の責任に対して、中田前市長の行動のいかがわしいだけは、視聴者には伝わったようです。
 その証拠に、横浜市会議員太田正孝氏のホームページの市長問題から貼り付けます。

狼狽する中田に快哉! 投稿者:老職員 投稿日:2009年 9月27日(日)18時57分12秒
日テレは土曜朝の番組などで未だに中田を使い続けるので、日テレに怒りを感じていたが、今日は思わず快哉を叫ばずには居られなかった。
 コメンテータの河上弁護士の辛口の質問に、右往左往、眼がキョロキョロ、途中で市長職を投げ出した事まで指摘され、狼狽。我々が言いたかったことを言っていただいた。
 マスコミを利用するつもりが、逆に醜態を晒した中田。テレビカメラは正直だ。
 市民代表で組織されている市会の喚問には応じず、TVなんかにのうのうと出ているからこんな事になる。
 この7年半、横浜市をダメにした責任をしっかり取らせたい。太田先生のインタビューは少しでしたが、核心を突いた答えでさすがと思いました。引き続き、中田追及を宜しくお願いします。

 入場予定者500万人に対して、実入場者は120万人。入場券は133万枚売れたのにもかかわらず、この集客数なのです。精算すれば数十億円の大赤字は必至といわれております。事ここに至っても税金からの補填の話はでできません。取材を受けた人はとぼけていたのです。したがって私は、彼は何か隠しているとしかいうことができません。
 官僚の無責任体質からは、赤字の補填には税金しかないからです。今後の赤字の責任の追及に、私は大いに期待しております。
 さてこんなに惨めな中田前市長に、仙谷大臣は「行政刷新会議」のメンバーにとの招致を働きかけています。これには太田正孝市議会議員たちは、仙谷大臣に対するメール送信の抗議行動を提起しております。
 私もこれに賛成して行動したいと考えています。民主党には、中田前市長の評価については、横浜市の関係者からの事情聴取をしっかりとしろといいたいところです。(猪瀬)
 

とも食いか相互扶助か

 枝雀の落語に題は忘れたが、墓場で一人酒宴をするというのがある。枝雀さんは、キレイ汚いというのが職業にも区別が生じ、ごく最近まで上女中さんと下女中さん分かれていた、この上下の別をきらったようだ。不浄の仕事(下働らき)をするものと奥向きの仕事をするものとの別があった。
 枝雀さんはそうした区別がイヤだったのか、上も下もごっちゃにして、オマル弁当、シビンに酒をつめて墓の前で一杯やるという話がある。また災害の際に神様のお札もカイメヨフーもオマルもシビンも、いっしょにプカプカ流れて行くという話もする。 
 かつてお隣の中国の作家ロジンさんは祝福≠ニいう作品の中で可哀そうな、夫にも見放され子も死んでしまった下働らきも女子仕(おなごし)には、神棚のものには触らせないという描写がある。グチばかり言う可哀そうな女性は、ついには幸福に暮らせる来世という唯一の救いの世界も、ありやなしやと疑問をさえも抱くようになる、というのがある。ロジンさんは涙する。
 枝雀はそこまでは踏み込まないが、仕事にまで淨、不浄の差別があるのが、たまらなくイヤだったのだろう。上も下も一緒くたにしたり、貧富の差によってキレイ、汚い生活のありようを、ないもの人情でカバーしようとした鴻池の犬≠ネどを語る。いまやなにわ節だよ人生は・・≠ナはどうしようもない、人間を取りもどせない荒野に生きているようなものである。そうした己れを超えていかねばどうしようもなく、その萌芽が少しづつ出現しているようでもある。
 カメラを食べたゾウさん=i湾岸戦争時のクエートの動物園であった事実)にあるように、食糧もなく閉じこめられしめつけられた動物たちがトモグイをする。しかし、それよりは相互に支えあって活路を見出そうとすることによって、それが人間をとりもどす道でもあるということが、人間の証でもあり生きる道でもあるという現象が現れはじめていることは、心楽しいことでもある。
 こう考えてくると宗教的反乱ではあるが、天草の島原城にたてこもった人々は、決して共食いには走らなかったと聞く。改めて宗教とは何だろうとフシギに思う。 09・9・23 宮森常子案内へ戻る


色鉛筆−ライフスタイルを見直そう

 日本の2020年の温室効果ガス排出量を1990年比25%削減する目標を決断した鳩山首相は、サミットでも注目されたようです。大胆な目標値に経団連などは猛反発ですが、日本の生産システムを見直し新たな産業への転換が出来るチャンスと、前向きに考えるべきではないでしょうか。
 あらゆる電化製品に囲まれた現代社会の生活を点検してみたら、その必要性があるのか疑問に思うものもあります。1950年代に冷蔵庫・洗濯機・掃除機などが普及し、家事軽減に大いに貢献してくれました。しかし、商品を開発する企業側からすれば、普及を終えて次は高度な技術を備えた機器を市場にと、終わりがありません。
 洗濯機を例にとって見ると、二層式から全自動へ、今や乾燥機つきのドラム式洗濯機が人気です。ボタン一つで洗濯・すすぎ・乾燥と確かに便利ですが、その電気量(全自動はかなりの時間がかかる)と衣類の傷みなどマイナス面も気にかけて見てはどうでしょうか。本当に必要な物か、選択できる賢い消費者になりたいものです。
 ところで、食生活でも1960年代から出始めた、大型ガスレンジ・電子レンジ・オーブンなどは、利用することによって食材の細胞が破壊され、微生物やミネラルの無くなった食べ物になってしまいます。その上、大型冷蔵庫の普及は、本来なら自分で作っていた保存食も作る必要がなくなりました。保存食(主に発酵食品)は少ない食糧から栄養を効率的に摂取できる昔からの知恵でした。旬のものを新鮮なうちに食べることも、もちろんでした。
 そして添加物へと、ますます食生活は乱れますが、現在では約1500種類の食品添加物が存在し、加工食品や調理済み食品を利用した場合は、1日に500種類ぐらいは口に入れることになるそうです。単独で使う食品添加物は安全と認られていても、2つ以上同時に使った場合の安全性の試験は行なわれていないので、とても危険な食生活と言えます。
 温暖化効果ガス削減対策として総務省が打ち出した(9月24日)、自治体サイドの財政支援の記事は気づかれましたか? 都市部の自治体が庁舎の冷暖房・ごみの焼却炉などから排出する二酸化炭素などを、農村部の自治体と森林整備などの協定を結ぶことで削減対策を行い、その対策費を総務省が特別交付金で財政支援することを決定しました。植林や間伐、森林を管理する作業所作りなどの費用の7割を配分するようです。都市と農村との交流も出来て、いい試みだと思います。
 私たちも自分の健康を維持するためにも、電化製品の利用の仕方を工夫するなどして生活を見直してみましょう。それが、地球温暖化防止に微力でも役立つはず、2020年に向けて行動しましょう。(恵)
(共同購入・あしの会通信。09・9・16号参考にしました)


コラムの窓 お守りは精神安定剤?

 つい最近、担当業務の交替で、「スタッフの業務の遅れをチェックする担当」に当たってしまった。そもそも、人にゴマをすったり、苦言を呈したりするのが嫌いなので、技術職の道を選んだのに、こともあろうに、他の技術スタッフたちの業務の進行情況を、一日中モニターで監視し、遅れが見られたら、そのスタッフに「この検査、1時間たってますが、大丈夫ですか?」と、いちいち指摘するのだ。指摘されるほうも、いやな顔をするし、こちらもいやだ。
 終業時の1時間前位にもなると、当日の未完了業務をピックアップして、忘れていないか、翌日に確実に検査材料が保存できているか、チェックするのである。この辺で、担当者としてのイライラ感は、ピークに達する。仕事が終わっても、このイライラ感は続いて、帰り道も尾を引く。
 おかげで、毎日のように、ストレスを吐き出すために、帰り道に居酒屋に寄って、度数の高いアルコールを煽り、常連さんとおしゃべりしないと、クールダウンできなくなってしまった。こんな生活を続けたら、メタボに逆戻りだけでなく、精神もおかしくなってしまうのでは?
 やむなく、近くのメンタルクリニックを訪ねて、実状を話した。「では、一番弱めの精神安定剤を処方しましょう。一応、これでイライラはかなり治まりますが、車の運転はしないように」と、ワイパックとかいう安定剤を処方してくれた。
 以来、職場の引き出しには、この安定剤の入った錠剤ケースが備えてある。一度、試しに服用してみたら、たしかにイライラは緩和されるが、強い風邪薬を飲んだ時のように、眠気がきて、あまり気分のいいものではない。
 とはいえ、自分の引き出しに錠剤があるだけで、「イザとなったら、あれがある」と思えるので、なんとかイライラ感をコントロールできるようにはなってきた。まあ、お守りみたいなものだ。また、職場では同僚や上司にも、「僕はこの業務の担当になってから、安定剤を処方してもらっている」と言いふらしている。それでまた、すかっとしている面もある。さらには「実は、僕も安定剤のお世話になってますよ、薬の種類は何ですか?」などと、共通の話題に発展し、新たな「仲間意識」が芽生えることもある。
 それにしても、そのメンタルクリニックを訪れたとき、若いOLふうの女性や、中年の女性など、けっこう診療にきている人は多いものだと思った。やはり、職場のストレスなのだろうか?それとも家庭の問題だろうか?
 以前、上海に旅行したとき、ガイドさんが市内の道教のお寺に連れていってくれた。そこにも若い女性がお参りにきていて、何やら真剣な表情で礼拝のしぐさをしていた。「きっと、何か悩み事があるんでしょうね?」とガイドさんが言った。働く女性が、仕事上の悩みで、お寺に来ることが多いのだそうだ。
 最近、産業医学の研究者の発表を聞く機会があったが、働く人のストレスの原因について調べていた。その特徴として、交代制勤務の人に多いこと、独身男性にストレスによる過食傾向が見られること、性格的には「Aタイプ」(几帳面で完全主義)がストレスをまともに受けやすいこと、などであるという。その研究者が「意外だったのは、ストレスの原因は主に仕事かと思ったが、家庭の問題が原因になっているケースが、けっこう多いことがわかった。」と述べていたのが印象的だった。
 知りあいの年輩労働者が、こんな話しをしていた。「実はうちの娘がヒステリックになってしまって、困っている」というのだ。原因は、その夫の労働者が、最近、リストラで会社を解雇され、ハローワークに行っても、40代というだけで、面接ではねられ、職にありつけない。その勢いで、妻に八つ当たりするようになった。妻は、夫に八つ当たりされたストレスを、今度は子供に当たる。その子供が荒れて、飼っている動物に当たる。というわけなのだそうだ。
 よく職場でありがちな「ストレスのドミノ倒し」が、家庭内で起きてしまい、悪循環になってしまっているのだ。結局、「家庭の問題」というのも、仕事の問題に端を発している場合が多いのではないだろうか?
 先程紹介した産業医学の研究発表は、実は、健康診断で生活習慣病を指摘された労働者について、単に診療するだけでなく、事業所の管理者や産業医とタイアップし、作業環境の改善余地があれば、そこに踏み込んでいくという試みなのだそうだ。
 僕も、メンタルヘルスに駆け込むだけでなく、職場の産業医にも相談したり、組合の話し合いの議題にもして、イライラしないですむよう、業務の組み立て方を改善することを、当面のテーマにすべきなのだろう。(誠)案内へ戻る


編集あれこれ

 鳩山政権に何ができるのか、本紙前号では何より幻想を持ってはいけないと訴えています。政権が変わった、さあ後はお任せということではなく、引き続き闘っていこうということです。とりわけ、派遣労働の原則禁止や最低賃金の引き上げについて、労働者自身の闘いによって始めて実現するものだという指摘が行なわれています。
 しかし、これって鶏が先か卵が先かという類ではないでしょうか。法的規制を実現するためには労働者の闘いが必要だし、労働者の闘いは何がしかの法的権利を利用して行なわれています。実際には、現場での使用者側とのせめぎあいと、労働委員会や裁判という場での闘いが組み合わせとなります。その足がかりとなる労働諸法は改悪が重ねられ、非正規労働とワーキングプア≠フ蔓延という現状が出現しています。
 最低賃金の全国平均1000円への引き上げについてみてみると、その大幅引き上げは獲得すべき課題として多くの労働組合が取り組んできた課題です。民主党がマニフェストに「景気状況に配慮しつつ、最低賃金の全国平均1000円を目指す」と書き込んだのは、その成果にほかなりません。その民主党を中心とした新しい政権が誕生した以上、その実現を求めるのは当然です。
 もちろん、法的規制の実現と現実的な実現は別問題です。地域によっては700円にも満たない現在においても、外国人研修・実習生に対しては意味を成していないし、障がい者の労働現場では賃金≠ニいう概念すらありません。それでも、最低賃金はひとつの指標であり、それが1000円になれば時給で働く労働者にとって大きな武器となるでしょう。
 それよりなにより、現在の全国平均713円で年収を計算すると、2000時間の労働で142万6000円です。これが1000円になっても、やっと200万円であり、ワーキンブプア≠ゥらの脱出には到りません。そういう意味では、時給1000円は実に控えめな金額です。せっかく政権交代が実現したのですから、その成果としてこの時給アップをぜひとも実現したいですね。     (晴)