ワーカーズ412号  2010/3/15  案内へ戻る

高校無償化法案から朝鮮学校の除外を許すな!

 1月29日、鳩山内閣は高校無償化法案を閣議決定した。この公立高校無償化に伴い「高校と同等」の各種学校の生徒についても、私立高校生と同様に年額約一二万円の「就学支援金」を支給することになり、細部については4月までに省令で定める方針であった。
 ところが2月20日、中井拉致問題担当相が、朝鮮学校を対象から外すようにとの横やりを入れた。不当にも川端文科大臣らが除外の検討に入り、衆院で今まさに審議中である。
 現在全国にある朝鮮学校は、各都道府県の認可を受け、授業科目や時間数、財務等の書類を提出し承認されて毎年公費助成を受け、東京都は生徒一人当たり一万五千円、大阪府では同約七万円と、自治体によりその金額は異なる。そして焦点となる朝鮮高級学校は、全国に十校あり、現在約二千人が学んでいる。法律上は各種学校扱いで、現在幼稚園から大学まで朝鮮学校で学ぶ子のうち、韓国籍の子が五一%、朝鮮籍の子は四六%、日本国籍や中国籍の子は三%。朝鮮学校は国籍の分布からも分かるように北朝鮮の学校ではない。
 文科省は「授業内容と本国の教育課程が日本の学習指導要領におおむね合致していると確認できる」事が無償化対象の条件とすべきとし、各地で既に認可済みの朝鮮学校の学習内容が確認できないとの詭弁を弄して、無償化の対象から外す事を正当化しているのだ。
 3月3日、この展開に悪のりして朝鮮学校批判の急先鋒に躍り出たのが、橋下大阪府知事である。彼は「北朝鮮は暴力団と同じ不法な団体で(学校との)関連性を認定しなければならない」と発言した。私たちは橋下知事のこの無知蒙昧を断固として糾弾する。
 実は、この高校無償化法案は海外の日本人学校に通う日本人の高校生すら除外していた。
 民主党は「教育基本法」の理念の実現のため、国籍を問わず、日本社会で学ぶすべての高校生や各種学校の生徒に「教育の機会均等」を保証しなければならない。この事こそ鳩山総理の説く子供の命を大切にしアジアを重視するとの言動を真に担保するものである。
 朝鮮学校を高校無償化法案から除外するなどもっての他である。この件については社民党は勿論の事、共産党や在日外国人への選挙権付与に反対する国民新党さえも、はっきりと反対している。まさに民主党と鳩山総理の真価が問われているといえる。
 命を守りアジア重視を説く鳩山総理は、姑息な二枚舌を使うべきではない。  (直木)


政府・与党検討委の欺瞞性を問う!
  名護市議会「キャンプ・シュワブ陸上案」を否決!


 8日、政府・与党3党で検討する沖縄基地問題検討委員会(委員長・平野博文官房長官)が開かれ、社民党は「グアム」、国民新党は「県内」を主にした移設候補地案を平野官房長官に提案した。
 連立政権を組む2党がそれぞれ提案したことで、形の上からは連立3党が対等に移設先検討に関与した形になった。しかし、同時に検討委では今後の政府案の検討や対米交渉は政府主導になることを容認しているので、この検討委の提案が今後どうなるかまったく不透明である。
 民主党は与党3党の検討委と言いながら、自らの案を示さないで、連立2党のみに案を提出させ、結局は最後は自分たちで「仕上げ案」を決める姿勢である。では一体なんのための検討委だったのか、「アリバイ」の場づくりにすぎなかったと言える。
 民主党は県外移設を困難視しており、国民新党の使用期限設定も非現実的だとの見解で、「シュワブ陸上案」や「津堅島沖合案」などの県内移設案に傾いている。
 同じ8日、沖縄・名護市では市議会定例会が始まり、定例市議会冒頭に議員提出の「普天間飛行場代替施設のキャンプ・シュワブ陸上案の検討に反対する意見書」と抗議決議案が提案され全会一致で可決された。
 採択された意見書の内容を以下に紹介する。
 『普天間飛行場移設問題について、平成8年のSACO最終報告の中で普天間飛行場の全面返還が日米間で合意されて以来、移設に係る様々な計画や方針が提起される中、地元久辺三区を含め名護市及び周辺地域は、市政の重要課題として同問題に対峙してきた。
 名護市は、普天間飛行場周辺地域・住民への危険性の除去の原点に立ち、その必要性を認識したうえで、キャンプ・シュワブの基地に隣接する地元三区の住民に対し誠意をもって説明をし、これまで13年間、沖縄県並びに地元の方々とともに検討を重ねてきたところである。
 去る3月3日に国民新党は議員総会において、キャンプ・シュワブ陸上案を一つの案として、沖縄基地問題検討委員会への提示を決定したと、翌4日の県内各紙で報道された。
 そもそも、普天間飛行場代替施設の協議のスタートは、同飛行場が住宅密集地の中心に位置することによる地域住民等への危険性除去が目的だったにもかかわらず、今回、国民新党が提案決定したキャンプ・シュワブ陸上案は、これまでの移設案よりも住宅地域に近接することになり、単に、普天間飛行場の航空機騒音や危険性をそっくりそのまま、名護市に移しただけのものであり、我々がこれまで基地被害を訴え、陸上地域へのヘリポート施設等の計画等に反対してきた願意までも無視するものであり、言語道断である。
 キャンプ・シュワブ陸上案は、久辺地域及び名護市民の安全と安心して暮らす生活環境のみならず、国立沖縄工業口頭専門学校や地元小中学校等の教育環境までをも破壊するものであり、断じて許されるものではない。
 よって名護市議会は、市民の人権と生命・財産を守る立場から、キャンプ・シュワブ陸上案に断固として反対を表明する。』
 稲嶺進名護市長も施政方針演説で「辺野古の海(沿岸部)はもとより陸上にも新たな基地は造らせないとの信念を最後まで貫き、市民とともにまい進していく」と重ねて表明した。
 この間、辺野古基地建設反対の稲嶺市長の誕生、県議会の「国外・県外」移設を求める意見書の採択と、県民の思いは一つになっている。当然、度重なる平野官房長官の暴言には怒り心頭である。
 今回の国民新党の下地議員提案(キャンプ・シュワブ案)に対しても、「県民がせっかく県外移設で一致した。代議士は県外では誰もOKしないと言うが、それなら沖縄もOKしちゃいけない。・・・県民代表として別の案にしてくれないか」との声が上がり、まとまる沖縄選出国会議員の足を引っ張る下地議員への批判は高まっている。
 政府が5月末までに結論を出すとしていることから、県議会は4月中旬に10万人規模の超党派による県民大会を開くことを全会派で確認した。
 さらに、5月には沖縄復帰の「平和行進」があり、それに合わせて「普天間包囲」行動を取組むことも市民団体は計画している。
 このように、今後”オール沖縄”の闘いを押し進めて、ブレる民主党を突き上げていくだろう。(英)
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色鉛筆  沖縄2題

@辺野古にて
3月6日土曜日。穏やかな海には釣り人がそこここにいて、座り込みテントでは数人が昼食中。赤ちゃん連れの若いご夫婦もいる。緊迫した長く苦しい闘い(座り込み2148
日目)を経て、今はつかの間のいこいのひとときかもしれない。
 国民新党の下地議員提案の「キャンプ・シュワブ陸上案」がもし実施されれば、陸地が削られ、赤土が大量に海に流れ出し、その被害は計り知れない。
 また最近は、米軍のアフガニスタン増派に合わせた訓練として、水陸両用の装甲車を砂浜で走らせている。昨夏には座り込みテントの目の前(基地の外)を重装備の米兵が歩いたと言う。戦場と沖縄とが本当に直結しているということをまざまざと突きつけられる。
これまでのヘリコプターCH46にかわり配備されようとしているMV22オスプレイは、3倍の積載量の最新鋭機というものの墜落事故の非常に多い欠陥ヘリコプターで、米国では「未亡人製造機(widow maker)」「飛ぶ棺桶」と呼ばれている。今も住民らが配備に反対して闘っている。
「私を殺してから作れ」・・・これは辺野古の海上基地建設反対に、最初に立ち上がったお年寄りの言葉。戦争ですべてを失ったとき、海の豊かな恵みによって生命をつなぐことができたからこそ海を守るのだという強い決意が込められている。
 伊江島でお会いした山内徳信参議院議員は「私はこれからも、民衆の力と闘いの勝利を信じる。おじい・おばあみんなの力で辺野古の海上案を阻止した。岡田外相には、北谷町など嘉手納基地隣接の町に半年でも1年でも住んで、殺人的騒音を体験してから発言しなさいと、さらに”私を殺してから作れ”と迫った。」と力強く語られた。

A琉神マブヤー
お世話になった宿の5歳の息子さんは、今沖縄の子供達に大人気の「琉神マブヤー」に夢中だ。魂(マブイ=沖縄の心)を取り返すために、悪の軍団と闘うのだが、スーパーヒーローにしてはちょっと弱そうな所も魅力だ。悪の軍団の方も、人間が自然を破壊するようになってから悪者になってしまったというちゃんとした理由があり、その名も「ハブデービル」「オニヒトデービル」などどこか愛らしい。
使われる武器も「メーゴーサー(げんこつ)」や「ゴーヤーヌンチャク(相手を健康にしながら勝つ)」等、徹底的に相手を打ちのめさない、ほほえましくユーモラスな愛のムチの様なものだ。琉神マブヤーが、奪われそうになる「ウチナーグチ(沖縄の言葉)」や「エイサー」を闘って取り返すという物語は、子ども向けとはいえ大人をも引きつける奥深い魅力があると彼の母親が言う。
明治時代に始まり、第2次大戦中そして戦後も実際に言葉や島唄や踊り、文化、習慣などを禁じられてきた。沖縄ではクシャミをした後「クスケ!」と言う。クシャミをすると無防備になり、魂(マブイ)が抜けてそこに悪いものが入り込むので、それを追い払うための言葉だが、明治政府はこの「クスケ」を禁じた。しかしこの「クスケ」も島唄もウチナーグチも、支配者に禁じられながらも現在に至るまで生き続けて来ている。何人もの琉神マブヤーがいたのかもしれない。
「まだ沖縄に基地を持ってこようとする人たちは、魂(マブイ)の抜けた状態だ。」これはある琉神マブヤーファンの言葉である。(澄)


コラムの窓・調査捕鯨って言うけれど

 調査捕鯨をめぐって、オーストラリアと激しく対立しています。オーストラリアを寄港地としている米環境保護団体「シー・シェパード」による暴力的調査捕鯨妨害については、2月21日の日豪外相会談において「攻撃的な活動で容認できない」となったが、スミス豪外相は「国際捕鯨委員会(IWC)で解決できなければ国際司法裁判所に持ち込み、南洋での調査捕鯨停止を求める」(2月22日「神戸新聞」)と厳しい態度を示しています。
 IWCはどうか。23日の「神戸新聞」によると、「マキエラ議長(チリ)は2月22日、IWCの頭数管理が及ばない現行の調査捕鯨を10年間停止する代わりに、捕鯨頭数を『大幅削減』した上でIWC管理下で南半球での捕鯨を認める提案をまとめた」ということです。これに対して、オーストラリアは捕鯨の段階的廃止を求める独自案を提出し、これまで調査捕鯨名目で毎年数百頭も捕獲してきた日本はその継続を前提に捕獲数で譲歩しようという姿勢です。
 ここで問題なのは調査捕鯨≠ニは何かですが、数百頭もの捕獲が調査≠フ枠に収まらないことはあまりに明らかです。しかも、毎年5億円以上の税金が22年間も支出されてきたにもかかわらず、関係者の間では鯨肉が不正に横流しされていることが公然の秘密だとなると、看過できない事態です。
 現在、鯨肉裁判が青森地裁で行われていますが、これはこうした不正、鯨肉横流しを裁くものではありません。内部告発があり、グリーンピースの職員がその鯨肉を確保し告発したところ、逆に「窃盗罪」容疑で逮捕されたものです。被告とされた鈴木徹氏は、マスコミの目前での75名を動員した逮捕劇や、横領鯨肉の実態に触れさせない青森地検の対応について次のように述べています。
「たつた2人のNGO職員を逮捕するために、公安警察38名、青森警察署37名、合計75名もの警察官を動員したこと。逮捕同日に東京地検が強制的な手続をすることなく、鯨肉横領の捜査を打ち切ったこと。本件の被害者が横領鯨肉の箱の持ち主でなく、運送会社職員とされたこと。黒塗りの一連の証拠が決して開示されなかったこと。公判前整理手続において終始青森地検は鯨肉横領の実態に関する証人・証拠を不同意し続けたことなど、被告人として今日まで身をもって経験した数々の出来事に関しては、驚きを隠せません」
 同じく佐藤潤一氏は、南極海で大量の鯨肉が投棄されていること、船員が大量の鯨肉を持ち帰っていること、癌などの病気が見つかった鯨の肉も販売にまわされていることが耐えられないと言う内部告発者の声を紹介しつつ、次のようの述べています。
「私たちが大々的に逮捕されたその当日に、船員の横領行為については強制捜査もないまま不起訴になりました。さらに、水産庁の官僚や事業主体である日本鯨類研究所の職員が、賄賂のように高級鯨肉を貰っていた事実もまともな調査すらされず、今後は鯨肉を受け取らないとするだけで責任を取っておりません」「このことでもわかるように、この鯨肉不正横流し問題は、船員個人の横領問題だけではなく、調査捕鯨の主体である日本鯨類研究所、共同船舶株式会社、そして水産庁が三身一体となって行ない、その不正が発覚した後に3者が隠蔽した公の機関を巻き込んだ腐敗なのです」
 こうした組織的巨悪の告発を、つまらない窃盗事件の刑事裁判にしてしまう、マスコミは演出された逮捕劇≠ノ乗っかるばかりです。ちなみに、国際的には両氏の逮捕・拘留は人権侵害であり、市民には政府の不正を追求する権利がある、とされています。日本政府が人権などの国際基準を破って恥じない現実は、いやというほど見せつけられているので驚きはしませんが、情けない限りです。
 この件に関して、日本鯨類研究所と共同船舶株式会社が昨年7月18日、「鯨肉をめぐる問題についての報告書」を水産庁資源管理部長宛に提出しています。不正の3者が勢ぞろいですが、問題の鯨肉は共同船舶が日本鯨類研究所から買い取り、下船時に土産用として配布したものであるといった内容になっています。しかし、この主張は現在進行形の裁判においてそのウソが暴露されています。
 さて、最後に捕鯨そのものの評価ですが、日本の伝統≠竍文化≠持ち出して国際基準の押し付けに反対する論があり、何か正当な主張であるかに扱われています。しかし、そうした主張がもっぱら誰によって行われているのか、誰の利益に帰すのかということを考えれば、伝統≠竍文化≠振り回すことの危うさは明らかです。鳩山政権も事業仕分けで成果をあげたいなら、調査捕鯨を逃すことは出来ないでしょう。  (晴)案内へ戻る


紹介
『新・マネー敗戦』 岩本沙弓著 文春文庫 860円 2010・1・20発行

――マネー・ナショナリズムによるサバイバル戦略――

 政権交代以降、民主党のマニフェストがらみの攻防が連日のようにテレビなどでも報じられている。その多くは私たちの生活に直結しているテーマでもあり、目が離せない。が、そうした政治の舞台での攻防戦から少し離れ、政治や生活を土台から左右する経済の土俵上での動きを理解することもとても大事だ。
 08年9月のリーマン・ショック以降の劇的な経済の収縮は、米国のゼネラル・モーターズや日本航空の破綻、それに雇用破壊や非正規切りをもたらしたばかりでなく、世界の政権に景気の立て直しや企業救済という重圧を与え続けている。
 本書は、近年繰り返されるバブルとその崩壊のメカニズムを、豊富なチャート(統計グラフ)を多用して浮かび上がらせると同時に、一定の立場から、その対抗策の提起を試みている。いわく、米国による国益をかけたサプライズの可能性、1ドル50円時代の到来、日本復活の方策はいかに、といった具合である。

  ◆ ◆ ◆ ◆

 普通の人にとって経済のテーマは難しい。新聞やテレビなどで接する経済ニュースは、多くは断片的な情報や分析の羅列で、地球レベルの経済メカニズムやその大きなうねりを実感を伴って感じ取るのはことのほか困難だ。専門書を含めて経済をテーマとした出版物は多いが、それを気軽な新書の形で手に取れることはありがたい。
 本書の著者は、内外の大手金融機関で外国為替業務に携わったトレーダーの経験を持つコンサルタント・経済評論家である。本書でも様々なチャートを駆使し、あるいはトレーディング・ルームでのリアルな描写もちりばめた、マネー戦争の緊迫感ある場面も垣間見ることができる。
 本書の書名の由来は、いうまでもなく1998年に同じ文春文庫から出版された『マネー敗戦』に由来している。著者の吉川元忠氏はその本で、ドルに翻弄される日本経済を「敗戦」と規定し、国益を重視する視点から漫然と米国に追従する無策を糾弾した。本書も基本的な思いとスタンスが同じ事から、こうしたネーミングとなったわけだ。
 著者は二つのエピソードから話を始める。9・11テロ(第1章)とサブプライム危機(第2章)だ。
 著者はマネー戦争における強者と弱者の関係を、サバンナにおけるライオンとシマウマに置き換えて説明する。9・11テロにさいして、その直前に投機マネーがドルから逃避する動きに注目する。そして誰かが大事件を事前に察知していた可能性に言及し、一部の強者の存在を垣間見せ、それを本書の最後の米国によるサプライズにつなげる。
 サブプライム危機も同じだ。ここでは逆に、住宅バブルの兆候を知りながらそれを放置したとして、FRBのグリーンスパン議長をやり玉に挙げる。確かにそれは90年代の日本のバブル崩壊の再現でもあった。
 そうした経緯はおおむね事実であり、こうしたエピソードからは、マネー戦争における強者と弱者の対比から、日本や私たちを弱者として位置づけ、その奮起を叱咤する、という本書の基本的なスタンスにつながるものだろう。

  ◆ ◆ ◆ ◆

 第3章から本論に入るわけだが、その中心は第二次大戦後の圧倒的な国力を背景として基軸通貨国となった米国による国益至上主義の通貨戦略を浮かび上がらせることに置かれている。内容は一言で言えば米国による借金棒引き<Vステムだ。それが手を変え品を変え、繰り返されてきた経緯を様々なチャートを示しながら詳細に展開していく。
 その指標として用いられるのが、各国の金利、為替レート、貯蓄率、価格指数、株価、為替介入額、通貨供給量、金保有量、原油価格、経常収支、投資額、資金環流などだ。それらをクロスさせたり時系列で相関関係を浮かび上がらせたりする手法は、まとまった指標を目にする機会の少ない私たちにとっては、経済の世界を理解するよい手助けなっている。
 その中で著者が重視するのは、1971年のいわゆるニクソン・ショックだ。ドルの金兌換をやめて、変動相場制に移行した通貨制度の大転換のことだ。これで各国はそれまでの固定相場制に組み込まれたビルト・イン・スタビライザー、要は為替と景気の自動調整メカニズムが喪失し、それ以降、度重なる不況のたびごとに大量のドル紙幣が世界中にばらまかれ、それが投機マネーとなって繰り返しバブルとその崩壊を繰り返すようになった、と強調する。
 これ以降、各国の実物経済の縛りを外されたペーパーマネーが、金融資産として世界中に広まっていく。実体経済の裏付けのない流動的なマネーが、実体経済の何倍、何十倍も世界中に蔓延する。通貨の取引事態が投機の対象になったわけだ。
 当然のことながら金の裏付けを欠いたドル紙幣が次第に減価する中、それを支えたのが原油のドル決済で、それがドルの威信低下の歯止めになってきた。が、それがユーロの発足以降、ドルと原油のリンクが崩れてきた。転換点はイラクのユーロ決済への転換で、これがイラク戦争の隠れた原因だったというのが、著者の見立てで、現にそうした主張は当時から語られてきたものでもあった。これ以降、ペトロ・ドル(オイルダラー)とペトロ・ユーロ(オイルユーロ)との峻烈な覇権争いへと移行する。

  ◆ ◆ ◆ ◆

 本書の核心は、6000兆円という返済不可能なまでに膨らんだ米国の対外債務を棒引きにし、なおかつ米国が基軸通貨国であり続けるための奇策を準備している、というところにある。
 本書の見立てでは、米国は自国経済に打撃を与えない方法での借金棒引きをもくろんでいること、それは金本位制というか、部分的金本位制への復帰、具体的には新ドルへの切り替えだという。ドルを下落するところまで下落させ、そこで米国(カナダ、メキシコを含む)でのみ流通する新ドルを発行する。その新ドルでは、一定割合を金と交換可能な部分的な金本位制を導入する。新ドルと海外にばらまかれた旧ドルの交換比率を1対3ぐらいに設定する。そうすると、米国の経済は打撃を受けずに、米国の負債を3分の一に棒引きできる、というものである。
 この新ドルへの切り替えというサプライズは、著者によれば、いま一部で語られている「アメロ」――北米のカナダ、メキシコ、米国という新通貨圏を作る構想――として具体的姿を表すと見通されることになる。
 ところで、そうした米国発の奇策に対して日本はどうするのか。米国の戦略の逆手をとるしかない、というのが著者の代案であり、対抗策だ。
 日本が輸出するものは、日本円で決済させる。輸入するものは、その国の通貨で決済する。すなわち、輸出は自国通貨、輸入は相手国通貨。要は、基軸通貨としてのドルを相対化させる、ということである。あわせて、日本は通貨供給量を維持するために、貿易黒字は金の購入に振り向ける、金銀を採掘して、金/銀本位制を可能にする、だから中国との領有権争いに打ち勝つことは、日本にとって死活的な課題だ、となる。そうか、そこに結びつけるわけか。
 著者は、本書のあちこちで、投機・利益至上主義の資本主義経済やマネー戦争を、非人間的で矛盾に満ちたものだと指摘する。弱者を助けるのが人間本来の姿だとも。だったら……そうしたシステムは変えなければならない、変えるためにいまどうすべきか……、とは著者は考えないし、言わない。
 著者が言うのは、最終的には国しか国民を守れない、「高尚な理念を掲げるだけでは食べられてしまうだけであるし、理想国家が誕生するまでは、強者の論理で依然として動くのが現代の金融経済であるということを念頭に置いて、シマウマとして生き残る手段を一人一人が考えていただければ……。」と結ぶのである。矛盾や本意ではないことに迷いながらも、目の前の成功を追い求めるトレーダーたちの無作為の共同作業も、マネー資本主義を支えてきたことの反省はどこにいったのか。と、それを問うのは所詮無い物ねだりだろう。たとえていえば、司馬遼太郎の『坂の上の雲』を読むときと同じ意味で、思わず引き込まれて読んでしまう、といったところだろうか。著者はあえて反米主義者という評判を気にしてそれを否定する。が、内容的には経済ナショナリズムと通底するスタンスで、そうしたスタンスは要チェックだろう。
 とはいえ、本書は近年における金融システムので理不尽さとその深謀遠慮を理解するには参考になる本だとは思う。くだらない経済分析書が多い中、本書のチャートなどから得るところは多いし、とにかく、マネー・ナショナリズムは読んではおもしろい。(廣)


『歴史学と社会理論』ピーター・バーク著 慶應義塾大学出版会
 歴史研究と社会理論研究の相克と相互浸透

 本書を貫くのは、歴史学と社会理論の間にかつては反発や誤解もあったが、それぞれの研究をさらに前進させるためには、双方がお互いの研究成果から学びあう必要があるという主張である。
 これを明らかにするために、著者はまず第1章「理論家と歴史家」で、歴史学と社会理論が未分化であった時代、分化の始まり、疎遠の拡大、そして双方の限界の顕現化、それを克服するための両者の収斂の過程を概観する。
 続いて第2章「モデルと方法」では、歴史学と社会理論が共通に用いる全般的アプローチでありながら、大きな議論を起こしているものとして、「比較」「モデルと類型」「数量的方法」「社会的顕微鏡」の四つが考察される。
 さらに第3章では、社会理論が創った概念装置を歴史家がどう使ったかを、いくつかの概念に基づいて検証する。その概念は、「社会的役割」「性とジェンダー」「家族と親族」「コミュニティとアイデンティティ」「階級」「身分」「社会的移動性」「誇示的な消費と象徴的資本」「互酬主義」「パトロネイジと腐敗」「権力」「中心と周縁」「ヘゲモニーとレジスタンス」「社会運動」「心性とイデオロギー」「口承と書字」「神話」である。
 第4章「中心的な諸問題」では、他分野の考えを導入することによって起こる深刻な「知的対立」の現れが、「機能」「構造」「心理学」「文化」「事実とフィクション」のテーマに沿って取り上げられ、そこに発生する学問的可能性が探求される。
 そして第5章では、社会変化を説明する理論に伝統的な歴史家と社会理論家は貢献し得るだろうかと問い、「スペンサーモデル」と「マルクスモデル」が取り上げられ、それを踏まえて「第三の途」が提唱され、その途上を歩む六つのモノグラムが紹介されている。
 本書の主張は、両学問にわたる諸理論、軋轢や相互浸透の例、その成果の豊富な紹介に裏打ちされ、説得力を持つ。しかし諸理論の解説では、それぞれの長所を述べるにしろ、限界を指摘するにせよ、一面的で不正確と思われる叙述もある。一例だが、重要な最終章での「マルクスモデル」における「封建社会」は「資本主義の」「残余概念」に過ぎないとの指摘、戦争や暴力の役割を軽視しているかの評価は、マルクス自身の理論に対しては一面的理解という以外にない。  (阿部治正)案内へ戻る


沖縄便り
 おそらく最後の沖縄への旅日記2 
    宮森常子

2月11日(続き)
 大阪府知事橋下氏が関空に基地をもってきては、と表明したとき、私は基地の70%(全国の)が沖縄に集中しているという基地を抱えたしんどさを我々大阪人はつぶさに味わったらいい、と思った。それほどに他者の経験というものは伝わりにくい。唯一の地上戦を経てきた沖縄の経験は、他地方及び後の世代には伝わりにくいもの。いかにして伝えていくかについて、最近沖縄では地上戦の経験を当事者の如く感得するために、その他者の経験を一人称で、当事者の如く語る試みがなされているとか。当事者の如く感得しうるには、知識として知りえた事実を想像力によって経験し、知り得たコトバを肉体化する努力がなされ、こうした操作によって、まるで見てきたように、体験したように語ることができるという。読谷村の知花昌一氏はその語り手の例として紹介されている。
 私が通って講議を聞いた京都造形芸術大学では、コトバで表現するよりも肉体の動きで表現する方を選び、ダンスを理論的にも実践的にも取り上げて取り組んでいるようである。読谷ではそれを言語化する努力が行なわれているように思われる。コトバにこだわってきた私は知花氏の語り口に興味を持つ。これまで経験は伝わりにくいものとして、放り出してきたように思う。
 また語る人も後の世代の人々の好みに合わないだろうと、語るのを遠慮してきた傾きはなかったであろうか。それは伝達についての怠慢といわざるを得ない。わが身をかえりみて戦争の経験を語り継ぐことだけでなく、個々人の間の絆がちぎれていく傾向にある今日、絆を新たに築く為にも、沖縄の語り手の試みは多くのことを示唆してくれることだろう。
 以上ここまで書いてきたが、聞き手は戦の話を聞くよりも、カボチャの煮方を聞く方を好むというにがい現実が私の周辺にはあった。本土でのことだが。
 明日、先だって紹介した読谷村のサバニくらぶで、調理してご馳走作りをやるのを見学させてもらう。そこで私は何を感じとり何を発見できるだろうか。楽しみである。
 
2月12日
 起床5時。読谷のサンライズを撮るべく、屋上に上る。雨がパラパラ。少し寒い。曇っていて太陽は見えない。曇った読谷の空、街、海をうつす。
 心づくしのハイカラな朝食を終え、念願のシムクガマにおかみさんの案内で連れて行ってもらう。しゃべくらないで一生懸命足もとを見て歩きなさい、と注意される。多くの人がシムクガマを訪れたのだろう、人々の足が踏んでかなり立派な道ができている。改めてロジンさんのコトバを思い出す、道は人が歩いて通ってできるものだ≠ニ。
 何遍もすべりそうになりながらガマにたどりつき、碑文をうつす。1000人もの人々がここに避難し、一人の死者も出さなかったというダイヤモンドのような事実。三人のハワイ帰りの方が交渉に立たれたそうな。ご存命ならぜひ会いたいと思ったが、残念ながら「故」の文字がついていた。想像だが敵国語(英語)をあやつる方々はガマに避難した竹槍組に象徴される皇民教育を受けたゴリゴリの軍国青年たちから、まかり間違えばスパイのように見られかねなかったであろう。
 私は昭和20年3月に女学校へ入学した折、敵国語というので英語の授業はなかった位だから。しかし誰しも生きたいと願ったであろうから、ハワイ帰りの方々の説得に竹槍組も応じたのであろう。米軍との交渉よりも竹槍組、(武士道とは死ぬことと覚えたり)の説得の方が困難であったかも知れない。三人の方々の必死の覚悟が必要であったろう。
 碑文を小さなデジカメにこま切れに何枚かに写した。案内に立って頂いた宿のおかみさんは、更に洞窟の奥の方まで行って写して下さった。雨は降っていなかったが、少々ぬかるんだ道だったが、とにかく写せた。うれしかった。危険をかえりみず、案内に立って下さったおかみさんが仏さまのように見えた。碑の中央にはそれでも線香のもえがらが散らばっていた。亡くなられたハワイ帰りの方への回向であろう。帰りは行きより楽であった。上りだから。 


基地の沖縄県内たらい回しは許されない!

 米軍基地の75%が集中する沖縄。中でも海兵隊の普天間基地は住宅地のど真ん中、米国内なら絶対に許されない場所に居座る危険極まりない基地です。前政権は、この基地の危険性分散のためと称して、同じ沖縄の名護市辺野古の海上に新基地をつくろうとしました。いま鳩山政権は、辺野古の陸上に矛先を変え、基地の県内たらい回しを行おうとしています。あるいは、本土のいくつかの地域への基地移転を画策しています。
 なぜ米軍は新基地建設に躍起になるのでしょうか。
 《本当は、沖縄の海兵隊は司令部も実戦部隊もほとんどをグアムまで引きあげる計画を持っている、そうしてもいざというときは戦場に迅速に兵力を投入できるので問題なし、しかし沖縄にも海兵隊の訓練基地は残しておきたい、それが普天間より使い勝手の良い高機能の新基地なら願ってもない話し》というのが米国の思惑。
 海兵隊をグアムに引き揚げても困らなくなった背景には、軍事技術の飛躍的向上と、冷戦体制の崩壊をはじめとする世界とアジアにおける情勢変化があります。米国の計画(グアム統合軍事開発計画)では、沖縄に置かれた司令部や海兵隊の部隊名までがグアムへの移転対象として具体的にあげられています。単なる机上の計画でない証拠に、すでに環境アセスメントも行われています。沖縄の人々が、海兵隊基地は撤去できると主張するゆえんです。
 では、なぜ日本の防衛省、外務省、防衛族議員たちは新基地に固執するのでしょうか。
 《米軍の沖縄駐留なしの外交・安保は考えたことがない、新基地建設を目当てに動く内外の利権勢力と対立したくない、米軍の存在が自分たちの利益の源である》というのが理由。そのために、新基地建設に固執する米国内の勢力と気脈を通じつつ「米国は怒っている」との演出が行われ、米軍のグアムへの引き揚げ計画については口をつぐんまだまま、「日米関係が壊れる」「普天間基地移転がご破算になる」と国民だましの宣伝が行われているのです。
 新基地の建設計画は、普天間基地の危険分散のためでは断じてありません。老朽化し使い勝手が悪くなった普天間基地に代えて、滑走路と軍港と(キャンプ・シュワブの)弾薬庫を合わせ持った高機能の基地を沖縄に新たに押しつける計画です。
 しかも海兵隊は日本や沖縄の安全とは何の関係もない、米国の世界覇権のための殴り込み部隊です。世界に利権と権益の網の目を張り巡らした米国が、それへの挑戦者を軍事的に打倒するために働くのが、沖縄に置かれている米軍の本質です。世界に軍事緊張と紛争を拡大してきた元凶のひとつなのです。
 沖縄の人々に、新たな苦難と犠牲を押しつける計画に、本土でも「NO!」の声をあげていきましょう。
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編集あれこれ
一面は政権交代後、あまりぱっとしていない民主党への本質的批判を突きつけました。私たちはこれからも労働者・民衆の要求を民主党に突きつけていきます。
 二面はJAL問題への静岡県からの切り口の記事です。この「搭乗率保証」があるかぎり静岡空港は経営できないのです。この問題は全国的な問題でもあります。その意味においてJALが経営破綻するのは必然的だったのです。
 「コラムの窓」ではカナダ冬季オリンピックを取り上げています。この事ではいろいろな見解があってよいでしょう。
 四回続いた『「個人的所有の再建」論争 マルクスの所有概念と「共同所有」』が最終の掲載とはなりました。読者の皆様の感想はいかがでしょうか。このような理論的な連載ものは、今後ワーカーズ・パンフレットとして発行していきたいものです。
 久々の「読書室」では秘密を暴くとの観点から、『死にいたる虚構』と『現職警官「裏金」内部告発』の二冊を取り上げています。ぜひ読者の皆さんの読書計画に繰り込んでいただきたいと期待しています。
 好評な「色鉛筆」では、「アジア映画祭」の中から、「バスーラ」を取り上げて論評しています。ゴミ問題深刻さとそこでの生活の悲惨さに胸が詰まる思いの映画です。世界はまさに変革されなけなければならないのです。
 最後に読者からの沖縄便りが掲載されました。ワーカーズにはもっと読者の手紙を掲載していかなければなりません。
読者の皆さんと共に新聞をつくるためにも、ぜひとも投稿をよろしくお願いいたします。  (直木)