ワーカーズ451号 2011/11/1     案内へ戻る

格差社会を撃つ   グローバル資本主義に未来はない

 ニューヨークのウオール街で始まった「格差社会反対」「ウオール街を占拠せよ」のデモ・集会が開始されてから2ヶ月がすぎた。「世界80カ国に波及して勢いが衰える気配がない」「ニューヨーカーの70%が支持」(産経ニュース10月24日)との報道がされている。それぞれ規模は大きいとはいえないが、地球を取り囲む広範な同時デモは新しい運動の形を示しているかもしれない。
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 現代社会では一部の資本家や資産家が、土地や工場、その他の財を独占的に所有していることは今に始まったことではない。その結果として賃金労働者と地主、資本家等資産家たちとの「格差」は歴然としていた。
 しかしながら先進諸国の労働者は、大企業を中心に労働運動の努力の結果として待遇改善を勝ち取り、それなりの生活の向上を実現してきたのであった。これらの「中間階級」が激しい国際市場競争にさらされ、賃金や待遇の低下傾向が加速しているのである。
 日本の事例で考えれば理解しやすい。日本国内の各企業の経営戦略の柱は、中国、韓国あるいは東南アジアの相対的に安い労働力を利用することにある。理由は単純明瞭である。そのほうが製品コストを低く抑え、市場での国際的競争力を高める事ができるからである。
 そうなると日本の相対的に高かった労賃は、グローバル資本主義の中で原理的にはアジア諸国の賃金水準を目指して下降することになる。これは主に「非正規雇用形態」の拡大という形ですでに進行している。国内製造業の衰退傾向(海外逃避を含む)は、その事が直接に雇用の喪失にならない場合でも、産業構造のサービス業化を促進し劣悪な雇用の一原因となっている。
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 また、「格差社会反対」運動がウオール街に向けて開始されたように、為替投機や国際的金融資本の詐欺的マネー操作が一般大衆の犠牲で「濡れ手にあわ」のスーパーリッチを対極に生みだしているのである。08年の米国サブプライムローンの破綻は、一般低所得者の破産をしりめに一部の金融関係者に莫大な富をもたらしたのが現実であった。「ウオール街の天才が、無知な一般人をだました」とまで言われた。米国低所得者・失業者のウオール街への恨みは深い。
 いまや先進国であっても大衆的な貧困や飢餓とは無縁ではありえなくなった。米国企業の生産性はここ10年で11%上昇したが賃金上昇はゼロに等しく、失業率は現在16〜24歳で約18%にも達する。富の社会的分割は、ますます偏ったものとなりつつある。とりわけ若者は疎外されている。「ウオール街を占拠せよ」はこの現実への反撃の第一歩である。  (文明)


農業の再生を考える  大詰めを迎えるTPPへの参加問題

 野田内閣は11月のAPEC(アジア太平洋経済協力会議)までのTPP加盟に向けた交渉への参加を打ち出している。経団連など産業界の参加圧力を受けてのものだが、農家団体の反対圧力も強まっている。
 産業界と農漁業者の利害が正面からぶつかるTPP参加の攻防は正念場を迎えており、賛成か反対かの二者択一が迫られている面もある。しかし、どちらも業界の利害を色濃く反映したものでしかなく、別の視点で日本の農漁業の将来に向けた展望を切り開く必要がある。

◆矛盾◆

 野田内閣が参加を打ち上げているTPPは、2006年5月にシンガポール、ブルネイ、チリ、ニュージーランドの4カ国加盟で発効したもので、現在米国も含めて9カ国に増えている(中国・韓国は参加していない)。協定の対象は農業も含むすべての関税の10年以内の撤廃など、例外のない自由貿易をめざすものだ。菅直人前首相はTPPに参加することが「第三の開国」と位置づけていたが、加盟国のGDPに占める日米の比率が91%で、実質的には日米の関税撤廃協定ともいえる。
 TPP問題の核心は「コメ問題」であり、日本の農家や農村が抱えている課題を考えないわけにはいかない。いくつか列挙すれば、
 イ)コメの需要減と米価の下落
 ロ)後継者不足と耕作放棄地の拡大
 ハ)コメの輸入自由化にともなう生活基盤の崩壊
 ニ)農家と農村の将来像
などだ。こうした問題に対し、自民党や民主党、それに農水省などの対応は
 イ)コメの関税撤廃と輸入自由化
 ロ)大規模農家と農業法人への農地の集約
 ハ)補助金や個別保障による農家支援
などというものだ。
 思い起こせば、自民党農政とは、戦後の農地改革で生まれた小規模自作農家を基盤とした、農協を通じた農家への支援政策だった。それは日本の農業育成政策というより、むしろ政治的な農民票維持のためといっていいような政策だった。政権維持のためには農家の票に依拠する必要があったからだ。いわば財界と一体化した政府を支えるための政治基盤、選挙基盤として維持されたわけだ。
 そうした自民党の選挙基盤をひっくり返す目的もあって個別保障制度≠ヨの転換を図った民主党だったが、変わらないものもあった。それは方向性としての中核農家への支援と法人(株式会社も含む)の農業への参入による経営の大規模化、それと事実上の中小零細農業の維持、という矛盾を内包した政策だ。民主党の個別保障制度は、むしろ中小零細農家の温存に作用している。
 大規模化と株式会社の参入は、この数十年にわたる農業をめぐる最大の争点だった。かりにそうした方向性が現実のものになれば、現在の小規模農家やそれに依拠する農協が衰退するのは避けられない。だからコメの自由化には強烈な反対の声が出てくる訳だ。

◆閉塞情況◆

 ここで提案する再生策は単純なものだ。
 それは一言でいうと集団化と工場の併設≠ニいうことに尽きる。それが小規模経営と兼業≠ニいう根本的な日本農業の閉塞状況打破のための基本的な打開策だと考えるからだ。
 まず第一に小規模兼業農家の生活基盤だ。
 一方で農作業があるために賃金労働者としての働き先と働き方が限られ、他方で企業にとっても中途半端な働き手でしかないことで処遇も悪く、結局は狭い農地と低賃金を併せてやっと一家の生計を維持できる、というのが実情だ。
 それに現在の営農システムの問題がある。
 いまの稲作は苗植機や稲刈り機など、数種類のトラクター耕作が中心だ。一台何百万円もする耕作機械を一家に何台も揃え、それを補助金と割賦で支払っている。しかも年間の使用期間は短く、2〜3日か長くても10日程度だ。それ以外は倉庫で眠っている。
 こうしたシステムで潤っているのは農機具メーカーと農協だ。農協など、農家に不可欠の共通業務も担ってはいるが、反面では、農機具メーカーと農協の維持繁栄のために小規模農家は食い物にされてきた。それがこれまでの農機具メーカーや農協と結託した自民党と農水省による農政だった。
 そうした農政の下での小規模兼業経営の弊害は他にもある。一つは水田などの地力の枯渇≠フ問題であり、もう一つは自然の摂理に反した人為的な稲作という問題だ。
 これらはほんの一端に過ぎないが、個々の農家は営農の現状に不満を抱きながらも、兼業農家ゆえに一定の制約からの逃れられない営農スタイルを余儀なくされてきたのが実情だ。
 

◆集団化と工場の併設◆

 話を集団化と工場の併設≠フ問題に戻す。
 農地と耕作機械の共同化、それに生産米の共有化を合わせたものが、ここで提案する集団化の中身だ。
 いま平均的な農家一戸(二町歩=200アール)あたり一台のトラクターがある。それを集団化した営農グループ一団体あたり50町歩(5000アール)と想定すると、25台のトラクターは必要ない。5台もあれば何とかなる。コンバインなどその他の機械も同様だ。それだけコストダウン、耕作機械の効率的な使用が可能になる。
 耕地整理も必要だ。いまは一枚・一反歩が基本だ。それを仮に5反歩、一町歩の水田にすれば機械耕作の効率もかなり高まる。現にそういう水田もある。水田には水を張るので、穀物や牧畜のように無制限に拡げることはできないが、それでも現状の狭小な水田をチマチマ耕作することもなくなる。そうするためには所有地の割り替え≠熾K要だ。
 次に補助金だ。
 耕作機械への補助金や減反政策に絡んだ補助金、それに耕地整理の補助金、あるいは民主党政権による個別保証などを、個別農家ではなく集団化した協同組合型営農グループに支給する、というものだ。
 仮にそうした農家支援の補助金が1兆円あるとすると、たとえば全国で一万グループの営農グループに対し、毎年1億円規模の助成金を支給することができる。
 こうした集団化が進めば、何が起こるか自ずと明らかだ。余剰労働力だ。現在それは兼業として、個々の農家が別々の地場企業などで働いている。その余剰労働力を、生産・流通協同組合として集団農場に併設するわけだ。個別バラバラな活用ではなく、余剰労働力の集団的活用だ。
 考えられるのは、いまでもある農家の集団直販所、あるいは農機具の販売・貸付け所、あるいは中小の耕作機械の製作・修理・販売所などだ。付け加えれば、いまでも兼業農家が多く働いている土建会社も考えられる。
 要は、余剰労働力をその協同組合型農場の付属組織として併設する、という考え方、ビジョンだ。最初は営農レベルでの共同事業化から始めることも考えられる。それを所有農地の共同出資に拡げていくわけだ。
 実現は、簡単でも単純でもない。しかし、農業を取り巻く厳しい閉塞状況を打破するためには飛躍が必要だ。現在でもすでに先駆的な農事法人も活躍している。
 消費者との連携も必要だ。消費者の代表的な主体といえば、労働組合員だ。かつて消費者運動が盛んだった頃、内実は労働組合の取り組みというバックアップがあって高揚した。いまの連合では無理かもしれないが、労働組合との連携は大きな力になる。いま産直など、消費者と直結した生産・販売モデルも増えている。これも将来の労農連携を先取りした先駆的試みという側面もある。

◆労農提携◆

 TPPへの参加をめぐって再び激震が走ってる。推進する側の基本的なスタンスは、比較優位部門への特化による成長戦略で、いわゆる競争至上主義の新自由主義路線だ。反対論も、農業の既得権維持が根幹にある。
 その構図は輸出産業と農業の利害の衝突であり、またそれぞれの個別利益のぶつかり合いでしかない。反対の主張は当然な面もあるが、それだけでは大企業優位に流される。安価で安全な農産物を求める大多数の消費者の理解も得られない。
 農家と農村が生き残るためにも、ここは共同化の将来展望に立って大胆な農業改造に打って出ることが必要ではないだろうか。積極的で前向きなプランを提示しないと攻勢に打って出られないし、じり貧常態の打開はできない。
 ここで農業の集団化と工場の併設──協同組合化を主張するのは、労働者の課題と共通すると考えるからだ。私たちがめざすべきだと考えるアソシエーション社会の基礎は、協同組合の連合にある。それは農業との提携でより現実味を帯びる。(廣)      案内へ戻る


TPP、正しくはTPSPの隠された戦略とは何か

野田内閣の独断によるTP(S)P協議への参加

 この11月5日にTP(S)P協議への参加を表明すると見られている野田内閣は、今必死になって強引な手法を使いながら党内調整をしている真っ最中である。実際には党内の議員達のかなりの数が反対の署名をしていると伝えられているからである。
 前原政調会長は、「協議」に参加しても「国益」が守られないとなれば離脱も考えられると一時の方便でいえば、直ぐさま藤村官房長官は一般的にはその通りだが実際には不可能だと訂正するなど、口先で言い逃れようとする呆れた対応がひときわ目立っている。
 ここで確認できることは野田内閣が国会での議論もろくにしていない中で、TP(S)P協議への参加を強引にも押し進めていることであろう。まさにこうした行為は野田内閣の許されざる独断であり、労働者民衆の糾弾に値するものである。

TP(S)Pへ至る道とは何か

 TP(S)Pの本質を考えるには、そこに至るまでの歴史的な経緯を知らなければならない。それには何よりもまず「日米構造(言語)障害主導権」(Structural Impediments Initiative (SII))とは何か、を思い出す必要があるだろう。
 1980年代に日本に押しまくられたアメリカが、日本を分析し尽くして攻撃を仕掛けてきたのが「日米構造(言語)障害主導権」であった。そこは「協議」とは形容が出来ない日本に対する厳しい要求の場であった。その後の「日米包括経済談話」(U.S.-Japan Framework Talks)もその厳しさを受けたものであり、結果として小泉構造改革路線の指針となったものこそその後の「年次改革要望書」である。それはまさに呪縛であった。
 実に「日米構造(言語)障害主導権」こそ、1989年から1990年までの5年の間に日米貿易の不均衡の是正を目的として開催されたアメリカと日本の2国間での厳しい関係の始まりではあった。1993年からは日本の屈服により、このイニシアティブが「日米包括経済談話」と名を変え、1994年から2009年までの「年次改革要望書」への流れを形成した。アメリカの態度には自民党も困り抜き首相は1年交替となったのである。
 ほとんどの人は意識していないだろうが、この「年次改革要望書」は2009年の鳩山政権が誕生する中で廃止された。困ったアメリカは、2010年11月に日本でのAPEC総会に合わせて「日米経済調和主導権」(U.S.-Japan Economic Harmonization Initiative)を立ち上げる。そしてこれに続くものが今話題の中心であるTP(S)Pなのである。
 このイニシアティブとは、「協議でも対話」でもなく、優勢にある者が劣勢の者をガンガン叩き自分の主張を飲ませる事だ。アメリカは日本に言う事を聞かせるの5年かかった。このアメリカからの2つのイニシアティブ、つまり対日要求の厳しさと強硬な姿勢を隠し薄めるために、外務省は「日米構造協議」、さらに「日米経済調和協議」と翻訳して誤魔化し続けてきたが、これを主導した中心的人物は当時実務レベルのトップだった薮中三十二北米局北米第2課長だった。まさに今の外務省の体質を作り出したその人である。
 1970年代の外務省には日本独立指向派と米国隷属指向派がいたようだが、孫崎享氏によれば、1990年代にはもう米国隷属指向派だけになってしまっていたとのこと。

TP(S)Pの本質とは何か

 TP(S)Pの正訳は、「環太平洋戦略的経済連携協定」(Trans-Pacific Strategic Economic Partnership Agreement)である。ところが普通は環太平洋経済連携協定とされ、重要な意味を持ち核心となる戦略の言葉はわざと隠されているのである。
 「環太平洋戦略的経済連携協定」とは、加盟国の間で工業品、農業品を含む全品目の関税を撤廃し、政府調達(国や自治体による公共事業や物品・サービスの購入など)、知的財産権、労働規制、金融、医療サービスなどにおけるすべての非関税障壁を撤廃し自由化する協定である。では何故核心となる戦略の言葉が、和訳では隠されているのだろうか。
 そもそもは2006年5月にシンガポール、ブルネイ、チリ、ニュージーランドの5カ国が域外への経済的影響力を向上させる事を戦略的な目的として発効し、運用されてきた。発足時の目的は、「小国同士の戦略的提携によってマーケットにおけるプレゼンスを上げること」にあった。しかし2010年10月からアメリカ主導の下に急速に推し進められる事となり、TP(S)Pはアメリカによって戦略の転換が計られ、加盟国・交渉国間で協議を行い、2011年11月のAPEC(アジア太平洋経済協力会議)までの妥結を目標にしているため、野田内閣は浮き足だって強引に参加を打ち出そうとしているのである。
その戦略とは何か。それはTPSP【正しい略語】の加盟国・交渉国に日本を加えた10カ国のGDP(国内総生産)を比較するとその実に91%が日本とアメリカの2カ国で占める事実であり、TP(S)Pの実質は日米FTA(自由貿易協定)だ。あえて露骨な言い方をすれば、日本の「植民地」化がアメリカによって追求されているのである。
そして2015年までに加盟国間の貿易において、工業品、農業品、知的財産権、労働規制、金融、医療サービスなどをはじめ、全品目の関税を10年以内に原則全面撤廃する事により、貿易自由化の実現をめざすFEA(自由貿易協定)を包括するEPA(経済連携協定)を目標としている。その内実は日本から実質的に関税自主権を奪う事にある。
具体的には、TP(S)P交渉では、以下の「24分野」が協議される。1.主席交渉官協議、2.市場アクセス(工業)、3.市場アクセス(繊維・衣料品)、4.市場アクセス(農業)、5.原産地規制、6.貿易円滑化、7.SPS、8.TBT、9.貿易救済措置、10.政府調達、11.知的財産権、12.競争政策、13.サービス(クロスボーダー)、14.サービス(電気通信)、15.サービス(一時入国)、16.サービス(金融)17.サービス(e−commerce)、18.投資、19.環境、20.労働、21.制度的事項、22.紛争解決、23.協力、24.横断的事項特別部会。実に驚くほど包括的な分野にわたっているのである。
 TP(S)Pへの参加によって、日本での公用語はいつの日にか英語になるとの警鐘を鳴らす人々がいる。これを単なる杞憂と笑う事が出来ないほど事態は深刻なのである。
 日本の関税自主権を奪う意図を持つアメリカは、ついに念願であった「日米構造言語障害主導権」(Structural Impediments Initiative)上での最大の障害であった言語の壁を取り払う事が出来るであろうか。すべては私たちの今後の闘いに掛かっているのである。(直)    案内へ戻る


色鉛筆 待機児童ほんのわずか減少

 認可保育所に入れない子どもたち=待機児童数が4年ぶりに減少した。厚生労働省が10月4日公表した全国の集計結果(4月1日現在)は、前年同期より719人少ない2万5556人。長引く不況で共働きにならざるを得ない世帯が増え、保育所に通う児童数はこの十数年間増え続けており、今年は前年より約4万3千人多い約212万3千人。待機児童数も昨年まで3年連続で増え(表1参照)最多の03年に迫る勢いだったが、今年はほんのわずか719人減った。
 厚労省は『国の補助が手厚くなり、市町村が保育所を整備しやすくなった』と説明しているが、たったの719人減少しただけでまだ2万5556人の子どもたちが保育所に入りたくても入れず、働きたくても働けない母親たちがいるのだ。私が住んでいる街でも3歳未満の待機児童だけが入所できる保育所を作ったりしているが、まだまだ足りず私が勤めている保育所でも入所待ちの子どもたちがいる。全国の待機児童のうち82.6%が3歳未満(表1参照)で子どもの年齢が小さければ小さいほど、人的にも環境的にも多額の財源が必要なのだが、自民党も民主党の政府もお金をかけようとしない。だから少子化を止めることができないのだ。ここ数年待機児童問題が騒がれ、昨年の11月幼稚園と保育所を廃止して(幼保一体化)、新たに設ける『こども園』に統合する案を発表した。幼稚園は少子化から定員割れ状態だから保育所の足りない分を幼稚園の空き定員で補えば安上がりに待機児童が解消されると考えた。
 ところが、幼稚園関係団体は3歳未満の子どもの受け入れに猛烈に反発をした為、今年の7月27日軌道修正した案を発表した。(表2参照)保育所は一部を除いて総合施設『こども園』に移行するが、幼稚園はそのまま存続させるというのだからあきれてしまう。これでは待機児童の解消を目指すという目的は消えてしまったではないか。この新しい子育て支援制度の政府案の本質は、市町村の保育実施義務と責任を無くし、保育所入所を保護者と保育所の直接契約にして、民間企業を含む多様な業者の参入を促進して保育を産業化させて公費を減らそうとしていることだ。
 子どもを安心して産み育てられるようにするためには、現在のような公的保育制度(国や自治体の責任で必要な保育を実施するしくみ)を拡充して、どの子も入所できるようになれば待機児童問題はすぐに解決されるだろう。政府は新制度に必要な公費として、1兆円超と見込んでこのうち7千億円は消費税で賄う考えのようだが、またしても増税だ。公費の使い方が問題で予算をみれば戦闘機などは必要ない!!ますます貧困や格差が広がり社会的弱者ばかりに負担を負わせている。復興税にしてもお金をたくさん持っている人からお金を取るべきだ。儲かっている企業の利益をみんなで分かち合えばみんなに優しい社会になるだろう。
(美)


放射能汚染ホットスポットからの報告
市民のイニシアチブで行政を動かそう
流山市での市民と議員の取り組み

 まず、ホットスポット流山市の放射線量の一例を報告します。
 阿部の自宅の駐車場のコンクリート部分が1・861マイクロシーベルト毎時、ベランダが0・904マイクロ。今朝依頼があって測った市内のK氏宅の庭は0・563マイクロ、その近くのビニールハウスの雨樋の下は、なんと9・999マイクロシーベルト毎時。
 こうした線量は流山市では珍しくなく、住宅の庭で2〜4マイクロ、雨樋の付近では10マイクロを超えることも当たり前の光景となりました。

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 流山市当局はいま、小中校・幼稚園・保育所・公園などの除染に取り組み、放射線量の測定も一時よりはきめ細かく実施始めました。当局は「千葉県東葛地域で最も先進的」と自賛しています。
 しかし市民から見れば、今頃になってようやく少し市民の要求に近づいてきたか、というのが実感です。
 市民・議員と市当局との最初の攻防は、6月議会でした。6月議会で私は、「年間20ミリシーベルトを撤回し年間1ミリシーベルト以下をめざせ」「市の独自測定を行え」「地表面や農地なども含めたきめ細かな測定が必要」「線量の高いエリアの除染、立ち入り禁止措置をとれ」「子どもたちへの安全対策を直ちに行え」等々の厳しい質問・要求を突きつけましたが、市の対応はまったくひどいもので、以下の有様でした。
・年間20ミリシーベルト、1時間3・8マイクロシーベルトの指標でよし。
・市独自の線量限度、除染の基準は設けるつもりは無し。
・幼稚園・保育園での対策は手洗いなど「従来の衛生管理を徹底」する程度。小中学校についてはそれすら無し。
・国に対して福島県以外でも基準を定め、対策費用は国が負担することは求める。
・放医研などの「専門家」を呼んで講演会を行う等々。
 要するに、市内の線量は市民が騒ぐほど高くない、市独自の測定はやらないし、除染などは毛頭やる気無し、国や県の様子を見、東葛6市と協議する、御用学者の安全キャンペーンに期待する等々というものでした。

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 6月議会の後も、市民と議員の側から「年間1ミリ」を踏まえた独自基準の設定、もっときめ細かな測定、高線量エリアへの立ち入り禁止措置や除染、低線量被曝のリスクを認めることなどの要求がますます高まりました。
 流山市が、少しきめ細かな測定、「学校等」に限定した上での年間1ミリの指標値設定、「学校等」の限っての除染などに乗り出してきたのは、ようやく7月末から8月にかけてでした。6月議会で厳しい批判受けたことに加え、クリーンセンターの溶融飛灰が28100ベクレルという高濃度の汚染を示したことも、市当局が重い腰を上げるきっかけになったと思います。

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 2度目の攻防は9月議会でした。9月議会では、私は、年間1ミリの指標値を「学校等」に限定しているのはインチキ、これを全生活時間・全生活空間での1ミリに転換すること(「学校等」に限定すると全生活時間・全生活空間で計算した場合と比べて10分の1以下の値となる)。線量測定と除染活動を「学校等」以外の市街地にも広げること。欧州放射線防護委員会(ECRR)などが主張する低線量被曝の危険性をきちんと承認すること。『広報ながれやま』紙上での非科学的で誘導的な「安心・安全」キャンペーンを中止し、猛省すること、等々の批判を行いました。
 また、東日本の何千万人の市民に塗炭の苦しみを押しつけ、労働基準法違反や労働安全衛生法違反を山ほど繰り返し、流山市の賠償請求にも平然とゼロ回答を返してきた反社会的企業=東京電力を自治体の入札に参加させるのは問題であること。流山市の電力調達の入札に、特定規模電気事業者(PPS)も入札に参加させること、そうすれば東電は自ずと排除され、おまけに電力料金を2割は引き下げられる、との提起も行いました。これは行政コストは「安ければ安いほど良し」「電力市場にもっと資本主義を」という主張ではなく、何よりも電力の生産・消費・流通のあり方、日本の経済や暮らしのあり方、民主主義をより深め発展させていく課題、こうしたことを市民全体で考えていくためのより広い土俵を提供したい、という趣旨から行われたものでした。
 以上のような追求と問題提起に対して、市の健康福祉部長は、ECRR(欧州放射線防護委員会)などが主張している低線量被爆のリスクについて、「無視できない」と回答せざるを得ませんでした。また9月議会の後少しして、「学校等」から少しだけ外に出て通学路の除染にも着手し始めました。さらにPPSの入札参加も決定せざるを得ませんでした。

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 しかし線量が極めて高いホットスポット流山市においては、さらなる取り組みが求められていることは明らかです。ストロンチウムやプルトニウムなどの核種も測定できる体制を整えること。「学校等」の外のより広範囲な地域の除染に、まずは市内の側溝等を手始めに開始すること(市街地における線量の高い地点の除染は、これから冬になり、土埃が舞い上がり始める前に何としても完了させる必要があります)。食品の検査態勢のいっそうの充実や健康調査にも着手すること。そして、脱原発の姿勢の断固たる表明、市民によるエネルギーの生産と消費のコントロールなどの展望も持ちつつ、市の施策の範囲内でやれることを最大限に追求していくこと、などが求められています。
 流山市での取り組みから、市民や自治体議員がイニシアチブを発揮して行動すれば、自治体は後追いではあれ着いてこざるを得ない、という教訓が引き出せます。
 全国のホットスポットの市民が手をつないで、人が生きられる環境の奪還をめざして、ともに頑張りましょう。(10月25日記) 阿部治正(流山市議会議員)    案内へ戻る


コラムの窓・・・ 「責任者出て来い!」

 よくあるセリフに「責任者出て来い!」というのがあります。恐るべき原発震災に見舞われ、膨大な放射性物質が列島を覆い、これからもたらされる健康被害に不安が高まっています。ところが、この事態に責任を負うべき立場にあるものたちは、被害をより少なくするための努力をせず、あたかも自らも被害者であるかに装っています。一方で、いまは事故終息に全力を挙げる時であり、責任の追及などしている場合ではないという意見もあります。
 この国にあっては、責任者が責任を回避し生き延びることに寛大であり、その象徴がA級戦犯の岸信介が平和憲法下の首相になりおおせたことでした。侵略戦争の実行者であった旧軍人が自衛隊の幹部となっており、今回の被災地での活動を評価する声が多いけれど、自衛隊は人命救助のための組織ではないということを忘れてはならないでしょう。
 今後も予想される天災や人災に備えるためには、自衛隊を解体しその指導部を追放し、位階制を解体して全く別の組織に変えない限り、有効に機能しないでしょう。軍隊は国民を守るものではなく、しばしば国民に銃口を向けて来ました。独裁政治の下では、独裁を守る暴力装置として国民に対しています。かつて侵略戦争で殺戮をほしいままにしてきた皇軍の延長に自衛隊はあり、個々の自衛隊員が今回の経験で人命救助に目覚めたとしても、組織としての自衛隊は破壊と殺戮を目的としていることに変りはありません。
 さて、責任の所在の問題ですが、@原発推進を国策としてきた自民党と関係官僚。Aその下で利益を得てきた原発メーカーと電力会社、及び関係労組。B原発安全神話形成に寄与した学会や科学者、及びマスコミ。C原発を誘致した知事等自治体首長と補助金受益者。D建設反対を押しつぶして、原発に合法性を与えてきた裁判官たち。そして、E政権交代を果たしたにもかかわらず、原発ルネッサンスに悪乗りして原発輸出を推進した民主党。
 いま、これら勢力を原子力ムラ≠ニ総称していますが、それぞれに違った責任を負うているし、事故後の対応によってさらに深い罪を犯しています。斑目とか山下とかの科学者を装ったさげすむべき人格を代表とした、科学への冒涜は学界ではありきたりの行為なのだから、より深刻です。解体的出直しをしない限り、真理を極めるための学会など夢のまた夢でしょう。
 原発建設に反対する市民の現実的なよりどころは裁判ということになるのですが、そこでは今まで2件の勝利判決しかありません。それも逆転敗訴の結果となっており、「週刊金曜日」(10月7日号)が特集で「原発事故を招いた裁判官の罪」を告発しています。戦前的天皇制司法を否定できなかった戦後司法についても、同誌10月14日号の「残夢・坂本清馬の一生」(最終回)で鎌田慧氏は次のように指摘しています。
「清馬の証言にまっすぐにむかいあえば、真実を理解して再審を決定できたはずだ。不足していたのは、裁判官の勇気だけだった。裁判はかつての天皇の名によるものではなく、民主的なものに変わった、という宣言のためにも、再審をはじめる必要があった。が、裁判官たちは、旧体制のぬるま湯から出ようとしない。あるいは、裁く者の真実と裁かれる者の真実とは、いつもちがうかもしれない、という恐ろしい結論に達する」(56ページ)
 鎌田氏は恐ろしい結論≠ニ言っていますが、そこには利害の相違が必然的に真実≠フ違いへと至るという厳しい現実があります。このことを忘れ、情緒的にみんな反省しようというのは危険です。敗戦後の責任を不問にした苦い経験が、侵略などなかった、虐殺などなかった、朝鮮人は帰れといった言葉を恥知らずに公言する現実を生み出したのです。私たちはいま、原発事故など大したことない、放射能も怖くない、原発は必要だという声が再び高まることを許すのか、その瀬戸際にあるように思うのです。
 人は失敗を重ねて成長するとか言いますが、原発をめぐる失敗は決して繰り返してはいけないのに、この国に本当の反省はあるのだろうかと疑わざるを得ないのです。 (晴)


何でも紹介 『お笑い米軍基地』小波津正光さん
   
 コント『普天間基地』−−基地のすぐ近くにある病院の一室で、医者と患者が思い詰めた顔で座っている−−
患者「せ、先生!僕は、僕は重い病気なんでしょ?ねぇ、先生!」
医者「小波津さん、落ち着いて私の話をよく聞いて下さい」
患者「心の準備はできています。教えて下さい、僕の病気は何ですか?」
医者「小波津さん、実はあなたの病気は・・・」
医者が病名を告知しようとした瞬間、バタバタバタッと米軍のヘリが爆音を響かせながら病院の上空を通過。
医者「・・・・なんです」
患者「はぁ?せ、先生。まったく聞こえなかったんですけど。すみません、もう一度だけ言ってもらえますか?」
医者「分かりました。小波津さん、実はあなたの病気は・・・」
と、またまたここで米軍のヘリが轟音を響かせながら病院の上空を飛び回る。医者の話がまったく聞こえないことにブチ切れた患者は病院の窓を開け、空を飛び回る米軍ヘリに向かって叫ぶ。
患者「いぇ(おい)!やがまさん、やなアメリカ−(うるさい、バカたれアメリカ軍)!やった−、め−にちバタバタ飛び回らんけ(お前ら、毎日バタバタ飛び回るな)!いつまで沖縄にいるつもりだば、早くアメリカ帰れ!ゲラウェ−イ!」
 企画・脚本・演出は、小波津正光さん(1974年那覇市生まれ)。沖縄の米軍基地問題を初めて「ギャグ」の視点で捉えた人気舞台『お笑い米軍基地』(2005年旗上げ)で注目を浴びる。
 彼が東京で、どん底の貧しい“売れない芸人生活”を送っていた2004年8月13日、普天間基地に隣接する沖縄国際大学に、大型米軍ヘリが墜落し、あわや大惨事の事故が起った。翌日の沖縄紙の朝刊が、大々的に事故を報じたのに対し、本土紙はアテネ五輪開幕と巨人オ−ナ−辞任の記事で埋められ、事故は小さな扱いだった。その夜の舞台で「沖縄大変なことになってるよ−、アテネでは聖火が燃えてるが、沖縄ではヘリが燃えてるば−よ−」彼が沖縄紙を手に持って真剣に訴えれば訴えるほど、東京の客は大笑いをする。これを転機に小波津さんは、米軍基地を笑い飛ばす、本人曰く「世界最強軍隊に立ち向かう世界最弱の貧乏芸人」を名乗り、2006年からは拠点を沖縄に移し活躍している。
 米軍基地と共にあるという(本土からみれば非日常の)沖縄の“日常”を、笑い飛ばす視点は、沖縄の人々を沸かし、本土の人の笑いをも誘う。
 かつて戦争が終わって、沖縄の人々が多くの家族を失ない涙にくれていた時、夜な夜な家々を訪れ「(生き残った)命のお祝いをしようね」と、歌や踊りや笑いで励ました小那覇舞天(故人)がいた。そこには、どん底の悲しみや怒りを味わった者だけが持つ、深い笑い、心の叫びがある。小波津さんにそれを重ねて見る人もいる。
 最後にもうひとつコントを。テレビ通販社長に扮し、
 「さて今日は、沖縄が独り占めしてきた米軍基地を、特別価格でお届けします。普天間がたったの7千億円!」
 「えっ社長、そんなにお安くしていいんですか」
 「今回だけの特別ご奉仕!それになんと、輸送機に海兵隊6千人までつけちゃいます。送料だって、税金負担!」
−−コントのネタに事欠く沖縄に、なって欲しいものだ。
 小波津正光さんの著書
 『お笑い沖縄ガイド貧乏芸人のうちな−レポ−ト』(NHK出版生活人新書)
 『ま−ちゃんのお笑いニュ−ス道場』(琉球新報社)          富田澄子   案内へ戻る


【沖縄通信】
ドキュメンタリー映画「10年後の空へ・・・OKINAWAとフクシマ」の紹介


この映画は沖縄の「じいじ」輿石さんと福島の「少年」空くんとの出会いから生まれた。
2011年3月11日、東日本大震災発生、そして福島第一原発事故が発生。
大工さんでありながらプロのギター奏者でもある空くんのお父さんの村重光敏さんは、最悪の場合を考えて、「子供を放射能から逃がそう」と直感で避難を決定。
空くんには「いまいわきには毒の煙がたくさん降っているから、少しの間沖縄に行こう」と伝えたと言う。
この沖縄行きの橋渡しをしたのが、光敏さんの知り合いの沖縄のミュージシャンである知念良吉さんである。
3月18日、福島県いわき市豊間から、村重光敏さん一家3名が、沖縄県名護の輿石さんの予備校の元寮に避難してきた。ここから、この物語が始まる。
監督の輿石さんは、この出会いについて次のように述べている。
「空くんとの出会いに不思議な縁を感じた。私自身が父親の仕事の関係で、小学1年から3年まで福島県郡山市ですごした。幼少期を福島ですごした過去の自分と、沖縄に避難してきた今の空くんが重なった」
沖縄の自然に触れ、少しずつ元気をとりもどしていく空くんを見て、輿石さんはこの映画を作る決意「空、じいじは空に伝えたいことがあるのだ・・・」する。
「国家政策による原発と米軍基地。エネルギーと軍事の違いはあるが、原発と基地の問題に共通点を感じた。ひずみと苦しみは常に辺境に押しつけられ、都会の人が利益を享受している点で同じだ。福島と沖縄が手を結んで『日本は今のままでいいのか』と疑問を投げ掛けたい」と、この作品にかける思いを語る。
7月14日、最初の上映会を福島県いわき市で1日3回おこない、3回とも満員だった。38歳のAさんは、次のような感想をよせている。
「村重さんご家族の子供最優先の決断に拍手。そして受け入れてくださっている沖縄の皆様に感謝。押しつけられる原発・基地により住民は賛成・反対に二分され、これにより、住民は仲間内のはずなのに、苦しめられます。でも、原発・基地を押し進める住民の方、そして日本国民に問いたい!経済発展よりも10年後・20年後の子供の笑顔を望んではいけませんか?日米の大人の事情よりも、沖縄の方々の人権と沖縄の自然を大事にしてはいけませんか?」
是非是非多くの人に見てほしい作品である。なお、この作品(DVDカラー・92分・3000円)は「じんぶん企画」から販売されている。
★申込み先・「じんぶん企画」TEL0980−53−6012、FAX0980−52−4417。ホームページは「じんぶん企画」で検索できます。(富田英司)


 読者からの手紙

 津波災害の地・釜石港を訪れて

 9月24日、義母の米寿を記念した家族旅行をしました。宿泊先は、かって小佐野賢治が買い占めを計画した花巻温泉郷でした。そこに決めたのは、旅行のもう一つの目的に宮沢賢治の足跡を辿りたいとの思いがあったからです。
 しかしながら百年に一度の津波被害にあった三陸海岸をこの目で確かめたいとの考えから、百キロ程先の釜石港に行くことにしました。本来であれば時間を掛けて調べたい遠野市を車で駆け抜けて往復3時間程掛かりました。数年前ならこんなに短い時間ではとても往復できなかったでしょう。途中まで高速道路を通りましたし、何回かとても長いトンネルを抜けたからです。
 釜石市内から釜石駅までは走った道沿いの民家は何ともなかったのですが、港に出て辺りを走りますと津波発生時から7ヶ月程たったのにもかかわらず今起きたかのような生々しい風景が出来したのです。新日鐵釜石製鉄所の三分の1程は、工場内の瓦礫を積み上げた山が出来ていました。岸壁間近の魚市場や工場は1階は見るも無惨に破壊されていましたし、津波の汚れが2階部分に今でもはっきりとついていました。暫く辺りを走り回ってから、高台へ登ると釜石湾を今までしっかり守っていた世界屈指で自慢の63メートルの堤防が跡形もなくなっておりました。入港を見守る紅白の灯台もなくなっておりました。
 高台から目の前の堤防の裏に建つ建物を見てみると、僅かな堤防の切れ目から津波が進入したらしく、その建物の付近は下記の筏か何かは不明でしたが木材が堆く積み上がっていました。その後釜石市街を去るときに別の道を通ったのですが、商店街の目抜き通りのほぼ一区画に1階部分が完全に破壊された商店の家並みが続いていました。釜石駅付近が完全に復旧していたので私はほっとしていたのですが、真昼に廃墟群目の当たりに見て500名程が亡くなった事実を再度深刻に思い返して暗然たる気分になりました。
 まさに天災は人智をこえています。まさか津波が堤防を越えることなどないとの思い込みが被害を大きくさせたのです。つくづく自然を畏敬しなければと思いました。(沢渡)


 姜尚中氏の「あなたは誰? 私はここにいる」にふれて

 姜氏は本書の後書きでわたしはマジョリティとマイノリティの境界そのものを無化する地点をめざしていたのかもしれない≠ニ書いた。「みんなはひとりのために、ひとりはみんなのために」を提起しているようだ。その実践として「リーダーは半歩前を歩け」という。
 私は大衆運動をめざす実践、具体的にはわが街レポート≠編集する中でひとりとみんな≠フ問題にぶつからねばならなかった。小田実氏のみんなチョボチョボ≠ノ全身の共感をもちつつ。しかし、実際にどうすればよいか、わからなかった。
 先に沖縄の方からやろうと思うことをやればいい≠ニいうコトバを頂いた。何かやろうとするとき、なによりも何をみんなに伝えたいか、具体的に何をやるかを、自分自身の中ではぐくむことが求められている。このことは誰しもくぐりぬけねばならない問題であろう。
 釜が崎に入った作家の武田麟太郎氏は、みんなのなかにズブズブ沈み込み、大酒を飲みつづけて落命した。未来が見えないいま、いまの現実の中で己をしっかり見つめることから、始めたい。現実の中の己をつき抜けたところに芸術がある。芸術的表現が、一見、非現実的に見えて、実は極めて現実的であることを知った。姜氏は次のように結論する。
 「・・・美の殿堂に己を捧げたアーティストたちの多くがマイノリティの『居留地』にとどまらず、その卓越した創造力によってマジョリティとマイノリティの境界そのものを、内側から破る美の真実を、わたしたちに惜しみなく与えてくれたことにある」と。     2011・10・8 よる  宮森常子


 ドイツと日本

 ドイツは国家の方針として「脱原発、10年後には原発をなくす」ことを決定した。この決定に至るまで科学・哲学・企業家の各分野の代表が協議を重ね、地球(具体的には地球上のもろもろの国の人々)に迷惑をかけるから≠ニ倫理的な観点からも原発NOを決定したという。(毎日新聞朝刊2011・10・15 P,7「オピニオン」欄より)
 思えば、私ども日本人も、幼い頃に親どもからひとさまには決して迷惑をかけるな≠ニ教えられてきた。私の母は徳島の百姓出身で、少々あくの強い人だったが、「他人さまには、どんな理由があろうと迷惑をかけてはいけない」と厳しくしつけられたものだった。これはアジア人には共通の(多分)代々伝えられてきた伝統的なモラルであったと思う。
 私はドイツでも、こうした倫理を原発問題にヂグザクはあっても貫いたことで、諸外国の人々の間に生きているモラル、幼い頃から培われてきた宗教や道徳を日常生活や家庭生活の中から、改めて学んでみたい思いにかられている昨今である。 2011・10・17 大阪 宮森常子     案内へ戻る


 
 東電の厚かましい犠牲転嫁に怒りを!電力料金値上げ反対!

 東京電力は福島第一原発事故の処理費用や、原発の代わりに動かす火力発電の燃費がかさんで、2012年3月期の決算(単体)で純損失が5800億円に上る見通しを発表し、原発事故の賠償資金を政府に一時的に肩代わりしてもらうことや、柏崎原発(新潟)の再稼働や電気料金の値上げなどを計画している。何とも厚かましい犠牲転嫁ではないだろうか!
 東電の経営者連中は、経済産業省の官僚とグルになって原発の「安全神話」を垂れ流し、地震や津波に備えた十分な対策も怠って、福島第一原子力発電所の事故を引き起こし、原発作業員や近隣住民ばかりでなく、国内外の人々に重大な被害と恐怖をもたらした張本人なのだ。彼らは、自分たちの責任を心から反省し謝罪することもなしに、自分たちが被るであろう損害を、事故被害者である我々一般大衆、電力利用者に犠牲を転嫁し、まかなおうと言うのだ。
 日頃から低賃金にあえぐ一般庶民に犠牲を転嫁するのではなく、まずは、東電や東電の大株主・原発への資金を提供しその巨大な利潤の分け前にあずかってきたものが真っ先にこの犠牲を引き受けるべきである。東電が持っている土地や保養施設などの資産の処理、社長・会長を始め経営陣の役員給与など巨額な報酬の削減・返上。三菱重工や東芝はもちろん、最大の融資元であるみずほ銀行や三井・三菱UFJ銀行などもこの責任を大いに果たすべきである。電気料金の値上げ反対!断固たる抗議の声を上げてこの値上げ案を撤回させよう。そして、原発の廃止とより安全で効率的なエネルギーの利用を図り、利潤追求ではない電力産業の国有化・公有化をめざそう。(M)


 編集あれこれ

 第1面はワーカーズの脱原発に向けての闘争宣言を載せています。私達は、福島の人々の苦難を少しでも小さくすること、第2のフクシマを出現させないこと、脱原発に全力で取り組もうと訴えています。
 第2面では「トモダチ作戦」が「太平洋有事519作戦」であった事を暴露しています。
 第3面では、国家信用危機が生み出す新しい負の連鎖を分析しました。第4面と第5面では、「めざそう!共助型社会」と題して、増税派と経済成長派とに代わる第3の潮流を生み出すべき局面だとの分析を行っています。読者の精読を期待しています。
 第6面では色鉛筆と東電の抗議・要求書を掲載し、第7面には「戦後66年・日米安保60年を考える」の連載の第2回目、「サンフランシスコ平和条約・第3条問題」を取り上げました。ここで暴露された天皇メッセージは忘れてはならないものでしょう。
 第8面には、「浜口あゆみのライブにゆく」を載せています。第9面と第10面には、読者からの手紙2通と東葛からの報告が載っています。どんどん手紙報告を寄せて下さい。
 前号も読者の協力により多彩な内容になったと総括しています。今後ともよろしく。(直)  案内へ戻る

 
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