ワーカーズ459号   2012/3/1   案内へ戻る

国民犠牲の財政赤字削減路線を許すなーー世界の労働者は団結しよう

◆ギリシャの労働者に連帯を
 「欧州危機」が遠のいたかの観測が市場にあります。
 ギリシャに対する第二次支援策がまとまりました。「EUとIMFが1300億ユーロを支援する」とともに「民間債権者は53.5%の借金棒引き。債務交換後の利率も3年間は2%などに低くする。ECB(欧州中央銀行)と欧州各国の中央銀行は、ギリシャ国債の購入で得た利益を実質的に同国の支援に回し、また、第一次支援の融資金利を引き下げる」等々。さらに、G20ではIMFのてこ入れを強め、今後予想されるソブリン危機に対応しようとしています。
 しかし、ギリシャの財政赤字削減計画がどのように進行するか不透明です。それはギリシャ国民からの2年以上にわたる激しい反撃があるからです。
 IMFやEUがギリシャ包囲網をひいて、信用危機の波及を阻止しようとやっきなのは「ギリシャ赤字削減問題」は、それが成功しなければブルジョア的世界秩序が分解してゆくからなのです。かくして、一国民に世界のブルジョア政府が集団となって一国民の生活を抑圧するという状況が現出しています。
 しかし、ギリシャの労働者や国民は、その責任を担う必要は一切ありません。国民や労働者への犠牲、すなわち増税、公務員の定員削減・給与削減、年金削減など大衆犠牲の再建策をそのまま認めることはできません。 
 EU内の「南北問題」は今に始まったことではなく、米国、ロシアに対抗する統一市場としての「大欧州」に利益を見いだしてきた資本家と政府が、債務の完全棒引きと無償援助をまずすべきでしょう。
 公務員削減、給与削減、年金削減反対の戦いはすでに2年以上にわたっています。民間も含めたデモやストライキ、死者まででている激しい戦いとなっています。労働者の戦いが敗北すれば、そして年金の削減、賃金カット、増税等、国民全体の屈辱的な財政再建路線が押しつけられれば、政治的混乱からファシズムの登場もあるかもしれません。このようなギリシャの財政再建を「モデルケース」にしてはなりません。

◆ギリシャ問題は明日の日本だ
 野田内閣の「税と社会保障制度の一体改革」が,大衆増税と社会保障削減の「一体改悪」であることは、もはやあきらかです。しかし、それでおしまいではありません。消費税の10%への増税も、ギリシャをはるかに超えた日本の巨額な財政赤字には焼け石に水なのです。
 日本は20年来の「低成長」の上に経常収支の悪化が予測されており、そればかりか税収を超えて毎年発行される国債残高の累積に、いつ国家信用危機が日本を襲うかもしれない状態です。資本主義の支配は、この日本でも根底からゆらぎはじめているのです。
 財務省官僚とその操り人形化した政府が、今後も大衆増税にさらなる活路を見いだそうとすることが予測されます。累積赤字を大衆増税で穴埋めすることは、資本と官僚の「つけ回し」にほかなりません。このような不合理を認めることはできません。大増税派を断固敗北させなければなりません。(文)
 


逆ではないのか貧者による国家救済>氛氈s税と社会保障の一体改革》を考える──
(前号より続く)

前号要約
 前号では〔税と社会保障の一体改革〕が、官僚的発想や財界の意向が反映したもので、看板に反して負担増と給付減をもたらすこと、膨れあがった借金は主に企業と富裕層への優遇税政策と不況対策が原因であり、大衆課税としての消費税ではなく財政支出全体の無駄の削減と負担能力がある企業や富裕層への課税強化で解決すべき事、などを提起してきた。

目次
◆官僚・財界の自己チュー
◆負担増と給付減
◆能力に応じた負担
◆土俵のすり替え(──以上前号)
◆企業責任=i──以下今号)
◆土俵を拡げる
◆シグナル

◆企業責任

 本稿ではこれまで《一体改革》を既存システムの土俵上で検討してきた。しかし民主党政権の《一体改革》では、まさに肝心の土俵そのものが問題なのである。
 《一体改革》では問答無用のごとく消費税増税だけが振りかざされている。そこでの最大の問題は高齢者支援をはじめとして《企業の社会的責任》が免責されているのだ。法人税の扱いをみれば、一目瞭然だ。
 高齢者支援の責任は、一体誰にあるのか。現状の議論では一義的に子どもや現役世代に押しつけられている。しかし、本当は企業こそ高齢者支援の責任を果たさなければならない第一の当事者なのだ。
 企業が企業として活動可能になるのは、労働力しか持たない労働者が存在することだ。その労働者を雇用して継続的な営利活動をするには、次世代の労働者である労働者の子どもの養育費も、企業活動存続のためには当然のこととして負担しなくてはならない。同じように、リタイアした労働者の扶養責任も企業にある。でなければ労働者の再生産できないし、企業は企業として再生産もできない。要するに、労働者家族の生涯生活は、一義的には企業が責任を負っているのだ。その責任は、基本的には家族を扶養する分も含めて賃金(プラス一時金)によって支払われる。
 とはいえ、現実の社会には自営業者もいる。それらの家族も含めた扶養費は、税や財政、あるいは社会保険という二次的システムを取り入れて維持しているのが現実の社会的再生産システムなのだ。
 ところが現実は、企業はそうした社会的責任に背を向け、自己チューな法人税の引き下げを強硬に求めている。今回の税制改革でも、グローバル経済のもとでの空洞化や対外競争を最大の根拠として法人実効税率は40%から35%に引き下げられた。
 確かに、先進国を始め、多くの国で法人税の引き下げが行われており、さながら法人税引き下げ競争の様相を呈している。しかし、法人税引き下げは自由貿易の原則では政府による自国企業への不当な支援だとされ、WTOの関係者などからも法人税ダンピングだと糾弾されているものなのだ。仮に世界中で法人税がゼロになれば競争条件は平等になるが、そのグローバル経済のしわ寄せは、すべて勤労者に押しつけられることになる。
 法人税の引き下げ競争には、個々の国の労働者が反対の声を上げ、その力を国境を越えて結集することで阻止し、むしろ世界中で引き上げることこそ実現すべきなのだ。対外競争で不利になるとの根拠で法人税引き下げを主張している我が国の連合労組など、「なにを寝言を」という代物でしかない。
 それに日本の企業の法人実効税率は、租税特別措置をはじめとする各種優遇措置で、表向き40%であっても実質30%ぐらいだと指摘されている(税経新人会全国協議会)。大企業ほど優遇され、昔のコクド・西武鉄道グループを率いた堤義明会長のゼロ法人税経営≠ルどではないにしても、トヨタ自動車で32・1%、ソニーは12・9%、NTTドコモ14・6%、三井物産に至っては9・3%だとされている。それに赤字の法人は法人税を払っておらず、多数の中小・零細企業は法人税を払っていない。日本の税制は企業に大甘なのだ。こうした法人からしっかり税金を集め、さらに赤字でも納付させる外形標準課税を増やすなど、労働者の再生産に最大の利害関係にある企業からの負担を増やすことこそ不可欠なのだ。

◆土俵を拡げる

 近年、マネー資本主義の元凶と揶揄される金融取引についても考えてみたい。マネーがマネーを呼ぶ投機。いまや株や為替や金融派生商品などあらゆる金融取引をめぐってマネーが世界を飛び廻り、それらは実体経済をも脅かす存在になっている。不労所得の典型であるそうした投機的金融取引に課税すれば、ギャンブル経済が抑制されるだけではなく税収増につながる。いわゆる《金融取引税》だ。現在は金融取引で発生した利益に税金はかかっても、取引自体にはかからないのが一般的だ。が、一部の国では限定的に導入されているし、最近ではEU圏で導入が検討され、フランスでは0・1%での導入がすでに決まっている。マネー運用者に対し、金融機関に手数料を払うのと同じように課税義務を課すことは緊急の課題だろう。投資家や政府当局者は、株式・金融・為替市場の活性化に反するなどと称して金融取引税には消極的だ。が、あのビル・ゲイツも途上国支援に絡めて主張しているもので、体制擁護派のなかにも提唱している人は少なくない。
 また税以外での高齢者支援では、米国のゼネラル・モータースの企業年金が一時話題になった。余計な負担を抱えているからコスト競争に負けたのだ、という論調が多かった。しかし労働力の再生産責任という点では,むしろ当然でまっとうなものだった。ただそれを個々の企業・産業だけでやるのではなく、それを全社会に拡げて実現すればいいだけの話なのだ。ここでも話はすり替えられてしまったわけだ。
 企業責任の拡大という面では、実際の歴史はこれとは逆の道を歩んできた。
 戦後日本の社会保障は、多くの領域で家族責任に押しつけられ、その後の高度成長の過程では大企業による社会保障機能が整備されてきた。家族扶養手当・社宅・保養所・企業年金などだ。これが平成不況を期に相次いで削減されてきた。いまそれを税や社会保険で賄うことになったが、その費用は継続して企業が負担すべきなのだ。とくに日本の企業社会では社会保険などで企業負担が少な過ぎる。労使折半ではなくフランスやスウェーデンのように4分の3、あるいは5分の4ぐらいは負担させるべきだろう。それだけで医療・介護・年金財源ははるかに充実する。
 《一体改革》では、税と社会保障の枠組みだけでは解決できないものも多い。労働市場のあり方についても変えていく必要がある。ここでは課題の指摘に止まるが、低賃金の非正規雇用問題や高齢者でも軽度な労働が可能になるような定年制廃止にかかわる環境整備などはその最たるものだろう。
 税や公的社会保障の枠組みをより広くとらえて改革することも不可欠だろう。高齢者支援では公設や民間経営だけでなく、ボランティアやNPOとコラボしたシステム構築も成果を発揮するだろう。それらの取り組みをうまく合わせれば、新しい第三の公共<Vステムが生まれるだろうし、すでにそうした試みも始まっている。
 要は、《税と社会保障の一体改革》などという意図的な土俵をご破算にし、より広い土俵での改革を指向すべきなのだ。

◆シグナル

 《一体改革》の欺瞞性と対案について考えてきたが、最後に財政破綻の意味合いについて考えてみたい。
 野田首相は野放図な財政赤字は国を滅ぼすとして消費増税に走った。確かに借金財政をこれ以上続けることは財政破綻とその先の国家破綻につながる性格のものだ。問題はそうした財政危機や財政破綻がなぜ世界中で繰り返し起こるのか、という問題である。
 結論から先にいえば、現代国家とは階級社会の統括体であると同時に構成員の生活維持装置であり、国家財政はそうした資本制社会の矛盾の吹きだまりになる、ということだ。
 資本制社会での企業は、可能な限り労賃などのコスト削減を指向して消費市場を低位硬直化させ、結果的に無自覚の共同行動の結果として傾向的な過剰生産をもたらす。その過剰生産傾向は周期的な倒産や失業をもたらし、社会の安定をかき乱す。その混乱と対立を国家権力や財政で統治しなければならず、安定が脅かされるにしたがって、それらも肥大化する。それが需給ギャップを補う景気対策であり、失業や生活難を緩和する社会保障だ。
 その企業は、利益を生み出す現役労働者には配慮しても、利益を生み出さない非労働力、すなわち子どもや高齢者や病弱者などの生活など顧みなくなる。それらは労働者の過去・現在・未来の姿であり、自分たちの生存や生活が脅かされればその矛先は企業社会そのものに向かわざるを得ない。国家は資本制社会の存立維持のためにも、利潤原理の修正、要は再配分政策をとらざるを得ないことになる。それが資本制社会を維持する基本政策ともなってきた。
 現実は企業の大小や自営業者の存在、あるいは対外関係もあって複雑化するが、資本制社会での貧富の格差による社会の分断・崩壊を、国家による税・財政政策による再配分によって避けてきたわけだ。
 最近の日本でもそれは同じだ。高度成長期、右肩上がりの成長を続けていた企業は労働者の生涯生活をそれなりに保障してきた。が、低成長時代に入るや理屈を付けてはそうした保障を放棄してきた。《追いつき、追い越せ》の時代から《追い抜かれる時代》に突入したいま、企業はなりふり構わずコストカットを推し進め、いまでは現役労働者さえも非正規労働者などといって使い捨てする時代になっている。
 結果的に、企業の過剰生産に対処する景気対策や労働者の生涯にわたる生活保障費が膨らむ傾向は避けられず、ことあるごとに財政危機に直面することになる。いわば財政危機は、もはや企業支援でも生活支援の両面でも、資本制社会の構造矛盾が繕えないほどに深まっていることを示すシグナルでもあるのだ。
 挙げ句の果ての《マネー資本主義》だ。DGPが世界で60兆ドル超なのに、国境を越えて飛び交うマネーは1日3兆ドル、年間1000兆ドルを超えている。サブプライム危機やリーマンショック、それにギリシャ危機やユーロ危機、実体経済から自立したかのようなマネー資本主義がもたらす混乱は、元当局者(「通貨マフィア」の一人、行天豊雄・元財務官)によっても制御不可能≠ニ言わしめている。
 頭を冷やして冷静に考えてみたい。財政破綻は、私たちにどんなシグナルを発し、何を教えているのだろうか。社会保障危機や財政危機は、その社会の基本的なシステムが制度疲労を起こし、もはやこれ以上やっていけないことを端的に示すものになっている、ということだろう。グローバル化は止められないし、経済成長はもはや過去の夢でしかない。求められているのは、今はやりのキーワードで言えば《幸福度社会》ではないだろうか。利潤至上主義の市場原理から脱却し、《幸福度社会》や《対等制社会》など、社会原理そのものを根本的に変えていくような社会変革こそ時代が求めているのだ。消費増税による社会保障など《貧者の間での平等》に過ぎない。ここは土俵自体を見直し、社会変革への道へと舵を切ってみたい。(廣)案内へ戻る


【連載 第三回】岐路に立たされる兵営国家     金正日の死と世界史のなかの北朝鮮

目次
  はじめに
1 帝国主義時代が生み出した金体制
2 「社会主義」ではなく「国家資本主義」でもない兵営国家
3 軍事経済のもとで衰亡しつつある金体制
4 北朝鮮や旧ソ連の「巨大な歴史的意義」を讃えるのか?
5 20世紀の戦争と国家、そしてスターリン体制(本号掲載)
6 金体制は路線転換が可能か?
7 改革開放への動向    以上


【前回までの要約:北朝鮮や旧ソ連は、「社会主義」ではないばかりではなく「国家資本主義」というような商品生産の拡大や資本蓄積を実現する体制ではありませんでした。それらは帝国主義戦争下で国家形成が行われ、その後も軍事体制・戦時経済を継続してきた退廃した社会であると考えられます。国家成立当初の工業基盤の拡大にもかかわらず、数十年経過した軍事経済は、工業力の衰退をもたらし、社会全体の衰亡をもたらしました。これこそ旧ソ連の自己崩壊の最大の原因なのです。北朝鮮も同様のプロセスのなかで、社会の全般的衰退に陥っていると考えられます。】

◇[5]20世紀の戦争と国家、そしてスターリン体制
 ところで、国民の生活や経済活動に軍事体制を押しつけた「国家」(註1)というものをあらためて考えてみましょう。
 多数の人々を搾取する特定階級・特定階層の社会支配組織こそが国家なのです。しかし、国家は「私党」やドロボウ集団ではありませんし、単なる武力集団でもありません。ここが国家の独特な点です。
 その根本的な理由は、国家成立以前の人類社会が、互酬性に基づく共同体社会であったという歴史的事実に求められると思われます。古来人間集団は、一方的な支配を排除しつつ、互助的な社会関係を何万年もかけて築き挙げてきたからなのです。ですから、数千年の過去に、初めて登場した階級社会や国家という支配組織も、少なくとも「互助的」な外観を維持せざるを得ず国家組織にも取り入れられたのではないかと私は推論しています。
 国家組織は、同様に共同体社会の公共の事務(事業)であった、治山治水や道路整備や開墾事業、祖先の霊を拝んだり神をまつること、さらには飢饉にそなえる共同の倉庫の管理等々を引き継ぎ、そしてその役割を独占してゆきます。
 このように特定利害集団は、国家という組織のもとに人民を「国民」「市民」(註2)「公民」「良民」として統合し、その共通で相互補完的な利害関係をもつ運命共同体であるという建前の中で、自ら社会の中心であると位置づけ、自己の集団の利益を貫徹していこうとします。自己集団の立場や利益を「全国民の利益」という錦の御旗を押し立てながら貫徹するということなのです。これが国家概念の原型(註3)といってよいでしょう。北朝鮮や旧ソ連のばあいは、これに近いものだと言えます。
    ◆     ◆     ◆
 たとえば国家権力はつぎのように正当化されます。
 共和制ローマの「ローマ市民」の権利は有名です。市民は戦士としての義務や徴税を果たす一方で、選挙権、被選挙権、婚姻権、所有権、裁判権、食糧の配給を受けたりもしました。同じように古代中国の漢でも「公民」は、伝統的な地域共同体に生活し、土地の「占有者」として徴税されまた労役などを課されますが、機会があれば中央国家から「爵位」さらには消費物資をもらうことができました。決して奴隷のような存在ではありませんでした。
 また律令体制のもとで,口分田を持つ「公民」は、いっそう零落した地位にとどまりましたが「班田」を国からあづかり耕作できることの引き替えとして、労役や「地代」(租税)を国に納めるのでした。(本当はもともと自分たちの土地ですから、この関係はさらに偽善的です。)
 西欧封建制(レーエン制)では、その成立の過程で農民(自由農民)が有力領主に自分の土地を差しだし、地代や労役を提供をする代わりに、その領主の保護を受けるという関係が拡大していったと考えられています(もちろん、別のケースでは領主による暴力的な自由農民の土地の包摂もあったと考えられますが)。
 そのプロセスやありようはさまざまですが、このように国民は国家に対する義務を果たす一方で、生命や土地、労働や生活について「国家によって保護」されているという互助関係を形の上ではとってきたのです。
 国家は「支配者・収奪者」である一方で、国民の「保護者である」という両面性を抱えています。先にふれたように、これらは国家の歴史的発生以来みられる共通の特質です。このように国民の国家に対する義務の行使と国家の国民に対する「義務」(もちろん現代風の明確な概念は過去にはありませんが)の行使は、原始的な互酬関係を模したものなのです。
 国家が「国民融和」を装っても内在的な二律背反があるので、国家の支配にとって国内的な階級対立を抑制したり調定したりするばかりではなく、一歩進んで普遍的価値観や国民的利害を統合できる立場と行動がきわめて重要となります。幾多の戦争もまたその様な役割を担ってきました。
 「自由主義擁護」「テロ撲滅」を掲げた米国の諸戦争。さらに他国民の支配を指向する「大東亜共栄圏」「八紘一宇」を掲げた近代日本の例もあります。
 もちろん、これは欺瞞です。国家組織とそれを支える階級は、自己の権力や利害の最大値を目指すのであり、国民の利益を優先するという事はありません。いわんや他国民の「共栄」など一顧だにしてはいないでしょう。にもかかわらず国家の支配は、その特定支配集団の力と富の独占としてではなく、国民的な、さらにはアジア人(あるいはゲルマン人やスラブ人)としての共同の利害にもとづくものとして常に押し出されてきました(後者の偽善性は一層明らかです)。
     ◆   ◆   ◆
 国家の支配というものは、そもそも「国民」「公民」へのこのような政治支配に基礎においていおり、国家との闘いとは、つまるところこの二面性や欺瞞との闘いなのです。国家が、国民的な組織ではなく階級的なものであること、国家は中立ではなく、全国民的立場という立ち位置にないことを暴露することでしょう。国家というものが、暴力つまり警察や軍隊というものだけに依存していないというこの仕組みは、歴史の進化の過程でけっこう手の込んだものになってゆきます。膨大な官僚制度は国家統治の土台であるばかりではなく、「中立的」「国民的」性格を醸(かも)しだすためには無くてはならない存在です。
 とりわけ近代(現代)国家において、全国的な徴税制度の中から吸い上げられる巨額の国費は、もちろんこの制度の維持のためにも支出されますが、政治的自由が多少とも存在する諸国では、政治的攻防の果てに、在野の民間資本家や有力な経済団体、各地方や階級、階層の不満の調整金として支出されます。かくしてその調整役である「国民国家」「民主国家」は一つの傾向として肥大化する国家財政に悩み続ける宿命にあるのです。
    ◆   ◆   ◆
 話しをもとにもどしましょう。このように国家(権力)は常に共同の利益に立つ「公的」「国民的」なものであるばかりではなく、またそれを代表するものです。たとえば戦争は国家の典型的な「公的」行為です。それゆえ国家は、戦争あるいは外国の侵略のような「国民的危機」に対処するという美名のもとで、多くの権限を集中し国民に多くのことを課すことができたのです。
 イギリスや米国のような資本主義経済(私的な自由市場経済)が強く広く根をはった諸国ですら、世界大戦の時期は国権が強大化し、膨張した国家財政は集中的に軍需へと投下されさまざまな社会統制が実施されました。日本ではよりいっそう国家的統制が拡大し、思想統制から経済統制、はてはささやかな消費財の使用まで制限されました。
 いわんや生まれたばかりの当時の旧ソ連や北朝鮮国家の現実の支配者たち、つまり、当時の政治エリートあるいは新興官僚層や高級軍人は、強大な先進帝国主義に対して近代戦争を戦い抜くために国家・国民をあげた動員体制が必要であったし、手段を選ばずそのための国家制度の獲得を目指したのでした。
 こうして形成された北朝鮮・旧ソ連のような国家体制のみが、断固として自由市場経済(資本)の制限を強行し、私的所有を侵害し資源と生産手段と労働力を自ら直接に組織化し、そして社会全体の軍事化、要塞化を急速に実現できたのです。戦争という「公的」「国民的」事業の遂行のために、工業も農業も流通も土地も人民も国家に包摂されたのでした。 このように少なくとも近代において「軍事体制」への指向性は「国有経済体制」への指向性とは別のベクトルではないのです。国家権力により軍事体制が極端に推し進められれば、それは「国有経済体制」へと必然的に行き着くのです。これこそが歴史の中のスターリン体制であり金体制なのです。
    ◆   ◆   ◆
 20世紀に登場したこのような強力な中央集権的国家は、古代国家や前近代的な西欧封建社会はもとより、明、清等の当時の世界に冠たる東洋的官僚制国家をして面目なからしめる存在なのです。
 文明化された官僚制度と地方行政制度の網羅的確立、警察による全国的治安組織、農業集団化等国民的収奪のシステム、国家に忠誠を尽くすように教育された軍隊と国民の存在、その前提としての統制された通信・報道網や教育制度、さらにはスポーツ、映画・音楽やダンスを利用した国家思想教育等々の存在は、北朝鮮でみられた「権力世襲」の時代錯誤にもかかわらず(今ではほころびているとはいえ)近代(現代)国家に由来するものでしょう。
 くりかえしになりますが、北朝鮮や旧ソ連は、国家形成の初期の過程でそれぞれ世界大戦という緊迫した国際情勢に翻弄(ほんろう)され、奇形的に軍事国家の泥沼に入り込んだ姿を示していると私見では考えています。それが北朝鮮や旧ソ連のいわゆる「スターリン体制」の基本形なのです。
 そしてその体制が衰弱しあるいは分解し、抑制されていた自由市場や資本の運動が復活するか、もしくはアソシエートした人々の協同的経済に置き換わることなくして、この社会は「自己の論理」では発展することも、前進することもできない退嬰的体制として早晩敗北が運命づけられているのです。
 巨大な軍事力と豊かな資源支配により半世紀以上も生き延びたソ連帝国すら事実上の内部崩壊に直面しました。同様に北朝鮮も、米・ロ・中対立を巧妙に利用したり核兵器開発をちらつかせ、支援物資をせしめてかろうじて生き延びているにすぎず、金体制の終末がいつおとずれてもおかしくはありません。
(註1)「国家」という概念の通常の理解では、一定の領土とともに存在する国家制度や国家組織および国民(公民、市民)全体を含むものです。しかし, ここでは「国家」とは社会の管理あるいは支配組織をさします。具体的には政府、高級官僚・軍人あるいは王族やその側近、元老院(ローマ)などの貴族会議等々歴史的に多様な変遷がありますが。また本論では、「国家」の表記のもとに、この組織の中枢を指す場合と広く行政組織の末端まで含む場合があります。この点については文脈にしたがって理解することをお願いします。
(註2)たとえば民主制度の根付いたアテネ「市民」の場合は、市民自体が「ポリス=国家」を形成したといえます。独立農民=戦士=市民による国家形成という、歴史上まれなケースです。
(註3)しかし、東洋の秦や明や清のような中央集権的な官僚制国家を別とすれば、古代国家や封建社会での国家組織内部は一様なものではありません。貴族(旧部族長)たち、あるいは大名・領主による連合的権力として、国家が成立しているケースも少なくありません。しかし、ローマ帝国の貴族=大地主、あるいは中世ヨーロッパの封建制度、さらに近代では、地主階級とりわけブルジョア階級のような有力経済階級は多様化しており、経済活動が国家制度の外側に存在するというケースが拡大してきます。そうすると近代の英国や米国にみられるように国家制度は、その組織の単なる利益追求ではなく、多層化した優越階級の利益の保護や階級相互の対立の調整としての政治力をいっそう必要とされます。このような推移でより幻想的な「国民国家」というものが形成されと考えられます。〈続〉阿部文明案内へ戻る


原発こぼれ話

関電も全原発停止

 2月20日、関電高浜原発3号機が定期点検入りすることによって、関電も原発からの電力を供給しない電力会社の仲間入りした。残るは東電と北海道電力のみ、ここでも東電の非常識は際立っている。今だ放射能流出を続け、その被害補償を求める裁判では降り積もる放射性物質は無主物≠ナあり、東電は責任を負わないと主張して恥じない。
 原発に手を出さなかった沖縄電力以外のすべての電力会社が赤字転落し、今や原発はお荷物となっているのに、動かせば儲かるというだけで再稼働をさせようとしている。ここには、将来はどうなっても構わない、目前の利益しか考えない企業の浅ましさしかない。関電はその先頭に立って、再稼働を策している。「若狭は原発震災前夜」という警告が発せられているのに、だ。
 これまで、関電は供給電力の5割は原発によるものだったとし、再稼働ができないなら今夏は電力不足に陥ると主張している。そんな風に脅すことで、再稼働への道を開こうとしているが、停電の心配は無用だ。2月18日付けの「東京新聞」は次のように報じている。
「しかし、資源エネルギー庁の試算では、中部電力など電力各社が電気を融通し合えば、静岡以西の電力供給は逆に130万キロワットの余裕がある。関電の本音は『原発ゼロで夏を乗り切れば、原発不要論が高まる。それまでに一基でも動かしておきたいのだろう』(電力関係者)との見方が出ている」

低線量被曝をめぐる攻防

 昨年12月28日、NHKが「低線量被ばく 揺らぐ国際基準‐追跡真相ファイル」が放映された。その内容はICRP(国際放射線防護委員会)が低線量被曝の危険性を意図的に低めたというもので、低線量被曝の危険性を伝えるものだった。実に時宜にかなった番組であり、一連の放射線量地図やホットスポットの報道と並ぶものだった。事故直後の大本営発表$b齬ャしを帳消しすることはできないが、こうした報道は貴重である。
 ところが、この番組にかみついた人々がいる。合計112名にのぼる連名で、元三菱や東芝、日立、さらに元東電、関電等々、要するに原子力ムラの住人達による抗議だ。彼らは1月12日、NHK会長宛てに「『低線量被ばく 揺らぐ国際基準』への抗議と要望について」を申し入れた。あやふやな根拠で放射能の恐怖をあおるな、放射能・放射線量の利害得失をはかりにかければ利益の方が大きいという。
「例えば、1000人の人が100ミリシーベルトの被曝を受けた場合、癌で死亡する人が300人から305人となる程度であること、放射線の性質を利用した癌の診断、治療をはじめシリコン半導体製造、・・・など人のために役立っている」
 そして、最後に次のように述べることで、この抗議の目的をあらわにしている。少し長くなるが紹介しよう。
「現在福島県の周辺市町村の除染についてはようやく環境省主体の体制が動き出しつつあります。そして、いよいよ今年から本格的な除染を行おうとしているところです。
このような時期に今回のNHK報道は、わが国における汚染地域の放射線防護の基盤を根底から覆す惧れのあるものであり、そのことは、環境修復や避難民帰還のハードルを著しく高めることになり、すでに伊達市や相馬町などで除染を行っている地元の方々、指導しているアドバイザーの方々の苦労を無にしてしまう恐れがあります。結果として年間放射線量が20ミリシーベルト未満の区域に今なお住み続けておられたり、あるいは除染が住んで20ミリシーベルト未満の避難指示解除区域になったら避難先から帰ろうと考えておられる福島県の住民自身を一層不安に陥れ、復帰を断念させることを大変危惧します。また、放射線への恐怖が、医療現場での放射線診断を拒否し手遅れになるという可能性もあります」
 ときあたかも、厚生労働所が食品中のセシウムに新基準を4月1日から適用する方針を出している。その基準はこれまでより低くなっているが、十分に低くなったとは言えないものだ。ところが、ここでも横やりが入っている。2月16日、文部科学省の放射線審議会が低く設定しすぎている、「新基準の運用では利害関係者の意見を最大限考慮すべきだ」「乳幼児用食品と牛乳に対して1キログラムあたり50ベクレルという特別の基準値を設けなくても子どもへの配慮は十分と考えられる」と言うのだ。

 まったく恥を知らない連中の思考はどうしてこれほど画一的なのか。彼らの頭にあるのは利害関係者の利益≠ホかりであり、その被害を受ける人々の利益は一顧だにしないのだ。 (晴)


色鉛筆・・・ ゆとり教育の子ども社会人に

 わが娘は平成元年生まれ(1989年)、昭和天皇が亡くなりいきなりテレビ画面で「平成」と書かれた色紙をみて、あれから二十二年がたった。テレビも崩御の報道ばかりで気持ちがとても重かったことを覚えている。
 小学校に入学すると理科と社会がなくなり、生活科に変更になり、いままでのつめこみ教育がよくないと叫ばれ、いわゆるゆとり教育の時代に育った。生活科では、バインダー片手に地域のお店を回り、何を販売しているのかを調べたりしていた。また職業体験授業も始まり、毎年いろいろな職業体験をしてきた。それは小学校高学年から高校卒業まで続いた。当時私は生活科に変更になることを反対してきた。理由は裏にある道徳教育の強化で国家に服従が見え隠れしていたからである。しかし子どもの様子を見ていたら、地域の薬局からもらってきたケロヨンの指人形を見せて、販売しているものを教えてくれた。またスーパーには友達のお母さんがレジをしていた等バインダーにはお絵かきセットもついていて、地域の風景もデッサンしていた。子どもはとても楽しそうに生活していた。中学校では、ソフトボール部に入り、ゆとり教育だから本当は土日は部活動はだめなんだけれど、試合に勝利したいから練習していいですかと親に確認され、練習をしていた。私が中・高校生の頃は土日の部活動はあたりまえなので、びっくした。子どもと親が納得していた部活動の練習だったが、周りの保護者から苦情がきて大変なこともあった。高校・大学とソフトボールをして、いわゆる競争社会の中で生きるために従順な姿勢でいることも学んだようだ。
 つめ込み教育ではだめで、ゆとり教育で個性を育てようと方向転換されて平成元年生まれの子どもは育てられた。しかし、それは失敗に終わったのでと、教育課程を見直し現在移行期間中で、四月から元に戻るそうだ。子どももそんなこといわれても困る、責任は誰がとるのと話している。学習指導要綱がコロコロと変わる背景は社会がコロコロと変わるからだ。そして大阪市市長知事の橋下は小・中学校留年案を出している。学力重視の考え方で、集団生活の中で学んでいく「思いやり」についてはどう考えているのだろう?これから社会人になるのに、就職難で仕事もまだ見つからない人も多くいる。学生時代にアルバイトをして「ゆとり教育」の子どもは仕事きちんとしないといわれ、そして社会人になっても同じことを周りから言われないように祈っている。   (弥生)案内へ戻る


コラムの窓・・・「マイナンバー」

 あなたは「マイナンバー」という言葉を聞いたことがありますか?
 これは国民一人一人に個人番号が付けられるシステムです。将来、政府に管理される「監視社会」につながるかもしれない危険性がある。
 政府は2月14日、国民一人一人に番号を割り振って納税実績や年金などの情報を管理する共通番号制度を導入する「個人識別番号法案」を閣議決定し、国会に提出した。
 実現すれば2014年10月頃に「マイナンバー」と呼ばれる個人番号を通知し、2015年1月からカードを配布し利用開始の予定となる。
 政府は「社会保障と税の一体改革」に関連し、共通番号制を消費税増税に伴う低所得者対策に活用することも検討している。
 番号制は、所得や社会保障の受給実態を把握し、個人や世帯の状況に応じた社会保障給付を実現することが目的。他にも、年金の受給手続きの簡略化や、災害時の金融機関による被災者への保険金支払いなどにも活用できるようにするという考え。
 この「番号制度」の導入を狙って「番号制度創設推進本部」が主催する「番号制度に関する全国リレーシンポジウム」が昨年5月29日の東京会場から始まっており、2年間をかけて全都道府県で開催される予定。
 これまで開かれたシンポジウムでは、参加者から多くの疑問・反対意見が出されている。その一部を紹介しながら、この「番号制度」の問題点を検討してみたい。
 ★番号制度反対です。それは番号付けても良くならない。自営業者は税金ごまかしているが税務署は知らんぷり。生活保護にしても何であの人がもらっているのか疑問を持つが、市役所では「人員が足らないので、追跡調査できません」と言っている。番号制度より、こうした問題の解決が先決だ。
 ★私は○○市の職員です。「住基ネットの利用の拡大について」という答申をいただいたが、その中で「国民総背番号制につながるような利用拡大については反対する」と。実は住基ネットの時に、非常に危険な事態があった。目的外利用の問題だが、「自衛隊が隊員募集について健康情報まで全部把握していた」問題が起こった。危険性と利便性は裏表の関係だから、慎重にやってほしい。
 ★治療費を返すだけの制度で、これだけ難しいことをすることに反対だ。「マイ・ポータル」について、高齢者にパソコンがないとかインターネットができない人が多い、そんな人をどうするんですか?
 ★2つ質問あり。今回の共通番号で怖いのは、民間利用の問題です。アメリカとか韓国で成りすまし犯罪がたくさん起こっているが、どう考えているのか。もう一つは、社会保障を良くするためにやると言っているが、今生活保護を受けられない人が8割もいると言う。本当に社会保障の充実を考えるならば、6000億円を社会保障に使った方がよいのではないか。
 ★共通番号の民間利用について。担当者は民間利用は今後の課題であって、生命保険に健康情報を使うと言うことは永久にあり得ないと言っているが、そんなことはあり得ない。民間利用は絶対始まります。民間利用が原則禁止なのが住基ネットでした。その住基ネットの住民票コードで足りないから出てきた話が今回の番号制である。日本経団連は幅広く民間で使わせろと言っています。
 ★推進派のパネラーが「プライバシーを優先し国を滅ぼしては意味がない」などと発言した。これに対して、反対派の弁護士パネラーは「プライバシーは個人の尊厳に関わるもので、何かとてんびんに掛けるものではない。こういう考えに基づく制度はとてもじゃないが信頼できない」と反論した。
 このように、会場からプライバシー保護の観点から反対を表明した発言者が多い。政府が2月に予定する法案提出の見送りを求める声も相次いだ。さらに、会場パネラーの5人中4人が賛成・推進の立場で、反対派のパネラーは弁護士1人だけというシンポジウムの在り方にも批判が上がった。
 以上のように、政府は番号制度の「導入ありき」で、アリバイ的にシンポジウムを開催しているだけと言える。それは、2月14日に閣議決定し、国会に提出したこと事からもうかがえる。
 この「共通番号制度」の問題点である「個人情報の漏えいにによる人権・プライバシーの侵害」や「監視社会につながる危険性がある」などの問題点の検討が不十分である。
 さらに、世論調査でもこの「共通番号制度」の内容について「知らない」と回答した人が8割もおり、ほとんどの人がこの制度を知らない。このような状況下での拙速な導入には危険性が伴う。各地で問題点を明らかにして、しっかり反対していく必要がある。(英)


紹介  いのちを守る森の防潮提プログラム推進シンポジウム
     〜9000年続く土地本来の緑景観の形成と、防災・環境保全の創造

東日本震災は二万人余の犠牲者と甚大な被害をもたらしました。その大部分は津波によるものでした。復興に際しては、将来の巨大津波に対応するため、新しいエコロジカルな防潮提の整備が提案されています。この提案では、海岸沿いに高い盛土を築き、その上に深く根を張るタブノキやカシ類からなる多様な森を創ります。この森は津波のエネルギーを減殺すると共に盛土斜面を崩壊から守ります。盛土材料としてガレキを活用します。もともと住宅や家財道具であり、人々の深い思いがこもっているガレキを莫大な費用と労力を使って消却するのではなく、森の防潮提の貴重な材料として活用しようとする知恵なのです。「森の防潮提」と呼ばれているこの構想は宮脇昭(財)地球環境戦略研究機関国際生態学センター長(横浜国立大学名誉教授)によって提案され、東日本大震災復興構想会議が政府に提出した「復興の提言」にも記述されています。いのちを守る森の防潮提プロジェクトを進め、巨大津波に対応できる海岸線を創りだすためにシンポジウム等が開かれています。すでに仙台市内で計画されている海岸線がいくつかあります。このことに関心を高め、今後シンポジウム等に参加していきたいと考えています。(弥生)案内へ戻る


福島からの便りD

 石巻は日和山を残してまわりはほとんど浸水しました。特に海側は、建物がほとんど残っていませんでした。子ども達と海水浴をした砂浜も、しみん市場も、お寿司屋さんもすべて流され瓦礫となっていました。津波は北上川にも押し寄せて来て、流域も皆床上浸水となりました。
 親戚は皆無事でしたが、夫の友人は仕事中に地震に逢い、家族を捜しに自宅に戻ったところ、津波に飲み込まれて亡くなりました。とても責任感が強く家族思いの人でした。
 4月に入ると、スーパーには以前のように食糧品が並びガソリンも並ばずに買えるようになりました。(3月には朝6時から並んでも買えず、次は4時から湯たんぽと毛布を積んで家族で交替しながらやっと、8時ごろ2000円分だけ買えるという状況でした)
 孫を外で遊ばせるため毎週1日は日帰りで、山形、栃木、新潟、会津、仙台と出かけていましたが、それもだいぶ疲れてきました。私の家は震災前からなるべく自然食に近い食事を心がけてきました。父と母は子どもや孫のために無農薬で自給野菜を作ってきました。おかげで家族皆健康に過ごしてきました。
 その自給野菜をどうして孫が食べないのか納得がいかない様子です。原発事故のせいで畑の野菜は食べられないと、説明してもあまり良くわかりません。放射能は目に見えないので実感がないのです。孫は庭でも畑でも遊ぶことができず、庭の無農薬野菜も食べさせられなくなりました。これでも国や東電は原発を推進しょうと言うのでしょうか?
 3月末〜4月初め、福島では竹の葉の色が黄色くなり、これはセシウムの影響? と疑いましたが、白石、仙台、石巻・・・どこまで行っても竹は黄色い。山形へ行った時も黄色くなっていました。ネットで見ると、セシウムの影響ではないということでしたが、私にはどうしても疑いが晴れません。
 もう一つ気になることがありました。裏庭に植えていた「ムラサキツユクサ」です。放射能の影響を受けると色が変わるというので、その花が咲くのを待っていました。6月16日、私の家から5キロメートル程離れた友人から写メールが送られてきて、花の色がピンクになっていました。しかし、私の家のは木の下に植えてあるためか紫色のままでした。家の近くでもう一ヵ所、ピンク色のムラサキツユクサを見つけてギョッとしましたが、放射能がたくさん降り注いだという事実はもう変えられないと思うと、悲しさと悔しさでいっぱいになりました。
 それからもう一つ気になったのは、庭の松ノ木の葉っぱがいつになく伸びたこと、セシウムも吸着しやすい野菜はとても大きくなり、近所からは大きなキャベツやなすやきゅうりをいただきました。もちろん、50歳以上限定メンバーで有難くいただきました。
 菜の花はセシウムを集めるという情報を聞いたので、庭のくきたち葉は花が咲くまで置いて刈り込んで、市のゴミに出すことにしました。父はひまわりを夏の終わりに植えて、除染効果を期待しましたが、花の咲く頃、それは効果がないことがわかり、徒労に終わりました。(福島で果樹園をされているGさんより)


大阪市民として

 橋下大阪市長と維新の会の動きにある危うさと弱さを感じます。私、個人の歴史をふりかえってみますと、私は昭和30年はじめ上京して仲間からある強烈な影響を受けました。それは網野義彦氏らと同様の経験をもった人々でした。私自身は現実を否定する考えも何ももたない、ただ働いて日々の生活をすごすだけの人間だったから、もっと言えば自分をもたない空っぽの人間だったから、ストレートに影響されたと思います。
 なぜ自分をもたなかった人間だったのでしょうか。それは戦中戦後の餓えの時代のこととて何もなく、やたらオナカがへり、食べることばかり求め他のことは考える余裕もなかったから、自分が何がすきなのかもわかりませんでした。だから現実と自己とのぶつかりあいも、人と人とのぶつかりあいもなく、流れのままに動かされてきたように思います。
 しかし、ついには外側から入ってきたものと私自身の心底のものとが、キレツを生じるときがきて私は精神の病いに約3年ほど苦しみました。私は病いによって自己を知りえたと思います。病んでいる間と病後を大阪で過ごし、ずっと現在に至っております。
 私の歴史からして現在の維新の会の方々が熱狂的に橋下氏を支持する動きについて、ある弱さ、個人、自己のなさを危ぶみます。影響を受けるというのは決して悪いことではないでしょうが、外から受けるものと自己との葛藤の後の結論でなければ、もろいものと思います。自己とのたたかいの後に受け入れたのであれば、自己を豊かにすることでしょう。それは自己そのものであるからです。夏目漱石の苦脳を理解できるようになりました。理解よりも超えて行くことを私は望みます。
 先日、テレビでの現在の若者とそれ以上の世代の人々との対談の中で、文明の豊かさを享受できる現代に不満はない、満足しているという言葉をきき、驚きました。こういうことが言える人は文明の豊かさを享受し、操作しうる選ばれた人々であろう。この現実をどのようにとらえ、どのように導こうとするのだろう、という前提となる大きな問題が浮かびます。
 こういう発言はどのような意識が働いているかを考えてみますと、自分の好きなこと、能力をのばしていくことが重要であって、竹が上に向かってスクスクとのびるように、ヨコとの関係、つながりは余り問題にならない、極言すれば自分さえ良ければよいという考え方になると思います。それで世の中がうまくいっている間はいいものの、ヨコとのつながりを重視する人は年輩の方に多いようです。
 ここに述べました問題点を橋下氏はどのようにお考えなのでしょうか。戦後の日本の発展の中で、失ったものとはこういうことだったのではないでしょうか。3・11の震災は不幸を生みましたが、その中で生き抜き、自助、共助の精神によって生き抜いておられる東北の方々に、世界は絶賛いたしました。私がこだわるのは、戦後60年の間に失ったものは何か、今後どういうふうに生きていくかということです。これからも橋下氏と維新の会のめざすこと、動きに注目していきたいと思っています。
 私自身は最低、メガに弱い私でもパソコン位は操作できるよう努力するつもりです。
   2012・2・13 アサ 大阪 宮森常子

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編集あれこれ
 先週号の第一面には、「辺野古移設と普天間固定化を許さず!」という評論を掲載している。注目の宜野湾市長選挙は伊波候補の惜敗に終わったが、その原因は対立候補が「県内移設容認」派の本質隠しの上での薄氷の勝利でしかなかった。今後とも沖縄の闘いにワーカーズは連帯をしていく。
 第二・三面等には今焦眉の「税と社会保障の一体改革」を批判した論文を掲載している。この論文は次号に続きを掲載するが、読者にはワーカーズのこれらの視点を検討する事で、私たちの提起する「根源的な解決策」についての評価をいただきたいと考える。
 「色鉛筆」では、福島原発事故に関連した様々な支援行動とその広がりも紹介されている。「コラムの窓」でも「税と社会保障の一体改革」への視点が論じられている。先の連載論文を読む際の参考になるものである。
 第六・七面には、連載第2回目の「岐路に立たされる兵営国家」が掲載されて、「金正日の死と世界史の中の北朝鮮」が論じられている。とりわけ4節の「北朝鮮や旧ソ連の『巨大な歴史的意義』を讃えるのか?」は論争的で充分読み応えがあるものだある。
 第八・九面の「読書室」には、斎藤氏の『社会起業家』が「新しい時代の経済を模索する」として好意的に紹介されている。読者の一読を期待したい。第十面では東電に対する東葛の闘いが紹介されている。また第十一・十二面には、読者からの手紙として「福島からの便りC」と「サンゴの海」が掲載されている。
 先号のワーカーズは、多彩な編集ができたと評価している。案内へ戻る