ワーカーズ488号   2013/5/15     案内へ戻る
安倍政権による労働法制の規制緩和に反撃を!
 非正規拡大、無給の長時間労働押しつけ、首切り自由を許すな!

 安倍政権が打ち出した大規模な金融緩和、野放図な財政出動が、金融や不動産、一部の輸出依存企業に空景気をもたらしている。そしてそれが実体経済の活性化を意味するものでないことが分かっているだけに、安倍政権は第3の矢=産業競争力強化を叫ばざるを得ない。
 しかし、この競争力強化の中身たるや、決して実際の経済活力の増大をもたらすものにはなりえない。安倍政権の第3の矢の正体は、労働法制のいっそうの規制緩和、つまり低賃金と不安定な身分に置かれた非正規雇用の拡大、長時間労働の押しつけと残業代の不払い、解雇の自由化などを今以上に強力に推し進め、労働者の境遇をさらに悪化させようとするもの以外ではないからだ。
 まずは、職務や勤務地や労働時間などを限定した「正社員」の創出。これは、工場やオフィスの移転、頻繁な事業転換が当たり前となっている現代の企業にあっては、企業の都合次第で首切り自由な労働者、「名ばかり正社員」を生み出すものであることは明らかだ。その上さらに、前政権下で欺瞞的な「規制強化」が演じられたばかりの有期雇用や派遣労働について、再規制緩和が行われようとしている。
 さらに、ホワイトカラーエグゼンプションの復活も狙っている。事務系や研究開発系の労働者を労働時間規制の枠外に追いやり、それを手始めにして残業代の出ない労働者群を作り出そうというのだ。
 そして、極めつきは、解雇の金銭解決の導入。不当な解雇についても、なにがしかの金銭的見返りを代償に合法化しようという試みだ。一時の雀の涙金で、労働者にとっては命に等しい雇用の場さえ奪おうというとんでもない目論見だ。
 こうした労働法制の規制緩和が一体何をもたらすかを、労働者は小泉政権と第1次安倍政権の時代に体験させられた。一方での格差と貧困の拡大、大量の路上生活者の登場。他方での空前の利益に酔い、多額の内部留保を抱えてほくそ笑む企業、そしてにわか成金や富裕者の登場。
 いま再び、同じ政策が、かつて以上に露骨に、容赦なく押し進められようとしている。労働者を徹底的に無権利化し、長時間・過密労働を低賃金で押しつけ、その上にいつでも解雇可能な存在におとしめようとする安倍政権の策動を、労働者は許さない。
 労働者は、悩みを相談し合い、助け合い、組織をつくらなければならない。資本と政府による労働者の奴隷化の策動に対する反撃を、働く現場から、路上から、地域から、ともにつくりだしていこう!(阿部治正)


沖縄通信(NO・36)・・・「4・28屈辱の日」について

 前号で、政府の「主権回復・国際社会復帰式典」に抗議するガッティンナラン4・28沖縄大会について報告したが、なぜ沖縄県民がこの「屈辱の日」にこだわるのか、もう少し説明を加えたい。
 安倍首相の「主権回復の日」政府式典の政治的意図(改憲策動)は絶対許せない。だが、思わぬ効果が生まれたとも言える。
 4・28沖縄大会で若者代表が「屈辱の日の意味を知らなかった」と述べたように、この件をきっかけにして沖縄の多くの若者及び生徒たちが、この「屈辱の日」を学んだ。また、本土の多くの人たちも沖縄の「屈辱の日」のことを知る機会となった。
 なぜ、沖縄県民が「屈辱の日」を忘れないのか?また、今この「屈辱の日」をどのようにとらえようとしているのか?
 まず、「沖縄の平和創造と人間の尊厳の回復を求める100人委員会結成総会」で読み上げられた「抗議声明」を紹介する。
 「沖縄は、沖縄戦で『国体護持』のための『捨て石』とされ、苛烈な地上戦を強いられた。その結果、軍民混在の戦闘のなかで住民は巻き添えになり、4人に1人が犠牲になった。沖縄戦はまさに戦後沖縄の原点であり、このような膨大な犠牲者と血涙の上に戦後沖縄が開始されたことは、重要な歴史的事実である。
 対日平和条約第3条は、『日本国は北緯29度以南の南西諸島(琉球諸島および大東諸島を含む)』について、『合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下に置くこととする国際連合に対する合衆国のいかなるを提案にも合意する』こと及び、このような提案が行われるまで、合衆国は、これらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権利を行使する権利を有するものとすると定めている。
 このことは同時に、4・28は、日本が沖縄住民を自治能力のない者として米国の信託統治下に置くことに同意したことを意味するものである。
 日本本土の『主権回復の日』と引き換えに、選挙沖縄は米国の軍事優先政策を至上命題とする過酷な米軍統治下に置かれることになった。
 その結果、戦後68年の現在もなお米軍基地から発生する事件事故によって無数の悲劇と苦痛に見舞われ続けている。この意味で、『4・28』こそ沖縄住民にとって、人間の尊厳と誇りの全てを剥奪された日であり、まさに『屈辱の日』以外の何ものでもない。」
 これが沖縄県民共通の思いである。言い方を変えれば、日本本土は「敗戦・占領」という危機の中で、天皇制と国体護持のために沖縄を「捨て石」にして生き延びたということ。戦後も、米国に沖縄を差し出し(天皇メッセージ)、米軍に軍事植民地支配を許し、自分たちだけはさっさと独立を果たし、「民主」と「経済成長」路線に突き進み経済大国となった。沖縄を置き去りにして。
 次に、琉球新報に連載された「4・28沖縄からの問い」の中から仲里効氏(映像批評家)の問題提起を紹介したい。
 「私たちは皮肉にも4月28日を『主権回復の日』とする政府方針によって戦後の二つの起源と出会い直していることになるわけであるが、・・・4・28を問うことは、5・15を問うことでなければならない。昨年亡くなった写真家の東松照明は、沖縄の『復帰』がもつ陥穽を読み破っていた。『アメリカニゼーションは日本の内部に広く深く浸透している。その日本に復帰したのだ。沖縄は、アメリカから脱しようとして、もう一つのアメリカに組み込まれたことになる』と。この逆説的な意味の重さから目をそらすべきではない。・・・サンフランシスコ講和条約から60と1年、『復帰』という名の併合から40と1年。私たちのいまは、沖縄戦の死者たちのまなざしと拮抗することができるだろうか。4・28と5・15の共犯は同時に撃たれなければならない、と思う。高良倉吉副知事よ、もう一つのアメリカの首都トキオへゆくな、『ふるさと』を創れ。江戸へ上るな、南へ走ろう。」
 沖縄の識者の評論は鋭い!(富田 英司)案内へ戻る


憲法と自衛隊・・・安倍政権の『憲法改正と自衛隊を国防軍』に抗して

 安倍自民党政権は「自衛隊は国内では軍隊と呼ばれていないが、国際法上は軍隊として扱われている。このような矛盾を実態に合わせて解消することが必要だ」と述べ、憲法改正に意欲を示し、憲法改正の発議要件を緩和するための96条改正を優先する考えを改めて示し、今度の参議院選挙の争点としていく方向を示した。
 日本の「平和」憲法(1946年11月公布)は、第二次世界大戦での敗戦とその占領下で、中国国内の内戦や朝鮮半島情勢がまだ緊迫化していない、国際上の一時的な“平和”の中で作られたものだが、悲惨な戦争体験を目の当たりにし、平和国家への強い希求と「主権が国民に存する」という平和と民主主義を取り入れたものであった。
 平和への希求は「戦争の放棄」として憲法第9条に記されており”戦力不保持”ならびに”交戦権の否認”を定めているが、現実には、総兵力は約24万人、年間防衛予算も約4兆7千億円で世界7位に入るほどの軍事力を持った「自衛隊」という組織があり、主な活動としては「防衛出動」や、公共の秩序維持に関する活動として「治安出動」「災害派遣」等その他に周辺事態法やPKO協力法に基づく海外派遣活動を行っている。
自衛隊は、1950年の朝鮮戦争勃発時、中国や朝鮮半島で勢力を拡大しつつあった「共産主義」勢力に対抗するために、米軍の後方支援活動と国内における治安維持活動を主活動として、GHQ指令に基づくポツダム政令により警察予備隊が総理府の機関として組織されたのが始まりで、同時期、旧海軍の残存部隊は海上保安庁を経て海上警備隊となり、その後警備隊として再編。1952年8月1日にはその2つの機関を管理運営のための総理府外局として保安庁が設置された。同年10月15日、警察予備隊は保安隊に改組。そして1954年7月1日「自衛隊の任務、自衛隊の部隊の組織及び編成、自衛隊の行動及び権限、隊員の身分取扱等を定める」(自衛隊法第1条)自衛隊法(昭和29年6月9日法律第165号)が施行され、警備隊は海上自衛隊に、新たに領空警備を行う航空自衛隊も新設。陸海空の各自衛隊が成立し、また同日付で防衛庁設置法も施行され、防衛庁は2007年1月9日「防衛省設置法」よって内閣府の外局から独立した省へと昇格し現在に至っている。
この間、自衛隊を巡る論争は憲法第9条との関係で、自衛隊は軍隊かどうか、自国の防衛戦と戦争放棄との関係、他国との安全保障条約締結問題、装備は・・等々多岐にわたって行われてきた。
 自衛隊が軍隊で「国軍」なのにそう名乗れないし、軍艦も“自衛艦”や“輸送艦”と名乗るのは憲法第9条があり、その関連性を問われている、そうした背景があるからなのだが、今日の政府見解は「憲法9条第1項では自衛戦争は放棄されていないが、第2項の戦力不保持と交戦権の否認の結果として全ての戦争が放棄されているとする遂行不能説に立ちつつ、冷戦構造の深まりの中でこのような枠組みを維持しながら、交戦権を伴う自衛戦争と個別的自衛権に基づく自衛行動とは異なるものであり、後者については憲法上許容されていると解釈するに至っており」「個別的自衛権に基づく我が国を防衛するために必要最小限度の自衛行動というものは憲法が否定していない」という立場で、交戦権を伴う「自衛戦争」は行うことはできないが「自衛権」行使はできるとの立場をとっている。
 従って装備もその「自衛権」行使のためのもので、「侵略軍の本土の補給拠点や出撃拠点を攻撃する能力や」、「上陸部隊の後方の補給線を攻撃する能力は低い」など、限定的なものとして配備することになっているのだが、近年、災害派遣や国連PKOへの派遣などの「国際貢献」を理由にした海外派兵が行われており、兵器も海外展開を視野に入れた性能が要求されるようになって、巡航距離の長い航空機の採用や空中給油機の導入、対潜能力や輸送能力の向上を目的として、ヘリ空母に相当するひゅうが型護衛艦が導入されるなど、兵器の能力は世界的にも一線級を維持しており、他国に行き「戦争」行為を行うことができる軍隊として存在している。
安倍政権の「国防軍」発言や憲法改憲への動きはこうした実績を踏まえた上での発言なのだが、その後ろには、国による安定した「防衛」需要の供給により、企業の安定と多大な利益をうることができる防衛産業に群がる三菱、川崎、富士、石川島播磨などの重工や、電気や自動車・衣料などあらゆる産業が後押しをしていることは明らか。
 「平和」を謳う憲法と、それに反し、その憲法9条の解釈上とはいえ「自衛権」の行使上必要として存在してきた自衛隊やその増強化は、憲法矛盾として今後も論議されるが、悲惨な戦争を体験した戦争世代も少なくなり、解釈改憲が進んでいる今は「平和を守ろう」「憲法を守ろう」だけでは今後の反戦・反軍・平和運動は前には進まない。
 貧富の存在と拡大、国と国がなぜ分裂し相争うのか、平和はなぜ尊いのか、軍事的解決のむなしさ、軍需に頼る生活の是非、等々多くの議論と活動が必要だ、その先頭に立ち、問題を提起し、問題の解決のために闘いうる人々の結集が急務として望まれる。(光)


連載  オジンの 新◆経済学講座④ 上藤拾太郞

●「権利」が売買される時代
 環境問題に関心のある君は知っているだろう。二酸化炭素(温室効果ガス)排出量を一定の枠以内にとどめるとその部分を売却する「権利」がうまれ、それが売買されている。「排出権取引」という。京都議定書第十七条で国家間売買が定められたが、現在では企業間でも売買できる。
 この権利を買いとれば、実際は二酸化炭素排出量が基準値をオーバーしてもオーケーなんだ。つまりこの権利の売買で、企業や国が現実に出す二酸化炭素量とは切り離されたものとなりつつある。とてもおかしなことではないか。
 ところがこのおかしなことが所有にもある。所有は労働に根源があることは前回話しただろう。人類史をつらぬく原理だ。ところが、土地などの所有が「権利」として売買されるとどうなるのか? 「所有権」が労働と切り離され、誰でもに購入すれば手に入るのだ。これが私的所有のことだ。
 A氏は会社の株を買い占めて、企業Zの「所有者」になれるのだし、気が変わればB氏に株を転売することができる。AもBもこの会社で働く気がさらさらなくても、「所有」できるのだ。
 もっとも、オジンの給料では車やパソコンは買えるが、大株主となって会社を所有することなどはできっこない。だから企業は一部の資産家や企業エリートの独占物となってしまっている。

●排他的な私的所有
 このように現代の私的所有とは「わたしのものです」なんて素朴なことではない。所有が労働から切り離されることで、一部の人間が会社とその資産を独占できる排他的なものとなったのだ。
 実際に働いてる大勢の社員とは無関係に、会社の「所有権」は別な者が持つ。労働するものは契約で雇われるだけだ。現代の法律(日本国憲法二九条二項、民法二〇六条)は、「公共の福祉に」反しない限り私的所有の権利の不可侵性を定めている。裁判所や国はそれを守るのが第一の義務になっている。
 私的所有があるから、格差を生む搾取があり、金融資産家・法人たちの仕掛けるカジノ経済や為替投機が横行しているのだ。庶民はいつもそっちのけだ。 ところが今の安倍首相はそれをあおり立てている!

●ちょっとした思考実験を
 ここで思考実験をしてみよう。
 今、働く者の所有が回復されたらどういうものになるだろう。考えてみよう。
 近世のジョン・ロック時代に戻ることはできそうにない。当時のような個人経営もそんざいするが、現代では大企業が多数成立している。中小企業でも普通百人~数百人もいる。かれらは共同して働いている。「労働が所有の源」であるなら、何らかの共同的所有となるはずではないか?
 さらに、現代の労働は分業(協働)しながらどんどん連鎖している、だから所有は本来排他的であるはずはない。むしろ現代では連帯的になるはずだ! 
       *    *    *    *    *
 ある企業たとえばトヨタ自動車は、自社内部にたくさんの労働者が働いているだけではない、さらにさまざまな部品メーカーと連結している。系列下請けいじめの話しはここでは省くしかないが。産業すそ野がきわめて広い。さらに、機械設備メーカー、工場建設の建築会社等々。関連すそ野は国内、いや、今では国境も越えている! 労働に基づく所有にたてば、それは本来広く勤労者の連帯したものになるべきなんだ。 (つづく)


コラムの窓 ・・・「レ・ミゼラブル」と「アソシアシオン」

◆「正しい人になる」とは?◆
 パン一斤を盗んだ罪がもとで、十九年も「徒刑囚」となったジャンバルジャン。
 仮釈放の身で、一夜の宿を提供してくれた教会から、銀の食器を盗んでしまった。ところが、そんなジャンバルジャンをミリエル司教は咎めるどころか、銀の燭台まで与え「忘れないでください。あなたは、正しい人になるために、これを使うと約束されたことを」と諭した。
 これまで、社会への復讐心で一杯だったジャンバルジャンは、ミリエル司教の慈愛に打たれ、「俺は何て惨めな人間(レ・ミゼラブル!)なのか?」とはじめて慟哭し、心の葛藤を乗り越え、「正しい人になる」生き方を模索する道を選ぶ。
と、ここまでは、よく知られたストーリー。興味深いのはその後だ。

◆マドレーヌ氏の「理想工場」◆
 自分の名が記された「仮釈放証明書」を破り捨てたジャンバルジャンは、数年後「マドレーヌ」と名前を変え、モントルー・シュール・メールという地方都市で、黒玉ガラスを加工した輸出用アクセサリーの工場を建て直し、地元に雇用の場を増やし、やがて人々の尊敬を集め、市長に推挙されるまでになる。
 マドレーヌ氏は、その工場について、いくつかの工夫をした。まず製造方法の改善。原材料費のかかる樹脂をやめてゴム・ラックを使いコストダウンをはかった。腕輪についても、ハンダ着けの鉄の輪をやめ、両方を折り曲げただけの鉄の輪に嵌め込むようにし、作業効率を上げた。これにより、出荷量は拡大し、賃金も上がった。今でいう「イノベーション」の成果である。
 また、工房を男女別にして、風紀が乱れないようにした。「兵舎町」という土地柄、セクハラ防止のためである。さらに、地元の病院や学校を建て直し、保育所や無料の薬局を設置し、年をとった労働者や身体障害者のための救済基金を設けた。「労働者福祉の町」作りである。

◆背景に「アソシアシオン」運動◆
 ミリエル司教の説く「正しい人」を、ジャンバルジャンは「理想工場」を中心にした「福祉の町」作りで、実践しようとしたことに注目したい。
 そこには、当時のフランスの思想的・社会的状況が反映している。政治的には、「共和派」と「王党派」との対立の時代であった。その共和派も、内部では、「自由主義的ブルジョワジー」と「社会主義的労働者派」が、ある場合は対立し、ある場合は協力していた。ここでいう「社会主義」とは、サン・シモン派に代表される「産業社会主義」であった。
 蒸気機関を利用し、イギリスに半世紀遅れて始まったフランスの産業革命は、古い「職人組合」の社会を解体し、「自由な労働者」が「競争」させられ、「雇用」と「貧困」の狭間であえいでいた。それゆえ、古い「職人組合」に代わる新しい相互扶助のしくみが必要とされ、自由な労働者の連合体としての「協同組合」(アソシアシオン)が生まれた。
 フランスでは、パリや地方都市に労働者の「生産協同組合」が生まれ、そこに融資する組織として「信用協同組合」が設立された。プルードンの「人民銀行」構想も、そうした社会運動から発想されたのだろう。

◆現代の「貧困」と「協働」◆
 現代の私たちは、サン・シモン流の「産業社会主義」の延長で「アソシアシオン」運動をそのまま受け継ぐわけにはいかないだろう。
当時の社会運動家が理想化した「蒸気機関」は、やがて大気汚染や水質汚染をもたらし、欧州人の心の故郷である「黒い森」(シュバルツ・バルト)を枯れ果てさせた。今や「生産力信仰」の反省の上に、新しい社会運動が求められる時代となった。
また、当時理想化された「協同組合」と「信用組合」の関係は、やがて「株式資本」と「金融資本」に発展し、今日では巨大で病的なマネーゲームが世界を席捲する「金融主導型経済」に行き着いた。
「今世紀の三つの問題、すなわち無産のせいで男が零落し、空腹のせいで女が淪落し、蒙昧のせいで子供が萎縮するという問題が解決されない限り(略)この地上に無知と貧困がある限り、本書のような性質の書物も無益ではあるまい」(一八六二年)。ビクトリ・ユゴーが「レ・ミゼラブル」巻頭で告発した民衆の状況は、今も本質的には何らかわらず、私たちの眼前に展開している。
「レ・ミゼラブル」の時代に、労働者や女性、児童の「無知と貧困」を「アソシアシオン」運動で乗り越えようとした人々の、挑戦と挫折の歴史を学び、「産業社会主義」とは異なる新しい視点で、改めて「アソシアシオン」を構想することは、決して「無益ではあるまい」と思います。(誠)案内へ戻る


雇用破壊
使い捨て雇用制度の導入を許すな!──解雇自由・業務連動型雇用を考える──


安倍内閣のもとでまたしても雇用の規制緩和が画策されている。解雇自由、限定正社員制度の導入などだ。
 解雇自由はこれまでの労働規制の根幹を否定し、労働者の血の滲むような努力を帳消しにしようとするものだ。それに限定正社員制度の導入も、企業にとって解雇しやすい雇用制度であり、労働者側からすればさらなる雇用の不安定化をもたらす。それらはいずれも使い捨て雇用そのもので、安倍内閣と財界の雇用の規制緩和を許してはならない。

◆雇用破壊

 安倍内閣が目論むのは、裁量労働制を適用する職種の拡大だ。これは時間に縛られない働き方だという看板を掲げてはいるが、実際は働かせ放題の請負労働に近いものだ。現在は裁量労働制を適用するには、労使合意のうえで労働者本人の同意が必要だが、それを労使合意の手続きも簡単にした上で本人の同意抜きで適用できるようにする、というものだ。政府の産業競争力会議に武田薬品工業の長谷川閑史社長が中心になってまとめたものだ。
 この裁量労働制の適用拡大は、第一次安倍内閣の時に導入が検討された、年収900万円(当初は400万円や700万円)以上の労働者を規制対象から外すという《ホワイトカラー・エグゼンプション》とほぼ同じものだ。その時は「残業代ゼロ法案」だ、「過労死を増やすものだ」として労働者の強い反感を買って、法案の提出を見送った経緯がある。
 次は解雇ルールにかかわる規制緩和だ。これには二つ提案されており、一つは解雇における金銭解決の導入であり、もう一つはジョブ型雇用類型の新設で、いずれもいま以上の解雇の自由化を狙ったものだ。
 まず解雇における金銭解決ルールの導入だ。
 この解雇における金銭解決とは、《事前型》と《事後型》が想定され、事前型は会社が解雇一時金を出せばいつでも解雇できるという制度だ。これには企業のあまりの身勝手さに安倍首相にさえ避けられ、とりあえず成長戦略に入る可能性はなくなった。事後型というのは、解雇が紛争になったケースに適用されるというものだ。具体的には、企業による整理解雇などでの紛争に際し、たとえ企業側の違法行為が立証され解雇の取り消しと原職復帰の判決が出た場合であっても、企業は労働者に金銭を支払って解雇できる、というもので、結局は企業の違法解雇を後押し、合法化する意味合いを持っている。
 この解雇における金銭解決は,6月に予定されている政府の成長戦略には盛り込まず、本格的な検討は参院選以降に先送りされた。とはいっても財界や企業の解雇自由への執心はおさまったわけではない。これまでもことあるごとに持ち出されてきたものだからだ。要は労働者の拒絶反応が強い《解雇自由》《解雇の金銭解決》が、参院選の争点になるのを避けただけに過ぎない。
 当面の力点は、仕事が無くなれば即解雇、という《限定正社員制度》の導入へと向けられている。
 これは地域や職種を限定しての雇用で、具体的には、企業の事業所閉鎖などでそこでの業務が無くなった場合、企業は退職金を支払って解雇できる、という雇用形態の導入だ。これまでは個々の事業所閉鎖などに際して、企業は希望退職者などを募集し、応じない労働者に対しては他の事業所などで受け入れるなど、企業の雇用責任が慣習化されていた。これに対し、企業が個別の事業所の閉鎖を決めれば、そこで働く労働者を自動的に解雇できる雇用制度だ。いはば企業にとってビルト&スクラップが格段にやりやすくなる。
 この雇用類型はジョブ型雇用ともいわれ、要は特定の技能や地域での仕事があるときだけ雇用される雇用類型のことで、業務連動型雇用とも、準(第二)正社員ともいわれている。
 こうした雇用分野での規制緩和策は,政府の産業競争力会議や規制改革会議で検討中のもので、安倍内閣がこの6月にまとめる《成長戦略》に盛り込まれる事になっている。雇用における規制緩和は、経済成長というより、財界や企業利益のために導入されようとしているのは明らかで、そこには財界や産業界の永年の思惑が色濃く反映したものだ。それを代弁するかのような安倍内閣による労働規制改悪を許してはならない。

◆思惑

 財界や企業が雇用分野での規制緩和に執着する理由はどこにあるのだろうか。
 それは雇用の安定にかかわる各種の規制を取り払うことで、企業の自由な営利活動を縛ってきた束縛から逃れて雇用・解雇でのフリーハンドを得たい、という思惑が企業にあるからだ。逆に労働者の立場からすれば、これまで永年にわたる闘いで積み上げてきた、企業による好き勝手な雇用・解雇への縛りが取り払われることになる。「転職がしやすくなる」などの推進勢力による謳い文句が現実のものになったためしなどない。
 いうまでもなく雇用契約というのは、一般の商品の売買契約とは違って、対象の商品は生身の人間の労働能力だ。そうである以上、その売買には特別な基準と制約が不可欠になる。それらは単に民法上の対等の当事者どうしの契約と区別して様々な規制かかけられてきた。企業という大きな組織に対し、1人ひとりの労働者の力は微力だからだ。その最低基準が労働基準法で、同法は民法の特別法の位置づけになっている。
 その労働基準法の意図は、生身の人間の尊厳を確保するのに不可欠な法的保護を保障することで、労働者の生命・健康と人たるにふさわしい生活の最低限を確保することにある。財界や安倍内閣が進めようとしている労働分野での規制緩和とは、文字通り、企業がこの労働者保護法制を一つ一つ浸食するもので、彼らの手前勝手な提言を認めることは、労働者の生存権と労働権そのものを否定することでもある。
 財界や企業は、労働者が提供する労働力は、他の商品とは根本的に違う商品であることをわきまえさせなけれなならない。雇用や労働の在り方は、企業利益や営利活動に従属したものではなく、労働者の健康や人たるにふさわしい生活と関連づけられたものだからだ。

◆出来レース

 安倍政権のもとで、財界や産業界主導で雇用の規制緩和が進められようとしている。が、すでに雇用の劣悪化は広範に拡がっている。解雇自由についても、これまでは整理解雇の四要件を厳格に判断する判決が続いたが、最近ではその要件を緩めるような判決も相次いでいる。裁判所も整理解雇しやすい判決を出しているのだ。
 ジョブ型雇用、要するに第二正社員、準正社員という雇用類型も、すでに多くの企業によって取り入れられている。従業員300人以上の企業の約半分に、勤務地・職種・労働時間が限定された正社員制度が導入されているという。総合職に対する地域社員制度などがそれだ。地域社員での雇用は、転勤など無い代わりに賃金などの処遇が総合職に比べて低く(8割程度)設定されている。契約社員などという不安定で低賃金の直接雇用も拡がっている。非正規雇用も含めれば、すでに日本の雇用解体は何でもありの劣悪な雇用システムに様変わりしている。それでも飽き足らないのというのが、今回の規制緩和の意味合いなのだ。
 このように個々の企業では雇用の多様化はすでに既成事実になっており、財界や産業界の政策提言や政府の政策がそれにお墨付きを与えるという出来レースはこれまでもやってきた。その端的な事例が例の《雇用の複線化》だった。
 1995年に打ち出された日経連(=現経団連)による《新時代の日本的経営》はその端的な実例だ。当時の日経連が雇用の複線化を打ち出し、その後、全産業で急激な非正社員化が進んだことがそれだ。まず個別企業が取り入れ、それを財界・産業界あるいは政府が公然と推進する姿勢を打ち出すことで、一気に雇用の本流にした、というわけだ。今回も同じだ。
 労働者保護、雇用に関する企業のやりたい放題を、他力本願では阻止できない。労働者の尊厳と自分たちの生活と将来を確保するためには、労働者の自立した闘いの拡大が不可欠なのだ。こうした真実は、昔も今も少しも変わっていない。

◆反転攻勢

 非正規労働者の比率はますます増えて、今では全雇用者の3分の一を超えている。雇用の不安定化はいまだ止まっていないのだ。それに、準正社員制度の導入といっても、それもすでに個々の企業で拡がっていることだ。経済成長、景気回復頼みという企業業績依存では、雇用の安定化は無い物ねだりだ。
 ではどうするのか。雇用と処遇システム全般の再編成という戦略的目標を定めることが出発点になる。具体的には、同一労働=同一賃金など、労働者の団結の基盤となる雇用・処遇システムへの転換をめざすことだ。
 労働者の一部には、かつての年功序列賃金や終身雇用システムへのノスタルジアの声も聞こえる。確かに非正規社員の正規化は、雇用の安定化や処遇の改善につながるもので、個々の労働者にとってそれ自体は大きな処遇改善になり得る。が、ここまで非正規化が進んだ今となっては、実際には準正社員という新たな階層構造を増やすだけに終わる可能性が高い。ここは別のルートをめざすべきだろう。
 年功序列賃金、終身雇用、企業別組合という三点セットで特徴付けられる日本的労使関係にも明暗はあり、過酷な側面も併せ持ったものだった。そこでは相対的に雇用が安定していた反面、若年層の低賃金や会社人間・企業戦士を生み出す個別企業への過度の従属、それに経営に従属する企業組合という負の側面が拡がっていた。
 その日本的労使関係への復帰は、実際問題として難しい。不可能と言っても過言ではない。なぜなら、高度成長期に形成された日本的雇用システムは、経済のグローバル化のもとでは成立しがたいからだ。低賃金を武器とした追いつけ追い越せという時代は様変わりし、今では後発国の急激な追い上げにさらされている。賃金引き下げなどの圧力は,単に企業業績の結果ではなくなり、経済のグローバル化が進んで国境を越えた賃金の平準化の流れが押し寄せているのだ。
 かつての高度成長時代、労働者や労働組合は、自分が所属する企業の業績を伸ばせれば、それで賃金などの結果もついてきた。そこでは正規雇用か非正規か、あるいは年功賃金か、職能給か、といったことは二の次に扱われ、ともかく賃金額、賃金水準の引き上げが最優先されてきた。全体的に低賃金だったから無理もないことではあった。しかしそれと引き替えに、労働者どうしが競争しあうような雇用システムや賃金体系の導入を許してしまった。それらが労働者の団結の解体に結びつき、今では雇用や賃金でも企業の好き勝手がまかり通る素地となってきた。労働運動の形骸化である。
 他力本願は、私たちになにももたらさない。労働者が依拠できるのは、自分たちの団結した力だけだ。雇用にしても賃金にしても、労働者の団結や連帯を可能にするような方式をめざす以外に、局面打開の道はない。
 ここは、正社員と非正社員の区別なく、処遇の均一化と、雇用での労働者の規制力を発揮する闘いを拡げていく以外にない。
 労働者の雇用や処遇を、単に企業の従属変数にとどめておくことはできない。企業が何を考えようと、企業が受け入れざるを得ない労働基準を、労働者の闘いで作り上げることこそ不可欠なのだ。一部の大企業正社員は、自分たちの特権を奪われることになるので受け入れがたいだろう。しかし今では大企業の正社員でも《追い出し部屋》など、雇用破綻が目の前に迫っているのだ。
 同一労働=同一賃金という連帯賃金をはじめとして、働くすべての人が依拠できる論理を自分たちのものとし、企業や財界のやりたい放題の雇用破壊を打ち破っていきたい。これはすべて労働者の自立姿勢、自立性、決意にかかっている。アベノミクスの今、反転攻勢に踏み出す時だ。雇用破壊は、跳ね返せるのだ。
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読書室
アーニー・ガンダーセン氏著『福島第一原発――真相と展望』集英社新書 
定価735円

 2011年10月14~16日に行われたロングインタビュー等を元に構成された米国の一流原子力技術者の事故原因と事故の実相に関する的確で網羅的な衝撃の証言集

 すでに事故から2年経過しても東京電力福島第1原発では、炉心溶融した2号機の格納容器内の調査が進んでいない。この3月、東電は小型カメラを入れてはみたものの、思うように動かす事ができなかった上、引き抜く事もできなくなって失敗した。一体何時になったら溶けた出した核燃料の状態を把握できるのか、そのメドは一切立っていない。
 また4月に発覚した第1原発の地下貯水槽から放射性物質を含む汚染水が漏れた問題は、すでに1カ月が経過した。東電は、これまで地下貯水槽にあった約2万3千トンの内3分の1程度の移送を終えたが、今後の移送には受け入れ先となる地上タンクの増設が必要で、すべての汚染水を移し替えるにはさらに2カ月近くかかる見通しだ。
 野田“泥鰌”前首相の原発事故収束宣言が如何に偽りに充ち満ちた物であったかは、こうした炉心状態と汚染水漏洩の一連の経緯から誰の目にも全く明らかである。
 こうした東電と日本政府のもたつき加減を見るに付けて、原発事故からわずか7ヶ月ほどの時期に、的確に原発事故の原因と事故の実相に迫った予測を発表して事故対策を提言した米国原子力技術者ガンダーセン氏の推理力と論証力には全く驚かされる他はない。
 彼は、この本の「はじめに」において「原子力発電全体、そしてとりわけ福島第一原子力発電所で使用されていた米ゼネラル・エレクトリック(GE)社のマークⅠ型BWRというモデルに対しては、設計や運用上の危険性について何十年も前から警鐘が鳴らされていました。それにもかかわらず深刻な事故が発生してしまったことに、四十年の間、原子力の分野に関わってきた者として大変心を痛めています」「福島第一原発では、いったい何が起きたのか。どのように対処すべきだったのか。今後どうするべきなのか。原子力技術者としての率直な分析と提案を通じて、自分なりの貢献ができればと願っています」と彼自身の誠実な人柄を彷彿とさせる文章を記している。
 ここで目次を詳しく紹介しておく。私には、彼の予想と現実の事故との何処が一致しており、また違っていたかに関しての正確な説明ができず、何より困難であるからだ。ここでは、私は原発事故に関する読者の問題意識の高さに大いに期待するものがある。
 はじめに
 序章 メルトスルーという新概念
    (1)未知の事象/(2)“冷温停止”のまやかし
 一章 事故の真相とマークⅠ型のリスク
    (1)冷却用海水ポンプとは/(2)古い原発の深刻な問題/
    (3)ディーゼル発電機の種類と配置/(4)原発はタイムカプセル/
    (5)自己破壊する圧力抑制室/(6)縮小された格納容器/
    (7)そこに穴が空いている圧力容器/(8)危険を秘めたタービン建屋
 二章 福島第一原発の各号機の状況
    不安定に安定している一号機
    (1)冷却機能の喪失/(2)大気への放出/
    (3)前代未聞の汚染水/(4)耐震性と老朽化
    格納容器の破損が最も深刻な二号機
    (1)爆発の有無/(2)再臨界の恐れ
    臨界が起きた三号機
    (1)格納容器の謎/使用済み核燃料プールでの爆発/
    (3)禁断の議論/(4)二つの事象が生じた
    格納されていない炉心を抱えた四号機
    (1)一触即発の燃料プール/(2)水素の発生/
    (3)狭まるマージン/(4)消えたクレーン
 三章 廃炉と放射性廃棄物処理
    (1)核燃料取り出しという難題/(2)石棺化はできない/
    (3)再利用と増殖炉/(4)実現せぬ最終処分場
 四章 深刻な健康被害
    (1)チェルノブイリを超える大気中への放出量/
    (2)外部被爆/(3)内部被爆/(4)放射性セシウム/
    (5)放射性ストロンチウム/(6)放射性ヨウ素/
    (7)敷地外でも検出された超ウラン元素など/
    (8)キセノンとクリプトン/(9)汚染の広がり/
    (10)日常対策/(11)ずさんな食品管理/
    (12)生体への悪影響/(14)正しい情報と分析
 五章 避難と除染の遅れ
    (1)初動体制の不備/(2)避難勧告のミス/
    (3)焼却による二次被害/(4)地下水の被害
 六章 原発の歴史
    (1)軍産複合体制の呪い/(2)各国の選択/
    (3)次世代の原発/(4)スリーマイル島事故の経緯/
    (5)地元との関係
 七章 規制と安全対策
    (1)原子力村/(2)安全神話の束縛/
(3)作業員と安全管理/(4)規制の機能不全
 八章 脱原発に向けて
    (1)原発の安全コスト/(2)政治的判断/
    (3)発送電/(4)再生可能エネルギー/
    (5)エネルギー効率の工夫/
    (6)日本の資源を生かすヴィジョン
 おわりに
 主要参考文献
 目次は以上であるが、その全面的で体系的な展開には圧倒されるばかりである。私自身は政府等の作成した各事故調査報告書をつぶさに調べた事はない。そのため、現実に起きた原発事故の実相についての正確さは欠くかも知れないが、何よりも率直で大胆な推論を展開する彼の論証力を信頼する。既に前々から言われていたマークⅠ型が欠陥商品であった事がここまで詳しく書いてある本を私は今まで読んだ事がないからである。
 この本は言ってみれば原発事故に関する概要と事故対策に関する手引き書と言って良いものだ。そもそも彼自身が、全米で原子炉の設計・建設・運用・廃炉に携わっていた経験を買われ米国エネルギー省作成の(原発)廃炉手引き書(初版)の共著者の一人であるからだ。彼は、2011年3月18日の時点で、日本政府や東電が否定する中いち早くメルトダウンしていると迷わずに断言できた抜群の能力がある一流の技術者なのである。
 その体系性のため個々の評価はできないが、まさにこの本は現在でも焦眉の課題である原発事故対策のマニュアル本として、常備し読み込んでおかなければならない本である。
 最後に「おわりに」の中にある示唆に富む彼の文章を引用してみよう。
「福島第一の複合事故を研究するまでは私も、意識改革と科学技術の発展で徹底した改善が可能だと考えていました。しかし、健康被害の回避や長期にわたる放射性廃棄物の官吏は人類の力を超えるという事実を確信するに至りました」
「日本政府、東電、国際原子力機関(IAEA)の宣伝とは裏腹に事故は収束から程遠い状況です。今なお不安定な現場で働いている懸命な作業がなければ、四号機の使用済み核燃料プールでの火災や連鎖事故で全く制御が利かなくなる恐れがありました」
「これからは化石燃料やウランではなく、日本が恵まれている風力、太陽光、潮力、地熱といった代替エネルギーを生かす時代です。技術者として私は日本の革新的なテクノロジーと丁寧な仕事ぶりに敬意を払っており、思慮深く勤勉な人々が世界に手本を示してくれることを期待しています」
 これから幕開けとなるエネルギー革命を日本がリードしてほしい、これが彼の願いである。私たちも彼のこの期待にぜひ応えたいものである。一読を勧めたい。(直木)案内へ戻る


有識者とはこんな程度──日銀政策委員の変わり身の軽さよ──

 出口が見通せないアベノミクスが徘徊している。その舞台廻し役に起用されたのが金融緩和論者の黒田新総裁だった。それだけをみれば政治任用の総裁が変わっただけで是非もない。が、あきれるのは専門的知見を買われて任命されたはずの政策審議委員の変わり身の軽さだ。
 舞台廻しの道具立てに使われたのが日銀の政策決定会合だ。日銀には総裁と二人の副総裁を含めて9人の政策委員がいる。総裁と副総裁がすげ替えられても残る6人の審議委員は民主党政権時代からそのポストにいた。その審議委員がアベノミクスに素早い変わり身を見せたのだ。
 今年の3月7日、前任の白川方明総裁のもとで開催された最後の政策決定会合。その場では白井さゆり委員が提黒田新総裁の主張を先取りした緩和提案を行い、結果としてその提案を8対1で否決した。3月以前の政策決定会合では白方総裁主導の緩和レベルをおおむね支持してきたから当然ともいえる。
 ところが黒田新総裁が就任して最初の政策決定会合で、全員一致で黒田提案に賛成に回ってしまったのだ。市場に巨額のお札を流し続けるという黒田緩和だ。日銀の政策決定会合とはそんなに軽いものだったのか、と唖然とさせられる事態だった。
 白方前総裁時代は、結局は安倍内閣に屈服してしまったとはいえ、政権とは一定の緊張関係があった。政局とは一線を画す金融政策の舵取りを考えれば当然でもあった。しかも日本経済の基調は、野田内閣時代とさほど変わったわけでもない。
 裏事情を垣間見れば、実は単純な、審議委員による処世術の次元での猿芝居だったことが見えてくる。
 3月の時点での6人の審議委員は、安倍内閣が連れてくる黒田新総裁の就任を見込んで、すでに船を乗り換える腹づもりだった。ところが白井委員がとつぜん黒田新総裁に媚びるような緩和提案をしたため、残る5人の委員が反撥した結果だった。嫉妬心だか知らないが、スタンドプレーに走った白井委員の足を一旦は引っ張った後、次の政策決定会合では、めでたく全員が黒田丸に乗り移った、というのが、この豹変劇の顛末である。
 あの原発事故では、原発ムラにはびこる専門家や有識者の嘘もいとわない醜い姿が白日の下に晒された。今また金融政策の元締めに居座る政策審議委員という専門家の素性が割れたわけだ。要は、理論的・政策的な信念より、政策審議委員というポストの方が大事だったわけだ。
 アベノミクスと黒田緩和の行く末は危うい。すでに日銀による大量の国債買い付けで長期金利は乱高下を続け、いまでは思惑に反して金利は上がってしまった。それだけ国債離れが拡がって日本国債の信用が揺らいでいるわけだ。
 近い将来、悪性インフレが拡がってしまった場合、審議委員達はなんと言って言い訳をするのだろうか。どこかで聞いたような「想定外の結果が起こってしまった」とでもいうのだろうか。(廣)


色鉛筆・・・寄り添った就労支援

 働くことが疎かにされ、働く現場では使い捨てのごとく物のように扱われ、自尊心は大きく傷つけられるのが、今の労働者事情ではないでしょうか。しかし、そんな労働現場でも、様々な事情で社会から切り離された人々にとっては、自分自身の存在意義を確かめるためにも働く場が必要となっています。
 先日、テレビの番組で紹介されていたのは、大阪の豊中市の就労支援の取り組みです。離婚を機に精神的不安定な状態で、生活保護を受給している40代の女性は、ハローワークや求人広告で仕事を探しますが、なかなか見つかりません。そこで、この女性に市の女性職員が仕事探しに協力し、仕事に就けるまで寄り添います。豊中市では、いきなり就職が困難な人には、市の図書館の仕事などを週3日、1日3~4時間の作業に就いて人とのつながりを修復することを心がけています。この期間は2~3ヵ月ですが40代の女性は、この図書館の作業でこれまでとは違う、生き生きとした表情を写しだしていました。
 就労支援とは、心身にハンデイのある人たちに寄り添って、仕事探しを手助けすることだと思っていました。しかし、生活保護受給者にとっても、社会との関わりを持つことの大切さを知ること、何よりも自分の労働で賃金を得ることで自分に自信が持てることを、この番組で再度確認できたと思います。
 この番組では、もう一つ、北海道での取り組みで、仕事がしたくても仕事がない、そこで市の取り組みで仕事を取り次ぎ、雇用を生み出す、そんな事業が紹介さていました。その仕事は、漁場で使う網ですが、今は職人不足で作る人が減っているということでした。その漁網を作る作業のための資金は、国への要望と交渉を得て支援金が出ることになりました。しかし、この支援金を得るために、様々な緻密な計算がなされ、雇用を生み出すことで生活保護費を減らすことが、どれほど社会にプラスになるかが説得されたということです。
 年金受給されている知り合いが、ポツンと言われた一言、「仕事に行くこともないから、何時に起きるか、それは自由だけど心身が鈍ってくる」と。知り合いは、地域の活動に参加しているから意識的に行動はしているが、全く社会から地域からも離れてしまえば、どうなるのだろうと、不安がよぎった。色んな層の人たちで社会が構成されているからこそ、その声を社会に向かって届けることの大切さを感じました。それは、それぞれが社会との関わりを持つことからしか始まらないのです。(恵) 案内へ戻る 


読者からの手紙
福島からのたより-わたぼうし

 しばらくの間、途絶えていましたが今年に入ってからのたよりが届きました。ちょっと時期がはずれていますが、ご了承ください。(恵)

 新年、明けましてあめでとうございます。震災から1年10ヵ月が過ぎ、脱原発の動きも高まり、年末には大きな政策の転換を期待したものの、フタを開けると、何も変わらない政治が・・・。若者が選挙に行かないのは政治家にとって好都合かもしれませんが、日本も選挙権を16歳からにして若い時からもっと政治に関心を持ち、どうしたら日本がもっと良くなるのかを考えて欲しいと思います。政治を嘆いても政治家を選んでいるのは自分自身なのだから。原発事故後は収穫量も収入も激減してしまい、東電からの賠償もかなり遅れています。
 しかしながら、支えてくださるお客様に感謝しつつ、物やお金のいらない暮らし方に智恵を絞りつつ頑張りたいと思っています。住むところや食べ物に困っている人は、世界中にたくさんいます。そして今、命あることに感謝して日々を過ごしていけたらと思います。 2013・1

宮森さんへの手紙

 りんごの発送が終わりやっと少しのんびりしています。
こちらは寝雪になりました。天気の良い日は畑に出てせん定作業におわれます。私たちは落ちたせん定枝も畑に置いたままです。東電にかわり農協が集めるとのことでしたが、枝が太いので置き去りにされてしまいました。来年あたり市の方針で私の家の除染が行なわれるのですが、もう放射能はだいぶ下がったので、わざわざ除染してその土や水や高濃度廃棄物を庭の隅に置いて、一体どんな意味があるのか理解できません。仮置場がないのでどこにも持って行けないのです。
 さらに一昨年の農産物の損害賠償がやっと今年1月に、98%まで支払われることになりましたが(2%は弁護士費用とのこと)、それが解決しないと、昨年の賠償請求ができません。昨年の損害賠償が出るのはいつになるのかわかりません。そして損害賠償が打ち切られたらと思うと不安でいっぱいです。
 そんな時に頭をよぎったのがお金をかけないくらし・・・物にこだわらないくらしです。ほんとうはある程度、子どもたちに任せられるようになったら、まきストーブや自家野菜を作って楽しみたいと思っていました。しかし、まきストーブは放射能をまくストーブになってしまいましたし・・・。
 庭の野菜は孫には食べさせられないので、作って食べるのは年寄りだけ。回りには豊かな山菜や野草きのこがたくさんとれるのですが、たけのこときのこはとても放射能が高く食べられませんでした。しかし、だんだん国の言う〝安全です〝〟の暗示にかかったり、面倒になったり無関心になっていく回りの人々をみているとこれでいいの? と思います。あれ程うそつきの国の言うことを本気にして放射能に対して無頓着になっています。
 しかし自分の身や子孫を守るのには、お金もかかるのだとつくづく思ってしまいます。私が子育てする頃(30年前)は、紙おむつはありませんでしたので、布おむつで3人育てました。離乳食もほとんど買うことなく畑の野菜で間に合いました。ウエットティシュもなく古くなったタオルをぞうきんがわりに・・・電子レンジもまだ普及せず、携帯電話もパソコンもなかった・・・少しも不便とは思わなかったけれど、今はなければとても不便でお金のかかるものばかり。少しずつ昔を思い出して智恵を絞って生きたいと思います。
 宮森さんに送っていただいた本「家父長制と資本制」を少しずつ読ませていただいています。私の脳にもホコリがたまってなかなか読み進めません。そういえば30年前、私もマルクス経済学を勉強したはず・・・何も頭に入っていません。でも確かに家父長制は存在しますが、女性が優位のところも多いかも知れませんね。社会全体としてはまだまだ男性優位を感じますね。政治家ももう少し女性に頑張ってほしいです。
 とりとめのないお手紙になってしまいました。いつも心使い有難うございます。お元気で、夏にまたお会いできたらうれしいです。  幸子

わたぼうし

 福島は、ようやく梅の花が咲き始めました。畑はせん定作業と枝ひろい、梨の枝を棚に縛ったり、桃の摘蕾(つぼみを間引き)やせん定した枝の切り口に薬を塗ったりと、農繁期に突入しました。
 震災で拾い集めたせん定枝は結局、東電にも農協にも運んでもらえず、今だに置き去りになっています。回りが燃やしているのを見ると、燃やそうか燃やすまいかぐらぐら迷っています。
 桃の木の下にはハコベやオオイヌノフグリが一面に咲いていて、孫達を遊ばせてあげられないのが、とても残念です。寒暖の差が激しいこの季節、体調管理には十分注意して下さいね。
 2013・4   あっぷる・ファーム後藤果樹園 後藤幸子


資本主義の終焉を象徴するユニクロ柳井社長の呆れた発言について

 最近アパレル大手「ユニクロ」を運営するファーストリテイリングの柳井正会長の発言が暴走して止まる所を知りません。
 これらの発言とは、「甘やかして、世界で勝てるのかファーストリテイリング・柳井正会長が若手教育について語る(日経ビジネス)」と「『年収100万円も仕方ない』ユニクロ柳井会長に聞く(朝日新聞)」の二つです。
 これらの発言は、典型的な現代ブラック企業とされるユニクロを象徴する柳井社長自らの掛け値なしの発言なのですから実に驚かされます。
 柳井社長の一連のインタビューは、世間的なイメージとしてのブラック企業・ユニクロを追認するような実に苛烈な内容です。ユニクロは3年で半分近い新卒が辞めていく職場、つまり大量採用した社員の半分は、20代半ばにしてすでに一度退職の憂き目に遭うという過酷で悲惨な運命が待っています。そして社長自身はそれを当然視するのです。
 またつい2年程前には、ファーストリテイリング株をオランダのファンドに売却するという話が出て、これまた大騒ぎになった事もありました。これに関しては、「531万株を海外へ売却ユニクロ柳井社長の『狙い』(現代ビジネス)」をご覧下さい。
 まさに柳井社長は、今得意の絶頂にあり、その傲慢な姿勢から「変わらなければ死ぬ、と社員にもいっている」「労働者の年俸は100万円でよい」とは放言があるのです。しかしそれにしても驚かされるほどの浅薄で酷薄な人間観ではないでしょうか。
 戦後初期の経団連には、「クーラーが必要な経営者は退陣せよ」「額に汗する労働者が涼しくて楽している経営者を見ればどんな事を考えるか想像せよ」と経営者を叱咤激励し政治家の職責を果たすよう要求した桜田武のような筋金入りの人物は絶えて久しい。
 今は「成功すれば自分の力、失敗したのは人のせい」の極楽蜻蛉のような腐敗した経営者ばかりで、たまたまその末席に今回話題の柳井社長も座っただけなのです。これからもずーと座り続けるのだと考えているのは本人ばかりなりの厳しい現実があります。
 こうした事からも資本主義の未来は明るくない事は明白です。人間は考えるから社会を変革する事ができます。賃金奴隷とは、マルクスがよくも言い切った事なのですが、年収三百万円以下の奴隷だからこそ、真剣に自らの解放を願わざるを得ないのです。
 柳井社長は傲慢にもこの真実を忘れた為に、これにより自らの没落を準備したと言えるでしょう。ヘーゲルが『精神現象学』において、主人と召使いの弁証法を展開したように主従関係は未来には逆転せざるを得ないのです。私はそのように確信しています。(稲渕)案内へ戻る
          
編集あれこれ

 最近本紙1面にたびたび安倍首相の顔写真が登場しており、さすがにまずいのではないかなどと考えてしまいます。これはあらゆる場面で安倍的変質がこの国を覆い尽くそうとしているからですが、それにしてもこれだけ出突っ張りだと、案外、短期で失速するのではとひそかに期待してるのですが。
 経済面ではアベノミクス、政治面では共通番号制度から秘密保全法、そして憲法改正へ。社会的にも歴史の書き換えや中朝蔑視など、内にあっては国権的支配へと足早に向かおうとしています。国際的局面では、米政府・軍への追随一辺倒、TPPに乗り遅れるな、そして最悪の原発輸出。こうしたあれこれに対する批判を展開するわけだから、毎号のように1面に安倍首相が登場するのも致し方ないのです。
 さて、前号で連休明けに共通番号4法案は衆議院通過かと報じていたものが、9日に衆院で可決されてしまいました。参院はまだ民主党が第1党なので、参院民主党の対応次第では審議がもつれる可能性もあります。とは言え、民自公の3党合意の世界だから、あっと言う間に可決ということもあるかもしれません。それでも、実施までのは時間がかかるので、あきらめることなく、その危険性を訴え続けましょう。
 なお、法案が成立してしまったら、2015年秋ごろから対象者(国民と特別永住者など)に番号が通知(通知カードの送付)され、16年1月には個人番号カードの交付が始まる模様です。市町村窓口で行われる通知カードから番号カードへの交換は〝任意〟とされていますが、実際上所持せざるを得なくなるでしょう。この交付事務は法定受託事務であり、自治事務である住基ネットと違って自治体に対しても強制力が働きます。
 ちなみに、カードには生涯不変の個人番号と、住所・氏名・性別・生年月日の4情報が記載され、さらに顔写真入りのICが搭載されます。法が成立しても、実際に動き出すまでには2年余の期間があります。あきらめずに反対し続けることが重要です。
 安倍政権の国権的政治のひとつの焦点、沖縄切り捨てが際立った〝主権回復の日〟の式典の強行について本紙前号は沖縄からの報告を掲載し、さらに書籍紹介や読者からの手紙でも沖縄に触れています。それらは、沖縄が憲法の外に捨て置かれている実態を示すものです。憲法が改悪されようとしている、と言う前に沖縄はそもそも憲法の埒外にあったのです。
 それは無関心による見殺しと言うべきものですが、国家的情報統制や大マスコミ・全国紙の報道姿勢によるものでもあると思います。マスコミはこのところ、つとに権力とともに歩むようになっており、権力監視の任務は疾うに捨てたかの観があります。これで憲法が改悪されたらどうなるのか、憂うべきことばかりです。何しろ、〝公益及び公の秩序〟に反することはすべて禁止され、権力の恣意的判断で結社も解散させられるのだから。 (晴)

自民党憲法改正草案(2012年)
第21条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。
2 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。
3 検閲は、してはならない。通信の秘密は、侵してはならない。
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