ワーカーズ562号  2016/9/1     案内へ戻る

 新植民地主義! 南スーダンPKО文字通り日本のアフリカ進出の"先兵"

 稲田防衛相が8月24日、新安保法制に基づく国連平和維持活動=PkО11次隊を11月中旬に南スーダンに派遣する考えを示した。

 同時にこんな報道が流れたのは偶然ではないだろう。安倍首相は8月25日午前、ケニアの首都ナイロビで27、28両日に開かれる第6回アフリカ開発会議(TICAD)に出席するため、日本をを出発した。「日本企業の進出や投資拡大を後押しし、アフリカで影響力を強める中国に対抗する。参加国首脳との個別会談も予定している。」 (毎日新聞)

 まさに現在、アフリカは中国資本と中国人の進出が際立っている。しかし、一皮めくれば「新植民地主義」との指摘も多い 。事実、アフリカの専制国家と癒着して、資源開発などの利権を奪い取ってゆく。例えばスーダン(南スーダン独立前)では採掘された原油の85%を中国が手中に収めていた。それを原材料とする廉価な中国製品の流入は地場産業の零細企業を脅かす。生業を失った人々に貨幣経済が浸透し貧困化が進んでいる。かつて欧米諸国がインドや中国などアジアでも行ってきた植民地主義にそっくりだ。

 もちろん巨額の投資は一部の富裕層を生み出し、結果的には都市部などでは近代化が進み、見かけだけは「十%の経済成長」とか超高層ビルが次々と建設される。しかし、その足元では国民は生活格差や、政権=有力部族の有力者に経済が牛耳られ、政権は腐敗と汚職にまみれ、多くの仕事や富が海外へと持ち去られてゆく。

■自衛隊のジブチにおける拠点化と、南スーダンへの危険な介入は日本の資本進出と連動

 日本の安倍政権は、まさにこのような欧米や中国のあとを追って負けじと資本進出を果たしたいのだろう。そこにはどんな先進国としての反省も、地元住民の福祉や生活の向上への配慮も見られない。中国に席巻されている巨大なアフリカの利益の一部を自分のものにしたいだけなのだ。中國PkОはすでに南スーダンで複数の死者を出している。

 かくして日本政府により自衛隊のジブチにおける拠点化と、南スーダンへの危険な介入が目論まれているのだ。今回、安倍首相は財界人など二百名をケニアに随行員として連れてゆき資本の売り込みをやろうとしている。

 南スーダンPkОは、このように憲法違反と言うばかりではなく、また自衛隊員に危険が及ぶというだけではなく、日本資本主義による低開発諸国の収奪プランの中に位置付けられている!(江)


 「占領軍の押し付け憲法」?それとも「幣原内閣の自主憲法」?の論争は限界がある

 去年の今頃は、戦争法案反対闘争が大いに盛り上がっていて、ごり押しを狙う安倍内閣と激しい闘いを繰り広げていた。それから一年。ことしは、参院選にて自民党を中核とする「改憲勢力」が三分の二の議席を得て憲法改正が政治日程に上るのは必至である。

改憲問題は極右の日本会議などをはじめ、おしなべて「押し付け憲法廃止」「自主憲法を制定しよう」と言うスローガンを掲げ続けている。それに対して、最近にわかに言われているのが反論としての「そもそも日本国憲法は自主的に制定されたもの、占領軍の作成ではない」という説である。最近の「東京新聞」にも掲載されているので以下に引用する。。

さらに昨日十五日、米国の現役副大統領バイデンが、トランプを批判しつつ「日本国憲法(九条)はわれわれが作ったことを知らないのか・・」(時事通信)と言い放っている。この論点を整理しておく必要はありそうだ。

「9条は幣原首相が提案」マッカーサー、書簡に明記 「押しつけ憲法」否定の新史料【東京新聞】2016年8月12日 http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2016081290070313.html * * * * * * * * *

日本国憲法の成立過程で、戦争の放棄をうたった九条は、幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)首相(当時、以下同じ)が連合国軍総司令部(GHQ)側に提案したという学説を補強する新たな史料を堀尾輝久・東大名誉教授が見つけた。

堀尾氏は国会図書館収蔵の憲法調査会関係資料を探索。今年一月に見つけた英文の書簡と調査会による和訳によると、高柳は五八年十二月十日付で、マッカーサーに宛てて「幣原首相は、新憲法起草の際に戦争と武力の保持を禁止する条文をいれるように提案しましたか。それとも貴下が憲法に入れるよう勧告されたのか」と手紙を送った。

マッカーサーから十五日付で返信があり、「戦争を禁止する条項を憲法に入れるようにという提案は、幣原首相が行ったのです」と明記。「提案に驚きましたが、わたくしも心から賛成であると言うと、首相は、明らかに安どの表情を示され、わたくしを感動させました」と結んでいる。

九条一項の戦争放棄は諸外国の憲法にもみられる。しかし、二項の戦力不保持と交戦権の否認は世界に類を見ない斬新な規定として評価されてきた。堀尾氏が見つけたマッカーサーから高柳に宛てた別の手紙では「本条は(中略)世界に対して精神的な指導力を与えようと意図したもの」とあり、堀尾氏は二項も含めて幣原の発案と推測する。(ここまで東京新聞)* * * * * * * * * *

■占領下で「自主憲法制定」などありえない

歴史的事実は詳細に解き明かされるべきであり、その意義まで否定するものではない。ただし「日本国憲法は自主憲法だ」故に護るべきだというような反論は、安倍自民党政権の政治を暴露して闘う場合には不十分である。いや、問題を矮小化さえする可能性がある。

憲法や象徴天皇制、そして安保体制など戦後日本の政治枠組みの成立を詳細に研究してきた豊下楢彦著『昭和天皇の戦後日本ーー憲法・安保体制に至る道』(岩波書店)を読めば、「日本国憲法は幣原内閣による自主憲法だ」と言った主張の軽薄さや一面性は明確となるだろう。まずはこの本を手に取って検討いただきたい。
ここでは一部を簡単に紹介しておきたい。

当時の国際情勢は東欧諸国をソ連が軍事占領し、英米が西欧諸国を解放・占領してそれぞれの「社会体制」を当該占領地域に「押し付ける」政策を採用していた。1945年2月のヤルタ会談はそのような新国際秩序、つまり戦勝国のそれぞれの事実上の「勢力圏」を認めるものであった。これらのことは戦後ドイツが「東西」に二分されたことに象徴されているだろう。

では、最後の枢軸国である日本はどうなるのか? 日本本土は米国が占領したが満州や朝鮮半島ではソ連軍が日本軍を駆逐しており日本は「協同占領=米ソ共同統治」となる可能性を残していたのである。日本占領軍(GHQ)=マッカーサーはソ連などの介入や口出しを封じるために早めにことを進めて、とにもかくにも日本の「自主的統治」の回復という既成事実の積み上げを急いでいた。事実、マッカーサーの統治権限にはソ連から激しい異論がだされていた。

日本敗戦より半年が経過。おりしも、ソ連を含む戦勝国連合による極東委員会の成立が1946年年2月26日と定められた。このような国際情勢の中で、日本側にも一定の「自主憲法制定の空間が存在した」ともいえるのである。ソ連の日本戦犯裁判や国内統治への介入を許せば、天皇制廃止、ないしは天皇処刑そしてソ連による日本統治への干渉などの可能性があり、米国の統治構想を狂わせることになる。(ただし、天皇の戦犯訴追の急先鋒はオーストラリアであり、遅れて乗り込んできたソ連は予想外に天皇訴追を求めなかったのだが。)。

そのまえに何が何でも「新憲法制定」を実現しなければならなかったのだ、と言う意味ではGHQ・マッカーサーと日本の幣原内閣(ついでに言えば天皇も)共通の立場に立っていたはずである。かくして新憲法策定作業が突貫工事で実施されたという流れがある。このことは実態としてはGHQ案と日本案のすり合わせであり、『東京新聞』が指摘するように九条に関しては日本案がそのまま採用され、マッカーサーをいたく「感動させた」と言うことであろう。

しかし、以下のことを無視することは歴史を見ないことになる。。

新憲法制定の経過についての流れを見よう。『昭和天皇実録』は四十六年三月五日の記述で、幣原と松本が憲法改正草案要綱を奏上したことについて「閣議においては、改正案を日本側の自主的な案として速やかに発表するよう同司令部(GHQ)から求められたことを踏まえ、改正案を要綱のかたちで発表することとし、勅語を仰いで同案を天皇の御意思による改正案とすることを決定する。」としている。(「昭和天皇の戦後日本」より)。

さらに半世紀にわたって天皇に仕えた徳川義寛「日記」によれば、「〈憲法改正作業の〉進行が遅く・・急ぎ総司令部(GHQ)で草案を作成した。もしくは(草案を)提供して作成させたというべきものである。・・陛下も四十六年五月三十一日マッカーサー元帥とご会見の時、憲法の作成を援助してくださって感謝するとお述べになった。」云々。(同上)

「押し付け憲法」と言う右翼の主張が一面的であることは指摘できる。とはいえ、このような大きな流れの中で見れば「自主憲法」と果たしていえるのか?

マッカーサーはこの「自主」憲法制定過程で主導権を発揮し、その後も他国の介入を許さず占領軍としての権力をもって農地改革や財閥解体を断行し、戦時中の支配階級の「公職追放」を行った。さらに紆余曲折もあったがサンフランシスコ講和条約(1951年)と日米安保体制が同時に成立したのだ。憲法という国家の枠組みの決定を日米で急いで決定したかいがあったというものだ!米国は沖縄を支配したばかりか日本全土に軍事基地を置きソ連共産主義と対峙する戦略を確立できたのだ。

このように「自主憲法」とはいっても内実は当時の絶対権力者=マッカーサーの構想を受け入れ彼の意図を幣原首相らが忖度(そんたく)し、米側と速やかにまとめ上げたのである。日米に齟齬のある条項は米国側が決定したことも分かっている。制定の経緯からしても、その内容からしてもとても理想化すべきものではない。現平和憲法(象徴天皇制を含む)は米軍による日本支配と一体に成立したという史実から目を背けてはならない。

これでお分かりのように「押し付け憲法」ではなく「幣原が提案したから自主憲法だ!」と力んでみても果たしてどれだけ意味があるのだろうか。前にもふれたようにバイデン米国副大統領が、あからさまに「日本国憲法は米国が作った・・」と主張したことは正確でもなく政治的配慮に欠けるが、真っ赤なウソだということではない。

■安倍政治の内容やその意図を暴露する論争こそ大事

自民党=日本会議の憲法改正案にわれわれが反対するのは、現憲法が完璧で正しいものだからでも「自主」憲法であるからでもない。ここが大事なところだ。自民党ら反動勢力の拡大を阻止しするために闘わなければならないからだ。

自民党改憲草案は、国権主義が露わであり人権の切り縮めや、福祉の切り捨てに道を開くものであり、さらに自衛隊を「国軍」として海外への軍事進出を合法的に可能とするものである。自民党や日本会議が現憲法に噛みつくのはいくつかの条項が彼らの政治実現の邪魔になっているからである。しょせん「押し付け」か「自主」憲法かなどは表向きの話にしかすぎない。右翼反動派のもたらしうる危険な未来を暴露し、背後に蠢(うごめ)く軍需産業の腹黒い野望を糾弾して闘おう。(六)案内へ戻る


 安倍政権の「改憲」への動きについて

 「改憲勢力三分の二」の意味

 七月十日の参議院選挙の結果、衆議院・参議院とも、自民・公明の与党とおおさか維新の会などを合わせると、改憲勢力が三分の二を超え、「憲法改正の発議」ができる情況となった。これを「成果」として、安倍政権は「改憲」に歩を進める意志を強めている。

 ところが、今回の参議院選挙での与党勝利は、「アベノミクスの継続」を国民に問うた結果であって、「憲法改正」については選挙の争点からはずし、改憲に対する国民の不安を薄める戦術に出た結果である。マスコミの世論調査でも「安倍内閣」の支持率は上がっても、「安倍政権の下での憲法改正」については「反対」が多数となっている。

このため安倍政権は、露骨に改憲に進むと国民の反発をよびかねない、というジレンマを抱えている。改憲勢力自身も、「三分の二」がそう簡単に「改憲」の実現につながるものではなく、様々な困難があることを自覚している。そこで、国民の反発を何とかかわし、あの手この手で何とか改憲に行き着くため、いろいろ策を弄しなければならないのだ。

他方、護憲勢力の側から見ると、とりあえずは「憲法改正の発議」を可能とする「三分の二」を許してしまったという現実からは逃れられない。確かに有権者は「経済」で安倍政権の「三分の二」を許したのであって、「改憲」を支持したわけではないのだが、他方「改憲阻止!三分の二阻止!」の訴えが実を結ばなかったのも事実だ。そこで、改憲勢力がどのような手で攻めてくるのか、その動向を見据えながら、実際に改憲を阻止する戦術を考えなければならない情況にある。

目的は「第九条」改悪と「国防軍創設」

 改憲勢力は「憲法は時代に合ったものに改善するのは当然」とか「民主主義なのだから議論はすべきだ」と、一般論で間口を広げ、国会と国民世論を改憲に誘導しようと努めている。民主主義を口実にした一般論それ自体は、なかなか拒否しにくい。ここから「環境権」を含めたリベラル「加憲」の論調が、中道派からも出てきやすい。オーストラリアでは「原発禁止」を憲法改正で定めた例もある。

 だが間違えてならないのは、安倍首相が目指す「憲法改正」の本命は、あくまで「第九条」の改悪と「国防軍の創設」であり、それ以外の条項は、国民を改憲論議の土俵に乗せるための「飾り」に過ぎないことである。実際、多くの国民もそれを知っているから、安倍政権の下での改憲に警戒感をいだくのである。

 安倍首相の「改憲」への情念には特徴がある。それは、これまでの自民党政権や財界や国防族が行なってきた「解釈改憲」では満足できないことだ。歴代の自民党政権は、「自衛隊」の存在について「憲法九条は侵略戦争を否定しているが自衛までは否定していない」という解釈論によって、自衛隊は合憲の範囲であると主張し、実質的にはミサイルや戦闘機や潜水艦を含む「防衛力」を整備・拡大してきた。だが安倍首相は、実質的に巨大な防衛力を保持するだけでは飽き足らず、あくまで「国防軍」と呼ばなければ満足出来ないのだ。

根底に「戦前回帰の復古主義」

 多くの国民も知っていることだが、安倍晋三という政治家は、祖父である岸信介の悲願を受け継いで、それを達成することが自分の使命であるという、固い政治的信念を持っており、むしろ「個人的な情念」とも言える程である。それは防衛力を「自衛隊」と呼ぶか「国防軍」と呼ぶかという実利的な問題を超え、ある種「世界観」のレベルになっている。

 その世界観とは、端的に言うならば「敗戦」の屈辱を晴らしたい、敗戦によって全否定された「大日本帝国」の誇りを復権したい、ということであろう。それは「歴史修正主義」的な彼の発言によく表されている。昨年の安倍首相による「戦後七十年の談話」を読んだ人々は、内外の情勢への妥協から「植民地」「侵略」「おわび」という言葉をちりばめざるを得ない情況に追い込まれながら、本心はまるで違うのだろう(大東亜戦争と呼びたいのだろう)という心境をも、その曲がりくねった文章から読み取ったであろう。

 「戦勝国」によって、天皇制は「国体」から「象徴」にさせられ、陸軍も海軍も解体され戦力を禁止され、財閥も地主制も解体され、神社も「国家神道」から単なる「宗教法人」に転落させられ、国民は「臣民」から「主権者」に格上げされた。これらすべてが気に入らないのである。彼は露骨に顔には出さないが、「民主的な権利」を主張する「国民」への嫌悪感すら抱いているように見受けられることがある。つまり、安倍首相は自民党を代表しているのみならず、彼を支える「日本会議」を構成する右翼的な民族派や旧「国家神道系」宗教勢力をも思想的に代弁しているのである。

「第九条」と「自衛隊」について

 一方、護憲勢力の側でも論議を深めるべきことは多々ある。特に「第九条」と「自衛隊」との関係をどう解釈するかは、現憲法における長い論争となってきた。

「第九条」は一切の戦力を禁止しており、自衛隊は「違憲」だとの立場を率直に押し出したのは、旧社会党の石橋委員長の「非武装中立論」である。実際「軍隊を持たない国」というのは決して空想的な絵空事でないことは、中米のコスタリカや北欧のアイスランドなどいくつもの例がある。この非武装中立論は、自衛隊の拡大への歯止めの役割を果たしてきたのは事実である。だが最近の中国のような海洋覇権主義の台頭に直面し、非暴力平和を、どのような枠組みで構築するのか、そのプログラムなしには空文句になってしまう。

 他方、第九条の「芦田修正」の経緯から「自衛のための防衛力」を「合憲の範囲内」と認め、「警察予備隊」の延長上にある自衛隊の現状を認め、それ以上の海外派兵や集団的自衛権に反対する立場の「護憲論」は、実際上は既成野党の共通認識になっていると言える。この立場からは、憲法制定時の吉田首相が警告を発したように「過去の侵略戦争も自衛を理由に行なわれた」歴史をどう総括するのかが問われてくる。
 ただ、いずれにせよ、こうした論点は護憲勢力の間で大いに議論すべきことであっても、安倍政権の改憲論議の土俵に乗ることを意味するものではない。というのは、先に述べたように「安倍改憲」は、単に自衛隊の位置付けにとどまらない危険な内容を含んでいるからである。

軍備拡大と国家権力強化に道を開く

 「現状の自衛隊の存在を追認するだけだから、いいではないか?」という甘い誘い文句を軽く見てはならない。旧民主党の鳩山氏は「際限のない軍拡に歯止めをかけるためにも、憲法で明確に位置付けた方が良い」と主張したことがあるが、これは「おめでたい論議」というものではないか?

 安倍首相個人や日本会議の「復古主義」や「歴史修正主義」を論外としても、日本の財界や大企業の中には、「改憲」を機に、これまでのようにコソコソとではなく堂々と「防衛力の整備」「防衛産業の拡充」「大学と連携した防衛研究」「防衛装備品の輸出」に走り出す気配がある。こうした動きは、実は「アベノミクス」の重要な柱でもあるのだ。今は露骨に表には出さないが、改憲が達成されたあかつきには、大手を振って経済の軍事化を進めるのは明らかだろう。

 財界は中国や韓国などへの国際市場進出の都合から、安倍首相の露骨な歴史修正主義には苦言を呈するのだが、防衛産業による莫大な利益の観点からは、改憲を「容認」ないしは「歓迎」すらしていると見るべきだろう。また石油産業のシーレーン防衛の思惑から、日米同盟の強化としての改憲に「期待」もしている。ただ、復古主義的な自民党の「改憲案」は「とても食えたものではない」(日経社説)と、諭しているにすぎないのだ。

 さらに、「国防軍の創設」は防衛機密の範囲を拡大し、国家機密法をさらに権力有利に運用することにつながるだろう。それは国家権力の強化として、様々な分野に波及するだろう。教育や研究への国家統制。労働組合や市民団体の活動への規制強化。反戦平和運動や反基地運動への弾圧(実際、沖縄ではすでに強行されている!)。こうした国家権力の強化は、社会各層の不満を鬱積させ、排外主義的、民族主義的運動を助長することにつながるであろうことは、戦前の日本社会の歴史が示す通りだ。

 改憲勢力の危険な動きをしっかりと見据え、護憲勢力の間の論点もしっかり論議し、歴史の検証もしっかり学習し、安倍改憲に対峙しよう!(松本誠也)案内へ戻る


 二次方程式から三次方程式へ  複雑さを増した安倍改憲策動

 参院選で衆参3分の2の議席を確保した安倍首相。秋以降の政治の季節に向けて改憲に向けた政治的スケジュールを練っている局面だった。

 そこに天皇による生前退位への「お気持ち」が発せられた。これで改憲スケジュールは、新たなファクターが加わったことで不透明さが増したといえるだろう。
 複雑さを増す改憲をめぐる攻防戦。しっかりと足場を固めて対抗していきたい。

◆天皇と首相

 それにしても、今回の「天皇のお気持ち」がビデオメッセージとしてテレビなどで同時中継されたことには、意違和感を抱かされた。むろん終戦時の〝玉音放送〟を想起させられたからだ。「政治的権能を有しない」とされた天皇の発言そのものは、生前退位の意向を示唆するだけだった。が、それでも政治性を帯びざるを得ない「お気持ち表明」にほとんどのメディアが追随したのは、極めて異様だった。

 それでは誰か仲介者を経て内閣や国民に伝えればいいかと言えば、そこでも表明時期や言葉のニュアンスの伝え方で天皇以外の意志が入り込まざるを得ない。いずれにしても、天皇の政治的権能やその政治利用の問題が絡みつくことになる。

 この天皇による生前退位とその検討を投げかけた天皇発言は、参院選で衆参3分の2という改憲発議可能な議席を手にし、この秋以降の改憲戦略を練ってきた安倍首相にとっても、極めてやっかいなものになった。9条改憲や「お試し改憲」のスケジュールが乱されることになるからだ。

 しかも天皇は、あえて2年後の18年が平成30年になることを数字をあげて言及することで、この2年ぐらいをメドに生前退位を実現させてほしいと受け取れるメッセージを発した。18年と言えば、安倍首相の自民党総裁任期切れと重なり、改憲スケジュールや総裁任期延長問題とも絡み合いう。改憲可能な議席と国民世論という二次方程式では済まなくなり、憲法第1章とも連動する象徴天皇制のあり方という要素が加わる三次法的式を解く課題が安倍首相に投げられたことになる。それだけ複雑さが増すことになったわけだ。

 今回の天皇による生前退位の話が4~5年ほど前から皇室や宮内庁で語られていたというから、この時期は第二次安倍政権の時期とほぼ重なる。象徴天皇制の継承を本意とする天皇が、天皇条項にも影響しかねない9条改憲に前のめりな安倍首相を牽制する思惑があったとすれば、それはそれで天皇発言の政治性が一掃際立つことになる。

 安倍首相とすれば、戦地や被災地への慰問や激励を続ける人間天皇の「お気持ち」とそれを支持する世論を前に、三次方程式を如何に解くか、頭を悩ませている時期ではあるだろう。

◆第1章と9条

 安倍首相がもくろむ改憲の本丸は、むろん、戦争放棄とそのための戦力不保持を定めた9条だ。その前段として〝お試し改憲〟としての選挙区の合区問題や環境権条項、それに非常事態条項問題がある。そこに皇室典範改定問題が割り込んできた。現行憲法には皇位継承条項はないにしても、皇室典範改定ともなれば象徴天皇制そのもののありかたも否応なく俎上に上る。

 これで安倍首相はお試し改憲などを優先することは出来なくなった。憲法を見直すのであれば、皇室典範改訂やその土台となる憲法第1章問題は避けて通れない。
 第1章の天皇条項のあり方は、第9条にまで影響する。国体=天皇制を「象徴天皇制」としてなんとか維持することと引き替えに9条を受け入れた経緯があるからだ。占領統治や独立後の日米同盟を念頭にした米国の思惑がらみの結果だった。

 ところで、戦地の慰問を続け、ことさら憲法を守ることを強調してきた天皇に対して、改憲に前のめりな安倍首相に対抗する護憲のよりどころとして現行天皇の役割に期待する声がある。確かに改憲の野望に突き動かされる安倍首相にとって、護憲や反省の弁を語り続ける天皇は、煙たく、やっかいな存在に写っているかもしれない。
 しかし天皇が護憲や反省を語る立脚点は、反戦や非戦、それに国債連帯にあるわけではない。あったとしても副次的なものである。

 かつて昭和天皇は、自分の最大関心事が皇統の継承にあること、すなわち代々引き継がれてきた天皇制及び天皇としての地位を子孫に継承する使命がある、との心情を語ったことがある。憲法第一条はその最大のよりどころであり、現行憲法が保持・継承されることと皇統の継承は一体のものだ。天皇にとって、9条改憲や戦前回帰は、天皇制及び天皇家を支える最大のよりどころを危うくしかねないものと写ってもおかしくはない。昭和天皇が、A級戦犯の靖国神社への合祀以降は靖国参拝を拒絶し、平成天皇もそれを踏襲していることも、その危機感の表れに他ならない。

 実際、昭和天皇は自分自身の戦争責任から逃れられないから、戦争責任を追及されかねない戦地への訪問には積極的ではなかったし、非侵略国の拒絶反応もあってそれほど多くはない。平成天皇は生身の個人としては戦争責任とは無縁なので、その恐れも小さいから戦地慰問なども積極的に行ってきた。ひたすら戦争や侵略を反省し、犠牲者や生き残った人々を慰問すること、それが象徴天皇としての努めだとの想いからだという。

 しかし、平成天皇も自分の最大関心事が天皇家の伝統と皇統の継承だと考えているふしが、今回の「お気持ち」にも現れている。天皇が憲法で規定された国事行為とはいえない戦地慰問などの公的行為と合わせて、私的行為としての宮中祭祀の継承に言及したくだりがそうだ。

 普通の家庭でも代替わりやルーツなど、家系に関心を持っている人は少なくない。自身のアイデンテティーに関わるものだからだ。天皇家ともなれば世間一般の家系とはワケが違う。皇統の継承が自身の一大事業になるとの天皇の想いは、無いほうが不思議ともいえる。

 私たちが9条改憲や実際の戦争に反対するのは、別に家系がどうのとか地位や役割がどうのとかではなく、単純に殺し合い、とりわけ国家・政府が起こす戦争による殺し合いをこの世からなくしたいと思うからだ。そして、そのための理念や方策を考え、それを国境を越えた多くの人々が共有することで現実に戦争をなくせると考えるからだ。皇統の継承とはまったく別の話だ。

◆〝護憲〟天皇?

 天皇自身は、確かに護憲派なのだろう。「人格」を云々する皇太子はなおさらだ。

 とはいえ、天皇自身も憲法の枠を越えた行動に積極的だ。いわゆる天皇による「公的行為」だ。これは5条で規定された国事行為と宮中祭祀を含む私的行為の隙間に位置する行為だ。戦地慰問や被災者慰問、各種公的イベントへの参加と「お言葉」表明などのことだ。これらこそが象徴天皇の役割だとの想いからだという。今回の「お気持ち」にも公的行為が十分出来なくなれば天皇の資格がないと受け取れる発言をしている。

 が、この公的行為、必ずしも政治性を帯びないものばかりではない。戦地慰問や外国訪問でも、どこに行くか行かないか、時期はどうするのか、どういうメッセージを送るのか、政府の対外姿勢との関係はどうかなど、政治と無関係ではあり得ない。むしろ、皇室外交が喧伝され、政府による外交政策の補完や緩衝の役割を果たしてきた側面も否定できないのだ。

 逆に政権や政治に利用されることも多い。民主党野田政権時代の習金平中国国家主席と天皇の会見もそうだった。安倍政権時では、13年4月に開催された安倍政権による「主権回復の日」もそうだ。沖縄では「屈辱の日」とされていたのを無視して式典を強行した。その式典後には、天皇が退席する際に「天皇陛下万歳」の声が上げられた〝事件〟もあった。今回の「お気持ち」メッセージも、象徴天皇制のあり方や憲法と皇室典範の改訂にも関連する話で、それ自体政治課題そのものだろう。

 これらの公的行為は、二つの側面から見る必要がある。

 一つは、護憲に根ざす天皇発言や、誠実とも思える戦地・被災地訪問などで、改憲機運の緩衝材になっていること、もう一つはそうした活動で神聖化を深める天皇制と天皇を利用して国家主義的な統制を強化しようとする政治・政権の舞台装置になっていることだ。結局は、天皇が自ら関わる「公的行為」を拡げることで象徴天皇としての地位や役割を盤石なものにしようとする思惑と、それを国家主義的統治に利用しようとする政権の思惑が絡み合っているのだ。天皇はよいが天皇制が問題だ、とはいっていられないのだ。

◆パンドラの箱

 今回の天皇の「お気持ち」メッセージによって、生前退位を容認する声が拡がっている。80歳を越える高齢の特定個人に度を過ぎた負担を押しつけるわけにはいかないという、世間一般の心情に響くものがあるからだ。私としても同じ想いもある。

 が、いったん生前退位を認めれば、そこから様々な問題が現れる。さながらパンドラの箱が開けられたかの様に。

 たとえば退位を認めるのであれば、即位辞退も認めるのか、生前退位は本人の意向だけでなく、強制されることはないのか、後嗣は男系男子だけではなく、女性天皇も認めるべきではないのか、天皇にも人格があり、独立した個人としての権利を保障すべきではいか、などなどだ。

 だが、それらを容認すれば、天皇の地位を日本国民の総意に基づく、という憲法との整合性が問題になってしまう。天皇の意向と国民の総意がぶつかってしまう恐れがあるからだ。

 ここではこれ以上立ち入れないが、要は、生前退位という天皇のメッセージは、象徴天皇制そのものが帯びる根本的な矛盾を表沙汰にしてしまうのだ。近年とみに深まる天皇制のタブー化もあって大多数の国民が容認している象徴天皇制だが、本来は矛盾満載なのだ。誰かが言っていた様に、「人は人の上に人をつくらず……」ではなく、生まれながらにして「人の上に人をつくり、……」だしてしまったからだ。

 私としては、象徴天皇制の根本的な問題は、象徴という形を取った天皇制イデオロギーや天皇個人の権威を利用して、特定の個人や権力に人々を従属させることにある、と受け止めている。直接的な権力関係とは別に、精神的、心情的な権威・従属関係が設定され、それは支配服従の階層構造の強化のために便利だからだ。誰しも「オレのいうこと聞け」と言って人々を従属させることは難しいが、「あの人を敬え、今の仕組みに従え、それが国民の務めだ」として、人々を権力に従属させることは可能だからだ。少し前、中曽根元首相が天皇制を利用して大統領的な首相を目論んだ様に……。

◆三次方程式

 天皇制擁護者は、自分たちの都合がよい範囲で天皇制や天皇の神聖化に躍起になるが、逆に都合が悪くなると平気で天皇も叩く。天皇を担ごうとした2・26事件の首謀者もそうだったし、今でも自分たちの意に反したことが起きれば、平気で皇室バッシングを始めることは、天皇制擁護者の常でもある。

 そんな象徴天皇制、本来は民主主義や立憲主義と両立するはずもない代物なのだ。現在は庶民の家族観も含めて、日本的集団主義と重なって容認されているが、本来は廃絶すべきものだろう。もし存続させたいというのであれば、他の宗教と同じように民間集団として民営化すべきではないだろうか。天皇教や天皇家を崇拝し、支持する人たちの自由意志で運営することになる。国家とは切り離すのだ。

 それはともかく、生前退位を滲ませた天皇メッセージによって、安倍改憲策動は複雑さを増したといえるだろう。それは衆参3分の2という改憲発議可能な議席を手にした安倍首相と国民世論の攻防に加え、象徴天皇制のあり方に関わる攻防が絡みついた、いはば三次元方程式をめぐる攻防だ。

 安倍首相の任期は残り2年、あるいは総裁任期延長となれば3年か5年、天皇が即位30年を迎える18年まではあと2年、安倍首相の総裁任期もあと2年、改憲に向けて安倍首相がどういう態度に出るか、この秋にもはっきりする。

 天皇の生前退位や皇室典範改定問題は、複合的は反響をもたらす可能性も否定できない。皇室典範も時代に合わせて変えるのが自然だ、となれば、憲法も時代に合わせて改正が必要だ、との声も拡がりかねない。3分の2を与えてしまった私たちとしても、三次方程式にどう立ち向かっていくべきか、問われる場面でもある。(廣)案内へ戻る


 障害者差別思想による殺傷事件を許さない!憲法の「基本的人権」の視点から

 日本国憲法は、「第三章 国民の権利及び義務」の「第二十五条」で「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。②国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」と定めている。この「基本的人権」と「国の施策義務」の規定は、当然、身体障害者、知的障害者、精神障害者にもあてはまる。

 ところが、この憲法で定めた基本的人権を真っ向から否定し「障害者は死んだ方がいい」という極端な差別思想に基づき、施設の入所者四七名を刃物で襲い、うち十九名を死に至らしめるという、前代未聞の大量殺傷事件が起きた。私は、障害者解放運動に参加してきた者として、この事件に強い衝撃を受けると同時に、人々が最大限の怒りをもって、この事件を糾弾しなければならないと思うものである。

 この事件に関連して「毎日新聞」七月二八日付夕刊に、ある手記が掲載された。それは自らも全盲と全ろうの重複障害がある福島智・東京大学教授によるものだ。同教授は次のように述べている。

「「重複障害者は生きていても意味がないので、安楽死にすればいい」。多くの障害者を惨殺した容疑者は、こう供述したという。これで連想したのは、「ナチス、ヒトラーによる優生思想に基づく障害者抹殺」という歴史的残虐行為である。ホロコーストによりユダヤ人が大虐殺されたことは周知の事実だが、ナチスが知的障害者をおよそ20万人殺したことはあまり知られていない。」言うまでもなく「優生思想」は「基本的人権」とは相容れない非人権思想である。

同教授の「連想」が思い過ごしでなかったことは、同じ夕刊記事で、事件の容疑者が、園長に「ナチス・ドイツの考え方と同じだ」と指摘されると、「そう取られても構わない」「自分は正しい」と答えたと報じられていることからも明らかである。「重複障害者を安楽死させる制度をつくれ」と衆議院議長あての文書を持参し、「事件の予告」まで行ない、周到に計画した彼の行為について、私の友人は「ある種の政治思想によるテロ事件だ」と深刻な危機感を表明している。同教授も「今回の容疑者は、ナチズムのような何らかの過激思想に感化され、麻薬による妄想や狂気が加わって蛮行に及んだのではないか、との思いが心をよぎる。」と懸念しているが、実際その後の報道では「ヒトラーの思想が降ってきた」と述べていたとされる。

 同教授はさらに述べる。「こうした思想や行動の源泉がどこにあるのかは定かではないものの、今の日本を覆う「新自由主義的な人間観」と無縁ではないだろう。労働力の担い手としての経済的価値や生産能力で人間を序列化する社会。重度の障害者の生存は軽視され、究極的には否定されてしまいかねない。」「障害者の生存を軽視・否定する思想とは、すなわち障害の有無にかかわらず、すべての人の生存を軽視・否定する思想なのである。」

 障害者差別の社会的原因については、解放運動の中でも長らく論争が続いてきた。「資本主義の生み出す能力主義」が主要な原因であるとする考え方がひとつ。これに対して、家族における障害者差別や、前近代社会における障害者差別を見るなら、「単純に能力主義に還元できない」とする反論もある。私としては、少なくともこの資本主義においては、やはり労働者を生産能力で序列化する能力主義が、障害者差別を生み出す最も太い幹ではないかと思う。しかしながら、その他の社会的要因も複雑にからみついて、単純化はできないのも事実だと思う。例えば、そもそも「労働」について、どうとらえるか?

 以前、私はある脳性まひ者の青年と共に、彼が地域で自立して生活するのをみんなで支援しながら、様々な差別と闘う運動に参加していた。ある時、彼は私に「労働についてどう思うか?」と問いかけてきた。「重度の障害者は労働をしていないと思うか?そんなことはない。例えば、介護者が彼の衣服を着替えさせる時、着替えさせやすいように、一生懸命、自分の体を傾けるだろう。着替えという行為において、労働しているのは介護者だけではない。障害者のその行為も立派な労働だろう?」と問いかけた。確かにそうだと思った。「健常者中心の労働観」を根本的に見直すことなくして、「障害者と健常者が共に生きる社会」は簡単には展望できない。それは、労働者運動の重たい課題でもある。

 そこで、憲法の話に戻ろう。同じ「第三条」のうち「第二十七条」では「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う。」と定められている。この「勤労」を「健常者」と「軽度の障害者」の権利と狭くとらえてはこなかっただろうか?
ホーキング博士の例を見るまでもなく、かつては言語能力を否定されていた重度の身体障害者でも、様々な機器の発達によって科学者として研究し発表することもできる。身体障害者だけではない。従来は単純作業に従事させられてきた知的障害者も、今日では適切なサポートによって、芸術的な才能を開花できることがわかってきた
。イタリアの精神障害者たちが、協働組合を組織した実話を元にした有名な映画「ヒッポ ファーレ」(邦題は「人生ここにあり」だが原題の意訳は「やればできる」)も、精神障害者にとっての労働観を問いかけるものだ。

狭い人間観、労働観で「改憲」を云々する前に、現憲法の運用の豊かな可能性について、もっと語り合う方が、はるかに有益ではないか!(松本誠也)案内へ戻る


 東燃LNG火力発電所建設反対運動  活動報告

 静岡県静岡市清水区の東燃ゼネラル石油(株)が計画しているLNG火力発電所は、国内最大級の170万KW、ガスタービンと蒸気タービンを組み合わせたコンバインドサイクル火力発電所だ。建設予定地はJR清水駅前から400㍍の所で(①写真参照)、熊本地震のようにいつ地震が起きてもおかしくない状況の中で「東燃LNG火力発電所は危険すぎる!あまりにも人口密集地に近い」と、住民や市民達が声を上げて反対運動が始まった。

★反対運動広がる

 私たちは、定例会を開いて運動をどう広げていくかアイデアを出し合っていくと、いろいろな職種で働いている人やいろいろな職種で働いていた人(定年)が集まるのでなかなかおもしろい。写真が好きな人は建設されたら世界文化遺産の富士山の景観が悪くなると建設予定地から見える富士山の写真を撮り、その写真に建設される火力発電所のイメージした写真をつくったらどうかという意見が出ると、CG・クラフトの仕事をしている友人に頼んでみるという意見が出て、そのイメージした写真をポスターにすることになった。(②写真参照)建設されたら世界文化遺産の登録が破棄されてしまうかもしれないと考え、ユネスコに県や市に建設を見直すように指導して欲しいと手紙を書く人もいたり、署名活動を初めてやる人から街頭署名の時、署名用紙に何も書かれていないと書きづらいから2~3人書いてある署名用紙にした方がいいという意見が出ると、何度も署名活動をしている人たちには思いもつかないアイディアに驚いて、みんなで笑い合った。

 こうして私たちは、地域や職場での署名活動、パンフの配布、スライドを使った学習会、写真の展示、イベントやお祭り会場や駅前での街頭署名、ポスターの掲示、市長へ公開質問状を提出し、市の担当部局との話し合い、県知事・市長宛に質問状提出、建設予定地にエスパルスのサッカー場を造ろうとサポーターに訴えたり、ブログを開設したりするなど仲間たちとさまざまな反対運動を行っている。さらに反対運動を広げていこうと考え、チラシのポスティングや6月と7月にはデモを行い(③写真参照)市民にアピールをした。2回目の時は、大量の窒素酸化物と二酸化炭素が排出されたら子どもたちに与える影響を心配して、子どもさんをベビーカーに乗せたり、子どもさんと手をつないで歩く若いお父さんやお母さん達も加わり、前回より若い人達が参加してくれこんなプラカードもあった。(④写真参照)(気持ちが伝わってくる)

★東燃のなりふり構わぬ嫌がらせも 

 東燃LNG火力発電所は2018年4月に工事開始(予定)、1号機の稼働を2021年7月(予定)としている。この計画についての事業者説明会は、地元住民や一般市民を対象として開催されたが、事業者による説明会は事業計画の一方的な説明だけで、住民の質問にも本質的な回答がなされていなく、住民生活に重大な影響をもたらすので私たちは地元住民の不安や心配の声を直接事業者に質問したいと思い、東燃に公開討論会を申し込んだ。東燃清水事業所のA氏が窓口になって、8月19日公開討論会と決まり開催チラシを作成した。

ところが、私たちの仲間のブログを東燃の本社の人が見て、A氏は本社に呼び出されて叱責され、公開討論会ならやらない、司会は東燃がやると言い出した。A氏と話し合って、名称は住民説明会とするが、司会はこちらでやることを譲らず、次の日開催チラシを作り直して配布を始めた3日後、東燃が作成したチラシが自治会の掲示板に掲示されたり回覧板で回り始めた。開催するのは私たちなのにそのチラシには東燃が開催するように書かれているのだから驚いた。開催場所を予約して、チラシを作成配布している私たちを無視して、さも自分たちが開催するようなチラシを作成配布するという汚いやり方に腹が立ち、私たちは主催はあくまでこちらで司会はこちらがやることを確認し合った。

 すると、前日に東燃のA氏と本社の東京から来たB氏が、突然私たちの会の代表者の自宅に来て1時間以上にわたって玄関先で東燃の言い分や不満をぐだぐだ聞かされたが、主催はあくまでこちらということで突っぱねた。このように東燃は反対する私たちに危機感を感じたのか、なりふり構わず嫌がらせをしてくるが、私たちはみんなで話し合って運動を広げている。

★東燃と質疑応答を行う

 8月19日の夜、120名位の人たちが集まり会場は熱気に包まれ、東燃の説明後、質問者が次々に発言をした。「何故この場所に建設するんですか?」という質問に対して『エネルギー安定供給の為に・・』(きれい事を言っても利潤を生み出すため)『津波の調査によると、県の中でも静岡清水は津波が低く、地盤も安定していて災害に強いから心配いりません』と言う答えには驚いた!(建設予定地は埋め立て地で地震が起きれば液状化の可能性が高いのに)また、12名ほどいる東燃の人たちに「この中で清水に住んでいる方は?」と聞くと1名のみで、「清水に住みたい方はいますか?」と聞くと誰も手を上げない・・・「清水に引っ越してこい」と声があがり参加者の思いの声なので会場は盛り上がった。

 南海トラフ巨大地震がいつ起こってもおかしくない状況なので、安全面の問題点を質問していくと、『法に則ってやっている』『基準を取り入れている』『国の公的機関の研究所のデーターを取り入れている』という答弁を繰り返すだけだった。3.11東北大震災時の福島原子力発電所も法に則ってやっていたにも関わらず大惨事が起きたのだから信用できるはずがない!さらに、津波でタンカーが横転したらガスが漏れる危険があることを追求すると、『我々の資料では危険性はありません』と答弁したが、その資料は海上保安庁の2009年のデータで震災前のものだという事がわかり参加者はあきれてしまい、東燃の言うことに騙されてはいけないこと確信した。最後に「LNGが安全なものというなら公開実験をして下さい」と言うと、『持ち帰って検討します』の答弁。(口先だけで検討しないだろう)

 白熱した議論で時間が過ぎてしまい、司会者が「まだ質問したいことがあるので次回もやって欲しい」と言うと、会場から拍手が起こり声もあがるが東燃は『申し上げられない』と答え、言葉を一つひとつ選びながら『広く住民に正しく理解してもらえるようにベストと思う方法で足を運んで説明したい。特定の人だけではなく、広く理解して頂けるように・・・』と言うと会場から怒りの声があがり騒然となった。参加者から「納得するまで説明して欲しい、みんな心配している」と発言があり、司会者が「会の初めに提出した公開質問状の答えを頂きたい、次回もやることを約束して下さい」と参加者達の思いを大きな拍手で伝えたが、東燃は最後まで『何度も言いますが、こちらが主催する説明会に来て頂いて説明させて頂きます』と言うだけだった。まさに東燃は『反対する私たちは特定の人なのでこれ以上話し合いたくない』ということや「人口密集地に建設するのは危険だ!」と、当たり前のことを言って心配している私たちを納得させるまで話し合うという誠意もないことがはっきりわかった。東燃の汚いやり方、質疑応答で明らかになった事実、説明に騙されてはいけないこと、誠意のない実態、儲けるためには建設する事などをより多くの人たちに伝えて反対運動を続けていくつもりだ。

★環境に優しい自然エネルギーを

 東燃ゼネラル石油(株)は、石油から電力事業に参入して電力の自由化で儲けようとしている。電力の自由化と言っても送電線を持っている大手の電力会社が儲かるようになっているのだから何も自由化ではなく、携帯会社が利用者の囲い込みとして自由化を利用しているのだ。騙されてはいけない!環境に優しい自然エネルギーがいつでも安く使える社会を目指してゆきたい。(美)案内へ戻る


 コラムの窓・・・「8・15 南京大屠殺紀念館訪問」

 盛夏の8月中旬、訪中団の一員として中国各地をめぐりました。8月15日は「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」を訪問し、和平集会に参加しました。日本では、みんなでお参りすれば怖くないという愚かな議員達「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」(会長・尾辻秀久自民党参院議員)が靖国神社にお参りした日です。

 南京では、稲田朋美防衛相が靖国参拝したら訪中団への市民の目が厳しくなるとの不安がありましたが、そうならなくてよかったということでした。しかし稲田防衛相がジブチを訪れたということで、これは別の意味で問題です。ジブチは自衛隊の海外拠点とされていますが、事実上の海外基地として既成事実を積み上げようとしているのです。

 帰国してから新聞を見たら、稲田防衛相はジブチで「今の平和な日本はいかなる歴史観に立ったとしても家族や古里、国を守るために出撃した多くの方々の命の積み重ねの上にある。感謝の気持ちを日本人は忘れてはいけない」(8月16日「神戸新聞」)と強調したようです。何をネゴト言っているのか。私が中国で見聞きしたのは、皇軍によるあらゆる残虐な殺人であり、日本から遠く離れた雲南で塹壕の中で泥と血と糞尿にまみれて玉砕した兵士たちの末路です。

 紀念館では大虐殺幸存者の岺洪桂さんからお話を聞きました。もう92歳ですがお元気で、弟を殺されたということでした。すでに、幸存者が訪日してその体験を語ることはできなくなっており、こうして中国で証言を聞くこともいずれ出来なくなるでしょう。日本においても、戦争体験を語れる方が少なくなり、軍隊の力を使ってみたいと思っている政治家や、海外権益を軍事力で守りたいと思っている企業家は、戦争の美化(稲田が言う戦死の積み重ね)をもっと声高に言いだすのでしょう。

 神戸新聞は県内の声として、「特攻を『美化するな』」という見出しをつけて、「1・2トンの爆弾を積み、操縦する人間もろとも突入する旧日本海軍の特攻兵器『桜花』。これを戦闘機で護衛し、攻撃を受けながら帰還した」91歳の元兵士の証言を掲載しています。部隊の150人以上が敵に到達することなく戦死したということで、塹壕で死んだ兵士たちと同じように多くの兵士が必要のない死を強制されたのです。

 高市早苗総務相と丸川珠代五輪相も8月15日に靖国に参拝したそうですが、確信犯の高市はともかく、丸川は風を見て時流に乗ることだけを考えているのでしょう。今や国会はこうした軍事的火遊びにふける議員と、軽薄な風見鶏たちであふれています。過去の歴史をしっかり見据え、未来に向かうために、より多くの方が国内外の戦跡を訪ねることをお勧めします。 (晴) 


 「エイジの沖縄通信」NΟ30

(1)高江現地報告

①ダンプを護衛する大名行列の車列

 国や沖縄防衛局がめざす今回の高江工事は、N1表ゲートから土砂を入れて、オスプレイヘリパッド工事の場所までの道路を早く造ることを最優先している。
 そのため、ダンプ10台を午前中の早い時間にゲートに入れて、速く工事が進む事をめざしている。

 そのダンプ10台は西海岸にある採石場からスタートする。その途中約1時間半の道路途中で市民団体が妨害行為をするのではないか?と恐れている。そのため、ダンプの前と後ろをパトカー、覆面パトカー、機動隊員を乗せたカマボコ車両等などが約15台護衛についているのである。

 先頭を警察車両8台、その後ろにダンプ10台、最後にまた警察車両7台とつながるのである。まさに、ダンプを護衛する大名行列の車列である。

②20日朝、工事人車両を阻止する

 朝6時半にN1表ゲート前に集合して、皆で隊列を組み工事人の乗った車両を阻止し、ゲート内に入れさせなかった。辺野古と同じ作戦である。

 機動隊も不意をつかれたのか対応が遅く、完全に工事人車両はゲート内に入れず、あきらめて北部訓練場ゲートに入ってしまった。

 最終的には、昼前に圧倒的多数の機動隊の暴力排除で、ダンプ10台がゲート内に入ってしまったが、高江工事を阻止したいと思う多くの人たちが抗議の声を上げ、車両の前に座り込み、自分たちの車で阻止をしたりと、最大限の抵抗運動を展開している。

 沖縄の抵抗運動は、普天間飛行場のゲート前、嘉手納飛行場のゲート前、辺野古のシュワブゲート前、高江の工事ゲート前等など、まさにフル回転の闘いとなっている。

(2)辺野古・高江に続いて伊江島でも基地工事始まる

 22日から米軍伊江島補助飛行場で強襲揚陸艦の甲板を模した新着陸帯「LHDデッキ」の建設工事が始まった。

 なぜ伊江島で新しい工事が始まったのか?辺野古や高江とどのような関係があるのか?について説明したい。

 それは、米海軍が14年から運用する新型「アメリカ級強襲揚陸艦」が海兵隊の中心艦船となっている。この艦船に海兵隊のオスプレイやF35戦闘機を搭載して戦場に向かう。

 今回の伊江島での新着陸帯は「LHDデッキ」と呼ばれ、この新型揚陸艦の甲板を想定して建設されるもの。耐熱特殊コンクリートを用いて、格段に強度を増す。面積も従来の5万4千平方メートルから10万7千平方メートルへ2倍に拡張される。オスプレイやF35戦闘機がこの新着陸帯で離発着訓練を繰り返すのである。

 さらに、図面では来年横田基地に配備される空軍のCV22オスプレイの収容も記載されていると言う。

 なぜ、日米政府が辺野古の新基地建設にこだわるかと言えば、今工事が進む辺野古と高江と伊江島の工事内容を分析すればすぐわかる。

 辺野古新基地には強襲揚陸艦の接岸が可能であり、ヘリ以外の航空機の運用も可能である。オスプレイも辺野古を拠点に高江の北部訓練場ヘリパッド、伊江島間を縦横無尽に飛び交う事態が想定される。

 伊江島はオスプレイの低空飛行訓練が常態化しており、住民の生活にも畜産業の和牛の出産などにも大きな影響を与えている。飛行場に隣接する真謝・西崎の両区は2年前に区民総会で基地機能強化に対し反対を表明している。

 今回伊江村の島袋秀幸村長も、米側から情報が十分に得られないままの着工に対し「遺憾だ。関係機関を通して中止を求め続ける」と述べている。

 軍事評論家の前田哲男氏は、「米軍は辺野古と高江の基地建設を追求しながら、普天間と伊江島を現実的な即戦力として、今後数年間、十数年間の運用を確保するという二つの目的を同時に進めている」と分析している。

 辺野古・高江・伊江島と、次々に工事が始まった。沖縄の米軍基地闘争は重要な局面を迎えている。
 (富田 英司)案内へ戻る

 
 今上天皇の「お気持ち」メッセージ――象徴天皇制を私たちは今後いかにすべきか

戦前の日本国家体制と戦後日本国家体制の違いと象徴

 戦前の日本国家は、陸海軍に対する統帥権を持つ大元帥として位置づけられた天皇を頂点とする国家体制であった。それに対して米国等連合軍との戦争において一敗地にまみれた戦後日本国家は、米国により天皇は一切の統治権限が剥奪され、憲法に定められた国事行為を行う事のみ許された象徴天皇をいただく民主国家へと変貌させられたのである。

 このように敗戦時に国体が護持されたとの確信の下にポツダム宣言を受諾したのだが、天皇の国家元首としての政治支配の延命を許さなかった米国の意思により、天皇に位置づけは敗戦前後で大きく分断されてしまった。しかしながらこの二つの時代を生き抜いた昭和天皇は、時の内閣が象徴天皇に対する行う内奏に深く介入して憚らず、「天皇外交」(豊下楢彦氏の命名)を展開して、日米安保体制を築いていった。「沖縄メッセージ」はその象徴である。これに関しては、同氏の『昭和天皇の戦後日本』(岩波書店刊)に詳しい。

 日本国憲法は、一方では日本近代社会を基礎づける基本的人権と義務の体系と議会等の任務と選び方を規定してものであるが、他方では基本的人権すら認めずに身分制に依拠した象徴天皇の地位に関わる規定を盛り込んだ、極めて纏まりの悪い憲法でもあった。

 昭和天皇が戦後日米安保体制の構築に手を染める前に着手したのは、米国への服従を明確にしたことである。それは天皇とマッカーサーと1945年9月27日に第1回の会見を行い、1951年まで都合11回も行われた。そしてこの間1946年3月5日と6日と二つに分かれて東京に到着した日本の教育の実態把握を目的とした日本教育使節団一行が皇居を表敬訪問した時、この使節団に対して当時学習院の初等科に在籍していた皇太子(つまり今上天皇)に米国人の家庭教師を付けたいと天皇が要請したのであった。

 古来から敗戦国の皇太子に戦勝国の家庭教師を付けるなど前代未聞のことであり、外交問題に発展しかねない問題であるが、ここは天皇自身の要請であったが故に上手く運んだのである。そして紹介されたのがクエーカー教徒のヴァイニング夫人であり、彼女は皇太子に自分をジミーと呼ぶように強制した他、同じクラスの誰とも差別することなく平等に取り扱った。こうして今上天皇は少年時代にキリスト教育の洗礼を受けていたのである。

 米国は天皇を「日本国家」そして「日本国民統合の象徴」として憲法に位置づけた。米日戦争中に米国は敗戦後の日本統治に天皇の利用を考えていた。そのため皇居は戦略爆撃の対象外としていた。そして考え抜いて出された結論とは、日本の戦争勢力と闘っていた平和天皇像の創出という平和のシンボルとして天皇を徹底的に利用する戦略であった。

 天皇をシンボルとする文献の登場は、1931年の新渡戸稲造国連事務局次長退任後の『日本――その問題と発展の諸問題』を嚆矢とし、1942年に出版されたニューヨーク・タイムズ東京特派員だったヒュー・バイアス氏の『敵国日本』にもシンボルと書かれていた。注目すべきはその後同氏が書いた『昭和帝国の暗殺政治』である。引用する。

「日本の政治体制の弱点は、この体制が、そもそも人間には両立し得ない複数の機能を、天皇に兼任させようとするところにある。天皇は同時に、国民の威厳ある統合の象徴であり、国の神であり、その大祭司であり、その最高司令官である」と書かれていた。

 こうしたことからも米国の陸軍省は、天皇を平和のシンボルとして、徹底的に利用する戦後日本統治戦略を画策し大きく動き出して、米国の国家戦略となった。

 この戦略は大成功を収め、今では戦時中ですら軍部とは対立して天皇は一貫して平和指向だったと多くの人に信じられている。このため、天皇は東京軍事裁判では免責された。軍事力の統帥権を唯一持っていた天皇が免責されることなど、本来は絶対にあり得ないことである。日米戦争の総括から、米国は天皇をキリストのような厳罰処罰を与えずに、天皇の戦後の統治行為を禁止して単なるお飾り・象徴としたのである。

今上天皇の「お気持ち」メッセージとその思想性

 さて8月8日、今上天皇はまるで昭和天皇がしたような段取りで「お気持ち」メッセージをテレビ放映を行った。「生前退位」(この破廉恥な言い方は何だ!直木)の言葉こそなかったものの、その意図は明確であった。そしてそこで強調されたことは、象徴としての天皇の役割とは何かである。宮内庁のように高齢になったから公務を減らせばよいとの判断に今上天皇は立たないのであり、それだからこそ、象徴天皇の役割を果たすことが出来るように譲位したいとの意向を示した。

 右翼の一部には、この時とばかりに今回の今上天皇のメッセージに関連して「公務」の恣意性を問題にしている向きもある。つまり災害被災地の慰問や戦没者の慰霊等がどれだけ立派な「公務」なのかという批判である。最近慰霊を行ったペリリュー島 やパラオ来訪時に海上保安庁の護衛艦を改造してまで利用したのは、大問題だということである。

 被災地等を訪問して、避難者や戦没者の遺族と同じ目線に立ちたいとする今上天皇の努力は「憲法順守」「無私」だとの2点が従来から指摘されていたが、今回の放送を通じて「国民と一体化する」という天皇個人の強い思いが多くの人に感じられた。かくして天皇のサバイバル戦略は成功したのである。

 仮に加齢や病によって寝た切りになった場合でも、摂政を立てたりメッセージを発したりすることで「象徴としての務めを果たす」ことが可能だと、宮内庁は指摘し続けてきたが、天皇は「そうではない、違う」と非常に強く反論、否定したことが好意的に伝えられていたからである。多くの人は今上天皇のサバイバル戦略の本質を見抜けないでいる。

では二つの時代を生きた昭和天皇に比べて生まれながらの象徴天皇である今上天皇が皇太子時代から真摯に考え続け、即位以来まさに「全身全霊」をもって考えてこられた「象徴」としての天皇のあり方とはどういうものなのか。またどのように違うのか。

 それには少年期、ヴァイニング夫人の教育の影響、そして現在も深く関わっている相談役の影響からイギリスの立憲君主制での王室のあり方とキリスト教の倫理に深く影響を受けており、加えて幼時からカトリックのミッションスクール(聖心女子学院)で学んだ美智子皇后の強い影響の下に、一段と磨きが掛けられたものなのである。

 この重要人物とは、東宮参与として天皇・皇太子に対する憲法及び象徴天皇制に関する相談役、後にカトリックに入信し「トマス・アクィナス」の洗礼名を持つ團藤重光東京大学教授で、彼の「新トマス主義」による天皇家教育があることを忘れてはならない。

 ここで大きな影響力を行使したものこそ、昭和天皇の時代から深い関係で続いていた「隠れたカトリック教徒の人脈」であった。今や宮内庁には多数のカトリック教徒がいると噂されている状況である。日本カトリック教会には、岩下壮一が基礎を据えたのであるが、この事実すらあまりにも知られていない。これについては園田義明氏の『隠された皇室人脈 憲法九条はクリスチャンがつくったのか!?』(講談社+α新書)をぜひ参照のこと。

「新トマス主義」とは、EUの統合にあたって新旧両キリスト教圏にまたがる欧州を「成文法を超えて一体化させる」ものとして旧約新約の両聖書を第一の規範とし、そのためにカトリックの規範を決定したトマス・アクィナスの『神学大全』を参考にしようという考え方である。

 トマス・アクィナスは、神の法・自然の法・人間の法と法を3分割した。つまりここが味噌でパウロのような聖と俗の2分割でなく、神の法の内人間が理性で認識できる部分として自然の法を導入した。そして自然とは、民族・文化に関係なくどんな社会にも共通するという意味である。人間の法は、ある社会の支配者が制定した法である。法の内容は社会ごとにまちまちでも良いが、自然の法を踏まえなければならないとした。さもないとそれは暴君の法であり、内容から言って法と呼べないというのだ。この手順を踏むことで、彼は神の法から人間の法をつなげたのである。

 こうして「新トマス主義」は、現代に復活して世界を秩序立て人間の生活を頂点とし、その恵みの生活は教会から与えられるサクラメントにより与えられるものであるとする。

EUの心臓部は独仏両大国に挟まれたべネルクス、すなわちべルギー・ルクセンブルクとオランダに集中するが、べルギーはカトリック、オランダとルクセンブルクはプロテスタントでウエストファリア条約(1648年)以来、新旧教勢力が国内に併存しつつ、各々の独立したコミュニティを維持し続けている。そして2回の世界大戦の深刻な反省に立って20世紀後半という半世紀を懸けて「欧州統合」を推し進めてきたEU中枢が共通の価値観として堅持している背骨、それが「新トマス主義」なのである。

 避難所でスリッパを進められても断り、靴下のまま被災者の下を訪れ、膝を折って被災者と同じ目線で会話し「共に困難を共有したい」と明言される今上天皇の発言と行動は、歴代天皇では初めてといわれ、皇太子時代に自ら創始され、象徴天皇の執り行うサクラメントとして、今日の皇族にも共有されている。この天皇のあざとさにまず注目せよ!

 メッセージの中では、「私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えてきましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えてきました」「何よりもまず国民の安寧と幸せを祈る」と語っている。元よりこの台詞はサバイバル戦略だ。

 それまでは皇祖皇宗にこそ祈ることはあっても、憲法を順守して「国民のために天皇が祈る」という行動をどのように取ったらよいのか、どこにもお手本はなかった。そんな中で全身これ象徴の天皇が、美智子皇后と相談或いは團藤教授らブレインのアドバイスを受け先進各国の立憲君主たちの行動や道徳律を知り、そこで常に参照される新旧約聖書を始めとする聖典にも十分な配慮をもって、個々に検討し決意し現実に実行に移してきたのが「スリッパを履かない」であり、「膝を折って同じ目線で言葉に耳を傾ける」行動だった。

こうした行動の一つひとつが、つまり「象徴天皇として国民のために祈る」こと、これがサクラメントそのものなのではないかと今上天皇は考えた。国民の中に痛む人があれば、行って共に痛みを感じ、分かち合い、国民の中に喜びがあるなら、それもまた共に喜びを分かち合う。「その心に全身全霊を開く」ということが、皇太子時代から半世紀余、身をもって探究し、創造し実践してきた「象徴天皇の祈り」そのものであった。

その結果、天皇皇后が訪問した被災地で彼らを悪く言う風評は殆ど聞こえてこない。インターネットを見れば、世界の多くの人がこの行動に驚嘆し賞賛していることが確認出来る。又今上天皇はブレインの意向を入れて平成13年12月の天皇誕生日には、日韓共催のワールドカップに触れて、祖先である桓武天皇の生母が百済武寧王由来の血筋との故事を引き合いに「韓国との縁」に触れる、韓国が賞賛する大変勇気ある発言をした。

 様々な負の歴史と今に続く永続的な韓国朝鮮への差別を明仁天皇が知らないわけがない。歴史修正主義者の安倍総理のように国際社会に背を向け、独善的な「日本の伝統」を振り回すのではなく、内外の歴史と伝統に尊重と敬意を表しつつ、なおかつ「国家」「国民統合の象徴」として振る舞う今上天皇の姿は、まさに好対照という表現する他はない。

 憲法「第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とある。この規定を踏まえつつ、今上天皇は「日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています」とその秘めたる自信を披瀝して見せた。

 この天皇のサバイバル戦略に籠絡される人々は今でもたいへん多くて此方が驚くほどである。今回の「お気持ち」発言も高率の支持だ。私たちはこの部分に激しく反応して敢えて辛辣な批判を展開した辺見庸氏に同意する。天皇という象徴など入らないのである。

 ここで考える。象徴天皇を人的に維持するための組織は大きく分ければ、3つある。

 まず宮内庁は合計で109人、内訳は特別職 52人(1)国家公務員法で規定するもの。宮内庁長官,侍従長,東宮大夫,式部官長,侍従次長。(2)人事院規則で規定するもの。宮内庁長官秘書官,宮務主管,皇室医務主管,侍従,女官長,女官,侍医長,侍医,東宮侍従長,東宮侍従,東宮女官長,東宮女官,東宮侍医長,東宮侍医,宮務官,侍女長。一般職957人内訳は宮内庁次長以下の内閣府事務官,内閣府技官などである。

 これに関連した宮内庁病院は、医師・看護師は総勢約50名となっている。中には大学での勤務の傍ら、非常勤で診察に当たる医師もいる。病院長は宮内庁の皇室医務主管や侍従職の侍医長が兼務することが多いが、最近では専任者を置く例もある。玄関は皇室用と一般用に分かれている。一般用といっても宮内庁や皇宮警察の職員たち用である。1階中央には大きな吹き抜けがあり、階段手前から歯科、内科、耳鼻咽喉科、眼科などがある。2階には階段突き当たりに産婦人科、隣に外科、東側に一般患者用の病室、残り半分は皇室専用の病室「御料病室」が2つ配置されている。御料病室は、広さが約26平方メートル、トイレや浴室、洗面所を備えている。また廊下を挟んで侍従や女官の控え室もある。

 最後に皇宮警察は、皇居の内、宮殿及び皇居東御苑等の区域を担当する坂下護衛署、御所・宮中三殿等の区域を担当する吹上護衛署、赤坂御用地(東宮御所・各宮邸等)及び常盤松御用邸(常陸宮邸)の区域を担当する赤坂護衛署が設置されている。

 東京以外では、京都府には京都御所・仙洞御所・京都大宮御所・桂離宮・修学院離宮及び正倉院の区域を担当する京都護衛署を置き、神奈川県の葉山御用邸、栃木県の那須御用邸、御料牧場、静岡県の須崎御用邸、奈良県の正倉院には、皇宮護衛官派出所が置かれている。また各署には消防車(「警防車」と呼称)が配備されており、皇居や御所の消防の業務を担っている。この他、皇宮護衛官の育成のための皇宮警察学校や皇宮警察音楽隊、皇宮警察特別警備隊などもある。

 2009年(平成21年)度に警務部長ポストを廃し、「副本部長」を設置した。皇宮警察本部の定員は警察庁の定員に関する訓令により規定されており、皇宮護衛官920人、事務官等44人、計964人を擁している。なお比較のために人口57万人の治安を守る鳥取県警の職員数を紹介しておけば、何とたったの1170人である。

 つまり象徴天皇制の維持には、臨時職員を除けば定員数で何と2023人による支えが不可欠であることを、私たちは決して忘れてはならない。この認識が人々にあるだろうか。

 この人数には、生きた人間を象徴とする日本社会の愚かしさが分かるというものである。

「お気持ち」は安倍総理への最後通牒と書いたフラッシュの衝撃

 この主張については、ある意味で典型的な天木直人のブログを引用する。

「日本列島がお盆休みとリオ五輪で真空状態になっている時に、発売中の写真週刊誌フラッシュ(光文社)(8月30日号)が、衝撃的な見出しの記事を掲げた。
 8月8日に発表された天皇陛下の「お気持ち」は、天皇陛下の安倍首相に対する「最後通牒だ!」と書いたのだ。

 その要旨は一言でいえばこうだ。天皇陛下が憲法の禁じる政治的発言とも受け取られかねない「お気持ち表明」に踏み切ったのは相当の覚悟があったはずだ。

 その天皇陛下の覚悟を踏みにじるかのように、安倍首相は皇室典範の改定をさけ特別立法でごまかそうとしている。その背景には、安倍首相とその後ろにある日本会議や神社本庁の、皇室典範に手をつけたくないという考えがある。天皇制の根幹にかかわる皇室典範の改正に踏み切る事は、議論百出して意見の集約が出来ないからだ。

 しかし皇室典範の見直しの必要性が浮上したのは今度が初めてではない。皇室に男子が生まれていなかった05年、小泉政権が内閣官房に「皇室典範改正準備室」を設置し、女系天皇を認める改正案にとりかかった事があった。当時、それに反対したのが内閣官房長官だった安倍首相だった。

 天皇陛下が生前退位の意向を示されたのは5年前。安倍首相が返り咲いたのは4年前。つまり安倍首相は天皇陛下の生前退位の意向を知っていながら動こうとしなかった。

 今度は天皇陛下の健康上の問題であるから待ったなしだ。皇室典範改正を何度も先送りしてきた安倍総理に対する天皇陛下の皇室典範改正を急げという天皇陛下の「最後通牒」と言うべきものだ。

 以上が要旨であるが、このフラッシュの記事には、安倍首相が急ぐ憲法9条改正の事は何も触れていない。しかし皇室典範の改正をせずして憲法9条改正を急ぐことなどあり得ない。つまりこのフラッシュの記事は、天皇陛下は安倍首相に自分の在位の時代に、皇室典範の改正を行わずして憲法9条を変えてはならないと最後通牒を突きつけたと言っているのだ。これこそが天皇陛下のお言葉の核心である。

 それにしても、天皇陛下の「お気持ち」を、安倍首相に対する天皇陛下の「最後通牒だ!」と表現したフラッシュは凄い。大手新聞が知っていても書けない事を、写真週刊誌が見事に書いたのだ。このフラッシュの記事は、大手メディアに対する「お前ら、もっとしっかりしろ」という、「最後通牒」でもある。(了)」

 こうした論調を代表するものとして、今天木ブログを引用した。また最近の小林よしのり氏の安倍総理対天皇の闘い、また日本会議等は究極の売国奴どもとの過激な発言には注目せざるをえない。既に色々な言論が飛び交ってはいる。そして世界的にも同様な評論がある。しかし今上天皇の現時点での真意がどこにあるかはいまだ明確ではないのである。

 勿論こうした見解にも根拠があり、充分考えられることではあるが、私たちはこの種の議論をするのは、遠慮したいと考える。もっと根本的な議論をしたいからである。

 戦後、日本帝国憲法が日本国憲法に改正された時、当然にも皇室典範の改正も国会で議論された。しかし時の政府はまったく消極的な答弁に終始してきた。

 生前退位をめぐる国会答弁を紹介すれば、1946年12月の貴族院本会議で、幣原喜重郎復員庁総裁(肩書は当時、以下同)は、退位を制度化しなかった理由について「国民の総意は退位の制度を望んでいない」と説明した。さらに「規定を設けること自身が、好ましからざる混乱の事態を生じやしないか」との懸念も示したのであった。

 こうした見解を踏まえて1952年1月31日、衆院予算委員会で吉田茂総理大臣は日本民族の愛国心の象徴である陛下の退位は国の安定を害する。これを希望するがごとき者は非国民だ。7年後の59年2月6日衆院内閣委員会で林修三法制局長官は、「新憲法によって人間天皇としての地位はできたけれども、一般の人と同じようにこれを扱うわけにはいかない。そこに制約があることは当然だ。象徴たる地位、国民の総意に基づく地位であり、ご自分の発意での退位はその地位と矛盾する。幾多過去の例でも弊害があった」と説明した。続く同年3月26日衆院予算委員会でも、「陛下の退位の意志を持たれてもその地位と、全然矛盾などしない。法改正問題としても相当慎重な配慮が必要で、好ましくないと考える」と答弁したのである。つまり天皇の地位は本人の意思とは無関係なのだ。

 かくして政府答弁が最終的に確立したのは1984年4月である。山本悟宮内庁次長は、(1)退位後に上皇や法皇などの存在となり弊害を生ずる恐れ(2)天皇の自由意思に基づかない強制退位の可能性(3)天皇の恣意的な退位-などの問題が生じ得ると指摘。退位の道がなくても「摂政や国事行為の臨時代行で十分対処できる」との認識を示した。こうした見解を以後の政権でも踏襲している。

 仮に生前退位を可能とする場合、皇室典範に規定されていない退位後の役割や尊称が重要な検討課題となる。また強制退位を認めれば、時の政権の政治的思惑により退位が起きる余地が残る。つまり「天皇の退位の自由」に関して、林修三法制局長官は1959年2月、「象徴たる地位、国民の総意に基づく地位であり、ご自分の発意での退位はその地位と矛盾する」と指摘しつつ、「制約があることは当然だ」との見解を示している。

 1991年3月の衆院予算委員会では、天皇の高齢化に伴う生前退位の是非が再び議論になった。しかしながら宮尾盤宮内庁次長は「天皇の地位安定」の観点から、強制退位など3点の懸念を重ねて説明し、天皇の体調不良や外国訪問の際は、皇太子などによる摂政の臨時代行制度があることを理由に、「お年を召したから(との理由での)退位の制度は、全く必要がないと考えている」と述べた。この一貫した天皇利用の観点に注目せよ!

 今現在、私たちが確認出来る最低線は、今上天皇が語らずに望むことは憲法「第二条 皇位は、世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」の規定を守りつつ、現行皇室典範の改正を願っていることであろう。

 こうした今上天皇の意向は各新聞社の調査によると90パーセント近くの国民が受け入れを表明している。その意味では確かに安倍総理の思惑と大きなズレがあるものの、今上天皇が倒閣をめざしているなどとはとてもいえず、単なる妄想でしかないたろう。

 今後、陛下の生前退位に向けた法整備について、政府関係者は「制度乱用の危険を避けるためにも、過去の政府見解はクリアしなければならない」と述べた。象徴天皇制と深く関わる問題だけに安倍総理には頭の痛いことだろう。しかしこの件と憲法改正とは、直接には関係していない。なぜなら皇室典範改正は単なる法律改正に過ぎないからだ。

象徴天皇制の語られざる祭祀的側面

 戦前の天皇制と戦後の天皇制との違いで、あまり語られていないことがある。それは天皇制の祭祀的側面である。戦前の天皇制と天皇が執り行う祭祀は不可分の関係にあった。それが戦後の天皇制では、象徴天皇の私事に関わるものとみなされているのである。

 そもそも天皇は皇室では当然、明治以降の国家神道においては「最高の司祭」である。昭和天皇自身が「非公式」と断わりつつも、戦後も「皇居の中で神道の祭典をやっている」と明確に認めている。つまり皇室内では日本国・国民統合の象徴である象徴天皇を頭とする宮内庁職員が〈祭政一致〉の政=祭りごとを、年中無休で励行しているのである。

 要は戦後には天皇家の私事としての祭祀であっても、日本国及びその民の統合のための象徴天皇の立場から、この私事である神道行事を国民全員に対して独自(恣意・勝手)に宗教的に意味づけて執り行い、自分だけでなく宮内庁職員にも強制してきたのである。

 さらに「お気持ち」メッセージでは、昭和天皇の代替わりの時に起きた「自粛騒ぎ」との政治・社会問題、当時において一定の期間日本社会全般に対して「日常生活を停頓させていた〈困惑の事態〉」が、再発するようなことにならないよう、強く伝えようとした。そしてさらに今上天皇は、できればそのための措置・対策を事前に講じてほしいと、率直に語っていた。しかし今後の祭祀については、どうなるかは明らかにされなかった。

 その改善を要する具体例として「殯り」が上った。殯宮は「もがりのみや」という名で天皇の大喪の礼に、また「ひんきゅう」という名で皇后・皇太后・太皇太后の斂葬の儀までの間、皇居宮殿内に仮設される遺体安置所の名として使用されることになっており、戦後に於いては昭和天皇や貞明皇后、香淳皇后の崩御の際に設置されている(但し太皇太后は現在の皇室典範にも定められているものの、実際には平安時代末期以降、現れていない)。つまり死後13日目に遺体を収めた棺は、御所から宮殿内の殯宮に移御され、45日目を目処に行われる大喪の礼や斂葬の儀までの間、殯宮拝礼の儀を始めとする諸儀式が行われる。今上天皇はこの妻子が家族にとって大変厳しいと発言した。別の機会では今上天皇は、火葬を希望すると述べている。そうだとするとこの祭祀は、今後することができない。

 またよく知られている大嘗祭や新嘗祭を始め天皇家には執り行う数々の祭祀がある。これまたマイホーム主義者のように見られる現皇太子には、相当な重荷となるだろうことは想像に難くない。このことは、まさに祭司長としての象徴天皇の危機である。

 ここで話を一寸ずらしてみよう。天皇家の紋は菊の紋である。海外旅行に行く人々は、日本国のパスポートの表紙に日の丸ではなく、菊の紋があることを承知しているだろう。なぜ菊の紋なのか? 在外日本公館や靖国神社の門にもすべて菊の紋がある。菊の紋と日の丸の関係はいかなるものか? 菊の紋と日の丸との関係、天皇家と国体とは一体どのような関係にあるのか? 法務省の見解は、天皇は日本国の象徴であるから菊の紋は国の紋でもあるという屁理屈である。確かにそのような類推はできるが一体誰が決めたのだろう。

 この論法でこの事態(現状)を論ずれば、憲法が規定した「政教分離」どころではなく、まさに〈現実〉では、祭政一致を国民側に対して実質「強要している」ことなのである。

 これに関わって靖国神社参拝がある。A級戦犯が合祀されてからの昭和天皇と今上天皇が靖国参拝を現在拒否している理由を、私たちは明確に認識する必要がある。国家的な神道神社の「最高の司祭(親裁者)」として、天皇裕仁はそこで何を祈ってきたのか?
 それは自分=天皇のために戦争に動員され、死んで靖国に合祀される運命に追い込んだ、アジア・太平洋〔大東亜〕戦争にだけ限ってもその数、三百十万にもなる民草=〈英霊〉に対して、つまりかつての帝国の臣民たちにもたらした「多量死」を「悲しいけれど現実として受容させる」ためであった。この天皇の認識は民草の物とは全くかけ離れている。

 元々この靖国神社の役割は、天皇が戦没者(の死という事実)に陳謝・謝罪するために存在したではなく、どこまでも戦争勝利のために「死者を活かそうとする」国家側が戦争犠牲者を取り上げて「慰霊する」神社であった。つまりあの戦争で「朕だけが生き残って申しわけなかった」という陳謝でも謝罪でもない。靖国神社の参拝において昭和天皇がこの種の陳謝や謝罪をしたら、靖国の靖国たる所以、その存在価値は一気に瓦解する。

 したがってA級戦犯の処刑は、連合軍が勝手に裁いて出した判決に拠るものではあっても、昭和天皇もその結果を受け入れていた故にこのA級戦犯が1978年10月、靖国神社に合祀された事実は、昭和天皇にとっては大きな衝撃となった。敗戦後にまで生き延びてきた彼の存在理由が、その合祀によって全面的に否定される〈靖国神社的な歴史の事情〉が突如、目前に登場したからである。

 だからA級戦犯の合祀は、天皇裕仁にとって「本来的に発揮すべき靖国の宗教的機能」が破壊されることを意味したのである。この因果のめぐり合わせは、昭和天皇自身が一番よく理解している。私たちもA級戦犯の合祀に激怒した意味とその論理が実によく分かる。

 このように天皇家は現在でも祭祀を行っているのである。それも天皇家の私事として行っているが故に、日本国民には決して充分にはその全貌が認識されてはいないのである。

 すべては人間天皇を象徴として日本国憲法に書き込んだことが原因である。人間天皇というのなら、基本的人権を人間天皇にも保証しなければならず、保証しないのであれば門地云々の廃止・全ての人間は平等であるとの規定は、天皇を除外した時点で全く意味をなさないものに転化する。既に多くの人々は、天皇にも人権があると考えているようだ。

 かくして私たちは今ただちにではないが、今後の象徴天皇制に対する基本的態度を確定することができる。それは、象徴天皇にも基本的人権を認め、姓名を付けて、職業選択の自由と移転・居住の自由を保障して、その幸福追求権を認めることである。したがって象徴天皇制は廃止する。そして宗教の祭司長としては、私事として勿論をその就任を認めるが、国庫補助は廃止してすべては本人のまさに自由意思に委ねられるべきである。

 その際、この事に関わって明治以来、手厚く天皇と皇族を守ってきた皇室経済法の廃止と皇室費・宮内庁費と皇宮警察費の予算廃止に向けて徹底的に論議すべきである。(直木)案内へ戻る


 再審無罪を袴田さんに

1995年に起きた大阪女児焼死事件で、二人の被告に再審無罪が決定した。

 当時の捜査当局が「保険金目当ての殺人事件」と断定、それに添う自白を二人に強要し(拷問とも言えるもの)、それを何らの検証も無く警察・検察・裁判所が鵜呑みにして冤罪をうんだ。

袴田さんの逮捕から50年もの時を経てなお、驚くほどこの構造は変わっていない。

 8月21日静岡市清水で『静岡県警・清水署のデッチ上げ逮捕50年 無実の袴田巌さんに無罪判決を!』集会が開かれた。

 冒頭、一昨年3月の再審開始決定と共に、誰もが予想していなかった身柄の釈放の瞬間を映像で記録していた笠井千晶さん(映像作家)の作品が上映された。呆然とした様子の巌さんに「釈放されたよ。家に帰ろう」と満面の頬笑みで声をかける姉の秀子さんの姿、その巌さんの伸びきって巻き爪となっている無残な足指の爪などが強く印象に残る。

その釈放からすでに2年余り。検察の即時抗告、無駄としか表現しようのないDNA型の検証実験(それも宙に浮いたまま)を認める裁判所等により、審理は停まったまま、いや「止められたまま」再審の入り口さえ見えていない。警察保管の証拠は、未提出のもの含めどれだけあるのか、全容は明らかにできていない。僅かずつ小出しに出される証拠は、例えば「取り調べの録音テープ」など、警察・検察にとって不利なものばかりだ。

 袴田巌さんは今も死刑囚のままだ。即刻再審無罪の判決を出すべきだ。

秀子さんの語る最近の巌さんの様子は、暑い日でも毎日10時から夕方まで外出(本人曰く「浜松市内をパトロール」、秀子さん「徘徊」)、夕食も食欲旺盛。まともかなと思うこともあるが、午前は調子が悪く、ボーとしてぶつぶつーー人言を言う。それでも10時になると外出する。まだまだ「心は牢屋の中」・・・。  (澄)

お知らせ
9月15日(木)東京高裁・高検要請行動への参加を!
午後12時10分東京高裁前集合
袴田巌さんを救援する清水・静岡市民の会(略称清水袴田救援会) 


 色鉛筆・・・「初めての海外旅行」

 8月13日から1週間、アジア隣国の中国へフィールドワークに行ってきました。これは、「神戸・南京を結ぶ会」主催のもので、会では今年で20回目の訪中になります。旅の一番の目的は、8月15日の南京大虐殺追悼集会に参加し、慰霊の気持ちを伝えることです。集会後は、幸存者の方の証言を聞く機会もあり、南京大虐殺記念館の見学と合わせて、あらためて戦争の恐ろしさを認識させられました。

 現地では、冷房付きの観光バスが用意され通訳の方もついていただき、恵まれたツアーでした。それでも、38度の気温と照りつける太陽に顔からは汗が吹き出し、日頃の体力不足を感じずにはいられませんでした。バスの窓からは、道路工事に精を出す人、信号の無い道路を車の接近も気にせず堂々と横切る民衆、バイクのような電動自転車に親子3人で走る様子に、活気ある人々の様子が伺えました。

 南京で3日間過ごした後、飛行機を乗り継ぎ雲南省の保山市へ、そしてこの旅のもう一つの目的、当時のビルマ国境に近いビルマ援?ルートと呼ばれる戦線を訪れました。雨期の大雨の降る蒸し暑い天候の中(1944年6月から9月)追いつめられた日本兵士と、米国の命令で援軍として駆り出された現地の農民たち(5人で1人の日本兵を殺せと命じられた)、双方の犠牲者の苦悩は残された塹壕跡や食糧・武器の補給無しの状況から、想像を絶するものとして受け止められ戦争の悲惨さがひしひしと伝わってきました。

 今回の旅で驚いたことは、上海の街中で当時の慰安所の建物を改修して今も中国の住民が暮らしていることです。事前の説明も無しに、私たちがぞろぞろとその周辺を歩きもの珍しそうに、しかもカメラを片手に、その行為で住民の方に嫌な印象を与えてしまったのです。市民レベルでの友好関係を築こうとした思いは残念なことになり、反省しなければなりません。

 40人の団体の旅だったので、利用した「中国東方航空」機の搭乗手続きに時間がかかり、ぎりぎり間に合うということもありました。しかも、飛行機の出発時間も大幅に1時間程送れたこともあり、便利だが不便の空の旅にしばらくは海外旅行は無理だと、つくづく思ったのでした。(恵)

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