ワーカーズ601号   2019/12/1   案内へ戻る

 今こそ、全身火だるまの安倍政権を退陣させよう!

 11月20日、安倍首相の通算在職日数が憲政史上最長となる。だがアベノミクス等の主張を掲げた安倍政権は歴史に残る成果を出せたのか。まさに何もない。世界経済上での日本の没落。非正規雇用労働者の増大。彼方へ消えた北方領土の返還等々。政治は結果だと常々言われているのに、一切成果が出せていないこの現状、散々の体たらくである。

 安倍首相が歴史に残す成果は、唯一衰退日本を更に衰弱させた政権の頭だった事しかない。その象徴の人物の安倍首相ほど、絵になる人物はいない。本当にぴったりである。

「鯛は頭から腐る」衰退日本の頭・安倍首相は腐敗を極めている。首相主催の「桜を見る会」招待客を巡る疑惑で、首相は野党から無様にも一斉集中砲火を浴びる。更にぶら下がり取材を受ける度に矛盾は次々と明らかとなる。追い詰められ憲政史上記念となる11月20日参院本会議では、「桜を見る会」招待客について「私は主催者として挨拶や接遇は行うが、招待者の取りまとめには関与していない」(11月8日参院予算委)との答弁を180度変え、安倍事務所による招待者推薦に関与していたことを認めたのである。

 更に内閣官房からの推薦依頼を受け、安倍事務所が参加希望者を募集していたと明かした上で、「私自身も事務所から相談を受ければ、推薦者について意見を言うこともあった」などと言い出し、しかもその推薦枠は「千人程度」あったとの事実も明らかにしたのだ。

 私人認定の昭恵夫人にも「推薦枠」があった。そればかりでなく「桜を見る会」前夜祭の「会費五千円」は、これまで「大多数が(夕食会場の)ホテル宿泊者という事情を踏まえ、ホテル側が設定した価格」と説明していたが、2015年は夕食会と宿泊先が別のホテルだったことも発覚し、何と20日は「(安倍事務所と)ホテルとの交渉で会費五千円を維持した」と答弁した。まさにいつもの安倍首相の厚顔無恥の手の平返しではある。

 この私物化の実態があればこそ、今年の「桜を見る会」挨拶では政権を奪還し7年と誇らしく宣言した。この政府行事を無視の挨拶ができるまでに安倍首相は一体どれほど税金の不正使用や公選法違反や政治資金規正法違反等の現実を積み上げてきたのだろうか。

 衆院通過の日米FTA承認議案を参院での審議拒否を楯に断固追及する必要がある。

 今こそ、全身火だるまの安倍政権を退陣させるよう、主体的行動を貫いていこう!(直木)


 《本の紹介》『二つの日本』――「移民国家」の建前と現実
          望月 優大  講談社現代新書 840円(税別)

 安倍首相の首相在任期間が、この11月で歴代1位になったという。長期政権となった理由として様々な論評が出されている。〝経済第一〟の政局運営や小選挙区制と政党助成金などに由来する行政権の肥大化、それにナショナリズムとの連結などが影響しているのだろう。それも確かだが、より根源的な理由もある。

 それは、対抗勢力の中軸であるべき労働者組織・運動の解体的な低迷状況ではないだろうか。目先の闘いに目配りすることも必要だが、対抗勢力としての主体形成のためには、その中軸に位置するはずの労働者社会の一断面を直視することから、新たな闘いの一歩を踏み出していく必要がある。

◆思惑先行

 ちょうど1年前の12月8日、安倍政権が強行成立させたものがある。出入国管理法などの改定による「特定技能」という外国人労働者を受け入れる新しい枠組みの創設だ。今年4月に施行されたその法制度のもと、最初の5年間で34万5000人、初年度の19年度では最大4万7000人受け入れる、というものだった。

 ところがこの11月、その特定技能枠の外国人労働者の受け入れが895人(11月8日現在)にとどまっているという集計結果が公表された。初年度見込みのなんと2%でしかない。

 理由は単純だ。法の成立後、政府は「基本方針」や「分野別運用方針」を公表したが、そもそも資格認定に必要な技能試験が実施できていない。試験日さえ決まらないばかりか、試験内容さえ固まっていないという。法案の審議段階から指摘されてきた様々な準備不足、それに送り出し国の準備も受け入れ体制もできていない。ただただ業界の要望を実現したいという思惑・作為ありきの結果がこれだ、というのが実情なのだ。

◆「移民国家」の全体像

 本書は、日本在住の外国人がどういう形で日本に在留しているのか、その全体像を把握することが大事だとして、まずその実態のスケッチから始める。

 18年時点で、在住外国人は264万人(18年末で273万人)。その内訳は、朝鮮植民地に由来する特別永住者を始め、日本での永住権を与えられた外国人永住者とその家族が約145万人、専門的な技能や知識を持った就労資格を持つ在留外国人が33万人、修学目的で在留する留学生が32万人、これらの家族が17万人、国際貢献を建前とする技能実習生が29万人だ。近年では韓国が漸減し、中国やベトナムやフィリピンからの在留者が増えている。

 在留外国人が急に増え始めた1990年の107万5000人から18年末の273万人まで、30年弱で実に2・5倍にまで増えている。

 外国人労働者というくくりで見れば、総計146万463人(18年10月末)。内訳は身分にもとづく在留資格者が約50万人、資格外労働者(留学生)が34万人、専門的・技術的在留資格者が28万人、技能実習生が31万人だ。

 本書では、これら在留外国人の資格別在留数と国別在留者数、また職業別構成など細かく分類し、時系列による変化傾向も含めて現状を分析している。

 「移民」の定義はひとつではないが、帰化者や超過滞在者なども含めて移民の定義を広く解釈すれば、現時点で最大400万人を超える移民が日本で暮らしているという現実が浮かび上がる。日本はすでに「移民大国」なのだ。

◆政府の欺瞞

 政府はこれまでことあるごとに、専門的・技術的労働者は受け入れるが、単純労働者は受け入れない、としてきた。あるいは「移民政策はとらない」とも言ってきた。安倍内閣も含め、これが政府の建前だ。ところがこれが全くの欺瞞というべき代物なのだ。実際に増やしたのが、単純労働者としての技能実習生や留学生だったからだ。

 表向き修学目的で受け入れてきた留学生。これが実態としては労働者として働いている。留学生は職種の制限はないものの、就労時間が週28時間に制限されている。従って低処遇アルバイトしかできない。

 また日本で技術を習得し、帰国後に自国の発展に貢献するとの建前で受け入れてきた技能実習生。これは就労資格扱いされていないが、実態として低賃金・非熟練の単純労働者として働かされている。いはば日本人の非正規労働者に連なる、低処遇で不安定な労働に従事させられているのだ。

 著者曰く。日本では「いわゆる単純労働者を受け入れない」という建前を維持しつつも、現実の労働需要に応えるためにフロントドアのほかにサイドドアを機能させるという道が選択されてきた。その結果が日系人とその家族、研修・技能実習生、留学生たちの急増である。」(P89)

◆思惑と作為

 ざっと見てきたように、これまでの日本の外国人受け入れ政策は、欺瞞に満ちていたものだった。その欺瞞の上塗りをするのが、今年4月から受け入れが始まった「特定技能」(1号・2号)での外国人労働者の受け入れだ。

 「特定技能」は、技能実習生からの移行を想定して創設されたものだ。ただし特定技能2号になると家族の呼び寄せや永住まで視野に入ってくる。選択肢が増えるのはよいが、もともと出稼ぎのつもりで働きに来るケースが多いので、永住者がどれだけ増えるかは想定が難しい。結果的に、不安定・低処遇の雇用が延長されるだけに終わる公算も大きい。

 これらの不安定・低処遇の外国人労働者の増加は自然現象ではない。政治的意図によるものだ。その意図というのは、企業の要請、政府の法制度による管理された移民政策に他ならない。

 冒頭で触れた特定技能による外国人労働者の雇用計画。介護・外食・建設業・農業など14業種で5年間で34万人、初年度で最大47000人という見込み数は何なのか。業界が欲しい人数の積み上げという以外にない数字だ。

 現に、日本旅館協会、全国農業会議所など、政府のヒアリングに招待された7業種の業界団体の要望もある。対象14業種の業界団体は、所管官庁に人手不足の窮状を訴えてもいた。これらの業界について、人材会社幹部は「企業はリーマン前も今も雇用の調整弁としての人材を欲している。」(朝日新聞18・10・28)と身も蓋もない証言している。

 企業は、人手不足が深刻な業界での賃金上昇を恐れているのだ。低処遇・不安定な外国人労働力の受け入れは、それ自体がコストダウン策になるし、人手不足の業界を中心とした上昇気味の日本人労働者の賃金・処遇に対して下落圧力にもなる。ひいては企業・産業ピラミッドの頂点に位置する大企業にとってもコストダウンになる。ここに経済界・業界の要請の本意があるのだ。

◆対抗行動へ

 この構図は、かつて人件費の高コスト体質からの打破を掲げた財界による非正規労働者拡大の思惑と軌を一にしたものだ。

 技能実習生制度が導入された1993年頃は、財界が企業の高コスト体質への警戒感を深め、賃金や社会保障給付の抑制を叫んでいた時期に重なる。また、今に至る非正規労働者の拡大への転換点になった、日経連(現経団連)による「新時代における日本的経営」という提言を発表した時期(1995年)とも重なっている。

 要は、外国人労働者を含む非正規労働者の拡大という現実は、企業・財界あげてコスト削減策を強化していた時期のことで、そうした政官業の思惑と作為なくして起こりえなかったことなのだ。

 本書の著者は移民問題を扱うジャーナリスト。東大卒後経産省に入省、その後グーグルなどを経て現在ウェブマガジン『ニッポン複雑紀行』編集長だ。外国人労働者の流入は、当面、増え続けるだろう。その現場に近い場所から新たな「移民国家日本」の現住所の実態をレポートしてくれる。

 本書は在留外国人に関する立体的かつ平易なスケッチになっていて、記述も読みやすい。とはいえ、戦略的な対抗策は読者に委ねている。思惑と作為あるところに対抗策はある。外国人労働者を包摂した連帯と闘いの重要性と緊急性も浮かび上がる。例によって、それは私たちの課題ということになる。(廣)


 書籍紹介『日朝関係史』関周一[編](吉川弘文館)

●はじめに

 本書は二〇一七年刊と、比較的新しく編集されただけあって「近年の研究成果を盛り込みつつ、各時代の特性を浮き彫りにする構成」(同書「はじめに」より)となっています。

 また「日朝関係史独自の時代区分」として、高句麗・百済・新羅および統一新羅までを「古代」、高麗および朝鮮王朝前期・中期を「中世」、朝鮮王朝中期・後期を「近世」、朝鮮王朝末期・大韓帝国・植民地期(日帝期)を「近代」、植民地からの解放後を「現代」としています。

 今回はその中でも「植民地期」から「現代」にいたる歴史、とりわけ今問題になっている「徴用工」や「日韓条約」をめぐる経過について見てみたいと思います。

●戦時下の徴用工

 朝鮮の植民地支配は、「武断政治」、「文化政治」、「総力戦」に区分され、その最後の「総力戦」の時代に「徴用工」や「慰安婦」の問題は起きました。

 「一九三七年七月、盧溝橋事件をきっかけに中国との戦争は、中国大陸全土に拡大していく。」日本帝国主義は、日本の本土と植民地に「総力戦体制」を敷いていきます。

 「朝鮮人の計画的な労務動員は、一九三七年九月に労務動員計画(第一次)が閣議決定されたことに始まる。同計画は、日本人兵士の出征で不足した国内労働力を補うため、本国と植民地を通じた労働者の移動と再配置を定めようというものだった。朝鮮では、民間企業による集団募集(一九三九年~)、朝鮮総督府の外郭団体たる朝鮮労務協会を介した官斡旋(四二年~)、令状による徴用(四四年~)へと動員方式が変えられた。ただし、このことは動員の主体が民から官へと移っていったということでは必ずしもない。初期の集団募集段階から、企業から派遣された募集員は募集地域の割り当て・人員募集など、多くの点で現地警察官や面官吏に依存していたからである。

 そして、日本本国の職業紹介所のような労働力再配置システムが十分に整備されていなかった朝鮮では、いきおい労務動員は強制性を帯びるようになった。朝鮮人労務動員が「強制連行」と呼ばれるのもそのためである。約七〇万名の朝鮮人が、多くは労働条件を十分に伝えられないまま日本に送り込まれ、炭坑・金属鉱山などで働かされた。朝鮮人の労働条件は過酷で、労働者の逃亡や集団争議も日本人より高い比率を示した。」(同書「戦時動員と皇民化」より)

●未払い賃金

 一九四五年八月一五日、日本の敗戦すなわち朝鮮の植民地からの解放をむかえると、徴用工を含む朝鮮人の多くは、帰還を始めますが、その際労働者の未払い賃金の問題が浮上します。というのは、多くの雇用主は過酷な現場からの逃亡防止のためもあって、賃金を退職時まで払わず強制貯金としていたからです。

 「朝鮮人が喜びや希望だけを感じていたわけではない。多くの強制動員された朝鮮人労働者は、給与や預貯金等が未払いであった。なかには未払い金の支払いを求めて企業や行政当局に抗議する人々もいた。」(同書「帝国の「分離」、帰還と引き上げ」より)

 「解放直後、朝鮮への帰還援助、相互扶助、民族教育などを目的とした朝鮮人の組織が日本各地に自然発生的に作られた。一九四五年十月、それらの組織を結集して在日朝鮮人連盟(朝連)が結成された。帰還に際しては、帰還者名簿の作成、証明書の発行などのほかに、労働者の未払い賃金や慰謝料などの補償金の支払いを事業主に求め、日本政府にはその交渉の斡旋を求める運動などを行なった。」(同書「解放直後の在日朝鮮人」より)

 この時に、未払い賃金の支払いを受けることができなかった朝鮮人労働者が、その後の徴用工の補償問題につながっていくことになります。

●サンフランシスコ講和条約

 朝鮮戦争さなかの一九五一年、サンフランシスコ講和条約が結ばれると、その「第四条」に基づき、アメリカの仲介で日韓国交正常化交渉(日韓会談)が始まりました。

 「当初はサンフランシスコ講和条約発効までの妥結が目指されたが、財産請求権問題などで対立が激化して会談は決裂した。結局、一九六五年六月二十二日の条約調印まで一四年という長期にわたる交渉が行なわれた。

 日韓会談のおもな議題は、基本関係・財産請求権・文化財・在日韓人法的地位・漁業問題で、いずれも朝鮮植民地支配の処理に関連するものだった。交渉の過程では、植民地支配の責任の追及やその克服のための議論が正面からなされたわけではなかったが、日韓の対立の底流には常に植民地支配の問題が存在していた。

 植民地支配の処理をめぐってもっとも激しく対立したのは財産請求権問題においてであった。」(同書「日韓国交正常化交渉の開始」より)

●連合国の「植民地正当」論

 ところで、サンフランシスコ講和条約を主導していた連合国側は、「連合国自身が植民地支配を行い、植民地支配を正当なものだと考えて」おり、欧米の植民地主義は「最初から解放的性質を帯びるよう、人間の自由という基本的なものの考え方」を有し、戦後の旧植民地の自治と独立によりそれは「成就した」という考え方でした。そのため、日本の植民地支配の責任と罪を問わない立場に立っていました。

 「日本政府も、日本の植民地支配は「適法」で「正当」なもので、「各地域の経済的、社会的、文化的向上と近代化」に「貢献」したと認識していた(「慈恵論」「近代化論」)。」

「このような欧米諸国と日本政府による植民地支配「適法」「正当」論によって、日本の植民地支配の責任と罪を問わないサンフランシスコ講和条約第四条の「請求権」規定が形成された。日韓財産請求権交渉はこの「請求権」に基づいて行なわれた。こうして日韓財産請求権交渉において、植民地支配の責任と罪を不問とする法的構造が作り出されたのである。」(同上)

●「併合条約無効」論

 これに対して、五二年の「第一次会談で韓国側は「基本条約案」を提出し、「大韓民国と日本は一九一〇年八月二十二日以前に旧大韓民国と日本国とのあいだに締結されたすべての条約が無効であることを認識する」という条項の挿入を主張した。「韓国併合条約」は武力で強制されたものだから無効(null and void)だというのだった。」(同書「日韓国交正常化をめぐる対立」より)。確かに「併合条約」やそれに先立つ「保護条約」が武力の威嚇によって強制されたのは、消すことのできない歴史的事実です。

 こうして欧米植民地主義の「植民地正当化」論をバックにした日本と、同じく欧米国際法の「武力による条約=無効」論をバックにした韓国とは、条約交渉をめぐって激しく対立することになります。こうしてみると、今日「国際法」を盾にその「遵守」をせまる安倍政権に対して、韓国もまた「国際法」を盾に互角に対抗できている「構図」が見えてくるようです。

 「その後、日本側は「もはや」という字句を加えることを条件に「無効」を受け入れる妥協案を示した。この妥協案が六五年の第七次会談で再論されたのである。」(同上)

●朴独裁下の日韓条約

 日韓会談は、植民地支配・戦争被害の補償をめぐって対立が続きましたが、一九六〇年になると、「所得倍増政策」を掲げる池田隼人政権、韓国では四月革命で李承晩政権が崩壊し「経済第一主義」を掲げる張勉(チャンミョン)政権が樹立され、日韓会談が再開されましたが、翌六一年クーデターで朴正煕(パクチョンヒ)政権が成立しました。

 「朴正煕政権下では、東北アジアでの日本中心の地域経済統合をめざすアメリカと、輸出市場の確保を狙う日本、「輸出指向型工業化戦略」のもとで経済開発を目指す韓国の利害が一致し、日韓会談妥結の環境が整えられた。六二年十一月の大平正芳外相と金鐘泌(キムジョンピル)中央情報部長の会談で、日本の有価証券、日本系通貨、戦時下朝鮮人未払い賃金などの財産請求権問題が「経済協力」によって処理されることになった(大平・金合意)。

 韓国ではそうした日韓会談を進める朴正煕政権に対して、学生、知識人、野党、言論が、一八六四年と六五年に大規模な反対運動を展開した。」(同書「日韓国交樹立」より)

 こうして一九六五年六月に「日韓条約」が締結されました。

 「財産請求権協定では、無償供与三億ドル、政府借款二億ドル、民間商業借款三億ドル以上の提供が約束された。しかし、植民地支配・戦争被害の真相究明や謝罪、補償については明記されず、日本軍「慰安婦」・強制動員被害者・在韓被爆者など「過去の克服」は未解決のまま残されることになった。」(同書「日韓国交樹立」より)

●民主革命と河野・村山談話

 その後、一九八〇年代の韓国民主革命によって、朴独裁化の日韓条約のあり方が問い直されるようになり、一方日本の側も「河野談話」「村山談話」によって植民地支配と戦争被害についての謝罪と補償に踏み出すことになったのは、記憶に新しいところですので、同書の叙述を一つ一つ紹介するのは、あえて省略します。

 この流れにブレーキをかけたのが、「植民地支配正当論」を蒸し返し、「大日本帝国の復権」を夢見る「歴史修正主義者」や、「慰安婦=捏造」のプロパガンダを展開する「否定論者」の面々でした。その筆頭の一人が安倍晋三首相であり、韓国市民に疑惑の感情を抱かせ、今日の日韓関係悪化に至らせた責任者であることを忘れてはなりません。安倍政権が錦の御旗のように唱える「国際法」が、実はどのような紆余曲折を辿ってきたか、同書で基本的な論点を押さえておく必要があると思います。(松本誠也)案内へ戻る


 読書室 佐々木隆治氏著『[増補改訂版]マルクスの物象化論―資本主義批判としての素材の思想』 社会評論社 2018年12月刊行

○マルクスによる哲学批判と「実践的・批判的」構えの「新しい唯物論」とは何かを解明し、素材代謝を展開する「素材の思想家」としてのマルクス像を明確に打ち出す○

 2011年12月、一橋大学の岩佐茂氏と島崎隆氏の指導を受けた佐々木氏の博士論文に若干の加筆・修正を加えたものとして初版は出版された。そして初版のあとがきにあるように、佐々木氏は博士論文の審査以来、一橋大学の平子友長氏の強い影響下にある。

 佐々木氏は博士論文審査以来、「的確な批判やアドヴァイスを頂き、研究の基本的な方向性を定めることができた。とくに晩期マルクスについての平子先生の解釈は非常に刺激的であり、アイデアの源泉の一つとなった」と書いている。その他、佐々木氏が大谷禎之介氏には物象の人格化への、後藤道夫氏と渡辺憲正氏には物象化論と疎外論への、木下武男氏にはマルクスの労働組合論への大きな示唆を頂いたと書いていることも特記しておく。

 その後、7年を経過して出版された増補改訂版は、この間の佐々木氏の思索の深まりに対応して初版時の物象化論の枠組みを、当初の①物象化②物神崇拝③物象の人格化から、①物象化②物象の人格化③制度および法律へと修正された。なぜならこの枠組みの変更を佐々木氏自身は物象化論の理論的意義をより鮮明にするものだと考えたからである。

 そのため、増補改訂版は初版の記述をこの観点から明確化する最低の修正をしつつ、不足分3つの補論を加えるものとなり、実に索引5頁を含む456頁の大著となっている。

 本書の目次は、以下のようなものである。

 序論
 第Ⅰ部 「実践的・批判的」構えとしての「新しい唯物論」
 第1章 マルクスの「唯物論」にかんする諸説
 第2章 マルクスにおける「新しい唯物論」
 第3章 哲学批判と「実践的・批判的」構えとしての「新しい唯物論」

 第Ⅱ部 物象化論の「実践的・批判的」意義
 第4章 物象化論の理論構成
 補論1「物象化論と『資本論』第Ⅰ部第1篇の理論構造」

 第5章 物象化と疎外
 第6章 物象化と所有
 第7章 価値の主体化としての資本と素材的世界
 補論2「マルクスの賃労働論」
 補論3「マルクスにおける労働を基礎とする社会把握」

 結 論 素材の思想家としてのマルクス
 あとがき
 増補改訂版あとがき

 私が佐々木氏に注目する理由は、何よりもその実践的な問題意識にある。佐々木氏には単なる物知りの「学者先生」とはまったく異なる明確な問題意識を持っているのである。

 それは、元々強い労働運動が存在せず、福祉国家ではなかった日本は、新自由主義に対する抵抗力が極めて弱く瞬く間に物質的再生産の基盤が破壊され、年功賃金と長期雇用慣行を軸とした企業主義的統合が解体し19世紀型の「野蛮」な労働市場が現れ、そして「3・11」以降は社会的再生産の破壊を一層加速させているとの切実な問題意識である。

 この状況の中で、佐々木氏はマルクスを読む実践的な意義を、マルクス理論の内容よりマルクスの方法に、つまり「新しい唯物論」という構え、方法論に見出したのである。

 そして佐々木氏が出した結論とは、「マルクスが長い苦闘の末に獲得した理論的把握は」…、「資本主義的生産様式にかんするもっとも基礎的な認識を与えてくれるのであり、資本主義によって引き起こされたあらゆる諸矛盾の解決を思考するさいの理論的基礎となりうる」…勿論「マルクスが言ったように理論によっては世界を変えることはできない」が、「理論は有効な実践のための条件や方向性を示してくれるという意味で、実践にとって不可欠である」、「そのような意味で、資本主義的生産様式の矛盾がグローバリゼーションのもとで非常に多様な形態をとって噴出している現在、マルクスの経済学批判の実践的意義はむしろ増していると考えるに至った」というものである。まさに私も同感である。

 大部なので読み切れない人には、3つの補論を読むショートカットの読書を薦めたい。

 紙面の関係で詳説できないが、疎外論から物象化論を吹聴する廣松氏と商品形態論を振り回す宇野氏への佐々木氏の批判は、実に的確で本書の圧巻とも呼ぶべきものである。

「概念がないところへ、丁度言葉がやってくる」とファウストの名文句であるが、これらマルクスの重要な概念を正確に把握できない人々には、2人の言葉が良く嵌るのである。

 まさに「後生、畏るべし」とは佐々木氏を評する言葉である。私とは二回り差である。

 今後の佐々木氏には、増補版改訂版あとがきにあるように、是非とも「『資本論』第2部及び第3部の全体、そして現代の思想及び経済学を射程に収めた研究」を成し遂げていただきたいものである。今後の佐々木氏の一層の精進に大いに期待したい。

 ここでは、2017年6月の臨時増刊号『現代思想』「『資本論』150年マルクスの思想」に掲載された佐々木氏の「サミュエルソンの罠―現代『マルクス経済学』批判序説―」は、「転形問題」を論じつつ、「利潤率の傾向的低下法則」を否定する「置塩の定理」に代表される理論と現代「マルクス経済学」がいかに「均衡論」アポローチに毒されているかを、マルクスの経済学批判の独自性、つまり経済的形態規定の把握の重要性の観点から批判したものである。

 そしてここでも論じられているフーコーについては、佐々木氏はすでに2016年1月出版の『危機に対峙する思考』の第三部第六章「新自由主義をいかに批判すべきか―フーコーの統治性論をめぐって」を書いている。佐々木氏はこのように自分の研究の実績を着実に積み上げていることを皆様へ紹介しておきたい。

 確かに約5千円の本ではあるが、佐々木氏の主著である。是非一読を薦めたい。(直木)


 本の紹介 「郷愁漂う国 ルーマニアとブルガリア」 著者 ジョージ石井

 この本は、著者である石井さんの旅の様子が書かれています。

 石井さんの略歴ですが、1993年80歳の父と72歳の母と初めての海外旅行を体験して以来、重い「旅病」になり、ルーマニアは78か国目、ブルガリアは79か国目です。

 ルーマニアは、1878年独立、1947年王制を廃止し人民共和国を樹立、ルーマニア社会主義共和国としてワルシャワ条約機構とコメコンに加盟しましたが、自主外交路線を歩みます。1965年以来チャウシェスク独裁体制が続きましたが、1989年政権は崩壊しました。

 チャウシェスクの私邸は、「春の宮殿」と呼ばれていました。チャウシェスクは、1989年12月25日に民主革命派によって公開処刑されました。ここでチャウシェスクは、妻と3人の子、5人で住んでいました。執務室には立派な机と装飾された椅子や本棚があったと。次の部屋では、天井からはシャンデリアが吊り下がっていたと。3つ目の部屋は、応接間で大きなテーブルを囲む立派な椅子、高級家具と絵画があり次は家族の食事場所で、ピアノが置かれていたと。庶民の生活は苦しいのに、チャウシェスクは豪華な生活をしていたことになります
。1989年にチャウシェスク夫妻は公開処刑されましたが、長男のヴァレンティンは現在70歳核物理学者、長女のゾヤは肺がんで2006年死去、次男のニクは肝硬変で1996年死去、長男以外は共産党の役職についていました。石井さんは、ウルグアイの「世界でいちばん貧しい大統領」ホセ・ムヒカのようなリーダーがいないと世の中がよくなることはないと。

 1989年のルーマニア民主革命の舞台である、ルーマニア国営テレビ局では「革命の中心になった救国戦線は、まずテレビ局を占拠し、ブカレストの現状を電波に乗せて全国の人々に伝えた。革命派が放送局を押さえたことによって、一般市民は現実に何が起こっているかを知り、内戦の中でも、ひるむことなく行動できたという」

 チャウシェスク家族のぜいたくとは裏腹に、庶民は食料品や日常品の著しい不足、省エネによる電力制限や電気料金の大幅な値上げで苦しんでいました。このような中独裁体制を打倒しました。日本でも安倍政権を倒さないといけないと思います。

 次にブルガリアですが、5世紀以降中央アジアにいた遊牧民のブルガール人とスラブ人が侵入し、ブルガリア王国が成立。14世紀後半から500年間オスマン・トルコに支配され、ロシア・トルコ戦争の後、1878年自治権を獲得します。1944年ソ連に降伏し共産党の政権になり王制廃止、東欧諸国の民主化の流れの中で共産党体制が崩壊、1990年ブルガリア共和国に名称を変更しました。

 ブルガリアの寿命は74・6歳でEUでは最低です。その原因として現地案内人のオルリンさんは、「ブルガリア料理はたくさんの塩分を使うので、脳疾患や高血圧の病気が多い。国民の半数近くは喫煙者で、化学者である妻も煙草を吸う。交通事故も多い。一番の問題は医療水準が極めて低いことだ。07年のEU加盟で、有能な医者や看護婦は海外に出て行った。公立病院は老巧化して設備も古いから医者に行かない。まともなのは眼科だけだ」

 ブルガリアの大統領は、任期は5年で国民の直接投票で選ばれ、軍の最高司令官や国家安全諮問会議の議長も兼ねます。現在は2016年の選挙で社会党(旧共産党)のラデフが大統領です。聖ニコライ・ロシア教会は1920年代、ロシア革命後にブルガリアに避難した多くのロシア移民の精神的拠り所となった歴史を持っています。ロシアとトルコの戦争(1877年~78年)では、薩摩藩の山沢静吾という日本の軍人が参加していたと。

 国立歴史博物館での第二次世界大戦の状況は、ブルガリア人はナチス・ドイツに加担したが5万人いたユダヤ人を保護したと。リラの僧院のツアーでは、「10世紀、イヴァン・リルスキという僧が隠遁の地として修道院を建てた。13世紀に王や貴族の寄進を受けて発展。写本やイコンの製作など中世キリスト教文化の中心になる。14世紀末にオスマン・トルコの支配を受けたが、辺境の地であることから黙認された。ブルガリア全土から僧が集まる。1833年の大火事で、僧院の大半が消失したが、国民の援助を得て修復された」

 ソフィア・シナゴーグというユダヤ教の宗教施設、建設は1909年で1170人の信徒を収容できると。

 石井さんは本の最後に、「機内で次の旅を考えたり川柳を考えながら・・・」と書いています。次の旅の本も期待しています。石井さんのメルアドは、hqg04202@yahoo.co.jpです。(河野)案内へ戻る


 郵便局職場より ノルマやパワハラで自死まででる郵便局職場! これらに抗していこう!

 かんぽ生命の不正販売問題が、多くの人に衝撃を与えました。しかも、調査が進むほどに、被害者はまだまだ増えていきそうです。  

 郵便局は、全国で2万4千店舗あり、最も身近な金融機関として多くの人に愛されてきました。

 かんぽ生命の保険の不正販売で多いのが、保険の「二重加入」と保険の「乗り換えの空白」。

 「二重加入」とは、それまで加入していた保険をやめて新しい保険に入り直すときに、前の保険を半年以上加入したまま新しい保険に入るというものです。通常は新しい保険に加入したらすぐに前の保険を解約しますが、かんぽ生命の場合、半年以上二重契約をさせておきます。それだと、郵便局員の募集手当は半分に減額されず、満額もらえます。それと、「乗り換えの空白」とは、保険に入り直すときに、まず前の保険をやめさせ、3ヶ月以上ブランクを空けてから新しい保険に入るというもの。

 これも、新しい保険に入ってからすぐに前の保険を解約するよりも、郵便局員の募集手当は半分に減額されずに満額もらえます。ただ、前の保険をやめてから3ヶ月の間に病気を発症し、次の保険に入れない無保険者が続出して大問題となっています。

 こうした一連の不正を、郵政グループ幹部は、郵便局員個人の責任にしてきました。しかし、果たしてそうでしょうか。

 不正募集の原因は、過大なノルマであり5年前にスタートした渉外社員(かんぽ募集社員)の基本給12%カットと、それを営業手当の原資とした賃金体系です。

 職場の管理者は社員に、「どうやって目標を達成するつもりだ?出来ないことは許されないぞ!」「目標に対して〇〇円不足しているからやりきれ!」と言います。

 このノルマ至上主義の体質が変わらない限り、今後もこういうことは起きると思います。

 現場から怒りの声をあげていきましょう。

 3月5日、大阪のある郵便局で、集配の仕事(手紙の配達)に従事する29歳の男性が就業時間中に自らの命を絶ちました。彼は一般職として採用され、この4月に入局4年目を迎えるはずでした。

 一般職というのは5年前に新設された雇用区分で、正規雇用ではあるけれど従来の正規雇用に比べると賃金が低いです。限定正社員の郵政版です。非正規雇用から登用されるケースが多いのだけれど、彼は新採として入局していた。

 彼は仕事がよくできるというタイプではなかったそうです。彼が働くフロアには3人の管理者がいるが、そのうちの2人は過去にパワハラ事件を起こしています。そのひとりは「俺は自分がやったパワハラを会社が認めてくれてると思っている。なんでや言うたら最終的には〇〇に栄転させとるからな。だから俺はパワハラしてもええて会社に言われとるんや」と日ごろから広言していたといいます。

そんな管理者たちに彼は、通常の勤務時間内に郵便物を配りきれず超勤になってしまうことや仕事上のミスをよく怒られていました。。
「お前はいったい何ができるんや? どんだけ周りに迷惑をかけているかわかってんのか?」

そんな言葉をくりかえし浴びせかけ、次にミスしたら進退を考えるという内容の書面を書くことも強要していたと言います。

そうして、3月5日、彼は交通事故を起こしてしまいました。バイクで配達していたのだろうか。前方を走行する車両に追突、ウインカーを破損。双方に怪我はなく、物損事故でした。

その数時間後に、局舎の中で首を吊りました。

 また9年前の2010年12月、当時郵便配達員だった方は、勤務局の4階窓から飛び降りて亡くなりました。年賀はがきの販売ノルマ達成や時間内の配達を執拗(しつよう)に求められ、苦しんだ末の自殺でした。

 「今日も昼ご飯が食べられなかった」。職場では残業を減らすよう求められたが、慣れない道で配達が思うように進まないと悩んでいました。交通事故などのミスを起こした局員は「お立ち台」と呼ばれる台に上がり、数百人の局員の前で謝罪させられました。 毎年、年賀はがき7千~8千枚の販売ノルマが課せられ、金券ショップに転売する同僚もいたが、転売は禁止されており、真面目な彼は「俺にはできない」。

 彼は次第に笑わなくなり、休日も外出しなくなりました。心療内科では、うつ状態と診断されました。休職と復職を3度繰り返し、毎年異動希望を出したが、上司からは「病気を治さないと異動させられない」と告げられました。

 女性と子ども3人は13年12月、夫が自殺したのは仕事上の心理的負担による精神障害が原因として日本郵便を提訴。会社側は「業務と死亡に因果関係はない」と争う姿勢を示したが、16年10月、異動希望がかなわなかったことや自殺に至ったことに遺憾の意を示した上、解決金を支払うことで和解が成立しました。

 愛知県新城市の郵便局に勤務していた同県豊川市の男性(当時47歳)が自殺したのは、年上の部下によるパワーハラスメントなどが原因として、男性の遺族が5日、日本郵便(東京都)を相手取り、約1億1300万円の損害賠償を求める訴えを名古屋地裁に起こしました。

 まさに郵便職場は、過大なノルマやパワハラなどで自死する人や精神疾患、早期退職に追い込まれています。

 私も弱い人間なので、それらの予備軍であることを自覚しつつ、こんなひどい状況を変えたいと考えています。(郵政労働者A) 案内へ戻る


 コラムの窓・・・ 布靴を並べる

 11月19日の朝9時過ぎ、東京・芝公園23号地。東京タワーを見上げる広場で無数の布靴を並べる作業に加わりました。その集まりは遺骨発掘70周年記念と銘打たれた「第2回中国人俘虜殉難者日中合同追悼の集い」で、強制連行・強制労働の犠牲者の靴を並べ、追悼を行うものでした。案内状には次のように書かれています。

「中国では身内が亡くなると、遺族が靴(布靴)を用意し、それを死者に履かせて弔う習慣がる。しかし、異郷で無念の内に亡くなった強制連行犠牲者は、その靴を履くことさえかなわなかった。数字としての『6830』ではなく、一人一人の死が積み重なった『6830』人の命の重みを、私たちも少しでも実感できればと願っています」

 ちなみに、案内状には10年前に行われた第1回の靴並べの写真が載せられていました。おびただしい靴の列が軍国主義日本により強制された理不尽な死に、怨嗟の声をあげているように見えました。だから、次の機会にはぜひ私もその空間に身を置きたいと願っていました。

 今回、その願いが実現し、差別と排外にまみれたこの国の気分に染まることを拒む思いを新たにしたところです。かえりみれば、4万人近
い中国人が第2次世界大戦末期に大陸から強制連行され、全国135カ所の鉱山や港湾などで奴隷労働を強制され、外務省報告書に記されただけでも6830人に及んでいます。

 70年前の1949年8月、秋田県花岡で遺骨が発掘され、53年から64年にかけて2300体余の遺骨が返還されました。しかし、日本政府は責任をとることなくすべては〝解決済み〟として、死者の無念も遺族の苦難も顧みようとはしていません。

 前日の18日午後、西浅草「運行寺」(なつめでら)での「殉難者慰霊碑維持活動交流会」にも参加しました。中国から持ち帰った実から育った棗の大樹がある運行寺は遺族の方々に棗寺として親しまれているとのことです。

 交流会で報告された石川県七尾の強制労働の実態は、399人中15人死亡、64人失明という悲惨なものでした。

①狭くて不衛生な宿舎(倉庫の転用の建物、湿気多い、トイレ不足、洗面できない)
②長時間の港湾に荷役の重労働(船からの荷揚げ、倉庫へ運ぶ、貨車積み)
②食糧不足、栄養不足(毎食マントウ2個の食事、たんぱく質や野菜不足)

 こうした事実の重みに比して、敗戦後のこの国の上辺だけの反省、上辺だけの民主主義、そしてニセモノの主権者。この泥沼から抜け出すために必要なのは、死者のかなえられなかった帰還、失われた人生に思いをいたすことではないでしょうか。 (晴)


 「エイジの沖縄通信」(NO.68/最終号)・・・「香港」と「沖縄」の民意

 香港の区議会選挙の結果について、26日の「東京新聞」は次のように報じた。

 『香港の区議会議員選挙(18区で452議席)は、民主派が452議席中、議席の85%を獲得し圧勝した。「民主派」は前回120議席から今回388議席に、「親中派」は前回293議席から今回59議席に、「その他」は前回18議席から今回5議席となった。改選前に7割近くの議席を占めていた親中派は惨敗。抗議デモに強硬姿勢で挑む香港政府と中国の習近平指導部に対し、香港の民意がノーを突き付けた。民主派が過半数を獲得したのは、1997年の中国への香港返還後初となる。投票率は前回(2015年)の47%をはるかに上回る71%。中国返還後に実施された立法会(議会)選、区議選のいずれの記録も更新し、過去最高となった』

 香港の抗議行動には大学生を始め、高校生・中学生等の若者たちも参加し、その激しい抗議行動は5ヶ月に及んでいる。

 連日何万人という香港市民がデモに参加し抗議行動を展開。次第に激しさを増す警察の暴力弾圧に屈せず抵抗する若者たち。テレビで連日その激しい闘いを見ていて心が揺さぶられた。

 私は、現地の連日のデモの様子を見ていて気がついた事がある。それは、香港のデモ参加者たちの自主的な行動力である。

 デモ活動の中で、警察部隊からの激しい放水や催涙弾をあびて、当然怪我人や支援物資の不足等が起こる。すると、デモ隊の皆さんが長い人間の列を作り、必要な「水や食料や薬等」をバトンタッチしながら必要な場所に運ぶ、また怪我人に対してもすぐに皆で助けに行き、声の伝達で医師の派遣を要請する姿を見ていて、沖縄の辺野古等の闘いの現場(皆で闘い、皆で助け合う)と全く同じだと感じた。

 若者たちが香港理工科大に立てこもり、大学周辺で学生らが1200人以上も逮捕され、もしかしたら「区議会選挙」が延期されてしまうのではないか?と懸念されていた。

 しかし、若者たちから「デモが区議選延期の口実として使われる」との懸念の声があがり、ネット上でも「区議選に向けて過激な行動を控えよう」との「一時休戦」を呼びかけるメッセージが飛び交ったと。「勇武派」メンバーも「仲間たちと相談し、区議選があるこの機会に、少し休むことにした」との事である。

 こうした市民全体のまとまりが、今回の「区議会選挙」での勝利につながったと感じる。

 この全体のまとまりこそが運動の継続となる。皆さんもご存知のように「オール沖縄」を実現したのは、今は亡き翁長知事である。その後、沖縄も何度も何度も「オール沖縄」分裂の危機があったが、その都度翁長知事の言葉「腹6分の話し合いでまとまる」をして「危機」を乗り越え各種選挙に勝利して来た。それが政府の強権姿勢に負けないで闘い続けられる原点だと思う。

香港の区議会選挙結果について、中国の官製メディアは区議選の結果をまともに報道していないと言う。王毅外相も「香港は中国の一部分だ。香港を混乱させ、発展や繁栄を傷つけるたくらみは絶対に成功しない」との原則論を繰り返し、選挙への直接の言及を避けたと言う。

 こうした報道を聞いて、まさに沖縄と同じだと感じた。

 沖縄の皆さんも、辺野古工事反対の「民意」(自治民主主義)を、何度も何度も「沖縄の選挙」で示しているにもかかわらず、日本政府はまったくその「民意」を無視して国家権力(本土からも機動隊や海上保安庁や民間警備員等々を派遣する)で辺野古新基地建設を強行している。

 私は、香港の今の状況を見ていると「香港の民意(自治民主主義)と中国政府の強権姿勢との対立」と「沖縄の民意(自治民主主義)と日本政府の強権姿勢との対立」が同じに見えてしまう。

 いずれにしても、これからも私たちは香港の情勢から目を離せない。

 最後に、約5年間この「エイジの沖縄通信」を書かせて頂きました。今回の「エイジの沖縄通信」(NO.68)を持っていったん「連載」を終了させて頂きます。

 当然、沖縄の米軍基地問題等「その植民地状況」はまったく解決していません。多くの皆さんにその事を伝えていく事、「沖縄と本土のかけ橋」が私の役目だと思っています。 今後も、その事を忘れず不定期ですが「沖縄通信」を発信していきたいと思います。(富田英司)案内へ戻る


 読者からの手紙  安倍政権の隠蔽体質・強健姿勢に対抗する強固な運動を!

 これまで安倍晋三首相は「桜を見る会」の招待者の人選に関し、「そのとりまとめには関与していない」と明言してきたが、11月20日の参議院本会議で、「私も事務所から相談を受ければ、推薦者について意見を言うこともあった」と自らの関与を認めたが、虚偽答弁への謝罪はなく、国民の税金を使った「花見行事」を人気取りに利用した“私物化”を反省する様子さえ見せてはいない。

 くしくも11月20日、安倍首相の通算在職日数が憲政史上最長となり更新中であるが、国の借金財政は1100兆円を超え増え続け、非正規労働の増大と実質賃金の低下、増税など労働者市民への負担増は増すばかりである。

 安倍政権のこの間の実績は労働者市民にとって決してよいものではなかったし、政権維持のためには、今後も“アメとムチ”による負担増は続く。

 森友・加計問題もいまだに疑惑残ったままであり、安倍首相の『丁寧な説明』発言の裏に隠された隠蔽体質と沖縄県民の民意を無視した辺野古軍事基地建設や自衛隊明記の憲法改正策動などの強硬姿勢を許してはならない。

 安倍政権に対抗できる労働者市民の強固な組織運動を作り出し、集会・デモ・ストライキなどあらゆる大衆行動で巨大なうねりを作っていこう!(乙見田 慧)


 色鉛筆・・・北九州の学びを活かせる日々にしよう

 11月初旬、朝鮮半島に近い北部九州でワーカーズ総会と学習会を持ちました。昨年はワーカーズ会員が在住する東北の仙台で行ない、今年は会員在住の北部九州で、「日朝・日韓関係史」を学び散策する旅に参加しました。前日の夜に神戸を出発するフェリーに乗り、朝7時30分に新門司港に到着。日の出を船の窓から眺め、これからの4日間の企画に胸を弾ませていました。その後、バスで移動し車窓から町並みに見入っていました。

 今年は10月に何度も全国的に台風の被害があり心配していましたが、幸いにも好天に恵まれ、企画された見学場所にも無事辿り着くことが出来ました。現地ではワーカーズ読者の方にガイド役も務めていただき、充実した4日間となりました。初日の学習会が始まる前の時間に、小倉城と松本清張記念館を見学。城の展示物には子どもにも興味を持たせる参加・体験型のコーナーもあり、工夫が伺えました。

 北九州で生まれた松本清張は、半生をその地で過ごし、従軍記者として中国にも渡っていたことを知りました。館内には東京・杉並区の「仕事の城」を再現、ガラス越しに見える書斎には多岐にわたる書物が山積みとなっていました。探究心と知識の積み重ねが作品となって産み出される。まさに「全力で駆け抜けた巨人」と称されるに値する創作活動家だったのです。

 偶然にもこの時期、八幡では起業祭が行なわれており「日本製鉄八幡製鉄所戸畑熱延工場見学」を体験できました。工場内を送迎バスで移動し、目的地の熱延工場に到着。600メートルの工程を真っ赤に焼けた鉄板が、燃焼と冷却を繰り返しながら進むにつれて、だんだん薄く引き延ばされ完成していく・・・。その様は、人の一生を見ているようで、私の位置はどの辺りかなと思い鉄板に沿って歩いていました。

 翌日、車で4時間費やした佐賀県唐津市には、豊臣秀吉が朝鮮侵略の拠点とした「名護屋城」遺跡と博物館があり、秀吉の権力が九州最北端の地まで及んでいたとは驚きでした。わずか5ヵ月で築城され、当時の大阪城に次ぐ規模を誇った名護屋城。周辺には全国から参集した大名の陣地が130以上、人口20万人を超える城下町となって賑わったそう。

 秀吉の朝鮮侵略は李舜臣(イスンシン)水軍の活躍で、倭城の包囲戦となり、撤退を強いられましたが、その後、徳川幕府の謝罪と交隣要請の使者として朝鮮通信使が採用されました。文化交流は幅広く、宿舎では僧侶・儒生・医者・文人・画家が大挙し、夜を徹して熱心に交流した記録が残っているようです。私たちは、先人に学び、相手の国を尊重し真摯に向き会えるよう努力して行きたいと思いました。いい旅になりました。(恵) 

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