ワーカーズ605号(2020/4/1)      案内へ戻る

 非常時の権力集中化を監視しよう!――要警戒!の〝政治判断〟――

 新型コロナウイルスによる感染症の拡散が止まらない。

 各種イベントの自粛や小中高の一斉休校など、安倍首相による〝政治判断〟が繰り返されている。3月23日には小池百合子都知事が「都市封鎖」の可能性について言及し、3月24日には安倍首相らが東京オリンピック・パラリンピックの延期を決めた。

 海外でも都市閉鎖や出入国制限、外出自粛規制など、人の移動を制限するような規制が広範な国で実施されるような事態になっている。

 過去の経験を振り返れば、国家的非常時には行政権力、執行権力、要するに時の政治リーダーへの期待感や権限集中が高まる傾向にあった。迅速な意思決定や強いリーダーシップの発揮が必要な場面もあるからだ。が、強いリーダー像を演じることが目的化するようでは本末転倒だ。安倍首相の振る舞いでも、それが目立つ。

 日本でも3月13日、改正新型インフルエンザ対策特別措置法が与野党の大多数の賛成で成立した。これで「国民の生命・健康に著しく重大な被害を与える恐れ」があるなどと判断すれば、政府は「緊急事態宣言」を発出できる。これによって都道府県知事は、住民の外出自粛、施設の使用停止、イベントの開催制限などを要請・指示できるようになる。

 ただ今回の法改正でも、法的拘束力がない付帯決議に「事前報告」が盛り込まれるだけで、国会の「事前承認」は拒絶された。行政の暴走に対する歯止めはないのが実情だ。

 そうした強権発動は、他面で人権抑制、権利抑制という意味合いも持つ。極端な例だが、関東大震災時には、警察と連動したデマ・流言飛語による朝鮮人虐殺も引き起こされた。

 極端な例はともかく、自治体や警察などによる不当な人権侵害や越権行為は今後も起こりうる。緊急事態がより切迫すれば、もっと包括的な非常事態法制への声が高まるかもしれない。現に、感染症が拡がり始めたとき、自民党内から憲法でも緊急事態条項が必要だとの声も出た。改憲策動との結合の思惑がらみだった。今回の緊急事態宣言にも、将来の戒厳令、国家緊急権条項の事例研究とする思惑も垣間見える。

 感染症の今後の拡がり具合はまだ予断を許さないが、危うい方向に進みかねない「政治判断」には警戒を怠らないようにしたい。そうした場面では、個々人やグループ・団体の各レベルで異議申し立ての声を上げる必要もあるし、それを拡げて集団的・社会的な監視態勢づくりも欠かせない。(3・26 廣)


 揺らぐ〝法治国家〟――北朝鮮・中国化(?)する日本――

 このところ日本が〝法治国家〟から〝人治国家〟に変わってしまった、との声が散見される。

 最近では、黒川検事長の定年延長問題が国会で追求され、メディアで大きく報道されている。〝安倍一強政治〟が続き、〝法の支配〟がゆがめられる場面が増えているのだ。

 〝法治国家〟から〝人治国家〟への変容は、裏を返せば議会制民主主義が形骸化し、安倍独裁体制が形作られていることになる。それを支えている私たち有権者の見識と態度も問われている。

◆安倍首相のための行政秩序

 先の1月31日、検察ナンバー2の東京高等検察庁・黒川弘務検事長の定年延長が閣議決定された。検察庁法で検事長の定年は63歳となっていたが、それを65歳まで延長する、というものだった。国家公務員の定年延長規定が根拠だとされたが、その国公法改定時に人事院は「検察官に定年延長は適用されない」と答弁していたことが明らかになって、国会が紛糾した。

 慌てた安倍首相、2月13日に急遽「今般、国家公務員法の規定が適用されると解釈することとした」と、衆院本会議で法解釈の変更を答弁した。定年延長案件を、後付けで強引に押し通したのだ。

 なぜこんな事態になったのか。法務省官房長や事務次官時代も含めて黒川検事長は、かつて小渕優子元経産相や甘利明元経済再生担当相の立件を潰したり、森友事件での偽証や公文書改ざん事件を不起訴処分にするなど、安倍首相に近い疑惑人物をことごとく見逃してきたからだ。そうした捜査指揮は〝官邸の門番〟と揶揄されてきた。

 今回の定年延長は、その黒川検事長を安倍首相を守るために法務・検察トップの検事総長に強引に就任させるためだとしか思えないものだ。現に、「桜を見る会」で安倍首相が公職選挙法と政治資金規正法違反で市民団体から刑事告発されているのだ。

 これらは、自分の意向を通すために平然と〝ちゃぶ台返し〟を厭わない安倍首相の傲慢な態度の結果だという以外にない。

◆安倍首相の意思が法体系の上位に

 ただ、安倍首相によってこれまでの法秩序が歪められたのは、なにも黒川問題ばかりではない。

 2016年6月1日、安倍首相は、消費税の8%から10%への値上げについて、2回目の延長を公表した。法律で引き上げが決まっているのを「これまでの約束と違う新しい判断」だと強弁した。要するに、法律の規定より自分の判断が優先というわけだ。

 13年12月に成立した特定秘密保護法では、行政が特定秘密の適否を解釈・管理する。立法府に設置された情報監視審査会は、情報開示の強制力も無い形式的な機関でしかない。

 14年7月1日、現行憲法では認められないとしてきた歴代内閣の解釈を変えて、集団的自衛権を容認する閣議決定を強行した。その場面での13年8月、慣例を破って容認派で外務省出身の小松一郎を法制局長官に抜擢することで解釈変更を可能にした。

 16年6月、伊藤詩織暴行事件で被疑者の安倍首相と親密なジャーナリスト山口敬之逮捕が突然中止されたこともあった。中止命令を出したのは、当時警視庁刑事部長の中村格(現・警察庁長官官房長)で、管内閣官房長官の元秘書官だった。

 17年6月、加計学園問題で野党が要求した臨時国会の開催要求。憲法53条に明記された「内閣は開催を決定」するという義務を拒否し、結局、衆院解散をすることで最後まで無視を通してしまった。

 18年3月の森友事件での公文書改ざん事件、19年4月の「桜を見る会」での公文書破棄事件。

 そして黒川検事長の定年延長問題だ。

 黒川検事長の定年延長では「検察官は含まない」というこれまでの解釈・運用を、文書も残さない「口頭決済」で検察官を含むと変更してしまった。本来、法解釈は裁判所の仕事、それが行政内部での法解釈、しかも「口頭決済」となってしまった。なんというあべこべだろうか。国公法を所管する人事院も、また法制局も安倍首相の「新解釈」を追認するだけ。まさに法治国家は「タガが外れた」状態だ。

 改正新型インフル等特別措置法での非常事態宣言という行政への強権付与に際しても国会の「事前承認」は無し、結局、法的規制力がない同法付則での国会への「事前報告」に矮小化された。行政の自立化が際まれり、という以外にない。

◆〝増長〟と〝思い上がり〟

 安倍首相による法治国家、法体系の軽視はどこから来るのだろうか。

 根本的には、安倍政治の根底にある戦後政治の総決算――戦後民主主義の軽視――〝国家あっての国民〟という国家中心主義にあるのだろう。が、より身近に引きつけて考えれば、「安倍一強政治」の長期化による長期政権のおごり、からくるものだろう。

 実際、安倍首相は、小選挙区制での公認権や政党助成金の配分権、それに党役員や閣僚の人事権を握ることで党と内閣の権力を掌握した。また、内閣人事局による官僚支配で首相・官邸主導の行政を確立した。そうした「安倍一強政治」の国政選挙での連戦連勝だ。

 安倍首相は、選挙で連勝しているので、有権者の信任を受けている、という強烈な自負があるのだろう。増長や万能感を抱いても不思議ではない。だから自分の政権、自分の内閣がやることは、当然のごとく全て有権者の信任を受けているのだ、とでも考えるようになったのかもしれない。だから「私の説明は全く正しい。私は総理大臣なんだから。」(党首討論)などと発言できるのだろう。要するに、自分がやっていることは全て正しいのだ、自分こそが「法」なのだ、つべこべ文句を言うな、ということなのだ。

◆思い上がりが伝染

 党と官僚支配を完成させた安倍首相の態度は周囲にも伝染する。安倍首相取り巻き、いわゆる官邸官僚の増長だ。首相最側近の立場を盾にした、何でもできる、やっていい、という〝万能感〟を膨らませたわけ。

 いくつか挙げる。

 森友事件での「首相が言えないので私が言う」(和泉洋人補佐官)。安全保障政策での国家安全保障局との対立(今井尚哉秘書官・補佐官)、中山研究室への恫喝をはじめとする医療・健康分野での壟断(和泉補佐官)。北村 滋など内閣情報官による情報提供……。森友、加計事件など首相と昭恵夫人による身内優遇政治……。

 これらはいずれも安倍首相の取り巻き・側近として「安倍一強政治」を支えてきた面々だ。要は、安倍政権の危機管理請負人としての暗躍(森友・加計)であって、「汚れ役」「始末人」を必要とする安倍首相にとって欠かせない、頼りになる側近だったわけだ。

 当然、彼らは安倍首相その人のために献身的に暗躍してきたわけで、安倍独断政治と一蓮托生だ。逆に、安倍首相からすれば、自身の悪事や汚点を握られている。首相としても、取り巻きを迂闊に切るに切れない腐れ縁となっているわけだ。

◆議会制民主主義の礼賛

 そうした安倍首相の増長を許したのは、なにも安倍首相本人の責任ばかりではない。「人治政治」を招来したのは、学会・言論界・メディアを含めた議会制民主主義の過大評価・礼賛というこれまでの経緯だ。

 学会・言論界・メディアの多くは、議会制民主主義をほぼ手放しで肯定・礼賛してきた。ロシアや中国、そして北朝鮮などに代表される強権的な政治体制に対して、議会制民主主義は、他に変わるものがない、ほとんど唯一の民主的な政治体制だと手放しで擁護してきたからだ。

 とはいえ、議会制民主主義には根本的な欠陥がいくつもある。

 議会制民主主義は、傾向的に行政権の肥大化を必然的にもたらす。立法権・立法府の脆弱化は避けられない現実だ。特に日本の立法府は脆弱で、法案提出権は議会にもある(議員立法)が、大多数は行政府が提出(閣法)する。国会による国政調査権は、委員会決議を必要とする運用なので、事実上、議会多数派(与党)のみ保有しており、野党や野党議員の国政調査権は無いに等しい。

 安倍政権で成立した特定秘密法でも、特定秘密の指定・管理は内閣・行政府にあり、与党を含む立法府はほとんど関与できないのが現実だ。

 また、三権分立といっても、最高裁判所長官は「内閣の指名に基づき天皇が任命」し、最高裁判所判事の任命は「内閣が行い、天皇が認証」する。法務・検察トップの検事総長は行政官で、内閣が任命する。ここでも立法府としての出番はない。要するに、与党を支配すれば、行政権・行政府独裁が成立してしまうわけだ。

 同じような意味の発言は、これまでも聞こえてきた。菅直人元首相による「議会制民主主義とは期限を切った独裁だ」という発言も趣旨は同じだし、「今の日本の政治に一番必要なものは独裁」と言った大阪維新の会の橋下徹もそうだった。「数は力」「多数決」を多言する小沢一郎も同じだ。議会制民主主義に対するそれぞれの理解なのだろう。本来の民主主義・人民主権主義とは全く相容れないというのに。

 民主主義・人民主権主義を貫徹するには、立法府による行政のコントロール、ひいては国民・有権者による行政府のコントロールが不可欠なのだ。そのためには、議会の「白紙委任の代議制」から「拘束委任による派遣制」への転換が不可欠なのだが、そうした議論は全くといってよいほど行われていないのが現実だ。

◆安倍政権は退陣あるのみ

 「安倍一強政治」「人治国家化」を断ち切るのは、安倍政権を終わらせること、最終的には選挙で安倍政権を少数派に追い落とすこと以外にない。

 その長期にわたる安倍政権への高支持率だが、それも一皮むけば消極的支持に過ぎない。世論調査では「他の政権より良さそう」が大多数だ。その安倍政権を下支えしているのは、好調な経済、それも企業や株主にとっての好調・安定だろう。働く人々を始め、庶民の生活が改善された実感はないからだ。堅調な求人統計も、主因は労働力人口の減少の結果でしかない。とはいえ、目先の堅調な景気を根拠に安倍政治を許容している限り、「人治国家」化を押しとどめることはできない。

 この記事の副題「北朝鮮・中国化する日本」とは、法の上に党や自分を置く中国や北朝鮮との類似点を皮肉っただけ。が、中国や北朝鮮を毛嫌いする割に、安倍政権も両国に似通ってきた。とはいえ、現実の日本はまだ中国や北朝鮮とは違う。安倍政権は選挙の洗礼を受けざるをえない。

 私たちひとり一人、あるいは様々なグループ・団体・組織を通じた日常的な闘いを土台として、国政選挙でも安倍政権を退陣に追い込んでいきたい。(廣)案内へ戻る


 コロナ危機は「公衆衛生行政」軽視の結果だ!

●スペシャルオフィサーはどこへ?

 『感染列島』という映画(二〇〇九年上映)をご覧になった方は、檀れい演ずるWHO派遣のスペシャルオフィサーが、感染患者で溢れる医療現場で指揮を取る姿をご記憶のことだろう。あのスペシャリストのモデルは、実際にパンデミックで活躍した日本人医師だったという。あれから十年、今のWHOからそうしたスペシャリストが現地に派遣された話は伝わってこない。かわりに伝わってくるのは、テドロス事務局長の頼りない発言ばかりだ。いったいWHOはどうなってしまったのか?

●医療現場はパンデミック経験を継承

 実は各地の公的医療機関の医療従事者は、今回のコロナ危機に比較的冷静に対処している。二〇〇三年のSARS、二〇〇九年の新型インフルエンザ、二回のパンデミックを実践的に経験し、そのノウハウは中堅職員に継承されているからだ。「あの時は白いテントを張って防護服を着て診療したよね」と、当時の体験を思い返しながら、今回はどこが同じでどこが違うか、各自が頭の中で描きながら、院内の対策会議に臨んでいる。保健所や環境科学研究所(衛生研究所)の職員も同様だろう。人数が削減された職場では、過密な業務に悲鳴を上げながらも、やはり当時の経験が身についている職員が現場を守っている。

●官邸・厚労省・専門家会議がバラバラ

 混乱しているのは地方ではなく、むしろ国レベルの方である。「全国一斉休校」や「中韓入国規制」など安倍首相のスタンドプレイが目立つが、「首相官邸とりわけ首相補佐官と官房長官、官房副長官の間がギクシャクしている」と評論される。

 専門家会議は半月遅れで発足したが、「感染のピークを遅らせるシミュレーション」なる二本のグラフが出てきたり、「クラスター」や「オーバーシュート」なる新語(その中身は別に新しい概念ではない)が登場する割には、具体的な方針が伴っていない。「感染症学の権威」かもしれないが、パンデミックの実践経験がどれだけある面々なのか?

 厚生労働省は「専門家会議のデータが当てにならないから」(と評論家は言う)厚労省独自のデータを非公式に大阪府と兵庫県に伝え、府県境の往来自粛を要請する有様である。

●実践経験が国レベルで継承されていない

 他方、パンデミック当時の現場で活躍した専門家達の多くは、海外の大学の客員教授になったり、医療ジャーナリストに転身したりしていて、今回の政府の対応で「外野」から批判を上げている。ところが「外野からの批判」に耳を傾けるどころか「偏向報道」と圧力をかけることに官邸の側近達は躍起になっている。

当時の専門スタッフが別の分野で活躍しているのは悪いことではない。問題は彼らの実践経験が国レベルで継承されていないことなのだ。各省庁に感染症対策の教育機関を設置し、彼らを必要に応じて講師として採用し、手順書に沿って訓練を重ねていれば、今回のような右往左往は避けられたはすだ。

●公衆衛生軽視のツケ

 かつて公衆衛生行政は国の重点施策のひとつだった。

 死因のトップは「結核」であり、全国各地に国立や自治体立の結核療養所が設置され、感染症専門の医師や検査技師が、保健所を拠点に現場を走り回っていた。「コレラ」や「赤痢」「チフス」もそうだ。急速な工業化で低賃金労働者が集中し、不衛生で劣悪な労働環境、生活環境のもとで患者が苦しんでいたからだ。

 ところが疾病の中心が「生活習慣病」に移り、「少子高齢化」に関心が向くようになると、厚生省(現厚労省)は一転、保健所の統廃合に舵を切った。厚生省のキャリア組は、出来レースの「会議」を招集し、その席で保健所長や保健婦に対して「保健所は役に立っているのですか?」と質問し「さらし者」にするようなことまでやった。そんな傲慢のツケが今まわってきたのだ。

 自治体の保健所は統廃合され、公衆衛生の拠点としての機能は低下した。伝染病専門病院も廃止され、かろうじて自治体病院の感染症病棟として併合されたがベッド数は減らされた。保健局(衛生局)所管だった環境科学研究所(地方衛生研究所)は、環境局(清掃局)に移管され、または地方独立行政法人化された。

 長年の公衆衛生行政の軽視のツケ。しかし、そんな中でも自治体の専門スタッフは生き残り今日に至っている。幸か不幸か人事異動の範囲が自治体内だったからだ。

●何も学んでいない!

 二〇〇三年の「SARS」や二〇〇九年の「新型インフルエンザ」は、こうした公衆衛生軽視に反省をせまる転機であったはずだ。だが国は何も学んでいなかった・・・。

 「アメリカのCDCのような大規模研究所がなぜないのか?」との問いに「WHO頼みでやってきたので」と無意味な言い訳が出てくる(『日経新聞』記事より)。今頃になって「日本版CDCを検討する」とか言うが絵に描いた餅である。

 「病院船を建造しよう」とか「この機会に憲法に非常事態条項の議論を」とか「病院にオンライン診療を」とか、検討はずれの提案ばかりが飛び交う。
WHOが頼りなくなったのも「中国が介入してきた」とか「アメリカが手を引いた」せいだけではない。WHOの有力な支え手の日本自身が、公衆衛生を空洞化させてきたからではないのか?

 繰り返し言う。地方は頑張っている!感染症ベッドを削減され、保健所を統廃合され、衛生研究所の人員を減らされ、それでも歯を食いしばって、二度のパンデミックの実践経験をもとに苦闘しているのだ。その経験を中央省庁に還流するだけで良いのだ!

 国は目を覚ませ!それができないなら、官邸も厚労省も専門家も交替してもらうだけだ!(松本誠也)


 安倍首相の時代錯誤な「感染症観」

●「人類が打ち勝つ証し」?

 安倍晋三首相は三月十六日のG7首脳テレビ会談のあと、五輪開催について「人類が新型コロナウィルスに打ち勝つ証しとして、完全な形で実現することでの支持を得た」と表明し、さらに「コロナウィルスは大変手ごわい相手だが」「国際社会でともに戦えば、必ず打ち勝つことができる」と記者団に話したという(『日本経済新聞』三月十七日付け夕刊)。

 ウィルスを「人類が打ち勝つべき戦いの相手」ととらえる安倍首相の「感染症観」は、現代医学におけるウィルスの知見を全く無視したもので、「時代錯誤」も甚だしい。

●動物宿主との共生が常態

 そもそもウィルスは「人類を打ち負かせる」ために、どこからか「来襲」するようなものではない。ほとんどの場合、各種のウィルスは野生動物と共生しているのが、自然な常態である。何万年の人類史の中で、人間が野生動物を飼育し、家畜として触れ合う中で、人間にも感染するが、多くの場合は長い期間を経て、人間の側にも免疫機能を生じさせて、新たな共生関係に移行してきたのである。

●生態系の攪乱が疫病の原因

 ところが、狩猟対象の野生動物から飼育される家畜へ、さらに飼育主体の人間へと、宿主を替える過程で、ウィルスの変異が起こり、人間に疾病を引き起こすことがある。人間が少数の集団なら、その疾病は限られた地域の「風土病」として、やがてその地域の人々は免疫を獲得する。人間の数が多数で密集していたり、他の集団との接触機会が多いと、感染が拡大し「疫病」に至る。ウィルスと宿主の安定した生態系が攪乱されることが根本原因だ。

●家畜の大規模化と都市の過密化

 「疫病」の発生しやすい環境は、野生動物の乱獲や家畜・家禽の大規模飼育により、ウィルスの変異が頻繁に起こることや、人間が大都市で過密に居住することで感染を一人歩きさせることによって作られる。人類が農業や牧畜で大規模な食糧生産を行い、その剰余生産物を基礎に都市社会を築くようになった結果として、いわば文明の副産物として「疫病」は必然的に生じてしまうのである。

●「敵との戦い」ではなく「公衆衛生」

 小規模な社会集団では少数の感染により疾病が生じ、長い期間によって免疫を獲得し、それによって人間はウィルスと生物宿主との生態系に適応してきた。大規模な家畜から過密な都市の人間への感染は、そのスピードが急激すぎるため、免疫の獲得が間に合わず、集団感染を引き起こす。だから、自然免疫を補うためにワクチンの接種で対応するしかない。また過密な生活行動を中断し感染を遮断し、不衛生な水や空気の環境を浄化する公衆衛生措置が必要になる。その本質は「戦い」などではなく「公衆衛生」なのだ。

●感染の「拡大」と「収束」とは?

 ウィルスは日々DNAやRNAを変異させながら、宿主との共生関係を維持する習性を持っている。その変異は、感染性を強める方向へも弱める方向へも、また病原性を強める方向へも弱める方向へも、あらゆる角度で行なわれている。だからある時ある地域に爆発的に感染が蔓延し甚大な被害をもたらしたかと思えば、ある時からは「潮が引くように」感染が収束するのも、ウィルスの変異の仕方が刻々と変わっているからである。感染の「収束」もウィルス側の生態的事情によるもので、人間が「打ち勝った」からでは必ずしもない。人間にできるのは感染の「拡大」から「収束」の過程で、いかに感染から受ける影響の「規模」や「程度」を抑えるかということでしかない。

●「祝勝会」としてのオリンピック?

 ところが安倍首相は、こうした疫学の基本的な認識を理解せず、「人類とウィルスとの戦いに打ち勝つ」と息巻いている。この「感染症観」こそが、これまでの場当たり的でちぐはぐな対策の根底であったと言わざるを得ないだろう。「ウィルスに人類が打ち勝つ証しとしてオリンピックを完全な形で開催する」などという問題の立て方は、本末転倒も甚だしい。むしろ感染危機への対策上、オリンピックの開催が適切かどうかを、疫学的見地から判断することこそが、公衆衛生行政の責任者としての首相の役割である。

●すべて「戦いに打ち勝つ!」発想

公衆衛生の見識からすれば全く見当外れな「人類とウィルスとの戦い」等といったスローガンを煽る安倍首相は、そもそも感染危機に限らず、その政治信条が「戦いに打ち勝つ」発想から来ているように思われる。「憲法9条改正」に固執するのも戦前の「大日本帝国の栄光」において「植民地主義」を「文明と未開との戦い」ととらえてきた前時代的思想に立脚している点で、同根であるとも言える。コロナ危機の対応過程で右派の喜ぶ「非常事態宣言」や「中国からの入国拒否」に異常にこだわる傾向も、そこにあると思われる。その意味では安倍首相は、感染対策(公衆衛生行政)のリーダーとしては、決定的に資質に欠けるといわざるを得ない。(松本誠也)案内へ戻る



 読書室 大谷 禎之介氏著・前畑 憲子氏編集『マルクスの恐慌論:久留間鮫造編『マルクス経済学レキシコン』を軸に』桜井書店 2019年10月刊

○マルクスの恐慌論の神髄を?むために「久留間・富塚論争」での論争点に学ぶ。私たちは『資本論』を如何に読み、また如何に読んではならないかを知ることが出来る!○

 本書は『マルクス経済学レキシコン』恐慌編における久留間氏のマルクス恐慌論理解を基軸にして、現代社会の恐慌及び産業循環を理論的に解明せんと努力してきた論者達の既発表論稿のアンソロジーである。特に久留間氏の戦前の、ほとんど入手不能の高田博士への二つの論考と雑誌に掲載された「久留間・富塚論争」に関わる二つの論考が本書に収められていることは私たち後進には本当にありがたい。

 ここで「久留間・富塚論争」に触れておけば、本書のまえがきにも「補説:『久留間・富塚論争』について」の概説があるように本書全体と大きく関わる論点が提示されている。

 この論争は、恐慌は『資本論』全3巻の中の何処で、何が、如何に解明されたかに関わるものである。その論点は二つ。一つは、『資本論』第2部第3篇の再生産論がマルクス恐慌論の中で如何なる位置にあり、如何なる意味を持つのかであり、もう一つは、如何なる制限をも突破して生産諸力を無限に発展させようとする資本の衝動と資本主義的生産様式の下での分配関係によって限界づけられた消費の制限とのいわゆる「内在的矛盾」は『資本論』の何処で論じられているのかであった。すなわち論争は、結局の所、マルクスの「内在的矛盾」は『資本論』第2部第3篇で論じられているか否か、に絞られてきたのである。

 論争の一方の当事者の富塚良三氏は、第2部第3篇の再生産論でマルクスが果たすべくして果たし残した必須の課題は資本の過剰蓄積を検出するための「基準」を明確にすることだとして、自分は「均衡蓄積率」及び「均衡蓄積軌道」を析出してマルクスの課題を解決した。さらにマルクスの再生産論からは読み取れない「恐慌の必然性」の解明にとって再生産論が持つ意義も自分が明確にしたのだと論争の中で主張したのである。

 他方、もう一人の当事者の大谷氏は『マルクス経済学レキシコン』「恐慌Ⅰ」での久留間氏の見解に基づき、「『内在的矛盾』の問題を『再生産論』に属せしめる見解の一論拠について」(第7章)を発表して、マルクスの恐慌論は『資本論』第3部で論じられているのである、と当初富塚氏に反論していた。この反論は、本書の「第1部『マルクス経済学レキシコン』恐慌篇を編む」における久留間氏の恐慌論理解を大前提としており、更に加えて富塚氏の質問に答えた論文「恐慌論体系の展開方法について(1)・(2)」と、特記すれば「『マルクス経済学レキシコン』「恐慌Ⅲ」の編集にあたって」に依拠して行われたのである。

 この論争全体の仔細については本書全体を読むしかないが、本書の構成は以下の通り。

目次
第1部『マルクス経済学レキシコン』恐慌篇を編む
第1章『マルクス経済学レキシコン』「恐慌Ⅰ」をめぐって(大谷禎之介)
第2章『マルクス経済学レキシコン』「恐慌Ⅱ」の編集にあたって(久留間鮫造)
第3章『マルクス経済学レキシコン』「恐慌Ⅲ」の編集にあたって(久留間鮫造)
第4章『マルクス経済学レキシコン』「恐慌Ⅳ」の編集にあたって(久留間鮫造)
第2部マルクスによる恐慌・産業循環の理論的展開を跡づける
第1篇資本の流通過程における恐慌の可能性の発展
第5章高田博士の蓄積理論の一考察(久留間鮫造)
第6章高田博士による蓄積理論の修正(久留間鮫造)
第7章「内在的矛盾」の問題を「再生産論」に属せしめる見解の一論拠について(大谷禎之介)
第8章恐慌論体系の展開方法について(1)(久留間鮫造)
第9章資本の流通過程と恐慌(大谷禎之介)
第10章恐慌論体系の展開方法について(2)(久留間鮫造)
第11章『資本論』第2部第3篇の課題と恐慌論との関連についての一考察(前畑憲子)
第12章「betrachtenすべき」は「再生産過程の攪乱」か「第3部第7章」か(大谷禎之介)
第13章再生産論と恐慌論との関連をめぐる若干の問題について(大谷禎之介)
第14章「単純再生産から拡大再生産への移行」についてのエンゲルスの書き入れをめぐって(前畑憲子)
第15章いわゆる「拡大再生産出発表式の困難」について(前畑憲子)
第16章「ではけっしてない(nie)」か「でしかない(nur)」か(大谷禎之介)
第2篇 資本主義的生産の矛盾と恐慌
第17章利潤率の傾向的低下法則と恐慌(前畑憲子)
第18章「利潤率の傾向的低下法則」と「資本の絶対的過剰生産」(前畑憲子)
第19章利潤率の傾向的低下法則と恐慌(前畑憲子)
第20章『資本論』第3部第3草稿の課題と意義(宮田惟史)
第3篇信用と恐慌
第21章「マルクス信用論」における草稿研究の意義(小西一雄)
第22章 マルクス信用論の課題と展開(宮田惟史)
第23章『資本論』の恐慌・信用の理論と現代(小西一雄)
あとがきにかえて(前畑憲子)
あとがき(大谷禎之介)
「学問的に、だからまた実践的に」:追悼 大谷禎之介先生(前畑憲子・小西一雄・宮田惟史)

 この論争では、富塚氏は久留間氏の反論になかなか納得せずに「公開質問状」を提示するとの異例の展開になってしまった。「公開質問状」には再生産論と恐慌論との関連、均衡蓄積率の概念等、恐慌の必然性があげられていたからである。この論争はまさに「神々は細部に宿る」を地で行く展開とはなった。その中で数々のことが明確になったのである。

 残念ながら詳細は、紙幅の関係で本書の記述に譲り、ここでは省略する他はない。

 その中で最大の収穫は、この論争の最中に『資本論』第2部のエンゲルス版の注32が明確になったことが上げられる。すなわちこの注の中で「次のAbschnitt」とあるのは、従来は『資本論』第3部と考えていた久留間氏だったが、マルクスの原文を精査した結果、それは第2部第3篇であること、しかもそれは富塚氏の見解を確証する結果ではなく、事態が大逆転することであった。それは従来はnieと読んでいたマルクスの悪筆の原文が、本当はnurと読むべきものだったことが判明したからである。これによってこれまで読んできた『資本論』のこの部分の文章の意味がまったく正反対になってしまったのである。

 その意味においては、本書は従来からの久留間氏の恐慌論見解の論拠を一部変更したものとはなってしまったが、訳文を正確にしたことでエンゲルスの編集過程により隠されてしまっていたマルクスの見解を、より一段と丁寧で精緻な説明を展開をしたものになっているのである。

 すなわちこの読み取りの変更によって、これまでの「生産の諸力能は、価値がそれらによってより多く生産されうるだけでなく、実現もされうる、というように充用されることはけっしてできないが」との文章は、「生産の諸力能は、ただ剰余価値がそれらによって生産されうるだけでなく実現もされうるかぎりでしか充用されえないが」との文章へと訂正されたのたが、この読み替えによる新たな訳文が新たに持つに至った意味については、第16章で解明されている。

 このことに関連して「第16章『ではけっしてない(nie)』か『でしかない(nur)』か」をさらに詳しく紹介しておこう。第16章はその表題の他、副題に「マルクスの筆跡の解析と使用例の調査によって」を持ち、本文の展開は1 問題の所在 2マルクスの筆跡 3マルクスの使用例、そしてむすびとなっている。さらに【補説】が3つもついている。そして【補説3】では10頁を費やして、新訳文の意味を解説している。

 すなわち大谷氏は、従来の訳文では一方で如何なる制限をも突破して生産を拡大していこうとする資本主義的生産の傾向を示唆する箇所と、他方でそれを限界づける資本主義世界の消費制限を述べた箇所とがあって、この注32の中に両者の対立・矛盾を、したがっていわゆる「内在的矛盾」を読み取ることができたのだが、新訳文では資本主義社会特有の消費制限が、生産諸力能の充用を限界づけ、制限していることの指摘はあっても、諸制限を突破して生産諸力能を発展させないではいない資本主義的生産の傾向については何も書かれていないとした。すなわち従来の論争の焦点となっていたいわゆる「内在的矛盾」については何も書かれていないことになる。

 こうしてこの注32に依拠してマルクス自身がいわゆる「内在的矛盾」は第2部第3篇で論じられるべきだと言明している、と主張してきた大谷氏自身の旧説(本書第7章)は、今や論拠を完全に失ったと総括しているのである。何という誠実な態度であろうか。読者の皆様にはぜひ精読を期待したいものである。

 本書は770ページの大著であるが、マルクスの恐慌論を研究するには必読書である。

 最後に昨年4月に死去した大谷氏の経歴を紹介して故人を偲びたいと考える。

 大谷禎之介氏は、一九三四四年生まれで久留間鮫造氏の指導の下、『マルクス経済学レキシコン』編集に関わり、国際マルクス=エンゲルス財団編集委員(一九九二~二0一九年)、経済理論学会代表幹事(二00一~二00七年)の活動をしながら法政大学名誉教授(二00五~二0一九年)であり、惜しまれつつ二0一九年四月二九日に死去した。(直)案内へ戻る



 『新しいウィルス入門』武村政春著(講談社ブルーバックス

 今回の新型コロナ危機では、根拠のあいまいな様々な言説が飛び交っていて、何が正しいのか戸惑うことも多い。そんな中この本は「そもそもウィルスとは何なのか?」初歩的な理解から、「ウィルスの起源」をめぐる論争まで、わかりやすく紹介してくれる。

●ウィルスは生物ではない?

 まずウィルスとは「生物ではない」というのは、ウィルスはRNA(ものによってはDNA)をタンパクの殻が覆っているだけで、自ら増殖することができないためだ。増殖するためには、他の生物の細胞に「吸着・侵入」し、その細胞の器官の力を借りて、「脱核・合成・成熟」というプロセスで自ら増殖し、やがて細胞から「放出」される。細胞に寄生しなければ増殖できない点では生物ではない。しかしながら、RNAやDNAが主役として活動する点では「限りなく生物に近い」ともいえる。単なるアミノ酸などのような生体物質とは違うのである。

●ウィルスの種類と疾病

 風邪の症状を引き起こすウィルスの大半は「ライノウィルス」と呼ばれる。これは普通の風邪の原因となる。

毎年冬場に形を変えて流行するインフルエンザを引き起こすのは「インフルエンザウィルス」である。「A型」「B型」が代表的だが、A型には亜型があり「H1~H16」、「N1~N9」と多種多様であるため、その年の流行するウィルスの型が予想しづらく、ワクチン接種の効果があったりなかったりする。二〇〇九年の世界的流行(パンデミック)を引き起こした「新型インフルエンザ」もこれらの変異したものである。

 二〇〇三年の「SARS」は「SARSコロナウィルス」と呼ばれる。今回の「新型コロナウィルス」も同じコロナウィルス科に属する。
 この他、天然痘の原因となる「ポックスウィルス」や、エイズの原因となる「ヒト免疫不全ウィルス(HIV)」、エボラ出血熱の原因となる「エボラウィルス」などがある。

●ウィルスは生物と共存

 どんなウィルスも野生動物と共存している。家畜や家禽の場合も同様である。人間という動物も例外ではない。このように動物と共存共栄しているウィルスが、何かのきっかけで他の生物と接触し、変異を起こしたとき、その変異のあり方によっては「感染症」を引き起こし「病原体」と位置づけられるのである。

 その動物は、コウモリの場合もあれば、牛や豚や鳥の場合もある。人間との接触が小規模であれば「風土病」に留まる。しかし、野生動物の大量捕獲(乱獲)や家畜・家禽の大量飼育、それを行なう人間が大規模な集落や都市に集住している場合に、「風土房」の枠を超えて「疫病」として社会全体に被害をもたらすのである。

 なお今回の新型コロナの震源地は不明だが、一説には漢方薬の原材料となる野生コウモリの乱獲が関係しているのではないかとの憶測も聞かれる。ただ仮にそうだとしても、武漢市の住民に感染するには、何らかの「中間宿主」が必要なはずだが、それは解明されていないと『ニューズウィーク』の記事は述べている。

●ウィルスの起源をめぐる論争

 ではこのように不思議なウィルスの起源はどこにあるのか?これについては諸説様々であるが、代表的な説は三つあるそうだ。

 第一の仮説は、もともと細胞だったものが、細胞膜やリボソームなどの細胞小器官を失って、RNAとタンパクの殻だけになってしまった、というものだ。細胞でなくなったウィルスは、他の細胞に侵入することで増殖していくしかなくなった。

 第二の仮説は、細胞内の自己複製分子(プラスミド)が細胞から飛び出して独立した、というものだ。細胞から外に出たウィルスは、再び他の細胞に入り込むことで、増殖するのだという。生物学者で『週刊文春』にも登場する福岡伸一氏は、この説をとっているようだ。

 第三の説は、細胞が発生するよりはるか以前に「RNAワールド」と呼ばれる世界があり、そこで細胞とは別個にウィルスが発生したという説だ。その後、それぞれ別個に発生したウィルスと細胞が、お互いに関係し合うようになったという。著者の武村政春氏は、どちらかというとこの説にシンパシーを抱いているようだ。

 ウィルスは生物の進化に重要な役割を果たしてきたとも言われる。こうしてウィルスの存在形態のほとんどは、生物との共存共栄なのであり、人間社会によるウィルスと生物の生態系の攪乱によって、ウィルスは「病原体」として扱われる存在になるのである。(松本誠也)案内へ戻る


 新型コロナウイルスを知る本の紹介

★はじめに

 新型コロナウイルスの感染者が24日、世界全体で40万人を超えて、さらに拡大のペースが急加速している。ついに、7月に開催予定の東京オリンピック・パラリンピックも1年程度延期することになった。

 世界保健機関(WHO)のテドロス事務局長は「今や欧州がパンデミック(世界的大流行)の中心地となった」と表明したように、3月は欧州の感染拡大が急加速した。

 日本国内でも感染拡大が進む中、感染の不安を抱える市民の苛立ちが各場所で目立ち始めている。前川喜平さんは東京新聞の「本音のコラム」の中で、「新型コロナウイルスの拡大に伴い社会全体に不寛容が広がっている」「不寛容を払拭するためには、科学的根拠に基づく正確な情報が必要だ」と指摘していた。

 そんな時、図書館で石弘之さんの『地球環境危機の報告/いまここまできた崩壊の現実』という本を見つけ読んでみた。「目からウロコ」であった。

 この本は2008年に書かれたもので、世界各地の環境問題の現場を訪ねる「地球環境ウォッチャー」として40年間、約130カ国で調査した報告書である。

 この本は基本的に地球環境問題を取り上げたもので1章~10章で構成されている。

私の目が止まったのは「第8章/新型ウイルスの脅威・・・環境の変化が生んだ感染症」のところである。

1.人間とウイルスの闘い

 私が注目した「第8章/新型ウイルスの脅威」ところの内容を詳しく紹介したい。

 「今なお人類を脅かしつづける病原体の多くは、私たちが引き起こした環境の変化によって出現したものだ」「森林が切り開かれて農耕定住社会が成立するとともに環境は大きく変わり、集団で住むようになって伝染病は一挙に拡大した。人間の伝染病の多くは動物がが保有する細菌やウイルスに起源があり、家畜と一緒に生活するようになって動物の伝染病が人間社会に深く根を下ろした」

 「さまざまな病気を引き起こすウイルスの存在がわかってきたのは、19世紀末からだ。人類史上もっとも多くの犠牲者を出したウイルス病は、天然痘である。古代ローマでは人口の4分の1を死滅させた。18世紀にはヨーロッパだけで5000万人が死亡した。1796年にイギリスのエドワード・ジェンナーが種痘を発明して、はじめてウイルス感染症と闘うことが出来るようになった」

 「1885年にルイ・パスツールによって狂犬病ワクチンがつくられ、ウイルス感染の予防の道が開かれた。1950年代以降ウイルス研究は大きく前進し、ポリオやハシカなど多くのウイルスが分離され、それぞれにワクチンが開発されて、予防できるウイルス感染症が増えてきた。世界保健機関(WHO)は1980年5月8日に天然痘の根絶を宣言した」

2.「エマージングウイルス」の登場

 ところが、翌年の81年になると医学最先地の米国で、後天性免疫不全症候群(エイズ)の流行があり、20世紀後半に入り、病原性の強い新顔や装いを変えた古顔のウイルスが次々に出現するようになる。

 「現在知られているウイルスは約4000種。このうち、人間に病気を起こすのは150種ぐらいだ。これらのウイルスは、それぞれの自然宿主と長い時間をかけて共存してきた。地上には未知種を含めて少なく見積もっても、約3000万種(さまざまな推定がある)の生物が生息しているとみられる」

 「WHOと全米科学者協会は1993年、新たに出現して社会的に大きな影響を与えている感染症を『エマージング(新興)感染症』と、克服されていると信じられていたものがふたたび息を吹き返して急速に広がっているものを『リエマージング(再興)感染症』と名づけて、世界的な監視を呼びかけた」

 「エマージング感染症のなかでも、ラッサ熱、エボラ出血熱といった『エマージングウイルス』と呼ばれるウイルスが引き起こす病気が、とくに感染力も死亡率も高い。1950年代末からこれまでに約40種が知られている。これらのウイリスはヤギ、ヒツジ、ウシなどの家畜や、野ネズミ、コウモリ、野鳥などの野生動物が保有するウイルスに由来するものが多い」

 「ウイルスは何回か変異を繰り返すうちに、宿主から飛び出して他の種に乗り移り、うまく定着できるものが現れる。一般に、ウイルスは種を飛び越えて感染すると凶暴化し、多くの人命を奪うキラーウイルスに変身することが知られている」

「重症急性呼吸器症候群」(SARS)の原因となったコロナウイルスの仲間が、これほど恐ろしい病気を人間に引き起こすという認識はそれまでまったくなかった。それが、動物から人間に跳び移ったときに、凶悪になったのがいい例である」

3.人間の生態系撹乱とウイルスの爆発

 「エマージングウイルスが世界各地に出現した過去半世紀は、環境破壊が世界的に急拡大してきた時期と一致する。人口の急増や経済の拡大に伴う、森林の伐採や開墾、鉱工業施設の拡大、都市の膨張、大規模開発などの人間活動によって、生態系が混乱に陥った。たとえば、天敵のワシ・タカ類が激変することで、伝染病を媒介するネズミなどの動物が大発生する。森林伐採で餌を失ったコウモリが、里に出てきてウイルスをばらまく。といった具合だ。人間が自然を傷めつければ、自然は必ず何らかの報復をする」

 「森林の奥深くで動物と共生していたウイルスが、開墾によって追い出されて集落や都市に侵入すると、人間の社会は巨大なウイルスの培養器となって流行を爆発させる。そして都市間を結ぶ航空機や船舶で、短時間に大量のウイルスが世界中に運ばれていく」

 現在、私たちは「新型コロナウイルス」の世界的な感染拡大を経験しているが、石弘之さんが指摘するように、新しい「エマージングウイルス」の登場と世界の都市を結ぶ航空機や船舶等によってウイルスが世界に拡散されていく。

 私たちは、この「新型コロナウイルス」危機をどう乗り越えていくのか?

 なおその後、石弘之さんの新しい本を探したところ、「感染症の世界史/人類と病気の果てしない戦い」(2014年・洋泉社発行)という本が発行されている。

 こちらも是非参考にお読み下さい。(富田英司)案内へ戻る


 何でも紹介 ・・・郵政ユニオン・郵政に働く非正規社員の均等待遇と正社員化を求める労働契約法20条集団訴訟

①差別・不条理には声を上げよう!

 日本国憲法第14条では平等原則を定めると同時に平等に取り扱われる権利ないし差別されない権利という個人的・主観的権利(平等権)をも保障しているが、資本と労働者との階級社会(資本主義社会)での労働現場では、労使対等は名ばかりであり、働く者にあっては、非正規と正規労働者が存在し、賃金差別や不安定雇用が行われ、格差・差別が公然化し、団結権や争議権等の労働基本権さえも制限されている。
 現在、日本における非正規雇用労働者は、全労働者の約4割を占めており、非正規雇用労働者の賃金水準は正規雇用労働者の65%程度といわれている。

 格差是正を進めるとの政府の言葉とは裏腹な現実は、「同じ仕事をしていても、正社員と非正規の待遇差は一向に改善されていないのが現実だ」。

雇用形態を変えることによって「賃金や労働時間等」に格差をつけ低賃金層を増やして、利潤を得ようとする行為は「平等権」と矛盾し、労使間交渉や格差是正のための「声」によって法制化が行われてきた。

 労働契約法20条(2013年4月に施行された。)はパートや契約社員など有期契約で働いている人と、正社員など無期契約で働く人との間で、仕事の内容や責任などが同じならば、期間の定めがあることを理由に、賃金や福利厚生などの労働条件に不合理な差をつけることを禁じているが、現実的にはこの「不合理の差」を縮めるには、多くの「声」をあげて問題視し、要求を実現していかなければならない。

 しかし、非正規の組織率は低く、泣き寝入り状態であり、問題を挙げても裁判例も少ないために、正社員と非正社員の不合理な待遇差は縮まらず、「不合理な差」は縮まらなかった。

 2018年6月の最高裁判決は、非正規のトラック運転手に対し、無事故手当▽作業手当▽給食手当などを支給しないことが不合理だとする指針(ガイドライン)を先取りした判決が出され、手当については是正する動きがおこり、労働契約法20条が禁じる正社員と非正社員の不合理な待遇差は縮められて、働き方改革実行計画の中に、同一労働・同一賃金の立法化が盛り込まれた。

 「同一労働同一賃金」関連法の整備では、短時間労働者及び有期雇用労働者の雇用管理の改善等に関する法律【「パートタイム・有期雇用労働法」同一企業内において、正社員と非正規雇用労働者との間で、基本給や賞与などのあらやる待遇について、不合理な待遇差を設けることが禁止。合わせて何が不合理かを具体的に示した指針(ガイドライン)をまとめた。】が制定され、2020年4月1日大企業に、来年4月から中小企業にそれぞれ適用・施行されることとなった。

 関連法では手当の目的に応じて不合理かどうかを判断することをはっきりさせ、さらに指針で、通勤手当や食堂利用など非正社員にも必要なものは、待遇差を認めないとした。一方で、指針は基本給や賞与については、職業経験や能力などに基づく違いを認めるとし、「業績への貢献に応じて支給する場合、貢献に応じた部分について正社員と同じように支給しなければならない」などとしており、どこまでの待遇差なら許容されるかが依然としてあいまいだし、依然として「待遇差」は残している。

 ②郵政ユニオン・均等待遇と正社員化を求める労働契約法20条集団訴訟

 このような経過の中で、2月14日、札幌・東京・大阪・広島・高知・福岡の各地裁(長崎は18日提訴)に、日本郵便の有期契約社員と有期契約から無期契約に転換した社員(原告は全員で154人)が正社員との格差是正を求める訴訟を起こした。

 日本郵便では、正社員と非正社員の間で賞与や祝日手当の支給額に大きな差があるほか、住居手当、年末年始勤務手当、扶養手当などは正社員だけに支給されている。原告側は、労働契約が無期か有期かで不合理な格差をもうけてはいけないとする労働契約法20条に違反するとして、損害賠償を請求し、請求額は計約2億5千万円。

 日本郵便を被告とする訴訟は、2014年に「郵政20条裁判」として行われており、東日本3人、西日本8人、合計11人の原告が立ち、住居手当、年末年始勤務手当、扶養手当、夏期・冬期休暇、無給の病気休暇などの格差は違法と、東京・大阪・福岡の各高裁で判決が出ている。一部で原告の請求が認められたが、地裁や高裁では賞与の差を不合理だとした判決はないので、現在最高裁判所で係争中であるが、「パートタイム・有期雇用労働法」の4月施行を目前にして改めて訴訟を起こしたのである。

 日本郵便の正社員は約19万3千人。非正社員は無期契約に転換した社員も含めて約19万2千人(日本郵政グループ各社における期間雇用社員とは、同社グループにおいて非正規雇用の労働契約を締結した社員を指す通称である。ゆうメイトともいう。)非正社員が約半数を占める大企業である。

 正社員が定年までフルタイムで働くことを前提とした「無期雇用」であるのに対し、契約社員は契約期間が決まっている「有期雇用」の非正規社員。つまり、正社員と大きな違いは「有期雇用」であること。 労働契約期間は通常1年で更新され、契約期間が満了した時点で、契約を継続する場合も、継続終了する場合もある。

 会社側による格差と差別は、職場でかつての正規職員(現在の正社員)が非常勤を差別し蔑視した挙句、暴言を吐いて恫喝したり、集団でのいじめ行為を行うなどの、セクハラ・差別問題も発生していた。

 近年においても差別の風土は根強く残る上、全国各地で訴訟が頻発している。

 また、正社員登用をちらつかせるなどして、自社の商品の購入を非常勤に押し付ける、いわゆる「自爆営業」の強要や、雇用における待遇差別が同一労働・同一賃金の原則に反するものがあるとして、たびたび労働裁判となっている。

 原告が加入する郵政産業労働者ユニオンの日巻直映・中央執行委員長は14日の会見で「地裁、高裁の成果を広げる闘いだ」と今回の集団訴訟の意義を強調したが、日本郵便をめぐる一連の訴訟が企業現場に与える影響は大きく、郵政職場だけでなく全ての非正規労働者の権利拡大のためにも必要な闘いなのである。

 憲法で明記されている“平等権”すら反故にされている現状を打開し権利を獲得するには、多くの非正規労働者が団結し、自分たちの力強い意思で活動・闘いに立ち上がるのみである。(光)案内へ戻る


 コラムの窓・・・ハンセン病というこの国のやまい!

 3月23日、朝刊に厚労省が「ハンセン病元患者家族の方々に対する補償制度が創設されています。」という告知がありました。厚労相の心からのお詫び、判決受け入れにあたっての安倍総理談話、補償金の支給等にに関する法律前文が記載されています。

 ハンセン病家族国家賠償請求訴訟の原告勝訴判決が熊本地裁で下されたのは昨年6月28日、安倍総理談話が出されたのは同7月12日でした。新たな見解を明らかにすることなく、古証文のようなものを掲載する神経には呆れます。しかも、談話には未練がましく「今回の判決では、いくつかの重大な法律上の問題点がありますが、・・・」などと述べています。

 さて、「らい予防法」が成立し、全患者が隔離対象となったのは90年近く前の1931年でした。敗戦後の53年にはらい予防法の新法が成立しましたが、新憲法を裏切る人権無視の隔離政策は維持され、これが廃止されたには96年4月でした。ちなみに、強制不妊を強いた旧優生保護法も48年から96年まで猛威を振るいました。

 患者さんたちが熊本地裁に裁判を提起したのは98年7月、勝訴判決が2001年5月、当時の小泉首相は控訴を断念し、6月には元患者本人を対象としたハンセン病補償金支給法が施行されています。さらに09年には差別解消をなどを目的としたハンセン病問題基本法が施行されていますが、一片の法で国家が長くばらまいてきた差別・偏見はなくなるはずがありません。

 さらに、患者家族の皆さんが16年に熊本地裁に提訴、その判決が昨年6月28日でした。さらに驚くべきことですが、特別法廷というものがありました。これは、もっぱらハンセン病患者による犯罪を法廷外で裁こうというもので、裁判官が療養所に出向き偏見に満ちた裁判を行ない、司法もこの公然たる差別を是認したのです。

 16年3月に至って、最高裁裁判官会議が特別法廷は差別だったと謝罪しましたが、被害者の名誉は誰ひとり回復のための措置は取られていません。そんななか、菊池事件の国賠訴訟において2月26日、熊本地裁は賠償請求は退けましたが、特別法廷は「憲法13条及び14条が定める尊厳保障と平等原則に違反する」という判断を示しました。

 1951年と52年に熊本県・菊池で発生した爆破、殺人事件で被告とされたハンセン病患者が冤罪で死刑判決とされた事件で、62年に第3次再審請求が棄却された翌日に死刑が執行されました。なんという無残な結末でしょう。死刑が執行されてしまってから冤罪が晴れても、国家によって抹殺された生命は帰ってきません。

 尼崎市の黄光男(ファンクァンナム)さんは兵庫民闘連や兵庫在日外国人人権協会で活動し、ハンセン病家族訴訟団副団長の任にも当たっています。多くが匿名の原告のなかで、本名を明らかにしています。黄さんは「閉じ込められた命 ハンセン病と朝鮮人差別」(人権協会)で、家族がバラバラになった幼少期のことや、活動仲間にも長くハンセン病家族であることを明かせなかったことなどを語っています。

 黄さんのお話は何度か聞いており、強い信念と、背後にある乗り越えてきた苦難を感じさせない語り口に感服しています。それにしても、差別感の根強さは絶望的です。一般的に差別はいけないと言っても、わが身に関わると差別に身をゆだねてしまう。不妊手術をした医師、堕胎と称して生まれ出た嬰児の口をふさいだ看護士、それらを医療として是認した社会、皆が共犯者だったのです。 (晴)
 

 色鉛筆・・・知っていますか? 医療的ケア児を抱える家族の不安

 最近は、コロナ対策で各種の集会・講演会が中止になり、自宅で過ごす時間が増えました。日頃の手抜きの掃除をやればいいのに、それを後回しにしてテレビや読書に費やしています。今こそ、何を為すべきか、を問われているように思います。新聞の投書欄には、中高年の女性が子育て中の女性たちを支援しようと呼びかけていました。その内容は、子育て経験を生かし、子どもたちの戸外での遊びや室内での本の読み聞かせなど、積極的な場を提供しようとしたものでした。近隣で共に助け合う、その実践のいい機会かもしれません。

 全国一斉休校で深刻な影響を受けている子どもたちがいます。テレビで紹介されていましたが、医療的ケアを必要とする児童と家族で、本来は学校で受けていたケアが休校のため受けられない事態になっています。そうなると、喘息で気管切開している知的障害のある男児は、痰の吸引が多いときで1日100回以上必要になります。もう1人は、ミトコンドリア症候群の疾患で24時間の介助が必要です。従来のヘルパーの支援はありますが、家での介助が長くなった分を増やすことは困難なようです。結局は家族といっても母親の負担が増し、体を壊しかねません。手持ちの消毒薬も残り少なく、もし感染すれば重症化は免れません。政府の言う補償の範囲は、親の就業補償で児童に対する医療のケアまで配慮出来ていないのが現状です。これは準備期間もなく安倍首相が思いつきで決めた結果で、大失態と言わざるをえません。

 ところで、裁判所はコロナでは閉鎖していません。しかし、傍聴席は5人がけの椅子に2人だけしか使用できませんでした。当然、溢れる傍聴人が出て、パイプ椅子の設置を要望したけれど開廷時間になり、法廷から出て行くしかありませんでした。その日は判決で、裁判長は出てくるなり「却下する」と言っただけで、1分もかかりませんでした。唖然とする私たちに、裁判長は次の事件へと淡々と業務をこなしていたのです。傍聴人への配慮は全く無しの裁判所の姿勢に、裁判長は市民感覚を汲み取ることをまず学習すべきと、切に思いました。

 社会が不安を募らせている今、気持ちが高まるドキュメンタリー映画を見ました。タイトルが「アリ地獄天国」で、まさに「ブラック企業」と呼べるアリさんマークの引越会社が舞台となっています。1人でも入れる組合に加入し、それを理由にした幹部の嫌がらせにも屈せず、和解勝利を勝ち取った34歳の男性の物語です。1年7ヵ月にも渡るシュレッター業務にも耐えたその姿は、眩しく感動です。名古屋から出発し、大阪、他地方にも上映予定があるようです。皆さんも近くに来たら、ぜひ見に行ってください。きっと、元気が出ます。「コロナは正しく恐れる」を合言葉で、正しい情報を知り的確な対処・予防で乗り切りましょう。(恵)

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