ワーカーズ606号  2020/5/1      案内へ戻る

 強制されるべきは「ステイホーム」ではなく
  国と企業による経済的補償、医療の拡充、徹底した情報公開だ!

 隠蔽、改ざん、世論と議会無視、政治の私物化をほしいままにしてきた安倍政権も、コロナ問題が燃えさかる中で支持率に翳りが生じています。マスコミの世論調査でも不支持率が支持率を明確に超えました。もっとも、安倍政権の支持率は低下しているものの、安倍政権が打ち出した緊急事態宣言についてはこれを当然視し、むしろ発動が遅すぎたという声が圧倒的です。

安倍政権を支持する声がしぼむ一方、人権の制限など民主主義を危機に陥れる可能性を持つ緊急事態宣言については大きな支持。安倍首相の強い戦前回帰の願望ゆえに憲法の改悪にも繋がりかねないこの「ねじれ」現象を、私たちはどのように解きほぐしていけば良いのか。

 その鍵は、人々の安倍政権への不満と批判の内容を理解することから始まります。安倍政権への不満の大きな要因は、国民に自粛を声高く求めながら、自粛のために必要な経済的補償が矮小で、かつ遅々として進まないことにあります。外出自粛しろ、営業を自粛しろと言うのなら、賃金補償をしろ、損失補償をしろ、生活保障をしろという声が、いま巷を覆っています。

 多くの国民が抱くこの当然の正当な要求に依拠し、いま必要なことは外出自粛や営業の自粛に伴う経済的な補償の拡充、十分な検査や治療とそれを可能にする医療体制の早急な整備、またいま明らかになっているコロナ禍の全貌に関する徹底した情報開示などを、国に対して徹底して要求していくこと。こうした要求が公然と掲げられ、その旗印がより多くの人々に知られ、多くの支持を得られるようになるなら、人々の緊急事態宣言への過剰な期待は解消し、改憲に向けての野望も抑え込むことが出来るに違いありません。

 必要なことは異論を許さないような自粛の押しつけではなく、むしろ経済的補償等々だという事。いまの情勢下で、社会的に強制されなければならないことがあるとすれば、それは外出禁止や休業というよりも、むしろ広範な検査や医療体制の充実、経済的補償や情報公開の実施義務なのだという事。端的に言えば検査や補償や情報公開を国の義務として強制していくことこそが求められているのだという事。この事を私たちは徹底して主張をしていかなければならないのだと思います。

 一見すると、市民は未曾有の危機に直面して権力の懐に自ら飛び込もうとしているかに見えます。しかし他方では、自粛をしろと言っても経済的補償がないかぎり不可能だという真実を知っています。私たちは、後者の真実に徹底的に依拠することで、緊急事態宣言のまやかしとその先に待っているかも知れぬ改憲の野望を打ち破っていかなければなりません。(阿部治正)


 「緊急事態宣言」と労働者の当面の課題は?

●緊急事態宣言の迷走

 四月七日に安倍政権は新型コロナ肺炎で「緊急事態宣言」を発した。当初のもくろみは、「桜を観る会」や「検事長定年制」等をめぐる疑惑追及をかわし、「憲法改悪」(緊急事態条項)への道筋に利用し、政局の起死回生をはかることだった。だから、野党や市民団体がこれを警戒し、「反対」もしくは「付帯決議」で歯止めをかけたのは当然である。対する右派や保守派は「国家主義」を強化する好機と期待していたふしがある。ところが蓋を開けたとたん、攻守入れ替わったかのように、安倍政権は守勢に回ってしまった。

 東京や大阪など七都府県知事は、休業要請に伴う「補償」を強力に国に要求し始めた。愛知県知事などは対象地域への追加要求が入れられないと、地方独自の「緊急事態宣言」を発した。全国知事会、日本医師会も動き出した。「給付金」に至っては、野党の要求に「同調」する公明党や自民党議員までが「一律十万円」の圧力を強め、ついに抗し切れなくなり、当初案(所得制限付き三十万円)の「撤回」を決断し記者会見で「国民に謝罪」するところまで追い込まれた。

 もはや首相官邸の側近が企画してきた「やってる感」演出による姑息な政治手法では、国民の信頼を回復することができなくなった。ルーズベルト演説から「恐れるべきは恐怖それ自体だ」を借用して演説しても(四月七日)、いっこうに真実味が感じられないのだからどうしようもない。医師会も知事も自民党議員すらも「首相を忖度」しなくなってきた。その背景には、労働者・国民の悲鳴に近い不安と怒りがある。その中で労働者は、いくつかの領域で闘いのイニシアチブを発揮しなければならない。それは、①休業補償、②医療従事者、③地方自治、の三つの領域である。

1.休業補償は労働者の死活問題!

 順を追ってみよう。まず二月二十五日に厚生労働大臣が「風邪の症状を感じたら仕事を休むよう」呼びかけたことから就業規則に「感染症休暇」を整備することや、労働基準法の「休業補償」の適用が課題になり始めた。次いで安倍総理大臣が「全国一斉休校」を要請したことから「子どもの休校で仕事を休まざるを得ない親」に対する「雇用調整助成金」が課題になった。そして緊急事態宣言で飲食店やスポーツ施設など広汎な事業の「休業要請」や、その影響で倒産・廃業、解雇・失業により、多くの労働者、フリーランス、個人事業主が収入を失い、家賃や公共料金・社会保険料・住民税が払えなくなる事態に直面するに至って、広汎な「給付金」が求められるようになった。

 労働者にとって、仕事を奪われ収入がなくなることは、文字通り「死活問題」だ。「一律十万円の給付金」等では到底カバーできるものではない。休業補償は労働者の生きる権利(命綱)である。労働基準法の「休業補償」の適用を拡大すること。解雇に歯止めをかけるための「雇用調整給付金」の適用を拡大すること。雇用保険の「失業給付」の適用を拡大すること。雇用保険加入対象外の短時間勤務者、フリーランスも適用対象とすること。家賃・公共料金・社会保険料・住民税の納入猶予措置を講じること。個々の労働者の使用者との折衝、労働組合の企業や労基署との交渉はもとより、労働組合の地方組織は生活困窮者への相談窓口を開設し、全国組織(ナショナルセンター)は政労使交渉を緊急に求めるべきである。今春闘は「賃金闘争」では終われない。労働者の闘いは「自粛」するわけにはいかないのだ!

2.医療従事者の悲鳴を聞け!

 「医療崩壊」という言葉が独り歩きしているが、まず現場の医療従事者(医師、看護師、保健師、医療技術者)たちの悲鳴を聞くべきである。

 その前に「専門家会議」の認識を見てみよう。『日経サイエンス2020.5』の「座談会」で専門家の一人である押谷仁氏(東北大教授)は「2003年に流行したSARSの大きな流行があった地域はきちんとした対応が取れるようになっている」「具体的にはシンガポールや香港、中国。そうした国々と日本の対応能力の違いはかなりあります。日本はこうした感染症への対策に必ずしもリソースをつぎこんできませんでした。たとえばシンガポールはPCR検査のキャパがすごいです。」「ほとんど全ての病院でPCRのシステムを持っている。そのため感染経路を最初から可視化できていました。」と述べている。韓国、台湾、ドイツなどもPCS検査体制が整っている。

 ところが日本はSARSの教訓を全く顧みず、PCR検査体制の拡充を怠っていた。保健・医療の「効率化」の名の下に、保健所を統廃合し、地方衛生検査所を縮小し、公的病院の感染症病床を削減してきた結果、今になって現場の医療従事者が悲鳴を上げているのだ。

 地方衛生研究所では、少ない台数のPCR検査機器に、少ない人数の検査技師が、感染の危険性と隣り合わせで、作業しにくい防護服を身にまとい長時間労働に追われ、機器故障の修復作業や分析結果の確認などの連続で、心身ともに疲弊している。産後休暇中の女性技師まで、上司からの懇願で休暇を切り上げ出勤しているケースもあるという。

 保健所の相談センターも、電話回線がパンクしている。相談業務に当たる職員は、市民の症状を聞き、医師や保健師と対応を協議し、感染症受け入れ外来の紹介や自宅療養の助言に当たっているが、市民の切迫した問いかけに極度の緊張を伴った受け答えを強いられ、夜間の交替勤務も含め、精神的にも限界を超えている。

 公的病院の感染症病棟はとっくに満床となり、一般病床を感染症病床に転用せざるをえない状況だ。しかし陰圧空調や患者の導線などの設備が整っておらず、緊急に改修工事をしなければならない。感染症病棟以外のスタッフが、急遽トレーニングを受けて従事しなければならない。しかも三月末にベテラン看護師が退職し、四月に新人看護師が入職し、新人研修と夜勤体制の維持でただでさえ負担がかかる時期に重なっている。夜勤や時間外勤務と救急対応で、肉体的にも精神的にも疲弊し、メンタルヘルスも深刻だ。

 専門的現場の人員不足は安易な臨時職員投入では解決できない。ベテランのOBを即戦力として再雇用するしか手がない。民間検査機関の応援や、保健センターからの応援や、感染症以外の一般患者の近隣病院への振り分けなど、周辺から応援体制を取るしかない。医療関係労働組合の役割は重大であるが、激務の中での活動は困難をきわめている。それ以外の労働組合も医療現場の切実な声を聞いて連帯・共闘してほしい。

3.地方自治力が問われている!

 安倍首相が緊急事態宣言を発し記者会見を行なった翌日から、がぜん注目を集めるようになったのは東京都知事や大阪府知事をはじめ、神奈川・埼玉・千葉・兵庫・福岡の各県知事の指導性の如何になった。彼らは「希望の党」や「維新の会」や「保革相乗り」など政治的に怪しいのは否めないが、そんな「毛色」は別として、地域住民の不安の声をバックに「引くに引けない」立場に立たざるを得なくなったといえる。いち早く「緊急事態宣言」を発していた北海道知事も、再び札幌市長と「共同宣言」を発した。愛知・岐阜の県知事は政府を待たずに地方独自の宣言を発した。

 こうした情勢変化を逃さず、都道府県議会の推薦議員団を通じて、あるいは労働者団体独自としても、地域の労働者・住民の要求を「要望書」や「請願」等の形で具体的に突きつけてゆくことが必要である。久々に「国に物申す知事」の背中を押すことは大切だが、本来地域住民の命と暮らしを守るのは、市町村や特区などの基礎自治体であることを忘れてはならない。

 緊急事態宣言を「国家主義への一里塚」にさせないためにも、今こそ「地方自治力」が試されている。
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 パンデミックの歴史から学ぶこと

 今回の「新型コロナウィルス肺炎」をめぐる危機は、基本的には二〇〇三年の「SARS」や二〇〇九年の「新型インフルエンザ」と同じ構造であり、両危機の教訓を世界がしっかり学んで、社会のあり方を見直すことも含めて備えていれば、ここまでひどい状況にはならなかったと考えられます。

 もちろん、ウィルスの種類や感染・疾病の特徴が異なるのは確かですが、パンデミックを引き起こすに至った歴史的・社会的背景は、ほとんど共通しているのです。そのことを「インフルエンザウィルス」と「コロナウィルス」それぞれの歴史的経過について、獣医学・感染症学の研究者たちの論考を紐解きながら考えてみたいと思います。

(参考文献・加藤茂孝『人類と感染症の歴史』丸善出版二〇一六年刊、喜田宏「なぜ中国がいつも「感染源」なのか」『文芸春秋4月号』より、山本太郎「感染症と文明社会」『中央公論2020・4』より、他)

●「スペイン風」の歴史

 まず「インフルエンザウィルス」によるパンデミックの歴史について調べてみましょう。
その最大のものは、第一次世界大戦後の二〇一八年の「スペイン風邪」の蔓延で、アメリカ合衆国・ヨーロッパ諸国・日本を含めて、最大推計で約五千万人が死亡したと言われます。

「スペイン風邪」という名称から「スペインから広がった」と誤解を招きますが、もともとアメリカ合衆国の東南部で感染が広がり、大戦に参戦した合衆国の命令で若い兵士たちがヨーロッパに送られる過程でウィルスも一緒に持ち込まれ、ヨーロッパ中に感染が広がり、ついに日本まで至ったものです。

その意味では「アメリカン・インフルエンザ」と呼ぶべきところですが、当時の交戦国は情報統制を敷いていて、その事実を国民から隠していました。そのため参戦していなかったスペインだけが感染を発表したため「スペイン風邪」と呼ばれるようになったのだそうです。

戦争による死者が約九百万人だったのに対して、スペイン風邪よる死者はその五倍を超す五千万人(最大推計)だったことからも、被害の甚大さが伺えます。

●渡り鳥とウィルスの生態系

 ではそもそもインフルエンザウィルスはどこからやってくるのでしょう。これまでの獣医学や感染症学の調査研究でわかってきたのは、北方のシベリアやアラスカの湖沼に棲息するカモなどの渡り鳥が、インフルエンザウィルスの自然宿主であるということです。そのウィルスは冬場は氷の中で凍結されていて、氷が溶けるとその水をカモが飲んで、大腸の中で繁殖し、糞に混じって湖沼の水に排出されるのです。

そのカモなどは渡り鳥なので、秋から冬にかけて南の地に飛来します。アラスカからアメリカ東南部やメキシコへ。シベリアから中国南部や東南アジアへ。飛来先の湖沼でカモとウィルスは病気を発症することもなく共生しています。

そのカモからアヒルやガチョウなどの水鳥にウィルスが感染することもありますが、その場合も病気は発症せず、ウィルスと水鳥たちは共生しています。これが、人類の歴史よりをはるかに越える何千年・何万年における「渡り鳥・水鳥・ウィルス」の安定的な生態系の姿でした。

●商業的畜産により病原性変異

 ところが、この渡り鳥・水鳥・ウィルスの安定的生態系に異変が生じたのは、人間が大量のブタやニワトリを飼い、都市部に売りさばくようになってからのことです。

 まずアヒルやガチョウのウィルスがニワトリに感染します。この時点ではまだ病原性は発せられませんし、ヒトに感染することもほとんどありません。(ヒトの細胞にはトリインフルエンザに対する受容体が無いのだそうです。)ところが、ニワトリのウィルスがブタに感染したところから変わってきます。

実はブタの細胞は、トリインフルエンザとヒトインフルエンザの両方に対する受容体を持っています。このブタにトリインフルエンザとヒトインフルエンザ(何らかの稀なルートでヒトに感染していたことになりますが詳細は省略)の両方が感染すると、ブタの細胞内で両方のウィルスが相互に働いて、「A型H1N1」という病原性のあるインフルエンザウィルスに変異します。

 これが一九一八年の「スペイン風邪」の正体であり、また二〇〇九年の「新型インフルエンザ」の原因でもあったのです。

 つまり、もともとアラスカに棲息していた渡り鳥であるカモが、アメリカ南東部やメキシコの湖沼に飛来し、水鳥であるアヒルやガチョウに感染したまでは無害だったのが、養鶏場のニワトリや稀にその飼育主のヒトに感染し、さらに養豚場のブタに感染したところで病原性のウィルスに変異し、食物商業ルートで都市部に運ばれ住民に感染し、さらに第一次世界大戦の中でアメリカの兵士からヨーロッパ諸国や日本に感染が広がった、というのがスペイン風邪だったというのです。

●生態系攪乱と都市過密化

 二〇〇九年の新型インフルエンザも、やはり震源地はアメリカ合衆国東南部やメキシコで大規模な養豚場から都市に広がり、今回は戦争ではないのですが、グローバリゼーションのヒト・モノ・カネの世界的移動に乗って、あっという間に広がったというのです。大規模開発によって、渡り鳥や水鳥が平穏に棲息する湖沼などの自然環境が破壊されたことも、おそらく深く関係しているのではないでしょうか?

 まとめると、①人間による都市化・工業開発による湖沼環境破壊による水鳥とウィルスの生態系の攪乱、②大規模な商業的(工業的)養豚・養鶏と都市の過密化によるウィルスの病原性変異、③世界戦争や世界商業におけるヒトの大量移動によるウィルスの急速な感染、ということになるでしょうか?

また工業化や戦争における労働者・兵士の栄養状態の悪化による基礎的な免疫力の低下、工場・住居・兵舎の劣悪な衛生環境もこれに拍車をかけたのは間違いありません。つまり資本主義が総体としてパンデミックをもたらしたとも言えるでしょう!

 なおインフルエンザウィルスの伝播ルートは「シベリアから中国南部・東南アジアへ」もあり、これは二〇〇四年の「高病原性トリインフルエンザ」(A型H5N1)のヒトへの感染をもたらしたのですが、この経過については紙面の都合で別に述べようと思います。

 またインフルエンザの歴史は、実はスペイン風邪が最初ではなく、古代・中世に遡るものなので、その意味では「資本主義」に単純に還元できないところもあり、人類史の文明論的観点が求められますが、「文明批判」と「資本主義批判」の関係性については深い論争もあるので、別の機会に譲ろうと思います。

●コロナウィルスと生態系

 さて次に今問題になっている「コロナウィルス」に移りましょう。コロナウィルスのパンデミックは、二〇〇三年の「SARS」(重症熱性呼吸器症候群)、二〇一四年の「MARS」(中東呼吸器症候群)、そして今回の「新型コロナウィルス肺炎」と、今世紀になって立て続けに起きました。

 コロナウィルスの自然宿主は、SARSと新型コロナの場合はコウモリと言われています。MARSの場合はヒトコブラクダと言われています。いずれにせよユーラシア大陸の内陸部に棲息している動物宿主です。(もしかしたらヒトコブラクダのウィルスも、もともとはコウモリから伝播したのではないか?と素人的には思ってしまいますが、憶測は禁物、獣医学・感染症学の調査研究に待つしかありません。)コウモリは内陸奥地の洞窟に棲息し、私達の目に触れる機会は少ないのですが、個体総数でいうと野生動物のかなりの割合を占めている一大勢力なのだそうです。

そのコウモリを宿主としている限り、コロナウィルスは特段の病原性を発揮することはなく、平穏に共生しています。それが、どのようなルートでヒトに感染することになったのか?まだまだインフルエンザのようには解明されていないようです。

 何らかの中間宿主があるはずと言われます。SARSの場合は中国の海鮮市場(食用動物市場)のハクビシンやジャコウネコではないかと言われていますし、新型コロナはセンザンコウではないかと言われていますが、異論もあります。ある研究者は「やはりブタが中間宿主ではないか?」との仮説を強く表明しています。今後の調査・研究が期待されます。

 このようにコロナウィルスの伝播ルートは、解明されていない部分があるものの、全体的にはインフルエンザウィルスと同じように、森林や洞窟といったコウモリの自然生態系が内陸開発によって破壊され、畜産や養鶏を含む大規模な食肉マーケットとヒトとの関わりを通じてウィルスの変異が起き、急速に巨大化する都市の過密人口によって感染が蔓延し、グローバリゼーションのヒトと商品の移動によって、世界に広がったという構造は基本的に同じと考えて良いでしょう。

●パンデミックは繰り返される!

 このようにインフルエンザにしてもコロナにしても、パンデミックの原因は社会の側にあります。安定的な生態系の中ではウィルスは特段の病原性を発揮せずに、動物宿主と平和共存しながら、何千年、何万年とすごしてきたのです。

 繰り返しますが、①人類の側の大規模な開発によってウィルスと動物宿主の生態系が撹乱され、②商業的・工業的な畜産業によってウィルスが変異し病原性を獲得し、③都市の大規模化・過密化によって人間社会に感染症を蔓延させる・・・。資本主義社会のこうしたあり方が変わらない限り、パンデミックは何度でも手を変え品を変え繰り返されうると言わなければならないでしょう。

 それに対しこの社会の構造を前提とする限りできることは、①ワクチンを開発して人工的に免疫力をつける、②検査法を開発普及し迅速に診断する、③抗ウィルス薬を開発し治療する、④隔離・検疫といった公衆衛生を行なう、⑤病院・保健所・衛生研究所の体制を整備する、⑥国・自治体において感染対策派遣チームを常設する、こうして、いざ感染症が発生した場合に被害を最小限に抑えることでしかないでしょう。

●政治と社会のあり方

 その意味では、この間の何度かのパンデミックの教訓をしっかり受け止めて、医療体制や行政の仕組みをしっかり整えておけば、危機はもっと抑えられているはずです。目先の経済的利益や政権の政局を優先し、これらを忘れておざなりにしてきた政治の責任は極めて重いと言わざるを得ません。新自由主義や「医療の効率性」「行政のスリム化」の名のもとに、感染症病床を削減し、保健所を統廃合し、衛生研究所の人員を減らし、国立感染症研究所もリストラし、厚生労働省から専門家を追い出してきた、一連の歪んだ政治の結果でなくてなんでしょうか?

 と同時に、社会発展のあり方も根本的に考え直さなければなりません。渡り鳥や水鳥の棲息する湖沼や、内陸の野生動物の棲息する森林などの環境を破壊する巨大開発をやめること。何万頭のウシやブタや何万羽のニワトリを、生物多様性を無視して均一な種として飼育し、ワクチンまで投与する大規模な商業的・工業的畜産をやめること。一千万を超える人口を当然のように抱える巨大都市政策をやめること。免疫力を低下させる長時間労働や精神的に疲弊するブルシットジョブをやめること。こうして新しい社会のあり方を共同でめざすことなくして、パンデミックの恐怖から解放されることはできないことを、歴史は教えています。
(松本誠也)


 コロナ危機から見えてくる「近未来像」

●「世界危機」めぐり「百家争鳴」

 「リーマンショック以来の経済危機だ!」「一九二九年世界恐慌の再来だ!」世界各国の政策当局者や経済アナリストたちは、新型コロナ肺炎のパンデミックが世界資本主義に与える重大な影響について、様々な角度から警告を発し始めた。
 経済対策についても「長年の量的緩和のおかげで新たな金融緩和の効果は望めない」「財政出動も国債依存度を高め将来の金利高騰もある」と悲観論が漂う一方、「コロナ後の株価はV字回復へ」「いやJ字回復がせいぜい」とアナリストたちの観測も錯綜する。

 技術論者たちは「IoTによる監視社会がやってくる」「テレワーク社会で職場・学校・医療が変わる」などの社会変容を指摘する。

 国家主義者たちが「感染症も国防安全保障の一環だ」「強い国家が求められる時代」と主張するかと思えば、対するリベラリストたちは「自国第一主義の限界が露になった」「感染対策には世界が一致協力すべき」と論陣を張る。

 文明論者や歴史家たちは「中世ヨーロッパのペストに匹敵する大転換点だ」「中国が再び世界の中心になるかもしれない」等と述べる。

 エコロジストは「気候危機と同根の生態系破壊の結果だ」「森林破壊と工業的畜産を見直すべき」等と警鐘を鳴らす。

 比較政策論者は「台湾やフィンランドを見習え」「生きるための教育が奏効した」と、望ましい社会モデルのヒントを「賢い小国」の先進事例に求める。

 こうした「百家争鳴」ともいえる状況の中で、問題は「労働者・市民の側からいかに本質的で先の見通しのきくビジョンを打ち出すか?その努力が不足していないか?」という至極当然な声が聞こえてくる。

 本稿ではその端緒となる論点を列挙するにとどめるが、その前に、今回のコロナ危機から経済危機への「連鎖」について順を追って見てみよう。

●「需要蒸発」による「株価暴落」

 まず指摘されるのが「リーマンショックとの違い」である。

二〇〇八年九月のサブプライムローン破綻に始まった信用危機は、「金融工学」を駆使したアメリカ流「ニューエコノミー」が、実は低所得層の住宅ローン支払い不能を「借り換え」と「証券化商品」で先送りする手法が破綻した構造的な危機であった。

 これに対して今回の株価暴落は「川下の需要蒸発」が引き金になった。まず武漢市・湖北省の都市封鎖が自動車産業や電子部品工業の「サプライチェーン」(部品供給網)の遮断をもたらした。加えて「春節」の帰省や海外旅行の禁止により鉄道・飲食・宿泊さらに航空業界を直撃し原油価格の暴落をもたらした。製造業と航空業界における大規模な「需要蒸発」が世界的な株価暴落の第一波をもたらした。

 ただし、株価暴落の要因は「コロナ危機」のみに求められるべきではない。これまでの「株高」は一種のバブルであり、いずれ調整をせまられる運命にあり、その機会を探っていたところへコロナショックが引き金を引いた面もあるからだ。異次元緩和で行き場をなくしていたマネーが、大企業の「自社株買い」と中央銀行による社債やファンドの大量引き受け、年金基金による株の購入によって「見かけ上の株高」を演出していただけであったことも大きい。

●「国債依存」の「財政ファイナンス」

 次に、韓国・日本などのアジア諸国やイタリア・アメリカなどの欧米諸国に感染が広がったのが第二波となった。各国は矢継ぎ早に「緊急事態宣言」を発し、都市のロックダウンや学校の休業、オフィスの在宅勤務化、イベントの自粛、サービス業の休業などが打ち出された。その結果、休業により小規模事業所では雇用の維持が出来なくなり、運転資金が底をつき資金繰りが悪化し、労働者は失業に追い込まれている。

 金融当局は企業の資金繰りを支えるため「CP(コマーシャルペーパー)」や「社債」を買い支え、無利子・無担保のつなぎ融資の枠を設定し、企業の破綻回避を図る一方、財政当局は労働者に対する失業給付や家賃補助、雇用主による休業補償を支える措置を拡大するため大規模な財政出動を打ち出している。

 こうした金融措置・財政出動は、国家財政の側からは大規模な国債の発行に頼らざるを得ないと当時に、その国債の市中消化など到底望めないことから中央銀行による国債の買い入れ枠を拡大せざるを得ない。結果として「財政ファイナンス」すなわち国家財政の借金を国債でまかない、その国債を中央銀行が引き受けるといういびつな構造に拍車をかけている。

 誰もが「いずれは国債の引受け手がいなくなり債券価格の暴落(金利の暴騰)につながりかねない」と懸念するが、「実際にはそこまで至らず他に選択肢がない(いつまで持つかは不明だが)」というわけだ。すでに外債に依存するアルゼンチンがデフォルトに陥っているが、決して他人事ではなく、先進国の遠くない将来の姿を予感させると言っても過言ではない。

 体力の弱い周辺諸国が破綻状態に陥り、そこからの一次産品の供給網がストップすれば、コストプッシュインフレと経済停滞が同時進行するという意味で、かつての石油危機と形は違うが「スタグフレーション」の再来を招くと懸念する声には傾聴すべきだろう。

●中国の積極的「インフラ投資」

 「リーマンショックの時は中国の需要喚起策が下支えになった」が今回はそうはいかないと見る向きがある。当時は「先進国の不況」と「新興国の成長」が、いい意味での「デカップリング」(正と負の補完的結合)として機能したといわれる。ところが、今日の中国はすでに「世界の工場」として製鉄部門など大規模な生産設備の過剰を抱えており、前回のようなわけにはいかないというのだ。実際、武漢封鎖で一時停止状態だった製造業が稼動を再開しても、肝心の輸出先の欧米の需要が激減しており、在庫が積み上がるだけだからだ。

 だが別の側面も見逃せない。中国経済の研究者によると、今回中国の財政金融当局は中小企業の資金繰り措置もさることながら、「5G」(次世代通信技術)をはじめとしたインフラ整備と技術研究開発に巨額の財政投資をし、積極的に打って出ているという。「一帯一路」構想で世界経済の覇権国家として登場しつつある中国。世界のアナリストたちは、「パックス・ブリタニカ」の十九世紀、「パックス・アメリカ」の二十世紀につづく、「パックス・チャイナ」の二十一世紀が到来しつつあると警告を発する。

●「デジタル・ニューディール」の虚構

 かくして日本の財界や支配層の中からは、「デジタル・ニューディール」こそが次の日本の成長を切り開き、中国の経済覇権主義とも渡り合えるビジョンだとの声が聞こえてくる。果たしてそうか?

 こうした掛け声は二重三重に欺瞞的である。

第一に、すでにアメリカで期待された「ニューエコノミー」は二〇〇〇年台初頭の「ITバブル」の崩壊をもたらしたのは周知のことである。また「GAFA(グーグル・アップル・フェイスブック・アマゾン)」など巨大IT企業のグローバル展開も、労働者の格差拡大とブルシットジョブ(労働の劣悪化)をもたらし、実態経済の成長や雇用の豊かさにはつながっていない。ちなみにポール・クルーグマンなども「デジタル技術革新はコンドラチェフの第五の波としては挫折している」と主張しているのは示唆的である。

 第二に、中国の経済覇権主義の台頭に対抗しようとする「国益論者」や産業界の意向を代弁しており、表面上は「オンライン診療」や「IoTの農業応用」など聞こえのよいメニューをちりばめてはいるが、本丸は「機微技術」すなわち安全保障に密接に関連する防衛産業(宇宙防衛、サイバー防衛など)への研究開発投資が念頭にあるのは見逃せない。

 第三に、「○○ニューディール」なるスローガンは、EUで注目されている「グリーン・ニューディール」を意識していると見られるが、「気候危機」の克服を掲げたリベラルで国際協調的なスローガンに対抗したいという、保守派の心情が見え隠れしているのは否定できない。

●近未来のビジョンは現場から!

 世界恐慌からの脱出に一役買った「ニューディール政策」。ルーズベルト大統領はテネシー渓谷ダム開発や最低賃金制で労働者の雇用と所得を守りながら「成長」を模索した。その理論的バックボーンがJMケインズの『雇用、利子および貨幣の一般理論』だった。

 だが今日、必ずしもケインズに変わる高尚な「一般理論」を誰かに打ち立ててもらうことが必要なわけではない。それもそうだろう。エール大学の高名な某教授の経済理論を信じて始めた「リフレ政策」の結果、日本はどうなったか?

 現場の感覚からすれば、なぜ「医療ニューディール」を言わないのか?すべての病院にPCR検査の機器を設置し、パンデミック期でも医療崩壊が起きないよう常に余裕のベッドを確保し、陰圧空調や隔離設備を完備し、クリニックの待合室でも感染する心配のない施設構造にする。医療従事者の数を大幅に増やし、医療経験者で今は他部門で働く職員を非常時に医療現場に投入し、職を失った一般の労働者も医療の周辺業務を応援できるようなしくみを作る。診療現場の「治験」と治療薬・ワクチン・検査キットの開発、大学での基礎研究をつなげる。十分すぎるほどの「ニューディール」になるではないか?介護現場や保育現場にも同様の発想を加えれば「医療・介護・保育ニューディール」が構想できるではないか?

 これはほんの一例かもしれない。だが大切なことは机上の「○○理論」など無くても、(怪しげな「現代貨幣理論(MMT)」など信奉しなくても)、現場のニーズから出発して新しい社会制度を組み立ててゆけば、近未来を切り開くビジョンはしだいに輪郭をあらわしてくるはずなのだ。考えるのは現場だ!(松本誠也)


 セーフティネットの再構築を!――露呈した格差社会の脆弱な安全網――

 新型コロナウイルス感染症の拡がりであらわになったことがある。それは世界第三位の経済大国にもかかわらず、いったん歯車が狂ったときに、明日の暮らしを脅かされる人々のいかに多いことか、ということだ。

 都会の高層建築群や華やかな街並み、復興オリンピックの喧伝……。しかしそれを一皮むくと、日常の仕事を奪われれば、即、明日の生活さえ脅かされるという現実。人類、あるいは日本人、いや私自身、これまで一体何をやってきたのだろうか、という自責の念に落ち込む。

 とはいえ、そんな感傷とは別に新型コロナの悪夢は続く。今日と明日の生活、それにいずれは終息する感染症後の行く先を見据えた思考と行動が求められている。

◆「遅すぎた?」緊急事態宣言

 ワーカーズ前号が発行された4月1日からわずか一ヶ月。日々、目にする街の光景も様変わりしている。3月31日に国内感染者が2000人を超えたが、9日には5000人、4月25日には13000人に迫り、死者が300人を超えてしまった。日本は欧米ほどではないにしても、制御不能に近いところまで感染が拡がってしまった。

 この間、政府によって改正新型インフル等対策特別措置法にもとづく「緊急事態宣言」が4月7日に7都府県に発動され、16日には全都道府県に拡大された。

 この「宣言」、諸外国に比べて強権発動は抑制的だ。が、都道府県知事による指示で個人や団体の権利制限が可能になり、また、NHKだけでなく民放にも「必要な措置を指示できる」余地を残すなど、行政権力の強化につながる。かつての経緯を考えれば、基本的人権の抑制や民主主義の終息まで至る余地を秘めたもので、警戒が欠かせない代物でもある。

 確かに近代国家を始め、かつての大家族や種々の共同体、それに労働組合の争議なども含めて、非常時・緊急時には強力な行動規制が必要な場面もある。しかしそれは構成員(団体)の同意・支持が不可欠だという前提条件付きの話だ。

 現在の特措法―緊急事態宣言に関して言えば、国会承認、それも定期的な(月に一度、半年に一度など)承認が前提であるべきだ。それが行政・執行権力の暴走を抑える最低限の歯止めになる。現時点の国会がそれにふさわしい信頼できるものとはほど遠いが、それを担保するのは、ここでも一人一人の異議申し立て、政権批判の権利を行使するという自覚と行動だろう。

 現状では、国民・有権者の間でも、緊急事態宣言の発出について「遅すぎた」という声が多い。だが、主権者であるはずの国民が強力な行政権力の発動に安易に頼るというのは、極めて危ういことだ。かつての多くの国で行政権力の自立化と独裁政治が現れたのは、強力な政治のリーダーシップを求める国民の声を利用したケースが多いからだ。

 現に、今回の改正特措法でも、いったん成立してしまえば、ほぼ執行権力のフリーハンド。国会の事前・事後承認は必要なし。テレビ放映されたように、各党代表による一問のみの質疑答弁という形ばかりの「通知」のようなもので済まされた。しかも強権発動は事態の進行しだいでエスカレートする傾向にある。その危険性に対しては警戒しすぎるということはない。

◆「遅すぎた!」感染症対策

 人々が考える「遅すぎた」というのは、実際は、感染症対策での首相や首長によるリーダーシップであって、「宣言」=行政への権限委譲という自覚は強くはなかったはずだ。「遅すぎた」という言葉の使い方、一人歩きには注意が必要だ。

 「遅すぎた」といえるのはむしろ感染症対策そのものだろう。

 具体的には、感染を判別するPCR検査の実施拡大、感染者の容体別の収容施設の確保――重症状患者用の高度医療病床、中程度患者用の入院病棟・特設病棟、それに無症状・軽症状患者用の借り上げホテル等々だ。要するに、感染者の早期発見と、重症状者・軽症状者・無症状者の選別治療・療養が大事だということだろう。

 例えば先例となった事例を挙げてみる。

 中国湖北省の武漢市からチャーター機で帰国した日本人約200人弱を、経過観察目的で受け入れた千葉県勝浦市の「ホテル三日月」の事例があったのは1月29日からだ。

 その中国では、新型コロナウイルス専門病院として、整備開始から10日後に稼働した武漢市の「火神山医院」のケースもある。延べ床面積3万3900㎡、ベッド数1000床の巨大施設が瞬く間に出来上がった。そのケースでは、1月23日プロジェクト始動、27日病棟建設着手、2月3日稼働。ほぼ10日で臨時病院を建設した、という事例だ。

 他にもある。2月3日、武漢市は「国際コンベンションセンター」「洪山体育館」「武漢ホール」の3カ所を臨時の”コンテナ病院”にすると発表した。2日後の5日夜10時から、軽症患者の受け入れを開始した。病床の数は3カ所合計で4400だという。

 これらの事例が広く報道されてからすでにまるまる3ヶ月も経過している。この間、医療崩壊の瀬戸際にあるとされるいま、政府や対策会議、それに自治体はなにをやっていたのだろうか。

 とはいえ、日本でも感染者受付用の大型テントが設置されたり、一時収容用の民間ホテルの借り上げ計画、千葉市の幕張メッセに症状が中程度の患者用にベッド1000床を設置する臨時病院の構想なども出てきた。遅ればせながら、やっと対策が模索され始めた、というところだろう。

 それに、医療用器具――人工呼吸器、フェイスシールド、医療用ガウン・マスクなどの増産・配布体制、後方支援など医療従事者へのバック・アップ、雇用の維持や雇用者の一時的な配置換え、営業自粛に対する補償などなどだ。そうした様々な対策や情報公開がきちんとできていれば、非常事態宣言などに頼る必要もなくなる。たとえばコメディアンの志村 けんさんが死亡したとき、街頭からさっと人が消えたという。人は危険を察知すれば、自発的に行動に移すのだ。

 ただ、勘違いする・したがる政治家は後を絶たない。

 最近でも「維新の会」の松井大阪市長は4月7日、「(野党は)今年の1,2月、新型コロナウイルスの危機が迫るなかで桜を見る会や森友学園問題ばかりやっていた。――(野党こそ)黙っていてもらいたい」などと語っている。緊急時には政権批判は許されない、というのだ。

 また同じ「維新の会」の遠藤敬衆議院議員も4月7日の国会議院運営委員会での質疑で、緊急事態条項の創設を要請するなど、憲法改定へと強引に仕向ける態度も後を絶たないのが現実なのだ。

 小池都知事も同じだ。「国難」を連発しながら、「お願い」「要請」と言葉は穏やかだが都民や国民に対する規制、要するに個人の行動を規制する指示(=指図)発言が多すぎ、権力意識丸出しだ。私たちとしては、情報公開と、批判の権利行使こそ突きつけていく必要がある。

◆破綻したクラスター対策

 すでに多方面から批判されている新型コロナ感染症対策。PCR検査での破綻もその一つだ。

 国立感染症研究所など、これまで厚労省と関わりが深い専門家が中心の政府の対策会議は、PCR検査の拡大を一貫して抑えてきた。たとえば人口1000人当たりの検査数でも各国とは歴然の差だ。ドイツ16人、イタリア13.7人、韓国9人に対して、日本はわずか0.37人である(4月6日現在)。4月23日時点でも、韓国が95万件、日本は22万件でしかない。理由は、感染者全員を入院させる方針を前提として、無症状者・軽傷者を見つけて全員入院させると入院ベッドが埋まって重傷者の治療ができなくなり、結果的に死亡者を増やしてしまう、というものだ。

 たしかにそれも一理ある。が、新型コロナウイルスの特徴は、潜伏期間が2~14日と非常に長いこと、感染者の8割が無症状か軽症であること、潜伏期間でも感染力を持つこと、だとされている。であるなら、37・5度以上の発熱が4日以上続く場合、倦怠感がある場合、感染者との濃厚接触の有無など、高いハードルをもうけて無症状者・軽症状者の検査を拒絶すれば、感染者の最大8割が市中に留め置かれてしまうことになり、結果的にウイルスを拡散してしまうことは素人目でもわかりきったことだ。現実としても、感染経路が不明な感染者が激増する事態を招いている。クラスター対策一辺倒策は、すでに破綻しているといわざるを得ない。

◆格差社会で痩せ細ったセーフティネット

 新型コロナでは、連日、感染者数や死亡者数が報じられているが、密閉・密集・密接といういわゆる「三密」防止目的での営業自粛などで、失職や収入減など生活基盤が崩れる事態を招いている。解雇、雇い止めなどによる失業者の増加など、とりわけ派遣やアルバイトなどの非正規労働者、それにフリーランスという個人事業者扱いの働く人たちの生活を直撃しているのだ。

 要するに、「三密防止」で明らかになったのが、働く人々のセーフティネットの脆弱さである。

 他にも、個人教室や写真家・音楽家、バイト学生、居酒屋・飲食店の従業員や経営者、映画館、鉄道・旅客、遊園地やテーマパークの従業員など、あらゆる場面で仕事がなくなって収入が激減、あるいは途絶え、生活を直撃する事態が拡がっている。なかには、休校になった子供が給食を食べられず家庭で昼食を作らなければならなくなり、バイト仕事を失った生活保護を受給するシングルマザーが自分の夕食を抜かざるを得ない、という悲惨な事例も報道されている。

 セーフティネットとは、文字通り、サーカスの空中ブランコの下にある網(ネット)のことで、生命の危険を防ぐ安全網のことだ。そのセーフティネットの脆弱さが浮き彫りになっているのだ。

 セーフティネットには、公的・制度的なものとして、失業保険制度・医療保険制度、雇用調整助成金(特例給付も)、生活福祉資金貸付制度(特例も)、生活保護などがある。また日本にはなじみがないが、米国の「フード・スタンプ」――補助的栄養支援プログラムのような制度もある。

 社会福祉協議会のフード・バンクなど、公的・共同的な民間のセーフティネットもあるが、それはともかく、いまこうしたセーフティネットの脆弱性があらわになり、目先でも、また将来的にもその充実が求められている。

 当面の所得補償はむろん大事だ。が、それ以上に大事なのは、早急なセーフティネットの構築だろう。とりわけ中長期的な展望として最優先なのが、非正規労働者の正規労働者との同等な権利保障、フリーランスの個人事業主を労働者として認めること、そのための非正規やフリーランスの労働組合への加入促進だろう。それに、セーフティネットの構築には組織的な闘いが不可欠であることの共有化である。日常的に活動できる労組の重要性を再確認することが出発点だ。

 新型コロナ感染症においても、米国などでもアフリカ系やアジア系の死亡率が高いという。そうしたマイノリティーは、サービス業や接客業など、対面で、しかも休んでいられない職業従事者が多く、結果的に死亡率が高いという現実がある。要するに、社会的少数派、社会的弱者が、新型コロナ感染症の犠牲者になっているわけだ。格差社会が、即、新型感染症の犠牲者にも現れているわけだ。

◆定額給付金の行く末

 新たな感染症の拡がりを受けて、安倍政権としても生活保障や縮小する経済へのてこ入れ政策も迫られ、総事業費117兆円、歳出総額25・7兆円という20年度補正予算を組んだ。

 非常時の緊急避難として財政措置は必要だし、生活困窮者への給付金も必要だろう。必要なところに素早く届く給付金、それには定額給付金がふさわしい。定額給付は低所得層ほど恩恵がある。それだけで所得再分配になる。反面、赤字国債による定額給付はバラマキになる、高額所得者にも支給するのは問題がある、という批判ももっともだ。

 双方を納得させる方策はある。定額給付を後日の増税とセットにする。高額所得者などには、年末調整や確定申告で一人10万円分はその分の100%増税で回収できる。制度設計の半年、一年の余裕期間もできる。給付金辞退や給付金の寄付などの声もあるが、それは個々人の判断に左右される。定額給付と後日の増税のセットで解決する。

 定額給付金問題は、現金を配る話なので、ひとり一人の利害関係に直結するので、どうしても人々の関心が高くなる。不満や公平観など、本音の声が噴き出す。それにまつわる意見も錯綜する。が、考えてみれば、「一人定額10万円」は貧弱なセーフティーネットという真実の裏返しでもある。

 一人定額10万円の現金給付は、民主党政権時の「子ども手当」を彷彿とさせる。「子ども手当」は臨時的な制度ではなく恒常的な制度問題だったが、結局、財源問題が解決されないまま、民主党政権が終わって消滅した。

 それはともかく、1人定額10万円を始め、安倍政権の緊急経済対策としての補正予算は、結局赤字事国債の発行による借金によるものだ。

 緊急時の赤字財政は必要だ。が、安倍政権による恒常的な放漫財政は緊急時の行動範囲を狭めている。だらだら続けられた金融緩和で、緊急時でもあらたな「バズーカ砲」もない。財政も同じ。借金地獄の中では、積極財政は財政破綻に直結する。

 付け加えれば、この定額10万円給付をはじめとした借金財政と赤字国債によるバラマキ財政。これはあの「MMT」(新貨幣理論)の実験場にもなっている。

 MMTによれば、通貨発行権を持つ統合政府(政府+中央銀行)は、高インフレになるまでどんなに借金を膨らましてもなんの問題もない、というものだ。では高インフレになったらどうするか、増税などで通貨を回収すればよい、という。比喩的に言えば、ビルを一階、また一階と建て増ししながら「崩れ落ちるまではまったく問題なし」という、まったく無責任なのものだが、それが現時点での安倍バラマキ財政で問われてくる。

 生産活動そのものと生産物が劇的に縮小しているのに、突然、一人10万円の購買力を手にする。普通はインフレ(貨幣価値の下落)が生じるが、そうなればインフレによる国の借金棒引き(国民の預貯金の目減り=収奪)か、国債を買い戻すための消費増税などで回収されるか、の話になってくる。これはまた今後のテーマだ。

◆新型コロナパンデミックは、世界を変える

 新型コロナ感染症の拡がりが今後どう推移するか、未だ見通せない。この4月末の一局面では漸減傾向にあるとも読み取れるが、市中にはまだ多くの感染者が存在するとされ、再び急増に転じる可能性も否定しきれない。それに専門家によれば、感染者がゼロになることはしばらくはあり得ない、いったん収まってもぶり返す可能性もあり、今後1~2年はウイルスと同居し続ける、とも言われており、長期化は避けられない。

 いまは感染症の終息を願うばかりだが、かつての感染症パンデミックは、世界を変えた、あるいは変化を促進してきたとも指摘されている。

 例えば14世紀の西洋で流行したペストもそうだ。人口減で農奴に依存した荘園制の解体が促進され、それまでの宗教権威が失墜した。逆に交易の発展がペストの伝播をもたらした結果、封建的身分制度の解体やルネッサンスを促進することになった……といわれている。

 今回の新型コロナウィルス感染症のあっという間の世界的拡散は、経済のグローバル化という土壌の上で起こったことであり、「新型コロナ後」には、その対抗社会化に向けた方策も模索されるはずだ。すでに感染症対策での国境を越えた連携の必要性も言及されており、経済合理性万能主義のグローバル化の是正、さらには都市への集中、首都圏への一極集中の是正の必要性も言われている。

 私たちとしても、脆弱なセーフティネットしか持てない弱肉強食の格差社会の変革が、いまこそ求められていることを再確認する必要がある。所得上位26人が世界の38億人と同じ資産を持っているという超格差社会、企業の内部留保が500兆円にせまる一方で、仕事を失えば、今日の食事、明日の住まいさえ脅かされるという格差社会の現実、その根本的是正は最も緊急でもっとの重要な課題だろう。

 新型コロナが世界を変えたと言われるなら、それはセーフネット最優先の利潤原理を克服した協同型社会としたい。(廣)案内へ戻る


 コラムの窓・・・読書三昧、と言うほどではありませんが?

 なるべく出かけないようにと言われても、公的施設は閉鎖され、映画館もやってないのだから、公園くらいしか行くところがありません。で、家で読書にふける日々が続いています。それも、文学書にたどり着く前にあれこれの資料を読む毎日です。

 そんななかで、手に取った水俣病センター相思社の機関紙「ごんずい」(156号)は特集「朝鮮半島と水俣病」として、永野三智「韓国、蔚山・浦項訪問記」、石牟禮智「朝鮮での思い出と脱出記」、加藤圭木「日窒財閥と朝鮮」の3篇が掲載され、実に興味深い内容でした。
 ご承知のように、チッソは朝鮮で興南工場を稼働(1927~45年)させ、現地の朝鮮人労働者を「工員は牛馬と思え」と過酷な労働を強制しました。父親がそこで勤務していた石牟禮智さんは、「社宅はオール電化。焚き物は要りませんでした。風呂もスチームで沸かしていました。便所は水洗。洋服、革靴、食事、今までと違い何不自由ない快適な生活でした」と振り返っています。

 敗戦後、「朝鮮人の社宅と入れ替わり」「行った先は4・5畳二間。竹で編んだようなものが敷かれていました。トイレも屋外で共同でした。電気は明かりだけ。炊事は焚き物」だったと言い、植民地化において天地ほど違った社宅の模様を子どもの目で明らかにしています。

 朝鮮近現代史を研究している一橋大学の加藤圭木さんは「そもそも日窒財閥は朝鮮総督府から水利権を与えられ、国家による金融面での支援も受けていた。それに加えて、工場や水力発電所建設用の土地の確保においては朝鮮総督府が日窒財閥と一体となって推進した」と指摘しています。

 それは、「化学肥料工場が建てられた興南という地域の工場用地の確保は、官憲が一体となって進められた。会社側の甘言により人々は極めて低価格で土地を手放した」「日窒財閥が朝鮮人労働者を過酷な条件で使用していたことも見逃せない。民族差別による低賃金を強いられ、戦時期には強制労働も行われた。日窒財閥は労働者を低賃金で酷使し、莫大な利益を上げることができた」ものです。

 公害輸出の原型として、「日窒財閥は水俣病を引き起こす以前に、朝鮮でも環境汚染を発生させ、健康被害をも引き起こしていた」と加藤さんは結論付けています。日本本国では工場法が制定されて不十分ながら公害規制の規定があったが、植民地朝鮮には適用されなかった、と。

 その事実を示す1937年に開かれた日窒財閥の技術会議の会議録よると、「日窒財閥は日本本国の工場とは異なり、朝鮮内全ての工場で排水を浄化することなく放流していたという」ことを指摘し、「『植民地にも公害があった』とだけ認識するのは不十分である。植民地差別ゆえに朝鮮で公害が引き起こされたという、その構図を踏まえて理解することが肝要である」等々。

 日本窒素肥料株式会社は1908年に設立され、水力発電によって得られた電気化学工業を始めています。植民地朝鮮で行っていた〝経営手法〟は水俣工場でも繰り返され、アセトアルデヒド生産工程で複製されたメチル水銀を含んだ排水は1932年から68年まで無処理で海に流されました。チッソの企業城下町水俣市はあたかも国内植民地の様相を呈し、豊かな海は水銀で汚染され、漁民を中心に多くの人々が水俣病となり、棄民として見捨てられたのです。日本企業あるところいずこもこうした様相だという事実を、コロナ過のいまと重ね合わせて肝に銘じておこうと思うのです。 (晴)


①「ごんずい」表紙の写真は、韓国浦項にあるPOSCO製鉄関連工場群

 浦項(ポハン)の町はPOSCOの城下町ですが、そのPOSCOは「日韓請求権協定」の補償金でつくられた会社です。蔚山・浦項を訪れた相思社理事の永野三智さんは、「国に惑わされることなく」韓国の人々と親交を深めたようです。

 浦項では2016年、河川から韓国の基準値を超える水銀が検出され、「流通していたシジミは全量回収されたが、調査をさらに進めていくと他の魚介類からも基準値を超える水銀が検出され、付近の漁業が禁止され、水産が盛んな地域に大きな衝撃が走った」ということです。

 だけど、「警察も検察も市も市議会の多数派も浦項工業大学もPOSCに気を遣って、何もいえない。そもそも浦項工業大学はPOSCOが作った大学で・・・」というありさま。これは水俣と同じ構図、企業城下町の〝悲哀〟と言ってしまえばそれまでですが、そう言ってすますことはできません。

 永野さんは、蔚山(ウルサン)では小学校で「韓日関係が愛と平和で包まれること」を目的とした講演を行い、食堂での昼食の様子を次のように記しています。併設の幼稚園児、警備員、スクールバスの運転手、事務員、教員が次々に同じテーブルで食事をしており、「食材はすべてオーガニックと聞き、驚きました。こどもの体を守る韓国、ナイス!」

②チッソ大阪本店(大阪中の島・関電本店ビルの隣・ダイビル8階)

 チッソは分社化によって補償の重荷を逃れることを画策しました。2009年9月に制定された「水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法」は、その名を偽るチッソ救済法でした。10年12月15日、環境大臣が事業再編計画を認可。11年1月12日、事業子会社として「JNC株式会社」設立。

 さらに2月8日、環境大臣がJNC社への事業譲渡を許可することによって、分社化が完了することになりました。チッソとJNCが同居しているのはそういう経緯によるものです。 (晴)案内へ戻る


 読書室  小西一雄氏著『資本主義の成熟と転換―現代の信用と恐慌』 桜井書店 2014年6月刊行

○社会的な格差の拡大と長期停滞の日本経済、さらにマネーゲーム化した国政金融、停滞する先進各国の実体経済、それらは私たちに一体何を示しているのか。また雇用不安と格差拡大に直面する国民生活、その原因はどこにあるのか。久留間学派の一翼を担う著者が長年にわたるマルクス恐慌論の研究と日米の現状分析に基づき、資本主義の現在とその未来を深堀りする。その理論的な射程は、現在進行中の世界的な新コロナ感染対策の経済政策の評価にも立派に通用する。その意味で極めて現代的な意義を本書は持っている○

 本書は、小西氏が大学教授を退官後に出版した著書である。小西氏はこれまで数々の共著の執筆や学術雑誌等に寄稿はしているが、単独での著書がなかったために一般には余り知られはいない。だが、日米経済の現状分析が出来る極めて稀なマルクス経済学者である。

 本書のはしがきの第1行目は、資本主義の賞味期限で始まる。小西氏によれば、食品と同じく資本主義にも賞味期限があるのだ。これが本書の最大の達意眼目である。そしてその賞味期限の到来は、日本では1990年代の「失われた10年」に始まったのである。

 米国も日本とは20年ほどずれたが、その賞味期限の到来が明らかになりつつある。そして日米ともに賞味期限到来の直前には、金融活況(いわゆるバブル)の、異常な輝きがあった。このように日米資本主義に対する著者の見方は、かくも冷静かつ冷徹である。

 小西氏によれば、本書の第一の課題は日米における資本主義の成熟とそれによる賞味期限の到来を具体的に分析すること。第二の課題は、マルクスの『資本論』が展開した資本主義分析の理論が日米の現代経済の分析にあたっても重要だと確認することである。

 第一の課題を端的に要約すれば、資本主義が成熟し賞味期限の到来した国での資本蓄積は、新自由主義的経済政策を採らざるをえず、またそのことで労働者民衆の生活基盤を一層破壊することになる。そして自らの存立基盤をさらに一層狭隘な所へと追い込むのだ。

 特にこの第二の課題については、私からもこの機会に是非一言しておきたい。

 マルクスが観察・研究した19世紀の資本主義と現代資本主義とは大きく異なるので、『資本論』の世界はもはや過去のものとなったとの見解が、マルクス経済学者の中でさえ多数派になっている。だが勿論小西氏はこんな俗論には組しない。確かにマルクスの生きた時代と現代とは、子供にも分かるような大きな変化がある。それは当たり前のことだ。

 しかしその変化の本質は何か、そしてその中で依然として変化していないものとは何か、この点を正確に理解するためにこそ『資本論』は活きてくる、これが小西氏の立場であり、この立場は本書の副題に表現されていることを、ここではっきりと指摘しておきたい。

 すなわち副題の「現代の信用と恐慌」とは、『資本論』の「信用論」・「恐慌論」の分野で扱われている問題が現状分析のための理論的枠組みとして極めて重要であり、小西氏自身がマルクスの産業循環論・恐慌論の理論研究と資本主義経済の現状分析を志向するとの態度表明でもある。私もまた小西氏のこの積極的な姿勢を高く評価するものである。

 ここで本書の構成を目次で紹介しておこう。

はしがき
序章 現代の産業循環・恐慌と信用―ドル体制下の世界―

第Ⅰ部 貨幣・信用論と現代
第1章 現代における貨幣と信用―金廃貨論と内生的貨幣供給論の批判
第2章「信用創造論」の呪縛―銀行信用の正しい理解のために
第3章 金ドル交換とその停止の意味―準備・介入通貨論と為替媒介通貨論
第4章 現代の金融取引・収益の特徴と本質―貨幣資本の蓄積と現実資本の蓄積

第Ⅱ部 資本主義の成熟と転換
第5章ドル体制の変容とアメリカ経済の転換―「カジノ資本主義」の形成・破綻・「復活」
補論1 2003年度の巨額介入と短期資本移動
第6章 岐路にたつ日本資本主義―利潤率の傾向的低下と日本資本主義
補論2 利潤率の傾向的低下法則はなぜ誤解されるのか
補論3 一般的利潤率の傾向的低下法則と「置塩の定理」
第7章 リフレ論の骨格とその帰結―リスクに満ちた実験

終章「利潤原理」の相対化―経済システムの転換に向けて
あとがき

 この構成に関して小西氏自身の説明を紹介すれば、第Ⅰ部の4章は本書の課題の第二の課題である理論問題を扱い、第Ⅱ部の第5章と第6章は本書の課題の第一の課題である日米資本主義の賞味期限の到来についての具体的分析を行っているとのことである。

 さらにこれを受けた第7章では、2013年4月4日以来、黒田日銀総裁の始めた「異次元の金融緩和」が如何におかしく、かつ危険な政策かを具体的に論じている。そして世界的に行われている「金融緩和」の正否は、現代における最大の金融問題なのである。

 すなわち私が本書を読書室で取り上げる理由も、この点の確認にある。さらに補論1は、2003年の日銀の巨額介入を、補論2・3は、日本資本主義分析の理論的視座となる「利潤率の傾向的低下の法則」をめぐる理論問題、特に「置塩の定理」を扱ったものである。

 そしてこれら2部構成の前にある序章は、本書の総論あるいは本書の内容を概観するものになっており、終章は岐路に立つ資本主義の「利潤原理」の相対化と、自立した諸個人の連合体たるアソシエーション論への小西氏の共感を示して終わるのである。

 そこで総論・本書の内容の概観となる序章の構成をさらに詳しく紹介しておきたい。

はじめに
第1節 バブル期と不況期でなにが違うのか―問題は利潤の動向
第2節 不況は突然やってくる―追加投資が利潤を生まない局面
第3節 産業循環・恐慌分析におけるマルクス経済学の優位性
第4節 好況は自立的には訪れない―新たな活況をもたらすために必要な条件
第5節「最初の衝撃」の型が決める産業循環の個性―循環的変動と構造的変化
第6節 過剰生産・景気の過熱は不可避であり、資本の制限は資本そのものである
第7節 不換制下の信用の役割と限界
第8節 兌換制下の限度を超える信用膨張とその限界
第9節 アメリカの経常収支赤字拡大・対外債務累積とその限界
おわりに

 今ここで私たちが確認できるように、小西氏はマルクス経済学の優位性をその産業循環論と恐慌分析とに見ている。

 具体的に言えばマルクスの産業循環論の詳しい解説はこの序章が担っているのであり、そしてこの産業循環に対するマルクスの認識にこそ、新古典派経済学と、ケインズ経済学と、マルクス経済学との間には大きな分岐がある、と小西氏は考えているのである。

 では産業循環に対する認識を、上記の各経済学ごとに簡潔に紹介してみよう。

 まず新古典派経済学は、なぜ産業循環が生ずるのかとの問題をそもそも立てられない。

 この経済学においては、そもそも不況とは単なる需給ギャップの問題であり、その解消には商品等の価格変動があるだけである。もし不況が長引くとすれば、それは価格システムが不全だからということになる。これが新古典派経済学の認識のすべてなのである。

 ケインズ経済学は、不況期には誰の目にも明確となる需給ギャップを個別企業の投資需要の不足によるものと認識する。

 なぜこうなるのかについては、ケインズは一つは市場経済の「不確実性」のため、つまり企業家が将来の景気見通しで弱気になること、今一つは投資家も将来の景気見通しで弱気になることで利子率が高止まりして、それゆえまた企業家・投資家の将来の景気見通しにおける弱気が市場を支配し、その結果として投資需要が減退するからだとするのである。

 このように現代アメリカ経済学の主流派である新古典派よりは、ケインズ経済学の方がよっぽどリアルな現実認識である。新古典派経済学のサムエルソンの弟子の小室直樹氏も、晩年には単純ケインズ・モデルだけで経済学を論じていたことを、私たちは今思い出す。

 最後のマルクス経済学では、エンゲルスの「恐慌においては社会的生産と資本主義的取得との間の矛盾は暴力的に爆発する。……商品生産と商品流通の全ての法則が逆立ちする。経済的衝突がその頂点に達し、生産様式が交換様式に反逆し、生産力が生産様式をこえて、この生産様式に反逆する」(『反デューリング論』)との記述が、資本主義の基本的矛盾を明らかにしたものとして、あまりにも有名である。この認識は正しいのだろうか。

 しかし産業循環がなぜどのようなきっかけで起きるのかについては、エンゲルの問題意識にはない。すなわちエンゲルスの基本的矛盾は、マルクスが不況・恐慌を資本主義の「生き生きした現実の矛盾」の爆発と考えたこととは大きく異なっているのである。

 なぜ産業循環が、そして恐慌が起こるのか、ここに深く分け入ったのが、マルクスだ。

 実際に好況と不況とを分かつのは、資本による設備投資の動向であり、この動向を左右するのは利潤で、不況への突入の直前には追加投資が利潤を生まず利潤率が急落する局面があること。またこうした局面は資本蓄積の過程で周期的に生ずること、かくしてこの産業循環のメカニズムは、序章の第1節から第6節で明らかにされている。

 このように序章ではその核心を、不況は突然やってくる、好況は自立的には訪れない、そして新たな活況をもたらすために必要な条件とは何かを究明し、「最初の衝撃」の型が決める産業循環の個性等、さらに循環的変動と構造的変化とは何かを明らかにし、結局のところ過剰生産・景気の過熱は不可避であり、結局の所資本の制限とは資本そのものであると、小西氏は実に詳しく解明しているのである。

 また小西氏は、現代資本主義分析の理論的視座として「利潤率の傾向的低下の法則」を重視している。この法則こそ、資本主義の成熟を象徴するものであるが、誤解も多い。したがって第6章と補論2、そして補論3では、この法則の意義についての正確な解説とこの法則を否定する論者に対する理論的批判を展開している。端的にいえば不況の本質は、単なる需給ギャップ、つまり流通する貨幣量の不足にあるではない。不況を流通貨幣量の不足と捉え、貨幣量を増やせばよいとする所にリフレ派の根本的な誤りがあるのである。

 さらに小西氏は、第7章で今は全くの死語となったアベノミクスを当初持ち上げ来た米国のリフレ派を、そして終章ではクルーグマンを批判している。これらの部分には現代的な意義がある。なぜならそこで指摘されていたことが、今でも立派に通用するからである。とりわけ世界的なコロナ対策として各国がより一層の金融緩和・財政支出策を実施しようとしている現在、改めて特段の注目が必要だろう。

 その指摘とは、世界各国の中央銀行で実施され、今後さらに拡大されようとしている「無限のQE」(Quantitative Easingの略で量的緩和政策)に未来はないということである。

 成熟期の資本主義にとって「無限のQE」とは如何なる意味を持っているのであろうか。

それは、基礎体力が落ちてきた人がカンフル剤を常用することに例えられようか。確かに一時は元気が出るが、常用していく内に徐々に打つ間隔も短く打つ量も増えていくことになり、その割には効果は以前ほどなくなっていくのである。薬に頼ることの弊害である。

 ここで問題となるのは、各国の中央銀行群はいつまで耐えられるかである。現在、米政府はトランプと民主党がそれぞれ違った形でコロナ危機対策の財政出動・米国債増刷を提案しまくっている。増刷される米国債はFBRが「無限のQE」で買い支える。このように米欧日の中銀の「無限のQE」で穴埋めせねばならない借金と損失の総額をできるだけ拡大しようとしている。まさにトランプと世界体制が欧米と日本にできるだけ厳格なコロナ対策としての都市閉鎖をやらせ、経済をできるだけ長く停止させようとしているのだ。

 このようにリーマン危機後に作られた世界体制とは、G20と「国際連合」により作り出された。それは、米連銀など各国の中央銀行群がQE=ジャブシャブマネーによってリーマン危機で破綻した債券金融システム=米金融覇権を延命させるため、準備されたものだ。今後、さらに世界的なコロナ危機が続くと欧米の中央銀行による「無限のQE」が破綻し、それにより米国覇権体制が大崩壊する。しかしそうともなると、各国の体制的危機が再び顕在化し、より一層大きな世界的恐慌が準備されて、一挙に大爆発するのである。

安倍政権が非常事態宣言を出すのが遅れたのはなぜか。安倍政権は出したくなかったからだ。嫌々出させられたのも、世界の同調圧力なのである。つまりここには世界的な規模で経済を停止し、世界を恐慌に陥れ、各国の中央銀行の「無限のQE」をより一層無制限に拡大し、結局は大破綻させ、一切を帳消しにしようとの彼らの共同謀議があるのだろう。

 紙幅の関係で触れられないが、新MMT貨幣理論の本質は貨幣数量説そのものである。

 山本太郎氏のブレーンとして反緊縮財政から積極財政を訴えている松尾匡氏は、小西氏が力説する現代資本主義分析の有力な武器となる、マルクスの一般的利潤率の傾向的低下法則を認めない数理マルクス経済学者の置塩信雄氏の弟子筋にあたる人物である。

 その松尾氏が「置塩の定理」の信奉者であることと、新MMT貨幣理論を高く評価することには、置塩氏の「マルクス理解」と通底する深い理論的継承関係があるのである。

 このことはもっと展開せねばならないが、紙幅の関係から指摘するだけにとどめたい。

 本書が只今品切れなので些か心苦しくはあるが、図書館などでの皆様の一読を是非にと期待する。(直木)


 本の紹介・・「都構想」を止めて大阪を豊かにする5つの方法 
    発行者 アイエス・エヌ株式会社 定価1600円+税

 著者は、大石あきこさん、元大阪府職員です。1977年大阪市に生まれ、2002年大阪府入庁し、2018年10月退職。2019年大阪府議会選挙に立候補するが惜しくも落選。

 大石さんは、大阪府職員時代の2008年3月13日、当時大阪府知事の橋下徹さんに、朝礼で物申した人です。

 大石さんは橋下さんに「どんだけサービス残業やってると思ってるんですか」。「今の府庁に問題はありますよ。でも、それは職場で職員が信頼関係を作って、上も下もなく、府民のための仕事を本気で議論することでしか解決しない」。「あなたは若い職員に、『上司に不満があれば自分にメールを送って』などときれいなことを言ったが、職場をバラバラにしている」。「職員と府民を分断している」。「あなたのやろうとしていることは逆ばかり」。

 橋下さんは、公務員は仕事をしないなどと言って、職員をこき下ろしていました。何ちゅう知事や。

 さて本は、大石さんと個別に3人の方と対談という形式です。

 まず、大石さんと京都大学教授の藤井聡さんの対談です。藤井さんは、維新がやろうとしている大阪市廃止・分割構想(大阪都構想以下トコーソーという)に反対されています。

 藤井さんは、トコーソーについて、「大阪市が解体されて、小さな財源と権限しかもたない4つの特別区に分割されると、住民サービスは徹底的に削られます。投資に回せる財源も大幅に減るので、経済も衰退します。10年以上も続く維新政治によって、もうすでに生活が苦しくなったと実感している人も多いと思いますが、『大阪都構想』が実現すると、さらにその苦しさに拍車がかかります。そのことをわかっていて賛成する人がいるとすれば、それはもう自殺行為です」。

 トコーソーは、政令指定都市である大阪市を廃止して、4つの特別区に分割されます。財源・権限は大幅に減るというとんでもないものです。

 藤井さんは、維新政治について「全体主義政治は『職場』であるとか『チーム』という存在を否定しますよね。彼らの考えているのは、トップがいて、あとは個々人の職員がいるという、単純な『二層構造』です。トップから個々人に直接命令を下したほうが、トップダウンがいきわたりやすいからです」、とその危険性について語っています。

 次に大石さんと、山本太郎さんの対談です。山本さんは、大阪維新の政治-水道民営化の動き、公立の病院や衛生研究所がリストラされ、介護も治水対策も予算を削減、公立学校の廃校-について、「安倍政権がやっていることの先どり」、と言っています。

 安倍政権と維新は、どちらも住民生活をおとしめるものです。

 続いて、大石さんと立命館大学教授の松尾匡さんの対談です。

 松尾さんは維新の政治、小さな政府をめざす新自由主義者が、自治体を民間企業のように見立てて、税金を使ってビジネスをしようとする、そのやり方に反対されています。住民のためにお金を使えと。

 最後に、本の題と同じ「都構想」を止めて大阪を豊かにする5つの方法について大石さんは、以下の論点を述べています。

1介護職の大幅賃上げと、介護保険料の減額 2保育の大幅賃上げと、子育て支援の充実 3教員の大幅増員で、公立学校を少人数学級に 4治水対策予算を回復、人命を救う計画を完全実施 5水道民営化をやめて管路更新し、経済を活性化 

 この本を読んであらためて、大阪市を廃止・4つの特別区に分割、財源・権限を大幅に縮小→大阪府に吸い上げ、カジノや万博などに予算を使おうとするトコーソーに断固反対です。(河野)案内へ戻る


「エイジの沖縄通信」(NO70)

①辺野古新基地建設予算を「コロナ感染対策」に!

 辺野古ゲート前の座り込みを続ける「辺野古新基地を造らせないオール沖縄会議」は、15日現地での反対運動を一時休止すると発表し抗議活動を中止した。

 共同代表の高里鈴代さんは「わたしたちは命を守るために基地建設に反対しているに、その運動の中で命をおとすようなことがあってはならない。休止は苦渋の決断でした」と述べている。

 沖縄でも新型コロナウイルスの感染拡大が進んでおり101人の感染者が出ており深刻な状況にある。12日に名護市で初めての感染者が出て、さらに16日には辺野古工事を担っていた作業員から始めて感染者が発生した。

 辺野古埋め立て工事を受注する大林組・大成建設は、全国の工事現場で従業員のコロナ感染が増加している状況を受けて、17日から辺野古工事も中止させている。防衛省が工事強行にひた走ろうとする中で、ゼネコンの方が工事中止に向けた動きを見せている。

17日玉城デニー知事は、辺野古の新基地建設工事の従業員にコロナウイルス感染が分かったことを受け、菅義偉官房長官に電話であらためて工事の中止を要請したが、河野防衛大臣から拒否されたと言う。

 こうしたコロナ感染問題のさなか、なんと21日午前8時40分ごろ防衛省沖縄防衛局の職員が、事前通告もなく名護市にある県北部土木事務所を突然訪れ、辺野古埋め立て海域東側にある軟弱地盤の改良工事の設計変更を県に申請した。新基地建設に反対する県の玉城デニー知事は当然認めない方針である。

 辺野古での抗議活動を中止している反対住民からは「今、申請するのは、力ずくでも沖縄をねじ伏せて工事を進めるという国の思惑が透けて見える。申請よりコロナの感染を防ぐことが先だ」との怒りの声。

 また、「県の全職員がコロナ問題で不眠不休の努力を続けているその真っ最中に、設計概要変更申請提出を強行したのだ。県民の命と暮らしが脅かされているというのに、何故、今、設計概要変更申請か?少なくとも緊急事態宣言が終息するまで何故待てなかったのか?今なら、県もきちんと対応できないからチャンスだと考えたのだろう。政府はこれほどまで腐りきっているのだ」と痛烈に批判している。

 防衛省は昨年12月、この軟弱地盤に対応するために総工費を9300億円に、埋め立て関連費だけでも7225億円、このうち軟弱地盤の関連費は1000億円を見込み、事業完了の期間はなんと約12年と言う計画見直し案を発表。米軍普天間飛行場の早期の返還という「移設根拠」はもはや通用しない。

 新型コロナウイルス問題で「経済打撃」「国民の生活苦」等々が叫ばれている今日、1兆円近い税金を投入する辺野古新基地建設を中止し、その予算を緊急の「コロナ感染対策」にむけるべきだ。

②米軍、危険な「泡消化剤」を市街地に拡散

 「コロナ感染」で揺れる沖縄において、またしても米軍基地で驚きの事故が起こった。

 4月10日、米軍普天間飛行場から発がん性が指摘される有機フッ素化合物の一種PFOS(ピーフォス)を含む泡消化剤が宜野湾市の市街地に流れ出し、河川を汚染し、泡が住宅地に降るなどの被害を出した。

 この泡消化剤に含まれる有害物質PFOS(ピーフォス)は、環境中で分解されにくく、蓄積しやすい性質から「永遠の化学物質」とも呼ばれ、発がん性など健康リスクが指摘され日本国内では原則、使用・製造が禁止されている。国際的にも規制され、日本でも米国でもPFOSを含まない消火剤に順次交換していくことになっている。だが米軍普天間飛行場では適切に交換を進めていないとみられ、2019年12月にも格納庫で装置の誤作動によりPFOSを含む泡消火剤が漏出したばかりである。

 沖縄防衛局によれば、普天間飛行場から流出した全体量は約22万7100リットル、うち米軍が基地内で回収したのは約8万3270リットル。6割以上の約14万3830リットル(200リットル入りドラム缶719本分)が基地外の川などに流れ出たことになる。また、消化剤の泡は風にあおられ川周辺の公道や住宅にも拡散した。

 回収作業についても問題が多く、市の消防本部が川で除去作業に当たったが、量が多すぎたため作業を断念した。現場に来た米軍は飛行場外の除去作業をせずに市消防の作業を傍観するだけ。沖縄防衛局の職員も同様に傍観するだけ。誰が責任を持って取り除くのか不明確なまま、自然にながれていくのを待つだけになったと言う。

 米軍の基地司令官が現場を訪れ「雨が降れば収まるだろう」と発言し、宜野湾市民から「当事者意識があるのか。基地外の現場に来たのもパフォーマンスにしか見えない」との怒りを買った。

 他の市民からも「流出は昨年の12月もあったが、基地への立ち入り調査をはじめ対応は進んでいない。やはり障害になっている『日米地位協定の改定』は不可欠だ。地位協定に書いていないという不備よりも、書いていてもその通りに運用しない問題が大きい。環境補足協定も、日米合同委員会合意も、適切に運用すれば今回の事故にも対応できたのではないか。まずは、ドイツやイタリア並の地位協定の改定が絶対に必要だと思う」との声を上げている。

 米軍の野放図な行動を助長してきたのは、日米地位協定の改定を求めず、基地内の事実上の「治外法権」を是認してきた日本政府だ。同時に地位協定の改定の声を上げない本土の私たちにも責任がある。日米地位協定の改定の声を上げていこう。

③ジュゴン1頭が大浦湾に戻る!

 沖縄からうれしい報告が届いた。1頭のジュゴンが大浦湾に戻ってきたようである。

 辺野古・大浦湾に3頭いたジュゴンが辺野古工事が始まってから行方不明となり、その後1頭のジュゴンが死んで発見されるなど、もうジュゴンは辺野古沖からいなくなったと思われていた。

 「ところが、大浦湾の中央部でジュゴンの可能性の高い鳴音が2月の3日間、19回にわたって確認されたと言う。現在、連日のように多くの土砂運搬船が大浦湾を航行しているが、今回ジュゴンと思われる鳴音が確認された3日間は、いずれも工事がない日だった。工事がない日にジュゴンが大浦湾に戻ってきているのだ。しかし防衛局は工事を止めようとはしない。工事を続けて、いったん大浦湾に戻ってきたジュゴンを追い散らそうとしているのだろう」(「チョイさんの沖縄日記」から)

 防衛局はただちに全ての辺野古工事を中止し、ジュゴンの調査を徹底的に実施すべきである。
(富田英司)案内へ戻る


 読者からの手紙・・・ 「介護崩壊に救いの手を!」

 私は先月まで高齢者介護業務に従事していた読者です。その立場より新型コロナ問題に関し投稿しました。

 現在、医療現場は医療崩壊と呼ぶべき深刻な状況に近づきつつあります。

 一方でこれまでそれほど注目されてきませんでしたが、介護現場においても「介護崩壊」が危惧される状況です。

 4月21日の報道によると、全国で883もの介護事業所が休業に追い込まれています。その多くはデイケアやデイサービス等の通所型の事業所です。これらの事業所では利用者が事業所に通い、食事・入浴・運動・レクレーション等のサービスを受ける事が出来ます。

 利用者が事業所外から通所するため、事業所内への感染拡大が懸念され、実際に全国で感染事例が報告されています 。
感染を防止する為に多くの事業所が自主休業しています。

 休業の影響は利用者の、身体・認知機能、栄養状態、衛生状態の悪化に直結します。また、家族の介護負担も増加します。

 通所事業所が休業になった場合の対応として、訪問介護による代替が検討されます。しかし訪問介護事業所は通常時においてもヘルパー不足に悩まされている状況であり、とても新たなサービスに対応する事は出来ません。

 休業が長期化すれば通所事業所の事業継続も困難となります。

 私が考える打開策は次の方法です。

 通所事業所が休業した場合、当該事業所の職員がヘルパーとして訪問介護サービスを行います。現行制度においては、訪問介護の運営基準を満たしていなければ、訪問介護サービスを行う事は出来ません。しかし、現下の状況に鑑み緊急措置として柔軟に対応できるようにします。

 この他、各種の老人ホームやグループホーム等の施設系サービスにおいても新型コロナ感染の影響が出ています。多くの施設で、感染防止の為に家族の面会を断っています。親子や夫婦間での面会も出来ない状態です。この状態が長期化すれば、利用者が家族を忘れてしまう事にもなりかねません。

 解決方法として、テレビ電話による面会が考えられます。LINE・Skype・Zoom 等のアプリを使いオンライン上で面会するわけです。当然、経費がかかりますので、行政による補助が必要です。

 私は退職した事により、就職活動が必要となりました。しかし、現在のような他人との接触機会を極力減らす事が求められる状況では、充分な就職活動を行う事は出来ません。私の求める救済措置は以下の三点です。

①求職申込等の手続きをハローワークに出向かずオンライン上で出来るようにする。

②現行では、ハローワークに対し求職活動を行った報告を行い、失業の認定を受ける事が必要ですが、これを免除する。

③失業手当ての給付期間を当面1年間とする。

失業者が新型コロナから身を守りながら生活を維持出来る措置が講じられるべきであると考えます。陽炎(筆名です)(介護労働者)


 「読者からの声」

 安倍首相の「コロナ対策」に対する批判・怒りが高まっている。

 いつまでたっても「PCR検査」がなかなか進まない。このPCR検査こそ、「コロナ対策」の基本となるデータになるのに。ところが安倍首相は「世帯ごとの布マスク2枚配布」に時間とお金を浪費している。

 さらに、マスクの「不良品問題」が起こり未配布のマスクを全て回収することになった。市民からも「郵送だけでも巨額の費用がかかる。不良品を送るなんてお金をどぶに捨てるようなものだ」との怒りの声が上がっている。

 4月24日の東京新聞「こちら特捜部」の中で、元鳥取県知事の片山善博氏は「安倍首相の支持率低下の理由については、評判が良さそうなことをやろうという姿勢で、危機の本質を見抜いた政策の理念が全く見えない。ピントがずれている」と述べている。まったく同感である。

 もう一つ気になる問題は、世界の指導者達は「戦後最大の難局である。この戦争に勝たなくてはならない」と威勢の良い言葉を発しているが、今の状況を考えれば世界的なコロナ感染を食い止めるのはなかなか難しい。私は、この難局を乗り越えるには世界各国の指導者達が地球規模で連帯し、統一的な新型コロナウイルス対策と連携を進めていく事。こうした方向性を確立することが必要だと考える。

 ところが、世界の大国の指導者であるトランプ大統領の発言による「米国と中国の批判合戦」、また「EU首脳の不一致」も目立っており、この先本当にこの戦後最大の難局を乗り越えることが出来るのか?疑問と不安を感ずる。

 今「コロナ感染」が進む中、カフカの「ペスト」などの本が多く読まれていると言う。

 私も不安の中幾つかの関連本を読んだが、小松左京氏の「復活の日」が心に残った。

 皆さんもご存知のように、小松左京氏は「日本沈没」などで有名な「日本SF作家」で、この「復活の日」は1980年に書かれ、初めての「南極ロケ」も行った映画作品は大変有名になった。

 秘密軍事研究所が所有していた「ウイルス」が事故によって世界に蔓延し、まさに人類が滅びる危機を迎える。世界で唯一生き延びたのは南極の各国の「南極観測隊」であった。

 昭和基地の日本を始め、アメリカ、イギリス、ソ連、フランス、オーストラリア、ベルギー、ニュージーランド、ノルウェー、アルゼンチン等々の全南極の各国基地の代表が集まり、人類滅亡という難局を乗り越えるために「各国南極観測隊相互連絡会議」を立ち上げる。
 生き残るために各国のそれぞれの観測隊メンバーが「連絡会議」に結集し、組織の自主管理運営をしながら、滅亡という難局を乗り越えて「復活」していく物語である。

 私たちは世界的規模の新型コロナウイルス危機を迎えている。これを乗り越えていくためには各国による世界協力体制の構築が必要不可欠である。今、私たちは「復活」が試されている。(団塊の読者)


 色鉛筆・・・コロナの嵐
 
私は特別支援学校で働いています。

今年の初めは、生徒たちとニュースを見て中国は大変だねと話していました。

二月になり手洗い、うがいをして気を付けようと話し合い、まだ売っていた消毒液を購入し補充していました。近くのドラッグストアに中国の方がマスクを一杯購入している姿を見かけても、「ああ、中国は大変なんだね。」くらいにしか思わず、マスクが店頭から無くなるなんて夢にも思いませんでした。

 二月下旬には、いきなり休校になり、かろうじてできた卒業式も在校生は参加できず離任式も無くなりました。卒業式に参加できない在校生はこのどうしょうもない出来事に大泣きをして先輩たちとお別れしました。そして、いまだに休校が続いています。子供達に逢えずに、ハリのない寂しい毎日です。しかし命を守ることが優先されると思うので仕方ないと思います。離れている子供達との関わりを模索中です。

 私自身も季節の変わり目のせいか体調が悪くなり、微熱が出たり三十七度あたりをうろうろしていたり、胃痛があったり下痢に苦しんだり、喉が痛い時もあります。宮城県で急激にコロナ感染者が増え、私も不安を覚え、県の相談センターに電話しました。なかなか繋がらず一時間かけ続けてやっとかかりました。しかし一分も話していません。三十七度五分を超えないと喉が痛くても、他に体調が悪くても、コロナでありませんとバッサリ言われました。

私は基礎疾患を持っているので心配だと訴えましたが、事前に電話をしてから、近くの病院に行くように指示されました。科学的な検査をしないで、コロナではないと言い切れるのか、ものすごく違和感を感じました。相談センターの方も機械的にならざるを得ない忙しさ日々を毎日送っているのだなと感じました。

 ドライブスルー検査もやっと導入されるようです。自分のかかりつけの医師に電話相談して保険のきく範囲で自分の意思でコロナの検査を受けたいです。抗体検査もはやく全員がスムーズに受けられることを強く願います。

そして、コロナに感染した人たちの回復を願うことが大切で、感染者は絶対に非難されてはいけないと思います。公表されたことで、みんなが注意していけるのです。みんなで見守って行くべきです。

もはや、いつ感染するかわからない状況です。

今こそお互いに助け合える共生社会の体制を強く望みます。 (宮城 弥生)

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