ワーカーズ608号 (2020/7/1)    案内に戻る

 河井議員逮捕・・・買収疑惑「トカゲの尻尾切り」では済まされない!

 「また選挙違反か?」と言って済ませられない程、今回の「買収疑惑」で異様さが目立つのは何故か?周知の通り検察当局は、河井案里参院議員(広島選挙区)の買収容疑で、河井克行衆院議員(広島三区)と共に逮捕に踏み切ったのだが、問題はその経過の異様さである。

 その第一は、広島地検の捜査と並行した「黒川検事長の定年延長」問題である。安倍政権は、今年の二月で定年予定の東京地検の黒川弘務検事長を、脱法的「閣議決定」で定年延長し、次期検事総長に昇任させようとし、さらにそれを正当化するため「国家公務員の定年延長」法案と抱き合わせて「検察官の特例」を強行しようとした。結局、野党や世論の反発や、黒川氏自身の「賭け麻雀」辞職もあって頓挫することになったが、そこまでして黒川検事長にこだわった背景のひとつが、この河井事件ではないかと言われている。

 第二に、昨年七月の参議院広島選挙区をめぐる「買収疑惑」の資金源が、安倍氏が総裁を務める自民党本部から交付された一億五千万円(通常の十倍)という法外な支部交付金に関係している疑いである。すでに県連の推薦を得て六期目を目指す溝手顕正氏にぶつけるような「保守分裂選挙」をしかけた中であった。溝手氏の地盤である広島県連や宏池会に手を突っ込んで、安倍事務所のスタッフまで投入しての思惑は何だったのか。「過去の安倍批判の言動に恨みを抱いていたのでは?」などと言われるが、そうだとすれば「自分の意に沿わない」者は押し潰し「お友だち議員」にすげ替え「改憲勢力」を強固にする、そんな思惑が透けて見える。

 ところで広島といえば「原爆ドーム」で知られる「平和の地」である。また呉の「旧海軍兵学校」や「旧海軍工廠」もあり、ここで建造された「戦艦大和」は太平洋戦争末期、特攻機作戦の途上に撃沈され、多くの青年の命を無残に奪った。今この地を訪れる人々の「平和への思い」は切実なものがある。その「平和の地」を「買収疑惑」で汚した安倍政治の罪深さには、重ねて憤りを禁じえない。

 この事件を「トカゲのシッポ切り」に終わらせてはならない。不透明な資金を投入して分裂選挙をしかけ、検察庁人事に介入して隠蔽をはかる安倍首相の思惑、その根っ子にある「改憲」への狙いをとことん暴き、退陣に追い込まなければならない!(夏彦)


 「祝勝会オリンピック」反対!

 酷い夏がやってきた。酷暑や豪雨だけではない。新型コロナの「第二波」に怯えながらの夏である。収入や職を奪われ、夏休みも短縮され、「GO TOキャンペーン」どころではない。コロナ禍がなければ今頃は「東京オリンピック・パラリンピック」に沸いているところだったが、それも来年に「延期」された。

●なぜ酷暑の時期に

 だが冷静に考えてみよう。気候変動で年々「熱帯化」する日本で、果たしてこの時期に「スポーツの祭典」を催すことが適当だったか?昨年の「ドーハ世界陸上」で熱中症に倒れていく選手達に「ショックを受けた」IOCバッハ会長が、急遽マラソンを札幌に変更したのは記憶に新しい。ならば、そもそも秋晴れで「スポーツ日和」の十月に変更すればよいのだ。できない理由は「他の大会や大リーグの実況中継があり動かせない」からと言う。選手の健康より「放映権料」が優先されるオリンピックとは、いったい何なのか?

●復興五輪の偽り

 考えてみれば、迷走は「東京招致」の段階から始まっていた。福島原発事故後の放射能汚染を懸念する国際世論に「アンダー・コントロール」(安部首相)と詭弁を弄したことに、被災地の人々から抗議の声が上がったのを忘れることはできない。そこから国民の目をそらすかのように「復興五輪」と言い出した。ところが新型コロナ感染が広がりだすと、「人類がウィルスに打ち勝つ証しとしてのオリンピック」と手の平を返したように言い換える。実際に五輪特需で潤っているのは、都心部再開発で競技場周辺施設やマンション・道路を建設する大手建設会社や不動産会社である。

●国威発揚の場

 クーベルタン男爵が「平和の祭典」として始めたオリンピック。だがそれはほどなく「国威発揚」の場に変質していった。一九三〇年のベルリン・オリンピックが「ナチズム」に利用されたのは典型的だ。今回だって安倍政権が何としても「中止」だけは回避し「延期」してでも「実施」に固執しているわけは、「アスリート達の夢をかなえる」ためというより、「ナショナリズム」発揚の絶好の機会を手放したくないからではないか。五輪の国民的熱狂が覚めないうりに、あわよくば「憲法改定」につなげたいという意図が透けて見える。だが「第二波」「第三波」によっては、どうなるかわからないではないか。都知事選でも「五輪の中止」を公約に掲げる候補者が出てくるのは当然のことだろう。

●多様化するスポーツ

 「スポーツの祭典」というが、今はスポーツの世界も多様化、成熟化している。サッカーファンなら、オリンピックより「ワールドカップ」に関心がある。世界各地で開催される予選から、本番のリーグ戦に至るまで、アスリート達も存分に力を発揮でき、ファンも各国チームの様々な戦い方を堪能できる。オリンピックのサッカー試合は、言ってみれば「ダイジェスト版」でしかない。バレーボールもバスケットボールも同様である。個人種目にしても「世界陸上」「世界水泳」などアスリートが力を発揮することを考えれば、種目毎の世界大会の方が実は充実した舞台を提供できるのだ。

また「車椅子バスケットボール」の世界大会は、開催自治体の「共生の街作り」を掲げたバックアップで「パラリンピック」以上に盛大な賑わいを見せるまでになっている。スポーツファンの関心も多様化する今日、すべての競技種目を集中して開催する意義は薄れてきている。

●市民スポーツが主流

 また「アマチュアスポーツ」の世界も今日では様変わりしている。その裾野も広がり、市民マラソンをはじめ、各地で開催される市民スポーツイベントに、旅行も兼ねて参加することに喜びを感じる人々が増えている。暑い夏は避暑を兼ねて、離島でのトライアスロン。寒い冬は一足早く「菜の花」の咲く鹿児島でフルマラソン。それで楽しんで、職場や家族の人間関係が少しでも豊かになるなら、それでよいではないか。

●スポーツの格差貧困

 ただ、その一方で「アマチュアスポーツ」の世界にも格差や貧困が反映し始めていることが問題だ。少年サッカーチームやスケートクラブにも、それなりの出費を要し家計を圧迫し、わが子をスポーツクラブに参加させる経済的余裕の無い家庭は増えている。では、小中学校の部活はと言えば、学校教師の課外教育の負担は重くなっていて、教育労働者は本来の授業の準備の他に、過重労働を強いられメンタルヘルスの原因にもなっている。部活におけるイジメも多発している。そんな中、部活への民間委託まで取沙汰されている。

●公共の文化事業として

 地方自治体や近隣の大学が、地域の青少年スポーツを公共の文化事業として、責任を持ってサポートするシステムを確立し、親や教師への過度な負担を軽減すべきた。オリンピックは「アマチュアの祭典」の陰で、エリートアスリート育成を助長し、むしろスポーツにおける格差貧困を隠蔽する役割を果たしてきた事も否定できない。

●プロパガンダ五輪反対

 「金メダル」の数が一人歩きし、裏では五輪マネーが暗躍。そしてブルーインパルスが大空に描く「祝勝会五輪」・・・。そんな「プロパガンダ」狙いのオリンピックはもうゴメンだ。地域で市民が普通にスポーツを楽しめるよう、所得格差をなくし、労働時間も余裕をもたせ、自治体が事業を支える、そんな社会こそが私達の望みではないだろうか?(松本誠也)案内に戻る


 ちょっと待て!「テレワーク」どうなる?コロナ後の働き方

●「三密」対策で導入

 新型コロナに伴う「自粛・休業」と並行して「テレワーク」(在宅勤務)が広がった。そして「コロナ後の新しい働き方」と持てはやされているが、ちょっと待て!テレワークは良いことばかりではない。へたをすれば新たな「働き過ぎ」と「格差拡大」につながり、働き方改革への逆風となりかねない。

●通勤地獄からの解放

 確かに良い面もある。大都市圏で毎日片道二時間以上も通勤電車やバスにゆられ、夜遅く帰宅し風呂に入って寝るだけ、朝早く睡眠不足のまま出勤電車。そんな「通勤奴隷」から解放されるのは、大きなメリットにちがいない。在宅時間が増え、子育てや老親のケアと両立し「ワークライフバランス」の回復にもなる面もある。

●在宅残業を助長

 だが企業の労務管理の現実は、そんなに甘くない!まず、ズサンな出退勤管理の現状のまま導入されれば、時間外労働規制は絵に描いた餅になるのは明らかだろう。今でさえUSBチップで「持ち帰り残業」をせざるをえない社員にとって、テレワークは「残業漬け在宅勤務」でしかない。需要減の現在はまだしも、再び繁忙期を迎えたり、人員削減をされたりすれば、「テレワーク超勤」問題は一挙に顕在化しかねない。

●人件費の削減圧力

 新たな「格差拡大」の懸念もある。働き方改革では正規と非正規の「同一労働・同一賃金」が掲げられていて、あたかも格差拡大が期待できるかであった。ところがコロナ危機で「固定費縮減圧力」が強まる現在、「同一」は低い方に合わせることが画策されている。非正規との平等と称して正社員の「家族手当」や「住宅手当」を廃止または段階的に縮小しようという。

●ジョブ型賃金

 さらに「ジョブ型賃金」への切り替えである。これまでの定期昇給を前提として「職務・職能給」ではなく、仕事の「難易度」や「目標達成度」によって、個々に労働者の賃金を管理するのである。これにより、正規・非正規を問わず個別の「ジョブ」による新たな格差が拡大する動きが広がっている。

●労働者の主導で

 テレワーク導入は、新たな時間外規制の仕組みや賃金保障とセットでおこなうことが不可欠である。導入にあたっては、労使で条件を交渉する必要がある。「コロナ後の新しい働き方」は企業主義主体の「テレワーク」や「ジョブ型勤務」に身を任せるのでなく、働く者自身の手で切り開いていくべきである。(松本誠也)


 〝労働〟の価値の再評価を!――日常生活を直接支えるライフライン労働をもっと評価させよう!――

 新型コロナ感染症による死者の割合が、低所得階層や有色人種などに多くなっているという。こんなところにも格差社会のひずみが現れているわけだ。

 他方で、緊急事態宣言下の人々の日常生活を支える労働への評価が低いという現実もあらわになった。あわせて、感染拡大の第2波、3波が見込まれる中、不安定・低処遇の非正規労働者の処遇を抜本的に引き上げることや、物資の補給路を含むライフラインを支える労働を再評価する必要性が高まっている。

 前々号では脆弱なセーフティ・ネットの張り替えを取り上げたが、ここではライフライン労働の再評価や、当事者による主体的な闘いの重要性について考えてみたい。

◆感染症にも格差社会!

 今回の新型コロナの世界的パンデミックで、感染者や死亡者の比率が格差社会をそのまま反映した結果になっていることが注目されている。死者が多い米国や欧州でもはっきり現れてるが、低所得階層や黒人やヒスパニックなどの有色人種の死亡率が高くなっているという。

 例えば4月8日時点でのニューヨーク市を除くニューヨーク州での統計数字だ。総人口の11%を占めるヒスパニック系の死亡率は14%、9%を占めるアフリカ系(黒人)が18%、75%を占める白人が62%、4%のアジア系が4%だったという。

 理由として挙げられているのは、就業構造の違いだ。黒人は全労働者の12%程度だが、運転手や配達など、人と接触する仕事に就いているのは20%になるという。ウィルス拡散で拡がったテレワーク(=在宅勤務)などができるホワイトカラー職の多くは白人層で、相対的に割高の賃金で働いている。対して、小売や飲食店などのサービス業、それにライフラインの一端を担う配達業や清掃業など、人々の日常生活の維持に欠かせない職種では、黒人やヒスパニックが多く就き、しかも、低所得層が多いという事情がある。

 そうした人々が存在するからこそ、在宅勤務=テレワークなどで相対的に安全な環境で働き続けることができるわけだ。逆にライフラインを担っている現業に従事する黒人や移民労働者は、仕事の性格上、テレワークは不可能で、しかも不安定、低賃金労働者が多い。その結果、本来は人種や所得階層を問わず拡がるはずのコロナ感染症患者やその死亡者が、低所得層や有色人種に偏って現れるわけだ。

 こうした現実は、ウイルス感染症の拡がりそのものが人間による経済活動に起因していることも含め、その犠牲者が現実の経済格差をそのまま反映してしまうという〝人災〟でもあり、早急に克服すべき課題だろう。

◆低いライフライン労働の評価・処遇

 新型コロナの拡大で、医師や看護師を始め感染症病棟を中心に医療従事者の負担が極限まで高まったり、多くの施設で感染者が出た介護施設でも介護職員の負担も大きく膨らんだ。

 そうした医師の一部や看護・介護職従事者は、コロナ以前からその仕事への低い評価や劣悪な処遇が放置されてきた経緯がある。今回の感染症の場面だけでなく、日本でもヘルパーなどの介護職の評価や処遇はとても低いのが実情だ。

 例えば、「介護職にリスペクトを」という表題で介護職の置かれた実情の一端を紹介するインタビュー記事もあった。(朝日新聞6月3日)

 ある介護ヘルパーが利用者宅でおむつ交換をしていた。その最中、利用者から「こんな汚い仕事、娘や孫にはさせられないわ」と言われたという。また別のケースでは医療チームによる往診に際して、「お医者さんと看護師さんは表玄関」「ヘルパーさんは裏の勝手口に回って」といわれたという。

 これらは悪気があったわけではなく、「ありがとう」という感謝の言葉とともに〝自然〟に発せられた言葉だという。当事者が言うには、だからこそ介護職に対する「無意識で悪意のない見下し」を感じさせられたという。要するに、介護職を「簡単で単純で誰でもできるつまらない労働」「底辺職」だという思い込みがあるのだという。その結果の一端が、全産業より10万円も低い賃金も含めて、介護職に人材が集まらない、離れていってしまう、という現実がもたらされていると指摘する。

 今回の新型コロナでも、医療・介護従事者の使命感に支えられた献身的な貢献があったればこそ、なんとか医療崩壊を免れてきた面もある。あらためて人命を支える医療・看護・介護職の重要性を再確認するとともに、従事者の処遇改善をなんとしても実現すべきだろう。

 同じようなことは、ライフラインを支えている労働者にもいえる。その仕事への評価も処遇も極めて低いのが実情だ。

 例えば私の知り合いの配達業従事者の体験談だ。新型コロナで食品のデリバリーやその他の取り寄せ商品の宅配に携わる彼は、配達物を届けに玄関に入ると、そこの住人にいきなり除菌スプレーを上半身に吹き付けられたことがあったという。その住人に悪気が合ったかどうか不明だが、配達員をウィルス運搬人であるかのような扱いをされた、と感じたという。少なくとも、在宅勤務や在宅で相対的に安全に暮らせるのは、運送や配達の仕事に従事する人たちが存在していればこそだという認識が希薄だったのだろう。

◆しわ寄せは非正規に

 今回の新型コロナでも、緊急事態宣言下で、多くの労働者が在宅勤務=テレワークに従事した。結果的に都心部などオフィスエリアから遠く離れた住宅地での生活が不可避になり、日常の生活圏もオフィス街ではなく、住宅街に移ることになった。その住宅街での日常生活を維持するライフライン労働やそれを担う労働者の存在も欠かせない。

 例えば、在宅で宅配業者やネット通販での配達員などに頼るケースも急拡大した。そうしたライフラインに携わる労働者の多くは、低処遇労働者が多い職場でもある。たとえば食品配達代行会社のウーバーイーツで働く労働者は、注文が入ったときだけネットを介して業務委託を契約する、いわゆる「ギグワーカー」という個人事業者・フリーランスの扱いだ。そのため、現状では事故や病気になっても労働者としての補償は受けられない。

 また、各世帯から出される家庭ゴミの回収に従事する労働者、あるいは清掃業務に携わる労働者などウィルス感染のリスクが高い仕事でも、多くが臨時雇い・期間従業員・契約社員など低処遇で、しかも休むこともできない。

 今回の新型コロナでも、そうした非正規労働者にしわ寄せが集中していることは、独立行政法人の労働政策研究・研修機構が6月10日に発表した調査でも明らかだ。結果は、正社員で収入が減った人は5人に一人の21・3%であるのに対し、非正規は3人に一人の30・3%だったという。

 資本主義経済での賃金・報酬額は、より多くの付加価値を作り出した、と見なされる労働に与えられることになっている。しかしそれは建前だ。現実はといえば、頂点にお手盛りで高額報酬を手にする企業経営者やトレーダーなど金融取引従事者がおり、その下には無駄な仕事も多い管理部門従事者がいる。そして外部には、自社株買いや溜め込まれた内部留保で株資産が膨らんだ株保有者もいる。経済活動の成果の多くは、そういう人たちの懐を膨らませているのが現実だ。逆に、人々の日常生活を直接支える仕事の従事者の待遇は極めて低く押し止められたままだ。

 おかしくはないだろうか。そのいびつさと不条理さの一端が、今回のコロナ感染の拡がりで可視化されたわけだ。

 多様な労働の価値をもう一度ゼロから見直すべきだろう。その労働がどれだけ利益・付加価値を作り出したかという曖昧な基準によってではなく、その労働がどれだけ人々の日常生活の支えに欠かせないものなのか、を基準とすべきなのだ。医療・介護労働、物流・配送労働、それに清掃労働などに今以上に人的・物的資源を投入すること、むしろ「3K労働」などといわれる〝人が嫌がる仕事〟の価値こそ、もっと高く評価すべきなのだ。現行の経済システム・価値観は、根本からひっくり返さなければならない。

◆頼りは自身の日常的な闘い!

 今回のコロナでは、一人10万円の定額給付金が話題を集めた。たしかに、新型コロナで職を失ったり、収入を絶たれたりした人の生活を支えるための定額給付金は、緊急に必要な局面だった。

 ただここでは、失職したり収入を減らされたりした労働者自身による闘い、それも個人加盟のユニオンなどを通じた闘いで活路を開いた当事者に着目してみたい。

 新型コロナで休業や廃業に追い込まれた事業者は多い。そこで働く労働者も、解雇や休業に追いやられたケースも多く報道されている。その多くが就業者の4割を占めるまで増えた非正規労働者だ。

 コロナ感染症で事業の縮小を余儀なくされた業種では、正社員にも一時休業を実施した会社も多かったが、中でも非正規労働者に対する休業では、多くの不当な扱いが繰り返された。要するに、〝解雇された〟〝休業扱いにされたが無給だった〟などという扱いは各所で拡がった。

 たとえば、都内のタクシー会社「ロイヤルリムジン」が、グループ会社を含む600人の乗務員全員の解雇を通告したが、4月11日に有志が個人加盟の労組に加入して解雇撤回や補償給を求めて団体交渉を申し入れた。その後、地位保全を求める仮処分を東京地裁に申し立て、4月24日の団体交渉で解雇撤回を労組に伝える、という成果を上げたという。

 首都圏のそばチェーン店「富士そば」では、従業員が個人でも入れる飲食店ユニオンに加盟して団体交渉を申し入れ、減額されていた給与の補償を勝ち取ったという事例もあった。

 また、約380のスポーツジムを経営するコナミスポーツでも、時給制のアルバイトスタッフという女性インストラクターが休業指示されたケースもあった。急遽、個人でも加入できる総合サポートユニオンに同僚とともに加入し、会社に休業手当の支払いを求めたところ、当初は、会社の担当者は「ノーワーク・ノーペイ」だと支払いを拒否したという。ところがその日の夕方になって、会社は休業手当を支給すると発表したという事例もあった。要求は、とりあえず実現したわけだ。当該の女性インストラクターは「誰かが行動しないとなにも動かない……。」と感じているという。

 これらの事例はほんの一部。当初は労組もない会社で解雇や賃金カットなど、一方的なしわ寄せを受けてきた労働者が、労組を結成するなどして、正当な要求を会社に申し入れ、一定の成果を上げたという事例になっている。

 新型コロナでの、政府による一人一律10万円の定額給付金の支給や、都知事選候補者による10万円の給付金の支給など、緊急に必要なケースもあるにしても、政府や自治体に依存するだけでは、様々に現れる新型コロナによる生活破壊に対処できない。ここはひとり一人の労働者が行動を起こして、身近なところから生活破壊を一つ一つはね返していく闘いを拡げていきたい。

 そのためには、非正規労働者など、身近な場所で労組を結成するなり、身近にある労組に加入するなり、自ら立ち上がることで生活補償を勝ち取っていく必要がある。それで全て解決とはならないにしても、少なくとも生活確保のスタートラインには立てる。何よりも、自分自身が行動を起こして生活補償を勝ち取ることが、一番確かな道なのだ、ということをあらためて確認したい。(廣)案内に戻る


 読書室 白井聡氏著『武器としての「資本論」』東洋経済新報社2020年4月刊行
―新自由主義が跋扈する現代日本で生き延びるための武器としての『資本論』新入門書―

 この読書室では、気鋭の政治評論家である白井聡氏の本を過去に三度取り上げて書評したことがある。彼の書く本の多くは『永続敗戦論』等の政治本や哲学本だが、今回取り上げる本は初の経済本である。

 本書の冒頭で白井氏は、東京で働いていた頃の忘れがたい記憶を披瀝する。それは午後6時台の新宿からの下り電車に乗った時の情景である。折からの帰宅ラッシュの車内で、白井氏の目の前に立つサラリーマンが文庫本を読んでいた。

 電車がどんどん混んできて、ギュウギュウ詰めになっていったのだが、その男は本を脇目もふらず一生懸命に読んでいる。「こんな状態で無理矢理本を読む」とは一体どんな了見なのか、と白井氏は不愉快になって彼が夢中のその本を覗き込むとなんと『資本論』だったのである。

 その時、白井氏は吃驚すると共に「確かに『資本論』は、こうまでして読む本だよな」と、その男の姿にまさに「生き延びるための『資本論』」を見たと思ったと回想する。

 白井氏によれば、『資本論』の凄い所は、一方では国際経済、グローバルな資本主義の発展傾向というような最大限にスーケルの大きい話に関わっていながら、他方で極めて身近な、自分の上司がなぜイヤな態度を取るのか、というような非常にミクロなことにも関わる所である。そして実はそれらがすべて構造的に?がっていることを見せてくれる所にある。

 しかし白井氏によれば既存の『資本論』入門書には、この凄さが読んで生き生きと伝わってくるものが見当たらない。だから『資本論』の偉大さが直接読者に伝わる本を書きたいと白井氏は思ったとのことである。このように白井氏の『資本論』に対する問題意識は実に明確だ。

 なぜ混雑した電車で会社に行かねばならないのか、等の現実に対して私たちは様々な疑問がわく。そして私たちが生活の中で直面する不条理や苦痛がどんなメカニズムで必然化されるのか、私たちはそれが知りたいのだ。白井氏は、それらの疑問に対する回答を『資本論』は鮮やかに示すとするのである。

 そもそも真理を他人にしっかりと認識させるためには、明確なロジックと優れたレトリックと的確な展開方法が必要不可欠である。そしてそれを担保するものは、現実に対する筆者の優れた問題意識とその才能である。

 それではここで『武器としての「資本論」』の目次を、以下に紹介しておこう。

 はじめに 生き延びるための「武器」としての『資本論』
 第1講 本書はどのような『資本論』入門なのか
 第2講 資本主義社会とは?――万物の「商品化」
 第3講 後腐れのない共同体外の原理「無縁」――商品の起源
 第4講 新自由主義が変えた人間の「魂・感性・センス」――「包摂」とは何か 
 第5講 失われた「後ろめたさ」「誇り」「階級意識」――魂の「包摂」 
 第6講「人生がつまらない」のはなぜか――商品化の果ての「消費者」化 
 第7講 すべては資本の増殖のために――「剰余価値」
 第8講 イノベーションはなぜ人を幸せにしないのか ――二種類の「剰余価値」
 第9講 現代資本主義はどう変化してきたのか――ポスト・フォーディズムという悪夢
 第10講 資本主義はどのようにして始まったのか――「本源的蓄積」
 第11講 引きはがされる私たち――歴史上の「本源的蓄積」
 第12講「みんなで豊かに」はなれない時代――階級闘争の理論と現実
 第13講 はじまったものは必ず終わる――マルクスの階級闘争の理論
 第14講「こんなものが食えるか!」と言えますか?――階級闘争のアリーナ
 おわりに
 付属ガイドブック

 以上の小見出しを実際の『資本論』の叙述の順序と比較検討すると、今回白井氏が書いた『資本論』入門書が、既存の類書とは大きく異なっていることが確認できる。

 このように『資本論』第1巻の内容をマルクスが記述した順序で取り上げることをせず、白井氏の問題意識によって『資本論』第1巻の主要な内容を見事に並べ替えた所
が何といっても本書の最大の特徴である。

 マルクスの重要なキー概念の「資本主義の本質」、「労働力を含む万物の商品化」、「共同体と商品交換」、「使用価値」と「交換価値」、「必要労働時間」と「剰余労働時間」、「資本主義の原罪」、労働の「形式的包摂」・「実質的包摂」等が順々に見事に解説されている。特に労働の「形式的包摂」・「実質的包摂」は熟読が必要である。

 しかしこうしたキー概念による『資本論』の解説は、大凡第11講までで終わる。そして更に続く残りの第12・13・14講では、白井氏の『資本論』に対する現代的な問題意
識が鮮明に打ち出される。それが「階級闘争」である。

 第12講の冒頭には、「本書は『資本論』の入門書ではありますが、裏にあるテーマは『新自由主義の打倒』です。『現代は新自由主義の時代である』という前提を置いた
上で、それへの対抗策として改めて『資本論』を考える。さまざまな方向から新自由主義に光を当てるという狙いで、この『資本論』講座をやってきた」と書くのである。

 新自由主義に対する白井氏の視点の一つは、第4講でデヴィッド・ハーヴェイが指摘したように「新自由主義とは実は『上から下へ』の階級闘争」だというものなのである。

 この事実を深く認識するには、「第9講現代資本主義はどう変化してきたのか」の再読が不可欠で、そこでは20世紀後半のフォーディズム型資本主義、21世紀のネオリベラリズム(ポスト・フォーディズム)型資本主義、ポスト・フォーディズムという悪夢の小見出しの下に、白井氏の問題意識が展開されている。

 つまり20世紀後半のフォーディズム型資本主義において労働者階級への再配分がかなりなされるようになり、資本家階級は自分たちの取り分を譲った。それを取り戻すための闘争が新自由主義であり、21世紀の20年間を見る限り資本家階級は成功したと考えられる、と白井氏は判断する。私はこれに対して異論がある。それは利潤率の傾向的低下法則等で資本主義が成熟したためだと考えているのだが…。

 では一体どのようにすればよいのか。それが問題である。ところが『資本論』には、どのように階級闘争を行うかはほとんど言及していない。それでも「第10講 資本主義はどのようにして始まったのか――「本源的蓄積」」では「資本主義は、暴力によって人間を大地から引きはがすことによって始まった」と解説してきた。

 始まりがあれば終わりがある。すなわち資本家階級内の競争によって一握りの独占資本家が誕生すると、さらに一段と資本や富の集中が進み、「生産手段と労働の社会化とは、それらの資本主義的外被と調和しえなくなる一点に到達する」、そして「収奪者が収奪される」ことになる。このように現実には資本家階級ですら、過酷な競争の渦 中に生きているのである。

 ここで白井氏は宇野弘蔵氏を援用してマルクスの経済学者と革命家との側面を二分する必要があるとの受け売りのお喋りをした後、資本主義を構造として捉える観点を導入する。そしてパシュカーニスの『法の一般理論とマルクス主義』(只今絶版中)で「政治的社会と経済的社会が分離し、別物になることが、資本制社会の特徴である」と 捉えたことを根拠に、私たちがめざすものは「ブルジョワ階級の絶滅」ではなく「等価交換の廃棄」だとする。

 つまりパシュカーニスは、資本主義を滅ぼすのに必要なものは資本家階級をなくすことではなく、経済的形態規定としての抽象的人間労働の凝固物である価値の等価 交換をなくすことだ、と喝破したのだ。何と核心的な物言いであろうか! 私は本当に驚かされたのである。

 その意味では「第14講「こんなものが食えるか!」と言えますか?――階級闘争のアリーナ」において、白井氏はスターリンによって粛清されたパシュカーニスを大凡90年ぶりに復権させたのである。そしてここで言われている「等価交換」とは誤解されているような算術的な等価ではなく、ある幅を持つ閾値であると指摘する。例えば食生活 を見れば贅沢な食事をするか否かで、現実に労働力の再生産費は大きく異なってくる。
 その意味を復活させ読者に問う行為は、白井氏の才気の迸りであり、まさに独壇場であろう。
 まさに私たちには「目から鱗が落ちる」、意外な展開ではないだろうか。凄いの一言。

『資本論』を自分の問題意識から再読するために、今最も役立つ本として推薦する。(直)案内に戻る


 本紹介『デコちゃんが行く』(編者いのまちこ/漫画たたらなおき/発売元静岡新聞社)

1966年の旧清水市(静岡市清水区)の一家4人強盗殺人事件発生から54年。無実の弟(84)を支え闘い続けている、姉の袴田ひで子さん(87)の物語。

 支援者のいのまちこさんが、ひで子さんからたくさんのお話を聞き「私ひとりで聞くのはもったいない」と、この漫画の本が生まれた。半世紀を超えるとてつもなく長い時間、巌さんの無実を訴え続け、いまだに闘いの中にいる。諦める事無く、そして明るく。

2014年3月、静岡地裁の「再審開始決定」に喜んだのもつかの間、2018年6月東京高裁はそれの「取り消し」という不当決定を出した。その時、支援者も弁護士も誰もががっくりと落胆する中、ただ一人ひで子さんだけはまっすぐ前を向き「50年闘ってもまだ勝てない、そんなら100年闘います!」と発言し、皆に勇気を与えた。彼女は決して弱音や愚痴を言わない。明るく聡明、そして勝ち気なひで子さんの存在がこの長い闘いにとって、どれ程大切かが分かるエピソードだ。

2014年の静岡地裁決定以来、巌さんは「死刑囚」でありながら身柄は釈放され、浜松で姉と共に暮らしている。毎日午後には6時間ほど、休憩しつつ歩いている。今も、長い拘禁と、死刑執行の恐怖にさらされ続けた苛酷な獄中の日々に負わされた「精神の深い傷」は癒えないままだ。そんな弟を、姉は一切否定せず好きなようにさせてやろうという。「最近巌は、あくびをするようになった(今までそれだけ緊張が強かった)」と、ひで子さんは笑って話す。

今は最高裁の決定を待つ。一日も早い無罪決定を誰もが心からのぞんでいる。(澄)


 コラムの窓・・・Black Lives Matter

 1849年、黒人奴隷の子として育ったミンティは自由を求めて農場から脱走したのち、家族や多くの黒人奴隷の脱走を手助けします。農場主から賞金を懸けられて追われながら、黒人奴隷をひそかに逃がす地下鉄道の「車掌」となって活躍し、南北戦争(61~65年)にも従軍しました。

 その逃走劇を描いた映画「ハリエット」は実在のハリエット・タブマンの物語であり、いま全国で上映されているところです。農場主は黒人奴隷を豚と同じように売り買いするものと言い放ちますが、ハリエットはこれと対峙し、奴隷解放運動家、女性解放運動家として生き、1913年3月10日に91歳の生涯を終えました。

 そしてコロナ禍の今、「黒人の命は尊い」という熱波がアメリカから世界へと広がっています。ハリエットが人間の尊厳をかけて闘わなければならなかった暗黒が、白人警官という姿を借りて今もアメリカを覆っていることを見せつけられる思いです。奴隷制に乗じた者たちの銅像が引き倒されるなかで、危機にかられた白人の憎悪があぶりだされ、より先鋭な白人至上主義による暴力が現れるのではないかと危惧されます。

 白人による植民地支配、奴隷貿易、そうした過去の歴史が検証されつつあるなかで、ひとり日本は対岸の火事視で済まそうとしていますが、そんなことは許されないでしょう。中国や朝鮮に対する蔑視、敵対視のなかに同じ構図があります。侵略、植民地化の歴史を見ようとはしないで、被害者面だけは一人前。

 韓国が軍艦島に関する展示内容に歴史的事実の歪曲があるので世界遺産の取り消しを求めたことに対し、菅義偉官房長官が反論しているのがその例です。世界遺産登録に際し、韓国は一部施設で朝鮮半島出身者が強制的に働かされたと主張し、日本政府は遺産の全体像を説明する施設の設置を表明していた(注)にもかかわらず、軍艦島に関する展示にはそのことが明記されていないのです。

 危機と対立の時に「強い指導者」が現れ、危機と対立をさらに煽ることによって自らの地位を強固なものにしようとする。トランプ米大統領が体現する憎悪は既得権を失いつつある人々を結集させ、本当なら共に手を取り合うべき人々の分断を深めています。もしかしたら、こうした過程を経なければ社会に沈潜した澱を取り去ることはできないのかもしれません。

 あったことをなかったことにし、過去の歴史を消し去ることができるのか、この問いに「黒人の命は尊い」と答える声がた高まっているのです。償われなかった債務はいつか支払わされることを、日本という国と国民は覚悟しなければなりません。「明治日本の産業革命遺産」が朝鮮人の強制労働によって血塗られれていることも、いつか明記する日が来るでしょう。 (晴)

注記

 韓国政府は遺産対象となった三菱長崎造船所、三井三池炭鉱、高島炭鉱・端島炭鉱(軍艦島)、八幡製鉄所において朝鮮人への強制連行・強制労働があったとして、世界遺産にふさわしくないと登録に反対していました。日本政府が「1940年代にいくつかのサイトにおいて、その意思に反して連れて来られ、厳しい環境の下で働かされた多くの朝鮮半島出身者等がいたこと、また、第二次世界大戦中に日本政府としても徴用政策を実施していたことについて理解できるような措置を講じる所存である。」と表明し、ようやく2015年7月に世界文化遺産への登録が承認されました。

 ちなみに、強制労働させられたのは、三菱長崎造船所・朝鮮人約6000人・連合軍捕虜約500人、八幡製鉄所関連・朝鮮人約12000人・中国人約1000人・連合軍捕虜約2000人、日鉄釜石関係・朝鮮人約2300人・中国人約300人・連合軍捕虜約800人、三井三池炭鉱・朝鮮人約9300人・中国人約2500人・連合軍捕虜約1900人、高島炭鉱・端島炭鉱・朝鮮人約4000人・中国人約400人となっています。(「『明治日本の産業革命遺産』と強制労働」資料より)案内に戻る


 なんでも紹介・・ 老齢基礎年金と介護保険 当事者になって改めて考えてみた
        
 今年4月、65歳になり、6月初旬に老齢基礎年金と厚生年金の決定通知書が届きました。これまでは、夫の扶養家族として加給年金で支給されていたようです。決定通知書を見てみると、1年間で68万2359円で1ヵ月では、6万円にも届かない事が分かりました。

 私は幸いにも、民間企業で19ヶ月と郵便局で89ヶ月の合わせて108ヶ月の厚生年金の加入があり、老齢厚生年金が年間9万9712円あり合算されます。そうすると、何とか1ヶ月に6万5000円には達します。今回、老後の生活を維持するためには、貯蓄が必須であり、しかも健康でいることが何よりも大切と感じました。

 この通知が届いてから改めて、自分自身が年金の基礎知識すら無いことを思い知らされました。どうやって、年金の支給額を決めるのだろう? 老齢基礎年金の満額支給額はいくら? 受給資格期間は何年以上? パンフレットやネット検索で情報を得ました。老齢基礎年金受給資格は、何回か改定され現在は、保険料を納めた期間と保険料の免除を受けた期間の合算が10年以上あれば受給できます。

 2020年度の満額支給額は年間78万1692円で、昨年より0.2%あがり133円が加算されています。満額支給されるのは、保険料を40年間納めた人だけです。支給額の算定には、国民年金保険料を納めた月数の他、厚生年金保険、共済組合保険への加入期間も含まれ、加入者に扶養されていた第3号期間、4分の1免除・半額免除の第1号期間も対象になります。

 私も55歳前後からの62ヵ月が4分の1免除になっていました。厚労省が決定した年金支給額が正しいか間違っているか、分かりませんが私も老齢年金者の仲間入りです。そして、数日後には介護保険被保険証が西宮市から送られてきました。合わせて、介護保険料決定通知書兼納付書が待ったなしで届きました。

 私の介護保険料は年間で5万8800円、月額4700円、高すぎると思っていたら、西宮市の基準額はなんと年間6万7200円、月額5700円なのです。家族2人で月額1万8500円の国民健康保険料を合わせると、ますます、出費が増え年金生活の不安がつのります。しかも、この介護保険料は、3年毎に見直しされ今後保険料が上がる可能性大です。

 介護の社会化・みんなで支え合う制度として始まった介護保険制度ですが、20年を経て介護サービスを受ける認定者が増え続け、当然必要な給付額もそれに伴います。西宮市では、当初7000人余りの認定者が2019年では2万人を超え、給付額も80億円から298億円と予想以上の増額です。介護保険の財源は50%は公費(市・県・国の負担金)ですが、今後、公費負担の割合も見直す必要があると言わざるをえません。

 今回のようなコロナ禍による休業や休職による所得減収で、40歳以上に義務づけられる保険者には保険料納付が大きな負担となるのが目に見えています。災害により損害を受けたり、失業等による本人および生計を中心者の収入が著しく減少した場合の減免制度は、申請者が大幅に増えるのではないでしょうか。

 20年を経て今こそ、介護保険制度の抜本的な改革・改善が課題となっています。それには専門家や事業者だけでなく、何よりも保険者・被保険者の声を反映させてこそ、健全な運営が可能ではないかと思います。

 話は変わりますが、今、私の手元に表紙がA4サイズで3センチもの厚みのある冊子があります。この冊子は30年間の市民グループの活動報告です。そのタイトルが「石田遼子さんと生きた30年」というもので、「生命の管理はもう止めて!」という名前のグループの編集・発行です。

 30年前の7月6日、石田遼子さんは登校時、神戸高塚高校の門扉に挟まれ死亡しました。裁判を経て、運動は学校教育のあり方を問うことを続けて30年、この節目に、通信の発行を終えることを決定されました。そして、500ページに及ぶ追悼記念集が出来上がりました。全国の読者の皆さんに、是非、お知らせしたく紹介しました。詳しいことは、また、別の記事で、お待ちください。  折口恵子 


 「エイジの沖縄通信」(72)・・・6月23日「沖縄慰霊の日を考える」

★今年の「沖縄全戦没者追悼式」

 3月末から6月の沖縄は「慰霊の季節」である。

 75年前の沖縄戦は3月26日の米軍の慶良間諸島への上陸から、4月1日の米軍の中部西海岸(読谷村・嘉手納町・北谷町)への上陸作戦、その後各地での戦闘をへて沖縄戦終結があり、戦後は県内各地で犠牲者の慰霊祭が行われる。

 6月23日の「沖縄戦慰霊の日」は沖縄では公休日。この日、沖縄県内の各地で慰霊祭が行われ、摩文仁の平和祈念公園では、沖縄県主催の「沖縄全戦没者追悼式」が行われる。

 県は5月15日、新型コロナウイルスの感染防止を理由に、「沖縄全戦没者追悼式」の規模を縮小し、追悼式の会場を「平和の礎」近くから「国立沖縄戦没者墓苑」に変更する方針を発表した。

 これに対して、県内の有識者たちは「沖縄全戦没者追悼式のあり方を考える県民の会」を結成し、県に国立墓苑での追悼式を撤回するよう要請した。

 その基本的な考えは、国立墓苑での追悼式は戦争による死の美化につながるとの懸念。「県の追悼式が戦死者を顕彰し、戦争を肯定する流れに変わる一歩にならないか。その危機感があった」また「沖縄戦で亡くなった人たちが死後も国の支配下に置かれることの肯定につながる」と指摘し、県の平和創造の理念や遺族の感情に沿わないと県の対応を疑問視した。

この国立墓苑への会場変更の波紋は、先の沖縄戦に対する認識を問う事態となったが、県が「会」の要請を受け入れて、元の沖縄平和祈念公園の広場に戻す考えを示した。

 今年の追悼式は新型コロナウイルスの影響で規模を縮小し、遺族ら約160人は感染防止のために間隔を空けて着席した。

 例年の安倍首相の招待は見送られたので、玉城知事は平和宣言では辺野古新基地工事を進める日本政府を直接批判はせず「辺野古の海はウチナーチュ(沖縄人)の財産」と述べるにとどめ、式典後「辺野古新基地建設に反対する持ちは全く変わらない」と強調した。

 今年も若い世代の「詩の朗読」が注目を集めた。県立首里高校3年の高良朱香音さん(17歳)が「平和の詩」を朗読した。

 軍民や敵味方の区別なく沖縄戦犠牲者の氏名を刻む沖縄平和祈念公園内の「平和の礎」は、大田昌秀氏が知事時代の1995年に建設された。建設後も新たに犠牲者の名前が判明した場合、追加刻銘されてきた。今年も、犠牲者30人(沖縄出身者20人、本土出身者9人、米国出身者1人)が追加刻銘されて、合計24万1593人となった。

★遺骨収集と「魂魄の塔」

 6月13日「琉球新報」の「沖縄戦75年<転骨>」の記事を紹介する。

 「県民約12万人と日米の兵士約8万人が亡くなった沖縄戦から1年後、糸満市真栄平。遺骨が歩き慣れた道や溝などあちこちにあった。高校1年生だった大城藤六さん(89)も地域住民と共に遺骨を集めた。『戦後の仕事始めは遺骨収集だった』。集落近くのアバタガマに納め、慰霊塔を建立した。同様に県内各地で造られた納骨堂は1955年までに188カ所に上がった。」

 この遺骨収集の記事を読んで思い出したことが場所が「魂魄の塔」である。

 戦後、南部で遺骨収集された骨が「魂魄の塔」に納められたと聞き、沖縄慰霊の日に訪ねたことがあった。

 訪ねた「魂魄の塔」の横に、元沖縄県知事の翁長雄志氏の父親である翁長助静氏の歌碑がある事を知った。案内してくれた人から「翁長雄志さんは選挙戦の最初の日、いつもこの歌碑を訪れてから選挙戦を戦っていました」との説明が大変印象に残っている。

 その歌碑には、「このような惨状をみかねた当時の金城和信真和志村長は、村民に呼びかけ、遺骨の収集へと乗り出しました。そのとき、糸満高校真和志分校校長をされていた翁長助静先生は、生徒を指揮して遺骨収集の先頭にたつかたわら、この魂魄の塔の建立に協力し、表記の歌を墓碑の裏に刻まれました。この歌はいわば無名の戦死者に捧げられた鎮魂歌となっています」と書いてあった。

亡くなった翁長雄志氏の思いが、少し理解できたと感じた。(富田英司)案内に戻る


 色鉛筆・・・ 「庁舎移転凍結へ」 建設中止を求めていく

 私が住んでいる街で、津波浸水想定区域に清水庁舎と桜ヶ丘病院を移転する計画が起こり、本紙604号(2020年3月1日)に報告したがその後を報告したい。

 「住民の安心安全のためには津波浸水想定区域に庁舎と病院を新たに建設してはいけない」「市長のやり方は強引すぎる」「庁舎移転は住民投票で決めよう」などの声が上がり、清水区だけではなく葵区・駿河区の市民かひとつになって「静岡住民投票の会」を立ち上げた。住民投票の実施を求める署名活動が1月23日から始まり、署名期間は2ヶ月間で3月23日までだが、清水区だけは衆院補欠選挙があるため前半は2月25日までと後半は4月27日から5月24日までとなっていた。初めの1ヶ月は、毎日駅頭に立ち、週末はイベント会場やスーパー前に立って署名を集め、2ヶ月目からは清水区のメンバーも葵・駿河区の署名活動に参加して一緒に集めた。すると葵・駿河区の署名が2万2千余名も集まり、住民投票を実施するために直接請求の法定要件となる有権者の50分の1(約1万2千)を大きく上回ったので私たちは安堵して、4月27日から清水区の署名を多く集めていこうと仲間たちと盛り上がっていた。

 ところが、「新型コロナウイルス」汚染拡大があり、4月緊急事態宣言が全国に発出され、私たちは感染拡大を防止するため署名活動を「自粛」することにした。せっかくここまで集めたのにもっと集めたいという気持ちがあって自粛は不本意だったが、今になると自粛してよかったと思っている。5月の中旬頃から緊急事態宣言が解除されていくと市民生活や経済活動が大きな影響を受け市長も「静岡市独自のコロナ支援策」をうちだしてきた。

 すると、5月29日の朝刊に「清水庁舎移転凍結へ」と大きな見出しに驚いた。凍結するのは「清水庁舎」「海洋文化施設」「歴史文化施設」の3事業で総事業費は約400億円(清水庁舎94億円、海洋文化施設242億円、歴史文化施設65億円)。新型コロナウイルス感染防止、経済支援の財政支出が続く中、3事業を大幅に見直す必要があると判断したようだ。3事業は税金の無駄遣いであることがはっきりわかり、「こんなものにお金を使わないで欲しい」という市民の声が聞こえてきた。私たちはこの「凍結」は一歩前進だが、津波浸水想定区域に多額な建設費を投入する清水庁舎の「建設中止」を求めていくつもりだ。

 そして、署名集計作業を終え、6月3日に清水区33623筆・葵区14902筆・駿河区7110筆 合計55635筆の署名簿を選挙管理委員会に提出した。5万筆以上の署名が集まり、有権者の10人の1人が署名したことになったので「予想以上に集まったね」「コロナがなければ8万はいったかもしれない」と、仲間たちと喜びあった。

 これから選挙管理委員会の「署名簿審査」や「署名簿縦覧}」を経て、7月上旬には田辺市長に清水庁舎移転計画に関する「本請求」(住民投票条例の制定を求める請求)を提出して、その後市長は自分の意見をつけて「市議会」に提出、市議会で「住民投票条例案」の採決が行われる予定だ。庁舎移転が凍結されている中で、「庁舎移転は住民投票で決めよう」という多くの市民の思いに対して市長や市議会はどう答えていくのだろうか。どんな答えが出ても移転計画が中止になるまであきらめないでいきたい。

 また、移転新築する計画の桜ヶ丘病院を運営する地域医療機能推進機構(JCHO)は、庁舎移転事業が凍結したことを受け、市から庁舎跡地に替えて清水庁舎周辺の市駐車場を病院の移転先とする案が提示された。築50年の老朽化した病院としては早急に建て替えをしたいのだろうが、新たな移転先も津波浸水想定区域であることに驚く。高台にある桜ヶ丘病院は現在地での建て替えでいいと思うのだが、これからこの問題も大きくなっていくだろう。また報告したい。(美)6月21日記
 
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