ワーカーズ646号  (2023/9/1)  案内へ戻る

  岸田首相は官房副長官を同行し訪米したのだが、木原事件は大問題である―全野党は国政調査権を行使し木原官房副長官を追及しなければならない!

 7月18日、ワシントン郊外の大統領専用山荘「キャンプデービッド」で日米韓首脳会談が行なわれた。共同記者会見で三首脳は「歴史的会談」とは強調したものの、内実は惨めそのもの。日米韓首脳会談が独立した日程で開かれるのは今回が初めてなのだが、ミーティングは何と二時間、共同記者会見を含めてもたったの三時間である。建前は安全保障なのだが、実際は自分の大統領選挙向けの茶番である。日刊ゲンダイは、岸田首相がジョーと呼び続けたのに、バイデンは職名の確認も握手もしなかったと辛辣に報道している。

 実際、再捜査中断疑惑の側近を平然と訪米に同行させた岸田の政治感覚をバイデン大統領らは嫌悪したのである。岸田首相は「官房副長官に説明をさせず、表舞台に立たせないことで沈静化を図った」のだが、今政権中枢を担う副長官は愛人宅から国会通いの自堕落。

 まずは木原本人に丁寧な説明をさせるのが、岸田首相の本来の責任・役目なのである。

 その疑惑をまとめれば、2006年にある男の死亡を自殺と処理したが、2018年に警視庁は事件性を疑い再捜査を開始。死亡当時、夫婦関係にあった木原官房副長官の妻に対し、何度も事情聴取を行っていたが、突然中断になる。取り調べ担当官は佐藤誠氏だ。

 7月13日、中断に関わって露木警察庁長官が記者会見で「証拠上、事件性が認められない旨を警視庁が明らかにしている」と語った。28日、激怒の佐藤氏は実名会見を開き警察庁や警視庁の幹部は事件性を否定しているが、「誰が見ても自殺ではなく事件」「異常な捜査の終わり方だった」と告発した。まさに「警察不信」は増大するばかりである。

この間、週刊文春は、木原氏の妻が警視庁の任意聴取を受けた際、木原氏が妻に「俺が手を回しておいたから心配するな」と発言と報じたが、松野官房長官は木原氏からの「事実無根と説明を受けた」と言い募るのみ。この間、木原氏は逃げの一手であったのだ。

 木原氏が自民党情報【調査】局長に就任したことに関わって、まさに職権の乱用が疑われている。木原氏は、立民の公開質問状に対して「文春を刑事告訴した」と回答はしたものの、公の場で自ら説明することなく、毎日の慣例だった番記者の取材にも応じなくなったのである。

 このようにあまりにも露骨で俄かに否定しきれない具体的な事実が暴露されたことで、日本では政治権力によって犯罪をも隠蔽できてしまうのかとの政治不信が増大している。
 今こそ全野党は国政調査権を行使し木原官房副長官を追及しなければならない!(直木)


  カナダの「オンラインニュース法」の波紋 ――グーグルとメタの不当利益構造/インターネットはコモンへ――

■グーグルとメタにとっては死活問題

 カナダで今年成立した「オンラインニュース法」(2023年6月22日に施行)と「記事対価法」は、どちらもインターネット企業が自社のサイトやアプリに掲載するニュース記事などのコンテンツについて、ニュース提供元と商業取引の交渉をすることを義務付け、ニュース記事を作成した報道機関に利用料を支払うことを大手IT企業に迫る法律です。

 この法律は、広告費収入に偏重しているグーグルやメタなどの大手IT企業(デジタルプラットフォーム)から反発を受けています。これらの企業は、この法律が言論の自由を侵害する(常套文句だ)ものであり、企業の競争を制限するものであると主張しています。

「米グーグルはカナダにおいて、検索などのサービス上でのニュース記事へのリンクを削除すると発表した。既にメタ(旧フェイスブック)も同様にニュース配信の停止を表明している。」(時事)と徹底抗戦の模様です。
 
■インターネット上で独占的地位

 グーグルは検索エンジン、メタは交流サイトから始まりました。この二社はデジタルコンテンツの創造や作成において独占的なものでは全くありません。アニメとかゲームとかのコンテンツ作成でもありません。トヨタやGM、あるいはかつてのIBMやUSスチールなどのような製造物の独占ではもちろんありません。彼らは何かを造り販売しません。

 単にインターネット上(サイバー空間上)のハブ発信基地としての独占的立場にあります。彼らはインターネット基盤を活用する技術(検索エンジン、クラウドサービス=ビックデータ)の先行性で、圧倒的な情報を集める地位を築きました。

■グーグルとメタの広告独占

 そのビックデータをもとに「費用対効果が高い」とされるターゲット広告を彼らが行うことで、依頼企業はより効率的かつ効果的にマーケティング活動を行い、売上・利益の増加を実現することができます。

 グーグルは、検索エンジンやユーチューブの広告枠を販売することで収益を上げています。メタは、フェイスブックやインスタグラムなどのソーシャルメディアの広告枠を販売することで収益を上げています。

 グーグルとメタは、広告市場で非常に大きなシェアを占めており、世界中の企業が広告を掲載するためにこれらの企業に依存しています。両者はIT企業の代表と認識されていますが利益構造からみれば独占的な広告業者なのです。グーグルの2023年4-6月期の売上高は619億6000万ドルで、そのうち広告収入は615億3000万ドル、売り上げに占める割合は98.8%でした。メタの同期の売上高は314億9800万ドルで、そのうち広告収入は314億5000万ドル、売り上げに占める割合は99.8%でした。

■テレビ・新聞など既存広告媒体の凋落

 2019年における日本の広告費は6兆7,312億円ですが、グーグルとメタなどの躍進の結果、そのうちインターネット広告費は2兆9,972億円と、全体の44.1%を占めました。これは、2010年からわずか10年で、インターネット広告費が4倍以上になったことを示しています。

 一方で、既存の新聞やテレビ、雑誌などの広告市場は、インターネット広告の台頭によって、広告費が減少しています。例えば、日本の新聞広告費は、2010年から2019年にかけて、約3分の1に減少しています。

 2022年の日本の総広告費は7兆1021億円で、過去最大を更新しました。しかし、その内訳は、インターネット広告費が3兆3043億円で、総広告費の46.5%を占めています。一方、マスコミ四媒体広告費は2兆3985億円で、総広告費の34.1%を占めています。

 ここで明らかなことは、インターネット広告の代表であるグーグルやメタは、既存の広告業界の既得利益に食い込み、その利益を我が物にして急成長してきたということです。

◆独占的超過利潤はどのようにして実現されたか

 テレビに代表される既存メディアは、番組制作を通じて視聴者を獲得し、この視聴者数や高視聴率があってこそ宣伝広告(コマーシャル)枠を高額で販売できるのです。そのために、あの手この手で魅力的な企画を考え、番組制作には巨額の製作費や労力を投入してきたのです。

 グーグルやメタにおいても、投稿され検索される「コンテンツ」が、多数であり同時に魅力的で大衆の関心をつかむ作品である必要があります。しかし、彼らグーグルとメタは、すでにふれてきたように大金をかけてコンテンツ制作をしているわけではありません。むしろ、基本的には企業や大衆のインターネット投稿は無料です。それらのコンテンツは視聴者自身が作成投稿するのが普通です。ふんだんな無料コンテンツを独占的に検索するだけで「広告枠」を売るのです。

 ユーチューブなどの広告収入の一部リターン、例えば、広告収益が100円の場合、コンテンツ制作者は55円の収益を得ることができます。しかし収益化の条件は、以下のとおりです。チャンネル登録者数が1,000人以上、過去12か月間で4,000時間以上の視聴時間、とハードルは高い。しかし、グーグル(ユーチューブ)がコンテンツをタダ利用して収益を上げていることは同じで、製作者が「搾取」されているのは明らかです。

 くりかえしますが、テレビ局ならば莫大な製作費を費やして番組等を作成し、広告枠を高く販売しようとするのです。ところが、インターネット独占広告体であるグーグルとメタは、この「製作費」が基本存在せず、基本的に無料であり、ゆえに低廉な「広告枠販売」が可能なうえにすでに前記したターゲティング広告の優越性で、これらの競争力によってテレビ等を圧倒しているのです。
 ◇◆◇◆ 
 広告媒体としての優越性と低廉性。これがグーグルとメタがこの業界で他を圧倒し超過利潤を得る基盤となっています。この広告市場独占体は、その背後にある検索エンジンやクラウドサービス、AIサービス等IT技術の優越性に支えられています。この優位性は技術開発の展開次第なので絶対ではありませんが、技術集積が参入障壁となってとりあえず数社の超過利潤の独占的取得という状況を生み出しそれが拡大しています。

■グーグルやメタはコンテンツ製作者の寄生虫

 グーグルとメタの「広告収入」は一般の市場競争と言う面からしても甚だ不公平に映るでしょう。端的に表現すれば彼らは他人の作成したコンテンツを「無断かつ無料で利用」しており、彼らデジタル・プラットフォームの優位性の根拠です。

 ですから本稿冒頭カナダでの「オンラインニュース法」において、インターネット企業に対して報道機関にコンテンツ使用料の支払いを求めているのです(今後分野が広がるでしょう)。ゆえに、この法律は独占化の是正と「資本の公正な競争」を求めているものです。

 言うまでもなくデジタルコンテンツ制作は労働と知恵のたまものであり、その品質に裏打ちされて価値があるのです。莫大なデジタルコンテンツの所有(ユーチューブ)あるいは利用から利益を上げるグーグルとメタらは、当然自らの「利益」からその支払いをすべきです。
  ◇◆◇◆
 しかし、我々はもう少し根本的に考えてみる必要があると思います。

インターネットは、開かれたパブリックなもので、企業であれ個々人であれ、有益に利用するところから始まりました。これは本質的に「コモン」なのです。そこに登場したのが、検索エンジンなどをひっさげたグーグルなどです。これは便利なものですが、すでに見たようにそのことが独占的立場や広告費の暴利へと結果し、インターネット自体を私物化して、少数企業による富の草刈り場としてしまいました。

 ブロックチェーン、分散型アプリケーション(DApps)、スマートコントラクトなどの技術を活用した、より分散化されたウェブ3と呼ばれる技術大系があります。これらの技術により、ユーザーは自分のデータや資産をより自由に管理できるようになり、大手企業によるコンテンツの独占や勝手な利用が困難になる可能性があります。ウェッブ3は、デジタル独占を解消し、より公平で民主的なインターネットを実現する可能性を秘めています。この世界観では労働やコンテンツの交換や投票の権利はトークンとして確保され、未来社会に生かされる可能性があります。

 しかし、ウェブ技術の進化だけで、グーグルやメタなどの独占と闘い、インターネットをコモンにすることは不可能です。社会変革と結びつく必要があります。(阿部文明)案内へ戻る


  麻生氏の暴論とその狙い――台湾独立論と社会主義

 自民党の麻生副総裁は8月8日、訪問先の台湾で「いざとなったら台湾防衛のために(防衛力=軍事力を)使う」と述べ、さらに「戦う覚悟が必要だ」とも強調しました。
  ◆ ◇ ◆ ◇
 これは今までの政府見解や、「法」の枠組みや条約などを破り捨てた暴論だというべきでしょう。しかし、松野官房長官が「政府としてコメントしない」と否定しませんでした。すなわち、理由はどうあれ、日本政府は麻生氏の暴言を追認していると思います。
 
■「台湾独立」を日本政府は支持できないし、すべきではない

 いうまでもありませんが、日本が「台湾防衛」つまり中国の暴力的統一を軍事力で阻止する義務も権利も、存在しません。万一にも中台紛争に日本軍が参加すれば、大規模な戦争へと発展し、さらに「日本による台湾侵略」という汚名をかけられるだけでしょう。

 「台湾有事は日本の有事」(麻生氏)といった主張は日本を戦争に巻き込む危険な主張ですし、そもそも火のないところに大火事を起こし軍事介入を窺おうとする帝国主義者の野望が透けて見えます。麻生氏とその発言を否定しない岸田政権は極めて稚拙で危険な存在だと言わなくてはなりません。麻生氏の発言は「抑止力になる」どころか挑発そのものです。

 もちろん、米国やNATOにとっても事態は同じです。彼らに「台湾防衛」の義務など存在しないのです。米国などは「台湾関係法(1979年に成立)」によって「台湾の独立を支持しない」ことが国内法で定められているのです(武器支援は認めるという、二枚舌法ですが)。
 
■米国外交の二番煎じ

今回の麻生氏の台湾訪問は、去年のペロシ下院議長の訪台とその発言「台湾独立を支持する」云々と同じものと思えます。米政府外の大物政治家である彼女の目的は、台湾国内にいる独立派を励まし刺激することだとみられます。それと同じように、麻生もまた大物政治家の一人として台湾独立運動を刺激しようという作戦とみられます。

 彼らの思惑は、日米政府と連動しつつ「中国軍の台湾侵攻・武力統一」と言う恐怖を台湾人に煽り、政府にはできない「台湾独立」というテーマを押し出し、あわよくば台湾独立派の武力決起に追い込み、中国政府を揺さぶることでしょう。

 ところが去年のペロシ訪台の後の選挙で、与党民進党は大敗北しています。ペロシと相呼応した「独立派」蔡英文総統陣営は打撃を受けたのでした。今回はどうでしょう。台湾国民の賢明さを期待したい。台湾民衆の生命を駆け引きの駒として瀬戸際に追い込む日米の政治家たちは糾弾されなければなりません。

■独立運動と社会主義

 そもそも「台湾独立運動」というものが多数の台湾民衆の中で力強く闘われてきたのでしょうか?そしてそれが台湾の支配層を揺るがす戦いに発展しているのでしようか?本当に日本の民衆も連帯して応援すべきことなのでしょうか?

 これまでの「独立運動支援」が、帝国主義的野望を隠してきた例は少なくありません。直近の2014年4月にウクライナのドンバス地方で親ロシア派武装勢力が一方的に独立を宣言。それに前後してウクライナへのこの地域へのロシア軍の介入がありました。名目は「ウクライナファシストからロシア人・ロシア語話者を保護する」と。そしてこの地域の「ドネツク共和国、ルガンスク共和国」をロシアは去年承認し同時にロシアへの併合を宣言しました。まさに侵略主義の小道具として「独立」は利用されてきました。日米政治家はまさにロシアのケースをモデルにして台湾と中国関係にくさびを打ち込もうとしているのでしょう。
  ◆ ◇ ◆ ◇
 「国際法」に基づけば、「台湾は中国の一部」であり、(前に述べたように、中国への揺さぶりのために言を左右にしつつも)米国も日本もその枠組みを認めています。しかし「国際法」といったものを度外視して中台関係を客観的に見れば、それは二つの資本主義国家が独立し並立し経済的には共存している姿です。

 ロシアのように大国が軍事力をもって小国を制圧し、隷属民化する行動は非難されて当然ですが、私たちは独立の闘いが、隷属化や搾取に抗する民衆の力と連帯を生み出す運動に結びついている限りにおいて具体的に支持するにすぎません。

 もし、台湾労働者市民による台湾の資本支配との対決が発展し、そのケースで中国本土からの軍隊派遣という事態があれば、われわれは台湾労働者市民を支持支援するでしょう。それは「独立支持」といつた抽象的な理由ではなく搾取と抑圧と闘う労働者市民の国際連帯行動だからです。
(阿部文明)


   コラムの窓・・・汚染水放出、今後数十年・・・政府として責任を?

 もちろん、放射能汚染水の海洋放出についての岸田首相の言葉です。しかし、十数年はおろか、数年も責任を取るつもりはないでしょう。もちろん、岸田文雄氏は個人として一切責任を取らないし、感じてもいないでしょう。

 海洋放出止む無し論の理由は何か、①大量の汚染水が廃炉作業を圧迫している、②放出しても影響は「無視できるほど、ごくわずかだ」といったところでしょうか。政府や国際機関、国内の利害関係者、そう原発に群がって利益を得ている勢力が発するこうした情報を、マスコミもまことしやかに垂れ流しています。ただ問題は〝風評被害〟だ、というわけです。

 少し考えればわかること。デブリは取りだせない、原子炉の解体もできないことは明らかなのに、有害なものでも広い海に流して証拠隠滅、・・・。国家はウソをつく、中間貯蔵だろうが廃炉日程だろうが平気でその場限りのウソで取り繕いあとはカネで解決、という政治に多くの人々が取り込まれています。

 で、岸田首相の次の言葉を信じることはもはや犯罪的過ちです。「風評影響やなりわい継続への不安に対処するべく、たとえ今後数十年の長期にわたろうとも処理水の処分が完了するまで政府として責任を持って取り組む」(8月22日・閣僚会議での発言)

 稼働原発から放出されるトリチウムについて、「各国で日常的に放出」「中国原発 福島第1の計画量の10倍相当」(8月9日「神戸新聞」)といった報道もありましたが、フクシマは事故炉の汚染水です。トリチウム放出を問題にするなら、それは原発を稼働させるべきではないという事実を示すものであり、だからフクシマで放出してもいいという例証にはならないでしょう。

 さて、「放射能汚染水放出反対」の旗を掲げソウルから東京まで徒歩で行進している方がいます。6月18日ソウル発で7月15日釜山まで500キロの行程。16日下関発9月11日東京着予定の1100キロの行程を歩き通す無謀とも思えるこの行動、「放射能汚染水放流中止韓日市民徒歩行進」を行っているのは李元栄(イ・ウォニョン)前水原大学教授です。

 彼は「放射能汚染水(処理水)を捨ててはならないとは国民が直接意思決定しなければなりません。韓国と日本の市民たちが一緒に1600キロメートルを歩きながらその意思を書簡に込め、日本の国会と内閣そして韓国政府にも渡すことを目指します」とし、事実、多くの市民がその行程に参加しています。

 私はといえば午後の半日、強い日差しのなか参加しただけで根をあげてしまいましたが、なかには下関から参加しているという方もいました。ひとりで歩いた時もあるという李さんの実行力には驚くと同時に、誰かに任せるのではなく自ら「直接意思決定」しようという呼びかけが新鮮でした。(晴夫)

6月18日、ソウル出発時に発せられた呼びかけ

 「なぜ無理やり海に捨てるのか分かりません。いくら希釈されても放射能の絶対量はそのままです。海の生態系が破壊されます。放射能は半減期(*)があるので、保管さえきちんとしておけば著しく減らすことが出来ます。なぜ保管できないのですか?

 日本政府は多くの生命を故意に破壊するのを止めねばなりません。

 人類自滅のテロは中止しなければなりません。今こそ地球村主人が立ち上がらなければなりません。韓国と日本の市民たちが歩いてこれに目覚めさせ放流を止めようと思います。共に歩けば成し遂げられます」

*トリチウムの半減期は12年、「120年たてば放射能の強さは千分の1に減衰し、もう120年たてば100万分の1になって自然界レベルと同じになる」(今中哲司)

*今どこを・・・
李元栄(イ・ウォニョン)さんの徒歩行進/8月18日~20日 岐阜
https://ameblo.jp/gifuheiwa/entry-12817206964.html    案内へ戻る


  職場・地域に労働組合を!――雇用や健康を守るため、労組の結成・強化は不可欠――

 このところ、企業による労働者・働く人の軽視や理不尽な対応が目に余る。

 それらは大いに糾弾されてしかるべきだ。が、当事者自身も、会社による理不尽な横暴や扱いに抗し、自らの問題として積極的に声を上げる必要がある。そのためにも、職場や地域に労組を結成し、加入を広げ、労働者が声を上げられる土台づくりが急務だ。

 また周辺の人たちも労働者が声を上げられるよう、積極的に協力し、支援していく必要がある。       ……………………

◆労働者軽視

 いま大阪万博の準備の遅れが指摘されている。万博会場での各国のパビリオン建設の申請が7月時点でゼロ、8月になっても一桁の建設申請しかないという。25年4月13日の開催まであと1年半少ししか残されていない中で、準備の遅れが露呈しているわけだ。

○大阪万博は、頓挫した《大阪トコーソー》に代わるイベント主導の地域開発をカンバンに掲げる大阪維新と政府の談合で決まったものだ。カジノが主軸の〝統合型リゾート(=IR)〟とあわせ、国や自治体の思惑先行の一つの破綻であり、国や自治体双方でのモチベーションの欠如、もたれ合いの結果でもある。

 その万博会場の建設に絡んで今回驚いたのは、万博会場の建設労働に関して、万博協会が政府に〝残業規制の適用を外して欲しい〟と要請したことが7月27日に発覚したことだ。

 これまで日本は、永年にわたる長労働時間が問題にされてきた。その改善策として、19年から年間残業時間の上限規制が徐々に強化され、原則、月間45時間以内、年間360時間以内になった。ところが運輸業と建設業では、一定の長時間労働は避けられないとして、他の産業の規制強化から5年間適用が猶予されていた。その猶予期間が過ぎて、来年24年から残業時間が年間360時間(特別条項を付けた場合は年720時間)に制限されることになっていた。いわゆる「24年問題」だ。それをパビリオン建設の遅れという万博準備の失態を、その現場で働く建設労働者に負担を強いることで乗り切りたい、というのが、今回の要請の核心だった。

 驚いたのが、自分たちの失態を労働者に押し付けることを当然のごとく考える発想、さらに法改正も必要になるその要請が受け入れられるであろう事を疑わない万博協会の、厚かましさと無神経さだ。付け加えれば、万博協会からそうした目で見られている建設産業労働者を含む日本の労働界の惨状も浮かび上がっている。要するに日本の労働者は〝舐められている〟という現実だ。

◆声さえ上げない連合

 こうした問題は大阪万博に限ったものではない。国家的イベントに付随する長時間労働などによる悲劇は、これまでもあった。

 21年に実施された東京五輪・パラに向けた国立競技場の建設では、一次下請として地盤改良工事を担っていた会社の23才の新入社員の男性が、17年3月に過労自殺するという事件が起きた。

 会社側は当初、その社員の時間外労働が月80時間以内だったと説明していた。が、実際は自殺直前の1月は116時間、2月は193時間の残業を強いられていたことが、弁護側の調査で明らかになり、さらに実際の労働時間は、2月の総労働労働時間は379時間にも及ぶという、通常の1日8時間、月間(22日)176時間の二倍以上の労働を強いられていた実態が明らかになった。

 この事件は広く報道され、一般の人にも知れ渡っていたことだ。それを承知で万博協会は、パビリオン建設での残業規制の例外を求めたことになる。現場の労働者の痛ましい犠牲を一顧だにしない万博協会の態度は、万死に値すると言う他はない。

 万博協会によるこの呆れかえった要請に対し、当然にも、日本建設産業職員労働組合協議会は「加重労働を強いることを前提とした工期厳守ありきの考え方は到底納得できない」との抗議声明(8月4日)を出した。

 他方、日本の労働界で最大のナショナルセンターである連合はどうか。

 連合の芳野友子会長は、万博協会の理事をしている。労組の代表として万博協会の役員になっているなら、当然、そんな要請をすること自体を阻止する態度を貫くべきだった。が、連合のウェブサイトなど見る限り、そんな形跡は無い。結局、連合は原発に対する姿勢などと同じように、それぞれの産業や業界の利益や意向に沿った対応しかとれないのだ。

 企業内組合が主体の連合の多くの労組は、業界や個別企業の意向に忠実であり、また非正規労働者を正規労働者の雇用維持の調整弁扱いしたりしてきた。旧同盟系の民間大手労組など中心に、ほぼ全体の半数は〝御用組合〟であり〝会社組合〟なのだ。万博協会は、そうした労組の実態を見ているから、前述のように建設労働者に負担を押し付けて平然としているわけだ。

◆雇用も職場も失う

 万博での建設労働者の問題とは少し違うが、同じ7月に発覚したビックモーターによる修理保険金の不正請求問題も、労働者を会社の利益のための手段としてしか考えないブラック企業として指弾されている。

 ビックモーターでは、持ち込まれた事故車などに故意に傷つけて保険金を過大に請求していたことや、店舗前の街路樹などを故意に枯れさせたり伐採していたことなど批判されているが、ここでも不正請求がまかり通ってきた遠因について考えてみたい。

 ビックモーターは、売上高が7000億円、300店舗以上を全国に展開し、従業員も6000人に上るという。要するに中古車販売の大企業ともいえる会社だが、労働組合は無かったようだ。その最大に理由は、ビックモーターが創業者の兼重社長(前)による一族支配の企業(前社長が取締役を務める資産管理会社ビックアセットが全株式を保有)であり、全てが創業社長の一存で決まってしまう様な会社だった。結果、過剰なノルマ、一方的な降格人事、パワハラなどが蔓延し、従業員の声など抹殺されていた職場だったようだ。

 そんな創業経営者による強権的な経営や、全国に散らばった店舗などの職場状況下では、労組の結成や拡大など至難のことだったと思われる。

 こんな職場では、一人とか単発での異議申し立ては、即、当該社員の排除となって抹殺される。それを乗り越え、労働者の声を拡げたり労組の結成にこぎ着けるには、一定規模の労働者による共同作業と10年単位の息の長い取り組みが不可欠だが、現状はそうした取り組みは拡がらないのが実情だった。

 そうした取り組みや労組の結成にたどり着けなかった結果が、今回の企業犯罪とも言える会社ぐるみの不正をもたらした遠因にもなっている。

 今回の企業犯罪によって、直近のビックモーターの業績がほぼ半減しているともいわれ、また損保大手の東京海上から負債の借り換えを拒否され、さらに契約も打ち切られたという。今回の一連の不祥事で、事業所の整理や解雇などが拡がれば、労働者にとっても職場を失う可能性もあり、最終的には従業員も大きな打撃を受ける事態になりかねない。

 職場の実態を最も把握しているのは、現場で働く労働者自身である。労働者の異議申し立てや、労組の結成と集団的な監視機能が発揮されていれば、そうした事態は避けられた可能性もある。

 実際、8月7日には、東京の東部労組がビックモーターの店舗前で『悪いのは経営者だ!、労働者はともに声を上げよう!、労働者の生活と権利を守るため労働組合で団結しましょう!』と呼びかける宣伝活動を行っている。こうした行動の積み重ねこそ、長期的には労働者への大きな支援になるし、労働者の自立にも繋がるのだ。

◆組合をつくり、強化・拡大を!

 労働者の処遇や健康を守るためにも、労組を結成し、集団的な異議申し立てを行使できる態勢づくりは、喫緊の課題になっている。が、現状はむしろ労組を通じた活動は停滞している現状にある。22年6月時点では、労組組織率が全体で16・5%(従業員1000人以上の企業では39・6%)でしかない。ストライキを含む争議件数も、限りなく少ないのが実情だ。

 が、ここで考えたいのは、労組の役割やその効果についてだ。

 組合(各種NPOや市民団体でも同じ)をつくれば、自分たち独自の発想や行動指針を持つことが出来る。そうした身近な同調者集団が無ければ、各個々人は孤立化するか、あるいは自分と政府や国の関係を単線で結び、《日本は……》とか、あるいは《我が国は……》などとを、大きな主語で発想し、語ることを余儀なくされる(SNSなどをつうじて)。行き着く先は、観客民主主義と個々人の国家主義への包摂となる。

 組合など身近なところで自分たちの足場があれば、何事にも《自分は……》とか、《私たちは……》とか、小さい主語で発想し、語り、行動する土俵を手にすることが出来る。さらには《私たちで……》やれることを相談することも出来る。いわば《草の根》の発想と行動である。

 こうした発想と行動などは、極めて大事なことだ。要するに自分たちの思いを主体的行動につなげる回路を獲得することでもある。

 その活動対象は、賃金や労働時間などの処遇だけではない。職場での労働者の権利や人権確保、会社の不正追及なども取り組み対象になる。要するに労組などの存在は、全ての活動の現実的な足場になるわけだ。

 現状はといえば、かつて労働問題をテーマとした著作などで労働者を叱咤激励してきた熊沢誠氏が言うように、『民主主義は工場の門前で立ちすくむ』現状に対抗し、《団結による生活保障》を対置していた事を思い起こしたい。

 自らの雇用や権利などで労組を活用して、自分たちのことは自分たちの行動と闘いで確保するという地点に立ち、全面的な反転攻勢に転じたい。(廣)案内へ戻る


  大阪万博は税金の無駄使い 延期ではなく中止にせよ!

 大阪万博開催は、2025年4月を予定しています。万博会場は、夢洲という人工島です。夢洲は1991年に埋め立てが許可された人工島で、廃棄物の最終処分場として使われてきました。つまり、ゴミ埋立地です。

 関西新空港も人工島です。1987年に空港土地を前提にゴミではなく、土砂や砂礫を中心に埋め立て開始しました。それでも、たった1年で6メートル近くも沈下し、1994年の開港からの約30年間では、さらに4メートル近くも沈下しています。ゴミ埋立地の夢洲では、35~40メートルの深さまで杭を打つ必要があります。万博終了の数カ月後にはパビリオンの解体撤収だけでなく、打った杭の撤去まで義務付けられています。杭工事は打つよりも安全に引き抜く方が大変です。

 ところが、万博パビリオン誘致では地盤の状況が危機感をもって各国の参加表明条件にアナウンスされていないのです。顕著なのは各国独自にパビリオン建設を任せる「タイプA」の割り当て敷地です。参加国向けに公開されている設計ガイドラインには地盤条件は明記されておらず、付属資料に出てくるだけです。廃棄物処理場の跡地由来の土壌汚染を含め、地下の状況を明確に周知徹底できていないのではないでしょうか。次々と追加工事が発生するということになりそうです。

 大阪万博で建設工事に必要な「許可申請書」はいまだに1件も大阪市に提出されておらず、その前段階の「基本計画書」がようやく、韓国、チェコから提出されました。しかし、資材高騰と人手不足は深刻で、建設業界関係者は「予定通りの開催は無理」と言います。

 会場の夢洲は人工島で、アクセスが夢舞大橋と夢咲トンネルの2カ所しかありません。「建設業界関係者によると、夢洲での会場建設工事ではピーク時に約2万人の作業員が出入りすることになるとみられています。彼らを現場に送り届けるには、約1000台のバスが必要になるでしょう。現場には資材運搬用の車両も来るわけですから、アクセス経路が2カ所では渋滞必至です。

 建設業界は来年4月から、原則として月45時間、年360時間を超える時間外労働はできなくなります。来年4月といえば万博関連工事の最中です。そうしたら万博協会はなんと、万博の工事従事者は残業規制から除外するよう政府に要望しました。適用が除外される例としては災害復旧などがあるが、さすがに厚生労働省は「業務の繁忙という理由では認められない」と言います。

 それと、万博会場夢洲はゴミの埋立地です。汚染土壌の総水銀が、2.4ppmで環境水準の24倍と毒の入ったベチャベチャの土です。発がん性物質であるダイオキシンやアスベストもたくさん埋まっています。作業員の健康被害は甚大なものです。

 万博開催期間は台風シーズンです。2018年9月には台風21号が大阪を直撃、夢洲の巨大コンテナが飛んでいきました。万博開催時台風が来れば、レストランの看板やテントは飛んでいくでしょう。そして、万博会場へのアクセスが夢舞大橋と夢咲トンネルしかありませんが、台風が来れば通行止めになります。

 このような中経済産業省は、国内建設業者向けの「万博貿易保険」を創設しました。発注元の参加国側から工費が支払われない場合に9割から全額が補償され、取りっぱぐれリスクを減らして建設会社の受注を促進する狙いですが、この保険は政府が全額出資する日本貿易保険が運用する。原資は税金です。

 万博の会場建設費は大阪府と市、経済界が3分の1ずつ負担することになっていますが、すでに当初予算の1250億円から1850億円に上振れしています。開幕に間に合わせるために無理をすれば、資材も人件費もますます暴騰し、多額の税金がつぎ込まれることになります。

 税金は、住民のために使われるべきです。

 大阪万博を推進してきた維新は、自分たちの計画の遅れを政府のせいにして、尻ぬぐいは税金丸抱えなんて許せません。工期圧縮のために海外パビリオンをプレハブの建て売りにするという案も出ていますが、プレハブが並ぶ万博なんて冗談ではありません。

  自民党衆議院議員の船田元さんは、8月8日自身のメルマガで「中途半端な万博しかできないことが判明したら、勇気ある撤退という選択肢も残しておくべきではないか」と述べています。自民党の議員ですら否定的な大阪万博、中止するのがいいです。(河野)


  理想論だけに終わっている「働き方改革」

 厚生労働省から次の理由で「働き方改革関連法案」二千十九年四月に施行されました。
 
「少子高齢化に伴う生産年齢人口の減少」「育児や介護との両立など、働く方のニーズの多様化」などの状況に直面しています。

 こうした中、投資やイノベーションによる生産性向上とともに、就業機会の拡大や意欲・能力を存分に発揮できる環境を作ることが重要な課題になっています。

 「働き方改革」は、この課題の解決のため、働く方の置かれた個々の事情に応じ、多様な働き方を選択できる社会を実現し、働く方一人ひとりがより良い将来の展望を持てるようにすることを目指しています。

「働き方改革」の実現に向けた厚生労働省の取組み

1、長時間労働是正

 私は教育現場で働いています。働き方改革を受け、民間企業の守衛と巡視が入り、学校は十九時半に閉門されて、それまでに仕事を終わらせなくてはいけなくなり、帰宅せざるをえません。表面上は長時間労働が是正されていますが、先生の数が全然足りなく、病気休暇の先生の補充もなかなか叶わず、教材研究などの仕事が終わらず実際は自宅に持ち帰り風呂敷残業です。

2,雇用形態にかかわらない公正な待遇の確保

 正規雇用労働者と非正規雇用労働者の間の不合理な待遇差の解消の取組を通じて、どのような雇用形態を選択しても納得が得られる処遇を受けられ、多様な働き方を自由に選択できるようにしますと提案されています。しかし、私は再任用で正規雇用労働者と同じ仕事をしていますが、給料は自分が正規労働者の時に比べ六割にもいきません。生徒との関わりということだけが生きがいで、プライドだけで働いています。

3,柔軟な働き方がしやすい環境整備(テレワーク、副業・兼業など)

 以前に仕事を複数したことがありますが、生きていくための賃金を得ようとすると、体が持たないと感じます。株とかもなかなか怖くて手が出ません。

4,ダイバーシティの推進

●病気の治療と仕事の両立●女性が活躍できる環境整備●高齢者の就業支援・子育て・介護等と仕事の両立と謳われていますが、なかなか叶いません。

 働き方改革にむけて、色々な提言や意見交換がされたことは、良かったとは思いますが、根本的な問題が何も解決していないので、実際は理想論だけで終わっています。私たち労働者は働いていかないと食べていけないのです。だから体調が悪くても無理して働くのです。病気や子育てに追われても、守ってくれる体制は建前だけで、泣く泣く退職しなければいけない現場もあります。

 資本家だけが儲かる社会ではなく、もっと平等な社会を目指して闘い続けたいと想います。 (宮城 弥生)


  読書室   松竹 伸幸氏著『不破哲三氏への手紙』宝島社新書 二〇二三年八月刊

〇 今年一月、『シン・日本共産党宣言――ヒラ党員が党首公選を求めて立候補する理由』を刊行し、三週間後の二月に除名されてしまった松竹氏の新著である。この松竹氏の著書は、共産党攻撃の一環として位置づけられ、徹底的に批判された。そして『志位和夫氏への手紙』の著書である鈴木元氏と一緒の分派行動として批判を受けたばかりか、『党首選出と安保政策をめぐる攻撃にこたえる――憲法の「結社の自由」をふまえて』(俗称松竹パンフ)において「規約と綱領からの逸脱は明らか」「党攻撃とかく乱の宣言」と決めつけられたのである。驚いた松竹氏はただちに反論しようと考えたが、考え直した。このあまりにも低水準のパンフへの批判は心躍るものとはならないから、より前向きで建設的なものにしたいと考え、松竹氏一人が頑張るのではなく、不破氏のご登場となるのである 〇

 まずは本書を検討する前提を確認したい。二〇〇〇年の志位委員長就任後の二十年は、党員が四十万人から二十六万人に、赤旗読者が二百万人から九十万人に、国政選挙では衆院選比例得票数が六百一万九千票(得票率十一・二%、二〇〇〇年六月)から四百十六万六千票(得票率七・二%、二〇二一年十月)に、共に半数近くに減少、まさに〝歴史的後退〟が生じた二十年である。しかも現在なお「進行中」というのだから、事態は極めて重大な状況にある。成果を出せない株式会社の取締役会では、恒例となる社長の解任劇が勃発する場面ではないか。だが志位解任の話はない。だからここで松竹氏のようにこの際、共産党の党首を公選制にして党の活性化を図ろうとの動きになるのは、十分に予想できる事態である。しかし出来たばかりの「共産党百年史」でも「党の政治的影響力は一九六〇年代にくらべてはるかに大きくなっている」との強がりが、飽きもせず相も関わらずに振り撒かれている。このように今も昔も共産党の自己評価とは恣意的なものなのである。

 このように成果がすべての政党活動に対し委員長辞任要求が他ならぬ党執行部から提案されない事実こそが、共産党が自画自賛する「民主集中制」の秘められた内実を赤裸々に暴露するものである。すなわち党の方針決定も自己批判も決めるのはトップだけなのだ。

 松竹氏はこの内実に迫るため、不破氏のエピソードを効果的に使い、自分の提案は不破氏が共産党の新綱領と新規約に埋め込まれたものを現実化しただけのものだと敢て書く。

 なるほど自衛隊活用論も最初に言い出したのは、志位氏ではなく不破氏だった。この自衛隊活用論を本部勤務員として一層現実化させようと奮闘したのが、他ならぬ松竹氏である。他党との共闘関係に一段踏み込んだのも不破氏なのであった。まさにトップがすべて。

 ここで松竹氏はあまり知られていない『戦後革命論争史(上・下)』について記述する。

 その内容を紹介しておこう。一九八三年七月、共産党の政治機関誌『前衛』に、実兄の上田耕一郎氏は「『戦後革命論争史』についての反省――「六十年史」に照らして」、不破氏は「民主集中制の原則問題をめぐって――党史の教訓と私の反省」の二つの「自己批判」文書が掲載されていた。この時、不破氏は委員長で上田氏は副委員長。議長は宮本顕治氏。共産党を仕切るのはトップただ一人だけの事実がはっきりと分かる一瞬だった。

 では『戦後革命論争史』はいつ、何という出版社から刊行されていたのであろうか。

 一九五六年に上巻が、翌年には下巻が大月書店から刊行された。大月書店は共産党系出版社ではあるが、共産党の出版社でないことに注意。すなわち不破氏らの「自己批判」は刊行の四半世紀後に突然なされたのであり、そのことの異様さに改めて驚く他はない。

 またこの本は上田・不破兄弟の共著として刊行されたものの、実際はある研究会での論議を踏まえて彼らの名前で刊行されていた。すなわち当時の党規約を適用すれば、「党内問題を党外にもちだし、党外の出版物で……や党の綱領問題を論じるという、自由主義、分散主義、分派主義の典型的な誤りをおかした」というもの。松竹氏は問う、私の除名理由がピタリとあてはまるのに、彼らには何の処分もなく、党委員長や党副委員長に「出世」している。そして現在の共産党綱領にはこの『戦後革命論争史』での主張が活かされていることが確認できる。例えばプロタリア独裁の否定とそれに代わる執権の使用等々。

 不破氏が『戦後革命論争史』を刊行し、党外から党の議論に働きかけようとしていたように、松竹氏も『シン・日本共産党宣言――ヒラ党員が党首公選を求めて立候補する理由』を刊行しただけであると書く。不破氏は刊行時に批判されずに、なぜ松竹氏は除名なのか。

 当時の不破氏は執筆活動と党生活とは別物と考えていたし、規約の運用にも幅があった。

 松竹氏は、この除名処分をめぐって小池書記局長と何度か会ったのだが、最後の協議が終わった後、次のように尋ねた。「ところで、この間、自己批判問題をめぐって何回も常任幹部会が開かれました。それに不破議長も参加しておられると思いますが、不破氏はどのような立場をとり、どんな発言をされているのですか?」小池氏の答えはこうでした。『不破さんはこの間、一言も発言しておられません』」

 この返事は、ある意味では松竹氏の予想通りだった。「私に自己批判をさせることを主導したのは志位和夫委員長で、あなたは議長職に退いていましたが、なお実質的には主導権を持っておられました。ですから、もしあなたが志位氏のイニシアチブに異論を持っておられたのなら、自己批判などということは問題にもならなかったと思えるからです」

 ここで松竹氏は不破氏の正しい裁定に淡い幻想を持っていたが、それはまさに松竹氏が共産党の改革者として不破氏を考えていたからに他ならない。その意味では本書は共産党の安全保障政策の変遷とその意味について、又不破氏の実像を精緻に展開した本である。

 私の記憶によれば、松竹氏は民青活動を継続したいため、大学には八年在籍した。その後、それが認められたかは不明ながら希望通りに共産党の本部勤務員になったのである。

 松竹氏を一言で特徴づけるとしたら、優れた戦略家であるとの形容がピッタリである。

 共産党が現実政治と切り結ぶた為、本部勤務者として数々の戦略的な提言をしてきた松竹氏は、退職後かもがわ出版の編集長である。共産党の内実を実によく知っている男だ。

 果たして共産党はこの松竹氏の新たな挑戦状にどのように答えるかが見ものである。

 本書は、日本の現実政治に対する、この間の共産党の姿勢の変容についてその体験を詳しく解説している。現実の共産党を深く認識するためにも、ぜひ一読を薦めたい。(直木)


   江口朴郎『帝国主義と民族』を読んで

●不均等発展の解釈

 一九七〇年代、ベトナム戦争に直面して、学生や青年労働者の多くは、レーニンの「帝国主義論」を読んだ記憶があるだろう。

 そこでは「資本主義の自由主義段階」が「独占資本段階」に移行し「資本の輸出」をめぐる「植民地の再分割戦争」に向かう「資本主義の最高の段階」と規定される。

 ところが帝国主義戦争の先駆けとなった日露戦争は「軍事的封建的帝国主義」であるロシアと日本によって戦われた。これをレーニンは「不均等発展の法則」という概念で説明した。

 読者の中には「資本主義の最高の段階」と「軍事的封建的帝国主義」の落差を「不均等発展の法則」で説明することに、何か腑に落ちない感じを受けた人も多かったのではないか?

 実はすでに戦前にも、この問題をめぐって、志賀良雄と神山茂夫の論争があって、戦後の歴史学会にも尾を引いていた。

 そこに終戦直後の新状況に立って、新たな視点で問題提起をしたのが、江口朴郎の『帝国主義と民族』である。

●資本主義の反動性

 江口は「封建主義」から「自由資本主義」へ、その先に「独占資本主義」「帝国主義」へ、という国民経済単位の発展段階論からのみ論ずることに反対する。

 彼は一九世紀末からの世界を全体として「帝国主義段階」ととらえ、資本主義国は一様に「反動化」し、資本家階級も、労働者・民衆の闘いを抑圧するため「封建的構造」も維持・固定化し、民衆の要求を欺瞞的に逸らすため、侵略戦争を行うととらえる。

 したがって「侵略戦争」の目的を「資本の輸出」や「市場の拡大」という経済的要因に限って「帝国主義」かどうかを評価するのは妥当しないと主張する。

●ロシア帝国主義

 こうした江口朴郎の鋭い指摘は、半世紀を超えても、決して古いとは思われない。むしろ、今日のロシア連邦の帝国主義化を考察するとき、驚くほど当を得ているように思うのは、筆者だけであろうか?

 多くの論者はプーチンの侵略主義を「ロマノフ王朝の大ロシア民族主義の復活」あるいは「スターリン主義への回帰」から説明しようとする。

 しかし我々は江口の視点に立って、ロシアの国家的資本主義の反動性から、スターリン体制的な社会構造を復活・維持・拡大する力が働き、ロシア民衆の不満(連邦内の自治共和国の離反への不安など)を一種の「ショーヴィニズム(ロシア人の優越意識)」で逸らすため「侵略戦争」にのめり込んでいる、そのようなものとして現代的なロシア連邦の「帝国主義」の性格を検討するべきではないだろうか?

●民族主義の明暗

 『帝国主義と民族』という書名は「帝国主義」との闘いに「民族主義」を対置しているかの誤解を抱かせるが、江口は「民族」に対する教条主義的解釈を退ける。

 スターリン主義の民族理論「言語、地域、経済生活、および文化の共通性のうちに現れる心理状態の共通性」という規定に対しても、概念の解釈論争に踏み込むことはしない。

 むしろ階級闘争の状況や民衆の要求が、どのようなアイデンティティーを形成しているかを具体的に考察すべき、と主張する。

 第一次大戦の終結にあたってレーニンが提唱した「民族自決権」についても、当時の「汎スラブ主義」の反動的役割に対置する必要からの限定的なものとして、その意義をとらえているように筆者には見受けられる。

 実際、今日のロシアの侵略に対するウクライナ市民の国民的防衛の闘いを、その意義と限界を具体的に評価せず、レーニンの「民族自決権」の原理原則から「正当化」しようとする論者もあるが、「民族自決権」を一人歩きさせれば、プーチンの側の「ウクライナ国家内のロシア系人民の民族自決権を守る戦争」だという「口実」に手を貸す矛盾に気が付くのは、筆者だけではなかろう。

●時代を超えて

 この本の内容には、これが執筆された一九五〇年代の世界状況にやや引きずられて、今日から見れば、時代認識の見通しに疑問を感じる点もある。

 「アジアのナショナリズム」の過大評価、それとの連帯により、日本の民族意識を封建的侵略主義から、民主主義革命の主体としての「正しい民族」に変革できるかの楽観論など。

 にもかかわらず「帝国主義」や「ナショナリズム」を教条主義的な概念解釈論争と一線を引いて、階級闘争や民衆主体の意識から具体的に論ずるべき、という江口朴郎の信念は、時代を超えて、力強く伝わってくる。(夏彦)案内へ戻る


  何でも紹介・・・中川五郎さんのLIVEに行く「1923年福田村の虐殺」は圧巻だった

 中川五郎さんは1949年生まれ、60年半ばからアメリカのフォークソングに影響を受けて曲を作ったり歌ったりし始め、68年「受験生ブルース」の作詞者。反戦運動・平和運動の中でフォークソングを歌い続けていたが、70年に入ってからは音楽に関する文章や歌詞の対訳などの活動、80年には出版社の編集者になって歌うことをやめてしまった。90年に入ってからは小説の執筆も手がけ、90年半ば15年ぶりに再び「人前」で歌い始め、今では全国でライブ活動を展開している。(中川五郎著「ぼくが歌う場所」より抜粋)

 私がフォークソング好きになったのは70年代の吉田拓郎やかぐや姫なので中川五郎さんの事はあまり知らなかったが、アコスティックギターの音色が会場に響き生音が心に染み渡りすっかり魅了されてしまった。さらに「2021年1月22日石原伸晃さんが入院した」の曲ではテンポが速くなり時おり足を力強く踏んで、石原伸晃さんを例にしてコロナ患者への国の対応に鋭く追及するのだ。6000人以上も入院待ちがいる中で、2021年1月22日PCR検査で陽性だった石原伸晃さんは無症状だったにもかかわらず既往症があるということで東京医科歯科大学に入院して手厚い看護を受けたと歌うと、「そうなんだよ、国会議員の特権を利用するとは許せない、よく言ってくれた」と思っていると、最後に2021年10月31日衆議院選で落選すると落ちがあり参加者はどっと笑いあった。

 また、中川五郎さんは新聞を読んでいていいなと思った記事や投書欄の文章をそのまま曲をつけて歌にしている。そのひとつの「吉野さんの鷹山カレー」は心温まる曲だった。吉野さんは東日本大震災で検視官として遺体の死因を調べ朝から夕まで検視が続き、10日間の最終日に小学生男児の遺体と一緒にランドセルがあった。その遺体に心が崩れた。「もう十分、悲しいことを見てきた。人が喜ぶ顔を見たい」と、警察官になって30年余り52歳で早期退職をしてカレー屋になった。食べ終えたお客さんを笑顔で見送っているという。何気ない文章に曲をつけて歌う中川五郎さんの感性に感動してしまった。

 歌った曲の中で「1923年福田村の虐殺」は 24分を超える歌で圧巻だった。1923年関東大震災の直後、デマをもとにした朝鮮人虐殺が相次ぐ中、香川県の被差別部落の行商団9人が千葉県福田村(現在は同県野田市内)で自警団に虐殺された「福田村事件」を歌にした。「言葉が少しおかしいというだけで幼い子どもや身重の若い母親を竹槍で突き刺し・・河原に無惨な死体」という言葉には切なくなり、自警団の主犯格の一人は村長になって市会議員になったというのは驚き、謝罪の言葉もなく抗議の声も起こらない。忘れ去れてしまう、同じようなことが繰り返されている。中川五郎さんはこの曲の最後のメッセージで私たちに訴えている。(表参照)

 中川五郎さんは映画監督の森達也さんが福田村事件について書いた『世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい』(2003年・晶文社)で事件を知り、その中に「ただこの事実を直視しよう」という文章を読んだことだった。「何の反省もなく事件から目を背けてきたから、(ヘイトスピーチがはびこる)今の日本の状況がある。事実を分かち合いたいと思った」と語った。(週刊金曜日22/4/8より抜粋)この曲を2009年に作り歌い続けていると、曲のきっかけになった森達也さんが監督で映画化されることになった。関東大震災から100年となる9月1日に「福田村事件」が公開される。(美)8/24記


(表) 中川五郎「1923年福田村の虐殺」より抜粋

見知らぬ人には親切に、苦境の人には助けの手を
それがよその土地の人であれ、よその国の人であれ
たとえ自分たちと違っていても、言葉が違っていても
信じることから始めよう、それが人の心というもの

昔も今も日本人はよそ者を嫌い、
身内だけで固まる狭い心の持ち主なのか
デマや流言飛語に弱いのは臆病者の証拠
信じることから始めよう、人はみんな同じ

朝鮮人だとか部落だとか、小さな日本人よ
朝鮮人だとか部落だとか、小さな人間よ
----------
福田村事件は、1923年9月6日、関東大震災後の混乱および流言蜚語が生み出した社会不安の中で、香川県からの薬の行商団15名が千葉県東葛飾郡福田村三ツ堀で地元の自警団に暴行され、9名が殺害された事件である。


  「沖縄通信」・・・   麻生発言「戦う覚悟」を沖縄県民は拒絶する!

 台湾を訪問した麻生自民党副総裁が台北市で講演し、「台湾防衛の明確な意思を相手に伝えることが抑止力になる」「今ほど日本、台湾、米国などの有志国に強い抑止力を機能させる覚悟が求められている時代はない。戦う覚悟だ」と述べた。

 麻生発言が伝えられると、直ちに全国の多くの市民から反発の声が上がった。

 沖縄の地元2紙も社説で「専守防衛を逸脱し、中国を挑発するもの。緊張緩和に向けた対話が必要」(琉球新報)、「日中の相互不信と対立が深まる。挑発的な言動を見過ごすことはできない」(沖縄タイムス)などと報道した。

 また、沖縄戦体験者たちからは、「浅はかだ。戦争をさせないよう日本が果たす役割への認識が欠けている」「過去の戦争を反省していないからこういう発言が出る。戦争を煽るのはやめて」等の声が上がった。

沖縄の知人からの報告を紹介したい。(富田英司)

★「戦争とは爺さんが始めて、 おっさんが命令し、 若者たちが死んでゆくもの」

 これは大橋巨泉さんの残した言葉だ。まさに、リアリティもなく戦争を語り、無責任にも他国を含む国民や若者の命を消耗する決断が自分にできるかのように錯覚して戦争の覚悟を促す、そんな老人がこの国の中枢に生息している。『老害』ここに極まれり。

★「麻生発言に抗議する8.13緊急集会に200人」

 「沖縄を再び戦場にさせない県民の会」(共同代表=具志堅隆松、瑞慶覧長敏)は「妄言に抗議する」ため、8月13日(日)午後5時から、県庁前広場で「麻生発言に抗議し発言の撤回を求める緊急集会」を呼びかけた。

 約200人の参加者は、ノボリ、白旗、手作りプラカードを手に結集した。集会は、山城博治さんの進行で始まり、まず、瑞慶覽さんが挨拶に立ち、「求められているのは対話であり、信頼であり、平和力だ」と強調した。具志堅さんは、「〝戦う覚悟”を言うのは政治の敗北。日本という国は戦後、戦わないことを国是としてきた。私たちは絶対に戦わない。子どもたちのためにも〝戦わない覚悟”を固める」とアピールした。

 多くの連帯の挨拶の後、ハワイ・ニューヨークからのメッセージが読み上げられ、さらに集会場にいる台湾や米国からの参加者も紹介された。最後に集会宣言が読み上げられ採択されたのに続き、全員でシュプレヒコールをくり返した。

 麻生発言糾弾!戦争扇動許さないぞ!戦争に協力しないぞ!
 
★辺野古新基地建設と沖縄基地強化の現実

 かつて麻生が「ナチスの手法に学ぶ」と述べたように、安倍・菅・岸田と続く自公政権は、重要な国策であればあるほど国民的な議論を避け、あるいは打ち切り、閣議決定という手法を駆使して政権運営を行なってきた。とくに、昨年12月の安保三文書の閣議決定ののち、「南西諸島」へのミサイル配備と攻撃能力の付与、軍事費倍増と増税、地下シェルターの建設方針などと、沖縄の軍事基地強化はとどまるところを知らない。

 アジアでの米空軍の拠点基地である嘉手納基地では、F15戦闘機の老朽化による退役にともない、新たに配備されるF15Eストライクイーグル戦闘機、F35ステルス戦闘機、F22ステルス戦闘機、FA18スーパーホーネットなどが沖縄上空でくり返し訓練を行なっている。沖縄県が調査した今年上半期(1~6月)の速報値によると、嘉手納基地の騒音の発生回数は、昨年同期から12.3%増の102,193回にのぼった。最大騒音値は117.9デシベル。100デシベルが「電車通過時のガード下」、110デシベルが「2メートルの距離の自動車のクラクション」、120デシベルが「ジェットエンジンの近く」というので、どれ程の騒音かは想像がつく。

 米軍基地を汚染源とするPFAS(有機フッ素化合物)による飲み水と環境汚染は依然として未解決であり、周辺住民の命と健康を危険にさらし続けている。また、「負担軽減」の目玉として返還された米海兵隊北部訓練場跡地からは、空砲類5万発以上、大型鉄板14トン以上、空き瓶・空き缶・プラスチックなどのゴミ17トンなどが回収されている。世界自然遺産に隣接する亜熱帯の森で、米軍はまさしく環境汚染の張本人だ。処理費はすべて日本政府が出している。米軍基地内のPCBも同様である。

 辺野古新基地建設の埋め立ては、辺野古側がほぼ終了したが、難関の大浦湾側は、沖縄県が埋立変更申請を不認可にしており手が付けられていない。埋め立て予定地の大半を占め、最も深いところで水深90mに及ぶ軟弱地盤の存在を無視して無理やり工事を強行すれば、生物多様性の海・大浦湾の環境は深刻に破壊されることになる。ところが、政府防衛省は埋立工事を止めようとしない。辺野古側埋め立て地に、大浦湾埋立のための土砂100万立方メートルの仮置き工事の契約を施工業者と交わした。防衛局は「2013年の仲井真知事による埋立承認の範囲内で仮置きは可能」と強弁している。こうした政権の独善と強権が沖縄基地政策のすべてに共通している。

 「軍事は国の専権・専管事項」というのは国家を掌握する権力者たちのマヤカシだ。沖縄の主権者は県民である。県民の意思を尊重する政治こそ民主主義政治といえる。沖縄を踏みにじる政治家たちを国会と政権から放逐しよう!案内へ戻る


  色鉛筆・・・速やかに無罪を、袴田巌さんとひで子さんに真の笑顔を!

 布川事件で44年間の訴えの末、2011年ようやく再審無罪を確定させた桜井昌司さんが、8月23日に亡くなった。76歳。

 「反省なき検察、警察の責任を追及し『自白』強要と証拠隠し、捏造を明らかにしすべての証拠が裁判で開示されるシステムをつくりたい」(冊子「真実を求めて」より)と、無罪判決後も冤罪の原因究明と責任を問うべく検察(国)と警察(:県)に国家賠償請求訴訟を起こし勝訴。また「冤罪犠牲者の会」を設立して全国を回り支援し、そして「再審法改正をめざす市民の会」の共同代表も務めた。

 3月の東京高裁による袴田さんの再審開始決定の時には、病気から来る痛みで立っていることがつらく近くの車中で横になっていたと聞く。小柄な体から発するパワーとぬくもり、独特の茶目っ気、プロ級の歌声など忘れることが出来ない。  

 7月10日、検察が袴田さんを有罪とする立証の方針を発表したことを受けて袴田ひで子さんは「検察はとんでもないことをするだろうと思っていた。これはしょうがない。裁判に最終的に勝っていくしかない。(私たちは)57年間闘っている。2,3年くらいどうと言うことはない。」と発言した。3月に特別抗告を見送らざるをえなかったにも関わらず、こうした奇策に出たことを痛烈に皮肉っている。

 9年前の2014年の静岡地裁に続き、今年3月東京高裁で二度目の再審開始決定が出されたのだ。袴田さんの場合、数十年にも及ぶ再審請求審の段階で、検察側も弁護側も立証を尽くした上で、裁判所が再審開始の判断を下している。事実上の「無罪の決定」を出しているに等しい。にもかかわらず検察側はこれへの特別抗告は見送ったものの、4月の静岡地裁での第一回目の弁護側との三者協議(非公開)で「3ヶ月間の猶予」を要求、そして7月10日に有罪立証、つまり巌さんの心を破壊したあの拘置所の独房へ再び収監し、もう一度死刑を求めるという。静岡地検の奥田洋平次席検事は「法と証拠に基づいた十分な検討を重ねた結果、有罪立証を行なうこととした。」と発表している。

 捜査機関、検察による違法な自白強要、証拠隠し、さらには証拠の捏造など、現状の「法と証拠」はとてもではないが公正公平とは言いがたい。半世紀以上も冤罪を訴えても救済されない再審法の不備のため、泣かされる人があとを断たない。ひで子さんの言葉どうり、検察はとんでもないことをしている。検察は強大な権力と資金、人材を与えられている。どんなに裁判が長期化しても痛くもかゆくもない。一方被告とされた側は、すべて自力で立ち向かわなくてはならない。冤罪被害者、とりわけ死刑冤罪は迅速に救済すべきだ。

 今すぐに検察が取り組むべきは、二度の裁判で「証拠の捏造」を指摘されたことの検証だろう。事件当時の捜査関係者や担当の検事らから話を聞き取り、公の場で説明する責任がある。
 そもそも犯行着衣がパジャマから、なぜ1年2ヶ月後に発見された血染めの5点の衣類に変わったのか?事件翌日の夕方には清水署の刑事が、袴田さんの前の職場の同僚を訪ね「袴田の写真はないか」とアルバムから写真を剥ぎ取っている。同僚が「袴田さんがそんなことをするはずがない」と抗議すると「袴田に決まっている」と言ったという。事件が内部の人間、袴田さんひとりの犯行だとなぜ早々に決めたのか?外部の複数の者の犯行とは考えなかったのか?事件以後、袴田さんには徹底的な尾行がついたはずで、犯行着衣を味噌タンクに隠すことは不可能だろう。検証すべきことは山ほどある。

 今検察は、血痕の赤みが残ると強弁することより、これらの検証を最優先に取り組み、司法に対する信頼回復に取り組むべき時だろう。「検察はとんでもないことをする」など言われては、検察にとっても国民にとっても大きな損失だ。

 桜井さんが生涯をかけ取り組んできた再審法の改正、無実の人が早期に救済される法改正を、今こそ実現させよう。冤罪の原因究明とその責任を司法に突きつけよう。(澄)

  案内へ戻る