アソシエーション社会

「アソシエーション社会」=私たちのめざす共同社会


       1997.12.14    『新しい労働者党をめざす全国協議会』
はじめに

 私たちは、今回「新しい社会主義像」についての基本的な考え方を項目別に整理し、現代の労働者階級が目指すべき社会は基本的にどのようなものかについて一つの提起を行わなければならないと考えました。
 それは今まで多くの人々の間で「社会主義社会」として理解されていたソ連圏社会が崩壊し、それが理想社会でもなんでもなく、汚辱にまみれた官僚支配の社会であり、その本質は国家資本とヤミ経済の支配する資本主義社会であることが明白になったからです。私たちはこのソ連圏社会を1970年代はじめから「国家資本主義」と呼んで、それが労働者の目指すべき社会主義などではまったくないと主張してきました。ソ連圏社会は、資本主義が未発展で、したがって民主主義的な政治制度がなかった社会に労働者階級が先頭に立った革命の結果生まれました。国民の大多数が農民からなる社会で、しかも帝国主義的な包囲網の中で独自に生産力を発展させ、国力を増強しようとすれば、国家が資本を国有化し、農民や労働者から収奪した社会の一切の剰余を経済建設という名で国家資本の育成に注がなければならなかったのは、必然的なことだったのです。ソ連圏社会の支配層は、この「国有化プラス計画経済」を「社会主義」と呼び、マルクス主義を捻じ曲げて、これが労働者の擁護すべき社会だと強弁し、それに反対する人々を弾圧してきました。
 こうした社会が崩壊した今、労働者階級が、マルクスが資本主義的な高度な生産の発展を基礎として初めて成立すると考えた本来の社会主義を目指して闘うべき時がやってきたのです。
 私たちは未来の新しい社会を「アソシエーション社会」と呼ぶことにしました。なおこの「アソシエーション社会」を「自由で自立した諸個人の共同社会」と定義します。
 私たちは、このアソシエーション社会の基本的な性格について、マルクスの時代にはまだ見られなかった現代の資本主義的発展の成果を考慮に入れながら、明らかにすることからまず始めようと思っています。この「社会主義像」がその試みです。その後で、現代資本主義のさまざまな矛盾を分析し、それがどのように解決されなければならないのかを現実の条件を基盤として問題提起していくつもりです。なぜなら現実の問題のもっとも現実的で根本的な解決こそ、社会主義に他ならない、と私たちは考えるからです。
 資本主義の矛盾と闘い、社会主義の建設に努力されている多くの皆さんが、私たちとともにこの事業に参加されることを私たちは心から願っています。私たちのこの提起は、多くの皆さんとの共同事業のための私たちの一つの提案にほかなりません。

(序)

 資本主義があらゆる点で行き詰まり、崩壊の危機に瀕していることは支配階級自身さえそれを認めざるを得なくなっています。資本主義のこの行き詰まりは、生産が誰の目にも明らかなほど社会的なものになったのに対し、生産物の取得は私的なものにとどまっていることから生まれています。大規模な多くの労働する人々の協力によってしか動かすことのできない生産手段が、資本の私的所有の下に置かれ、労働する人々を搾取する手段になっていることがすべての矛盾の根源なのです。この資本主義の行き詰まりを打破するアソシエーション社会は、この社会的な生産手段を公然と社会全体のものに転化することによって生まれる社会です。個々人の集合体である社会は、これらの一切の生産手段を個々人の共同の所有物に変え、すべての個々人がこれを共同で利用するのです。もちろんこのこ
とは社会の上に立つ機関や国家がこれを所有することではありません。所有するのは社会すなわち個々人の連合体であり、個々人の連合体が直接にこれらの生産手段を共同で利用するのです。そこには、国家も人々を支配する機関も存在しません。アソシエーション社会では人々による本当の自治が実現するのです。
 私たちのめざす新たな社会は、高度に発展した資本主義の成果の上にうち立てられる共産主義社会です。もちろんそのためには労働者階級による革命が必要です。労働者は資本に対して階級として団結し、資本の支配を打ち倒すために、一致して共同の目的のために行動しなければならない事は言うまでもありません。しかし、この革命はレーニンの指導したロシア革命とははっきりと違ったものにならざるを得ないでしょう。資本主義が未発達で、封建制度を打ち倒して民主主義革命を実現することを直接の課題としなければならなかったロシア革命とは、生産力の状態も、社会の階級構成も全く違った条件のもとで行われる現代の労働者革命は、マルクスが「共産主義」と呼んだ社会を実現する革命になるでしょう。
 現代の労働者階級は、マルクスやレーニンの時代には直接に実現できなかった共産主義社会(アソシエーション社会)を実現する課題に直面していることを自覚し、人類史の新しいページを自分たち自身の力で実現するために立ち上がらなければならないのです。資本の生産は永遠のものではありません。今こそ、人類の大きな歴史的発展という観点で社会を見、人類が本当に社会的動物としての自覚に立って新たな社会(アソシエーション社会)を意識的に作り上げるために立ち上がろうではありませんか。

1,土地を含む一切の生産手段は社会全員の共同所有になる社会

 アソシエーション社会では、土地と、労働する人々が作り出した一切の生産手段(工場、機械、通信手段、原材料・燃料など)は、社会をつくる個々人の共同所有(正確には共同占有)になる。資本家や土地所有者の所有する土地や生産手段だけでなく、国家の所有する土地や生産手段もすべて個々人の共同所有へと変えられる。個々人は一切の土地と生産手段を自分たちのものとして取り扱い、個々人の生活と文化の向上のために役立てる。これらの土地と生産手段は社会の発展のために大切に取り扱われ、後世の人々に受け継がれる。

(解説)
 現在の国家や自治体の所有は、社会全体の所有の形をとっていますが、個々人がこれを自分たちのものとして自由に利用することはできません。それは個々人とは別の国家とか自治体といった機関の所有物なのです。アソシエーション社会では、今日の社会で私的な所有物となっている土地、工場・機械・原材料・燃料などのあらゆる生産手段が、社会を形成する個々人による共同所有に変えられます。そればかりではなく、国家や自治体の所有する土地や生産手段も個々人の共同所有に変えられるのです。
 アソシエーション社会はこれらの土地や一切の生産手段を個々人の本当の共同所有に変えるのです。個々人は共同でこれらの物を自分たちのものとして自由に利用し、役立てることができるようになります。アソシエーション社会では、人々は他人のものとしての土地や生産手段のもとで労働に従事させられることはなくなります。あらゆる物を自分たちのものとして取り扱い、労働する個々人が本当にこれらの土地や生産手段の主人公となり、自分たちのために役立て、利用することができるようになるのです。現在の社会では、生産手段は労働者に対して資本として対立し、労働者はその付属物になっています。資本としての生産手段が労働者をこき使っているのです。しかし、アソシエーション社会では、これらの一切の生産手段は、労働する人々の自由に使用できる占有物(私的所有ではない)なのです。人々は自分でこれらの物を使ってどのように生産し、労働するかを決め、土地や生産手段に対して主人として振る舞うことができるようになるのです。他人のためではなく、自分たち自身のために企画し、生き生きと労働する社会になるのです。労働するすべての人々が、競争者・敵対者としてではなく、協力者として全・ =mを集め、すべての生産手段を自分たちが自由に利用できるものとして扱うようになります。労働は苦痛ではなく、自分たちの能力を発揮し、発展させる場となるのです。
 人々はまず大土地所有者や、資本家、国家や自治体の所有する土地や生産手段を労働する人々の共同所有に変えることからはじめます。こうして社会の大部分の土地や生産手段が個々人の共同の所有物になり、人々がこれを利用して生き生きと労働し、生産するようになれば、小規模な土地や生産手段を所有している人々も、進んでこれを共同の所有に変え、自分たちもそのような共同生産の仲間入りをするほうがずっと有意義な生活を送れることが明らかとなるでしょう。そうなれば、社会のすべての土地と生産手段が、社会全体の個々人の共同所有になります。
 こうしてすべての土地と生産手段が個々人の共同の所有物になれば、個々人はこれを自分たちの所有物として勝手に処分しようなどとはしなくなります。人々はこれらの生産手段を自分たちのものとして取り扱い、自由に利用しますが、同時にこれをできるだけ良い状態で保全し、自分たちの後継者に伝えていこうとするようになります。こうしてこれらの生産手段は個々人の共同の占有物となっていくのです。私的所有の意識はなくなり、自分のものだからどうしようと勝手だなどという態度で生産手段を利用する人々はいなくなるのです。すなわち他に対する排他的な所有意識はなくなるのです。こうして私的所有は徐々に姿を消していきます。

2,必要に応じて生産物が分配される社会

 アソシエーション社会では、労働可能なすべての人々の共同生産の成果である生産物は、はじめから人々の共同の生産物である。この生産物のうちから、社会を維持するために必要な次の生産のための生産手段と生産拡張のための追加生産手段、災害に備えるための物資、社会の個々人が共同で使用するものが控除され、これは引き続き共同で利用される。さらに労働不可能か、または十分な労働が行えない人々のための生活手段が控除される。そしてそれらを控除したうえで、生活手段は個々人に平等に分配される。個々人に分配される生活手段は、今日の生産力のもとでは、必要なものを充分に分配することが可能となる。

(解説)
 アソシエーション社会では、すべての生産物は人々の協業によって生産されます。したがってその生産物は、はじめから個々人の共同生産物です。
 この中から、人々は、まず次の社会の生活を維持していくために必要な生産手段を引き続き確保しておかなければなりません。さらにより豊かな生活を望むならば、拡大された規模での生産が可能なだけの生産手段を確保しておかなければなりません。この生産手段には、工場の建物や機械など、さらには運輸手段、通信手段、原材料、燃料、肥料などが含まれます。これらを社会が消費してしまったら、社会は次の年度の生活を維持できません。これは社会が最初に確保しておかなければならないものです。もちろんより豊かな生活を望むならば、拡大された規模での生産を行わなければなりません。しかしアソシエーション社会での生産は、資本主義のもとでの生産のための生産とは違って、人々が自分たちの生活のためにする生産ですから、どのくらいの生活向上のためにはどのくらいの労働時間の追加が必要なのかが皆わかっています。ですから、生産の拡大をどのくらいにするかは、社会を構成する人々自身が決めるのです。
 さらに人々は、皆が共同で使うものを確保しなければなりません。この部分は今日の社会よりはずっと多くなるでしょう。誰もがいつでも自由に使える施設、活動のための物資、社会化された医療や教育のためのさまざまな施設や物資、これらのものが十分に確保されなければなりません。これらのものの豊かさは、本当の社会生活の豊かさを示すものとなるでしょう。
 次に人々が確保しておかなければならないのは、地震や自然災害、不慮の事故などに備えるための、いわば保険となる物資です。社会で起きたあらゆる災害に対して、人々はあらかじめどのくらいの物資を備えておけば足りるのかを、統計や確率計算の知識を駆使して備えをしておかなければなりません。こうした災害は長い期間の平均を取ってみれば、毎年の積み立て分がほぼ正確に計算できるでしょう。土地とすべての生産手段が人々の共同のものになっているのですから、こうした災害に対しても社会全体で備え、社会全体で負担をし、解決していくのです。この点では、資本主義のもとで地震の被害にあった神戸の人たちや、タンカー事故の影響を受けて大きな被害を受けた日本海沿岸の人たちなどが、その大きな費用を私的に負担させられ、絶望的な気分にさせられているのとは違って、アソシエーション社会では、これらの問題はすべてあらかじめ社会で備えをし、社会全体で解決していくのです。
 こうした部分が全体から控除された後、個々人に分配される生活手段が残ります。これは個々人に平等に分配されます。教育や医療、育児などはすべて社会の共通の費用として行われますから、個々人の生活手段として確保する必要はありません。また重病や高度の障害を持つ人たちなどが労働に参加できなかったり、わずかしか労働に参加できなくても、これらの人々のための生活手段はあらかじめ社会がこれを確保しておきます。こうした控除をしたあとで、生活手段が人々に平等に分配されます。
 人々への平等な生活手段の分配とは、画一的な、不自由の平等化などではない、個性あふれる平等化になるでしょう。そのためには充分な生産力の発展がなければなりませんが、今日の社会では物が有り余っているために不況に陥り、多くの生産手段が使われずに放置されているのですから、生産力の条件は充分に整っているといえます。もちろん個々人への分配は、私的所有の実現ではありませんし不必要な生活手段が社会的地位の高さやステータスを誇示するために無駄に所有されているようなことはなくなります。人々が健康で文化的な生活を維持し発展させるために実際に消費するのに必要な生活手段なら、現在の生産力のもとで充分に供給することができます。社会が無駄を排除し、必要なものを必要なだけ消費するとすれば、そして共同で使えるものはできるだけ共同で使おうとすれば、この生活手段の生産は限りないものになどはなりません。それは人々の欲望と消費によって制限されているからです。今日の社会でこれが何か膨大なものになるかのように考えられるのは、今日の社会が私的所有に基礎を置き、富や差別のための所有があるからにほかなりません。巨大な私的所有の土地を持ち、巨大な私的所有の家に・ =Zみ、使いもしない多くの車を持ち、富の誇示のための家具類や装飾品をそろえる、こうしたことは私的所有のもとでだけ起こる現象です。こうした私的致富のためではなく、社会的生活の本当の豊かさのために人々が協力して労働し、皆が個性的で豊かな生活をするために活動する社会では、人々はこうした致冨には興味を示さなくなるでしょう。

3,必要なものを計画的に生産する社会

 アソシエーション社会では、個々の工場などの生産だけでなく、社会全体の生産が人々の意識的なコントロールのもとに行われるようになる。売れるか売れないか分からない市場目当ての生産ではなく、自分たちが必要とするものをいつでもムダなく供給できるようにはじめから生産を計画する。人々は、どのような生産物をどのくらい必要とするかを全員の協力によって決める。人々はその生産のために必要な労働時間を計算し、平等にそれを担う。生産の計画も労働の配分も、社会の上に立つ機関が決めるのではなく、人々が直接に決める。

(解説)
 アソシエーション社会の生産の特徴は、社会の全生産が人々の意識的なコントロールの下に置かれるようになる、ということです。現在の資本主義社会では、大規模な企業ではその内部の生産はあらかじめ計画され、資本のコントロールの下に置かれています。しかし、社会全体を見れば、生産は意識的なコントロールの下には置かれていません。どんな大企業でも、その製品が売れるか売れないかは分からないのです。ですから過剰生産や不況が絶えず繰り返されるのです。
 アソシエーション社会では、人々はすべての生産手段を個々人の共同所有に変えることによって、この生産手段を使って、社会の全生産を意識的なコントロールの下に置くことができるようになります。今日でも社会の多くの生産は、少数の大企業の支配下に置かれています。これらの生産手段を労働する人々の共同の管理に移し、すべての生産する人々が協力すれば、社会にとって必要な生産量を計算し、これを計画的に生産することは十分に可能です。今日の社会で全生産の意識的なコントロールを妨げているのは、生産手段の私的所有と、私的資本による利潤目当ての競争に他なりません。他の資本の裏をかくこと、自分たちだけ儲けること、このような条件の下では、社会全体の生産の意識的コントロールなどはできるはずもありません。しかし、一切の生産手段を資本から取り上げ、それぞれの大企業に働く人々が本当の仲間として協力すれば、社会の全生産をコントロールし、人々に必要なものを十分に生産することは可能なのです。どのくらいの生産量をどのくらいの期間に生産すれば社会の需要を満たすことができるか、また需要の変動に備えてどのくらいの在庫を準備しておけば足りるのかを計算し、それに基づいて生産することは今日の生産体制の下では少しも難しいことではありません。特にコンピューターによるコントロールやシミュレーションの発達を考えれば、むしろそのような生産の方が社会にとって自然なのです。コンピューター制御による様々な変化に対応する生産の実現、POSシステムに見られる需要の予測とそれへの敏速な対応、こうした技術を利用すれば、人々は豊かで多様な生活を実現するために十分な生産物をいつでも生産しておくことができます。

 しかもアソシエーション社会では、生産する人々とそれを利用する人々は同じなのです。資本主義のもとでのように生産と消費は切り離されてはいないのです。社会を構成する個々人は、自分たちで必要な生産量を決め、自分たちで生産し、自分たちで消費するのです。今日の生産技術の発達による労働の平準化の下では、人々はどのくらいの生産物を作るのにはどのくらいの労働時間が必要か、それには何人の労働者がどのくらいの労働時間労働すればいいかを極めて正確に計算することができます。すべての企業の生産手段を人々が自分たちのものとして扱い、社会全員の英知を集めれば、社会にとって必要な生産物とその量、そのために必要な労働時間、それを担うために個々人に割り当てられる労働時間を計算することができます。そしてそのような生産を行う方が今日の生産においてはずっと効率がいいのです。このような生産方法を取れば、今日の社会で売れないでさび付いていく在庫や遊休している工場や生産手段といった膨大な無駄や損失を防ぐことができます。そのためには一切の土地と生産手段を、金もうけのための手段から人々の生活と文化の向上のための手段に変えればいいのです。

4,労働時間が大幅に短縮され労が喜びに変わる社会

 アソシエーション社会では、すべての人々が平等に社会的生活に必要な生産物の生産に参加することによって、労働時間が大幅に短縮される。商品生産が廃止されて貨幣経済がなくなり、国家が消滅することによって、社会の必要労働は社会的生活の直接の維持、生産物や人の移動、通信、社会的生産全体を指揮するために必要な労働にかぎられるようになる。
 人々は共同の生産手段を使って、自分たちのために協力して労働するようになる。強制労働は一切姿を消す。人々は誰でも一定の社会的教育と訓練を受ければあらゆる労働に従事することが可能となる。こうして人々が特殊な労働に生涯縛り付けられているような状態がなくなる。労働は、人々の能力を発展させるために不可欠なものとなり、苦痛ではなく、喜びに変わる。

(解説)
 アソシエーション社会では、すべての人々が社会生活を維持・発展させるために必要なさまざまな労働に平等に参加するようになります。資本家階級・地主階級・官僚・株式所有者・軍隊・天皇などの特権階級等々、労働する人々に寄生していた階級は一切いなくなります。また商品生産が廃止され、それに伴って商業・金融業は姿を消し、また一部の特権階級・金持ちのためにもっぱら労働していたような人々がそういう労働から解放されます。今日でも実際に社会の富を生産している労働者は人口の3割ぐらいしかいません。この人々が長時間労働に縛り付けられ、この労働に寄生して生きる人々、社会的生産が組織されれば要らなくなるような労働に従事していた人たちの生活一切に必要な生産物を生産しているのです。こうした寄生階級、不必要な労働がなくなり、すべての人々が社会的生産のための労働に参加することによって、労働時間は3時間、4時間といった短いものになるでしょう。しかもこの労働は搾取労働、強制労働ではありません。人々は自分たちのために自分たちの生産手段を使って、自分たちで生産計画を立てて生産するのです。この労働は本当に自由で協力的で生き生きとしたものになることは間違いありません。いっしょに労働する人々が、競争者や敵対者ではなく、本当の協力者であり、私的利害の対立などまったくない人たちからなっていること、本当に協力し合える人たちであること、生産上のあらゆる工夫や改善が、自分たちの労働を強化したり、苦痛に追いやるためではなく、本当に労働を軽減し、快適にするために役立てられるような状態での生産が、一つの楽しみになることは間違いありません。人々は労働において協力し合う喜び、互いに助け合う喜び、お互いの役に立つ喜びを充分に得られるようになるでしょう。労働はまさに人々が社会的人間であることの充実感を味わえる重要な一部分になることは間違いありません。しかも労働時間は苦痛をもたらすような長時間の強制労働ではなく、短時間のきわめて爽快なものになるのです。労働はまさに人々の欲求の一つへと変わっていくでしょう。
 そして今日の社会が達成した労働の単純化、平準化によって、人々が社会的教育と基礎的訓練を受ければ、誰でもどんな労働にもつくことができるようになるでしょう。人々は次々にさまざまな労働に従事しながら、さまざまな能力を身につけ、奇形化された人間ではなく、さまざまな能力と知識を持った人間へと変化していくでしょう。個々人が全面的に発展した人間になるための基礎がこの労働の変化によって生み出されるのです。
 人々は単にさまざまな労働に従事してさまざまな能力を身につけるだけではありません。社会的な生産においては不可欠である、全体を指揮し、管理する労働にも次々につくようになるでしよう。労働時間が短縮され、人々が社会の管理や専門的な知識を必要とする労働につくことができるだけの時間を持ち、知識を身につけることができるようになります。社会がこれらの労働をある特定の人々に任せ、大部分の人たちがもっぱら労働に従事しなければ社会が成り立たないような時代は過去のものとなったのです。階級を廃止する条件が歴史上今はじめて生まれたのです。誰でも指揮労働、管理労働につくけれども特定の指揮者・管理者にはならない、そういう社会を生み出すだけの条件が今社会の中に生み出されているのです。実際商品生産に特有な需要予測、賭け事にも似た「仕事」や、官僚とのさまざまな癒着と不正のための「仕事」、労働者から最大限剰余労働を搾取するための管理・抑圧といった資本主義に特有の「仕事」を除けば、生産の実際の組織化、生産全体を統括するのに必要なさまざまなデータの管理や通信などの労働はほとんどすべて労働者によって行われているのです。これらの本当に社会的生産に必要な労働を資本主義的な搾取のための管理労働から切り離し、社会的生産に不可欠な生産的労働の一部として再組織し、これをさまざまな労働者が交代で担いさえすればアソシエーション社会は資本家なしで直ちに実現できるのです。

5,社会全員の参加と決定を実現する社会

 階級が消滅し、私的所有が廃止され、それによってあらゆる情報や会議の内容がすべての人々に公開することが可能となり、他方では、労働時間の縮小による余暇の増大、さらには通信技術の発展などによって、大衆的な直接決定を拡大していくことが出来る。かくして、人々による人々のための社会の管理運営を真に実現する。

(解説)
 社会の運営の主人公となった個々の人々大衆は、労働時間の大幅な短縮という条件にも支えられ、社会のあらゆる面での管理運営に積極的に参加するでしょう。制御できない社会経済の趨勢に、人間がただつきしたがっていく時代は終わりました。人間が、意識的にこの社会の進路を決定していく新たな時代となりました。そのことは、代議制を否定するものではありませんが、個々人は、可能な限り、こうした決定や、その討議の過程に関わることを欲するでしょう。情報・通信網の飛躍的充実を一つの土台として、人々の直接決定を拡大するでしょう。
 人々による統治は、歴史的に見ても、いつでも解任できる代議員や代表権者が、歴史の変遷の中で、結果的には特権者や支配階級への転化の道を切り開きました。部族(氏族)社会の階級社会への移行にもそのことが示されていました。1917年の労働者ソビエトの場合も同様でした。決定権が、次第にあるいは急速に、代議員さらには特定の代表者の手に集中していったのです。より根本的な問題はその背後にあり(これはその通りです)、代議制自体は何ら問題ない、とばかりは言えないでしょう。代議制の固定化や権限の集中は、それ自体においても、社会の個々人の、対等であるはずの社会的決定権を疎外し、労働の疎外にも通ずるものです。しかし、代議制を即座に廃止するということは非現実的でしょう。特権性を生まないような代議制の改善も当然追求されなければなりません。白紙委任のような代議制ではなく、派遣制=拘束委任制などの、特権化防止の工夫が追求されなければなりません。

6、自然と人間が共生する社会

 アソシエーション社会は、あらゆる活動は人間が人間の生活を豊かにする目的のために行われる社会である。
 これまでの私的所有に基づく一部の人間の私的利潤追求の活動は制限され、廃止され、全ての人間が自覚的、意識的に自然との調和と物質循環を理解して活動(生産・使用・再利用・自然還元)していくことが基礎となる。
 人間も自然の一部であることが認識され、環境問題が大きな社会問題になるまで放置されることはありえない。また資本主義以前の貧弱な生産規模に戻ることでもない。
 破壊された自然を取り戻し復活させ、緑豊かな森や草原、川や海の魚や動物たちと共に高度に発展した人類のアソシエーション社会がますます調和のとれた存在となるだろう。
 (解説)
 公害は資本主義の下における資本の私的利潤追求のための無計画な過剰生産、自然の物質循環の限度を無視した資源・土地・自然の利用と廃棄、人間の生活より資本の効率を優先する資本主義的都市計画等によって引き起こされる反社会的な人災です。
 資本主義以前の社会までは、人間の生産活動も小さかった事もあって自然との調和は偶然に保たれていました。しかし、資本主義のますます発展する生産力は、その初期には人間の生活を豊かにする部分もあったが、その後、支配階級の利潤追求の目的が益々富と貧の分化、生産効率と自然保護の対立を生み、部分的な公害から、地球規模の環境破壊に至っています。
 現代の資本主義社会でも環境問題は意識されているが、しかし私的資本が自己の利益または存在を危うくしてまでも自然環境に配慮することはありえません。ここに資本主義の環境・公害問題に対する実行力の限界がある。資本主義の成長発展には、人間に対しても自然に対してもどうしようもない破壊と反社会的な行為が必然的に行われます。
 社会と対立した国家、社会の疎外形態である国家を廃止した段階のアソシエーション社会では、反社会的かつ国家的無責任体制の資本主義とは全く異なり、社会で必要な全ての生産、流通、公害対策、廃棄物の処理、事故の処理、自然災害を含め社会的経費と考え、総労働時間を算出し、何を、どのくらい、どんな方法で、どこまで考慮して生産するかを決定することができるようになります。
 物質循環の法則を人が順次正確に把握し、人間の生活自体が自然環境を豊かなものにしていくようになります。

7、工業と農業、農村と都市の融合する社会

 アソシエーション社会は「資本の利潤のための経済合理性」ではなく、そこに住んでいる人々の「労働と生活のための合理性」が基本原理となる。
 そこでの生産活動は、個々の生産単位内での合理性だけではなく、社会全体の合理性の見地に立ってコントロールされる。各種産業は全地域的にバランス良く再配置することによって各地域での工業と農業を結合し、都市と農村、過疎・過密を根本的に解決する。
 したがってアソシエーション社会では、過疎・過密、都市と農村の分裂から生じてくる住宅・交通・ゴミなどの「都市問題」、あるいは高齢化・貧困・出稼ぎなどの「農・山村の荒廃」など、あらゆる社会的なひずみを解決する基盤が形成される。

(解説)
 今日の資本主義社会では、利潤をめぐる資本の競争の結果、一方では工場や労働者は都市及びその近郊に集中し、他方では過疎化が進んだ農・山村は荒廃する一方です。過疎・過密問題、すなわち都市と農村の対立は、共同体の人々の階級への分裂と共に始まり、資本主義的工業化自体によって極限まで進行しています。
 こうした社会的矛盾は、都市では大気・水質汚染・ゴミ・住宅・交通問題といった生活環境の悪化として、深刻な「社会問題」になって現れている。逆に農・山村では人口の減少・高齢化・貧困化・山林や農地の荒廃などに悩まされています。
 たとえば、都市圏で「通勤地獄」があるかと思えば地方では鉄道などの公共輸送が廃止されています。また一方で、都市の労働者はマイホームを建てるために企業戦士となることを余儀なくされ、年収の6〜7倍もの住宅ローンを返すために長い労働生活を終えてしまう有様です。他方で農・山村の人々は、収入を得るため故郷を出て都市に働き口を見つけるか、出稼ぎなどを余儀なくされ、父親不在家庭やその父親が労働災害で死亡したり行方不明になるなど、深刻な問題を発生させています。資本主義的工業化は、人々の生活諸資材を効率よく生産することで豊かな生活の物質的可能性を造りだしてきはしたが、それはこうした矛盾に満ちたものでしかありませんでした。過疎・過密・都市と農村の対立は資本主義社会では解決不可能です。
 アソシエーション社会では、工業は人々の労働と生活にもっとも適するように社会のあらゆる地域にバランス良く再配分されます。そのテコとなるのは、高度に発展した近代の工業による全般的な支援を得た、農村における農業の大規模経営と工場の併設でしょう。
 アソシエーション社会での生産活動は、個々の企業による利潤拡大原理ではなく、そこに住んでいる人々の働き安さや生活の向上のためにおこなわれます。そこでは社会全体の利益と対立するような企業エゴ、地域エゴに取って代わり、社会全体の利益という観点から労働と生産をコントロールします。このことによって過疎・過密、都市と農村の対立は克服され、人々は都市の公害の中で密集して生活しなくてもよくなり、合理的に再配分されたさまざまな地域で、工業と農業が有機的に結合された環境のもとでさまざまな工業労働・農業労働に次々と携わりながら生活できるようになるでしょう。しかも私的土地所有から解放された人々は、どんな地域にも住居と労働と生活を保証されて移ることができるようになる。人々の肉体的・精神的健康のために不可欠である豊かな自然との共生、植物や動物と共に生き・育む労働や生活が誰でも、どんな地域でも行うことができるようになります。

8―1 「生存競争」から「全人格的育成」へ――教育が変わる

 アソシエーション社会では、個々人が自由で自立した社会的個人であることが必要となる。子供をこうした自立した社会的個人に育成することは、社会の責任において行われる。社会教育と、生産の自覚的担い手として必要な科学的知識・総合的技術の獲得が教育の大きな柱となる。教育は人を選別し、差別し、競争させるための手段ではなくなり、子供は個々人として尊重され、また互いの存在を尊重し合うようになる。教育のための知識や施設は社会の一部の人々の独占物ではなくなり、子供の教育ばかりでなく社会の個々人のあらゆる知識・技術の獲得も、社会の人々の協力によって行われるようになる。

(解説)
 現在の資本主義社会では、教育は行き詰まり、荒廃を極めています。児童生徒はむりやり断片的知識を詰め込まれ、テストによる点数で差別され、選別されて、互いに心の許せない競争者として対立させられています。児童生徒は個人として尊重されるどころか人格を踏みにじられています。子供たちの心がどんなに傷つけられているかは、さまざまな少年事件がそれを証明しています。

 学校では、一人一人の科学的な知識の獲得はまったく無視され、科学的実験によって理論を実証することや、実際の事実に基づいて子供たちが自ら判断することはどうでもいいこととして取り扱われています。判断の基準はもっぱら管理者とその代行者であることを強いられている教師の側に置かれています。正しいか間違っているかを決定する権利はもっぱら教育の管理者と教師だけがもっているのです。子供たちは支配階級がみずからの支配にとって都合のよいように差別し選別する単なる対象として扱われ、その差別選別の手段としてのテストのためにただ知識を詰め込むことを強いられ、そのテストの結果によって人間の価値を決められてしまっているのです。
 こうした現在の教育の姿は社会の姿の反映でしかありません。資本は労働者を個々バラバラにして競わせ、互いに対立させて、支配しています。労働者が団結することなく、互いに対立・競争し、バラバラになっていた方が資本にとって有利だからです。金のためにはどんな不正もはたらく社会、ばれなければなんでもやる社会、そのような社会が教育に反映しないわけがありません。子供たちはそんな社会の姿をただ反映しているだけなのです。
 アソシエーション社会の教育はこうした教育の姿を根本から変えるものとなるでしょう。社会を構成する個々人が互いに協力する社会的個人に変化するとき、そのような社会が行う教育は根本から変わるでしょう。なによりも教育は私的競争の中で行われる差別・選別の手段ではなくなる、ということです。教育は社会の後継者を育てるために、社会の責任で行われるのです。私的所有がなくなり、教育が社会の全体の手で行われるようになるとき、教育から生存競争という原理が取り払われます。教育においてテストで人々を振り分け、選別する必要はまったくなくなります。社会が自由で平等な個々人によって構成され、互いの存在を敵としてではなく、自分の存在にとって不可欠のものとして尊重しあうような関係が生まれるとき、教育の場でも児童生徒が個々人として尊重され、互いに相手を尊重し合う関係が生まれるでしょう。また自分たちが科学の全面的な応用によって豊かな生活と文化を享受するために生産する社会では、社会の後継者としての児童生徒にとっても、生産に必要な科学的知識と実際の生産技術の獲得が不可欠のものとなります。児童生徒は、成人たちと同じように、互いに協力して生産し、自然をより豊かに利用していくことによって人類としての能力を発展させていくことを学ぶのです。人間は自然に働きかけることによって自然を変化させるばかりでなく、自分自身をも変化させ、発展させるのです。その意味でさまざまな生産に参加し、生産という実践を通じて自然に働きかけることによって、人間は自分の肉体的社会的能力を発展させることができます。児童生徒もまたそのようにして社会の後継者としてのさまざまな能力を発展させていかなければなりません。
 このような社会での教育は、階級社会での教育とは違って、支配階級の独占ではなくなります。教育のための知識、施設は社会全体のものであり、特定の階級や専門家のためのものではなくなります。個々人はすべて後継者の教育に参加するとともに自分たちの知識と技術の獲得のためにこれらの施設や手段を利用します。子供が親の所有物ではなくなり、社会の後継者として育てられるとき、そして生産と教育が不可分のものとして結び付けられ、社会の生産と運営のための知識と技術が社会全体によって伝授されるようになるとき、教育は学校に閉じ込められたり、社会から隔離されて行われることはなくなります。すべての個々人が、後継者を育て、育成していくのです。

8―2 新しい家族像と家事労働――家族が変わる

 アソシエーション社会では、私的家族ではなく、個々人が社会の単位となる。個々人は男女の差別なく平等に社会的生産に参加し、経済的にも精神的にも自立する。こうして女性が私的家族のもとにおける経済的束縛から解放される。家事労働・育児労働は家庭内の仕事・女性の仕事ではなくなり、社会的な必要労働として社会全員によって担われる。私的所有の廃止によって、私有財産の継承としての私的家族は姿を消す。夫婦関係、親子の関係はあらゆる点で独立した対等な個々人の関係となる。

 (解説)
 近年家族の崩壊の危機が叫ばれて久しい。離婚の増加による母子家庭・父子家庭の増加、結婚しない女性(男性)の増加、老人世帯の増加、家庭内暴力の深刻化、出産率の低下等々、なぜ家族が理想とはかけ離れた悲惨な現実に置かれているのでしょうか。これからの家族はどうなってしまうのでしょうか。
 まず、一般的に誤解されていることは、家族というものが夫婦と子供を中心とし愛情で結ばれた人間の超歴史的社会的基礎単位であるという観念です。家族は歴史や社会と無関係な生物的基礎単位などではなく、歴史的に存在し、時代と共に変っていく社会の制度・形態の一部である。現在の家族すなわち家族制度は戸籍制度や法的には解体した家父長制と関連があるだけでなく、奴隷制をはじめ全ての階級社会に存在した家族制度と関連があります。
 現在の家族内の個々人は対等であるかといえば現在の家庭内にも階級があります。妻が夫に、子どもが親に「新聞取ってきてくれ」といえば夫や親は「じぶんでやれ」となります。逆ならどうか、下の者が上に「じぶんでやれ」といえば角が立ちます。会社や学校、どこの組織も同様、対等な人間関係ではありません。これが階級社会です。
 家族における奴隷制は、妻や子供達が夫の奴隷であった奴隷制の家族にその最初の形態をもっています。家族における自然成長的な分業と、社会が互いに対立する個々の家族に分裂し、分業と同時に分配が労働とその生産物に対し、量的にも質的にも不平等な分配、不平等な人間関係(階級と私的所有の発生)を生み出しました。また分業は精神的活動と物質的活動、享楽と労働、生産と消費を別々の個人に属させ、人類の悲惨な歴史、階級社会の始まりとなりました。
 「現在の資本主義的家族の基礎は何か、金と私的利益にである。現在の家族の理想形は大金持ちにしか存在しません。しかしそれは労働者の強いられた無家庭と公認の売春とがその欠陥を補っています。こうした補足物がなくなれば当然資本主義的家族も無くなります。そしてこれらは資本が消滅するとともに消滅する。家族の廃止!どんな急進的な人でもこの恥知らずな社会主義者の意図には憤激する」とマルクスはいっています。
 ここまでくれば、家族の諸問題は夫や妻や子供の努力で解決できるようなものではなく社会問題・階級闘争の諸課題であることが分かります。国家は家族内に老人や障害や介護が必要な者がいても、子供の養育についても家族の問題は基本的に家族の責任であるという、そのイデオロギーが家族のー人でも事故や問題に巻き込まれた場合、家族は危機に直面します。一人が抱えた問題が家族内で処理できるとは限らないからです。
 昔、頭に水を入れた壺を運ぶ水汲みも、家畜の世話や、味噌醤油、米や野菜作りも家族内で消費してしまえば家事労働と同様生産的労働とはいえなかったが、それぞれが社会的集団的なものとなったとき、水道事業や食料品製造業のように生産的労働となりました。今でも家事として行われている食事・洗濯・育児・老人の世話など、あらゆる家事は社会化することが可能であり、人類自身の再生産に必要な社会的必要かつ生産的労働となります。
 この様に、階級社会最後の資本主義社会の解体後はじめて現れるアソシエーション社会では、家族は大きく変化していくと考えられますが、当分の間は今までの形態は残るとしても、決定的に違うのは、社会でも家族でも個々人が、老若男女すべて平等であるということ、小さな子供も人格を持った人間として応対されます。人が人に命令したりされたりすることはないし、妥協することもありません。ただ協調するだけです。尊敬語謙譲語は使わない。丁寧語を使うだけ。人が何をすべきかは教えられなくても分かります。皆の役に立つとうれしい。社会内部の一組織、すなわち会社などアソシエーションでの個々人の在り方も、家族での個人の在り方も同じです。豊かな人間と豊かな人間的欲求が現れることを我々は見いだすでしょう。

8−3 医療・福祉の完全社会化――医療・福祉が変わる

 アソシエーション社会での医療・福祉は、すべての労働可能な個々人が、共同労働とお互いを支え合い高め合うような社会的関係を継続していくために、それを必要とする個々人に対して、人類にとって永遠に必要な生産的有用労働として位置づけられ、最大限保障される。またアソシエーション社会では、医師などによる医学および健康に関する知識の特権階級的独占を、すべての労働可能な個々人の連帯で打ち破る。
 こうした事とともに、アソシエーション社会の根本である働く事のできる個々人が、必ず一定の労働に従事する事、また互いに平等な個々人との共同労働を実践する事、そして人間と自然との共生の追求する事といったアソシエーション社会のゆとりある労働環境は、人間本来がもつ目的意識的な生命活動を著しく活性化させ、人間の肉体的・精神的健康状態の健全性を維持するのに極めて良好な状態を現出し、その結果として、個々人は医療・福祉の保障の必要を著しく減少させる。

(解説)
 資本主義社会での医療・福祉のサーヴィスは、病気や障害をもつ人々を治療・支援する事を目的としてはいません。なぜなら、資本主義社会では、労働力の補修費としての医療・福祉のサーヴィスは、資本にとって、一方では、つねに社会的に無駄なものとして位置づけられ、圧迫され切り詰められてきたからです。しかし、他方では、薬づけ・検査づけ・病床づけなどの問題点に代表される現在の医療・福祉のサーヴィスは、資本にとって、何よりも利潤獲得の場であり、そこからいかに多くの利潤を引き出す事を資本が追求しているかの端的な表現です。したがって本当にそれを必要としても、医療費を支払える所得のない人はぞんざいに扱われて、医療費を支払える所得のある者には、必要を越えた過剰なほどの処置がなされているのが実態です。現在自民党などが論議している健康保険制度の改悪は、まさに社会的弱者の切捨てを合理化するものなのです。
 アソシエーション社会では、医療・福祉のサーヴィスは、それを必要とする個々人に対して、人類にとって永遠に必要な生産的有用労働として位置づけられ、最大限保障されます。またアソシエーション社会では、医師などの医学知識等の特権階級的独占を打ち破ります。こうして、全ての個々人に、自己の健康管理などの普遍的医学知識を普及させ、病気や障害の予防や発病などを制御するなどの自己自身によるコントロールを実行できるよう助ける事により、医療・福祉の保障費での社会的負担の軽減を着実に押し進める事でしよう。

8−4 増大する余暇と世界文化の創造――文化・芸術が変わる

 拡大された余暇時間は、芸術、芸能、スポーツ、交友、享楽における、人間のエネルギーの自己目的とも見える創造的解放となるだろう。これらにおける人間の創造性や多様性は尽くせないにしても、これらはただ一つのこと、すなわち個人が自らを共通の人類として実証し、また体験することによって、すべての人間の精神的感情的連帯性を一層強めることに帰着するものである。

(解説)
 いままで主に語ってきたことは、人間の生活の土台についてです。いかに生産や計画を組織し決定するのか。生きていく環境や人間の健康や教育の維持発展などに関するものです。これはいわゆる「必然の国」の問題にしか過ぎません。必要不可欠のものとはいえ、アソシエーション社会にあっては、こうしたことはただ合理的に済ませておけばよい、二次的な活動といって良いでしょう。必要に差し迫られたのではない、その意味では人間の自己目的といってよい、人間の本性それ自身の自由な開花が見られるでしょう。
 これらのものは、階級社会ではつきものであったように、現実逃避や自慰性など社会に背を向けたり、あるいは特定階級の支配の道具であったりすることから完全に解放されます。また現在の資本主義社会のように、芸術文化が協業主義に毒され、金儲けの道具とされ、そうなることで本来の社会的役割を見失っている状況を打破することでもあります。同時に、特定民族、特定地域の文化といった狭さからも抜け出し、これらを土台としつつも世界文化が新しく創造されるでしょう。
 こうして、直接に人としての楽しみを味わうこれらの文化・芸術は、かつての歴史にもない高揚を生み出すでしょう。芸術・文化・交友などの本源的意味は、人間どうしの一体感や共同の感情を育てることにあります。こうしたものの地球的発展が、世界の人間をして一体感をますます高めさせるでしょう。
                                  以上。 もどる