トピックス2015年8月15日     トピックス案内へ

  「安倍70年談話」   文言しぶしぶ、意図明瞭? 新たな〝戦前談話〟を許さない!

 多方面の批判や注視に晒されながら、「安倍70年談話」が出された。
 一読すると、〝侵略〟〝植民地支配〟〝痛切な反省〟〝心からのお詫び〟など、発表前から注目されていた文言は盛り込まれてはいるが、何とも抽象的で曖昧な談話だと思わざるを得ない。それも多方面からの批判と注視などで、言葉尻だけ整えたという、談話作成の経緯自体がそうさせているのだろう。

 自己中な戦争観

 特徴的な部分をざっと見ていこう。まず安倍首相の歴史観、戦争観だ。
 談話は100年以上前の植民地支配の時代から説き起こしている。右翼や保守派は、侵略や植民地支配はなにも日本に限ったことではない、従軍慰安婦なども似たようなことを西欧諸国もやっていた、などと、日本の行為を相対化することで戦争責任の言い逃れをはかろうとしてきた。安倍首相も、帝国主義の波がアジアに押し寄せていたことに触れることで、日本の侵略行為もそうした帝国主義列強への対抗策だった、と言いたいのだろう。
 戦前の経済のブロック化も同じだ。談話は、「世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。」と記述する。ここでも日本の戦争は、欧米諸国による〝経済のブロック化〟に起因するものだとし、お互い様だ、という戦争責任を相殺するような歴史観を示している。
 驚くのは「日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。」だという日露戦争の評価だ。過去にそうした受け止め方は一部であったにしても、いまでは遅れてやってきた日本による植民地再分割戦争の一幕だったことは、その後の旅順・大連の租借権獲得、南樺太の割譲、朝鮮での権益獲得など、列強の仲間入りした現実が歴然と示している。
 こうした安倍首相の歴史観は、客観的な歴史記述としては真理の一端を含んでいる。とはいえ終戦70年目の首相談話は、本来、アジア世界に甚大な犠牲を強いた加害者としての反省や謝罪,それに戦後補償などを述べる場面であるはず。加害者とその代表たる首相が言うべき言葉ではない。

 主語隠しの間接話法

 今回の談話では、侵略や謝罪の文言は記述されているが、特徴的なのは、そのすべてに〝誰が〟〝何によって〟という主語がないことだ。「国内外で倒れたすべての人々……哀悼の誠を捧げます。」「先の大戦では、三百万余の同胞の命が失われました。」「戦火を交えた国々でも、将来ある若者たちの命が、数知れず失われました。」「何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実。」これらの記述には、本来、主体的な反省と謝罪がセットになるべきだろう。ところがこれらに続く言葉はなんと「歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。」と、日本による侵略戦争の結果ではなく、単に〝歴史〟になってしまっている。記述が他人事なのである。

 「事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。」「先の大戦への深い悔悟の念と共に、我が国は、そう誓いました。」も同じだ。先の大戦の何を侮悟しているのか意味不明、過去の談話の援用でしかなく、主体的な決意、想いが込められていない。というよりも、それを拒絶したというのが安倍談話の意味なのだ。
 こうした記述表現は、偶然のものではない。今年4月のバンドン会議でも同じだった。安倍首相は、過去の村山談話などを全体として引き継ぐと言いながら、自分の言葉での反省や謝罪を巧妙に拒絶してきた。今回も、「先の大戦への深い悔悟」もそれらは一貫して主語がない引用という間接話法なのだ。こんな反省や謝罪の言葉では被害を受けた側に響くはずもない。

 安倍首相は、今回の談話では、過去にばかり目を向けないで、未来志向の談話にしたい、との思いを語ってきた。被害者と加害者の立場を取り違えているのでは、ということはさておき、確かにその主旨の記述もみられる。「私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。」という記述だ。これが未来志向の記述だとは勘違いも甚だしいが、意図は「もう謝罪は止めたい」と言うことにある。安倍首相自身も戦後世代。本来は「私たちは戦争責任はないし、いつまでも謝罪を続ける必要はない。」と言いたいところ、それでは反撥必至だから「私たちの子や孫」に置き換えただけの話だ。被害者が受け入れられるような真の反省と謝罪、それに戦後の個人補償など棚上げしたうえでのこの記述。被害者側がどう受け取るのか、指摘するまでもない。

 逆流の一里塚

 安倍談話の持つ意味は、他方で戦争法を強引に成立させようとしている好戦勢力の頭目による歴史認識の書き換えなのだ。実際、今回の談話では、「我が国は、自由、民主主義、人権といった基本的価値を揺るぎないものとして堅持し、その価値を共有する国々と手を携えて、『積極的平和主義』の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献してまいります。」という記述で締めくくられている。
 この記述は中国を標的とし、それに対抗していく姿勢を含ませたものだ。「積極的平和主義」も、いまでは「積極的武力行使主義」として批判の声に晒されているものでしかない。《戦後レジームの打破》を旗印に掲げながら、他方で戦前回帰の歴史認識を押しつける、そんな安倍首相がいくら反省と謝罪を語っても、鎧が透けて見える代物でしかない。

 〝戦前談話〟は許さない!

 今回の安倍70年談話。確かにいくつかのキーワードはちりばめられている。が、全体的に抽象的な記述に終始し、主語・主体が不明、言葉の羅列でしかない。これも多方面からの注視・牽制を受け入れてた妥協の産物だからだ。安倍首相も追い込まれていたのだ。それでも当初の首相の思惑からはだいぶ後退はしたが、それでも歴史認識の逆流の一里塚をつくらせてしまった事実は残る。
 私たちとしては、安倍70年談話を批判しているだけでは不充分だ。日本が本当にあの戦争を反省するのであれば、安倍政権など誕生させるべきではなかったのだ。戦前回帰志向の首相を実現させてしまった現実、保守派の台頭を許してしまった攻防ラインをどこまで押し返せるか、正念場はこれからだ。「戦後70年」と銘打った安倍談話。新たな「戦前○○年談話」にさせてはならないのだ。

 かつて竹下首相は、自身の国会答弁などを「言語明瞭、意味不明」だなどと人を煙に巻いていた。それに重ねれば、今回の安倍70年談話は、「文言しぶしぶ、意図明瞭」となるだろうか。(廣)