ワーカーズ291    2005.2.15.           案内へ戻る

敗戦から60年
終わらない戦後補償要求と破綻する絶滅政策!


 昨年12月15日、「女性のためのアジア平和国民基金」(アジア女性基金、理事長・村山富市元首相)が2006年度の事業終了後、解散することが明らかになった。元従軍慰安婦に償い金≠支払うために1995年にスタートしたこの基金は、政府による公式謝罪と補償を拒否するために、政府決定で設立されたのに償い金≠ノは国民の寄付が当てられた。
 50年を経てなお癒えない傷を抱え、黙し難い思いを日本国にぶつけた元従軍慰安婦たちに対する応えは惨憺たるものだった。償い金≠ヘ被害者を分断し、日本の司法は償いを拒絶した。アジア女性基金が役割を終えたと判断したその同じ日、東京高裁は元従軍慰安婦の損害賠償要求を「日本軍の行為は不法行為として成立しない」(国家無答責)として、原告敗訴の東京地裁判決を支持した。何が役割を終えたというのか。
 この国の戦後補償拒否政策は、ひたすら被害者が死に絶えるのを待つものだった。高齢化した被害者が次々と鬼籍に入りつつあるが、その記憶は世代を経て受け継がれるし、何よりも歴史を消し去ることはできない。多くの裁判闘争によって、強制連行・強制労働された人びとの未払い金が供託されていた、空襲等で死亡しても遺族に知らせない、しかし靖国には合祀していた、等という事実が明らかになっている。
 これらすべてが戦争犯罪を隠蔽するために行われたものであり、この国がその主要な部分において戦前も敗戦後の60年もひとつながりのものであり、いかなる断絶もなかったことを暴露している。この構図は本土決戦の捨石となった沖縄においても同じだった。1月18日、那覇地裁は現場検証を行いながら沖縄靖国訴訟で原告敗訴とした。沖縄戦では皇軍が沖縄民衆を死に追いやったが、その被害者たちが戦闘参加者≠ニされ、英霊として靖国に合祀されていたのだ。皇軍に豪を追い出された事実を進んで豪を提供した≠アとにされているというのだ。
 そんななかの1月17日、韓国政府は日韓会談議事録の一部を公開した。そして2月1日には、日本植民地支配下での被害実態を調査する強制動員被害真相究明委員会の調査・登録も始めた。歴史は隠しおおせるものではないし、捻じ曲げようとしてもいずれ破綻する。敗戦から60年を経て、戦後補償問題は振り出しに戻ろうとしている。債務は支払わなければならない。                          (折口晴夫)

「日の丸・君が代」強制攻撃の現段階

東京都での攻防

 一昨年の一〇月二三日、東京都教育委員会は、「入学式・卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について」と題する「通達」と「実施指針」を出した。
 この「一〇・二三通達」と「実施指針」は、「日の丸」掲揚、「君が代」斉唱を始めとして、式次第から会場設営に至るまで、実にこと細かく指示したものだ。これに基づき、校長の「職務命令」による学校現場への押しつけがされ、これに従わなかった教職員に対して、減給や再雇用合格取り消しなどを含む懲戒処分が行われた。
 不起立者は約三百名で、彼らのほとんどは、都高教の「職務命令」が出たら闘争は中止するとの指示に従わなかった高校の日教組組合員であった。その内の九名は再雇用の合格通知を取り消され、その一人である元板橋高校教員に至っては、妨害行動が目に余ったとの理由で在宅起訴された。その他、約二百五十名が東京都教育委員会によって処分された。
 これら被処分の教職員は、昨年の夏休みに、「再発防止研修」を強制的に受講させられたが、多くの自主的支援者の行動と具体的取り組みにより、この研修は形骸化させられた。しかし、この教訓を、都教委は全くと言って良いほど総括できていなかった。その後、夏に研修できなかった被処分者の五名に対する「再発防止研修」が一月二一日に強行された。
 夏と同じく研修会場前で、弁護士の立ち会い要求を突きつけるなど都教委への抗議行動は約四十人で展開された。この行動には、今回初めて、都高教の旗が翻り、鈴木副委員長が組合として抗議申し入れ行動を行う成果を上げた。都教委は追い込まれていった。
 この状況は、被処分者が行った予防訴訟の裁判の過程で勝ち取られたものだ。この過程で、裁判官からの判断として、「違憲」の疑いが強いとの言質を取ることに成功して以降、「全責任は都教委が負う」との前言を翻して、破廉恥にも都教委は裁判の中で、「職務命令はあくまで校長の裁量で出されるものである」との見解を答えざるを得なくなっている。
 実際にも、天皇園遊会発言事件で一躍有名になった米長教育委員が、昨年の卒業式で職務命令を出さなかった校長に対して、口を極めて厳しく迫っていたのもかかわらず、今に至っても、校長の責任は追及されていない。全く呆れ果てた都教委の保身ではないか。

神奈川県等での攻防

 しかし、都教委が姿勢を変えつつある中、隣の神奈川県では、県議会で「日の丸・君が代」についての県教委の指導方針の質問が出るや、不起立の教職員に対しては厳正な処分をするとの答弁がなされた。それを受けて、一一月三〇日には、「入学式及び卒業式における国旗の掲揚及び国歌の斉唱の指導の徹底について」(通知)を全県立学校校長に配布した。この通知は、「日の丸・君が代」の強制と不起立者の根絶をめざしたものである。
 その通知の目玉は、「入学式及び卒業式は儀式的行事であることを踏まえた形態とし、実施にあたっては教職員全員の業務分担を明確に定め、国旗は式場正面に掲げるとともに、国歌の斉唱は式次第に位置付け、斉唱時に教職員は起立し、厳粛かつ清新な雰囲気の中で式が行われるよう、改めて取組の徹底をお願いいたします。
 また、これまで一部の教職員による式に対する反対行動が見受けられたところですが、各学校においては、このようなことのないよう指導の徹底をお願いします。
 なお、教職員が校長の指示に従わない場合や、式を混乱させる等の妨害行動を行った場合には、県教育委員会としては、服務上の責任を問い、厳正に対処していく考えでありますので、適切な対応を併せてお願いします」というものだ。
 教育長たるものが一体何を言うのかとの驚く程のお粗末な内容である。これらの人々は「国旗国歌法」には、強制もましてや罰則規定がないことすら知らない破廉恥漢である。
 教育長などという道徳の化身の人種の行動には、常識人から見て、誠に驚くべきかつ目を見張るものがある。呆れ果てる一・二例を紹介する。
 一二月一六日、東京都町田市の教育長は、同日第一一三九号の通知で、「国旗及び国歌に関する十分な事前指導を行う」として、「入学式及び卒業式をその指導の場として位置付け、国旗及び国歌について十分な事前指導を行う。特に、国歌については、他の式歌と同様の声量で歌うことができるよう指導する」と特記し、「声量通知」と揶揄されている。
 一月一九日、横須賀市の教育長は、神奈川県からの通知を、自分の裁量で一層具体化し、六項目を次のように特記した。
「1 卒業式、入学式は学習指導に基づいて行うことを告げ、式練習担当や業務分担の遂行を教職員に明確に指示すること。
 2 不起立を含め妨害が予想される場合は、改めて教育公務員として適正な行動をとるよう明確に指示すること。
 3 妨害行動が行われた場合は、その場で直接、妨害行動をやめるように明確に警告すること。
 4 発生状況を詳細に把握して記録しておくこと。
 5 事実経過、対応状況等について、市教育委員会にすみやかに報告すること。
 6 保護者の学校運営に対する不安を増大させぬよう、保護者への状況説明を明確に行い、学校の正常化に取り組む姿勢について十分な理解を得るように努力すること」
 条条いちいち呆れ果てる内容なのだが、脅迫まがいの手口で、自分たちが「日の丸・君が代」を強制していることには、全く一点の疑念すらない持っていないことに驚かされる。
 これらの教育長には、冷静に社会の動向を見て、自らの態度を決定するとの大人の社会常識の基本すらないことが今回明確になってしまった。全く教育者失格の人々なのである。

学校現場の荒廃に拍車をかける「日の丸・君が代」強制

 日本資本主義の長期不況と不況脱出の困難性の中で、日本社会は確実に疲弊している。ここ数年、先進国では例を見ない三万人を超える自殺者が出ている。若年層には、鬱病の蔓延とニートの発生が国家的な大問題に発展している。こうした状況下、様々な原因が複合的に義務制諸学校にもはっきりと現れ始めた。家庭崩壊や離婚の続出・ドメスティック・バイオレンスによる緊急転校等、社会状況の悪化は、確実に児童・生徒を捉え始めた。
 雇用状況が悲惨になる一方である。今、資本の横暴・暴力がむき出しになりつつある。
 日経連も、ついに「日の丸・君が代」強制問題では、教育基本法の改悪が目されていることもあり、反動的な態度を明確にしてきた。
 一月一八日、「これからの教育の方向性に関する提言」を発表し、教育基本法第十条に関連して、「一部教員による教科書や学習指導要領の無視や、校長など管理職の管理を阻む根拠となった事実に鑑み、国が教育内容を示すことについての正当性を明らかにする必要」があると述べて、日教組解体の路線を明確にした。そして、ここにこそ、一度は中教審でも否定された「教員免許更新制」が、急復活してきた政治的な背景があるのである。
 しかし言うまでもなく社会の大多数を占める労働者の社会的意識は、日経連とは異なる。一度でも資本の横暴・暴力を体験した人々は、管理職の求める一方的強制には本能的な反発を感じるものなのだ。東京新聞の調査によると、実に七割の人々が、「日の丸・君が代」の強制に反対している。ここが日本の「日の丸・君が代」の社会意識の原点なのである。
 今ほど、東京で開始された高校の教員の「日の丸・君が代」強制に反発した自然発生的な闘いを孤立させない為に、大衆的な闘いが必要な時はない。この闘いは、策動が開始された教育基本法の改悪と憲法の改悪と直接に連動するきわめて重大な闘いである。
 日本社会の革新をめざす私たち自身の闘いでもある。全力で闘っていこう。

反撃は開始されている

 視点を変えれば、「日の丸・君が代」強制反対の闘いは、高校の教職員だけの闘いではない。それは何よりも日本社会を実際に担うため社会に巣立つ卒業する高校生の問題そのものである。
 先に紹介した在宅起訴された教職員が勤務していた板橋高校では、「日の丸・君が代」の強制に対して、生徒の七割が不起立であった。都教委や石原都知事は、高校生自身の不起立も、教職員の指導不足に起因しその責任を追及すると言って全く恥じないのである。
 指導しなければならない人に指導責任があり、その責任を取るべきだとの言い草が、仮に正しいのなら、また本当に心底まともに考えているのなら、石原都知事自身が、不起立の教職員を多発させた都教委の責任を鋭く追及して処分を、さらに回り回っては、このようなこともできなかった指導力不足の都教育長を任命したこの間の責任を取って辞任しなければならないことは、全く自明のことであり、それこそが論理的思考というものなのである。
 余談は止めよう。この二月から、全東京の高校の校門前で、卒業式では、「不起立で闘おう」との呼びかけビラが配布されてた。配布の反響は上々で交流が始まっている。
 日本の階級闘争史上、始めて、全都の高校生に彼らにしかできない闘いへの呼びかけが提起されているのである。何と痛快なことではないか。このことによって、巨大な世代間交流を作り出し、閉塞状態にある日本階級闘争の現状を実力で突破していこうではないか。
 この春の卒業式に読者諸氏のご注目あれ。(猪瀬和正)

コラムの窓・アーァ、やっぱり

 とうとう福井県知事が「もんじゅ」改造工事の実施を了解してしまいました。これがどういうことを意味しているのか、おそらく西川一誠福井県知事も理解していないでしょう。彼は新幹線の福井延伸を了解≠フ条件のひとつに上げ、原発災害の危険性と公共事業の利権を取引しました。
 この構図はさきに六ヶ所村の核燃料再処理工場の試験運転にゴーサインを出した青森県知事と同じく、危険施設・迷惑施設を受け入れる代わりに利権をよこせというものです。核施設に限らず、米軍基地機能の維持・強化を受け入れた沖縄県知事も、カネと地位のために悪魔に魂を売ったのです。
 安全を無視して県民の命を危険に曝してもかまわないという姿勢は、たとえそれが不況や失業、過疎化といった深刻な問題が背景にあったとしても、取引に使ってはならないものです。しかし、そうした政治が成り立つのは、県民のなかにもそれを受け入れる素地があるからです。それは明日の生活と引き換えに明後日の安全を売り渡すようなものですが、そうせざるを得ない現実を無視することなく、立ち向かっていかなければならないでしょう。
 さて、「もんじゅ」は1995年のナトリウム火災から10年近く停止状態にあります。すでに開発費に1兆円が注ぎ込まれ、止まっていても年間100億円の維持費を浪費してきました。この上さらに改造工事に180億円も支出しようというのです。最高裁も「もんじゅ」訴訟の口頭弁論を3月17日に開くことを決定し、原告勝訴の高裁判決を覆すような姿勢を示しています。今も「もんじゅ」は高速増殖炉原型炉≠ニ形容されていますが、高速増殖≠ヘ夢と終わり、原型炉≠ニしても失格しています。つまり、180億円もかけて再稼動しても危険なだけで何の役にも立たないのです。
 年初からの関連記事(「神戸新聞」による)を見ると、鹿児島県笠沙町の中尾昌作町長が高レベル放射性廃棄物最終処分場を「町は高齢化率が高く、自主財源も乏しい」「交付金を使って町民のための町づくりをしたい」として無人島に誘致すると記者会見(1月5日)。国際原子力機構(IAEA)のエルバラダイ事務局長が「核燃料サイクル確立を目指す国に対し、5年間の事業凍結を提案したい」と述べる(1月6日)。核燃料サイクル機構が「もんじゅ」運転再開に向けた理解促進のために、地元広域行政組合に3億円の協力金を支出(1月14日)。電気事業連合会が、2013年度からの海外での使用済み核燃料の再処理後の、低レベル放射性廃棄物受け入れ準備を進めていることを明らかにした(1月27日)。情報公開訴訟で敗訴した核燃機構が、9道府県の高レベル放射性廃棄物処分場候補地25カ所を公開(1月28日)。
 2月1日、米国が核保有国による非核国への核不使用(消極的安全保障)を国際条約とすることを拒否する方針を決定。このブッシュによるならず者国家≠ノ対する先制核攻撃策温存は非核国にとって脅威となり、核拡散への後押しとなるものです。そして2月10日、北朝鮮が公式に核保有の声明を出しました。
 兵器としての核と電力としての核、高レベルの放射性廃棄物と低レベルの廃棄物、これらはどこかに線を引いてその内側は安全というものではありません。地球環境総体を引き返すことのできない汚染に曝すものです。「もんじゅ」をこのまま眠らせてやるいたわりの心さえ、この国にはもはやなくなってしまったのでしょうか。         (晴)

NHK番組改変・政治圧力問題を問うシンポジウム開かれる
「守るべきは被害者の尊厳」「ジャーナリストは抵抗、発言を」の声が上がる


 NHKへの政治家の圧力・番組改変の問題を問う集会が、次々と開催されている。東京では、1月26日の院内集会、2月5日の東大集会、そして2月27日に渋谷のウイメンズプラザでシンポジウムが行われた。
 ここでは、2月7日に行われた「緊急シンポジウム NHK番組改変・政治介入事件の原点を徹底検証」の内容を紹介したい。シンポジウムを主催したのは「メディアの危機を訴える市民ネットワーク」(メキキネット)で、数百名の市民がウイメンズプラザのホールを埋めた。

■番組はどのようにして改変されたか
 ――坂上香さんの報告

 集会の第1部では、この間報じられている政治家のNHKへの圧力とNHK幹部による制作現場に対する番組改変の指示の経緯が、メキキネットの板垣さん、北原さん、そしてドキュメンタリージャパンで実際に番組制作に関わってきた坂上香さんによって詳細に報告された。
 坂上さんは、番組の2夜目「問われる戦時性暴力」と3夜目「今も続く戦時性暴力」の企画書を書き、第3夜のディレクターを務めた人である。彼女は、最初の教養番組部長試写(1月19日)における部長の激怒ぶりと番組批判の様子を同僚から詳しく聞いた。そしてそれ以降の第2夜目をめぐるやりとりにはすべて参加し、二度目の部長試写(1月24日)には自ら立ち会って、そこでなされたNHK幹部の暴言や番組改変の要求・指示を直接に聞いた。そして番組をめぐって「異常事態」が起き、番組に対してただならぬ圧力がかけられていることに危機感を持ち、インターネットを通してSOSを発信、この問題での最初の内部告発者となった人である。
最初の試写で部長は、「企画と違う」「ボタンの掛け違えは修正できない」「おまえらにはめられた」「このままではアウトだ」等々と発言し、その後NHKの番組制作局長と部長の名で、VAWW―NETジャパン代表の松井やよりさんのインタビューや「天皇有罪」の判決シーンを削除せよとの「通達」が出されていた。そして坂上さんが立ち会った第二度目の部長試写で部長は、「まったく変わっていない」と激怒した。この二度目の試写には名前を名乗らぬ年輩の男性が参加し、その男性が口火を切る形で、番組内容について様々な批判が出された。加害者の元兵士の証言に「違和感がある」と言い、加害者証言をはずす方向で話が進められた。また対談部分での、被害者女性の証言を聴くことの意義を語った米山リサさんの発言が否定され、これに坂上さんが反論すると部長は激怒した。その後話しは米山さんを番組からはずす、第二夜の放送を中止するなどというところまで進んだ。部長は、被害者女性の証言に対し「このバアさんの証言はいらないんじゃないの」等々と暴言ともいえる発言を行った。また番組の根幹とも言えるスタジオ対談部分の追加撮影の話しが出るに及んで、坂上さんたちは、この体制ではもう一緒に番組づくりはやれないと感じたという。そして同席していた別のディレクターの判断もあり、NHK側に「これ以上手を加えることはできない」と述べて2夜目の制作からは降りることとなった。
 坂上さんは、部長同席で番組を試写すること自体が極めて稀なことであり、その狙いがどこにあったかは、その後の番組改変の中身、慰安婦の証言の否定、民衆法廷の意義の否定、天皇への有罪判決シーンの取りやめなどが良く物語っていること。また試写の場で部長たちがとった、番組づくりを実際に行ってきたスタッフに背を向けて話しつづけたり、反論を行おうとした坂上さんに対し話しが終わらないうちから「お前らとはやっていけない」などの暴言を吐くというやり方に、スタッフたちを物理的に排除しようとする姿勢、現場の製作会社の役割を完全に否定する姿勢を見、報道現場での不平等の問題も改めて痛感したという。
 坂上さんは、自らがディレクターを担当した第3夜目「今も続く戦時性暴力」の改変の経緯についても、詳しい報告を行った。また2夜目の改変のいきさつをつぶさに見てきたこともあり、3夜目は何とか内容の根幹を死守したいとの思いから、自ら番組内容に手を入れてしまうという「自主規制」を行ってしまったこと。結果的にはNHK側の要求がそれを越えたものであることが明らかとなり、3夜目の編集からも手を引くこととなったが、この「自主規制」には今も後悔の念を抱いていることなどを語った。
 最後に坂上さんは、番組制作に関わった者の「自問自答」も込めながらとして、以下のように語った。
 放送前からメールを通じて外部にSOSを発したのは、そのとき起こっていることを異常事態だと感じたから。問題は「意見の相違」のレベルではなく、明らかに何らかの圧力があると感じたからだ。圧力を容認し、それに加担することであることを知る必要がある。私たちは、何を、誰を守るべきなのか。NHKの人を守る必要があるという人がいるが、違和感ある。何かを守るという発想ではだめだ。私たちに必要なのは、ひとりの人間として、ジャーナリストとして、当たり前の行動をとること。NHKが朝日新聞を非難する「大本営発表」の様なニュースを流したが、それにはニュースを読む人、情報をとる人等々何千人もの職員が関わっている。こうした報道に対しては、「良心的兵役拒否」の運動があるように、私たちも「良心的業務拒否」を行わなければならない。

■「加害責任を再び隠蔽」「有事法制と一体」
――パネラーの発言から

 続いて第2部のシンポジウムでは、野中章弘さん(アジアプレス・インターナショナル)を司会に、西野瑠美子さん(VAWW―NETジャパン)、吉見俊哉さん(東京大学)、斉藤貴男さん(ジャーナリスト)、鵜飼哲さん(大学教員)の各パネラー、そして会場からの発言者も交えて、NHK問題をより掘り下げるべく意見交換が行われた。以下、その発言の要旨を紹介したい。

 野中―NHKの何が問題だったのか、どうすればよいのかを考えたい。何が日本のジャーナリズムの精神を腐食させているかを明らかにすること、人々の知る権利に答えることが問われている。NHKは公共放送といわれるが、改めて「公共」の意味も問われている。

 西野―番組の再放送をと言う声が多くの人々からあがっている。元の番組がどうだったか、何が削られたかを知りたいと。ところが、NHKは2月5日の東大集会での番組上映の許諾を拒否してきた。私的目的をはずれて上映すれば、録画したこと自体が違法になるとさえNHKは言っている。安倍晋三は、拉致問題を追求している自分たちへの政治的意図を持った攻撃だなどと言っているが、この問題は拉致問題が大きく取り上げられる以前の2000年に起きており、すでに4年前に既にVAWW―NETはNHKに公開質問状を出している。またNHKの長井さんがいま告発を行ったのは、NHK内部にようやく内部告発制度ができたが、しかしこの内部告発制度がきちんと機能しなかった体験を踏まえてのものだ。

 鵜飼―97年以降、メディアでも、従軍慰安婦問題に戦後日本政府がどういう態度をとってきたかが問題にされ始めた。そしてこの問題に日本のメディアが果たして何を言ってきたのかという強い問題意識が、この番組の企画が持ち上がった背景にある。南アで「真実和解委員会」という前人未踏の試みが行われたが、アジアでも問題解決へ向けて壁を打ち破ろうということで民衆法廷が準備された。証言した元慰安婦の人たちへのセカンドレイプはわずか1〜2秒でできるが、壁を打ち破ることは時間がかかる。こうした試みを嫌がる人もいる。私たちはその壁にぶつかったわけだ。番組改変の経緯を検証することで、問題のよりより解決につなげていきたい。

 吉見―問題が発生した4年前といまとの関係を見る必要がある。いま何が起きているかというと、4年前より悪くなっている。@NHKのプロパガンダ、大本営発表になぜ現場は抵抗できないのか。政権とNHK、NHK内部の幹部と職員、NHKと委託業者との関係の中で考えていく必要がある。Aこの問題の中には、NHKが右へ向かう構造的必然性が存在している。不祥事が相次ぐ中で、NHKの中にこの問題を通じて政権とよりを戻したい、新たにタッグを組みたいという動きが出てきているのではないか。B米山リサさんが番組改変問題をBRCに訴えて「放送倫理違反」の裁定が出た。BRCはNHKと民放自身が外部の影響を受けたくないということで自主的につくった第三者機関である。しかし国家の規制や圧力を受け入れることに疑問を持たなくなれば、BRCはもはや目の上のたんこぶであり、事実そう扱われつつある。CNHK内部・現場と外の市民が共同していく必要がある。一人一人は強くないが、弱い者が闘える体制をどうつくるかが問われている。こうした問題を考えていくと、編集権の独占の問題が出てくる。メディアの内部に、果たして報道に自由はあるだろうか。

 斉藤―問題はNHKだけではない。これまではNHKを批判していたメディアまでがNHKを擁護している。朝日新聞も、録音テープ問題で自殺行為をしている。昨年のテープ流出問題への対応で取材先の同意がなければテープは回せないなどと言ってしまったが、安倍晋三のような権力者を相手にきれい事は言っていられない。少なくともジャーナリストの中では、そうした取材を理解する姿勢が必要だ。ジャーナリズムは田中角栄のような成り上がり者には強いが、安倍のようなエリートには弱い。民衆法廷とそのTVでの放映は、日本の加害責任を問う事に対する壁、これを突破できる動きだったかもしれない。それが潰されようとしていること示したNHK番組改変問題の意味は、実はとてつもない大きい。

 野中―自衛隊官舎へのビラ入れや共産党のビラ入れに対する相次ぐ刑事弾圧は、思想・信条を狙い撃ちに処罰しようとする動きだ。この流れとNHK問題は絡んでいる。

 小森(大学教員 会場から)―有事関連法が通った後の有事協力体制に、すべてのメディアが入り込みつつあるときに起こった問題、であることをきちんと抑えておく必要がある。『朝日』対NHKの争いの形で様々なことが語られているが、事実のレベルは少しも動いていない。メディアが番組内容を政治家に事前にチェックしてもらう体制が「通常の業務」となってしまっていたのだ、この国は。だが、多くの普通の市民の声は、「政治家の言うことを聞いて放送やっていたらまずいじゃん」というもの。こうした人々の声を、この4年間の取り組みとどうつなげていくかが課題。

 中村(『東京新聞』記者 会場から)―加害者の元日本軍兵士の証言に感動した。安倍や中川にも是非聞いて欲しい証言だ。民衆法廷に対するNHK関係者の「裁判は事実を明らかにしようとするものではない」「出来レースだ」との発言を記事にして、NHKから抗議を受けた。私をはずして『東京新聞』とNHKの上の方で話しをして決着したようだ。抗議を受けると思うと記者は確かにビビるが、しかし一回受けてしまうとどうという事はない。失うものはない。人間なので弱いところもあるが、フラつかないようにしたい。

 野中―最近、NHKの職員から、メールはチェックされている、携帯電話もチェックされているから変えた、という話を聞いた。事実かどうかは別にして、職員が本気でそう思っていることが、NHKの異常さを語っている。

 カナ(元NHK職員 会場から)―番組改変が問題となったことは良かった。NHKに7年間いたが、当日の朝に番組を4分削るなどということは絶対にありえないことだった。日の丸・君が代問題などで中止になったものはたくさんあり、そうした例を何度も見てきた。選挙報道などでも「自民党大敗か」などとやると「はずせ」と言ってくる。いま内部の人と話しているが、立ち上がるのはなかなか難しい状況が続いている。現場の者が声をあげられるように、市民の声を寄せて欲しい。NHKを戦時体制から普通の体制に戻したい。

 関(出版関係者 会場から)―安倍の北朝鮮の工作員発言にショックを受けた。出版の中で自分のやってきたことを真っ向から否定されたと感じて、背筋が寒くなった。安倍は、拉致問題と慰安婦問題を「工作」で結びつけて、あのように言い切った。一方のサバイバーである元慰安婦の問題は「工作」で片づけ、他方の拉致被害者は自分の政治的資源として徹底的に利用しつくすというやり方だ。NHKに電話をして視聴料不払いを伝えたら、非常に丁寧な対応だった。NHK内部の人に聞いたら、「ロスだから引き留めるな。その代わりに新しい支払い者を5人取れ」と指示しているのだそうだ。

■「沈黙は権力への協力」「守るべきは被害者の尊厳」

 鵜飼―メディアの中でメディアをどう批判できるかが問題。番組については、無傷のものと改変後のものを上映させることが基本的作業として必要だ。

 斉藤―安倍だけではない。自民党の小林興起は、「殺してこい、死んでこいと言っているのだから、少しくらい楽しみがあってもいいんじゃねえか」などと発言している。安倍やNHKの動きに加担することは、セカンドレイプ、今後の戦争にも加担することだ。ここまでやられて何もできなければ「人でなし」、ジャーナリストは世界で一番恥ずかしい職業という事になってしまう。仮にクビになってもそれを甘受しなければならない、それがジャーナリストの仕事なのだ。あの連中の家来になるか、志を取るか、どちらかを選ぶしかない。

 西野―2000年に、民衆法廷に対する日本国内の報道を見て『ガーディイアン』紙が批判している。政治家やNHKは相変わらず法廷をおとしめる発言を続けている。それらの論拠がすべて批判されているにも関わらず、メディアの暴力のごとく同じ事を垂れ流している。この問題はなぜ起こったのか。安倍とはいったい誰なのかを考えていく必要がある。この法廷をおとしめる発言が続いているのは、問題が慰安婦問題であったから、日本軍の犯罪だったからなのだ。

 坂上―あえて守るべきものをあげれば、それは元慰安婦の人たちだ。確かに一人一人は弱い。しかし何のためにNHKという組織があるのか。NHKの中で集まって、手をつないで、力を合わせれば、何かできるはずだ。

 野中―問題なのはNHKの幹部たちだけではない。NHK幹部や安倍ら政治家たちの論理はむちゃくちゃだ。それでも次期首相候補などといわれている。その背景には、沈黙している多数者がいるのであり、ここが問題だ。NHKの中では、上ばかり見ている「ヒラメ」が増えているという。沈黙は権力者の最大の協力者だ。一人一人の取り組みが問われている。

■労働者・民衆の独自のメディアの創出を

 前号でも書いたように(2〜3面記事)、多くのメディアは財政的・経済的に、そして人脈的・組織的にも保守政治家や大企業・財界と深く結びついており、そうしたメディアに民衆の側に立った報道を求めることは困難だ。もちろんそうした中にあっても、我々はメディアが謳う「公正・中立」の欺瞞やメディアと保守政界や財界との結びつきを暴露し、メディアによる情報操作やその暴走に歯止めをかけ、またメディアを強いて労働者・民衆の声を取り上げるよう闘うだろう。もちろんそうした努力は、労働者・民衆の独自の情報発信のための取り組みを背景にしてこそ大きな力を発揮する。欺瞞の暴露と真実の掘り下げ、徹底した情報公開と開かれた討論、古い社会の掘り崩しと新たな社会関係の創出、そのための努力の一環として、労働者・民衆の独自のメディアを族生させていこう!          (阿部治正)
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通信・物流労働者は連携を! 【3】
      ――戦略的なスタンスの確立――


 これまで郵政民営化をめぐる諸問題を振り返ってみたが、今回は郵政労働者のみならず、通信・物流産業に働く官民の労働者はどういうスタンスに立つべきかを考えてみたい。
 私は、郵政民営化に対する戦略的な観点としては、資本の論理でも国家の論理でもない、労働者自身による新しい公的事業の概念を確立すること、すなわち通信や物流などのネットワーク産業を協同組合原理でつくりかえるという展望と、そうした展望をふまえた産業レベルの労働者の統一闘争の構築、という二つの視点を土台に考えていくべきだと思う。もとより銀行・生保や、郵貯・簡保という金融産業の労働者にとっても事の本質は同じだが、今回は触れられない。
 本題に入る前に、こうした二つの視点がなぜ重要なのかを見ていくことにする。

■諸勢力の位置関係

 最初に民営化をめぐる諸勢力の位置関係をざっと見ていきたい。
 明白な推進派としては小泉首相とその取り巻きたちだ。彼らは自民党の中でも少数派だが、なんと言っても現職の首相が主導していることが大きな力になっている。
 次は郵貯と100年戦争を繰り返してきた銀行業界。が、全銀協などの都市銀行と、地銀などの地方銀行協会では同じ民営化反対派といっても温度差があり、また金融情勢の変動などで全銀協自体も揺れてきたという経緯がある。
 次は銀行業界も有力な加盟団体である財界である。財界の総本山、日本経団連はほぼ一貫して郵政民営化に賛成してきた。それは銀行業界が入っているだけではなく、官業の高コスト体質の是正や金融システムの一元化などを主張してきたことに関係している。
 次は郵便と競合する宅配会社で、これはことあるごとに郵政省・総務省と対立してきたヤマト運輸などだ。ヤマト運輸は選挙に当たって郵政民営化を主張する小泉首相の選挙では労使一体で支援してきた。
 これに対して反対派はどうだろうか。
 まず郵政三事業の元締めの総務省である。総務省は三〇万人の職員と七兆円規模の予算に由来する様々な利権を手放したくないから、これまで民営化には一貫して反対してきた。とはいえ、民営化を推進する小泉首相の下で防衛線は次第に突破され、いまでは郵政族の当事者として防衛戦に追われながらも、主管官庁として民営化の準備作業も余儀なくされている。
 次はいわゆる郵政族と全国の特定郵便局長たちである。郵政族と特定局長は、国営事業――国家公務員としての特権的な地位の維持と、彼らを手足とする票のとりまとめという利害関係で結びついてきた。そのことによって特定局長会は、個々の局長は総務省の職員でありながらも総務省内部で独自の利害関係と政治力を維持してきた。周知のように郵政省と族議員と特定局長は、国営郵政事業から発生する様々な利害関係を共有するトライアングルを形成することで、郵政一家を形成してきた利益集団だ。
 それに郵政関連の労働組合がある。最大労組のJPU(旧全逓)や全郵政などを始め、郵産労や郵政ユニオンなど少数組合も含めて例外なしに反対派だ。このうちJPUは旧全逓時代には労使関係などを巡って当時の郵政省・総務省と激しく闘ってきた歴史や、世襲制度で成り立っている特定局制度撤廃を巡って特定郵便局長会と対峙してきた歴史を持っている。が、こと郵政事業の民営化を巡っては絶対阻止で同一歩調を取ってきた。この1月には、特定郵便局長会とJPUや全郵政で集会を開き、民営化に反対する共同声明を出すに至っている。
 ざっと見てきたように、こうした諸勢力が郵政事業の利用者――国民の動向を見ながら熾烈な攻防戦を繰り返してきた、というのが、郵政民営化をめぐるこれまでの経緯だ。

■労使運命共同体

 問題はこうした攻防戦の構図にある。
 経済界や政界、競合する企業間で利害が衝突するのは、当然のことでもある。問題はそうした企業間の利害関係に、労働者・労働組合としてどういう立場で対応していったらいいのか、にある。
 上記の分類を見れば明らかなように、残念ながら宅配会社の労組と郵政の労組が真っ向から対峙しているのが実情だ。そこには企業から自立したものであるべき労働組合としての独自性は全くない。あるのは所属企業の利害関係に飲み込まれている姿に他ならない。現状はと言えば、経営形態をめぐる攻防戦では、それぞれの企業と労働組合は労使運命共同体そのものであって、労働者としての共通の立場に立った闘いをはなから放棄しているわけだ。こうした立場は、結局は雇用と労働条件という目先の要求も獲得できないばかりか、長い目で見た場合には労働者としての共通利益とそのための連帯・団結の形成に背を向けるものでしかない。
  要は、郵政職場の労組も、宅配会社の労組も、自分たちの雇用や賃金や労働条件の確保・改善という基本的な課題を、企業自体の存続・発展の中に見ていることである。これは何も宅配会社や郵政の労働者だけの通弊ではなく、おしなべて日本の労組に共通した根本的な弱点になってきた。そうしたスタンスこそが、現在のような長期不況下でリストラなどが蔓延する状況の下でも労働者の闘いが高揚するどころか、運動自体が成り立たないまでに空洞化する根源なのだ。

■なぜ戦略的観点が重要なのか

 その攻防戦の性格を見ていこう。
 民営化を巡る攻防戦で持ち出される論拠は実に多種多様で複雑だ。それは郵政民営化をめぐる対立と利害構造自体が複雑であることと、具体的には二つの要素が錯綜しているからだ。
 一つは競争による郵政事業の効率的運営と公共サービスのあり方の問題で、これは官の論理と企業の論理、あるいは政治の論理と経済の論理の対立と言っても良い。二つめは銀行・生保と郵貯・簡保、それに宅配会社と郵便事業という企業間競争だ。この二つが絡み合っているのが郵政民営化をめぐる攻防戦といえる。
 企業の論理、経済の論理は、民営化による効率的な事業運営でコストを最小化することで住民サービスにつながるというもので、いわば新自由主義的な改革路線の上に立ったものだ。それに対して官の論理、政治の論理は、過疎地などでも均一なサービスが得られるユニバーサルサービスが住民の利便を確保することになるというもので、これは別の角度から見れば弱肉強食の企業社会から取り残されてきた人たちに対する社会政策、すなわち一種の所得再配分の性格を持つ。いわば歴代自民党が選挙目当てで行ってきた利益再配分システムの一つだ。
 二つめはいうまでもなく企業間競争に発する対立で、「信書の独占」を土台とする郵政事業の特権的地位をめぐる対立でもある。
 こうした建前上の対抗軸の裏側には、お互いに触れたくない決定的な恥部を併せ持っている。それは官・政治の論理にとっては官僚支配と利権構造であり、経済・企業の論理にとっての利潤至上主義である。
 戦略的観点が重要だというのは、こうした大義名分や利害関係が輻輳している問題では、民営化に賛成か反対派の二者択一は、結局は資本の論理と国家の論理、企業間競争の論理に巻き込まれるだけだからだ。現に労働組合レベルの賛成論や反対論も、住民・利用者の利便を訴えてはいるものの、どうしてもいずれかに荷担する性格を色濃く帯びてしまう。
 だから、官業の論理にも企業の論理にも飲み込まれないで、労働者としての独自のスタンスと闘いを構築するには、根本から戦略を組み立て、そうした立場から具体的な闘いを組み立てていくことが不可欠になるわけだ。

■経営形態は二の次

 これまでの経緯を考えれば、郵政労働者の雇用は国営形態や公社形態で守られてきたという側面は確かにある。国鉄や電電の分割民営化の時点での郵政労働者30万人は、今でも27万人ぐらいだ。少なくとも3分の一とか半分に減らされてきたわけではない。それに現実な、目先の雇用を守るという課題は労働組合の宿命であって、立派な理念お題目で雇用が守られるわけでもない。
 とはいっても雇用や労働条件は国営や公社形態であれば守れるというものでもない。企業間競争の中でじわりじわりと雇用は失われ、あるいは非常勤職員など大量の不安定雇用に置き換えられつつあるのも前回見てきたとおりだ。それに雇用の維持は、スト権など労働者の基本的な権利の剥奪の上での「飴とムチ」という表裏の関係であることも忘れることは出来ない。
 結局は、自分たちの固有の権利と利益を確保する最大の保証は、政府の政策や経営形態ではなく、企業間競争や政策変更に左右されないだけの企業の壁を越えた労働者の連帯した闘いだけだ。こうした意味では、民間会社の労働者と国営企業の労働者は同じ境遇にある。
 こうした観点で言えば、経営形態をめぐる対立は副次的な問題でしかない。むしろ経営形態を大上段に振りかざすのは、通信・物流労働者にとって宅配会社や公営企業から自立した主体として団結していくための障害にもなるからだ。郵政労働者が「公共サービスを守れ」と声高かに叫べば叫ぶ程、民間企業という利益追求組織の中で働かざるを得ない宅配労働者がどう受け止めるのか、ちょっと想像すればすぐ分かることだ。
……………………………………………………………………………………………………………
 今回、郵政民営化をめぐる戦略的な観点について、宅配労働者も含めての視点で考えてきた。それはすでに限りなく「信書」に近い小荷物も含めて、郵便と宅配の競合関係は現実のものになっているからだ。そうした競合は民間では当たり前の現実だが、郵政労働者にとっては以前はそうではなかった。こうした通信・物流産業に働く労働者にとって、そうした競合関係の土台の上で将来を展望すること抜きには、戦略的スタンスなど語れないからだ。
 いま郵政民営化をめぐる攻防戦で、「イコール・フィッティング」、すなわち「競争条件の同一化」の是非が争われている。上記のような競合の中で、これは労働者が追求すべき事ではない。労働者としては、同じ「イコール・フィッティング」でも「労働条件のイコールフィッティング」を掲げるべきだろう。次はこの問題を考えていくことにしたい。(廣)    案内へ戻る

教育基本法をかえる? なんでだろう 8
 Q8男女共学の規定は削るということだけど、どうして?
 答申では、「男女共学の趣旨が広く浸透し、性別による制度的な教育機会の差異もなくなって」いるから、とあります。男女共学とは、男女が同じ学校で、同じ教育内容を、同じ教室で学ぶ、といったような教育における男女平等、機会均等のことです。
 けれども、現状はどうでしょうか。高等学校で家庭科の授業の男女共修が実現したのは、まだ1995年のことです。男女を不必要に分け、必ず男が先にくることで、無意識のうちに男女の上下関係を刷り込むことにもなる男女別の名簿も、まだすべてが男女混合名簿になっているわけではありません。これだけをみても、男女共学の趣旨が広く浸透しているとは言えないのです。
 この規定は、現場で進められている性別役割分業をやめるための取り組みにとって、大事な支柱です。もしこの規定がなくなれば、いくら「男女共同参画社会の実現」をうたっても、実際の状況が男女共同参画社会とは大きくかけ離れていくことが懸念されます。削除するべきではありません。(「子どもと教科書全国ネット21」発行パンフより)

高2の娘は、男女混合名簿。しかし、中1の娘は、男女別名簿です。担任に質問したところ、体育の授業で男女別だから、混合にすると都合が悪いという理由でした。西宮市では全校が男女別です。担任は女性で、過去には組合の女性部会で問題にしたことがあったと、話してくれました。現在、職場では異論は出ず、男女別で当たり前という雰囲気だそうです。体育の授業の不都合よりも、男女共同参画≠ニいう姿勢を教育の中で実現していく、その教育的配慮こそ必要ではないでしょうか。(恵)

日米の思惑と異例のG7声明

為替介入十ヶ月なしの日本

 一方の主役でもある日本の動きを見てみよう。
 二月四日から五日の日程で、先進7ヶ国財務大臣・中央銀行総裁会議が開催される予定が明らかになっていた一月三一日、財務省は一月期の為替介入がゼロだったと発表した。
 昨年三月一六日の六七八億円の為替介入の後、実に十ヶ月、日本はそれまで円高対策として取られた約一年間の三五兆円の為替介入が、まるで全くなかったかのように、今まったく為替介入をしていないのである。
 この間の円ドル相場の推移を見ると、アメリカの財政赤字と経常赤字を背景として、昨年の一〇月中旬から始まったドル安・円高のトレンドは、この一月一七日に一ドル=一〇一円六七銭の約五年ぶりの高値を記録した。しかもこの間のこの円高水準は、昨年巨額の為替介入の攻防戦となった一〇五円の水準から見れば、かなり高いのだから、日本がなぜこの間為替介入をしていないかは、多くの人々には全くの不可解事ではある。
 そんな折りの二月一〇日、金融ジャーナリストの須田慎一郎氏が、『知られざる通貨マフィア 財務官 その権力と正体』を祥伝社から出版した。このタイムリーな出版で、この約四十年間に日本が関わった為替介入の問題が究明されており、実際の為替介入に関わった財務官、とりわけ焦点となっている巨額為替介入を実行した溝口善兵衛元財務官に対するインタビューが掲載されていることを紹介しておく。
 須田氏は溝口もと財務官が明確な回答をしないことから、その核心を、円高対策から企業を守ると言ってはいたものの選挙対策であったと喝破した。その他、アメリカと日本の関係に関する情報もあり、一読する価値がある本ではある。
 巨額為替介入が須田氏の言う通り選挙向けであったとの正否は今後問うこととして、日本がこの間なぜ為替介入していないかの具体的理由と分析については、今後機会があれば、追求いていきたい。

アメリカの二律背反

 かたやアメリカを見てみよう。
 二月二日、つまり先進7ヶ国財務大臣・中央銀行総裁会議の直前、米連邦準備制度理事会(FRB)は、連邦公開市場委員会で、フェデラルファンド(FF)金利を〇・二五%引き上げ、年二・五%に、公定歩合を年三・五%に引き上げた。この利上げは連続六回となり、引き上げ幅は合計一・五%になった。明らかに住宅バブルの崩壊を怖れて金融引き締め対策を取っている。この流れから、次回三月二二日と次々回の五月三日の会合でも、〇・二五%ずつの引き上げがなされるのだと公然とささやかれている。
 ここで私たちは、ブッシュ大統領選挙とその後のアメリカの経済情勢について、簡単に顧みる必要がある。ケリーとブッシュの闘いはアメリカを二分した。ブッシュはクリントン以来のドル還流による米国経済の繁栄を追求してはいたが、ケリーと対抗してもう一方の支持基盤である製造業界に対しては、輸出を促進する効果を上げなければならない為、ドル安を望ましいとした。ここには現実の前に呻吟するアメリカの二律背反がある。
 この間のドル安は、ふくらむ一方のアメリカの財政赤字と経常赤字等の要因が、アメリカ経済の先行きに対する不安を募らせることに起因している。再選されたブッシュ大統領は「強いドル」を主張し、財政赤字の大幅削減を言うには言ったが、そのための具体策は極めて乏しかった。アメリカは国内的には低金利、国際的には高金利でなければならない。
 実際、このような経済運営を続けているアメリカの膨大な財政赤字を補填しているのは、日本・中国・ヨーロッパ等の海外から流入する資金なのだ。したがって、当然にも、アメリカはこの還流を維持し続けなければならない為、各国との金利差がある方がよいのである。
 ブッシュが「強いドル」を求めていると言いながらも、同時にドル安を容認しているのは、人為的な操作による為替相場の急激な変動を避けると共に無秩序な為替相場の投機的攪乱を引き起こさせまいとしているからである。

異例のG7声明

 二月四日から五日の日程で行われた先進7ヶ国財務大臣・中央銀行総裁は、ロンドンにおいて会合し、声明を発表した。
 彼らは、世界経済の課題と機会に積極的に対応する責任を認識し、そのためより広範な連携が必要であるとの認識の下、世界経済における主要な国々と非公式な会合を行い、また、中国当局との生産的な対話を継続したとした上で、長期的に持続可能な世界の成長を支えるために各国がその役割を果たさねばならないことを認識していると強調した。
 核心部分の要旨を引用する。
(本文から二字下げ―開始)
・主たる優先課題として、米国は財政健全化、欧州及び日本は更なる構造改革にコミットしている。我々は、金融サービスを含め、ドーハ・ラウンド終結のためWTO香港閣僚会合における野心的な成果が重要であることに合意。我々は、途上国が貿易の機会から利益を享受することを可能とするインフラ・能力構築を支援することにコミットするとともに、このことにつき主要な役割を果たすことを国際金融機関に要請。
・我々は、中期的なエネルギー問題及び現在の原油価格のリスクを議論。市場の透明性及びデータの完全性が円滑な市場運営の鍵。我々は、石油市場へのデータ供給の改善についての具体的行動を歓迎し、石油埋蔵データを含め関連国際機関による更なる作業を慫慂。採取産業透明性イニシアチブ(EITI)は、財政の透明性を向上させうるものであり、石油収入の利用改善に貢献しうる。我々は、投資誘引的な環境を確保するため国際機関が産油国と協働することを要請。中期的エネルギー供給の向上及びエネルギー効率性の重要性、並びにエネルギー安全保障を確保するに当っての技術及び技術革新の重要性を認識。
・我々は、為替レートは経済ファンダメンタルズを反映すべきであることを再確認。為替レートの過度の変動や無秩序な動きは、経済成長にとって望ましくない。我々は、引き続き為替市場をよく注視し、適切に協力していく。この文脈において、我々は、為替レートの柔軟性を欠く主要な国・経済地域にとって、その更なる柔軟性が、国際金融システムにおいて市場メカニズムに基づき円滑かつ広範な調整を進めるために望ましいことを強調。
(本文から二字下げ―終了)
 ここで確認できるように、各国が世界経済の長期的な成長持続に向けて、各国と努力を明記し、米国には財政健全化を、日本及び欧州各国には、構造改革の一層の推進を図ることを合意した。これはG7声明としてはきわめて異例のことで、世界各国が自ら危機の深刻さを自覚しているからという他はない。
 その原因となると彼らが自覚しているのは、原油価格と為替問題である。明確にはなっていないが、石油売買の決済手段としてのドルとユーロの問題が伏流している。その根本の石油利権の象徴とも言えるのが、今焦点となっているイラク状勢である。その他、イラン・イスラエル等の中東状況の不安定さに対応する問題もある。確かに彼らの危機感は一致してはいるもののでは今後どうすればよいかという点での彼らの一致はない。まさにその混迷は根深いのである。
 その意味では何のための声明なのか。世界資本主義が退廃し歴史的な役割を果たし終えつつあることが明確になった声明ではある。
 世界は変革を待ち望んでいるのだ。断固闘っていこうではないか。(直木彬)

反戦通信−5・・・綿井氏のイラク報告

 イラク自衛隊派兵違憲裁判の会・静岡は、12月に第二回公判を取り組んだ。
 昨年10月の第一回公判(口頭弁論)に対して、国側から「答弁書」が提出された。
国側の主張は要約すると、次の二点である。
 一点は、「原告らの『自衛隊派遣によって、戦争や武力行使をしない平和な日本に生存する権利=平和的生存権が侵害された』との主張は、裁判に値する具体的・法律的な争訴性=紛争性がないので、却下されるべきである」つまり「門前払い」にすべきである。
 二点は、「賠償請求するには、現実に損害が発生していなければならないのに、自衛隊イラク派遣はそれ自体原告に向けられたものではないので、原告の利益を損害することはありえない。」従って、損害賠償請求自体『失当』である。
 全80ページの内おおよそ2/3が、自分に都合の良い判例(平和的生存権を否定した過去の判決)を証拠として提示し、残り1/3でそれらを説明するというものであり、当然であるが、名古屋・札幌をはじめ他地域の答弁書とほとんど同じ内容となっている。
 以上のような裁判闘争や自衛隊を派兵し平和憲法を改悪しようとする動きが強まっている中、危険なイラク取材を続けているジャーナリストの綿井健陽さんに講演をお願いし、イラクの生々しい現状が撮影されたビデオを見ながら話をうかがった。
 なお、綿井氏の映画「Little birds・イラク戦火の家族たち」<35mm・102分>が完成し、上映会も始まるようである(E・T)

●主催者「裁判の会・静岡」の挨拶
 ファルージャでは変色した死体が発見され、米軍が化学兵器を使用したのではないかと疑われている。イラクで大量破壊兵器は見つかっていないが、誰が大量破壊兵器を使ったかは自明である。
 この情勢にもかかわらず自衛隊を撤兵しないのは、武力攻撃されることで自衛隊に武力を行使させよという世論を作ろうとしているのでは、と勘ぐりたくなる。私たちの裁判では、平和的生存権の侵害と自衛隊撤兵を求めて論陣を張っている。
 続いて、イラクに派兵しているのはアジアでは日本と韓国のみであり、昨年の6月には38ヶ国が派兵していたが、現在は24ヶ国に減っている。国連で武力行使を決議した英米スペインのうち、スペインは撤退が完了した。ファルージャはいまだ米軍に占領されておらず、実際は攻撃前の2ヶ月ほど前から包囲されており、電気・水道・医療機関が破壊されている。ファルージャには現在5万人ほどが残っているが、20万人もの人が追い出され難民キャンプで劣悪な生活を余儀なくされている。昨年の4月にはファルージャにアルジャジーラのスタッフがいたので、現実の悲惨な報道を流すことができたが、11月の時は彼らなどのアラブ系メディアが入れず、米軍の従軍マスコミのみが、米軍に有利なように報道をしている。ファルージャは、先に病院が占領され、悲惨な状態になっていると想像される。
 このファルージャ攻撃を、小泉総理がいち早く支持した責任は重い。また、今回の戦争で劣化ウラン弾が1,100トンから2,200トン使用された。湾岸戦争では400トン使用され、これが原因で7倍のガンが発生している。今回の使用はその数倍であり、より深刻な被害が危惧される。

●綿井健陽さんの講演
 昨年12月、静岡で綿井健陽氏(1971年生まれ、アジアプレスのジャーナリスト)のイラク報告をビデオを交えてうかがった。
 サマワでフランスのNGO「ACTED」の給水活動は「年間1億3,000万円の予算で、60台の給水車を借り上げ、幹線道路ではなく各家庭に給水をしている。(イラン人の運転手65人、事務スタッフ20人を雇用している)
 片や自衛隊は、「年間400億円」の予算で、1日平均12〜14台の給水車を動かしているのみ。しかも駐屯地から一歩も外に出ることなく、雇用したイラク人運転手に幹線道路への給水を任せている。
 サマワの人々は「給水車の配給だけでは充分ではない。今は仕方がないが、ゆくゆく自衛隊はこの地区に上下水道設備を造ってくれると市の評議会で言っていた。自衛隊のあとには日本の企業がサマワに来るとも聞いている」と言った根拠のない幻想と期待を持っているという。今、日本を再び戦争のできる国にするため、右翼や政治家たちなどは、本気で着々と準備を進めている。私たちは1人でも多くの周りの人たちに、今まで平和の問題に関心を寄せていなかった人々にも、その危険性を訴えてゆく必要がある。と言う言葉が印象的だった。(澄)   案内へ戻る

上六の街角で

 日赤からバスに乗るべく上六へ向かって歩いた。近鉄百貨店の前の横断歩道を渡ると、青年が大きな釜で焼いたイモを蓋の上で売っていた。1ツ200円。どこのイモ?≠ニたずねるとイバラギです≠ニいう。イバラギて東北地方の?≠ニ聞くと頭をかしげて答えがない。一つ買ったがイバラギだといって売る以上、日本列島のどこか位は知ってなあかんで≠ニいうと、素直に頭を下げた。
 若者が、この青空の下で焼きいもを売って稼ぐのはえらいと思うが、商品について売れればいいというものでもなかろう。しかし、さわやかな正直さはあった。
 バスを待っていると、近鉄で買い物をしたらしく近鉄の包み紙をかかえたオバさんが、同じくバス停の椅子に腰掛けて話し出した。百貨店の中での出来事。見知らぬ中年のオバさんが、その買い物をしいていたオバさんのバッグをチョッと借りるわね≠ニ持っていきかけたので、それを持って行かれたら、私は帰られへんがな≠ニしっかりカバンをつかんでいたという。まわりにいた人たちは皆、笑ったとか。
 カバンを持って行かれかけた当の被害者のオバさんも憎々しげに、泥棒さんのオバさんのことを言っているふうでもない。あんたのものは私のもの℃ョの泥棒さんに奇妙な平等感があって、おかしくもあり、物盗りと決め付けて怒っている風でもないオバさんにも、私にはいかにも大阪らしいと妙におかしかった。
 人間みんなチョボチョボ≠ニいう本も大阪の人ならでは書けないはずだと、このせちがらい当世でもそうした空気はやっぱりあるんだナ、と奇妙におかしさが感じられたものであった。しかし、これに気をよくしているわけにもいくまい。なにしろメリハリきかず、何でもクチャクチャになってしまいかねないから。
 まあ最近明らかにされつつある大阪市のかげでコソコソ泥棒さんに近いことをやるより、中年のオバさんがおおっぴらにカバンを盗ろうとする方がまだかわいらしい。ふてぶてしいやらよくわからないが、まだましのようでもあって笑いを巻き起こしさえする。大阪市もオバさんも決して良くはない。焼きいもを売って稼いでいる若者が、一番上等というところか。自己防衛、自己決定にも限界がある。
2005.1.24 宮森常子

東京国分寺市議会の意見書の紹介

 マスコミではほとんど取り上げられない重要な動きとして、東京国分寺市議会で採択された意見書を、読者の皆さんのために紹介しておきます。私自身、こんな立派な意見書が採択されたことを最近になってやっと知ることができたので、まだ知らない人のためにとお手紙致しました。

         学校行事での「日の丸・君が代」に対する意見書

 昨年、東京都教育委員会は、「入学式・卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について」と題する「通達」と「実施指針」を出し、「日の丸」掲揚、「君が代」斉唱を始めとして、式次第から設営に至るまでこと細かく指示した。これに基づき、校長の「職務命令」による学校現場への押しつけがされ、従わなかった教職員に対して、減給や再雇用合格取り消しなどを含む懲戒処分が行われた。
 都教育委員会のこのようなやり方は、教育基本法にのっとって子どもの「人格の完成」を目指した教育を行う教員の権利を侵害し、同時に、子どもの権利条約における意見表明権や参加権、学ぶ権利、思想・良心の自由を侵害するものである。また、制定時に「義務づけを行うことは考えていない」と政府が答弁した国旗・国歌法の趣旨にも反する。起立・斉唱などを「職務命令」とすることは憲法や教育基本法と矛盾するものであり、従わないことをもって処分の対象とすることは不当である。
 また、国旗・国歌を大切に思う人々も含めて、強制することについて、国民の間で多様な意見が存在することは周知の事実であり、卒業式・入学式の出席者に「日の丸」掲揚時の起立や「君が代」斉唱を一律に求めることは、個人の「思想・信条の自由」「内心の自由」にも関わることである。
 国旗・国歌に向き合う姿勢まで一方的に決めつけ、起立・斉唱行動を強制するようなやり方は、学校基本法の定める学校教育の目標である「自主及び自立の精神を養うこと」「公正な判断力を養うこと」「健全な批判力を養い、個性の確立に努めること」などに反しており、決して子どもの自立性・主体性・想像力を養うことには成らない。
 このように、都教育委員会による強制は、憲法・教育基本法・子どもの権利条約などに違反するのみ成らず、教育のあり方としても大いに疑問である。
 よって国分寺市議会は、児童・生徒の一生に一回しかない卒業式や入学式が、参加者一人ひとりの気持ちが尊重され、保護者や教職員の心からの祝福の下で行われるよう、東京都に対し下記事項を要請するものである。


1 国旗・国歌に対する態度を、教職員及び生徒の評価や処遇の基準としないこと。
2 入学式・卒業式において、国旗掲揚・国歌斉唱を強制しないこと。
 以上、地方自治法第99条の規定により意見書を提出する。

 平成16年12月22日
                             東京都国分寺市議会

 私が住む市の議会の最近の反動的ぶりに呆れていたので、同じ東京都とはいえ全く別の観点から問題に迫った国分寺市議会の意見書を読むことが出来たことは、まさに新鮮な驚きとなりました。多くの人、とりわけ学校現場で一方的に強制されて良心の呵責に悶々としている教職員に読んで頂きたいと私は考えています。(S)

 色鉛筆  保育園日誌少子化問題3

 新しい年を迎えた1月、残り3ヶ月間で子供達の成長する姿が見られるようになり、保育者として仕事の達成感、充実感が味わえることを心待ちにしていた。
 ところが、一緒に働いている同僚達が「腹膜炎で緊急入院」「切迫早産」「切迫流産」と次々に倒れ3人が休んでしまった。その為に朝夕のパート保育者の人達に急きょお願いをして時間刻みで私達のクラスに入ってもらった。しかし、保育者が入れ替わり立ち替わりで代わるので子供達は落ちつかず、11ヶ月のM君も入園した為にまたまた、おんぶだっこの生活になってしまい毎日私達の方が泣きたいような気持ちだった。ぎりぎりの人数で仕事をしている為「今、新しいパートさんを見つけているがなかなかいない、休まないようにしてほしい」と園長に言われ、同僚達と「病気にはなれないよ、熱があっても仕事に来なくてはならないね」と言い合うほどだった。休めば同僚達に迷惑がかかるので休めなかったり、労働者として権利のある有給休暇でさえ園長から「有休を取らないでほしい」と言われるほどだ。
 こうした状況は今の日本の職場ではどこにも起こっている。現に、1歳6ヶ月で入園してきたL君の母親も東京で2人の子供を育てながら仕事を続けていたが、L君が気管支炎喘息アレルギー性で発作を起こす為に入退院を繰り返し、父親がカメラマンという職業で子育てに協力できず、有給休暇を使い果たしたという。そして、どうにもならなくなり、父親と別居して2人の子供を連れて自分の実家に引っ越してきた。母親は、毎日朝5時に家を出て新幹線で通勤して夜8時すぎに帰るという生活をしており、その為に2人の子育てはすべて祖母にまかせっきりで、L君が入院した時も休みが取れなく祖母が付き添っていた。まさに祖母がいなければ仕事を続けることはできないのだ。
 以前、新聞で「働くママは母親同伴」という記事があった。厚生労働省のキャリアウーマンが地方に転勤になり、孫の子育ての為に母親が同行していき、実家に取り残された独り暮らしの父親は缶詰や刺し身など手のかからない夕食で済ませているというのには驚いた。この様なことは遠い出来事のように思っていたが、身近にL君の母親の事を知りこうした家族が増えているのではないかと思う。
 祖母がいなければ子育てができないという事は、子供を育てる社会体制が何もない事をあらわしている。L君の母親にしても子育て中の母親には、労働時間を短くしたり、子供が病気の時は看護休暇が充分取ることができる職場にしたり、医師や看護師がいる環境の中で病児保育や病後保育を充実させるなどの社会体制のサボ−トがあれば、家族4人東京で暮らすことができたはずだ。また、仕事と子育てを両立させたいと思っても、子供を見てくれる祖母などの家族がいない女性達や、安心して産んで育てることができる社会体制がない事に不安を感じる女性達は子供を産もうとしないのは当然だ。
しかし、政府が相変わらず取り組んでいる少子化対策「子ども・子育て応援プラン」(新新エンゼルブランから改称)は、働き方の見直しとして・育児休業制度の定着・男性の子育て参加促進・長時間の時間外労働の是正・パ−トタイム労働者の均衡処遇の推進・多様就業型ワ−クシェアリングの普及促進が掲げられているが、促進、推進という言葉が並んでいるだけで、なんの具体性もなく守らせる法制化もない。これではなんの少子化対策にはなっておらず、ますます少子化は進んでいくだろう。(美)

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