ワーカーズ292号2005.3.1

戦後60年
若者に未来を示せない悲惨な現実と若者の特権


 個々人を見れば例外はあるものの世代としてみれば若い世代が年取った世代から現在の政治経済体制を受け継いでいくことは明確である。
 敗戦後の焦土の中から戦後日本を復興したのは、このように次々に誕生してきた情熱と若い力に満ちた世代の登場であったことを、一体誰が否定できようか。
 かって一世を風靡した名言はこう伝えている。「世界は君たちのものであり、また我々のものであるが、しかし結局は君たちのものである。君たち青年は午前八時か、九時の太陽のように、生気溌剌として、まさに元気旺盛な時期にある。希望は君たちの上に託されている」「世界は君たちのものである」と。
 しかるに戦後六十年後の現在を何と評すべきなのであろうか。日本が現在陥っている長期不況は、政府の度々の景気回復の認定宣言にも関わらず、依然出口が見えない。そのことは、何よりも客観的に若年失業率の高位停滞傾向として歴然と示されているのである。
 日本のいい加減な失業統計からも、この世代の失業率は、つい一月前まで十%と他の世代平均の二倍であった。しかし職に就いていたとしても、パートやフリーターとしての雇用で、不安定な短期的なものでしかない。このような雇用関係の中で長期間働くことで、自分に対する自信喪失と無力感に支配されている若者が増えているという。実に由々しきことではないか。今社会問題化しつつあるニートの発生もこのことに淵源がある。
 ここで我々は、若年失業率の増大そのものは全世界的な特徴だと強調しておく。若者に未来を示せない政治経済体制に未来はない。その意味で資本主義の時代は終わっている。
 日本、いや世界は変革を待ち望んでいる。我々は、日本の現状の変革に積極的でありたい。若者にこそ変革の闘いの最先頭で闘い未来を拓く特権があるのである。(猪瀬数馬)


企業は誰のものか―ライブドア騒ぎで明らかになったこと

連日の大騒ぎとフジテレビの大反撃

 二月八日、ライブドアがニッポン放送の株式を三五%取得したとの発表以降、政財界を巻き込んで、特にフジテレビとマスコミは連日のように逐一報道し続け大騒ぎをしている。
 この騒ぎの中で徐々に明らかになったことを整理しておけば、ライブドアは一ヶ月前から株式を買い集めており、買い占めに必要な八百億円の資金調達は、リーマン・ブラザーズ証券に下方修正条項が付いたCB(転換社債型新株予約権付き社債)を割り当てることで捻出した。ライブドアの株価が下落すれば、転換価格は最低一五七円まで引き下げられるのだという。何のことはない。ライブドアの株式を引き受けたリーマン・ブラザーズは、株価が下落すれば取得できる株数が増加するため、株が下落しても利益が出るのである。
 さらに明らかになったことは、堀江社長が保有するライブドア株の一部をリーマンに「貸株」する契約も含まれており、何としても株価を下げて儲けたいリーマンは、彼から借り受けた株を早速大量に空売りし始めたのだ。
 空売りによる株価下落と買い戻しによる反発。リーマン・ブラザーズ証券によって、ライブドアとニッポン放送とフジテレビの株式は、三つ巴となり乱高下を繰り返している。このことは堀江社長の思惑が完全にはずれたといってよい。
 ドライなハゲタカファンドの面目躍如といったところである。この点、短期決戦をめざしていた堀江社長については、リーマン・ブラザーズ証券に踊らされたというしかない。
 こうした中、ニッポン放送は、ライブドアの株買い占めに対抗するため、同社株を新たに取得できる権利(新株予約権)を発行し、フジテレビに与えることを決めた。全く意表をついた大増資の奇策ではあった。これに対しライブドアは直ちに裁判に訴えると応じた。
 二月二六日、ライブドアは、ニッポン放送の新株予約権の発行について、「大量の株が発行されて一株あたりの価値が下がる可能性を示唆することで、ニッポン放送の株価を下落に向かわせる狙いがある」と株価操縦の可能性を指摘すると共に株価を下落させることで、フジテレビが行っている株式公開買い付け(TOB)にニッポン放送の株主が応じやすくし、TOBを成功させる意図があるなど違法性が高いとして、二八日にも、証券取引等監視委員会と東京証券取引所に調査を申し入れるとの方針を明らかにした。

今回の問題点と官庁の反撃

 今回のライブドアの手法について、違法ではないが脱法行為だとの批判が様々な所から巻き起こっている。確かにここには二つの問題点がある。一つ目は、村上ファンドのニッポン放送持株の行方、端的にいえば、証券取引法でいう「会社関係者の禁止行為」(第百六六条)のインサイダー取引に該当するか否かであり、二つ目は、この時間外取引を相対取引と認定するかどうかである。しかしこの点については呆れることがある。
 東京証券取引所では、従来から一般の株主については、証取法違反で厳しく取り締まる一方で、機関投資家たる金融機関などに対しては、早朝にオンライン売買できるToSTNeT―1を用意して、実際には売買する相手が分かっているにもかかわらず、相手が分かっていないことにして、さまざまな融通を利かしてきたからである。
 その意味で、東京証券取引所の鶴島社長が、まるで傍観者でもあるかのように、法律が定めたTOB(株の公開買い付け)の主旨を逸脱するような行為には当然批判が起こると発言したことは噴飯ものだ。
 さらに金融庁は、この取引の実態を調査した上で、時間外取引を規制するため証券取引法を改正する方針を固めたと発表した。しかし、そうであれば運用でごまかすことなく、すべての参加者は同じ条件で取り扱い例外ないことが原則だ。また総務省は、現在、外資が直接的に放送局の株式を二〇%以上取得して議決権を持ってはならないという法律があるのにもかかわらず、それを間接的、つまり間に一社挟んでの株取得であっても不許可とする電波法改正の検討に入った。
 しかし、すでに二〇〇二年五月に商法は改正されており、二〇〇三年四月から施行されていることを忘れたかのような関係官庁の対応とその展開に我々は驚かざるをえない。この商法改正の最大のものは、経営執行委員会と取締役会との分離と社外取締役の導入であった。生え抜きの経営者を重視の日本型経営組織からその経営権を奪い外部の社外取締役が握るアメリカ型の経営組織への転換が核心である。その意味では、株主重視の転換でもある。さらに二〇〇六年には、商法改正で株式交換方式が認められ、時価総額が高い企業が低い企業を飲み込むM&Aがさらに活発になると予想される。外資による日本企業買収も激増するといわれており、経営者が脳天気なら日本企業は乗っ取られてしまうのだ。
 ニッポン放送株の公開買い付け(TOB)をかけていたフジテレビに、日本経団連の奥田碩会長が「毎日自社の株価や出来高に注意し、おかしな動きには対抗策を講じることが、経営者に課せられた大きな責任」といわずもがなのことをしたり顔で語ったが、日本の経営者もそろそろ米国で盛んな企業の合併・買収(M&A)が日常茶飯事となった現状を自覚すると共にまさに経済のグローバル化が席捲していることを知らなければならない。

企業は誰のものか―アソシエーション社会成立の必然性

 今回の大騒ぎで我々が認識しておかねばならないことは何か。それは資本とは一体何かというである。ライブドアはもちろんのこと、フジテレビも政財界も、それは株式だと考えていることは明確である。同じ穴のムジナである金の亡者どもが、その一方の代表者でしかないライブドアの堀江社長に対して、「金で全てを解決しようとしている」等々の罵詈雑言を浴びせかけて全く恥じないのである。全く笑わせてくれるではないか。人は他人を居丈高になって批判する時、おのが姿の醜さを全く忘却してしまうのである。
 「黄金か。貴い、キラキラ光る、黄色い黄金か。いや、神様!私はだてにお祈りしてるんじゃないよ。こいつがこのくらいあれば黒も白に、醜も美に、悪も善に、老も若に、臆病も勇敢に、卑賤も高貴にかえる」とシェークスピアは『アテネのタイモン』で語りだし、「目に見える神よ、おまえはもろもろのできないことをぴったりと親睦させて無理やりに接吻させるのだ!おまえはあらゆる言葉で語り、あらゆる事をしでかすために語る!おおおまえ心の試金石よ!忘れるな!おまえの奴隷が、人間がおまえに反抗するのを!おまえの力でやつらをみんなメチャメチャに滅ぼしてしまえ、動物どもがこの世界の支配者となるまで!」と纏める。まさに金は全能であるかのようだ。
 しかし、ではなぜ金が万能であるかに見えるのか。それは貨幣が人間の社会的関係を媒介するものだからである。人間の歴史的な社会は、相互に関連付きながらも目に見えない社会的関係を、貨幣で媒介することによって構築されてきた。貨幣が全能であると見えるのは、個々の無力な人にとって人間の社会関係が全能であるからに過ぎない。自分一人の無人島では金は何の力もない。資本もまた同じである。資本も確かに貨幣として現象してはいるが、何よりも生産用具と労働力と原材料として存在することで、始めて機能し利潤が獲得できる。換言すれば、貨幣が資本として機能するのは、労働力と交換されて、生産用具等と関係づけられることによって、社会的な力となり、始めて可能となるのである。さらに資本は使用することにより日々に減価していく。その減価分は新しく労働者が新たに生み出す価値によって補填され、資本は支えられ続けざるをえない宿命を持っている。最初に資本家によって準備された資本は、何年かの後には、更新され続けて全く新しいものに変質していく。こうして資本家の所有から、賃労働者が現実に生み出したもので補填し、資本家がただ占有・保持しているだけのものへと変化していくのである。
 この資本家的生産関係の変化の核心を、マルクスは、「資本主義時代の成果―すなわち協業と土地の共同占有ならびに労働そのものによって生産された生産手段の共同占有―を基礎とする個々人的所有を再建する」(『資本論第一巻第二十四章』)と表現した。ここで共同占有とした個所は、第四版で書き直されたのだが、最初は共同所有であった。
 マルクスは、資本家が資本は自分の所有であると宣言したことに対して、その実態は、資本家が占有し賃労働者が占有を補助することで成り立つ関係にあること、すなわち共同占有に転化している冷徹な現実を厳然と突きつけたのである。
 したがって未来の「資本」のあり方は、より具体的にいうならば、日常的に管理・運転・補修に関わっている賃労働者の支配下におくことが最も合理的だということになる。この事実から、資本家的生産関係は終焉の時を迎え、新しい社会関係が打ち立てられるのは必然となる。打ち立てられる新しい社会関係とは、一人ひとりの自由な発展が全ての人々の自由な発展の条件であるアソシエーション社会である。(直木彬)
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旅先紹介・・・もし沖縄に行くなら
                          
 たまたま沖縄に知人のいる本土住まいの私から、もしあなたがこれから沖縄に行くのなら、おすすめしたい場所をいくつかご紹介します。
1、沖縄国際大学米軍ヘリ墜落現場
 宜野湾市内の、マンションや中古車ショップ、弁当屋などが並ぶごく普通の住宅街にある大学の外壁。真っ黒に焼け焦げ、ヘリコプターのプロペラによる深い傷跡が何本もあり、事故から半年以上たってもあまりの生々しさに息をのんでしまう。大学内には、警備員が立ち部外者であるわたしたちは、道路フェンスの外から見るしかないのだが、今なお車を止めて眺めてゆく人がたえない。
 2004年8月13日、米軍ヘリCH53D型、全長26メートル総重量33トンはここに墜落、炎上した。ほんの40メートル南の住宅の襖を突き抜け、テレビを壊したのは、異常事態に母親がとっさにそこで昼寝をしていた6ケ月の乳児を抱いて避難した直後だった。墜落を目の前で見た学生は「今、目の前でひとつの時代が変わるのを感じた。」と言う。それほどにもすさまじい理不尽な出来事だった。事故後の米軍の横暴ぶり(生活道路まで含む現場を占拠・封鎖。大学内であるにもかかわらず、学長や日本の消防・警察・マスコミ等の立ち入りを一切禁止した。)そして日本政府の冷たい対応ぶり(上京した沖縄県知事と宜野湾市長との面会を、小泉首相は「夏休み」を理由に断っている。当時の日本のマスコミは、アテネオリンピック一色で、水泳の金メダリストとは、はしゃいで面会していた。)は、決して忘れられない。
 百聞は一見にしかず、大学の壁は今の沖縄のおかれている現状を強く物語っている。ただ、今この壁を残そうという意見と、壊して新しくしようという意見との対立が出ている。
2、佐喜真美術館
 同じく宜野湾市にあり、1992年米軍の普天間基地の一部が返還されたのを機に1994年に開設された私設美術館。決して大きくはないが、何度も訪れたくなる場所。屋上からは普天間基地内をのぞむことができる。館内に常設展示されている、丸木位里さん俊さん夫妻の「沖縄戦の図」は圧巻だ。縦4メートル横8・5メートルの水墨画のあちこちに、海のエメラルド色、人々の流す血の赤、火炎放射器の炎などが浮かびあがり、虐殺された死体や集団自決の様が丹念に描かれている。”集団自決とは手を下さない虐殺である”ということばも印されている。本土からの高校の修学旅行生もよく訪れている。TELは098ー893ー5737で、火曜休館。
3、道の駅「かでな」
 「安保の見える丘」前に出来た嘉手納町屋良にある4階建の屋上は、米軍が「スパイビル」と呼ぶほどに、よく基地内の様子が見える。3階の資料展示室は、とても内容が充実していて、なかでも、ヘッドフォンによる米軍機の爆音体験はすさまじい。2月17日那覇地裁で「新嘉手納爆音訴訟」の判決が下されたが、とにかく嘉手納町の総面積の約83%が米軍基地というひどい状況が許されていること自体を問いたい。
4、名護市辺野古
 沖縄本島東部の東海岸にあり、沖縄の「自然環境の厳正な保護を図る区域ランク1」に指定されており、天然記念物のジュゴンや貴重な海藻、珊瑚、海亀などの宝庫というだけあってほんとうに美しい海だ。8年以上も前から、地元のお年寄りたちが小屋を建てて基地建設に反対し続けている。周囲からのありとあらゆるいじめや差別にもめげないのは、昔貧しくて地上に食物が無くても、豊かな海の幸のおかげでこどもたちを育てることができたという経験から来るもので、「海の宝を子孫に手渡すことが私たちの務め」ということばが強く印象に残る。
 この大切な海上に、長さ2・5キロメートル幅730メートルもの米軍ヘリポート基地の建設など決して許すなとの戦いは、2004年4月19日未明、一気に緊迫した状況となった。防衛施設局によるボーリング調査が強行されたのだ。以来連日、テントに座込み監視、抗議行動が続けられている。資金も人手も豊かな日本政府側に対して、カヌーに乗り素手での抗議行動により、けが人までだしながらも、今のところ何とか工事を中断させている。
 ヘリ墜落も含め、基地反対の戦い等、全てを沖縄に押しつけたまま。日本本土のマスコミは、まるで存在しないかの様に一切これらのことを報じない。これは犯罪行為に等しいのではないだろうか?一度壊された自然は、決してもとには戻せない。まして「人を殺す」ための施設を建設するためになど、言語道断だ。
 あとがき
 私の手もとに、辺野古で買い求めた小さなジュゴンのぬいぐるみがある。私自身が、きっと日常生活にもどれば、ここで感じた怒りや悲しみを忘れてしまうだろうと思ったからだ。「本当のイラクを見たい」と言ってイラクで虐殺された香田証生さんの死を、政府の自衛隊派兵のせいだと抗議するどころか、「危険を承知の上で行ったのだから殺されて当然」という声が支配的な、今の日本という国。
 沖国大に墜落したのと同じ型の米軍ヘリコプターは、イラクの上空から攻撃をしており、沖縄の基地で訓練を積んだ米兵がイラクに派遣されている。こんなにも日本とイラク攻撃が直結しているということを、今どれだけの日本人が意識する事が出来るだろう?
 機会があれば、ぜひ沖縄を訪ねてみてください。美しい島であると同時に、日常生活の上に戦闘機が飛びかい、激しい爆音が襲ってくる。一般道路に軍用車が走り、海からは水陸両用車が上がり国道を横切る。とてつもなく広大な基地を囲む金網の内外の米兵たち。それらをずっと強いられ続けている島でもあるということを、見つめて来てください。(澄)

日米安保協議委員会開かれる
地球規模での共同軍事行動への乗り出しが狙い
 台頭する中国への対抗の動機も背景に



■新たな「安保共同宣言」=地球規模の日米軍事協力がねらい

 日米両政府は2月20日、外務・防衛担当閣僚による安全保障協議委員会(2プラス2)を開いた。この安保協議委は、日米両政府の懸案となっている米軍の世界規模の変革・再編成、それと連動した米軍と自衛隊との共同軍事行動の一層の強化を課題とするものだ。
 米軍の変革・再編成と日米軍事協力の促進の目論見は、具体的な基地名をあげての再編成論議を始めたために、日米の支配層の意志疎通に齟齬が生じ、また基地を抱える地元の反発が生じるなどして一とん挫していた。そこで今回米日政府が採用したのが、まず「戦略的目標」を明確にし、次に「自衛隊と米軍の役割・任務・能力」の見直し作業に移り、最後に「個別の米軍基地の見直し」に入るという三段階方式であった。
 安保協議委の共同発表がどのように言っているかを見てみよう。
 まず「共通の戦略目標」として、世界規模でのテロや大量破壊兵器など新たな脅威の出現、アジア太平洋地域における「不透明性、不確実性が継続し、新たな脅威が発生する可能性」について述べている。
 次に「地域の戦略目標」として、北朝鮮の核計画や弾道ミサイル開発の平和的解決、中国に関しては台湾海峡をめぐる問題の平和的解決や中国の軍事分野での透明性の向上、ロシアの建設的な関与を促す必要などが語られている。
 また「世界の戦略目標」では、基本的人権・民主主義・法の支配などの基本的価値の推進、大量破壊兵器と運搬手段の削減と不拡散、世界のエネルギー供給の維持・向上などに言及している。
 さらに「安保防衛協力の強化」として以下の諸点が述べられている。自衛隊と米軍の役割、任務、能力について検討を継続し、相互運用性を向上させる。在日米軍の兵力構成見直しに関する協議の強化。沖縄を含む地元負担問題の解決と在日米軍の抑止力維持、地位協定の運用改善や沖縄に対する特別行動委員会(SACO)最終報告の着実な実施の重要性等々。
 日本政府は、この安保協議会を受けて、日米の軍事的役割分担や個別の基地再編案を「今後数ヶ月間で集中的に協議する」と語っている。もちろんその先にあるのは、今秋を想定した「新たな日米安保共同宣言」、つまり日米軍事協力を地球規模のものへと押し上げようとする試みだ。

■日米軍事協力の世界的展開―対中国を重視

 最初に気づくのは、この共同発表がこの数年間米国が「脅威」が存在すると強調してきた中東や西アジアや北アフリカについては触れていないことだ。しかしこれは、日本の世論を意識しての表面上の配慮に過ぎない。共同発表に明記しなくても、すでに日本政府はアフガン戦争で自衛艦をインド洋に派遣し、イラク戦争では地上部隊をサマワに送り込んだ。日本の自衛隊は実際には極東もアジア太平洋の枠も越えて遠く中東に派兵されている。わざわざ日本の世論の反発を招く文言を入れるよりも実質こそが大事だ、というわけだ。
 その一方、アジア地域については露骨な言及が行われている。
 北朝鮮については一応は「平和的解決」を追求するとしているが、これはイラク情勢の混乱が米政府の行動を制約していることによるものだ。米国政府が北朝鮮に対して核による先制攻撃も辞さずとの強硬姿勢を維持していることは周知の事実である。米国政府はクリントン時代には北朝鮮の核武装計画を防衛的なものだと述べていたが、今ではその認識を隠して北朝鮮の脅威を叫び、弾道ミサイル防衛構想を推進し、世界の軍拡競争に拍車をかけつつ、軍需資本に巨大なテコ入れを行おうとしている。
 中国に対しては、大きなウエイトが割かれている。共同発表は「アジア太平洋でも新たな脅威が発生」「不透明性や不確実性」「地域の軍事力の近代化」を云々しているが、これらが中国を念頭においたものであることを、会議後の記者会見でラムズフェルド国防長官は隠さなかった。中国を名指ししたもっと強い調子の共同発表の素案が準備されようとしていたが、日本への配慮から少しトーンを抑えた共同発表に落ち着いたのだそうだ。それでも、「台湾海峡をめぐる問題」が大きく取り上げられ、「中国が軍事分野で透明性を高めるよう」にとの要求が押し出された。北朝鮮の核兵器保有宣言や六カ国協議ボイコットに対しても、中国の態度が柔らかすぎる、圧力をかける気配がない、として米支配層はいらだちを強めているという。
 米軍の変革・再編成、日米軍事協力の強化において、中国が重要な戦略的ターゲットと見なされていることは明らかだ。米国のこの対中国重視の戦略は、中国の経済発展、それを土台にした政治的軍事的超大国化の趨勢をにらんだものだ。いまでは、経済発展を続けるアジア地域での影響力ばかりか、中東や西アジアの石油権益への接近をめぐっても、中国は米国支配層にとって大いに警戒すべき国となりつつある。米国支配層は、この地球上で近い将来、彼らにとっての最大のライバルとして台頭してくる可能性を有しているのは中国だと見なした上で、長期的な基本戦略として中国シフトを敷こうとしているのである。
 小泉政権の対アジア、対中国の姿勢もまた明確だ。小泉首相は米国の戦略に対し追随姿勢を貫いている。日本の支配層の中では、発展するアジアや台頭する中国との経済的結びつきを重視する人々の勢力は決して小さくはないが、小泉政権は彼らの声に背を向けて米国重視の路線を進んでいる。小泉の中国やアジア諸国を刺激する靖国神社参拝、小泉をさらに右から突き上げる安倍晋三らの拉致問題を利用しての北朝鮮叩き。これらの排外主義的パフォーマンスは、何よりも自らの政治的影響力と求心力を高めるためである。そして支配層の中には、それを資本による労働者への支配力の強化の処方箋として支持する勢力がある。支配層の中のアジアや中国を相手にしたビジネス上の実利を重視する勢力はその行き過ぎを危ぶんではいるが、小泉らの排外主義宣伝に強く異を唱える決断も下せないでいる。もちろんわれわれ労働者とっては、どちらが望んでいるものも広範な労働者・勤労者の犠牲の上に支配層の利益を追求するブルジョア政治に過ぎないこと、その土台の上で両者がある意味で相互補完の関係にもあることは自明である。

■踏みにじられる基地負担軽減、基地撤去の要求

 安保協議会を受けて、「自衛隊と米軍の役割・任務・能力」の見直し作業に拍車がかかろうとしている。大野防衛庁長官は、「情報の収集、共有、分析、あらゆる面で互いに協力する」と語っている。もちろんその協力の中には、途方もない金食い虫で、かつ軍拡を煽るだけのミサイル防衛構想も組み込まれている。役割分担の見直しは、戦時において自衛隊がどのように米軍に協力し、一体的に行動するのかを、具体的かつ詳細に検討するものである。まさに、実践的な軍事的共同行動のシナリオづくりの作業以外に何ものでもない。
 日本政府は、この役割分担の見直しが進めば地元自治体や住民の基地負担、とりわけ沖縄の負担が軽減するものであるかにほのめかしている。その理屈はこうだ。役割分担の見直しの中で、現在米軍が握っている基地の管理権や航空管制権を日本側に移管し、自衛隊と米軍が共同使用する基地を増やせば、米軍基地の縮小につながる。例えば、横田基地の米第5空軍司令部がグアムに移転した後に現在府中市にいる航空自衛隊の航空総隊司令部を移転する、沖縄の米軍海兵隊砲兵部隊を北海道の陸上自衛隊矢臼別演習場へ移転する、米軍嘉手納基地を空自の那覇基地に統合する等々が可能になる、と。
 しかしこんなものは基地負担の軽減とは何の関係もない。単なる子供だましのホラ話に過ぎない。第一にこれは基地を別の場所に移す単なる「基地転がし」以外ではない。第二にこの「基地転がし」によって全体としての基地の規模や機能が縮小するわけではなく、逆に日米の軍隊が一体となってのその強化・拡大こそが目指されていることは周知の事実だ。事実、沖縄の米軍基地は、日米の支配層が北朝鮮や中国の脅威を叫べば叫ぶほど、ますますその存在意義が高まる構図となっている。第四に米軍にとっては基地管理の要員や費用の軽減となるが、日本にとっては米軍経費の日本側負担(「思いやり予算」)が減る一方その分自衛隊自身の経費は増大する。
 米軍の変革・再編、世界を股にかけての先制攻撃戦略、日米軍事同盟の全地球規模化、北朝鮮や中国の脅威の呼号。こんなものが基地負担の縮小、沖縄の基地禍の軽減につながるかに言うのは、恥知らずなペテン以外に何ものでもない。

■米国の「帝国」支配、日本の軍事強国化の野望を許すな!

 米国は国際テロや大量破壊兵器の拡散の脅威を叫び、イランやシリアや北朝鮮や中国の脅威を言い立てている。
 しかし米国やイスラエルが「テロ」と呼ぶパレスチナ人の解放闘争はまったく正当なものである。そしてその正当な闘いが圧倒的な暴力によって無慈悲に抑圧され、行き場を失う中、それに代替するかのように噴出してきたイスラム原理主義者の武装闘争は、方向と目標を決定的に誤っているとはいえ、その第一の責任は米国やイスラエルの侵略と暴力的抑圧にこそあると言わねばならない。
 米国は地球上に存在する核兵器の圧倒的多数を自らが所有し、核武装力の強化を目指して未臨界核実験を繰り返したり「使える核兵器」の開発にうつつを抜かし、その先制使用さえ公言している。核軍縮の国際世論に背を向けて包括的核実験禁止条約の批准を拒否し、ABM削減条約からも脱退した。自らの盟友であるイスラエルの核武装に対してはどんな非難も加えず、逆に巨額の軍事支援を継続し続けている。そうした米国に、イランや北朝鮮の核武装計画を非難する資格があるはずもない。米国が大量破壊兵器の独占とその能力強化の政策をとり続ける限り、北朝鮮やイランなどの支配層はその脅威におののかなければならないし、また自らの核武装計画をその脅威への対抗策としていくらでも合理化できる。
 現在米国支配層を悩ませているパレスチナの解放闘争やイスラム原理主義者の武装闘争や北朝鮮やイランなどの核武装の野望は、今回の安保協議会や近く予定されている「新安保共同宣言」によっても決して取り除かれることはない。英国やオーストラリアや日本による米国支援・追随政策によっても決して弱められることはありえない。米国の覇権主義とエゴイズムが続く限り、逆にますますそれら勢力の根深い反発と対抗を呼び覚ますだけである。
 北朝鮮やイランの支配層の大量破壊兵器取得の野望を、その温床となっている米国など大国の核武装や軍拡とともに批判し、それらを押しとどめる国際世論を強めていかなければならい。「帝国」支配をもくろむ米国の野望は、イラク戦争に対する国際的な批判の中で逆風にあい、困難に直面しつつある。米国に追随することで世界の軍事強国の仲間入りを遂げようとしている日本の支配層を待っているのも、同様の運命だ。
 世界の労働者・民衆とともに、米国の「帝国」支配の野望、日本の支配層の軍事強国化の野望を打ち砕こう! 戦争のない、軍隊を必要としない、新しい社会を目指し前進しよう!         (阿部治正)     案内へ戻る

コラムの窓  京都議定書発効する−−迫られる米国・日本

 皆さんも知っていると思いますが、私たち地球人にとって最大の脅威のひとつが地球温暖化問題です。猛暑や集中豪雨などの異常気象が世界各国で起こっており、地球温暖化の影響は想像以上に深刻であることが報告されています。
 こうした折、先進国に二酸化炭素(CO2)などの温室効果ガスの削減を義務づけた、「京都議定書」が2月16日午後、発効されました。この「京都議定書」が採択されたのは今から約8年前です。とにかく、ようやく地球温暖化防止への世界的な取り組みが、法的効力をもつ新段階に入ったと言えます。
 しかしながら、世界最大のエネルギー消費大国である米国が議定書から離脱したままであり、CO2排出量第2位の中国や第5位のインドなどの途上国に、削減義務がないなどの問題点を抱えたままの船出となっています。
 1997年、地球温暖化防止をめざしたこの「京都議定書」が採択されたことは画期的な事でした。
 議定書は2008年〜12年の平均温室効果ガスの排出量を、先進国全体で90年比5.2%削減することを定めました。そのために、先進国各国に国別削減義務量が割り当てられました。日本の削減義務は6%、欧州連合(EU)は8%、米国は7%などです。
 達成できない場合は、議定書に続く第2期(2013年以降)の排出量の枠が減らされる事になっています。また、国同士の排出量取引制度などの国際協調の仕組みも認められています。
 その後、ロシアを始めとして主要先進国が議定書を批准する中、最大の排出国である米国が01年に批准しない方針を声明し、全世界から批判を受けました。
 最近米国の研究団体が、産業革命以降に放出されたCO2が原因で起こった温度上昇の77%は、欧米や日本などの先進国に責任があるとの分析結果を発表しました。最も「責任度」が大きい米国はCO2による温度上昇の29.5%を占めており、ロシアは8.7%、ドイツは7.4%となっており、日本は「責任度」4.2%で第6位となっています。削減義務が定められている先進国の合計責任は77%に達しています。
 問題になっている世界工場をめざす中国は世界第2位の排出国ですが、これまでの温度上昇には7.2%の関与しかない事が判明しました。
 やはり、地球温暖化防止の責任はまず先進国にあり、特に約30%の責任が米国にあることがはっきりしています。その米国が議定書に批准し、積極的にCO2の削減をめざす政策を打ち出さない限り、現在の地球温暖化を防止できないことは、誰が見ても明らかなことです。
 議定書に批准した日本ですが、03年度の排出量を見ると90年度比で8%も増えており、削減目標の達成には削減義務の6%を加えると、これから14%の削減を求められていることになります。
ちなみに、温暖化防止に積極的なEUは02年時点で90年度比で2.9%の削減を実現しており、今後さらにEU域内でも一定規模以上の工場や事業所に排出枠を割り当てる事を決めています。
 本当に目標の14%を削減することができるのか?温室効果ガスの排出削減に危機感が薄い政府や、新たな規制や負担への警戒感が先立つ経済界を見ていると、まったく心もとない感じがします。まさに時代は脱石油・脱原発へ、CO2の排出が少ない自然エネルギーへの転換が時代要請です。
 地球環境保護にそっぽを向いている日本と米国、その責任が世界から迫られています。(英)

通信・物流労働者は連携を! 連載第四回
――“労働条件のイコール・フィッティング”――


 前回、郵政民営化に対しては新しい公共性の確立と産別闘争の視点という“戦略的なスタンス”が重要であることを考えてきた。今回はその中でも官民労働者の処遇にかかわる産別闘争について考えてみたい。これは同時に闘いの主体づくりにかかわることでもある。
 産別闘争を今はやりの言葉で言えば“産別コラボレーション”ということになる。が、言葉はどうでも良い。産別統一闘争だというと、すぐ組合の組織問題だと勘違いして、それを二義的なことにしてしまいがちだ。だがこの視点は、自分たちの処遇の支えを個別企業の利益や発展の上に見いだす労使運命共同体思想を拒否する、それを労働者独自の団結と闘いの延長線上に展望する、という労働者の階級的な自立にかかわる基本的な理念であり労働者魂なのだ。
 ここでは産別統一闘争の一つの内容をなす“労働条件のイコールフィッティング”について考えてみたい。

■ユニバーサルサービス=企業間競争の論理

 郵政民営化をめぐる論争の中では、銀行業界や宅配会社などから必ずと言っていい程“イコールフィッティング”が言われている。この場合は「競争条件の同一化」という意味で使用されている。具体的には、郵貯なら預貯金の全額政府補償や高利の定額貯金など、郵便なら「信書の独占」など、郵政全体では法人所得税を免除されていることなどがある。賛成派はこれらを官業の特権としてやり玉に挙げているわけだ。
 こうした民営化賛成派の“イコールフィッティング”論争に対して、郵政省―総務省―郵政公社、その他の民営化反対派は労組も含めて常に「ユニバーサルサービス」(=全国均一サービス)を対置してきた。郵貯なら「庶民の貯蓄手段」をタテに、また郵便なら山間僻地などへの配達の維持や第三種、第四種郵便などの福祉郵便制度などをタテに対抗してきた、というのがこれまでの経緯である。いわば両者の対決の構造は、民間の“イコールフィッティング”に対して官業が“ユニバーサルサービス”を対置するというのが基本的な構図となってきたわけだ。
 民業が“イコールフィッティング”を主張するのは、自由競争原理という資本の論理からして当然のことだ。が、自由競争原理の民間企業が優れているというわけではない。バブルを煽り暴利をむさぼった銀行を始め、食品偽装、欠陥車隠し等々、経済事件、企業事件は枚挙にいとまがない。企業の論理は悪辣かつ不道徳に満ちている。
 他方、公共事業が官営として行われてきた日本では、ユニバーサルサービスの維持・確保は、そのまま官業擁護の論理になってきた。すなわち、利潤原理の民間企業では出来ないサービスは、利益を目的にしていない官営事業で初めて可能である、と。いわゆる「公益の国家独占」の思想だ。こうした論理も官営企業の見解としては当然である。が、こちらの側でも官業であること自体と不可分の腐敗・欠陥がつきまとっていることに変わりはない。すなわち官僚主義、政治との癒着、法律を隠れ蓑とした利権構造などだ。
 競合する民業と官業が、それぞれ異なった論理をタテにぶつかることは、一面で当然のことだ。が、問題は前回も見てきたように、そうした企業間競争の論理・構造に、労働者の側もどっぷり組み込まれていることにある。ヤマト運輸労組もJPUも「企業あっての労働者」という労使運命共同体論の上に立っているから、“イコールフィッティング”と“ユニバーサルサービス”という企業間競争の論理を自分たちの主張と重ねてしまうことになる。これでは労働者の企業からの自立とはほど遠いし、労働者独自の力を形成していくことにもつながらない。
 そうではなくて、労働者は個別企業の利益から独立して、すなわち労働者は労働者として共通利益があるはずであり、そうした基礎の上に自分たちの処遇や将来を設計することが大前提である、というのが“労働条件のイコールフィッティング”の趣旨である。

■“労働条件のイコールフィッティング”

 労働者が企業利益のしっぽにのって結局は使い棄てられるのを拒否し、労働者独自の共通利益の上に結集するためには、私は“労働条件のイコールフィッティング”を求める立場に立つことが不可欠だと思う。
 その基本は、労働者は企業間競争によっては、敗者の企業の労働者の首切り、人減らし、倒産を招き、勝者の企業では労働強化、労働時間の延長がもたらされ、どちらの労働者も過酷な結果に陥らざるを得ないからだ。現に双方の企業では、シェア争いを目的に“サービス改善”合戦が繰り広げられ、その過程では長時間労働や深夜労働が増やされ、人減らしや不安定雇用に置き換えられてきた。双方の企業に過労死、現職死も増えている。これが企業間競争の現実だ。労働者はこうした企業間競争がもたらす現実と向き合い、それらを規制して行かなくてはならない。
 企業間競争の弊害から自分たちの身を守るのは、その手段とされている労働時間の延長や人減らしなどに抵抗し、規制することだ。このことに競合企業の労働者は共通利益を持っている。少なくとも労働条件の切り下げ競争に対しては、労働者は当事者として抵抗できる。そうした共通利益を実現するのは、個別企業の労働者だけでは不可能だ。相手企業の労働者が労働条件の切り下げを受け入れれば抵抗する企業は潰れてしまうからだ。
 だから労働条件の維持・改善という課題は、産別レベルではないと実効性を持たない。だからかつての総評も産別統一闘争を重してたわけだ。競合企業の労働者の連帯、共闘は切実で緊急の課題になっている。労働条件が維持・改善されれば、経営形態はどうであれ労働者の処遇には直接の関係はなくなる。官業と民業の労働者双方とも、労働条件の均等待遇のためにともに協力して闘うべきなのだ。
 競合企業が相手企業の淘汰と自らの生き残りを書けて競争するのは、資本主義社会の基本的なあり方だ。だが労働者はそうした企業間競争に巻き込まれては長い目で見て希望はない。企業間競争から自らを切り離し、労働者独自の共通した利益を要求、実現していきたい。

■課題は山ほど

 労働条件のイコールフィッティングという視点で考えた場合、郵便労働者と宅配労働者が連携・共闘できる課題は多い。同じ通信・物流職場に働いているわけだから当然のことだ。
 まず雇用問題。
 宅配労働者は以前から正社員の他、準社員、契約社員、パートなど、非正規の不安定労働者を多く雇用してきた。実際に集荷や配達に携わるセールスドライバーのほとんどは準社員、契約社員だといわれている。郵政でも内勤者の非正規化が進み、集配でも正規、非正規の仕事の割り振りが大規模に導入されようとしている。官民を問わず、正規・非正規の均等待遇の課題は共通の課題になっている。
 労働時間についても状況は深刻だ。
 運輸産業はもともと長労働時間で悪名高いが、宅配会社でも長い残業やサービス残業は当たり前。かつて佐川急便の無認可営業や長労働時間は政界との癒着と絡んだ事件となった。最近でも宅配会社の長労働時間は変わっていない。たとえば「宅配便の20代のドライバーは肉体労働が午前7時台から夜9時、10時まで。食事も満足にとる暇がない。」(朝日)とか、「ヤマト運輸では月間の残業が150時間でそのうちサービス残業が110時間」「ヤマト運輸ではPP(ポータブルポス=伝票の携帯読み取り装置)を悪用したサービス残業がシステム化されている」(赤旗)とも言われている。一方の郵便局でもかつて全逓の規制力があった頃は残業規制は行われていたが、近年では残業はいうに及ばずサービス残業が多くの職場で蔓延しているのが実態だ。残業規制、サービス残業の撲滅など、緊急かつ共通の課題になっている。
 ついでに賃金の問題を取り上げる。
 いま春闘の時期だが、民間企業と郵政の賃金の決まり方は異なっている。民間は労使交渉で決まり、郵政は中労委の仲裁裁定で決まる。すなわち賃金の決まり方で官民は分断されてきたわけだ。それでもかつての春闘では“官民統一闘争”など、民間と一定の共闘関係があった。官公労の組合も民間の闘いと連動させる形でストライキで闘っていたからだ。
 ところが最近では民間では企業の生き残りを優先にして賃上げ要求すら放棄し、連動してきた官公労の春闘は「民間準拠」の上に安住して、いまでは「準拠の対象」を企業規模500人以上とか、100人以上とかを巡って争われているに過ぎない。
 こうした賃金闘争の官民分断構造とその克服について、郵政民営化論議の中ではどの労組も言っていない……。

■労働条件のイコールフィッティングを

 宅配労働者と郵政労働者の共通の事情と共通利益について簡単に振り返ってきた。が、こうした課題での連携が拡がらないのは理由がある。すでに触れてきたように、終身雇用、年功賃金、企業内組合という日本的労使関係、その中での労働者の個別企業への依存構造、その結果としての労使運命共同体意識に巻き込まれてきたこれまでの経緯……。しかし、それらの間での悪循環はどこかで断ち切る必要がある。それは結局は労働時間にしても賃金にしても、具体的な課題で闘いを起こすこと、その闘いに官民の宅配労働者と郵政労働者が連帯して協力し合うことを出発点にする他はないからだ。
 こうした通信・物流労働者の共通課題を前提に考えれば、郵政民営化問題でイコールフィッティング(=公正な競争)論に対してユニバーサルサービス(=全国均一サービス)を対置することは、基本的なスタンスとしての“ボタンの掛け違い”と言わざるを得ない。ユニバーサルサービス論は官業の建前論を押し出しているに過ぎず、それは「民間の効率性」というこれまた建前論を呼び込むものでしかない。企業間競争の論理に対しては、労働者の共通利益を対置すべきなのだ。
 郵政事業がコストを基準とした事業運営ばかりでなく、社会政策として運営している性格がある以上、その質を確保するという要求は、制度・政策上の要求として出てくる問題であって、労組としても当然の権利だ。しかし自分たちの雇用や労働条件の確保のために経営形態や法律によって、すなわち国家による保護と規制に頼るのは、基本的なスタンスとしてはやめにしたい。単純なようだが、労働者は企業内部でも、企業の壁を越えた共同の闘いでも団結・連帯を深めて共同の闘いをつくっていくしかない。それが雇用や処遇の確保のために労働者が頼れる確実な手段であり確実な保証なのだ。
 前にも触れたように、労使運命共同体思想は日本では普遍的かつ構造的な弱点であって、何も通信・物流労働者だけの弱さではない。そうとすれば、通信・物流労働者としては、郵政民営化が争点となっているいま、他産業の労働者に先駆けて産別統一闘争への道をこじ開けていきたいし、いけると思う。
 次回は労働者がめざすべき新しい「第三の公共性」の問題について考えてみたい。(廣)   案内へ戻る

教育基本法をかえる? なんでだろう〜Q&A
Q9 先生も研究と修養がもっと必要だと強調しているけど、それはやっぱり必要じゃないの?


 子どもが明日にむかって生き生きと成長するには、教員も自主的に研修を深め、教材や考え方の研究はもちろん、自らを人間的に成長させることは大切なことです。このことに関しては、すでに教育基本法(6条2項)や別の法律(教育公務員特別法)の中ではっきり示されています。
 けれども国は、いままで教員の自主的な研修をなかなか認めず、文部科学省や教育委員会が行う研修だけに参加するよう指導してきました。
 そういうなかで答申は、教員の資質向上のために研修が大事だから教育基本法にあらためて規定するというのですが、その資質向上を、もっぱら「教員に対する評価」やそれにもとづく「処遇」つまり待遇の差別、「不適格教員」の排除などによって、実現しようとしています。これでは、お上のいうことだけを聞く、物言わぬ教師だけが優遇されるということになりかねません。教育の自由がせばめられ、人間性を失っていく教員に教えられる子どもこそ、最大の被害者になるのではないでしょうか。
 このようなやりかたは、国連機関のユネスコで決められた、「教員の地位に関する勧告」が教員の自由について明記している精神にも反しています。教員にとって本当に必要なのは、自由で自主的な研修にはげむことであり、それをはげますことが国や教育委員会に求められているのです。(子どもと教科書全国ネット21.発行パンフより)

 教師の自発的な研究が本来の研修といわれるものだと思います。上からの研修よりも、密室である教室を開放し授業の内容について意見交換できる場を持つなど、現場での取り組みの方が必要ではないでしょうか。世界で起こっていることに関心を持ち視野を広げることで、子ども達にも未知の世界が伝わり社会性が身につくように思います。(恵)


神奈川県の教組運動に出来した椿事ふたつ

神教組委員長補欠選挙と投票日当日中止のどたばた

 昨年の参議院選挙で、日教組は、横浜市教組出身のなたにや候補を民主党から押し立てて当選させた。この候補を組織の力で支えたのは、神教組であり、人格的には神教組委員長であった。しかし昨年、贈収賄の公職選挙法違反の疑いで、この委員長は突然逮捕され、贈収賄を受けた側の関係者の証言で、公職選挙法違反の有罪が確定したが、神教組組織の関与は否定された。この結果、委員長の私人の行動として認定され、委員長は辞任した。その後、神教組は、三人いる副委員長の中から、委員長代行を決めて活動していた。
 そんな中の二月一六日、神教組組合員を驚かす椿事が出来した。選挙公示の最終版に、執行委員長候補として、神教組現書記長であり、中地区出身の加藤氏と現横浜市教組執行副委員長の近藤氏の二人が執行委員長に立候補している事が判明したからである。
 その後配られた「役員補充選挙公報」では、一方の加藤氏は、この5年間、人事評価制度や給与制度交渉の場に臨んできた中で痛感したことだとして、「『教育改革』『公務員制度改革』の動き等、働き方と生活を取り巻く新たな状況の中で、私たちの組織と運動理念を社会的存在としてあらためて構築してい」くとその決意を語っている。他方の近藤氏は、激動の21世紀、教育界においても変革は大きく早いと前置きして、「神教組の組織においても政令市費負担教職員制度が数年後に導入される局面で神教組の歴史と伝統を守」り、「新たなる組織の構築が急務であるとともに、七地区教祖の団結と理解を基に円滑に移行していかねばな」らないと力説している。
 神教組の一組合員としての私は、加藤氏には、激動の時代の中で、「新たな神奈川方式」を創設したいとの意欲を感じ、近藤氏には、神教組の分裂を意識しての組合財産の分与を有利に進めたいとの思惑を感じる。組合員全体の利害を考えたこともない全くいい気な二人組でしかないのである。しかし、問題は、近藤氏の推薦者は横浜市教組執行委員長山田氏と川崎市教組執行委員長吉田氏であることだ。この二つの地区の組合員で、神教組の組合員数の五八%を占めており、このままではこの選挙の帰趨は明らかなのである。
 しかし、それにしてもこの対立選挙。何とも破廉恥としか言いようがない。一方の加藤氏は、「人事評価制度」や「新しい学校運営組織」を巡る「新2級」創設についての対県教委の神教組の代表窓口の人物である。他方の近藤氏は、一九八五年以来横浜市教組役員一本槍の人生で全県的には全く無名の人物であり、ましてや県教委など全く知らないであろう。ここで明らかにしておけば、推薦者の横浜市教組執行委員長山田氏といえば、かって神奈川県教組書記長だった時、遙かに利権が多い横浜市教組執行委員長のポストが空席になるや、書記長を辞して横浜市教組執行委員長に就任したほどの横紙破りの人物だ。横浜市の彼ら二人から見れば、県教委など、所詮神奈川の田舎相手の教育委員会であり全く眼中になどないのである。
 こうしたどうしようもない不毛の対立の中で予定されていた二月二五日の投票日の当日、突然両候補が立候補を取りやめたことで、執行委員の補欠選挙こそ行われたものの焦点となっていた執行委員長補欠選挙は中止された。何というドタバタ劇ではないか。こうなったのは、あまりにみっともない事態への全国の日教組各県組織からの助言によるものといわれている。こうして神教組は大恥を二度も晒してしまったのではあった。
 こうした敵前で出来した醜態の中で一番喜んだのは、県教委である。
 二月二一日の県議会本会議の中で、曽根県教育長は、各議員からの質問に答えて、校長の指導力の向上のために在任期間の長期化を図る一方、学期や夏・冬の長期休業期間の校長裁量権の拡大、校長・教頭の補佐やグループの職務管理、人材育成などの役割と職責を持ったグループリーダーを新たな職として設け、給与面でも職責に見合ったものとしていくとの答弁を安んじて行うことができたのであった。

三浦地区の役員選挙での三役全対立候補の出来

 神奈川県教組は本来は七地区の連合体の組織であるが、実際は、今回のドタバタで明らかになったように横浜市教組が強い独立性を持つ組織なのである。
 その中でも横須賀の米軍基地を抱える三浦地区は、三十年来の原子力潜水艦寄港反対の運動と数年前の逗子市池子米軍家族住宅建設反対運動で知られたところである。
 三月一日が投票日の役員選挙では、三浦地区始まって以来始めて三役全候補に対立候補が擁立された。具体的には、執行委員長に一人、執行副委員長に二人、書記長に一人、である。立合線説会は、選挙管理委員会の判断で行われないので、選挙公報等から、対立候補の主張を紹介する。
 この四人の候補はバラバラの立候補ではなく、四人の共同アピールを行っていることからも明らかなように同一の立場での立候補である。
 彼らの時代認識の核心は、今は「戦争の時代で、どう生きるかが問われている」というものである。そしてこうした中で、現実に負けていってしまえば、「『愛国心教育』を実践することが『教師の義務』になる」と警告を発した。教育基本法が改正されれば間違いなくことことは現実化する。こうした問題意識から出てくる実践的な提起は明かだ。
 「いまこそ『闘う執行部』が必要だ」との提起が、四人から全組合員に訴えたいことなのだ。彼らのいうとおり、「労働組合は労働者が闘うための武器です。労働組合はなめられたらおしまいです」。必要なのは「現状を打開する方針」なのだ。
 「闘う三教組を、組合員の手に奪い返そう」が四人の合い言葉である。今こそ「教え子を再び戦場に送るな」の日教組の不滅のスローガンとして押し出す四人の具体的な提起はまだまだ現場の力は捨てたものではないとの意気込みが感じられる。
 選挙公報等では、「新しい学校運営組織」と「新2級」創設は、新たな主任制度と明確に批判しており、私などとの問題意識の共通性もあり共感している。
 労働組合運動の復権をめざした運動として注目すると共に彼ら四人の健闘に大いに期待したいものである。         (猪瀬数馬)
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オンブズな日々・その22・とんでもない参画と協働

 兵庫県防犯まちづくり有識者懇話会報告「犯罪のない安全・安心の兵庫に向けて」が発表され、パブリックコメントの募集が行われていることを知ったのは締め切りの数日前でした。兵庫県のホームページを開けばわかることですが、普通は気づかないで終わってしまいます。私も新聞で紹介していなかったら見逃すところでした。
 本文は膨大なので概要版を印刷して読んでみると、これが実にひどいものです。構成は単純で、@犯罪発生の現状とその背景、Aこれまでの防犯対策の取り組みと課題、B犯罪のない安全・安心の兵庫に向けて、というものです。つまり、この有識者懇話会のゴールは安全・安心条例≠ノなっていて、はじめから結果は決まっているのです。
 まず、犯罪の増加を指摘し、「外国人窃盗団による組織的な侵入犯罪や自動車盗などが本県でも年々増加傾向にあります」「刑法犯少年に占める万引き、自動車盗などの初発型非行も70・6%となっており、ごく普通と見られる少年が罪の意識を感じずに犯罪に手を染める傾向が続いています」等と述べています。背景として「不審者を見かけたときは互いに知らせ合い、あるいは地域の子どもを大人が注意し、見守るといった地域社会の犯罪抑止機能が低下しています」といった指摘もあります。
 兵庫県はこうした認識をもって何をしようとしているのか。「学校と警察の連携強化による不審者侵入対策の強化と被害防止教室の充実」「外国人の不法滞在の解消に向けた取り組みの強化」等です。そして基本姿勢としては、「『県民の参画と協働の推進に関する条例』のもと、地域社会の共同利益ともいうべき新しい公≠フ創出への取り組みを今後も推進することが必要です」「従来の『検挙に勝る防犯なし』との考え方から、犯罪の機会そのものを除去する『機会なければ犯罪なし』との考え方に基づき、犯罪の『予防』に重点を置くことが必要です」等を示しています。
 こうした対策がどこへ行き着くのか、現実を見れば予測はつきます。ずばり監視と排除≠オかありません。学校への侵入事件を防ぐためには高い塀で囲み、警察上がりの門番でもつけるしかないでしょう。街中には防犯カメラを設置し、不審者(犯罪前歴者など)¥報の公開と監視、などが予想されます。有識者¥博≠ヘ「防犯カメラの設置は、犯罪の抑止に効果がある一方、無差別に人の容姿を撮影することにもなるため、個人情報の保護に配慮した適切なルールづくりが必要です」と有識者ぶっていますが、地域防犯を掲げながらそんなことを言うのは欺瞞でしょう。
 ところで、『地域社会の共同利益ともいうべき新しい公≠フ創出』とは何でしょう。これはあの国のために≠ニいうときの公≠ノほかなりません。多数者の利益のために少数者・弱者は犠牲になれという枠組みです。これら地域ファシズムへと向かう動きに対抗するものとして、無防備地域宣言があり、いくつかの自治体で条例制定運動が進んでいます。ご注目を・・・ (晴)

パブリックコメント
 概要版しか読んでませんが、その範囲内で意見を述べます。
 まず枠組みの問題として、犯罪の抑制や少年非行対策を考えるのに防犯≠ニいう枠組みを設定してしまうと、取れる対策は限られたものになります。ひとつは取締りの強化や重罰化であり、もうひとつは家庭や地域での子どもに対する監視の強化といったことになるでしょう。
 これらは相互監視や異分子排除として現象し、結果的に監視社会へと進む以外ないでしょう。こうした不毛な対策に税金と労力を費やしても、根本的な解決にはなりません。
 犯罪や少年非行の現状は、社会の現状を反映したものであり、社会そのもののありようを変えることがキーとなっているのです。規範となるべき警察で不祥事か絶えないとか、公務員の税金喰いつぶしが頻繁に暴露されるようでは、庶民の順法精神が薄れるのも当然です。
 さらに、高校や大学を卒業してもまともな就職口がない、人らしい生活・将来への希望を持てる仕事がないなかで、子ども達にまともに働きなさいといっても無力です。
 もっぱらこうした面での対策を行なうことが、遅いようでも確実な対策になるのではないでしょうか。極言すれば、犯罪をいかに取り締まろうと、犯罪をなくすことは出来ない。人らしく働ける職場を確保すること、これに勝る犯罪対策はない、とわたしは思います。


.読者からの手紙

横須賀市議会の快挙

 二月二二日、米海軍横須賀基地を事実上の母港とする空母キティホークの後継艦問題で、横須賀市議会は、原子力空母配備に反対する決議を全会一致で、可決しました。
 昨年の米下院軍事委員会の公聴会でファーゴ太平洋軍司令官の「キティホーク退役後は『最も能力のある空母』を配備したい」発言が飛び出した後、二月米上院軍事委員会でのクラーク海軍部長の「退役すれば日本と協議することになる」発言もあり、募る一方の米側への不信感から、横須賀市議会を構成する各会派の総勢四十五人が、政治的立場を超えて「原子力空母反対」で一致したのです。昨年来、通常艦の継続配備を求め続け反対のポーズを取り繕っていた沢田市長の米への要請よりも、一段踏み込んだ内容となりました。
 決議は、二〇〇八年にも退役するキティホークの後継艦に、クラーク米海軍作戦部長の原子力空母配備方針の表明に対し、「市民感情、市民生活の安全、安心の面から後継艦に通常艦を求め、原子力空母の配備に強く反対する」と明確に抗議・反対したのです。
 既に横須賀市議会は、昨年六月に「後継艦について慎重に協議するよう強く求める」意見書を国に提出していますが、今回の決議は、その後に出たクラーク発言を「市議会の意思を踏みにじるもの」と批判しました。それと同時に沢田市長が「後継艦に通常型空母を」と言い続け、一度も反対を明言していない中での決議なのです。昨年の意見書では、原案にあった「原子力空母の配備は容認できない」との文言が、各会派間の調整で削られたのですが、今回は各会派とも全会一致で反対を確認しました。
 決議案を提出した各会派の見解を紹介します。新政会は「行政は国を見ているから言えないかもしれないが、市民の視点に立てば、原子力空母反対という表現は当然だ」とし、研政21は「東京湾に原発が浮かぶようなもの。市長も反対と言うべきだ」とし、自民党は「反対は言い過ぎという議論もあったが、市民の代表として踏み込むべきという結論」になり、共産党は「本来は空母の母港化自体に反対だが、原子力空母にノーという部分で賛成した」と説明しました。
 横須賀市議会で原子力空母の母港化反対が全会一致で可決された意義は重いと私は考えています。全国の皆さんに是非とも知っておいて頂たい快挙ではないでしょうか。(S)     案内へ戻る


 映画・宮部みゆき作理由≠見て−無縁の広がる都市での殺人事件

 血縁より縁のない者同士が一緒に生活する中で、そしてその方が安らぎを覚えるという奇妙な共同生活の中で、中島みゆきが地上の星はどこへ行った≠ニ歌ったように、天空の星より地上の星をみたい男が、見い出せないというのが理由≠ナあろうか。
 自分の赤児とその母親である愛人をも殺そうとして偶然、利害から苦情をいいに来た実直な男が登場。赤ん坊を守るためにその母であり愛人が、彼女らを殺そうとした男を殺してしまうが、母子のことは黙っていると約束して、母子もその男も逃げ結局、実直な男が犯人とされてしまう。
 しかし、人に罪をきせて、知らぬ顔をしていることも、冤罪を蒙って逃亡を続けることもできず、赤ん坊の母親が自首ということになる。場面の解説後でもある殺人事件の起こったビルの管理人の最後の述懐だが、都市を去りふるさと≠ヨ帰り、静かに流れる時間の中でどういう世の中か考えてみたいという。殺人者のように彷徨うユーレイのような人々がどんなに多いことか、成仏できるのはいつだろうか、と結ぶ。
 赤児の命を守るため敢えて容疑者となっても逃亡し続けた実直な男に、ほのかな地上の星を見ようとするのであろうか。
 現在の状況はふるさと≠ヨ帰りたくとも帰れず、また安住の場もなく、「狂気」か殺意が誰でもよい殺し、刑務所も満杯、このままだと刑務所内でも殺し合いになりかねないもっとひどい状況。
 しかし、このままでは・・・と人間らしさを取り戻そうとする芽生えが見受けられることで、人間を信じることが出来ると思えるようになった。この日常の地平での動きが、殺し合いの戦争を抑止するまでに至るうねりとなることを願っている。個々の人々が人間らしさ≠ニは何か、そしてそれを取り戻す努力をすることが人間の証しとなろう。それが生≠フ方向へと向かおうと死≠フ方向に向かおうと。
 省略
 宮部みゆきも女性作家、赤ん坊を殺そうとまでした自分の愛人をも刺した女性、その女性を逃がし沈黙した実直でやさしき£j、その対極に地上の星が見いだせない≠ニ殺人し結局、愛人に殺された男。その男をも成仏してる彷徨う魂として描く宮部みゆきさんは、現代の情けない日本の状況に何とかあかり≠見いだしたいという彼女の思いが伝わってくる。
 以下略  2005.2.6.宮森常子

色鉛筆−コミュニケーションしよう

今朝も、朝食の準備と娘の弁当作りをしながら、ラジオに耳を傾けていました。すると、大阪寝屋川市で起こった小学校教諭殺傷事件が話題に上っていました。この事件をどう分析し今後の防止に役立てるか? 子どものエンパワーメントを育てる会の女性から、興味ある発言がありました。
 少年が突然切れて殺人を犯してしまったのは何故か、様々な原因が考えられますが最も深刻に受け止めなければならないのは、コミュニケーションが出来ないことにあるというものです。個室の部屋を与えられ一人で過ごす時間が増えることは、個食の条件が生まれ家族との団らんさえ持つ時間が少なくなってきたということになります。しかも、人との会話がなくとも生活できる便利な社会なのです。
 メールでのやりとり・コンビニで簡単に手に入る食事などは便利の筆頭になりますが、裏返せば現代社会の問題が集約されたものと言えるでしょう。コミュニケーションが疎かになりはじめた時期が、ちょうど事件を起こした少年の親の世代にあたるというのも、事件に深く関わっているようです。
 ラジオでの発言者の女性が提起した「親育て」の必要性は、なるほどと納得しました。親は子どもとの接し方が分からないから、子どもは成績が良ければ安心という対応になってしまう。大切なことは子どもが話すことを聞いてやること、これで子どもは安心し自分の居場所を見つけ、情緒も安定してくる。親でなくとも近隣の大人が聞いてやることも出来る。つまり、コミュニケーションは人間形成に欠かせない、人が共に生きていくうえで最も大切な行為といえるのでしょう。
 我が家は、市営住宅で子どもみんなに個室を与えるスペースもありません。こたつを置いてる部屋が家族で過ごす場所になっています。子どもはけんかをしたり、笑ったりでお互い関係を持てているようです。この環境がひょっとしたら、家族みんなにとって良かったかもしれない、そんな風に感じています。そして、子育てをほぼ終わった私たちの世代が、今の子育て中の親たちに支援出来たらなあ、と思っています。 (恵)

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