株主利益も経営者権力も社会の利益とは調和し得ない
労働者による企業管理こそ歴史の要請だ
ライブドアとフジテレビの間の新株予約権発行をめぐる争いは、、ひとまずライブドアに軍配が上がった。
メディアや評論家の議論においても、「株主の利益こそ第一「経営者が株主を選ぶのではなく、株主こそが企業の支配権を決定するのだ」との論が若干威勢が良い。それが、経済の透明性、健全化、グローバル化の要請に添った道なのだとも言われる。
しかし、企業の支配権が株主に属するかそれとも経営者の手にあるかの議論は、重要なことを意図的に隠している。それは、実際に企業を動かし、そこで富やサービスを生み出している労働者の存在だ。
企業の中で、業務を実際に担っている人々の日々の労働こそ、「企業価値」の最大の源泉である。彼らの労働は、株主が投資した資本価値を再生産するだけでなく、それを増大させている。「実物経済」において労働者が担っている富やサービスの生産、新たな価値の創造に比べれば、経営者の働きなどは従属的な意義しか持たない。株主の役割はそれ以上に小さい。
もちろん、世の通念は、優秀な経営者とそれに資金を供給する株主の役割こそ重要だ、というものだ。そしてこの2者のうちでは株主の利益こそが優先されるべきだ、というのが近年強まっている風潮だ。
株主権利こそ第一という観念が強まっている背景に、資本主義のグローバル競争の激化など一定の客観的条件が存在するのは確かだ。しかしそれはあくまでも一時的、あるいは表面上のことでしかなく、実際には今日の資本主義においては経営者が大きな権限を有している。実際、いま物議をかもしているライブドアの堀江社長にしてからが、株主=所有資本家というよりもむしろ経営者=機能資本家である。今回の事態は、経営者利益対株主利益の闘いではなく、あくまでも旧タイプと新タイプの経営者(いささかマネーゲームに通じている)の間の争いなのだ。
そして重要なことは、この経営者の果たしている役割も、永遠のもの、盤石のものではないということだ。経営者の役割、企業における意思決定や管理の業務は、実際に事業を執行し、労働を行っている人々が取って代わることは可能である。単に可能であると言うだけでない。企業の役割を株主利益や経営者の利害などという社会的災厄の要因から解放し、それを働く人々の利益や社会全体の福利、地球を覆う貧富の格差の除去や自然環境の保全などの課題と調和させようとするならば、労働者管理企業の社会的ネットワーク化は決定的な必要事、大きな社会的要請とさえなっている。
企業の支配権をアソシエートした労働者の手に移し、そのことを通して搾取や貧困や抑圧や環境破壊や戦争等々の災厄の根を絶つこと、これこそが歴史の本当の趨勢となっていることを再度確認しよう。
(阿部治正)
企業は誰のものか―ライブドアとフジテレビの抗争の混迷
新株予約券発行の差し止め決定に
三月七日、ライブドアへの反撃としてフジテレビは、ライブドアによる支配権を薄めるため、ニッポン放送にTOBを行い、ニッポン放送株の三六・四七%(議決権の三九・二六%)を取得し、TOBを成立させた。
ライブドアはニッポン放送株の過半数取得をめざして、二月初旬からニッポン放送株を取得し、直近では、発行済み株式の四二・二三%まで買い集めていた。
これに対してニッポン放送は、買収を阻止するために二月二三日、フジテレビを割当先とする新株予約権の発行を決定した。実際に新株予約権の権利が行使されれば、ニッポン放送の株式数は現行の発行済み株数(三千二百八十万株)の最大二・四倍に増え、ライブドアの保有比率を大幅に引き下げることになる。
当然にもライブドアは、新株予約権の発行は、有利発行に当たり株主総会の決議を得ないのは不当などとし、同月二四日夜、新株予約権の発行の差し止めを求める仮処分を東京地裁に申請していた。
三月一一日、東京地裁は、ライブドアが発行差し止めを求めていた仮処分申請について、フジテレビを割当先とするニッポン放送の新株予約権発行計画に関するライブドアの申し立てを認める決定を下した。
この判決では、ニッポン放送が予定していた新株予約権の発行による増資は、現経営陣の支配権維持を主な目的としていると判断した他、ライブドアがニッポン放送の支配権を取得しても、ニッポン放送の価値が著しく毀損するとは言い切れないと判断したのである。 そもそも経営権の維持を主な目的とする増資は、商法で禁じられている行為ではあった。
この間ニッポン放送は、これまでフジサンケイグループにとどまることが自らの企業価値を高めると主張して、ライブドアによる買収を拒否する姿勢をみせてきたが、東京地裁は、「(ライブドアによるニッポン放送の)支配権取得により企業価値が著しく毀損されることが明らかであるとまでは認められない」と突き放されただけでなく、また、ライブドアが時間外取引を利用してニッポン放送の株式公開買い付け(TOB)を行ったのは証券取引法に違反するとの主張に対しても、東京地裁は「(ライブドアが)証取法に違反していると認めることもできない」と認定したのである。
ニッポン放送はこれを不服としただちに同日夕、東京地裁に異議申し立てを行った。
しかし、東京地裁の 仮処分決定を受けて、フジテレビの日枝会長は「メリットがあれば 事業提携も考える」と述べライブドアとの提携に 柔軟な考えを示し、担当役員がライブドアの堀江社長と 会ってもいいとも 話したことで、翌一二日には、早くもフジテレビはライブドアとの事業提携も視野に交渉する方向で検討に入るとの報道も出てきた。
ライブドアの堀江社長が、同放送株式の四五%超を握る筆頭株主としてフジサンケイグループとの友好的提携を求めていたのに対して、フジ側は一貫してこれを拒否してきたが、従来の姿勢を転換することもありうる。堀江社長も和解を匂わせており、同放送争奪戦が収束に向かう可能性もあるという。このように現在でも混乱は続いている。
ライブドアとフジテレビの争いの原点とは何か
それは株主と経営者の関係に関することである。
まずある個人や会社が新しく企業活動を開始する時、必要となる資本を調達する手段として株式を発行する方法がある。この場合、他の人に資金を出してもらい、資金を出してもらった証明書として株式を発行する。株を持つ人を株主といい、企業は、株主が資金を出したからこそ存在する。だから企業の社長より株主の方が上、これを株主主義という。
したがって株主総会が最高の権力を持っており、企業が大事なことを決定するには、株主総会の承認をとる必要がある。だから企業の全体の過半数の株を持っている大株主がいれば、この株主が、会社の大事なことを決められることになる。
企業の発展の中で、企業間の親子関係ができることもある。問題のニッポン放送は、フジテレビの親会社である。この場合、子会社のフジテレビのほうが、親会社のニッポン放送よりずっと大きい。なぜか。新しくテレビ局をつくる時、それまであったラジオ局が資金を出して子会社のテレビ局をつくったからだ。ニッポン放送は、ほかのラジオ局や、映画会社と一緒になってフジテレビをつくった。
その後、フジテレビはメディアの発展と共に大きな会社になり、親会社のニッポン放送より大きな会社になった。フジテレビは、産経新聞社や出版社、レコード会社、プロ野球チームなどの株を持ち、この会社のグループを、フジサンケイグループと呼ぶ。このグループ全体の親会社がニッポン放送だったのである。
ここで現実問題が発生した。「もし誰かがニッポン放送の株を買い集めて、ニッポン放送の大株主になったら、フジテレビを含めてフジサンケイグループ全体を支配することになるのではないか」との問題であった。
そこで、小さな企業のニッポン放送ではなく、フジテレビのほうを親企業にすることに決め、そうすれば、発行している株式の数も多いし、値段も高いので、簡単には買い集めることはむずかしいと判断して、フジテレビは、ニッポン放送の株を「TOB」(Take Over Bid=テイク・オーバー・ビッド)、公開買い付けしていた。
しかし、これをやっていた最中に、ライブドアが、ニッポン放送の株を大量に買い集め、最大の株主になった。フジテレビが心配していたことが、現実になりかけたのだ。
ライブドアは、ニッポン放送の放送や、ニッポン放送とフジテレビが持っているレコード会社の音楽をインターネットで流したりすることで、新しい仕事を始めることができると考え、ニッポン放送をライブドアの子会社または提携企業にしたいのだ。
しかし、ニッポン放送やフジテレビは、「一緒にフジサンケイグループとして協力しあっているほうが会社のためになる。突然株を買い集めて子会社になれ」と言われても迷惑だと反発した。
ここにはライフドアの株主主義とフジテレビの経営主義・企業一家主義との対立がある。フジテレビ側はライブドアのやり方を全てを金で解決するやり方だと非難してはいる。しかし私たちから言わせれば、社員の気持ちを無視しているなどとのフジテレビ側の非難ほど聞き苦しいものはない。それが正当であると諸君が認めているなら、フジテレビでは、社員総会で全ての経営を律しているとの証拠を是非とも公開して欲しいものである。
企業は誰のものか―実際に実効占有する労働者集団のものである
前号の繰り返しではなく、ここでは切り口を代えて展開していく。
ライブドアとフジテレビの社長たちの発言が報道されなかった日は、ここ一ヶ月ばかりほとんどなかっただろう。そうした狂態が演じ続けられていながら、ニッポン放送やフジテレビの企業活動が停滞したり暴走したりしたなどは一切聞こえてこなかった。当たり前である。実際の企業活動の現場を掌握し適切に統括し機能しているのは、労働現場の資本機材を、実際に共同占有して支配している賃労働者の組織力・運営能力だからである。
これに関連して、社会現象を解明して、実際に社会科学の学問分野を切り開いたマルクスは、一八六八年七月一一日、クーゲルマンへの手紙の中で、次のように書いている。
(本文より二字下げ―開始)
いかなる国民でも、一年間はおろか二、三週間でも労働を停止しようものなら、たちまちまいってしまうということは、どんな子供で知っている。また、種々の欲望の量に応じる諸生産物の量は、社会的総労働の種々のそして特定の分量を必要とするということもどんな子供で知っていることである。このように社会的労働を一定の割合で配分する必要は、社会的生産の一定の形態によってなくされるものではなくて、ただそのあらわれかたがかわるにすぎないことは自明である。自然法則をなくすことはけっしてできないことである。
いろいろの歴史的状態につれて変化しうるのは、それらの法則が貫徹される形態だけである。そして、社会的労働の連関が個人的労働生産物の私的交換として現れる社会的状態においてこの労働の比例的配分が貫徹される形態がまさしくこれらの生産物の交換価値なのである。
(本文より二字下げ―終了)
このマルクスの言葉は、直接には、社会的労働の意味とこれと関連する生産物の交換価値について述べたものではあるが、私たちが企業が誰のものかを考えるに際しても使える重要な考え方でもある。確かに資本主義の社会では、企業の経営権の実権は、経営陣が握っている。しかし歴史的な形態として、単に今はそうであるに過ぎない。賃労働者の協働労働なくして「企業活動」などあり得ないことは全く子供でも知っているほどの自明なことである。さらに資本家が出資したという資本も、日々の企業活動の中で減価していき、賃労働者の生み出した価値の中から、不断に補填していかねば実際に資本として機能していかないことも自明なことである。
最初に資本家によって準備された資本は、日々に更新され何年かの後には、全く新しいものに変質していく。このように資本家の所有から、賃労働者が現実に生み出したもので補填し、資本家がただ占有・保持しているだけのものへと変化していくのである。
この資本家的生産関係の変化の核心を、マルクスは、「資本主義時代の成果―すなわち協業と土地の共同占有ならびに労働そのものによって生産された生産手段の共同占有―を基礎とする個々人的所有を再建する」(『資本論第一巻第二十四章』)と表現した。
マルクスは、資本家が資本は自分の所有であると宣言したことに対して、その実態は、資本家が占有し賃労働者がその占有を補助することで成り立つ関係にあること、すなわち共同占有に転化している冷徹な現実を突きつけたのである。
したがって未来の「資本」のあり方は、具体的にいうならば、日常的に統括・運営等に関わっている賃労働者集団の支配下におくのが最も合理的ということになる。この事実から、資本家的生産関係は終焉の時を迎え、新しい社会関係が打ち立てられるのは必然となる。打ち立てられる新しい社会関係とは、労働する一人ひとりの自由な発展が全ての人々の自由な発展の条件であるアソシエーション社会なのである。(直記彬)
コラムの窓
減らない過労死ー日本の労働のあり方そのものを考え直そう。
過労が原因で脳・心臓疾患になったり死亡したりして労災認定を受けた人が後を絶たない。
過労死が流行語のようにマスコミに取り上げられたのは二〇〇二年の頃であった。
〇一年の認定基準の緩和で、過労死判定のための対象期間を発症前一週間程度から六カ月まで広げ、蓄積疲労による死亡も対象にするなど、認定基準を緩和したことによって、厚生労働省のまとめによると、二〇〇二年度は三百十七件と、前年度の二・二倍に増えた。このうち過労死は百六十件で二・八倍、一九八七年度に調査を始めてから認定総数でも死者数でも過去最多となったのである。
当然、申請件数も増えた。〇一年度の六百九十件から八百十九件に増加している。
だが、過労死弁護団連絡会議では「申請、認定のいずれの件数ももっと多いはずだ」とみている。
厚労省職業病認定対策室は認定数や死者数の増加について「〇一年の認定基準の緩和で認定しやすくなったためで、過労死の人が増えていることには直ちに結び付かない」と説明している。
しかし、〇三年のデータによれば、請求件数七〇五件認定件数三一二件と多少減少しているものの、過労死の労災認定は後を絶たないのが現状であり、見過ごすことはできない事態である。
また、過労死認定者の三分の二以上を四―五十代が占めている事実にも目を向けるべきである。認定数が多いということは、それだけ倒れるまで働かされる職場環境が多く残されているということであり、その改善こそが急務であろう。
長引く不況下で企業は収益確保のためにリストラに躍起になり、雇用・所得環境は極めて厳しく、IT(情報技術)機器の導入など職場環境の変化も著しい。
サービス残業・労働時間の長さ以外に時差や不規則勤務、夜勤なども過労な負担だ。働き過ぎやストレスが原因で脳・心臓疾患になったり死亡したりする過労死は以前から社会問題化しているのである。
認定基準が緩和されたことで、救済される人が増えたことは確かだが、十分とは言えない。認定まで時間がかかるのも問題だ。
過労死弁護団などは「労働の質を判定の基準にすべきだ」として認定基準の抜本的な改正を求めている。
長い不況による人減らしや個人の能力・成果を軸にした賃金制度の改変が、労働者を萎縮させ、サービス残業にも強く反発できない要因となっているとの指摘がある。
仕事の責任が個々人にもたらされ、その成果が賃金や出世に反映されるとなれば知らず知らずに過重な労働を強いられていることに目をつぶる、そんな仕事中心社会だから起こる過労死なのだ。
労働とは生きるためのものであるが、死に至らしめる「仕事だから」という労働は考え直してしかるべきであろう。 「光」
資料 (厚生労働省)
脳血管疾患及び虚血性心疾患等 (「過労死」 等事案) の労災補償状況 (件)
年度 H12年度 H13年度 H14年度 H15年度
区分
脳・心臓疾患 請求件数 617 690 819 705
認定件数 85 143 317 312
うち死亡 請求件数 − − − 306
認定件数 45 58 160 157
注) 1 本表は、労働基準法施行規則別表第1の2第9号の「業務に起因することの明らかな疾病」に係る脳血管疾患及び虚血性心疾患等(「過労死」等事案)について集計したものである。
2 認定件数は当該年度に請求されたものに限るものではない。
3 平成13年12月に脳・心臓疾患の認定基準が改正されている。
4 平成14年度以前の死亡に係る請求件数については把握していない。 案内へ戻る
膠着する6カ国協議
世界覇権と体制維持をかけて争う米国と北朝鮮の支配階級
■北朝鮮を取り巻く最近の動き
北朝鮮の核やミサイル開発をめぐる6カ国協議が膠着を続けている。
北朝鮮は、核の「平和利用」は当然のことと主張し、また米国などによる核の脅しから自国を守るためには自らも核武装の権利があると主張してきた。そして既に自国の核施設から核兵器の材料であるウランの濃縮やプルトニウムの抽出を行ってきたと公言してきた。これに対し米国は、北朝鮮は米中露英仏の5大国以外の核保有を禁止した核不拡散条約(NPT)、同条約が定める国際原子力機関(IAEA)への保有核物質の申告と査察を拒否してきたと非難した。そしてこの事を追求された北朝鮮が同条約を脱退したことに対しても、厳しい批判を加えてきた。
6カ国協議は、北朝鮮の核とミサイルの問題を、米国と北朝鮮そして朝鮮半島を取り巻く韓国・日本・中国・ロシアの協議を通して解決しようという建て前で発足した。しかし北朝鮮はこの6カ国協議の無期限中断を宣言し、これに対して米国は協議に無条件で復帰せよとして圧力を強めている。2月10日には北朝鮮はすでに核武装を実現したとの公式の表明を行った。
朝鮮半島の分断国家の一方の当事者である韓国は、北朝鮮と直接に向き合っているが故に緊張激化をどうしても回避しなければならないという事情、経済的な結びつきの進展、そしておそらくは米国や日本などへの一定の不信感などから、北朝鮮に対していくらか融和的な姿勢をとっている。中国もまた、北朝鮮の核武装化の抑制、朝鮮半島の非核化に利益を見いだしつつも、北朝鮮の崩壊や朝鮮半島での戦乱によって大きなダメージを受けざるを得ぬ地理的位置、歴史的関係、そして米国の覇権主義を牽制しなければならないという事情などから、北朝鮮に対して米国や日本などとは異なった対応を見せている。かくして、北朝鮮の核問題を解決するために開始された6カ国協議は、米・日のタッグと韓国・中国・ロシアとの間の思惑の違いが露見し、こうした関係諸国間の齟齬をも条件にしつつ北朝鮮が瀬戸際政策をとり続ける事態となっている。
■なぜ、核・ミサイル問題か
世界が関心を寄せているこの北朝鮮問題とはいったい何なのだろうか。北朝鮮は、ことは北朝鮮と米国との間の問題であると言い続けている。この認識は、おそらくさほど見当違いではないだろう。米国もまた、6カ国協議が重要だとは言いつつ、他方では条件さえ許せば米国の単独行動で事を解決する用意があること、つまりことは米朝間の問題であるとの認識を隠していない。
北朝鮮の支配階級は、経済的発展が遅れ、そして敵意をむき出しにする米日韓の西側陣営に包囲され、さらに隣国への圧迫や抑圧の前科を豊富に持つ中国やロシアなどの大国に接するこの小国を、何とか自分の足で立つ国民国家へと持ち来たそうとして、そしてこの国の支配階級としての地位を盤石のものにしようとして、極度に強権的で集権的な支配体制を打ち立てた。ソ連や中国のスターリニズムの体制を模倣し、それをさらに極端化させ、儒教イデオロギーなどをも利用しつつ独特の専制支配体制を構築した。この体制は、北朝鮮国家独立の後しばらくの間は、いくらかの効果を発揮しているかに見えた。
国家の強権を用いての上からの資本主義建設の方法の効果とその限界は、ソ連や中国の歴史においてより明瞭に示されている。国民経済の基盤建設、工業建設を進めるという課題においては飛躍的な前進をもたらすこともできるが、いったんその課題を達成して経済の効率的運営、産業構造の高度化が求められる時代に入ると、次第に限界を示し始めるのである。そしてその限界は日を追って深刻さの度合いを増していく。ソ連や中国がたどった、強権と集権による経済建設とその限界の露呈、経済の「自由化」という過程は、この二つの国に経済的に大きく依存してきた北朝鮮においても、その後ろだけを失ったことによる経済ダメージを伴いつつ、独特の仕方で現れることが避けられなかった。こうした危機の中、北朝鮮の支配階級は、体制崩壊を試みる外部からの圧力に抗するため、また国内における権威と権力を強めるため、さらには外部から経済援助を引き出すための取引材料としても、核武装化の促進に手を染めることを選んだ。
これに対して米国は、北朝鮮の核武装化それ自体への拒絶反応もあるが、それ以上に北朝鮮の核開発や武装化が核の世界的拡散へとつながっていくことを恐れて、激しく反発している。世界の中での米国の圧倒的な地位の維持は、経済的な力がしだいに衰えいくにつれてますます軍事力に依存を強めている。米国の国際的地位を支える最も強力な力の源泉は、その圧倒的な核軍事力である。そしてその核の力は、現在の5大国による核独占の体制を前提にしており、この体制がこれ以上揺るがせにされることは米国にとっては受け入れ難い事態である。北朝鮮の核武装化は、他の反米国家や反米勢力への核の流出のみならず、将来の統一朝鮮の核武装、日本の核武装、中国やロシアの核軍事力のいっそうの強化へとつながっていく可能性も決して否定できないのである。米国が北朝鮮の核武装化に激しい拒絶反応を示すゆえんである。
■アメリカの戦争政策反対! 北朝鮮民衆のキム・ジョンイル独裁体制からの自立を!
北朝鮮を取り巻く米・日・中・露・韓の5カ国は、それぞれの思惑、様々な利害を背景に、あるいは北朝鮮の崩壊も辞さずと強い圧力をかけ、あるいは改革・開放・市場経済化への誘導を図ろうとしている。われわれ労働者の目線は、こうした諸国家の支配階級の思惑とは一線を画しつつ、何よりも北朝鮮の労働者・民衆に注がれなければならない。北朝鮮に拉致された諸外国の被害者の運命も、結局は北朝鮮の民衆の境遇と一体のものだ。我々がなすべきことは、北朝鮮の民衆があの国の独裁者と支配階級の専横と抑圧から自由になるため、支配の呪縛からの自立を勝ち取るため、それに有利な条件を押し広げることを目指してあらゆる方向から支援を行っていくことでなければならない。
米国による軍事力の発動は、そうした努力を台無しにしてしまう最悪の道である。北朝鮮の体制の打倒と変革は、何よりも北朝鮮の民衆自身の手で実現されなければならない。そのための支援を、労働者の立場からねばり強く押し進めていこう。 (阿部治正)
堤前会長逮捕が意味するもの
直接の逮捕理由
三月三日、自殺者を出すほどの捜査の進展により、東京地検特捜部は、西武鉄道の有価証券報告書に虚偽を記載し提出した上、インサイダー取引をしたとの証券取引法違反容疑で、グループ中核企業コクドの前会長堤義明容疑者を逮捕し、同鉄道やコクドなどグループ企業や堤氏自宅を家宅捜索した。
西部グループは、総資産一兆八千億円、傘下企業百三十五社などを抱え、百六十カ所以上のホテル、ゴルフ場などを持つ大企業グループで、その企業体質の封建制と不透明体質は際だっていた。
堤氏は、父親の康次郎元衆院議長から引き継いだ株偽装などの手法や政界人脈をもとにグループ全体を「絶対君主」として支配していた。今回の逮捕は「西武王国」そのものを直撃するものであり、堤氏が大筋で容疑を認めたと伝えられていることから今後、組織的不正の解明や政界との関係などの解明が焦点となる。
調べによると、堤容疑者は前西武鉄道社長らと共謀して、昨年六月二九日、同年三月期の同報告書に、実際には六四・八三%だったコクドの株保有比率を四三・一六%と偽って記載し、関東財務局に提出し、さらに、同五月二五日ごろ、前コクド専務から虚偽記載を続けてきたとの「重要事実」の報告を受けて、コクドの保有株数を減らすため、公表前の同九月九日から二八日の間、同鉄道の約千八百万株を九社に約二百十六億円で売却した。
またコクドは遅くとも一九五七年以降、個人名義に偽装して、西武鉄道株を保有しており、大株主の保有割合が上場廃止基準に抵触する実態を隠していた。
堤容疑者は昨年五月、前専務からコクド保有株の売却を相談された際に、「まだ売らなくていい」と指示した。その後、グループ幹部らに売却を指示し、自らも取引先に購入を持ち掛けていた。
ここで用語を説明しておけば、インサイダー取引とは、上場廃止の原因となる事実など上場企業に関する「重要事実」を知った会社関係者などが、その事実の公表前に当該企業の株を取引する行為である。利益の有無にかかわらず、証券取引法で禁止されており、違反した場合は三年以下の懲役または三百万円以下の罰金。証券取引所を通さない相対取引の場合でも、一方が知らない場合は該当する。さらに有価証券報告書の虚偽記載とは、上場企業などは事業年度ごとに、経理状況などの重要事項を記載した有価証券報告書を国に提出する必要があるが、財務諸表は公認会計士による監査証明を受けなければならず、虚偽記載のある報告書を提出した場合、個人は五年以下の懲役または五百万円以下の罰金となる。法人に対する両罰規定もあり、五億円以下の罰金と規定している。
逮捕の意味するもの
世界の大金持ちのランクは名前を連ねたこともある堤前会長の今回の逮捕劇は、何を意味するのであろうか。私たちにとっては、当然極悪人の堤氏ではあっても、このことの政治的評価を甘くするわけにはいかない。東京地検特捜部の快挙とばかりは言えない側面にも十分注目していなければならないからである。
端的に言えば、この逮捕劇は、古い日本企業社会の体質が、世界基準からはどうしょうもないほど恥ずかしい内実であるかを実態として暴露すると共にダイエーの中内氏が私財の没収を強制されているように、外資のすさまじいまでの攻勢を象徴しているのである。
ダイエー生え抜きの忠臣である高木社長の必死の踏ん張りを粉砕し尽くしダイエーの解体に手を貸した竹中大臣やオリックスの宮内氏は、次なる目標として株式市場に目を付け、株式投資の透明性を確保するとの美辞麗句を以て、数十年の長きに亘り黙認され続け、小説にもその異常さが取り上げられてきた「西部王国」を狙い撃ちにしたものである。
大きくいえば、欧米と異なった企業統治のあり方、その最悪の例が西部グループで、欧米の日本企業買収のリスクを高なっていることに対する強制的な是正行動なのである。
ここで特記しておかなければならないことは、堤氏は、何といっても旧田中派とは深い関係があることであり、西部グループの当主でかつ七十歳の高齢でもあった。今までの社会常識からすれば、ここは執行猶予がついての幕切れとはなったところだ。武富士の武井前会長の例を見よ。それなのにこの衝撃の逮捕劇だったのである。
小堤よろしく「絶対君主」型財界人に対する心理効果は抜群のものがあったであろう。今攻撃されてボロボロになっている橋本派とも関係が深い堤氏の逮捕は、橋本派の一層の落日を象徴したものでもあり、日本の政財界が変わりかけている現状をも的確に象徴しているのである。
こうして西部王国も、ダイエーと同じく落日の日を迎えてしまった。堤康次郎がその豪腕によるリゾート地開発や詐欺師まがいの手口によるプリンスホテルの建設による全国展開等で築き上げた一大財産が、ダイエーと同じように、外資によって食い散らかされていることを、今後私たちは生々しく目撃することになるであろう。(猪瀬一馬) 案内へ戻る
教育基本法をかえる? なんでだろう〜Q&A
Q10 教育基本法では、国は教育の中身に口出ししてはいけないときめているそうだけど、それはどうなるの?
戦前の教育は国が教育の中身を全部思い通りに決めていました。そのため、間違った戦争でもみんなそれは正しいものと思わされて積極的に協力してしまったのです。それが戦争の悲劇を生みました。そこで教育基本法では、国が教育の中身にまで口出ししてはいけないと決めたのです。
けれども政府はいままでも、教科書の内容を文部省のいう通りに変えさせたり、「君が代」「日の丸」を強制するなど、教育の中身にまで枠をはめてきました。それをもっとすすめるには、教育基本法がじゃまになってきたのです。
答申は最高裁判判決をひきあいにだして、国は教育内容に口出ししてもいいように教育基本法を変えると言っています。しかし、最高裁判決も教育内容に国が口出しするのは、できるだけ抑制的でなければならないとのべているのです。教育基本法を「改正」して、愛国心教育など教育の中身について、いままで以上に押しつけを強めるのは、どうしてもふせがなければなりません。(子どもと教科書全国ネット21.発行パンフより)
お国のためなら・・と、戦争に加担することを疑わなかった時代。今では、あらゆる情報が個人にも得られる、そんな時代になりました。しかし、イラク情勢に見られるように、アメリカの都合の悪い情報は正確には伝えられていません。肝心なことは、その情報を的確に判断しどう行動するかです。教育基本法の改悪は、政府が私たちの判断力・行動力を試している、それ以上に国民を蔑んでいるとしか思えません。愛国心教育などいらない!きっぱりと言ってやりましょう。(恵)
通信・物流労働者は連携を! 5
――新しい“共同事業体”をめざして――
前回は郵政民営化推進派によるイコールフィッティング=競争条件の同一化の主張に対して、労働者は労働条件のイコールフィッティングを追求する立場に立つべき事を考えてきた。それは民営化に対抗する論拠として掲げられるユニバーサルサービス論が、結局は企業間競争における官業擁護の側面を持たざるを得ず、結果的に“郵政一家”の一翼に取り込まれ、官民労働者が企業間競争から自立した団結の力で要求を実現する方向性にそぐわないからだ。
今回はそうした官業が一面で持っていた“公共性”の問題と将来展望について考えてみたい。
■新しい“公共性”
民営化をめぐる対立は、推進派による民業の効率化や金融システムの正常化論、反対派による利用者の利便性の確保、郵政事業の“公共性”を守れ、という大義名分をめぐって争われている。残念ながら現状ではそうした大義名分の次元での二者択一の選択は、他面では利潤原理か上意下達の官業原理の選択かという“負の選択”悪魔の選択≠強いられることを意味する。
郵政労働者は、自分たちの雇用や権利や労働条件を守るという、当然の要求を貫くために、民営化反対という“郵政一家”の枠組みから自立して今後の展望を切り開いていこうとすれば、こうした負の二者択一を拒否し、現状を土台から造り替えることによって新しい展望を切り開いていく以外にない。近年、「企業の失敗」「政府の失敗」ということが語られてきたが、いまこそ“新しい公共性”について考え、それを追求していくことが求められているのではないだろうか。
結論を急ぐと、郵政事業を国家・官僚によるものでもない、営利企業でもない、新しい“公共性”、真の“公共性”の立場を確立することから始めたい。それは国家=公という外皮を取り払った本来の意味での公的事業として郵政事業を作り直していくことでもある。具体的にはそこで働いている労働者自身が所有して管理する通信・物流共同事業体≠ヨの改変だ。
いうまでもなく、国家・行政による“公共性”≠ヘ本来の“公共性”とは全く違うものだ。“公共性”と言えば郵貯・簡保・郵便よりも電気・ガス・水道など、人々の生活のライフラインと言われるもののほうが、より生活に密着した“公共性”が高いともいえる。それらの内、電気やガスはそれぞれ事業法による規制があるとしても民間会社が担っている。いま騒がれているニッポン放送やフジテレビをめぐるマネーゲームでも「公共の電波」云々といわれているが、それらは民間会社がやっているのだ。いわば官業でも民業でも人々の生活を支えている限り、それは一面では利潤原理や官僚支配が貫徹したものであると同時に、他面では“公共性”を帯びたものになる。その一面だけを強調して“公共性”を云々しても始まらない。
本来の“公共性”とは当事者自身による“共同利益”集団利益≠フことだ。ところが国家と国民の間では“共同利益”集団利益≠ヘない。あるのは支配と服従、保護と依存関係である。国家・行政による“公共性”は利用者や労働者を所有や経営から排除した、逆立ちした“公共性”、まがいものの“公共性”でしかない。
これまでは“公共性”は国家が独占してきた。明治以降の公的事業の推移を見ても、当初は民間人による各種基金や慈善事業など、公益目的の自治的な組織や取り組みは存在してきた。しかし明治以降の政府はそれらの公益事業を政府内の事業にしたり政府が関与する事業に吸収するなどして国家に取り込んできた。それは“公共性”の国家独占の思想に由来するもので、特に日本ではそうだった。
だから個々の利用者は郵政事業の計画策定や実際の運営から全く排除されているし、必然的に国家の独占物を動かす官僚や郵政族など特定の勢力による特権や利権の発生がさけられないわけだ。共同事業体というのは、これを官僚や郵政族の特権を排除して、実際に働いている労働者の共同事業として立てなおすことである。
郵政事業が“公共性”を持っているといっても、現実を見れば郵政一家の元締めである当の郵政省―郵政公社自身が、実際のところは公共サービスを切り縮めてきた張本人なのだ。過疎地の郵便局はこれまでも統廃合で減らされてきた。庶民の貯蓄手段として優遇されてきた定額貯金の利率も引き下げられ、郵便でも均一サービスと言いながら大口利用者への割引サービスは拡大され続けている。いまでは“公共性”=国家というのは実態としても揺らいでいるのだ。いまでは各種のNPOなどによる“新しい“公共性””に基づく事業も模索されている。“公共性”は国家の独占ではなくなりつつあるわけだ。
こうした選択肢は何も郵政など公社経営に限らず、民間産業も含めた普遍的な課題だ。いわば社会全体の“アソシエーション革命”に通じる道でもある。“アソシエーション革命”についてはここで詳しく触れることは出来ないが、郵政事業の民営化や公社化をめぐる問題についても、こうした働く人々自身の共同事業体づくり道を追求するスタンスを出発点としたい。
■労働者どうしの連携を
労働組合が民営化や外注化などの合理化に反対する場合、時として利用者・市民との連携が言われ、実際に部分的に連携も拡がるケースもある。郵政でもかつては郵便料金引き上げ反対などを利用者・市民を見方に引きつける目的で主張されてきた。郵便局の統廃合などでも、地域の利用者の支持を集めてもきた。こうした発想や手法は郵政に限ったことではなく、米自由化問題や清掃事業の民営化、あるいは行政そのものの下請け化などに際してたびたび語られてきた。
確かに利用者や市民の理解や支持は重要な要素だ。しかし戦略的なスタンスとしては労働者はそうした支援に軸足を置くことは出来ない。確かに“公共性”の維持は庶民の生活に欠かせないし、利用者・市民と共通利害も存在する。しかしこの公共制論に依拠した利用者・市民の支持だけでは自分たち労働者の力を強くすることにつながらないし、政策を左右する現実の力にならない。利用者・市民は結局は賛成反対の両者を含んでいるからだ。
労働者の雇用や労働条件を維持改善する闘いの戦略構想は、それを共通利益とする労働者の主体づくりと結びついてこそ現実の力になる。その主体形成とは、共通利益の土台の上で運動を拡げていけるような方向性を持ったものでなければならない。それが前回考えてきた通信・物流労働者の連帯であり共同闘争だ。そうした共通利益に基づく主体的な闘いづくりという土台があって初めて、利用者・市民の支持も現実味を帯びる。
こうした視点がないユニバーサルサービス論に立った民営化反対論では、郵政族の反対論と明確な区別は見えなくなり、単なる政策論になってしまう。政策論に止まってると、結局は政府の動向と国民世論の動向に左右されてしまうだろう。実際、現状では世論調査でも郵政民営化は優先順位は低いものの、民営化自体についてはむしろ賛成のほうが多い。ユニバーサルサービス論で国民の多くの世論を引きつけられればよいが、現状では難しい。
それに現状では郵政労働者と利用者としての市民の利害が一致するものばかりではない。過疎地などでは郵便局の設置やサービスの維持などと労働者の雇用など、利害が一致するものもある。しかし、利用者としての市民は郵便の料金は安い方がいいし、また配達時間が拡大されればその分だけ便利になる。これは労働者にとって労働条件の悪化につながる要素だ。結局、郵政労働者と利用者としての市民の関係はここでも二面的なものだ。私たちはそうした関係のもろさを自覚する必要がある。雇用などで何の保証もない地方の零細企業の労働者など、郵政労働者の民営化反対論が自分たちの雇用を維持するための方便だと見透し、冷めた目で見ている労働者も多い。だから労働者としても共通利益を追求することを基本にした連帯を拡大することに努力すべきだし、そうした連帯が生まれれば、労働者と利用者として相対した場面でも相互理解は拡大する。利用者・市民の大多数は同じ労働者なのだから。
■“三位一体”の戦略作りを
働く人々自身による共同事業として郵政事業を造り替えるという課題を考えたとき、どうしても現状の企業間競争の現状を考えないわけにはいかない。すでに事実として郵政事業は民間企業と競合下にあるからだ。そうした現状を考えれば、課題を「郵政事業改革」として設定すること自体、空理空論のそしりを免れないだろう。それは郵政改革ではなく、通信・物流事業改革として考えていくべきだと思う。
郵便事業を取り上げれば、いまでは通信・物流事業としてのネットワークは郵政公社だけではなく、ヤマトやペリカンなど、いくつかの物流ネットワークとして存在している。それらの物流ネットワークの再編・統合を展望すること抜きには、労働者自身による通信・物流共同事業体は不可能だ。それらを再編・統合すること、そしてそうした事業体を労働者の自主管理で運営すること、こうした方向で考えていく必要がある。
官業の非効率が言われる場合、多くはそれに対して競争原理による効率化が対置されてきた。しかし郵便事業や宅配業のようなネットワーク産業は、必ずしも競争システムが効率がよいとはいえない。たとえば地方や過疎地。まばらな企業や民家の間を何社もの集配車が走り回るのはそれだけ考えても非効率だ。都市部でも基本的には同じだろう。ネットワークは一つあればよい。競争システムがないと労働者は働かないしコストが高くつく、と言うのは嘘だ。効率よく働けば休みが増え、あるいは労働時間が短くなるとなれば、労働者は効率よく働く。効率化が直接的には資本に利潤を、官僚には利権をもたらし、労働者には労働強化と労働時間の延長しかもたらさないから、労働者は効率的に働らく意欲が削がれるのだ。重複はむしろ高コスト要因でしかない。
だから郵便と宅配は競争ではなく、統合こそめざすべきだろう。統合して一つのネットワーク産業を作れば、余分な施設や労力は省けるし、それを料金引き下げと労働時間短縮に振り向けることができる。競争システムではなく、連帯システムこそ追求すべきだろう。
実際問題として、こういう展望を持つことが出来れば、官民労働者の連帯や共同闘争も現実味を帯びてくる。現状はと言えば、JPU(日本郵政公社労働組合)などが掲げる民営化反対論は、民間労働者から見れば自分たちの雇用や労働条件を守る手段として公共制論を持ち出すこと、いわば公務員という特権の上に安住していると写らざるをえない。これでは宅配労働者は郵政の労働者と共闘しようなどという気運が盛り上がるはずもない。
こうした意味でも、郵政労働者は当面の雇用や労働条件を守るためにだけでなく、将来的なネットワーク共同事業を展望した闘いを推し進めるためにも、宅配労働者との連携は不可欠なのである。そうした連携を作り上げるためにも、民間労働者と同じ位置に立つこと、共通項を拡大していくことを最優先すべきだ。民営化反対を大上段に振りかざせば振りかざす程、こうした目的は遠ざかっていかざるを得ない。
重要なのは、労働者による自律的な“公共性”の確立と協同組合原理による通信・物流ネットワークづくりを追求すること、そのための通信・物流労働者の連帯と統一闘争づくりにある。そういう事態になれば、これはもはや郵政改革などではなくひとつの革命だろう。最初に郵政改革だという言い方をしたが、実際には通信・物流事業の改革として考える必要がある。それを実現するためには郵政労働者も宅配労働者も含めた通信・物流労働者が団結して、資本の論理、官僚・国家の論理に対抗する自分たちの新しい公共事業体の確立をめざしていかなければ何事も始まらない。こうした戦略的な課題は、それを実現するための主体形成とセットで追求すべきものだろう。それで初めて社会変革の展望につなげることができる。戦略とは主体形成を内部に含むものだからだ。
■雇用破壊と闘う共同戦線作りを!
郵政民営化をめぐる与野党を巻き込んだ攻防戦は大詰めを迎えている。この間の攻防で反対派の防衛ラインがはっきりしてきた。本音が表に現れてきたわけだ。それは小泉首相に民営化という名を譲るかわりに、郵政族はなんとか自分たちの既得権を維持するという構図だ。具体的には郵政族にとっては自民党の支持基盤であり集票機関となってきた特定郵便局長の国家公務員という特権を実質的に維持すること、その特権を基盤にした利権構造と集票構造を温存しようということだ。
こうした攻防戦のさなかにあっても郵政公社は人員削減などの合理化をより急速に進めようとしている。公社発足時に28万1千人いた職員は現時点で26万2千人、それを2年後の民営時までにさらに1万人削減する計画が出てきた。公社時代の4年間でじつに3万人の削減で当初の計画の1・8倍、郵政省時代からすれば5万人以上の削減だ。推進派と反対派の攻防戦のどさくさの中で、労働者の雇用は確実に奪われつつある。
経営形態をめぐる攻防戦に巻き込まれることなく、労働者は自分たちの雇用破壊と雇用構造の不安定化を阻止する、労働者による共同戦線作りを急がねばならない。企業間競争を克服する新しいスタンスでの闘いづくりを、他産業に先駆けて通信・物流労働者の共同作業としてつくり出していきたい。(廣)
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演劇紹介
ミュージカル「レ・ミゼラブル」
ビクトリ・ユーゴーの長編が現代によみがえる
感激した舞台
僕がこのミュージカルを初めて鑑賞したのは、数年前に格安パックでニューヨークに旅行をしたときだった。パックのオプションでミュージカル鑑賞が付いていて、確か三千円程の加算料金で「レミゼラブル」や「キャッツ」等の中から選ぶことができた。当然、アメリカ英語の歌詞とセリフだったので、良くは聞き取れなかったものの、ストーリーそのものは、良く知っていたから、流れは理解できたし、本当に感動したのを覚えている。帰国してからも、一週間くらいは舞台の余韻に取り付かれてしまい、仕事中も耳の奥に歌がわいてくるほどだった。上演の際にダイジェスト版のテープを買ったので、仕事から帰ってはテープを聞きながら片づけ物をしたりした。
もう一度見たいなあと思っていたところへ、昨年の冬、福岡で日本の劇団によって一ヶ月公演される機会があったので、再び見に行った。ミュージカルや歌劇は、どうしても日本人の体型から、声量等の点で欧米人のものには負けてしまうと思っていたので、正直のところ、期待は半分位だったが、鑑賞して見ると、決して見劣りしない、すばらしい上演だった。
世界中で上演
ビクトリ・ユーゴーの長編小説「レミゼラブル」は、クロード・シェーンベルグ等の作曲によりミュージカルとなって、初めてパリで上演されたのが1980年。当初は今のものより「硬派」だったそうだが、1985年に英国のプロデューサー、キャメロン・マッキントッシュによって作り変えられ、ロンドン・ミュージカルとして公演し、1987年にはニューヨークのブロードウェイでも上演された。以来、東京、テルアビブ(イスラエル)、ブダペスト(ハンガリー)、シドニー(オーストラリア)、レイキャビク(アイスランド)と、またたく間に世界中に広まり、これまでに28カ国で上演されているという。特に、ロンドン、ニューヨーク、東京では、ずっとロングランを続けていて、日本での上演回数も千五百回を軽く超えているそうだ。ちなみに、今年は3月の中旬から5月の上旬まで、東京の帝国劇場で公演が予定されている。
一切れのパンを盗んで
レミゼラブルと言えば、ユーゴーの原作小説そのものを読んだことが無くても、子供のころから「ああ無情」とか「銀の蝋燭台」「ジャン・バルジャン」等の題名で、少年少女雑誌にマンガやダイジェスト版の小説として、繰り返し取り上げられてきたから、そのストーリーを知らないひとは少ないかもしれない。
主人公のジャン・バルジャンは、子供の時、たった一切れのパンを盗んだ罪で、十数年も牢獄に繋がれ、奴隷のような囚人労働の日々を送った。ミュージカルは、その牢獄の場面から幕を開ける。ようやく仮出獄を許されるが、刑事シャベールは、つねにおまえを監視しているぞ、と告げる。世間に出たジャン・バルジャンが仕事もなく、町から町へと路頭に迷っているのを、教会の神父が見つけ、一泊の宿を提供するが、こともあろうに彼は、夜中に銀の燭台を盗んで逃げてしまう。翌日、町で警官に捕らえられ、教会に突き出されるが、神父は彼をかばって「その燭台は、旅人であるこの人に差し上げたものだ。遠慮深いこの人は、私がもうひとつの燭台も持っていくように言ったのに置いていった。さあ、これも持っていきなさい。」と彼に持たせた。神父の慈悲深さに驚き慄いたジャン・バルジャンは、人間として正しい生き方をしようと心に誓い、やがて名前を変えて、ある町の市長になり、市民から慕われるようになる。ところが、シャベール刑事が現われ、その市長の正体は、仮出獄中のジャン・バルジャンではないかと疑い、ジャン・バルジャンとシャベール刑事の追跡、逃亡のスリルにとんだストーリーが始まる。
あまりに有名な物語なので、これ以上紹介するのはやめておこう。長編小説がもとになっているが、約3時間の舞台は、重要な場面をきちんと捉えて進んでいく。故郷に娘を残して工場で働き続け、病気に倒れた女工のフォンテーヌが、死の床で娘を想い、ジャン・バルジャンに、親代わりになってくれるよう頼む場面。田舎の宿屋で、こき使われ孤独な生活を送る娘のコゼットが、掃除の手を休め、友達のたくさんいる国、お母さんに会える国に行きたいと、切々と歌うシーン(子役の澄んだ歌声に思わず涙!)、王政に反対し市民革命に立ち上がる学生達、革命に敗北し、仲間のほとんどを失ってしまった青年マリウスが、挫折と悲嘆の中で、死んだ仲間を回想するシーン。ジャン・バルジャンを追いながら、彼の真実の生き方に直面し、間違っているのは自分ではないかと自問自答するシャベール刑事が、ついに橋の上から、川に飛び込むシーン(この場面はド迫力もの。舞台装置で橋の欄干が急上昇し本当に飛び込んでいるみたい!)。すごい場面が、次から次へと展開してゆく。
労働者の出生の秘密
上演が終わった時、観客は深い感動にとらわれて、総立ちになって拍手する(スタンディング・オベーションと言うそうだ)。それほどの感動を与えるのは何故か。それは、ビクトリ・ユーゴーのこの物語が、200年も前のフランスを舞台にしているにもかかわらず、決して過去のことではなく、私達自身、つまり「労働者」というものが、どこから生まれたのか、その誕生の歴史を語ってくれているからではないだろうか?浮浪児としてさ迷い、牢獄に繋がれ、警察に監視され、女工としてこき使われ、売春婦にさせられ、病に倒れ、武器をとって革命に立ち上がり、弾圧され殺され、・、・、そう、こんなふうにして、「労働者」という階層が生まれ、社会に広がっていったのだ。
今は「サラリーマン」として、「勤労者社会の主人公」、「福祉国家の納税者」である私たちも、そのルーツをたどれば、ジャン・バルジャンやコゼットやフォンテーヌやマリウスだったのだ。戦後の経済的繁栄を謳歌した時代が過ぎ、サッチャー旋風が吹き荒れる80年代のヨーロッパの社会状況が、レミゼラブルを現代に蘇らせたのだと思う。そして、90年代以降の日本も同じような状況になりつつある。リストラ、借金苦による自殺者の増加、家庭崩壊、児童虐待、・、・。
チケットは6千円から9千円程度と、あまり安くありませんが、それでも一度、見に行かれることをお勧めします。日頃、テレビドラマ等でお目にかかる俳優さん達が、別人のように(失礼かな?)熱唱・熱演しているのを見るのは新鮮です。すごく厳しいレッスンを積んだんだなと感心してしまいます。それだけ、俳優達にとっても、自分の何かを賭けて、舞台に臨ませる要素が、このレ・ミゼラブルにはあるのでしょう。東京でなくても、注意していれば、名古屋、大阪、福岡等でも時々公演しているようです。また、ダイジェスト版のCDやDVDもあるので、CDショップで探すのも手でしょう。(松本誠也)
オンブズな日々・その23 互助会という堕落!
大阪市に端を発した「職員厚遇」の摘発は他都市へと飛び火し、さらに全国へ波及する気配をみせています。大阪市は新年度予算で約166億円を削減するとしていますが、このうち、4万人余の職員の大多数を組織している市労連と合意に達したのは、3月9日時点で約112億円です。
260万都市とあって、半端じゃない金額です。一方で大阪市は赤字三セクを4社も5社も抱えており、あの大阪ドームも市が100億〜200億円で買い取らなければならなくなっています。職員への大判振る舞いを止めて節約しても、幹部の天下り先確保と企業への利益供与のためのもっと大きな大判振る舞いを止めない限り、2兆8千億円もある市債残高を減らすことはできません。
大阪市と議会、労組は「中之島一家」と言われるほど一体化しており、大島、西尾、磯村、関と助役出身の市長が続いています。この歴代市長を市労連が後援≠オ、その見返りとして職員厚遇≠ェあったのです。市長の懐が痛むわけではないので、抑制も効かなかったのです。それぞれの項目、一着3万円を超えるイージーオーダースーツの支給、団体生命共済掛け金負担、ヤミ年金・退職金等々、さらにカラ超勤さえ労使で合意されてきたものというほかありません。
市議会では共産党会派のみが野党ですが、自治労連系の市役所労組は組合差別による不利益取り扱いの下で1%以下の組織率になっています。また、保険会社にとっては団体生命共済はおいしい顧客で、そこに利権が入り込んでいるということもいわれています。それはスーツなどでもあり得ることでしょう。
さて、マスコミによるこうした「職員厚遇」摘発の加熱報道に対して、「大阪市労連への不当な攻撃をゆるすな!」という主張があります。その内容は、かつて国鉄分割民営化を導いた「ヤミ・カラ」攻撃と同じ組合潰しだというものです。確かに、そういう面が全くないとはいえませんが、その背景にある市民の怒りを読み誤るなら、必然的に労働者(組合に組織された市民)と市民(組合に組織されていない労働者)は敵対関係に入るでしょう。
2月17日の毎日新聞は丸々2面を使って「大阪市職員厚遇問題」を特集し、次のような指摘をしています。「大阪市は元々、国の平均給与額を100としたラスパイレス指数が高く、記録が残っている分で見ても1974年には120・9もあった。04年は101・9まで落としてきたが、下がった部分は人事委員会勧告とは関係のない手当てに置き換え、実質の給与はほとんど下がっていない」
総評が華やかなりし頃、糞のついた1000円札も1000円だと言った人物がいましたが、労働者は訳のわからない金、筋の通らない金は拒否し、裏口からではない正面からの賃上げを勝ち取るべきだったのです。大阪市職員は今、そのツケを払わされようとしているのではないでしょうか。比較的に高い賃金、恵まれた労働条件を独り占めするのではなく、他の民間の労働現場へと波及させるために努力すべきだったのです。
この問題の飛び火を誰よりも恐れているのは、自治労の幹部ではないでしょうか。そして全国の首長は、飛び火してくれたら一挙に労働条件の改悪が可能なのにという期待と、この問題で自分が追及の矢面に立たされるのではないかという不安で、複雑な心境ではないでしょうか。そんななかの2月28日、西宮市職員自治振興会(互助会、理事長・進木伸次郎収入役、会員3600人)が20年で約8億7千万円の補助金を流用していたことを西宮市が公表しました。
これは市職員への福利厚生の費用として職員の掛け金と同額を市が負担した上に事務費等を補助しているものですが、その事務費までも給付に注ぎ込み流用していたのです。山田知市長は「目的外の流用とは考えていないが、不透明で適切さを欠いた事務処理。市民の理解が得られるよう運営する」(3月1日付「毎日新聞」)としつつ、振興会に返還を求める考えはないと太っ腹です。
自ら告白したまではよかったものの、新年度から流用は止めるからこれまでのことは水に流す、給付等の見直しを内部で行うという対処では市民は納得しません。過去の流用分の全額返還は市民として譲れない線であり、住民監査請求の準備を始めています。今後、一方の当事者である西宮市職労がどう対処するのか注目されますが、被害者意識を増幅させたり自己防衛に走ることなく、真に自立した労働運動へのきっかけとして生かすことを期待したいものです。 (晴)
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堀江社長の発言に思う
堀江社長の主張は大体次のように要約できよう。情報社会において、情報はみんなのもの、(ITによる)さらにスピードが要求され、ビジネスとしてみんなが活用すべきだとする。大衆的なレジャー産業、野球にのり出し、つぎは報道の世界へ。
情報は独占されてはならいというのは、ごもっともだけれど、どのような情報を発信し、どのような情報を受け手が望むか、その時主体が問題となろう。貿易とか救急関係の世界ではスピードを要求されようが、私は年よりのせいかメカにも弱く、余りスピードを求めない。自分の骨は自分でと、一遍上人ではないが、わが屍は野に捨てよ≠ニ鳥獣の腹を満たすに足ればよく、とする考えに共鳴する方だ。
(こんなことを言うと葬式をしてくれる職業の方から苦情が出そうだが)献体もしているが生存中は肉体の飢えはまっぴらごめん、というよりそれを課する者は犯罪者であると思うヤカラ≠ナあるから、世界の安楽死の現状を紙上で伝えてくれた毎日新聞に感謝している。
しかし、よる年なみ、体には確かに定年というものがあり、情報に満足できず肉眼によって≠ニいう思いが強く旅中毒であったが、それにも関わらず耳学問とか、映像による伝達、TVとか映画の中毒に移行しつつある。(というのも目が薄くなり、耳は聞こえるが、ほんの趣味は今後ムリと悟った故、私自身の生涯のテーマには研究書に目を使うけれど)
堀江社長に代表される世代は、今さら主体≠問うなど無礼であろう。とっくにそんなこと分かった上での挑戦だ。バカにするな≠ニいわれそうな気がする。私も買いたい株は、大阪に草野球のチームを作りたいという夢をもつこの雑居世帯の都市、大阪を愛したいがために、みんなの野球団を育てたいがために、私は青木自動車社長の投げかけた大阪の野球チームを作るための株なら(なんしょ最低1万円らしい)株主になりたい。儲かると儲かるまいと。
大阪にみんなの劇場を! というので500円の株主に2度なり、知り合いにも株主になってもらったけど、余りパッとしない。旅中毒からも脱けださざるを得ず、近くの新世界の奥のフェスティバルゲート7Fで、世界中の問題作をやってくれる映画館がある。
省略
私自身この建物は大阪市のもの、そこでの催しはすべて大阪市関係の人々と思っていたが、大阪市が大家さんで場所を提供しているだけで、みんなタナ子というわけ。これを第3セクターとかいうそうだ。私は映画好き−映画やTVに魅せられた種族で、シネフェスタに来客の観客は殆ど中年以上の方々、もっと入場者がいればいいのに、と経営上の存続が気になって仕様がない。
省略
年より故、また約束ごととか約束時間を守ることを最低のモラルと心得ている人種ゆえ、ゆったりとした時間(自分自身の)とちょっとした豊かさ(手作り豆腐を作って魯山人より美食家だと思いこみたく、さらに枝雀さんの落語に登場するご隠居さんの浄瑠璃さながら、はた迷惑なことに、親しい人々に配ってうまいだろう、うまいだろう≠ニ自慢したがる手合いである)を味わって悦に入りたいという社会的にはゴクツブシ。
願わくば、フェスティバルゲート7Fの映画館が大阪浪速の文化の担い手の一つであるように、また青木自動車社長提案の大阪野球チームの一万円の株主でありたい(生きている内に)と願う一人である。2005/3/4 宮森常子
横須賀への米原子力空母配備の葉山町での反対決議と逗子市での防衛施設庁の策動
三月四日の葉山町議会本会議(定数一八)において、横須賀市議会に続いて、「米海軍横須賀基地への原子力空母の配備に反対する決議」が、公明党、無所属なども含めて賛成多数で可決されました。この決議に反対したのは無所属の議員一名だけだといいます。
米海軍横須賀基地への原子力空母の配備をめぐっては、前号の読者からの手紙で触れたように、米海軍のクラーク作戦部長が、米上院軍事委員会で、横須賀基地を母港とする通常型空母キティホークの退役後その代わりとして原子力空母を配備する方針を示したことに対する抗議と怒りが高まっています。
今回の葉山町議会での決議も、横須賀市議会の動きに連動してのもので、「横須賀市及び市議会、市民は、横須賀基地への原子力空母の配備に反対する意思表示を行っている」と述べた上で、「横須賀市民の感情及び市民生活への不安は隣接する葉山町民にも共通のもの」として、「本議会は、横須賀基地への原子力空母の配備に反対する」と態度表明を行ったものです。
先日顔見知りの葉山町議員と路上で偶然会った折、事の子細を確かめたところ、横須賀市議会の反対決議を取り寄せ、葉山町での取り組みが開始されたということでした。
実際、原子力空母が配備されれば、原子炉事故が想像されるだけでなく、艦船の修理などに伴う放射能漏れ、放射性廃棄物による土壌・海水・大気の汚染などの危険は、増大することは明らかです。また逗子市では、これまた約束を反故にして池子米軍家族住宅地内に児童八百人規模の小学校を建設する計画が浮上しており、これに反対する長島逗子市長が市の施設を貸さないので、逗子市内の県立高校や横須賀市や横浜市の小学校と鎌倉市の公民館を利用し、環境影響評価案の説明会を開催して、建設に向けたアリバイ工作を着々と進めています。住民無視の防衛施設庁の横暴を糾弾しなければならない。(S)
色鉛筆・・・「介護日誌 4」
「介護度4」と判定された82歳の母の、在宅での介護がいよいよ始まった。2か月間の入院中の食欲不振と嘔吐により、25キログラムにまで痩せ細ってしまったベッドの中の母は、まるでそのまま「あの世の人」になってしまいそうなほどか弱く小さい。毎朝8時前に、大学生の甥や義弟に抱きかかえられ我が家のベッドに到着。じょく瘡予防のエアーマットに沈んでしまいそうな母の顔を何度ものぞいては、息をしているとほっと胸をなでおろす日々。
そんな日々の中、心強い味方は母も心待ちにしている週2回の訪問看護婦さんたちだ。健康状態をチェックした上で、入浴させて軽くリハビリ体操なども指導して下さる。時に導尿カテーテルの交換、浣腸や摘便(肛門に指を入れて便秘で出てこない便を掻きだす)などなどたった90分の間に、本当にてきぱきと全てをこなしてゆく。いつも穏やかで優しく、どんな時にも臨機応変に対応してくれるので、本当に頼もしく心から安心できる。 私が感謝の言葉をかけると「いえいえお母さんの場合は、協力的だから助かっていますよ。他のお宅では、入浴を嫌がる大柄なおじいさんで、やっとのことでお風呂に入ってもらったところが”熱い!”と言うので、ぬるくしたら今度はぬる過ぎて薪のお風呂でおおあわてしたり(笑)。入院病棟での勤務も経験しているけれど、在宅のお年寄りを訪問して学ぶことは多いですよ。」とにこやかな答えが返ってくる。
たまたま母が「介護度4」だったから、週2回の訪問看護を受けることができた。在宅介護の上でこれがどれだけ大きな支えになったか測り知れない。不安やわからないことことなど、何でも相談できるというのは本当に心強い。私には、「介護度1」だろうがそれより軽かろうが、どの家庭にもこうした機会は必要ではないかと思える。
やがて母は、病院で食物を受け付けられず吐いてばかりいたことがまるでうその様に、もりもり食べられる様になり、日に日に体力もついてきて座っていられる時間も長くなってきた。自分で寝返ることもできる様になり、エアーマットも不要になった。家庭での食事には、好きなもの、食べたいものを作ってもらい、それを温かいうちに食べられるというメリットがあり、調理時の匂いや音なども食欲をそそるのだろう。
そして朝夕の息子と娘の家の2軒の間の往復も、体力の向上や精神的な刺激となりプラスに作用した様で、抱きかかえられての移動から、後から全面的に支えてもらいながらも曲がりなりにも自分の足で歩くことができるまでになった。介護は精神的にも肉体的にも、格段に楽になっていった。とはいえゴールの見えないマラソンの様なもので、こんな介護の日々がいったいいつまで続くのか?と考えこむ日には、逃げ出したくなるというのが本音だ。(澄)
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