ワーカーズ(296.7合併号) 2005.1       案内へ戻る

 新たな〈格差社会〉〈階級社会〉
 企業と雇用形態の壁を越え、労働者の団結を創り出そう!


■新たな〈階級社会〉

 無権利で不安定・低処遇労働者の急増が止まらない。パートや派遣、契約、請負、有期などの雇用形態で働く労働者はこの10数年で倍増し、小泉政権の4年間だけでも非正規労働者は4人に一人から3人に一人に急増している。その大多数は本人の意に反して低処遇で不安定な地位におびえながら働くことを余儀なくされている。
 こうした中、多方面から「新しい階級社会」の到来が語られるようになった。
 かつての右肩上がりの経済の中で「一億総中流」と思えることが出来た時代はとうの昔の話。今では労働者のなかでも新たな階層構造が造られつつある。
 かつても大企業と中小零細企業、親会社と下請け会社、男性労働者と女性労働者などの差別構造はあった。今ではそうした差別構造の上に、新しい差別構造がつくられつつある。自分たちの身の回りを見れば、これまで日本の労働者の中核を占めた年功序列型の正社員が上下にバラけさせらている。一部の勝ち組であるエリート労働者、リストラの不安と長労働時間に追いまくられる正社員、それに様々な非正規労働者、という三層構造だ。
 総じて制度上は職能給だが実質的な年功給が温存された段階は過去のものになった。「結果平等」社会が切り崩され「機会平等」という差別構造がつくられた。さらに労働者の階層構造自体の固定化と歩調を合わせるかのように「機会平等」さえ形骸化しつつある。だから新たな〈階級社会〉だという。

■労働者の使い捨ては許さない

 非正規労働者の拡大は、いうまでもなく企業が必要なとき、必要なだけの労働者を、安くこき使う、という資本の論理がつくりだしたものだ。かつての終身雇用と年功賃金は若年労働者があふれていた時代には低コスト構造を保証した。その終身雇用と年功賃金が労働者の高齢化とともに高コスト要因となるとともに、無権利で低処遇、いつでも切り捨てられる非正規労働者に置き換えたのだ。もちろん不況下、低成長下でも企業が利益を上げるためだ。
 その非正規労働者の多くは年収一〇〇万円から三〇〇万円の生活を余儀なくされている。改訂労働者派遣法下で拡大・普及した人材派遣会社などは、かつて禁止されていた〈人入れ稼業〉〈ピンハネ稼業〉と同じではないか。また〈自殺者3万人時代〉は続き、リストラや長労働時間で労働者は体や精神を蝕まれている。こうした中で〈ニート〉と呼ばれる働く場と意欲を奪われた若者も急増している。総じて法的にも、労働組合にも保護されない膨大な労働者がつくられている。
 無法地帯と化した労働市場に対する労働者の規制力が問われている。使い捨て労働力の拡大を許してはならない。

■市場・競争万能主義から、労働者による協同と共生原理の旗を立てよう!

 中核社員と専門職と非正規労働者という労働者の三層構造化を狙った日経連の「新時代の『日本的経営』」は、グローバル経済化への財界や企業による一つの対応策だった。それは〈努力が報われる社会〉を標榜して労働者の中に競争原理を持ち込んだが、結局は米国流の新自由主義を背景としたコストダウンのための雇用合理化そのものだった。財界や企業が選択したのは、競争・市場万能主義の〈自転車操業〉そのものだった。
 トヨタのように企業は地球規模の競争に勝てば肥太る事ができる。現に企業利益は急速に回復している。が、労働者にはいつまでたっても生産果実の配分は廻ってこない。労働者への波及システムを遮断した新しい蓄積構造がつくられているからだ。そうした新しい搾取構造が、国内需要を狭め、さらなる輸出主導型経済システム化を進める。まさしく市場原理至上主義そのものが悪循環をつくり出している元凶なのだ。
 新たな階級社会とは富めるものと富まざるものへの分断だけではない。労働者総体の階層化を推し進めた。分断されればそれだけ労働者の力が削がれるのは理の当然だ。競争原理、利潤原理ではなく、労働者の協同、共生原理の旗を掲げて、闘う体制づくりを推し進める以外にない。

■分断を乗り越えて〈均等待遇〉を実現しよう!

 市場万能主義を背景とした労働者の新たな階層構造を打破するのは、あらゆる雇用形態の労働者の〈均等待遇〉の要求と闘いだ。〈同一労働=同一賃金原則〉の確立と実現をはじめ、あらゆる処遇の〈均等待遇〉の要求のもとにすべての労働者は結集して闘う以外にない。そこにこそ労働者の共通利益がある。
 そうした闘いは決して空理空論ではない。日経連の「新時代の『日本的経営』」や、〈新たな階級社会〉自体が、個別企業の壁を越えた労働者の団結や連帯の可能性と条件をつくり出しているからだ。労使運命共同体構造はすでに経営側からホゴにされ、派遣やフリーターなど、いまや個々の企業利益に縛り付けられない労働者も大量につくりだしている。
 私たちは個別企業の壁と雇用形態の壁を越えて団結することで〈均等待遇〉を勝ち取れるし、そうした闘いが現実味を帯びた場面に立っている。(廣)


コラムの窓−− 進化するロボットとの共存

 今日、ロボットの進歩は著しいものがある。
 ロボットとは、「人型の機械から、自律した動作をする道具などを広く指し」、近年ではSF用語から離れ、現実世界のコンピューター制御による機械群を指すようである。(付け加えるなら、日本のテクノロジー無しでは現在のロボット産業は成り立たないと言われるまでに日本のロボット技術は飛び抜けて優秀だし、産業ロボットの生産量は日本が世界一を誇るとのこと。)
愛知万博で、公開されている各イベントの中で、シベリアの永久凍土に眠っていたユカギルマンモスの貴重な資料の展示と同様に人気がある、トヨタのパートナーロボット(楽器演奏ロボット)によるバンド演奏や、DJロボットとMC(司会者)との楽しい掛け合い。さらには、搭乗歩行型ロボット=i-foot(アイフット)や三菱のwakamaruというロボットはパビリオンの案内をするなど、人間と共に生活することを目標に開発された家庭用ロボットで、高度な知能と人間的なバランスを兼ね備えていると言うし、本田技研の自立式二足歩行ロボットASIMOやソニーの小型踊るロボSDR−3X(試作機)の登場、塗装や清掃などの3K対策用ロボット等々。
 ロボットの進出・進化は、第一次・二次産業から第三次産業・サービス産業まで及び、物の生産、二足歩行、楽器の演奏、掃除、会場の案内役・監視・警備、等多種多様にわたり、ますます"人間社会"に深く浸透しつつある。
 近い将来には、人間に変わって危険な作業や重労働をこなし、障害者を助け、精神的に疲れた人間に音楽などで癒してくれる日が到来することは明らかだろう。
 しかし、リストラや合理化で労働者の首を切っている現代資本主義社会の本質は今も昔も変わってはいない。
 その創成期に、利潤追求の為に、工場の機械化で大量の失業者を産み、その反発としての機械打ち壊し運動が起こった時代があったが、そうした資本主義社会でのロボットの採用は、多種多様な産業での労働者の職を奪い、少数の富めるものと多数の貧しきものを産み貧富の差を増大するであろう事は想像できることである。
 今日本では、300〜400万人もいると言われるフリーターやニートと呼ばれる人、職場での比重が増しているパート労働者など、不安定雇用と低賃金化が進んでいるが、多種多様なロボットの採用はこうした人達の増加とその職をも奪いかねないのだ。
 アメリカではイラクに監視装置と機関銃を装備した戦闘ロボットを派遣することが取り上げられていたが、職を求めてストライキやデモをしても、その警備と抑圧に戦闘ロボットが相対するという時代がくるかもしれない。SFや漫画の話でない世の中が身近に迫っている。
 愛知万博で、自然環境の変化についていけずに絶滅したマンモスと人間の叡智で進化するロボットという取り合わせは何か引っ掛かるものがあるが、絶滅マンモスならぬ就職不安定・低賃金生活をしない為には、資本の飽くなき利潤追求の為に競争を強いる現代資本主義社会を廃絶するしかない。(光)       案内へ戻る


支配階級の排外主義に労働者の国際連帯を対置しよう!
資本との闘い強め、アソシエーション社会をめざし前進しよう!


●海外派兵、日の丸・君が代…きな臭い匂い再び

 この数年の間の日本の変貌ぶりには本当に驚かされる。
 アフガン戦争に自衛艦隊を派遣したかと思えば、その次にはイラク戦争に地上部隊を送った。さらには「使える核兵器」開発や核の「先制使用」を公言しつつ地球全体を自らの覇権の下に置こうとする米国との間で緊密な軍事協力を約束し、軍事的一体化の道を突き進もうとしている。
 保守政治家たちは、アジア諸国への侵略戦争や植民地支配を美化し、強制連行や従軍慰安婦制度や大量虐殺などの非道な戦争犯罪を覆い隠そうとする発言を繰り返す。学校では日の丸への敬礼や声量チェックを伴う君が代の斉唱が強制され、教育基本法の改悪が目指され、さらに自衛隊のよりおおっぴらな海外派兵や海外での武力行使を可能にするための憲法の改悪に向けた準備が着々と進められている。

●「国際貢献のため」「隣国の脅威があるから」のウソ

 資本や政府は言う。自衛隊を海外に派遣するのは「国際協力」「国際貢献」のためだと。日本が米国と緊密に協力しつつ軍備を強化しなければならないのは、北朝鮮のような「危険な隣人」がいるからだと。
 しかし、「国際貢献」が軍隊の海外派遣によって為されなければならない理由はどこにもない。むしろサマワに派遣された自衛隊は、同じ費用で見積もってNGOの数百分の一の給水活動しか行えず、そればかりかNGOの人々を危険にさらし、彼らが行ってきた人道支援活動への障害物となっている。
 また隣国に重大な脅威を与える存在となっているのは、日本とても同じだ。米国と緊密な軍事同盟を結び、軍事力の強化に務め、海外の戦場に自衛隊を派遣するなどの行為によって、日本は再びアジアの国々が恐れなければならない存在になりつつあるのだ。その事実を隠して、ひたすら「危険な隣人」の存在を言い募るのは、欺瞞以外の何ものでもない。むしろ各国の為政者が「隣国の脅威」を叫び合う行為こそ、本当の脅威と恐怖を招き寄せてしまう愚行であることを知る必要がある。
「国際貢献」や「隣国の脅威」の口実が通用しないとき、彼らは、これなら文句ないだろうという顔をして「日本の国益」を持ち出す。「語るに落ちる」とはこのことだ。これでは、石油資源のため、軍需資本のビジネスのため、ドル支配体制の維持のためと言って世界中に軍隊を配置し、多くの独裁政権を支え、貧富の格差の拡大を放置し、そしてその矛盾が吹き出すと戦争を仕掛けて批判者、挑戦者を打ちのめしてきた米国と同じではないか。自国の利益の確保こそ大事、そのためには軍事力による威嚇でも戦争でも何でもありというやり方こそが、米国が世界の貧しい人々から嫌悪の目で見られるようになり、9・11のテロを招き寄せた原因であることを、知る必要がある。

●平和への道は労働者・民衆の発言と行動から

 日本が平和に生きていくため、世界を平和に近づけていくためには、軍隊派遣などではなく民衆の自主的な取り組みによる国際貢献、侵略や植民地支配やその渦中で行われた数々の蛮行に対する本心からの謝罪や補償や責任者の処罰を通したアジアの民衆との友好の促進、そして資源争奪競争ではなくその共同管理・共同利用の試みこそが求められている。
 しかし、資本や保守政治家たちが進んでこの道を選ぶことはありえない。彼らにとって大事なことは、日本と世界の民衆の平和や繁栄ではなく、あくまでも彼らだけのための経済的利益、政治的支配力の強化であるからだ。彼らは、自分たちのエゴイスティックな権益拡大のため、軍事強国化とそれに無批判な国民の育成にひたすら突き進もうとしているのだ。
 彼らが進む軍事強国化、海外覇権の伸張と国民統制強化の道を押しとどめることができる最大の力は、私たち労働者・民衆の行動だ。労働者による草の根からの発言と行動を強め、広げることだけが、軍事強国化と国民に対する管理・統制強化の道を押しとどめ、それを断念させることを可能にする。

●韓国、中国、そして世界の労働者と連帯し、資本の支配と闘おう!

 韓国で日本への抗議行動が燃え上がり、中国では反日デモが吹き荒れた。その背景には、両国の支配階級の中にわき上がるナショナリズムがある。米国や日本などと距離をとり、北朝鮮との統一も視野に入れてつつアジアの先進中堅国として存在感を示そうとする韓国。米国をも制する力を持った超大国へと成り上がることをめざす中国。この両国の支配階級は自らの政策や体制への国民動員、国民統合を強める必要を痛感しているのだ。
 しかしそればかりではない。この反日抗議行動や反日デモは、侵略と植民地支配への反省や謝罪を抜きに再び軍事強国化の道を突き進むつつある日本国家に対するこれらの国々の労働者・民衆の強い警戒心と反発の現れでもある。そして同時に、これこそが重要な点であるが、これらの闘いは、これら両国の労働者・民衆による自国の支配階級に対する異議申し立て、反抗の表現という性格も合わせ持ち始めている。
 資本のグローバリゼイションは、世界中に賃金労働者階級の大群を生み育てつつあり、彼らを自らを支配する資本との闘いへと駆り立てんとしている。今こそ日本の労働者は、彼らと連帯を追及し、資本に対する共同の闘いを準備するための活動を強めなければならない。
 搾取と支配・抑圧の体制を克服し、自由で自律した労働者の自主的な連合基づく社会に向かって進んでいくための条件が、世界の多くの国々や地域において日々発展しつつある。すべての人が生産と社会的・政治的決定に平等に参加するアソシエーション社会の建設をめざして、世界の労働者と連帯して闘おう!          (阿部治正)


「ゆとり教育」路線転換に関わる「想定外のこと」

文科省の路線転換―中山大臣の決断

 昨年夏に就任した中山文科大臣の下、ゆとり教育路線の総仕上げとして、0二年四月から導入された新学習指導要領が、学力低下を招いたと批判を浴びてから、文部科学省は昨年末、その具体的な見直しに向けて大胆に舵を切ったことは周知の事実である。
 ここで「ゆとり教育」について振り返ってみよう。現行の新学習指導要領は、0二年度から完全実施され、小中学校に学校完全五日制と総合学習が導入された。文科省は、総合学習を週二〜四時間程度設定するよう各校に求め、週休二日完全実施と合わせ、学習内容を削減した。授業時間数は年間一五%前後減ったことで、教育界や産業界などから、「ゆとり教育」は「ゆるみ教育」だと学力低下の批判論が台頭していた。
 新指導要領からの路線転換の直接のきっかけは、昨年末に公表された経済協力開発機構(OECD)の学習到達度調査(PISA)と国際教育到達度評価学会(IEA)の国際数学・理科教育調査(TIMSS)という二つの学力調査の結果を受けてのことであった。
 中山文科相は、読解力がOECD平均レベルに落ち込んだことなどを受け「世界トップレベルとは言えない」と学力低下を初めて認め、学習指導要領全体の見直しを指示したのである。
 今年二月からは中央教育審議会義務教育特別部会で、総合学習の見直しを含めた義務教育全般の改革に向けた議論をすでに始めている。それは、三位一体改革で最大の焦点となった義務教育費国庫負担制度の存続のため、国として義務教育への改革姿勢を具体的に示したいとの思惑からだと見られている。このように「ゆとり教育」路線転換は既定の路線と見なされていたのであった。

新学習指導要領の下での学力テストの結果公表

 四月二二日に公表された今回の調査の最大の特徴は、授業時間で小学校が三一四時間、中学校で一七五時間多かった旧指導要領下で学んだ児童・生徒より、新指導要領の「ゆとり教育」で学んだ子どもの方が、大半の教科・学年で成績が良かったという点にある。
 文科省は、前回との同一問題の比較で、記述式とそれ以外に分類した場合、記述式の国語と算数・数学の正答率だけが0・九%、0・一%下落したと強調する。しかし、過去三回の記述式限定の同一問題で比べると、今回が最も悪かったのは、国語が六問中二問だけ、算数・数学も四問中一問にすぎず、今回だけ特別に正答率が低いということではなかった。 学力や学習意欲を押し上げた理由としては、「総合学習と教師による授業の工夫」を挙げることができる。導入時の総合学習は、学び方のプロセスを学ぶことで、受動的でない自ら考える力や意欲が身につくと宣伝され、基礎・基本の定着は、こうした姿勢がなければ成り立たないと熱心に説明されていたことを、我々は思い出す。また、授業の工夫の背景には、新指導要領が重視する「個に応じた指導」の広がりがある。
 ゆとり路線見直しのきっかけとされたPISAでは、韓国や香港より順位が下であることが大きくクローズアップされた。しかし、そもそも、国内で広く行われているテストとPISAでは見ようとする学力が異なり、問題内容には指導要領で教えられていない内容も含まれていたという事情もある。以前からの課題である読解力を除けば、日本の子どもの学力は上位に位置しており、新指導要領のもとで、小・中学生の学力が目に見えて低下したとは言えないし、実際現場教職員の声は、断定不能が多数派であった。

中山文科大臣、中学生に謝罪

 学力テスト結果公表の一日前、つまり四月二一日、中山文部科学大臣は、水戸市の茨城大学付属中学校での「スクールミーティング」で講演を行ったが、意見交換の中で、中学生からは「学校は勉強する所なのに、総合的な学習の時間のせいで、学校外で勉強するなど逆転現象が起きている」などと厳しい質問が相次いだと報道されている。特に中三の男子生徒から「教科内容が見直されることで(ゆとり世代の)僕たちの代だけ上や下の学年に劣ることになるので心配」だと訴えられて、中山文科大臣は「『ゆとり教育』は間違ってとらえられ、勉強しなくていいという印象を与えた。『ゆとり教育』の見直しで教科書のページ数も元に戻りつつある。(薄い教科書の)皆さんには申し訳なく思う」と謝罪した。また「ゆとり教育の導入は拙速すぎた。授業数まで削減したことは反省点。自分の頭で考える主体性のある子どもを育てたい」などと述べたとも伝えられている。
 一方、同日に訪れた茨城大付属小学校では、同校の教諭達から「総合学習の時間は必要だ。子供が荒れる原因は偏った学力による」などとゆとり教育の維持を訴える意見が相次いだと言う。これに対し、中山文科大臣は「総合的な学習の時間は労力や蓄積がないと取り組めない。『こんなことなら基本教科を増やした方がいい』という声も上がっている」と述べたとも伝えられた。
 何というすばらしい中山文科大臣の見識ではないか。そもそも現行の学習指導要領は、二〇〇二年度から小中学校に、高校には〇三年度に導入されたばかりである。文科省は、具体的成果を見ずに、異例の短期間で見直すこと自体、公教育への信頼を揺るがしていることを認識しなければならないのが文科大臣の見識が問われるところであるはずだ。
 それに中山文科大臣は「世界トップレベルの学力復活」を強調して、(一)基本的な教科、特に国語や理数教育、外国語教育の改善・充実(二)夏休みなど長期休暇の土曜日の活用―を打ち出しているが、その提案には何らの新提案はない。

競争の復活により荒廃する公教育

 こうして「ゆとり教育」からの路線転換により、競争や学力重視や詰め込み授業や受験に役に立つ体制といった、かつて非難され、攻撃されたものの復活が始まった。
 大胆に復活しつつあり、拡大しつつあるのが、少人数指導授業と習熟度別授業である。
 これらの授業は、「能力のある」子にはどんどん伸びることを可能にし、他方、そうでない子には自分のペースで学べるようにしたのであり、そのことだけ取っても、この授業の卓越性は明らかであると宣伝され、従来の日本的な「画一、同一」を旨とする教育の壁を打ち破ったとか、教育を効率的にしたとか、盛んに持ち上げられている。
 習熟度授業に関して、さらに書き加えれば、子供たちはより上のクラスに上ろうとして奮闘し、あるいは下のクラスに落ちないために、懸命に努力し、競争するであろう、そしてその結果として、教育効果は一層大きくなるであろうとする。しかし、実際は、競争によってのみ学習意欲が増すとか、学力が向上するとか言うのは決して真実ではない。子供たちの学習の動機は、決して競争意識からのみ来るのではないからだ。例えば、真理の探求とか(真実を知り、学び、発見する喜び等々)、自分の能力の向上とか、地域の立派な構成員の一人になるためとかの具体的なもの、つまり競争心以外の動機――教育の本性にふさわしく、それに合致した動機――は、それこそいくらでも指摘することができる。
 労働し自律した自主的な個々人が連合するアソシエーション社会をつくることをめざす我々には、競争など何の推進動機にもならない。何か競争に教育効果があるかに見えるのは、教育の課題が、次世代の全的な社会的人間を育てることとしてでなく、個々人の利己主義的な目的に奉仕させる手段、あるいは国家的目的のために利用する道具として考えられているからである。
 そして、競争原理の復活を言い募る中心が、国家主義的反動の中山文科大臣であるのは極めて特徴的ではある。彼らの最終目的は、今回主張されている競争復活の差別化・選別化された教育だけではなく、国家主義教育、日の丸・君が代等の教育であるが、当面は「ゆとり教育」に「競争原理」を対置させ、自由主義的教育の一掃と、国家主義教育への道を切り開こうと策動しているのである。
 今回の文科省の動きを先取りした学校も現れた。京都文教中高は、今年度から、土曜日にも授業を行う完全週六日制を復活させた。学校週五日制が導入された時、同校では大学入試に対応するため、学校行事の時間を圧縮し、授業時間をひねり出していたが、今年から土曜日の授業を再開することで授業時間を確保し、「進路を選択できる力量をつけさせたい」としている。
 府内の私立中高で完全週五日制を導入しなかった学校はあるが、六日制を再開するケースは初めてだと言う。文科省の「ゆとり教育」路線転換が明確な以上、追従する学校が出るのは必至の状況ではある。       (猪瀬一馬)   案内へ戻る


G7共同声明速報

 四月一六日、アメリカ・ワシントンで、一五日から開かれていたG7(=先進7か国財相及び中央銀行総裁会議)が閉幕した。そこでの共通認識として、各国がさらに協力して原油の高騰に歯止めをかける姿勢を打ち出した。
 世界経済が比較的順調な中で行われたG7の最大の焦点は、その好調な経済の足を引っ張りかねない原油高の問題だった。日本でもアメリカでも原油高の影響が広がっている。
 この原油高に対応して、米国の株式市場において株価の先行きの不安感が増大している。その反映で、ニューヨーク・ダウ一万ドル割れを思わせる急落が続いて、その株価急落が更に景気の先行きへの警戒感を強める一種の「悪循環」が発生した。その背景には、投機資金を一時期大量に吸収していた国際商品市場が、つまり石油先物にひとまず投機の限度に達して、商品先物取引から撤退した投機資金の受け皿が消滅、次の行き先が決定するまで、行き場を求める投機資金の動きが読めないという事情がある。
 公表されたG7の共同声明では「原油高が世界の経済成長にとって阻害要因になっている」と指摘し、「中期的なエネルギー供給拡大、省エネ促進の努力を歓迎する」との表現で、産油国と消費国に原油高是正への取り組みを促した。これは前回二月のG7よりさらに一段強い危機感の表れだ。
 中国の通貨・人民元切り上げの話も、会議で議論になった。事実上の対ドル固定相場を採用している人民元への対応が最大の焦点だったが、共同声明では「為替相場の柔軟性を欠く主要国・地域はさらなる柔軟性が望ましい」との表現で、名指しは避けた。しかし、とくに対中貿易赤字が膨らむ米国が、議長国声明で、中国を名指しし、「もう人民元を切り上げる準備ができている。その時期だ」と指摘し、従来よりは踏み込んだ姿勢で中国に為替制度の改革を迫り、この問題の進展にG7側が強い意思で臨んでいることを示した。
 今回、中国は会議にゲスト参加もしなかったが、原油高の原因としても為替の問題でも、中国の存在はますます大きくなってきている。
 共同声明では日本の構造改革の課題として財政健全化の必要性が明記された。日本が財政健全化を求められたのは、一九九七年四月会合以来八年ぶりのことである。
 G7終了後、記者会見した谷垣禎一財務相は、共同声明に日本の財政健全化が盛り込まれたことについて、「G7の間で認識を共有することができた」と語った。  (直記彬)


教育基本法をかえる? なんでだろう〜Q13

Q13 いまの教育ってやっぱり何か変えなくちゃいけないと思うんだけど、どう変えたらいい? それはいまの教育基本法ではできないの?
 もちろんいまの教育がそのままでいいというわけではありません。子どもたちみんながわかるように勉強を教えてもらっているか、いじめや体罰のない学級・学校になっているか、過密なスケジュールで子どもが疲れはてていないか、子どもたち自身の楽しい自治活動が行われているか、点数の競争に追いまくられていないか、規則づくめの窮屈な学校生活になっていないかなど、たくさんの問題があります。「日の丸・君が代」の強制などの問題もあります。こんなことは、ぜひとも変えていかなくてはいけないことではないでしょうか。
 いままでも、教科書を無料にしよう、高校に希望者全員が入れるようにしよう、私立学校にも国の補助を、憲法に違反する教科書検定をやめさせよう、など、教育に関する人々の願いが大きく盛り上がるたびに、教育基本法のすばらしさが改めて見直され、教育の流れを変えてきた歴史があります。そのなかで、子どもの権利、在日外国人の子どもの権利、国民の教育権など、新しい角度から教育基本法の中身を発展させてもきました。
 いま子どもたちをとりまくさまざまな問題も、教育基本法の精神を完全に生かすことを求めていくならば解決できることがほとんどだと思います。ですから私たちは、教育基本法「改正」に反対するだけでなく、こうした現実の問題を、教育基本法を読み直しながら改善していくことも必要ではないでしょうか。(子どもと教科書全国ネット21・発行より)
 子どもが学校でどのような生活を送っているかは、子どもから直接聞くか、授業参観・懇談に出席するか、学級通信などから読み取るか、などと限られています。先日も、中2の末娘の参観・懇談に出席しましたが、PTA役員の選出に時間がかかり、あまり話し合う時間がありませんでした。教育に熱心な母親たちは、自分の子どもの成績が一番の関心事であり、教育基本法のこと、ましてやイラクのことなど話題にもなりません。大人が社会の動きに敏感になり意見を持つようになれば、本来の学習が知識の詰め込みでは不十分であることに、子ども自身が気づくはずと、思うのですが・・・。(恵)


〈商品生産の揚棄〉を考えるA ――「単一の協同組合論」「一国一工場論」を素材として――

4)占有概念の欠如と所有概念の誤解

 少し煩雑になるが、占有と所有についてもう少し考えてみたい。
 たとえばマルクスは『資本制的生産に先行する諸形態』で、太古の共同体からの私的所有の発生過程、あるいは生産手段と労働力の分離についての考察が示されている。そこでは私的所有と共同所有を厳密に区別している。たとえばローマの共同体の場合、国家市民個人にあてがわれた土地所有の性格を、国家的所有との対比で私的所有だと言っている。それは国家が別に管理する共同地の利用から個々の国家市民を閉め出しているという、排他的な関係が見られたからだ。そうした関係を媒介として個々の国家市民の土地所有の私的所有性を認めたのだ。
 それに対してマルクスは、古ゲルマンの共同体での個々の大家族の耕地については、その土地所有の性格を「個々人的所有」(individuel property)だと性格づけている。耕地はローマでもゲルマンでもともに個人によって用益(使用・収益)されているにもかかわらず、だ。ゲルマンの場合には用益は個別だが、共同体全体の取得様式に照らし合わせたときには排他的な関係が見いだせなかった。だからゲルマンの個々の大家族の土地所有の性格を、マルクスは私的所有ではなく個々人的所有(共同所有性格の一つの形態)だったと理解したのだ。そこではローマにおけるのとは反対に、個々の耕地の周囲に拡がる森林などの共同地を狩猟などの目的に共通占有していること、言い換えれば個々の耕地からの収穫を補完する形でそれぞれの家族が共同地からの取得を個々の耕地の広さに比例する形で共通に収穫していた、という関係を見いだしたからだ。そうした個々の家族と共同地に媒介される共同体との関係が、排他的なものではない関係性を見いだしたからこそ、マルクスは古ゲルマンの共同体の個々の家族の耕作地の所有性格を私的所有という性格ではなく「個々人的所有」だと性格づけたわけだ。
 付け加えれば、マルクスは古ゲルマンの共同体で性格づけたゲマインベジッツ(gemeinbesitz)という言葉を、中世ツンフト(同業組合)の親方と職人の関係でも用いている。これは親方の下で働く一人前の職人については、親方の収入の内の一定の割合を受け取る権利のようなものがあるからだ。この言葉は、親方と職人の関係は、親方の収入を一定割合で親方と職人が共通に占有している関係にある、という性格を示す言葉になっている。
 さらに付け加えれば、マルクスは「生まれたばかりの共産主義社会」と「それ自身の土台の上に発展した共産主義社会」(『ゴータ綱領批判』)を明確に区別していた。この場合、「生まれたばかりの共産主義」を、マルクスは協同組合的社会だと理解しており、そうした段階は、歴史上の不可避の通過点だと理解している。この通過点としての歴史的段階というのは、マルクスが太古の共同体とそこから生まれた貢納制、奴隷制、封建制という階級関係が顕在化した二次形態を明確に区別していたことと照応している。いわば生まれたばかりの共産主義という段階は一次的形態であり、高次の段階は二次的形態だと把握してたと思われる。
 こうしたマルクスの所有概念によれば、所有の社会的性格を表現する私的所有や共同所有というのは、資本主義社会における「所有権」のような権利関係、法的関係ではなく、取得様式をふまえた反省的な概念、人と人との関係、人と生産諸条件との関係が投射された反省的な性格概念なのだ。それに対して「所有権」というのは、私的所有という排他的な所有の性格を法的に権利関係として表現した概念ということになる。だから協同組合的社会での所有の共同的性格も、個々の生産者・労働者、あるいは個々の協同組合の「所有権」という法的関係、権利関係を表すものではなく、実態として共同で占有しているという現実から発生する生産果実の取得様式に照らして、結果的に性格づけられる概念なのだ。そうした協同組合的社会では、個々の生産者と生産手段の関係、あるいは社会の構成員との間での取得は排他的ではない連帯的なものになるからこそ、そこでの所有関係が共同的性格のものであると性格づけられるのだ。
 少しくどくどと所有概念についてこだわってきたのは、この理解如何によって協同組合的社会では商品生産を揚棄出来ないとか、あるいは何らかの協議・計画経済は上意下達の指令型経済にならざるを得ないとかいうアソシエーション社会の具体的なイメージが、まるっきり違って理解できるからだ。それは以下の議論の展開に従って自ずと明らかになると思う。

5)カウツキーをなぞる協同組合「批判者」

 カウツキーの所有概念や国家概念の理解は、カウツキーが当時のドイツ社会民主党の権威に任ぜられていた割には、きわめて杜撰である。この『エルフルト綱領解説』が書かれたのが1892年だから、もちろん『資本論』(フランス語版も)出ていたし、『ゴータ綱領批判』も出ていた。これらだけでもマルクスが未来社会をどのように展望していたかという、その輪郭は示されていた。そこでもマルクスは商品生産を揚棄するためとして、安易に「全国で一つの協同組合」「国家的協同組合」に逃げ込まなかった。逆にいかなる生産システムが生産物を商品として生み出し、それが市場で売買されるかを歴史的、概念的に究明する姿勢を貫いた。
 マルクスが歴史的、概念的な究明に力を注いだのには理由がある。マルクスは何らかの「プラン」を描いてそれを証明するための実験に走った西欧社会主義の先駆者の多くに批判的だった。だから将来社会を現実の歴史の発展のただ中に位置づけることによって、歴史に内在した将来社会の展望を発見することに努力したからだ。
 カウツキーの『解説』は、協同組合的社会の姿を唯一の協同組合、すなわち国家そのものと同一視することで「一国一工場体制」へと行き着いた。その「一国一工場体制」を作り上げたソ連が国家と官僚組織の肥大化というグロテスクな姿を現すとともに、「一国一工場体制」を「監獄あるいは兵営」として放棄するに至ったのもむべなるかなという以外にない。『解説』当時のカウツキーの解説は、まさに私的所有や商品生産社会を揚棄したアソシエーション社会の豊かな可能性を台無しにするものだったのだ。しかし『解説』は、スターリン体制以前に書かれたものとしてまだ罪は軽い。
 翻って現代でも、協同組合の連合社会をアソシエーション社会=社会主義だとする見解に反対する意見がある。それらは安易に国家規模の単一の協同組合、あるいは単一の「労働者共同体」を対置する。が、これらはカウツキーの議論から一歩も出るものではない。いわゆる「一国一工場体制」そのものだ。そこではカウツキーの議論と同じように、協同組合の連合社会が商品生産を必然化するとの根拠らしきものを語ってはいる。しかしそのわりには、その国家的協同組合や労働者共同体では全体の生産・流通・分配システムを円滑に行うために何らかの調整機関が必要になり、その調整機関が生産者から自立化し、やがては生産者と区別された特権的な階級に転化することはない、という”根拠”については何も語っていないからだ。

4,「利潤分配制の連合社会」説――国分説の検討

1)国分氏と彼の著作について

 これまで大まかに検討してきたカウツキーの協同組合社会の理解と対極にあるのが国分氏の説だ。
 国分氏は『21世紀社会主義への挑戦』(社会主義理論学会 2001・5・5)という論文集で『一国一工場体制から利潤分配制の連合社会へ』という小論で自説を展開している。この小論は『デスポティズムとアソシアシオン構想』(1998年)という著作を下敷きにしたもので、著者のスタンスと見解を端的にまとめたものだ。とりあえず、前者の小論を中心に検討していきたい。
 国分氏の問題意識は『デスポティズムとアソシアシオン構想』という著作の表題にもなっているように、マルクスのいわゆる東洋的専制体制がいかに歴史的に生成したのか、という関心を下敷きにしたアソシエーション構想だ。こうした国分氏の基本的なスタンスは、上記の小論でも次のような前書きから始まることでもはっきりしている。そこでは、20世紀社会主義の最大の問題はスターリン主義であり、そのスターリン主義がソ連に於いて「搾取と抑圧からの解放という社会主義の理念を……総体奴隷制という規定がぴったり当てはまる文字通りの悪夢に一変させた」として、ソ連=スターリン主義体制を断罪している。そのことを前提として国分氏は「21世紀の社会主義について語ろうとするならば、まずはスターリン主義の根底を理論的に解明してこれを徹底的に批判することが必須の先決要件であり、その結果として初めてスターリン主義とは異なるもう一つの社会主義、すなわち自由と平等をもたらすアソシアシオン=連合社会体制としての社会主義について展望することが許されるであろう。」という。
 国分氏についてさらに若干付け加えさせてもらえば、彼は周知のように広西氏の『資本論の誤訳』復刻版(こぶし書房 2002・3・30)で『広西のマルクス解釈と利潤分配制社会主義論――その批判的な摂取に寄せて』という詳細な解説を書いているように、広西説に大きな関心を寄せ、そのマルクス解釈の中心部分を受け入れつつ自らのアソシアシオン構想を形成してきた人だ。広西説の解釈にしても、人を食ったような毒舌を交えたアクの強い印象にもめげず、その内部に深く踏み込んで積極的な評価と批判的部分とを選り分けている。私としては『デスポティズムとアソシアシオン構想』という著作についても、広西説を摂取しながら氏自身の問題意識としてのスターリン主義の克服を意図した彼独自のアソシアシオン構想を集大成した著作として、アソシエーション革命を志向する人にとって大いに参考になるのではないかと思っている。ただ残念なのは、協同組合的社会=商品生産社会としている点などで広西氏と同じようなマルクス理解での見解の相違があることだが、それらについては以下で検討していくことにする。

2)マルクスにも読み取れる「一国一工場論」――国分氏の解釈

 国分氏は、20世紀社会主義の最大の問題は「総体的奴隷制」ともいうべきソ連社会の現実そのもの、及びそれをもたらしたスターリン主義だとし、それが東欧革命からソ連の崩壊を経て、今では思想としても運動としても社会主義の崩壊をもたらし、社会民主主義ですら壊滅的状態に陥っている、という事実認識を語っている。こうした状況を克服していくには、スターリン主義の根底を理論的に解明してこれを徹底的に批判することで初めてアソシアシオン=連合社会体制を展望できるという。
 国分氏は、スターリン主義の土台をR・バーロ以降の「一国一工場」体制の内に見てとる。「一国一工場」体制というのは、@国有=共同所有、A社会主義社会=「一国一工場」体制、B国家独占体制、C社会主義段階における「階級のない」国家の存続、というようなものだ。国分氏はその核心はAの社会主義社会=「一国一工場」体制にあると見なしている。
 国分氏は「一国一工場」体制の源流を、これから見るように「サン・シモン派に酷似したレーニンの社会主義論」(国分氏)だけでなくマルクス自身にも起因していると踏み込んだ評価を下している。大谷禎之助氏など、アソシエーション的社会主義の立場に立つ多くの論者が「一国一工場」体制はスターリンが創り上げたものであり、レーニンもまた「一国一工場」体制を示唆していたがマルクスはそうは言っていない、という解釈をしているのに比べて、大胆な評価だ。が、そうは言っても国分氏自身もマルクスが社会主義=「一国一工場」体制であると明言した記述はないことは認めざるを得ない。ただしエンゲルスはもちろんのこと、マルクスにおいても「一国一工場」体制を示唆あるいは黙示するものは多いという。それらを以下のように例示している。

@「社会的生産を自由な協同労働の一大調和的体系one large and harmonioussystemに転化する……。」(マルクス「暫定中央評議会派遣員への指示」,1868年)。ここでは不定冠詞ではなく数詞が使用されており、「一国一工場」体制が強く示唆されていると言える。
A「共同の生産手段を用いて労働し,協議した計画に従って,多くの労働を一個同一のune senle et meme社会的労働力として支出する自由な人々の連合を考えてみよう。」(『フランス語版資本論』,1875年)
B「工場制度のこれら熱狂的な弁護者たちは,『一体諸君は社会を一つの工場une fabriqueに変えたいのか?』と金切り声を出す。工場体制が結構なのはプロレタリアにとってだけだ!」(『フランス語版資本論』)。二重括弧の部分はブルジョアたちの言葉であるから,確かにこれをもってマルクスが「一国一工場」体制を唱えたと見なすことはできないが,それに続く部分を加えた全体からはこの体制に否定的なニュアンスは伝わって来ない。ちなみに英訳版では「一つの工場」はone immense hactoryとなっている。
C組合die Genossenschaftを組合的社会=共産主義社会と同義に用いている。(『ゴータ綱領批判』,1875年)。ここでは定冠詞が用いられており,共産主義社会は「一大組合」であるとする解釈を許容する。
D「……すべての生産手段が全国民から成る巨大な連合体 a vast associationの手に集積されたならば……」(エンゲルス『共産党宣』英訳版,1888年)。
E「社会の総指導部には,農民組合Genossenschaftを次第により高い形態に導き入れ,その組合全体ならびにその個別成員の権利・義務を,大共同社会の他の諸部門のそれと均等にするために,必要な影響力が確保される。」「組合的なgenossenschaft1ich諸経営では賃労働の搾取をますます除去し,大きな全国的生産組合の,平等な権利,義務を持った諸部門への漸次的な転化を導入することができる。」(エンゲルス「フランスとドイツにおける農民問題」,1894年)。「大共同社会」や「大きな全国的生産組合」の諸部門という表現は一国規模での「一大生産組合」を示唆するものである。
(次号に続く)  〈飯島 廣〉    案内へ戻る


反戦通信−6・・・満月まつり

 4月24日、沖縄の満月まつり実行委員会の呼びかけに応えて、「第7回満月まつり」が沖縄・日本本土・海外の60カ所以上の地で同時開催されました。
 サンゴは満月の夜に産卵すると言われています。そのサンゴ礁でできている沖縄にとって満月の夜は生命の生まれる平和の象徴です。「満月まつり」は、戦争に繋がる状況・動きに抗して、命と平和を慈しむ民衆の思いを歌や踊りで表そうと始められました。発信元は沖縄と韓国。いずれも米軍基地をかかえる所です。
第1回目の「満月まつり」は、99年12月に沖縄の名護市辺野古・瀬嵩の浜で行なわれました。その後、毎年開催する中で賛同する仲間も日本・世界に広がり、韓国・ハワイ等海外を含む約60箇所で開催されるようになりました。
海を隔てたそれぞれの土地で太古の昔から闇夜を照らし続けてきたひとつの満月に平和を願う人々がたくさんいるということに思いをはせ、沖縄・日本そして世界の各地で同じ日に同じ満月に照らされ、まーるい地球、まーるい満月、まーるい心で21世紀の共生世界を誓い合う集いを世界各地で開催するように呼びかけをしてきたのです。
 @全ての生命に共生の光を照らす4月24日(旧暦8月16日)のいざよいの満月に向 かって平和月見会(満月まつり)を開催してください。
 A規模は1人でも100人でも恋人同士でも家族だけでも一緒に歌ったり、踊ったり、 討論したり、もちろん月を見るだけだけでもけっこうです。場所も自由にそれぞれの地 域で創意工夫してください。
 国や場所が違っても見上げるお月様は一つ。平和を愛する日本中の、世界中の人たちが、歌や踊りを楽しみながら「平和世」のために同じ満月の下に集まりました。(E・T)

<沖縄からのメッセージ>
 私たちの願いは、戦争も差別も飢餓もない平和・人権・環境が輝く21世紀の共生世界です。ところが、私たちにとって今の世界は厳しい現実であります。
 しかし、我ったぁ沖縄人は決してあきらめない!アジアの人々に二度と銃を向けない!世界の人々の生命を奪う新基地をジュゴンの生息する沖縄の海につくらせない!米軍のイラク占領をゆるさない!自衛隊は撤退せよ!平和憲法9条ガンバレ!という沖縄人の命どぅ宝の思いを世界の人々と共有する沖縄発信の沖韓民衆連帯を軸とする国際連帯平和月見会=満月まつりを今年(7回目)も名護市東海岸<辺野古ぬ浜>にて4月24日(旧暦3月16日)のいざよい満月の夜に開催しました。
 特に今年の満月祭りは辺野古ボーリング調査阻止座り込み行動1周年を内外にアピールし新基地建設の白紙撤回をかちとるためであり、世界にある米軍基地の再編強化と日本の「戦争国家」化を阻止する闘い、さらに世界の自然環境を保護する闘いと結合した催しで沖縄・日本・世界の未来を切り開く重要な催しのひとつであると思います。
  (満月まつり実行委員会)
<浜松からのメッセージ>
 浜松も第2回から参加。今まで5回の開催の中で、全国の仲間と手をつなぎ、平和を求めるメッセージを歌や踊りに託して発信してきました。
 「力が全てを決定する」、まさにそんな戦争の論理が世界を覆い尽くそうとしています。人類がその苦い歴史の中で学び、積み上げてきたはずの「平和への願い」「生命への畏敬の念」は風前の灯火のようです。でも、わたしたちはあきらめません。一人一人が「戦争はイヤだ!」「命と平和が大切だ!」という声をあげ、ともに手を取り合えば必ず何か変えることができると信じています。
 日本全土の0.66%を占めるにすぎない沖縄に在日米軍基地の75%が集中し、それに伴う基地被害が頻発しています。その沖縄で訓練を受けた米兵が今イラクに行き、ファルージャの住民を虐殺した主力部隊となっています。浜松からもすでに延べ30名の航空自衛隊員がイラクに行き、自衛隊輸送機が「復興支援」物資と共に武装した米兵を運んでいます。日本国内でもこれに呼応するような急激な動きがあります。有事法制、教育基本法・憲法の改悪・・・
 こんな状況だからこそ私たちは多くの人と一緒に「満月まつり」を開き、命と平和への思いを分かち合い、周りの人たちにひろめていきたいとおもっています。  (「満月まつり」浜松コンサート)


新聞投書にみる歴史認識の断層

 韓国や中国の反日機運の高まりに反発し、不快感を露わにする日本人が多いようだ。右翼政治家や右翼新聞が例の如くに喚きたてているのは、それらの存在証明のようなもので驚かないが、若い世代の同じような発言は看過しがたいものがある。
 4月23日の神戸新聞の投書欄を見ると、@「中国の対応 問題がある」、A「暴力行為は許されない」、B「社会の不満が反日に向かう」という3件の関連投書が掲載されている。Bは79歳の老人だから、敗戦当時すでに社会人に近い世代だ。急速に経済発展する中国で経済的敗者の不満が高まり、そのはけ口として反日が唱えられている。彼はこんな風に解釈し、「戦後60年を過ぎようとしている今も、日本は侵略の後遺症に、泣かされている」と結論づける。
 次に、Aは34歳の会社員。彼は冒頭で「中国の人々に、少なからず反日感情があることは、理解できます」としつつ、暴力をともなった今回の的外れの反日デモはテロ行為だと断じる。そして、日本政府は歴史問題を外交カードにさせないように、外務省は腰抜け外交と言われないように強行に対応してほしいとしている。
 79歳の老人が言うところの、中国国内の経済的格差の拡大による不満の蓄積というのは事実だろう。しかし、そのエネルギーがなぜに反日に向かったのか、侵略の後遺症≠ノ泣かされるべき理由が日本にあることを彼は明らかにしていない。34歳の会社員について言えば、彼が反日感情のなにを理解≠オているのか全くわからない。
 しかし、最も問題なのは@の投書である。23歳の大学院生である彼の歴史認識は次のようなものである。「私は戦争を経験していないので、当時、日本が中国に、どんなことをしたのか、知っているわけではありません。しかし、日本政府の歴史認識に関しての対応は、必ずしも、誠実なものとは思えません」
 いっけん良識的な物言いのようだが、最高学府の学生にしてなお日本現代史に無知であることすら恥じない、この現実に私は暗然たる思いを禁じえない。いったい日本の歴史教育はどうなっているのか、教科書の記述がどうだこうだというそれ以前の問題がここにあるのではないか。
 その彼の意見は、中国政府は駄々をこねている子どものようであり、もっと国際的に大人になって対応をしてもらいたい、ということだ。私は逆に、小泉や町村が中国政府に謝罪と補償≠要求したことに、息が詰まるほど驚いた。この言葉は日本の裁判所においてこの10数年間、日本政府や企業に向かって発し続けられてきたものであり、拒絶され続けてきたものである。
 日本の若い世代はなぜ日中、日韓に横たわる歴史の真実をみようとしないのか。中国や韓国で吹き荒れる反日の、その原因を知りたいと思わないのか。それほどまでに知的好奇心、探究心をもはや摩滅させてしまっているのか。だとするなら、破廉恥漢の首相や外務大臣ら、極右の排外主義的知事、さらに右派マスコミのデマゴギーにやすやすと乗せられてしまうだろう。
日本の明日の危機はここにあると言わねばならない。              (晴)   案内へ戻る


ビデオ・郵政版 人らしく生きよう「郵政クビ切り物語‐4・28処分と郵政職場‐」(ビデオプレス・68分・定価6000円)

 1978年末に始まった反マル生越年闘争、そして79年4月28日に発令された61人の首切りを含む8183人に及ぶ大量処分は、郵便労働者に消しがたい刻印を残した。しかし、当時を知る労働者は今、足早に職場を去りつつある。そして、ストライキどころか業務規制闘争や超勤拒否闘争すら経験しない労働者が多数となり、もはやいかなる闘争も存在しない職場になろうとしている。
 そんな最中の昨年6月30日、東京高裁で勝ち取られた4・28処分撤回逆転勝訴判決の報が職場に飛び込んできた。この報道が職場の労働者に何らかの影響を与えたのかどうか、いつものように平静を保っている職場の状態からはうかがい知ることは出来なかった。しかし、25年闘い続けてきた7人の原告が最高裁でも勝利し職場に戻ってくるなら、その衝撃は計り知れないものがあるだろう。
 さて、ビデオは冒頭で白髪交じりの名古屋哲一氏(八王子局)を捉えたが、懲戒免職になる前の20代の姿との対比に失われた25年≠思わずにはおれない。ちなみに、彼と私は同年であり、同じ25年を私はいささかの信念を保ちつつ郵便を配り続けてきたが、彼の25年を思うとそれも色褪せる。それにしても当時の職場の映像は懐かしく、確かにそこには労働組合があり、職場の主人公としての労働者の姿が映し出されている。
 一方、当時も今も管理者の姿は醜い。怒鳴り散らし、業命を発し、現認を行う。それを仕事とし、出世をめざす。名古屋氏も言うように、当時同じ側にいたものがやがて離れていき、いつの間にか攻める側に回っている、そういうことは郵政に限らずどこの職場でもあることだが、人間の弱さを見せつけられて哀しくなってしまう。と同時に、そうした生き方を強制する資本への怒りを禁じえない。
 そんな管理者連中が嬉々として資本の番犬となり、郵政トップが出席する元旦出発式に対する宣伝戦を体を張って(暴力的に)阻止し、あるいは「敷地内でビラを撒くな」「カバンを置くな」とビラ配布を妨害する。そんな姿もしっかり映し出されている。私も局前ビラ配布に対する妨害は何度も経験しているが、4・28闘争では警察が登場するからすごい。
 池田実氏(赤羽局)は職場復帰を闘いつつ、情報公開制度を駆使して郵政官僚の天下りの実態などを暴いてきた。そして、マスコミは元旦出発式を華やかに報道するが、管理者連中が公道に阻止線を張って4・28宣伝を妨害している姿は決して写さないと批判する。非常勤労働者で雇い止め≠ニいうクビ切りに対して裁判で闘った飯島和泉さん(横浜港局)やその裁判で証言台に立った同僚も登場し、郵便局でのこれからの闘いの予感を感じさせる。
 それにしても23年目の1審敗訴と25年目の2審逆転勝訴の映像の対比はどうだろう。昨年6月30日、実は私は非番の休みで判決傍聴に行こうかとチラッと思ったが、どうせ敗訴判決だろうしなどと決めつけていた。実際、傍聴参加者も誰も勝訴を予想していなかったという、「逆転勝訴」の書き込みを準備していた冷静な池田氏以外は。
 祝勝会のはじける喜びを観るにつけ、傍聴に行っていたら私もその輪に加わり、ビデオにも映っていたかもしれなかったと、残念でならない。こうした勝利はめったに訪れないし、ましてや勝利の瞬間を共有できる機会を逃すのは最悪だ。だから、私はこれからも闘い続ける側に身を置こうと思う。                      (晴)


色鉛筆・・・介護日誌 5

 退院して在宅生活も1ヵ月を過ぎる頃、体力も気力も向上しはじめた母の起こす「事件」に、私たちはハラハラさせられ、時には大声で叱るはめにさえなる始末。今にして思えば、数ヵ月前までは歩けていたのだから、何とかその頃の感覚を取り戻そうとしていたのだと理解できるのだが、その頃は再び骨折するかもしれない不安から叱ってしまっていた。
 例えばある時、座っていた椅子から突然ひとりで尻餅をつく様に下りてしまった。「何やってんの!」と怒ると母は「いらいらして冒険したくなって」と言う。「また骨折したらどうするの!」と怒鳴ったものの、それからも母の冒険は止まらない。ベッドで一人起き上がれる様になると、いつのまにかベッドから下りて畳に正座していたり(その後は自分では何も出来ない)、ベッドから車椅子に乗り移っていたり、とヒヤヒヤの連続となる。”動くこと”は歓迎なのだが、そこには必ず安全確保のための見守りが不可欠だろうと思う。はじめの頃は、ひとりで無茶をしてといちいち怒っていたが、そのうちこちらも四六時中ついていられないのだからと諦めてしまった。そんなある日、母の悲鳴に驚いて駆け付けると、ベッドから車椅子に移ろうとして転倒。後頭部をベッドで打ったという。幸い何とも無かったが、まったく気の休まらない日々の連続だ。
 マイナス面ばかりではなく、ベッドで寝ながらだが衣服の着替えができるようになった時には、その進歩に感動。ズボンは後前、パジャマの上から服を着ていたのだが・・・。2ヵ月が過ぎる頃には、安定したよつ這いもできる様になる。母にとってのリハビリは、こうした日常生活の中で行なうのが自然でベストなことだなと痛感した。
 ところが「介護老人保健施設(理学療法士もいてリハビリ設備も充実。こちらの期待は自然と高まる)」での、1週間だけのショートステイから戻って来ると、また元の状態に戻ってしまっている。50人近い入所者の中で、安全確保のため母のベッドには柵をされ「ご用の時にはナースコールをおして呼んでくださいね。」と言われても、やはりいちいち呼ぶのは気後れがしたらしく、ずっとベッドで「安静」にしていたのだという。
 とはいえ母のショートステイ中は、私たち家族にとって心身ともにゆったりとできる有難い休養期間だった。この点では、介護保健制度に感謝している。この後も、月に1〜2回のペースでショートステイを利用しているが、この戻ってきたときの退行現象は今もなお悩みの種だ。(澄)


JRの事故に思う

 4月25日の昼休み、食堂に入ると異様な事故報道が飛び込んできた。JRが尼崎で脱線転覆、マンションに突っ込む?、という不可解な列車事故ですでに死者は25名という。負傷者は兵庫医大等に運ばれているという事だが、そこはよく郵便配達で行くところだし、事故現場の尼崎市久々地には知人もいるし、身近でこんな惨事が・・・という思いが強い。
 JR「尼崎」駅は乗り継ぎ駅で、東西に走る神戸線に北から複線電化された福知山線が接続し、さらに東西線が接続するようになった。これらがうまく乗り継げるようになっていて、JRは阪神や阪急に比べても速く便利になっている。私が利用する「西宮」駅では快速が停車するようになり、利用する機会も増えている。
 ところで、私は事故の前日もJRを利用し、東西線から京阪電鉄に乗り継いだ。その時、神戸線で線路内に人影があったので遅れているということだった。この列車の遅れというのは厄介なもので、簡単には元に戻らない。
 昨日は「尼崎」駅で神戸線の快速から東西線の快速に乗り換えたのだが、駅に着いた時、隣のホームでは神戸線の各駅停車が待っていた。そして、福知山線から東西線に入る快速は、なんとその各駅停車が発車するのを後ろで待っている状態だった。これには驚いたが、ひとつ躓くともつれた糸を解くような忍耐強い作業が要求されてることが理解できる。
 夜になって、死者は53名にまで増えてしまっている。全く何ていうことだ。直前にオーバーランし、あせって冷静な判断を欠いてしまった若い運転士を責めるのは簡単だが、「尼崎」駅を起点として交差する過密ダイヤにも、ひとつ間違えれば事故につながりかねない危険がある。そして、その責任は第一にJR西日本にある。さらに、便利さに慣れてしまい、少しでも遅れたら駅員に詰め寄って怒鳴る利用者にも、責任の一端はあるのではないか。
 いずれにせよ、事故に遭遇して亡くなった人々の命は戻らない。事故原因を糾明し、その責任を全うさせなければならない。  (晴)


 列車事故に関する技術者の警告に思う

 私の父(もうこの世にいない)は、大阪市電の路面電車の運転手で戦前から戦後しばらく業務し、定年まで勤務していた。定年後、父の話を覚えているが、15時間の労働時間故、電車が脱線することはあっても事故にはならず、仲間から昨日は買い物(レールからはずれて身体がすべること)に行ったそうやな≠ニいう会話があって、人間の生命にはかかわりなかった。
 現在、電車の車体がスピードを要求されるためか、或いは安上がりのためか、軽い材料で車体が作られるから容易にペシャンコになり、人命を損ないやすいという技術畑の方のお話を聞いた。それで、父が買い物をしにいっても(レールからはずれても)事故にはならなかったのもうなずけた。
 15時間の労働の故に、父たち乗務員はストライキをやって高野山に登ったことは、労働運動史にも残るストライキであったという。地下鉄ができ路面電車の車体は焼かれ、父はもういない。
 スピードを要求される文明社会とはどういう社会であろうか。私は自転車にもよう乗らん古生物からみれば、歩くことがかえってコンクリートの路上に生きる雑草に、親しみを感じることができるのを複雑な思いでみている。 2005,4,25 宮森常子


ライブドアとフジテレビとの和解案に思う

 二月からの二ヶ月間、連日のように報道されたライブドアの堀江社長は、敵対的買収の和解として、フジテレビジョンと結んだ業務・資本提携について、「フジテレビに資本参加をしたかったが、断られた。セカンドベスト(次善の策)の選択だった」と述べた。和解の決め手としては、四百四十億円というライブドアの第三者割当増資にフジテレビが応じたことと、買収に使った一千億円超の資金の有効な運用を考えたためと打ち明けた。そして、和解合意を急いだ理由として、業務提携と第三者割当増資を指摘したうえで、「持っている資産の利回りを考えた。ニッポン放送株を寝かしていたら何も生まない」と資産運用を重視したことをあげた。
 全く騒がれた割には、何とも形容する言葉が見つからないようなお粗末な結末とは相成ってしまった。
 「ワーカーズ」紙面でも何回か明確に書かれていましたが、資本とは何か、企業は誰のものかが、全く分かっていない人であることが、今回の和解案でも一段と明確になってしまいました。資本主義的生産様式が発展すると、資本家も経営者も、社会的に不要になるとは実に良くできた分析だと、私はまたまた感心してしまいました。(S)

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