ワーカーズ315号  2006年2月15日              案内へ戻る

象徴天皇制よ、さようなら―天皇はもう要らない

 皇室典範改正問題が政治問題化している。すべて小泉総理の党議拘束発言が原因である。
 現行の皇室典範は、皇位継承者を「男系男子」に限り、皇族の子孫すべてを皇族とする「永世皇族制」を採用している。天皇や皇族は、養子が許されず、女性皇族は結婚により皇籍を離れなければならない。今回の皇室典範改正案は、女性天皇を前提とした上で、皇位継承者を確保するため、女性皇族が婿養子をとって世襲の新宮家を創立し、その夫も皇族として加えることに道を開いた。しかし、この制度では、皇族の範囲が大幅に拡大して皇族維持の財政負担が過大となり、国民感情とも相いれなくなる可能性がある。紹介しておけば、皇室関係年間予算は約百七十五億円、警備予算は約八十八億円なのである。このため、永世皇族制を廃止しつつ皇位継承資格者も極めて限定する必要があったのである。
 こうした総理の姿勢に対して、自民党内の各有力者も、女性天皇は日本の歴史的伝統と文化に反するなどとの妄言を繰り返しつつ、おずおずと反論を開始し始めた。今時、万世一系の天皇だの神武天皇の実在を信じている歴史学者が居るとしたら、まともな学者であるはずがない。しかし二月七日の秋篠宮夫妻の第三子懐妊発表により、マスコミがこれを焦点化し綱領で天皇制を容認した市田共産党書記長は懐妊を言祝ぐ仲間に加わっている。このため、小泉総理も、今国会の法案提出を断念したとの報道がしきりになされている。
 この皇室典範改正問題に対する私たち労働者民衆の立場は実にはっきりとしている。当面の課題としても、追求すべき日本の民主政体の中に、象徴天皇制を組み込む必要はない。私たちは、労働者民衆の政治意識を最大限発展させるため、その最大の条件を保証している民主制の徹底と明治以来の日本の根深い官僚制の根本的な打破をめざしている。象徴天皇制が危機に瀕してこのままでは消滅するというのなら、当然のこととして消滅させていかなければならない。
 「 象徴天皇制よ、さようなら」、これが私たちの立場なのである。(直記彬)


住基ネットはプライバシーの侵害だ! 国は住基ネットを廃止せよ!

◇原告敗訴の不当判決

 2月9日午後1時15分、大阪地裁806号法廷において近畿2府4県の153人が原告の住基ネット差し止め訴訟の判決があった。法廷は、傍聴席があふれるほど原告らの参加が多かった。
 廣谷章雄裁判長の顔が緊張しているように見える。廣谷裁判長「主文 原告らの請求をいずれも棄却する。
訴訟費用は原告らの負担とする」。 原告らから、「反動!」。「恥を知れ」。などの野次が出る。ああ敗訴か。それにしても、裁判官らはやっぱり国のほうを勝たせるなあと思った。
 その後裁判所を後にして、別の会場で判決の説明が担当弁護士よりあった。秋田弁護士「この判決文。3時間もあれば書ける。最初から国を勝たそうとしていた判決文としか読めない」。坂本弁護士「どこも使えない判決だ」。それぐらいひどい判決文である。
 判決文を見ていこう。「外的事項に関する個人情報については、行政機関等が正当な目的で、正当な方法により収集、利用、他へ提供しても、プライバシー権の侵害とはならないと解される」。
 なんということだ。これのどこがプライバシーの侵害にならないと言うのだ。
 2005年5月30日に出た金沢地裁原告勝訴判決文は、「住基ネットは原告らのプライバシーを犠牲にしてまで達成すべきものとは評価できない」として、プライバシー権を保障した憲法違反と判断し、原告らの個人情報を住基ネットの台帳から削除することなどを命じた。「氏名、住所、生年月日、性別の4情報と、市町村長が記載した住民票コード及びこれらの変更情報、以上の6情報(本人確認情報)は、いずれもプライバシーにかかる情報として、法的保護の対象となるというべきであり(早稲田大学事件最高裁判決参照)、自己情報コントロール権の対象となるというべきである」。 「被告地方自治情報センターから本人確認情報の提供を受ける行政事務に関するデータベースには、個人の情報に住民票コードが付されることになるから、これによって、そのデータベース内における検索が極めて容易になる。しかし、それだけに止まらず、これによって、行政機関が持っている膨大な個人情報がデータマッチングされ、住民票コードをいわばマスターキーのように使って名寄せされる危険性が飛躍的に高まったというべきである」。「住民が住基カードを使って各種サービスを受ければ、その記録が行政機関のコンピュータに残るのであって、これに住民票コードが付されている以上、これも名寄せされる危険がある」。
 「住基ネットの運用によって個人の人格的自律を脅かす具体的な危険があるから、住基ネットの運用によるプライバシーの権利の侵害は、相当に深刻であるというべきである」。と述べている。同感である。
  
◇杜撰なセキュリティ対策
 
この訴訟において4人の自治体職員が証言に立った。そこでは、各自治体のセキュリティ対策が杜撰であることが明らかになった。にもかかわらず判決では、セキュリティ対策は不十分だが問題なしとしている。なお、これら4証人は国側の立場に立った証言、つまり、住基ネットはセキュリティがしっかりしているという証言をしたのだが、原告側の反対尋問で杜撰な実態が明らかになったのである。
 例えば吹田市では、重要機能室への入退室管理簿が作成されていなかったりしたが、2005年1月以降は改善されたから問題ないと。柏原市では、重要機能室への入退室管理簿に名前を書いていない業者がいたり、時間を記入していない例もあるが、業者が立ち入るときは職員が立ち会っているから問題ないと。セキュリティ責任者がセキュリティに太逸する認識が低くても他と協同しているから問題なしと。
 木津町と加茂町の住基ネット担当職員も、セキュリティの知識が低いが業者のやる作業に立ち会っているから問題なしと。
 セキュリティに関しては、業者まかせで、住基ネットを扱う職員はほとんど何も知らないという実態が明らかになった。個人情報が外部に漏れる危険性はきわめて高いのである。
このような不当な判決に負けることなく、多くの原告が控訴する。私もその一員として、今後も裁判に関わっていく。国は住基ネットを廃止せよ。各自治体は、住基ネットから離脱せよ。 (K)

資料 ◇住民基本台帳ネットワークシステムとは

 国民全員に11ケタの住民票コード(番号)を割り当て、氏名など個人情報をデジタル化して一元管理するシステム。住民は居住地以外でも住民票の交付を受けられるほか、国は宅地建物取引主任者などの本人確認事務に利用できるが、プライバシー侵害の危険性も指摘されており、各地で住民側が差し止めを求める訴訟を起こしている。


不当判決に抗議する声明
                 住基ネット差し止め関西訴訟原告団
                 住基ネット差し止め関西訴訟弁護団
2006年2月9日
 
 本日、大阪地方裁判所第7民事部(裁判長 廣谷 章雄)は、住基ネット差し止め訴訟において、きわめて不当な判決を下した。

 本件訴訟は、住基ネットが国民の憲法上の人権、すなわち、国家から包括的に管理されない権利及び自己情報コントロール権としてのプライバシー権を侵害することを理由として、153人の原告らが国、(財)地方自治情報センター及び原告が居住する二府四県を相手取って、住基ネットの差止め等を求めて提訴したものである。本件訴訟において、原告らは、とりわけ次の二点に重点を置いて主張を行った。
(1)住基ネットのセキュリティ(特に市町村の現場におけるセキュリティ)
  が脆弱であり、原告らの権利が危機にさらされていること。
(2)住基ネットに自己の情報を流すか否かを各個人の選択に委ねても住   基ネットの運用上全く支障はなく、住基ネットを全国民に強要する必要性は全くないこと(住基ネット選択制の可能性)。

 本件訴訟において原告らは、住基ネットのセキュリティの脆弱性を立証するために、実際に住基ネットの管理運用に関わる各市町村の担当者の証人尋問を行い、各市町村における住基ネットの管理運用の杜撰さを明らかにしてきた。その結果、被告らが住基ネットのセキュリティが万全であることの根拠として主張してきた各市町村におけるセキュリティ基準の遵守が、各市町村において実際には全く達成されておらず、原告らのプライバシー権が危険にさらされている現状が明白となった。また、被告らは最後まで全国民に住基ネットを強制しなければならない理由をまともに説明することすらできなかった。

 それにもかかわらず、裁判所は原告らの主張について一顧だにすることなく、全て排斥した。判決は、被告らの主張をそのまま繰り返すだけで、住基ネットの本質的な問題を回避する不当なものであり、私たちは直ちに控訴する。
 私たちは、今後も引き続き、住基ネットの廃止を求めて闘うものである。      案内へ戻る


東横イン事件に思う
  −−−批判されるべきは東横インだけなのか−−−


 数年前から、旅好きな友人から「格安航空券を利用して旅行したとき、宿は東横インをいつも利用しているよ」「だって、安いし朝食もタダだよ」と聞いていた。
 その頃から、全国ビジネスホテルチェーン・東横インは「安い」「手軽」「駅に近い」「女性支配人」などをセールスポイントにして、全国各地に進出していた。
 私はよく利用する友人の話を聞いて、「ホテルの施設や規模から考えて、そんなに安い料金でよく経営できるな」と疑問を感じていた。
 今度の東横インの不正改造がばれて最初の社長の記者会見を聞いた時、私の疑問が少し解けた気がした。この社長は、「障害者用の客室や駐車場を設置しても利用は年に1〜2回程度しかない。こんな障害者用の客室や駐車場を設置しても利益につながらない。色々な法律を無視して不正改造したのはすべて会社の利益優先主義であった」ことを正直に悪びれた様子もなく喋っていた。
 ある面では、この社長は日本の民間会社経営者の本音を正直に表現したとも言える。口の上手な経営者からは「バカだな、あんなことを正直に言うとは。もう少しごまかして言えばよいのに」との声が聞こえてきそうである。
 この無責任でいい加減な社長の記者会見後、ホテルの不正改造は全国規模で行われていたこと、また当然多くの障害者団体から抗議と強烈な批判を受け、その後の記者会見では妙に素直に謝罪を繰り返す態度に変化した。
 この問題で私たちは事の本質をしっかり捉える必要があるな、と思ったのはある障害者の親御さんの新聞への投稿記事であった。
 「お金がすべてだと思わざるを得ない世の中で、東横インという一つの民間企業の営利主義だけをやり玉に挙げてたたけば本筋を見誤りはしないか」と延べ、「いつの世も弱者は切り捨てられます。この4月から、毎月支給されていた息子のおむつ代も半額にされます。公的機関のこのような弱者に対する行為の方が、批判にさらされるべき対象なのではないでしょうか」と、国や行政側の障害者支援の欺瞞を訴えていた。
 今全国の多くの障害者やその親御さんたちが抱える不安は、昨年障害者自立支援法が改悪されて、この4月から施設・サービスを利用する障害者は利用料の1割を自己負担する事になったことである。
 いままでは障害の程度で一部の自己負担ですんでいたが、今後は利用するサービスに応じて定率負担となり、施設での食費・光熱費・医療費も実費負担となる。当然重度の障害者ほど生活のサービスが多いから負担もよりきつくなる。
 ある障害者は通所授産所の作業料1万円と障害者基礎年金8万3千円の収入で、家賃や食費など8万円余の最低限の生活費がかかる、そこへ新たな負担がのしかかるので生活がどうなるか?と切実な不安を訴えている。
 「自助努力と言われても障害者に払える能力はない。支えるのは政府の役割のはず。これでは死ねと言うのも同じです」と、親御さんは怒る。
 障害者を差別し建築物を不正改造して利益追求に走った東横インは絶対に悪い。従ってそれなりの社会的制裁を受けるべきである。しかし同時に、この東横イン事件は障害者差別のほんの氷山の一角にすぎないことも事実である。。
 障害者の皆さんが気軽に町に出て行けるシステムが整備されているのか?安心して施設やサービスを受けられる態勢ができているのか?世の中に助け合う相互扶助精神が育っているのか?残念ながら、私たちの社会は障害者の皆さんにとってけっして住み良い社会とは言えない。
 その支援の責任と推進力こそが国や行政などの公的機関であろう。その責任ある公的機関こそがこの事件の責任を問われている。<E・T>


コラムの窓
正社員と非正社員の制度化をなくし、同一労働同一賃金制度の確立を!


 ライブドア前社長の堀江貴文容疑者逮捕をきっかけに、「勝ち組」「負け組」に象徴される経済的格差について「広がっている」という声が高まり、小泉政権が推し進める構造改革に伴う経済格差拡大への批判が強まっている。
 久しぶりの「賃上げ春闘」となる2006年の春闘でも、労働市場の自由化で、派遣社員やパート社員が生産現場でも増えて、雇用の多様化がもたらす賃金格差なども論点となる見通しだが、実際の要求は、利益配分が焦点で、大手では1000−3000円を、中小は定期昇給分を含めて6500円を要求。パートは時給10円以上、が連合の統一目標であり、賃金格差をもたらしている雇用形態の多様化にはあまりふれていない。
 この間の不況下でのリストラや国際市場での競争力の確保のために、正社員を減らし、その代わりに、社会保障も低く、低賃金のパート等非正社員を増加するなど、正社員の減少と雇用の多様化の流れは間違い無く加速している。
小泉構造改革の中心であった、郵政公社の民営化が来年10月に行われる郵便職場では、正規職員一人分でユウメイトと呼ばれる非常勤職員が5人から6人雇えると言われており、職員定数の削減と職員が行う「対面配達」とユウメイトが行う「受け箱配達」という配達制度まで作って、郵便職場の非常勤化を推し進めている。
 郵便局職場によっては、ユウメイトと正規職員の割合が、三分の二対三分の一になるところもあり、新規募集もユウメイトの募集チラシを各戸配布するなどユウメイト採用が中心になっている。
 郵政公社に限らず、こうした非常勤化は今やあらゆる職場に定着しており、雇用の多様化としてクローズアップしている。
 資本は、正社員の削減と低賃金の非正社員化を促進し、全体的な労働コストの引き下げを行って利潤を得てきたのであり、この状態を改善していかなければ、格差是正は行われない!       (光)


そこにある壁

●自由と平等

 ヒトは生まれながらにして自由であり、平等であるという概念は資本主義的生産の発展とともに定着してきたが、いまだ実質を伴わない建前にとどまっている。何故なら、利潤の獲得を目的とする資本主義的生産は経済的不平等を解消しないだけではなく、むしろ拡大再生産するからである。
 従って、法の下の平等というときのその平等≠ニいう内実は経済的不平等を排除しないのであり、憲法29条が財産権を保障しているのはその現われである。アメリカンドリームに象徴される上層社会への移行の可能性は、ますます可能性に過ぎないものとなり、階層の固定化が進み、階級社会が顕在化しつつある。
 社会に存在する壁には経済的背景があり、今日においてはおおむね資本主義的利害の反映であるが、資本主義の未発達によるものも多くある。一例を挙げれば、「バングラデシュにある最大の娼婦街、ドウロトディア。ここには娼婦になることを宿命のように受け入れねばならない少女たちがいる。彼女らは、色濃く残る社会的差別や慣習に縛られ、この信じがたい状況下から、逃げ出す術もないのだ」(「DAYS JAPAN」2月号)
 そこに深く縛り付けられている娼婦の娘のなかには、「ここを出たらどこに行ったらいいの?」「何をやったらいいの?」と問いかける少女もいるという。写真家の谷本美加は、はからずも「自分の子どもには違う道をと願う母親は多いのだが、差別や経済的理由、長い歴史に培われた社会の慣習など、見えない壁が大きく立ちはだかる」と述べている。

●社会的に形成された壁の実態

 社会的な壁の実態を、朝日新聞の新年の企画「そこにある壁」から、さらに紹介しよう。連載@の『人権求めよじ登る』では、スペインがアフリカ大陸に領有する飛び地メリリャ構築した3メートルの二重の壁が紹介されている。これは新天地を求めて越境するアフリカ人を阻む壁だ。連載Aは朝鮮半島を南北に分断する軍事境界線・38度線を取り上げ、これを『家族を引き裂く』壁としている。体制の違いが家族の心まで引き裂いたというものである。
 連載Bではナゴルノカラバフ紛争を取り上げ、『同胞の中でも孤立』しているアゼルバイジャン人避難民の孤立した生活を、「壁は、大人から子どもへと受け継がれている」と記している。連載Cでは、インドネシアの『異教徒婚タブー視』を取り上げているが、インドネシアの婚姻法は「結婚は各宗教の教えに基づく」と規定しているという。無神論者である私にとって全く理解しがたいものであるが、こうした規定はいずれ現実によって乗り越えられるだろう。
 連載Dはイギリスの『移民受け入れ模索』で、移民排斥に対処するために、市民権の儀式(国籍法によって義務づけられた忠誠に儀式)や融和策が紹介されている。儀式では「エリザベス2世と後継者に対し、心から忠誠を誓います」という宣誓を行なうのだが、これが労働党のブレア政権による改革というのだから驚く。連載Eは『ユダヤ国家に固執』という表題で、イスラエルによる分離壁、アパルトヘイト・ウオールの建設を取り上げている。
 連載Fは『道1本隔て貧困区』ということで、「ホームレスでも完全な失業者でもない。住む家があって働いてもいるのに、食べられない家族が増えている」アメリカの実態を取り上げている。通りを境に街を2つに分ける見えない壁≠ェあり、アンダークラス(下層階級)では「未来に何の希望も持っていなかった。チャンスは平等だなんて、ウソだとわかっていた」
 連載Gはカトリックの独身制を取り上げ、『妻帯神父、のけ者に』されている実態を紹介している。それは、単にバチカンが禁じているだけではなく、村人の排斥が厳しい。「カトリック信者が9割を超えるイタリアで、」バチカンの倫理観は人々の意識に根付いている。定めに反した神父と、教え以外は受け入れない人々。間にある壁は厚い」
 連載Hは南アフリカの『地元語黒人に誇り』。今も白人が南ア経済の主導権を握り、貧困を脱出するためには英語が必要であるが、コサ語による映画制作を紹介し、母語に誇りを持つ動きを伝えている。連載Iは『憎悪超え交流に芽』で、30年余りで3000人を越える犠牲者を出したという北アイルランド紛争を取り上げている。宗教対立とされているが、その背景には経済的格差があるだろう。
 連載Jはイランの『戦争で得られぬ自由』で、女性に対する抑圧、表現の自由に対する厚い壁、イランはそれ自体巨大な刑務所≠セと言う。連載Kは中国の『相互理解求め「反日」』を取り上げ、「靖国神社のこま犬の台座に『死』『ね』とスプレー書きした。逮捕され、器物損壊罪で有罪判決を受けた」馮錦華を紹介している。相互理解のないところでは不信は拡大し、憎悪と排斥へと至る。これはわれわれの問題だ。ちなみに、落書きを器物損壊≠キる前例がすでにここにあった。

●見えない壁に抗して

 大阪市が靱公園と大阪城公園で、野宿者のテントや私物を強制撤去した。強制撤去を決定したのは市当局だが、これを実行したのは市職員であった。例の厚遇≠受けてきた人々である。一方、テントを奪われたのは健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を持っているはずの負け組≠ナある。持てるものは自らのその地位を守るための持たざるものを排斥し、持たざるものは命の危機に曝される、両者を分ける壁はアパルトヘイト・ウオールのように高く厚い。
 子どもにGPSを持たせ、街角に監視カメラを設置することを求め、市民的自由の抑圧に手を貸す。他者との連帯より、自らの周囲に壁を築くことに汲々としている、これがこの国の現状である。週刊「金曜日」1月27日号の大塚英志の論文、『他者におびえて「近代」を断念してはならない』はそうした現象を他者への脅え≠ゥら近代からの退歩だと指摘して、次のように述べている。
「しばしば記すことだが近代以前のムラ的な社会では道ですれ違う人が誰かをこと細かに皆知っていた。その者がどこの家の誰の子どもで両親や先祖はどういう人で、ということは互いにわかっている社会としてあった。しかし、近代、ないしは都市はすれ違う相手、下宿で隣り合わせた隣人が誰か分からない」「このわからない誰か、すなわち『他者』としかし『社会』を形成していくことが近代という時代の基本原則である。そこでは、すれ違う人間が犯罪者かもしれないというリスクは当然、ふくまれ、だからこそ、都市文化としてのミステリー小説が近代に発生する」(26ページ)
 三浦展はベストセラーとなった「下流社会」において、ひたすら内向きになっているこの国の実態を階層化≠ニいう切り口で分析している。それは、階層の違いによって生活のあらゆる面で違いが現れているというもので、いささか類型化しすぎの感がある。結婚対象さえ同じ階層から選ぶ傾向があるなど、階層間の断絶が深まりつつあるとしている。
 大阪市の野宿者排除をどう評価するか、当然とする世論も多いようだ。壁の存在は、その壁によって排除されているものには切実だが、そうでないものにとっては存在しないものである。壁を壊し、連帯を築くためには、壁の存在を認識しなければならないのである。          (折口晴夫)     案内へ戻る


全国に広がる「九条の会」の活動

 小森陽一氏の講演会に参加して

 「九条の会」が全国に広がっている。自民党などによる憲法改悪の動きに対して、昨年6月に大江健三郎、小田実、井上ひさし、澤地久枝氏ら著名人9名が憲法九条を守ろうとの呼びかけを発した。それに応える形で、全国の地域、職域、文化団体等々が、それぞれの九条の会を立ちあげて、その数はすでに4000を超えようとしている。
 会の活動は、その名称からも明らかなように、日本国憲法の九条、つまり戦争放棄、戦力不保持をうたった項目を守ることを中心としたものだ。この一点を共通項に、政党や宗派を超えて、様々な立場の人々が対等な資格で手をつなぐ形で、運動が広がっている。
 もちろん日本国憲法には、九条のように支配層が内外の民衆に向ける暴力の手を縛る条項など、進歩的で有意義なことばかりが記されているわけではない。天皇制や私的所有の擁護をうたうなど、反動的な内容がその骨格としてしっかりと埋め込まれている。
 天皇制は、言うまでもなく、民衆の民主主義的意識をくもらせ(人の上に人がいても当たり前)、無責任主義をはびこらせ(何千万人の民衆の命を奪っても責任とらず地位温存)、狭量なナショナリズムによる国民統合で社会矛盾を隠蔽(日本は天皇中心に和をもって尊しとして来た国)する等々のために維持されている制度だ。また私的所有制(社会に対して排他的・剥奪的な性格を有した所有―国有も含む)は、労働者・勤労者の自主的な協同所有(共同占有の基礎の上での個々人的所有)や社会連帯に基づく新たな経済・社会を創造しようとする試みの前に立ちはだかる壁だ。そうである以上、労働者は、いまの憲法を丸ごと至上のものとして擁護するという立場はとれない。
 しかし、現在焦眉の問題となっているのは、自民党や財界による軍隊保持の合憲化、その軍隊の海外展開のいっそうの容易化、あるいは経済・社会の新自由主義的な改造のねらいをどう打ち破るかだ。また軍事強国化や市場競争万能主義に対する労働者・民衆の批判や抗議をより効果的に抑圧、粉砕せんとする新たな仕組みの導入を、いかに跳ね返すかだ。こうした課題においては、私たちは多くの人々とともに手を携えて闘いを推し進めていくことができる。
 私が住む地域でも、昨年から九条の会をつくろうとの声があがり、半年あまりの準備活動が進められてきた。そしてその活動の一区切りとして、九条の会の事務局で活動している小森陽一氏を招いて、講演会を開催した。
 小森氏は、憲法の専門家でも、政治経済の研究者でもなく、日本文学の研究者である。したがってその政治・経済やその歴史に関する発言には、少しおおざっぱな面がないわけではない。しかし九条改悪をもくろもうとする勢力に対する彼の憤りと闘志は十分に伝わってくる。以下に小森氏の当日の講演要旨を紹介する。

■講演要旨

●自民党新憲法案への批判

 自民党案は、自衛軍の保持、自衛軍の国際任務(=海外派遣)をうたっている。これはアメリカの行う無法な戦争の肩代わりを可能にしようというものであり、また戦争に協力しない国民に銃を突きつけるものでもある。
 また自民党案は、憲法が掲げる基本的人権をないがしろにし、「公益」、「公の秩序」の名の下に切り捨てようとしている。
 改憲論者は現憲法を「押しつけ憲法」と批判してきたが、いまはそうは言えなくなっている。改憲を要求しているのはむしろ米国のブッシュ政権である。アーミテージ報告は2国間軍事同盟に基づく集団的自衛権の行使に乗り出すべきだと主張し、パウエルは日本は常任理事国に入りたければ改憲を行って集団的自衛権行使を可能に すべきだと言っている。
 国連憲章と憲法九条との関連を考えることが重要だ。このことの大切さは、メディアではとり上げられていない。大江健三郎さんは、憲法九条の「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」の「希求」の言葉には、倫理観すらにじみ出ていると語っている。この「希求」という言葉に注目して憲法、教育基本法を読み直してみる必要がある。
 国連憲章は、国際紛争の非軍事的解決、先制攻撃禁止、安保理決議に基づく集団的安全保障という原則を掲げている。しかし他方では、これらの原則に則った安保理の行動が開始されるまでの間の、個別的・集団的自衛権をも認めている。日本国憲法は、このことを念頭に置いて、いまの国連憲章のままでは戦争が起きてしまうよ、ということを言っているのだ。日本は、アジアと日本の民衆に多大な犠牲を強いた侵略戦争、原爆等々の教訓を重く、深く受け止める中から、国連加盟国がまだ保持している戦争する権利を放棄すると言い、そのために戦力も不保持とすることをうたったのだ。九条の1項が述べることは国連憲章でも言われているが、本当に大事なことは2項の軍隊不保持なのだ。

●改憲論の背景――資源をめぐる大国の角逐など

 戦後の米国は、アジア各国などで傀儡政権を育て、この傀儡政権への他国からの攻撃(しばしばでっち上げられた)なるものをを口実に戦争をやってきた。しかしいま、傀儡政権はなくなりつつある。フィリピンの民主化、韓国の民主化闘争等々がその例だ。韓国と北朝鮮が南北和解の共同宣言を発したことの影響は大きく、こうしたことによって米国はいままでのように韓国を道具としては使えなくなった。だから日本を使うしかない、という動きになっている。
 アナン国連事務総長は米国のイラク攻撃を侵略戦争だと批判した。それはそうだ。大陸間弾道弾持っているのはアメリカとロシアだけであり、イラクの通常戦力でアメリカ攻撃されるはず無い。しかし米国は9・11を口実にアフガンを攻撃した。そのころ、イラン、イラク、北朝鮮の「悪の枢軸」論が強調された。「テロとの戦争」論だ。米国は自国の防衛を口実にアフガンやイラクを攻撃すると同時に、戦後はじめて「戦争」という言葉も使った。「テロとの戦争」という主張だ。そこでは巧みな世論操作(世論調教)が行われた(小泉首相の「改革を止めるな」も同じ手法の世論操作だ)。イギリスの米国支持は、イギリスがイラクから攻撃される「おそれ」があるというのが口実だった。攻撃の「おそれ」という理屈は、日本の国会で成立させられた武力攻撃事態法と同じだ。これは米国が日本を戦争の道具として使うための法律だ。九条の改憲も同じねらいのもとで行われようとしている。
 いま世界における石油の供給基地=中東が政治的に不安定化しており、また十数年でオイルピーク(資源の絶対的枯渇ではなく商業的コストに見合わなくなる事態)がやってくるとも言われている。代わって注目されているのが、 カスピ海周辺のオイルや天然ガスだ。カスピ海、アフガン、パキスタンを通るパイプラインの大動脈をめぐって、いまロシア、中国、アメリカという三つの核保有大国が激しく争っている。米軍の世界規模の再編の動きは、こうしたことをにらみながら行われようとしている。そしてその中で憲法九条も変えられようとしている。米軍の司令部機能を米国本土から日本に移転させる、横須賀に原子力空母配置する等々の動きだ。これは、米国のための戦争を日本の国民の税金と命を使ってやろうという話しだ。もちろん日本の経済界の利害もある。

●ひとりひとりの言葉で「九条を守る」運動を

 いま東アジアでは、北朝鮮問題をめぐる六カ国協議という多国間の枠組みが、米国と日本の軍事同盟強化のねらいを阻んでいる。同時に憲法九条がアジアの平和と日本の平和を守っている。この憲法九条を守るため、そのお世話になってきた私たちはそろそろ体を張って立ち上がって良いのではないのか。私たちの子どもや孫たちに、私たちの時代は平和だったけれどあなた達の時代は戦争の時代だ、いう社会の手渡し方はできない。 憲法九条をあらためて選び直すための運動に、ひとりひとりが自分の納得した言葉で取り組んでいって欲しい。(H)
 

正規・非正規の共同闘争で
――最低賃金制を考える――


 前号で見てきたように、ここ数年で拡大した「格差社会」で非正規労働者のセーフティ・ネットになるべき「最低賃金」があまりに低いことについて触れた。つい先日にはその低すぎる最低賃金よりもさらに低い賃金を余儀なくされているタクシー労働者の実態や、外国人労働者の隠された「苦役労働」の実態も暴き出されている。それは労働者が人として生きる権利を否定するような、あまりに労働者と労働を侮辱した労働者の無権利状態を象徴するものだろう。
 ここでは労働者の賃金闘争の根本的な立て直しの一つの材料として、賃金の下方硬直性の重しとなってきた最低賃金制(以下=最賃制)について考えてみたい。

■最賃制

 最賃制の歴史自体は長い。古くは19世紀末のニュージーランド(1894年)とオーストラリア(1896年)に始まり、それ以降20世紀にかけて欧米に拡大してきた。そうした背景もあって1928年にはILOで「最低賃金決定制度の設立にかんする条約」(第26号)が成立している。
 最低賃金の決定方法は各国で様々な制度で運用されているが、法律で直接裁定賃金額を決定するもの、労使や中立委員などによる賃金委員会で決めるもの、団体協約で決められた最低賃金を未組織労働者にも拡大して適用するもの、仲裁裁判所で決めるものなどがある。
 労働者の最低生活の確保を目的とした最賃制は、当然のこととして労働組合などの労働者団体の闘いによってしだいに勝ち取られてきた。とはいっても、それ自身の性格から、どの国であっても最賃制現状は厳しいものがある。
 日本では1959年に最低賃金法(1968年に大改正)が制定された。が、労働者の組織や闘いが弱小だったこともあって当初は主として業者間の協定による最低賃金を法定最低賃金とするもので、他国に類を見ないものだった。それが68年の改正によって各都道府県の地方最低賃金審議会の調査・審議に基づいて行政官庁が決定する方式に改められている。現在では労働者の生計費、類似の労働者の賃金及び通常の事業の賃金支払い能力を考慮して定められることとなっており、地方最低賃金審議会(公益代表、労働者代表、使用者代表の各同数の委員で構成)での審議を経て、地方労働局長により決定される。

■小遣い稼ぎ・家計補助

 日本だけに限らないが、最賃制の最大の問題はその額が低すぎることにある。現在の最低賃金の最高は東京都の714円、最低は青森や鹿児島・沖縄などの608円だ。この額はすでに前号でも触れたように、最高の東京都の例でも1日8時間、1ヶ月22日労働日としても12〜13万円でしかなく、生活保護の支給額よりも低い。
 労働者の基本的なセーフティネットとしての最低賃金がなぜこうした低レベルのまま据え置かれてきたのだろうか。その理由の一端は最賃制成立の事情そのものにある。
 多くの国でそうだったように、最賃制は家内労働や零細職場などで働く年少者や婦人労働、一時雇用などを対象として出発したものが多かった。そうした分野では労働組合の組織化がほとんど及ばない領域であり、また年少者や婦人労働は多くの場合、一家の稼ぎ頭である男性労働者の補助的収入のためのものであり、それだけ労働者の要求や闘いの中心になることはまれだった。
 しかし日本で言えば、最低賃金が現時点でこれほど低レベルなのは創設以後の歴史的な経緯が大きい。端的に言えば、高度成長期の専業主婦のパート・アルバイトと適合する側面があったからだ。
 58年に最賃制が制定された時点は、日本の賃金が大企業の本工労働者を中心とした年功賃金として個々の企業内で決められる、いわゆる年功序列賃金制が確立される局面と同時期だった。春闘が始まったのは1955年だ。それ以外の労働者は大企業本工労働者を頂点とする二重構造、三重構造とも言われる賃金格差を余儀なくされ、大企業や労組からの距離が離れるほど低賃金を余儀なくされてきた。
 一方、同時期に進んだ核家族化と女性の専業主婦化は高度経済成長期における典型的な家庭モデルとされてきたが、その専業主婦の職場進出は必ずしも一家の生計費を稼ぐためというよりも、主たる働き手である夫の収入を補うもの、あるいは収入よりも社会活動への参加そのものに目的がおかれているケースも多かった。高校生など年少者のアルバイトも小遣い稼ぎが多かった。それを側面から後押ししたのが扶養手当や扶養控除など、家族単位の経済システムなのだが、それはさておき、そうした事情もあって主としてパートや有期労働の賃金の指標となってきた最低賃金は、差別賃金の克服という課題が置き去りにされたまま、低額に据え置かれてきた。それでも夫たる大多数の正規雇用の男性労働者の賃上げで、パート賃金の低額据え置きがさほど大きな問題にならなかった。

■変わる最賃制の重み

 それが今では状況は様変わりした。最賃制に関連づけられたパート・有期など、非正規雇用が爆発的に増え、単に一家の稼ぎ頭の補助だとはいっていられない人が急増してきたからだ。今では正規労働者2人に対し非正規労働者1人の割合だ。家計の補助ではなく自分自身の賃金に頼って生活する人や、またシングルマザーをはじめとして扶養者を抱えてパートなどで働く人も増えている。そうした人が片手間仕事や一時的な家計補助労働を規制する最賃制に縛られながら働いているというのが実情なのだ。
 それに自活といっても非正規労働者の少なくない部分は、パラサイトシングルといわれるような親の家に同居することで住居費や食費を抑えながらやっと生活しているという人も多い。現在20代30代の子供の親は高度成長期をくぐり抜けた団塊世代を中心とした世代だ。その世代は一世代前と違って、正規雇用で働いている限りでまだ子供を同居させるだけの収入がある世代だ。
 問題は団塊の世代をはじめとした親の高齢化と、その世代が退職してから後どうなるかという問題である。今現在は多少の「かじられるスネ」がある場合でも、退職後は賃金はなくなり、年金も減額や支給先送りだ。今は年功賃金でかじられるスネがあったとしても、次世代はそのスネも細る。現在と同じ構図が次世代も続く状況にはない。そうした場合に現在のような最低賃金ではやっていけなくなるのは明らかだ。
 しかし非正規雇用の厳しさが増すと同時に、そうした状況を改善していく新しい可能性も生まれている。
 まず第一に、最賃制に左右される労働者が激増していることである。それだけ最賃制が自身の身に直接関わる労働者が増えているのだ。
 第二は、そうした最賃制に左右される労働者の社会的な位置が以前に比べて様変わりしていることだ。すでに触れたように、いまではパートやアルバイト労働は、年少者や婦人の小遣い稼ぎや家計補助的な労働ではなくなっており、扶養義務を負う家族を持っている。扶養義務が果たせるだけの賃金を確保できなければふつうの生活は出来なくなる。それだけ最賃制の引き上げに切実な労働者がふえているわけだ。こうした事情そのもののなかに今後の最賃制闘争の再構築の新しい可能性と必然性が生まれてきているのだ。

■正規・非正規の共同闘争を!

 いま経団連や厚生労働省は、産業別の最賃制を廃止して地域最賃制に一本化することを目論んでいる。すでに昨年11月には厚生労働省の試案が出されている。なぜ廃止かと言えば、産業別最賃制が特定の熟練労働者を対象としてるだけに若干高いからだ。高いとはいっても最高で兵庫県の塗料製造業で838円でしかない。経団連がわずかばかり高い産業別最賃制を廃止しようとするのは、最低賃金を一本の賃金表にし、あわせてそれを限りなく低レベルに据え置くことで、全体の賃金水準の下方硬直性を維持したいためだ。
 本来は全産業に対して産業別の最賃制を確立するのが労働者にとっての大きな課題なのだが、まずは経団連など、資本・企業の側での賃金抑制へのこだわりに対抗できるだけの労働者の関心の拡大と取り組みの強化が不可欠だろう。これまでは最賃制といっても、労組に組織されている正規労働者にとっては別世界の話でしかなかった。しかし最賃制に直接関わる労働者が激増しており、また多数の非正規労働者と一緒に同じ職場で働くという事態が生まれ、非正規の低賃金が正規雇用の賃金引き下げ圧力として働くことはすでに多くの正規労働者も肌で感じていることだ。いまでは最低賃金の引き上げは、正規・非正規問わず労働者の共通の利益になっている。
 これまで連合はパート労働者の一律10円引き上げや、最低賃金の引き上げなどを要求してきた。また全労連はどこでも誰でも一律1000円の最低賃金の獲得を要求として掲げている。一律10円の賃上げなど、果たして要求として成立するのか、という問題もあるが、少なくとも最低賃金引き上げに向けた闘いの体制づくりが時代の要請であることは間違いない。
 いま低賃金のパートなど、少しでも良い時給を求め超人的ながんばりで上級パートをめざす個別事例などがテレビなどでもなど報道されている。裏を返せばパートなどの個人的努力が企業側にもてあそばれているわけだ。そうした現状を突破するためにも、パートなどすべての当事者や非正規・正規労働者の団結した闘いで処遇の改善を実現するルートを切り開いていく必要がある。
 現に、パートや派遣労働者、それに請負労働者など、賃金や労働時間、権利など含めて雇用形態別の当事者による闘いも始まっている。最賃制の引き上げにはいつの時代でも労働者による現実の闘いが不可欠だが、現実的にはそうした雇用形態ごとの賃金底上げの闘いと最賃制引き上げの闘いを結合していくことが当面の課題だろう。そうした闘いは、非正規化という新しい状況の中でかつてない現実性と可能性を持っている。(廣)       案内へ戻る


中華帝国の再興とアジア世界の台頭 (寄稿) C

五、アメリカに代わる覇権国家としての中華帝国の再興
 
 京大教授の中西輝政は、「帝国としての中国」(2004年東洋経済新報社刊)の中で、G・シーガルの論文を引用して次のように述べている。
 「『1800年当時、中国は世界の工業生産の33%を担っていたとされる。それに対してヨーロッパは全体を合わせても28%、アメリカに至っては0・8%にすぎなかった。1900年には、中国のシェアは6・2%にまで低下し、ヨーロッパは62%、アメリカは23%に変化した。そしてそれから約100年後、つまり改革・開放による急速な成長が始まっておよそ20年経った1997年、中国が世界のGNPに占める割合は、依然3・5%にすぎないのである。一方アメリカは約26%を占める』つまり依然として、21世紀に中国が、順調な成長を続けても、かつて占めていたシェアを回復し、いわれているような経済超大国の地位に達するかどうかは定かではないことがよくわかる。」(P292)
 福沢諭吉以来、「脱亜入欧」を国是とし、欧米崇拝とアジア蔑視の思想の下、欧米の科学技術の導入によって帝国主義国として「繁栄」を謳歌してきた日本の知識人には、「後進的」な中国やアジアが、「先進的」なアメリカや欧米に取って代わろうとしている現実が、信じられないし、信じたくもないのである。
 しかし、現実は非情なもので、中国の実質的な経済力はG、シーガルや中西の願望とは異なって、もう既に世界の17〜8%に達しており、軍事力や科学技術開発力においてもアメリカや日本を急迫し一部ではそれを凌ぎつつあること、そして国内には多くの深刻な問題を抱えながらも(それは米・日・欧でも同様である)アメリカにつぐ世界第二の大国となった、もう既になっている!という事は客観的な事実である。ちなみに、かつてはあれほど「世界第2の経済大国」を連発していた日本帝国主義ブルジョアジーが、最近はその事を一切口にしなくなったのは、今でははっきりと中国の後塵を拝して、「世界第3位」になったことの彼らなりの表現であるだろう。
中国史を振り返ってみれば、ローマ帝国の滅亡以来、中国は、いくつもの王朝の交代を経ながらも、基本的に1500年にわたって世界第一の超大国であり続けてきたのであり、アヘン戦争以来100年余にわたって帝国主義列強によって散々に食い荒らされ半植民地の地位に貶められていたことこそが、中国にとって見れば極めて例外的な、極めて異常な状態だったのである。中世において数百年にわたってヨーロッパを圧倒してきたもう一つの超大国であったイスラム帝国は、近代に入ると、積年の恨みを晴らすかのように、イギリスを始めとしたキリスト教帝国主義によって逆襲され、ずたずたに分割され、徹底的に蹂躙され、今では見る影もなくなってしまった。(注4)それに較べると中国は、孫文=毛沢東と続く一貫した反帝反封建の革命によって、イスラムとは逆に、チベットや東トルキスタンやモンゴルの一部までをも併呑して戦後世界に現れたのである。 
 今からもう30数年前、国連で中国の加盟が問題になっていた ニき、毛沢東は、「国連が入れたくないのであれば中国は入らなくてもよい。中国はそれだけで一つの世界なのだ。やるべき事はたくさんある。」と述べたと伝えられたが、確かに中国は、アメリカよりもイギリス一カ国分ほど広く、ロシアを除くヨーロッパ全体の1・6倍、インドの3倍、日本の25倍もの領土を持ち、アフリカ全体の1・6倍、ヨーロッパ全体の1・8倍、南米の2・5倍、アメリカの4・5倍、ロシアの9倍という13億人を超える人口を持っており、1900年当時の世界人口が15億人であったことを考えれば、もうそれだけで一つの世界であり、世界第一の超大国であろう。
 中国の指導部は、「中国が力をつけるまでは、外に対しては姿勢を低くして対立を避け、曖昧にぼかした対応に徹すべし」という、有名なケ小平の「十六文字の遺言」に従って、まだ頭を低くて国際社会に対応してはいるが、しかし、最近の動きを見ていると、その経済力の増大や軍事力の増強に自信を得て、次第に頭をもたげ始めているように見える。

 今後中国は、かつての日本が東京オリンピックや大阪万博を通じて「世界第二の経済大国 」にのし上がっていったように、更に昔でいえば、第一次世界大戦の敗北による荒廃の中か 辜iチスドイツがベルリンオリンピックの開催を通じて再び頭を持ち上げていったように、2008年の北京オリンピックや2010年の上海万博の開催による国威の発揚を通じて、アメリカに対抗する超大国として、その姿を世界に現して来るであろう。アジアにおける中国の求心力はさらに強まり、円に代わって元が、ドル・ユーロに続く世界第三の国際通貨として登場してくるであろうし(注5)、アセアン+3の東アジア経済共同体や東アジア共同体形成の主導権を、中国が完全に握ることになるであろう。
 そうしてここまで来れば、日・英・仏・独・露などの各帝国主義国をもしのぐ堂々たる中華帝国の再興であり、覇権の交代をめぐる本格的な米・中激突の開始であり、そしてそれはもう始まっているのである。

 歴史の流れからいって、米・英・日の反動的三国同盟ばかりでなく、500年にわたって世界を略奪し続け、世界人民の90%に塗炭の苦しみを与え続けた欧米による世界支配のシステムは次第に崩壊し、それに代わって東アジア世界が世界経済の中心として登場して来るであろうし、中国に続いてインド・ブラジル・イランなどの大国が次々に頭角を現して来るであろう。
 この歴史の流れを阻止しようとして米・英・日の反動的三国同盟は必死に策謀をめぐらしているし、EUやロシアもこの三国同盟と中国との間で複雑な動きをする事は間違いなく、人民運動とのせめぎ合いを含めて20世紀を超える激動=経済的破綻と国家の崩壊、戦争と暴動と革命、被抑圧少数民族の相次ぐ独立など、予測を超えた事態が展開するであろう。
 最近アメリカを襲ったハリケーン「カトリーナ」によるニューオリンズなどの目を覆うばかりの惨状は、2億8千万人のアメリカ人のうち20〜25%の人々が、飢餓線上の極貧層を形成しているというアメリカの現状を浮き彫りにしたが、世界中からの流入資金によって食いつないでいる世界一の覇権国家アメリカの内実は実は白アリにくい荒らされた巨木のごとき惨状であり、世界一の負債国家であることを、まざまざと示している。相次ぐ内憂外患の中でアメリカのガラ(大崩落)もそう遠くはなさそうに予感される。

(注4 前号掲載部分の注)パレスチナ、レバノン、ヨルダン、シリア、イラク、サウジアラビアなどの人々が、英・仏・米などの帝国主義によって細かく分断された今でも、同一のアラブ人としての意識を強く持ち、一致協力して米・英・イスラエルとの闘いを進めていること、イラクでゲリラ闘争を展開しているザルカウイ氏が「ヨルダン人」であるとか、アメリカとイスラエルによるレバノン大虐殺に怒りを燃やして闘争に入り、アメリカ軍のサウジアラビア駐留に怒って9・11を引き起こし、アメリカに賞金を掛けられているオサマ・ビンラディーン氏が「サウジアラビア人」であるなどということは、米英帝国主義世界の側からの勝手な分類であって、アラブ人にとってはほとんどたいした意味を持っていないようである。そしてこのことは、米英帝国主義を追い出し、イスラエルを解体した後に、アラブ世界はアラブ民衆自身の手によって再び一つになるであろうと、 我々に確信させる。

(注5)この7月22日に行われた中国の通貨「元」の切り上げとドルとのリンクの切り離し、複数通貨のバスケット制への移行は、アジア(中国・シンガポールな・ミヤンマーなど)や世界(ロシアなど)各国通貨のドル離れを一層加速し、ドルの相対的地位の一層の低下と、元の相対的独自性の強化をもたらし、アジア債券市場の開設や東アジア経済共同体に向けての創設に向けた動きを一層加速させるものとなるだろう。         (続く)     (北山俊)


色鉛筆−−民間保育園日誌4

 新しい年を迎えたと思っていたら2月も半ば、毎日があわただしく過ぎていく。保育園は「保育に欠ける」ことが入園の要件とされていて母親が働いていないと入れない。私自身、15年前、専業主婦の時、末娘を保育園に入園させる為には、勤務証明書が必要だと言われ電機部品の内職を半年ほどやった。「子供がいるんだから、保育園に入らないと働けないのにおかしいなあ」と矛盾を感じたことを思い出す。その後改良され、今では求職中でも入園を申し込むことができるようになってきた。しかし、利潤と効率を第1にする現在の資本主義社会では、お金と時間がかかる子育てには冷たく、その為に「出生率1.29」という少子化が進んでいる。
 厚生労働省は、子育て家庭の現状を調査した所@子育て負担が大と感じる人の割合が「共働き家庭」男性9.8%、女性29.1%「片働き家庭」男性10.7%女性45.3%A子育てに自信がなくなることがよくある、又は時々あると感じる人の割合が「共働き主婦」46.7%「専業主婦」70%という結果が出た。仕事をしていない女性達が子育てに負担や不安を感じている人が多いことが分かり『全ての家庭に対する子育て支援を市町村の責務として明確に位置付け、全ての家庭に対する子育て支援を積極的に行う仕組みを整備する』と児童福祉法を改正した。行動計画の中に「子育て短期預かり支援」「子育て相談支援」「民間、NPO等における子育て支援サービス」等をあげている。
 その中の「子育て短期預かり支援」を緊急一時保育として各地の保育園で始まっており、私の住んでいる市では、公立保育園より、民間保育園の方が先に始めている。昨年度まで公立保育園で働いていた私は緊急一時保育という具体的内容は知らなかった。そして今年度から民間保育園で働き始め、4月、1歳児22名(保育士4名)でスタートして、泣いてばかりいた子供達もやっと落ち着いた6月のある日、「来月から緊急一時保育1名来ますからよろしく」と主任が言うので「えっこのクラスに入るんですか」と聞くと「そうです」と言い「誰が見るんですか」と尋ねると「みんなで見てください」と言うので驚いてしまった。母親が3番目を出産するため、T君を見てくれる人がいないので2週間だけ保育園に来ることになった。突然、知らない所に預けられたT君は、1日目から大泣きで他の子供達もいるので充分だっこしてあげることもできず、ずっと泣き続け、それに連れられて不安になって泣く子供も出てきて大騒ぎだった。担当している子供だけでなく、緊急一時保育の子供達も一緒に保育するというのだからすごい!!すごいと言っても全て保育士に負担がかかるだけだ。緊急一時保育の子供を保育しても私達の賃金が上がるわけでもないし、給食のおやつも余分に作るわけでもないのだから、預かれば儲かるということなるらしい。
 何かおかしいなあと疑問を感じている時、偶然に以前娘がお世話になった保育園の先生と出会い、今年度は公立保育園で緊急一時保育を担当していると聞き、詳しく尋ねてみた。今年度より公立保育園でも緊急一時保育が始まって、副園長と臨時パート保育士2名が専任として担当しており専用の部屋で保育しているということだった。話を聞いて驚くとともに公立保育園と民間保育園では緊急一時保育がこんなにも違うことがはっきり分かった。今私が働いている民間保育園は、3年前、公立保育園が民営化された保育園なので、民営化になるということは働いている保育士に負担がかかるということなんだと納得してしまった。やはり、民営化はいいことではない。(国鉄がJRになってから様々な問題が起こっている)
 その後も緊急一時保育の子供達が入れ替わり来ていたり、途中入園の子供も入り(慣れるまでに時間がかかり大変〜)今では定員いっぱいの24名で来月も1名入園するという。これでは私達保育士に負担がかかり大変なので「緊急一時保育は断って欲しい」とリーダー保育士が言うと「補助金をもらっているから断るわけにはいかない」という園長の返答だった。「その補助金は何に使われているのか?」その謎を同僚達と考えている。(民間保育園の運営はすべて法人で行われている)子供達の人数が増え、声を出すことが多くなった為か、年を重ねてきた為か、昨日から突然声が出なくなり、不自由な生活を送っている私だ。(美)   案内へ戻る


「医療制度改革」その背景と問題点(中)

都道府県単位の新「高齢者保険」を導入

 政府は2月10日、「医療制度改革法案」を閣議決定し、国会に提出しました。このままでは「20年後には56兆円に膨れ上がる」と見込まれる医療給付費を「45兆円に圧縮せよ」とせまる経済財政諮問会議の圧力を背景に、「高齢者の自己負担増」や「地域どうしで医療費抑制を競い合う」しくみを打ち出しているのが特徴です。そこで法案の具体的中身を見てみましょう。

●高齢者の自己負担をアップ

 今回の改正案では、高齢者の患者自己負担を上げることが打ち出されています。
 現在の医療保険制度で、現役世代の患者自己負担は基本的に3割ですが、70歳以上の高齢者は1割(高所得者は2割)に抑えられています。これを段階的に上げて行こうというのです。
 まず第一段階として、今年の10月から70歳以上のうち「高所得者」(夫婦で年収621万円以上)について現在の2割を「3割に上げる」としています。この段階では高所得以外の一般高齢者は1割のままです。
 次に第二段階として、2008年度からは、高所得以外の一般高齢者についても「70歳から74歳まで」は、現在の1割から「2割」に増やします。75歳以上の「後期高齢者」については、高所得者以外は1割のままとされます。
 なお「高所得」の基準も現在の「夫婦で年収約621万円以上」が、2008年8月から「520万円以上」とされます。
 この他、療養病床に入院する高齢者の食費・居住費の負担を10月から増やし、長期入院を抑制するとしています。
 このように高齢患者の自己負担を段階的に増やすことで、財界は医療給付費(税と保険からの支出分つまり企業の負担に直結する分)を減らすことをねらい、さらに厚労省は自己負担増による受診抑制効果で国民総医療費も抑制が期待できるとしています。

●75歳以上に「高齢者医療保険」導入

 2008年度から、75歳以上の「後期高齢者」全員を対象とした「高齢者医療保険」を創設するとしています。
 75歳以上の人口は約1300万人ですが、現在はその大半が市町村別の「国民健康保険」(自営業者及び無業者対象)に加入しているか、または現役会社員に扶養され「健康保険組合」の「被扶養者」扱いになっているかです。これを「国保」と「健保」から切り離し、ひとまとめに「高齢者医療保険」に加入させるというわけです。
 これまでサラリーマンの「被扶養者」として保険料を負担していなかった人も、高齢者保険に加入し、保険料として年額3万7千円(当初2年間は半額)を負担しなければならなくなります。
 新しい高齢者保険の運営主体は「市町村の公域連合(都道府県単位)」とされます。そして、その財源の内訳は、1割が「被保険者」(75歳以上の後期高齢者)自身の保険料、4割が「健保」や「国保」つまり74歳以下の世代の保険料からの支援、5割が「公費負担」(国が4割・都道府県が1割・市町村が1割)とされます。
 このしくみは、現在の「老人保健制度」と似ていますが、「75歳以上」を分離し、「都道府県単位」に括って、財政を明確化したところに特徴があると言えます。
 これにより、企業にとっては、社員の「健康保険組合」からこれまで「被扶養者」だった「75歳以上」を切り離すことで、健保からの直接支出(診療報酬)を減らすことができ、その分、企業の福利厚生費の削減につなげます。また厚労省にとっては、都道府県単位のしくみを導入することで、高齢者の医療費抑制の責任を自治体に明確化させる狙いがあると言えます。

●政府管掌健保も都道府県別に

 医療保険の都道府県別再編は、高齢者新保険にとどまりません。中小企業の会社員(約3千5百万人)が加入する「政府管掌健康保険」も、「公法人」が運営することにして、保険料率も、現在の全国一律から、都道府県別に設定することに変えるとしています。
 「政管健保」は、そもそも大企業のように独自で「健康保険組合」を運営することが困難な中小企業の受け皿として、全国単位で運営されてきたものです。しかし、不況による保険料収入の減少や、高齢化による老人保健制度負担金の増加で、財政赤字が続いてきました。そこで、これを都道府県別にして、診療報酬支出の多い地域は高い保険料を設定し、同時に財政の責任を自治体に負わせることで、支出抑制を図ろうというわけです。
 このように医療保険を都道府県単位に再編することが、果して厚労省が期待するように、医療費の適正化のメカニズムを発揮することができるのでしょうか?もし、そうならなければ、これは中小企業労働者の健康に対する、行政の責任を切り捨てることにつながりかねません。

●都道府県に「医療費適正化計画」

 医療保険の都道府県別再編とワンパックで提案されているのが、国と都道府県が策定する「医療費適正化計画」です。この中で、生活習慣病の予防や長期入院の是正を図るとしています。そして計画の実効性を確保するため、保険者に「40歳以上の被保険者を対象にした糖尿病予防検診と保険指導」の実施を義務付けるとしています。「治療中心から予防重視への転換」で医療費を抑制するというわけです。
 これと連動する形で「地域医療計画の見直し」を通じて、脳卒中・ガン・小児救急などの医療連携体制を位置づけることが明記されています。「地域医療計画」とは1980年代の第2次医療法改正で、都道府県をいくつかの「医療圏」に分割し、それぞれの医療圏ごとに「地域医療計画」を策定し、入院ベッド数を適正化することから始まった制度です。
 しかし、都道府県の行政職員が、保健所を中心に、地域の医師会と協議して「計画を策定」するものの、実態はそれぞれの医療機関における供給者側の利害が中心になり、必ずしも地域住民の実態に即したものになっていない場合が多いのが現状です。
 この「地域別の医療費適正化」の発想は、東北の沢内村をはじめ先進的な市町村で、地域ぐるみの予防活動を実施し、結果として医療費が少なくて住むようになった事例がヒントになっていると思われます。先進的な市町村の事例を、保守的な(と言ったら失礼でしょうか?)都道府県の行政官僚にさせようとしても、果してうまくいくのか、かなり疑問があります。

●少子化対策には手厚く?

 さて、高齢者を中心に自己負担を増やし、医療費適正化計画で都道府県単位に抑制を図る一方で、少子化対策で手厚くする改正も織り込まれています。
 まず「出産育児一時金」を現行の30万円から35万円に増額するとしています。これは出産にかかる分娩費用やその後のおむつ代などに当てられますが、実際には35万円でも不足なのが現状です。
 また患者自己負担についても、これまでは「3歳未満は2割」に抑えられていますが、これも「小学校就学前」まで拡大するとしています。しかし、これもすでに各自治体では、これを上回る乳幼児医療費免除・軽減の制度があるところが多く、国の後追いでしかないとも言えます。
 さらに「へき地」と並んで「小児科、産科の医師不足」に対応した対策を、都道府県の「医療対策協議会」を制度化して推進することや、前述したように「地域医療計画」に小児救急の医療連携体制を位置づけることなども盛り込まれています。
 しかし、肝心の問題が欠落していないでしょうか?少子化に拍車がかかっている要因のひとつは、男女ともに正規労働者になれずフリーターやパートどうしのカップルが増えています。このため、会社の健保組合からも排除され、高い国保料も払えず国保にも無保険状態になっている人が増えています。年金の空洞化とも共通していますが、この問題がないがしろにされたままでは、「少子化対策」も絵に描いた餅になりかねません。
 以上、医療制度改革法案の主なポイントを見てみました。法案の概要は2月11日付けの新聞各紙に掲載されていますので、ぜひ精読されることをお勧めします。次回は、これを踏まえて、法案の問題点や働く者の視点に立った医療費問題の解決策について考えてみたいと思います。(松本誠也)



なんでも紹介欄・・・「九十歳の人間宣言」 住井すゑ

 岩波ブックレットNO・272、「九十歳の人間宣言」住井すゑ著をご紹介する。
 生前の住井さんの、1992年6月に日本武道館で8500人の聴衆を前にした記念講演「九十歳の人間宣言−−−いまなぜ、人権が問われるのか」の内容を完全収録したもので、明快にして痛快な「人間宣言」の数々にいくたびも大きな共感の拍手がわきおこっている。住井さんの発言のうちのいくつかを紹介したい。
 ◎「天皇が亡くなったら、つぎの天皇はどのようにして選挙するの」と小学生の子どもに問われ動転している母親に、「憲法第一条、第二条には、天皇は、国の象徴にして、この地位は世襲である・・・と書いてある。天皇は選挙で選ぶのではなく、その子ども、子どもと世襲、親の地位を子どもが継ぐようになっている。だから、そう思っているお母さんにとってみたら、子どもの発言はひじょうに不敬に値する。極端で左翼的なという感じがされたのでしょうが、天皇の地位は象徴であって、それは世襲で受け継がれるという、そのことこそおかしいのではないでしょうか。天皇の地位が世襲であるかぎり、世襲というのは封建主義ということなんです。封建社会というのはどういうことかというと、世襲で家柄が決まっていく。世襲、すなわち封建なのです。日本が敗戦後民主国家になったのなら、天皇は、当然、選挙で選ぶべきものなんです。それをだれも選挙で選ぼうと言わないし、天皇もまた、『ぼくは選挙で選んでもらったのでないから、その席につけない』とも言わずに(笑)、変なものを着て、変な儀式をやって、天皇で通るという、これは、日本はまだまだ民主国家じゃないんですね(拍手)。」
 ◎「そういうふうに、日本の歴史というのはどこまで信じていいのか、疑えばきりもないのです。万世一系というけれども、途中で切れてもいるでしょうし、なかには子どものいない天皇もいたでしょうからね。必ず天皇の子どもが男の子が生まれてくるとは限らないですから、なにも、万世一系だからありがたいなんていう必要ないのです。人間ひとりひとりは、みんな尊い存在なのですから。なぜ、万世一系だから尊くて、万世一系でなければ尊くないのか。ここのけじめをどうしてつけるのか、わたしは納得いきませんね。」「ここでわたしがあらためて言うまでもなく、地球人類の母性は、ぜったいに、人以上の人も生まないし、人以下の人も生まないのです。」
 天皇制に対しても、こうしてきちんと明確にとらえて発言している。2月7日から新聞、テレビで軒並みトップニュースで扱われた「秋篠宮紀子さま」の「ご懐妊」報道さわぎに思う。いったい今、この国でひとりの女性のお腹にこどもが宿ったとして、何をそんなに大騒ぎをする必要があるのか。やはり日本は身分社会なのだ。
 昨秋の天皇の娘の結婚に関するマスコミ報道も、おかしかった。「宮さま」と「黒田さん」と表現し、結婚後には「黒田清子さん」変わった。あくまで一般人は「さん」であり、皇族関係者なら「さま」と呼ぶ。これはまるで鉄則のように、どのマスコミも横ならびで一致の不気味さ。放送作家の永六輔氏が「愛子ちゃんでいいじゃない」と言っていたが、同感だ。昭和天皇の死去は「崩御」、皇族の妊娠は「ご懐妊」、呼称は「さま」・・・。辛淑玉さんが言うように、この国の天皇や皇族に関する対応は、北朝鮮の「将軍さま」を笑えぬほどに、そっくりでうりふたつなのだ。
 戦争中の、いまだにとり残された問題が数々ある。戦争責任、従軍慰安婦、中国残留日本人孤児、被爆者等など一切を不問に付したまま、皇族に拍手を送るわけにはいかない。さらにもまして、人間の身分に上下があるなどと認めてはならない。
 住井さんは、本著の中で中国の老子の「兵器は凶器」ということばを引用し、いかなる軍備も「凶器である」としてばっさりと否定している。今のイラクへの「人道復興支援」だなどというまやかしも、決して許さないだろう。14年前の講演であるにもかかわらず今にもじゅうぶんに通じる内容だ。ぜひいちど手にとってほしい。(澄)    案内へ戻る


父の置きみやげさざんか≠フ葬送曲として

 他者に何かを求めることほど残酷なものはない。いつの時代からか雲の上に登りあげられて、一切の自由≠奪われ、やっとこさなみ≠フ人間に近づいた生活ができるようになった天皇家の人々には、またぞろ厄介な靖国≠ヨ詣でよというアホな政治の要人がいっぱい。
 私の父・母・姉は戦前・戦後を生き抜き、いなくなったし、残っている姉が病を持ちながら生きねばならない(みんなのために)お人をみているが、墓≠ヘあっても詣でないことにしている。墓≠ヘ私の胸の中にあって、パッとしなかったけれど、この人たちを私は美しい言葉で飾る方を選ぶ、私だけの言葉で。
 庶民の間では、墓℃Qりしようがしまいがどうでもいいという自由≠轤オきものはあるし、生存中に自らの墓≠建てて今後の生きるよすが≠ニする人もいるだろう。
 天皇家の人々だってNOもYESも自らの意志で、一人の人間としての行動をとっていいはず。肉声で語る場もなくて、またぞろ雲の上の操り人形の如く動かねばならないとしたら・・・。私ならゾッとして生きた心地もしないだろう。NO、をいえずドンパチにかり立てられていった世代、私たちは幼くて、全体の雰囲気に踊った世代ゆえに。
 しかし、今思い出すのは、そんな時代でも小学校の校長さんが朝礼の時に壇上で、「健康の測定はウンコ、お尻をふいた紙を見てみろ」とか、そんな話しかされなかった。今にして思えば、消極的ながらえらいお人だったと思う。その校長先生はツル≠フように痩せていて仙人みたいな好好爺であった。
 もう目前に死≠オかない年になって、私は咲きたくないが「枯れ木に花を咲かせましょう」といった類の昔話こころ≠ェ感じられるようになった。石川の森の生活から大阪へ出て来て、木が好きだった父の置きみやげの木、2本。1本はマキ、これは、もうあかんで・・というところまで枯れてしまった。原因がミノムシ樹液まで吸い尽くされているのを発見、1ヶ月以上をかけてミノムシと格闘、よみがえって今は緑を楽しませてくれている。
 もう1本はさざんか、これは、ついによみがえらず、昨日、植木鉢から引き抜いて葬ることにした。年をとると原始の時代にいるような気分になるものらしい。弥生式の大地(母)に偶然、縄文式の父が植えられて、とにかくえらい時代を生きぬいた人のあかし≠フような根も枯れてしまったさざんか=B今日はゴミ屋のおじさんが、なんでも燃やしてしまう釜へ運んでいくそうだ。禁じられた遊び≠フ心境も過ぎ去ったように思う。生きがい≠ニは一房のミカンの味であるかも? そのすべてが今、危ういのでは? 2006.2、3 宮森常子


最近の原発事情

 2月10日、京丹後市の中山泰市長が関電の原発建設に係わる事前環境調査の撤回を求めたことを明らかにしました。関電の森詳介社長は「地元の考えはそうだとしても、すぐに分かりましたとはならない。まずは社内でよく検討したい」なんて言っているようですが、これで久美浜原発もお仕舞いです。
 関電が京都府久美浜町の原発建設を計画したのは1975年5月。それから30年余を経て、6町合併によって誕生した京丹後市の中山市長は、賢明にも@すでにエネルギー需要は頭打ち、A環境と調和した発展めざす市に原発はなじまない、と述べています。すでに昨年12月、旧久美浜町が受けていた電源立地地域対策交付金の申請も見送り、国策のひも付き買収金とも決別しています。
 その一方で2月7日、佐賀県の古川庚知事が「安全は確保された」として、九州電力玄海原発のプルサーマルを容認することを明らかにしました。玄海町も近く計画に同意するものと報じられているので、難航していたプルサーマルが九州からスタートする可能性が出てきました。この国の原発稼動の危うさを知りつつ、国策追随と買収金に目がくらんだ無責任な判断というほかありません。
 国策というのは、捨て場のない使用済み核燃料を資源≠ニ偽り、六ヶ所村に運び込む核燃料サイクルというペテンです。その六ヶ所村の核燃料再処理工場では、実際の使用済み核燃料を使うアクティブ試験の準備が進められています。これが始まってしまうと、巨大な工場が核によって汚染され、もう後戻りできません。
 ドイツのカルカーに建設された高速増殖炉SNR‐300は、州政府が運転を許可しなかったために核汚染される前に廃止になり、現在では「核水ワンダーランド」というテーマパークになっています。日本の「もんじゅ」はこれと同型同規模の炉で、運転開始から3ヶ月余でナトリウム漏れ火災事故を起こしてしまいました。にもかかわらず、愚かな最高裁は昨年5月30日、「もんじゅ」設置許可を無効とした名古屋高裁金沢支部判決を覆し、その再稼動に事実上のゴーサインを出してしまいました。
 日本の原発事情は、簡単にいうと糞詰まり状態にあります。使用済み核燃料を再処理するという虚構の下に六ヶ所村に運び出さないと、原発の核燃料を交換できないところまで来ています。たとえその再処理工場が稼動しても、2020年には高レベル核廃棄物のガラス固化体が約4万本も発生してしまいます。最終処分は地下1000メートルの地層処分が予定されていますが、数万年は放射能を出し続けるという厄介なこのゴミの安住地はありません。
 危機を孕みながら漂流する原発をどこで止めるのか、止められないで破滅の再処理と「もんじゅ」再稼動へと進むのか、今その分かれ道に私たちは立っています。軍事から始まった核エネルギーの解放≠ノよって、人類は新しい危機を招き寄せてしまいました。その平和利用というのは虚構に過ぎず、めざすべきは核エネルギーからの解放≠ネのです。    (晴)

こんなものいらない!危険、ムダ、不経済
ストップ再処理!シンポジウム
日時・2月19日(日)午後12時半〜4時
会場・東京ウィメンズプラザB1ホール
主催・グリンピース・ジャパン
資料代・1000円

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