ワーカーズ 318号 20006年4月1日
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ドビルパンに痛打!
「新雇用法」に反対し、仏全土で三百万人がデモ
三月二八日、若者の解雇を容易にする政府の新雇用策に反対するフランスの労組と学生団体は事前の通告通り全国ストに突入した。これで二月以来四度目の共同闘争、本格的な全国統一ストとしては記念すべき第一回目となり、新雇用政策を巡る闘いの最大のヤマ場を迎えた。このストには全仏二百五十ヶ所で、パリ八十万人等総計三百万人が参加した。
最も影響を受けたのは交通機関と学校関係のストだ。国鉄では約三十%のスト参加率で列車運行がまひし、パリでも地下鉄と市バスの運行が半分程度に減少した。学校関係でもスト参加率は五十五%に達して休校となった。また航空関係でもキャンセルが多数でて、郵便、電力公社もストに突入している。主要新聞は発行を取りやめ、国営テレビ・ラジオも、関係労組は、「情報ゼロの日」を提起した。ニュース専門局は、朝から音楽を流し続け、まさに全国ゼネストの様相だ。この示威行動は全仏の八主要労組と四学生・高校生組織が共同で提起したもので、徹底して闘う仏の政治的伝統は今でも健在であった。
フランスの新雇用策「初採用契約」とは、ドビルパン首相が青年の雇用を促進するためとして、一月半ばに打ち出した新政策で、二十六歳未満の青年については企業に社会保障負担分の三年間免除などの特典を与え、従来一ないし三ヶ月だった「試験採用期間」を二年間に延長し、この間の解雇を自由にするとのとんでもない法案だ。これに対して「若者を使い捨て労働者にするもの」「不安定雇用拡大」との批判から反対運動が開始された。
三月二十七日、ドビルパン首相は、二十九日に労組・学生組織代表に会談を提案して、批判が集中する「二年の見習い期間」と「解雇手続き」の問題を論議することを初めて示唆し、譲歩の姿勢を示した。しかし労組指導部や学生組織代表は全面「撤回」を主張して今回の行動は貫徹された。この法案自体は、二十九才以下の失業率二十三%、つまり仏におけるグローバリズムの展開過程で生まれたのではあるが、ただちに組織された大衆的統一行動で反撃できる仏の政治的伝統は何とも頼もしい。サルコジ内相は交渉を迫るなどドビルパンは、この全国統一行動により、したたかに打ちのめされたのである。(直記彬)
崩れゆく労働者の生活―貧困家庭の急増と格差の実態
朝日新聞報道の衝撃
三月十七日、朝日新聞は「公立の小中学校で文房具代や給食費、修学旅行費などの援助を受ける児童・生徒の数が0四年度までの四年間に四割近くも増え、受給率が四割を超える自治体もある」と報道して読者に衝撃を与えた。それによると、東京や大阪では就学援助費を受給している児童・生徒は、児童・生徒の四人に一人、全国平均でも一割強に上っており、経済的な理由で子どもの学習環境が整いにくい家庭が増え、地域的な偏りも目立っていると伝えた。
文科省の調査によると、就学援助費の受給者は0四年度で全国で約百三十三万七千人と00年度からの四年間で約三七%増加し、受給率の全国平均は十二・八%である。さらに都道府県別に詳しく見ると最も高いのは大阪府の二十七・九%で、東京都の二十四・八%、山口県の二十三・二%と続く。市区町村別では、東京都足立区が突出しており、九三年度は十五・八%だったのが、00年度には三0%台に上昇、0四年度にはさらに一段と高まり四十二・五%にまで達している。
この増加の一般的な背景には、児童・生徒の保護者のリストラや給与水準の低下がある。厚生労働省の調査では、常用雇用者の給与は0四年まで四年連続で減り、00年の九四%まで落ちたことがあげられる。
三月二十七日、総務省が発表した「全国消費実態調査」は概略この事実を裏付けている。それによると、0四年十一月末時点の一般世帯(単身世帯を除く)の金融資産や宅地、住宅資産などを合計した平均の家計資産額は一世帯三千九百万円となり、前回調査(九九年)と比べ十一・一%減少した。地価下落で宅地資産が減少したのが主な原因だが、下落幅は前回調査の十八・四%より縮小した。
調査対象の約五万四千世帯を年収順に並べて十等分し、一番高い層の平均の家計資産額を一番低い層の平均の家計資産額で割ると三・四となり、前回調査の三・一と比べ資産格差の広がりが裏付けられた。資産別で見ると宅地資産が十八・六%減、耐久消費財等資産が十五・三%減、住宅資産が二・三%減、貯蓄から負債を引いた金融資産は六・一%増えたという。
就学援助費支給の実態
ここまで就学援助費については説明なしに話を進めてきた。では一体就学援助費とは何であろうか。現行学校教育法は、経済的な理由で就学に支障がある子どもの保護者を対象に「市町村は必要な援助を与えなければならない」と定めている。保護者が生活保護を受けている子どもを要保護児童と呼ぶが、これらの児童に加えて、市町村が独自の基準で「要保護に準ずる程度に困窮している」と認定した子どもを準要保護児童と呼んで支給対象児童としているのである。
生活保護が国法による全国画一的なものに対して、就学援助費は違うのだ。先の法律でも規定されていたが、問題は「市町村は必要な援助を与えなければならない」と定めていること、つまり給付の基準は自治体によって異なっているのである。
全国一となった足立区の場合、対象となるのは前年の所得が生活保護水準の一・一倍以内の家庭であるという。具体的な支給額は年平均で小学生が七万円、中学生が十二万円であり、修学旅行費や給食費は、保護者が目的外に使ってしまうのを防ぐため、校長管理の口座に直接、振り込んでいるという。この点はどこの自治体でも悩みの種となっている。
足立区内には受給率が七割に達した小学校がある。この学校で六年生を担任する教員は、鉛筆の束と消しゴム、白紙の紙をクラスに持参して授業を始めるのだという。クラスに数人いるノートや鉛筆を持って来ない児童に渡すためだ。
この学校では、卒業文集を制作するため、クラスの児童に「将来の夢」を作文させようとしたが、三分の一の子が何も書けなかったという。「自分が成長してどんな大人になりたいのか、イメージできない」からだというから話を聞くだけで何とも暗然としてしまう。
足立区の公立中学校の教員は、進路指導で、私立高校を併願する生徒が減ったと感じている。また「三、四時間目にきて給食を食べて、またいなくなる子がいる」とも話した。 実際、東京都二十三区と都内三十市町村を見ても制度の説明や事務手続きが違う。「子どもたちが愉しく勉強できるための制度」との説明がほとんどなのに「教育費に困窮する保護者」のための制度だと説明している自治体もある。さらに問題なのは先に書いたことで、就学援助支給対象家庭の認定基準である。東京都の中だけで、四人家族の年間収入が約五百五十五万円以下から三百五万円以下と大きな差があるのである。
さらにこの問題の深刻さに拍車をかけていることがある。就学援助費については、0四年三月の法改正で、0五年度から自治体が独自に資格要件を定めている「準要保護児童」への就学援助費に振り向けられていた国庫補助金が義務教育国庫負担制度から適用除外になってしまったことである。多くの自治体では0六年度の予算編成に向け、準要保護児童の受給資格要件を見直すことにしており、支給基準を引き下げる動きも加速されている。
拡大一方の教育格差
既に知れ渡った事実として、東京大学や早・慶大などの特権校の学生は、普通の労働者が退職間近になってもほとんど手に出来ない年収一千五百万から二千万円を三四十才台で手にする家庭の子息がほとんどを占めている。彼らのほとんどが小中学校から塾通いを強いられており、高校にもなると教科ごとに別の進学塾に通う受験生もいるのだという。このように、将来のために子どもを学習・進学塾に通わすのに一カ月に数万円もかける家庭がある一方で、学用品や給食費の就学援助費を受ける子どもがこの四年の間に増加している事実がある。子どもの将来を決めかねない教育環境が、義務教育段階でこんなに差があるのである。
こうした中で小泉は生活保護に対しても地域格差を容認する方向性を打ち出し始めている。まさに就学援助費は、その先駆けとして、義務教育国庫負担制度から適用除外されを一般財源化されてしまったのである。今後、自治体が財政難を理由に、この制度の縮小を図ってくるだろうことは想像に難くない。
建前としてしか存在してなかったとはいえ、教育の「機会の均等」もここまでくれば誰もが日本社会の真実を見ざるをえない。
私たちは教育格差の拡大に反対し、全ての労働者民衆が社会の主人公となる社会のために闘っていかなければならない。 (猪瀬一馬)
志賀原発運転差し止め判決と浜岡原発
石川県志賀町の北陸電力志賀原発2号機の運転差し止めを認めた3月24日の金沢地裁判決は、電力業界と国に衝撃を与えた。巨大地震が起きると原発事故が発生し、地域住民が被爆する危険性があるというのが判決理由である。
こうした原発の耐震安全性が争点となっている訴訟は、全国で主なものだけでも六ヶ所の原子力発電所で起こっている。(表@を参照)
この点で、今回の志賀原発の運転差し止めは、全国初の画期的な判決で他の訴訟にも大きな影響を与えることは間違いない。特に、東海地震の発生が予測されている静岡の浜岡原発訴訟にもっとも影響を与えるであろう。
それは今回の判決内容からも推測できる。判決は(1)「立地と予測される地震規模」について、志賀原発の北陸電力が想定したマグニチュード(M)6.6は小さすぎる。政府の地震調査委員会が原発近くにある断層帯について、地震が起きた場合は7.6程度になる可能性があると指摘していることを取り上げた。
(2)「安全への備え」についても、昨年8月の宮城県沖地震における東北電力女川原発の敷地内では、想定を上回る揺れを観測したことを重視して、何重もの防護策が必ずしも有効に機能すると言い切れないと指摘している。
(3)「揺れの計算」についても、原子力安全委員会が定めた耐震設計の審査指針は、30年前につくられた計算方法をそのまま使っており、妥当性がないと不備を指摘した。
こうした判決内容を浜岡原発に当てはめてみると、東海地震の予測規模はマグニチュード8で、安政東海地震からはや150年も経っており、30年以内の発生確率は87%と言われている。(表Aを参照)
さらに、志賀原発2号機は最新の改良型沸騰水型炉(ABWR)で営業運転が始まったばかりの最新型の原発である。一方の浜岡原発5基のうち、1〜4号機は旧来の沸騰水型炉(BWR)で、最も古い1号機などは営業運転が始まってから丸30年も過ぎている老朽原発である。
北陸電力の志賀原発と中部電力の浜岡原発の危険性を比較すれば、30年以内に起きるであろうと言われている東海地震の方が、地震規模でも切迫性の面でも危険性が格段に高いことは、誰の目にも明らかである。また、原発そのものも最新鋭の志賀原発より旧型の浜岡原発の方が崩壊する危険率が高いこともこれまた明らかである。
今回の判決は、03年に浜岡原発の運転差し止め訴訟を起こした「浜岡原発運転差し止め訴訟原告団」にとっては追い風であり、その判決が注目される。(若島三郎)
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コラムの窓・ウィニー騒動
ファイル交換ソフト「ウィニー」を介した個人情報の流出が相次いでいます。「ウィニー」を巡っては、開発者である元東大助手金子勇氏が著作権法違反幇助の罪に問われているので、情報漏洩の責も「ウィニー」に帰されようとしています。このソフトの評価を確定するのは私の能力を超えていますが、しかし、今の流れはどうもおかしいのではないでしょうか。
3月15日、安倍晋三官房長官が「ウィニー」を使わないようにという発言を行ない、「ウィニー」性悪説はさらに深まったかですが、こうしたウィニー狩り≠ニでもいうべき動きは、問題の本質を隠すためのものではないでしょうか。この点について、JCA‐NETの西邑氏は次のように指摘しています。
「はっきり指摘しておきたいのだけど、安倍さんが記者会見で言ったことは見当ちがいだ。最も実効性の高い安全対策は、現在のWinnyが持っているセキュリティホールをなくした『新バージョンWinny』を開発して配布すること」
つまりこうです。金子氏をムリな容疑で逮捕し、不完全なソフトを放置したために、この間の個人情報漏洩となった。Windowsは次々とウイルスに感染しているけれど、その都度、セキュリティホール対策を行なっている。Winnyもそうしておけば、より安全なソフトになっていたはずだ。
それでは、この間どのような情報が漏洩したのでしょうか。岸和田の郵便局で顧客情報31件流出、愛媛県警で捜査資料などが流出、NTT西日本で顧客情報237件とグループ社員情報約2000件が流出、郵政公社九州支社で簡保加入者リストなどが流出、書記官のPCから東京地裁の個人情報が流出、NTT東西フレッツユーザー約1400件分の顧客情報が流出、東京京橋郵便局の職員のPCから顧客情報が流出、等々。
具体例でみると、福岡県の嘉穂郵便局職員の私物PCがウイルス感染し、インターネット上に簡易保険加入者リストなど194件の個人情報が流出していたことを、日本郵政公社が3月8日に公表。問題は、この職員が「ウィニー」を使用していたことではなく、個人のパソコンにそうした情報があるということです。個人のパソコンのウイルス感染は個人の問題に過ぎませんが、そのパソコンから仕事にかかわる個人情報が漏洩するとなると、もう個人の問題では済みません。
もちろん、漏洩の直接的な責任はその個人にありますが、企業体の情報管理や仕事の在り方こそ問われなければならないでしょう。郵便局の例でいうなら、貯・保では顧客情報は事実上個人持ち≠ノなっていて、優績者ほどそうした情報をたくさん持っているのです。それが漏洩するのは、その情報をインターネットの接続した個人のパソコンに保存するようになったからです。
労働者の立場から言えば、仕事は職場だけ、仕事時間内だけにしとこうよ、ということでお仕舞いです。一方で、仕事を持ち帰らないといけないような状態をつくっておいて、他方で、個人情報を持ち出してはいけないという。「嘗めんなよ」と言ってやりましょう。 (晴)
「格差春闘」に終わらせるな!
知恵を出し合い戦線拡大を!
3月15日の春闘一斉回答日、「5年ぶりの賃上げ」回答が続々と報じられました。業績回復組の自動車・電機は「トヨタは満額の1000円」「日産も700円」「日立と松下は500円」と有額回答があいつぎました。その一方で三菱重、川崎重、石播重などの造船重機は「賃金改善には応じず一時金・高齢期・育児で対応」と明暗が分かれました。さらに新日鉄、住金などの鉄鋼は「継続協議」と着地点が見えない状況です。他方、イオン、イトーヨーカドーなどの流通大手では、「パート社員の時給5円から20円超のアップ」が回答されました。しかし大多数のパート労働者は、賃上げ交渉すら持てない状況です。へたをすれば「格差拡大春闘」になりかねません。そうさせないため、春闘後半戦へ向け、大企業も中小企業も、正社員もパート社員も、派遣社員もフリーターも、あらゆる立場から知恵を出し合いましょう。
正社員の課題は「オーバーワークの軽減」
今回の「5年ぶりの有額回答」は、かつての春闘パターン(「鉄の一発回答」から「私鉄」スト、さらに「中小零細」へ)のような、労働者全体に波及する春闘相場を形成するほどの影響力を期待することはできません。また賃上げ額も、5年におよぶ賃金抑制を取り戻すには程遠いものです。
にもかかわらず自動車・電機大手が、ささやかではあれ賃上げに応じざるをえなかったのは、製造部門、事務・販売・開発部門を問わず、この間厳しい人員削減が行なわれ、残った労働者には、サービス残業や年休未消化に見られるように、オーバーワークが蔓延し、ストレスや過労で病休者が続出する、心身ともにギリギリの状況に置かれており、このままではモラール(企業への帰属意識)が崩壊しかねないからです。
造船重機も「有額回答なし」ではすまされないため、「60歳以降の生活設計研修制度(川崎重)」、「育休を小学3年まで拡大(石川島播磨)」と、何らかの制度改善を回答せざるを得なかったのです。
正社員労働者の共通の課題にひとつは、リストラで絞られた人員でのオーバーワークによる過労ストレスの軽減です。賃上げがわずかかゼロなら、せめて労働時間と人員だけでも正常化させる要求で追撃すべきです。
地味な闘いですが、途中退職や産休・育休で穴の空いた欠員を補充させる等でし、残業を減らせる環境を獲得することや、職場に「労働時間適正化委員会」を設置し、サービス残業の実態把握や人員補充・増員の必要な部署を確定すること、年休消化率の向上や必要なら「計画年休協定」を結ぶこと、ストレスによる病休者の復帰や思春期の登校拒否児を抱えた労働者のため「短時間正社員制度」を検討するなど、倒れずに働き続けられる職場作りは、賃金改善と並んで切実な課題です。
パート・派遣・フリーターの課題は「仕事給」と「雇用継続」
流通大手のイオン、イトーヨーカドー、マイカル、等ではパート社員が職場の主力労働者となっていることから、労働組合が組織され、時間単価5円、10円、20円といった賃上げが回答されています。たった10円でも、例えば週30時間のパートなら、月額当り1000円を超えるわけですから、正社員の1000円と比較しても、決して小さくない言えます。
しかしパートの時間単価は、もともと正社員に比べて、あまりにも低すぎます。この際、正社員と同様の業務に従事しているパートの仕事について、きちんとした「職務評価」(仕事の難度、責任度などを客観的に分析し評価する手法)を実施し、「仕事給」の確立へ、抜本的な改善を要求すべきです。
流通大手のような「主力パート」に対して、多くの中小零細企業では、パート社員は少数派で、団結もしにくい状況です。正社員の組合があればそこに加入してパートの要求を主張していくなど、正社員と非正規労働者の共闘で、労働基準法の遵守や福利厚生の利用などを要求していくことが課題です。組合がなくても、従業員組織があれば、そこで話し合いをする道があります。
パートが人間扱いされない、ひどい会社も多くあります。あまりにもひどい仕打ち(セクハラや嫌がらせ的配転・解雇)があれば、個別労働関係調整法で労働委員会に相談し、訴える道もありますし、地域に合同労組(ユニオン)があれば、相談することもできます。「泣き寝入り無用」です。
またパート労働者はほとんどが「短期雇用」で、常に「雇用更新」の心配をしながら働かなければなりません。「改善を要求したら雇用更新を拒否されるのでは?」という不安を無くすため、労働組合として理不尽な更新拒否に歯止めをかける「雇用継続協約」を締結することも課題です。
派遣労働者は、派遣先と直接交渉できない厳しい立場に置かれています。気骨のある社長が派遣先と交渉し、まず人材派遣料金を上げさせ、適正なマージン率を経て、派遣労働者の時間単価に反映する仕組みです。「社長、もっと頑張ってくれ、これだけ働いてるじゃないか」と要求しましょう。
派遣会社は自分の社員の労働を高く売るため、派遣社員にスキルアップを要求します。パソコンの認定資格を取るのに、自腹を切っている派遣社員もいます。この際、雇用保険の教育訓練給付金制度と組み合わせ、スキルアップ補助手当を要求してはどうでしょう。
失業と短期就労を繰り返すフリーターの立場は、ハローワークも交渉の場所です。まず雇用保険が確保できる職を要求しましょう。フルタイムなら最低6ヵ月、パートなら最低12ヵ月の雇用期間があれば、雇用保険に入れます。次に離職しても失業手当(基本手当)や公共職業訓練が受けられ、その後の就職の目処を立てる環境作りになります。あまりの短期雇用を横行させないよう、地域の労働組合が公共職業安定所や自治体と交渉することも、地域雇用春闘の課題です。
「ひとりの小さな手、何もできないけど、それでもみんなの手と手を合わせれば、何かできる」(本田路津子「ひとりの小さな手」)を歌いながら、春闘のすそ野を広げるため、知恵を出し合い、連帯しましょう。(松本誠也)
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変えよう!賃金概念
――賃金闘争の将来展望を考える――
3月15日に主要な民間大手の賃上げ結果が出た。結果的には5年ぶりの有額回答を獲得したことで、長期にわたって続いてきた賃金抑制からの転機になるという見方もできる。が、今年も企業業績のばらつきに左右される傾向を打破することは出来ず、しかも企業利益が史上最高にまで膨れあがった中での低水準の決着に、形骸化した春闘の反転攻勢への光も見えなかったのが現実だ。
他方で、連合では最低10円の賃金引き上げを求めたパートについては、現時点で13円程度の引き上げ回答があった。これを賃上げと評価できるかどうかは微妙だが、少なくとも正規労働者の賃金に対して低位固定化という現状に突破口をあけたとはいえないだろう。
今後は中小の賃金引き上げ要求に対する回答へと、春闘は第二幕へと移っていくが、いまさら春闘の評価などそれほど意味があるとは思えない。ここでは目先の賃上げ結果に一喜一憂することなく賃金闘争の根本的な立て直しに向けた賃金闘争の方向性を考えてみたい。
■空洞化している賃金闘争
春闘については、総評から連合へと労働戦線が再編される前後から旧日経連主導による「生産性基準原理」や「企業の支払い能力論」に封じ込められてきた歴史がある。これは全産業的には賃上げは生産性向上の範囲内に押さえること、また現実の賃上げは個々の企業の支払い能力の枠内の抑制するというものだった。
実際、連合の賃上げ要求はこうした経営側のガイドラインに沿った範囲に封じ込められてきた。とりわけ00年春闘ではトヨタ自動車の会長でもあった奥田経団連会長の「賃上げなどとんでもない」という鶴の一声によってゼロ回答が確定したように、あくまで企業側の思惑一つで決まってしまうのが実情だった。
今年の春闘でもはっきりしていたことは、労組の賃上げ要求は労働者の生活実態に根ざした要求でもなかったし、また労働への正当な対価の要求でもなかった。あるのは膨らんだ企業利益に対するか細い分け前の要求だった。「増大した企業利益を家計にも配分すべきだ」と賃金引き上げの「正当性」を主張した労組幹部の声が賃上げ闘争の性格を端的に物語っている。要はいまの大多数の労組幹部にとって、賃上げとは企業が利益を増やしているから要求できるものでしかないのだ。これでは不況下や業績が悪い企業では賃上げ要求が出来なくなるのは当たり前である。労働力に見合った賃金という原則が、ここでは企業利益の従属変数でしかなくなっている。
なぜここまで追い込められてきたのかといえば、総評時代後期でもそうだったが、連合労働運動というのは個々の企業から自立した労働者の団結に基礎をおいた運動や組織ではないからだ。連合は労使協調の企業内労働組合の連合体でしかなく、連合に代表される現実の賃金闘争では、個々の企業にとって強力な圧力となるような、企業横断的な賃上げ要求や闘争態勢など期待すべくも無かったという以外にない。
では名ばかりになった賃金闘争を根本的に立て直しにはどうすべきなのだろうか。羅列的に問題提起したい。
■賃金闘争の将来展望
◇賃金=独立変数
まず賃金とは労働力の対価なのだ、というあたりまえの原則を再確認したい。
支払い能力論では賃金は企業が得た収益の中から支払われるもので、必然的に賃上げも企業収益の一部を配分してもらう、というふうに見える。賃金は企業利益の従属変数になってしまっている。
しかし、賃金とは企業が営利活動を行うためには欠かすことの出来ない前提条件であって、企業にとって利益の増減にかかわらず支払わなければならない固定費なのだ。労働者の生活がより高い賃金を必要とする状況になれば、企業は利益の如何に関わらずそれを支払わなければ企業活動は継続できなくなる。賃金はあくまで独立変数として位置づけられなければならない。
これは企業側の賃金論と対極にあるものだ。だから企業は実質的に固定費となるベースアップを嫌い、一時金などで処遇するという立場だ。賃金概念に関するこの壁を打破する必要がある。
◇属人給ではなく仕事給
次は賃金は属人給(人を格付けする)ではなく、仕事給(仕事を格付けする)として位置づけることだ。いまでは多くの企業の賃金体系は能力給にしろ成果給にしろ、結局は属人給だ。これは労働者を個々に査定できる制度で、労働者の企業への従属を強化する性格を持っている。
仕事給は個々の仕事の格付けというやっかいなハードルがある。が、これを労働者が集団としてやり遂げることが出来れば、賃金に対する労組の、ひいては労働者自身による決定権が強くなり、それはまた労働者の団結の土台ともなる。これも長い歴史の中で職務給と職能給という賃金原則の衝突として後退を強いられてきたものだが、改めて賃金の性格を変える必要がある。
◇同一労働=同一賃金
賃金性格の変革が重要なのは、同一労働=同一賃金という労働者の団結形成の土台となる賃金論と密接につながってくるからだ。これはあらゆる労働条件の均等待遇を求める立場でもある。
いまでは正規労働者の相対的な高賃金は、正規労働者を取りまく非正規労働者の低賃金によって維持されている側面が強い。今年の春闘での有額回答も、平成不況の中で正社員が減らされ、低賃金の非正規労働者に置き換えられた結果、企業のコストダウンによって企業の収益構造が「改善」された結果、企業利益が拡大したことを背景としている。いわばリストラ→コストダウン→企業業績の回復→賃上げというサイクルだ。こうしたサイクルを前提とした若干の有額回答に甘んじるとすれば、結局労働者の二重構造を前提とした一部の賃上げ構造を追認することになる。その結果は労働者の分断支配そのもので、結局は労働者総体の企業への従属的立場を固定化するだけである。
◇シングル単位の賃金
同一労働=同一賃金というと、家族責任を負っている一家の大黒柱と、若年単身者や家計補助の主婦パートが同じ賃金になってしまう非現実的なものだ、という受け止め方がすぐ出てくる。現行の「能力給・成果給の年功的運用」という賃金体系の上では確かにそうなってしまう。しかしいまでは共働きが増え、必ずしも家族賃金形態が不可侵のものではなくなっている。「家族単位賃金」から「シングル単位の賃金」への根本的な転換は可能かつ現実的になっている。現に企業側も、家族持ちとそうではない人に賃金差別があるのはおかしい、との理屈で家族手当や住宅手当などを廃止する企業も増えている。これもシングル単位の働き方が増えていることの反映だろう。
◇児童・住居手当の外部化
シングル単位の賃金体系に転換すべきだとはいっても、現に子供の養育費・教育費や住居費は高額になる。それは不要であるどころか、形態を変えて充実させていくべきなのだ。それは子供や家を持つ個々の「世帯主」に個々の企業が支給する賃金の一部としての「扶養手当」「住居手当」としてではなく、賃金から切り離して個々の企業の外側に「児童手当」や「住宅手当」制度として創出することで解決すべきものだろう。
たとえばここ数年、公明党の主張に沿って児童手当の「拡充」が進んだ。これは特別扶養控除の廃止などとバーターで、しかも公明党の選挙対策として実現したことで評判が悪かった。だが公的な児童手当の拡充そのものは、労働者が個々の企業への従属から部分的に自由になるわけで、その分だけ労働者の企業からの自立を後押しする。
できればその児童手当は行政制度、すなわち税金でまかなわれるものではなく、企業の拠出金によってまかなわれるべきものだ。税金では支給額が低額に止まらざるを得ないからだ。現にイタリアやフランスでは全額企業負担となっている。
個々の企業にとって子供や家を持つ労働者への特別な負担は、持たない労働者との間で不公平になるし、持たない労働者だけを雇用する動機にもなるとして回避する傾向がある。が、企業にとっても世代を超えた労働力の更新は企業の長期的な存続にとって不可欠なのだから、共通の社会的負担として児童手当、住宅手当の原資を拠出する義務があろうというものだ。すべての企業に対して、雇用する労働者数に比例した児童手当、住宅手当を拠出させれば、企業間、労働者間の不公平はなくなるし、子を持つ労働者への拒絶対応も説得力を持たなくなる。
■めざそう!生活保障と団結をめざした賃金体系
他の付随的な課題は省略するとして、「賃金は労働力の対価」「仕事給」「シングル単位の賃金」「児童・住居手当の外部化」などが実現すれば、同一労働=同一賃金はまったく現実的なものになる。これが実現すれば正社員とパートだけでなく、青年単身者や中高年の家族持ちの基本賃金は原則同額でも生活できる賃金制度になる。雇用形態はどうであれ、同じような仕事を同じ時間携わっていれば、どこでも誰でも同額の賃金を得られるようになれば、その時初めてすべての労働者は共通の利益の元に団結することが可能になる。
こうした賃金制度が実現すれば、もはや個々の労働者は個々の企業にしがみついている必然性はなくなる。企業を変えても同じような仕事に就けば同じ額の賃金が得られ、子供の養育費なども社会的に支給されるとなれば、労働者は個々の企業にしがみつくことも人格的に従属することもなくなり、初めて個々の企業から自立した位置に立つことができる。賃金闘争も個々の企業内の闘いではなく、集団的な、社会的な闘いになる。その時初めて労働者は巨大なエネルギーを結集して闘うことが可能になる。
こうした将来展望は、まさにこれまで経営側がそれを忌避し、それと対極の賃金概念と賃金体系、それに企業に従属的な労組をつくってきたわけだから、その実現は生やさしいものではない。現実は様々な闘いと若干の制度的獲得といった局地戦や陣地戦を繰り返しながら前進していく以外にないだろう。しかしそのためにも、労働者の賃金闘争に関して、目先の500円玉に一喜一憂することなく、長期的な展望を明確にした上で、目前の闘いに奮闘することが必要なのではないだろうか。(廣)
福祉の場における虐待を考える
●あとを絶たぬ虐待
高齢者虐待や児童虐待のニュースがたびたび報道されます。2000年に「児童虐待防止法」が、2005年に「高齢者虐待防止・擁護者支援法」が成立しました。これらの法律では、虐待を発見した場合には児童相談所や市町村等に通告をすることを義務づけています。また児童相談所や市町村の介入力を高めるために、児童相談所や市町村は重大な虐待のおそれがある場合には家庭内に立ち入り、調査をすることができるようになり、生命への危険性が認められた場合には保護をしなければならない、とも規定しました。
虐待は殴るけるのなどの暴力的行為ばかりでなく、今日ではその人の心や身体、経済性を奪うことなどとして、広くとらえています。加害者側には、自分が虐待を行っているとの自覚のない場合すらあります。
高齢者を例にとると、高齢者のためになると思って行っているケアが虐待となっていることもあります。夜間におもらしをしないように介護者が高齢者に必要な水分を飲ませずにいることで水分不足による脱水症状を起こすこともあります。これも虐待に含まれます。認知症高齢者は何度も同じ事を繰り返し話しますが、介護者は「また同じ事を言っている」と思って無視をしがちですが、話しかけている本人からすれば無視されることはつらいことです。何度も話をしていることは忘れても、無視をされているという心理的な寂しさは何時までも心に残ります。転倒を予防するために車いすにY字帯などで固定することも虐待です。
「高齢者虐待防止・養護者支援法」の虐待の定義では、身体的虐待・心理的虐待・性的虐待・経済的虐待・介護世話の放棄などがあげられていす。詳しくは以下の表にまとめました。(児童や障害者等の虐待もほぼ同様に定義されています)
今回は主に知的障害者に対する施設内での虐待、援助者による虐待に、ついて述べてみたいとおもいます。
●知的障害児施設での虐待
1995年実施の知的障害者愛護協会による援助者を対象とした人権に関する調査によると「あなたは、この1年間で体罰をしたことがありますか」の問いに対し、「ある」が43・8%、「ない」が56・2%で、ほぼ半数が体罰を行使したと答えています。また「体罰をどう思いますか」の問いに「理由があればよい」が42・9%、「いかなる理由があろうと体罰はいけない」が46・6%、無回答10・5%と体罰肯定のほうが上回る結果が出ています。
中村3)の調査によれば児童指導員、心理治療職などの「体罰は必要」と答えた者に対して、「体罰必要」と誰から指導されたか、との問いに対して「職場の同僚、先輩が最も多く67%あります。等差報告の中にわずか1名ですが、「研修会講師」から体罰の指導を受けたと答えています。これは教育者側すらが、まだ体罰を援助法のひとつであると考えているという実態を反映したものだと思います。
●社会福祉科の学生に対する「体罰」意識調査
市川1)が行った社会福祉学科の学生の「体罰」に関する意識調査(1999年)では、日常的に他の利用者に対して暴力が見られる知的障害児のAくんへの対応として体罰を行うことをどう思うか、との質問に対し、57・6%の学生が「必要であれば体罰を行う」と答え、その理由として「言葉で注意をしてわか 轤ネければたたく」「A君と同じことをして、痛みをわからせる」などの理由があったとしています。また「体罰は絶対行わない」と答えた学生は36・4%しかいなかったといいます。さらに石川は調査対象の学生のほぼ全員がかつて親や学校の教師から何らかの体罰(暴行)を受けていた、との調査報告も行っています。
西原2)も社会福祉学科の学生に対し、体罰に関する意識調査を行っていますが、結果は「体罰は時と場合を選んでなされるなら、施設利用者の処遇方法≠ニしては有効な手段になり得る」と答えた学生が例年約60%強、一方「体罰を施設利用者の処遇方法≠ニして用いることは絶対に許されない」と答えた学生は約30〜40%であったと報告しています。
二つの調査から見えてくることは、やがてソーシャルワーカーやケアワーカーになるであろう学生の意識が処遇としての体罰≠肯定しているということです。処遇とはどういうことであるのか、体罰と虐待との関連性などを深く吟味もされていないであろう学生の段階において、「処遇としての体罰(虐待)」を肯定する意識が育っているのです。
知的障害者の施設内で「援助の一環として」体罰(虐待)が加えられることが珍しいことではなく、これから専門職として援助にかかわる予備軍でもある学生も体罰(虐待)を援助の一環として認めています。このような考え方を持った福祉専門家の卵が半数もいるのは何故なのか、またそれを改善していくためにはどのようなことがなされなければならないのか、これからの課題は多くあります。
●「専門職」とは?
障害者や高齢者等のお世話をする職種(ケアワーカー)の国家資格には介護福祉士があります。また相談や家族との調整役をしての相談員の職種(ソーシャルワーカー)としての国家資格には社会福祉士があります。どちらも名称独占の資格であり、資格がなくても同じ職種で働いている人たちも多くいます。問題は、資格の有無ではないことは、明らかです。先の例でいうならば、「処遇としての体罰」が肯定されるのであれば、処遇としての体罰を実行した場合の効果を客観的データとして発表し、討論していく必要がありますが、そのような検証は福祉現場ではほとんど行われてはいません。福祉労働者自身による、自らの労働の内容の問い直し、検証が組織されていく必要があります。
●劣悪な福祉職場の労働条件
シルバービジネスがもてはやされ、コムスン、ワタミなど福祉と全く関係のなかった企業が参入し、福祉産業は今最も活気ついている部門のひとつです。しかし、そこで働く人たちの労働環境はいまだ措置制度時代の劣悪な状態のままか、それ以下の労働条件下に追いやられています。正社員の構成率が低くなり、非常勤化が進んでいます。ヘルパーにおいては、職業としては成り立たないほどの低い水準のまま維持されています。
「福祉は人が育たない」とよくいわれます。しかし、それは国家自体が福祉に必要とされる人を育てていくことに重きを置いていないからではないでしょうか。
労働の現場からリタイヤした高齢者や、もともと労働の現場から締め出した障害者の援助(ケアとソーシャルを含む)については、不満の出ない程度でよし、不満がでてきたらそれをどうそらすか、という意識でしか対応していないから、福祉の人材育成で抜本的な改革が進まないのではないでしょうか。「弱者」といわれる人たちの援助を行う職場が働き甲斐のある職場になるためには、国家自身が「弱者」といわれる人たちにどれくらいの比重をかけているかが重要になってくるでしょう。
援助者は聖職者ではありません。国が劣等な労働条件をよしとしている職場では、劣等な援助が行われる傾向は否定できません。
求められているのは、障害者や高齢者の声に耳を傾け、彼らに対して正当な処遇を行おうとする姿勢です。そしてそれと不可分の、福祉労働者の労働条件の抜本的な改善であり、福祉労働者と障害者や高齢者などの連帯です。利用者と福祉従事者とが手を結んで、政府や企業に自らの声を厳しく突きつけていく必要があります。 (Y)
1) 市川和彦著 施設内虐待 誠信書房
2) 西川雄次郎 知的障害児者施設における体罰≠ノついて ルーテル学院大学研究紀要代29号
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色鉛筆 民間保育園日誌5
2月に、突然声が出なくなりすぐに病院へ行くと「声帯が炎症を起こしているから、なるべく声を出さないようにして、周りの人には紙に書いて読んでもらうように」と言われた。声が出ないというのは、不自由なもので呼ぶことができないから自分がそばに行って肩をたたいて知らせるしかなかった。毎日、声を出しているので声が出なくなるというのは保育士の職業病のひとつで、私自身も今まで2〜3回位経験している。 ところが、今回は声だけではなく私の人生であまり経験したことがないことが起こってしまった。朝から寒気を感じて肩に重荷を積せているぐらい体中が重くてだるくて、1日中寝ても直らず食欲もなくなり家族に「熱があるのでは?」と言われて測ってみた。「38.0℃」えっ!!保育士生活の中で熱は出ないことを自負していた私が・・・熱が出るとは・・・本当に驚いた。
昨年度まで16年間公立保育園で働いていた私は、1度も熱を出したことがなかったのに今年度初めて民間保育園で働いたら熱が出てしまった。年を重ねてきたこともあるがやはり、今年度は疲れた。というのは、公立保育園に比べると民間保育園は、保育士1人に対しての子どもの人数が多く、遅番、早番の労働時間も長く、特に休憩時間がないということが、私としては1番大変だった。そして賃金も安い。ところが、民間保育園で長く働いている同僚達は「民間保育園というのはこういうものだから」と、何の疑問さえも感じなく、権利を要求していこうという気持ちもなく、若い保育士達は、若さゆえに仕事に燃えて生活が全て保育という位一生懸命働いている。こうした保育士達によって支えられているのが民間保育園だ。
6年ほど前に市当局は、子どもの人数が年々減っているので公立保育園を減らしていく事や、財政問題から公立保育園を民営化にすることを打ち出し、私のいる民間保育園はその第1号として4年前に民営化された。しかし、こうした市当局の姿勢に疑問を感じざるを得ない。というのは、公立保育園を減らしていく方向で行くはずなのに今年度N保育園を建て替えるというのだから驚く。財政困難だと騒いでいるのに建て替えるとはまったく一貫性のない、いいかげんな市当局だ。地域の市会議員の圧力だという噂もある(まさにドブ板政治)また、公立保育園で働く正規の保育士は地方公務員で人件費が非常に高く、市当局は財政困難だから民営化が必要だというが、公立保育園の正規の保育士が退職しない限り、人件費の負担は変わらなく毎年正規の保育士を採用していることからも民営化の理由になっていない。何よりも民営化されたことによって、そこで働く保育士達は低賃金で重労働で働かされていることを私がこの1年間で体験した。だからこそいえる民営化はよくない。
しかし、小泉首相の政策による規制緩和によって保育園の運営を社会福祉法人に限定しないで(株)ベネッセコーポーレーションや(株)ビジョンなどの企業に委託できるようになってしまった。利益のみ追求する企業では、保育園の労働条件だけでなく子ども達の環境も劣悪になることは目に見えている。同じ保育の仕事をしながら、公立と民間で大きな差があることがおかしいし、子ども達はゆとりのある環境の中で育てられるべきだ。その為には、公的保育制度を充実させることなのに今は逆行してしまっている。公的保育制度を実現できる社会を目指してゆきたいと思う。今の子ども達と過ごすのもあとわずかになり別れが待っている。来年度はまた公立保育園の非常勤保育士に戻ることになったので民間保育園日誌はこれで終わります(3月27日記)(美)
女らしさ・男らしさからの解放・多様性を認める社会を!
社会に逆行するジェンダーバッシング
現代を問う会では、3月の例会で「ジェンダー・バッシング」をとりあげました。当日の議論も踏まえ、報告したいと思います。
1999年に男女共同参画社会基本法ができ、ようやく男女平等にむけてのスタートラインに立ったかのようでした。その後、起こったジェンダーバッシングは、現行の家族形態を壊され、個々人の権利を保障すること=多様な生き方を求めることに危惧した保守派の仕業でした。従軍慰安婦問題に始まって、ジェンダー・フリー(平等)教育への介入・曲解は、まるで幼稚なもので反論するにもばからしいものでした。例えば、「トイレもお風呂もいっしょにするのか」という極端なもので、男女共同参画を後退させることが狙いにあったのです。そして、今回、出された第2次「男女共同参画基本計画」(2006‐10年)は、バッシングの「効果」が反映され、ジェンダーの視点が第1次計画に比べ、「文化的」を削除し「社会的性別」のみに限定され不自然な決定がなされました。
85年に「男女雇用機会均等法」が成立、20年を経過した今、女性が置かれた労働現場は、この法律が骨抜きであったことを証明しています。政府が推奨する男女共同参画も、ジェンダーの本質をはぐらかし女性への啓発は掛け声だけに終わっています。しかし、少子高齢社会に向けて労働力の確保、介護の社会化には、男女が平等に働き社会を支えることが必要不可欠です。私たちは、この動きに乗っかり、主導権を運動側に取り戻せるよう知恵を出し合いたいと思います。
1 第2次「男女共同参画基本計画」とは
構成は、次のようになっています。第1部・基本計画の基本的な考え方と構成。第2部・12の重点分野毎に、施策の目標、施策の基本的方向、具体的施策。第3部・総合的、計画的推進のための体制の整備・強化。重点目標を見てみると、ジェンダー・エンパワーメント指数(GEN)が2005年で80ヶ国中43位という成績に対し、女性の管理職の登用に目標をかかげ達成状況を検証・施策を進める。2020年までに、指導的地位に女性が占める割合が少なくても30%程度に期待し、各分野の取組を促進する。生涯学習社会形成を促進、2015年までにすべての教育レベルにおける男女格差を解消することを達成目標にしている「ミレニアム開発目標」の実現に努める。性差医療(性差に応じた的確な医療)の推進という、あまり聞いたことのない言葉も出てくるけれど、何か意味があるのか疑問です。
ここで、重点分野2の社会制度・慣行の見直し、意識の改革のところでの、ジェンダーの視点が問題です。全文を引用します。
「社会的性別」(ジェンダー)の視点 1、人間には生まれついての生物学的性別(セックス/SEX)がある。一方、社会通念や慣習の中には、社会によって作り上げられた「男性像」、「女性像」があり、このような男性、女性の別を「社会的性別」(ジェンダー/GENDER)という。「社会的性別」は、それ自体に良い、悪いの価値を含むものではなく、国際的にも使われている。
「社会的性別の視点」とは、「社会的性別」が性差別、性別による国際的役割分担、偏見等につながっている場合もあり、これらが社会的に作られたものであることを意識していこうとするものである。
このように、「社会的差別の視点」でとらえられる対象には、性差別、性別による固定的役割分担及び偏見等、男女共同参画社会の形成を阻害すると考えられるものがある。その一方で、対象の中には、男女参画共同社会の形成を阻害しないと考えられるものもあり、このようなものまで見直しを行おうとするものではない。社会制度・慣行の見直しを行う際には、社会的な合意を得ながら進める必要がある。
2、「ジェンダー・フリー」という用語を使用して、性差を否定したり、男らしさ、女らしさや男女の区別をなくして人間の中性化を目指すこと、また、家族やひな祭り等の伝統文化を否定することは、国民が求める男女共同参画社会とは異なる。例えば、児童生徒の発達段階を踏まえない行き過ぎた性教育、男女同室着替え、男女同室宿泊、男女混合騎馬戦の事例は極めて非常識である。また、公共の施設におけるトイレの男女別表示を同色にすることは、男女共同参画の趣旨から導き出されるものではない。
男女間の固定的役割分担は共同参画社会の形成を阻害すると指摘しながら、男らしさ、女らしさの否定が人間の中性化を目指すという意味不明な批判をしています。男は強くたくましく、女はおしとやかで控えめに、という偏見で女性の社会進出は大幅に出遅れたのは事実です。その偏見を正すことがなぜ、中性化に行き着くのか。家父長制家族の家長の権限、現在の核家族でも女性の地位が常に男性に従属するように位置づけられていること、歴史的な視点からこそ正しい解決の方向が見出せるのだと思います。
行き過ぎた性教育とは、具体的には東京都の七生養護学校(日野市)で取り組まれていた「こころとからだの学習」のこと等をさしています。事の発端は2003年7月2日、東京都議会で民主党議員が問題にしたのが始まりです。学校への介入は2日後の「視察」という形で産経新聞の記者も伴って、保健室に立ち入り教育用の人形の下半身を露にして写真撮影を行い、記事の見出しは「過激性教育」でした。その後、都教委は教材を没収、全教員の「事情聴取」後、9月11日に116名の処分を強行。知的障がい持つ子どもたちにとって、自分に向き合うことの大切さ、自分を守る術を身につけることは生きていくうえで欠かせないものでした。現在、裁判中です。
「日の丸・君が代」処分に屈せず闘っている東京都の根津公子さんは、自身に向けられた攻撃は人権思想をことごとく排除する点で、ジェンダー・バッシングと通ずるものがあると指摘しています。教育の現場では、男女混合名簿など具体的な取り組みがなされていますが、それが実践の場で教師の前向きな取り組みになっていないのが現状だそうです。バッシング攻撃は教師の弱点につけこんだ卑劣なものだと思います。
2、ジェンダー・バッシングの意図するもの
三重県桑名市の「男女平等をすすめるための条例」が、06年12月5日で失効しました。同市は6日に周辺の2町と合併するが、新市に引き継がないことにしたというものです。「男らしさ、女らしさを否定しない」国の流れに従った例といえます。バッシングの主流は「つくる会」の会長・八木秀次氏(最近辞めたようですが)や西尾氏で「ジェンダー・フリー推進派は、日本人の羞恥心を破壊し、社会や国家を崩壊させることを狙っている」と主張。教科書採択の折と同様、全国の議会にバッシングの執拗な動きを展開しました。
そもそも、バックラッシュ派(歴史の揺り戻し)の母体はいつ頃できたのでしょう。
1977年に天皇制国家再建、憲法改悪を主要目標として結成された「日本会議」が2001年に「日本女性の会」を結成し、「家族の絆、日本人の美徳、国への誇りと愛情」を取りもどす世論形成をしていくと宣言し、草の根の女性運動を開始した。日本会議、日本会議・議員連盟、つくる会、産経新聞というマスコミと一体となったバッグラッシュ派の運動は、彼らの国家観に基づいて横断的にきわめて組織的に形成されていった。(アジェンダ・第11号)
この団体なら、ジェンダー・バッシングは当然の使命といえます。憲法・教育基本法を変え、「戦争をできる国」にするためには、力による家父長制家族の復活での「男らしさ」戦争を支える「女らしさ」も必要になってくる、という訳です。
3 本当の意味での男女平等社会の実現を!
20年後には、人口の3分の1近くが65歳以上の高齢者となると、されています。反面、社会を支える若い世代が減少するとなれば、社会を支えていく仕組みを変える必要があることは誰の目にも明らかです。「男は仕事、女は家庭」を見直し、男女ともに平等に社会参加することです。それには、労働を平等にし、地域参加も平等にすることを、実行に移すべきではと思います。以下、伊藤公雄氏(大阪大学人間科学部教員)「男女共同参画が問いかけるもの」を引用します。
もし、女性が働く社会を希望するのだったら、労働条件の男女対等がまず必要になります。また、女性が働くようになると、今度は、男女が対等に家庭や地域を運営するということが必要になります。男性の家庭・地域参画です。こんなことを言うと、「男も女も働く社会になったら子育ては誰がするんだ」、「年寄りの世話は誰がするんだ」という人が必ず出てきます。本格的なジェンダー平等社会の実現のためにも、また、少子高齢社会に備えるためにも、男女とも働く社会をこれから作らなければならないのですが、そのためには前提条件があります。それは何かというと、男女両性に対する「仕事と家庭生活のバランスのいい仕組みつくり(ワーク・ライフ・バランス)」です。そのために、まず必要なのは、男女両性に対する労働時間の規制です。つまり、男女とも仕事を持つけれども、男女とも短い時間働いて、男女共の仕事と家庭生活を両立できるような仕組みです。ジェンダー平等は(男女共同参画)社会が目指すのは、そういう社会です。
この文章からでは、男女で構成する家族が基本単位であるようです。結婚していないシングルの人、男と女の区別に属さない性の人、などは除外されているのでしょうか。伊藤氏の問題意識は幅広く、多様な生き方を認め合うことが「男女共同参画社会」と述べています。
「ジェンダー平等の動きは、シングルや事実婚、さらには同性愛カップルなどを含むさまざまな家族の形態を相互に認め合いつつ、むしろ、家族の絆を、これまでの形式的なものではなく、親密なコミュニケーションと相互の支え合いを通して、実質的なものへと深めて行こうというものだといえるだろう」「ぼくたちは、しばしば性の問題というと、男・女という二種類でものを見がちですが、性の多様性という見方でものを見ていくと、ジェンダー・バイアス、つまり男だ女だと決めつけて人間を二つに分けてしまうようなものの見方から、ちょっと自由になっていけるのではないかと思います」(前掲・伊藤氏の主張)
「男女共同参画社会」が目指す方向は、それぞれの多様な生き方を認め合うことにあるといえます。しかし、現状の労働現場ではより安価な労働力が求められ、労働形態が多様化し、女性だけでなく男性の側にも正規雇用が減少してきています。女性には男並みに働くことが平等とされ、本来守られなければならない人権は放置されたままです。男性の労働も変化し、これまでの男性が大黒柱で家計を支えるのは、困難な状況が生じ、これは、同時に女性を後ろ向きであれ労働に参加させることになっています。かつて、女性解放運動は女性の社会参加を呼びかけ、労働することが社会を変革する前提条件としていました。しかし、労働組合運動の停滞で、働く者同士の交流もなく労働意欲も失われています。こんな状況だからこそ、行政主導でない運動側からの積極的なアピールが必要ではないでしょうか。性別分業に基づく、生産性・効率優先社会を見直していく作業が、誰にとっても安心できる社会になるはずです。
折口恵子
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原子力の平和利用という虚構
青森県六ヶ所村の使用済み核燃料再処理工場のアクティブ試験が始まろうとしている。これは使用済み核燃料からプルトニウムを抽出するものであり、試験≠ニはいうものの、実質的な工場稼動というべきである。すでに日本は43トンものプルトニウムを保有しているのに、今なぜプルトニウム生産工場の稼動なのか。
この疑問は、諸外国からは核武装を疑われることとなり、とりわけアジア諸国にとっては脅威となるものである。日本においては原子力の平和利用ということが信じられているが、核エネルギーの活用は兵器開発に始まり、原子力発電はその民生利用に過ぎない。今では、原発の稼動から核兵器開発へ進むのが、常道になっている。
イランの「核開発は原子力の平和利用で、その権利は国際法上、保障されている」という主張を、それが見え透いたウソであったとしても、誰が否定できるだろうか。一方で、再処理工場を稼動させようとしてる国があるのに、イランや北朝鮮の核開発だけを非難するのは何故か。核武装の下心が見え見えだからか。しかし、日本の右翼的政治家も核武装を口走っているではないか。
そうしたことも考えつつ、核エネルギーを主題とした論考とDVDを紹介したい。(折口晴夫)
大庭里美著「核拡散と原発‐希望の種子を広げるために」(南方新社)
本書が刊行されたのは昨年9月だが、著者の大庭さんはこの年の2月16日、自宅でくも膜下出血で倒れ、24日に亡くなっている。1950年生まれで4人の子どもを育てながら活動を続けていたという、ここまでは私と同じだが、世界を駆け巡って核廃絶をめざした、その能力と活動力は凄い。闘いなかばの急逝が惜しまれる。
本書の構成は、大庭さんの諸論文を掲載した第一部、大庭さんが翻訳した海外の諸論文を掲載した第二部、さらに「核兵器および原子力発電関連年表」が付されている。1986年4月26日のチェルノブイリ原発事故から始まるこの年表がなかなかの優れもので、例えば次のような記録を抜き出すことができる。
93年1月 フランスで再処理されたプルトニウムを積んだ「あかつき丸」が東海港に入港。
95年4月 六ヶ所村の施設にフランスから高レベル廃棄物を海上輸送し搬入。
98年3月 日本原電東海発電所が運転終了。日本最初の商業用原子炉で、1966年営業運転開始。3年半をかけて16000本の使用済み燃料を取り出し英国の再処理工場に搬出予定。
10月 六ヶ所村に使用済み核燃料の搬入を開始。
2000年12月 青森県六ヶ所村むつ小川原港に東電福島第2原発、日本原電東海第2発電所から出た使用済核燃料を搬入。六ケ所村の再処理工場での再処理を目的とした初の本格搬入。
03年9月 日本原燃は六ヶ所村で建設中の再処理工場の稼動を当初予定していた2005年7月から06年7月に1年遅らせると発表。
04年6月 再処理工場へ1年7ヵ月ぶりの使用済み核燃料搬入。
11月 青森県と六ヶ所村が日本原燃に安全協定締結を申し入れ。
05年1月 原子力安全・保安院は、日本原燃に、青森県六ヶ所村に建設中の高レベル放射性廃棄物ガラス固化体貯蔵建屋増設部分で、ガラス固化体が発する熱を冷却する装置の設計の解析結果が、原燃と保安院で大きな差異があったとして、やり直しを指示。
4月 日本原燃が青森県六ヶ所村に計画中のMOX燃料加工工場について、着工は2007年4月、操業は12年4月とする事業許可申請を、経済産業省原子力安全・保安院に提出。
ついでに紹介すると、「02年6月 福田康夫官房長官が記者会見で、核兵器を『専守防衛なら持つことができる』、非核三原則については『今は憲法だって変えようという時代だから、(略)変わることもあるかもしれない』と発言、大問題に」というのもある。
大庭さんは「プルトニウム・アクション・ヒロシマ」を活動母体に、核燃料サイクルに異を唱えてきた。批判の視点は次の通りである。「核燃料と廃棄物がサイクルとして循環再利用されるシステムは確立していない。むしろ、ウラン採掘から精錬、濃縮、燃料加工、原発、そして死の灰にいたる過程は、そのすべての段階で放射性廃棄物を生み出す『核のチェーン』、あるいは『死のチェーン』である」(28ページ)
広島という地にこだわり、東海村JCOでの臨界事故に対して、「原子力は人類の夢だから、このような事故でその夢をつぶすようなことがあってはならない」と言ってしまう元広島市長を批判せずにはおれない。さらに、「立派な業績を持つ平和団体や専門家が、いとも簡単に原子力産業の誘惑にさからえず『平和利用』というわなに陥るのは日本に限らないが、『被爆国』という被害者の面を強調しながら平和利用推進に加担していることは、特に罪が深いように思う」(58ページ)と、厳しく断罪している。
ここで鍵となるのは、軍事用原子炉技術と民生用原子炉技術のあいだには根本的な違いはないこと。原子炉で照射された燃料からプルトニウムとウランを科学的に分離する再処理は、一般に民生用原子力と核兵器生産を結ぶ鍵とされ、再処理工場の存在が一国の核兵器生産能力の主要な指標となること、である。まさに、ウラン鉱山から原爆、原発へ≠ナある。
翻訳論文からも、ひとつ紹介しておこう。アレクセイ・X・ヤブロコフ「原発と核兵器の不可避な関係」から、結論部分を引用する。
@そもそもの始まりから、原子力は核兵器から生じた。 A1960年代以降、状況は180度転換した。今日、核兵器を保有するためのもっとも簡単な方法は、原子力発電所の建設である。 B民生用原子力と核兵器の物理学と技術は、ほとんど同じであり、相互に転用可能である。 C現存する国際条約とIAEAの規制は世界への核拡散防止には役立たない。 D核拡散を防ぐには、IAEAの根本的改革と、決定過程への市民社会の参加が必要とさている。
大庭さんを突き動かしていた、「子どもたちのあずかりしらないところで決定された核ミサイルが、子どもたちの頭上で炸裂する社会は、一日も早く終わりにしなければならない。そのためには、一人の人間が自分を信じて、自分の意志で一歩を踏み出すことだ」という強い信念を、多くの人々に伝えたい。
「再処理工場」の解説(20ページ)
1993年4月建設着工し、当初の予算を倍以上も上回る2兆円の建設費をかけた六ヶ所再処理工場で、2004年12月21日、ウラン試験が開始された。再処理工場では、原子力発電所の使用済み燃料を化学処理し、「燃え残り」のウラン235とプルトニウムを取り出す。六ヶ所再処理工場は、使用済み燃料年間800トンの処理能力を持つ巨大なものである。再処理工場が1日に放出する放射能は、100万キロワットの原発1基1年分に相当するという。
プルトニウムの利用に具体的展望はなく、再処理には膨大なコストがかかり、再処理後にはさまざまな核種の放射能を含む高レベル廃棄物というきわめて危険な廃棄物が残る。
チェ・スーシン監督「こんにちは貢寮」(2004年2月・89分)
ドキュメンタリー映画DVD「こんにちは貢寮(コンリャオ)」には、闘い続ける。日本から来た悪魔に。≠ニいうスローガンが付いている。そして、その内容は次のように紹介されている。
1991年、日本から輸出される原発に揺れる台湾の貢寮で
原発に反対する青年が無実の罪で投獄された
それから7年、獄中に向けて1人の女子学生が手紙を書き始めた
進んでいく工事のこと、
それでも反核を貫く人々のこと、
そして志半ばに、亡くなっていく老人たちのこと、
原発をめぐる歴史の中で
政治でもなく、経済でもなく、科学でもない
本当に信じるべきものが、きらめき始める
日本から来た悪魔≠ニいうのは、台湾電力第4原発の1・2号機のことで、すでに一昨年と昨年、日本から原子炉が運び込まれている。2000年3月、陣水扁大統領の誕生によって一旦は建設中止となったものの、多数は野党の攻勢によって01年1月、国会において建設続行が可決されてしまった。
こうした経過もあって、今年運転開始の予定だった1号機の工事は64%しか進んでいない。その結果、運転開始は1号機が2009年7月、2号機が2010年5月まで延期されているが、それさえさらに遅れる可能性が高い。日本における沸騰水型軽水炉(BWR)圧力容器で製造中のものはなく、昨年7月台湾に輸出されたものが最後の製品となっている。
ついでに、加圧水型軽水炉(PWR)についていえば、現在12機の建設計画があるが、2010年代後半以降は空白になる。国内の手詰まりを打開するために、台湾をはじめとした諸外国への原発輸出があり、東芝による米原子力発電プラント大手ウエスチングハウス(WH)の買収がある。なお、WHは国際的に最も採用されているPWRの主力企業である。
次に、投獄れている無実の青年についてだが、1991年10月3日、貢寮における警察と住民の衝突によってひとりの警官が死亡した。これを1003事件と呼び、その犯人として林順源さん(当時26歳)が逮捕され、殺人の罪で無期懲役の判決を受けた。この事件(偶発的なアクシデントだったのだが)を口実とした大弾圧によって、貢寮での「反核自救」運動は大打撃を受けた。
DVDには、その林さんも登場する。2002年1月12日、刑に服して11年目の初めての外役休暇≠ナ貢寮を訪れたときの映像だ。日本にはないのでよく分からないが、模範囚で出所が近いのかもしれない。林さんは福隆駅に出迎えた人々に次のような挨拶をしている。
「皆さん 10数年来、皆さんは反核のために ずっと尽力されてきました でも、この間 私は刑務所で服役してきました これはある意味で、長い休みを取らせてもらっていたようなものです この度、ようやく刑務所の外に出て来られましたが 皆さんには反核を諦めないで これからも頑張っていってほしいと思います ・・・」
獄中の林さんに手紙を書き始めた女子学生、つまり監督のチェ・スーシンさんからのメッセージも紹介しておこう。「撮影の期間中に何人もの人の他界に遭遇し、いまもその映像を見るときは悲しさを禁じえない。 彼らにとって原発に反対することは、まさに、この土地を愛すること、この海を愛すること、家族を愛することであったのだ。 貢寮の彼らの姿を見て、彼らの声に耳を澄ませてほしい! 日本は原発の輸出国であるので、この貢寮の話を紹介することを通じて、少しでも皆様に関心を寄せてもらえれば幸いです」
この原稿を書いているさなかに、思いがけない朗報が飛び込んできた。3月24日、金沢地裁の志賀原発運転差し止めの判決である。内容は簡単で、北陸電力志賀原発2号機の耐震設計不備と、活断層の存在から、想定を超える地震が発生したら事故が発生して原告らが被曝する具体的可能性がある、原発の運転を差し止めても電力供給に特段の支障はない、というもの。完全なる原告側の勝訴だ。
自治体関係者は頭を抱え、北陸電力は直ちに控訴すると言い、経済産業省原子力安全・保安院は原子力安全委員会の審査に問題はないと居直っている。この判決には仮執行宣言が付いていないので、今のところ運転停止とはならないが、活断層を近くに抱える原発は多く、その衝撃は少なくない。今回の住民勝訴は、2003年1月、名古屋高裁金沢支部での「もんじゅ」設置許可無効の住民勝訴判決以来の快挙だが、上級審がこれを覆す可能性は高い。
しかし、台湾においても日本においても、さらに世界の反核の波は、繰り返し繰り返し高まり、止むことはないであろう。子どもたちのあずかりしらないところで決定された核ミサイルが、子どもたちの頭上に炸裂することを許さないために。
追記 さらに26日、プルサーマルについての新たな動きが報じられた。あまりに愚かな判断と言うほかない。愚かな知事や町長は、その権限の行使がいかなる結果をもたらすのか、理解できないのであろう。目前の小さな利益と引き換えに売り渡してしまったものの大きさを、知ろうともしない連中の権力行使ほど、始末に負えないものはない。
アソシエーション革命論の課題
労働と生産の場におけるアソシエーション論の探求を
■アソシエーション革命論の現状
アソシエーションとは、『マルクスとアソシエーション』の著者である田畑稔氏によれば、次のような意味である。
「諸個人が自由意志にもとづいて、共同の目的を実現するために、力や財を結合する形で『社会』をつくる行為を意味し、また、そのようにしてつくられた『社会』を意味する」。
田畑氏はこうしたアソシエーションの概念を軸にしてマルクスの読み直し、社会変革理論の再構築を唱えたが、その問題意識を次のように語っている。
「諸個人が生産主体としても消費主体としても責任主体として『合意』形成過程に論争的に参与しつつ、生活の社会的再生産過程に対する主体的コントロールを確立すべきだとする、マルクスのアソシエーション理念は、市場調整や官僚調整のような没規範的で物件化された総社会的調整諸形態にはらまれている深い危機が、たんに経済的観点からだけでなく、エコロジー観点からも自覚されている現在、どのように生かされうるのか」
アソシエーション革命論は、田畑氏ばかりでなく大藪隆介氏や大谷禎之助氏らによっても精力的に論じられてきたが、最近では議論への参加者もさらに増え、論点も様々な領域へと拡大している。そうした理論活動の方向は、主に政治体制論や国家論、社会運動や市民運動に向けられ、有益な成果をあげている。
しかし、アソシエーション論に期待されていた、労働や生産のあり方を対象とする理論作業は、論議への参加者も少なく、目立った成果を上げているように見えない。私の関心はむしろこの労働と生産の分野にあり、この理論がそのもっともラジカルで深刻な意義を獲得できるはずのこの分野に人々の注意を促したいと考えている。政治体制や国家、NPOなどを含む市民運動・大衆運動についてのアソシエーション論的考察が意義を持ちうるためにも、この労働と生産の場におけるアソシエーション論を深めていくことが、決定的に重要だと考える。
■廣西元信氏の理論について
労働と生産の場におけるアソシエーション論を考察するに際して、重要な手がかりになる議論、あるいは無視できない議論として、廣西元信氏のマルクス理論研究がある。
廣西氏は、すでに1960年代に彼の『資本論の誤訳』などの著書においてマルクス理論のアソシエーション論的読み直しの先鞭をつけたが、労働と生産の場のアソシエーション的再編の必要についても豊富な論考を行っている。
廣西氏は、社会主義について次のように言う。
・国家的所有は社会主義にあらず、それはむしろ私的所有(社会に対する争奪的、専私的所有)の一形態と見なすべき。
・社会主義における生産手段の共通占有を基礎とする個々人的所有の再建。
(廣西氏は、同じ占有でも「共通占有」と「共用占有」は違うと言う。「共通占有」は持ち分権に応じた形式的平等性を示すものであり、古ゲルマンの社会にみられたと言われる。これに対し「共用占有」は欲望と使用能力に応じた実質的平等性を示すもので、太古のアジア的共同体を特徴づけたとされる。彼は、社会主義はある意味では古ゲルマン社会への高次復帰であり、その土台に上に育つ共産主義は太古のアジア的共同体への高次復帰であると言う)。
・労働者が自ら労働していることを根拠にして生産手段の共通占有に参加していくこと。所有権やそれを根拠にした利子は社会主義とは相容れない。したがって従業員持ち株制は社会主義への進路とは考えられない。
・利潤分配を通して、生産果実(=価値生産物)への労働者の支配、労働者の共通占有への参加を実現していくこと。もちろん、利潤は労働者に支払われないからこそ利潤(不払い労働の対象化である剰余価値)なのであり、それが労働者に支払われ、分配されたとたん利潤ではなくなる。したがって、「利潤分配は」もともと矛盾した概念である、と廣西氏は言う。
・占有補助者でしかない労働者を占有者に格上げしていくこと。廣西氏は、資本主義のもとでは労働者は生産手段の占有者ではなく単なる占有補助者にとどまっており、この占有補助者を占有者に格上げすることは人類史上の巨大な社会革命であると言う。
・所有優位の社会から占有優位の社会へ移行していくこと。社会主義は労働者所有や共同所有の社会ではなく、所有の意義が減衰し、眠り込み、代わって占有が優位となる社会である。
・何らかの「共同体」の建設ではなく「自由で自立した諸個人の連合」であること、「連合体」ではなく「連合」それ自身が重要であること。
・上からの統括労働=統合労働ではなく、アソシエーショナルな労働=連合労働、連帯労働が行われること。
また廣西は、私的所有と個々人的所有を概念的に明確に区別したが、これも彼の大きな功績といって良いだろう。廣西は次のように、両者を区別して説明する。
私的所有の「私的」とは争奪的、専私的であること、社会に対して敵対的であること、つまり私的所有とは所有の形態ではなくその社会的性格を表す「性格概念」である。これに対して個々人的所有の「個々」は社会的性格を表す概念ではなく「形態概念」であり、社会に対して開かれた個人の意であり、排他的意味はなく、だからこそマルクスは社会主義を「個々人的所有の再建」と主張することが出来た。「私的」はプライベート、「個々」はインディビデュアルであり、両者の意味はまったく異なる。
また「個別」と「個々」も異なり、「個別」は個と個の関係が別々のもの、「個々」は個と個が関連し結びついたもの、「個別」は閉鎖的であり、「個々」は開放的。「個々」は「個別」と「団体」との間を媒介する「媒介概念」である。
廣西氏は、ヘーゲルもマルクスも以上のような概念の中身を理解し、それぞれを区別して用いていたと主張している。
■所有・管理・労働を労働者が一身に担う社会
以上のように、廣西氏の理論作業は、マルクスのテキストの原意に沿った読み直しの作業として先駆的な意義を持っている。そればかりでなく、当時の社会主義運動の中で支配的であったマルクス理論の国家集権主義的な内容での歪曲的解釈(スターリニズム等々)に対する批判を試み、社会主義のイメージを労働者自身が所有・管理・労働の全体を担う生産と労働のあり方≠ニして描き出したことは、彼の大きな功績である。
「私的所有の揚棄」ということが言われるが、たとえ百万回この言葉を唱えてもその内容は明らかにされない。廣西は、その具体的なあり方、姿を解明しようとしたと言える。そして彼は、社会主義とは、労働者が生産手段への占有権をかちとることだ、共通占有を実現することだ、との結論に至った。生産手段への所有権はおろか、占有権とも無縁な地位に置かれている労働者が、自ら闘って生産手段への占有権を獲得していくこと、これが社会主義なのだと論じたのである。所有者(資本家)と管理者(経営者)のブロックに対して、労働者が労働をしているということを根拠にして占有権を主張し、その中に分け入って、所有、経営、労働の三者連合を実現すること。そしてやがては労働者自身がその所有と経営と労働の機能をその一身で担っていくようになること。そうしたものとして社会主義をイメージしたのである。
この労働者による生産手段に対する占有の実現は、最初は資本家・経営者ブロックに労働者が分け入ることによって実現される三者連合という段階を経ざるを得ないかも知れない。しかしそれは次には労働者自身が所有、経営、労働の機能を一身に担うという段階に高められる必要がある。資本所有者への配当などを次第に少なくし、資本所有者へも経営や労働への参加を促すなどの方策。経営への労働者の関与と参加を強め、逆に経営者には労働への参加を促すなどの方策。こうした諸方策によって次第に生産活動に関わる者たちの労働者化を促進し、やがては労働者自身が所有も経営も労働も一身に担う状態へと移行していくということになる。その過程は、占有の意義と役割が強化され、支配的となり、所有の意義や役割が経済的に眠り込んでいくプロセスと重なる。
以上の過程は比較的短期間に成し遂げられることもあれば、漸進的に時間をかけて実現されていく場合もあるだろう。しかし大事なことは時間ではなく、その内的論理である。
■生産の場におけるアソシエーションを
ただ、廣西理論には以下のような問題点、疑問点もある。
・資本主義から社会主義への移行を、労働者の経済闘争を基軸にして論じ、半自動的に脱資本主義化が成し遂げられていくもののように描いていること。賃上げ闘争やボーナス制度への間違った評価。
・商品経済を前提にして、というよりそれと一体のものとして社会主義を理解していること。平均利潤率の成立を、全社会的規模での共通占有の実現と論じていること。
しかし我々は廣西氏よりも有利な地点に立っている。廣西氏が知らなかったコンピューターネットワークなどの新たな生産力の登場と普及。廣西氏が期待したけれどもなかなか見いだせなかった「自律した個人」「市民社会」が、まだまだ不十分とはいえ、この日本にも育ち始めていること。こうしたことをも、社会主義実現へ向けての条件として考えあわせれば、社会主義運動のイメージはより豊かになり、よりしっかりとしたものとなると考えられる。
また市場の凶暴性や野蛮さ、その強権性を正確に見据えることも重要だ。資本と市場の抑圧的で破壊的な本性との断固たる闘い、それへの有効な対抗策、克服策を考え、実践していく必要がある。
我々の独自の課題は、廣西氏がなし得なかった社会主義への具体的な道筋を、廣西氏が十分に理解し得なかった資本主義の新しい産物なども条件に組み込みながら、自らの作業で明らかにしていくことだと考える。それが、廣西理論への真の批判にもなるだろう。 (阿部治正)
私は再び安楽死≠フ法制化を主張する
ずい分前だけど、記憶だけだが、ある病院の若いお医者さんが末期ガン患者の苦痛をみかね、家族の依頼は多分あったろうと想像するが、安楽死させた。安楽死させたことが殺人罪≠ニされ、医師免許もとりあげられて牢屋にいれられてしまったというニュースを聞いた。私は認知症であった母が、フト正気になったときに、「死ぬのはちっとも怖くないが苦しむのはイヤいや」と言っていたこと、父も病院に入院していた折、老人ばかりだった病室に見舞いに行ったとき、ことごとく安楽死≠望んでいた。
かく申す私も、肉体の苦痛は犯罪である位い思うし、マゾの趣味もないから、安楽死を望むという短文を投稿したことがあった。たしか毎日新聞であったと思うが世界の安楽死事情≠連載で紹介してくれた。その中でも安楽死が認められている国や地方でも、お医者さんは悩むそうだ。
日本では安楽死は認められていないし、他国の認められている所へ移住しなければならないし、日本でも正直言って命≠ヘ金で買える≠ニいう現実はいなめない。年寄りにとっては現代なら山節考≠ニもいえる現実(年寄りだけではない)とあれば、無用の用≠ニかの(有効性の限界を超えてない現実ゆえ)理念を目指す方向であるが、今はとても耐えられぬ経済事情がある。こんな面白い悲喜劇ともいえるお話も、紹介されていたのを覚えている。
安楽死が認められているオランダでは、他国からやってきた人々でも3年間定住すれば、安楽死≠望む資格ができるが、滅法お金がかかる。ウソかマコトか安楽死ツアー≠ニいう商売があって、上陸せず海上(船の中)で安楽死≠やってもらうとか。多分、貧しき者にとって気分を軽くするための作り話であろうが。それほどに生命≠フ天寿を全うしてと言う、自然死を支えきれぬ経済事情、まして老いて末期ガンの苦痛は、お医者さんもこれほどバチを受けることもなかろう。
もっとも生きて病院を出るのは、お医者さんも患者と家族も喜びであろうが、医術がどんなに進もうとも、命はお金で買える≠ニいう現実がどうにかならない限り、持ちこたえられない。私は資本主義の悪を、より少ない悪の社会とするために福祉事業があるのであろうと思う。社会主義が破産し、ユートピアが現実には遠い夢の物語で、妄想でしかないと思われるのに、現在福祉関係の保障は公には消滅。自分の命は自分で、とされかねない現在、貧しい者にとっては、病気になることは死≠覚悟せねばならないと提言してもよいだろう。まして苦痛を伴う病とあれば、私は安楽死≠望む。
しかし、法律では安楽死≠ヘご法度。仕方ないから尊厳死協会の会員になって、病になれば延命治療を遠慮することしかできない。私は73歳で、若い生命が安全に育ちゆくために、安楽死≠考えた方がよかろうと思うし、老いた人々はみんなそう考えているようで、余生に何が出来るかがテーマとなるようだ。一様に若い世代にぶら下がりたくない、と老いた人々は思っているのは確かなようだ。血縁の若い世代によりかかりるより、老いて何が出来るか、老いた者同士の親交、協力を望む方が多いのも事実。
私は再び安楽死≠フ法制化を主張する。そして私は、安楽死希望の第1号となる。 2006・3・25 宮森常子
あれから一年後の三浦半島地区教組役員選挙報告
昨年の三月一日が投票日の役員選挙には、三浦半島地区教組結成以来、始めて三役の全候補に対立候補が擁立されたことをお伝えしました。具体的には、執行委員長に一人、執行副委員長に二人、書記長に一人と四人の対立候補が擁立されたのです。この四人の候補は個々バラバラの立候補ではなく、四人とも同一の立場での立候補でした。
「闘う三教組を、組合員の手に奪い返そう」が四人の合い言葉です。今こそ「教え子を再び戦場に送るな」を日教組の不滅のスローガンとして押し出す四人の具体的な提起に昨年は投票した組合員の約五分の一弱獲得したのです。まだまだ現場の闘う力は捨てたものではないありません。この四人が一丸となって今年の三月一日の役員選挙をめざして定期大会や各回の中央委員会でビラ配布や執行部のとりくみの弱点を追及して通年的に闘っていったのです。彼らの立場の執行部に対する優位性は参加者にとっては明白でした。
今年度の地区の最大の闘争目標は、「新しい学校運営組織」とこの新たな組織の要となる教頭職と教諭職の間に創設される「新2級」の学校導入を阻止することでした。この新級は職名でこそ総括教諭と呼ばれ、組合と神教委との間で、中間管理職ではないと確認されてはいるものの神奈川県においてはあまり機能していない主任制度に代わるものとして導入されることは明らかなことなのです。これに反対する組合員の力が結集して、三浦半島地区教組定期大会では、「新しい学校運営組織」と「新2級」の学校導入を阻止する修正案が参加代議員の過半数を獲得することで成立しました。反執行部派の影響の拡大に対して、今年の役員選挙では、平の執行委員各地区ブロックから推薦されて候補者となるのですが、三役は昨年までほとんど信任投票でした。しかし今年は三役候補に対する地区ブロック推薦を強行するという姑息な対応を執行部は仕掛けてきたのです。このため、本来であれば昨年の票に上乗せするはずだった四人の獲得票は昨年とほぼ同じとなりました。残念な結果でしたが影響力の拡大は執行部でも認めざるをえないでしょう。ちなみに私の分会では執行部と反執行部の得票はほぼ同数でしたが、最高得票数を獲得したのは反執行部派の女性副委員長候補者でした。これには執行部も驚いたことでしょう。
労働組合運動の復権をめざした運動としてこの動きに注目するとともに私も一緒に闘っていきたいと考えています。 (稲渕)
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