ワーカーズ319号   2006.4.15                  案内へ戻る

自民・公明が「愛国心」で合意
 教育基本法と憲法の改悪を許すな!


 自民と公明がつくる「教育基本法改正に関する与党検討委員会」が、「愛国心」の文言で合意した。両党は、この合意をてこにして、今国会に教育基本法改悪案の提出をはかろうとしている。
 彼らの合意内容を見てみよう。
 「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」
 公明党は、「伝統と文化…」の言葉は愛情の対象が「統治機構」ではないことを示し、また「他国の尊重」や「国際社会の平和」などを謳っているから、愛国主義や国家主義に陥る心配はない、と言う。
 悪質な欺瞞だ。
 「伝統と文化」は、自民党や保守の中では天皇制や狭量な民族意識などと同義であり、「国際社会の平和」云々は、今では海外への軍隊派兵の口実とさえされている。これらの文言は、支配層の愛国主義や覇権主義を隠すイチジクの葉っぱの役割さえ果たしておらず、むしろそうした野心に拠り所を与えるものとなっている。
 そもそも、教育基本法書き換えの動機は、「祖国愛を高揚する国民道義」(自民党結党時の政綱)や、「国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務」(自民党新憲法草案)の意識を国民の中に植え付けようというものだ。日本国民は「祖国」の下に一体であり、その一体性を「愛情」と「責務」と「気概」をもって守らなければならない、というわけだ。こうした愛国主義の矛先が、社会の矛盾や欠陥を指摘し、それらの克服を目指して活動する人々に向けられていることは言うまでもない。
 世の中には、社会矛盾の犠牲を負わされ、いやでもそれに抗わざるを得ない者たちがいる。リストラの憂き目にあう人々、そのあおりでいっそうの過密・長時間労働にさいなまれる人々、性別、国籍、健康状態等々を口実に劣悪な労働条件で買いたたかれ、さらには労働の場から閉め出される人々、公害、薬害、基地禍に苦しむ人々…等々。
 「愛国心」は、いつの時代も、社会矛盾を覆い隠し、それを告発しようとする人々を異端視して無力化させるための格好の道具であった。
 自公合意が教育基本法に盛り込まれるなら、日本国家への忠誠心の強弱で子どもたちが評価されるようになるのは必至だ。国家や郷土などの狭いメンタリティーにとらわれない者は異端者扱いされる。日本国以外の国家や社会に帰属意識を持つ人々はさらに厳しい目にさらされるだろう。労働者の闘いは、国家と社会への愛情に欠けた行為として、指弾されることになる。改憲策動にもいっそうの拍車がかかるだろう。
 「愛国心」などという病理的な思想を、教育の中に持ち込ませては断じてならない。     (阿部治正)


ドビルパン、「新雇用法」を撤回す

圧倒的な大衆行動が譲歩を引き出す

 四月十日、フランスのドビルパン首相は、フランス全土で、三百万人のデモが二回あったことを受けて、政治的混乱の長期化を免れないとの判断から、反発を招いている若者の新雇用対策を撤回する方針を明らかにした。
 同首相はテレビ演説で「若者側にも企業側にも、初期雇用契約の導入に必要な条件が整っていない」と述べた。もちろんこれは建前のものであり、新雇用対策は、不利な状況におかれている若い求職者を支援する複数の対策に切り替えられることになった。
 四月四日、若者の解雇を容易にする新雇用策「初採用契約」の撤回を求めたフランスの労組・学生団体によるフランス全土で貫徹されたデモは、三月二十八日に引き続いて、主催者発表で参加者三百万人に達して、ドビルパンや政府・与党への連打となった。
 シラク大統領は「新雇用法」反対運動が広がる中で、三月三十一日に法律を発効させるとともに、ドビルパンへの支持を打ち出し、修正法案の準備を政府に要請をした。彼は批判が集中した二年の試用期間を一年に短縮し、その間の解雇では必要ないとされた理由通告を義務づけることで、若者たちの懸念に配慮したとして「新雇用法」を取り繕うと狙ったが、せっかくの大統領演説もまったく焼け石に水であったのである。
 労働総同盟(CGT)のティボー書記長はデモの後、「われわれはこれまで以上の切り札を持った」「新雇用法が撤回されないなら、政府と論議することはできない」とのべ、「修正」には一切拒否する姿勢を強調した。全国学校父母会のデュポンライット会長も「この何百万人もの人びとに最初に答えることは、新雇用法の撤回だ」と断言した。こうした中でシラク大統領の方針に従い労組などとの協議を模索していた与党は「論議にいっさいの限界を設けない」ことを約束せざるをえなくなり、四月七日の会談後に結論を出すとしていたが、最終的には全面譲歩となった。
 まさにフランス全土における大衆行動の展開での盛り上がりとこの勢いに乗る第三次全国デモ決行予定日の四月十一日の前日であった。こうしたフランス全土デモの波状的な組織と準備こそがドビルパン達からこの譲歩を引き出したのだ。この事は全世界の労働者にとっても大変有意義な教訓を与えるものである。

労組と学生が共闘した背景とは何か

 第二次世界大戦でフランスは戦場となり大きく疲弊したが、アメリカの資金援助で経済復興を成し遂げ、五十年代から七十年代までの経済成長期に、フランスの雇用制度は安定していったが、これ以降の三十年間は七十年代までとほぼ逆行する変化が進行した。
 この変化は、就業人口の八十九%を占める賃労働関係を脅かしつつあったもののこの関係そのものを危うくするまでには至っていなかった。
 ところが、ここ最近、新規採用契約(CNE)や初採用契約(CPE)といった措置が打ち出されている。この措置は、失業者のうち若年層という特定の層が対象にされているが、その内実は従来からのフランス労働法そのものに対する侵害にほかならないものである。そこには、従来からの給与所得者の法的地位を揺さぶりかねない内容が含まれていたのだ。
 こうして、過去三十年間にわたって、賃労働に関わる規範が細分化され、賃労働者の分断が深められたあげく、フランスの賃労働そのものに、今回のような雇用不安定化を容認する動きが始まったことが労組と学生が手を結んだ核心である。
 無期限の雇用契約が、安定雇用という法的規範を獲得するまでには、数度にわたる制度改正が必要とされた。フランスの現行法上の無期限契約の規定は、労使関係の長い歴史の末に到達した成果なのである。
 賃労働が成立した当初の時期には、むしろ職場を替えるということが、自分たちの生活を左右する雇い主に対して賃労働者が最初に表明できた抵抗だった。十九世紀の労働契約では、労働者の拘束は一定期間に限られなければならなかった(民法典一七八0条にあるように「役務提供の約束は一定期間に特定の事業に関して行うものに限定されなければならない」)。それは労働者が奴隷状態あるいは隷属状態に陥る危険を防ぐためだった。そこには、一七九一年のル・シャプリエ法によって同業組合が禁止された結果、雇用関係が両当事者の個人的な契約関係に限定され、一般法の下に置かれた事情があったのである。
 無期限契約(正社員契約)が安定雇用の保障となったのは、三つの重要な要素が導入されたことによる。事前通告の義務(一九五八年)、解雇時の補償金(一九六七年)、個別解雇か整理解雇かを問わず、現実かつ重大な解雇理由を示す義務(一九七三年法および一九七五年法)である。一九七三年以前には、首になった従業員が雇用者側の権利濫用を立証しなければならなかったが、一九七三年法が施行されると、雇用者の側が解雇理由を示し、その是非を裁判所が判断することになったのである。
 こうした長期的な雇用関係は、経済成長期の新たな要請に対応するものだった。成長を支えるための賃労働の組織化が企業からも要請されたからである。フランスでは、無期限契約という規範の一番徹底した形は大企業において見られた。大企業では、労働の分担と報酬に関する基本ルールが労働協約にもとづいて決められ、それが賃労働者のキャリアの枠組みとなって、社会人としての一生をおおむね決定した。同じ時期、労働に関わるさまざまなリスク(病気、事故、離職など)への対策が必要だとの気運が社会的に高まり、それらのリスクを考慮した労働法と社会保障制度の整備につながっていく。こうして労働契約は、単なる個人間の双務契約の域にとどまらない重要性を帯び、「完全雇用」は公共の責任として重要視され、その責務は企業が、また高度成長期のケインズ主義的な公共政策が担った。以上の一連の要素により、賃労働者の地位に対し、社会の結束の礎としての強力な意味が付与されたのである。
 しかし、これに反対する動きも急であった。雇用期間を生産期間に合わせて設定するパートタイムの導入である。フランスではパートタイムの導入は、四十五%を占めるオランダ、二十六%の英国、二十二%のドイツなどのEU諸国に比べると、過去十年間に毎年一ポイントの増加しつつあったが、今でも十七%に達している。
 若者、女性、高齢者は、労働力市場の「周辺的存在」どころではないにもかかわらず、労組に代弁者がほとんどいないため、雇用形態の変容を大きく推進する要因となってきた。つまり、別枠としてあしらわれているせいで、これらの層の地位は極端に脅かされている。労働力人口の過半数を占め、現在進行中の変化の担い手となっている若者、女性、高齢者という層は、雇用形態の全般的な見直しという動きに一役かわされてしまっているのである。この結果、労働力市場に新規参入する立場に置かれた若者は、一時雇用の最大の標的である。競争的な産業部門では、二十九歳未満の年齢層の三分の一が有期限契約で雇われている。非営利部門(補助金付きの雇用、派遣社員、契約社員など)ではもっと多く、四十%に達っした。
 女性の場合、就職率が過去二十年一貫して増大しており、平均学歴が今や男性を抜いているにもかかわらず、パートタイム労働の最大の標的にされている。十五歳から五十九歳までの就業者に占めるパートの比率は、0四年現在、男性が五%に対して女性では三十%にのぼる。たしかに、パートという労働形態の割合や影響は、年齢、仕事に必要な能力、労働契約の性格などによって異なる。しかも、もっと仕事をしたいと望む賃労働者のうち百二十万人がパートの仕事しかないため、法定最低賃金による所得保障制度は空洞化して、法定最低賃金を下回る給与で働く人の数は、0三年現在で三百五十万人で、その八十%が女性である。
 高齢者はどうかと言えば、これまで長いこと早期退職を奨励する政策がとられ、現役労働人口から排除されてきたのが、ここにきて年金制度改革の圧力のもと、なにか仕事に就くようにと言われている。しかし、その雇用形態は、パートタイム、不定期雇用、一時雇用といった特殊なものでしかない。さらに現在では、五十七歳以上の失業者を対象として、更新可能な十八カ月のシニア向け有期限契約なる施策が打ち出されている。
 フランスでの現在の争点は、賃労働者の法的地位を再規定すること、つまり規制力を失いつつある労働契約を基準にするのではなく、一生の間ずっと同じ仕事を続ける可能性が低くなった個々の人間に安定した雇用を確保することにある(勤務先の変更、教育訓練の期間、配置転換、長期の無給休暇など)のである。
 このしたフランスでの動きを認識するなら、今回の労組と学生が、そして女性と高齢者がフランス全土での大衆行動を現実に創り出したことの意味は、非常に大きなものがある。
 私たちもこの教訓から大いに学びつつ今後の闘いに備える必要がある。  (猪瀬一馬)   案内へ戻る


 コラム  
「労働契約法」---労働者の団結した力なくして労働基本権は守られない。


 この四月から、労働者と会社とが結ぶ雇用契約の基本ルールを定める「労働契約法」の骨格作りが、労働政策審議会で本格化する。
 労組組織率の低下、リストラ、非正規社員の増加などの雇用・就業形態の多様化、企業における人事管理の変化などによって、個別労働紛争が増加し、そこで、労働契約をめぐるトラブルの解決および防止を図るため、労働条件の最低基準を規制する労働基準法とは異なる、労働契約そのものを規制する新しい法律を制定するというのだ。
 労基法との関係で言えば、「労働基準法が限られた必要事項を規制し、労基法が定めない解雇、就業規則、配転・出向などのルールは裁判所の判例として積み重ねてきたが、判例のままではわかりにくい。経営者と労働者の交渉力の格差にも配慮した明確なルールが必要。」というわけである。
 労働契約法制の在り方に関する研究会報告では、
【労使委員会の常設】 委員の半数以上が事業場の労働者を代表。委員の5分の4以上が賛成すれば就業規則を変更できる
【解雇の金銭解決制度】 解雇が無効だと判決が出ても、解決金を支払うことで労働契約関係を解消することができるようにする
【有期労働契約の手続き】 経営者が契約期間を書面で明示しなかった場合、法的には期間の定めがない契約だとする
【雇用継続型契約変更制度】 労働条件を変更しようとする経営側の申し出を労働者が受け入れなかった場合でも、解雇されずに協議を続ける制度を設ける。などが主な内容としてあげられている。
これに対して、経済界では「企業に対する規制強化」との警戒感を持ち。労組側は、常設の労使委員会制度の設置は「労働組合の機能が低下」する。解雇の場合の金銭解決制度によって、不当解雇が横行する。「雇用継続型契約変更制度」や労働時間法政の規制緩和(「変形労働時間制」「事業場外のみなし労働時間制」「専門業務型裁量 労働制」「企画業務型裁量労働制」等々)によって労働条件の改悪が図られる可能性、などの意見をあげている。
 労働条件が守られず、労働組合もなく、企業に改善要求もできない労働者が増えている現状では、こうした法制化は必要かもしれない。しかし、振り返ってみれば、低賃金・長時間労働・団結さえもみとめられず、最低労働条件さえ守られず、なぜ労基法以下の労働条件で働かされている職場がつくり出されているのか?こうした現状を改善する方向を見つけ出さない限り、「法」を作っても名ばかりで、むしろ、労組側が指摘するように「労働組合機能の低下」や労働条件の一方的な低下を容認する法律になるかもしれないのだ。
フランスでは、「解雇の自由を高めれば企業の雇用意欲が高まる」として提案された新しい雇用制度を巡って、抗議する学生達のデモは全土に広がり、高校や大学の多くが休校になり、労働組合もストライキなどで共闘し、フランス大統領に法案の修正を約束させるなど、政府に提案撤回を迫っている。
 こうした実力闘争を背景にした闘いや団結した力が労働条件の悪化を防ぎ、よりよい労働環境を作り出していくのではないだろうか。
 労働者保護の制度化や法制化は必要だが、労働者側の権利意識の高揚や組織化による、団結力の再建と拡充が急務だろう。  (光)


始まってしまったアクティブ試験

 あっけなくアクティブ試験が始まってしまった。誰も責任を取らない体制の恐ろしさ、最近の事例で言えば野放しにされたアスベスト汚染があるが、動き出した青森県六ヶ所村の使用済み核燃料再処理工場は深刻な核汚染をもたらすだろう。すでに核汚染されてしまった再処理工場は、稼動前に廃炉となったドイツの高速増殖原型炉・カルカー炉のようにテーマパーク「核水ワンダーランド」に変身することは、もはやできない。あるのは、チェルノブイリのように石棺となって永遠に無残な姿を曝す可能性だけだ。
 この暴挙に対して、神戸新聞は社説で「準備進むが尽きない不安」を表明し、43兆円という膨大な再処理費用のツケが電力料金にはね返る、耐震性に問題がある、プルトニウウム管理の問題、などを指摘している。しかし一方では、プルサーマルと再処理が動き出したことで「日本が原子力政策の柱と位置づける核燃料サイクルは大きな一歩を踏み出すことになる」と、誤った認識を示している。核燃料サイクルは高速増殖炉と再処理がその環とされていたものであり、「もんじゅ」の破綻後プルサーマルが持ち出されてきたが、これは全くのペテンだ。
 また、「国内にある55基の原発から排出される使用済み燃料は、たまる一方だ。再処理・再利用の方針は、原発に依存する限り、やむをえない選択といえる」というが、ここにも大きな誤りがある。再処理・再利用路線は最終処分方がないことを糊塗するものであるし、原発依存というのも他のエネルギー開発をなおざりにしている政策のゆえに過ぎない。使用済み核燃料がたまる一方だというのは事実であり、それらを再処理と称して運び出さない限り、遠からず稼動中の原発は停止するほかない。
 再処理したら核廃棄物が消えてなくなるというものではなく、むしろより厄介な高レベル放射性廃棄物が残る。再処理しない直接処分においても、いずれは最終処分が必要となる。それは今、地下300メートルを超える地層処分が検討され、原子力発電環境整備機構(NUMO・ニューモ)が候補地を全国公募している。しかし、原発の立地さえ困難となっているのに、最終処分地を名乗り出るところは皆無に等しい。だから、ニューモは新聞1面を使った企画特集を組んで、宣伝に努めているのだ。
 アクティブ試験開始を「核燃料サイクルの成否がかかる」と期待を込めて論評しているのが読売新聞社説だ。曰く、「三村申吾・青森県知事は、試験を了承するに当たって、この工場が、日本のエネルギー安全保障と、地球温暖化防止に貢献する、と強調した。 的確な認識だ。回収されたプルトニウムは、純国産の貴重なエネルギー源になる。地球温暖化ガスをほとんど出さない原子力発電の発展にもつながる」「試験入りを巡っては、海外の一部に批判的な見方もある。プルトニウム回収は核拡散上の懸念がある、という」「大きな誤解だ。日本の原子力利用は平和目的に徹している」等々。
 国策追随のデマと独り善がり、に尽きる。本紙前号で大庭里美氏が作成した図「ウラン鉱山から原爆、原発へ」にあるように、原発は全過程から〝死の灰〟を撒き散らす汚いエネルギーである。要するに、核汚染と地球温暖化を天秤にかけることはできない、どちらもいらないというのが当然の結論だろう。また、〝純国産〟にこだわるなら、太陽光や風力があるし、バイオガスだってある。さらに、折角の平和憲法を投げ捨てて戦争政策に突き進みながら、〝核の平和利用〟を説いても説得力はない。
 そんなことよりもっと深刻なのが、電量需要が低迷するなかで原発の稼動を延期せざるを得なくなっているてんだ。熱電供給や自家発電など、高効率な発電設備の導入が進み、原発の発電コストの割高感が増している。それでなくても、消費地から遠く離れた立地と巨大設備はすでに時代遅れであり、その上、稼動延期では電力資本としても頭の痛いところであろうが、国策への寄生はそれ以上においしいということか。    (折口晴夫)


バーナンキは今何を考えているのか

引き締め継続示唆のFRB

三月二十九日、バーナンキ米連邦準備制度理事会(FRB)議長にとって最初の連邦公開市場委員会(FOMC)は、市場の予想通り、0・二五%の追加利上げを決定した。FOMC声明は、今後の景気減速を見通す一方で、原油高などによるインフレリスクを強調し、引き締め継続を示唆した。明らかにインフレの抑制に重点を置いた判断である。
 米国経済は、全米での自動車販売の落ち込みが響き、昨年十-十二月期に実質年率一・六%成長と急ブレーキがかかったが、今年一-三月期は「四・五-五・五%程度へ加速する」との見方が支配的になっている。インフレの加速が懸念される状況なのである。
 ベン・バーナンキは、議長指名を受けてからの上院銀行委員会の公聴会において、グリーンスパン路線の継承を約束した。バーナンキは九十年代からグリーンスパン後の金融政策のあり方のひとつとして、インフレターゲット政策を採用すべきだとする論陣を張っていて、この上院での証言では、まさに物価安定と経済成長の安定、そして市場とのコミュニケーションを円滑に行うため、インフレターゲット導入が必要であるとバーナンキは述べたのである。
 このバーナンキ証言に対して、銀行委員会のメンバーからは、インフレターゲットを採用することで物価安定が優先されてしまい雇用の確保が保たれないのではないかとの質問がだされた。それに対してバーナンキは、インフレターゲットは物価と雇用の安定に共に貢献することができると言い切っている。
 インフレターゲット論とは、インフレ率の一定の範囲(例えば二~四%)におさえることを中央銀行が公表し、その達成のために必要な金融政策を行うことで、バーナンキ自身がかって言ったように何がなんでもインフレ率の達成にこだわるような安直なものではない。この点、バーナンキ自身、現実の経済は非常に複雑であり、また不確実性を伴うものであるので、しばしばいわれる金融政策とその政策担当者を「自動車と運転手」の関係に喩えるのは誤りであると述べている。
 しかしだからこそ、この複雑で不確実な経済において経済主体の予想に働きかける政策の方が、それを考慮しない政策よりも重要になる。なぜなら主体がどのように政策に反応するかの理解を欠いた政策実行は予期しない失敗を引きおこすからだ。そして経済主体の予想形成とその経済への反作用をしっかりと政策当局が見極めるためには、予想をベースにした政策の実行とともに市場参加者と中央銀行とのコミュニケーションがきわめて重要になるとバーナンキは述べている。
 中央銀行は市場に対してその政策の目的や予測を伝えることで、市場からのリアクションに対して柔軟に対応するべきであるとも述べ、これらの政策に対する基本姿勢は、彼のインフレターゲット論の要になっているのである。
 またバーナンキはデフレファイターとしても知られている。彼は経済運営の「超人」として日本でも既に二冊のバーナンキ礼賛本がご祝儀よろしく出版されているのである。

バーナンキの注目すべき手法

 この事について注目すべきニュースがある。それは米連邦準備理事会が一部のマネーサプライ指標の発表中止することにしたというニュースである。
 三月十四日、ロイター通信は、米連邦準備理事会(FRB)のバーナンキ議長は、FRBが、マネーサプライ指標でM3の発表を取り止めたことについて、政策立案者にとって有効性が無くなったことが理由だと述べたことを伝えた。
 同議長は「理事会では、M3の集計を中止しても、FRBの金融政策立案にとって有益な情報が奪われることにはならないとの判断を下した」と述べた。
 このこと自体は、すでに昨年十一月十日、0六年三月二十三日以降のM3マネーサプライ発表を中止するとFRBは発表済みであった。これに対して、一部では批判の声も出ていたが、同指標が特に有用ではないとのFRBの考えに大半のエコノミストは賛同していた経過がある。
 M3マネーサプライ指標とは何か。それは、現金や流動性預金、銀行口座残高といった通貨供給量を示す最も大きな指標である。つまり「信用」量の公表をFRBは今後中止するのだ。しかし、「信用」量こそは、実際の経済規模の指標であり、また中央銀行が具体的に操作できる指標である。「信用」量の拡大・収縮の実際を示す指標、それが今後公表されなくなるということは、明らかに中央銀行による意図的な情報の隠蔽である。
 では、バーナンキは、一体何を私たちから隠蔽したいのかというなら、まさに現実の「信用」量の拡大・収縮でしかない。今後通貨供給量は知らされなくなるのである。デフレファイターとしてのバーナンキの面目躍如と言ったところではないか。
 バーナンキは「金融政策がどのように伝わっていくか」を研究した業績で知られる経済学者であり、特に一九九二年に発表されたアラン・ブラインダーとの共著論文で、マネーサプライよりも信用の拡大が重要だと論じてきた。このように、バーナンキは通貨供給量、つまり「信用」量の拡大・収縮が、経済運営の要と考えている学者である。また彼は、大恐慌や日本のバブル経済の崩壊過程の研究者としても知られている。
 こうした状況証拠を突きつけられては、『ワーカーズ』紙で、再三再四指摘してきたように、今後世界経済は不況過程に入るという判断を私はさらに固めるしかない。(直記彬)     案内へ戻る


検証「格差社会」の論点(1)

今なせ「格差」論争か?

 今年の国会では、所得格差の拡大(ジニ係数)をめぐって、論戦が行なわれました。ところが、せっかく論争が深まりそうなところで、あの民主党「ニセ・メール」事件のゴタゴタが起き、格差論争はどこかへ吹っ飛んでしまったようです。しかし、この格差論争の提起した問題は、非常に深刻で、かつ複雑な問題を含んでいます。というのは「格差をどう見るか」は、政府の税・財政・社会保障政策を大きく左右するばかりか、企業の人事・雇用管理の在り方をも左右するもので、それによって働く者の日常生活や人生設計にも大きな影響を与えるからです。そうすると当然、労働組合や市民運動が闘っていく上でも、課題の組み立て方に微妙な影響をもたらすでしょう。

格差の「実態」は?
 問題はふたつあります。
 第一に、格差の実態把握です。例えば、「ジニ係数が上がっている」という指摘に対し、小泉首相は「格差は、言われるほどのものではない」と反論し、その根拠として内閣府は「ジニ係数の大半は高齢化と核家族化によるものだ」なる分析を示しました。
 しかし「高齢化による格差」といっても、それは自営業収入の格差なのか?、定年時の退職金の有無によるのか?、「核家族化」といっても、それは若者が失業し結婚や世帯形成ができないからなのか?、離婚率が増えたからなのか?、高齢寡婦(夫に先立たれた専業主婦)が増えたからなのか?
 具体的に、様々な労働統計を検証しなければなりません。

格差の「評価」は?
 第二に、「格差」をどう評価するか?です。小泉首相は「多少の格差はあってよい。悪平等はよくない。」と格差擁護論を主張しましたが、これはもっと複雑な問題を含んでいます。
 新聞のアンケート調査でも、若者を中心に「能力や成果が正しく評価されるなら格差はあってよい」という意見が多く見られます。
 労働経済学者の中には「格差の是非論は価値判断の領域」と逃げてしまっている人も多くいます。しかしこれは「格差が良いか、悪いか」という、単なる「価値」や「道徳」のレベルの問題ではありません。
 90年代から今日に到る、日本の経済の危機・停滞・景気回復・今後の展開にとってみると、ある面では、企業は格差拡大を犠牲にして景気回復の果実を手に入れたとも言えるし、またある面では、その格差が今後の経済発展の「桎梏」となる可能性もあるからです。

格差をめぐる「論点」
 この間の論争で、実にいろいろな論点が提示されました。
 (1)まず、先に述べたように「格差は言われるほどではない。高齢化と核家族化が主因」と反論しますが、その高齢化と核家族化は「格差と関係ない」のでしょうか?
 (2)また「格差は80年代から徐々に拡大しているのであって、小泉構造改革の直接の結果ではない」という見方がありますが、小泉改革は80年代からの傾向を追認しただけなのでしょうか?それとも、拍車をかける役割を果たしたのでしょうか?
 (3)昨年からの「本格的な景気回復」は、失業率を下げ、正社員の採用を増やし、正社員やパート労働者の賃金、人材派遣会社の派遣料金も一部で上がっていることから、「格差は是正される」との楽観論も出ていますが、そう言えるのでしょうか?
 (4)「格差はあっていい」とする主張は、ひとつには正社員の「成果主義賃金」を指しているとも受け取れますが、それは、販売営業、研究開発、製造部門に、それぞれどう影響しているのでしょうか?
 (5)「格差」のもうひとつの面として、正社員をリストラし、非正規社員を増やし、定型的な労働形態(テイラー主義)を拡大させましたが、固定費の削減効果の反面、品質管理上の問題(歩留まりの低下)はないのでしょうか?
 (6)さらに、「下流社会」の著者などは、格差そのものは以前からあったが、現在は「下層」が固定化し、無気力な層が増えていることが問題だ、と指摘していますが、そうした「社会現象」をどう捉えるべきなのでしょうか?
 (7)労働時間の二極化への警告も発せられています。低賃金の短時間労働者が導入される反面、正社員の労働負荷が重くなり、「高収入」と引き換えに、過労やストレスで入院したり、うつ病による自殺が激増している傾向は、どこまで続くのでしょうか?
 「格差拡大は由々しき問題だ、ひどい!」、「いや格差はあっていい」などと、堂々巡りのスコラ論議に陥ることのないよう、次回から、これらの論点を具体的なデータで検証してみたいと思います。(松本誠也)


ウィニーが暴くこの国の実態

 ウィニーによる情報流出は止まるところ知らず、終に住基情報やNシステムの情報流出にまで及んでしまった。住基情報の流出では総務省が強調してきたセキュリティは万全だという説明が大うそだったことが暴露され、Nシステムについては隠されていた運用実態の一部が明らかになった。
 まず、北海道斜里町職員の私有パソコンからの住基情報流出。これは3月29日の毎日新聞報道で明らかになったものだが、斜里町は当初(3月28日の記者発表)住基情報の流出を隠していたが、毎日新聞に暴露された後、同日の〝追加説明〟で「住基ネットに関して説明が不足しておりましたので、改めて説明させていただきたいと思います」として、その内容を明らかにした。
 流出した住基情報は、業務操作マニュアルの中にパスワードが記載されたもの、地方自治情報センター(斜里町は全国自治情報センターと誤記)からの「セキュリティーホールの対策について」という通知文書など。午来昌・斜里町長はこの点について、町民への〝お詫び〟のなかで、「なお、1部に住民基本台帳ネットワークから、町民の皆さんの個人情報が外部に漏れたとの印象を与える報道がありましたが、そのような事実はなく、その可能性もないことを申し添えます」と述べている。
 その根拠は何か。①流出したパスワードは2003年当時のものであり、現在は使われていない。②セキュリティーホールについてはすでに処理済みである、というものだ。しかし問題は、そうした情報が職員の自宅にあるパソコンのなかに入っていたということではないのか。総務省が保障してくれていた万全なセキュリティーとは、この程度のものだったのか。いわば、鍵をかけた部屋に保管し、取扱者は記録に残され、漏れ出すはずのない情報が、こんなに簡単に外部に持ち出されていたのだ。
 予見できない不心得な職員の問題か、そうではないだろう。ヒューマンエラーがあっても対処できなければならないし、それができないセキュリティー対策など何の役にも立たない。今回の〝事件〟は本来なら住基システムの全停止、もしくは斜里町をネットから切断しなければならないほどの深刻な事態だった。しかし、斜里町にはこの事態を理解できないようだし、総務省にもその自覚はないようだ。
 総務省には住民基本台帳ネットワークシステム緊急対策本部というものがあるらしいが、それが機能していれば〝隠そう〟することなく、もっと違った対処になっていただろう。なお、京都府宇治市における市民情報の漏洩では慰謝料1万円だったので、もし住基ネットから本人確認情報が漏洩したら、その自治体は破産するだろう。実際上どんな利益もない住基ネットからの離脱は、総ての自治体にとって現実的な問題である。斜里町のような杜撰な自治体が存在するのだから。
 次にNシステムの情報流出だが、3月15日、愛媛県警がその事実を明らかにした。県警本部・捜査1課に所属する48歳の警部の私有パソコンから、ウィニーのネットワークを通じて捜査関係資料が外部に流出した。その詳細は次の通り。
「各種事件のN資料」と名付けられたフォルダー内のファイルは、いずれも99年の日付で、ほとんどが1日単位で区分されていた。この装置を設置した愛媛県や香川県、徳島県の国道、高速道路を通過した車のナンバー、通過日時が保存され、記録は約10日分、延べ10万台に上った。一方、別のファイルには、ある殺人事件の関係者とみられる男性が所有する車のナンバーの検索を申請した文書があった。この申請に基づき、99年6月~00年5月に、四国全域を対象に検索したとみられ、この車が通過した地点、通過時間、進行方向などを示す一覧表も存在した。総数は約200件に達していた。また、検索申請書と書かれたファイルには、県警の決済欄の項目と並んで「警察庁刑事局刑事企画課長」名の検索許可番号を記入する欄があった。
 Nシステムは1986年に整備がスタートし、93年からデータ収集を開始した。全国約700ヶ所に設置され、その運用は「重要事件で使用された車や盗難車など手配車両のナンバーと照合するために使っている。一定期間保存した後に消去される」と説明されていた。しかし、その実態は闇のなかだった。それが今回、端無くもその一端が明らかになった。これは、48歳の警部の失策か、それとも功績か。   (折口晴夫)


奇々怪々の事態発覚

 四月四日、米国産牛肉のBSE(牛海綿状脳症)危険度評価をおこなった内閣府食品安全委員会プリオン専門調査会の専門委員十二人のうち、半数にあたる六人が三月末で退任していたことが明らかになりました。退任したこれら六人の多くは、米国産牛肉輸入再開について、政府の方針や対応に疑問や批判的意見などをのべていました。
 退任したのは、米国産牛肉の安全評価について最後まで慎重な意見を述べてきた山内一也東大名誉教授、座長代理だった金子清俊東京医大教授、「全頭検査緩和という結論ありきの審議に疑問を感じる」と委員会への出席を拒否し続けていた動物衛生研究所プリオン病研究センターの品川森一・前センター長らです。こうした事態の進行する中にあって、プリオン専門委員会座長の吉川泰弘東大教授は、今回も選任されたのです。
 米国産牛肉のBSE(牛海綿状脳症)危険度評価を行い、安全性のリスク評価にあたる同専門委員は、昨年十月一日に新たな選任期限をむかえていましたが、米国産牛肉の評価のため、二〇〇五年度末まで「任免」が延期されていました。
 今回のように、専門委員に選任されなかった研究者が半数にのぼるのは異例のもので、同専門調査会の発足後初めての事態です。ここに私は、何としても、米国産牛肉の再開を強行したいとする日本政府の意思が見え隠れすると勘ぐるしかないと結論づけています。
 何とも奇々怪々の事態が発覚したことではありませんか。   (笹倉)       案内へ戻る


「形を変えた成果給」ではないのか――職種別賃金要求を考える――

 「惨敗」に終わった大手の06年春闘。その反省というわけでもないだろうが、電気や機械メーカーをはじめとする製造業の組合で職種別賃金を模索する動きが拡がっている。この職種別賃金要求は、私たちも含めて多くの人たちが主張している「同一労働=同一賃金体系」に、一見すると形の上では似ている側面がある。が、現実に導入されようとしている職種別賃金は、形を変えた成果給体系に吸収されつつある。ここではその職種別賃金と同一労働=同一賃金要求との関係について考えてみたい。

■広がり始めた職種別賃金

 電機連合は今年の春闘が「惨敗」に終わったのを受けて、本格的に職種別賃金要求に切り替えていく姿勢を打ち出している。これは今年の電機連合の春闘で有額回答を引き出したとはいえ、統一闘争の成果が発揮できなかったという経緯がある。
 電機連合はすでに90年代の終わりから単一モデルでの賃上げ要求が崩されてきていたことから、職種別賃金への切り替えの模索が続けられてきていた。それまでの賃金要求が、たとえば高卒、勤続15年、35歳労働者の賃金というモデル賃金を決めて、その労働者の賃金をいくら引き上げるのか、という統一要求基準で全組合員の賃金の底上げを要求してきた。それに対して職種別賃金要求とは、製造業であれば、製品組立て、装置操作、機械加工、企画、営業、事務、システムエンジニアなど職種ごとの賃金を決め、その引き上げ要求をすることだ。
 こうした職種別賃金要求は何も電機連合に限ったことではなく、多くの製造業ですでに導入が模索されているものだ。
 たとえば年代順に列挙すると

 98年8月 富士通労組でシステムエンジニア集団による初の職種別支部発足。
 01年春 NEC、3000人のSEに別体系の賃金制導入。
 01年3月 松下電工労組 年功部分のないホワイトカラー、年功部分を残すブルーカラー
 02年7月 電機連合が製品組み立て、装置操作、機械加工、監督指導、企画、事務、営業、システムエンジニア、研究、開発設計、その他の11種類に区分したそれぞれの最低賃金や昇給制度への移行方針を決定。06年から要求していく方針。
 02年秋 東芝 10事業ごとに区分した社内カンパニーが給与の半額程度を占める能力給や交代勤務手当などを独自決定できる制度を導入。
 03年春闘 電機連合 システムエンジニアや開発などの「技術職」と工場作業者などの「技能職」に分けた賃上げ要求
 04年 武田薬品工業が職種別賃金の導入を労組に提案。
 04年4月 富士通ホールディングス、生産などの従事する技能・実務職に職種別賃金を導入。組み立て、加工など 約300もの職種に細分化、それぞれの職種に「仕事の値段」を付ける。
 05年2月 松下電器産業 理業や技術、人事などの職種ごとに給与体系を分ける「職種別賃金制度」の導入を目指して本格的な検討にはいることを公表。早ければ06年度にも導入。対象は社員8万人、営業、技術、人事、情報システムなど10程度の職種に分ける。
 05年4月 カゴメ、同じ賃金体系だった総合職と工場などで働く技能職を分ける。
 06年春 全社員一律の賃金体系をやめ、製造職と一般事務職、実験技術職を対象に、営業や研究開発など他の職種と異なる賃金体系を導入。
 06年2月 UIゼンセン同盟の日本介護クラフトユニオン(約6万人)、介護員やケアマネジャー、生活相談員、入浴オペレーターなど労組員の職種を7グループに分けて、それぞれ5~8000円の賃上げ要求を提出。

 ざっと振り返ってみただけでも職種別賃金要求は製造業を中心にしだいに浸透しつつあるといえるだろう。ところでこうした職種別賃金要求はかつての統一要求基準の一律引き上げ要求とはどう違ってくるのか、あるいは企業が推し進めてきた能力給や成果給とどう関連しているのだろうか。

■職種別賃金は賃金合理化

 職種別賃金への切り替えを始めている企業と労組ではその主張や解釈ではだいぶニュアンスが違っている。
 たとえば企業側としては次のように位置づける。
○実力主義をより徹底するとともに、優秀な人材の確保につながる。
○付加価値の高い商品を開発したり、抜群の営業成績をあげたりした社員の給与が増え、実力に応じた処遇で、社員の納得感も高まる。
○引き抜き競争の激しい営業担当社員の処遇を良くすることも容易になり、優秀な人材を確保して競争力強化も図りやすい。
○中核となる戦略部門の社員に人件費を厚めに配分し競争力を高めることができる。

 一方、組合としては次の通りだ。
○付加価値の高い製品を作ったり、開発したりする社員が、それに応じた賃金を要求できるよう、制度的に道を開きたい。
○企業再編の加速や、人員削減、中途採用の増大など、雇用環境が激変する状況に備え、賃金制度を柔軟にされたほうがいい。
○賃金水準や構造を議論すべき時期が来ている。労組も労働力コストと国際競争力の関係を無視した議論ができない時代になった。
○一定水準以上の技術者が技能に応じた賃金を確保することが出来、転職時に条件が良くなる。
○職種別賃金が確立していけば、労働移動の際のセーフティネットにもつながる。
○「同一価値労働=同一賃金」の考え方をもっと推し進め、「松下電器産業でも東芝でもテレビの組み立てをする人は同じ賃金」を目指す。
○これまで一律いくらと要求していたが、各社の支払い能力に応じ妥結額はバラバラだった。職種別に要求することでの確実な底上げを目指したい。

 これらの発言や位置づけを見れば、企業、経営側の思惑ははっきりしている。それは研究・開発や、SE等、その会社にとっての戦略部門や中核労働者の処遇を改善し、その原資を確保するために工場労働者などの基幹労働者の賃金削減を可能にする、という位置づけだ。こうしたスタンスは、あの旧日経連が打ち出したいわゆる基幹職、専門職、管理職という「雇用と処遇の三類型化」にぴったり重なるものだろう。なかには武田のように、単に賃金水準引き下げの手段でしかないものもある。
 一方の労組側はどうか。転職の際のセーフティネットになる、同一労働=同一賃金につながる、等の評価はたしかに一面の真理だ。とはいってもそれは受け身の建前であって、実際には経営側の経営戦略としての賃金合理化追認という本音も透けて見える。

■同一労働=同一賃金とは別もの

 ざっと見てきた職種別賃金だが、これは前号でも指摘したような「同一労働=同一賃金」原則からはほど遠いものといわざるを得ない。その理由は大きくいって二つある。
 一つは、いま浸透しつつある職種別賃金は、その多くが企業内の「仕事の格差付け」でしかなく、あくまで能力給、成果給の一変種としての賃金体系でしかないことだ。「同一労働=同一賃金」とは、その主眼は企業横断的な賃金水準の形成のことである。そうした企業横断的な職種別賃金が形成されていれば、労働移動が処遇の急降下を意味しなくなり、それだけ労働者の個々の企業への従属関係が弱くなり、企業を超えた労働者の連帯と闘いの条件の改善を、ひいては労働者の処遇の改善につながるからだ。
 二つめは、職種別賃金の格差付けの根拠が企業間競争、企業利益を基準に設定されていることだ。
 「同一労働=同一賃金」原則の上での職種別賃金とは、客観的に許容できる唯一の基準、すなわち「労働力の生産費」を基準に設定されるべきなのだ。それは企業利益や企業の競争力とは別のところで、すなわち一定の職種を担えるだけの労働力の生産費、言い換えれば基礎教育、専門教育、あるいは職業訓練費がどれだけかかるか、ということで決めるべきものだ。そういう基準であれば企業が一方的に決めることは出来ないし、労働組合の規制力や発言力も確保できる。それになにより職種の違いがべらぼうな処遇の違いに直結することもなくなる。労働力の生産費は、いくら専門知識が必要だとはいってもそれほど違いはないからだ。
 こうした違いを見れば、いま浸透しつつある職種別賃金と「同一労働=同一賃金」は似て非なるものといわざるを得ない。
 とはいえ、本来の「同一労働=同一賃金」への転換は、私たちが希望するような形でスムースに行われることはない。あくまで労使の力関係のルツボの中で実現される他はない。最近の一連の職種別賃金への移行の試みでは、労働者の階級的な利益が貫かれるよう、労働者の積極的な闘いによって前進させていく以外にない。(廣)


色鉛筆  それぞれの春

 桜が満開の沿道をバイクで走り、私は気持ちのいい通勤生活を味わっています。さて、今春は、我が家では二女が福祉大学を卒業、三女も県立高校を卒業と、節目のある春を迎えました。これから、色んなことを経験していく娘たちを羨ましく思いながら、自分の将来の夢は何だったのだろうと、ふと学生時代を懐かしく思い出しました�
 私は、商業高校に進み、クラブはESSで英語が好きだったことを覚えています。クラブ活動は、英会話の実体験をいきなり観光客の外国人に、体当たりで行うというユニークなものでした。私の生まれは姫路で、姫路城には観光客は絶え間なく訪れ、練習相手には事欠きませんでした。私たちは、予め質問の順番を考えていきますが、その答えが予想を外れるとき、あたふたとしジェスチァー交じりで何とか対応したものです。
 そんな私は、海外での生活にも憧れ、就職先も外国人と接するホテルとか考えたりもしました。そんな時、同学年の友人が海外文通相手である会社経営の男性から、アメリカでの就職を誘われました。友人は私も一緒にと求めましたが、私は即断できる勇気もなく、友人だけが旅立ちました。今でも、もしあの時そうしていたら、、、、と思う時があります。
 そして、私の夢をいとも簡単に実現するかのように、二女がピースボートの主催で、世界一周に出かけました。まだ一度も海外に行ッたことのない私は、世界一周!と聞いて驚いてしまいました。感受性豊かな若者が世界を見て周り、何かを感じ行動につないで行けるなら、三ヶ月の日々も高額な費用の負担も、未来のへ投資ということになるのでしょうか。
 自宅から徒歩10分くらいの大学に入学した三女は、新しい生活に夢ふくらませ、クラブ選択、友達づくりと忙しく、念願のバイトも始めました。私は、高卒後、親元を離れ夜間の短大に進みましたが、寮生活と下宿の2年間はとても充実し、貴重な体験をしました。私は、娘たちにもできるだけ早く、家を出て自分で生活することを勧めています。
 さて、50代に突入した私の春は? と言えば�相変わらず郵便配達をしています。職場は、仕事が複雑化し手間が増えた上、カタログなど重量のかさむ物が定期的に加わり、ますます大変です。娘たちの成長が、私の仕事への原動力ともなり、見守り続けることが楽しみの一つです。三ヶ月後に会う二女にちょっとビックリさせるために、1日1万歩を目指し中年太りに歯止めをかけたい、切なる私の願いです。私の優柔不断な決意を実行させるために色鉛筆で宣言します。皆さんの春は、どうでしたか?(恵)     案内へ戻る


読書室
『協同組合の新しいモデルをめざして モンドラゴンの神話』 シャリン・カスミア 著/家の光教会


 協同組合運動への政治主義的批判に陥っていないか

■モンドラゴン協同組合とは

 スペインのバスク地方のモンドラゴンという町は、協同組合運動などに関わる人々にとってはあまりに有名だ。この町では協同組合が製造、金融、流通、教育、社会保障などの事業を営み、町の経済活動と社会生活の主流を形成しているからだ。
 1956年にストーブと石油調理コンロの生産する小さな工場から始まったモンドラゴン協同組合は、その後様々な業種、産業分野に手を伸ばしてきた。家電製品のメーカーであるファゴールは今ではスペイン有数の企業となり、その製品はヨーロッパ各地でも知られている。ロボットやマイクロエレクトロニクスや宇宙開発なども手がけており、世界の多国籍企業にも互する競争力を有していると言われる。
 モンドラゴンの協同組合の生みの親として知られているホセ・マリア・アリスメンディアリエタは、その理念を「資本が労働者を使用するのではなく労働者が資本を使用する」「人間は尊敬されるべきもので、一人は万人のために、万人は一人のために」と語っている。モンドラゴン協同組合は、世界で通用する製品を生み出すと同時に、搾取の廃止や労働者自主管理という協同組合の理念を掲げた運営をめざしているというのだ。

■カスミアが見たモンドラゴンの「現実」

 本書は、このモンドラゴン協同組合の評判に対する、異論のひとつである。
 著者のシャリン・カスミアは、数度にわたってモンドラゴンの労働者の家庭にホームステイし、現地の労働者、労働組合、政治組織、私企業や協同組合のメンバーにインタビューをし、様々な手法の調査を行った。そしてその結果、世上言われている「モンドラゴンは国家主導や市場重視に代わる新しい経済社会の方向を示している」との評価に、根本的な疑問と異論を抱かざるを得なかったのだと言う。
 カスミアは、モンドラゴン協同組合の「脱政治性」「プラグマティズム」という評価に対して、モンドラゴン協同組合運動はむしろバスクのそしてモンドラゴンの様々な政治勢力の争闘の渦中から誕生し、今もそのまっただ中におかれていると言う。モンドラゴン協同組合を組織したアリスメンディアリエタは、バスク民族主義の穏健派に属する人物であり、彼の関心はバスク地方の戦闘的な労働運動の影響からモンドラゴンの労働者を切り離すことに置かれていたと言う。モンドラゴン協同組合運動は、バスク地方の民族主義的資本家勢力が労働者階級に差し向けた階級協調の運動、民族主義的中間階層による反社会主義、反階級闘争主義の運動であり、非政治的などではさらさらないと言うのである。
 またカスミアは、モンドラゴン協同組合では労働者の参加やイニシアチブは形式的なものにとどまっており、実際には協同組合のマネージャ層が経営を支配しているとして、以下のような指摘を行っている。
 「総会」は協同組合の最高の意志決定機関とされ、組合員の誰もが参加でき、ひとり一票の投票権を持っているとされているが、実際に総会を招集し、その議論をリードしているのはマネジャー層である。
 労働者の立場を代表すべく組織されていると言われる「組合員評議会」も、実際には経営上層部の意志や決定事項を一般の組合員や労働者に伝達する役割しか果たしておらず、また私企業の労働組合が持っているような権利さえ与えられていないため労働者の利益を擁護する上では無力な存在でしかない。
 「資本家も労働者もいない」という協同組合主義のイデオロギーは、モンドラゴン協同組合が合理化計画などを一般の私企業よりもスムースに導入する上で役立っており、そのことに私企業の経営者は嫉妬や羨望を覚えている。
 モンドラゴン協同組合の労働者は概して私企業の労働者よりも労働問題や政治問題に消極的であり、私企業の労働者との連帯の必要性に対する意識が希薄である。
 そうした状況にある協同組合労働者も闘いに立ち上がることがあり、マネージャ層による合理化・労働強化・配転計画、賃金格差の4対1から8ないし10対1への拡大案などに対して反撃を行ったことがあるが、そうした闘いは協同組合内で活動する政治グループや労働組合員の活動に支えられている。
 臨時契約労働者が増加しており、彼らには共同組合員との間に大きな権利と処遇の開きがある…等々。

■「形骸化」批判の限界

 カスミアが指摘していることは、モンドラゴン協同組合の現実をある程度反映しているのだろう。資本主義社会の下での協同組合は、仮にモンドラゴン協同組合のように大規模なものであろうとも、いや大規模なものになればなるほど、市場の論理の圧力、その内部への浸潤を避けることが困難となる。モンドラゴン協同組合における労働者所有、労働者管理の形骸化はその表れであろう。その意味で、彼女がモンドラゴン協同組合への過大な評価や過剰な賛美に警告を発したのは無意味ではない。
 しかしカスミアのモンドラゴン協同組合への批評には、大きな疑問点もある。
 彼女は、モンドラゴン協同組合が真に労働者所有と労働者管理を実現し、労使対立を止揚した生産システムを生み出しているかに言うのは、間違いであると主張する。しかしそもそも協同組合が搾取の廃絶や労使対立の止揚を実現するなどということはあり得ず、そうならざるを得ぬ理由を知ることもそれほど難しいことではない。「モンドラゴンの神話」というものが仮に存在したとしても、それはかつての「ソ連社会主義」や現在の「市場主義」「神の見えざる手」への礼賛ほど強力なもの、人々の間に根を張ったものではなく、それとの戦役がそれほどの意義を持つとも思えない。
 むしろカスミアが取り組まなければならなかったのは、モンドラゴン協同組合が、とにもかくにも一般の私企業とは明白に異なった組織構造によって成り立っていることへの、真正面からの評価であった。全員参加でひとり一票制の総会を最高の意志決定機関としての総会。総会によって選挙され、かつ組合員以外の者をメンバーとすることの出来ない統治評議会(いわゆる理事会に相当)。労働者によって組織され、衛生や安全、職の評価、職場環境、職の割り当て、内部昇格等々に関する意見を提出する権利を持っている組合員評議会等々。これらの、私企業とは明らかに異なった仕組みへの評価が、それが実は〝形骸化〟してしまっているのだ、〝権利は認められているが権限にまでは達していない〟という非難にみに終わったのでは、本質的な批評にはなりえていないと言わざるを得ない。形骸化への批判は、協同組合の外に出て、あるいは外部からこれを攻撃するというやり方を合理化するものではなく、むしろ形骸化を許さないための協同組合内部での活動と闘い、「権利を用いて権限を獲得する闘い」の重要性を教えているとも言えるからである。

■批判はさらに逸脱

 カスミアの議論のさらに重要な問題点は、彼女が「協同組合」という所有と労働のシステムへの正面からの評価を避けている点にある。
 モンドラゴン協同組合は個々の組合員、労働者の出資によって経営されている。個々の労働者はそれぞれの資本口座を持ち、そこに半年ごとに配当が振り込まれる。重要なことは、この資本所有は株式所有の形式をとっていない点にある。株式は他の者にその所有を譲渡できるし、投資の対象ともなるが、モンドラゴン協同組合における個人の資本持ち分は譲渡できない。
 また配当が出資金の持ち分に応じてではなく労働―職務と労働時間―に応じて配分されている点も重要だ。カスミアが言うような「形骸化」という評価は別にして、モンドラゴン協同組合では、資本所有に応じた分配ではなく労働―職務と労働時間―に応じた分配が目指されている。この「職務」とは労働力の再生産費と関連した概念であり、その限り労働力商品の所有と無関係ではないが、しかし資本所有に応じた分配でないのは確かであろう。
 付言すれば、配分されるのは正味可処分利益のうちの最高で70%、最低で30%となっており、それらは各自の資本持ち分に加算されていく。個人配分に回されなかった部分は、教育や文化等への投資、協同組合の積立金として扱われる。また組合員に対しては配当とは別に給与が支払われるが、この給与は私企業におけるほどの格差はないとはいえ、私企業におけるのと同様の賃金=労働力の再生産費であることは言うまでもない。
 問題は、カスミアが労働者の出資金をしばしば株式と呼び、またモンドラゴン協同組合における労働者所有をアメリカの私企業などが行っているストックオプションと区別せずに論じていることである。彼女は、モンドラゴン協同組合の労働者所有を欺瞞だと論じるのであるが、その根拠としてしばしばストックオプション――労働者を企業秩序に取り込み、幹部経営者に巨富をもたらすこの仕組み――を持ち出すことによって示そうとしているのである。
 そればかりではない。彼女はモンドラゴン協同組合をはっきりと株式会社と決めつけて次のように言う。モンドラゴン協同組合グループが1991年にモンドラゴン協同組合コルポラシオン(MCC)に再編された際に、このMCCは「持ち株会社」になり、「今では、二つの私企業を所有」している。「MCCの非協同組合的構造が私的資本の入り込みを許しているから」「最近まで組合員だけが所有権を分かち合い、資本が労働者に結びつけられていた協同組合事業体の性格を、劇的に変えるに違いない」、「この協同組合システムは…洗練された多国籍企業のように見え始めた」。
 しかし、この記述は、間違いである。この点については、このカスミアの著書を有意義と認めて日本に翻訳紹介しようと思い立った三人の訳者自身が、本書で2頁にわたって注釈をつけて、この認識には疑問がある、カスミアが言うのとは違ってMCCはあくまでも協同組合だと、資料をあげて指摘せざるを得なかった。
 しかし、こうした事実関係についての理解の間違いは、モンドラゴン評価・批判の理論作業にとっては決定的な問題である。しかもここで取り上げられている主題が、カスミア自身が「資本が労働者に結びつけられている協同組合事業」か、それとも「非協同組合的」な「私的資本」「多国籍企業」なのかという問題であるだけになおさらだ。
 カスミアによるこうした逸脱は、決して偶然のものではないであろう。これらの脱線は、カスミアが協同組合と私的資本との対比を頻繁に行いながらも、実際にはその区別をつけられていないと言うことを示しているのである。彼女にとっては、協同組合と私企業との区別はある意味でどうでも良いものであり、したがって彼女がもっともらしく協同組合の限界とやらについて発言する時にも、その本当の意味は理解できていないことを物語っている。
 カスミアのモンドラゴン協同組合批判は、総じて政治主義的なレベルのものにとどまっている。彼女はモンドラゴン協同組合運動を、労働者階級をボリシェヴィズムから引き離すための民族資本家的、中産階級的運動だと言う(彼女がボリシェヴィズムの信奉者かどうかは本書からは分からないが)。そしてこの運動のあちこちに見られる限界や欠陥を私企業のそれと同一のもの、その反労働者性の必然的現れだと見なし、むしろ私企業より欺瞞的で危険なものであるかにさえ言うのである。

■協同組合運動の「意義と限界」とは?

 カスミアとは違って、我々は協同組合の意義と限界を、次のようにとらえるべきであろう。
 協同組合は、それ自体で搾取や資本と労働との対立を根絶しうるものではなく、またその量的拡大の延長上に社会全体の変革をもたらしてくれるものでもない。しかし社会変革にとって、つまり社会全体の規模での生産と労働のあり方のより人間的なシステムへの移行にとって、協同組合は小さくない意味を持っている。それは、生産と流通を組織して人々の必要を満たすためには資本家はいなくてもすむと言うことを、一定の限界内ではあれ、実物標本として示してくれるものである。資本所有をもっぱらとすること、所有を根拠に利潤の分け前を要求すること、資本所有の手代として経営権を牛耳ること、労働者を管理・統制し効率よく働かせることに専心すること、資本所有者へのリターンを増大させるためにだけ経営者の専横の下で労働し続けること。生産の場における人々の役割のこうした分裂は必要のないものであり、働く人々自身が所有も、経営も、労働も一身に担っていくシステムが可能であることを、実地に見せてくれるものである。協同組合は、資本所有者による労働者への搾取や支配という現在のシステムが永遠のものではないこと、それに替わって労働者自身が所有や管理や労働を行う新たなシステムの萌芽であり、資本・賃労働関係を克服した社会の姿をかいま見せてくれているものなのである。
 もちろん、こうした新しい生産のシステムの萌芽は、協同組合の中にはらまれているだけではない。協同組合ほど積極的ではないにせよ、一般の株式会社の中にもその萌芽は現れている。株式会社においては、所有の機能は経営の機能と分離している。それに加えて経営の機能も、労働者によって担うことが可能となっていることが明らかとなっている。
 必要なことは、協同組合においてはより積極的な形をとって、株式会社においてはより消極的な形において現れているこの経営民主主義の萌芽を、明確な形に顕現させること、開花させることである。そのためには、個々の協同組合や株式会社の内部における経営民主主義の実質の確保のための活動、経営への影響力の強化のための闘いが放棄されてはならない。またそれと同時に、そうした個々の協同組合や株式会社を取り巻く全体としての政治状況、階級的な力関係の変革を追求し、社会全体の規模での所有と経営の権力の統制、その奪取が目指されなければならない。
 所有の機能が眠り込む社会、労働が主役の座に着く社会は、実現可能である。そしてそうした社会を土台にして、労働の意味も変わり、労働する力を持たない人々も平等に処遇される社会も育まれて行くであろう。そうした社会に向けての最初の一歩は、所有・経営・労働を働く人々が一身に担う生産のあり方、協同組合的原理が貫かれる生産のシステムを、全社会的に、普遍的に実現していくことである。
 モンドラゴン協同組合が様々な小さくない限界や欠陥、経営と労働の矛盾と対立ににまとわりつかれているのは事実であろう。しかしそれにも関わらず、そうした実践もまた、資本主義が人々の意識の中に生み出さざるを得ぬ人間的な労働と生活に対する希求の表出として評価していく必要がある。限界や欠陥や自己矛盾をを克服する努力は、協同組合の内部から、そして何よりも協同組合を取り巻く社会全体の変革を目指す取り組みとして試みられなければならない。(阿部治正)


反戦通信-11  
 「名護市長、新沿岸案で合意--公約違反の批判高まる」


 もめにもめていた米軍普天間飛行場のキャンプ・シュワブ沿岸部移設案について、7日額賀防衛庁長官と島袋名護市長は、新沿岸案で合意した。
 今回合意した新沿岸案とは、当初政府が提案していた沿岸案に、着陸用(建設地の内陸側に宜野座村側から着陸する航空機進入用の滑走路の建設)と離陸用(建設地の海側には名護市安部側に向かって離陸するための滑走路の建設)の2本の滑走路をV字型に設置する案である。要は、辺野古・豊原・安部の3地区と宜野座村松田の上空を飛行ルートから回避する修正を加えた内容にすぎない。
 この合意に対して、さっそく「沿岸案とほぼ同じで、市長の選挙公約違反だ」「滑走路が2本になり、沿岸案より基地面積が増設され基地機能の強化につながる」「基地面積の増設で環境面(ジュゴンの餌場となる藻場の影響面積が増えてしまう)でもさらに悪い案だ」等の批判の声が上がっている。
 基地機能の強化として、垂直離着陸機MV22オスプレイの配備が予測される。このオスプレイは墜落を繰り返し、欠陥機と指摘されている機種である。固定翼機と回転翼機の二つの機能を併せ持つが、通常は固定翼機で飛行することが多い。従って、ヘリのように海上を飛行するよりも、陸地をすれすれに飛行する事が大いに考えられる。その際の、民間地域の安全性や騒音被害等の問題がまったく検討されていない。
 環境面でも、従来の沿岸案の埋め立てで藻場10ヘクタールに影響があると言われていたが、今度の新沿岸案ではさらに藻場の犠牲を拡大することになる。さらに、環境面の大きな問題は大浦湾の自然環境である。大浦湾は大変良い漁場で多くの漁民や住民がそこでの生活をたてている。しかし、今回の大浦湾に突き出る基地が建設されれば、大浦湾の自然環境は大きく変わってしまうだろう。
 今回の名護市長選では3人の候補者が立候補し、3人とも沿岸案に反対した。当選した島袋市長も当初反対を表明し、あくまで名護市(前岸本市長)と沖縄県(稲嶺知事)が合意した「辺野古沖案」を支持していた。
 ところが、政府・防衛庁側からのさまざまな圧力が名護側にあったため、ついに今回の「新沿岸案」で押し切られたようである。
 今一番筋を通しているのが意外にも稲嶺知事である。今回の合意に対しても、「県のスタンスを堅持していく」として、従来案以外なら普天間飛行場の県外移設を求めていく姿勢を表明した。
 稲嶺知事は当初から政府側から出された沿岸案に対して、不快感を表明していた。それは、知事当選後99年11月に辺野古沖を移設先に選定し、その移設条件に掲げたのが「軍民共用」と基地固定化の歯止めとなる「15年使用期限」問題であった。この移設条件は政府で閣議決定されている内容である。今回の合意で二つの移設条件は完全に白紙撤回されたことになる。今後、県はどんな態度を示していくのか注目される。
 今までの普天間基地移設問題を見ていると、結局は普天間基地の問題(軍用機墜落の危険や騒音問題など)を北部の辺野古に押しつけただけにすぎない。
 今回の合意とは、普天間基地の問題を辺野古住民に押しつけ、また名護市民や沖縄県民に半永久的に米軍基地を押し続けていくことである。さらにその基地建設をめぐって名護の住民に、住民同士の対立という苦悩をまた押しつけることになる。
 本土の私たちも他人事ではなく、沖縄の人たちと連帯して米軍基地反対の闘いに参加していこう!(若島三郎)


郵政職場より
大口利用者超優遇! 大ダンピングの冊子小包割引制度!


 昨年から松下電器は、欠陥温風機のリコール(自主回収)を呼びかける郵便物を全家庭に送付した。そのとき使ったのが、郵便局で扱っている「配達地域指定冊子小包郵便物」(愛称「タウンプラス」)というものである。
これは、受取人の記載を省略した冊子小包郵便物を、一定のエリア(丁目単位)内のすべての世帯・事業所等に配達するというものである。10万個以上出せば、1個につき何と18円~21円という安さである。これじゃあ引き受ければ引き受けるほど大赤字になってしまうではないか。
 さらに郵便局では、3月27日から冊子小包の大口利用者への料金割引を追加した。冊子小包を、年間に3000万個~4000万個出せば、もっとも安くなる場合500gまで1個につき何と55円、4000万個以上出せば1個につき53円になる。
 今大口で出されている冊子小包は、大きくて配達に行っても郵便受けに入らないので、そこの家が留守ならば持ち戻らないといけない。つまり、手間は書留や一般小包と同じ、いや量をとるのでそれ以上にかかるのである。
 因みに、冊子小包の料金は、500gまでなら290円かかる。その差は1個につき、200円以上にもなる。一般利用者を馬鹿にした話ではないか。
 一方職場状況は、超勤(残業)が多いから減らせなどと、管理者連中は言ってくる。人が大量に減って、仕事が増えると残業が増えるのは当たり前なのに。こっちだって好きで超勤をしているわけではない。仕事が残っているから、超勤せざるをえないだけだ。
 私たち郵便局で働く者も、長時間過密労働で身体がクタクタで健康を害している人も多い。そして、冊子小包にみるように大口利用者への大ダンピング。郵便局の先行きは暗い。今の状況を、何とか打破しなければならない。          (河野)

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