ワーカーズ322号 2006.6.1.               案内へ戻る

靖国合祀違憲訴訟に反動判決
植民地支配の果ての英霊♂サを許すな!


 5月25日、東京地裁中西茂裁判長は、韓国人旧日本軍人・軍属遺族による靖国合祀違憲、合祀取りやめや損害賠償請求を全面的に退ける判決を行なった。今回の判決は、一連の靖国裁判のなかでも最悪である。414人におよぶ原告の60年を超える苦悩、戦争被害を何一つ事実認定することなく、この国と靖国神社が犯した侵略戦争を正当化し、司法もまたその共犯者であることを暴露したのである。
 大日本帝国は台湾や朝鮮を植民地とし、暴力的な皇民化政策を強行し、そして侵略戦争へと駆り立てた。さらに、戦死者を英霊≠ニして靖国神社に祀っている。これによって、死者とその遺族は今もヤスクニ≠ノ捕われつづけている。この恐るべき国家的拉致≠この国の民衆は免罪し、中国や韓国の小泉首相靖国参拝批判を内政干渉≠セと言う。北朝鮮による日本人拉致に対して制裁を要求する人々は、この事実をいつまで無視し続けるのか。
 戦後60年企画・日韓共同ドキュメント「あんにょん・サヨナラ」に登場する李熙子(イ・ヒジャ)さんのお父さんは1944年2月に陸軍軍属に徴用され、45年6月11日に中国で戦病死した。しかし、その事実を知らされることはなかった。ヒジャさんがこの事実を探しあてたのは92年であり、97年には靖国合祀の事実も明らかになった。そして2001年8月、靖国神社に合祀取り消しを申し入れたが、裁判に訴えてもその願いは叶えられることなく、「望郷の丘」(忠清南道天安市)にある父に墓にはいまだ名前を刻めない。
 靖国参拝を続ける小泉首相は退場の花道を飾るために8月15日参拝を強行するのか、今や政・財界のなかからも参拝中止を求める声が高まっているが、国民的支持に酔い、大宰相の名を残そうとしている小泉首相には、今や一片の理性も残っていない。もちろん、参拝中止を求める政・財界の連中も悔い改めたわけではなく、単に日和見を決め込んでいるだけである。これ以上の中国との関係悪化は、資本の利益を損なうという計算からに他ならない。
 靖国問題というのは、政教分離という憲法的問題だけではなく、政治・外交的課題でもあるが、より本質的には、侵略の歴史や加害の事実を消し去りたいという国民的意識の問題である。この国の民衆はヤスクニ≠ノ捕われ、まるで昆虫標本のように釘付けされ、60年もの永きにわたって身動きできないでいるのである。靖国の解体なくして、この我々の明日はない。            (折口晴夫)


教育基本法改悪策動を粉砕しよう!

非常事態の出来

 四月二十八日、日本政府は、教育基本法改正案を閣議決定し同日付けで国会に提出した。
 自公両党は、五月の連休明けに審議時間が定例日に縛られない特別委員会を、衆議院に設置して、六月十八日の会期内に成立をめざす姿勢を明確にした。こうして与野党対決の重要法案の一つとして教育基本法の改悪が俎上に昇った。まさに非常事態の出来である。
 戦後「平和」憲法と一体のものとして「憲法の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図るため」制定された教育基本法が、今回改悪されようとしているのは一体なぜなのであろうか。端的に言えば、それは、日本の支配者階級にとって、帝国主義的自立を追求する上で障害物へと転化した戦後「平和」憲法の本丸を攻略するための絶対不可欠な先制攻撃であり、必ず勝たなければならない前哨戦である。
 今や日本国家は、「平和」憲法を改正してアメリカと一緒に戦争ができる国になりたいのだ。今回の教育基本法改悪の狙いの核心は、義務教育の基本に「愛国心」を植え付けること、つまりは「お国のために戦争することを辞さない人材作り」を据えると明確にしたことにある。アメリカ主導のグローバリズムの進展の中、日本国家は、ついにこうした選択をした。このように、教育基本法改悪や強行採決が策動されている共謀罪新設と今期内の成立をめざしている国民投票法は、彼らが自らの生き残りを賭けて、戦後「平和」憲法を改正するための強力な武器なのである。
 私たち労働者階級は、これらの一連の策動に対して、彼らの意図を労働者民衆の目前で、徹底的に暴き立ていかなければならない。粉砕をめざして断固闘っていこうではないか。

旧明治憲法と教育勅語の本質

 さて、今回の教育基本法改悪策動について考える場合、戦後「平和」憲法と現行教育基本法との対比で、是非とも戦前の国体についても考察を加えておく必要がある。なぜなら、自公両党が現行憲法と現行教育基本法のどの点に不満があるかが明確になるからだ。
 旧大日本帝国を法的に表現してきた旧明治憲法と教育勅語の本質とは、近代天皇制を制度として導入・確立させた。そして、義務教育である「国民教育」を通じて、天皇の赤子として、日本の労働者民衆を統合し滅私奉公を強要する天皇制イデオロギーを注入してきた。とりわけ、教育勅語は「一旦緩急あれば義勇公に奉じ以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし」と教え、さらにそれを補完する軍人勅諭では「死は鴻毛より軽しと覚悟せよ」と受けて、「日本国民」に国家の戦士として貢献する義務を遵守せよと徹底して教え込んできた。このような戦前の日本国家の姿勢は、アジアに突如登場した後進侵略国家として、先進帝国主義諸国間の世界分割闘争を激化させ、日本はアメリカによって、三百万人を超える労働者民衆を戦死させ、主な大都会は戦略爆撃されて焦土と化し、誰の目にも明らかで手痛い敗北を喫せざるをえなかったのである。
 アメリカの強い意向を受けて成立した戦後「平和」憲法や現行教育基本法が、実際には対日対策の様々な問題を持ちながらも、労働者民衆やアジア諸国に圧倒的な共感を持って受け入れられた背景には、天皇制イデオロギーによって、労働者民衆が身も心もボロボロになっていたことが、その背景にあることを忘れてはならない。
 戦後六十有余年、自公両党は、グローバリズムの進展の中で、日本の進路を再びアジア諸国を軍事力で睥睨する道を選択し、その戦士を養成するための教育政策へと「国民教育」の梶を切りたいと切望している。野党議員の気楽さから、今は破廉恥な「国士」として暴露された西村慎吾元民主党議員は、この事情を、「お国のために命を投げ打ってくれる子どもを育てなければ」とあけすけに語ったのである。

「愛国心」を巡る政府案と民主党案

 今回、教育基本法を自民党が語る時、教育勅語との関連でいつも問題にされてきた「愛国心」は、自公両党により「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできたわが国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」と明記された。このように、彼らは現行教育基本法には「道徳的価値観の記述」がない、教育勅語を廃止したことが個人のエゴ等を助長し、国家や家族についての認識をなくし「子供のゆがみ」をもたらした、必要なものは「日本人の道徳」であり、「祖国愛は万国不偏の価値観」で、その否定が戦後教育を腐らせてきた等々の浅薄な議論を展開して恥じなかったし、今回は創価学会の指示を背景とした公明党との妥協もあった。
 五月二十四日から開始された特別委員会では、小泉首相の呆れ果てる発言が垂れ流させ続けている。こうした発言を聞いていると小泉首相の見識の底の浅さが浮き彫りとなる。
 それにしても何と短絡した一面的な議論ではないか。自公両党を代表とする日本の反動派は、自らの政治支配の道徳的退廃の事実を棚に上げて、戦後日本資本主義の発展による矛盾の激化や頽廃の中で、「日本国民」に愛国心や道徳心が薄れ後退したから、日本国家は衰退して多くの困難に直面し破綻に瀕していると言い募ったのだ。確かに彼らにこそふさわしい議論ではある。それゆえに、彼らは現行教育基本法を「改正」して、国家主義や愛国主義、そして抽象的な徳目や道徳心や「宗教的情操」を、国民に「たたき込め」さえすれば、国家が興隆し繁栄するとの独りよがりの浅薄な議論にふけることができるのだ。
 全く愚劣な考え方である。日本の過去の歴史を少しでも顧みるなら、愛国心の反動的役割が理解できる。その意味において、今回対案となった民主党案は、「教育基本法法案要綱」という新法の形式あり、かつ前文に「日本を愛する心を涵養し」「宗教的感性を涵養し」と明記した。このことは自公民両党の規定を踏み越えた点で画期をなすものと評価できる。小沢民主党は、義務教育の核心を突いてきた。彼らは、自公両党が妥協の中で提案した規定を、実に明確に記述したのである。

支配者の意図を粉砕するため闘おう

 私たち労働者階級は、教育基本法改悪・共謀罪新設・国民投票法提案の一連の策動に対して、彼らの意図を徹底的に暴き立て粉砕をめざして断固闘っていかなければならない。
 彼らの反動攻勢が強まれば強まるほど労働者民衆の覚醒もまた容易となる。事は闘う主体の意思と姿勢と関わるとの意味において、「ピンチはチャンス」なのである。(直記彬) 案内へ戻る


日教組は教育基本法改悪といかに闘っているのか

不意打ちを食らった日教組本部

 四月二十八日に「教育基本法改正案」の国会提出されたが、この教育基本法改悪策動と日教組はいかに闘っているのかを明らかにしたい。
 四月の中旬時点での日教組本部の教育基本法改悪についての認識は、法案の上程は五月の連休明けだというものだった。その間、0五年三月の日本PTA全国協議会の調査によれば、教育基本法を「よく知らない」保護者が約八十九%、「議論したうえで改正すべきか考える」と回答した保護者も約四十八%いたこと、また0六年三月のNHK世論調査では、「今国会での成立にこだわらず時間をかけて議論すべきだ」という回答が七十六%だったことから、日教組本部は、0六年度全国五万ヵ所教育対話集会をはじめとする「教育基本法を読み生かす運動」にいっそう積極的にとりくまなければならないとしていた。
 このような現状認識から日教組本部は、まず与党合意による改悪法案の国会上程をさせないためには、法案提出の権能を有しない「教育基本法調査会」を衆参両院に設置して、慎重かつ徹底審議するとともに、広範な国民的論議を巻き起こす必要があるとして、今通常国会会期中、緊急に「教育基本法調査会の設置に関する請願」署名にとりくみ、広く世論に訴える戦術を提起していた。その第一次集約の日程は四月二十五日であった。
 したがって、四月二十八日の自公両党の教育基本法「改正」案の閣議決定とその後の国会への議案提出は、日教組本部の情勢認識の誤りを端的に明らかにすると共に日教組本部が不意打ちを食らったものだと評価しなければならない。
 このように、教育基本法改悪案が何時上程されるのかが不透明な緊迫した情勢下、徹底審議を行うとともに広く国民的論議を喚起するための「教育基本法調査会」設置の請願書署名にとりくむなどとは日教組本部の現状認識のおめでたさを象徴する事件ではあった。

教育の危機宣言は出したものの

 さすがに教育基本法改悪案の国会上程について、日教組本部は直ちに日本教育会館で記者会見を行い、教育の危機宣言を発した。そして、教育基本法政府「改正」法案に反対し、国民的な論議を求めることを明らかにした。しかし、その立場とは、教育基本法改悪絶対反対という明確なものではなく、今回提示された与党合意による改正法案は、自民党、公明党の極めて限られた人数で、しかもまったく密室の論議で決められ、しかも来年の統一地方選挙、参議院選挙への影響を最小限に抑えるべく、成立を急いでいるとの報道には、公正・中立であるべき教育が党利党略に利用されているとする立場から、教育基本法政府「改正」法案に反対し、確かに「廃案」を求めてはいるものの慎重で国民的な論議を求める基本は依然としてかわっていない。なぜ戦後教育の非常事態宣言ではないのだろうか。
 日教組本部は、子どもたちの事件・事故が発生するたびに、戦後教育とりわけ教育基本法を攻撃する自公両党幹部の発言が続く中、この政治的な攻撃の不当さを追求するのではなく、教育基本法によって、それぞれの事件がどのように必然的に引き起こされた引き起こされたかといったことについて具体的な検証はなされていないと反論するだけなのだ。
 五月十五日、日教組本部は全国の日教組の各分会に対して全国統一職場集会の開催を指示し、五月二十六日までに各分会がある地域でのビラ配布を提起した。しかし、そのビラは、「教育が危ない!政府が教育基本法を『改正』しようとしています!広く国民の意見を聞き、慎重かつ徹底して審議を行うことを求めます!」との内容なのだ。これが、本当に教育基本法改悪反対の闘いなのであろうか。現場組合員は当惑を深めているのである。
 この間、民主党に結集している日教組出身の日政連議員団は、民主党が政府対案を出すことに反対してきたという。しかし、小沢氏の強いリーダーシップにより、ついに対案を作成した。この民主党対案について、日教組本部は、「内心に関わることは法律で規定すべきではない」「ちせつに法案提出をおこなうべきではなく、広く国民的論議をおこなう」「現行の教育基本法を『読み生かす』運動を継続強化する」との書記長談話を出すことで、政府案を「廃案」に追い込むためのやむを得ない選択だと現場組合員に強弁している。
 しかし、五月十三日の朝日新聞は、この対案を作成した座長の西岡武男元文部大臣と日教組系議員が、前日の夕方、同氏と協議して「涵養とは強制しないと理解していいか」と念を押し、同席していた森越日教組委員長は「(大事なのは)政府案成立阻止ということだ」と黙認したと報じている。何という現場組合員を愚弄する破廉恥さであろうか。
 このように、現場組合員の中には、「日本を愛する心を涵養」と「宗教的感性を涵養」することを明記した民主党対案は、政府提案よりさらに一段悪いとの評価もあり、日教組本部と日教組組織出身議員に対する不信感が、この局面で増大してきているのである。
 確かに、五月二十七日には、五千人規模の集会、六月五日には国会要請行動が提起されてはいる。しかし、こうした集会や抗議行動だけでは、現場組合員から、日教組本部は真剣に闘っているのかの批判が出てくるのは当然だろう。こんな対応では決定的にまずいといわざるをえない。日教組本部は教育基本法反対の運動をしているとのアリバイを作りたいのだろうか。これでは政府をつけあがらせるだけだ。

日教組本部を立ち上がらせよう

 現下の政治情勢は、たんなる教育の危機ではなく、戦後教育の一時代を画する非常事態の出来であり、日教組結成以来の階級闘争の一大決戦場なのである。
 改悪案では、現行の「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接責任を負って行われるべきものである」との規定を、「教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律に定めるところにより行われるべきもの」との規定にかわった。最初の部分の規定こそかわらないものの「不当な支配」だと判断する主体を教育行政にかえてしまった。こうして、従来の規定で明確に読み取れていた教育行政を監視するとの精神から、教育行政に不当な支配を押し付けてくるのは、日教組等だとの図式に切り替えてしまった。民主党の対案は、教育行政の責任の所在を明確にするとの口実で、教育委員会制度の廃止すら読み込める内容となっているのである。
 この事を知ってか知らずか、日教組本部はこの教育行政の転換の核心を、労働者民衆に提起することは徹底して避けているのだ。なぜこの機になっても、日教組本部は、教育基本法改悪反対の立場を鮮明に出来ないのであろうか。
 そもそも教育基本法改悪に反対する運動は、日教組運動の生命線であるにもかかわらず、一貫して全面に立つことは避けてきてた。この反対運動の最前面に立ち運動の中心を担ったのは、小森陽一事務局長を先頭とする「教育基本法の改悪をとめよう!全国連絡会」であり、各地域で活動している市民団体であった。六月二日、この団体が全国集会を行う。
 今回の教育基本法改悪の狙いの核心は、義務教育の基本に「愛国心」を植え付けること、つまりは「お国のために戦争することを辞さない人材作り」を据えると明確にしたことにあり、「教え子を再び戦場に送らない」ことを基本に運動を勧めてきた日教組を解体させることが明確なのに日教組本部の対応は、全く理解できないという他はない。
 一九九五年九月第八十回大会で、「日の丸・君が代」闘争など五項目放棄の路線転換を図り、旧文部省との「パートナー」路線を選択して以来、日教組本部は、旧文部省や文科省との直接的対決は意図的に避けてきた。現在の日教組運動に、五十年代から九十年代前半を通じて、日本の反戦平和勢力の最強の中心部隊だった日教組運動の昔日のおもかげは全くないのである。
 昨年の義務教育国庫負担制度改悪阻止闘争において、当該の労働組合としての独自性を発揮することなく、文科省の尻押し部隊に徹してきた日教組本部は、まさに現下の現行教育基本法改悪という組織存亡の危機の中で、それを知りつつ闘争の主体として立ちきれず、またしても文科省の陰に隠れていたいのであろうか。
 すべての労働者民衆が日教組の今後の闘いに注目していることは明らかである。今、戦後「平和」憲法と一体のものとして制定された教育基本法が改悪されようとしているのは、日本の支配者階級にとって、帝国主義的自立を追求する上で障害物に転化した戦後「平和」憲法の本丸を攻略するために絶対不可欠な先制攻撃であり、絶対勝たねばならない前哨戦である。強行採決が策動されている共謀罪新設や今期内の成立をめざしている国民投票法は、彼らが戦後「平和」憲法を改正するための強力な武器なのである。
 日教組本部の及び腰にもかかわらず、各県の日教組組織は、これらの一連の策動に対して、各県の全教(共産党系)との自然発生的に共闘を組織するまでになってきた。私たちも政府の意図を徹底的に暴き立て、これらの策動を粉砕するため断固闘っていかなければならない。         (猪瀬一馬)


コラムの窓・壊れゆく郵便局

 民営化に向かって突進する郵政公社に、世間の人々は期待を抱いているのでしょうか、それとも不安を感じているのでしょうか。たぶん都会の人々は、どっちに転んでも不利益になることはないので、無関心なのだと思います。それに引きかえ、田舎の人々、とりわけ過疎地では郵便局がなくなるのではないかと危ぶんでいるようです。民営郵政が利益を追求する姿勢を鮮明にしているなかで、そうした危惧を抱くのは当然です。
 その危惧は集配拠点の再編≠ノよって、いま現実のものとなりつつあります。それは、全国4700局ある集配局を1100局の「統括センター」に統合するもので、さしあたって約1000局の集配特定局を無集配特定局に格下げする計画が進んでいます。これは、郵便の配達もしている田舎の郵便局を窓口だけにしてしまい、配達は地域の拠点局に集約するものです。もちろん、郵便配達がなくなるものではないし、貯金や保険も多分拠点局から足を運ぶことになると思いますが、田舎の郵便局が縮小へと向かうことだけは確実です。
 郵便局が崩壊に向かいつつあるというのは、郵政民営化の過程で多くの郵便局員が強制配転され、郵便局は国鉄の分割民営化時のような混乱に陥ることからも明らかです。その過程は現在進行形で、まるで民営化という破滅に向かっているようです。例えばそれは、最近明らかになった長岡郵便局(新潟県長岡市)の別納郵便の不正値引きによって27億円もの損失を出していた事件≠ノ示されています。
 これなどは、公社が公然とダンピングをしているなかで、現場サイドの独自の判断でダンピングして、何が問題なのかということになります。現場には厳しいノルマが課され、民間のメール便と熾烈な競争しているのだから、顧客を確保して収入を上げるために値引きをしただけではないでしょうか。問題があるとするなら、それは民間宅配業者とのダンピング競争に明け暮れ、その犠牲をすべて現場に押し付けている生田総裁ら経営陣にあります。ヤミのダンピングをやった連中は、オモテのダンピングをしている生田らを真似ただけなのです。
 5月23日の新聞報道によると、郵便事業の2006年3月期決算での純利益が前年比約99%減の、約2億円にとどまることが明らかになっています。この決算と比較すれば、27億円の損失額が途方もないものであることがわかります。郵便局に持ち込まれた何万通もの郵便を重量で物数を換算する別納での不正は、大なり小なり多くの郵便局で行なわれていると考えられます。長岡での例は、やり過ぎただけであり、大口業者への便宜供与や料金割引はもはや犯罪的≠ネものとなっています。
 いま、はがきや封書までが冊子小包≠ニして差し出されています。そのあつかい自体不可解なのですが、料金的にそのほうが安くなってしまっているのです。つまり、市民には高い郵便料金を押し付け、ダイレクトメールや冊子小包は大口割引する。その結果、料金が逆転してしまっているのです。現場の労働者が洪水のような冊子小包の配達に追われているのは、言うまでもありません。
 現場の現在をもう少し紹介すると、私の局では昨年度交通事故が重なったために、事故を起こしたら制裁を課すと局長が公言しています。事故を起こしたら1件でいくら費用がかかるとか言い、職員の身を案ずることより責任を追及することばかり強調し、制裁で脅すことで事故を減らそうとしているのです。その制裁の内容というのが、事故を起こしたら局の構内でたすきをかけさせ立たせるというもので、つまりさらし者するのです。実際にもそうしたので、課長にそれは人権侵害だから止めるように、場合によっては新聞社に通報すると言ったら、それが効を奏したかどうか分かりませんが、何とか1日で終わったようです。
 何と愚かな、と呆れますが、彼らも支社からのプレッシャーにさらされているのです。すべてがこうした有様であり、これが今の郵便局の雰囲気を代表する意識なのです。まさに、内部崩壊です。           (晴) 案内へ戻る


民意を恐れる与野党の国民投票法案
労働者・市民の意志を総結集し、九条改悪のねらいを葬ろう


■ 民意を恐れる与党の国民投票法案

 5月26日、自民・公明と民主党が、それぞれの憲法の改正についての国民投票法案を国会に提出した。
 憲法の改正は、衆院と参院の各院の国会議員の3分の2以上の賛成で発議が可能となり、国民投票の結果を受けて成立する。国民投票法は、憲法についての民意を問うものであり、憲法の改正のための不可欠の制度だ。当然ながら、その仕組みは、憲法とその改正の是非についての民衆の意思を可能な限り正確に汲み上げ、反映させる仕組みになっていなければならない。
 ところが、自民・公明が出した国民投票法案は、そうした民主的な制度にはまったくなっていない。
 その最大の問題点は、投票結果を判定する「過半数」の扱いだ。国のあり方の根本を左右する憲法の改正の是非を問う以上、可能な限り広範囲の市民の意見を反映させなければならないはずだ。ところが、自民・公明案では、有効投票数の過半数となっている。これでは、仮に投票率が50%、そのうちの有効投票率が90%であった場合、有権者の23%の賛成でも改正案が成立してしまうということとなる。事が憲法の改正に関わる問題である以上、正確に記入しなかった票や投票所に来なかった人たちを勘定に入れる必要はない≠ニいうのはあまりに乱暴だ。
 また、有権者の範囲も問題だ。人々の生活に大きな影響を及ぼす憲法についての意思を問う以上、その意思決定のプロセスからはずされる者はできるだけ少ないほうが良い。ところが、自民・公明案は、これを20歳以上の日本国民に限定している。いまや選挙権を18歳以上としている国は少なくない。とりわけ憲法の改正の是非を問う選挙であることにかんがみれば、年齢制限はさらに下げられるべきだ。また事実上日本を永住の地とせざるを得ぬ多くの定住外国人を、有権者から外さなければならない理由もない。
 さらに、国民投票に向けての運動にも不当な制限が加えられている。与党案では、公務員や教育者について、その地位を利用して国民投票運動を行うことは出来ない、とされている。「その地位を利用して」などと条件をつけてもっともらしさを装っているが、その意味はきわめて曖昧であり、公務員や教育者の運動の抑制や弾圧に利用される危険性は大である。
 またマスメディアの扱いも重要だ。自民・公明が当初考えていたメディアへの強い規制のねらいは文面上は後退した。しかし投票日直前7日間はメディアでの宣伝は禁止するとしている。その一方、政党に対しては無料でNHKや民間報道機関を利用することが出来るとし、しかもその時間や紙面分量は政党の議員数をふまえたものにするという。
 一般の市民や労働者に対しては、公務員や教育労働者への運動規制、組織的な国民投票運動への規制などでその行動を徹底的に縛り上げ、政党に対してはメディア利用の便宜をとりわけ大政党に圧倒的に有利なやり方で与えるという仕組みだ。これではとうてい、国民投票の仕組みに不可欠である、広範な民意を出来るだけ正確に反映させるという課題を果たし得ない。こうした国民投票法案は、徹底的に批判して、これを葬り去る以外にない。

■本質は与党案と変わらぬ民主党案

 民主党案についても触れておこう。民主党案と与党案との主な違いは以下の点である。
 国民投票の対象を憲法の改正だけでなく「国政における重要な問題に関わる案件」にまで拡大する。有効投票の過半数ではなく投票総数の過半数で決する。与党案は賛成は○、反対は×、その他は無効としているが、民主案は賛成は○、それ以外は反対票と数える。有権者は20歳以上の国民ではなく18歳以上の国民とする。公務員や教育者の運動禁止は盛り込まない。
 しかし民主党案も、結果判定の分母は投票者総数以上には広げない、有権者に定住外国人は含まない、大政党に有利なメディア利用は認める等々を見ても明らかなように、基本的には与党案と同じ発想で作られている。改憲あるいは国政に関する重要案件について、相対的に出来るだけ少数の賛成者で改正提案を成立させようとの意図は自民党案と変わらないのだ。
 その背景には、自民・公明と民主党のどちらの側にも、自衛隊に軍隊としてのお墨付きを与えその海外派兵をよりスムースに行えるようにしたい、そのために憲法九条を改悪したいとの思惑があり、その点では共通の目標を追求している事実がある。自民・公明と民主党とがこの時期に一斉に国民投票法案を出し、そのすりあわせの作業に入ったのは、こうした憲法九条の改悪、つまり資本のグローバル秩序維持のために自衛隊をもっと活用したい、米軍と一体となったその軍事行動をいっそう拡大したいとの共通の思惑があからなのだ。自民・公明や民主党がその身を挺しようとしているのは、もちろん、いまや世界の各地に様々な権益や利権を確立し、その維持拡大に大きな関心を有するようになった日本の財界・大企業、中でも多国籍企業の要求である。

■徹底した民主主義を要求し、9条改憲を葬り去ろう

 与党や民主党の国民投票法案に対しては、逆の立場から見れば、民衆の中の相対的により少数の者たち意思で改憲案を拒むことも可能な制度ではないか、との意見もあり得るだろう。
 しかし問題は、単に改憲運動や反改憲運動等々がそれぞれの運動をどう有利に進めるかということではなく、民意の表出とその反映の仕組みという原則に関わる事柄である。民衆の意思の反映、民衆のイニシアチブを保証するための制度として、どのような制度がよりまともか、より民主主義的かということもまた重要問題なのだ。
 国民投票法の問題は、憲法九条の改悪を許すかどうか、日本の軍事強国化と派兵国家化をさらに加速させるのか、それともそれを押しとどめ、跳ね返していけるかどうか、というきわめてリアルな重要政治問題であることを私たちは一瞬といえども忘れることはできない。しかし九条の改悪を断じて許さないという課題は、憲法のあり方についての民意を問うことを避けることと同じではない。
 軍事強国化や派兵国家化との闘いの成否は、結局は一人一人の民衆の政治的判断力の成長にかかっており、またそうした民意を反映させる制度のあり方にもかかっている。
 私たちの当面の課題は、与野党の国民投票法案の本当の思惑、憲法九条改悪のねらいを徹底的に暴露して、反対世論を大きく盛り上げ、改憲派の意思を改憲提案の前段階でくじくことである。
 しかし私たちは、より民主主義的な国民投票法や直接民主主義の発展に反対するものではない。そしてもし国民投票が現実の課題となれば、私たちは従前からの民衆の利益を擁護するという立場、そして徹底した民主主義を要求するという立場から、軍事強国化、派兵国家化反対の広範な民衆の意思を掘り起こし、それを総結集して、九条改悪の提案を葬り去るべく闘うであろう。  (阿部治正)


検証「格差社会」の論点(3)
若者(団塊ジュニア)に集中する格差


「待ち組が問題」とは?

 「ジニ係数(所得格差)の拡大」という指摘に対して「高齢化が主因」等と反論してきた政府の統計でも、「若者層で格差が拡大している」ことは否定しようのない事実でした。若者の間で正社員になれた「勝ち組」と、非正規社員あるいは失業から抜け出せない「負け組」の格差が拡大しているのです。
 しかし小泉首相は、勝ち組・負け組ではなく「待ち組が問題」と言い放ちました。この意味は、たとえ一度は「負け組」になっても、また「再チャレンジ」すればいいのだ、それなのに再チャレンジせずに「負け組」のまま「待ち組」(ニート)になっている人が問題なのだ、ということのようです。
 石原東京都知事も、最近あるテレビ番組で、ニートについて「親が甘やかすのが悪い。今は人手不足で就職口はある。」と言っています。つまり、景気が回復し、団塊世代の退職で正社員の採用も増え、若者の格差問題は解決に向かうはずだ、残る問題は「ニートの(働く意欲を持とうとしない)意識の問題だ」というわけです。本当でしょうか?そこで、労働統計をひとつひとつ検証してみましょう。

「非正規化」を推進する日本企業

 若者層の格差拡大のベースとなっている最も基本的な要因は、日本の企業がバブル崩壊や経済グローバル化に対応し、正社員の採用を控え、契約社員、嘱託社員、派遣社員などの、非正規労働者に置き換えてきたことです。
 「図表1・12正規社員数と非正規社員数の推移」(大前研一著「ロウアーミドルの衝撃」講談社刊より)を見てもわかります。
 大前氏は同著で「正規の社員は一九九五年前後をピークに減り続け、それにともなって非正規社員が増加。(中略)日本の労働者の三人に一人が非正規社員という計算になる。(中略)非正規社員は正社員に比べて所得が低く、契約社員や嘱託社員の六四・三%が平均年収五〇〇万円以下でしかない(図表1・13)こうした非正規社員の増加が、所得階層の二極化と、ロウアーミドルクラス以下の中低所得者層の増大に直接つながっていることは明らかだ。」と指摘しています。なお、グラフでは五〇〇万円で区切っていますが、非正規社員の多くが年収二〇〇万円以下であることも、付け加えておきましょう。

「フリーター」の増加

 企業が非正規雇用化を推進してきた結果、若者の雇用環境の不安定化が起き、「フリーター」と呼ばれる層が急増しました。(図9・2フリーター数の推移、太田聰一・橘木俊詔著「労働経済学入門」有斐閣刊より)
 ちなみに「フリーター」の統計上の定義は、同著によれば、(1)年齢は15才から34才、(2)現在就業している者については、「アルバイト」または「パート」、男性については継続就業年数が1年から5年の者、女性については未婚で仕事を主にしている者、(3)現在無業の者については、家事も通学もしておらず「アルバイト・パート」の仕事を希望する者、とされます(同上「労働経済学入門」より)。
 フリーターの数は、2002年現在で193万人にのぼっています。

急増した若者の失業率

 「フリーター」の中には、パート・アルバイトで現に「働いている」人と、働く希望を持っているが現在「無業」の人、つまり「失業者」も含まれます。
 バブル崩壊後、一般的に失業率は上昇し「景気の底」と言われる2002年にピークをむかえ、その後やや低下しています。ところで、それを年齢別に見ると、10代から20代の若年層と、60才から64才までの高年層で、特に失業率が高く、また上昇のしかたも急であることがわかります。(図7・2、年齢階級別失業率の推移、前掲「労働経済学入門」より)
 このように、企業のリストラによる非正規化と、採用の抑制により、多くの若者が、非正規雇用と失業という、不安定な雇用環境に置かれることになりました。いわゆる「ニート」とは、こうした雇用環境の長期化が背景にあるので、単なる「意欲」の問題ではありません。「待ち組」論は、原因と結果をアベコベに見る、責任転嫁の理屈でしかないでしょう。

団塊ジュニアに集中する逆境

 ところで景気が回復し、求人倍率も高くなっていることから「格差の問題は解消していく」という見方もありますが、問題はそう簡単ではありません。
 人口の年齢構成を見ると、2000年の時点で「25才から29才」と「50才から54才」のところに、2つのピークがあることがわかります(図3・7、人口の年齢構成、前掲「労働経済学入門」より)これは、1947年から49年前後の「第1次ベビーブーム」のいわゆる「団塊世代」と、1971年から74年前後の「大2次ベビーブーム」のいわゆる「団塊ジュニア世代」を反映しています。
 団塊世代が90年代の中高年リストラにあった結果、退職金の有無をはじめとした、新たな格差拡大(2007年危機)の要素になることは既に述べましたが、「ジュニア世代」についてはどうでしょうか?
 この世代が、高卒や大卒で就職しようとした90年代は、まさにバブルが崩壊し、97年の金融危機をピークにした「就職超氷河期」でした。この時代にフリーター化を余儀なくされたジュニア世代は、そのまま現在は30代前半を迎えています。

「再チャレンジ」に企業主義の壁

 今、「景気回復で求人増」や「団塊退職で正規採用増」が言われていますが、その主な対象は、30代のジュニア世代より、むしろ現在の「新卒者」の方に向かっています。なぜでしょうか?
 「下流社会」の著者である三浦展氏は、「企業の本音」を次のように述べています。
 「雇う側の立場からすれば、三十歳までフリーターだった人を採用するのは躊躇してしまう。社会人(注「企業人」と読め・筆者)としての自然な振る舞いが身についていないからです。」「仕事はマニュアル化した応対だけではないでしょう。クライアントを訪ねたときに、どういう呼吸で名刺を交換するか、(中略)出張となれば新幹線の予約から、宿の手配などなど、正社員というのは実際のところ、「雑用」が多いわけです。こういったたくさんの雑用を同時にこなす能力を二十代のうちに身につけたかどうかの差は大きい。フリーターは分断された作業を繰り返す労働しかしてこなかった人が多いので、同時にいろいろなことができないんです。だから、企業側からすれば、三十歳までフリーターだった人をわざわざ雇うメリットはないわけです。極端な言い方ですが、それこそ助成金でももらえなければお断り、というのが企業の本音だと思いますよ。」(中央公論4月号、「失われた世代を下流化から救うために」、対談・三浦展・本田由紀より)
 正社員は「新卒採用中心」に20代から「企業人」に洗脳し、非正規社員は「マニュアル化」された単純作業に分断していくという、日本の企業主義的「雇用類型化」のあり方を変えずに「再チャレンジ」等を説いても、欺瞞でしかありません。(松本誠也)


『ダ・ヴィチ・コード』に注目しよう

 五月二十日、全世界で、『ダ・ヴィチ・コード』の映画が公開されました。世界の至る所で、カトリック教会とその勢力を中心とした上映反対や抗議行動が起こっていることをニュースが伝えております。
 ハリウッドがなぜこの映画を作ったかということは、反カトリック教会という点にあることがはっきりしています。彼らの反感は全くもって隠しとおせないものがあります。
 それにしても、イエス・キリストが妻帯しており、その妻がマグダラのマリアであり、その子孫が現存しているとのダ・ヴィチ・コードは、徹底的にスリリングな内容です。私の断片的に蓄積されている知識からも、この説は首肯できるものです。
 なぜヨーロッパ各地に黒いマリア像が点在し、今でも各地での祭りの主体なのでしょうか。私には謎が解けた思いです。
 『レンヌ・ル・シャトーの謎』という本を皆様はご存じでしょうか。一八八五年に、レンヌ・ル・シャトーという名の村に赴任し、同地に聖マグダラのマリア教会を再興したソーニエール司祭が、ある暗号を発見して解読に成功して、大金持ちとなった事件を解明した本です。『ダ・ヴィチ・コード』には、直接にこの事には触れていないのですが、小説の冒頭殺害されたルーブル美術館館長の名前が、ソニエールというのですから、この本も踏まえて、著者のダン・ブラウンが、この小説を書いていることは明らかなことではないでしょうか。それからもう一つ注目すべきことは、ヨーロッパにおける秘密結社の存在とその実態とは何かということです。この本では、シオン修道会について触れており、歴代の代表の名前が紹介されています。
 この秘密結社の思想と実態について、最も明確に解説しているのは、副島隆彦のサイトの「今日のぼやき七五八」です。一読の価値があるので紹介しておきます。
 私は、自分の好奇心から、『ダ・ヴィチ・コード ヴィジュアル愛蔵版』を購入しました。この本を熟読し関連本を読破したいと考えています。出来ればこの事に関するワーカーズの論文を期待して紹介を終わります。   (笹倉) 案内へ戻る


本の紹介
『ネオ共産主義』 的場昭弘著 光文社新書 740円


「新しい共産主義論」というよりも「系譜的共産主義思想史」入門書

 世間では共産主義などとっくの昔に終わった過去の思想だという受け止め方が普通だが、それでも地道に研究している専門家も数少なくなったとはいえいまでも存在する。著者もその一人で、最近も精力的に研究成果を発表している。
 そうした著者の姿勢に共感を覚えるのは、共産主義は過去のものになったという最近の風潮に正面から挑戦し、共産主義を誤解し、偏見を抱いている普通の人を対象に、丹念に共産主義に対するアレルギーや偏見を解くほぐす努力を重ねていることだ。
 本書もそうした著者の努力の成果の一つで、著者が教えている学生からの素朴な疑問への回答が執筆動機だとして、共産主義という言葉の持つ意味やその歴史について語っている。
 学生の質問のベスト5は(と後書きで書いてあるが)「共産主義は千年王国論やユートピア思想とどう違うのか」、「共産主義と社会主義はどう違うのか」、「空想的社会主義とマルクスの思想はどう違うのか」、「どうして共産主義には共産党が必要なのか」、「共産主義社会はいつか自然に実現されるのか」というものだそうで、これがほぼそのまま本書の構成になっている。
■  ■  ■ 本書の特徴はといえば、マルクスの言葉や思想そのものからではなく、マルクス以前の共産主義思想の系譜をたどりながら再度共産主義思想の可能性を引き出そうとしている点だろう。こうした手法は、共産主義=自由がない、独裁国家だ、暴力的だ、とか、さらには共産主義=スターリンや金正日ではないか、といった共産主義アレルギーや偏見に染まった見方や受け止め方をただそうとするときには理にかなった手法ともいえる。
 たとえば筆者が「新機軸」の一つだとしてる『旧約聖書』と共産主義の類似性の話もその一つだ。筆者は旧約聖書の『創世記』を要約し、そこで語られるエデンの園と共産主義の「千年王国的願望」という類似性を指摘している。詳しくは紹介できないが、旧約聖書で書かれているように、地上で「エデンの園」を作るための4つの条件として、
 イ)「欲望の制限によって独り占めしないこと」、
 ロ)「忍耐によって苦難に立ち向かうこと」、
 ハ)「貨幣によって共同体のために償うこと」、
 ニ)「知性によって神の意図を実現すること」、
を抽出し、それが次のような理由で共産主義と相通ずるものがあると指摘している。
 第一のイ)は、社会の豊かさは欲望の制限があって初めて可能になること、
 ロ)は、共産主義社会は艱難辛苦に耐えた労働者や農民の闘いの結果生まれる、
 ハ)は、富の増大とその均等な配分、
 ニ)は、知性による設計、というわけだ。
 両者の共通性に関する著者の指摘の強引さは否めない。ただ共産主義思想の淵源をユダヤ教の『旧約聖書』やプラトンの「哲人国家」等に求めているのは、それだけ共産主義思想が長い歴史的な系譜の中で引き継がれ、洗練されてきた思想であることを示したいという著者の願望は反映されている。が、それだけにマルクス的な共産主義思想の本当の核心がどこにあるかを探る上では迂回のしすぎというものだろう。こうしたことを言い出せば、共産主義の源流は他にもいくらでも見つけることは可能だ。結果的に周辺状況の説明に力点が置かれすぎ、肝心の焦点がそれだけボケざるを得ない。
■  ■  ■ 共産主義の系譜ということで言えば、実際様々な思想が社会主義・共産主義を標榜し、あるいはそうした旗印を付与されてきた。近代ではバブーフの「農民共産主義」から始まり、エンゲルスによって空想的社会主義と評価された協同組合の創設者でもあるロバート=オーエン、それにサン=シモンやフーリエとその弟子たち、さらには無政府主義ともレッテルも貼られたプルードンやブランキなど、実に様々な思想が共産主義とひとくくりにされてきた。しかしそれぞれの共産主義思想は、ひとたびその内実に踏み込めばあまりの違いに驚かされる。
 たとえばドイツのルイ・ブランやフランスのエティエンヌ・カベーの社会主義・共産主義は、国家社会主義とも言うべき国家統制型、中央集権型の共産主義だ。この型の共産主義は筆者も言うようにソ連型「社会主義」と同じものであり、また現在の共産主義に対する誤解や先入観の元になっている共産主義そのものだ。
 その他にも、国分幸氏の分類によれば、集権的計画経済体制としての国有・国営方式(サン・シモン派、カベ、ワイトリング)、共有・実質的国営方式(ルイ・ブラン、ブランキ、ブレイ)、私有・実質的国営方式(フーリエ派)、あるいは多元的体制=分権的計画経済(オーエン)、多元的体制=市場経済(プルードン)等々、実に多様だ。マルクスの共産主義はこれらとは全く違う「共有・協議型経済」の共産主義なのだが、こうした区別は最近になってマルクスの読み直しが進み、マルクス再評価が広がるなかで明確に区別されるようになってきた。
 ただし本書ではマルクスの読み直しは中心的なテーマになっていないため、筆者がどう読み直しをしているかははっきりしない。そのテーマについては『マルクスを再読する』(五月書房)が出ているので、そちらを読んで頂くしかない。いずれ機会があったら紹介したい。
■  ■  ■ 本書は著者も言っているように、マルクスの再読という下敷きがあって、それを普通の学生や読者にわかりやすく紹介するという趣旨の本なのだが、筆者が覆す必要があるという共産主義の固定観念や先入観を象徴する言葉を何の留保もなくそのまま記述している部分が多く、気になって仕方がない。たとえば共産主義を中央統制型の国有経済、独裁権力、暴力的、などと紹介している部分などだ。ソ連などの現実を共産主義の一つだと認め、それとは違う型の共産主義を新しい共産主義だと考える観点からの記述だろう。が、ソ連型社会などは共産主義とはにてもつかない社会であることを明らかにしていく作業が必要だと考える立場からは、無神経に過ぎると感じてしまう。
 それはともかく、筆者がマルクスの共産主義を「曖昧な共産主義」と規定している点などは、筆者自体のマルクス再読作業の内実の寂しさを示すものになっている。筆者はいくつもの箇所で、マルクスには共産主義の設計図がない、「自由の王国」にしろ、『ゴータ綱領批判』の「労働に応じた」「必要に応じた」という分配論を、曖昧で漠然としたものにとどまっていると「非難」している。しかしこれは第一に、マルクスの方法に対する無理解であり、従って第二に、マルクスが著作のあちこちで慎重に示唆している共産主義イメージをつかみ損ねていることの告白でしかない。
 第一に、無理解というのは、現実社会の外側に理想郷を作り、その実例の力で社会を変えようとした実験主義、実例主義への批判、あるいは哲学的な概念をひねくり回すことで資本主義に変わりうる社会の実現を構想するマルクス以前の多くの社会主義、共産主義思想の限界を突破することでマルクス的な共産主義が創造されたことの無理解のことだ。周知のようにマルクスの方法は、資本主義を克服した社会の内実や、そこに至る道や条件を人間社会の発展のただ中に発見しようとする視点であり、歴史的な方法といわれるものだった。だからこそマルクスは資本制社会の分析はもちろんのこと、時にはそれ以前の共同体の研究などに深く分け入り、晩年には資本論の完成を中断しても共同体の研究に没頭したぐらいだ。その成果は、初期の『経済学哲学草稿』『共産党宣言』の段階から『資本制的生産に先行する諸形態』や『資本論』さらには『ゴータ綱領批判』、さらには晩年の共同体研究の草稿に示されている。たとえば『ゴータ綱領批判』での労働に応じた分配や欲求に報じた分配という問題にしても、確かに記述自体は単に分配に関して示唆しているだけだ。が、マルクスにあっては分配とは生産あるいは所有や分業と相互に関連する一つのシステムの別のあらわれであって、当然のごとく特定な分配のあり方に照応した具体的な生産関係を前提としている。その生産関係とは、例の資本論での『協同(共通)占有に基づく個々人的所有』であり、その場合の協同占有とは生産手段と個々の労働者の関係が相互に排他的なものでない直接結びついた関係を意味している。具体的にはそこではすでに労働者が生産手段の支配権を獲得することによって所有関係そのものを後景に退け、変わって占有権優位の、すなわち労働者の占有権を根拠に分配を受ける社会だ。いいかえれば、所有権、経営権、労働権を労働者が労働者のままで行使する協同組合型社会のことである。これは『資本論』の株式会社論や協同組合論、あるいはその他の文献にちりばめられた共産主義社会とそれを実現するための方策の示唆的なスケッチを総合すれば容易に読み取れるはずのものだ。
■  ■  ■ ところで本書の締めくくりはタイトルにもなっている『ネオ共産主義論』である。本書の記述をどのように集約するのかと読んでみれば、実にあっさりとしたもの。ここでも結論は旧約聖書を要約しながら、貨幣(豊かさの象徴)と知(科学)を基礎としつつ、欲望を制限しながら豊かさを共有することで平等な社会を創り上げる、ということにつきる。ところが現実のソ連型社会主義などは、カベーに代表される「粗野な共産主義」をはじめとして、予言者的共産主義、冒険主義的共産主義という共産主義の負の遺産を受け継いでしまったと総括する。そしてそれら旧来型の共産主義に代わって、「個々人の欲望(=個性)を前提にして、なおかつ個人の欲望を抑え、集団の欲望として団結する」新しいタイプの共産主義を提起する。その新しいタイプの共産主義とは、資本主義が欠落させてきた「欲望によって蓄積された富を、全体で分かち合うためのメカニズム、言い換えれば、他人と喜びを共有するためのメカニズム」であり、それを実現する主体はネグリが言うようなマルチチュード(多様な個性を持った集団)ということになる。
 こうした共産主義の源流を旧約聖書やプラトンの国家論にまでさかのぼらせた本書の「系譜的」共産主義論は、取り立てて否定する必要もないかもしれないし、共産主義アレルギーが蔓延する今日的状況の中では共産主義への関心を呼び起こす端緒にはなるかもしれない。が、資本主義の発展と矛盾の深まりのただ中でしだいに成熟しつつある未来社会の萌芽の顕在化という道筋を提起することで共産主義の必然性を示したい、と考えたマルクスの共産主義を革新したとはとても思えない。
 とはいえ、筆者が別のところで「スピノザを媒介にしてマルクスを再読する」といっているように、本書でもスピノザに始まってシュタイン、カベ、アルチュセール、ルカーチなど、共産主義に関わってきた多彩な人物を登場させている。さながら本書の「系譜的」共産主義論は、コンパクトな共産主義思想史入門という趣もあり、そうした関心で読むには一読の価値はあるといえるだろう。(廣)


色鉛筆 非正規労働者

 私は非正規労働者だ。約30年前、学校を卒業して正規労働者として働き、その後仕事を辞めて結婚をして子供を産んで子育てが一段落してから非正規労働者として働き始めた。今は、正規労働者と同じ労働時間で同じ仕事をしながら賃金は約3分の1という安い賃金でこき使われている。こうした私自身の賃金の安さを表してくれる新聞記事があった。(2006年4月23日付 朝日新聞)『育児で女性が仕事中断。生涯賃金はいくら減る?』というタイトルで、その中のイラスト(下記参照)を見て唖然となったしまった。
『子供を産まずに仕事を続けて60歳の定年まで働くと、平均的な生涯賃金は2億7700万円。1年ずつ2度の育児休暇を使って正社員として同じ会社で働き続けた場合は2億5700万円だ。ところが第1子の出産を機に会社を辞め33歳の時にパートなど非正規で再就職した場合は5700万円。育休を利用した場合に比べて2億円も少ない。29歳で退職し、38歳で再就職した場合でも正規と非正規では、1億円以上も差がつくことになる』(新聞より抜粋)
私はイラストの中で1番少ない5100万円コースに当てはまっている。ショック!!正規労働者に比べるとなんと2億円も少ないとは・・・2億円という賃金の差に改めて驚き、こんなにも差別されているんだと実感した。だが、好きこのんで非正規労働者として働いているのではない!!非正規労働者の仕事しかないのだ!!と、だんだん怒りを越えて腹が立ってきた。
しかし、資本家側から見れば非正規労働者として雇用すれば1人に対して2億円も浮かせることができるということだ。だから、この10年間で400万人を越える正社員を削減して650万人の非正規労働者に置き換えて、多くの大企業が史上最高の利益を上げている。それは、すべて私達非正規労働者を犠牲にしてボロ儲けしているのだ。(美) 案内へ戻る


「ヒットラー最後の12日間」という映画を観て

 戦力もほとんど失われ、ロシア軍の爆撃がヒットラーの潜むベルリンにも及んだ当事のことを、ヒットラーのファナチックな支配、批判する者、提言する者、離反する者は、ことごとく(自らの周辺の軍人たちをも)処刑し、彼の死£シ前の状況、なお自らへの信仰を残したい最後の見栄とも見える。信奉者(女性がほとんど)にはやさしい素振り、世界は私を呪うであろう≠ニまるで受難者の如き毒々しいセリフを残したことなど。
 ドイツ国民がこれほどヒットラーを支持したことの罪を、さらけ出した映画を作ったことにドイツが戦争責任をあいまいにしない姿勢を示していると思う。それは二度と繰り返さないために、辛い自己をも謝罪するもの。しかし、独裁者(支配する者)の人としての闇は、世界の権力者の様々のタイプは、支配する者と被支配者との関係から生まれる闇(悲劇)であることをも提示した映画でもあった。
 死者にムチ打つな≠ニいう日本的な一見おおらかに見えて、なんでもかんでもクチャクチャにしてしまう奇妙なやさしさ≠ニは全く異なるもの。
 この映画を観て、なんでヒットラーはユダヤ人を目の仇にして虐殺することに、むしろ正当性ありとするに至ったのか? と思う。内と外からもう一度、私たちも戦争責任をはっきり問うに至らなかったが故に、現在も歴史問題を残している。靖国*竭閧ナでも、戦争に持ち込み、支配した者、支持した者の責任を、一人ひとりが明確にすべき時であろうし、この映画の持つ重大な意味を参考にしつつ、自らの考えがいかに稚拙であろうと持つことは避けられないと思う。(人間としてみたとき、支配者としてこういう冷酷な人間にしてしまったのはなぜ? を問うことも大きな問題だろう)
 外交によって犠牲が少ないことに双方努力することは、紳士協定のようなもので、双方、民衆レベルでの相互理解(違いの発見からみんなが知識人となること、それぞれの置かれた立場・状況の中で)の裏付けがない限り、紳士協定もいつ、破られるか、保証はない。
 なぜ、ヒットラ−は人種問題にこだわったのか。死≠ノ直面して結婚の儀式を行うのに地下の部屋で、誓いをたてさせる仲立ちは牧師と思われるが、まずヒットラ−に「あなたはア−リア系民族ですか」と尋ね、ヒットラ−は「はい」と答える。ア−リア系民族ってのは何だろうと思う。ヒットラ−は種の純潔とか言って、ドイツ民族は世界で最も優れた種族だとかで、それを医学的に準備していたのがユングであったとかは、常識として知られている。
 最近、勉強会に参加させてもらって、ユングの無意識の世界と中国の気功(頭からっぽにしろという既成の概念の呪縛から解放するものとしての医療)との融合を教わったが、いずれも考える≠ニいうことから始まり、頭につめこんだ知識なり何なりをいっぺんに放り出してしまえ、ということらしい。それには賛同するし、至上命令としてある呪縛から自らを解放せよということから、私たちはどのように生きてきたか、というそれぞれの歴史(自らも含めて)を曇りない目で見てみる最初の一歩の学科としてのものであろう。
 時代にの流れの中に自らをはめ込んで、それとも客観化してみるために、マクロにしてもミクロにしても、そういうことはどうしようもない≠ニ成り行き任せ≠ノしてきたように思われる。靖国問題が、それ自体の問題ではなくて、象徴的な問題として、日本人全体、上から下までどう考えるか、をフワフワとあっしには関わりないこと≠ニして見ることは、もう許されないと突きつけられた問題として私たち上も下も考えねばならない。
 戦争と言うのは征服し、支配しようとする、弱肉強食≠フ武力≠ノよる表現であろう。私自身の目の前のことでも役立たず≠ヘ無用のものとして省略されることは、やむを得ずであろうと、現実にそういう姿。有名でないと…≠ニいうのは名も金もない者はモノも言えないし、いつでも無視されてきたことを体験として知らされるこの頃。
省略
 ヒットラ−は戦争へ導き、その理由として人種差別を持ってきて、逆らう者は純潔なる<hイツ人をも邪魔者は殺せ≠ナ葬り去った。無力になって、最後のええ恰好呪われる存在≠ニして死にたかったのには、賛同しかねる。彼は死んでも彼の思想?≠ヘ残る。その検討なしには生きられないとドイツ人々は考えたのであろう(今後にも残された問題として)。日本人にはそれがなくて、まあええやないか≠ニいう曖昧さは決して寛容ではない(許せないことも許してしまうのが寛容であろうか?)。だから、その亡霊のようなのが何べんでも現れてくるのにも気付かないか、こだわらない、これが寛容であるかどうか。
 ロジンさんは水に落ちた犬≠フいろいろについて考察している。あいまいさがくせ者と思ったのであろう。だから彼はじゃま≠ネ存在であったのかもしれない。彼のエッセイ・雑文は神経質なまでに民衆の負の面をも見逃さないし、一方で脱帽する面も見ている。お先真っ暗な時代に、壁にぶつかり、批判は次のステップ、現実的なビジョンを生む土壌を準備するものではなかったか。だから、私は柳田国男氏その他の学者さんと、ジャ−ナリステイックでさえあるロジンさんの残したものとは、相似て異なるものと思っている。現在はサイレント・ボイスを公然としたボイスにする努力がなされているようだ。ここで教えることは学ぶこと≠ナ得意なものでみんな知識人、学者たりうること、その次の段階で大きな花開くだろうと私は思っている。
省略
 ヒットラ−の最後の弁明私は呪われた存在を引き受けたのだ=Aこれをどう見るかは人によって違うだろう。ドイツは、ドイツが大量虐殺をやってしまったこの事実を、さらけ出したという点では敬意を表したい。ドイツ全体が罪を見据えたのだ。日本では、思いやりとかで罪≠感じない習慣があるのか恥‐恰好悪い‐面子を壊さない≠アとに重点があるようだ。思いやり≠煢゚ぎると悪≠呼び起こすことになりはしないか。東洋的なあり方の功罪をみすえる時、しんどい奴≠ニかひつこいスッポンみたいな奴≠ニ敬遠されがち。なにか抜けてないの?
省略
 ドイツの姿勢を私たちは学ぶ点は多々あるだろうと思うことは、確かなようだ。嘔吐しそうな現実をみすえたことは、二度と繰り返さないという覚悟の上でこの映画が製作され、製作者が戦争世代ではないことに、さらに驚きであった。
省略
 あらゆる階層で殺しに至らぬ工夫は今後もなされようし、犯罪の多い時に悪用されかねないから。様々な取り組み、それが多いほどその地方、そのお国は若いと言えよう。       2006・5・23 宮森常子
 

第三世界から見た日本

 スリランカに長く住んでいると(とは言っても入管法の改悪で、市民権が獲得出来ないばかりか、二年ごとにビザを更新しなければならない)、段々日本という国が見えてきた。
 新聞を開けばほぼ毎日、日本からの巨額寄付の記事。たしかに何も知らないスリランカ人は日本は気前のいい良い国だと思っている。この金の出所は日本国民の税金、利益をフトコロにするのは一部スリランカの政治家、日本の建設会社、建設資材会社(私のいる田舎でも、三井セメントが他国のセメントをおしのけてはばを利かせはじめた)、やれ道路・橋、はては国会議事堂と、日本人のふところから金が出ていく。
 交通インフラ整備は日本車の大量販売とも結びつく。(ここでは、乗用車の90%は日本車だ)企業は自前の資本で海外利益を上げるだけでなく、国家機能を利用して、いわば他人のフンドシで相撲をとっている。露払いジャイカの役どころ。
 ところで、私の女房が身体が弱いため、こちらの病院(公立・私立とも)の医師、薬等とおなじみになった。公立は医療費タダ(この貧しい国で、又貧しい国だから)、少々不潔で、設備不十分をガマンすれば、こんなありがたいことはない。
 医師の技術もたしかに低い、女房が車の事故で右腕を骨折した時、かつぎ込まれた公立病院での手術はダメ、骨は離れたままだった。医師はレントゲン写真を絶対見せようとしない。もっとも日本でも、私がこちらの警察署前のドブ(時にフタのない溝が公立の建物のまわりにもあるから歩く時には注意!)に左足を突っ込んで、骨がまがってしまった時、日本の私立病院の外科医はこれは骨折だといい、手術をしなければならぬとのたもうた。しかも医師の描いたケガの図は左右の足をとり違えていた。私は恐ろしくなってスリランカに逃げ帰った。結果は骨が多少まがっているが、自然治癒で丈夫そのもの。69歳の現在でも走ることが出来る。
 さてもとの話にもどると、この国では薬が実に安い。インド製、バキスタン製と日本ではお目にかかれない薬が市販されている。私は風邪を引けば、一週間はなおらないものと日本に居たときから覚悟していた。
 しかしかなり重症の風邪もインド製、スリランカ製を3種類あわせ飲むと、まるで手品のように直ってしまうことに気づいた。女房や友人の子供が口内炎になった時、2回の塗布で直った。・・・と目ヤニでまぶたがくつっいてしまった時のパキスタン製の目薬(目、鼻でもOK)、英国製の抗生物質錠剤(これで何人の歯痛を直したことか)。いずれも日本の何とか製薬の風邪の錠剤2〜3粒の値段だ。
 こうした安くて良い薬がなぜ日本で市販されていないだろう。厚生省が頑張っているからだ。帝京大学の安倍先生の危険血液製剤事件での厚生省の態度を見れば理解できる。こうせい・ああせい省は、国民の健康より製薬会社に操をたてているのだ。安倍先生はアメリカ細菌研究所のレトロウイルス研究者(ひよっとして製作者)と友人関係だから知らなかったことはあるまいが、厚生省は知ってか知らずか、どちらにしても共犯だ。ドクターのボス達、政府、製薬会社の三位一体は国民の健康にはあまり関心がない。              (スリランカ・松田)


ふたつのヒバク

原爆症訴訟大阪地裁判決
 5月12日、大阪地裁において、国から原爆症の認定申請を却下された9人の原告による行政処分取り消し訴訟に勝利判決が下された。やっと勝ち取られた判決だが、22日、国が大阪高裁に控訴した。国が守ろうとしているのは破綻した原爆症認定基準≠ナあり、この構図は水俣病関西訴訟と同だ。
 水俣病関西訴訟では判決が確定し、水俣病認定基準≠フ見直しが急務となっているにもかかわらず、環境省の官僚や認定審査会のセンセ方の利害や面子が邪魔をして、今もって放置されている。原爆病の認定基準がどうなっているか、ちくま新書「内部被曝の脅威‐原爆から劣化ウラン弾まで」(肥田舜太郎・鎌仲ひとみ共著)から紹介しよう。

「認定の審査は、疾病の種類、被ばくの距離などの被ばく状況、被ばく者の生別、年齢などを『原因確率』という基準に照らして決められる。その基準は、@本人が被ばくした地点の爆心地からの距離に存在した放射線量を決める、A本人の生別、年齢からその地点で申請の病気が発生する確率(%)を決める、B申請している病気が同性、同年の日本人に発生する確率(%)を決め、@ABの三つを組み合わせ、合計した原因確率が五〇パーセント以上なら起因性ありとして認定し、五〇パーセント未満一〇パーセント以上は個別に検討し、一〇パーセント以下なら起因性なしとして却下するというものである」(58ページ)

 なんとも硬直した基準ではないか。チェルノブイリでも明らかなように、放射能汚染は風などの影響もあり、思いがけない遠距離地点に大きな影響を及ぼしている。また長い時間をかけて影響を及ぼしてもいるので、被爆≠ニいうその時・その場だけで被ばく者の被害を確定することなどできない。原爆症訴訟は2005年段階で160人余が原告となっているが、「その特徴は、従来、ほとんど認定されなかった『入市と遠距離被ばく者および救護活動に従事した二号と三号の手帳所有者』が多数、加わっていることである」(同59ページ)
 ここに浮かび上がってくるのが内部被曝である。極めて今日的な問題となっている劣化ウラン弾による内部被曝も含め、低線量放射能の影響は今も無視され続けている。被爆者健康手帳は1957年に制定された医療法に基づいて交付されているが、肥田氏は被ばく者に差別を持ち込んだと批判している。その区分は、「@爆心地近くの直下で被ばくした者、A被ばく後2週間以内に入市した者および所定の区域外の遠距離で被ばくした者、B多数の被ばく者を治療・介護したもの、C当時、上記の被ばく者の胎内にあった者」(57ページ)

日常化する被曝
 5月25日、青森県六ケ所村の使用済み核燃料再処理工場で作業員がプルトニウムを吸い込むという事故が起きた。分析建屋での出来事だったが、マスクの着用は義務付けられていなかったという。その影響について、神戸新聞は次のように報じている。「同再処理工場での体内被ばくは初めて。今後五〇年間の被ばく線量は全部で胸部エックス線撮影一回分の五分の一にあたる〇・〇一ミリシーベルトで、作業員に健康上の影響はないという」(5月26日)
 この健康上の影響はない≠ニいう評価は日本原燃の主張だと思うが、明らかなすり替えがある。エックス線撮影は体外からのそのときだけの影響に過ぎないが、体内被ばく≠ニいうことになると局部的な影響を継続的に受けることになる。内部被曝、低線量被曝の影響を否定するこうした見解(微量な放射線なら大丈夫≠ニいう神話)はどこから来たのか。もちろん、その影響を認めてしまうと、原子力産業は成り立たなくなるのだから、御用学者を総動員してでも否定しなければならないのだが。
 軍医少尉として広島陸軍病院に赴任していた肥田氏は自身も被爆しながら、被爆者の救援に献身した。その経験から、低線量の体内被曝がもたらす深刻な影響を確信した。原爆ぶらぶら病である。肥田氏はさらに次のように述べて、今も核汚染を拡大し続ける米国を告発している。

「内部被曝による放射線障害は原爆使用者側にはその経験から既定の事実であった。にもかかわらず、アメリカが被ばく者に厳しい緘口令を敷いて原爆被害の実相を世界に対して隠蔽したのは、ソ連に対して核兵器の秘密を守るためというよりは、低線量放射線による内部被曝の恐怖を『知っていたが故の隠蔽』だったに違いないと私は思っている」(84ページ)

 ここにもうひとつ、だましの素材として自然放射線というものがある。自然放射線程度の被曝は問題ないという主張だが、人類は自然放射線の影響と折り合いをつけてきたと肥田氏は指摘する。

「自然放射線は、放射線に最も弱い胎児の一〇万人に二人を先天性奇形で殺してきた。しかし、二万年の間、自然放射線とともに生きてきた人類のからだは、それと上手に対応する能力を育て、被害をそれ以上に増加させてはこなかった。ところが、工場で生産される人口放射線は人類が自然放射線との間に結んできたルールに関係なく、気ままに行動し、同じ微量でも細胞に致命的な影響を与え得る危険を絶えず持っている」(80ページ)

 鎌仲氏はドキュメンタリー映画「ヒバクシャ」の監督であり、「内部被曝の脅威‐原爆から劣化ウウラン弾まで」は映画の書籍版のようなもので、もちろん肥田氏は映画にも登場している。共著者が強調してやまないのは、こうして日々核汚染が拡大・拡散するなかで、今や総ての人類が内部被曝の脅威に曝されるようになったという事実である。本書は人類が核と共存できないことを余すことなく明らかにしている。必読の書といえよう。             (折口晴夫) 案内へ戻る