ワーカーズ323号 2006.6.15.     案内へ戻る

 マネーゲーム、拝金主義に走る株主資本主義
 小泉・新自由主義政治が本姓を暴露

 村上ファンドの代表が証取法違反の容疑で逮捕された。ライブドアの堀江氏に続き、「株主主権」を声高に叫んだ経営者が市場からの退去を迫られている。
 村上氏は私募債として集めた何千億円のカネを元手に、証券市場で「違法」な手段を駆使して荒稼ぎをしてきた。目をつけた企業の株を密かに買い進め、その企業の株価を人為的に高騰させた後、売り抜けて巨額の売買価格差を稼ぎ出す。買い進めた株を武器に「経営権を取るぞ」と脅して、高値で株を買い戻させる。いずれのやり方も、社会に新たな現実の富をもたらす経済活動とは無縁で、その富を姦計と詐術で横取りするマネーゲ
ームに過ぎない。村上ファンドのターゲットとされた企業からは、企業の長中期の経営計画を無視し、短期利益のみを目的にして企業を絞り捨てるやり方として批判の声が上がった。
 しかし問題は、ライブドアや村上ファンドや彼らのやり方を範とするヒルズ族とやらの新興企業だけではない。
 村上ファンドの誕生には、オリックスの宮内義彦会長が深く関わつてきた。宮内会長は、同時期に、同じく政府の規制改革委員会の委員長や規制改革・民間開放推進会議の議長などを歴任し、今回村上氏が活用した私募債ファンドの仕組みをはじめ様々な「規制緩和」を実施するとともに、村上氏の事業に自ら投資してきたのだ。
 そればかりではない。あろうことか、「金融の番人」と呼ばれる日本銀行の総裁・福井氏までが、「村上氏の志に共感した」などと言って投資をし、元手の数倍のもうけを手にしていた。一千万円の投資、数千万円のもうけを「わずかな額」と言ってすませる神経も問題だが、日銀総裁さえが投資をしていたという事実が、村上ファンドの資金集めに有利に働いた可能性もある。
 小泉首相は、両者の村上ファンドとの関わりや、両者を政治と経済の要職に任用した自らの責任について、「問題ない」の一言ですませている。ライブドア、村上ファンドが見せてくれたマネーゲーム、拝金主義はまさに小泉政治と一体であり、その必然的な随伴物以外の何ものでもない。小泉と、小泉後継の新自由主義政治を許してはならない。         (阿部治正)


 八百長裁判

 6月9日、兵庫住基ネット訴訟判決が神戸地栽で言い渡されました。「請求を棄却する」という予定通りの判決を読み上げた橋詰均裁判長が、すぐに退場するのかと思ったら、生意気にも判決要旨の朗読を始めました。それで、少しはまともな判断を示すのかと思ったら、全くの当て外れでした。
 判決文が手元にないので詳しくは紹介できませんが、おおよそ次のような内容です。
@プライバシー権とか自己情報コントロール権とかいっても、住基4情報(住所・氏名・生別・生年月日)は住民基本台帳から閲覧可能である。こうした個人を確認するための情報は、思想信条とはかかわりがないものであり、秘匿すべき情報ではない。
A公権力から監視されない権利については、275事務はそれぞれ個別に行なわれるものであり、それらをまとめる(11桁の住民票コードにより名寄せする)ことはない。行政は法に基づいて、必要に応じて個人情報を扱っているので、そのような心配はない。
B情報漏えいについては、操作者とパスワード、ファイアウォールなどの管理・安全措置が講じられている。人が行なうことなので抽象的な危険性は残るが、住基ネットの有用性は否定できない。
といったもので、被告(財団法人地方自治情報センター・兵庫県・14市町)の言い分そのままです。八百長裁判≠ニ言うほかありません。
 裁判長はさらに、住基ネットの有用性について年金事務を例に出してえらく力説していました。しかしそれは、自治体がこのネットを維持するためにどれだけの税金を浪費し、人的負担を行なっているのかを無視した粗雑な論です。
 この程度の裁判所の判断をくつがえす数字など、簡単に示せます。例えば、5月17日に総務省が明らかにした住民基本台帳カードの交付状況をまとめた数字です。数字は3月末ですが、前年同期比約37万枚増の914755枚。住民基本台帳人口が約1億2687万人ということですから、普及率はたったの0・72%です。総務省や自治体がカネや太鼓を叩いてやっとこの数字です。
 もっとも、本気でやっている自治体もあり、富山県南砺市の38・4%、北海道長沼町の32・5%、宮崎市の19・4%などです。これら自治体は、各種証明書の自動交付や公共施設の予約といった住基カードの多目的利用を進めているようです。ちなみに兵庫県は、全国平均を下回る0・60%でした。
 この判決要旨を聞いていて、誰かが野次を飛ばすこともなく傍聴席は静まり返っていたので、裁判長が情報漏えいの抽象的危険性≠ノついて触れた時に、「抽象的危険性ではなく、現実的危険性があるだろう」と言ってしまいました。裁判長はびっくりしていましたが、野次ではなくまともな批判だったので、静かにするようにと言っただけで、要旨の朗読を継続しました。
 さて、こうした経過で兵庫住基ネット訴訟は大阪高裁に舞台を移すことになりました。住基裁判は全国で行なわれていて、これまで違憲の判断が出たのは金沢地裁だけで、それも高裁では覆されています。それでもそれぞれの闘い続けることで、全国の裁判はつながっていると思います。
 兵庫の裁判では、兵庫県が県内自治体に行なったセキュリティ体制チェックリストの公開が焦点になり、裁判所から文書提出命令が出されました。チェックリストが公開されて、住基事務のデタラメさが明らかになりました。大阪の裁判で住基事務担当者の尋問によって明らかになったデタラメさ加減と、全く同じです。それでも、大阪でも兵庫でも裁判官は建前に逃げ込み、実態はどうあれ、セキュリティを守る仕組みになっている、と繰り返すことしかできないのです。                         (晴)


 コラムの窓   労使馴れ合いの賃金交渉を見直そう!

 日本経団連は6月7日、「2006年春季労使交渉・大手企業妥結結果(加重平均)」の最終集計結果を発表した。これによると、調査対象288社(従業員500人以上、22業種)の81.6%に当たる235社で妥結しており、このうち平均額がわかっている128社の妥結額平均は5813円、アップ率は1.76%であるという。
 この数字は大手企業の平均的数字であり、ここ数年間の数字的比較をすれば、多少上がっているものの、妥結額平均、アップ率ともほぼ横ばいと言うところであり、実感として、賃金があがったなどとは思えない数字である。
 今年の賃上げ要求は、多くの労組が有額要求を提出し、トヨタの労組などが全従業員の賃金を一律で引き上げるベアの形で要求したが、電機、鉄鋼などの労組は、賃金に回す原資の総額を増やすよう求める「賃金改善」を賃上げと位置づけた。(この場合、能力や成果に応じて賃金を支払う成果主義が広がっていることから、配分は一律ではなく、個々の社員でその取り分が違ってくる)
 昨年度の決算で、過去最高の純利益を出している企業側もある程度の賃上げもやむなし、といった中での賃金改善交渉であった。しかし、結果的には企業側の言いなり、手の中での賃金交渉であったといえる。

 一つ特徴的な交渉結果が報道されている。『この春闘では、大手電機メーカー労組でつくる電機連合が「35歳・技能職」の組合員をモデルの一つとして2000円の統一要求を掲げたため、同連合に加盟するシャープ労組も同様の賃上げを要求。経営側は3月15日、労組に「06年4月1日時点で35歳の基幹労働者のみ、500円を加算」と回答、労組も最終的にこれを受け入れた。
 通常の労使交渉では、モデル労働者の賃上げ水準を基礎に、賃金体系に沿って全組合員の賃上げ幅を決めていく。モデル組合員だけ賃上げしたシャープのケースは極めて異例だ。シャープは「厳しいコストダウン競争の中で大型の設備投資もしており、一律に賃上げする環境でないことを労組に伝え」、同社労組は「賃金改善のための原資を増やすことが難しいと理解した」(幹部)とコメントしている。』
 
 労働組合幹部は「他社と足並みをそろえるための苦肉の策」と言っているが、35歳の社員に限り500円の引き上げは、組合員約2万五千人のうち約1100人にすぎず(平均すると1人あたり22円の賃上げ額に)、ほかの年齢層や職種は賃上げゼロという異例の内容であって、これでは、賃上げ額の偽装、それとも粉飾と言われても致し方ないものです。
 人件費を抑えたい経営側と、賃上げ獲得の実績がほしい労組の妥協の産物と見られるが、シャープは液晶事業やそれを組み込んだ大画面テレビが好調で、昨年4〜12月期連結決算は売上高が前年同期比8.4%増の2兆672億円、純利益が4.2%増の627億円で、いずれも過去最高を更新した企業である。
 シャープで行われた、労使馴れ合い妥結の内容が、他の職場の交渉に波及するかどうかは未定だが、こうした馴れ合いは多少の違いはあるにしても行われていることは事実だろう。
 今、法的には人間は「等しく生きる権利」を保障されてはいるが、その一方では、格差拡大が社会問題化され、その権利が失われつつある。
 企業は、能率給や成果主義を導入し、労働者間の競争を強いることによって、労働強化と搾取拡大を図っている、こうした、企業の労働強化・搾取拡大と真に闘うことなしに、「等しく生きる権利」など守ることはできない。 (光) 案内へ戻る


 教育基本法「改正」案は廃案か

教基法特別委員会の審議終了

 教育基本法改悪法案は、衆議院教育基本法特別委員会の今国会での審議を終了した。
 六月八日、民主党は、今国会に提出していた新法「日本国教育基本法案」の継続審査を求めず廃案とすることを決めた。このことは、同日の野党幹事長・書記局長会談で、鳩山由紀夫幹事長が表明したのである。
 「日本を愛する心を涵養」「宗教的感性の涵養」「教育行政の責任者を首長」とするなどの表現を盛り込んだ民主党案については、政府の教育基本法改正案に比べても一段と踏み込んだものとなっており、小泉純一郎首相も、衆院の特別委員会での答弁において「なかなかよくできている」と発言し高く評価した。実際、自公両党が妥協のため表記できなかった「愛国心」を具体的に日本と明記してその重要性を指摘するとともに「宗教的感性の涵養」に努めると表記するなど、与党内や日本会議などからも賛同の声が上がっていたのだが、鳩山氏は、「一年あるいは一年半、慎重に議論を進めることが必要だ」と慎重姿勢に転じたのである。
 鳩山氏は会談で「(政府、民主党の両案を審議している)特別委員会で法案の継続審議というのはおかしい」と与党と民主党の両案の廃案を提案して、社民、共産両党も賛同した。野党三党は、衆参両院の特別委員会は、国会会期ごとに設置されるため、法案もいったん廃案のうえ再提出せよとの筋論を展開している。
 このように、民主党が、国会閉会中の審議を望まないのは、政府案の早期成立を図りたい公明党がすでに、閉会中の公聴会開催を打診してきており、その手に乗れば結局は「政府案のまま賛成多数で押し切られる」だけだとの危機感があるためだ。
 この件について、鳩山氏は民主党のリーダーシップを確保しておきたいために、「新たに(国会内に)調査会を設置し、時間をかけ審議を進めるべきだ」とも主張しており、平成十二年に衆参両院に設置された憲法調査会のように法案の審議権をもたないものをイメージしているとも伝えられている。
 これに対して、法案作成にかかわった西岡議員らは「国会法上、調査会でも議案の審査はできるはずだ。場合によっては、衆参合同の国家基本政策委員会で法案の審議をしてもいいはずだ」と異論を唱えているのだ。その意味では未だ予断を許さない情勢ではある。

教育基本法改悪法を追い込んだ反対の闘い

 教育基本法は、憲法の精神を具体化するために作られたことを明記してあるように、憲法と一体のものである。したがって、教育基本法改悪案が提出されたということは、自公民が憲法改正のための突破すべき一里塚として位置づけ踏み込んできたことは明らかなことである。
 教育基本法改悪法案は、今後の日本に不可欠となる愛国教育の遂行上、必要な法的整備を与えることが主たる目的だが同時に狙いは日教組つぶしにもあることは明白である。なぜなら、戦後の反戦平和闘争を見れば分かるように日教組を中心とする反戦平和勢力の粉砕なくして愛国教育の推進が出来ないことは誰の目にもはっきりとしているからである。
 その意味でいえば、当初この闘いに日教組本部の立ちと上がりの歯切れの悪さは、現場組合員を失望させるに充分なものがあった。官僚化した本部に対して、現場組合員と身近に接する日教組各県組織の闘いは高揚していかざるをえなかった。当然である。
 とりわけ日教組左派の北教組は独自動員で国会前座り込みを数十名規模で開始した。この闘いに突き動かされて日教組本部も闘いをせざるをえない羽目に立たされてしまった。日教組本部の思惑としては、民主党の対案を提出することで、闘いを国会内闘争として収め、国会外での大衆闘争にしたくなかったことは想像するに難くない。彼らは自ら進んで矢面には立ちたくなかった。また日教組組合員の支持を得て当選した日政連議員団も民主党の自公両党案に比較しても一段と反動的な対案に一言の反論も反対せず裏切った。そして、彼らと民主党執行部との仲介の労を執ったのは森越日教組執行委員長その人であった。
 実際、この民主党の新法提案は、自公両党をも驚かした。日教組からも支援を受けているはずの同党案の思わぬ出来栄えに狼狽した自民党内からは、「民主党が日教組に対して『どうせ今国会では日の目を見ないので、目をつぶってほしい』と説得したのだ」との推測さえささやかれていた。まさに当たらずも遠からずの彼らの想像ではあった。それを突き崩したのも北教組の自公両党案も民主党対案も粉砕を明言した立場表明である。
 北教組の断固とした立場への共感は、日教組や全教という組合の立場を超えた労働者市民の広汎な反対運動へと発展していった。教育基本法改悪反対のファックスは、今や民主党の国会議員にも一人当たり千三百人程度届くと報道されており、自公両党の議員も送られ続けている抗議には閉口しているとも伝えられる。私が所属する組織も独自に闘いを組織するなど日教組各県組織の闘い、まさに大衆行動が状況を切り開きつつあるのである。
 かして日教組本部の当初の方針であった「慎重審議・調査会設置要求」という日和見主義方針は各県組織と現場組合員の闘いの前に戦術転換が図られることになったのである。
 私たちは今国会会期終了までこの闘いの継続して、教育基本法改悪案を、確実に廃案に追い込んでいかなければならない。最後まで気を抜くことなく闘おう。  (猪瀬一馬)


 対策の本丸は労働現場に!
 ――“景気回復”でも減らない自殺者――


 ライブドアの堀江貴文や村上ファンドの村上世彰の逮捕を期に、人々を勝ち組、負け組に振り分ける風潮を広めてきた利益万能の市場経済に対する疑念の目が一段と強く向けられている。さらにその弱肉強食の市場経済のうえに拡がった格差社会や、その固定化によって露わになりつつある新たな階級社会を不安視する見方が増えている。
 そうした市場経済に内在する宿命的とも言うべきジレンマの中で、最大の悲劇ともいうべき自殺者の高止まりが止まらない。
 遅ればせながら、自殺者の家族の声などに押される形で国会や政府も自殺予防対策に乗り出した。が、人が自ら生を絶つというのはそれなりの背景と原因があるのであり、それらを取り除かなければそう簡単に減らせるものではない。

■高止まりする自殺者

 昨年一年間の自殺者が3万2552人になったことが、6月1日に警察庁によって明らかにされた。98年に2万人台前半から3万人台に跳ね上がって以降、8年連続で3万人の大台を推移している。昨年の交通事故の死者数が6871人だからその5倍近い人が自ら命を絶っている。交通事故死が1万人を超えたころに“交通戦争”言われたことを考えると、現状はまさに“生存戦争”とでも表現すべき過酷な社会の現実を突きつけられていることになる。
 警察庁の取りまとめによると、自殺者の内訳は男性が2万3540人、女性が9012人。年齢別では60代が1万894人、50代が7586人、40代が5208人と、中高年層が圧倒的に多い。とりわけ中高年の男性が急増しているのが98年以降の特徴だ。
 自殺者の原因・動機別内訳の推移は別表の通りで、最多は「健康問題」の1万5000人強、次が「経済生活問題」の7756人などとなっている。
 この表から分かる特徴をいくつか見ていきたい。
 すでに触れたように、最大の特徴は97年まで2万人台前半で推移していたものが98年を境に一気に3万人台に増え、それ以降8年連続で3万人台を超えていることである。
 原因・動機別に見て最も増えたのが「経済生活問題」で、たとえば最大の自殺者を出した03年で見ると10年前の93年に比較して358%にもなっている。全体の増加率が158%であることを考えるといかに突出しているのかが分かる。次が「勤務問題」の180%で、この二つの原因・動機が全体の増加率を上回っている。最も多いとよく引き合いに出される「健康問題」は、実際は119%で全体の増加率よりもずっと低い。
 警察庁の取りまとめがどれだけ正確かは分からないが、98年を境にして経済的逼迫や生活不安、勤務環境、あるいは失業や雇用形態など、いわば勤労者の働き方・働かされ方の悪化に関わる自殺者が急増し、またその高止まりがなかなか減らないことが浮かび上がってくる。

■「1998年現象」

 なぜ自殺者は増えたのか、なぜそれが高止まりしているのだろうか。
 以前『ワーカーズ』の『本の紹介』欄でも取り上げた『パラサイト社会のゆくえ』で著者の山田昌弘氏が、「1998年問題」という興味深い切り口で自殺者の急増とその高止まりを考察している。ここでもそれを参考に自殺者の急増とその高止まりの意味を考えてみたい。
 山田氏によれば98年を境に日本社会の構造は劇的に変わったという。
 「その前年、1997年は北海道拓殖銀行、三洋証券、山一証券などの金融機関の破綻が相次いだ年だった。端的に言えば潰れるはずのない大企業や銀行が破綻したことで、高度経済成長期以来の企業社会に対する神話が根底から揺らいだ年でもあった。終身雇用や年功処遇が音を立てて崩れ、リストラという言葉が首切りと同義のように語られてもいた。若年層では就職氷河期が続き、仮に就職できてもいつリストラされるか分からないという、生活不安や将来の不安が急激に拡大した時期だった。1998年というのはこうした企業社会の神話が崩壊した翌年、堰を切ったように社会の病理が噴出した年だった、と言うのが著者の見立てだ。いわば『1998年問題』だというわけである。」(04・11・1号)
 山田氏がいう「1998年問題」とは、端的に言えば企業社会と労働のあり方が劇的に変わってしまった、ということだろう。たとえば長期失業者が増えていること、あるいはパート・派遣・請負などの非正規労働者の急激な増加で、非正規労働者の使い捨てと正規労働者の労働強化という両極端な働かせられ方が拡大していること、あるいは成果給賃金一つをとっても労働者は相当なストレスが蓄積されているのは自分たちの経験も含めて容易に推察できる。
 そうは言っても経済的な逼迫だけなら何も自殺にまで追い込まれることはない。専業主婦の妻がが働きに出るとか、あるいは自己破産制度や生活保護制度も利用できる。そこで山田氏が注目するのが「経済的に妻子を養う」という「男性のプライド」である。
 確かに自殺者は男性が圧倒的に多い。その「男性のプライド」がズタズタにされ、「豊かな生活を保証することが自分の存在意義と考える男性が、失業、倒産などによってその役割を果たせなくなった自分に生きる意味を見いだせずに自殺に至る……」という気持ちは理解できるという。
 その究極のケースとして山田氏があげているのが、「生命保険」である。勤労者や自営業者の借金は住宅ローンと倒産に伴う負債が中心だが、日本では自殺でも保険金が支払われることでそうした借金が相殺できる仕組みになっている。だから窮地に陥った勤労者や自営業者などは、低賃金の仕事でいつ終わるともしれない借金を返すよりも、死んで生命保険金をもらったほうが妻子にとって経済的には楽になる、と考えてしまうのもあり得る話である。現に自殺者は誰にも告げずに自殺するケースが多い。「『妻子を養う=豊かな生活をさせる』という『男性』役割を果たす唯一の手段が、自殺というのは悲しすぎる。」という山田氏の感慨には同感するばかりだ。
 『パラサイト社会のゆくえ』には「データで読み解く日本の家族」という副題が付いているように、山田氏は家族社会学が専門だ。だから「1998年問題」への処方箋として社会政策や教育プランの多様化などを提言するに止まり、冷酷な企業社会の現実に切り込む視点が一貫しているとは言い難い。が、それでも日本的な企業社会の特徴とその変貌ぶりを鋭く切り取っていると思う。

■絶望感を生み出す格差社会――景気回復でもなぜ自殺者は減らないのか

 ところで自殺者が急増した原因が主として「経済生活問題」にあるならば、このところの“景気回復”や“失業率の改善”で自殺者が減るはずだ。しかし現実はそうなってはいない。要は最近の“景気回復”や“失業率の改善”にもかかわらず、近年の自殺者の急増の直接の原因になってきた弱肉強食の利益至上主義という企業社会の実態は何も変わっていないことを意味している。“景気回復”や“失業率の改善”が、勤労者や自営・零細業者の生活の改善や安定と結びついていないのだ。
 実態はといえば、倒産件数は再度増える傾向にあり、労働者は先に指摘したように正規・非正規という低処遇・不安定労働者と長時間の加重労働者という二極分解で、むしろ双方とも疲弊度を強めている。今回はあまり触れられなかったが、そうした現実から逃れたい一心で「もう限界だ」とか「永遠の休息が欲しい」と、目先の重圧から逃れること以外に考えられない人が増えているということだろう。そうした状況におい詰められた勤労者が、絶望と衰弱によって自ら命を絶たざるを得ないとすれば、この企業社会という現実は、あまりに惨く残酷な社会という以外にはない。

■対策の本丸は労働現場に!

 人が自殺するということは相当の悩みや絶望の結果であるが、その周囲には家族、親類、友人知人等々、その数倍の人の悲しみと苦しみが存在する。そうした声を受けて超党派の議員がまとめた自殺対策基本法案は今国会で成立する見込みであり、そこでは「自殺総合対策会議」を設置することになっている。また昨秋には政府の連絡会議が発足し、10月には予防センターもできる予定だ。
 政府の主な自殺予防対策は、実態分析、相談体制の充実、相談員の育成支援、自殺未遂者のケア、自殺遺族・周囲のケアなどで、今後10年間で自殺者数を急増以前の水準に戻すというものだ。
 対策が何らかの成果を上げるかもしれないし、無いよりはいいかもしれない。しかしこれらは場当たり的な事後対策や対症療法ともいうべきものでしかない。自殺者急増の張本人とも言うべき企業や企業社会の雇用・労働のあり方の根本的な変革を正面の課題に設定しない“対策”などは、結局は無力なものでしかない。かつて「民主主義は工場の門前で立ちすくむ」という言葉はあったが、自殺対策基本法も同じ運命をたどる可能性が高い。
 そもそも自殺者の多くが誰にも相談することも出来ずに自殺に追いやられるという現実を変えていくことが急務だろう。それを担う第一候補は職場の同僚であり、労働組合であるはずだ。自殺予防のセイフティネットを効果あらしめるためには、対策が企業の門を乗り越えることが不可欠だ。
 かつて逃亡や引きこもりも裏返しの抵抗や消極的な反乱の意義を持つケースもあった。自殺という行為の拡大も、裏返しの、転倒した抵抗の側面があるのかもしれない。それは現実の企業社会が、生身の労働者にとって耐えられないシステムに変質たことに対する、計り知れない悲しみや苦しみを代償とする警鐘でもある。しかしそうしたものに止まっているとすれば、それはあまりに残酷で悲惨な行為に終わってしまう。裏返しの、あるいは後ろ向きの反発に追い込まれるのではなく、人の生をももてあそぶ企業社会の変革は、すべての労働者共通の課題だろう。
 自殺者対策の本丸は、労働現場での労働者の尊厳の確保と労働権の獲得にこそある。(廣)案内へ戻る


 検証「格差社会」の論点(4)
重層化する「女性」の格差


 今回の格差論争の中では、あまり目立って論じられていませんが、女性労働者の差別的位置が、格差拡大のプロセスに組み込まれていることは、見落としてはならない問題です。ただ、あえて「男女の格差」という副題をつけなかったのは、女性労働者も正社員の世界とパート・派遣労働者等の世界に「二極化」し、単純に「男女の格差」と言ってしまうと、正社員の女性労働者の直面する困難や、「男女パート共働き世帯」の抱える困難など、具体的な問題がかえって見えにくくなってしまうからです。「均等法世代」と言われる1960年代生まれの女性労働者の多くがたどってきた「正社員」としての苦難と、「団塊ジュニア世代」といわれる70年代生まれの女性労働者の多くが「派遣労働者」等として受けてきた苦難とでは、同じ「苦難」でもかなり異質なもので、ひとくくりに論じることはできません。なぜ、このようなことが起きてきたのでしょうか?

家族従事者から専業主婦へ

 よく「女性の社会的地位」の問題を「女は家で家事を、男は外で仕事を」という性別役割分業の問題に単純化する向きがありますが、決して女性は家事ばかりしていたわけではありません。
 戦後の早い時期まで、日本の労働力人口の約6割は、農業や個人商店などの自営業者であり、女性もまた自営業の家族従事者として、社会的労働を担ってきました。決して「家の中」で家事・育児だけをしていたわけではなく、朝採れた農産物を近郊の町に行商しに行ったり、商店の売り物を買い付けに卸問屋へ行ったり、「外で」働いていたのです。また小さな割合ではあれ「雇用者」の世界でも、繊維・紡績などの製造業に「女工」と呼ばれながら、働く女性も少なくありませんでした。
 ところが高度成長の時代になると、労働力人口に占める「雇用者」(労働者)の割合が増え、団塊世代を先頭に、正社員労働者の一群が形成され、農村から工業都市への人口移動が起き、マンモス団地が建設され、核家族が住むようになり、「専業主婦」という女性の新しい生活様式が定着していきました。「女は家庭、男は外で仕事」という価値観は、そう古いものではなく、団塊世代の雇用者化(男)と専業主婦化(女)の歴史によって作られたのです。

「均等法」「育休法」と女性正社員

 80年代になると、正社員の世界に女性労働者が進出するようになり、「男女雇用機会均等法」が制定され、主に1960年代生まれの女性たちは、「キャリア・ウーマン」(現在では死語?)等と揶揄されながら、企業戦士の仲間入りをしていきました。彼女らの多くは「待遇が男女平等なのだから、仕事も男並みにするのが当然」という圧力のもとで、家族形成を置き去りにせざるを得ませんでした。そして、40代をむかえた今日、徒労感にさいなまれる人が増えていることが、精神科医の香山リカ氏等に指摘されています。
 こうした正社員としての女性労働者の重圧に対し、「職業生活と家庭生活の両立」が重要視され、育児休業法が制定され、その後、介護を加えて、育児・介護休業法へと拡大しました。
 「均等法」や「育休法」は、正社員の世界における女性労働者の進出にとって、まがりなりにも「追い風」となったのは事実です。実際、労働統計で見ても、結婚・出産で退職することによる「M字型カーブ」の「底」は年々上がっています。問題は、それが様々な矛盾を孕み、法的に規制しても、慣習的な差別が無くならず、実効性があがらないということでした。

パート化・派遣労働者化の波

 ところが90年代になると、こうした正社員における「均等法」「育休法」の効果を「帳消し」にしてしまうような動きが出てきました。それが、労働者の「非正規化」の波であり、その大半を担うことになったのが女性労働者だったのです。グラフを見てもわかるように、労働力人口におけるパート労働者の割合が増えていますが、そのうち女性労働者におけるパート労働者の割合が、目立って増えているのです。
 中高年の男子正社員と女子専業主婦の世帯が、リストラで世帯主義賃金を切り下げられ、その穴埋めに、専業主婦がパート労働者になっていく、というプロセスが「パート」賃金を「家計の補助」という理屈で、低い単価に抑える要因となりました。
 その後、パート化は進み、「正社員世帯の家計の補助」などではなく、男女ともパート世帯であったり、単身者(シングルマザー、シングルファザー)であったりと、独立した家計の担い手である人の割合が増えたにも係わらず、「家計の補助」時代の低い待遇が企業の相場になってしまっているため、正社員との格差は拡大する一方です。

遠のく「均等待遇」
 日本企業の雇用類型化戦略のもとで、進められる非正規労働者の導入・拡大に対して、「均等待遇」を要求し実現していかない限り、男女の均等も「正社員の世界」だけの、しかも実質の伴わないままの状態に放置されてしまうことは明らかです。
 一方で、働きすぎの正社員女性労働者の世界では、中間管理職や技術職のストレスによるうつ病や自律神経失調症が増えており、それが思春期の子供の精神的不安定による不登校に波及するケースも出てきています。
 他方では、男女ともパート共働き世帯では、厚生年金や健康保険にも加入できず、高い国民年金保険料や国保保険料を払えず、滞納者として不利な扱いをされ、子供の教育費どころではない状況が生まれています。
 政府・行政側は、男女雇用均等法の改正や育児・介護休業法の改正、次世代育成支援法による国・自治体・大企業(300人以上)の行動計画策定義務付け等、一見女性の地位を向上させる法や制度を整備しているかに言いますが、肝心な問題として、非正規労働者の均等待遇の実施や正社員のオーバーワークの解消の問題に触れようとしないため、ほとんど絵に描いた餅に終始し、現場ではそれと逆の事態が進行しているのです。(松本誠也)


 読書室 浜田和幸氏著
『ウォーター・マネー 石油から水へ世界覇権戦争』 光文社ペーパーブックス


 今回紹介する本は、0三年十一月に出版された。約二年半前の本ではあるが、そこで問題が明らかにされ解決に向けて提起された内容は、いささかも古くなっていないばかりか環境問題としても第一級の現代の課題であり鋭い問題提起となってきている。
 二000年の水使用量は、『日本の水資源』によると約八百七十億立方メートルであるが、著者は、日本が世界でも有数の水輸入国であることを明らかにして、その量は東京大学生産技術研究所の試算では年間六百四十億立方メートルであると紹介する。
 これに関連して、インターネット上のあるサイトから和田氏の示す数字より正確と考えられる推計を引用すると、「日本は、食料自給率がカロリーベースで四十%と、先進国では最低となっています。そのため、農作物等の輸入によって一年間に、千三十五億トンの仮想水を輸入していると推定され」「人一人一日生活するのに、最低三十リットルの生活用水が必要だと言われています。トイレを一回流すと約十リットルの水を使うので、その三倍の量です。地球上の約八割の人は、この量以下の水で生活しているのに対して、私たち日本人はその約七十倍に当たる二千リットル(二トン)の水を一人が一日に消費していると言われています。この量は、アメリカについで世界第二位です。これで計算すると、日本の年間の生活用水の総消費量は約八百九十億トンですから、その一・一五倍の仮想水を輸入していることになります。生活用水と仮想水の量を合わせると、私たちは年間千九百二十五億トンの水を消費しています。一人一日当たり四千三百リットルの消費量であり、私たちは、最低必要量の実に百四十倍の水を消費している」と指摘している。
 何とも驚くべき数字ではないか。ここで仮想水という言葉が使われている。浜田氏によると、仮想水とは、ロンドン大学のトニーアラン教授が、九十年代初頭に思いついた概念で、簡単に説明すると農産物や工業製品を生産するのに必要な水の量を示すもの、つまり食料等の輸入をその食料等を作るのに必要な水の量に換算したものである。たとえば、精米後の米一kgを作るのに約八トン、小麦粉一kgを作るのに四トン以上の水が、また、牛肉は、肉一kgに対して七十〜百トンの水が必要であると推定されている。
 先に紹介したサイトから、仮想水の世界の国別別輸入量と輸入仮想水の輸入品別シェアを引用すると、内訳は次の通り。
       仮想水の国別輸入量     輸入仮想水の輸入品別シェア
    アメリカ     596億トン   牛肉       45.3%
    オーストラリア  256億トン   小麦       18.6%
    カナダ      54億トン   大豆       16.0%
    ブラジル     27億トン    とうもろこし   12.4%
    中国       15億トン   豚肉        4.3%
    オランダ     10億トン   その他       3.4%
    東南アジア     5億トン     合計      100%
    その他      72億トン
         合計 1,035億トン
 前の世界一だという数字にも驚かされたが、第二位のアメリカでも輸入量は、日本の三分の一にもならないのである。こうしてみると日本の現状がいかに世界から見れば異常なものであるかは誰の目からも明らかなのである。
 和田氏は、この本での現状分析により、世界の水問題が人類の健康を蝕み、巨大利権の温床となり、新たな紛争の火種となる時代が、すぐそこまで来ていると訴えた。これまでにも世界金融問題や中国問題に関して世界情報戦争の実態を明らかにするなどの活躍で知られた和田氏が、多くの日本人は、世界規模で発生している水の危機的状況に対する認識が薄いと警鐘を鳴らしているのである。私たちは彼の警告を受け入れる必要がある。
 自衛隊のイラクでの任務が淡水の確保であったことから分かるようにイラク戦争における最も深刻な被害は、米軍による水供給源の攻撃によってもたらされたと和田氏は指摘する。砂漠の国にとって、上下水道を寸断されるという事態は、汚染水摂取や疫病の蔓延などによって、終戦後にこそ被害が拡大することを意味する。このため子供を中心に数十万人の命を奪っていくという試算もあるのだ。さらにこれらに対する報復として、欧米各地で水源地に対するテロ活動が活発化する危険性が増しているとも説明している。地球環境の視点から見ても、人口爆発、地球温暖化、水質汚染が招く「ウォーター・ストレス」が加速度的に増加している現状の解明は私たちを戦慄させるに充分なものがある。
 先に紹介したように日本が肉や穀物生産に用いる仮想水=「間接水」の輸入最大国であることはほとんど意識されていない。このような中で、和田氏は、輸出国が突然課金政策を取り始めたら、日本経済にとって大きなダメージとなるであろうと予測する。その他、欧米で起きている企業間の利権争いや水道事業民営化の動きなどもリポートしている。
 この本の最後の部分で石油後の新エネルギーとして注目されている水素エネルギーにも頁を割き、その重要性と日本の技術開発の現状も解説し具体的提言もしている。
 地球環境問題を考える際、地球温暖化による影響や環境汚染などによって、今後利用できる水が減っていくことも考えていくとともに私たちは多量の他国の水を消費しながら生活しているという自覚を持つことが大切であることをこの本は教えている。 (稲渕棚雄)案内へ戻る


 開始されつつある世界株安とバーナンキ

日本の株安の進行と世界株安

 0六年春以来、世界的な規模で株価の下落が続いている。原油高やインフレ懸念によるといわれている。ここ日本でも、五月八日、東証株価が一万七千二百九十一円六十七銭・約十九億株の出来高でここ最近での頂点になった株価をつけて以来、東証株価は下落し続けている。この時期にほぼ重なったホリエモン・村上ファンドのダブルショックがさらに追い打ちをかけた。そしてこの一ヶ月ほどたった六月八日には、一万四千六百三十三円三銭・出来高約二十六億五千万株と前日比で何と四百六十三円ほど下落してしまい、この一ヶ月の内に何と約二千六百円の暴落となり、東証株価平均は、0五年十一月十一日以来の安値水準で取り引きの終了とはなったのである。
 アメリカでも事態は似ている。六月二日発表された五月の雇用統計で、米労働省は、非農業部門の雇用者数を前月差で+七・五万人と下方修正し、四月の統計での+十二・六万人を下回り、雇用の減速傾向がはっきりと確認された。また、平均時給は前月比で+0・一%で四月の+0・六%から賃金上昇が鈍化したことも確認されている。
 この間、利上げ休止観測が台頭し、米十年国債利回りは五%台を割り込む一方、個人消費の先行きへの懸念から小売株が売られ、六月五日、バーナンキ米連邦準備理事会議長が、全米銀行協会主催の国際通貨会議で講演し、経済成長が予期された適度なペースに移行する一方、最近の物価動向は歓迎できないとして、議長が「食品・エネルギーを除いたコア消費者物価は年率で過去三カ月間に三・二%、六カ月間に二・八8%上昇した」との具体例を挙げて、「連邦公開市場委員会は月々のコアインフレ指標が上昇する最近のパターンが続かないよう警戒を怠らない」と強調したのにもかかわらず、アメリカの株式市場の下落傾向は続いている。まだまだバーナンキにグリーンスパンのカリスマ性はないのである。
 六月七日までにNYダウは四日間続落し続け、終値では三月九日以来の一万一千ドル割れとなる約一万九百三十一ドルまで下落して取引を終了した。何と一週間前の二日の終値を三百十七ドルほど下回ってしまい、世界株式市場でも全面株安が出来したのである。

世界株安のきっかけとなったバーナンキの発言

 0六年一月末、一八年間米国の金融政策運営の責任者の地位にあったグリーンスパンから、金融論と恐慌論の専門家であるバーナンキに交代した。当然のことながら、市場の動向を敏感に察知して、グリーンスパンのようにそれをうまく反映した金融政策を実行してくれるのかどうか、市場はまだ新任のバーナンキに全面的な信頼を寄せてはいないという。
 五月十日の公開市場委員会(FOMC)において連続十六回連続の短期金利引き上げを決定し五%と六年振りの高水準になった時の意見発表でも、市場の関心事である次回六月末のFOMCで追加の利上げを実施するのかという問題について、バーナンキは明確な姿勢を示すことはなかった。アメリカのみならず世界の株式市場は、今後の米国の金融政策が、今後も一段と短期金利を引き上げ、グリーンスパンが始めた「強いドル」に重点を置く政策を継続するのかどうかが知りたかったのにもかかわらず。だから下落なのである。
 実際、バーナンキ議長は、四月下旬の議会証言では、近い将来の利上げ休止の可能性を示唆した。これを受けて、市場では「六月の米連邦公開市場委員会で利上げが見送られる」との見方が有力になり、株価は上昇基調が続いたが、五月十日のFOMC後の声明では、予想に反して、「六月利上げ休止」を明言しなかった。その後、五月十二日発表の四月の輸入物価指数、十七日発表の四月の消費者物価が相次いで高い伸びを示すと、今度は「六月の追加利上げは確実」との観測が強まり、「六月休止」を期待していた投資家が一斉に売りに動いたので、NYダウは下落した。すべてはバーナンキ発言が原因だ。
 こうして五月半ばに史上最高値に迫ったばかりのニューヨーク株式市場のダウ平均株価(工業株三十種)は、五月十七日終値で約一か月ぶりの安値となる一万一千二百五・六一ドルまで急落した。これが理由となって、市場では、バーナンキ議長の「市場との対話」能力に疑問の声も出始めてはいる。しかし、私はこうした「無能」なバーナンキ像を正しいとは考えていないのである。

バーナンキの発言の背景

 すでに『ワーカーズ』第三一九号でも指摘した事だが、三月十四日、米連邦準備理事会のバーナンキが、今後FRBが、マネーサプライ指標の一つであるM3の発表を取り止めたことに注目しなければならない。しかし、当時も今も、「同指標が(経済運営にとって)特に有用ではない」とのFRBの考えにほとんどのエコノミストは賛同しているのだ。
 M3マネーサプライ指標とは何か。それは、現金や流動性預金、銀行口座残高といった通貨供給量を示す最も大きな指標である。つまり「信用」量の公表をFRBは今後中止するのだ。しかし、「信用」量こそは、実際の経済規模の指標であり、また中央銀行が具体的に操作できる指標である。「信用」量の拡大・収縮の実際を示す指標、それが今後公表されなくなるということは、明らかに中央銀行による意図的な情報の隠蔽である。
 では、バーナンキは、一体何を私たちから隠蔽したいのか。まさに現実の「信用」量の拡大・収縮である。それしかない。今後通貨供給量は私たちに知らされなくなるのだ。デフレファイターとしてのバーナンキの面目躍如というところではないか。この事についての理論的な全面批判は別稿にせざるをえないが、ここではバーナンキが、自らの金融政策遂行上、金利操作と通貨量操作の二つの手法を掌中に収めた事を確認しておきたい。
 バーナンキは「金融政策がどのように伝わっていくか」を研究した業績で知られる経済学者で、特に一九九二年に発表されたアラン・ブラインダーとの共著論文で、金融はマネーサプライよりも信用の拡大が重要だと論じてきた。このように、バーナンキは通貨供給量、つまり「信用」量の拡大・収縮を経済運営の要と考えており、大恐慌や日本のバブル経済の崩壊過程の研究者としても知られている。だからこそ彼は任用されたのである。
 彼が再金利上げについて曖昧で消極的な姿勢であった事とこの事とは関連がある。

またしても政治相場の出来

 なぜ今世界株安が進行しているのか。確かにタイミングとしては、六月五日バーナンキが、ワシントンで開催されていた日米欧中央銀行総裁による国際通貨会議で、米経済の成長が鈍化し始めても「インフレをコントロールできる範囲内に抑えるために警戒が必要」と発言したことにより、米国株や日本株が一気に下落して、「バーナンキショック」が世界株式市場を直撃したことが指摘できる。このことは、バーナンキがインフレ懸念を示したものと一般には評価されているが、こうした評価は正しいのであろうか。
 アメリカの経済は国内政治と大きく関わっている。しばしば大がかりな「演出」がなされることは様々な歴史的経験からも明らかなことだ。では何がこれと関わるのか。
 直近で言えば、五月三十一日、ブッシュ大統領がスノー財務長官を退任させ、後任にゴールドマン・サックスで最高経営責任者を務めるヘンリー・ポールソン氏を指名したが挙げられる。ポールソン氏はこれまでに七十回以上も中国を訪れ、清華大学・経営学部の諮問委員会のメンバーを引き受けるなどのアメリカでも有数の中国通なのだ。
 この人事は、ポールソン氏がゴールドマン・サックスでは中国業務を積極的に開拓したことや公の場で中国とパイプがあることを何度も公言したことからも知られるように、「米国政府が中国市場に近づくためのシグナルだ」彼の起用は「(強硬派の多い)米国議会をなだめる役割を果す」ためのものだとの評価が順当なところであろう。
 この点を捉えて、「ゴールドマン・サックスのCEO、ヘンリー・“ハンク”・ポールソンが次期財務長官に指名されたあとにこの『バーナンキショック』である。ポールソンが経済を持ち上げたという演出を行うために『一時的に下げさせた』のだろう」「この発言を引き金に株価が下落するように仕組まれていたとみるべき」だとアルルの男・ヒロシ氏は発言している。ポールソンの起用はこの七月であるから結果はすぐに明らかになる。
 実際、彼が自分の推測の根拠として指摘しているように、FRB議長が変わると、数ヶ月後に株価が下がるのは、アメリカでは定例行事になっている。グリーンスパンが就任して数ヶ月後に一九八七年の株価暴落・ブラックマンデーが起きた。私は、今後バーナンキが金利操作よりもM3指標操作を重視すると考えているのでこの説には賛成である。
 さらに付け加えれば、人並みはずれて想像力豊かな増田俊男氏は、「資本主義経済においては『成長なくして経済なし』である。従ってバーナンキたちのインフレ合唱で利上げを正当化し、六月末に本当に利上げをしたなら、間違いなくアメリカ経済を減速させる。本末転倒である。バーナンキの本音は実際に利上げすることなしに、リップサービスで市場の長短金利を五%前後に安定させようと考えているのではないか。ブッシュがバーナンキに課した政治的配慮とは、中間選挙(一一月)である。ブッシュにとっては、選挙前に株が下落するより、投票日に向けて上げ続けてくれたほうがいい。ありもしないインフレ懸念合唱でダウを下げるだけ下げておいて、一一月に向けて上げ続ければ政権にとって都合がいい。真面目なバーナンキの悩みが言葉尻に出ているではないか」と発言している。
 アメリカの支配者たちは株式市場を自分達の思惑から自由に操作しようとしているし現実にもしている。しかしこの代償は彼らの想像をはるか超えるものとなるだろう。こうした操作を弄び現実化させることで、実体としてのドルの覇権は、彼ら自身の思惑を超えて結果的には確実に崩れていくことになるのである。
 こうした状況証拠を突きつけられては、『ワーカーズ』紙で、再三再四指摘してきたように、今後世界経済は不況過程に入るとの判断を私はさらに固めるしかない。(直記彬)案内へ戻る


 色鉛筆−食べ暮らしダイエット

 前回の私の色鉛筆で、ふれた1日1万歩の目標ですが、実際のところなかなか困難です。仕事を終えた夕方の時間か、夕飯後と思っていましたが体力的に余裕がない、というのが実情です。今日は日曜日で、末娘のクラブの朝練を送り出し、私も散歩に出かけました。しかし、1時間で3785歩しかなりません。1日1万歩なら、3時間を要してしまいます。
 やはり、食事の量や献立の内容を改善(何よりも、間食をやめること)することが先決か、と思っていたら図書館で偶然おもしろい本に出会いました。実はダイエットという文字が目に入ったのですが、開いてみるとエッセー風で文章に独特のなまりがあり、知識も豊富です。今、テレビに出ているヒロシです≠フ口調と同じで、思わず笑ってしまいました。著者は、ギタリストで古道具屋の店主もかね、食生活研究家としてテレビでも注目されたようです。
 スーパーに陳列された様々なドレッシング、焼肉のたれ、鍋のだし汁など、家で簡単に作れるものまで安易に買ってしまう、そんな風潮があります。日々の生活の中で、便利で安価をうたい文句に新製品が次々と売り出されますが、使用後はビンや容器がごみになります。しかも腐らないように添加物がふんだんに使われて、体に害を及ぼします。著者は梅酢とか、ニンニクや生姜を漬け込んだ醤油を使ったドレッシングを紹介し、自分で工夫のできる調味を勧め環境問題にもつなげる手法です。
 ところで、病原性大腸菌O‐157で世間が大騒ぎになったことは、まだ記憶にあると思います。対策としては、加熱・殺菌・短時間処理など調理する側の指導がなされましたが、食する側への予防の啓発に欠けていたと、著者は指摘します。そもそもO−157の分析は「アルカリ性で繁殖し、酸性では生きてられない菌」、ということは胃液で菌は死んでしまうはずなのです。
 ではなぜ、胃液をすり抜け腸まで達し、ベロ毒素を生み出したのか? 考えられるのは、「流し食い」。今の子どもに多い流し食いは、胃の中で水や牛乳、ジュースが固形物といっしょになると、胃液が薄められ中性に近づいてしまう。その余分な水分が菌をもったまま腸に達するということです。人間の本来の機能を生かし、ガブガブ水分をとらず胃液を薄めないために少しずつ飲むことが大切。私も反省するところ、大いにありました。
 今日はやっと梅干を漬けました。そばにいた末娘は「ふーん」と言っただけでしたが、また機会があれば一緒にやりたいと思います。そういえば、長女や二女の幼い頃は、一緒に連れ出し子連れ仲間で、味噌やキムチを作ったなあと、懐かしくなりました。
 安全な食べ物を共同購入し、それに安心しきっていた自分に、生活の見直しが必要と気付かされました。2人で1カ月、食費が1万円以下、電気・ガスは2000円台という著者の生活。豊かな生活とはお金をかけるのではなく、時間をゆっくり使い自分を活かせる術を持っていることなのでしょう。「この1冊で、おなかの贅肉と生活のムダがとれますよう祈っとります」・・・。私への手厳しいメッセージとして受けとめ、努力します。(恵)
魚柄仁之助「食べ暮らしダイエット」(文芸春秋)


 アメリカ陸軍中枢を痛打した衝撃

 ワーカーズ読者の皆さんは、エーレン・ワタダ陸軍中尉の名前をご存知でしょうか。この人物は今、時の人であり、また得難い勇気の人です。
 イラクが「大量破壊兵器を保有する」との口実で、0三年に大義なきイラク戦争の戦端を、アメリカ・ブッシュ政権は国際世論を敵に回して開きました。アメリカとイラクの決定的な軍事力の差ゆえにフセインの虎の子であった軍隊は大した戦果も上げることなく見るも無惨に粉砕されてしまったことは周知の通りです。しかし、当初から予想されたようにイラク占領は、アメリカ陸軍にとっても当のイラク傀儡政権にとっても、底なしの泥沼のような深みにはまる結果とはなりました。いまだにアメリカ陸軍はイラクから撤退する糸口すら見出しえないで居ます。
 アメリカの兵士の死亡は相次ぎ、このため反戦運動は拡大する一方です。この運動の人格的代表者は、自分の子が戦死したことでイラク戦争に大義がないことを自覚したシーハンさんです。この間、イラク派遣命令を拒否したアメリカ兵士の数は何と七千九百人に上ると報道されました。こうした数字はアメリカにとっては、まさにベトナム反戦闘争以来の衝撃です。
 こうした中で、先に紹介した信念の陸軍中尉の登場となりました。ワタダ氏は、ハワイ生まれの日系人で、現在ワシントン州のフォート・ルイスに駐屯するアメリカ陸軍第二歩兵師団第三旅団の「ストライカー旅団戦闘チーム」との名前を持つ最精鋭部隊の現役将校です。この戦闘チームは最新鋭の装甲車部隊で機動力と即応力ある殴り込み部隊なのです。
 今年一月、大学卒業後陸軍に入隊した時に戦端が開かれたイラク戦争に対する懐疑がアメリカ兵士の戦死者が増大する中で、この戦争が間違っているとの確信へと高っていきます。そして、ついに自らに発せられたイラク派遣命令を拒否して、退職願を提出したのですが、認められず、今回軍法会議にかけられることになりました。
 六月七日、記者会見の中で、「私が従わねばならないのは、心の中でも法的にも憲法であって、不法な命令を下す人たち」ではないと言い切り、イラク派遣命令を実にきっぱりと拒否したのです。彼こそ、アメリカ陸軍でイラク派遣命令を拒否した最初の現役将校となりました。
 反戦イラク退役軍人会は、ホームページで、ワタダ氏の軍法会議の闘いの支援を呼びかけ、支援の輪は大きく広がっていると報道されています。このワタダ中尉の闘いは、まさにアメリカ陸軍中枢を痛打した衝撃とはなりました。この闘いに注目しましょう。(S)


 神戸元町の大丸で「ロバート・キャパ展」をみて

 神戸は私は余りよく知らないところ。阪神大震災の折、先代の月参りのおじゅっさんにくっついて、芦屋へ炊き出しに行ったこと。そして、あるフランス料理店の店じまいが、ちょうど私の私の誕生日と重なって出かけた位で、神戸はよく知らない地。その料理店の店主とは、ベトナム戦争の頃、のめり込んで学校を放り出し、その後フランス料理人となり神戸の山の手に店を持ったらしい。やがて、面白きこともなき世を面白く≠ニいう句と共に店をたたんで、協力者のヨメさんといっしょに世界へ旅に出て行った。
 元町に下り立ったところで、目についた居留地とかメリケン波止場とか異国ただよう標識に、ハイカラさんの街と思うところ。キャパ展を見て頭に残ったのは、キャパの胸に突き刺すコトバ。泥まみれの中から生き残った者がブドー酒をのむことができる≠ニいうにがいコトバ。彼はベトナムで死んだ。
 なぜブドー酒と言ったのだろう。私がフランス映画にはまり、ソムリエのエピキュリアンの自由≠ウに憧れたのかもしれないし、中国の竹林の七賢人の世上との折り合いのつけ方に好ましい客には青目で、不快な客には白目で迎えたという苦労話があった。世上との折り合いの工夫が面白く、青目、白目をむく器用さはない故に、ブドーの苗が3年で実をつけ酒を作れると知った。私だったら、しぶいブドー酒を作ってにこやかに迎えつつ、イヤな奴にしぶいブドー酒を飲ませてやろうと思ったのだが、キャパはうまいブドー酒にありつけるには、生き残らねばならない、どのようにして・・・。それは語らずにベトナムで死んだキャパ。彼が死んで残したコトバは暗喩に富む。
彼は、泥の中を這い回る敵と味方の境界線に立ち、シャッターを切り続けて死んだこと。そして、ブドー酒。さらに、あのフランスのレジスタンスの時期にさえ発禁の書であったバタイユは、三島の文学的な核ともなったと思う。なぜ発禁の書であったかの理由をキャパ展で垣間見た気がした。それは、フランスがナチの占領下にあったこと、キャパは連合軍の従軍カメラマンであり、ドイツのナチとともにフランス人をも攻撃せざるを得なかったことが考えられる。
 ドイツでもフランスでもない、どちらにも組しないが共通したものとしてバタイユの意識下の世界‐バタイユがありえたし、それは地下のものであったろうと想像できる。バタイユが公刊され、若い世代の人々に受け入れられていったのも十分理解できる。三島の死のなぞも。
 だから戦勝国フランスで戦後、優れた作品が、それも入手しがたい現在なお重要な問題を投げかけている人獣裁判≠ニか海の沈黙≠ニか、映画のヒロシマモナルーム≠ニか続出した。おそまきながら、現在の日本ではフランスがすでに通り越してきた問題が、表出しているように思われてならない。
省略
 最近の締め付けは、いくら貧乏好きの私でもこたえる、本当に怒っているが、怒りという心情は、現実の中の生活から生まれた論理というか理論の裏打ちがなければ、持続しがたいものであろう。感情とか心情とかはコトバにならない以前のカオスのようなものの表出であろう。そしてそれが一旦コトバとして表現されると、すぐにファッションの如く流布し、コトバにのって≠ニある如く、最初に見出したコトバの重さは失われるというコトバ自身の恐ろしさというか、悲劇がある。
 だから、東洋哲学の不易流行≠ニ言うコトバが生まれるのであろう。コトバにされたもの、それ以前のものが見えてくると、自らがこだわるものが何かを問うことが、最初の第一歩であろうと思う。が、なんしょ食わないとエネルギーも出てこない悲劇的、喜劇的な生物というのが人間であろう。
 その人間がまたそれぞれの歴史を背負っているから、つながりと言うのは全く求めるとややこしい。特に現代は。ヤマト式が定着民の生んだ争いの源、所有にまつわるものがあって、それ以前の縄文文化≠ノあこがれ≠見たがるのは、当然の心情といえそうだ。 学問とは謎解きのようなもので、日常生活の中で感じること、けったいやろと思うことにこだわることとが始まりであろうし、誰もが学者であるだろう。       2006・6・6・宮森常子
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