ワーカーズ340号    2007/3/1     案内に戻る

安倍総理のイラク派兵継続発言を断固として糾弾する

 二月二一日、首相官邸で安倍首相は来日したチェイニー米副大統領と会談し、「イラク復興と安定化に向けた米国の努力を支持する」と発言し、ブッシュ米政権のイラク政策への支持を改めて表明するとともに「航空自衛隊の活動や政府開発援助を通じてイラクを支える」と航空自衛隊の派兵継続の考えを副大統領に伝えた。
 さらに首相は「日米同盟は揺るぎない関係だ」と指摘し「在日米軍再編の着実な実施や弾道ミサイル防衛協力の加速化が必要だ」との考えを述べるや副大統領は「米国は日本の安全保障に揺るぎない決意を持っており、その決意を改めて表明する」と応じ、「イラク、アフガニスタン、広くテロとのたたかいをめぐる日本の貢献に感謝したい」と述べた。
 全く呆れ果てた安倍総理の発言と対応ではないか。嘘で世界を騙して一方的に開戦したアメリカ・ブッシュ政権に対して、何の指摘も批判もしないのでは、それこそ同盟国の名前が泣くというものだ。アメリカ国内でもイラク戦争批判は拡大する一方だし、昨年末の選挙で共和党は歴史的な大敗北をした。そしてこの勢いに乗って民主党はイラクへの増派反対を明確にした。すでに二月二0日時点で米軍の死者は三千百四十六人にも達している。
 そんな折も折の二月二一日、ブレア英首相は、下院議会で、イラク南部に駐留する英軍部隊を数カ月以内に千六百人削減すると発表した。ブレアの方針によるとこの削減は第一次で、現在七千百人の英軍部隊を夏以降に五千人以下まで削減すると言う。米軍に次ぐ規模の部隊をイラクに駐留させていた英軍部隊が今回段階的に撤退することで、世界の批判をよそに駐留米軍を増強までした米国のブッシュ政権の孤立が明確になるとともにいまだに無反省にブッシュに追随し続ける日本はまたしても世界の笑い者とはなってしまった。
 私たち労働者民衆は日本国内に存在する反対の声を無視した安倍総理の決定に対して断固抗議するとともに我が物顔に立ち振る舞うチェイニー米副大統領にイラクからの米軍の即時撤退を強く要請する。さらに許せざる事に副大統領は、米国に対し批判的な言動を展開する久間防衛相を差し置いて、自衛隊と米軍との制服組の会合を仕切ったのである。
 私たちは今後もイラクからの米軍の撤退のため世界の反戦勢力と連帯して闘う決意である。また自衛隊のイラクからの全面撤退を勝ち取るため断固闘っていく。   (猪瀬)


低金利・円安・格差社会――持続可能な社会のために――

 2月21日、日銀は政策金利(銀行間で貸し借りする短期の金利の誘導目標)を0.25%前後から0.5%前後に引き上げを行った。政策金利が0.5%になるのは実に8年ぶりのことだ。
 政策金利の引き上げは、企業の金利負担、円の為替相場への影響、住宅ローンの金利、高齢者を中心とする利子収入など、様々な影響をもたらすもので、それじたい様々な評価があり得る。それにこの引き上げ自体、政府や諸外国との駆け引きの結果でもあった。
 が、ここでは10年続いた超低金利政策と格差社会について考えてみたい。

■家計収奪の超金利政策

 日銀による低金利政策は、バブル経済崩壊後の91年に6%だった公定歩合を段階的に引き下げて以降、ほぼ16年間も続いてきた。とりわけ95年以降は1%を切る超低金利を続け、01年からは量的規制緩和も取り入れて市場に大量の資金を供給し続けた。
 これは主として97年の北海道拓殖銀行や山一証券が破綻をもたらした金融不安への救済策、すなわち巨額の不良債権を抱える銀行救済のためだった。金利負担がほぼゼロになった銀行は、その効果もあって塩漬けにしてきた不良債権を順次償還することで不良債権を減らすことが出来たのは記憶に新しい。
 この超低金利政策は銀行救済策であると同時に、借金が827兆円(06年6月末)にも膨らんだ国家財政の償還金が雪だるま式に膨らむのを避けるためでもあった。仮に国債の利回りが5%になると、それだけで償還必要額は年間40兆円も膨らんでしまう。
 日銀の超低金利政策は、反面で家計の金利収入を銀行や企業に付け替える効果を持つ。その額たるや、当事者の福井日銀総裁が国会での証言で本来受けとれるはずの家計の金利収入は「93年の水準と比べ、その後の10年間の累計で154兆円減った」と発言しているように、93年以降の13年間ではほぼ200兆円もの巨額になる。これは直接目には見えないが、銀行・企業による家計からの巨額の明らかな収奪だ。これが過去最高の利益をあげる企業とますますやせ細る家計のあいだの格差拡大をもたらしてきた大きな要因となったのはいうまでもない。

■家計を置き去りに膨らむ企業利益

 銀行・企業から家計からの巨額の収奪をもたらした超低金利は、同時に円安の一因となって輸出産業にとって追い風になってきた。長年続く中国の高度成長もあって、鉄鋼や自動車関連の企業を中心に、このところ企業業績は過去最高を更新している。いざなぎ景気を超えるて戦後最長ともいわれる最近の“好調な”景気も、それらの輸出産業が寄与してきた。が、労働者や地方にとってそうした好況感はまったく感じることは出来ない。現に最終消費は増えていないし、スーパーの売上高やや自動車の国内販売も減り続けている。
 それもそのはず、97年以降の勤労者の世帯収入は減り続け、06年で88%の水準まで落ち込んでいる。勤労者の所得が抜本的に改善されない限り、いくら構造改革だといっても国内生産は増えないし、景気も良くならないし、雇用も増えない。
 なぜそうならないのか。賃金が増えなければ国内需要は増えないし、その需要を当て込んだ国内投資も増えないからだ。現在の“好景気”は、労働者や地方の頭の上を通り越して一つのサイクルを形成しているようなものだ。
 本来であれば、輸出超過が続けば為替レート円高になり、輸出拡大を押しとどめるはずだ。ところがあいかわらず円安傾向は続いている。なぜか。
 それは企業が溜め込んでいる輸出やリストラで稼いだ外貨や余剰資金が、外国、主に米国やヨーロッパに流れ込んでいるからだ。日本の企業が溜め込んだ利益の多くが、米国の国債(財務省証券)に投資される他、“円キャリー・トレード”といわれる金利差を利用した投機目的での円の国外流出が大きく関わっている。だからドルやユーロの需要が膨らんで円安が続くことになる。
 こうした構造で円安が続くことになり、その円安の恩恵を受けて輸出産業はまた収益を上げ続ける、というのが現在の構造だ。
 これを単純に図式化すると
  コスト削減――輸出拡大――企業利益の拡大――円の流出――円安――コスト削減――輸出拡大――企業利益の拡大
というようになる。
 実情はこれほど単純ではないが、それでも企業が潤って家計はやせ細り続ける構造であるのは間違いない。これがいまの経済構造だ。
 小泉改革が掲げた「構造改革なくして景気回復なし、景気回復なくして雇用回復なし」。こうした謳い文句は全くの嘘だった。現実の“好景気”といわれるものは、構造改革で産業と雇用をスリム化し、外需中心の利益が国内や労働者の頭上遙か上をぐるぐると回転している、というようなものだ。

■円高では解決しない

 それでは今回の政策金利の引き上げと今後予想される金利の段階的引き上げによってこうした構造が変わっていくのだろうか。そうとも言えないところに問題がある。
 仮に金利が上がって金利収入の拡大という資産効果が現実のものになっても、その恩恵にあずかるのは一部の富裕層とローンを支払い終えた中高年や退職金を含む預貯金の金利に支えられた高齢者だけに限られる。
 今回の0.25%の引き上げで家計に支払われる預金金利は6645億円、住宅ローンなどの金利負担の増加分は約1778億円だという試算もされている。ローンを抱える現役サラリーマン世帯では負担のほうが大きくなってしまう。それにいま進行中の格差社会の中では、預貯金ゼロ世帯が急増している。最も厳しい層が金利上昇による所得効果に無縁の存在でもある。
 それに金利の上昇あるいは高金利は、その背後に物価上昇が存在しているのが常だ。その場合は金利収入は増えるものの、元本自体がインフレで目減りしてしまう。その目減り分の多くが企業に移転する。逆にゼロ金利、低金利ではデフレが同居しているケースが多いので、その場合は預貯金などの金融資産の元本は金利で膨らむことはないが、逆にデフレで購買力は増えることになる。だから金利の変動は勤労者にとってはプラスマイナス両面の性格を持っている。とすれば、悪循環の根本は、結局国内の購買力不足、すなわち賃金の低下、低迷にあるというところに戻るわけだ。
 輸出が増えて企業が収益を上げ、それを労働者に還元すれば国内消費は拡大し、その需要を当て込んだ国内投資も増えて海外市場や海外に投資先を求めないでもすむ。いわゆる内需中心型の循環サイクルである。現実はリストラや正規労働者の非正規化などで輸出の好調が維持されているので、収益を労働者に還元すれば、という前提そのものが存在しない。が、輸出主導型で維持される景気のなかで、労働者が受け取るべき賃金が置き去りにされている事実だけは疑いもない現実なのだ。

■“亡国”の悪循環

 小泉政権が進め、安倍政権も継承している構造改革は、労働者はあくまでコストとしか見ない。収益はあくまで企業内部に、だ。これが新自由主義のめざす蓄積構造、再生産構造にほかならない。
 これは市場での競争が企業経営者に押しつける有無を言わせぬ強制力の結果でもある。構造改革を進める新自由主義とは、そうした利潤目的の市場原理をとことん追求する立場なのだ。
 そうした新自由主義的“改革”は当然とも言うべき矛盾を内包しているが、それが現実化しつつあるのが、まさにいま進行中の格差社会であり少子化問題だ。
 少子化問題というと、文明国の避けられない趨勢として受け止める見方もあるが、現実はといえば、労働力の再生産さえ不可能にしつつある新自由主義改革という政策の結果でもある。これが現に起こっている少子化問題の根本的な原因なのだ。
 ここでは統計的な数字を紹介する余裕もないが、進行する格差社会の中で不安定・低処遇の労働者が大量に造り出されている。非正規労働者を中心とするそうした下層の労働者は、結婚して家庭やマイホームを持つという“普通”の生活を見込めない。多くが親所帯に同居するか、単身でもその日暮らしがやっとの生活を強いられる。現に結婚年齢は年々上がり、生涯単身を強いられる人も多い。仮に結婚しても子供を養育していく大変さを思えば、子供もつくれない。若者ホームレス問題が顕在化する直前の状況にあると警鐘を鳴らす論者もいる。
 しかし親世代が何とか子供をパラサイトさせる余裕があるうちはまだいい。いまの20代30代が親世代になったとき、子供をパラサイトさせる余裕はもはや無くなっている。現在の格差社会が続けば、将来の日本社会は現状さえも維持できなくなるのだ。いわば現在の格差社会は持続可能な社会だと言えないのだ。少子化は、そうした新自由主義的改革に対する、人間社会のしっぺ返しでもある。
 “後は野となれ山となれ”――目先の利益を追い求める企業に利潤至上主義の新自由主義は、持続可能な社会システムとはとてもいえない。

■すべては底辺・非正規労働者の賃金底上げから

 では企業だけが利益を溜め込んでいるような社会の構造をどこで風穴を開けていけるのだろうか。
 労働者にとって金利政策や輸出、資金運用などは直接には関わることは出来ない。労働者が直接関わることができるのは賃金を要求したり闘い取ったりする場面など、やはり企業との関係のなかにしかない。
 東洋経済に一つの統計資料(別掲)が載っていた。「貧困の罠」という特集記事の中でのものだが、目にした人も多いだろう。それはいまや世界最大の自動車会社になろうとしているトヨタ自動車系列の下請けを含めた賃金構造の統計表だ。下請け、孫請け、3・4次下請けの賃金水準がいかに低いか、一目で分かるものだ。そこではトヨタの正社員の平均年収が822万円なのに対し元請け会社の労働者の年間所得が500万円台、最下層の4次下請け労働者の年収が178万円、291万円でしかなく、その差は最大で644万円にもなっているという現実が読み取れる。
 こうした親企業社員を頂点とするピラミッド状の賃金構造は、同時に契約、派遣、請負、パート・アルバイト、外国人など非正規労働者の問題でもある。子会社、孫会社で働く労働者の多くは、様々な形態の非正規労働者だからだ。親会社と子会社の関係は、正規と非正規の関係とオーバーラップしているのが現在の社会の実態なのだ。
 だから親会社、あるいは正社員の労働者は、長時間労働をはじめとして自分たちの処遇改善のためにも闘わなければならないが、それ以上のエネルギーを投入して下請け、孫請け、あるいは非正規労働者の処遇改善の闘いを強力に推し進める必要がある。それができなければ、親企業労働者や正規労働者は、下請け、孫請け、非正規労働者の低処遇の上にあぐらをかいて安住する特権層として孤立して反発を受ける側に立つことになる。
 こうした構造は何もトヨタに限らない。私たちの身近なところにも同じような状況にあふれている。トヨタの労働者の課題は、まさしく私たち自身も課題でもある。(廣)案内に戻る


コラムの窓 「未必の故意」−−長時間労働と過労死−−

 安倍政権が法案提出を見送ったホワイトカラー・エグゼンプション(一部のホワイトカラー労働者には、「1日8時間、週40時間」の労働時間規制を適用せず、残業代も支払わない制度のこと。自律的労働時間制度ともいう。)は、労働者のサービス残業根絶の申告が相次ぎ、トヨタなどの主要企業が巨額の不払い残業代を追加支払いされたことで、経団連が「最近の労働行政は、企業の労使自治や企業の国際競争力の強化を阻害しかねないような動きが顕著」と非難し、ホワイトカラー・エグゼンプションの導入を訴えた経緯がある。
財界のねらいは、労働者を長時間働かせて、企業にとって、無駄な支出(=残業代)を減らしたいというのが導入の本音。
 残業代を支払わないことによる残業の減少化を計ると言う意見もあるが、この考えは、労働者が残業代ほしさに残業をしていると言っているようなもので、本末転倒も甚だしいものである。
 労働者側に責任を転嫁して、残業代を支払わなくてもよいという環境を作りたいというねらいが見え隠れする。
今、残業を規制するとか、労働基準法(36協定という抜け道はあるが)を守ろうといった声はかき消されている。
 この労働基準法を完全に守っている企業などほとんどない。
 多くの労働者は残業手当対象外の「サービス残業」長時間労働を強いられ、職場ストレス・過労死・仕事が原因でのうつ病など様々な問題が発生している。
 残業=超過勤務は当たり前のように思われているところに問題がある。
 労基法の基本には違反するが、36協定でその違反は許されているから、労働者が長時間労働で過労死しようがかまわない、これは明らかに未必の故意というべきものであろう。
これは明らかに犯罪行為である。
 残業の廃止はもとより、長時間労働の禁止と労働時間の削減をめざし、闘おう! (光)

 未必の故意とは 『実害の発生を積極的に希望ないしは意図するものではないが、自分の行為により結果として実害が発生してもかまわないという行為者の心理状態。』を指す。
 刑法における故意とは、犯罪事実を認識してその内容を実現する意思をいう。犯罪事実の内容や、故意の体系的位置づけについては争いがある。
 民法における故意とは、結果の発生を認識しながらそれを容認して行為するという心理状態をいう。


指導力不足の安倍総理はどうすればよいか

 二月十八日、仙台市の講演で自民党の中川秀直幹事長は、「閣僚には安倍晋三首相への絶対的忠誠、自己犠牲の精神が求められる。自分最優先の政治家は官邸を去るべきだ」と述べ、閣僚の結束を求めた。「当選回数や、かつて仲良しグループだったことは関係ない。首相が入室しても起立できない、閣議が始まっても私語を止めない等、忠誠心がない閣僚は官邸から去るべき」「閣僚や官僚には、首相に対する絶対的な忠誠心が必要だ」などとこの間の不快感も露わに発言して、安倍内閣閣僚に緊張感が欠けている事を嘆いてみせた。
 この中川発言に対しては、最近失言三連発の柳沢厚労相からは「お互いに意見交換してるだけだ」、麻生太郎外相からは「中川さんの言いたいことがよく分からない」とただちに反撃された。そして、当の勘の鈍い安倍首相からも「こういうのまでおしゃべりととらわれちゃうんだね」等の反発が起こった。しかし、大々的に報道された後、二月二十日の毎週火曜日の定例閣議では閣僚たちは首相が入室するや否や一斉に起立して「おはようございます」と挨拶する等、今までとは様変わりの「真面目な態度」を取ったのである。
 私も偶々テレビを見ていたら、小泉内閣時代と安倍総理の時代とでは、総理に対する閣僚の態度はまさに大違いであり、テレビはこの点を面白可笑しく放映した。確かに誰か見ても、安倍「首相が入室しても起立できない、私語を慎めない政治家」が内閣にいたのだ。
 この中川幹事長の発言に関わっては、インドでの森元総理の発言も逸する事はできない。
 二月十三日、インド訪問中の自民党の森喜朗元首相は、ニューデリーで同行記者団と懇談し、安倍内閣について「安倍晋三首相に対する尊敬の念がない。特にベテラン組がそうだ」とし、麻生外相や久間防衛相らベテラン勢が首相をもり立てていくことが不可欠だと言う一方で、「首相も遠慮し過ぎているのではないか。もっとリーダーシップを発揮すべきだ」と発言したと共同通信は報道していた。
 安倍総理の後見人を気取る森元総理のこの発言は、閣僚に尊敬されていない安倍総理を暴露したもので、贔屓の引き倒しになる愚劣さに全く気づかない脳天気な発言ではある。
 今回の「一層踏み込んだ」中川発言は、まさに森元総理との「首相に対する絶対的な忠誠心」競争から生み出されたものだった。中川氏の生き筋は実にこれだけなのである。
 確かに安倍総理が各閣僚からどれだけ軽んじられているかが如実に分かる発言ではあった。しかし先の森元総理と言い中川幹事長と言い、自分の発言が安倍総理の内実を根本的にかつ具体的に暴露していることに気づいてはいない。まさにお目出度き人たちである。
 では、安倍総理はなぜかくも閣僚から軽んぜられているのだろうか。
 昨年九月の安倍政権発足直後、北朝鮮の核実験との関連で「日本も核武装について議論すべきだ」との麻生外相や中川昭一政調会長の発言を安倍首相が注意する事はなかった。かつて小型の核なら保有できると安倍氏自身が発言した過去もあったからだ。その前の七月には北朝鮮のミサイル発射に関わって、安倍総理のブレーンを自認していた中西輝政氏らの対北朝鮮強行姿勢発言がマスコミ界を席捲していた。この事で「タカ派中のタカ派」である岸信介の孫の安倍内閣待望論は一気に高まっていったのである。
 しかし、安倍内閣は、その後急速にその「タカ派」色を自ら薄めていった。特に十月九日訪中して胡主席に対して、「村山談話」や「河野談話」を承認しただけではなく、十月十七日には来日した崔外務次官補から「非核三原則を守りますか」と尋ねられて「守る」と明言し、さらに「安心してください」と付け加えた事で安倍総理の政治的転向は確定した。まさにこの事で安倍総理は背骨を折られてしまったのだ。小泉と安倍の「靖国参拝」を強行しアジア近隣諸国の批判を無視続けたツケが今大きなツケとなって安倍に返ってきた。ここに、彼の右翼的政治言動に大いに期待していた閣僚の侮蔑が生まれたのである。
 ここから安倍総理の迷走が始まり、支持率はつるべ落としで落ちていき、今や不支持が支持率を超えるまでになっている。
 しかし、二月十三日の衆議院予算委員会において、普通の人なら事態を深刻に思い悩むのに当の安倍総理はと言えば、国民新党の亀井静香議員とのやりとりの中で、首相として事実と異なるマスコミ報道とその都度対峙するつもりはないとの考えを示しつつもこう言い放ったのだ、「私はいま、権力の頂点にいる」と。全く自分を知らない事夥しい。
 この発言は、「権力の頂点」におりながら閣僚からも尊敬されない安倍総理は当然必要とされる指導力もなく己を知る自己反省力もない人だと実際に証明するものではないか。
 二月二十日自民党本部で、お騒がせ発言の中川幹事長は安倍総理と会い、総理に対する忠誠心を求めた自らの発言について「ちょっと言い過ぎた」と陳謝した。安倍総理はこれに対して内閣は「ちゃんとやっています。心配には及びません」と応じたが、中川幹事長の発言で、安倍内閣閣僚の緊張感の欠如は労働者民衆の物笑いの種とはなったのである。
 今の教育現場に例えて、安倍内閣閣僚の現状を論ずれば、安倍学級は学級崩壊の状態にある。そして、当の安倍学級担任はその崩壊の現状すら的確に捉えてはいない。こうなればPTAは安倍学級担任を「指導力不足教員」と認定するのに何のためらいもない。
 では、「指導力不足教員」をどうするのか。安倍総理が鳴り物入りで作った教育再生会議は「指導力不足教員」の教壇からの追放を考えている。そのために着々と分限等の対策を考えている。安倍総理が自分の考えに誠実であるなら、自らの考えを実行に移す以外ない。私たちは教育再生会議の「指導力不足教員」へのこんな単純な対策には反対であるが。
 しかし、今問題にしているのは安倍総理の考えである。だとすれば、一も二もなく話は簡単である。自ら選んだ閣僚に対する指導力も尊敬もされていない安倍総理は自ら職を辞するしかない。二重規範は許されない。これが私たちの下す結論なのである。 (直記彬)


どこへ行く「労働契約法」、問題のスリカエを許すな!

新たな「格差論争」の中で

 「雇用ルール見直し国会」が始まって1ヵ月が経とうとしています。
 「格差論争」は第二幕を向かえ、「景気が回復したから正規採用も増えている」と「上げ潮政策」が重要と論陣を張る安倍首相等与党側と、公聴会で現場労働者が証言した「偽装請負問題」をテコに、キャノンの御手洗会長(日本経団連代表で経済財政諮問会議の民間議員)を参考人招致するよう要求する民主党など野党側が激突しています。こうした中、政府与党側は早くも「年金一元化法案」の今国会成立を困難視する等、法案に優先順位をつけ始め、「雇用ルール法案」を「重要広範議案」(首相が本会議に出席し質疑する)として重点化することが議運理事会で決まりました。

「雇用関連7法案」とは

 では「重要議案」とされる「雇用ルール関連法案」とは何か?一般には「労働関連6法案」と呼ばれていますが、これに「厚生年金法改正」(パートの加入枠拡大)を加えて「7法案」と呼ぶ方が適切でしょう。
 具体的には「労働契約法」(採用から解雇までのルール・新設)、「労働基準法改正」(労働時間規制)、「パート労働法改正」(差別禁止と均衡処遇)、「最低賃金法改正」(生活保護との逆転解消)、「雇用保険法改正」(保険料引下げ等)、「雇用対策法改正」(フリーター・ニート対策)、「厚生年金法改正」(パートの加入枠拡大)です。
 その内容は、新聞やインターネット等からも検索できますが、「週刊エコノミスト・1月30日号」で特集記事「本当の労働ビッグバン」が組まれていますので、それを読まれることをお勧めします。ここでは、同記事より、表「労働関連法案の新設・改正の主なポイント」を参照させてもらいます。

「労働契約法」は重要

 これら「7法案」の中で、中心軸となっているのが「労働契約法」です。そこで、前置きが長くなりましたが、今回はこの「労働契約法」について、その背景と重要性、問題点について考えて見たいと思います。
 この法律は「パート労働法」や「労基法改正」に比べて、どこが「改悪」なのか?あるいは「改良」なのか?一般の勤労者にはわかりにくく、労働法の専門家(労働弁護団や厚生労働省の官僚、労働関係の裁判官)の難しい論議におまかせしてしまいがちです。
 ところが、厚生労働省の官僚達は、法案の成立を急ぐあまり、重要な論点を棚上げにしたり、財界の気に入りそうな内容を持ち込むなど、労働者の知らないところで、スリカエを行なっているのです。
 もともとは、バブル崩壊以後のリストラに対し、新たな労働者保護法制の必要性から求められていた「労働契約法」が、今や「労働ビッグバン」(労働規制緩和)の道具にされかねないとすれば、許すことはできません。ですから、私達労働者は、労働契約法について、法律専門家まかせにせず、中身をチェックする必要があります。

「正社員」「非正規」の両視点で

 「労働契約法」は労働者の「採用」から「労働条件の変更」そして「退職・解雇」に到る「雇用ルール」を定める、根本的でスケールの大きい法律です。
 この法律制定が浮上してきた背景には、90年代のバブル崩壊と金融危機の中で、企業がこぞって正社員のリストラを強行し、非正規労働者を導入する中で、従来の労基法と労働組合法の枠に収まらない「判例法」の領域が膨れ上がってきたことです。
 正社員の側では、本人の同意の無い「出向」や「転籍」、分社化による労働関係の切り替え、人員削減における希望退職や整理解雇のあり方などが問題になりました。
 また非正規労働者の側では、短期雇用契約を長年にわたって更新してきたのに、一方的に打ち切られたり、労働条件切り下げを更新の条件とされたりという問題が起きました。
 ですから、この両側の視点から労働契約法の問題を見ていく必要があります。

「判例法」の明文化は必要だが

 正社員の場合、例えば「出向裁判」では、それが是認される場合の条件(就業規則や労働協約の整備、著しい不利益が無い配慮等)について、また人員削減についても、有名な「整理解雇の四原則」(合理的理由、労働組合との協議、解雇を避ける努力、人選の公平性)が、判例として確立してきました。
 非正規労働者についても、「雇用更新拒否裁判」で、3年以上更新されている場合、事実上「期限の定めの無い雇用」と同様と見なされるべきことが、判例とされました。
 リストラで正社員の労組組織率が低下し、非正規労働者が増加し、個別労働関係紛争解決促進法や労働審判制度に、解決の場を求めるケースが激増すると、「判例法」をもとにした訴訟運営は、労働者個人にも労組にも、また弁護士など法曹関係者にも、膨大な負担となり、これまで積み重ねられた「判例法」を「明文化」する必要が認識されてきた事が、労働契約法の背景です。

「条件付き賛成」で良いか?

 この点だけ見れば、労働者にとって、つまりこれまでの裁判闘争の到達点を明文化し、膨大な判例をひも解く消耗戦を避けて、闘いのエネルギーをもっと有効に配分できるとすれば、「条件付き賛成」という立場で進めてもよい、ということになります。
 例えば「整理解雇の四原則」を法律に明記できるなら、ワンマン社長の横暴な解雇や、ホワイトカラーのいじめ・退職強要や、短期雇用契約者の理不尽な雇用打ち切りに、歯止めをかける手段が広がるからです。もちろん、抜け穴はあるにせよ。
 ところが経団連側の抵抗にあって、厚労省は「整理解雇制限」条項を棚上げしてしまいました。さらに、経営者のご機嫌を取るため、「解雇の金銭解決」条項を持ち出し、労働団体の抵抗で見送ったものの、金次第で解雇が自由にできる道筋を画策しているのです。
 ヨーロッパの労働契約法にも「解雇の金銭解決」条項はありますが、その場合は、裁判で解雇の無効が確定し、本人の復職が法的に保証された上で、長い裁判中に職場環境が変わってしまったこと等を理由に、本人の選択で金銭解決もできる、あくまで労働者保護の原則によるものです。「似て非なる」とはこのことです。

「M&A」時代を見据えて

 労働契約法のもうひとつの論点として、「就業規則の変更」による「労働条件の一方的切り下げ」が問題となっていますが、これも90年代以降、「労働条件の不利益変更」をどこまで是認するか法律問題となってきました。
 もっとも、例えば、正社員として雇用が保障されていて、経営難から賃金がカットされるというレベルであれば、今の労基法と労組法のレベルでも十分対応できます。
 問題は、会社が分社化され、新会社に移籍するのに伴って、不利な労働契約を条件にされたり、短期雇用者が雇用更新に当たって労働条件の切り下げを条件にされたり、という場面です。
 企業分割、企業買収に伴って、そもそも労働契約を結び直さなければならない、その際に身分まで正社員でなく契約社員や請負社員に切りかえられる、そんな問題が今後増えてゆくと思われます。
 本来は、こうした「M&A」時代に対応し、労働者が不利に扱われないよう、労働契約を実質的に承継するルールを確保するためにこそ、労働契約法は必要であるはずです。
 労働契約法の本来の役割を忘れ、規制緩和推進の経団連好みの法律に変質させることは断じて許してはなりません。当面は「条件付き推進」の立場で臨みつつも、「悪法」なら断固阻止し、しばらくは「判例法」を基盤に、引き続き奮闘する道もあるのです。それぐらいの構えで、法案審議をきっちりチェックし、国会内外の諸行動に参加してゆく必要があります。(松本誠也)案内に戻る


反戦通信−14  米イージス艦ラッセルの清水港への入港反対行動

 2月24日(土)清水港に米イージス艦ラッセルが入港した。昨年に続く米イージス艦の入港であり、今回は原子力空母ロナルド・レーガンの佐世保入港による随伴艦としての入港である。
 イージス艦ラッセルは昨年5月24日、原子力空母エイブラハム・リンカーンの随伴艦として高知県宿毛湾に入港した駆逐艦である。今回は原子力空母キティホークが横須賀で定期修理を受けている期間、最新の原子力空母ロナルド・レーガンの随伴艦として西太平洋に派遣されている。
 これに対して現地清水や静岡の労働組合・市民団体は、21日には静岡県に対して入港反対を申し入れて、24日には清水興津第2埠頭で現地行動をおこなった。ラッセルの9時入港に抗議して、埠頭入り口で港湾管理局に「抗議文」を手渡し、入港に際しては「清水を軍港にするな」「ラッセルの入港反対」などの声を上げて抗議行動を展開した。
 清水港への米軍艦の入港は、日米新ガイドライン安保の強化とともに、1998年のカッシング、2001年のJSマッケーン、2004年のカウペンス、2006年のシャウプと続き、今回で米軍艦の入港は5回目である。
 当初は3年間に1回位の入港であり、入港目的も「物資の補給」とか「乗組員の休養」などが主な理由であった。ところが最近は毎年入港するようになり、入港目的も地元清水市民との「親善・交流」を強調するようになっている。
 しかし、この間の米軍艦の清水港入港は米韓共同訓練後に入港が多いのが特徴であり、港湾の作戦的利用、軍事行動の一環としての寄港がその本質である。けして「親善・交流」活動が目的ではない。
 アメリカはイラク戦争などのグローバル戦争をおこなっており、それにともない米軍の世界的再配置と日米軍事同盟の統合的強化が進められている。この同盟強化によって米軍艦の日本各地への入港が繰り返されており、米軍艦による港湾の利用が増加している。自治体の長が入港の回避を要請したにもかかわらず、自治体の意向を無視して入港するケースも出ている。
 今回の米軍艦の清水入港は寄航経過とこの空母攻撃群の性格からみても、港湾の軍事利用である。それは地方自治体・業者を戦争動員に組み込みことを意味している。具体的には、接岸や給水・ごみ処理で民間業者が動員されて協力させられている。
 港湾法は平和利用を趣旨としている。軍艦の入港はその趣旨に反するもので、自治体は港湾管理権によって軍艦の入港を拒否することができる。自治体は独自の平和政策・論理を持ち、市民の安全確保の視点から入港に抵抗すべきである。「核の持ち込み」についても自治体は米軍に直接非核証明を請求できるし、それを実行すべきである。
 しかし、多くの自治体は米軍からの要請や説明内容をほぼ無条件で受け入れて、入港を許可しているのが現状である。
 アメリカのグローバル戦争の拡大によって、清水をはじめ日本各地の港湾が米軍の軍事行動に利用されるようになっている。全国各地でこうした米軍艦の入港に反対する行動を取組み、反グローバル戦争反対の声をあげていこう。(E・T)
 

なんでも紹介「山歩きのおすすめ」 茅が岳(かやがたけ--山梨県)1704メートル

 茅が岳はその山容は複雑で、南アルプス市側から見るとでこぼことした峰がいくつもあり八ヶ岳に似ていることから偽八つの異名がある山並みである。車を利用すれば近県からでも日帰りは可能で、多少の急登箇所はあるが登りやすい山である。 南アの展望台としても知られているが、展望は360度、富士山、鳳凰山、甲斐駒、北岳、仙丈ヶ岳、八ヶ岳連峰、秩父連山、遠く、中央アルプスや北アルプスなど、天気に恵まれていればすばらしい眺めである。
 登山道で女岩から茅が岳のほぼ中間付近に「日本百名山」の著書で名高い深田久弥氏終焉の地があり、登山道入口には深田記念公園も造られている。
 山を愛した者が登山道で最後を迎えたことをどう思うかはそれぞれであろうが、活動半ばで倒れても、常にその場に身を置きたいと考えるものにとっては、そうありたいと思うのは自然であろうか。
 もうすぐ春です。ここ数年降雪も少なく雪解けも早いと思うが、早ければ4月下旬から5月(中旬が見ごろ)にかけて山頂ではツツジも見られ、春山を楽しむのにはお勧めの山である。        (光)


連載  グラフで見る高校生の意識調査 その9

 問9 「男は仕事、女は家庭」という考え方に同感しますか。1〜4の中から1つ選んでください。1同感しない 2どちらかといえば同感しない 3どちらかといえば同感する 4同感する 5空白
 「同感しない」「どちらかといえば同感しない」をあわせると女子は約70%、男子は約60%となります。
 前回の調査に比べると、「同感しない」「どちらかといえば同感しない」は女子で約10%、男子で約20%増えました。女子と男子の差は20%から10%に減少しています。男女間の意識の差は縮まっているといえます。
 全世代を対象とした内閣府の世論調査の結果と比べてみると、同感しない派(反対派)の割合は、高校生のほうが高いことが分かります。
(「男女共同参画社会に向けての高校生アンケート調査報告書」発行者・南阪神ねっと、より転載)

 内閣府の世論調査で、賛成するとした女性が41・3%もいるのは、どういうことでしょう。女性の社会参加が進んでも、内実は主婦のパート労働が家計の補助的なものでしかないということです。また、家庭・家族に縛られている女性が、子どもを自分の生きがいとして育てることで、その弊害も社会問題化しています。仕事一筋で懸命に働いてきた男性が定年後、家庭で居場所が無いという例もあります。どちらも、役割分担の固定化がもたらした悲惨な結果です。「定年後に主婦をしています」と、胸を張って公表される知り合いの男性がおられますが、とても好感が持てます。定年後は、家事を分担してこなせるよう、今から準備を始めてはどうでしょうか。(恵) 案内に戻る


色鉛筆   卒業と高校入試

 卒業式のシーズンがまたやって来ました。保護者席で孤独感に迫られ、一体、何度の卒業式を迎えたのだろうと、ふと思いました。子ども達の成長の節目として受け入れるにしては、いつも厄介な「もの」が付いてくるので、祝うという気持ちになれません。心を動かされる場面も幾つかありましたが、壇上にある「日の丸」に向かわされた子どもの表情がとらえられないので、誰のための卒業式かと言いたくなります。
 末娘の中学卒業をひかえ、何も取り組めていない自分に、後ろめたさを感じているこの頃です。教育基本法が変えられ、「不適確教師」のレッテルはりが始まるとなれば、教員の行動は常に監視されてしまうことになります。罰則が科せられない親の立場だからこそ、学校に意思表明をし、心ある教員を支えられれば・・・。そう、今までは思って学校に足を運んでいたのです。
 ところで、今年の西宮市の高校選抜入試に、初めて「総合学科」の単位制高校が一高導入されました。試験科目が従来の5教科から、自分の得意な3教科を選ぶことが出来、プラス自分をアピールする実技が付きます。しかも、受験対象者が市内だけでなく全県となり、これまでの総合選抜制度を大きく変えるものとなりました。ちなみに、この総合学科には人気が集まったようです。
 従来の高校間の格差を作らない総合選抜制度は、すでに兵庫県教委が10年前頃から変える方針だったようです。気を付けなくてはならないのは、この動きに拍車をかけた県・市議会議員の連中がいることです。高校を自分で選べない、各高校に特色がない、競争がないので学力が低下する等が理由であり、今ある有名私学と公立高校との格差を公立高校間にも持ち込もうというのです。さらに、「美しい日本」作りの後押し、道徳心の高揚などを目指しているようです。
 一方で、小中学校から高額な教育費を払い私学を選択する親の存在は、公教育のあり方そのものをどう考えていくのかを、突きつけています。教育が私的なものとしてあると考えるなら、総合選抜制度が変わろうとも、何も関係ない他人事でしかありません。けれど、なぜ当事者として教員から、総合選抜制度の評価をめぐる意見が表明されないのか、疑問の声が次々とあがっています。
 教育現場の荒廃は、教員だけの問題ではないし、社会とりわけ親・家庭との関係は切実です。もっと、教育現場の様子を透明化し問題を隠さず、学校から生の声を発信してほしい。協力できるのは身近な地域・大人なのですから。わたしも、近々、足を運びます。(恵)


教育再生会議 第一次報告への批判噴出

 二月五日の教育再生会議の第一次報告の目玉となった教育委員会の見直し案について、全国知事会などの地方団体や政府の規制改革会議等からの具体的批判が噴出している。
 これに対して、二月一五日の記者会見で、塩崎恭久官房長官は「第一分科会がまとめたもので、再生会議で正式に決めたとは聞いていない」「幅広い国民の意見を聞きながら中央教育審議会(文科相の諮問機関)で議論し、法案化し、与党プロセスを経て、内閣で決める」と述べ、再生会議の見直し案の変更もありうると場を取り繕うのに懸命となった。
 どうやら政府には想定外の反応であったようだ。見直し案は、教育委員会に対して、法令違反や「著しく適正を欠き教育本来の目的達成を阻害している」と決めつけ、文科相が是正勧告や指示を行えるようにする等、国の教育への介入を強化する内容になっていた。
 そして、この背景には、いじめ自殺への対応などでの教育委員会への批判を口実にして、この間の「地方分権改革」の進展で地方教育行政法から消えた国の教育委員会への権限を復活し一段と強化しようとの文科省の思惑がある。まさに官僚が考えそうな事ではないか。
 また同日の二月一五日、この見直し案に対し、規制緩和の司令塔である規制改革会議は、「教育に関する国の権限を強化するということのない制度設計とすべきである」と大臣による教委への指示・勧告の形は極力避けるべきだとの意見書を公表した。同会議は市場万能主義の立場から教育分野でも規制緩和を求めてきたが、この立場から国の権限を強める再生会議の提言に反論したのである。
 さらに当該ともなる地方自治体も見直し案に反対している。第一次報告発表の翌日の二月六日、全国知事会・市長会・町村会の連名で、教育委員会に対する文科相の権限強化は、地方分権の観点から受け入れられないとの声明を出している。また二月一三日、都道府県の教育委員長や教育長でつくる協議会も「各地域が当事者意識と責任を持って教育に取り組むという地方分権の視点に立って、議論がなされるべきだ」との意見書を再生会議に提出し審議内容も議事も秘密にしてきた教育再生会議を批判し公開等を求めた。
 そして、二月一四日、市長会の「教育における地方分権の推進に関する研究会」も市町村主体の教育行政実現を目指す提言をまとめ、座長の北脇静岡県浜松市長は「教育再生は、国主導では実が上がらない」と教育再生会議の教育委員会見直し案に強く反発した。
 まさに政府と教育再生会議にとっては四面楚歌の状況ではある。確かに、教育を目玉とする安倍内閣の実績づくりを最優先に、議事も審議内容も非公開の密室審議で、各種の教育関係者の話も聞かず、強引で一方的な手法で提言を纏めた教育再生会議報告であった。
 二月二十二日、こうした不評の中にあって教育再生会議は、首相官邸で安倍総理も出席した合同分科会を開催した。安倍総理は「第一次報告には多くの反響があった。これからも批判を恐れずに議論を進めて欲しい」と挨拶し、五月末までに大胆な具体的提案を含む第二次報告を纏めるよう求めた。全く言いも言ったりの呆れた安倍総理挨拶ではないか。
 今後は、ゆとり教育見直しの具体策や乳幼児教育の充実、大学・大学院教育システムの改革等を重点テーマとして検討する。教育再生会議への批判の噴出は今後も不可避となるのは必至の情勢である。何よりも安倍総理の見識のなさがその原因にあるからである。
 私たちはこうした教育関係者等の教育再生会議への反発を利用しつつ世論を敵に回して教育基本法改悪を強行した安倍内閣が着々と推し進める教育基本法改悪下の反動的教育政策と闘っていかなければならない。ともに闘っていこう。     (猪瀬一馬)


郵政4・28反処分闘争 28年目の勝利!

 2月13日、郵便事業が民営化されるその機先を制するように、「郵政4・28」免職処分撤回裁判が最高裁で勝利確定した。その発端は、1978年末から79年初にかけて、郵便職場で年賀を飛ばして「反マル生」越年闘争が闘われたところまでさかのぼらなければならない。
 それでは、「反マル生」とは何か! 当時の職場の雰囲気は、全逓労働者として郵便配達をしていた者にしかわからないと思うが、当局は「組合員はいるが、職員はいない」職場に第2組合のクサビを打ち込むために、あらゆる差別的労務管理(当局は生産性向上運動≠ニ呼んでいた)を強化していた。管理職は反動的と言われて1人前とされ、活動家に暴力事件がでっち上げられたりしていた時代である。
 1979年4月28日、8183名に及ぶ処分が発令され、58名が懲戒免職となった。あれから28年、全逓の抜け殻「JPU」が第2組合「全郵政」と合併しようというまさにその時に、全逓の指令に最も忠実に「反マル生」を闘い、免職とされた7名の労働者が職場に復帰しようというのだから、関係者の衝撃は大きい。
 職場で信頼を集め、有能であっても、全逓を脱退しない限り役職にはしない、田舎への希望配転は認めない、といったことが公然と行われていた。同じことの別な表現として、名札とネクタイを着けたら出世コースに乗れるのに、それができないでヒラのままの全逓労働者も多くいた。その記憶を今も引きずっている私は、職場でたった一人になっても名札とネクタイを着けられずにいる。
 それによる不利益は大きかったが、若くして職を奪われ解雇撤回を闘かっている同世代の労働者に何か後ろめたいものを感じてきた。それが今、ようやく氷解するような思いがある。しかしその一方で、古き良き郵便配達しか経験のない彼らが、今の非人間的郵便労働に耐えられるのか、郵政公社との職場復帰等の闘争終結交渉がうまくゆくのか、心配も尽きない。
 そんなことにあれこれ考えをめぐらせるのだが、今回の最高裁決定(郵政公社の上告受理申立の不受理、東京高裁逆転勝利判決の確定)は沈滞した労働運動に衝撃を与え、あらゆる職場で呻吟している労働者に希望を与えるものとなるだろう。その闘いの隅っこの方にいた私も、これまでの自分の選択が間違っていなかったのだという思いを新たにしている。
 この3月末、同世代の多くの労働者が最後と言われている勧奨退職で職場を去る。定年まで働き続けなければならない私は、辞めることが出来る彼らを羨ましいと思いつつ、あと少しこの職場の変貌を見てやろうと思っている。そうすることが、働き続けることが出来なかった仲間の無念の思いを受け止めることになるのだから。 (折口晴夫)


オンブズな日々・その28  領収書が語る議員の姿

 地方議会の議員さんたちに交付される政務調査費が、新聞やテレビで話題になっています。本紙333号(11月15日号・オンブズな日々26)において、兵庫県議のデタラメぶりを紹介しているところです。その後、全国で、とりわけ東京都内の区議会議員の呆れた行状がマスコミを賑わしてきました。
これまで隠されていた支出内容がこのように明らかになってきたのは、政務調査費支出の透明化、会計帳簿や領収書の公開が進んだからです。まだまだ、大多数の地方議会は非公開のままですが、公開への流れは着実に強くなっています。実際、公開されたところでは、とんでもない領収書がゾロゾロと出てきているのですから、議員さんたちがどんなに抵抗してもこの流れは止まりません。
 最近の注目すべき事例として、1月23日付の金沢地裁の文書提出命令をあげることができます。これは金沢市のオンブズマンが市議会2会派の違法な政務調査費支出の返還を求める裁判において、会計帳簿等の提出命令を求めたものを、裁判所が部分的でしたがこれを認めました。驚いたことに、2会派の経理責任者は会計帳簿等の提出に応じず、20万円の過料を払う道を選択したのです。この顛末は、議員さんたちが領収書の公開をどれほど恐れているかを示しています。
 その領収書をめぐる最新情報が2月18日付「読売新聞」に掲載されました。内容は自民党品川区議団が政務調査費で漫画やポルノ小説を購入していたというものです。公開されたレシートには書籍名の記載はないのですが、「ISBN(国際標準図書番号)」から書籍名が特定できたのです。自民党区議団は「不適切なものがあった」として、返還に向けた動きを見せているということです。こうした事例はみなそうですが、「恥ずかしくないのか」「返せばいいのか」と問わなければなりません。
 その品川区議会議員の政務調査費は、なんと一人当たり年間228万円です。つまり、月19万円の税金がかからない第2報酬≠ニいうことになります。同じ「読売新聞」に「格差問題、『底上げ』で解決」という見出しで塩崎官房長官のインタビューが載っていていました。いずれもつまらない内容ですが、見逃すことができないのが次の件です。
「我々は最低賃金を取ってみても、生産性の向上とセットでないと、賃金は上げられないと答えを出している。民主党も共産党もただ(最低賃金を)1000円まで上げろと言っているが、中小企業が払えるわけがない」
 何という言い草でしょう。時給1000円で月19万円の収入を得るためには、190時間働かなければなりません。1日8時間労働として24日ほど働くことになります。議員さんと時給労働者のこの違いは何なのでしょう。世界に冠たる経済大国が、真面目に働いても食べるのがかつかつの賃金さえ保証できないと、このおばか≠ネ官房長官は恥ずかしげもなく主張しているのです。
 このように、およそ政治家≠名乗る連中の感覚は、庶民に背を向けてかって放題、し放題なのです。だから、必要なのは例外なき情報公開、総ての悪事を明るみに出すことです。地方議会における政務調査費支出に係る会計帳簿等の公開は、その焦点となっているのです。               (晴)

 酒について

 私は大の酒好きである。酒は百薬の長≠ニいわれたり、また気ちがい水=iママ)ともいわれ、飲み手によって世の評価が全くちがい、酒自身にとっては、はなはだ迷惑なことである。こういう引き裂かれた評価を受ける酒は、一体いつ頃から作り出されたものか? どのようにして? またなぜに? と原始の頃の酒に思いをはせると夜も眠れなくほど心楽しくなる。
 月参りの若き坊さまが置いていった法話みたいなのに、川底の石のようにじっと座り込んでいて大分まるくなったけど、なかなか角がとれん≠トなことが書いてある。裁判話でニカク落語みたいなのに丸くおさまる≠アとが一番よいありよう‐調和?‐といいたげである。とんがって異議申し立てた若さののちに、かのありように行きついたのならまだしも、コンニャクか豆みたいに角がとれたどころか(それもよしだが)、はじめからフニャフニャの軟体動物でさらにそれになりきることが悟り≠ニすれば、私はどうも宗教者にはなりたくはない。人類最高の発明ともいいうる酒の起源についての講釈を聞いたり、たれたりする方が現在の私には一番のいやし≠ノ思われる。今のところ人間なり生き物に関する限り‐すべてよし≠ネがら、私は酒に心を寄せていて、酒についてもっともっと深く知りたいなあと思う。
 地下生活者の手記≠たりから気ちがい水=iママ)の語源となり、酒にとっての受難がはじまったように思う。もの思う≠謔、になっての酒とでもいおうか。酒がカワイソー。沖縄人の古酒≠アだわりも、なんとなくわかる気がする。ネコ≠ヘ、寝るのが商売みたいによく眠る。酒≠熕カきものに見えてきたようで、私の中でネコ≠ノ酒≠ェ加わったようだ。    2007・2・10 真夜中 宮森常子
 以上はじゃま者は殺せ≠ノ対する反措定であってほしい。よき酒をいとおしく楽しんでみたいなあ。


衣食足りて礼節を知る♂ハたしてそうか? (誤りを恐れず書きました)

 この格言のルーツは、屈原さん(五月にちまきを食べる年中行事に残されている)の忠告がオカミのげきりんにふれて追放され、べギラの水に消えたお話の中で、ワキ役の漁師の大まじめの屈原さんを笑ったふてぶてしくもたくましい精神(どこまでも生≠求めた)から生まれた格言だそうな。
 ところが、いまや衣食足り≠トもえらい荒廃した精神の持主がいっぱい。モノの豊かさは精神の糧となりにくいのかも? 今日の大状況といわず小状況においても荒れ放題で、事件は日常茶飯事である。コンビニの標語でもこうした状況を何と超え出ようとしてか、便利だけでなく感動を!≠ニいう。
 TVでも自動車のCMに利用者の心理として機械であってもときめき、ワクワクして・・・≠ニ語らせ、まるで芸術作品のような扱い。自転車にもよう乗れない私には、ちょっと想像もできない。私はモノ≠ノついては最小限。陋屋に名馬をつなぐ≠ニいう格言にワクワクする方だ。
 美しい陋屋≠ニいうのは簡素なもの? 位しか想像できないが、私の部屋はゴミ屋敷みたいなものである。利休さんが考案したスキヤ造りはにじり口≠入口とし中に入ればみんないっしょ≠フ場である茶屋。歌のセリフではボロは着てても心は錦・・・≠ニいうところか。狭き門より入り来たれ≠ニいうのが聖者のコトバらしく、美しい陋屋≠ノ共通する理念のようである。
 私流にヒネクリまわせば、生物にとって全うするLove≠尊びよろこぶのもLove≠ニいう全く個人的な情緒が、茶屋でいえばいじり口≠フような狭き門≠ノ辿りつき、さらにはみ出して大きなものにも行き着こうとするようだ。
 しかし、ここで私は立ち止まる。個人と個人の情感がクニ≠ノ直結しうるとは思えない。同じ論理が通用するだろうか。そこで愛国の作法≠ェ浮上する。あわせて新リヤ王≠焉B
 愛国≠ニいうコトバから、かつて大本営発表、タケやり精神でふりまわした私どもは寒イボが出るほどのトラウマから、いまだに解放されない心性の持ち主。だから愛国の作法≠ニいう文庫本を読んで、ファナテイックな熱狂ぶりに対峙しつつ、その向こうにナニを見出せるか、自らに問いをもちたく思う。学≠ニは楽しいものであるなあ。
 利休さん考案のいじり口≠ツき茶屋は、当時は平等の場をつくったであろうが、現在では、すべてオープンであってほしい私には、気味の悪い密談の場のように思われ、マンツーマンもよし悪し。お祭り騒ぎの方がええ。宴や祭のあとのぺシミステイックな雰囲気に襲われようとも。
         2007・2・20 昼 日赤にて(左目、手術成功) 宮森常子

二月十九日に寄せて

 一九四五年の二月十九日と言えば、米軍の硫黄島上陸の日です。この日の硫黄島の激烈な戦闘の事は最近クリント・イーストウッドの最新作の二部作『父親たちの星条旗』と『硫黄島からの手紙』で若い人々の間でも深く印象づけられた事でしょう。映像の迫力には抗しようもないからです。渡辺謙もこれで十億円スターになったともっぱらの評判です。
 しかし、私が今回特記するのは、一八三七年の二月十九日、つまり今から百七十年前の事です。この日の午前四時頃、裏切り者の通報により、決起計画の日時を大阪奉行所に察知された大阪東町奉行所の元与力で隠居し自らの屋敷を洗心洞と称した塾を主宰していた大塩平八郎はその予定を八時間ほど早めて決起しました。
 最初の決起計画ではほとんど真向かいにある西町奉行所の重役の家で、二月十九日昼頃執り行われる大阪西町奉行所の奉行の交代の儀式のため集まった退任の奉行と新任の奉行の二人を一気に討ち取るとの計画でした。誓詞を取り交わした者の中から裏切り者が出ずにこれが成功していれば大塩の決起は決定的な影響を今に与えていた事でしょう
 決起の実行は洗心洞と名付けた大塩の屋敷に自ら火を放ち西町奉行所の重役の家に対する大筒の発射から始まりました。大筒の弾はその家にあったエンジュの木に当たったとの事で、つい最近までその木はあったと言います。今その木は枯れてしまって石碑がその場にあるだけですが、その種子から生えた若木は大きく成長しており、今でもその重役の子孫の家の庭に生えているとは大塩研究会会長の酒井一氏の弁です。
 大塩の決起のために結集した人数は門弟二十数名でしたがやがて大阪の被差別部落民の加勢を得て三百人までになりました。この日に至るまでに大塩は蔵書を売り払って得た二千両で大筒等の武器を買いこの日に備え被差別部落民を組織していた成果です。しかし、決起は実際には半日で鎮圧されてしまいます。大塩の放火により大阪の天満は火の海となりました。その後四十日あまり隠れ通したのですが、三月二十七日隠れ家が思わぬ所から発覚して大塩父子は自刃して果てました。この間隠れ続けていたのには訳があったのです。
 この決起を江戸の大老に知らすべく大塩は飛脚を江戸に走らせていました。運悪く、この手紙は江戸まで届かず、途中で伊豆の韮山の代官の手に入る事になり、時の代官は、この手紙を保存していたのです。これが届いていれば一体どう展開したのでしょうか。
 「もはや堪忍成りがたし」と決起した大塩平八郎の心事を考える時、私はよくぞ決起したものだと関心してしまいます。大塩の著書で有名なものは『洗心洞さっき』で、この本は江戸時代右記の隠れたベストセラーであり、勝海舟も読んで褒めているほどの本です。
 さて、昨年末の十二月二十五日から二十七日まで、私は長年の夢であった大塩平八郎ゆかりの地を夫婦で訪れ感激しました。大塩屋敷跡は今の大阪造幣局の敷地内にあります。
 「救民」の旗を高々と掲げ「諸役人共を誅戮」し「大阪市中金持ちを誅戮」して、豪商が溜め込んでいる金銀や米を困窮している者に分け与えるのが大塩の決起の趣旨だってのです。目の前で飢え死にする人々を見ての決起でありました。こうした中で一片の良心の呵責もなく大阪から江戸に米を運び続ける役人に対する怒りの決起だったのです。(笹倉)案内に戻る