ワーカーズ  348号  2007/7/1         案内へ戻る

フランスの総選挙に学び 安部内閣に痛打を浴びせよう

 六月十七日のフランスの総選挙において、フランス政権与党は当初予測を裏切りまさかの後退をしてしまった。選挙時に増税をほのめかすなどまさに奢りの故の敗北ではあった。
 発足当時は、順風満帆の安部内閣も今やボロボロである。説得力を欠く安部内閣は、教育関連三法案・イラク特別措置法延長等、強行採決の強権発動に打って出ている。内閣支持率が二・三十%台であることが既に報道されているが、内閣不支持立率も、今回初めて過半数を超えるまでになっている。
 この一・二月の国会答弁で、「私は今権力のトップにいる」と得意の絶頂から豪語した安倍総理に往時の面影はない。今の安倍総理には、すべての問題に対する自らの責任を認めるのではなく、見苦しいまでの子供じみた責任転嫁の保身発言があるばかりである。
 この春から、安部内閣の迷走は開始された。事務所経費問題の追及は、現職閣僚の戦後初の自殺となり、今発覚して大問題となっている五千万件を超える「消えた手年金履歴」問題は、報道される毎に、今までの処理の仕方のずさんさと歴代社保庁長官や厚生労働大臣の無責任を、浮き彫りにしている。この故に労働者民衆の怒りは高まる一方である。
 そしてこの六月ほとんどの労働者民衆を直撃した住民税の大幅増税問題がある。二年前、自公民与党が決定した定率減税の廃止に伴う措置ではあるが、この決定の責任の所在を不明確にしつつ、昨年度に比較して大きく収入減少となる人たちへの経過措置の存在など、一切広報しないで済ませている破廉恥さである。この事はまさに糾弾に値する。
 税金・年金の取り方で一国の性格が浮かび上がる。日本国家は、労働者民衆に有無を言わせない大変な収奪国家である。今回の事件で分かったことは、日本国家は、労働者民衆に、年金を払う事など一度も真剣に考えたこともなかったと言う事なのである。
 安部内閣はこの苦しさの果て、ついに参議院の投票日を夏休みに行うことにした。呆れた党利・党略である。また何という無駄使いであろう。何十億円が空費されたのである。
 来るべき参議院選挙には、私たち労働者民衆は、フランスの総選挙に学んで、階級的立場に立った自主投票を行使することで、腐りきった安倍政権の自公与党に、一大痛打を浴びせる必要がある。ともに闘おう。 (猪瀬)


年金詐欺、憲法の改悪許さず、安倍政権に参院選で厳しい審判を!

■党利党略の参院選先延ばし

 与党の自民・公明は、国会を7月5日まで延長し、公務員制度改革法案、社保庁改革法案などを数の暴挙で強行採決しようとしている。
 彼らは、公務員制度改革法案を天下りを規制するための法案だなどと言う。しかし実際には、天下りの放任、それに加えて民間=日本経団連の肝いりの人物たちを官民交流などと称して政策決定過程により強く参加させるための布石だ。
 また、社保庁の改革法案なるものは、民間は官よりすぐれているなどという一面的で破産済みのアイデアへの固執、また公務員労働組合に対する攻撃以上ではない。
 そしてこの国会会期延長のごり押しの最大の動機は、実は「消えた年金」「宙に浮いた年金」問題で国民の怒りが与党に押し寄せている状況を回避するための、時間稼ぎにある。与党は、延長で手に入れた時間を利用して、何とか「解決策」らしきものを案出し、国民の怒りをなだめようと策しているのだ。
 しかし、当然の事ながら、事態は与党の思惑のとおりには進んでいない。年金問題は、日がたてばたつほど新たな隠し事や矛盾が次々と明らかとなり、国民の与党や政府への不信と怒りは増していくばかりだ。
 そもそも、年金問題のほとぼりを冷まそうなどという動機自体が、まったく不誠実、姑息であり、勤労者を愚弄するものだ。参院選挙でもしこうした与党に過半数を許すなら、消えた年金問題の解決がうやむやにされてしまうことは明らかだ。来るべき参院選挙は、その意味でも非常に重要な闘いとなっている。

■資本の国家の本性暴露した「消えた年金」問題

 5000万件を超える「宙に浮いた年金」、1千数百万件の「消えた年金」。この問題は、件数の巨大さだけを見ても明らかなように、勤労者の誰もに直接に関係した大問題だ。
 厚生年金も国民年金も、保険料は年々引き上げられていく。その一方で給付は頭打ち、あるいは引き下げられていく。そのあげくに、納めたはずの年金が未納扱い。受給できるはずの年金が受けられない。不当に額を減らされる。こんなことは許されることではない。
 この問題は、資本の国家というものが、いかに勤労国民の生活を軽視し、ないがしろに扱っているかということを、あらためて我々の前に明らかにした。
 資本の国家の役人と保守政治家は、戦前は勤労者が納めた保険料を巨額の戦費のために用いた。そして戦後は第二の国家予算と言われた財政投融資資金の財源としてつぎ込んで、資本のための莫大な公共投資を数十年にわたって続けきた。また官僚の天下りのための組織づくり、保守政党への政治献金の財源としてもこの保険料を活用してきた。
 戦後の大規模な公共事業は確かにめざましい経済成長のテコとなり、国民の経済状態の改善に資する役割も果たした。がしかし、その最大の目的は資本の利益の増大、官僚や保守政治家の利権の確保にあり、そのためにグリーンピア等々に見られる巨額の無駄と浪費、官僚のための天下り天国、天下り先からの政治家へのキックバックが横行したのだ。
 そもそも年金制度は、勤労者の老後の生活保障を求める闘いの反映という面もあるが、それと同時に資本とその国家自身の安定のためにも必要とされたものである。資本の本性は、高齢や障害によって労働能力を失った者への支出を経済的な空費と見なす。しかし労働能力を失った者の生活崩壊を放置していたのでは、社会不安が起こり、労働力人口の再生産にも支障を来し、資本の体制自体が揺らいでしまう。そこで案出された仕組みのひとつが、年金制度などの社会保障制度であった。そして年金制度は、先に述べたように、その保険料の戦費や公共投資への活用という点でも、資本の利益にかなっていた。
 今回の消えた年金問題が明らかにしたのは、資本の体制の下での社会保障制度の限界である。資本とその国家は、社会不安や体制の不安定化を予防するために勤労国民の老後の生活を保障しなければならないということは知っている。しかしこの制度は、その限定された、狭い、よこしまな動機のために、つねに切り縮められ、矮小化されざるを得ない運命を背負っている。年金保険料の引き上げ=大衆収奪が強められ、給付額は引き下げられ、そして挙げ句の果てが納めた保険料が何千万件という規模で消えたり宙に浮いてしまったりという、国家的詐欺行為なのである。
 我々は、消えた年金、宙に浮いた年金を一件残らず復権させ、支払い損で泣き寝入りをする勤労者を一人たりとも生じさせないよう、政府と与党に強く求めていかなければならない。同時に、年金基金や年金積立金管理運用独立行政法人の運営に対する被保険者、労働者・民衆によるチェック、さらには運営への参加を保障する制度を要求していくことも必要だ。また現状の年金支給額が老後の生活を支えるにはあまりに貧弱である点も、このままに放置するわけにはいかない。企業の保険料負担割合の引き上げ、国税からの負担割合の増額を通して、年金支給額を増額させていかなければならない。

■改憲=戦争が出来る国づくりの命脈確保をねらう安倍自民党

 安倍首相は、今回の参議院選挙の争点は憲法改正問題だと、当初は言っていた。しかし、この思惑は年金問題の急浮上で吹き飛んでしまった感がある。
 もちろん、安倍首相は憲法改正を選挙公約からはずしたわけではない。依然としてこのテーマを争点のひとつとして押し出すことをあきらめてはおらず、公明党にも改憲を「共通公約」とするべく働きかけて、同党をして「加憲」を選挙公約に盛り込ませた。
 安倍首相と自民党の思惑は明かである。参院選の公約として「改憲」を掲げておきさえすれば、仮に与党が過半数割れの選挙結果となったとしても、改憲路線は十分に命脈を保てると踏んでいるのだ。というのは、改憲の道を押し進めようとしているという点では、民主党も同舟の仲間であり、選挙結果の如何に関わらず改憲に向けて踏み出すことに国民のお墨付きが得られたと強弁するつもりなのである。
 安倍首相の改憲論は、小泉元首相のそれよりも目的を鮮明に語っている。小泉はまだ「武力行使が目的ではない」などとごまかしていた。しかし安倍首相は「海外で米軍と肩を並べて武力行使が出来るように」するための改憲だと公然と語っている。それに加えて、公然たる改憲の手前でも、解釈改憲の拡大による集団的自衛権の容認=米軍との文字通りの共同軍事行動への乗り出しを策している。
 安倍自民党が、集団的自衛権の容認、改憲によって我々をどこに導こうとしているかは、このかん米軍が行ってきた戦争の実態を見れば明らかだ。ありもしない大量破壊兵器の開発をねつ造して開始されたイラク戦争は、テロとの戦い、自衛のための戦争だと強弁されてきたが、実際には石油資本と軍需資本のための侵略戦争以外の何ものでもなかった。この戦争の結果、何万人ものイラクの無辜の民衆が殺され、何十万人もの人々が傷つき、何百万人もの人々が難民と化してしまった。中東世界は荒廃し、不安定化し、テロや紛争が止めどなくあふれ出す震源地となってしまった。安倍首相が描くような内容で憲法の改悪を許してしまうなら、こんな無法で野蛮で展望のないアメリカの戦争に、日本もまた参加し、つきあわされることになってしまうことは火を見るよりも明らかである。
 もちろんこうした事態は、単に「米国追随」ということではなく、改憲、集団的自衛権抗しへの乗りだし、海外で武力行使が出来る国づくりは、日本の支配層自身の長年の野望の実現でもある。

■労働者・民衆の独自の要求を掲げ、二大政党化の流れにストップをかけよう

 国政選挙のたびに、自民と民主が並び立つ二大政党化が進展している。もちろんこの傾向は、この二つの政党が民衆に強く支持されているから生じているというわけでは決してない。国会の議席の多くを自民と民主が占有する事態となってしまったのは、この二党の力量の故ではなく、11年前に導入された小選挙区制のたまもの、彼らに有利に働くこの制度のおかげである。
 そして、この二大政党化の傾向とともに目立ってきたのが、市場競争至上主義の強まり、格差の拡大、民衆の貧困化、社会保障の後退、民主的諸権利の切り縮め、ナショナリズムの増長、軍事力の強化、海外派兵の拡大、戦争国家化の進展であった。
 かつて、二大政党化は、政権交代を容易にし、チェックアンドバランスをより良く機能するようにさせ、有権者の声を政治の場により届けやすくさせる等々…と良いことづくめのように言われた。しかし実際に生じたのは、貧しく、息苦しく、危険な社会、アジア諸国ばかりか欧米からさえ疎んじられる狭量なナショナリストに導かれる国家であった。
 参議院選挙がいよいよ目前に迫っている。この選挙戦は、弱肉強食の市場主義と戦争国家化をめざす自民と民主の二党にともにノーを突きつける選挙にしていかなければならない。我々は、資本の利益を自らの利益とするこの二党のいずれが勝ちどちらが負けるか、に主な関心はおかない。我々は、この二つのブルジョア政党に代えて、労働者・民衆の利益により近い候補者と政党が進出することを歓迎する。
 もちろんそれは、労働者・民衆の利益をさらにしっかりと体現し、その解放の展望をより力強く示し得る新たな政治勢力が登場するまでのことである。またそうした勢力の成長にとってよりよい条件が形成されることが保障される限りでのことである。
 二つの顔を使い分けるエセ野党=民主党に労働者・民衆の側からの揺さぶりをかけ、革新勢力・市民派の良質な部分への影響力を広げ、そして何よりも独自の新たな労働者政治勢力を登場させるための努力の一環として、目前に迫った参議院選挙を闘い抜こう!      (阿部治正)案内へ戻る


議会制民主主義への疑念――フランスの「一人一票制」見直しの実験――

 阿部政権の命運を左右する可能性を秘めた参院選が目の前だ。年金、格差社会、企業犯罪、改憲等など争点をめぐる論争と選挙結果に注目が集まっている。
 が、ここではそうした目の前の課題からちょっと離れ、選挙にまつわる別の論点を考えてみたい。それは「1人一票制」という、議会制民主主義の根幹にかかわる話だ。
 6月12日の朝日新聞に、フランスでの「一人一票制」見直しのささやかな試みが紹介された。その試みの背後には「民意」をいかに正確に選挙結果に反映させるのかという問題意識があり、それ以上に議会制民主主義に代わりうる政治システムを考える契機にもなる興味深い試みといえる。

■「多数派診断法」

 フランス大統領選を舞台に試みられた実験というのは、民主主義の基本と考えられてきた一人一票制という選挙の常識を覆す新たな投票方法、「多数派診断法」だ。候補者全員を6段階で評価し、その総合評価で当選者を決める手法だ。その記事を読んだ人も多いと思われるが、以下朝日新聞の記事をかいつまんで紹介する。
 フランス大統領選の第1回投票があった今年4月22日、パリ南郊オルセ市の三つの投票所の有権者は2種類の投票に臨んだ。まず最初は1人一票での正規の投票。次は候補者全員の名前と6種類の評価を記す欄が期された投票用紙での「非常によい」「よい」「まずまず」「容認」「不十分」「失格」の評価をする投票。二つめの投票の集計は、各候補者の評価の中央値を比較して順位を決めるこれが「多数派診断法」といわれるものだ。仏エリート養成校「理工科学校」のミシェル・バリンスキー特任教授(効率論)とリダ・ララキ教授(ゲーム理論)が、オルセ市長の協力を得て実施。事前に有権者に呼びかけ、投票者の74%にあたる1752人が協力したという。
結果はどうだったか。
 オルセ市の3投票所の実際の選挙では、社会党のロワイヤル氏が僅差でトップ。ところが多数派診断法だと中道のバイル氏が首位になったという。もう一つの注目すべき結果は、現実の投票で4位になった右翼ルペン氏が、実験では最下位の12位になったことだ。「ルペンだけはいやだ」と考える有権者が多かったということになる。
 有効だった計1733票のうち、評価の仕方は実に1705通りに分かれたという。バリンスキー特任教授は「有権者の意見がいかに多様かを示している。1人ずつすべて異なる政治的意見を、この方法で投票に反映することができる」と説明したという。
 こうした紹介記事からもかいま見られるように、この実験が興味深いのは民主主義の根幹である選挙制度の改善に向けた模索が始まっている点にある。今回の仏大統領選ではこれ以外に、候補者を3段階評価する投票方法を、北西部カーン大学の研究者らが実験したことも紹介されている。
 今回の実験は、議会制民主主義システムの中の投票方法の改善の実験といえる。これまで日本では中選挙区制や小選挙区制、全国区制や比例区制など、選挙区制にかかわる手直しが幾度かなされてきた。が、1人一票制という投票方式での改善の試みはいまだ無かった。こうした実験が民主制発祥の地フランスで行われたということは、一人一票制での投票という長年の習慣に依存し、議会制民主主義の是非に関する一種の思考停止状況にある私たち日本人の政治意識の現状に警鐘をならすものといえる。

■「民意の反映」――実験の評価

 日本でも議員1人あたりの有権者数の偏りなどによる一票の不平等が裁判にもなり、定数是正も若干ではあれ進められてきた。確かにそれも法の下での平等を原理とする議会制民主主義にとって死活的要求ではある。が、それも一人一票制という投票方式の固定観念には触れないものだった。
 その意味で今回のフランスでの実験は、とにかく代表の選出機能を最優先にする一人一票制から、「民意の反映」最優先方式への転換につながる実験といえるだろう。それは新方式による投票がどの候補が代表に最適かという民意を反映するばかりでなく、誰が最も不適格かという民意も反映可能な方式だからだ。それだけ「民意」の反映という点で考えれば、一人一票性に比べて相対的な正確性を確保できるシステムといえる。
 反面、この方式にも難点はある。それはその方式が選挙としては複雑な投票方法だからだ。すべての有権者がこうした投票方式に応えられる土壌があるかどうかは確かに難しい問題だ。が、今回の実験地が、比較的インテリ層が多く住む街だとはいえ、投票者の74%が協力したという事実を見れば、それを全体に拡げるのは不可能だとはいえない。今後の投票方式の一つの選択肢には成りうるだろう。
 ただしそうした新投票方式も、議会制民主主義の宿命的な限界を突破するものではない。なぜなら「一人一票制」も新システムの「多数派診断法」も、自らに成り代わる統治者を選出する、という「代表制」そのものの限界を突破するものではないからだ。「代表制」そのものはこの新投票方式でも土台・前提になっているからである。
 私としては意志決定システムとしては「代表制」ではなく「派遣制」こそ本来の民主主義(=人民主権主義)、いいかえれば当事者主権を実現する意志決定システムだと考える。が、今回のフランスの実験は、代表制=議会制民主主義は至上のものでも絶対のものでなく、本来の当事者主権にいたる過渡的なものであることを考える一つのきっかけになると評価したい。

■「主権者」を意志決定から排除する「代表制」

 「代表制」とは、代表民主制、あるいは議会制民主主義(代議制)とも言われ、、既成の議会内諸政党やマスコミも含めて大多数の人はこれに代わりうる政治システムはないと思いこんでいる一つの意志決定・統治システムのことだ。他方、それに代わりうる、あるいは民主主義がより徹底した意志決定システムとして「派遣制」を対置する意見がある。私もその一人だ。
 「代表制」と「派遣制」の違いについては以前にも幾度か取り上げてきた。簡単に要約すると以下のようなものだ。
 「代表制」とは「国民代表制」の略称であり、有権者による選挙で選ばれた議員が「国民代表」として「選挙民から自立」して「選挙民に成り代わって」国家意志を決定するシステムのことだ。逆に国民側から見れば、国民・有権者が議員その他の代表者を選挙し、その代表者を通じてのみ政治に参加する、いわば「代議制」「白紙委任制」「代意・代行制」といえる。
 他方「派遣制」とは選挙民の「拘束的委任」による「受任者」が選挙民の「代理人」として「派遣委員会議」(議会)を構成して全体意志を決定する。
 「代表制」の特徴は、拘束委任の禁止・免責特権による「白紙委任制」と、数年に一回の選挙という選出機会の制限にある。他方の「派遣制」は「拘束委任」で常時選出母体に規制され、選出母体の集会か投票によっていつでも解任・交代可能だ。
 結論だけ言えば、「代表制」は国民主権を建前とはしているものの、実際上は国民・有権者は直接的な統治の当事者としては巧妙に排除され、代表者による統治についてせいぜい数年に一回受容の意思確認の機会を与えられているに過ぎない。結局は、支配諸階級が被支配階級を政治に参加させる形を取ることで国民として統合しつつ,しかし国家意思の決定過程からは排除するという,近代に特有の,きわめて巧妙な政治的支配のシステムである。(大藪龍介など)という以外にない。
 こうした「代表制」は歴史的には絶対王政が徴税などを納得させる目的で地域や協会などの有力者を抱き込むためにつくった議会に有産階級が進出し、その議員の選出も、当初は任命制や推薦制だったものが、有産階級や労働者階級が力をつけると共にしだいに選挙によるものに変わってきたものだ。
 こうした「代表民主制」が成立する根底には、大きくいって二つの要素があった。
 一つは近代以降の旧階級(封建勢力)に対するブルジョア階級の階級利益の主張であり、また労働者大衆の権利意識の高揚だった。とりわけ産業革命以後の資本主義の発展の中で膨れあがっていった労働者の不満と要求を体制内部に取り込むためには、何らかの形で「民意」を反映させる民主制が避けられなくなった。いわば代表民主制は労働者の権利意識の成長の成果でもあったわけだ。
 二つめは資本制の特徴が、強権的、身分的な支配制度に代わる経済領域での労働者支配を土台にした統治体制であることによる。資本や土地などの生産資材を独占する資本家や地主と、それらをまったく持たない労働者階級に分断された階級国家においては、雇用・賃労働関係そのものの中に“失業と飢えの恐怖”などをとおした資本家による労働者支配の構造が組み込まれている。そうした土台の上での数年に一回の「一人一票制」による「主権の行使」は、支配階級の許容範囲でのみ徐々に容認されてきた。現に当初の各種の制限選挙に見られるように選挙権が付与される対象や民選議員の数などは段階的に拡げられてきたという経緯があり、それだけ経済的土台での支配体制の整備と歩調を合わせたものだった。
 他方「派遣制」についてはどうか。「派遣制」原理の歴史は古いが、その意義が注目されたのは1971年のパリ・コミューンという労働者政府の意志決定システムとして派遣制に基づいた徹底した人民主権システムを採用した経験以後である。たとえばマルクスも『フランスの内乱』で「労働の経済的解放を達成し得べき、ついに発見された政治形態であったのだ。」と高く評価した。
 現在のフランスはといえば、パリ・コミューンの経験を恐れてか、現憲法で「強制委任は無効である。」「国会議員の評決は個人的である。」「投票の委任は組織法によりこれを例外的に認めることができる。」と規定されるに至っている。いわば「派遣制」は「代表制」の対抗原理であり、その対抗原理の否定の上に立って「代表制」を明記しているのが現在のフランスである。

■「派遣制」も現実性がある

 上記の比較だけでも明らかなように、「代表制」とは国民主権の建前を掲げながら実質的には国民を国家的意志決定の場から排除する統治システムでしかない。他方「派遣制」は、文字通りの民主主義=人民主権主義、言い換えれば当事者主権の発現形態といえるだろう。
 しかし「派遣制」といってもそれだけでは万能ではないし、それに特有な制約も当然含まれている。以下、「派遣制」に内在するいくつかの問題を考えながら、どういう条件の下で当事者主権の発揮と結びつくことが可能になるかを考えてみたい。
 これまでも「派遣制」に対するいくつかの問題点が指摘されている。代表的なものは以下のようなものであろう。
 イ)民主主義の発展を特定の制度に依存することはできない。
 ロ)代表制民主主義よりも大衆的民主主義のほうが優れていると固定的に捉えることは出来ない。
 ハ)拘束委任では議会・評議会などの論議によって見解を是正することが出来ないので、議論そのものを否定することになる。
 ニ)政治情勢と切り離して諸制度の善悪を判断するのは間違い。闘いの高揚期には拘束派遣は意味があるが、平常時などは住民投票的な性格を持つ派遣制は常に労働者・民衆の意見を反映するとは限らない。
 イ)については、確かに一つの制度だけで民主主義が前進するわけではないというのは確かにその通りだ。が、原理的に個々人を意志決定から排除しているシステムから決定権の所在を個々人に置くという原理的転換は、民主主義、当事者主権への一つの接近であることは疑いないところだろう。
 ロ)についても白紙委任制に慣らされた個々人がいきなり全社会的な決定に参加し、正しい判断が下せるかといえば、難しい面もある。が、他の領域、日常的な生産や労働への参加とそこでの決定権の拡大などとあわせて考えれば、少なくともそうした資質は急速に体得することも可能だ。少なくとも人々がそういう方向で急速に成長すると考えられるだろう。
 結論的にいえば、派遣制が文字通りの人民主権、当事者主権の意義を獲得するのは、生産や労働の場での当事者主権を拡大すること、それを保持することと一体のものとして現実のものになる。あるいは派遣制=当事者主権の要求は、生産や職場における労働者主権の要求と同時並行的に実現すべきものだということだろう。こうした土台の上で初めて派遣制は政治的・国家的な意志決定システムの中での当事者主権、労働者主権に実現が可能になる。
 ハ)については、確かにある地方と他の地方、個別と全体、地方と中央などとのあいだの意志の違いを討論で調整することは必要だろう。それに派遣委員の選出の時期と意志決定が求められる時期はタイムラグがあるのが普通だ。その間に状況が変わっているかもしれない。派遣委員が厳密な意味において委任内容と異なった判断を迫られることはあり得るだろうし、現実にそうした判断を下すこともあり得る。
 しかしそうしたケースを考えても、委任事項をある程度幅を持ったもの、すなわち基本的な考え方や方向性のレベルでの委任事項とすることも可能だ。そうすれば派遣委員・代理人によるある程度の裁量は派遣・委任行為の許容範囲となる。拘束委任と討論による意思統一は両立可能なのだ。実際に政党や組合などで行われている派遣制による意志決定の実例を見ても、そうしたケースはよくあることだ。
 あるいは派遣委員・代理人の判断が選出母体にとってまったく受け入れられないケースを考えてみる。その場合は選出母体はいつでも集会や投票などで派遣委員・代理人を更迭・再選出可能だ。実際、派遣制では代表制のような4年に一回とか5年に一回とかの選挙や代理人の長期・固定的な任期はない。毎年定例会議やあるいは臨時会議、その都度の全員投票などによって決定し直すことができる。派遣委員は常時選出母体による規制を受けるとはそういうことだ。いったん選出されたら選出母体による代表の解職は不可能な代表制との根本的違いである。
 ニ)について、確かに平常時と高揚期の違いなど、政治情勢との相互関係は確かに存在する。が、ロ)について指摘した内容と同様に、むしろ問題は日常的な生産や労働の場における主権者としての位置をどれだけ確保できているかどうかに左右されるというべきだろう。それが実現していれば、平常時にあっても個々の労働者による当事者主権の確保はまったく可能である。

■新たな政治システムの模索

 今回は代表制や派遣制について、どういう歴史的段階、すなわち現在の資本制社会の中でのことか、あるいは将来のアソシエーション型社会への過渡期のことか、さらにはアソシエーション社会そのものの中でのことか、についてあえて区別しなかった。長文になることを避けたかったこともあるが、基本的にはどちらのケースの場合でも共通するのではないか、という思いもある。しかし厳密には分けて検討することは必要だと思われる。今回はフランスでの実験が、世上、当たり前のことと思われている代表制=議会制民主主義の持っている本質的な限界性、不十分制に少しでも目を向けることにつながることを期待してとりあえずの問題提起としたい。(廣)


サルコジの目論みを打ち砕いたフランス総選挙

与党国民運動の大幅な後退

 六月十七日、国民議会(下院=五百七十七議席)決選投票の投開票が行われた。投票率は六十%で、第一回投票をさらに下回り、一九五八年以来最低であった。
 総選挙の結果は、当初の予想覆して、右派の与党・国民運動連合(UMP)が過半数を維持したものの議席を大幅に減らした。何と言っても、フィヨン首相が第一回投票後に導入の可能性を発表した「社会的付加価値税」に対する労働者民衆の怒りと反発が表れた。
 フランスの下院選挙は、定数五百七十七すべてが一選挙区当選一人の小選挙区制を採用し、第一回の投票で有効票の過半数かつ有権者数の二十五%以上の票を獲得したものを当選とする。この条件を満たせない場合は、一回目の投票で上位二人の他、有権者数の十二・五%以上を得た候補者が決選投票を行い決定される。今回の選挙では、第一回目の投票で、百十選挙区で当選者が確定し、四百六十七選挙区で決選投票が行われた。まさに大変な混戦状態だった。与党が敗退したのは完全小選挙区制の選挙制度にあったのである。
 五月の大統領選でのサルコジ氏勝利を受け、総選挙でも大幅議席増が予想されていたUMPは、何とか過半数を得たものの改選時と比較し、四十一議席を減らして三百十四議席にとどまった。この敗北の中、フィヨン内閣のナンバー二、ジュペ国務相・環境相(元首相)が落選し、同氏は大臣を辞職さぜるをえなかったのである。
 その一方で、当初の世論調査の予想に反して、大統領選挙で第二位となった候補者を擁立した野党・社会党は、改選時と比較して五十議席増の百八十五議席を獲得した。共産党は改選時と比較して四議席減の十五議席となり、単独で議会内会派を構成することができなくなる後退を強いられた。このため、一議席増やした緑の党は、共産党との共同会派結成に前向きの姿勢だと伝えられている。
 また大統領選挙で第三位となったバイル氏が率いる中道の民主運動は三議席を獲得し、またルペン党首率いる極右・国民戦線は議席を獲得できなかった。

確定議席  改選前議席 増減
国民運動連合  314    355   −41
社会党      185    135   +50
新中道       22     25   −3
共産党       15     19   −4
緑の党        4      3   +1
民主運動      3      5   −2
急進左翼党     7      8   −1
その他       27     0   +27
合計        577    577   

サルコジの打ち砕かれた目論み

 五月の大統領選挙で圧勝した右派与党・国民運動連合(UMP)のサルコジ大統領の影響もあり、六月十日の第一回投票でも、当初与党は地すべり的な勝利を獲得していた。しかし、第二回投票の結果は、予想を大幅に下回り、現有議席を四十一も減した。
 この原因は二つある。一つ目は、移民排斥の言動を繰り返し新自由主義を謳歌するサルコシ率いる与党への労働者民衆の反感がある。この反感を根拠にして、フランスの各紙は、今回の選挙を、「苦い勝利」(フィガロ紙)、「与党の過半数は疑う余地はないが」、国民は与党を「監視下」(ニース・マタン紙)に置き、「新大統領に白紙委任状を与えなかった」(レゼコー紙)と批評してはいる。
 二つ目には、フィヨン内閣が提案した付加価値税(消費税率)アップに対する拒否の意思表示である。ルモンド紙は、「国民は、購買力を犠牲にするのではないかと考えた」とこの労働者民衆の意思表示を分析している。
 驕り高ぶったフィヨン首相は、第一回投票後の与党大勝が見越された時点の六月十二日に、付加価値税引き上げ(現行の十九・六%から二十四・六%)の可能性を表明した。もちろん、増税分の一部を社会保障に充てるだの、企業の社会的負担を軽減することで企業の国外移転を阻止するだのと説明し、今回の増税は「社会的付加価値税」にするのだとした。しかし、野党側は「増税につながる」と一斉に批判し、第二回目の投票行動に大きな変化が起きた。この付加価値税の増税には世論調査で国民の六割が反対していたからだ。
 確かに現実の生活の中で、労働者民衆も、経済や社会の停滞をなんとか打破したいとの要求を持つと同時にサルコジ政権が押し進める新自由主義的な「改革」は、労働者民衆が築き上げてきた社会的連帯を中心とする社会を破壊するとの反感が強い。
 五月の大統領選挙での圧勝を背景に、サルコジ大統領は、週三十五時間労働制の緩和や富裕層や大企業への減税、労働者のスト権の制限といった新自由主義的な「改革」の推進に手をつけていたのである。
 フランスの総選挙結果は、労働者民衆が、サルコジ大統領の目論見を粉砕したと言える。
 私たち日本の労働者民衆は、サルコジらの当初の予想を打ち破り、今回のフランス総選挙で示されたフランスの労働者民衆の政治的意思と政治的戦略に、大いに学ばなければならない。  (直記彬)案内へ戻る

 
民営化まで3ヶ月・郵便局の今

 私が住んでいる町の特定局の局長がお客さんの貯金を横領したという記事が、新聞を読んでいたら目に入った。またかと思いつつ、残念ながらこれが今の郵便局の姿なんだと思わざるを得なかった。
 職場では「他山の石」なる文書が配布されている。例えば「犯罪事例集3 公金と私金の区別」では、郵便切手・はがき販売機用のつり銭横領が記されている。金額はたったの3000円で、本人は一時借用のメモを残している。これで28年勤続の課長代理が検挙され、クビの危機に陥っている。
 この課長代理は帰宅途中で給油するために借用したが、後で返している。これが発覚したのは、他の職員が一時借用のメモの写しを局長に渡したためだという。何ということだ。そんなメモは破り捨て、課長代理に今後しないよう忠告でもすればそれで済んだものを、そうならないところが今の郵便局なのだ。
 それにしても、本社郵便事業総本部業務管理部は何を思ってこんなものを職員に読ませるのか。公金の扱いには「越してはいけない壁がある」そうだ。しかし、そんなことはもっと大きな金をあいまいに扱っている連中にこそ言うべきではないか。こんな脅迫のような手を使って、現場の労働者を縛り上げてなんになるのか。それでなくても、書留の通数は合うか、バーコード入力は完了しているか、等で神経を擦り減らしているのに。
 さて、郵便局内では今、あちこちで工事が進んでいる。大きいのではロッカーの移動というのがあった。というのも、10月には同じ局舎にふたつの会社が同居することになるので、それを分けなければならにというのだ。曰く、会社間区画工事(セキュリティ工事を含む)だそうだ。狭い空間を不自然に細分化してどうするのか、先が思いやられる。これが、民営・分社の姿かと思うと、その愚かしさに改めてうんざりする。
 愚かといえば、切手類の販売も無残である。分社後は、窓口販売は郵便局会社への委託扱いとなるので、例えば50円のはがきが売れても、郵便事業会社には委託料を引いた金額しか収入が入ってこない。だから自前で、郵便を配りながら売れ。そうすれば全額収入になる、というのだ。考えてみればあたり前のことだが、同じ職場で働いてきたのにまるで商売敵になってしまうようだ。
 何れにせよ、郵便事業会社の明日は実に暗い。2006年度決算では60億円の純利益となったものの、今後も黒字が続くか疑問である。通常郵便は減少が続いているが、本務者の大量退職による人件費の圧縮はいつまでも続かない。5月23日の郵政公社総裁会見ではこんな応答が行われている。

記者「郵便の今回の黒字というのは、そういった一時的な要因に支えられたもので、決して安心できないということでしょうか」
総裁「それはおっしゃるとおりです。この程度の利益水準ですので、決して安心できるものはありません」
記者「郵便事業の人件費は、前に年に比べて若干減っているのですけれども、内訳を見てみると、非常勤の賃金が上がった分と下がった分が相殺し合っている部分が多いところがあって、そこからさらに一般の比べて高いと言われている人件費をさらに削っていこうというお考えでしょうか」
総裁「なかなか給与を引き下げるということは難しいことでありますので、ITのレベルアップも含めて効率化を進めていくということだと思います。それを進めれば、非常勤職員への依存度も徐々に下げるということができようかと思います」
記者「それと非常勤のコストが浮くと」
総裁「ええ、そうです」

質問をする記者の問題意識のなさ、非常勤のコスト≠ノついてこんな風に扱える感覚には恐れ入る。非常勤労働者の労働実態、その扱われ方を知らずに、郵便事業について語るな、と言いたい。
 少し古いが私の手元に、同じマスコミによるゆうメイトのルポの切り抜き(2月18日付「神戸新聞」)がある。「仕事は正職員並み。年収は3分の1」という見出しがついている。「君らは日雇いや」「おまえらミスすると、クビにするぞ」と脅され、実際にちょっとしたミスで雇い止め(という首切り)が行われている。壁には「人件費ケチケチ大作戦展開中」と書かれた大きな看板がある等々。
 本務者から非常勤労働者への転換が進み、現在の郵便事業を支えているのは非常勤労働者である。にもかかわらず、法の谷間で日々雇用の公務労働者という不安定な状態に置かれている。この状態も民営化されれば、民間労働者と同じものとなり、闘いの組織化もこれまでより可能性が増す。
 6月23日、日本郵政が7月をめどに人材派遣会社を設立することが明らかになった。これは困難になっているゆうメイト♀m保が主目的のようだが、労働条件を改善せずに、脅し鞭打つような職場実態を放置したままでは、その目論見は果たせないだろう。
 何れにせよ、現状では郵便事業の崩壊は避けられない。これが、民営化を3ヵ月後に控えた郵便局の現状から引き出した、私の結論だ。    (晴)案内へ戻る


書評・・・「戦争で死ぬ、ということ」<島本 慈子著> 岩波新書

 2005年10月、自民党は自衛隊を「自衛軍」と改める新憲法草案を発表した。
 2007年5月14日、自民・公明の与党は参議院本会議で改憲手続き法の「国民投票法」を強行成立させた。
 言うまでもないが、改憲の目的は「自衛隊」を本格的な「軍隊」にして、海外で「日米同盟軍」として軍事作戦を可能にさせる事にある。
 これから3年間、私たちはこの憲法改悪との闘いに全力を上げて、なんとしても「戦争への道」を阻止しなければならない。
 ちょうどそんな事を考えていたとき、島本さんの「一冊の本」を知った。
 彼女を最初に知ったのは、労働運動の関係であった。バブル崩壊後、大企業における汚い労務管理=人権差別の実態を暴露し、そのもとで苦悩する労働者たちの姿を鋭く描いた著作『子会社は叫ぶ−−この国でいま、起きていること』(筑摩書房)は、とても印象に残っている。
 その島本さんが、「いま、この時代への強い危機感」から、戦争というテーマに取り組んだ。彼女は1951年の戦後生まれで、私と同じ「団塊の世代」である。私たち世代には直接の戦争体験はない。でも彼女はなぜこの本を書こうとしたのか、その理由を次のように述べている。
 「いま見失っていけないものは、戦争の本質である『大量殺人』の実態と、それが必然的に生み出す怒り・反発・憎悪・復讐心・悲しみといった普遍的な『人間の感情』なのだ。そこをしかと見すえなければ、私たちは方向を誤る」
 「これはかつての戦争(いわゆる15年戦争)を総括しようとした本ではない。またかつての戦争について、未公開の新資料をさがそうとした本でもない。」
 「私は戦後生まれの自分の感性だけを羅針盤として文献と証言の海を泳ぎ、自分自身が『これは戦争のエキスだ』と感じたことを読者にも提示しよう、と思った。私は戦後生まれの目で、戦後生まれにも通じる言葉で、戦争のエキスを語りなおしたかった。何のために?それは日本のこれからを考えるときの判断材料として、過去の事実のなかに、未来の開く鍵があると思うから。誰のために?それは私と同じく、戦争を知らない人々のために。」
 そして、彼女は「かつての戦争」体験者と現地を訪問し取材を続けた。
 第1章・大阪大空襲<戦争の実体からの出発>・・・1945年の大阪、そこには中学時代の手塚治虫がいた。マンガ家になった手塚は、あの「火の鳥」作品の中で『あなたに生きる権利があるからよ!』と語らせている。なぜ、手塚はこの言葉を語らせたのか?
 大阪が受けた最後の大空襲は1945年8月14日、敗戦の前日である。その空襲の目標となったのは、陸軍の大阪砲兵工廠(大軍需工場)であった。攻撃は午後1時から始まり、工場に1トン爆弾570個以上投下され、まさに火災とつむじ風が舞う暗黒の世界は阿鼻叫喚のちまたと化した。
 その砲兵工場から直線距離で2キロのところに、やせた13歳の少年がいた。その少年とは小田実である。彼の原点は、この大阪大空襲なのである。彼らはなぜ、何のために死んだのかと、考え続けたのである。
 第2章・伏龍特攻隊<少年たちの消耗大作戦>・・・戦争末期、軍部は新たな特攻兵器を次々に作りだした。1944年10月のフィリンピン戦で、航空機による体当たり特攻「カミカゼ」がはじまり、44年8月に人間魚雷「回天」が登場。爆弾を積んだベニヤ板特攻ボート「震洋」「マルレ」もできる。爆弾を搭載して航空機から切り離されて敵艦に体当たりをめざす「桜花」の登場。そして、もはや飛行機もその飛行機を飛ばす石油もなくなった本土決戦で生まれたのが、海底特攻「伏龍」部隊である。
 米軍の本土上陸の際に、敵の上陸用舟艇を攻撃する目的であった。ゴム製の潜水服を着て鉄兜をかぶり、兜に面ガラスをはめこむ。酸素ボンベと苛性ソーダの入った空気清浄缶を背負い、呼吸は「鼻で吸って口で吐く」のが鉄則。水にもぐるため腹部には鉛の錘をつけ、足には鉛の潜水靴をはいて、海底で敵の上陸用舟艇を待ち、頭の上の水上に敵艦が来たら棒機雷で攻撃する。(図を参照のこと)
 しかし、伏龍部隊に配属された若い兵士達は大ショックだったと。「航空機や魚雷に乗っての特攻は、体当たりに成功すればまだ成果が期待できる。こんな服装で海の底から爆弾を突き上げる攻撃ができるのか。水上を走り回る上陸用舟艇を見つけることができるのか。仲間うちでは、これは漫画的発想だとよ、言っていた。しかし、『これはおかしい』と言うことはできなかった。国の命令は絶対であった。」
 結局は伏龍特攻の訓練は二ヶ月ほどで敗戦を迎え、実戦には参加しなかった。しかし、この粗末な装備や無謀な訓練のため数多くの若者が死亡したと言う。まさに、『国のために』単なる員数として集められた少年たちの姿である。
 第3章・戦時のメディア<憎しみの増幅マシーン>・・・市井の反戦感情を黙殺し、好戦的な言辞を撒き散らしたメディアは、やがて人間の死からも目をそらすようになっていった。ジャーナリストの痛恨の思いは、「昔話」にすぎないのだろうか?
 第4章・フィリンピンの土<非情の記憶が伝えるもの>・・・他国の軍隊が武力で侵攻するとき、人々はゲリラとなって反抗を試みる。この作用と反作用は、時をこえ、地域をこえて変わらない。
 第5章・殺人テクノロジー<レースの果てとしてのヒロシマ>・・・1945年8月6日以前に、日本の新聞・雑誌にはすでに原子爆弾が登場していた。
 第6章・おんなと愛国<死のリアリズムが隠されるとき>・・・あるときは「戦争で殺すために産む」ことを求められ、またあるときは「チアガール」として、戦う男のために涙を流すことを求められた女性たち。
 第7章・戦争と労働<生きる権利の見えない衝突>・・・『歯車のひとつ』として毒ガス製造に携わった労働者が、その真の意味に気づいたのは、戦後40年がたったのちだった。武器輸出規制が緩和され、雇用の流動化が進むとき、何が起こるのか?
 第8章・9月のいのち<同時多発テロ、悲しみから明日へ>・・・9.11、崩れゆく世界貿易センタービルで、また墜落していく旅客機とともに、亡くなった日本人がいた。
彼らの父親は、友人は何を考えたのか?淀川にほとりに植えられた1本のクスノキ?
 長々と紹介してきたが、彼女は昔も今も「戦争で人間が死ぬ」と言う本質を忘れないこと。また、「戦争の翼賛体制」をめざす国づくりは、いくら時代が変わろうともその政策は同じであることを指摘する。
 最後に彼女は、「『戦場をかけめぐるジャーナリスト』の存在は重く、その重要性はこれからも変わらない。ただ21世紀のいま、ジャーナリストは『戦場を防ぐジャーナリスト』として働く必要がある」と述べている。
 いよいよ「憲法改悪」、「軍隊」、「戦争」、「殺し殺される」時代に入る危険性がある今日、私たちもこの言葉を肝に銘じて活動すべきである。(若島三郎)
    

コラムの窓  会社の偽装、正すのは労働者の義務だ。

 牛ミンチの偽装が発覚した食品加工卸会社ミートホープ社のテレビ報道で、偽装を指示した社長に対して、現場工場長がなぜ反対できなかったのかと言う質問に対して、「天上の人」の命令だからと言う場面が報道された。
 今の社会は、企業存続や利潤追求の為に、企業ぐるみで不正を行っている。食品部門での混入・産地偽装・賞味期限の書き換えや建設部門での談合や建築基準の偽装、介護事業の不正など、見つからなければ何をやっても良いと、不正がまかり通っている。
 企業内で法遵守=コンポライアンスを盛んに云ってはいるが、これも、こうした不正行為の裏返しに過ぎない。
 職場では、成果主義・職能給の導入で昇級や昇格をちらつかせ、現場からの内部漏れを牽制をしたり、内部告発をした者を村八分状態にして、配置換えし仕事をさせなかったり、と会社ぐるみ・業界ぐるみでこうした不正隠しを行っている以上企業内部から不正が明らかにされることは少ない。
 「天上の人」の声が通るような仕組みが作られているからこそその声が通るのであって、企業ぐるみの不正を正す為には、この仕組みを変えなければならない。
 企業は、賃金制度や昇格昇任制度で企業帰属意識を植え付け、知らず知らずにその体制に労働者を組み込もうとするが、企業の不正を最も早く気付くのはそこで働く労働者である。本来なら、不正に気付いた労働者がまず始めに告発し、労働組合などの組織を通じて、早期に、企業内部で解決していくのが筋である。しかし、企業への帰属意識から、身の保証や企業防衛意識等でなかなか告発に踏み切れない場合が多いし、労働組合も企業内化して当てにならない状態では、一企業にとらわれない、企業外部からの告発が可能な場所・組織等を作ることも必要だ。
 そもそも、儲けるということは、どこかで不正な取引をしない限り起こりえないのであり、資本主義社会では労働者を搾取・収奪して利潤を得ていることを忘れてはならない。
 そしてその“不正”の最終的犠牲者もまた労働者であることもまたしかりである。
 ミートホープ社は偽装問題を契機に廃業する方向だという。社長を始めとする経営陣はそれで済むかもしれないが、解雇される従業員はたまったものではない。「解雇するというなら、社長は数々の不正で貯めた全財産をはき出し、せめて十分な補償だけでもして欲しい」という怒りも当然だが、不正で得た利益を再分配したら不正を認めることにならないか?。いずれにしても、解雇に直面した労働者は、企業の社会的責任を追及し、十分な補償を要求すべきだし、他の労働者はその闘いの支援をすべきだろう。 (光)


色鉛筆  介護日誌<20>・・・・「ぼけてもいいよ」

 「もーいい加減にして!限界です!!」
 ベッドの中で自分の吐いた物にまみれた母(85歳)に向かって、鬼の様な形相で怒鳴っている私。前回(NO344・345号)では”介護がくれた贈り物”などとのん気な事を書いていたのに・・・。
 02年暮れに転倒し股関節を骨折以来、義妹と夫との2人3脚の母(介護度4)の介護も5年目に突入。次に何が起こるか予測不能、いつも呼び声で中断される家事や睡眠。介護の現実は甘くない。
 最近、母からの言葉が減った。食事中もひたすら食べるだけ(正確には押し込んでいるに近い)。なぜかこちらも無口になり、圧倒的な沈黙が食卓を支配する。ちょっと前までは旺盛な食欲で、食事中必ず「それは一体何だね」翻訳すると「それを食べたい」ということなのだが、大皿のそのおかずはすでに母の皿に盛り分けてある・・。そんな声も今はなつかしく思い出される。着実に衰えがすすんでいる。
 5月26日の朝日新聞で、福岡市の「第2宅老所よりあい」所長の村瀬孝生さんが『老いを受け入れる社会に』と題して発言している。06年に国が予防重視型へと介護保険の見直しを実施以来、やれ機能訓練だリハビリだといった掛け声が多い。だが本来老いや死は自然の摂理であり、逃れることはできない・・・。
 彼の著書『ぼけてもいいよ』(西日本新聞社06年9月発行)を読む。《「第2宅老所よりあい」は、〈住み慣れた街でその人らしく暮らすこと〉を大切に高齢者の生活支援を行なっている》。方言で交わされる会話のあまりのおかしさに笑いが止まらない所もあったが、お年寄りへの徹底した共感、寄り添う姿勢に感心する。徘徊といわれる”散歩”にもとことん付き合う。15分おきの同じ質問の電話にもちゃんと対応する。湯呑みを投げ付け人を引っ掻く行為も、決して強圧的に止めない。真夜中の騒ぎや排泄の失敗にも「僕がこぼした水です」と始末する。介護にあたる職員は振り回されイライラし時に押さえ込んで失敗、激しく後悔したりとありのままの日常が描かれている。そこに貫かれているのは「老いを尊重する」姿勢だ。お年寄りの、日々衰えてゆく身体や記憶力への不安、混乱や悲しみを共感し皆で大笑いする。効率優先の現代社会とは全く違う空間がそこにある。
 「でも僕たちは思う。自然の摂理として訪れる老いに付き合うこと。それに付随する生活上の不都合に付き合うこと。往き尽くした最期に死があること。その死に付き合うということ。それは決して無駄な事ではないと。確かに大変だけど負担と呼んでしまうのはいかがなものかと。(略)みんなこうやって年を重ねるのだ。そして死ぬのだ。それに付き合うことにちゃんと時間を割けぬ社会が、本当に人々を幸せにするのだろうか。ときにはイライラしながら、ときには泣きながら。共感をもとに人と人がつながることで可能性は広がり、希望は生まれるはず。スピードや効率が重視される世界と対極にある老いが、急ぎすぎる社会にストップをかけてくれる。そんな老いを中心にすえて社会を創ることを選択してもよいのではないだろうか。」
 大きな励ましとなる本だ。(澄)


沖縄のおばあの団子

 私は共生と平和の思想を体感すべく最近より前の4年間を、旅人として沖縄を訪れたことがあった。最近の沖縄の生活のにじむレポートが欲しい。私が訪れたままではどうしようもないではないか。私の旅での沖縄の記憶のひとつ。沖縄のおばあ(辺野古)の作った団子をおみやげにするために、帰阪する3日前に注文しておいた記憶がある。そんなして持ち帰った団子は不評であった。
 ツクシ(筑紫)さんのおばあの味噌汁への賛辞はほめ殺し≠フようにも思った。しかし、沖縄をよく知りつくしたかのようなツクシさんならでは、おばあの作るものをうまい≠ニ感じられないのではなかろうか。
 私はどちらかといえば、世界を渡り歩いた料理人が、最もふるさと沖縄の味を出しうると思っていたから、ツクシさんのおばあの料理への賛辞をほめ殺し≠ニしてしかうけとれなかったようだ。
 私は大阪の人間でありながら大阪のことは全く知らない。そして一ヶ所にとどまることの好きな人間でもないが、外側の条件が漂泊の生活を許さない。しかし、いとおしく思う≠ニいう心情からすれば、まずいとされる食物でもうまい≠ニ感じられるのであろうし、まさにそのもの+αとして感じ方もちがって来るだろう。
 世界に通用する味を追及する地方の味、そのためにはツクシ的なものと世界的なのものと、どちらも必要であろう。つまり統合的なものとでもいおうか、どちらも含みつつ、より高みへ・・・。そんな沖縄の味が実現することを私は願うのだか。
 人生はおさらばするまでに、動ける間に沖縄の「やんばる」をもう一度訪れてみたいもの。飛べない鳥がたくましく生きる姿をみたいもの。また、おばあの団子の味はいかん? と味わってみたいもの。2007・6・22  宮森常子   案内へ戻る