ワーカーズ356  2007/11/1          案内へ戻る

守屋・久間の軍需企業との癒着は軍産複合体の氷山の一角にすぎない
労働者・市民の大衆行動で戦争屋どもを追いつめよう!


■自衛隊の海外派兵を進めた守屋前防衛次官、久間元防衛大臣

 防衛省の前次官、守屋武昌の軍需企業との露骨な癒着ぶりが暴露された。そればかりか、元防衛庁長官・久間らの、守屋と同様の行状も明らかになりつつある。
 守屋は、日本の自衛隊が本格的な海外展開型の軍隊に歩を進めようとするちょうどその時に、防衛庁の官僚トップとして、「防衛庁の天皇」と言われるほどの権勢を振るった。彼の防衛事務次官在任時に、「保有する自衛隊から戦える自衛隊へ」とのスローガンが唱えられ、自衛隊の海外派兵がいっそう押し進められ、そして防衛庁が防衛省へと格上げされた。米軍再編にともなう普天間基地の辺野古への移転が、沖合案から沿岸でのV字滑走路案へと急転したのも、同じ時期だ。
 久間章生もまた、自衛隊の海外展開が拡大された第2次橋本内閣、安倍内閣で防衛庁長官・初代防衛大臣を務めた。

■山田洋行、日本ミライズと防衛省役人、防衛族政治家との露骨な癒着

守屋や久間らを接待漬けにした山田洋行、日本ミライズは、日本の名だたる軍需商社のひとつだ。
 山田洋行は不動産業などを手広く営む山田正志がオーナーを務める会社だが、軍需商社として早期警戒機E―2C、多用途戦術ミサイルATACMS、航空自衛隊時期輸送機CXのエンジン調達などを行ってきた。しかし山田正志による不動産業経営はバブル経済の破綻とともに困難に陥り、山田グループの軍需部門であり、稼ぎ頭でもある山田洋行にもそのしわ寄せが回ってきた。グループのオーナー山田正志と山田洋行の経営を実質的に切り盛りしてきた宮崎専務(現日本ミライズ社長)との対立は抜き差しならないものとなり、山田洋行を分裂させる形で、宮崎専務の主導の下に日本ミライズが誕生した。この企業間紛争の中で、山田洋行と日本ミライズの間には、山田洋行のカネや防衛庁・防衛省からの受注をめぐる争いを背景に、多くの訴訟が起こされている。
 そして守屋など防衛上級官僚たち、久間など防衛属の政治家たちは、山田洋行時代から豪勢な接待や便宜供与を受け、守屋に至っては紛争の片方の日本ミライズに露骨に肩入れしつつ法外な便宜供与を受け続けてきたのだ。

■守屋問題は日本版軍産複合体の氷山の一角に過ぎない

 山田洋行や日本ミライズは、なぜ守屋や久間に豪勢な接待を続けてきたのか。もちろん、防衛庁・防衛省発注の兵器受注にしっかりと食い込むためである。
 山田洋行と日本ミライズが手がけてきた主な兵器の製造・販売元は、それぞれ次の通りだ。早期警戒機E―2Cはノースロップ・グラマン社、多用途戦術ミサイルATACMSはロッキード・マーチン社、航空自衛隊時期輸送機CXのエンジンはゼネラル・エレクトリック社。
 CXのエンジンは一基で6億円、100基で600億円、予備部品などを含めると1000億円に上るという。早期警戒機E―2Cは導入当時に一機106億円(後年度負担を含む)したものをいまでは13機も保有しているので、やはりCXのエンジンに並ぶ規模の商売だ。
 以上は山田洋行と日本ミライズにだけ関わる軍事費の額だが、世界第2位の経済大国を誇る日本の軍事費はその程度の規模ではない。07年度の防衛費は総額で4兆7983億円、正面装備費だけで1兆円弱(後年度負担を含めるとその数倍)、日米の軍需産業がいま熱心に導入を図ろうとしているMD関連の予算だけとってみても07年度で1826億円、アメリカのランド研究所によると日本へのMD導入費用は総額で5兆9千億円にも達するとされている。
 こうした膨大な軍事費に、山田洋行や日本ミライズのような軍需商社のみならず三菱重工、三菱電機、日本電気、石播重工、川崎重工等々の製造企業がむらがり、防衛官僚や防衛族議員などと癒着して、巨利をむさぼっているのだ。

■日本版軍産複合体を監視し、大衆行動で追いつめよう!

 政治家、官僚、軍需企業が軍事力強化のために持ち出す口実は、「国際平和への貢献」「北朝鮮のミサイルへの備え」「シーレーンの防衛」「日本も普通の国家へ」等々だ。ありもしない外敵の脅威を叫んでナショナリズムを煽り、また現状の経済的地位を維持したいというせこい保守主義につけ入り、経済大国としての責任を果たしたいという「善意」にすら取り入って、軍拡と軍事大国化の道に踏み出すことを国民に容認させようとしているのだ。
 北朝鮮の脅威を言うが、しかし日本やアメリカが北朝鮮にとってリアルな脅威であることは事実だが、その逆はあり得ないことは北朝鮮の国情を知る者にとっては明らかだ。
 またアメリカが行う世界の至る所での無法を擁護し、それを支援することが、かえって世界を不安定にすると同時に日本への反発を生みだし、資源確保の障害を増やしていることも周知の通りだ。
 さらに、医療、年金、介護、教育などに向けられる予算は毎年削られ、また伸び率を厳しく押さえつけられる一方で、軍事費は聖域扱いを受け続けている。小児医療や周産期医療や高齢者介護の危機的な現状が放置される一方、ミサイル防衛や米軍のグアム移転への支援や宇宙の軍事利用等々に巨額の血税が投入されようとしている。いまや年間で数兆円の規模にふくれあがった日本の軍事費は、勤労者・庶民の生活を直接に圧迫しはじめているのだ。
 そもそも、軍事費・軍事産業は、人々の暮らしを豊かにする冨を生まず、それを浪費するばかりの存在だ。社会にとって、勤労者・庶民にとって、大きなお荷物以外の何ものでもない。
 軍・政・財のトライアングル=日本版軍産複合体への監視を強めよう! 戦争屋どもを大衆行動で追いつめよう!    (阿部治正)


愚かな! あまりに愚かな!
浜岡原発・静岡地裁判決に思う


 10月26日、静岡地裁・宮岡章裁判長は掌中にあった廃炉≠フカードを投げ捨て、原発推進という国策に屈服した。何が判断を分けたのか。それは、地震に見舞われた柏崎刈羽原発の壊れかた≠ノ対する評価であった。
 地裁判決の評価は、放射能漏れなどのトラブルはあったが、炉心溶融などの重大事故は防止され、安全性は確保されていた、というものである。また、中部電力の地震対策は適切であり、東海地震が発生しても浜岡原発の原子炉施設に重大な損傷が発生して住民の生命・身体が侵害される事態がただちに起きるとは推認できない、としている。
 さて、それでは柏崎刈羽原発はどうなっているのか。10月18日、神戸新聞が「原発は大地震に耐えられるか」という争論≠掲載した。論者は、日本原子力技術協会理事長の石川迪夫氏と、神戸大学都市安全研究センター教授の石橋克彦氏。
 石川氏の論は明確である。「設計の3倍近い地震の揺れにもかかわらず、原子力発電所の安全は万全だった。特に心臓部の原子炉、発電施設、それらの建物に異常は認められていない。ものを作る工学者がしっかりしていたからだ。地震の多い日本だからこそできたことだ。日本の耐震技術、安全設計は誇っていい。安心してもらってよい。世界の専門家は『日本の耐震設計はすごい』と言っている」
 この筋立ては静岡地裁判決に通じる、というより、宮岡裁判長が原発推進派の主張を丸書きしただけだ。石川氏は次のようにも言ってのける。「地震国だから、日本の原発は危険というのはおかしい。エネルギーは人類の食料、日々の生活の糧だ。産業革命以来、石炭、石油、原子力のエネルギーを得て、地球の人口は15倍にも増えた。災害は地震だけじゃない。人生至る所に危険はある」「どんなものにもリスクはある。地震に対してだけ100パーセントというのは無意味だ。リスクには、隕石落下や飛行機墜落、テロリストの攻撃もあり得る」
 一方、石橋氏は柏崎刈羽原発について次のように指摘している。「今回は地震学的に見て幸運だった。震源域がもう少し南西で原発直下だったり、今回はマグニチュード(M)6・8だったけど、1964年新潟地震並みのM7・5だったりしたら、震災は放射能災害と重なる『原発震災』も起こり得た。際どいところですり抜けた」
 さらに、石川氏に代表される技術論に対しても、次のように警告を発している。「工学では、どんな大地震でも技術力でカバーできるという発想があるようだが、自然を侮った考え方だ。震源域の真上には原発を造らないという当たり前の理性をとり戻してほしい。そのためには、安全審査の仕組みを根本的に変えなければいけない。僕は、柏崎刈羽原発の被災はある意味で、自然が突きつけたポツダム宣言だと思う」
 こうした論争は、実は原発だけではなく、ダム建設をめぐっても繰り返されている。技術屋さんはどこまでも洪水を河道内に閉じ込めることしか考えないし、それが可能だと信じている。しかし、異常気象による記録的豪雨が頻発する今日、特攻的技術論には玉砕が待っている。地震の危険性を隕石落下や飛行機墜落、テロまでも並列して扱うのは乱暴に過ぎるし、チェルノブイリの再現は日本列島を壊滅させるだろう。原発をどんなものにもリスクはある≠ニいうレベルで考えることは出来ない。
 ところで柏崎刈羽原発だが、10月18日には7号機で制御棒が1本動かなくなっていることが明らかになり、23日には6号機の原発タービンの羽根に複数の接触痕が見つかった。いずれも原発本体に関わるものであり、「沸騰水型原発では、運転中にタービンが破損して止まると、原子炉も緊急停止するが、高速回転する羽根が壊れてケースを突き破るようなことがあると、放射性物質を含む冷却水の蒸気が大量に噴出する恐れがある」(10月24日付「神戸新聞」)という危険性があった。
 浜岡原発訴訟に立ち返るが、原告側証人の元原発技術者は「原発の設計思想は何とか壊れなければいい程度でしかない」と言い、被告側証人の東大教授は「小さい可能性は割り切らなければ設計できない」(いずれも、10月26日付「神戸新聞」夕刊)と言っている。核エネルギーは人類にとって必要不可欠なものであり、チェルノブイリ的危険性と隣り合わせであったとしても、うまく付き合っていくほかないのか。それとも、人類破滅の危険性を回避するために別の選択肢を模索するのか、結局のところこの二者択一に帰着するのである。もちろん、私は後者の方であるが。         (折口晴夫) 案内へ戻る


世界恐慌の開始とドル覇権の終焉を告げるサブプライム問題

■突然の市場の変化は起こるべくして起こった□

 九月十七日、十七年間の米連邦準備理事会(FRB)議長を退任したアラン・グリーンスパン氏は、議長辞任から一年半を経て、回想録『The Age of Turbulence: Adventures in a New World』を出版した。
 回想録の表題『ジ・エイジ・オブ・タービュランス:アドベンチァーズ・イン・ア・ニュー・ワールド』には、「(これから私たちに襲いかかる)社会的激動の時代:新たな世界の冒険」の意味がある。この本で、FRB議長時代、政治的な発言をほとんどしないことで知られていた同氏は、「イラク戦争は原油の利権確保のために始められたようなもの」とブッシュ政権を批判した。またブッシュ大統領の経済政策については、「制御不能な歳出を拒否しようとしない事が、大統領の最大の失点だ」などと批判した。
 ブッシュ大統領をかくも「大胆に」批判する「野に放たれた虎」のグリーンスパン氏は、現時点で、金融・経済を中心に社会的な激動の時代に突入すると宣言したのである。
 かくて二00七年十月一日の「ロイター」ニュースで、十七年間アメリカの金融政策を統制したグリーンスパン前米連邦準備理事会(FRB)議長は、サブプライム危機を受けた最近の市場の急変について、問題は起こるべくして起きた出来事だとの認識を示した。
 ロンドンのロイター本社で、ブラウン英首相らとともに行ったスピーチで述べたグリーンスパン前議長の発言要旨を以下に引用する。

  <現在の危機>「サブプライム危機を受けた最近の市場の急変は、起こるべくして起きた出来事だ」「先進国の金融システムは危機に瀕している。証券化された米国のサ  ブプライムが世界の金融システムの弱点として表面化しなければ、他の金融商品や市  場がその役割を果たしただろう」
  <バブル>「市場は早い時期からバブルに冒されていた。バブルは楽観論の高まりによって膨らみ、崩壊せざるを得ないところまで達した」
  <不透明感がCDOに打撃>「リスク資産に適切な価格をつけることができなかったため、リスクの拡散を招いた」「バブルが崩壊するのに伴い不透明感が市場を包み込み、ストラクチャード商品全体の価格に疑問が生じた。一部の証券がサブプライム・モーゲージ(直記注:サブプライム・ローンの別称)資産によって担保されていたことが明らかになったことで、投資家は見境なく短期の資産担保証券を売却し、米国債に資金を振り向けた」
  <証券化が米国外に問題を拡散>「サブプライム・モーゲージの組成がもっと小規模であれば、問題も小さかっただろう。いずれにせよ、海外勢が保有していたサブプライム・モーゲージは少ないため、証券化されていなければサブプライムの損失は米国だけにとどまっていたに違いない」
  <サブプライムへの需要>「米国における住宅ブームの最終局面では、ヘッジファンド、年金基金、投資銀行による高利回りの証券化されたサブプライムへの需要がサブプライム・モーゲージの需要を押し上げ、サブプライムの貸し手を後押しした」
  <低インフレおよび長期金利>「自分がFRB議長を務めていた時には、歴史を見れば、リスクプレミアムが低い時期が長期化した後には、状況が好ましくなくなることを認識していた。二00六年に起きたように、世界全体でインフレ率や名目長期金利  が一ケタになったことは記憶にない」
  <信用危機>「最近は、貸し手が、期間が長く質の低い資産に手を伸ばしていることは間違いない。これは好ましい兆しだ」
 
 グリーンスパンは、アメリカ経済の牽引が内需から外需依存に移行する経済構造変化の狭間にある現在こそ、最も市場混乱リスクが高い時だとする。そして、新築住宅減による消費減を輸出でカバーするまでの間、はたして利下げだけで持ちこたえられるだろうか、リセッションの危機は避けられないのではないか、テロとの戦争を遂行する中、今すぐ財政赤字削減ができないなら、思い切った減税策を打ち出すべきではないかと主張している。
 それにしても、この時期に発生した住宅バブルに関わる当事者であり責任者であった彼が、まるで他人事にように平然と論評していることに私たちは違和感を感じるのである。

■サブプライムの損失は一体いくらなのか□

 九月二十四日、国際通貨基金は、国際金融の安定性に関する報告書を発表した。米国のサブプライムローン問題(信用力の低い個人向け住宅融資)に強い懸念を表明し、金融機関などに最大約二十三兆円(二千億ドル)の損失をもたらす可能性があるとの試算を明らかにした。
 七月の段階では、米連邦準備理事会のバーナンキ議長は、サブプライム関連の損失を巡っては、最大約十二兆円(一千億ドル)と見積もっていた。十月二十日の議会証言では「最も悲観的な予想をはるかに上回った」とも述べており、市場でも最大約二十三兆円(二千億ドル)まで膨らむとの見方が浮上している。
 サブプライム問題による信用収縮は、アメリカよりも欧州で深刻な影を落としている。
 イングランド銀行と英金融当局は信用収縮問題への対応を誤ったとの批判にさらされている。英産業連盟のリチャード・ランバート会長は、ノーザン・ロック銀行への預金取り付け騒ぎが「英国のような豊かで成熟した国で起こるとは想像の域を超えている」とした上で、財務省、イングランド銀行、金融サービス機構が別々の役割を担うという金融監督システムについて「見直しが必要」と指摘した。またイングランド銀行のキング総裁に対しては「映画館の防火対策が機能するかどうか確認するために、実際の火災が起こってもただ黙って見ていたようなもの」と語気を強めて批判する。
 十月十二日、航空事業などを手掛ける英ヴァージン・グループが率いる五社連合は、サブプライムローン問題の影響で経営危機に陥った英中堅銀行ノーザン・ロックに買収を申し入れたと発表した。ノーザン銀の新株を引き受ける形で資本注入し、ヴァージンの子会社とする。企業連合はヴァージンのほか、米保険最大手AIGグループ、米買収ファンドのWLロスなどで構成され、ヴァージンは傘下のヴァージン・マネーでクレジットカードなど個人金融事業を展開、この子会社とノーザン銀を統合し、新経営陣を送り込むとの事。 また十月十五日、米大手銀シティグループ、バンク・オブ・アメリカ、JPモルガン・チェースは、サブプライムローン問題(信用力の低い個人向け住宅融資)に対応するため、共同で基金を設立すると正式発表した。サブプライムローンに投資し、資金難に陥っている運用機関向けに短期の資金を提供する。信用市場を正常化させ、金融・経済への影響の拡大を防ぐ。ファンドの名称は「マスター・リクイディティ・エンハンスメント・コンデュイット(M―LEC)」といい、今後九十日以内に立ち上げる予定。報道では七百五十億―一千億ドル規模とされている。大手三行以外にも複数の金融機関、運用機関が設立に賛同しているという。
 具体的には、住宅ローン担保証券(RMBS)などに投資している運用会社向けに、M―LECから資金を提供する。こうした運用会社は短期の資金調達に頼っており、サブプライムローンの焦げ付きによる財務内容の悪化で資金繰りが厳しくなっていた。放置すると証券を投げ売りし、価格下落に歯止めがかからなくなる現実性があるからである。
 一体サブプライムの損失はいくらなのか。この単純な数字が一切出てこない。
 十月十五日、野村ホールディングスは、サブプライムローン問題を受け、一―九月に総額千四百五十六億円の損失を計上し、この大幅な損失計上を受け、米国での住宅ローンの証券化事業から完全に撤退すると発表した。四半期ベースで野村が税引き前赤字を計上するのは0三年一―三月期以来、一八四半期ぶりだ。
 同日、米金融最大手シティグループも、0七年七―九月期決算は、純利益が前年同期比五十七%減の約二千七百八十億円(二十三億七千八百万ドル)と大幅に落ち込んだ。サブプライムローン問題の影響で、約七千六百億円(六十五億ドル)の損失が発生したからだ。
 さらに十月二十四日、米証券大手メリルリンチは、この七―九月期決算で、サブプライムローン問題による有価証券の評価損が計約九千億円(七十九億ドル)に上ったことを明らかにした。最終損益は(約二千五百億円(二十二億四千万ドル)の赤字に転落した。赤字転落は0一年一―三月期以来六年半ぶり。メリルリンチは今月初め、同証券の評価損が四十五億ドル程度になるとの見込みを発表したが、その後の市場環境の悪化で大幅に拡大した。サブプライム問題では米大手金融機関の巨額損失が相次ぎ表面化し、メリルリンチが発表した評価損は大手銀シティグループを上回って最大となった。
 原因は、種類の異なるローン債権を一つにまとめた投資商品である債務担保証券の値下がりである。投資家に販売するために在庫を抱えていたが、サブプライム問題による信用市場の混乱で買い手が付かなくなり、市場価格が下落。帳簿上の価値との差を損失として処理せざるを得なくなったためであった。
 このようにここの銀行の損失額は発表されるもののサブプライムの損失総額は今に至るまで全く明らかではないのである。
 十月下旬に相次いで開催された先進七カ国(G7)財務相・中央銀行総裁会議や世界銀行会議などでも、証券化など金融の技術革新に関し、監督のあり方などを協議する意向も示されてはいたものの全く打つ手がない状態で成果を上げるには至っていない。
 グリーンスパン前FRB議長の語らないサブプライム問題の真実とは、それが証券化されていたことで、その損失の全体像が未だによくわからないと言うことなのである。

■世界恐慌の開始とドル覇権の終焉を告げるサブプライム問題□

 アメリカのサブプライムでは、住宅ローンの債券をアメリカお得意の金融工学で金融商品に置きかえた。それを次々と転々売買するクレジットマーケットと呼ぶ金融商品市場に投げ込んだ。それは投機市場で、銀行や証券会社が組んでいる投資信託、ファンドが購入している。だからサブプライムの破綻による住宅バブル崩壊というのは、連鎖した信用市場崩壊、つまり信用恐慌になるのである。
 前々回の「ワーカーズ」では、サブプライム問題を腐肉入りのハンバーグにたとえ、話をわかりやすくした。問題は、ハンバーガー(金融商品)の中に、腐った肉(精算できない住宅ローン)が入っていて食べられない事なのである。
 つまり「ハンバーガーの中の肉で腐っているのはどの肉かわからない」のだ。だからみんな(各銀行)で「腐ったハンバーガー」を売っていたのが問題だった。ハンバーガーの中で使われたミンチのすべての肉が腐っているのではないが、ほんの一部でも腐った部分があるハンバーガーは、実際は吐き捨てるしかないのである。だから、ハンバーガーそのものを捨てるしかないという大問題なのだ。これがサブプライム問題の核心である。
 アメリカ発のサブプライムの住宅ローンの証券化とは、つい最近までアメリカ資本主義の精華、金融工学の光り輝く金融商品そのものであった。現在明らかになっているのは、この金融商品が、資本主義の腐朽性の極みの産物であった事である。
 アメリカが、サブプライムローンを、腐った・信用力のない・返す当てのない、つまり信用の崩壊している担保なしの、つまり全く保証なしの金融商品に置き換えていた事実が完全に露呈した事で、全世界的な信用崩壊に繋がる現実性を帯びてきたのである。
 グリーンスパンは世界中からアメリカへとドルが貫流するシステムを作り上げた。そしてそれは「帝国循環」といわれてきた。0六年二月末に八千五百億ドル台の日本を抜いて世界一のドルの外貨準備高を持つに至った中国は、0七年六月末の時点で約百六十兆円(一兆三千三百二十六億ドル)を持つ。この中国ですら、いやそれだからこそ、このサブプライム問題からは逃げ切ることは出来ない。世界では、今短期的にサブプライム破綻からアメリカ国債にシフトする流れが出来てはいる。しかしこの流れも一時的なものにすぎない。
 サブプライムの破綻で傷ついたアメリカ金融工学への失望は、結局のところアメリカ国債の投げ売りのきっかけとならざるを得ないだろう。世界でアメリカの一極構造が破綻しつつある現在、多極構造への転換として中国がこの動きに出る事は想像するに難くない。
 アメリカ国債を投げ売りするなどと日本が絶対出来ないことも、今や経済大国として頭角を現した中国なら対アメリカへの揺さぶり策として実行出来るのである。
 この意味において、サブプライム問題とは、世界恐慌の開始とドル覇権の終焉を告げ知らせる足下の地雷なのである。 (直記彬)案内へ戻る


色鉛筆   非正規公務員

 私は、公立保育園で非正規職員の保育士として働いています。正規職員と同じ仕事をしながら給料は3分の1という安い賃金で、1年契約雇用で更新が6年までという条件なのです。 ある日「非正規公務員 法の谷間」(9/19付朝日新聞)という記事に釘付けになってしまいました。財政危機を理由とした行政改革が進み、正規職員が減らされ、低賃金で雇用不安定な非正規職員が増えていて、06年度には約40万人、公務員のうち4人に1人が非正規職員というのです。そして、私のような非正規職員は『地方公務員法では、非正規職員とは一時的に雇う働き手だ(表参照)本来は、例外的な働き方が拡大利用されてきた。加えて非正規職員は「法の谷間」状態にある。公務員は育児介護休業法やパート労働法が適用されないが、公務員向けの育児介護制度でカバーされる。だが非正規であることを口実に、公務員向けの制度から外す場合が少なくない』と書かれていて、実際に1年契約を更新して4年働き育児休業を求めたところ次年度の契約を打ち切られたという事例がのっていました、。この記事を読んで改めて自分の立場が分かり、私は『「法の谷間」の働き手たち』ということなのです。以前、公務員の不祥事の事件が起きた時、職場で公務員ではない私達にも公務員としてのモラルについてテストをさせられたり、正規職員の給料が人事院勧告で引き下げられると公務員ではない私達の給料も引き下げられたことを思い出しました。まったく都合のいいように、ある時は公務員扱いにしているのです。正規職員にならなくても同じ仕事なら同じ時給で、仕事が常にあるなら継続雇用となれば私達は安心して働くことができます。
 さらに、私達が正規職員と差別させられていることがあります。それは、私達が同じ仕事をしながら安い賃金で長い期間働らかせるのは、法律上問題があるという理由で1年雇用の中で、いったん雇用を切られ2週間無給で休ませられているのです。正規職員は病気になれば有給で病気休暇がもらえるのですから差別そのものです。そして、病気でもないのに2週間も休むので保護者からは「どうしてなのか?」と聞かれたり、担任がいなくて不安がる子ども達もいます。そこで園長達は『非常勤雇用の為、2週間休まなければなりません。その代わりに代替要員がいます』ということを保護者に伝えるように言うのですが、それを聞いた保護者の中には「非常勤だったんですか」と担任への信頼をなくしてしまう人もいるので本当に嫌な気持ちになります。保育の中でいちばん大切にされなければならない子ども達と保育士の信頼関係が一時中断させられてしまうのですから、こんなことが行われていいわけがありません。
 私は、今年度、その中断期間の代替要員に選ばれてしまい、3ヶ所の保育園を渡り歩いています。初めて行く保育園では緊張のあまり胃が痛くなったりそれぞれの保育園に合わせて、新しい人間関係の中で働くので精神的にも大変で、何よりも子ども達が不安がるのです。年齢の小さい子ほど見知らぬ人に警戒心を持ち、なかなか受け入れてもらえず日々苦労するのですが、1週間位たつと何とか受け入れてもらえて、仲良くなると2週間が終わってしまい、そのたびに淋しい思いを繰り返しています。
 また明日から新しいクラスに入るので精神的苦痛の1週間が始まるのです。(美)


コラムの窓・・・「浜岡原発判決」

 10月26日(金)静岡地裁において、5年半に及ぶ浜岡原発運転差止請求訴訟に対する判決が出た。「原告らの請求をいずれも棄却する」と言う、原告の全面敗訴判決であった。
 この浜岡原発裁判の争点は、「耐震性」と「老朽化」問題であった。
 判決内容を読むと、大地震が予想されている「東海地震」と「東南海地震・南海地震」のことや被災し大事故寸前だった「柏崎刈羽原発」のことはまったく無視して、ただ「本件原子炉施設の設置、設計及び運転は、各種の審査基準等に適合していると認められる」と述べて、中部電力側の言い分を丸飲みした内容である。まったく非科学的な内容で、今の日本の裁判官のレベルと本質が見事に現れている。
 恐ろしいことにこれで、浜岡原発が第2の「チェルノブイリ原発事故」となる可能性が大になったと言える。弁護団も判決に対して、「巨大地震と原発重大事故の同時発生の状態となり、国民の生命身体に重大な被害発生したとき、裁判所はどのようにして責任をとるであろうか」と批判している。
 ご存知のように、30年以内に84%の確率で起こるとされる東海地震。想定される地震規模はマグニチュード(M)8.0、場合によってはM8.5とも言われている。だからこそ今現在、国や静岡県は莫大な予算を使って東海地震の発生を前提に地震対策を推し進めている。その想定される東海地震の震源域のまっただ中に位置するのが浜岡原発である。
 グラフの図を見てほしい。全国の原発サイドに想定される揺れの大きさと、設計で想定されている揺れの大きさを速度で並べてある(文部科学省地震調査研究推進本部の発表資料)。全国の原発の中で浜岡原発がもっとも危険であることは、このグラフを見れば一目瞭然である。
 想定東海地震の震源域のまっただ中に位置する浜岡原発には1号機〜5号機の原発がある。特に、1号機(出力54万KW、運転開始1976年3月)と2号機(出力84万KW、運転開始1978年11月)は約30年を経過し、故障を繰り返してその老朽化が問題になっている。1号機は、老朽化が一因で配管破裂事故を起こし5人が死亡した関西電力美浜3号機と同じ76年運転開始で、1号機も2号機も当初30〜40年されていた商業用原発の寿命に近づいている。
 さらに、この1・2号機は東海地震の予測がわかっていない時期の設計で、想定している揺れが3号機以降より小さい。国の原発の耐震指針が厳しくなる中、05年中電は浜岡原発の5基すべてで耐震補強工事を実施する計画を発表し工事を開始した。ところがその後、1・2号機については「工事規模が大きいため」さらに3年間延ばし、2011年3月まで停止期間を延長すると発表した。
 1号機は01年11月の配管破断事故以降運転が止まっているので、これで国内の商業用原発では前例のない9年5ヵ月もの長期にわたっての運転停止となる。04年2月に定期点検に入った2号機とともに多数のひび割れが見つかったシュラウド(炉心隔壁)を交換する大工事も必要になっている。シュラウドは原子炉内の主要部品。約30トンもあるステンレス製円筒で、設計段階では交換を想定していないもので、1基百数十億円かかると言う。
 老朽化した危険な1・2号機の運転に対して、ゼネコンで原発設計を担当した学者は「1・2号機は出力が小さく運転効率も高くない。廃炉にして、より安全性の高い新型のものに作り直した方がいい」と述べている。
 しかし、あきれたことに今回の判決をうけ中電は「1・2号機も安全性が確保された。廃炉にする考えはない。あと30年くらいは使える」と豪語した。
 弁護団が判決を出した裁判官を批判した言葉を中電にもぶつけたい、「巨大地震と原発重大事故の同時発生の状態となり、国民の生命身体に重大な被害発生したとき、『中電』はどのようにして責任をとるであろうか」と。(英)
案内へ戻る


時代が求める新しい労働運動――企業別組合の脱却を考える――

 『ネオ階級社会』『搾取される若者たち』『あたらしい階級社会、あたらしい階級闘争』……。
 これらはついこの数年前から最近にかけて出版された本の表題だ。
 階級、搾取、階級闘争などといえば、ほんの数年前までは左翼の政治グループぐらいしか使用しなかった言葉や概念だが、それがいまでは普通の本の表題として広く読まれるようになっている。それほど“勝ち組・負け組”、あるいは“格差社会”というフレーズで語られている日本社会の分裂状況が深刻化していることの反映でもある。
 “格差社会”“階級社会”化の受け止め方および処方箋での多様な視点がすでに数多く提出されている。が、私たち労働者がそれにどう立ち向かっていくべきかを論じたものはそれほど多くはないのが実情だ。
 そうしたなか、このほどそうした課題に真っ正面から取り組んだ本が出版された。タイトルは『格差社会に挑むユニオン――21世紀労働組合原論』、著者はこれまで企業社会論や労働運動のあり方などについて労働者に密着した視点から発言してきた木下武男氏だ。本書の特徴は後でも触れるように、格差社会、階級社会に切り込んでいく主体をどう創っていくのかという、いわゆる主体形成の視点を正面から追求しているところにある。
 実をいえば、著者は以前からこの種の発言をあちこちで繰り返していたわけだが、このほどある現象を契機としてそれらをまとめた著作として発行したものだ。こうした著者の提言は時代そのものが求めている課題を正面から取り上げたものとして真摯に受け止め、労働者の切り開いていくべき道筋を真剣に考えていく良いチャンスにしたい。

■地殻変動という時代認識

 本書の中心テーマは格差社会に立ち向かうための有効な労働運動づくりにあり、その核心は労働者の企業横断的な組織づくりとその主体形成におかれている。そうしたテーマはこれまでも繰り返し議論されてきたもので、いま初めて提起されたものではない。が、著者によれば昨年、2006年になってその展望が突如として明確なかたちで目の前に現れてきたのだという。
 それは「2006年、日本の労働運動にとって画期的ともいえることが起こった。それは「若者運動の突如とした台頭であった。」という記述から読み取れる。そうした“台頭”の根拠として、本書では製造業での派遣労働者のユニオン発足、それら個人加盟ユニオンを支援するガテン系連帯の結成、あるいは労働NPO・POSSE(ポッセ)の立ち上げなどをあげている。たしかに昨年は経団連会長企業のキャノンをはじめとした大企業での偽装請負や大手派遣企業での日雇い派遣にまつわる様々な問題などが注目を集め、当の請負・派遣労働者自身の決起が拡がった年でもあった。
 実際はといえば、90年代中頃から日本の企業社会の地殻変動はすでに始まっており、それが管理職ユニオンの発足や各種の地域ユニオン運動として拡がりつつあったわけだが、著者とすればそうした新しい闘いの芽やそれを担う新しい発想と質を持った最近の若者運動に、閉塞状況を切り開いていく新たな可能性を見いだすことが出来たということだろう。
 「労働社会の大転換を見すえる」と題された本書の第一部は、こうした新しい若者ユニオンを台頭させるに至った日本的労使関係の変容過程とその結果としての格差社会の分析に当てている。その起点は経営側による労働力の多様化・流動化にあるとして、それがかつて一億層中流と言われた日本の労働社会の大変動に至った再編過程を跡づけている。この部分自体、労働者が追い込まれた“格差社会”の実相を日本的労使関係の解体過程という視点からトータルに捉えたもので、私たちにとって他の類書からは得られない参考になる視点が多い。
 が、本書の中心は第2部の「労働運動のルネッサンス」にあるのでそれを中心に紹介したい。

■企業内組合からの脱却の道

 本書の第2部の中心テーマは、これまで日本の労働組合の特徴として言われてきた企業内組合からの脱却に向けた道筋の提案だ。このテーマは著者も言うように、これまで日本の労働運動の立て直しを考える場面で常に提起されてきたテーマであり、かつそれが現実のものになってこなかった長い歴史を引きずったもので、それだけに生やさしいテーマではないことを前提とし、それがまさにいま現実的な可能性を持ってきた、という視点を踏まえて取り組んでいる。いわゆる歴史認識、時代認識にかかわる視点だ。
 こうした問題意識、時代認識はまったく同意できるもので、私なども90年代からそうした時代認識の重要性を訴えてきた一人だ。著者はそうした立場から企業内組合からの脱却について、まさに私たち労働者の直面する課題との関連において労働運動の組織形態にまで踏み込んだ問題提起をしている点で他の類書との違いが際だっている。
 日本の労働組合はほどんとすべてが企業別組合だが、その企業別組合は産業別組合として組織されている欧米の労働組合とは似て非なるもの、日本の企業別組合が本当に労働組合と呼べるのか、というのが以前からの著者の立場だ。たしかに単組(=企業ごとの組合)が連合して形成されているいわゆる産別(=いわゆる産業別組合)が、現実には独立性が強い単位企業組合が寄り集まった、権限も財政基盤も弱い名目上の産業別組織に止まってきたという現実がある。そうした単組の寄せ集めとしての連合組合では、企業の外、個別企業を超えて組合に結集する産業別組合に比べて、個々の企業やいわゆる“業界”を規制する力が発揮できるはずもない。なぜなら労働市場は産業別、業界別に形成されるからだ。それが西欧で組織された産別組合と比較しての常識だった。
 ところが、日本の企業内組合はまさに日本的な労働市場に一対をなして形成され成り立ってきたもので、その労働市場とは年功処遇を土台とする終身雇用で、新規学卒の採用をのぞいては労働市場はきわめて閉鎖的なものだった。企業内組合はそうした労働市場に適合的なものとして経済の高度成長という基盤と企業のヘゲモニーのもとで拡がり、定着してきたという経緯がある。
 それが90年代以降、年功賃金制が崩され非正規労働者が激増し、労働市場の流動性が大きくなった。当然それに見合って労働組合組織も欧米流に産別組織などに再編される必要があるが、現状では企業別組合体制はいまだ強固なものに止まっている。それが大失業時代、格差社会の拡大に無力なものであってもだ。
 こうした現状認識のうえに立てば、当然のごとく企業別組合からの脱却を模索していくことが緊急かつ大きなテーマとして登場してくることは自然なことだろう。著者はその場合の原点は労働者集団による企業・経営側との集団取引機能にあるとして、それを可能にする労働組合の組織形態の検討に踏み込んでいく。
 著者はその場合の将来展望として、これまでも議論された三つの選択肢を検討している。一つは企業内組合の構造改革路線、二つめは企業内組合の外部での新組合構築路線、そして三つ目は活動家集団のヘゲモニー路線だ。著者としては本書では外部構築論への傾斜は自重し、二正面作戦、三面作戦の立場をとっているが、心情的には外部構築論と自立的な活動家集団形成論に傾いていると読み取れる。06年の若者運動の“突如とした台頭”を歴史的転機だとして本書発行の動機としているからだ。以前別のところで問題提起した〈職工一体化〉の評価やブルーカラー・ホワイトカラー分離論とも読み取れるスタンスとの整合性を聞いてみたい気もするが、それはともかく、こうした立場から本書での議論の展開はきわめて現実的なものになっている。たとえば第1段階として組合単位でしか入れない日本的産別組織に一人でも入れる受け皿組織づくりを提唱していることもその一つだ。

■個人加盟ユニオン運動の発展の道筋

 次に〈外部構築論〉の中軸を担う個人加盟ユニオンの発展の道筋を検討している。結論的に言えば、現時点で多くの個人加盟ユニオンが果たしている、いわば駆け込み寺的な個別紛争処理機能から、労働市場規制型ユニオンへの飛躍へという課題設定だ。これは一方的な雇い止めや賃金未払い、野放し的な長時間労働といった、いわば明白な違法行為を個別に解決する段階から、労働市場を労働者の団結した力で規制していくこと、いわば雇用や賃金レベルそのものを確保し、引き上げていけるような段階にまで前進させていくこと、いわば本来の労働組合機能の発揮を課題としたものだ。
 著者は、こうした個人加盟ユニオンの発展段階を「合同労組」の段階、「個人紛争の処理」の段階、「組織の安定とユニオン運動」の段階、そして「労働市場規制型」ユニオンの段階という4つの段階として把握している。こうした労働組合の主体形成の諸段階に関する著者の問題意識と提言は本書の核心の一つで、本書をひもといてじっくり検討していく価値があるところだ。
 そうした労働市場を規制していくためには、個々の企業を超えたレベルで労働者の規制力を発揮しなければならない。言い換えれば賃金にしても労働時間にしても、それを企業間競争の材料にするのを止めさせるということだ。それらを個々の企業が左右できないような、いわば産業レベルで決定するシステムの構築が課題になるが、それには労働組合も個々の企業の内部事情に縛られる企業別組合を脱却し、執行権、執行部がその国、その地域の産業=業界を包摂するレベルでつくられるような、いわゆる産業別組織に再編することが不可欠となる。

■時代が求める“戦略”展望

 こうした問題意識や提言はこれまでもなかったわけではない。が、そうした提言がここ数年で拡がった雇用形態の多様化や労働市場の流動化が進んだ状況下で、しかもそうした新しい課題を担う主体が徐々に成長し、形として見え始めた局面で提言されているところが画期的なところだ。こうした運動と組織に関わる提言は、まさにいま労働社会と労働運動の転換点にあるとの時代認識に立つとすれば、伝統的な労働組合の労働者も新しいユニオン運動を担う労働者もともに真剣に検討する必要があるものだろう。
 付け加えれば、本書には第3部として「戦後労働運動史の断面――企業別労働組合の形成――」という歴史総括も含まれている。今回は触れられなかったが、企業主義的労働運動の脱却という課題を考えた場合、やはりそれが形成された経緯、具体的には1950年代から60年代の労使の攻防の歴史を振り返る作業が欠かせない。とりわけそうした歴史的事情を知らない若い世代には是非とも読まれるべき部分といえる。
 最後に、本書を含めて著者の木下氏にはこれまでも労働社会論や賃金論を始め、多くの示唆を受けまた触発されてもきた。本書でも示されている問題意識や時代認識、労働運動がめざすべき方向性や段階設定については小さくない違いもあるとはいえ、ほぼ同意できるものだ。が、本書でも繰り返し述べられている、かねてからの著者たちのスタンスについて触れないわけにはいかない。
 本書では中心テーマではないのでそれほど詳しくは展開されていないが、〈福祉国家戦略〉という戦略的スタンスのことだ。端的に言えば、これまでの企業に依存した生活構造から国家による福祉へと転換するという立場だといえる。これは最低賃金から職業訓練、児童・住居手当、年金に至るまで、企業が放棄しつつある労働者の生活基盤を、企業に変わって国家に保障させるという考え方だ。当然、財政支出にしても企業への規制強化にしても、いわゆる“大きな政府”指向だ。
 私たちは福祉国家戦略ではなく、アソシエーション革命を追求する立場から若干違った“戦略”をたてようと模索中だ。私としては、目先の課題として政府に福祉や規制強化を要求することは否定しないが、戦略としては企業でも国家でもない新しい“公共性”を追求し、その中で労働者の関与と決定権を追い求めていく、というスタンスをとっている。当然めざす方策も違ったものになる。たとえば職業訓練や児童・住居手当にしても、あるいは最低賃金や年金にしても、政府にも財政の拠出を求めるとはいえ、基本的には企業による資金の拠出を求め、それを運営する労使中心の機関を創設し、その中で労働者の発言力、決定権を拡げていく、という“戦略”になる。国家の役割はあくまで縮小の方向に置かれる。
 双方の“戦略”がどれだけ重なり、あるいはどれだけ乖離しているかは踏み込んだ検証が必要になるし、何よりも今後の労働者の闘いの中で実証していくべきものだろう。多くの労働者とともにまず本書を十分読み込むところから始めたい。(廣)


最近のテレビ・マスコミの報道について

 最近のテレビ・マスコミの報道について私は本当にあきれてしまう。
 朝青龍の疲労骨折の口実による巡業さぼりを取り上げたかと思うと現在は、亀田一家非難一色の一大報道である。何と一時間の特別番組を作ったテレビ局もある。
 十月十七日の朝日新聞の社説は、『亀田父子処分・煽った者の責任も重い』と題して、こう述べている。

 「メディアが果たした役割も見過ごせない。なかでもTBSだ。…過剰な演出や配慮を感じさせられた。視聴率優先の無批判な番組作りが、(亀田)父子の気分をいたずらに高揚させたのではなかったか。安易なヒーローづくりは、長い目でみれば決してボクシングのためになるとは思えない」

 確かにこの「朝日」社説のTBS批判は一見まともである。亀田親子を持ち上げここまでの破廉恥親子にしたのはTBSである。タイトル戦の実況放送での露骨極まりない解説内容も糾弾に値する。したがってTBSに対して社会的に厳しい批判を受けるのは当然だ。
 しかし、こうした風潮について、政治評論家の森田実氏が、この間の反小泉・反安倍発言のため、マスコミから干されてきた体験に基づいて、こう発言している。
 
 「この『朝日』社説のなかの『亀田父子』を『小泉・安倍』に置き換えてみると、2年前、1年前のマスコミの政治報道とほとんど変わらないのではないか。『亀田父子』を『小泉・安倍』に置き換えると、そのまま『小泉・安倍』を称賛し『煽っ』たマスコミにあてはまる。
 また、社説中のボクシングを政治に言い換えると、『安易なヒーローづくりは、長い目でみれば決して政治のためになるとは思えない』ということになる。
 テレビの政治報道はセンセーショナリズムに堕し、不正確になっている。『おもしろさ』と『わかりやすさ』と『高視聴率』に偏りすぎて、不正確になっている。テレビの報道には「真実」を軽視する傾向がある。こんな報道なら、ない方が国民のためである。
 堕落したテレビに振り回される国民は不幸であり悲惨である。日本のテレビは、日本国民の健全なるモラルを破壊している。テレビは人間にとって危険である。テレビ局の人間は、このことを知って、謙虚にならなければならない。猛省を促したい」

 まさに聞くべき正論である。大衆には、パンとサーカスとは、ローマ帝国からの大衆操作の手口ではある。テレビとマスコミは、まさに現在、見るべきものや論ずべきものから、労働者民衆の目と口をそらそうと必死になっているとしか私には考えられない。
 今注目すべきは、守屋前防衛事務次官の防衛産業の業者との癒着であり、憲法違反のインド洋での海上自衛隊の給油問題とイラク戦争への転用問題等、日本の国会でのきわめて重要な論戦である。まさに自公両党と民主党等の緊迫したやりとりなのではないか。
 こうした朝青龍・亀田一家に対するテレビ・マスコミの一連の報道姿勢が、電通仕込みの愚民政策そのものなのである。断固暴露していきたいものだ。  (笹倉)


 モノのおまけ≠ヘ

 陰徳か、はたまた人間を卑しくする行為か、陰徳を積め≠ニいうコトバがある。目立つ徳行と対極をなすもの。目立つ徳行には大抵お礼のためにと、プレミアムがつくのが常套。
 吉田兼好さんは、人と人のやり取りにウンザリしたか面倒なのか、手っ取り早く物くれる人、大好き≠ニ言った。人に来てもらうにモノをつけないと、という時期もあった。かくも浅ましくなったもんだ。
 ずーっと時代はくだって、最近、逝去された鶴見和子氏の歌、  自然から引き裂かれたる人間を貴しとなす近代化あわれというのがある。
 資本主義の生む悪≠ニともに劣化する人間は少なくなく、損得が行動基準になってしまう今日。その基準で人間尊重がはかられる今日、「おまけ」(くれるもの)に動かされるのを悪いといわないが、その十倍もの力をもつのが本命のことであってほしい。
 商売人だって「おまけ」で勝負するのが、商人道とは心得ていないだろう。しかし、「人間尊重」をふりまわす企業人は、鶴見和子氏の歌をどう受けとるだろう。
 人と人との間に信頼が失われてからの人間が、どのように生きるかを尊重し貴し≠ニしていくか、みな出発点に立っているのではないだろうか。せめて言いたいことが言えるようにしっかり自分を見据えたいもの。貧しさが本格的に迫ってくる未来、めげない力はなにか。これからだゾ。だから沖縄がもっとも苦しかった時代の星に曳かれるのである。本州でも同じような星がいたことだろう。
 本題からそれたようだ。
近代化以降、成金さんはバラまきをやって、人を浅ましく汚してはこなかったろうか。それを押し返す力は育たなかったかどうか。近代以降の歴史なり文学にそうした跡ずけをしてみたい誘惑にかられる。
 他方、そんなヒマないで≠ニ地球が泣く。時間を思うと焦りとともにボンヤリしてしまう。沖縄の岸壁の壁画を撮ることからはじめよう。11月に入ったら沖縄へ。やってみにゃわからん。     2007・10・19 宮森常子

「おまけ」
 誰からであれ、いわくのある記念品をもらうのは、私はうれしくない。私が買ってくるものと、もらったものとで、私の部屋はまるでゴミ屋敷。何とかしないと。食べ物なら跡形なくなるから大歓迎だし、さし上げるのも食べ物にと、心がけている。案内へ戻る