ワーカーズ364   2008/3/1   案内へ戻る

イージス艦「あたご」漁船と衝突−−自動操縦・マニュアル化された人間管理では事故は防げない。

 米ハワイ沖でのミサイル発射試験を終え、横須賀港に入港する予定だった海上自衛隊のイージス艦「あたご」が千葉県房総半島沖で漁船「清徳丸」と衝突し、漁船の船員2人が行方不明になった。
 「あたご」の艦首右側には、衝突によるものと見られる傷跡が確認されており、船がすれ違う場合、相手を右側方向に見る船が航路を変更するよう定めている海上衝突予防法によっても「あたご」側に回避義務があったことは、衝突直前に「あたご」と遭遇した清徳丸の僚船「金平丸」の船長や他の船の漁民の証言からも、事故責任は「あたご」側にあることは明らかである。
 イージス艦「あたご」は、同時に100個以上のミサイルや航空機を追尾する世界最高水準のレーダーを搭載する高度な防空戦闘能力を有する国内5隻目のイージス艦であり、三菱重工業長崎造船所(長崎市)で05年8月に進水、07年3月に就役、全長165メートル、幅21メートル、排水量は7750トンで、護衛艦の中で国内最大。建造費は約1400億円で定員は約300人。母港は舞鶴港で、ヘリコプター1機の格納庫を国内イージス艦として初めて装備した。レーダー波の探知距離は他の護衛艦より長く、対空では100キロを超え、360度全周で複数の対象の探知、識別、追尾が可能。敵艦のレーダーに捕捉されにくいステルス機能も備えている。
 事故当時、「あたご」の艦橋上には、見張りを含め、10人前後の隊員がいたとされ、現場海域の波は平穏・視界も良好だったにもかかわらず、最新鋭の装備を備えた高性能のイージス艦「あたご」が、漁船と衝突したのはなぜか・・?!。
 石破防衛相や福田首相は、「あたご」側の発見の遅れが「隊員の気の緩み」にあり、事故後の政府への連絡の遅れが防衛庁内部の制服組と背広組の任務分担の分散化などにあるとして、危機管理意識の高揚や「より迅速に情報を防衛相らに伝達する体制を構築することが急務」として、防衛省内部の指揮系統の見直しや個々の自衛隊員への管理体制を強化するよう改善を指示した。しかし、責任を単に「気の緩み」や伝達の遅れに求め、危機管理体制の強化で個々人を締め上げても、上っ面を塗り替えるだけの責任逃れに過ぎない。
 「あたご」の監視員がマグロはえ縄船団と清徳丸を衝突12分前の19日午前3時55分に視認していたにもかかわらず、衝突したのは、深夜・広い海洋上で、衝突一分前まで、艦の操縦を自動操舵にしていたこと。あたごの見張り要員を含む当直乗員は衝突直前の午前4時に交代しており、視認の引き継ぎが不十分だった疑いもあること。有事優先を常に叩き込まれている自衛官には自分から避けようなど考えてもいないこと。等々、艦長以下乗組員が完全自動化された船上でマニュアル化された操船をしていたのが直接的原因ではないかと思われる。
 今日、多くの職場ではオートメイション化され、それに見合ったマニュアル化した生産管理や生産工程がなされている。人の判断はマニュアル化以上にはなされない環境が作り出され、人間としての感情も制限されつつある環境では、自主的判断能力も退化し、マニュアルがなければ何もできない人間が増えるだけである。
 マニュアル化した管理体制の強化ではなく、自主的判断能力を高め広げる職場環境作りこそ急務である。


防衛省・政府の自己保身、責任転嫁を許すな!
 軍隊の本性を暴露したイージス艦と漁船との衝突事件


■「そこのけ、そこのけ、軍艦が通る」

 2月19日の午前4時7分、千葉県房総半島の沖42qの海で、イージス艦「あたご」が漁船「清徳丸」の横腹に衝突した。排水量7750トンの「あたご」に対し「清徳丸」は7・3トン。「清徳丸」はまっぷたつに切り裂かれ、乗っていた親子は船の操舵室もろとも波間に消えた。
 イージス艦「あたご」は、昨年10月に、艦対空ミサイル実験のため米国ハワイ州に行き、2月19日に海上自衛隊横須賀基地に入港する予定で房総半島沖を北上していた。他方の「清徳丸」は、ともに出航した数隻の漁船と船団を組み、マグロの漁場をめざし南下していた。事件についてのこれまでの報道内容を見る限り、「あたご」は漁船団が向かってくることに気づいていながら、向こうがよけるだろうとタカをくくって漁船団のただ中に速度も落とすことなくそのまま突っ込んでいき、その結果引き起こされた事故であることは間違いなさそうだ。
 まさに、「そこのけ、そこのけ、軍艦が通る」、「危険だと思えば民間船舶の側がよければいい」という性根、軍事優先・民間人軽視の発想を、露骨に見せつけられた事件だ。1971年の自衛隊機と日航機の衝突・墜落事件(日航機乗客162名全員死亡)、88年の潜水艦「なだしお」と遊漁船との衝突・沈没事件(釣り客30名死亡)の教訓があるにもかかわらず、そして「日本ミライズ」と守屋前事務次官との癒着・汚職事件への世論の批判のさなかにおいてもなお、自衛隊=軍事組織というのはかくも市民・国民の視線や生活を軽視することが出来るものなのだ。自衛隊と政府は、防衛庁の省への昇格、ミサイル防衛システムやその一環としてのイージス艦の増艦をはじめとする軍備拡張の進展とともに、その意識においても、軍事優先の特権意識をますます強めていたと言う他はない。

■責任転嫁と自己保身に走る防衛省・自衛隊

 それにしても、防衛省による事件についての説明のいい加減さ、その二転三転ぶりはどうだ。
 最初の説明では、衝突の2分前に緑色の灯火を発見したと言っていたが、後に12分前だったと変更し、また緑色の灯火だけでなく赤と白の灯火も確認していたと言い変えた。「清徳丸」が赤い灯火を見せていたとすれば、回避義務は「清徳丸」側にあるが、緑の灯火だと「あたご」が回避しなければならない。彼らが発言の訂正を行い始めたのは、漁船の乗組員たちが自分たちのGPS記録に基づいて漁船の航跡を説明し、赤色の灯火は「清徳丸」のものではないこと、「清徳丸」と「あたご」の衝突の前に回避行動をとった僚船のものだった可能性があることを明らかにした後だ。つまり防衛省・自衛隊は、事故直後にはあたかも漁船側に責任があるかにほのめかす発言を行っていたのであり、漁民側が「証拠」を示して後にあたふたと自分たちの主張の修正を行ったのだ。
 防衛省・自衛隊は、正確な情報を速やかに被害者や国民に公表しろという要求に対して、海上保安庁が捜査中であり軽々に発言できないなどと言い訳をしている。しかしその一方で、独自に見張り要員や副直士官や艦長などと連絡を取っているとも言われており、当初の「赤い灯火」発言のように自らに都合がよいと思われる情報だけは流してきた。彼らは、事この期に及んでもなお、必死になって情報の操作や隠蔽、自己保身と責任転嫁の道を探っているのに違いない。もし漁船側に責任を転嫁することが出来なくても、防衛省や政府の中枢・上層にダメージを及ぼさないよう、できるだけ下へ下へと責任を転嫁していこうともするだろう。もうすでに、見張り要員や当直士官に責任を押しつけようという動きが見え始めている。しかし船舶の運航の上で起こった問題の最終的な責任、最も重い責任は船長にこそあり、その船が軍艦であればなおさらだ。見張りや当直士官を生け贄にして、最新鋭のイージス艦の艦長、自衛隊・防衛庁の虎の子=エリートを防衛するなどという企てを、見逃すわけにはいかない。我々はそうした策動を許すことなくこの事件の真相の究明を求めていかなければならない。

■軍隊と住民・市民の利益は相容れない

 今回の衝突・沈没事件は、軍隊というものの本性をあらためて白日の下にさらした。
 沖縄をはじめ横須賀や岩国など米軍基地がおかれた地域においては、米兵による女性や子どもたちへのレイプ事件などの許し難い犯罪行為が後を絶たない。犯罪が発生するたびに「綱紀粛正」「兵士への教育」が語られるが、事件はいっこうに減ることがない。兵士たちに対して一方で優秀な殺人のプロになれと究極の反人権教育・トレーニングを施しながら、他方で住民や女性の人権を守るようにと説いても、効果が上がらないのは当然だ。
 先の岩国市長選挙では、基地の強化に賛成なら補助金をやるが反対なら出さない、というアメとムチのやり方で住民自治が圧殺された。基地が存在する自治体ではどこでも、こうしたやり方での民意のねじ曲げ・抑圧がまかり通ってしまっており、これに抗して住民が本来の願いを貫くのは至難の業だ。基地を受け入れれば市庁舎や様々なハコ物が建てられると誘ってくるだけでなく、住民の命に関わる病院や診療所建設までが取引の手段に差し出され、あるいは取り去られるのだ。
 今回衝突事件を起こしたイージス艦隊は、ミサイル防衛システムの中にしっかり組み込まれており、飛んでくるミサイルをフェーズ段階で撃ち落とすためと称するSM2やSM3を搭載している。このSM3などが撃ち落とし損ねたミサイルをターミナル段階で補足するのが、いま防衛省が全国に配備しようとしているパトリオットミサイル3(PAC3)だが、このPAC3がイージス艦同様に市民・住民の生活を脅かさないという保障は何もない。
 政府・防衛省によるPAC3配備の触れこみは、市民の安全を敵のミサイル攻撃から守るため、というものだ。しかし本当は日本に置かれた米軍基地と自衛隊基地、そしてアメリカの本土を防衛する為にだけ開発・導入された兵器システムであることは、多くの軍事専門家が語っているとおりだ。PAC3は普段は基地の中に置かれているが、実際に用いる時にはもちろん訓練の際にも基地の外に出て一般の車道を車列をなして走り回る。住民・市民の生活と共存できるはずがない。
 かつての沖縄における日本軍は、軍事目的のため、そして自分たちの生き残りのために、住民をマラリア地帯に追いやったり、ガマの外に押しだしたりして殺し、軍の意に沿わないからといって虐殺さえした。
 「軍隊は住民を守らない」、それどころか軍隊の目的の達成ためなら住民の暮らしや生命を平気で踏みにじり、それを敵視しさえする。今回のイージス艦の漁船への衝突事件は、軍隊がその本性の一端をかいま見せたものと言って良いだろう。
 日米の政府による軍事力の強化・拡大を許すな!
 防衛省・自衛隊による事件の責任転嫁、自己保身の策動を打ち破ろう!
           (阿部治正)
〈2月29日追記〉 石破大臣が、次官や幕僚たちとともに「あたご」の航海長らを、捜査当局=海上保安庁の許可も得ずに防衛省に移送して密談を行っていたことが暴露された。彼らが「あり得ない」と明言していた事態が次から次へと明らになりつつある。もちろん海保とて信じるには値しない。嘘とペテンで自己保身に走る石破や防衛官僚、与党と政府を許すな!案内へ戻る


法律はたたかう人には武器になる――労働契約法が施行――

 労使の攻防戦を経て成立した労働契約法がこの3月1日から施行される。
 使用者と労働者の個別紛争は、平成不況以降のリストラの拡大や非正規雇用の激増などに伴ってしだいに増えてきた。そうした個別的労使紛争に対して、使用者と労働者の関係に関する基本的なルールづくりの整備を目的として制定された労働契約法だが、これは当初労働者側が求めた内容から大きく乖離したものだった。
 じっさい、この労働契約法で個別紛争が労働者に不利にならないように解決できるかは危うさもある。が、ともかく今月から施行される。きわめて不十分な労働契約法だが、今後その改正を求める闘いを拡大するとともに、可能な限りそれを活用しながら闘いを前に進めたい。

■功罪併せ持つ労働契約違法

 きわめて不十分な内容での施行を余儀なくされた労働契約法。その直接的な原因となった個別紛争の増加に至る背景は、大ざっぱに言って二つある。
 一つは90年代以降の平成不況やグローバル化の過程で大規模に拡がったリストラ攻撃や非正規労働者の激増に象徴される労使関係や雇用形態の再編だ。そうした再編の局面で、労働者個々人と使用者側の紛争がしだいに増えてきた。当然の結果ともいえる。いきなり首を切られたり、正社員から非正規に切り替えられたり、賃金なども大幅に切り下げられれば労働者はたまったものではない。泣き寝入りしたくなければ訴訟などで使用者側の不当な扱いに反発するケースも増える。
 もう一つは労働組合の弱体化だ。このところ労組の組織率は下がり続け、今では全労働者の18%程度しか労組に組織化されておらず、会社側に比べて労組は弱体化している。しかも連合傘下の企業内組合の多くは基本的には労使協調、あるいは御用組合でしかない。結果的に増える個別紛争を労組の力で解決できるケースも限られ、逆に既得権にあぐらをかく既成労組からも白い目で見られるケースも少なくないのが実情だ。個々の労働者からすれば、会社側の不利益な扱いを止めさせるためには、結局は個々人による異議申し立てに訴える以外に選択肢はない。組合がない中小零細企業や、あるいは大企業であっても多くの場合労働組合にも入れない非正規労働者などは、はじめから労働組合を通じた解決の道は閉ざされていたとも言える。
 こうした労使間の関係の中で個別紛争は次第に増え続け、その負担は当事者である個々の労働者が一番大きいとしても、会社側にとっても無視できないものになってきた。何よりもこのまま労働者の個々の反乱が拡大し、企業秩序そのものが揺らぐ事態の到来を経営側は何よりも恐れている。一定のルールの下で個別紛争を制御していくことは、経営側にとっても緊急の課題だった。
 会社と個人のあいだでの紛争のネタは尽きない。それは募集、採用に始まって賃金、労働時間、休暇、研修、昇給、昇進、転勤、懲戒から退職に至るそれぞれの場面で様々な紛争が現に起こっている。
 もちろんこれまでも賃金や労働時間といった基本的な労働条件などは労働基準法などで定められていた。しかし労働基準法はあくまで労働条件の最低基準を明示したものにすぎず、それに明示されていない領域も多い。結果的に多くの個別紛争は、これまでに積み重ねてきた裁判例などに頼らざるを得ず、それだけ労働裁判も複雑で活用しづらいものでしかなかった。
 こうした背景の中で労使間の紛争の主たるネタになっていた様々な紛争に関わる基本的ルールづくりの必要性が労使双方から叫ばれていたわけだ。

■法整備の落とし穴

 労働基準法をはじめとした労働法規は、本来は弱い立場にある労働者の権利侵害を擁護する目的でつくられているはずだ。しかしそうした建前にもかかわらず、他の労働法規と同じように労働契約法も必ずしもそうなってはいない。
 そもそも労働契約法の制定は、労働契約の基本的なルールや手続きを明確にすることで労働者の地位や権利を守るために労働側が求めてきたものだった。たとえば有期雇用労働者の正社員との不均等な待遇など、不況やコスト削減を口実とする会社側の労働者にたいする理不尽な仕打ちがそれだけひどかったからだ。しかし使用者側は屁理屈をこねて猛反対し、結局は判例でルール化されているものだけをまとめたものが法律として成立したというのが実態だ。
 漸増する個別紛争を法律などでルール化することは、基本的に労使それぞれにとって利益になる。無駄なエネルギーを使わずに紛争の解決を可能にするからだ。しかし、現実には強大な力を持って労働者を統括している会社側と、個々バラバラで力がない労働者の間の紛争を個々の紛争のレベルで解決することは会社側にとってより大きなメリットがある。経営側にしてみれば、個々の紛争が大きく拡大してより深刻な譲歩を余儀なくされる事態に発展する可能性をあらかじめ排除できるからだ。何よりもルール化することで労使秩序は安定する。結果的に労働者のエネルギーは沈静化し、支配的地位にいる経営側優位の秩序へと傾斜していく。
 だから法整備は労働者側にとってかなり有利な法律でないと、労働者の生活や権利擁護にはつながらない。現に労働基準法は最低の基準を明示したものであるにもかかわらず、多くの場合そのまま社会標準になっているケース、あるいはその労働基準法さえ守られない職場が蔓延しているのが現実だ。
 こうしたこともあって非正規労働者、なかでも女性労働者が集まるユニオンなどを始め、全労連や全労協なども法案修正の立場から反対運動にも取り組んできた経緯がある。

■通った経営側の意向

 施行される労働契約法の構成は、目的(第1条)、定義(第2条)、労働契約の原則(第3条)につづき労働契約の内容理解の促進(4条)や労働者への安全への配慮(第5条)などが規定され、続いて労働契約の成立、労働契約の変更、就業規則による労働契約の内容の変更、という労働契約のルールが明記されている。後半には出向、懲戒、解雇など、労使紛争が多発している個別テーマごとのルールが示されている。
 こうした労働契約法の最大の危険性は、就業規則の変更で労働契約の内容を変更できる、という規定だろう。過半数を超える労働者が労組に組織化されていれば、その労組と会社のあいだで締結する労働協約に反する就業規則は制定することはできない。だから問題は労働協約で協定を結んでいない事項についてのルールや基準の変更、あるいはそうした労組が過半数に達していない職場、あるいは労組がない職場での労働契約の基準作りやその変更が問題になってくるわけだ。
 これまでは労働者の闘いの積み重ねによって就業規則の不利益変更はできないという判例法規が確立されていた。それでも個別のケースでは経営側の一方的な変更に対しては裁判で争うしかなかったわけだが、それがこの法律では合理的なものであれば労働者に不利益になるような就業規則の変更も認められるようになった。“原則不可能”が“原則可能”に変更されたわけだ。経営側にとっては大きなメリットである。
 周知のように、その場合の「合理性」の判断の如何こそが問題なのだが、誰にとっての合理性か、あるいはどういう目的のうえでの合理性か、法律ではきわめて曖昧なままだ。これでは労働者保護にはつながらないし、裁判などの紛争も減らないと言われても仕方がない。
 この他、これまでの判例を文章化しただけとも言われてきたこの法律には、労働者保護という視点で見たとき、曖昧な点や不十分な規定がきわめて多い。その改正をめざした闘いは今後も大きな課題として私たちの目の前にあることは間違いない。

■まずは活用から始めよう

 判例法規を逆流させた面も含めて全く不十分な労働契約法だが、労働者側が活用できるケースもないわけではない。これまでの判例法規はある程度の経験と知識がなければその活用は難しかった。しかしこの法律ではそれらのルールが法律文として明記されている。たとえ曖昧であってもだ。
 いま世の中には労働基準法などどこの世界の話、とも言えるようなひどい労働環境で働かざるを得ない労働者が爆発的に増えている。あの経団連会長企業であるキャノンでの偽装請負問題を持ち出すまでもなく、非正規雇用が急増するなかで偽装請負、偽装雇用、偽装管理職など、法律違反のオンパレードだ。募集のチラシの中身と全く違う賃金や労働時間で働かせられた、いきなり明日からこなくてもいいと通告された、首になりたくなければ非正規になれと言われた、等々。事例を並べただけでも紙面は満杯になる。経営者側にそれらの事例に関する判例を突きつけるのは難しいけれど、法律の条文を見せるのは誰にでもできる。
 それ以前の問題として経営側と労働者の間に就業規則を持ち出すきっかけになるだけでも、この法律の効果が発揮されるケースは意外に多いだろう。普通の会社でも就業規則を明示しているところは少ないし、労組に加入している労働者でも就業規則の所在も内容も知らないケースも多い。
 それでなくとも一人一人では弱い立場の労働者は、自分が働くということを使用者との間の契約関係だと自覚している人は少ないか、あるいは自覚していても経営側と向き合ったときにそういう契約当事者の立場を押し出しづらい位置に追いやられているケースも多い。とにかく労働者が会社で働くということは労働条件に対して契約当事者になるということを再確認する機会にはなる。
 そうした視点に立てば、この法律も権利行使の武器、材料になる部分もある。たとえば労使の自主的で対等な立場に立った交渉や合意を認める条項、仕事と生活の調和、出向や懲戒での合理性などの条項でも争うことは可能だ。また期間の定めのある労働契約についても、条件付きではあっても契約期間満了前の解雇禁止の規定なども、直接活用できる人も多いだろう。
 もとより憲法をはじめとした法律というのは、その法律そのものが私たちを助けるために駆けつけてくれるわけではない。私たちは法律に助けられる存在ではないのだ。どんな立派な法律でも、それがあるだけでは何の意味もない。現に雇用形態や労働時間などでも労働者派遣法や労働基準法などで明示されている事項ですら、それ自体では私たちを少しも守ってくれない。
 “法律というのは闘うものだけが活用できる武器である”という先人の教えをいま改めて思い返したい。労働条件の劣悪化や権利侵害に対して闘う決意を持った労働者は、どんな中途半端な法律でも活用することはできる。そうした闘いが拡がることによってこそ、経営側のエゴを跳ね返した良い法律も勝ち取れる。
 イギリスなどでは経営側の不当な仕打ちに対しては、法律違反かどうかを問う以前に、まずストライキなどで闘いを起こす、という伝統もあるという。そういう発想と決意があれば、経営側の不当な態度は跳ね返せるし、現に非正規労働者などもすでに告発行動や労組づくりに立ち上がっている。労働契約法も活用できる場面では大いに活用し、そうしたうねりを大きく育てたい。(廣)案内へ戻る


行き着いた雇用破壊! 実を結び始めた反抗!

 企業が望んだ究極の雇用形態、使い捨てが可能で福利厚生は一切不要、最低賃金に張り付くような時間給で必要な労働力が確保できる。それは、例えば日雇い派遣≠ニいう形で実現されている。個々の企業にとっては生き残るためにそこまで人件費削減が必要ということだろうが、「資本総体としてそこまでやっていいのか」と言いたくなるほどの阿漕なやりようである。
 この飢餓的低賃金と過労死的労働実態は、労働力の再生産すら保証しないものであり、長くは続かないだろう。マスコミでもワーキングプアの実態が報じられ、政府も何らかの対策を迫られている。そして、何よりも当事者である労働者の立ち上がりと闘いが、このどん底の労働実態にくさびを打ちはじめている。
 2007年はプレカリアートの登場が刻印された年であった。それでは、2008年はいかなる歴史を刻もうとしているのか。それを予想する前に、現時点の私的な素描を行ってみたい。 (折口晴夫)

雇用をめぐる現状
 日経連が「新時代の日本的経営」をまとめたのは1995年だが、99年には労働者派遣の対象業務が原則自由化され、2002年には年平均の完全失業率が過去最悪の5・4%となった。そして、翌年には雇用者に占める非正規の割合が3割を突破した。かくして、派遣や請負という雇用形態が隆盛を極めている。
 その行き着いた先が日雇い派遣≠竍偽装請負≠セが、その是正、何か正しい請負や派遣を求めればいいというものではない。企業がこうした雇用形態から最大の利益を得ている以上、派遣や請負から正規雇用へ、労働関係法令改悪の流れを止め、雇用を守る方向への舵取りを求めなければならない。
 雇用の非正規化は喰えない賃金≠一般化したが、正規雇用の労働者にも大きな影響を与えてきた。それはリストラ等による失業や非正規への転落であり、サービス残業や過労死的長時間労働の蔓延である。これは、企業内労働組合が、本工≠ェ非正規を犠牲にしてきた報いである。もはや労働者に安全な場所は残されていない、去るも地獄、残るも地獄≠フなかで、労働者に残された選択肢は闘いに立ち上がる道だけである。
 雇用破壊は民間だけではない。日々雇用と雇い止めに象徴される公務非常勤労働者は法の谷間にあって、民間パート労働者より無権利状態にある。民営化以前の郵便局には10万人を超える日々雇用の公務員≠ェ働いていて、雇用期限が切れて継続されない場合は自動的に退職≠ニなった。
 現在、全国に約40万人がいるとされる公務非常勤労働者の平均年収は200万円以下であり、官製ワーキングプア≠ニいうほかない。地方公務員法では非常勤の継続雇用は認められていないにもかかわらず、勤続が20年を超える例もある。そうしたなかで、東京都港区が非正規職員の昇給制度を創設しようとしたところ、総務省と東京都から「地方公務員法に抵触する可能性」があると指摘され、その導入を見送った。港区は昇給制度ではなく正規職への任用を制度化すれば、問題はたちどころに解決したのだが・・・

勝ち取られた司法的救済!
 1月28日、東京地裁のマクドナルド残業訴訟判決において、「店長は非管理職」という判断が下された。斉藤巌裁判長は「一部店長は部下の年収を下回り、待遇も不十分。職務内容、権限や責任、待遇の観点から店長は管理監督者に当たらない」と指摘し、日本マクドナルドに残業代の支払いを命じた。この判決は、残業代をケチるために管理職の肩書きを多用している多くの企業に対するボディブローとなるだろう。
 原告の高野広志さんは、残業が月100時間を越え、2カ月間も休みがなかったこともあり、これでは過労死するとの危機感を深め、「東京管理職ユニオン」に駆け込んだ。勝訴判決を得て、「同じような境遇の店長を救いたい」という高野さんの思いは、マクドナルド店長だけではなく、多くの名ばかりの管理職§J働者に伝わったことだろう。
 すでに「外食は労働集約的な業界。残業代を支払うことになれば、経営を圧迫し耐えられなくなる会社も出てくる」という声も聞こえてくるが、脱法的人件費削減は許されない。セブン‐イレブン・ジャパンが管理職の店長への残業代支給を決めるなど、波紋を広げている。
 同じような事例として2月8日、神戸地裁姫路支部において播州信金残業代訴訟判決が出ている。こちらは「支店長代理は非管理職」という判断が示された。これらは労働実態からすれば当然のことであるが、勇気ある告発、裁判提起がなければそうした実態もないものとされてしまう。
 サービス残業をめぐっては、労働基準監督署の2006年度の是正指導が1679社(100万円以上)、集計を始めて以来最多となった。勿論これは労働者の告発、闘いの成果であるが、氷山の一角に過ぎないだろう。
 過労自殺では昨年11月末、世界のトヨタ自動車で労働者の自殺を労災とする判決が、名古屋地裁で出ている。ここでは自主研などの活動も実質は業務であるということが認められ、トヨタ的労務管理に対する反抗が実を結んである。

グッドウィル折口帝国≠フ崩壊!
 介護事業・コムスンの破綻に続き、厚労省から労働者派遣法違反による「業務停止命令」を受け、グッドウィルは本体も崩壊の危機を迎えている。グループ総帥の折口雅博会長は介護事業を儲けの対象にし、日雇い派遣を食いものにすることによって、田園調布の白亜の邸宅や軽井沢の2600坪の別荘、自家用ジェット機での移動等栄華を極めてきた。
 データ装備費という名目での200円のピンはねは昨年5月に廃止された。同業他社のフルキャストが全額返済したのに、グッドウィルは過去2年分だけを返還対象とした。そして、問題の二重派遣が発覚したのは次のような労災事故からであった。
「2007年2月、GWスタッフとして藤和リースを介した二重派遣で、港湾業者・笹田組の現場で作業をしていた20代後半の男性が、左足を脱臼骨折し3本の靭帯が切れる重傷を負った。ヘルメットも与えられず倉庫内の荷崩れを戻している最中、再度の荷崩れに巻き込まれた」(2月16日「週刊東洋経済」‐雇用漂流・派遣、パート、偽装労働、非正規ニッポン‐)
 同誌はグッドウィルの顧客として二重派遣を行っていた、佐川グローバルロジスティクスがより悪質だと批判している。
「東京労働局によると、佐川は客先から送られてきた必要作業人数表をそのままグッドウィルにファクスしたり、客先から直接グッドウィルに必要な人数の依頼があったという。さすがにグッドウィルも違法状態に気づき、担当者を配置して現場確認を行い、『(違法状態を)何とかしてください』と懇願した。だが佐川から『現場に来るな』と一喝され、大口顧客を失うことを恐れて違法状態継続を黙認してきた」

失われた世代の生きさせろ!≠ニいう要求
 現在25〜35歳世代を「ロストジェネレーション」という。就職氷河期に就業年齢を迎えた団塊ジュニアである。正規雇用から見放され、明日はホームレスか、という危機にまみれている。この世代は何を考え、どのように生きてきたのか、プレカリアートの闘いにひとつの表現を与えた雨宮処凛さんが、「ロストジェネレーションの仕組まれた生きづらさ」(「世界」07年11月号)で興味深い分析を行っている。
 阪神大震災とオウム真理教による地下鉄サリン事件が起きた1995年、雨宮さんは20歳になっていた。戦後50年を迎えたこの年、「日経連が『新時代の日本的経営』という報告書をまとめ、ひっそりと、しかし確実にこの国の雇用形態が根底から変わった。非正規雇用を増加して不況を乗り切るという『新しい奴隷制度』が提言された」
 フリーターだった雨宮さんはある日、ふと気づいたという。「どうやらこの生活からは抜け出せないようだ。ということは、私はこのまま30歳になっても40歳になっても50歳になっても時給800円から1000円程度で、いつクビになるかわからない中、使い捨て労働力として生きていかなければならないということだ。絶望というよりは、未来があっさりと絶たれた感覚」
 当時ベストセラーになった「完全自殺マニュアル」には次のように書かれていた。「あなたの人生はたぶん、地元の小・中学校に行って、塾に通いつつ受験勉強をしてそれなりの高校や大学に入って、4年間ブラブラ遊んだあとどこかの会社に入社して、男なら20代後半で結婚して翌年に子どもをつくって、何回か異動や昇進をしてせいぜい部長クラスまで出世して、60歳で定年退職して、その後10年か20年趣味を生かした生活を送って、死ぬ。どうせこの程度のものだ。しかも絶望的なことに、これが最も安心できる理想的な人生なんだ」
 こんな風に書かれてしまうと身も蓋もないが、フリーターだった雨宮さんは「どこかの会社に入社して」というところで弾き飛ばされていた。そんな彼女にとって、右翼は居心地が良かったようだ。ちなみに、左翼の集会は言っている言葉の意味がわからず、疎外感を感じたという。
 生きづらさに息がつまる生活のなかでの模索から、ひとつの道を見出した雨宮さんの今がある。「そんな中、私はと言えば、前述した『プレカリアート運動』にかかわっている。フリーター、派遣、請負など、不安定な働き方をする若者たちが既にホームレス化を余儀なくされ、生存そのものを脅かされている。そんな状況に対して『生きさせろ』と生存権を訴える運動だ」

以上、思いつくままに労働者をめぐる昨日と今日≠ノついて書いてきた。明らかに資本は悪乗りしてやり過ぎている。それでも本工§J働者はわずかに残された既得権にしがみつき、企業的秩序のなかに生きようとしている。そこに、生きさせろ!≠ニいう要求を掲げてプレカリアートが登場している。いささか図式的ではあるが、労働運動もこうした流れの中で変わらざるを得ないだろう。苦難の日々を経て、そろそろ労働者の明日≠ノついても語れるのではないか。案内へ戻る


コラムの窓 死刑廃止をめぐって・その3

 2月1日、3人の死刑が執行されました。「昨年12月7日の前回執行からの期間は2カ月弱で、93年に死刑が再開されて以来最短となった」「法務省は前回と同様、執行された死刑囚の氏名と執行場所を公表。今回は鳩山邦夫法相が自ら記者会見し、執行を発表する異例の対応を取った。法相は『いずれの事件も身勝手な理由で尊い命を奪った残忍な事案。慎重な検討を加えた上で執行を命令した』と述べた」(2月1日「神戸新聞」夕刊)
 何かとお騒がせの鳩山法相、つい最近も鹿児島の県議選買収事件でっち上げを「冤罪と呼ぶべきではないと考える」と、その無能力をさらけ出して顰蹙を買っています。その法相が、こんなに凶悪だから死刑執行は当然なんだと強調して見せているのです。これは今後も死刑執行を継続するという、国・法務省の方針をあらわにしたものです。
 8日後の2月9日、「死刑廃止を推進する議員連盟」が@終身刑の創設、A死刑制度調査会の国会設置と4年間の死刑執行停止を柱とする法案の国会提出を目指していることを明らかにしました。しかし、司法においても死刑判決が乱発され、執行しても執行しても100人を割らない確定死刑囚の存在が圧力となっており、期間を切った執行停止≠ウえ実現しそうにありません。
 そうした実態を、共同通信が集計した数字が如実に示しています。まず死刑判決ですが、地裁、高裁、最高裁で死刑判決を言い渡された被告は2006年が44人、07年が46人で、1980年以降の最高記録を更新しています。昨年の死刑執行は9人で、死刑囚は少なくとも106人ということです。
 昨年は4月、8月、12月に各3人の死刑が執行されているので、今年度で区切れば4回12人という大量執行となります。国連総会で死刑執行の停止を求める決議が行われるなかで、これに逆行するこの国はどうなっているのか、その答えは次のとおりです。「鳩山法相は国連決議に対して『わが国では、国民世論の多数が凶悪犯罪には死刑もやむを得ないと考えている』と反論している」(1月14日「神戸新聞」)
 元オウム幹部の林泰男被告の死刑確定。これは最高裁第2小法廷の2月15日の上告棄却によるもので、「法治国家に対する挑戦として組織的、計画的になされた無差別大量殺人で、悪質の極み」(2月16日「神戸新聞」)と切って捨ていています。これによって、オウム事件被告の死刑確定は5人になります。
 国も民も上げて殺人犯の肉体的抹殺に突き進んでいる、そう言うほかない現状です。何がヒトをして殺人に至らしめるのか、冷静に考えることが必要ではないのか。そのためにも執行停止≠ノ踏み切るべきなのですが、司法も死刑判決を抑制して足並みをそろえなければ困難です。まるで出口のない迷路をぐるぐる回っているようですが、議連の提案を足がかりにせめて一歩でも進めることを目指すしかないようです。   (晴)


色鉛筆・久しぶりの保育所通い

 私は今、毎朝、自転車で保育所に通う日々です。というのも、長女が2人目を出産し送迎には無理があるので、通勤途中でもある私が引き受けることになりました。自転車の後ろに子どもを乗せて走るなんて、10年以上のブランクがあり、少しふらつきながらの運転です。
 6歳になったばかりの孫娘は、今年4月で1年生になります。年長のクラスは24人、子どもたちは人懐っこく私のことも覚えてくれ、「もえちゃんのおばあちゃん」と呼んでくれます。夕方のお迎えでは、一人のお父さんを囲んで何人もの子どもが抱っこをせがみ、思わず微笑んでしまいます。1日の大半、生活を共にするため仲間意識が強く、共有化する行動は自然なことかもしれません。親同士の交流も感じよく、いい雰囲気だなあと、久しぶりの保育所通いに快くしています。
 ところで、産後の産褥期は実家で過ごすのが一般ですが、夫婦が別々に生活することは問題があると思います。新生児の世話は、深夜を問わず3時間毎の授乳、おむつ交換、大量のおむつの洗濯など、生活を共にしないと実感は伝わりません。新生児の父親であっても男性であれば、仕事が1番優先されるのが現状です。娘の夫の場合も、仕事が忙しく帰宅できない日もあり、私たちの手助けがなければ無理な状態です。自治体では、育児休暇を男性にも取得できるよう呼びかけていますが、実際は困難な条件が実現を阻んでいます。
 そんなわけで、私の生活は一変し、とても忙しい毎日になりました。仕事をしながら、新生児特有のウンチの洗濯は無理と判断し、貸しおむつを契約しました。使い捨ての市販の紙おむつは大量のゴミを出し、地球温暖化にも拍車をかけます。週1回の配達で、汚れたおむつの保存場所や衛生面で苦慮しましたが、肌にもやさしい布おむつで大変助かりました。
 娘4人を持つ私には、これから次々と出産が続くようになれば、体力が持つのだろうか、とちょっと不安な気持ちになります。家事・育児は可能な限り、夫婦でやり遂げるよう、娘たちに言い聞かせておきましょう。(恵)案内へ戻る


2008.3.1.読者からの手紙

七生養護学校事件判決と日教組本部の止めどなき後退

 二月二十五日、障害児達に対して、「必要以上の性教育」をしているとの難癖をつけて、東京都教育委員会から、処分を受けた東京都の日野市にある都立七生養護学校学校長をはじめとする教職員に対する降格処分等の撤回を求めていた裁判の判決が東京地裁で下されました。
 渡邊裁判長は、「処分は裁量権の乱用にあたり処分は違法だとして都に対して処分の取り消し」を命じました。この判決は、先号でも取り上げられた「君が代」不起立処分による再任用拒否に関する勝利判決と一連のものです。今回の裁判長も、処分は「社会観念に照らしても重く、裁量権を乱用している」と認定しました。東京都教育委員会の暴走は、こうして司法によって、続けて二度も厳しく糾弾されたことを私たちは忘れるべきではないでしょう。
 ここで現代の組合を象徴する呆れた事件をお知らせします
 去る二月二日から四日、東京都において日教組本部は、第五十七回全国教育研究集会を開催しました。この研究会は日教組の看板の集会として有名なのですが、最近は右翼団体の妨害のため、現場の日教組組合員にすら開催地は明らかにされないまま密かに開かれているのが実態です。かくいう私も箝口令の下、二度参加したことはありますが、今回の開催地は全く知りませんでした。
 今年は、グランドプリンスホテル新高輪で開催されたのですが、前代未聞の事態が出来しました。何と毎回集会の基調報告がなされる大事な全体会の開催が急遽中止されたのです。ここで急遽中止されたと書いたのは、結集した組合員の立場からのものです。
 一方の当事者である日教組本部の側から書けば、事態の深刻さはもっと明らかになります。日教組本部には責任感がないのです。昨年三月、ホテル側に本集会は例年右翼の妨害があるので警察に警備を依頼し開催している旨を伝え、使用を申し込みます。ホテル側は状況を理解した上で、五月に本契約し七月には使用料の半額を振り込み、実務的やりとりは着々と進展していました。
 しかし、昨年十一月十二日、ホテル側は一方的に「予約を白紙に戻す」と日教組本部に通告してくるとともに使用料を返還してきたのです。それから約一ヶ月間、日教組本部はホテル側と会場使用を求めて交渉してきたのですが、らちがあかないので、東京地裁に「仮処分命令申立書」を提出し、さらに東京高裁からも「プリンスホテルは日教組に会場を貸さねばならない」との司法判断が出たものの当日までホテル側は会場の使用を拒否していたのであります。
 こうしたやりとりの中で、日教組本部は急遽全体会の中止を決定したのですが、問題はこの事が全体会開催直前まで、日教組本部の限られた関係者にしか知らされていなかったことです。日教組各県組織や全国教研参加者には全く「寝耳に水」の事件でありました。誰のため何のための組合でしょうか。
 この事件は、今の日本社会で裁判所がいかに権威がないか、また日教組本部がいかに腐っているかを明らかにした象徴的な事件でしょう。 (笹倉)


編集あれこれ
 前号は質量ともに充実し、非常にバライエティに飛んだ内容になっていると評価しています。今後ともがんばりたいです。
 前号の第一面は、二月十日の岩国市長選挙を取り上げたもので、タイムリーで良かった。選挙結果は残念なものとなりましたが、私たちの主張は伝えられたと考えています。
 ガソリン税問題は前号から引き続き取り上げているがこれも時宜にかなったものです。大阪府知事への寸言も的確なものでした。
 環境問題は今後もどんどん取り上げていきたいと考えています。
 何より良かったのは、常連の読者からの手紙欄に新人が参加したことです。新聞が読者を拡大するには、当然ながら要求される鋭い論説だけではなく、こうした生の声を伝える読者の紙面参加にある事は間違いがないのです。
 これに続く読者からの投稿を期待しています。(直記)


若い力士の死に思う

 17歳の若い力士が急死した。急死と言うより「殺された」と言った方が正しいのではないか。
 前時津風親方の言動は許しがたい。将来性のある若者の未来を奪ってしまったこと、さらには将来性ある兄弟子たちにもとてつもない重い「十字架」を背負わせたこと、前時津風親方は親方としての責任は重大である。しっかり制裁を受けるべきである。
 ところが、一番おかしいと思うのは日本相撲協会の最高責任者である北の海理事長の言動である。
 この力士の死は、親から預かった若い力士が親方の間違った指導によって死んでしまった大事件である。事件直後の時の対応についても、指導機関である文部科学省から注意されてようやく親御さんに謝罪に出掛ける始末であった。
 今回の逮捕によって、もはや相撲の「しごき」とは呼べない制裁をしていたことがはっきりした。その「制裁殺人」の中心人物が親方にあることも明確になった。
 親方を指導する立場の理事長として、この事件の重みを認識して責任を取ることは当然だと言える。また、相撲協会関係者もこの事件の重みを受けとめ、相撲協会の古い体質改善に乗り出すべきである。ところが、終始理事長以下まったくそうした動きが見えてこない。
 相撲協会を信用して息子さんを預けたにもかかわらず、結局息子さんを失った親御さんにとって、この半年間はまさに「針にムシロ」の生活であったと思う。息子さんの遺体が帰ってきた時、これは変だと思って行動したことによって、ようやく事実関係が明らかになった。
 こうした親御さんの気持ちを考えれば、理事長として謝罪して、はっきり責任を取って、相撲協会としても損害賠償に応じることが道理だと考える。
 最近日本社会では色々な事件が起こるが、共通しているのは責任者が明確に責任を取ろうとしない。ごまかしたり、部下や他人に責任を押しつけたり、最後にようやく謝罪して、それでお終い。
 今回の海上自衛隊のイージス護衛艦「あたご」による漁船衝突事故においても、自衛隊責任者の対応はごまかしばかりで無責任極まりない。霞ヶ関の中央官僚どもも「薬害肝炎問題」にも見られるように全く責任を取らないし取ろうともしない。また、大企業による「偽装請負」、外食産業による「管理職偽装」、食品会社の「製造偽装」等など、民間会社でも列挙に暇がない。
 こうした偽装が判明する度に、テレビで「すいませんでした」と頭を下げるばかり。謝ればいいのではない、責任者としてどう責任をとるのか<問題点を明らかにしてその対策を立てて2度と繰り返さないこと>が重要なのだ。
 今の日本社会において指導的立場にいる人達の責任放棄は根が深くタチが悪い。私たちが抗議の声を上げ、徹底的に追及し責任をとらせる行動が必要がある。(若島三郎)


沖縄の日常から学んだこと−読谷村にて−

 沖縄にも自販機(ジュースなどの)はある。しかし、カラの瓶などを捨てる箱はおいていない。自分で持って帰って、きめられた回収の時に始末しろということであろう。
 個々の人々のものという感覚も、公共のものをおおっていく過程を見たように思う。それがおらが海∞おらが浜∞おらが山道≠ニいう感覚にもつながるのでは? こうした感覚の失われつつあるような危うさの中で。そこで法≠ニは? 規則とは? という問いが生まれよう。
 ここ大都市の大阪では、下水がよくつまる。下水とか道路は公共性のあるもの。個人のものは大事にしても、公共性のあるものは損傷させても何とも思わない。とてもおらが・・≠ニいう感覚には、及びもつかぬ。
 泥棒の心理にしても、個人のものを盗るよりも、誰のものともつかぬ公共性のあるものから盗む方が気が楽だそうだ。だから公園の鉄柵やら大工場の何かが無くなったりの現象が発生するのだろう。罪の意識が欠落していくのも、こんなところからかも?
 資本主義社会では大企業も個人のものでありながら、生産するものは商品という公共性?(普遍的?)をもつ。だから泥棒にも3分の理≠ニいう理屈も成り立つのかも知れない。
 個=iそれも階層によるが)が、早くから生まれた欧米では、スイフトが描いたように貴婦人の化粧部屋は、紙クズだらけ。自分を飾る化粧に使う紙などポイポイ捨て、片附けることをようしないほど、自分を磨き立てることのみに集中。掃除したり清潔にする職業もいろいろ生まれたであろう。
 最近のTVでは、何を主張しているか大分、頭をひねらないと判らぬほど映像の花びら(磨き立てるために使われる紙クズみたいに)が、やたらに多く華やかなのが気になる。梅干しばあさんが海産物の商売(行商)で、わたしゃマドンナだ≠ニ言っているのがいい。美を絶対にするのは結構だが、美≠烽「ろいろ。何を美しい≠ニ感ずるかの多様性とでもいうか。
 さて、沖縄の読谷村の道は大きな道、小さな土道にも、ゴミらしいゴミは見かけなかった。08・2・12 宮森常子
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