ワーカーズ377号  2008/9/15  案内へ戻る

根っこはひとつの自民総裁候補たち 民主の小沢がかすむのは自業自得だ

 自民党の総裁選がスタートした。新総裁が決まるのは今月22日だ。
 最有力と言われる麻生太郎は、福田首相が残したばらまき政策との評が高い総合経済対策と、公明党肝いりの定額減税の実行を前面に出す。基礎的財政収支の黒字化目標は真剣に追求する気はないようだ。
 2番目に手を挙げた与謝野馨は、財政規律は重視すると言いつつ、必要な場合は機動的に対応するとも言う。与謝野が他候補と違うのは、消費税の増税を、「社会保障税」と名を誤魔化しつつだが、唯一明言している点だ。
 石破茂も名乗りを上げたが、「テロとの戦い」「給油継続」「派兵恒久法」など、軍事・外交政策の重要性を語ることで、一石を投じようとしている。
 小池百合子と石原伸晃の両者は、小泉構造改革の継承を訴えることで前三者との違いを押しだす狙いのようだ。小池は女性の視点、石原は世代交代も口にしている。
 少しづつ違った物言いをしているが、これら自民総裁候補が共通にかつかたくなに守っている立場がある。それは、勤労者、労働者、社会的弱者が置かれた境遇は眼中になしという、彼ら候補者たちの背後おり、そのスポンサーを務めている資本家の立場だ。
 麻生と与謝野は、この10年のあいだ日本の経済・政治を席巻してきたグローバリゼイションへの適応と国際競争力の強化という課題よりも、どちらかというと国内の経済疲弊への危機感を表明している。麻生は赤字国債も辞さず、与謝野は消費税の増税を通して、という違いはあるが、国内の資本と中間層へのテコ入れを狙っている。
 小池と石原の主張は、彼らが新自由主義的政策が格差・貧困の深刻化と拡大と国際的な金融投機・金融危機の中で行き詰まらざるを得なかった事実から何も学ぶ力がないことを示しているが、麻生と与謝野の主張もまたすでに破産済みの古くさい財政主導の資本家テコ入れ策への回帰以上のものではない。兵器プラモデルオタクの石破の軍事的国際貢献拡大論もまた、石破の視野狭窄と政治的鈍感を露わにしているだけだ。
 滑稽なのは、民主党と小沢一郎の姿だ。彼らは、民主党の党首選が不発となったことを今になって後悔してるようだが、仮に野田や岡田や枝野が立候補して選挙戦となっていたとしても、この党の評判への得点増など期待できるはずもない。むしろ逆に、自民と民主が開陳する政治路線や政策の似たり寄ったりの姿、両政党の境界線の不鮮明さが際だつ結果となったに違いない。
 自民、民主を脅かす政治的第三極を、労働者・民衆の労働と生活の根っこを深く掘り進む中で、政治の舞台に一刻も早く登場させなければならない。     (阿部治正)


耐用期間が終わった自民党――自民党を退場させよう――

 福田内閣のあっけない退場によって、臨時国会冒頭での10月解散・総選挙という局面が現実のものになった。衆参の“ねじれ国会”という状況の中で、福田内閣はなすすべもなく退陣に追い込まれた。それだけ自民党政権の基盤にガタがきていたからだろう。
 それにしても自民党の総裁選びの顛末は、政治というものが結局は個々の議員の野望と思惑をとおしてしか現実のものにならないとはいえ、ただ見苦しいものとしか思えない。それにすでに公明党は自公政権から半身の姿勢に傾いている。ここは自民党には一気に政権の場から退場してもらうしかない。

■対処療法

 思えば、周回遅れのサッチャー改革で贅肉をそぎ落として成長力を回復させようとした小泉“構造改革”政権。その後に続いた2代の政権は、小泉時代の負の遺産の前にあっけなく跳ね返されて退陣に追い込まれたといえる。
 安倍政権はあの郵政選挙で手にした衆院での3分の2の与党の議席という圧倒的な多数派を背景に、政治的には保守反動路線に猛進した。が、上滑り気味だった“お友達内閣”は、けっきょくは“宙に浮いた年金”などに足を取られて転けてしまった。
 次に登場した福田内閣は、派閥の親分衆に担がれて登場した経緯から、米国一辺倒外交の修正も含めて小泉時代の負の遺産への“癒し内閣”の域を脱することができず……。自前の政治をしようと最後の一あがき(組閣)をした局面で、それが無理だと悟って政権を放り投げる結果になった。それもこれも衆院の任期切れが迫り、解散総選挙が次第に目の前に接近してくるという場面を迎え、与野党を問わずバラまき政策に傾斜していったという背景がある。
 いうまでもなく2代続いた政権投げ出しという事態の背後には、小泉時代の負の遺産が堆積している。それは業界トップ企業や世界市場を土俵とする多国籍企業へのテコ入れ中心でやってきたことの当然の結果としての格差社会の拡がりだ。
 中央と地方、業界トップ企業と末端企業、大企業と中小零細企業、エリート社員と非正規労働者等々。いま日本は“勝ち組・負け組”などの象徴されるような新しい格差社会、階級社会に呻吟している。こうした状況下では、自民党を中心に与野党で展開されている財政再建や景気回復、あるいは無駄の削減やバラまき型財政支出等々、どれをとっても行ったり来たりの堂々巡りをする以外にない。いまは小泉改革が規制緩和の推進など企業・供給サイドへのテコ入れ中心だった反動として財政出動による需要創出に傾斜している。が、それは国の借金をふくらませるだけで次の局面での再度の緊縮財政を呼び込むだけである。
 ここは相も変わらぬコストダウンとバラまき政策という対処療法の堂々巡りを続けていくのか、それとも企業主導の利潤万能型市場原理を根底から変えていくような、新しい社会づくりに乗り出すのかが問われている。目先の対処療法は必要な領域もあるが、より根源的な方向性をも考えていくべき場面ではないだろうか。

■格差社会

 いま与野党含めてバラまき型の対処療法が盛んに垂れ流されている。総選挙を目前として、与野党逆転をかけた攻防戦の中ではムベなるかな、という感もないではない。が、財政支出を中心とするバラまきなどでは解決しないほどいまの日本の閉塞状況は深刻化している。
 格差社会の拡がりの中で進行している地方の切り捨てにしても労働者の非正規化にしても、その背景にあるのは、あの三位一体改革で進められた地方分権の名で押しつけられた地方財政の切り捨て、あるいは雇用の段落としともいえる非正規化など、社会の構造が市場原理万能型の構造に変えられたからだ。非正規化なども含めて、財政構造の問題というよりも、労使構造の変化など、規制緩和など構造改革に関わってつくり出されたものだ。だからそうした構造そのものをつくりなおさない限り、いくら財政支出を増やしたところで、それは一時の痛み止めにすぎない。
 高度成長期に形成された日本社会は、それが「日本型福祉社会」とも「日本型労使関係」とも表現されてきたように、それはあくまで企業と企業社会に依存・従属したものだった。そこでの生活保障は年功賃金、健康保険、退職金、企業年金など、企業に過度に依存・従属したものだった。国や地方の公的な社会保障も貧弱で、労働組合などによる社会的規制も弱わかった。その日本での「日本的雇用構造」の急激な解体は、当然のごとく「働く貧困層」や「企業戦士」を大量に生み出すことになった。これらが格差社会の背景にあったことである。
 小泉内閣が誕生した01年から労働者の賃金は毎年減り続け、企業は過去最高益を毎年更新し続ける、という事態が続いた。いまでは日本のGDPに占める個人消費の割合は、6割強から5割台に落ち込んでしまった。それだけ富が個人から企業に吸い取られてきた結果である。

■耐用期間終わった自民党

 こうした格差社会の現状を直視すれば、目の前の与野党の攻防戦にどう関わっていくべきかが見えてくるはずだ。
 まず、コストダウンや規制緩和などで企業にテコ入れし、それが行き詰まると財政出動を増やすという、堂々巡りを繰り返すしかない自民党には政権の座から退場してもらう以外にない。いくら総裁選で派手に劇場型政治を繰り返しても、もはや小泉劇場の再現はない。いまでは小泉改革の負の遺産は有権者に広く共有されているからだ。自民党の新総裁にほぼ決まった麻生太郎にしても、それは彼が閉塞状況に陥っている日本の現状を打開できそうに思われているからという前向きのものからではない。いまの福田内閣が派閥の談合で生まれたことの反動であり、また総選挙が近づくことで自民党など与党の内部で有権者へのご機嫌取りの雰囲気が強まったからでしかない。何をいまさら。有権者蔑視もきわまれりという以外にない。
 自民党や公明党がご機嫌取りに走らざるを得ないほど、農村や地方では自民党の選挙基盤が溶解している。いまでは「一度、民主党にやらせたい」という声は地方でもあふれている。
 農村だけではない。都市部でも自民党は公明票頼りだが、その公明党はすでに自民党に対して半身の姿勢を取り始めている。実際、自民党が衆院でも過半数割れに追い込まれれば、民主党と組む選択肢を保留し始めた。池田名誉会長至上主義の公明党の与党病は今に始まったことではないが、自民党には深刻な事態である。
 すでに衆院の解散総選挙の攻防戦は始まっている。自民党を政権の舞台から退場させよう。すべてはそこから始まる。(廣)案内へ戻る


核の脅威

@ インド向け核禁輸解除について9月8日、「神戸新聞」は次のように報じた。
「日本を含めた原子力供給グループ(NSG)が、米印原子力協力協定を承認したことに対し、被爆地・広島、長崎の被爆者団体や平和団体は7日、失望や怒りの声を上げた。核拡散防止条約(NPT)非加盟のインドへの原子力技術、核燃料の輸出を可能にする点を問題視、『NPT体制形骸化を招く』『被爆国として反対すべきだった』とNSGや日本政府への批判を強めた」
 かくして、インドは核兵器保有国として承認≠ウれたのだが、NPTといい、米国の都合でどうにでもなるということを改めて明らかにした。今後、日本を含め各国はこの巨大な市場に向けて、原発輸出を競うことになるのだろう。核をもてあそぶNSGによって、核拡散が一段と進んでしまった。

A 9月6日の同紙で報じられたのが、原発立地自治体に2億円交付するという経済産業省の決定である。これは原子力施設立地交付金の新制度であるが、原発の長期連続運転を可能にするものである。事故の危険性の拡大と引き換えに2億円という、まさに札びらで頬をひっぱたく拝金政治≠ナあり、「神戸新聞」も次のように述べ批判している。
「原子力施設の立地地域への交付金は、立地調査段階などで国が多用してきた。地域振興に役立つとされる反面、地元への受け入れを金で解決するやり方だとの批判がある。原発の長期連続運転でも交付金が出る見通しとなったが、あらためて安全最優先の取り組みが強く求められている」
 原発立地の自治体は、このように潤沢な交付金を得ることができるが、それは麻薬のようなものである。一度その味を占めたらもう止められない。原発地獄に陥り、どんなにずさんな管理が行われていようと縁を切ることはできないし、増大する危険は甘受するほかない。破廉恥で危険極まりない政治である。

B 9月7日の「赤旗」は、米原子力潜水艦の放射性水放出は必要であるという主張を、64年段階から行っていたことを報じた。これは米国立文書館所蔵の米政府解禁文書で明らかのになっいたもの。
 1964年11月、米原潜の日本初寄港に際し、日本側は領海内での一次冷却水などの放出を行わないように求めたが、米国務省は「要請に沿うことは残念ながらできない」と回答している。その理由は、「(原子炉の)一次系のウォームアップ時に少量の低レベル放射能(冷却)水を放出することが必要」ということであり、これによいって原潜寄港時の放射能放出は避けられないこと、要するに垂れ流しだということが暴露されたのである。
 ときあたかも、米原子力空母ジョージ・ワシントンの横須賀配備が迫り、その安全性≠ェ問題となっている。しかし、その判断は米側の軍事機密≠ノよいって阻まれている。必要な情報等を明らかにしないで、いかにして安全性≠証明することができるのか、信じるものは救われない≠ニ言うほかない。

C 「週刊金曜日」(9月5日)では、成澤宗男氏が「米一極支配と『日米軍事同盟』」を分析している。そのなかで全地球規模打撃(グローバル・ストライク)について述べているが、この作戦を担当する「戦略軍は核攻撃を統括し、『グローバル・ストライク』では核兵器と通常兵器の差が事実上存在しない。相手が『大量破壊兵器』を有しているとされれば、核攻撃の対象となる」ということだ。
「迅速な地球規模の打撃のために、固定目標、強固で深く建設された目標、可動目標、そして再配置可能な目標を、大統領の命令に応じて、世界のどこでも即座に、しかも改善された正確さをもって攻撃できる能力を持つ。核兵器は、現代的な抑止の必要性を満たす正確で安全な、信頼でき、個々の状況に適合したものとなる」(2006年版「4年ごとの国防計画見直し」)
 ここでいう安全な核兵器≠ニは何か、誰にとって安全≠ネのか。使用可能な核兵器開発によって、それはもたらされるのか。反核運動のなかに、核兵器開発と原発推進(いわゆる核の平和利用)を区別するものがいるが、核に軍時と平和の境はない。放射能の害悪は等しく降り注ぐのであり、核と人類の共存はあり得ないのだ。(晴)
 

韓国紀行 −2−   慶州・ソウルを巡って感じたこと・考えたこと    北山 峻

(6)世界の中心としてのアジアの再興

 この数年、OECD(経済協力開発機構)の研究者でオランダのグローニンゲン大学教授のアンガス・マディソンが表した「経済統計で見る世界経済2000年史」(2004年、柏書房刊)や、アムステルダム大学名誉教授のアンドレ・グンダー・フランクの「リオリエント」(2000年、藤原書店刊)によって、中国を中心にした東アジアと東南アジア、それにインドを中心とした南アジア、ペルシャ・トルコ・イラクを中心とした西アジアなどのアジア世界は、我々が学校教育の中で習ってきたヨーロッパ中心の歴史とはまるで違って、実際には、秦の始皇帝のころから1820年に至るまで、世界のGNP(国民総生産)の60%以上を占める(1750年では実に80%がアジア)圧倒的な先進地帯であり続けていたことが、綿密な統計的処理によって明らかにされてきていますが、その中でも特に中国を中心とした東アジア世界は、1820年段階でも、例えば中国一国でさえ、当時のヨーロッパ全体をしのぐ、世界全体の27%のGNPを占めていたように、中国における万里の長城の構築や、大運河の開削、火薬や活版印刷の開発や製紙法の発見、大規模な製鉄精錬の開始や羅針盤の発明や甲板の開発による大型船の就航などと並んで、この韓国の大蔵経の印刻の製作なども、当時のアジアの科学技術や文化が世界の最先端を行くものであった事を示していると思いました。

(7)全斗煥が考えた韓国の威信

 3日目からはそれまでとはガラッと変わって、主として現代韓国の視察になりましたが、儒城からソウルに行く途中で、人造湖である大清ダム(大清湖)のほとりに1983年大統領の休養地として作られた青南台(南にある青瓦台=大統領官邸という意味)を見学。相当広大な、湖を見下ろせる高台に贅を尽くした建物があって、2重、3重に警備網を張り巡らしてあり、大統領の保養地であると共に、各国からの首脳の迎賓館としても使われていたようでした。日本の首相であった中曽根や小渕なども来たようです。これが、当時の全斗煥軍事政権が考えた韓国の威信を示す建物だったと言うことでしょう。しかし、今では当時とは比較にならないほどに経済が発展し、オリンピックやサッカーのワールドカップの開催などを通じて国民の自信も確固としたものになってきた中で、そんな見栄を張る必要もなくなり、また国民の批判をかわす意味もあってか、ノムヒョンが2003年に一般に開放し、今では歴代大統領が使用していた数々の日用品や実物手形などを展示する観光施設となっていました。中庭には、何でこんなグロテスクなものを展示するのかと疑問に思われる、鉄屑で作った恐竜などのオブジェがあったりして、軍事政権の寒々とした心象風景を表しているように思われました。
 展示室には各国首脳との多く写真や、歴代大統領の使った釣竿やマウンテンバイクなどの日用品と共に、それぞれの青銅の手形も展示してありましたが、金大中などの手形に手を合わせてみて、歴代の大統領は全体にみんな小さくて、華奢で小柄な印象を、そして「チャングムの誓い」に出てくる韓国の貴族階級である両班階級の伝統が今でも続いている印象を受けました。
 
(8)韓国の平城と山城

 ソウルに入る手前の水原で、李氏朝鮮時代(1392年〜1910年)に作られた(日本で言えば江戸時代でしょうか)城跡を見学しました。城跡といっても、朝鮮の城は、中国と同じように、都市全体を城壁で取り囲んだいわゆる平城と、敵が攻め込んできたとき都市を捨てて山に立てこもり、ゲリラ戦を展開するための山城の2通りがあるようですが、水原にあったのは王が軍事訓練に使ったという小規模の平城で、わずかに残った城壁と、いくつかの建物でした。昔北京で見た城壁や城門に比べると、北京や南京の白は数十万人が生活する都市全体を高さ5〜6m、幅も5〜6mある城壁で囲った巨大なもので、東西南北に作られた城門はそれぞれ5〜600人も収容できる巨大な体育館ほどもあるもので、かつてその北京の城門の中にある劇場で、ビルマのネ・ウィン首相を招待した周恩来の5列ほど後ろで、オペラ「白毛女」を見たことがありましたから、それに比べると数十分の一程の小さなものですが、中国のは土を撞き固めた、いわば巨大な乾燥レンガのようなものであるのに比べて、すべて石造りの強固なものでした。
 日本でも岡山などの中国地方には、朝鮮式の古い山城の遺跡がたくさんあるそうですから、古代日本は、ほとんど朝鮮の分家だったといえるのかもしれません。まぁ、天皇家が祭礼の時着る衣装や、全国の神社の巫女さんが着ている衣装は、誰が見ても朝鮮の伝統的衣装である「チマチョゴリ」なのですから、そして昔は、国境などなくて、人の行き来はまったく自由だったわけですから、そんなことは「言わずもがな」のことなのでしょう。
 
(9)南大門(ナムデムン)と明洞(ミョンドン)の圧倒的な雑踏

 その後いよいよソウルに入り、南大門市場に行きました。ソウルは李氏朝鮮時代500年にわたってその首都であり、その都市の周りは、昔は中国の都市と同じように城壁で囲まれていたようで、その出入り口として東西南北に大門があったようですが、現在は東大門と南大門の2つしか残っていないようです。そこは昔から、城外からやってきた人たちが市場を開いていた場所で、ソウルが都市として巨大化した今ではすっかりソウルの市内になっているのですが、相変わらず大規模な市場であり続けているようなのです。
 行って見て驚いたのは、そこは全体が想像を絶する巨大な雑踏の街で、街路の両側の店ばかりでなく街路の真ん中にも途切れることなく様々な店が出ていて、大量の人が狭い通路をぶつかり合いながら多くの客引きの大声の中を右往左往し、ひしめき合っているのでした。笑っちゃうのは、客引きが、「(本物と見分けがつかない)立派な偽物があるよ」といって袖を引くことで、何度そのせりふを聞いたかわかりません。この雑踏は上野のアメ横を10倍も巨大にした感じで、香港の雑踏と同様の騒がしさで、確かイギリスの中国研究者であったニーダムであったかラティモアであったかが,「アジアの特徴は雑踏文化である」といったことが、いまさらながら実感しました。確かに日本人も、お祭りのときの雑踏や花見や花火の時の雑踏など,確かに雑踏をこよなく愛する民族といえるでしょう。
 その後で行ったソウル第一の繁華街である明洞(ミョンドン)も、南大門を少し上品にして、若者で溢れさせた街で、その雑踏は相変わらずでした。ここも、新宿や渋谷の雑踏などかわいいほどに思える大雑踏でした。
 丁度、金曜日の夜だったこともあるのかもしれませんが。
 
(10)日本・韓国・中国、そしてベトナム

  韓国に行ってつくづく思ったのは、日本人と韓国人、中国人の区別が大変につきにくいことで、わずかにその言葉と文字が異なっていることによって辛うじて区別できるのではないかと思いました。儒城の街に行ったとき、昼食の休憩のときにレストランの近くの雑貨屋に缶コーヒーを買いに行ってコーヒーを指差したところ、店番をしていた婆さんに「ツォンゴリアン?」と聞かれてわかったのですが、彼女は私のことを中国(ツォンゴー)人だと思ったようです。私もなんて言っていいかわからず、「ウイウイ」といって誤魔化してきましたが、昔北京のワンフーチン(王府井)を歩いていたとき、中国人と思われて道を聞かれたことがあったことを思い出しました。
 数千年、数万年の間にアジアに広がったモンゴリアンが、それぞれ別の言語を話し、異なった風俗習慣の生活をするようになったけれども、やはりどこか似ていてはっきりとは見分けがつかないというところなのでしょうか。
 先日も、仕事で10ヶ月間ベトナムに行っていた友人が、我が家に来て一泊していったときに話していたことには、彼はベトナムでは「ベトナム語を話せないベトナム人」だと思われていたという事ですから、その似たもの同士の範囲はもっと広いのかもしれません。
  日本の相撲界を見ていても、最近活躍しているモンゴル勢を見ても、私が贔屓にしている白鵬なども、曙や小錦ほど外国人を感じさせないのも、やはり祖先が近いという事なのでしょうか。
 
(11)宗廟と神社

 最終日は、朝から李氏朝鮮の歴代の王と王妃の位牌が祭ってある宗廟を見学に行きました。日本では天神様になった菅原道真や、東照大権現になった徳川家康や、現代では天皇のために死んだ戦死者を祭った靖国神社などのように、死者そのものを神様にしていますが、韓国では中国の孔子廟や祖廟と同様に、位牌や巨大な記念碑を祭ってあるのです。この祖廟の形は、沖縄の祖廟(お墓)を中間形態として、日本のお墓や神社の形に変わってきたのではないかと、私には思われました。このあたりはイマイチはっきりしませんが。
 朝鮮を占領した日本の天皇制国家は、1907年、朝鮮国王であった高宗を退位させ(その後1919年毒殺)、その後継者である純宗を幽閉しました。しかし純宗には後継ぎが生まれなかったので、高宗の側室の息子で、純宗の弟である李ウン(イウン=英親王)を皇太子にしたのですが、その正室として一時は後の昭和天皇の3人のおきさき候補(一条家の朝子=ともこ姫、久邇宮良子=くにのみやながこ姫、梨本宮方子=まさこ姫)の一人であって、石女(うまずめ)であるという理由で候補から下ろされた梨本宮方子を、それまでの婚約者を排除して強引にイウンと結婚させ、それによって朝鮮王家の血統を絶やそうとしたといわれています。しかし皇室医師団によって石女であるとされた方子は、実はそうではなく2人の男子を産み、彼女は1989年に亡くなりましたが、その子供である李玖(イク)は今も存命であるといわれています。
 そのようにして日本によって断絶させられた李氏朝鮮王朝に対する韓国民の思いは複雑なもののようですが、今でも多くの人がこの宗廟を訪れているようでした。
 宗廟はソウルも中心にあり、そこからは、50mほどのすぐ近くに青瓦台(大統領官邸)の青い瓦屋根が見えました。
 
(12)統一展望台と漢江

 その後昼食を食べた後で一路北に向かって走り、漢江(ハンガン)を挟んで北朝鮮と向かい合っている統一展望台へ行きました。統一展望台は朝鮮戦争の休戦協定が結ばれた板門店の南、漢江の下流に位置する高台にあります。  
 漢江は思ったより大きな川で、統一展望台のあたりで「イムジンガン水清く、とおとおと流る〜」という歌で有名な、北朝鮮から流れて来るイムジンガン(臨津江)と合流しているのですが、その川幅は、狭いところで650メートル、広いところでは3・2キロメートルもあるそうです。
 後で調べてみると、南朝鮮の面積は9万9千平方kmで(北朝鮮は12万1千平方km)、日本(37万7千平方km)の約4分の1、北海道(8万3千400平方キロ)に岩手県(1万5千300平方キロ)をあわせたほどの面積なのに、最長の川である洛東江(ナクドンガン・釜山で朝鮮海峡に注ぐ)は525km、漢江(ハンガン)は514kmもあり、日本最長の信濃川(367km)や利根川(322km)、石狩川(268km)などの1・5倍から2倍以上もあるのですから大きいはずです。さすがに長さが6300km、河口の川幅が10kmもある長江や、6650kmのナイル川、6400kmのアマゾン川などの世界の大河に比べれば、砂場にした子供の小便程度かもしれませんが。昔日本に来た中国人が瀬戸内海を見て、「日本にも立派な川があるじゃないか」と言ったという話を聞いたことがありますが、日本のようなアジア大陸からこぼれた島国や大陸からチョッと突き出た朝鮮半島などは、中国やアメリカやロシアやインドなどの大陸の大国家から見れば、確かに小さな存在なのでしょう。
 だがかつてオスマン帝国のスルタン(皇帝)から僻地の女酋長と呼ばれていたエリザベス女王統治下の後進国イギリスが、産業革命を梃子に一気に大英帝国にのし上がったように、また一面の荒野であったアメリカがわずか2〜300年の間に世界一の大国になったように、世界の歴史はとんでもない不均等発展をし、様々にねじれながら千変万化の変遷をしつつ進んでいくのですから、世界のどこであろうと、どんな僻地であろうと決して卑下することはありませんが。
 統一展望台から見た北朝鮮の山は、一面の禿山で、全体に赤茶けて見えました。第2次世界大戦が終わったころの韓国も同様に一面の禿山であったようですが、今の韓国の国土は長年にわたる植樹の成果か、全土にわたって、薄くなった頭髪程度の木々に覆われていました。
 朝鮮は日本と違って全体に乾燥した大陸性の気候らしく、雨量も少なく、日本ほど草木が繁茂しないのかもしれません。全体に草木が少なく、農村部でも白い花崗岩の石がごろごろしている感じでしたし、方々で見た段々畑などもすべて石垣で作られていました。
 中国もそうですが、韓国でも、長い歴史を通じて大量の鉄を生産するために大量の木を消費したために山はすっかり禿山になり、更にその上欧米や日本などの帝国主義列強の過酷な支配によって、農村が荒らされ、肥沃な土壌がすっかり洗い流されたため、むき出しの岩石と赤土だらけの国土になってしまったのかと思われました。悲惨なものです。
 統一展望台の建物の中にはビデオや北朝鮮の民家や小学校の教室を再現した部屋などもあり、金日成や金正日が南に持ってきた高麗青磁の壺や北で生産された酒や食料品、実際に使われている教科書なども展示されていて興味深いものでしたが、その紙質の悪さ、貧しさは胸を突くものがありました。
 統計によると、北朝鮮の2002年のGNPは、わずかに170億ドルで、韓国(4730億ドル)のわずかに22分の1、日本(4兆3239億ドル)の250分の1でしかないのに、2278万人の人口で110万人もの軍隊を支えている「先軍政治」国家なのですから、民衆の貧しさは如何ばかりかと思われました。
 韓国の人々の北朝鮮に対する感覚は、今では、経済的にも発展してきて精神的にも余裕ができてきたようで、金正日の支配の下で苦しんでいる多くの同胞を、一刻も早くどうにかして救わなければならないと考えているようでした。日本で言えば、丁度北海道か九州が分断されて金正日に支配され、極貧生活を強いられているわけで、親戚もたくさんいるし、どうにかして助けたいという感覚のようです。   次号に続く 案内へ戻る


沖縄返還密約訴訟 −−西山元記者怒りの敗訴と情報公開請求の反撃−

 本紙375号(8月15日付)の読書室で、澤地久枝さんの「密約 外務省機密漏洩事件」が取り上げられていた。
 その記事の中でも、西山太吉元毎日新聞記者が、国に謝罪と慰謝料3,300万円の賠償を求めた訴訟が一審・二審でともに請求が棄却されたことが書かれていたが、9月2日最高裁第3小法廷は、西山元記者の上告を退ける決定をした。残念ながら、これで西山元記者の敗訴が確定した。
 なぜ、西山さんがこの訴訟の闘いに立ち上がったかと言えば、1970年代の沖縄返還交渉をめぐる日米両政府の「密約」問題がことの始まりである。
 1971年沖縄返還交渉時、米側が負担すべき基地の原状回復補償費400万ドルを日本側が肩代わりするという「密約」の存在を毎日新聞の西山記者がスクープし、自民党佐藤政権を追いつめた。
 政府は「そんな密約は存在しない」と否定し、西山さんと機密文書を渡した外務省女性事務官を国家公務員法違反罪で起訴し、有罪とさせた。当然、西山さんは世間から激しいバッシングを受け記者の職を追われ、社会的に抹殺されたのである。
 ところが、その事件から約30年後の2000年に、西山さんがスクープした「密約」の存在を裏付ける米公文書が次々に発見された。
 そして、2005年に西山さんは日本政府に対して、謝罪と国家賠償を求める「沖縄返還密約訴訟」を提訴した。その訴訟の内容とは、「国会の審議を経ずに交わした違法な密約は権力犯罪であること。検察官は密約を知りながら、国家犯罪の事実を知った記者による政府追及を避けるため、不当に起訴したこと。西山さんを有罪とした1978年の最高裁も誤判である」と訴えた。
 さらに、2006年2月には、当時の沖縄返還交渉を担当した吉野文六・外務省元局長が、この「密約」文書の存在を認めた。
 今回最高裁は、こうした文書の存在や当時の責任者の発言がありながら、一審・二審の判決を支持(密約の有無に触れず、賠償請求権が消滅する除斥期間<権利の法定存続期間は20年>の適用して請求を棄却した)し、西山さんの訴えを切り捨てた。
 敗訴が決定した西山さんは、「最高裁は自滅した。高度な政治判決だ」と怒りをあらわにして痛烈に批判した。まったく人をバカにした判決である。司法はこの問題を正面から取り上げないで逃げたのである。もはや司法は己の存在と独立を放棄したと言える。
 この西山さんの敗訴が確定した2日午後、大学の学者やジャーナリストや作家など63人でつくる「沖縄返還公開請求の会」(原寿雄、奥平康弘、筑紫哲也共同代表)は、外務省と財務省に対して、3通の機密公文書の開示を求める情報公開を請求した。
 開示請求日から30日以内に政府回答が行われる。共同代表らは、「両省が該当文書を『不存在』と回答した場合、あらゆる手続を踏んででも最後まで闘う」と強調し、異議申し立てや処分取り消し訴訟も辞さない構えを示した。
 作家の澤地久枝さんは、この日初めて西山さんと対面し、「30年前公判に毎回通い、傍聴席から西山さんを見ていた。ずっと個人で訴訟をしていることに深い敬意を払う」と頭を下げ、「密約を認めない日本の国とは何だろうか?心の底から憤りを感じる。言論封鎖の独裁政権下の国ではない」と強く批判した。
 また、原さんも「公開してほしい文書をすでに私たちは持っている。こんな馬鹿馬鹿しいことはない」と、「密約」の存在を否定する日本政府の対応を批判した。
 米国では、すでに公開されている公の文書である。それを、ただ「知らぬ存ぜず」という日本政府はあまりにも情けない。
 西山さんの訴訟は司法によって切り捨てられ敗訴したが、情報公開請求という新たな闘いが始まった。30日以内という政府の回答を注目したい。
 なお、この沖縄密約問題を詳しく知りたい人には、西山太吉さんが書いた「沖縄密約」(岩波新書)を薦める。是非読んでほしい一冊である。(富田 英司)
 

コラムの窓 メタボ指導とサラリーマンの習性

 メタボ検診が始まって半年になる。
 何を隠そう、この僕も、早々とメタボ検診を受け、血中脂質濃度が高く「メタボ該当」と判定され、かかりつけ医の「特定保健指導」を受けるようになったことは、以前の本欄でご報告した。今回は、その後の話である。
 毎日ウォーキング30分、飲酒を減らす、という目標を立て、達成状況をシートに書き込み、月に1回程度、かかりつけ医のチェックを受ける、という生活が始まって、約3ヵ月になる。体重はやや減って、胴囲もわずかだが減ってきた。
 しかし、コレステロールは家族性(遺伝性)ということもあって、中々下がらない。また、職場のコンピューターシステムの変更で、仕事のストレスが増加し、いったん減った酒量がまた増えてきた。
 そこで、プログラムを修正し、毎週1回以上「休肝日(禁酒日)」をもうけ、コレステロールについては薬を併用することになった。
 そんなこんなするうち、ふと「この光景、どこかで見たような」気がしてきた。他でもない、年に1回、「自己申告書」に「業務改善目標の達成状況」等を記入し、所属長と翌年度の目標について話し合う「面談」、あれである。
 考えてみれば、日本の労働者、サラリーマンのほとんどが、「目標」を立て、毎日、毎月、毎年、その「達成率」をチェックするという働き方を長年やってきて、すっかり身に付いてしまっている。「メタボ検診」とその後の「特定保健指導」の組み立ては、そんなサラリーマンの習性を実にうまくついていると思う。
 目の前に「目標」をぶら下げられると、ついつい、そこへ向けて突進してしまう。そしてグラフに示された「達成状況」を見て、一喜一憂してしまう。そんな、日本的労働者の思考回路に、すっと入ってきてしまう。
 実際、インターネットのサイトでも、体重計や血圧計をケーブルで接続し、毎日のデータを転送すると、BMI指数などを自動的に計算して、個人別のグラフが返ってくるサービスが、サラリーマンに人気なのだそうだ。
 企業のための「業務目標」や「達成率」のしくみは、労働者の長時間労働に拍車をかけ、ストレスにより健康を破壊し、メタボと予備軍の増加に寄与してきた。今、そのしくみを、今度は労働者の健康管理に応用しようというのだから、皮肉と言う他無い。
 しかし、いい面もある。特定保健指導を受け、毎日の運動や飲食をチェックするようになったおかげで、残業を切り上げ、早めに退勤する習慣がついてきた。なにしろ、終業時刻を過ぎると、「明るいうちにウォーキングしないと」とか「プールが開いているうちにスイミングにいかないと」という思いが、自然にわいてくる。同僚や上司が残業しているのを尻目に「お先に失礼します」と言えるようになった。
 メタボ検診と特定保健指導、どうせなら長時間労働を是正する雰囲気作りに、大いに利用しようではありませんか。(誠)案内へ戻る


色鉛筆  夜間保育園@

 私は以前から、夜働かなければならない親達にとって夜間保育園は必要だろうが、子どもたちにとって本当によいのだろうかと疑問に思っていた。ところが、最近、東京都24時間認可保育園の小冊子を読むことができた。読み出すと驚くことがたくさんあったが、「そうだよ」とうなづいて納得してしまうこともあってとても勉強になった。
 まず、夜間保育園を利用している親達の職業に驚いた。深夜までの仕事というと、水商売というイメージがあったがそうした人たちばかりではなく、公務員(厚生労働省)、会社員、医者、看護師、出版関係、芸能関係、デパート勤務、教師、自営業などの親達が利用している。1986年に男女雇用機会均等法が施行されてから、深夜働く親達が増えているという。開園時間は、基本が午前11時〜午後10時、前後6時間の延長があって、親の勤務に合わせて子どもの登降園時間が決まり、それに合わせて保育時間が決まるという。『働きながら子育てするには、いい悪いの問題ではなく、さまざまな職業に対応できる保育園が必要なんです』(小冊子より)と書かれている。
 今、私が働いている保育園(地方都市だが)の開園時間は、午前7時半〜午後6時。親達は、その時間帯に合う職業や職場を選んで働いたり、無理な場合は祖父母達に送迎、食事などを全面的に協力してもらっているのが実態だ。保育園の開園時間に合わせて職業を選ぶのではなく『職業に合わせて対応できる保育園が必要』という言葉には、納得してしまった。 そして、『夜間保育園は、子どもたちの生活の場、おうちで朝ごはんを食べて登園して、みんなで遊ぶ。お天気のいい日は、必ずお散歩に行ってお昼ごはんやおやつを食べて、夕方6時には夕ごはん。夜までの子はお風呂に入ってお泊まりの場合は、9時には就寝します』と。子どもたちの1日の生活リズムを大事にしていることに驚いた。というのも、私は夜間保育園というとベビーホテルのようなイメージでいた。狭い密室に子どもたちは預けっぱなしにされて、親の仕事に合わせて生活リズムは昼夜逆転になってしまっているのではないかと思っていた。ところが、午後6時に園にいる子はお泊まりでなくても全員夕食を食べるというのだから驚いてしまう。
 『子どもは、夕方になったらお腹がすいて機嫌が悪くなり、親が迎えにきて、大急ぎでご飯に支度にかかっても、親も子もパニックになってしまう。それよりも温かい夕食を食べたら子どもは落ち着いて親も安心してお迎えをして、家のお風呂や布団の中でゆっくりふれあう時間ができる』と、書かれていて納得してしまった。というのも、私の保育園で夕方6時過ぎに親がお迎えにくると、子どもはなかなか帰ろうとしない(お腹がすいて機嫌が悪いのだろう)親にしてみれば仕事から疲れて帰ってきて早く家に帰りたいという気持ちからイライラするので、帰ろうとしない子どもを怒って、子どもは泣いて帰るというパターンがよく見られる。6時を過ぎる子どもには夕食が必要なのかもしれないと考えさせられてしまった。
 私は、小冊子を読んで夜間保育園に対して、誤解していたことや知らなかったことが書かれていたが、そればかりではなく何より子どもたちが大事に育てられていることが伝わってきた。また、夜間保育園を拡大することで、ベビーホテルの問題や少子化問題の解決にもつながるのではないかと訴えている。表のように認可夜間保育園は年々増えているが、『4月現在で全国に77ヶ所。入所定員は2600人しかない』(08/5/9朝日新聞より)まだまだ興味深いことがあるので、また紹介します(美)


読書室  「イッツ・オンリー・ロックンロール」 東山彰良(ひがしやま あきら)著

 実はこの本の作者は、僕の友人でもある。もともと台湾生まれで、大学で経済学を学んだだけあって、その方面の話をすると実に詳しい。僕も労働経済学が好きなので、彼と経済について話すのは楽しい。
 そんな彼が、なぜか小説家としての才能に目覚め、執筆を始めた。一風変わった若者を主人公にした、ハチャメチャな冒険小説を次々と世に出している。どうも、僕の趣味には少し遠いかな、と思っていたところに、この本だけは、心底はまってしまった。
 ストーリーは、九州でフリーターをしながら、インディーズのロックバンドをやっているギタリストが、ある事件に巻き込まれ、それがきっかけで、東京の日比谷野外音楽堂でデビューすることになり、九州から東京まで、途中のいろんな街でガレージライブをしながら、旅をするというワクワク物語である。
 特に、僕のように小さなライブハウスで、無名のロックバンドの演奏を聞くのが大の楽しみ、という音楽ファンには、たまらない。この物語の良さは、読む人によって様々だろうと思う。だから、本稿は、あくまで「僕の読み方」であることを、あらかじめお断りしておきたい。
 僕は音楽が好きだ。ただ、ちょっと変わっていて、有名なミュージシャンの完成された音楽より、高校生のブラスバンドの演奏とか、音楽学校でまだ修行中の学生の演奏、街角でストリートライブをやっている無名のミュージシャンのを聞くのが、なぜか好きなのだ。
 もちろん、だれもが大きな舞台に出ることを夢見ている。クラシックならコンクールで優勝したいだろうし、ロックならインディーズから抜け出してメジャーデビューしたいだろう。みんな、そのために昼間は働いて稼ぎながら、夜は、大学の軽音の部室で、あるいは公民館で、あるいは空き倉庫で、あるいは街角で、練習に励んでいる。
 ところが、メジャーデビューした瞬間から、音楽は自分の手を離れていく。自分が表現したい本音の世界と、より多い聴衆に「売れる」音作りの矛盾に悩むようになるのが、おおかたのパターンではないだろうか。
 僕は、聴く側なので、気楽な話と言われるかもしれないが、メジャーデビューした演奏を聞いて、「インディーズの時期の方がよかったよな」、そんな悲しい思いをしたのは、一度や二度ではない、何度もある。
 この本では、メジャーデビューを目指して旅を続けるロッカーが、メジャーになるために「魂まで売り渡していいのか?」と苦悶する場面が、何度も出てくる。他の読者がどうかはわからないが、少なくとも僕は、そこのところが、実によく描けていて、一気に読んでしまった。
 忘れられないシーンがある。主人公のロッカーは、旅の末、ようやく日比谷野外音楽堂のある東京に着く。そこで、演奏にあるサプライズを仕掛ける。それは、昔の音楽仲間で、今は売れっ子のヒップホップ系のミュージシャンを登場させるというのだ。こういうやり方に、バンドの別のメンバーは「ロッカーの魂を売り渡すの気か?」と激怒した。だが主人公は「メジャーになるためだ、いつまでもインディーズのままでいいのか?」と反問する。
 いよいよ当日、主人公たちのバンド演奏が始まった。無名のバンド演奏に対して、案の定、聴衆の拍手はまばらだ。雨も降り始めた。そのとき、客席スタンドの最上段に、主人公が恋をしている女性が、ポツンと黄色い傘を差して、聴いてくれているのが目に入った。僕の好きな場面だ。雨の中、盛り上がらないライブ。でも、彼女は聴きに来てくれている。にっこり笑っている。
 そして、最後の曲になった。ここで主人公は「ゲストを迎えています」とヒップホップのアーチストを紹介する。すると、にわかに聴衆は歓声を上げ、ステージへ押し寄せる。場内は興奮のルツボと化す。ネライ通りの盛り上がりだ。
 その時・・(以下原文から引用)「また雨が降り出し、おれは黄色い傘を探した。どこにも見あたらなかった。問題でもなんでもなかった。」
 魂を売り渡した瞬間、魂を理解してくれていた彼女が、ひっそりと去っていった瞬間である。僕は、ここで泣いた。後日、そのことは、作者に電話で伝えた。
 僕は、今でも、大きなステージでの演奏があれば、好きなアーティストなら、やはり出かける。けれど、大観衆の熱狂のなかで、ふと心の中で問いかける。「メジャーになれたことは、心から祝福するよ。でも、君の本当にやりたい音楽は、本当にこれでいいの?」
 話を元に戻そう。この本は、ほかにも素晴らしいとことがいっぱいある。しかし、紙面も足りない。それより、兎に角、一度読んでみて欲しい。(松本誠也)
 (「イッツ・オンリー・ロックンロール」東山彰良 ひがしやま あきら著 2007年7月25日 初版1刷発行 光文社刊 本体1700円+税)

読者からの手紙
拝啓

 いつもワーカーズを送って下さって、感謝しています。
 9月1日号の「韓国紀行」を読み、感無量の思いで筆を取った次第です。
 吐含山、仏国寺、石窟庵は私の古郷(ママ)です。母と共に、父と一緒に、そして小学生のときに遠足で行った所です。70年もの昔の印象ですが、今でも父母の記憶と共に思い出す景色です。
 北山さんの深い考察に触れて、多くを学び、これまで以上の感慨を思います。古里(ママ)をすでに失った身ですが、古里への思いは力を与えてくれます。ありがとう。
 ※誌(ママ)の文体が、より説得力が増しているように思います。(私の思いちがい?)  金 竜沢


韓国映画ペパーミントキャンディ≠見て 08・9・15 宮森投稿

 ペパーミントキャンディ≠ノレンタルでやっと出会えて、私の寸評をします。
 記憶という列車にのり過去に通じる線路を走り、失われた時を求めていきついたのだが。というより自殺願望よりはじまりひたすらその道を這う、歯止めとも言えそうな過去でもあり未来でもある風景。ピクニックでの野菊の如き¥乱ォとの出会い、それは1日に1000個のペパーミントキャンディを包む女性労働者との、少年のような愛≠フ交換であった。
 彼は名もなき群生する雑草が咲かせる花々を撮りたい、という夢≠ナ表現するに至る。安易に容易に環境に同化できない不器用で、泣くことによってしか抗い得ない泣き虫・弱虫の彼は、記憶をまさぐって展開される風景の中で、いつも宙ぶらりん、ただ泣くだけ。軍隊に入り、その生活の中でも、野菊の如き∴齒乱ォ労働者からもらったペパーミントキャンディの記憶をしっかり抱いて、ペパーミントキャンディを軍隊生活の中に持ち込んでいた彼。
 のちに警察に入って、ひどい拷問を受けても転向しない組合員をかき抱き、お願いだ、ヒミツを吐いてくれ≠ニ泣く彼。軍隊生活の中で夜襲をかけたか、かけられたかわからないが、早く帰らなければお母さんに叱られる≠ニ懇願する女子高校生を見逃してやりながら、彼女は撃たれ、そのなきがらを抱いて泣きじゃくる彼。
 そうした風景がいくつも回想され(表現方法は回想でない生々しい現実として立ち現われるが)宙ぶらりんの彼はただ泣くだけ。時おり凶暴な支配者に変身するが、突然ピクニックの風景、それは過去にも現在にも存在しない、こうであったらなあ・・という願いの世界のような、未来のピクニックの風景。これを描きたいために、さまざまの風景があった。
 現実の世界に同化しえぬ彼のいま、ありえぬ≠こがれ、願いの世界が死≠ノ向かう彼の心象を生≠ヨと転換させうる風景が広がる。そのための現実(過去からくりひろげられた風景のかずかず)描写であったろう。少々大げさだが、勝ち組になったらしい彼の凶暴な振る舞いから、ついには縄に石けんぬって自殺した悪霊≠フスタブローギンへ、バク進する彼の行く手の歯止めとなったのは・・・。
 この世には存在しえないほどの清潔さをもつ野菊≠フような、ペパーミントキャンディを包む一女性労働者との交わりであった。虐げられた人々≠ノもこのような女性が登場する。彼にとってはペパーミント・キャンディは、未来の世界へのかけ橋であった。そうであればええが。  08.8.27 あさ  宮森常子案内へ戻る


編集あれこれ
 前号の発行後すぐ、福田総理が辞任を発表しました。無責任に総理の座を放り出したのですが、福田内閣は後期高齢者医療制度を始め様々な悪政を働いたのですから、辞めることに異論はありません。
 さて前号1面は、自公政権の問題点と、それとの闘いの必要性を訴えています。
 2面は、国際連帯集会の報告がされています。広島、長崎、神奈川、それぞれ重要な集会だし、まさに国際連帯の必要性を再確認しました。
 7面の長年の介護の末86歳の母をなくされた記事があります。6年の介護は本当に大変だったと思います。私自身も妻とともに、一昨年末から昨年にかけてのわずか何ヶ月でしたが病気の母の介護をしました。そのときは、本当に仕事以外何もできませんでしたし、何も考える余裕もありませんでした。幸い母の病気は良くなって、現在は普通に暮らしていますが、本当に日本の医療や介護の貧弱さを感じました。
 まもなくあるであろう解散総選挙では、自公連立政権を敗北に追い込みましょう。
(河野)