ワーカーズ390 2009/4/1
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北朝鮮・テロリスト・殺人犯、そしてソマリア沖海賊 荒廃進む、敵をつくり続ける社会!
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)による「人工衛星打ち上げ」に対して、これをミサイルだとして迎撃するという。それがテポドンの延長だったとしても無視すれば済むものを、あたりもしない迎撃で大騒ぎする意図は何か。まるで宣戦布告≠ナはないか。仮にH2ロケットをミサイル迎撃しようという国が現れたら、麻生はどうするつもりなのか。
2月のヒラリー・クリントン米国務長官来日に際して、マスコミは拉致問題¢ホ処の言質を取ることが最大の課題であるかに報じていたが、クリントンの課題は「在沖縄米軍移転協定」への署名、日本から米海兵隊のグアム移転費として5400億円の負担を確認することであった。マスコミの扇情的な報道によって、北朝鮮敵視ここに極まれりだが、これが誰の利益に帰したかは明らかである。
そうしたなかで3月14日、前日の浜田靖一防衛相が発令した海上警備行動によって、海上自衛隊の護衛艦「さざなみ」「さみだれ」2隻が広島・呉基地を出港した。地理的に1万キロ(到着まで2週間もかかる)も離れたアフリカ・ソマリア沖への海自派兵はもちろん違憲であるが、自衛隊法にすら違反するものである。
ソマリア沖に到着するまでに「海賊対処法」が成立すれば問題ないということのようだが、これまでの自衛隊派兵より一段と武器使用の可能性は高まらざるを得ないだろう。麻生政権の狙いはそこにあり、改憲までの繋ぎである派兵恒久法も目前である。そうなれば、これまで憲法9条に守られていた自衛隊員に戦死≠烽りとなるのだ。「自衛官のおいが、ソマリアへ行く」が無事任務終えるように≠ニの新聞投書があった。気分はすでに出征兵士と銃後の祈り≠ナある。
テロ対策が管理・監視社会化をもたらしたように、敵をつくりだし、これに備えよという国家とマスコミによる大合唱は、今や殺人者はすべて肉体的に抹殺せよという荒廃した社会意識の醸成にまで行き着いた。3月18日の「闇サイト殺人事件」判決での1人無期懲役に対して、3人とも死刑という声が聞こえてきそうだ。
テロも海賊も犯罪であり、その背景をみることなく社会の敵として排除するだけでは、犯罪をなくすことは出来ない。その解決を国家暴力≠ノ委ねることは、社会の無力を意味するものである。この社会から国家による殺人、死刑と戦争を追放しよう。 (折口晴夫)
オルタナティブ社会を恐れる体制派――いまどき格差肯定の時代錯誤――
100年に一度といわれる大不況の中、格差社会をもたらしただけでなく、派遣切りなど人を人とも見ない市場原理主義に対して厳しい批判が向けられている。
市場の失敗に対するそうした批判が拡がるのに合わせて、それが資本主義体制そのものに及ぶことを恐れる論調も多くみられるようになった。そうした体制批判に予防線を張るかのような議論は以下のような論調にも読み取れる。
■いまどき“機会の平等”?
格差社会への批判が高まる中、危機感を持った体制擁護論者は、それが資本主義体制そのものに向かうことを恐れるかのように“平等社会”批判をぶっている。いわく、“平等社会”はソ連のようになる、そのソ連は“無気力社会”であり“停滞社会”だった、と。
そうした理解が全くの誤解であることは後で触れる。しかし体制擁護論者にとっては最近の格差社会、市場の失敗への批判が当然のごとく資本主義体制そのものへ向けられるし、向かわざるを得ないことを感じ取っているわけだ。いわばオルタナティブへの恐怖である。
以下の小論は朝日新聞のコラム『経済気象台』に登場した匿名氏の小論だ。この『経済気象台』というコラムは、朝日新聞内外の学者や識者による匿名のコラムである。玉石混淆だが時に鋭い視点を提示することもあり、私としてもまず目を通しているコラムだ。とはいっても、株価状況などと同一紙面の片隅に掲載されるコラムで、たいがいの人は見過ごしているのではないかと思う。
そのコラムに掲載された下記の小論は、体制派としての特徴がよく出ているので、短い記事なので全文を採録してみる。
(以下、転載)
〈格差と活力〉
水が高い所から落下することによってエネルギーを生むように、宇宙のすべてのエネルギーは、その始まりにおいて生じたビッグバンによる格差を平準化するプロセスから生じる。
その結果として、すべての格差が無くなった時、この宇宙には永遠の死と静寂が訪れることになる。人間の社会も同じことである。格差の存在が人々に活力をもたらし、格差を求める本能が進化のもとを作る。
かつて全盛時代のソビエト連邦を訪れて、人々の無気力に驚いたことがある。それはそうであろう。平等をその社会の中心にすえた時、努力しようがしまいが、得られる結果は平等である。
ということになれば、人々がやすきにつくことは当然で、出来るだけ働かないで楽をしようとする。労働意欲のわきようがないのである。結果として作られた商品は陳腐極まりないもので、激烈な国際競争の中では落ちこぼれた。最近、格差社会を否定する声が強いが、活力ある社会を作るためには格差は必要なのだ。
しかし絶対に許されてはならない格差もある。それは「生存の権利」に関する格差だ。
人は生まれた時、その環境において格差がある。貧富によって、その能力を発揮する可能性が阻害されることがあってはならず、生まれた子は、その才能の発揮される可能性において平等でなければならない。
国や社会が最も力を入れるべきは実に、この点につきる。人々がその個々の才能をフルに動かして格差を追究しうる社会。そのような社会こそ、人々を幸福にする活力ある社会である。
最近の格差論がいささか感傷論的に見えるので、あえて一文を奏した。(可軒)
(転載、終わり)
みてのとおり、短いコラムだということもあって主張は単純だ。要は、格差は活力のために必要であり、その格差は行き過ぎを規制すれば社会の活力に欠かせない、というものだ。例によって平等は“機会の平等”であるべきで、“結果の平等”は社会から活力を奪う、というものである。小泉構造改革の中で何回聞かされてきた言葉だろう。すでに“結果の平等”がなければ“機会の平等”もないことは実証されているのに、だ。
しかも、最近の格差社会の進行や、あるいは市場原理で突っ走ってきた結果として招来することになった世界的な大不況をみてみれば、かつて言われた市場原理主義とセットになった“機会の平等”もまた大きな失敗だったことは明らかだろう。このコラムはこうしたことについて反省する視点はどこにもみられない。
こうしたたぐいの競争賛美者はいくらでもいる。が、このコラムで特徴的なのは、その格差社会に対する平等社会を、かつて社会主義国だと言われたソ連に当てはめたことだ。いわく、ソ連は平等原理を社会の中心に添えた、だからソ連は結果平等の社会である、そのソ連では格差がなくなって人々は無気力になり、国際競争でも負けた、というものである。市場の失敗で行き詰まっている資本主義に変わって、社会主義になればもっと悪くなる、と言いたいのだろう。言葉の裏側には資本主義に取って代わるオルタナティブを、あらかじめ選択肢から排除しておきたいという願望が透けて見える。
■“平等=無気力”論のすり替え
失敗した“機会の平等”論を繰り返すだけの論旨は無視してもいい。が、平等社会が無気力社会をもたらす、という論旨にはひとこと反論が必要だろう。すでに触れたような短絡的な「ソ連=平等社会=無気力社会」だとしている点だ。
こうした論旨は、単純な誤解に起因している面と、意図的な議論だという面の両面がある。
誤解だというのは、社会主義=平等社会で、社会主義を標榜していたソ連は平等社会だった、というのは単なる誤解に過ぎないからだ。
意図的なものだというのは、ソ連が平等社会だったことはないという事実は承知の上で、あえて平等社会を否定するためにソ連社会の無気力ぶりをそれにリンクさせたことである。
この小論の論旨からだけではそれはわからないが、たぶん両者がごちゃ混ぜになっているのだろう。いずれにしてもまったく的はずれな論旨であることには変わりはない。
■統制社会=無気力社会
ソ連が無気力社会だったのは事実だといえる。が、それは平等社会だったからではない。むしろソ連が上意下達の中央集権国家であり、党と国家官僚が支配する厳然とした階級社会だったからだ。
ソ連社会が平等社会でも何でもなかったのは、“赤い特権階級”を意味するノーメン・クラツーラという呼称さえあったことに端的に表れている。実際ソ連社会の格差は、資本主義国の日本以上だった。
ソ連における格差社会は、実は革命直後から生じている。それは主に内戦や干渉戦争に対する軍事専門家の登用や、経済再建における旧経営者などの経営専門家の登用に始まっている。革命当初は接収工場などでは労働者によって選挙で選ばれた工場委員会や事務職員代表による経営管理が行われることも多かった。が、内戦と干渉戦争の拡大などもあって旧体制の専門家を多く登用し、ソヴェト経済のための働かせるケースがしだいに拡がってきた。その場合の報酬もふつうの労働者よりの格段に高いのがふつうだった。そうして生じた格差は、後の経済建設の過程やスターリン体制の確立以後の特権階級の形成でいっそう明確になり、固定化していく。
ソ連社会が活力がなかったのは、ソ連が平等社会であったからではない。そうではなくて、ソ連社会が上意下達の統制社会だったからに他ならない。確かに崩壊する以前のソ連は、教育も医療も国家が面倒を見る“福祉国家”の一面もあった。しかしそれは同時に人々に対する国家による支配と裏腹のことであり、人々の当事者主権はないも同然だった。そうした統制社会では活力など生まれるはずもない。
そうした事実は、市場の失敗という資本主義の限界に対し、ソ連型社会がオルタナティブにはならないことを教えてはいる。だが、それは当事者主権原理に立つ社会を否定するものではもちろんない。需要を超えてどこまでも拡大しようとする利潤万能原理の故に、定期的に恐慌を呼び起こさずにはいないという本質的な欠陥を抱えている資本主義こそ否定されるべきだろう。資本主義に代わりうるオルタナティブ社会の可能性は十分あるのだ。(廣)
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色鉛筆 保育園に入れない!!
保育園に児童を預けたくても定員からあふれている待機児童の数が年々増えている。『厚生労働省の調べでは、昨年10月現在で認可保育園に入れない待機児童は全国で4万184人と前年同期に比べ9%増。景気が悪化し、働きに出る親が増えたことが背景にあると見られる』(09/3/13朝日新聞)
そして、今、世界的不況のあおりを受けて、父親の収入が減らされたり仕事が無くなったりして生活ができなくなっている為に、母親も働かなければならない。ならば子どもを預けようと保育園に申し込んでも「審査の結果、あなたは保育園に入れません」という通知を市町村から受け取る家族が都市部で続出しているという。認可保育園に入園できなかった場合には、無認可保育園に預けざるを得ないが、なんとその無認可保育園も満杯のところが少なくないという。新聞の投書欄に認可外保育園長が『今年度は、私の園でも定員の3倍60人の申し込みがありました、異常事態です』と書かれていた(09/3/10朝日新聞)申し込みの多さに驚く。それだけ深刻な実態が浮き彫りにされている。保育園に入れない子ども達はどうなるのだろうか。母親が働かなくては生活できないのではないだろうか。都会に住む息子夫婦と孫は大丈夫だろうかと心配になる。
また、この認可保育園長は『このままでは少子化は止まりません。子どもへの予算を増やすようみんなで声を上げようではありませんか』と訴えている。全くその通りだ。政府は少子化対策のひとつとして「新待機児童ゼロ作戦」を掲げて保育園の企業参入の解禁、公立保育園の民営化、認定こども園の導入などを進めてきたが、待機児童は年々増え、何の効果もない。待機児童解消が進まないのは国の財政保障の不十分さにあるのだが、政府は待機児童を逆手にとって、現在の公的保育制度を改革すれば待機児童を解消できるかのように言っている。私達はだまされてはいけない。このことについてはまた報告します。(美)
追記
政府がいかにいい加減であることがわかる小さな記事を見つけた。『有識者会合で、少子化対策に関連して麻生首相らの認識不足があらわになる場面があった。複数の有識者が、保育所などの受け入れ児童数を現在の約200万人から100万人増やす必要があるとの推計に触れ、保育所の早急な整備を訴えた。これに対し与謝野財務相は「100万人とはびっくりした」と発言。麻生首相も「急に増えたよね。この数字は」と続けた。だがこの推計は福田内閣時に厚生労働省が示したもの。福田内閣は「新待機児童ゼロ作戦」を策定、10年間で受け入れ児童数を100万人増やすと目標を掲げた。麻生内閣も08年度第2次補正予算にゼロ作戦のための基金創設を盛り込んでいる』(09/3/22朝日新聞)何も分かっていない総理大臣。これでは、少子化は止まらない。
〈寄稿〉「世界大恐慌と歴史の転換点」のその後 北山峻
(1)140年で五回目の世界大恐慌
1868年の明治維新によって日本が資本主義社会に進んでから140年の歴史のなかで、世界は今まで4回の大規模な恐慌(大不況)を経験してきています。
第1次はアメリカの鉄道建設バブルが崩壊し30年に及ぶ大不況期に突入した1873年恐慌、第2次は英独の激突と第1次世界大戦への突入をもたらした1907年の金融恐慌、第3次はブロック経済から第2次世界大戦へと進んだ1929年の大恐慌、第4次はドルショック・オイルショックの結果ブレトンウッズ体制の崩壊が起こった1973年大不況(恐慌)ですが、アメリカの金融恐慌に端を発して世界的規模に拡大した今回第5次の世界恐慌は、過去の4回の大規模な恐慌と比べてみても、その規模と深さからみて事実上1929年の大恐慌に匹敵する世界大恐慌というべきものでしょう。
この恐慌によって明らかになった最大のことは、戦後世界の中で米ソ冷戦構造の時代として世界で覇権をふるったアメリカが、ソ連の破産に遅れること17年にしてついに高転びに転んで破産したということ、その結果世界ははっきりと米ソの二極世界から(擬似的にアメリカの一極世界を経て)、アメリカ・EU(フランス・ドイツ・イタリアなど)・中国・日本・イギリス・インド・ロシア・ブラジルなどの国や地域が連合しながら競合し対立する多極世界に入ったということでしょう。
基軸通貨ドルの発行券を握って膨大な紙切れ(ドル紙幣)を世界中に氾濫させ、「金融立国」と称してサブプライムローなどの不良債権を巨大な規模にまで膨らまして世界中に売りさばき、巨額の経常赤字とそれを補填する外国からの資本流入(つまり借金)によって、アメリカだけが一人タラフク飲み食いする虚栄に満ちた花見酒経済(日経新聞)は完全に崩壊したのです。
(2)日本独占資本の対応
当初は「対岸の火事」と見て、逆にこれを経済拡大の絶好の機会ととらえていた日本や欧州の独占資本家階級も、不良債権化したサブプライムローンに対する投資によって少なくとも250兆円を超える打撃を受けたのみならず、急速なアメリカ経済の収縮とこれに伴う世界市場の収縮・狭隘化によって、輸出産業を中心とした製造業やその関連産業が次々に打撃を受け、さらに60兆ドル(およそ5400兆円)に上った世界の株式総額のうちその50%に当たる30兆ドル(2700兆円)が瞬く間に消失した世界的な株価の大暴落によって、保有する株の資産価値が半減し、信用は収縮し消費も収縮するという恐慌状態に直面し顔面蒼白の状況に陥っています。
例えば昨年末までの有価証券の評価損が、新日鉄が579億円、電通が101億円、グリコが43億円、ダスキン41億円、日清食品40億円など新年明けから続々と公表されており、トヨタを先頭に日本の多くの企業が今年度は赤字に転落するようです。(1月8日付日経)
アメリカ労働省が1月9日に発表したところによると、昨年のアメリカの雇用者数は一年間で258万9000人も減少し、第2次世界大戦が終わった1945年の275万人減に次ぐ戦後最悪の情勢になったようです。(10日付日経)
昨年11月末のOECD(経済開発強力機構)の予測では、この2年間に米日欧の先進国だけで800万人の失業者の増加を見込んでいましたが、しかし、まだまだ恐慌の底が見えない昨秋の段階での予測ですから、それは今から見れば希望的観測の域を出ないもので、その後のアメリカや日本の落ち込みから考えると実際にはその数倍の失業者が出るのではないかと思われます。
日本の独占資本家階級は、この間ブッシュの「ポチ」と揶揄された小泉=竹中の「新自由主義的規制改革」によって導入した「労働者派遣法」によって04年からわずか3年の間に正社員の半分とも言われる「劣悪な労働条件」の133万人もの派遣労働者を作り出してきました。そして今回のアメリカ発の恐慌の波が日本に到来すると見るや、この労働者派遣法のもう一つの狙いである「首切りの容易さ」を利用してこの3月までで8万5千人、今後2年間にさらに100万人を超える大量の労働者を、一方的に解雇して路頭に放り出そうとしています。もちろん同時に正社員に対しても残業の削減や労働強化によって貧困化を進めており、年収200万円以下の貧困労働者層が総労働人口の三分の一、2000万人にもなろうとしています。これに対し、年俸が100億円を超えるアメリカの経営者ほどではありませんが、トヨタやソニーなど日本の大企業の取締役以上の役員は年俸が1億円以上であるのは常識となっていますから、日本社会の貧富の格差は更に拡大しつつあります。
しかしこの首切りに対する反対が激しいと見るや、経団連会長の御手洗などは「ワークシェアは選択肢のひとつだ」などといって、この首切りを労働者階級全体の賃下げに転嫁しようと画策しています。(1月6日)これに対し日本独占資本の「第二労務部」である連合会長の高木も7日の賀詞交換会で「ワークシェアは難しい話だが、経営側と公平に議論がしたい」と応じて、15日に両者が「雇用対策」の会合を開くと8日付の日経新聞は一面で伝えています。
さらに日本独占資本は、もう一方でその軸足をアメリカからアジアや新興国へと完全に移して生き延びる道へと踏み出しています。
1月7日付の日経新聞のコラム「大機小機」は、「米英流の『金融立国』の幻想を追い求めるのではなく、金融を実体経済の僕(しもべ)に位置付け、社会や企業の発展に貢献する、独自の長期投資の環境整備が急がれる。高度成長以来の対米従属国家(アメリッポン)からの脱却がこれに加わる。共に主権国家の政治課題であり、08年は日本のパラダイム転換の起点の年でもある。(混沌)」と書いていますが、これに見られるように日本独占資本は、@製造業などの実体経済を基軸にして金融を従属的な位置におく(つまりイギリスやアメリカのような寄生的な金利生活者国家にはならない)と共に、Aアメリカとの関係を完全に見直し、対米従属国家(アメリッポン)からの脱却と自立の意志を繰り返し表明し始めています。
この点で日本は、仏独軍事同盟を基礎にEUによって対米自立を成し遂げ、頑固に工業や農業などの自国の実体経済を擁護しながら「クリーンエネルギーへの転換」を主導するドイツやフランスを中心としたEUの道へとはっきり踏み出そうとしていると見ていいでしょう。
今後日本独占資本は、一方では海外派兵を合法化する憲法改正(解釈改憲)の策動や原発の輸出やロケット・兵器産業の自立・核開発への準備などを国を挙げて急ぐと共に、他方では農業(特に稲作)の「保護」と自給率の向上、電気自動車や水素電気自動車、太陽光発電自動車などの開発、万能細胞(IPS細胞)やヒトゲノム解析を利用しての再生医療や創薬、バイオや宇宙、さらに様々な環境対策などの先端技術を総動員して21世紀型産業構造への転換を推し進め、さらに巨大な利益を得る道を突っ走るでしょう。
(3)BRICsを中心とした新興国の台頭と「元経済圏」
BRICsと称されるブラジル・ロシア・インド・中国の4カ国に、南アフリカ共和国・イラン・インドネシア・さらにアセアン諸国・中東諸国などの新興諸国は、昨年11月のG20(グループ20)による金融サミットに見られるように、今回の世界恐慌の中で一層その力を増大させて世界の中心的な勢力として台頭してきています。
特に中国は、昨年の一幕の壮大な劇場と化した北京オリンピックに続いて、来年には上海万博を開催しようとしています。かつてヒトラーが1936年のベルリンオリンピックの開催をドイツの国威発揚の舞台にし、かつてイギリス(1851年ロンドン)やフランス(パリ)、アメリカ(シカゴ)、日本(大阪)などの万博が先進的な科学技術の展覧会として、その国を国際的な先進国に押し上げたように、北京オリンピックと上海万博は、中国を世界の大国として登場させる舞台となりつつあります。この後中国は、ほとんどアメリカやEUや日本に取って代わる世界最大の大国として登場してくるのは間違いなく、その結果アメリカから中国への覇権国家の交代は、かつてアメリカに対しイギリスが激しく抵抗したように世界的に激しい摩擦を引き起こすに違いありません。
1月9日付の日経新聞は、一面トップで中国政府がアセアン諸国などとの間で、「人民元による決済を解禁する」との報道をしていますが、これは事実上、今回の金融恐慌でその脆弱性が暴露されたドルやユーロに対抗しての人民元の国際化、つまり人民元の「国際通貨デビュー」ですから、中国は、購買力平価で換算すれば日本の2・5倍にもなる巨大な経済力と巨大な軍事力・国家的威信を背景に、事実上「元経済圏」の形成に動き始めたと見るべきでしょう。
(4)ロシアのガス供給停止の意味
最近、ウクライナや中・東欧諸国へのロシアによる天然ガスの供給停止が連日報道されています。
ソ連崩壊後、EUは着実に東方へ進出し、かつてのポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ユーゴスラビア、アルバニア、ルーマニア、ブルガリアなどの中・東欧圏ばかりでなく、かつてのソ連の一部であったバルト3国やモルドバ、グルジア、アルメニア、アゼルバイジャン、更にウクライナまでをもその中に取り込もうとしています。
もしそうなるならば、かつての超大国ロシアにとって残るはわずかにロシアとベラルーシだけとなって、ロシアの勢力圏は300年前のピョートル大帝の時代よりも小さいものに封じ込められることになります。しかしそれにも増してロシアにとってどうしても譲れないのは、何よりもウクライナの首都であるキエフはロシア帝国の前身である9世紀のキエフ公国の発祥地であったわけですから、ここが切り離されるということは日本に置き換えてみればいわば奈良や京都が自己の勢力圏から切り離されるのと同じで、ロシア帝国としてはどうしても譲れないものなのでしょう。
かつてロシア革命のときにも、ツアーと地主の支配に反対して蜂起したマフノを中心としたウクライナ独自の農民軍がウクライナ南部にマフノヴィスト解放区を作ったのに対して、これを背後から銃撃する形で掃討してウクライナへの支配を確立したり、最近ではスターリン批判を行ったキエフ出身のフルシチョフをクーデターのようにして追放したりと、歴史的にもあらゆる策略を駆使してウクライナを自己の従属下においてきたロシアにとっては、ガスの供給停止によって中・東欧やウクライナが冷凍庫になろうがそんな事はまったく小さなことなのです。
ロシアは、「さあ、出来るのものならEUやアメリカが救出しなさい」といっているわけです。
この数年、中国とロシアは上海機構を形成してアメリカやEUに対抗し、これにインドやイランを引き込むと共に更にインドやブラジルをも含めて外相会議を開催するなど国際舞台での発言権を強めており、これが世界恐慌後の新しい世界では、一層その存在感を増してくるに違いありません。
その意味では、今回の天然ガスの供給停止は昨年のグルジア戦争に続く米欧と上海機構との対立の最前線なわけです。
(5)イスラエルの「ガザ」侵攻・民衆虐殺の意味
最近イスラエルによるガザへの一方的な爆撃による民衆の大虐殺が行われ、国際的な非難を呼び起こしています。
この野蛮な虐殺に対して、アメリカはイスラエルを非難するのではなく逆にハマスを非難していますが、ここで注目すべきはアメリカの次期大統領としてまもなく登場するオバマが、このイスラエルの蛮行に対して一言の非難もしていないことです。
選挙戦の最中にイラクやイスラエルを訪問した際も、オバマは一貫してイスラエルを支持する発言を繰り返していましたが、これからも分かる通りオバマも本質的にはブッシュと同様アメリカ帝国主義の代理人であることに変わりはないのです。
また何故今イスラエルがこのような野蛮な国家的テロを行っているのかといえば、これは中東におけるアメリカの戦争政策が完全に破綻したことの証明であると共に、急速に追い詰められつつあるイスラエルとアメリカの焦りの現れでしょう。
イラクに対する侵略戦争を始めたアメリカの狙いは、@イラクを支配することによって中東の石油、ひいては世界の石油への支配を強化し、Aフランスとの間でユーロによる決済を決めていたイラクのフセイン政権を打倒して基軸通貨ドルを防衛し、同時にイラクの石油に対するフランスやロシアの権益を一掃しB更にイラクを基地としてイスラエルを強化すると共に1979年のホメイニ革命によって親米のパーレビ王朝を打倒されて以来積年の課題となっているイランの反米イスラム政権を打倒することでした。
しかし、03年3月から5年半以上にもわたり、アメリカだけで常時13万〜15万人、イギリスなどの「有志連合」をあわせれば20万人もの軍隊を投入し、年間20〜30兆円もの軍事費をつぎ込み、アメリカ兵だけで4000人以上、イギリスなどを加えれば6000人もの死者を出しつつ10万人を越えるイラクの民衆を殺害し、大量の空爆によってイラク全土を破壊しつくすほどの戦争を行いながら、ついにアメリカは「イラク・アルカイーダ」(2006年3月;アンバール県などのスンニー派地域を中心にイラク西半分を占める「イラク・イスラム国」の樹立を宣言、07年4月;新国家は組閣を発表、アブーハムザ・ムハジールが戦争相に就任)や民衆の反米闘争に勝利することが出来ず、ブッシュが記者会見で靴まで投げつけられながら間もなくイラクから撤退(=事実上の敗退)せざるを得なくなっているわけです。
アメリカがイラクから撤退すると、中東におけるアメリカやイギリスの影響力は更に段階を画して減退するだけでなく、イラクはすぐさま同じシーア派政権であるイランと協力して国内の復興に乗り出し、反米のシリアなどとも国交を回復して強力な反イスラエル勢力になることは決定的と見られているのです。そうなれば広大な中東アラブ諸国の中で、わずかにイスラエルと「友好的」と見られる大国はエジプトだけで、イスラエルは北からはシリアやイランの支援を受けているといわれる強力なレバノンのシーア派組織ヒズボラ(神の党)、南からはガザ地区でこのヒズボラと連帯し住民多数の支持を受けているハマス(イスラム抵抗運動の略語)、西からはイラクや最も強硬な反米・反イスラエル国であるイランに囲まれることになるわけです。
イランはロシアと提携して原子力発電所の建設を進め、イギリス国際戦略研究所が発行した「ミリタリーバランス2007年版」によると、2010年までに核兵器を製造するのに必要な濃縮ウラン25kgを生産すると言われているばかりか、核弾頭を搭載することが出来る射程2000〜3000kmの独自の中距離弾道ミサイル(IRBM)も開発しており、近い将来イスラエルやアメリカの核兵器も威嚇の意味を成さない事態になることが予想されています。
1月3日ヒズボラの最高指導者ナスララ師は演説して、「ハマスにイスラエル打倒を呼びかけた」(1月5日付日経)と報道されていますが、イランもヒズボラもハマスも、イスラエルをアメリカ・イギリスによって育成された侵略者でありこれは当然にも解体され排除されるべきであり、その土地はこの間イスラエルによって追い出された445万人(国連パレスチナ難民救済事業機関登録難民数)のパレスチナ難民に返還されるべきであると主張していますからそこには少しの妥協の余地はないのです。
かつてイギリスやフランスなどの資本主義的帝国主義が、中世的絶対主義的帝国主義であったオスマントルコ帝国を解体し、その支配地であったアラブ地域をいくつもの地域に恣意的に分割し支配していたものを、第2次世界大戦後、アメリカとイギリスはそのままに存続させたばかりか更にしっかりと中東地域を支配するため、2800年以上も前にここにユダヤ人の国があった(ユダ王国;BC828〜586,イスラエル王国;BC828〜722)と主張して、パレスチナ地域を侵略し住民を虐殺・追放して1948年5月、強引にイスラエルを建国したのです。
その後アメリカはイスラエルに対しては湯水のように経済的支援を行ったばかりか、最新鋭の軍事兵器をふんだんに供給し、今ではイスラエルはアメリカの軍事兵器の展示場となっているばかりか原爆まで所有していることは公然の秘密とさえなっています。
その意味では、かつて東西冷戦時代に、西ベルリンがアメリカのショーウインドウと呼ばれたと同様、イスラエルは完全に中東におけるアメリカの最新兵器のショーウインドウであり、その「牙」となっており、だからこそオサマ・ビンラーディンなどのアラブの「テロリスト」(アラブ民族解放の革命家)達は、イスラエルと共にアメリカを最大の敵としているのです。
このイラクやパレスチナなどの中東における一連の戦争と民衆の虐殺は、主としてアメリカ・イギリス帝国主義の指導の下でその手先であるイスラエルによって引き起こされてきたものですから、今回のアメリカ経済の崩壊とその力の衰退の中で、今後世界的規模でイスラエルとアメリカの孤立は一段と進み、状況はイラクやパレスチナの民衆の側に有利に展開していくでしょう。
そしてここにもアメリカ・イギリスを中心とした旧帝国主義大国(日本もこの中に加わっていた)とイランを含む新勢力である上海機構との対立が、はっきりと見え隠れしています。
悲しいことに、この資本主義という吸血鬼が支配する現代世界においては、世界の力関係はこのような野蛮な流血の事態を通じて、多くの民衆の犠牲を通じて次第に変化していく以外にないのでしょう。そして血の債務は血で購われなければならないのですから、いつの日か収奪者が徹底的に収奪される日が訪れるに違いありません。ヒトラーやチェウシェスクの運命のように。
(6)政界再編はどうなるか
麻生内閣の支持率は、内閣が成立してからわずか3ヶ月にしてどの新聞社の世論調査でも20%台前半に急落しています。金融恐慌以降の経済的社会的混乱に対してもなんら有効な施策を示せないばかりか、見え見えの選挙対策のばらまきである定額給付金についても、当初は高所得者が受け取るのは「さもしい」と発言していた麻生があっという間に高額所得者ももらうべきと豹変したり、閣内でも甘利など数人の大臣が受け取らないと閣内不一致があらわになったり、更に国民の激しい批判にさらされてきた高級官僚の「わたり」を政令で容認したりという体たらくで、今ではどの新聞社の観測でも総選挙による「自民党の敗北は決定的」と観測されるに至っています。
こうした中で、自民党の中では麻生とは距離を置く政策研究会が次々に旗揚げして独自の政策を掲げて総選挙を戦い、単独では過半数には届かないと思われる民主党内部の前原らの「同志」と語らってその後政界再編に持ち込もうとしていますが、前官房長官の町村や小泉政権の幹事長であった武部なども落選するのではと観測されている現状では、それも旨くいくかどうかはまったく予断を許さないというところでしょう。
しかし民主党が政権を獲得しても、世界恐慌後の日本の進路をめぐる争いの中では、再度の大きな政界再編が起こるのは必至で、その時、失業・税金・年金・医療・福祉・少子化・教育などの人民生活の問題と共に、日米安保体制の改革や集団的自衛権(憲法9条)の問題、第2次大戦での損害補償の問題、中国やアセアンとの通貨同盟や経済協力やアジア経済共同体の問題などが争点となるでしょう。
このとき民衆を代表する政治勢力をどのように形成していくかは、最も差し迫った問題となるでしょう。
(7)労働運動・人民運動の再編
今後労働運動・人民運動の再編も必至でしょう。
天下の悪法として指弾され、社民党・共産党のみならず民主党の中からさえも廃止すべきという声が上がっている「労働者派遣法」に対し、あろう事か電気労連の中から「廃止すべきでない」という意見が出されているそうですが、これは全体として財界の第二労務部となっている「連合」などの現今の日本の労働団体の性格をストレートに表現しているのでしょう。
今後1~2年の間に100万人を超える労働者が首を切られる中で、これらの労働者の生活をどう確保するのかをめぐって、労働組合全体が深刻な審判を受けるでしょう。
これを資本による労働者階級全体に対する攻撃と受け止めて、労働者階級の一員としてこれと真正面から闘っていくのか、それとも他人の不幸には目をつむり、小さな組織内部の様々な条件闘争のみをシコシコと続けていくのか?
「会社がつぶれたら元も子もない」といういつもの攻撃に屈服して闘争の矛を収めるのか、それとも「目的は会社を潰すことではなく、政権を変え社会を変えることだ」として労働者階級としての団結を強化し、全国的な運動の発展によって政権の交代を勝ち取っていくのか。
このためには、どうしてもこの間資本の攻撃によって企業内に押し込められてきた組合活動の枠を超えて、産業別・地域別更には全国的な労働運動としての共闘を勝ち取っていく必要があります。
今企業組合の枠を超えて、個人加盟の産業別・地域別の労働組合である「ユニオン」が全国で結成されていますが、これは闘う労働組合として、労働組合の本来の姿を復活させる一つの動きでしょう。この数年のうちにこの下からの新しい労働運動の流れは、既成の労働運動に改革を迫るものとなるに違いありません。更にその先には、1047名の国鉄労働者の首切りに反対する共闘組織に見られるような、地域ごとや課題ごとでの各種の共闘組織が必要とされるでしょう。
かつて1950年代から60年代にかけて、地区労などを中心に各地で活発な運動を展開した地域の共闘組織も復活させる必要があるでしょう。
これらの各種の共闘組織こそが、新しいコミューンの原基細胞となっていくのでしょう。
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コラムの窓 ストレスが抜けて行った瞬間
不思議な体験をした。
奈良の「山の辺の道」を歩いていたら、ある瞬間、それまで身体に溜まっていたストレスが、スーッと抜けて行くのを感じた。それも頭のテッペンから、空へ向かって、ウズを巻きながら、ヒュルヒュルヒュルと、飛んで行ったような感覚である。
実に気持ちが良かった。旅から帰って、仕事について数日経つが、その時の心地良さは、今も尾を引いている。いつもの休日明けの、あのドヨーンとした「マンデーブルー」も、今回はやって来なかった。いったい何が起きたのだろう。
事の経過はこうだ。ここ二ヶ月程、仕事上のわずらわしい事が、いろいろ重なって、ストレスが溜まりに溜まっていた。そして先週、ついにガマンできなくなり、何故か「山の辺の道を歩きたい」という衝動が込み上げてきたのだ。そこで、まさに衝動的に列車の切符を買い、宿も、最悪の場合カプセルホテルでも、インターネット喫茶でもいいと思って当たったら、運良く格安のビジネスホテルを予約できた。
当日は朝から快晴。天理から桜井まで、三輪山の麓を、延々15キロほど、ひたすら歩いた。鴬の声が聞こえ、山桜などが咲いている中、古墳を見たりしながら。途中、道々に農家の「無人販売所」があって、蜜柑や梅干し、吊るし柿、かき餅、切り干し大根などが、無造作に置いてある。百円玉を箱に投げ込み、蜜柑や柿を頬張りながら歩くと、さりげなく地元の人から歓待されているような気持ちになり、なんとも癒される思いだった。それが効いたのかもしれない。
小さな古墳に立ち寄ると、そこは市民の憩いの場で、なんと古墳の上まで小道が続いて展望台になっている。隣の資料館の前は、小公園になっていて、地元の子供達が滑り台やブランコで遊んでいて、親達も笑顔で見守っている。僕は、ベンチで、弁当代わりに買った「みたらし団子」を食べた。これがまた実に美味い。
これだけ「癒し」の要素がそろうと、さすがに僕の身体に巣食っていたストレスも、退散せざるをえなかったのだろう。まるで、何か魔物が逃げて行くように、頭のテッペンから抜けていったというわけだ。
ストレスとは何か?一応は次のように説明されている。ストレスを起こす「ストレッサー」には、騒音などの物理的ストレス、人間関係や経済危機などの社会的ストレス、不安や緊張などの心理的ストレス、疲労や不眠などの生理的ストレスがある。
これらのストレスが加わると、人間の体は、「自律神経系」「内分泌系」「免疫系」という三つの防御機構が働き、ストレスに抵抗しようとする。ところが、それが長期にわかると、その抵抗力が疲弊してしまい、心身に不調をきたすようになる。
疲れやだるさなどの全身症状、肩こりや偏頭痛などの筋肉系症状、目眩などの感覚器症状、睡眠障害、動悸や息切れなどの循環器系症状、食欲不振や胃の不快などの消化器系症状。これが「ストレスが溜まってしまった」状態である。さらに悪化すると、うつ病などの精神疾患や、ストレス性糖尿病やストレス性胃潰瘍などの慢性疾患に発展する場合もある。
ここまでは、だいたいわかっている。問題はその解消法である。心療内科や精神神経科にいくと、たいていは薬物療法である。身体症状に応じて、胃腸薬や鎮静剤などが施され、重い場合は入院し、睡眠薬を服用して、ひたすら睡眠を取ることで、蓄積した疲労を取り除く。しかし、これらは対症療法の域を出ていない。
本当のところは、まだまだ暗中模索なのではないだろうか?先に述べた、ストレスがスーッと抜けて行った「不思議な感覚」も、自律神経や内分泌系や免疫系のどこかで、何かが起きたのだろうが、そのメカニズムはわからない。
ただ、素人考えかもしれないが、「当ても無く歩く」ということや「偶然の触れ合い」には、人類が本能的に持っている、自己回復機能のカギがあるような気がする。人類は、アフリカを出てから数十万年、生きるために、ひたすら歩き続け、ユーラシア大陸の西に東に広がって、やがて氷河をつたってアメリカ大陸まで渡った。グレートジャーニーである。旅の途中で、出会う自然に対して全感覚を研ぎ澄まし観察し、生きるための方法を探し求めた。
こうした積み重ねで獲得した、ある種の性質、それを追体験することで、心身のバランスを回復することができるのではないだろうか?などと、突拍子もない「仮設」を立てて、今はなんとか自分を納得させているのだが?(誠)
映画『善き人のためのソナタ』(ドイツ 2006年度作品)
07年度アカデミー外国語映画賞ドイツ代表ローラ賞を受賞したこの作品は、東西ドイツが壁に隔てられていた時代、東ドイツが舞台。
1984年、国家保安省(シュタージ)局員のヴィースラーが、劇作家の家を盗聴してゆく中で、大きく変わってゆく姿が描かれる。冒頭では、「共産主義体制」をおびやかすあらゆる人物に対して冷酷で非情なヴィースラーが、盗聴器をとうして聴こえてくる、自由な思想や恋人との愛、そして美しいピアノ曲などによって、体制に忠実であったはずの心が根底から揺さぶられ覆されてゆく。やがて国家の厳しい追及から、劇作家を捨て身で庇うようになる。冷酷そのものだったヴィースラーの眼が、次第に軟らかい人間性を帯びてくるのに驚かされる。
パンフレットによれば、ヴィースラーを演じた俳優自身が東ドイツ出身で、監視された過去を持つという。国家による冷酷な支配体制が、いかに人間性を破壊するか、しかしその絶望の中からまた小さな希望の光をも見い出したことを映画は教えてくれている。監督は33才で、これが初めての作品。4年の間、歴史学者や目撃者への取材や、記録文書を読みあさり準備をしたという。この冷戦の時代を映画化することは長いことタブーとされていたが、壁崩壊から17年を経て、やっと当時の状況を描く映画が出来上がった。若い人だからこそ撮れた映画だろうと思う。すばらしい作品だ。
今年は、『おくりびと』がアカデミー賞を受賞した。良い映画だと思う。でもおくりびとの手によって、ていねいにおくられる死がある一方、貧しくて身寄りもなく違法な老人施設で焼死、あるいは路上生活の末の死もある。世界に目を向ければ、戦争や紛争などによる数えきれないほどたくさんの理不尽な死がある。平和な世界が早くおとずれますように。(澄)
クッサン劇場の初日
3月初旬に境港のゲゲゲの鬼太郎≠フ街へ行って撮った写真を、DVDに移してもらい、TVで見てもらう会を3月21日の午後に開いた。お客様定員2名、木戸銭0円。お客は近所のばあさま2人。口上を言うのにずい分、水木しげるのことや妖怪についての勉強もしたが、結局水木氏の観客へのメッセージを述べることに力点をおいた。
TVに映した水木ロードの写真は約80体のブロンズ像で30分。個々の主なブロンズについて説明しながら。古代人の見た世界、人間の幼児期の、大人には失なわれた詩の世界、そこからの生き様が現代の人間に生きる力を持たせるかも知れない、という欲張ったねらいがあったのだが。
終わると、来てくれた労をねぎらう意味でもらってもらった飲み物やオヤツが喜ばれたようで、簡単な感想もなかった。拍子抜けした感じだったけれど、変わったおつきあいができたということで満足した。
その夜、TVで見た黒部の太陽≠フ中で、土方の棟梁が幹部の人々の日本の国が求めている電力を作るために命を賭ける≠トな、情緒的な恰好よい言葉に猛烈に抗議、怒りをぶちまけた。お国のためだと? とんでもない。現場での命を的に働いているのはオレたちだ。オレたちは山を掘るという仕事だからやるだけだ≠ニいうクダリを見た。
私は今日の映画会について、私の思い入れなど、観てくれたおばあたちには関係のないもの、関心のあるのは今晩のゴハンを作ることであった、黒部の事業の幹部と現場の工夫との隔たりと同じような、すきまを感じざるを得なかった。
世の中には、いわゆるえらいさん≠ヘ実情をよく知らず、規則など作られていく事例が多いのではなかろうか。そして、そのことを取り上げてモンクを言えない重さがかぶさって、あるのではなかろうか。対話や議論以前に、それに至らぬ状況が横たわっているように思われた。鉛のような沈黙。それが問題だ。
クッサン(私の通称)劇場のこけら落としは、こんなふうだった。09・3・23 宮森常子
(付記)
同じフィルムを見てもらう会合の時には(若い世代との)、少しは知的遊びも、学術的見地から見方も加えた、まあサロン的ともいえる会になろうか、と思う。今年末には、もう一度、沖縄を訪れ、さばにクラブ≠フ写真を山ほど撮りたいもの。私に好きなことをやらせてくれる、我が家に関わる人々にお礼を言いたい。
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編集あれこれ
前号1面は、小沢民主党代表の秘書逮捕について触れています。私自身、小沢氏についていろいろ問題があると思いますが、今回の西松建設問題での秘書逮捕については国策捜査だと思っています。今の自公政権は、政権維持のためなら何でもやるということでしょう。いずれにしろ、次期総選挙では、自公政権を終わらせなければなりません。そのことを頭に入れての投票になります。
2・3面は、市場経済から協議型経済への記事がありました。今の困難な経済状態からの脱却について、協議型経済を目指すということです。
4・5面の京浜ホテル自主営業3ケ月の闘いについての記事については、会社が倒産しても労働者で自主経営できるということを示しました。
8面の海自護衛艦ソマリア沖派遣についてですが、「海賊対処法案」を成立させる前に海上自衛隊をソマリア沖へ派遣させてしまったという問題があります。そして何よりも、今回の海自派遣が憲法9条に明確に違反することは明らかですし、集団的自衛権の行使に当たるものです。こうした行動を阻止できるような反戦の闘いが必要です。
読者の皆さんからの投稿もよろしくお願いします。 (河野)