ワーカーズ405号  2009/11/15         案内へ戻る
「辺野古」撤回、県内移設に断固反対!      県民大会に2万1000人!

 8日(日)午後2時より、「辺野古への新基地建設と県内移設に反対する県民大会」が宜野湾海浜公園屋外劇場で開かれた。
 会場となった屋外劇場は立ち見席も含めて参加者でびっしり埋まり、劇場外の広場は入場できない参加者であふれた。
 過去の県民大会に比べて確かに結集した人数は少なかった。しかし、結集した沖縄県民の『沖縄にもうこれ以上米軍基地を押しつけるな』との思いと『民主党の公約違反は絶対許さないぞ』との決意は今まで以上の熱気を感じた。
 充実した内容のある挨拶が多い中、私が強く印象に残った二人の挨拶を取り上げたい。
 「私は保守系の政治家です」と共同代表の一人である翁長雄志那覇市長は語り始めた。日米合意を推進する自民党にかつて籍を有した翁長氏は「県民は基地を挟んで右と左に分かれ、長い間、経済だ平和だと白黒戦争を続けてきた。これ以上沖縄の人々を対立させないでほしい。私も保革の枠を超え一歩を踏み出した。今、県民は心を一つにまとめることが大切だ」と、従来の保革の壁を乗り越える運動の必要性を訴えた。
 もう一人は、名護市瀬嵩から参加した渡具知家族5人の登壇。お父さんの挨拶の後、マイクを握った長男の武龍君(12歳)は普天間の名護辺野古沖への移設反対の意思を示した市民投票が実施された1997年に生まれ、あれから12年が過ぎ小学6年生になった。「基地を造らないと決めたのに、なぜ今も造ることになっているのですか」と疑問を述べ、「初めは両親がどうして反対運動に一生懸命なのか分からなかったが、次第に私たち兄弟や子どもたちの将来のために頑張っていることを感じるようになった。鳩山総理『基地を造らない』はとても大切な約束です。約束を必ず守ってください」と、自分の思いをしっかり述べた。
 「大会決議」で確認された4つの大会スローガンを紹介する。
 @日米両政府も認めた「世界で最も危険な普天間基地」の即時閉鎖・返還を求める。
 A返還後の跡地利用を推進するため、国の責任で環境浄化、経済対策などを求める。
 B返還に伴う地権者補償、基地従業員の雇用確保を国の責任で行うように求める。
 C日米地位協定の改定を求める。
 このように、長年在日米軍基地の75%を押しつけられ被害が多発している沖縄県民の我慢は限界に来ている。今こそ、基地問題解決の好機である。米軍基地の縮小・撤去をめざし、沖縄と連帯して闘おう!(富田 英司)


やっぱり無かった“決意と戦略”――沖縄の声を本土にも拡げよう!――

 『ワーカーズ』本号が出る頃には、訪日したオバマ大統領はすでにAPECに向けて離日していることになる。結局、鳩山内閣は沖縄普天間基地返還をめぐる交渉で、米国と日本(沖縄)の世論に挟まれて問題の先送りしかできなかった。
 “沖縄の心を何よりも大事にする”という鳩山政権。その沖縄では、マニフェストで「米軍再編・在日米軍の見直し」を掲げた民主党をはじめとした現与党が全選挙区で勝ち上がった。沖縄県民の期待が込められた選挙結果だった。
 しかし政権発足後の鳩山内閣の“迷走”を見れば、普天間返還を実現する肝心の決意と戦略、その後の対米関係の見直しを視野に入れた戦略構想はどこにもなかったことが露わになった。総花的なマニフェストは、ただ掲げただけでは役に立たないことが実証されてしまった形だ。
 普天間基地の返還を実現するためにも、いま沖縄で盛り上がっている国外・県外移転の声を、本土の私たちの声として大きく拡大することが緊急の課題になっている。(11月11日)

  ■迷走■

 鳩山民主党政権は発足直後から、密約調査、核の先制不使用、普天間移設問題、地位協定の改定、思いやり予算の削減など、自民党政権では浮上していなかった難題をつぎつぎと持ち出した。これに危機感と不信感を抱いた米国は、あらゆるチャンネルを使って様々な牽制シグナルを送ってきた。なかでもオバマ大統領訪日で焦点に浮上したのが、普天間基地の辺野古への移設問題だった。その米国は、オバマ来日をにらんで普天間基地問題で迷走する鳩山内閣につぎつぎと圧力をかけてきた。
 米国がオバマ訪日までの解決を急ぐのは訳けがある。いま米国議会では米軍再編がらみの10会計年度予算が審議されている。仮に普天間移設計画が白紙に戻ると、米議会で米軍再編関連の予算が通らなくなる可能性があるからだ。そこで10月20日にはゲイツ国防長官が来日し、辺野古への移設を「唯一実現可能な案だ」と米国の姿勢を強くアピールした。10月28日にはライス在日米軍司令官も嘉手納統合案は「運用要求基準を満たさない」と発言し、これまた圧力をかけた。
 一方の日本の状況はといえば、ますます混迷を深めるばかりだ。
 沖縄では辺野古への移設反対の声は日増しに膨れていった。普天間基地の国外・県外移設を掲げた民主党政権の誕生で、それが現実味を帯びてきたからだった。これまで仲井間沖縄知事や島袋吉和名護市長が条件付きで辺野古沖への移設を受け入れていたように、一時は国外・県外移設は困難だと見られていた。が、民主党のマニフェストや鳩山首相の「沖縄の心を大事にする」「米国にも言いたいことは堂々と主張する」という言葉が再び沖縄の心を呼び覚ましたわけだ。
 ところが肝心のその鳩山内閣の姿勢が全く定まらない。関係閣僚から出てくる発言は場当たり的でバラバラだ。政権発足直後、北沢防衛相は早くも9月17日の記者会見で、「県外あるいは国外(移設)という選択肢はなかなか厳しい」と述べ、辺野古への移転容認を示唆する発言をしている。岡田外相も国外・県外移転はあきらめた上での嘉手納統合案をあちこちで口走っている。
 肝心の鳩山首相の姿勢も定まらない。11月7日には、在日米軍再編を見直すとするマニフェストについて「時間というファクターによって変化する可能性を私は否定はしない」と辺野古への移設容認とも受け取れるような発言までしている。結局問題の先送りで、「年内」とか「1月の名護市長選挙後」へと先送りをする姿勢に終始している。
 オバマ大統領訪日前までの状況は、鳩山内閣の右往左往ぶりが浮き彫りになり、鳩山首相としても米国と沖縄世論の板挟みになって、結論を出すに出せない状況が続いている。結局は鳩山首相が言ってきたように、年明け以降、あるいは1月に予定されている名護市長選挙以降への先送りになる公算が大きい。結局は、努力したがだめだった、となる公算は大きい。(米国としても、先送りはやむを得ない、ということでオバマ訪日を取り繕うようだ)

  ■決意と戦略■

 なぜ鳩山内閣はこの問題で追いつめられてしまったのだろうか。
 結論から言えば、米軍再編・在日米軍の見直しというマニフェストに掲げた有権者との“契約”の柱を実現するための“決意と体制”のなさの故だろう。要は民主党には戦略的構想と展望がないのだ。
 「マニフェスト2009」は総選挙前わずか1ヶ月前の7月27日付で出された。このことで、8月までは自民党政権だったから、現行計画の辺野古への移設は自公政権の責任であり、数ヶ月では変えられなかった、と後で弁解するかもしれない。しかし民主党は2004年のマニフェストでも「在沖海兵隊基地の国外への移転を目指します。普天間基地の返還については、代替施設なき返還をアメリカに求めます。」と明記し、また2005年のマニフェストでも「県外への機能分散を模索」、「戦略環境の変化をふまえつつ、国外への移転をめざします。」と掲げていたはずだ。だからその時点以降、普天間基地の返還に向けた決意や体制づくりなどの戦略的な方策を詳細に検討し、準備する時間は十分あったはずだ。
 ところが政権発足からの推移を見ると、そうした検討・準備の形跡は全く見えてこない。この紙面でも政権発足直後に「野党として対等な日米関係をめざすと主張するのは簡単だ。が、これまでの政官財学を貫く日米関係の歴史や力関係をふまえた上で、なおかつその転換を米国に受け入れさせるのは生やさしいものではない。それらを押しのけて米国からの自立を進めるには、大きな苦難と軋轢に耐えうるような決意と体制が不可欠だ。」と指摘してきたが、残念ながらその“決意と体制”が全くなかったことが浮き彫りになってしまった。
 民主党には米国からの自立、その意味内容、そしてそれに変わりうる対外戦略などを真剣に検討し、また準備してきた形跡はない。政権発足後も、国外・県外移設のための具体策の模索やその実現に向けた工作を推し進めた形跡も、まったく見えない。自民党議員による室蘭(鳩山主張の選挙区)か、それとも四日市(岡田外相の選挙区)を追求したのか、という質問にも、何も答えられない。
 もとより、鳩山政権の場当たり的な態度を攻める議論の多くが、対米追従を続けてきた自民党や米国追従は派に多く見られる議論ではある。彼らの結論は当初計画通りの辺野古への移設であり、それ以外は不可能だ、と言う議論であり、沖縄県民の総意に背くものでしかない。

  ■“脱米入亜”■

 しかし、普天間の海外移設は可能なのであり、それが政権交代が持つ本来の意味合いでもあるのだ。
 相手にとって不都合なことでも、受け入れさせることができる。民意によって新しく生まれた政権だからこそそれが可能なのだ。一端“継続”を選択すれば、その後の同一政権が米国に見直しを受け入れさせるのは至難の業になる。
 たとえ国家間の合意であっても、それを変更できないことはない。実際、これまでも多くの事例がある。たとえばクラーク空軍基地やスービック海軍基地を撤去したフィリピンの経験などだ。火山の噴火など、それらとは同一視できない面もあるが、国家間の合意や契約であっても一切変更できないことはあり得ない。在韓米軍の縮小を進める韓国の例もある。
 勿論それに伴うリスクやペナルティーはあり得る。しかしかつて“代替基地なき国外移設”を掲げた民主党だ。それを現実のものとする方策も当然考えてあると受け止めるのが普通だろう。
 ところがこの迷走だ。当然考えておかなくてはならなかったことが、実際にはなかったことになる。決意がなかったというか、甘いとしかいいようがない。というより、民主党マニフェストの軽さ加減が暴露されたということだろう。
 すでに触れたように、民主党のマニフェストは、その実現の場面で遭遇する困難や不の連鎖をどれだけ真剣に考えたか疑問を抱かせるものが数多くある。単に羅列的に書かれているマニフェストや政策集の性格がそのまま出てしまったかのようだ。
 変更が可能だというのは、相手国の米国の事情からもいえる。
 米国がもし合意を盾にごり押ししたり、あるいは合意の撤回に対する単純反応で日本を切り捨てるとか遠ざけるとすれば、それは米国にとっても取り返しができない損失であり失態となる。仮に日米同盟の見直しやその破棄ともなれば、米国のアジア戦略ばかりか、国際政治、世界戦略での計り知れない損失となるだろう。対中関係を考えただけでも現時点での日米同盟は不可欠だ。米国としても、日本との同盟関係は死活問題なのだ。結局は米国も日本を切り捨てられない。
 米国の事情に期待するばかりでもいられない。鳩山政権が“脱米入亜”を掲げる以上、米国との歴史的な関係を見直す覚悟が必要だ。それには多方面でのリスクや損失も覚悟しないわけにはいかない。原子力政策やドル安政策など他国を巻き込んだしっぺ返しも覚悟しておかなくてはならない。それらに耐える覚悟と備えがあって初めて対米関係の見直しも可能になる。
 それに米国の後ろ盾を失うことに伴う自主防衛の強化などに傾斜する国内の勢力もある。軍事的な安全保障にとらわれない、独自の平和外交の構築なども不可欠だろう。それらの裏付けがあって初めて“脱米入亜”に舵を切ることが可能になる。
 事態がそういう方向に進むのを恐れて、米国も収拾策に腐心している。ゲイツ国防長官の訪日などで圧力を加えたばかりだが、反面ではオバマ訪日を控えて、米軍再編などの検証をするとの鳩山政権の行為は当然だという姿勢も示している。追い込みすぎて、鳩山政権の米国離れをこれ以上進めるのを危惧している証左だろう。

  ■沖縄の声を本土に拡げよう!■

 政権交代の意味を行動で示しているのが沖縄県民の闘いだ。総選挙で普天間基地の国外・県外移設を掲げた民主党などを勝たせ、いまその鳩山政権が迷走を繰り返すなかでそれを許さない行動に立ち上がっている。米国の圧力に揺れる鳩山政権の背中を押しているのは、まちがいなく沖縄県民の国外・県外移設の声だ。
 その沖縄ではこの7日に嘉手納基地への統合に反対する町民大会が、また8日に県外移設を求める県民大会が相次いで開かれた。これまで辺野古への移設を押しとどめてきたのは、結局、海上阻止行動など沖縄県民の体を張った闘いだった。仮に鳩山政権が辺野古への移設を容認したとしても、沖縄県民の闘いが拡がる限り、辺野古に新しい恒久的な基地は創れない。
 沖縄での県民大会では、鳩山政権への糾弾ではなく、あくまで鳩山内閣の激励とすべきだと発言した国民新党の下地幹郎政調会長に対し、大きなヤジが飛ばされた。もはや激励で事態が好転することが難しくなっていることを沖縄県民は感じ取っているからだ。
 沖縄の声を本土でも拡げ、鳩山内閣の約束違反、裏切りを許さない闘いを拡げていく以外にない。(廣)

民主党マニフェストの記述

○マニフェスト2009
  日米地位協定の改訂を提起し、米軍再編や在日米軍基地のあり方等についても引き続き見直しを進めます。
○マニフェスト2005
  米軍の変革・再編の機会をとらえ、在沖縄海兵隊基地の県外への機能分散をまず模索し、戦略環境の変化をふまえつつ、国外への移転をめざします。
○マニフェスト2004
  米軍の在外基地の再編の機会にあわせ、在沖縄海兵隊基地の国外への移転を目指します。普天間基地の返還については代替施設なき返還をアメリカに求めます。案内へ戻る


コラムの窓 「第九」の不思議

 最近、ベートーベンの「第九」を歌う市民合唱団に入っているという、七十歳代の知人から、コンサートのお誘いがあり、始めて音楽ホールで「第九」を聞いた。
 「第九」と言えば、日本では年末恒例の行事のようで、子供の頃から、年の瀬になると、家の大掃除をしながら、テレビをつけっぱなし、NHK交響楽団の第九を「ながら聞き」していたので、正直のところ、「第九なんて珍しくない」とたかをくくっていた。
 しかし、大掃除をしながらテレビでながら聞きする第九と、コンサートホールで第1楽章から第4楽章まで、集中して聞く第九とでは、そのインパクトは月とスッポンであった。この「第九」という曲は、聞けば聞くほど、不思議な曲である。
 まず、その曲の構成がふつうではない。第1楽章から第3楽章までは、一応、クラシック音楽らしい「耳触りの良い(?)」メロディーが続く。問題は第4楽章である。冒頭から、まず第1楽章で聞いたメロディーのさわりの部分が奏でられたと思いきや、急に太い粗野な旋律にかき消されてしまう。次に第2楽章のメロディーが表れるが、それもまた太い旋律で否定される。第3楽章のメロディーについても同様に否定される。次の瞬間、バリトンの独唱で、つい今しがた3つの楽章を否定した「太い旋律」にのせ、「おお、私たちが聞きたいのは、こんな曲ではない」と叫び始め、そこから有名なシラーの詩につながっていく。やがて、通称「喜びの歌」と呼ばれる、あの大合唱がはじまり、クライマックスを迎える、というのだ。
 実際、これが初演された1830年代、第九には賛否両論の反響があったそうだ。多くの聴衆が、大合唱のクライマックスに心酔し賛美の拍手を送る反面、伝統的な古典音楽ファンからは、「楽曲の組み立てが支離滅裂だ」とか「合唱のメロディーが低俗すぎる」という反発の声が上がったという。
 果して曲の組み立ては「支離滅裂」だったのか?この評価は、実は第九という曲を「純粋に音楽的に」受け止めるのか、それとも当時の時代状況における「メッセージ音楽」として受け止めるのかによって、異なるのではないだろうか?太い旋律で「否定」した第1楽章から第3楽章までの「耳触りの良い」メロディーは、当時のヨーロッパ社会の何らかの「現状」、それも「変革されるべき」何らかの社会状況を風刺していたのではないか?だから、伝統的古典音楽ファンの不快感の表明は、実はベートーベンにとっては「想定の範囲内」だったのではないだろうか?
 次に「合唱のメロディー」は「低俗」だったのか?現代のベートーベン・ファンの多くは、そう受け取る人は殆どいないのではないか?ところが、当時の古典音楽ファンには「低俗」に聞こえたのはなぜか?これは本当に不思議なことだが、それを考えていて、「あっ」と思い出したことがある。
 最近、アジア映画のイベントで、アフガニスタンの映画が上映されたのが、その中で、戦火の中、子供達が元気にサッカーをしている場面で、何故か第九の「喜びの歌」がバックに流れた。上映後、監督を交えた質疑の中で、司会者が「なぜ第九なのか?」尋ねたところ、その監督は「あの喜びの歌のメロディーは、もともと私たち中近東の音楽のものなんです」と答えた。その時は、「へー、そうなの?」とふに落ちないままだった。
 ところか、しばらくして、以前エジプトに旅行した時のことを思い出した。ナイル川をクルージングする観光船のレストランで、ウェイターがバースデイケーキを持って、「誕生日の人はいませんか?」と歌いながら、客席を練り歩くのだが、その時のメロディーが、今思えば、あの「喜びの歌」と共通するフレーズを含んでいたではないか!
 もしかしたら、僕の勝手な勘違いかもしれないが、憶測を恐れずに言うなら。ベートーベンは、当時、民間音楽の中で、よく使われていたフレーズを、思い切って取り上げ、それをモチーフにして、クラシック風に編曲したのではないか?そのことにより、これからはもう貴族の世の中ではない、市民(庶民)が主役の世の中が来るのだ。というメッセージを、「言葉」ではなく、「メロディー」を操ることで、託したのではないか?だから、ある種の人々からは「低俗」に聞こえたとしても、ベートーベンとしては「それで結構」だったのではないだろうか?
 ところで、今回とは別に、やはり市民交響楽団で管楽器を演奏している知人からも、第九に誘われたことがある。その時はあいにく行けなかったのだが。演奏後の打ち上げで、居酒屋に来た時に、彼と話した。彼は、熱く語った。「演奏してみて、はじめて第九のすごさがわかった。」「ヨーロッパの人々にとって、第九が演奏される時というのは、特別の時なんです。」つまり、日本のように「年の変わり目」などではなく、もっと大きな「時代の変わり目」、例えばベルリンの壁が崩壊した時とか、ナチスが降伏し第二次世界大戦が終結しパリが解放された時とか、それくらいの大変革の時に、人々は「今こそ第九の演奏会を開くべき」と思うのだそうだ。
 「第九」の不思議さについては、まだまだ語りた足りないことが他にもあるのだが、それは「またのお楽しみ」にしておこう。皆さんも、機会があったら、お近くの町の「第九を歌う夕べ」に足を運ばれてはいかがですか?(誠)


2009.11.15.読者からの手紙
仙谷行政刷新担当大臣と行政刷新会議は何をしようとしているのか

 民主党は、従来は財務省主導の密室で行われていた予算編成作業を、行政刷新会議の事業仕分け作業を実施する事で削減する方針を打ち出しました。
 この作業によって各府省が提出した来年度予算の概算要求の中に、不要不急の事業がないかのチェックを行い、民主党議員と民間の有識者が連携して各府省の予算要求に切り込み、担当者と丁々発止のやり取りを繰り広げる姿をマスコミに全面公開するのです。その意味で新たな「劇場政治」が始まります。
 その先頭に立つのは民主党の論客を自他共に認める仙谷行政刷新担当大臣と冷や飯を食わされている議員メンバー統括役の枝野元民主党政調会長のいわずと知れた反小沢の2人です。
 しかしこれに対する小沢のシフトは徹底していたのです。まず行政刷新会議の人選やり直しがあります。
 鳴り物入りで始められた行政刷新会議は、10月22日、鳩山総理から直接「必殺仕分け人となって頑張っていただきたい」と激励されて意気揚々と枝野氏以下32人の議員メンバーが準備作業に入った途端、小沢側近の山岡国対委員長からクレームがつき、「党の了解を得ていないものは認められない」との
事になり、結果的にメンバーは7人に減らされたのです。
 続いて仙谷氏が後見人で前原国交大臣と枝野氏がリーダーを務める「凌雲会」の昼食時勉強会への横やりがあります。
 10月29日昼に参院議員会館で勉強会を開くという案内状が凌雲会とつながりのある新人議員約40人に送られたが、出席者は2人でした。山岡氏をはじめ小沢氏側近で固めた国対幹部から「新人は他に勉強することが山ほどあるだろう」とくぎをさされた為との事です。
 その後の11月11日、亀井金融・郵政改革担当大臣は、平野房長官に小泉・竹中構造改革推進派と言われる学者や外国人が起用されているという理由で行政刷新会議の「事業仕分け人」の「差し替え」を要請しました。
 「差し替え」を求められたのは、小泉政権で金融庁顧問を努めた川本早大院教授とモルガン・スタンレー証券経済調査部長のロバート・フェルドマン氏です。この2名が何を象徴しているか、いまさら説明の必要はないが、彼らは悪名高い小泉・竹中構造改革推進論者でした。
 これを受けて11月12日、国民新党の自見幹事長は、「仕分け人」に外国人が加わっている事について、仙谷行政刷新担当大臣に差し替えの要請を行ったが、仙谷大臣は「仕事ぶりを見てほしい」とこれを拒んだのです。
 今回の衆議院選挙で成立した民主党を柱とする3党連立政権の至上命題は、労働者等の生活をここまで疲弊させた小泉・竹中棄民路線を否定する事です。
そして「国民生活が第一」として子供手当に代表されている直接的給付を実施し、「内需拡大」を追求する事で、日本を希望のある社会に転換する事にあります。その意味では、今回行政刷新会議が行う事業仕分けは、そのための不要不急等、いわゆる無駄の削減でなければなりません。
 だからここに米系外資のフェルドマン氏やかっての構造改革を推進した人々を入れるのは、小泉・竹中の構造改革路線へ後戻りする徴候であるともいえ、とても正気の沙汰ではありません。まさに事業仕分けとは「劇場」政治です。
 私にいわせていただけば、小泉政権の時には構造改革と郵政民営化に反対する議員者が抵抗勢力として排除されましたが、今回は全く逆転して、鳩山政権の下で郵政民営化見直しに反対する議員と小泉構造改革路線に引戻そうとする議員が新しい抵抗勢力です。
 その意味において凌雲会の動きは、「みんなの党」とともに厳重に監視する必要があります。彼らの動きは、来年の参議院選以降活発化する偽装チェンジ勢力の初動を意味するのではないかと危惧するものです。
 案の定、「国民生活が第一」の看板が揺らぐ予算編成が進行しています。
 「しんぶん赤旗」は、鳩山政権の下での初の予算編成が本格化について、第一に「税金の使い方の優先順位」、第二に政策公約の財源を「庶民増税に求める」、第三に「軍事費と大企業・大資産家優遇という『二つの聖域』にメスを入れるという姿勢」がない の3つの問題点を示して批判しています。
 これらの批判はいつもながらの批判ですが、事実これらの事で、「国民生活」関連予算の削減や子供手当支給のための財源を庶民増税に求める原因になっているのです。鳩山政権の支持率が下がるのは当然なのです。
 今のところ小沢の事業仕分けについての発言は、私には聞こえていないのですが、この人選についての小沢の真意は未だに不明です。他方で民主党は勝ちすぎたと小沢は考えていると伝えられているので、二大政党制の根を根本から絶とうとは考えていないのかも知れません。「みんなの党」から持ちかけた連立話が小沢に拒否されたとの渡辺議員の発言はたいへん重いのです。
 今後とも民主党の「米軍基地」に対する対応等、問題意識を持って監視は続行していかなければと意を強くしています。   (笹倉)案内へ戻る


 ヒロシマを訪れて

 7月22日、ヒロシマの平和公園をたずね、帰り際にドームの前あたりで、17歳の時被爆されたおじいさん、語りべ≠フ役を買って出て核廃絶をめざして語り続けるという80歳を超えたご老人に出会った。いろいろ聞かせてもらい、観光客さながらカメラをぶらさげ、あちこち撮ってまわる、これでいいのか、という問いに襲われたものであった。
 じいさまは、被爆者で生き残った人々が、あの戦火の中で親しい人々を救えなかったと自らを責める人々も多かろうが、自分は核の恐ろしさを語り、核廃絶に賭ける、といわれた。詩人の峠三吉氏が人間の肉体とともに、魂をコナゴナに打ち砕いたピカについて人間を返せ≠ニ叫び、作家の原民喜はそれに耐え切れず自ら命を絶った。
 ピカを投下したアメリカのエノラ・ゲイ氏は、放射線の脅威を認めながらも、ピカは戦争を終わらせるのに有効な手段であったという。恐ろしいことに、また悲しいことに、ゲイ氏の言を認めざるを得ないとしても、私は問いたい。戦争を終わらせるためとして、またぞろピカ(ピカに類するもの)を人々の頭上に落とすのか、と。語りべのじいさまが涙を流すのを拒否し、核廃絶に賭けると言い切った意味も理解できた。
 同時に、8月2日の日本経済新聞社会人≠フ欄で、長崎大「原爆後障害医療研究施設」教授であった関根一郎が、2つの被爆体外被曝≠ニ未だ明らかにされていない内部被曝=i死の灰を吸引したことによって放射線物質が人体に取り込まれ、体の内部から放射線を浴びる)の研究をつづけられた。大切なことは、氏は「内部被曝」も原爆症と認められ、政治決着が図られることによって事終れりとするのではないとし、こう語っている。「核兵器の使用は長崎が最後であってほしい。人類が二度と手にすることがないであろう。(被曝死者の)組織標本を持つ大学として放射線障害の実相に迫りたい」
 先のじいさまも教授と同じ結論に達していたと思う。米大統領オバマ氏が原爆投下の道義的責任を口にした、軍縮の方向を明言した。彼の指し示した方向は、困難で長い道のりであろうと思うが、ささやかながら老いの力であろうと応援したいと、思う。どのようにして? ピカという重大な事柄を風化というコトバで目をつむってしまわないように。どのように表現するかに、私はこだわりたい。
 「核と共に50年」を読んで≠ニ題した野上耀三氏の一文の中に人は思想を共有することはできるが、感覚を共有することはできない。−そうだろうか?−それが戦争体験を次の世代に伝えることの難しさである≠ニいう一節がある。私はこの難所を踏破したいと思う。苦しみを共にすること、楽しみを共にすること、は可能であろうか。こんなことから始めねばなるまい。09・8・3よる 宮森常子


色鉛筆ー「いきいきフェスタ」でリフレッシュ

 西宮市では、毎年10月に公民館では文化祭が開かれ、「男女共同参画センター」ウエーブでは「いきいきフェスタ」が催されます。実行委員会形式で行なわれる「いきいきフェスタ」では、議論を積み重ね委員会が決定権を持ち運営されます。今年は12講座と体験コーナー4ヵ所が設けられ、前年比で参加者も約100人増加し(延べ参加者数)活気あるものとなりました。
 私たちは「反原発」の映画上映を行い、他にも4講座に参加しましたが、どのテーマも社会の底辺を映し出す興味深いものでした。「女性の貧困」では、派遣労働の劣悪な労働実態や、専業主婦の家事労働の無償化や役割分担が女性の地位を抑えていることを指摘されました。主婦が求職中であっても夫の扶養家族として位置づけられ、フリーターとして勘定されない事実も。専業主婦もパート労働者も含め女性が1人前として認められる社会の実現に向け、「男女共同参画」センターの位置づけを再度、確認する必要があると思います。 今回のフェスタで最も印象に残ったのはビデオ&トーク≠ナ、「ブレッド&ローズ」という外国人労働者を追った作品でした。2000年製作の映画で、メキシコからアメリカに出稼ぎにきたマヤという女性が、奮闘し成長していく痛快なストーリーで話は展開します。しかし、その裏には異国の地で家族を養う(夫が病気がちなため)ために、売春を余儀なくされたマヤの姉の存在があったのです。清掃会社での労賃のピンハネが分かり、組合を作るマヤたちに次々と襲いかかる攻撃。結末は組合の勝利なのですが、同時にマヤが強制送還となるシーンなのでその後が気にかかります。
 ところで、トーク≠ヘ兵庫県神戸市在住の自らが外国人労働者として、日本に渡ってきた経験のあるオオシロ・ロザーナさんでした。ロザーナさんは18年前、日本の政策的な受け入れでブローカーによる集団就職を斡旋されました。ペルーを出て着いたのが東北地方の田舎のホテル。住み込みで働かされていた時の話では、ビザは取り上げられ渡航費の支払いがあるので6ヵ月は職を変えられないという条件でした。日本語が話せないことは大きな支障となり、何をするにも通訳が必要なので行動範囲が限定され、その上だまされたり利用されたりで苦労が絶えない日々が続いたそうです。
 そんなロザーナさんが今の仕事に就いたのは、夫の勤め先の韓国人経営者との出会いがあったからだそうです。悪質なブローカーからの仲介を糾弾し、直接雇用で全額給料はロザーナさんの夫に渡されるようになり、しかも社会保険にも加入できるようになったのです。ロザーナさんは今、ひょうご「ラテンコミニュテイ代表」、「スペイン語情報誌編集長」を任され、同じ境遇で言葉に困っている仲間の支援にも活躍されています。
 来年は、10周年で記念講演を大ホールで予定しているとか。今のところ、50・60代の女性が中心ですが、もっと若い世代を巻き込むため色んな工夫が課題となっています。近く「打ち上げ会」が予定されています。きっと、来年は・・・という話になることでしょう。(恵)案内へ戻る


編集あれこれ

 鳩山政権が誕生して、政治の何が変わるのか、変わらないのか、本紙の紙面もそういう内容が中心になっています。こうした劇的変化≠ヘ、政権交代ということの意味を肌で感じることができる、という意味で重要だと思います。その一方で、表面の変化に眼を奪われることなく、この国のあり方を根本的に変革するための「地道な闘いを拡げていきたい」(1面)との思いも展開されています。
 この間、私が大きな関心を持って追っているのが、国策は止まるのかということです。まず八ツ場ダム建設中止、他のダムについても凍結という脱ダム≠ナした。その次が再生可能新エネルギーへの移行、すなわち脱原発=A核燃料サイクルの放棄です。どちらもムダで有害な公共事業の典型ですが、その継続に利益を得ている勢力の存在が大きく、楽観できない情勢です。
 原発をめぐる危険な動きとして、本紙前号でプルサーマル開始へのカウントダウンが始まったことを報じました。11月6日、「一般の原発でプルトニウム・ウラン混合酸化物(MOX)燃料を燃やす国内初のプルサーマルは5日午後11時7分、核分裂反応が連続して起きる臨界に到達した」(「神戸新聞」)と報じられました。これによって、日本社会は核汚染・過酷事故の更に大きな危険性に曝されるようになってしまってのです。
 日本にプルサーマルの歴史は1997年2月のプルサーマル推進の閣議決定に始まり、関電や東電がまず計画を立てたのですが、高浜原発用のMOX燃料検査データ捏造が発覚(97年9〜12月)して関電が躓き、東電は原発トラブル隠しが発覚(02年8〜9月)して頓挫しています。更に04年8月、美浜原発3号機で死傷事故が起こり、関電は2度目の断念となっています。こうした経過を経て、閣議決定から12年にしてようやく九州電力でのプルサーマルが始まったのです。こうした経過を見ただけでも、その危うさは明らかです。
 行政刷新会議が11月9日、2010年度予算概算要求の無駄を洗い出す「事業仕分け」の対象が公表されました。原発関連では、経済産業省の「電源立地地域対策交付金」1149億円と、文部科学省の「高速増殖炉サイクル研究開発」233億円が含まれています。一方で、経産省「住宅用太陽光発電導入支援対策費補助金」412億円も入っており、予断は許さないのです。脱ダム≠熈脱原発≠焉A政権交代を契機としつつ、更に地道な闘いを拡げていかなければならない所以です。(晴)