ワーカーズ410 2010/2/15 案内へ戻る
辺野古新基地に反対! 6千人が東京の全国集会に結集
1月30日(土)、東京・日比谷野外音楽堂で米軍普天間飛行場の即時閉鎖と名護市辺野古への移設に反対する「チェンジ!日米関係 普天間基地はいらない 辺野古・新基地建設を許さない1・30全国集会」が開かれた。
全国各地から約6千人が参加、会場の日比谷野音付近は会場に入れない人たちであふれた。最近、都内でこのような大規模な集会は珍しい。
集会後、会場から銀座の繁華街を1時間半に渡って、都心の一車線をほぼ埋め尽くすほどのデモ行進も行われた。
集会で沖縄からの報告は、「沖縄平和運動センター」の山城博治事務局長と「ヘリ基地反対協議会」の安次富浩代表委員、さらに東村江の「ヘリパッドいらない住民の会」の伊佐真次共同代表らが現地の闘いの状況などを訴えた。
この集会にあわせて沖縄からは100人を超える上京団が参加し様々な活動に取り組んだ。1・30集会の数日前から、国会議員会館前での座り込み行動を展開し、昨年11月8日県民大会の要求を鳩山民主党政権に突きつけた。さらに、28日(木)には大阪・中之島中央公会堂での「普天間基地はいらない!新基地建設を許さない!1・28大阪集会」にも参加した。
名護市長選で基地反対派の稲嶺氏が当選した事もあり、沖縄では「県外移設」の声が加速している。沖縄県政与党の自民党県連も公明党県本も、米軍普天間飛行場の県外移設要求にかじを切っており、県議会2月定例会で普天間の県外移設に向けた意見書・決議を採択する方針を打ち出している。
沖縄が、もうこれ以上基地を押しつけられるのはご免だ、という「県外移設」を望む声は当然である。しかし、移設候補地として名前が上がる本土の地方自治体は「自分のところには来て欲しくない、絶対反対だ」との拒否姿勢ばかり。
今私たちに問われているのは、「日米安保」(沖縄に米軍基地の75%を押しつけて成り立っている現実)を見直すことである。
今こそ一歩踏み出して、国民総意として米軍基地の縮小・撤去を求め、米国に「海外移設」や「米国本土移設」を突きつけてゆくことではないか。(英)
【労働者派遣法改正】労働攻勢に向けたターニング・ポイントに!――派遣法改正は最初のステップ――
労働者派遣法改正問題が正念場を迎えている。
政府が今国会に提出をめざしている改正派遣法案づくりで正念場を迎えている。小泉政権が進めた労働分野での規制緩和の流れを大きく転換するための試金石になっている改正案。いま労使の利害対立で、中途半端な改正に終わる可能性もある。使い捨て労働者の大量生産を推し進めた経営側の姿勢を逆転させられるのは、労働者の声と闘いだけだ。
■労働者保護■
派遣法改正に向けた転機になったのは、07年の参議院選挙での自民党の敗北だった。その後発足した福田政権で「行き過ぎた規制緩和が格差拡大をもたらした」という声が与党内でも強まり、その前の安部政権から規制強化の流れに軌道修正されつつあった。その前の5年間で、小泉政権が進めた「官から民へ}という規制緩和が格差拡大や競争加熱をもたらした、という反省からだった。この転換には、雇用破壊と並行するかのように増え続ける生活保護世帯の増加による税負担の増大で、自民党政権の中で危機感が生まれていたことも背景にあった。
当然のことながら産業界の抵抗で改正案づくりは難航したが、決定的な転機はすぐやってきた。いうまでもなく08年秋のリーマン・ショック以降の世界的な大不況だ。直後から雇い止めなど猛烈な「非正規切り」「派遣切り」が広がり、住む場所さえ追い出された派遣労働者は、年末に開設された日比谷公園での「年越し派遣村」に列をなした。これが大きく報道されるとともに、派遣法改正は決定的になった。
派遣切りが大きな社会問題となったのは、いうまでもなく、95年以降日経連(経団連に統合)に主導された雇用の流動化で、正社員の非正社員化への切り替えが広範に拡がっているという現実が背景にある。今では全雇用者に占める比率は3分の一を超えるまでになっている。
それまでの非正社員は主婦や学生が中心だった。が、95年以降企業は、自分で生活していかなければならない基幹労働者も派遣や請負という非正規雇用でしか雇わなくなった。こうした産業界による雇用再編のもくろみを促進したのが、小泉政権がすすめた製造業への派遣解禁を含む04年の改正派遣法などによる労働分野での規制緩和だった。
結局、そうした雇用の規制緩和が大量の派遣切りを生み出したことから、労働分野での規制強化、なかでも悪名高い日雇い派遣≠ネど、登録型の派遣労働を規制する必要性が大きく浮上していたわけだ。
■結局は労使の力関係■
その派遣法改正案は、マニフェストで日雇い派遣の禁止などを掲げていた民主党が総選挙で大勝し、民主党中心の政権が発足したことで、派遣法改正の道筋がつけられた。いま開催中の通常国会への提案をめざして、政府内でも最後の検討作業が続いている。その法案の骨子は、仕事があるときだけ契約を結ぶ登録型派遣の原則禁止、製造業への派遣の常用型への限定などだ。
しかし、この改正派遣法案には、すでに多方面から指摘されているように、改正案が骨抜きにされかねない弱点を内包している。最大の問題は、期間が一年を超えて雇用される派遣(見込まれる労働者も含む)は対象外にされていることだ。これでは短期契約の繰り返しでのいつまでたっても派遣だ、という実質的な製造業派遣はなくならないし、突然の派遣切りもなくならない。専門職26業種がらみの偽装派遣♂消の実効性も全く不透明なままだ。また登録型派遣や製造業派遣の原則禁止も、施行が3年先で、さらに登録型の一部業務は2年の猶予期間を設けているので、実施までに3〜5年先かかるというもので、派遣労働者の救済という実効性が薄いものでしかないこともある。
野党の共産党をはじめ、与党である社民党や国民新党などからも猶予期間が長すぎるなどの批判が出ているありさまだ。法案の性格はといえば、結局は賃金や保険料未払い問題なども含めて、派遣先企業・受け入れ企業に対する規制がきわめて弱いものでしかないといわざるを得ない。。
今回の改正派遣法案が、なぜこうした悠長で中途半端なものになったのか。
それは派遣法の改正には、「労使代表で協議し、同意を得る」という国際労働機関(ILO)の原則があるからだ。ILO88号条約でも労使代表を含む「審議会をつうじてとりきめる」とされている。」その労働政策審議会で昨年末に合意した内容が上記のようなものだったわけだ。改正派遣法の審議をしてきた労働政策審議会は、経営側と労働側の委員、それに中立の識者で構成されている。ILOの取り決めもあってどうしても足して二で割る℃魔ノなってしまう。
派遣労働者をはじめとした非正規労働者による正社員の置き換えは、いうまでもなくコストダウンと雇用調整にある。経営側は、企業の都合に合わせて労働者を雇用したい、という思惑があり、それが労働者を単にコスト、もうけのための道具視しているからだ。人を人と見ないこうした経営側の姿勢は、今では世界中で批判にさらされているにもかかわらずだ。
ここでも派遣法改正案の帰趨は、結局は労使の力関係によるところが大きい。経営側との力関係は、結局は日常の労使の攻防戦、いいかえれば私たち自身の闘い如何に関わっているということでもある。どういう法律を勝ち取れるかは、どれだけ優位な地点で攻防戦を展開できるかにかかっているわけだ。
■進む大企業の脱派遣=。
改正派遣法が成立すれば、日雇い派遣など、非人間的な雇用は確かに規制の対象になる。しかしその改正案もザル法であるばかりか、企業に都合のよい雇用システムの抜け道はいっぱいある。
たとえば製造業派遣の原則禁止などついても、企業の側は非正規労働者を減らす姿勢はきわめて小さい。朝日新聞による昨年11月の主要100社の企業トップを対象としたアンケート(複数回答)によれば、正社員化で対応すると答えた企業はたったの15社に過ぎない。対して、請負や契約社員、あるいはパート・アルバイトで対応すると答えた企業は88社にも上り、海外への生産移転と答えた企業も製造業で6社あった。改正案の正社員化という想定に反して、企業はあくまで他の非正規雇用による代替えをもくろんでいるわけだ。
そもそもすでに大企業は派遣労働の規制に備えて脱派遣≠進めている。建設機械大手のコマツ、あるいは電機大手のシャープやリコーやキャノンなどは、すでの製造ラインから派遣労働者を大幅に減らし、契約社員(期間従業員)や請負に切り替えている。産業界はここでも先を読みながら対応策を進めているわけだ。
しかもその企業は、すでに正社員にもいくつかの類型に分断した雇用システムを取り入れている。たとえば昇進もなく昇給も少ない「地域正社員」や「短時間正社員」などだ。直接雇用の契約社員(期間従業員)もある。企業はあらゆる手段を講じてコストダウンに励んでいる。そうした階層的な雇用システムが存続する限り、たとえ派遣労働が禁止されても、不安定で低処遇の労働者が、姿・形を変えて存続する構図には変わりはない。非正規労働者がたとえ直接雇用になったとしても、雇用の不安定さや低処遇の克服には大きな壁が立ちはだかったままだ。
そもそも法律があるだけでは雇用を守る保証にはならない。これまでも不法解雇やサービス残業や休暇制限など、労基法違反事例やその抜け穴は数え切れないほどあった。派遣労働でも偽装派遣や繰り返し派遣による長期派遣といった違法派遣がいまでも絶えない。結局は、正規社員や非正規労働者であっても、現場レベルでの規制と解決力を伴った主体づくりなしに、実体的改善はあり得ない、というのが現実だ。
■ターニング・ポイントに■
ただそうはいっても、登録型派遣の原則禁止や製造業の派遣の原則禁止は、それ自体の効果以上の大きな意義を持ち得る。
これまで日経連(経団連)などが主導し、企業にとって使い勝手がよく低コストで不安定な労働者を大量につくり出してきた。派遣法の改正は、そうした雇用政策をチェンジさせる、逆転させる、新しい雇用システムづくりのターニング・ポイントとなり得るし、そうしなければ本来の意義を失してしまうだろう。
めざすものは、労使運命共同体<Cデオロギーの温床ともなってきたかつての日本的労使関係への復帰などではない。それは確かに一方では正社員にとって長期雇用を可能にし、企業に忠実を誓う限り、生涯にわたる生活設計も可能だった。が、反面では労働者を個々の企業に縛り付け、いまでも企業戦士を温存して働かせすぎ社会≠つくって雇用破壊≠笏正規労働者の大量生産を許してきた。今となってはこうした負の遺産をも引き継ぐ日本的労使関係への回帰は不可能だ。すでに脱派遣≠ェ進む大企業を始め、派遣をなくしたからといって雇用の二重構造や非正規労働者の抜本的な処遇改善にはつながらない。同一労働=同一賃金を中心とする均等待遇≠土台とした雇用と処遇システムの確保こそめざしていく必要がある。
この数年、派遣労働者自身による決起が相次いでいる。裁判や労働審判の場で戦ってるケースも全国で20件以上もある。また、最近になって派遣労働の改善に取り組みはじめた正規社員の労組も増えている。非正規労働者の低処遇が、やがては正社員にも引き下げ圧力としてのしかかる、という認識からだ。
とはいっても、まだまだ本音のところで非正規労働者を自分たち正社員の雇用の安全弁とみている労組や正社員も多い。ここは当事者である派遣労働者が周囲の支援を得ながらまず立ち上がること、それを多くの労働者が自分たちの闘いでもあるという立場で加わることが大事だろう。
今、ギリシャでは、財政再建を目的とした公務員減らしや賃下げなどに反対して、公務員労組や民間組合も相次いでゼネストの立ち上がっている。日本でも3年間の交渉の末、昨年の10月から契約社員と準社員を正社員化し、全社員が共通の職種別賃金制度に移行した広島電鉄の経験などもある。身に降りかかることは、自らの手で降り払らなければ克服できない。西欧労働者の行動力、あるいは日本でも参考となる経験は、私たちに大きな勇気を抱かせるものでもある。
正念場に差し掛かった改正派遣法。労働者が団結して闘える土台となる、正社員にならなくとも生活できるような均等待遇の獲得に向けた闘いへのターニング・ポイントにしていきたい。(廣)案内へ戻る
コラムの窓 雇用問題に寄せて
日本経団連と連合による首脳懇談会が1月26日開かれ、2010年春闘で労使が初交渉を行った。
労使は、若年層の雇用安定に向けた共同声明を初めて取りまとめるなど、昨年度と同様に雇用確保を優先する考えで一致し、焦点は、「定期昇給(定昇)」の凍結・抑制を計る経団連と、定昇死守の構えを見せる連合とのせめぎ合いに移っている。
昨年12月の就業者数は6223万人と1年前に比べ108万人減少し、就業者数は23か月連続の減少、完全失業者数は14か月連続の増加(毎月の完全失業率(季節調整値)は5%以上を推移)が続いている中では雇用対策は急務であろう。
しかし、経団連の御手洗会長が「自社の存続・発展と従業員の雇用の安定を最重要課題と考えている」という立場は、資本の存続・生き残りを最優先にし、労働者の雇用確保はその上に成り立つものというものである。
労働者は資本との雇用契約を結びその企業の下で働くことによって賃金を獲て生活を維持している。その限りでは資本や企業がなければ働く場所もなく賃金も獲られないだろう。しかし、それは絶対的な関係だろうか?
古来から人間は生きるために働いてきた。山野を駆け獲物を捕り、山野を耕し穀物を育てて食料を得て生きてきた。
生産量が増えるにつけ、商品交換が行われ、分業も進んだ。それに連れて、富むものと持たぬ者、司従関係ができ、階級・階層が生まれ、身分制度も発生した。
そして「産業革命」などによる生産量の拡大は、より「自由な」人々を生み出し、「民主主義」的変革によって、地球上のあらゆる国の人々との交流を通じて、更なる生産力の発展を成し遂げつつある。
しかし、物は有り余るほど生産できるのに、依然として生産物の全ては資本家の物であり、労働者の生活に必要な物だけが「労働の対価」として労働者の物になるのが今の社会関係である。この社会では、分配は公平に行われず、生産と分配のアンバランスは過剰生産をおこし、企業倒産や、売れない物・余った物は破棄され捨てられるのである。
資本と賃労働の関係は歴史的関係であり、長い人類史に比べればほんの一時の関係なのだ。
我々は今そのまっただ中にいる、だからその関係が絶対的に見えるのかもしれないが、発想を変えてみようではないか。
生産力と公平な分配によって、資本・企業に頼らず、文化的な生活ができる程度の生活費が保証されうる社会制度を創ることができたとしよう。
生活費を保証された環境での労働はこの社会制度を維持するだけでなく、制度の充実と発展をもたらし、新しい分野への働きかけも行われるだろう。
一資本や企業に生産物を独占させるのではなく、労働者が生産物の全てを管理統制することができる生産関係ができたとするならば、生産技術の発展と労働力の有効な再配置による飛躍的な生産力を創り出し、その有り余る生産物を有効に配分し、資本の動向に左右されない、新しい人類史を築くことができるのではないか!すなわち、人類は“食べる為にのみ”働くのではなく、人類が生存する自然界を含むあらゆる“社会の発展の為に”働く、新しい労働のあり方を見つけることだろう。(光)
試論「鳩山政権は打倒の対象か」
鳩山政権誕生から5ヶ月、期待が大きかっただけに失望も深い。支持率も反転し、いつ失速してもおかしくない状況である。それにしても、資産家の坊ちゃん鳩山と汚いカネにまみれた小沢、その現状を改めて見せつけられただけで、せっかく手に入れた政権交代をやすやすと覆していいものか、今こそ冷静な計算が必要ではないのか。
評論家の佐高信氏は、クリーンなタカとダーティなハトを比べ、ダーティなハトの方を選ぶ。そして、市民派が今や絶滅危惧種となったクリーンなハトを待望することの非現実性を嘆く。我々がなすべきことは、自公政権の崩壊によって誕生した鳩山政権の悪を数え上げることではなく、この条件において何を実現できるのかその可能性を追求することである。
「鳩山政権打倒!」を掲げるのは簡単である。すでに昨年8月段階、誕生するであろう民主党政権打倒と書かれているものを見たことがあるが、その安直さにには呆れ果てる。何しろ、党首の鳩山は9条改憲派なのだから、打倒!≠ニ言っておれば間違うことはない。しかし、さしあたってありえない革命政権が実現するまで、すべて打倒ということに何の意味があるのか。
自民党的土建政治では、ダム建設を決めたらいかなる河川改修も行なわないのだが、その際、河川氾濫の現実的な危険性は住民が負うことになる。もちろん、ダムなしの河川改修は拒否される。それはあたかも、ただ一つの目的である革命以外の一切の改良を拒否するようなものである。改良を積み上げても革命は訪れないが、ただ勇ましいだけの掛け声は革命を弄ぶことになりはしないか。
民主党は雑多な潮流の集合体であり、基本的な方針すら賛否が割れている。国政段階では自民党と対立してるが、地方では大方は自民党と共に与党にある。例えば、政権発足を飾った前原国土交通省の脱ダム宣言≠焉A現場段階では民主党はダム推進であり、ダム建設を止められるかどうか危ぶまれている。つまるところ、民主党がどのような政策を選択していくかは確定的なものではなく、外部からの力でこれを左右することも可能なのである。
いずれにしても、鳩山政権による改良を拒否することは、政権交代の果実を放棄するに等しい。通常国会で予定されている外国人地方参政権法案や、選択的夫婦別姓の導入など、この機会を逃したら実現はさらに困難になろう。障害者自立支援法をめぐる裁判も和解に向かい、悪法は政権交代によって葬り去ることができるということが明らかになった。普天間移設問題がこう着状態になっているが、政権交代によって前政権の外交路線も変更できるということを証明しよう。
さらに付け加えるなら、1日にして防衛省官僚に篭絡された北澤防衛相、米国の意向伺いに汲々としている岡田外相、官房機密費の使途を秘匿し、名護市長選の結果を踏みにじる平野官房長官らの更迭を、鳩山首相に要求しよう。鳩山政権への失望が自民党の復活や、さらに反動的な勢力の台頭に結果しないように、批判し要求することの重要性を確認しよう。(折口晴夫)案内へ戻る
「個人的所有の再建」論争ーーマルクスの所有概念と「共同占有」 2009.12.17 阿部文明 連載 V
目 次
@はじめに
A社会的所有と個人的所有の一般的関係
B再建された「個人的所有」
C文法は何故無視されたのか−−−ワーカーズ408号掲載
Dマルクスの所有・占有概念は歴史的な概念である
E「共同占有」は「社会的所有」へ転化する
F田口氏の取得・分配の原理 −−−ワーカーズ409号掲載
G農奴制のもとで「労働と生産手段の本源的統一」はあるのか
H労働と切り離された広西氏の「所有」「占有」論
Iその他のマルクス「解釈」をめぐって
■G農奴制のもとで「労働と生産手段の本源的統一」はあるのか
西野氏は「小経営生産様式」のもとに「封建制その他の隷属農民である場合でも、ここでは、労働者とその労働の客観的諸条件との自然的統一、本源的結合がある。」とされる。ここでも「独立自営農民」と「農奴」という二つの歴史的な生産形態の区別が軽視される。
すでに述べてきたように、このような「隷属農民」の搾取には「経済外的強制」が伴うと同時に、上位の「所有」が存在しているのである。奴隷制で言えば大地主の「所有権」が、封建制度で言えば領主の所有権が「認められていた」のである。もちろん農民がそれを認めていたかは別の問題であり、「所有権」は社会的意志、つまり優越した階級の意志が社会に押しつけたものなのであるから。
したがつて、生産手段に対するこのような多重的な所有、つまり上位の所有、下位の所有つまりその一種としての「占有」等々が存在する社会では、搾取がありしたがって「生産手段と労働の本源的統一」は存在しないとみるべきではないのか。
「(農奴制下の小農民は)私的ではあるがそれ自体の内部に搾取関係を内蔵しない。(搾取は経済外的強制として存在する)」(西野氏)という認識はおかしなものだと思う。たとえば封建社会の貨幣地代について考えても、領主の所有権があり,理屈としてはその用益代として地代が搾取されているのである。これを「経済外強制」であるから内部的には「非階級的」で「所有の本源的一致」があるというのは理解しがたい。
これに対して少なくとも典型としての近代の「独立自営農民」は、土地の所有権を社会的に獲得していたのである。イギリスなどの農民はすでに中世盛期以来、土地(農耕地)の売買を行ってきたことが知られている。これらの農民は、決して富農や大地主ではなく、農村共同体の一員として平凡な農民たちが土地の売買を行っていたのである。
農民にとって農耕地を自由に所有することと、大地主からの借地や領主の土地を耕作しているだけの占有にとどまっていることとは、その社会的地位としては天地の隔たりがあったのである。近世、近代初期に現れた独立自営農民こそが、マルクスの「第一の否定」の対象であり、同時に「否定の否定」によって再建されるエッセンスを保持していた「かの私的所有」なのであり、これこそが「個人的所有」、つまり生産手段と労働の本源的統一のなかにある農民なのである。
こうして西野氏は、歴史的な発生的な区分を軽視し、「小経営生様式」の基に「所有」と「占有」を合体させてしまうのである。つまり生産手段の「占有」が「所有」に転化するということが理解できない。
■H労働と切り離された広西氏の「所有」「占有」論
まず、マルクスの解釈を巡る問題なのであるから、マルクスの考えがどのようなものであるのか、繰り返しになるが私見から述べなければならない。
マルクスにとって所有とは、労働価値説同様に、古典派経済学から受け継いだ重要な考えである。「労働は活動的な所有」(マルクス「ミル評注」)であり、労働こそが所有の根底にあるとしているのである。これがいわば「所有」の本質的な規定である、といってよい。
価値や価格を論ずる前に、労働がその実体であることを論じてきたマルクスであるが、同様に、多様な歴史的所有(占有)概念を論ずる前に、労働こそ所有概念の根底にあると言うことを明確にしなければならない。このような科学的な土台があるからこそ「所有」や「占有」を初めて科学的な土台の上でで議論することができたのである。このような科学的な「所有」概念が残念ながら広西氏の中には見出せない。
したがって広西氏の「所有」「占有」概念は、徹頭徹尾法律論にとどまっているのである。「もともと、所有、占有なる言葉は相互に連関し、対比される法概念です」(『資本論の誤訳』p274)と正直に認めてもいる。しかも大部分が「民法」を核とするブルジョア法体系の概念から一歩も出ていないのである。端的にいえば、民法の概念でマルクスの「社会的所有」「共同占有」を解釈しようとしているのである。
広西氏は、所有を「形態概念」、占有を(比較して両者を考える場合は)「性格概念・本質概念」と規定している。マルクス主義やヘーゲル主義を思わせる用語づかいだが、その内容は私的「所有」の多様性と、それに対する「占有」の直接性やそれに基づく抽象的な歴史貫通性、たとえば「占める」「直接的支配」等を単に哲学風に言い表しているだけにすぎないと、申し訳ないが私には見える。したがって広西氏は、「所有」概念において民法つまり「私的所有」を一歩も出ていないというのが私の理解である。
それを示してみよう。広西氏にとって「所有とは他人に対して排他、縄張りすることである。」「所有とは排他性のものだからである。」(『マルクス主義の破綻』p42,54)等々。広西氏の所有概念は私的所有そのものなのである。
労働と結びつかない、したがって生産手段と結びつかない広西氏の所有概念は、私的所有を一歩も超えることはできないのはあきらかではないだろうか。確かに氏のような所有概念からすれば「共産主義で所有は消滅する」と想像するのもわかる気がする。
「そして理想像としては、所有そのものが消滅する方向としての共産主義」と氏は語る。所有概念が私的所有にとどまっているのだから、共産主義すなわち私的所有の「消滅」は「所有の消滅」と受け取られているのだろう。
所有概念が労働を基底に置いていることはすでに述べた。したがつてこのような実態が消滅することはない。つまり所有は社会的な形態を換えることはあっても、「消滅する」ものではないのである。
共産主義になって消滅するのは、マルクスが『共産党宣言』で述べたように所有の私的な性格、排他性「縄張りすること」である。つまり労働と所有を疎外・分離する社会的要因を排除することによって「所有」の性格が変化するのであって、「所有」が消滅するものではない(『共産党宣言』の記述を想起してほしい。)。「共産主義」において所有はむしろ本源的な統一を復活させることによって再生するのだ。この結論はマルクス主義からすれば不可避ではないのだろうか。
他方「所有」の根底としての「労働」概念と結びつかない広西氏の「所有」は、「私的所有」の喪失とともに「所有」もなくなるとしても当然なのであろう。広西氏が「所有」をブルジョア的なもの、私的所有として理解していることを示してはいないか。
広西氏が私的所有を一歩も超え出ていない点については,他にもある。
「社会主義は私的所有性という社会的性格は再建するわけではないが、個人の所有、個々人の財産は再建するのだ、という意味です。個々人の所有、個々人の財産を収奪しているのは資本主義だが、社会主義は、生産手段を共同占有するという性格変換によって個々人の財産を再建するのだという意味です。」(『資本論の誤訳』p94)
そもそも資本主義は個々人の財産を収奪したのであろうか。このような資本主義理解には問題がある。資本主義の形成期が、小商品生産者(私的所有)の「財産」の収奪の歴史(いわゆる本源的蓄積)であったのは事実であるが、資本主義はこのような側面だけではなく、確立された資本主義を特徴付けるものは剰余価値の収奪であり「財産」の収奪ではない。しかし、さらなる問題は、「所有」と「財産」が同じものとしてとらえられていることである。この問題も看過できない。
個々人の財産の「所有」は、私的所有つまり切り縮められた所有概念ではないのか。「排他的な所有」以外のなにものであろうか。そのもっとも狭い意味で個人が「もつ」「所有」する「財産」「財貨」のことではないのか。労働を基底とする生産手段との関係を意味するものではないのである。このような私的所有の概念が、「社会主義」の重要な概念であるはずの「個人的所有」のまさに「所有」概念の部分で語られるのである。
資産階級の「所有」概念(たとえば民法の「所有」概念)にとって、労働との関係は余計なことである。労働概念は本来的に社会的性格を有しているからである。労働の視座からすれば、すべての財は、共同・協同労働の社会的産物であることは一層明白であり、したがってその所有は「共同所有」「社会的所有」でしかあり得ないのである。この社会的性格を知ることは、「自分のもの」「自分の財貨」「個人の財産」であるという特定の排他的所有観念と矛盾するであろう。
「労働」は示す、築き上げられた富とその所有は労働者全体のものであり、富の取得は全労働者によって分配されるべきと。このように労働の社会的性格は、「私的所有」の狭隘性やインチキさと対立することになる。
法律家たちが労働の社会的性格を否定できないとすれば、私的所有概念の存立のためには、労働と所有の関係を切り離すことが彼らの最善の策となるであろう。そしてまさにこれが現代のブルジョア的所有概念の大前提なのであり、法概念としての私的所有の本質的要素である。
蛇足かもしれないがつけ加えよう。マルクスの「共同占有」「社会的所有」論は「生産手段」「労働諸条件」から少しもぶれることはない。それがマルクスのテーマの根幹なのである。さて、広西氏はマルクスの思想の立場から「所有」とは「財産」であると言い換えるのだ。生産手段の「所有」の問題を曖昧にしていないだろうか。
「財産」それは何物なのだ?誰が作り出したのか。生産手段なのか生活資料なのか家屋や家具などのことなのか。「財産」とはその出自をおおいかくす。それが個人の住む家であり、使用する家具やその他の消費財であれば、生産の社会性から脱落した個々人の消費であり、そこでは生産手段の「所有」の社会性は表面的には問題にならない。どのような社会でも「誰に帰属しているか?誰が使用者か?」だけが問題とされるであろう。なるほど「財産」とはそのような私的所有の隠れ蓑にふさわしい表現である。かくして、生産手段の「所有」の問題を「財産」の問題に置き換えるべきではないのである。
これが広西氏の「所有」は「財産」であるという把握から読み取れることではないだろうか。
また、氏が「社会は所有の主体にはなれない」「社会的所有は間違った表現である」という再三繰り返される氏の論理も、かくして我々にも理解できるようになる。つまり広西氏の「社会」概念が空虚であるからそうなるのだ。
たとえば広西氏は次のように語る。「日本の社会という概念は、日本型幽霊のように足がない(つまり、具体的内容が無く空疎である。)」それに対して西欧では社会=会社でありまだしも具体的である。「(だから)会社が皆消えて、国有化されて、民間会社が無くなってしまうと、当然、社会という概念も消えてしまう」。 また、「社会というものには事務局がないのだから所有していないのです。」「マルクスの説は、社会(所)有ではなくて、会社(所)有です。」(資本論の誤訳p213,245等)。
いろいろ論じうるが、一点に絞ろう。広西氏の「社会」概念が空疎であることはだいたい理解できるが、マルクスの「社会」概念は、科学的で充実したものだ。その違いを考えてみよう。
繰り返しを恐れずに言うが、マルクスの社会概念は労働の社会性、その連鎖と人々の結合によって形成されたものである。「社会」やその「歴史」の全ては、このような人間的労働から生み出されてきたのであり、むしろ社会は労働の存在形態として与えられたものである。マルクスの「社会」概念は人類史という森羅万象を内に秘めたものなのである。マルクスの把握においては、「社会」概念は抽象的ではあるがこのように充実した豊かな内容として存在しているのである。人間存在における労働の根源性を理解できるのならば、上記のことは当然のことであろう。
しかし、広西氏は違うのである。「所有」と同様に、「社会」についても労働と完全に切り離されているのである。したがって、氏の社会概念は空疎な抽象にとどまらざるを得ないのである。氏は考える。鉄道会社、自動車工場、石油基地、その他もろもろから成立しているのが「社会概念」であると。つまり彼にとっては「社会」概念は抽象的な入れ物でしかなく、個々の具体物を「くくる」空疎な言葉――つまり日常の用語・言葉――にしかすぎない。科学的カテゴリーではない。
さらに、各会社には取締役会があり経営者がいる、だから「会社」は所有の「主体」になれるが、「社会」は「幽霊のように」空疎であり、所有の主体になれないと広西氏は思わざるをえないのである。
「社会」を個々の事例をまとめる単なる言葉(日本語にしても、欧米語にしても)として理解し、それゆえに空疎な言葉としてしか理解しなかったのは広西氏であり、マルクスではない。マルクスにおいては、労働を基盤として社会が形成されていること、同じく労働を基盤として生産手段に対して「所有」が成立していること。したがって「社会的所有」は人類史的な根本把握なのである。「所有」は「社会的」でなければならないのである。
何代にもわたって土地にしばりつけられた農奴のような典型的な占有者、何十年もの間機械と工場にしばりつけられてきた労働者の共同「占有」はなくなる。歴史が教えるように西ヨーロッパの農奴的農民の土地の占有は、数百年の歴史の結果として、広範な小土地所有を現実化したのである。そしてある意味では同じように、資本主義が達成した労働者の「共同占有」は、その歴史的必然において生産手段の「共同所有」「社会的所有」に転化するであろう。
解放された労働者にとっての労働の形態は、共同占有ではなく社会的所有を必要とし前提ともする。アソシエートした労働者は、固定的な「職場」をもたない。特に関係の深い複数の職場であっても、「固有の関係」「用益」「支配」「取得の源泉」といった特別の深い関係、生活を支える特定の取得の源泉とみなすことをやめてゆくであろう。個人としての活動や労働も、このような社会的総経済活動の中の構成部分として存在する。だから、「個人的所有」というものは、様々な誤解を呼び起こしているようだが、決して特定の工場や、耕作している土地、管理している設備等々を直接に意味するものではない。いわんや個人の「財産」などではない。(次号に続く)案内へ戻る
映画紹介 「のだめカンタービレ」の問いかけるもの
今、映画館では「のだめカンタービレ・最終楽章・前編」が上映されている。
ピアニスト志望の「のだめ」こと野田恵と、指揮者志望の千秋真一が、音楽学校を舞台に繰り広げるラブコメディーである。もともと、二ノ宮知子原作の連載マンガ「のだめカンタービレ」が、上野樹里と玉木宏を主演とする連続テレビドラマとなり、今回、竹内英樹監督のもとで映画化されたものだ。
「のだめ」の功績は何といっても、クラシック音楽の世界を、ラブコメディーによって、思いっきり身近なものにしてくれたことだろう。映画では、パリやウィーンを舞台に、ベートーベンの「交響曲第七番」で幕を開け、ラベルの「ボレロ」、モーツァルトの「ピアノソナタ第十一番」(トルコ行進曲)、チャイコフスキーの「序曲・一八一二年」等、有名な曲が、ストーリーに合わせて、次々に演奏される。
ただ、「のだめ」が観る者を引き付けるのは、それだけではない。野田恵というキャラクターを通して、音楽を志す人が往々にして経験する「心の葛藤」を、本質的な問題としてリアルに抉り出してくれるからである。
野田恵は、子供の頃ピアノを習うが、スパルタ式の厳しいレッスンで、心の傷を負い、音楽から遠ざかる。しかし、自由にピアノを弾くのが好きで、幼稚園の先生になりたいと希望をいだき、「桃ヶ丘音楽大学ピアノ科」に進学する。そこで、指揮者志望の千秋真一と出会い、恋愛感情から、プロのピアニストになって、千秋と共演することが「人生の目標」になってしまう。
ここから野田恵の「苦しみ」が始まる。もともと音楽の才能はあるものの、自由奔放な性格の野田恵にとって、コンクールでの優勝をめざして、型にはまったスタイルのレッスンを積むことは、至難の業である。そのため、何度も挫折の危機にぶつかり、プロを目指す道を捨てて、もともとの希望である幼稚園の先生の道に戻るか、葛藤を繰り返すのである。
映画「最終楽章・前編」では、そんな野田恵がパリの音楽院オンセルヴァトワールに入学し、指揮者コンクールで優勝した千秋真一に追いつこうとして、厳しいピアノのレッスンに挑戦する。しかし、急上昇志向とは裏腹に、コンクールを許可してもらえない野田恵を尻目に、千秋真一はどんどん遠くへ進んでしまう。映画の後半では、そんな野田恵の深く暗い悲しみを、チャイコフスキー「交響曲第6番・悲愴」の重々しいメロディーが表現している。
マンガの方では、そんな野田恵の心を良く理解している、ピアノ科のオクレール教授が、「あの子は、音楽は好きでも、基本的に、この業界が嫌いです」と述べている。この言葉に、「制度化されたクラシック音楽界」の問題が集約されていると思う。
一昔前は、中流家庭の英才教育として、個人レッスンに通わされるのが、クラシックへの道の始りだった。ところが、優秀な演奏者が優秀な音楽教育者とは限らない。やたら神経質で癇癪持ちだったりして、本当に子供の創造性を伸ばしているのか、疑問な場合が多い。それでもドロップアウトせずに、何とか修行を続けていくと、やがて音楽大学に進学することになる。ここで音楽理論を学び、演奏テクニックを磨いて、コンクールに優勝すると、プロの道が開けてくる。様々なオーケストラから声がかかり、「若手ソリスト」としてもてはやされ、音楽CDも売り出される。ここまで登りつめたとしても、その先が大変である。ほどなく「飽きられてしまう」からである。
もうひとつの道は、中学や高校のブラスバンド(吹奏楽団)に入り、「部活」として音楽を始めることである。その延長で、一般の会社に就職してからも、地域の市民オーケストラに参加して、音楽を続ける道がある。これも、なかなか大変である。何しろ、毎週、曜日を決めての合同レッスンに、欠かさず出席するには、残業や夜勤を断わらなければならず、事業主の理解がないと難しい。有名な指揮者を呼んでくるには、行政からの助成金や後援会の寄付がないと、とてもギャラを払えない。
「のだめ」の映画では、パリの「ル・マルレ・オーケストラ」という貧乏楽団の団員達が、生活のため様々な仕事をしながら、仕事の疲れに悩まされながら、あいまを見つけて練習する姿が観る者の心を打つ。タクシーの運転手をしながら、客待ちの車内でオーボエを吹く者。食事の後片付けをする妻や子供の騒ぐキッチンで、チェロを弾く者。寒い風のふく波止場で管楽器のグループ練習をする者達。なにやら、宮沢賢治の「セロ弾きのゴーシュ」を彷彿とさせる。
働く者が、クラシックに限らず音楽の道に進むというのは、本当に大変なことである。そんな事を考えさせられる映画であった。(誠)
生命力という意慾の表白
ふと見れば 破って萌え出る 若芽かな(宮森作)
正月の花にと、松やら銀箔を塗った楊柳を飾った。その楊柳から青い若芽が生えていてビックリ。その生命力たるや・・・。
ふと見れば ナズナ花咲く 垣根かな
これは芭蕉の有名な句。垣根という世上の規則や掟があるにも拘わらず、根元に花を咲かせている野草、ナズナ。現代に至って私の作、銀箔を破って出てきた若芽は、内発的な力の強さを感じさせるもの、として作者の私は悦に入っている。
時の流れによるちがいはあるものの、こうした飾りものの楊柳にも生命力と意慾の表白があり、このような息吹きはそこここに見出せる。春遠からじ。 2010・1・31 宮森常子
定時制高校はもう必要ない?
阪神北地域の宝塚市・伊丹市・川西市の定時制高校が廃校に迫られています。3校の廃校に反対する支援者の人々の集いに参加してきました。その様子を少し紹介したいと思います。私たちが学生の頃は、苦学生が働きながら学ぶ必要性から定時制高校が存在していたと思います。しかし、今ではその必要性は多様化し、中学校で不登校を余儀なくされた生徒や身体的なハンディーを持った生徒も通う場となっています。
この計画が持ち上がったのが昨年の10月で、「阪神北部の多部制単位制高校の設置と定時制統廃合計画」を兵庫県教委は発表しました。その後、「地元説明会」では、保護者や教員などから次々と反対の意見が出されたにも関わらず、県教委の姿勢は変わりませんでした。存続を求める署名も短期間で6万筆を超え、川西市では小・中学校を含む連合PTAの協力も得るほど地域ぐるみで取り組まれたのでした。
新しく設置される多部制高校は、公共機関を使って通う生徒には不便な場所で、最寄の駅からは徒歩で30分以上はかかるような場所です。仕事を終え、1分でも早くと思う気持ちを考慮していない教育行政に、腹立たさを覚えるのは私一人ではないでしょう。存続の声を無視できなくなった県教委は苦肉の方策として、現在在籍の生徒が卒業するまでは「移行措置」として、分教室を存続することを発表しました。つまり、2015年までは2校については現行の高校に通えることになりました。
集いでは、県教委が廃校を諦めるまで張り強く運動を続けていくことが確認され、4月には大々的に署名運動を展開することが約束されました。そして、連帯に駆けつけられた定時制・神戸工業高校の先生の心温まるアピールは、定時制高校の存在を再確認するうえでとてもいい話でした。短歌を取り入れた授業のエピソードには、労働するなかで充実感を得ることが出来、定時制高校の仲間を大切にする気持ちも芽生えてくる・・・。実践の成果は短歌をどうぞ
「食堂の厨房仕事洗い場で 流れる食器を 必死で選別」
先生の南悟さんは、生徒たちの「生きていくための短歌」を本にして出版されています。今度はこの本の紹介を近いうちにしたいと思います。 折口恵子案内へ戻る
色鉛筆 保育士が消える?
ある日新聞を見ていると「労使対立 保育士消えた」(10/2/2朝日新聞)という見出しに驚き、同じ保育士としては他人事ではなく夢中になって読んだ。仙台市で認可保育園に入れない待機児童解消のために新設した私立認可保育園が、開園2年後保育士18人のうち17人が辞めてしまい、法人の保育に対する姿勢や職員の処遇に対する不信感が理由だという。また、栃木市の民間保育園では、開園当初から園の運営をめぐり保育士と園側が対立し、1年後保育士20人全員が事実上解雇され、1週間後に保護者の要望により復帰した。その後保育士らが残業代の未払いを労働基準監督署に申告し、監督署は園に是正勧告をしたというのだ。
以前から民間保育園は賃金が安く長時間労働で労働条件は良くないことは自分自身も経験してわかっていたが、今回驚くことは保育方針に対しても不満の声を上げていることだ。古くからある民間保育園は昔と変わらない保育方針が受け継がれてきているが、最近新設される民間保育園は保育方針というよりまず経営者サイドの考え方で、管理者である園長なども保育経験のない人が園長になっている。そうした園長は保育に対する理念もなくいかに儲かるかを第一に考えて経営しているが、現場の保育士達は子ども達のことを第一に考えているので対立してしまうのだ。
しかし、残念なことには子どもが大好きで保育士になった人達が「働き続けたかったが、園側の保育への理解のなさに限界を感じた」と言って辞めてしまうことだ。さらに保育士が頻繁に変わることで子ども達が不安にならないかと心配になる。幼い子どもほど毎日同じ保育士と関わることで安定した生活が送られ日々成長していくのだが、『いのち』を大切にする政治はどこにも見られない。保育士が大量に辞める、園長や主任保育士が不在というのが待機児童解消のために新設されている保育園で見られているということは、今まで政府が行ってきた「新待機児童ゼロ作戦」の失敗だといわざるを得ない。保育園の企業参入の解禁、公立保育園の民営化を進めてきたのは安上がりにやろうとする政策で、国の財政保障がされていれば、この様な問題は起こらないはずだ。また記事によると、一昨年、経営が行き詰まり首都圏の20ヵ所以上の保育園を閉鎖した「エムケイグループ」(東京都豊島区)や市川市の元保育士達が労働組合を結成し、経営者側と交渉したのはまれのことで、大半は園を去るのが実情だということも書かれていた残念なことだ。
私は公立保育園の非常勤保育士として長年働いているが、賃金は「短大卒に準ずる」と長年上がることはないのに正規職員と同じように責任だけは負わされている。今年度から『新保育所保育指針』というものが施行され、『子どもの最善の利益を目指し・・・・保育の計画・評価などを・・・保育の質の向上を求めています』と良いことなのだがこれによって仕事量が大幅に増え、勤務時間内だけではできなく持ち帰り残業をしている。持ち帰り残業をしても賃金が増えるわけでもないのに、毎月提出しなければならないという責任からで、自分でもばかばかしくなって辞めたくなるが50代の私には今の仕事しかないので働くしかない。厚生労働省の賃金構造基本統計調査によると、保育士の平均年齢は33・5歳、平均月給(残業代を除く)は20万9千円で、全労働者の平均月給29万9千円(女性は22万6千円)を下回る=図参照。保育士の賃金は安いということなのだが、私の職場で平均月給をもらっているのは正規職員だけだ。今どこの保育園も半数以上が非常勤・臨時・パートで運営されているが、半数以上の保育士は平均月給以下で働かされているのが現実だ。厚生労働省に私達の平均月給を調査してもらいたいと思う。嫌なら辞めればいいと「使い捨て型」で働かされている保育士、夢と希望を持って保育士になった若い保育士達は今どうしているのだろうか。(美)案内へ戻る
編集あれこれ
前号の1面は、鳩山首相と民主党幹事長の小沢一郎に対する「政治と金」の問題を取り上げています。今までの自民党政治が、金権政治や腐敗政治を行ってきたことは周知の事実ですが、民主党もそういう体質を引きずっています。こうしたことを許さない、私たち市民の監視が必要ではないかと思います。2〜4面は、小沢一郎独裁色に染まった民主党への批判記事です。こうした動きにも、厳しい監視が必要です。
4〜6面は、「個人所有の再建」論争マルクスの所有概念共同占有」Uと題する理論記事です。こうした記事を読むと、理論的な学習が必要だと改めて考えさせられます。
7面は、米軍普天間基地移設問題で注目される沖縄県名護市長選で、基地反対の稲嶺進新市長誕生の記事です。この結果を受けて鳩山政権は、普天間基地を名護辺野古へ移設することはしないでしょうが、他へ移設することもするべきではありません。普天間基地は、撤去しかありません。
8〜10面は何でも紹介、色鉛筆、読者からの手紙、コラムの窓などの記事です。新聞をおもしろくするには、やはり多面的な内容の記事が必要です。そうしたことを頭に入れた紙面づくりを目指します。読者の皆さん。今後もワーカーズをよろしくお願いします。(河野)