ワーカーズ420 2010/7/15  案内へ戻る

「自・民」の交互・共同支配政治と対決しよう!─やってみれば結局は似たもの与党─

 民主党政権10ヶ月の信任を問う参院選は、議席の上では民主党の敗北と自民党の復調という結果をもたらした。民主党・国民新党の与党は参院で過半数割れし、衆参での与野党ねじれ国会≠ェ再現した。
 鳩山政権からの政権たらい回し≠ニはいえ、せっかくの政権交代の成果を水に流したくないとの世論を背景に颯爽と登場したかに見えた菅政権。何を勘違いしたか、突然、消費税10%を口走り、わき起こる世論の批判に対しては無謀な正面突破をもくろんだ。政治より政局@D先の賭でしかなかったことはすぐ暴露された。批判にうろたえ、弁解に追いまくられるという醜態を演じてしまったからだ。
 批判は単に消費税増税に止まらない。無駄を省いて国民生活を支援する、という衆院選でのマニフェストの根幹を、いともあっさり放棄してしまったからだ。その政治姿勢、政治感覚に有権者はあきれかえったのだ。
 もとより有権者は単に現金ほしさに民主党に期待したわけではない。個々のマニフェストへの期待は高くはなかった。それでも政権交代だという民主党への期待の根っこには、政官業談合システムという永年の淀んだ政治システムを根幹から変えてほしい、という有権者の切実な願いがあった。それをたった一年足らずで、無駄の排除ではなくて増税だと、根底からひっくり返してしまった菅新首相の変身。菅首相よ、おまえもか≠ニいう選挙結果という以外にない。
 一年前の総選挙で政権交代を果たした民主党。だが、政治とカネ≠竍普天間≠ナの迷走などで、自民党とそう違わない普通の政権与党に収まってしまったことははっきりした。マニフェストも現実主義≠ノ手直しされた菅政権で浮き彫りになるのは、長期政権という野望だけだ。あれもこれも、政権交代からたった一年弱の出来事だった。
 菅政権は衆院での圧倒的多数を頼んで連立の組み替えや部分連合を模索することになる。が、消費税引き上げで自民党とも共通基盤ができたことで、大連立≠フ芽も生じることになった。いわば大増税連立政権≠フ芽だ。
 今回の参院選がもたらした民主党と自民党という二大政党が対峙する政治構造は、選挙や国会での対立という表皮を剥がしてみれば、二大政党による政治支配構造が生まれたことを意味する。仮に選挙で民主・自民両党の政権交代が繰り返されることになっても、あるいは大連立$ュ権の誕生となっても、政治の中身は大差のないものになるだろう。
 私たちは保守二党による政権たらい回し=「自・民」交互・共同支配体制と対峙し、労働者・市民を基盤とした第三の道≠切り開いていく以外にない。(廣)(二面に関連記事)


大増税政権≠ヘごめんだ!──政治の流動化は通過点──

■失速のM字ダウン?■

 今回の参院選で民主党は改選議席を大きく割り込む44議席しか確保できなかった。衆議院で300を超える議席を保持する民主党だが、参議院は非改選議員とあわせ、過半数に16議席足らない106議席にとどまった。また与党の国民新党は議席を確保できず、参院では非改選の3名の議席しかない。与党あわせて109議席しか獲得できなかったわけだ。
 一方、自民党は改選議席を上回る51議席を獲得し、改選前の勢力を13議席上回る84議席を獲得した。議席だけを見れば確かに復活とは言える。その他、民主党離れの批判票の受け皿になった「みんなの党」は10議席、公明党は9議席を獲得し、参院での新勢力は、それぞれ11議席と19議席を占める。
 今回の民主党の敗北の原因は、なんといっても消費税問題だろう。
 政治とカネ≠ニ普天間≠ニいう鳩山政権の負の遺産≠タライの水と一緒に流すようにして生まれた菅政権。その菅政権は、鳩山内閣終盤に20%台に落ち込んだ内閣支持率を60%台に引き上げて発足した。しかし参院選での争点隠しと衆院選マニフェストの軌道修正の思惑で口走った消費税10%≠ニいう発言から状況は一変した。V字回復を果たしたかに見えた菅政権。しかし消費増税を口にした瞬間、V字回復はM字ダウンの失速だった。
 確かに、最近の大手メディアによる消費税増税による財政再建の大合唱もあって、世論調査でも消費税の引き上げにたいする賛否はほぼ同率で推移していた。特に働き盛りの40代、50代の男性で賛成が多かったという。現役世代の所得税負担が膨らむ事への危惧はあっただろう。それにこのままでは国家財政はいずれ破綻することは、誰の目にも明らかだからだ。
 消費税問題は財政再建という政策路線の問題であると同時に、負担の如何、すなわち損得≠ニいう利害の側面を併せ持つ。深刻な雇用破壊とあふれる失業者、賃金は減り続け、地方の疲弊が止まらない中、将来的な政策選択と、負担ばかりが押しつけられるとの不信感や損得勘定のどちらが前面に出るかは十分予測できたはずだった。ところが菅首相が10%という税率と消費税の還付基準を年収200万円とか400万円と口走った瞬間、消費税問題は政策課題から生活問題になった。
 しかも将来的な財政再建という持続可能な税財政システムについても、菅首相はあまりにも財界よりの姿勢が見透かされていた。たとえば民主党は鳩山内閣の時点から法人税の引き下げに着手し、参院選マニフェストでも掲げた。それが企業減税の穴埋めとしての消費税引き上だという正当な批判を呼び起こす結果となった。
 しかもいったん消費税率を引き上げれば、それは15%、20%と引き上げられるのは目に見えている。これでは庶民宰相≠フ看板ははげ落ちる以外にない。現に、こうした反発は疲弊する地方の1人区で民主党が大きく負け越したことにもはっきり現れている。
 菅首相が読み間違ったものは、財政再建から利害関係に重点が移った消費税問題だけには止まらない。より大きな反発は、民主党が衆院選マニフェストで掲げた徹底した無駄省き≠ニいう旗を、たった一年足らずで成果も中途半端なままで下ろしてしまった事に向けられていた。いわば節約内閣≠ゥら増税内閣≠ヨの大変身だ。増税路線を選択すれば、無駄の削減≠ネど脇に追いやられるのは目に見えている。多くの有権者は、まだまだ無駄ははびこっていると感じているし、現実もその通りだ。だから増税の前にやることがある≠ニ訴えた「みんなの党」が批判票の受け皿として躍進したわけだ。

■大増税政権=H■

 選挙結果では民主党の敗北、自民党の復調という結果になったが、昨年の政権交代から一年たらず、いまでは民主党と自民党のマニフェストは驚くほど似通ったものになっている。
 日米同盟の進化しかり、また官僚との一体化、普天間の辺野古への移設、財政再建、子育て支援での「子ども手当」から保育所などの施設やサービスの充実優先、等々。それに消費税10%だ。小選挙区制のもとで多数をとろうとすれば、どうしても八方美人的な政策の羅列とならざるを得ない。結局、二大政党の政策体系は似通ったものにならざるを得ない。
 今回の選挙結果で民主党は参院での多数の確保に失敗した。現与党の議席は過半数の122議席から13議席足りない109議席でしかない。民主党は政策ごとの部分(バーチャル)連合を模索する姿勢も打ち出しているが、それだけでは多くの法案処理も含めて安定した国会運営ができない。かといって選挙戦のさなかにも連立の秋波を送った「みんなの党」も11議席で,あわせても過半数には及ばない。
 公明党は19議席で、連立を組み替えれば過半数を確保できる。が、消費税引き上げに慎重な公明党と連立を組むことは、そう簡単ではない。
 そこで語られているのが民主と自民党の大連立≠ニいうわけだ。これは小沢代表時の民主党が福田自民党に呼びかけ、結局は頓挫した経緯がある,例の第一党と第二党による連立政権のことだ。
 この大連立には見本がある。05年に当時のキリスト教民主同盟と社会民主党という第一党と第二党が公開的な政策協議を前提として連立を組んだドイツの経験などだ。
 仮に日本でそうした大連立≠ェできるとすれば、それは消費税引き上げのための大増税政権≠ェ生まれることになる。普天間の決着も含まれるだろう。現時点では仮定の話でしかないが、消費税引き上げで共通の土俵ができていることの意味は大きい。
 昨年の衆院選での政権交代、そして今回の選挙結果は、政権交代によるのか、それえとも大連立≠ノよるのか、という表向きの抗争劇を剥いでしまえば、そこにはれっきとした「自・民」による交互にか共同での政権保持という政治構造が垣間見える。いわば「自・民」交互・共同支配政治である。
 私たちとすれば、そうした政治構造と対峙していくという大きな課題が目の前にある。

■第三の道=。

 昨年の政権交代と今回の参院選挙では、政治路線の選択を問うという意味では、大きな違いがある。
 昨年の総選挙では、麻生内閣によって定額給付金など苦し紛れのバラマキ策もあった。が、政策の土台には小泉構造改革の流れが続いていた。それに対抗するかのように、当時の小沢民主党とそれを受け継いだ鳩山民主党は、国民の生活が第一≠ニいう選挙戦術をそのまま鳩山政権の政策路線として継承した。これはめざすべき社会像も滑落した八方美人的で、一貫性や整合性に欠ける大盤振る舞いだった。見方を変えれば、小泉構造改革の供給サイド=企業優先政治から個々人に現金が渡るという需要サイド=生活者優先政治の対峙でもあった。こうした対抗関係に加えて,官僚主導政治の刷新を掲げた民主党に大きな期待が集まった所以である。
 が、今回の参院選ではそうした対峙関係はがらっと変わった、ように見えた。自民党も民主党のバラマキ政策を考慮せずにはいられなかったし、何より民主党の大盤振る舞いが頓挫したことによる。あるはずの財源を捻出できず、結局は史上最高額の44兆円もの国債=借金に依存せざるを得なかったからだ。「大山鳴動し、ネズミ一匹」。民主党は参院選マニフェストで大きな軌道修正に追い込まれた。それが国民生活が第一≠ニいう生活者優先政治(?)から財政再建──大増税への方向転換だった。
 思い起こせば、小泉改革以降この10年の政治の流れは、弱肉強食の市場万能社会から財政支出による景気と生活へのテコ入れ政策への転換の時期だった。しかしそれが頓挫しても小泉流の市場万能型社会へ復帰しようというわけでもない。菅首相の強い経済、強い社会保障、強い財政≠ニいうスローガンそのものは、明らかに市場万能の小さな政府論とは違って、結局は政府の役割の肥大化を指向するものだ。増税による財政再建──社会保障分野に支出──新たな雇用を含む経済成長、というコースを思い描いているようだが、それを担うのは結局は各省庁の官僚や地方政府としての自治体だ。巨額の財政ととてつもない行政の肥大化を伴う、国家主導型社会を指向するものだろう。
 とはいっても、政治路線としては企業優先の市場万能経済を第一の道とすれば、「大きな政府」を指向する菅民主党の政治路線は、第一の道の裏バージョンに過ぎない。結局は、双方の政治路線は、経済や社会の行き詰まりに対する対処療法として選択される、行ったり来たりのジグザク路線でしかないからだ。
 第二の道とは、官僚的・保守的な社会民主主義政党としての共産党や、限りなく議員病に染まった執行部の社民党など、いわば体制内革新派の道だ。
 私たちはそうした道ではなく、個々人の連合=連帯を土台とした当事者主権、住民自治の社会としての「協同型社会」の実現こそめざしたい。それこそが第三の道、政治的な第三極をめざす立場だ。
 参院選結果でもたらされた保守二党制、「自・民」交互・共同支配の政治に対し、労働者・市民による協同社会をめざす闘いを推し進めるという私たちの基本的スタンスをはっきりと確認することが出発点となる。(廣)案内へ戻る


コラムの窓 「消費税10%」を考える

 今回の参院選の争点は、何といっても「消費税10%」の是非であった。「是非」と言っても、与党・民主党の管直人が唱えた「10%」は、もともと野党・自民党の谷垣総裁が唱えた「消費税率10%」の主張を「参考にした」とあって、民主・自民の二大政党の間では違いが見出せず、有権者は何を基準に判断するのが賢明だったのだろうか?

「仕方が無いが、やり方が悪い」?

 ある新聞のアンケートでは、民主党の消費税増税の主張について「説明責任を果たしているか?」の問いに、8割の人が「NO」と答えている。ところが、消費税増税そのものについては6割の人が「容認する」と答えている。どうも世論の趨勢は、消費税増税それ自体は「仕方が無い」しかし何らかの意味で「やり方が悪い」ということのようだ。
 「やり方が悪い」の中身も、「財政のムダをもっと削ってから議論すべき」、「低所得者の負担を軽減すべき」、「税率を上げるのは贅沢品に限るべき」、「増税分の使い道がはっきりしない」、「高齢者福祉に確実に回るのか?」、「いや、高齢者に限定せず子育てや若者対策に回すべきでは?」等など、多岐にわたる。
 「消費税」や「売上税」「付加価値税」等、呼び方は様々だが、「間接税」の導入は欧米とくに「福祉大国」の北欧諸国が先行した。だから単に「欧米では当り前なのだから」と言うのは、あまりにも安易な議論である。その背景となった、戦後先進資本主義国の社会的経済的構造の歴史的変化を見ないといけない。
 資本主義社会の税の基本は、もともとは「所得税」であった。お金持ちや高給取りから高い税率で取り、税の支払能力の小さい低所得者の税率は減免する。この累進課税の方式が国民の合意を得やすく、税財政を安定的なものにすると考えられたからだ。
 「間接税」は、エンゲル係数(所得に占める生活必需品の割合)の高い低所得者により重い負担を強いる「逆進性」ゆえ、広範囲な導入は避けるべきであり、高級車や高額の遊興費などの「贅沢な消費」に限るべきとされてきた。

大量消費社会の中間層

 ところが、戦後の資本主義は「大量生産・大量消費」の内需拡大を軸に発展し、労働者階級の中に広範な「中間層」を生み出した。そして、右肩上がりの企業収益と賃金上昇を基盤に、累進課税と社会保険制度による「所得分配」効果により、中間層以下の層を極端な貧困に陥らせず、各種の扶助制度により、生活を下支えするしくみも出来た。
 中間層の消費生活にある程度の余裕が生まれた結果、間接税の導入を容認する余地が生まれた。その前提は、増税分を社会福祉サービスの充実で「国民に還元」するという、政治的な約束であり、それを担保する「財政の透明性」、市民が財政決定に参加する権利を保障できる「財政の地方分権」であった。
 「間接税」は、商品の価格に「税を上乗せ」するわけだから、当然にも一定の「消費抑制」効果をともなう。また税による価格上乗せを圧縮するため、コスト削減による「デフレ効果」も生む。大量生産・大量消費による社会発展が一巡し、マイカーや家電が普及しその意味で「消費が飽和」したことも、間接税による消費抑制が容認された背景であった。

「所得二極化」の情況では?

 だが、現在の日本における「消費税増税」論議は、時代的には「一週遅れ」であり、税を取り巻く社会環境は、一変している。大量生産・大量消費時代に形成された「中間層」は、「団塊の世代」として退職期を迎え、社会保障の「供給世代」から「受給世代」に役を交代しつつある。彼らが消費税の増税分を支えられる原資は、賃金ではなく公的年金と企業年金である。しかも、90年代のリストラで、順調に定年を迎え退職金を貰えた層は少なくなり、持ち家のローンやベンチャー企業の失敗等で、借金を抱えている層が増えている。
 若者の世代は、二度にわたる「就職超氷河期」や、正社員枠の縮小、非正規社員(契約社員や派遣社員)の拡大で、消費にゆとりの無い層が拡大している。間接税を支える余裕はない。一方、いくらか高賃金を期待できる社員は、大企業や中堅企業の中でも、中国やインドに展開しているメーカーの現地社員である。彼らの生活必需品は現地で消費されるわけだから、中国やインドの間接税収にはなっても、日本の消費税収入になるわけではない。
 若者も、高齢者も、中堅どころも、各世代の層に共通して言えるのは、「中間層」がやせ細り、生活水準の「二極化」が進んでしまったことだ。福祉国家で間接税を導入し、税率を上げていった時代とは根本的に異なる社会状況にある。「欧米では当り前なのだから」では通らないのが今の状況なのだ。
 だからといって、毎年の財政支出の半分近くを「国債」にたより、「国債」の累積額が国民総所得の額を上回る情況を続けていいわけはない。なぜなら、国民の税負担の多くが国債の「利払い」に費やされ、その多くは国内・国外の「富裕層」の不労所得として浪費され、格差拡大の一因となっているのだから。

新しい社会を見越した税体系を

 少なくとも二つの重要な点を忘れてはならない。一つは、仮に「消費税の増税」を議論するにしても、所得格差が拡大した「二極化」社会の現状を踏まえ、それを改善する方向で問題を組み立てなければならない(累進消費税や社会保障目的税など)。
 もう一つは、中国やインド等の海外展開をベースにした「新たな富裕層」に対応した税の在り方や、炭素税や新エネルギー減税など環境対策にシフトした新税導入など、新しい社会を展望した税体系を根本から議論しなければならない。ついでに「国債の利払い」は一種の「不良債権」として富裕層の負担で「処理」し、元本も何らかの有用な社会的投資に振り替えるような、増税以外の何らかの方策を講じ、国民の将来負担を軽減するべきではないか?(誠)


読書室 『消費税は0%にできる 負担を減らして社会保障を充実させる経済学』
菊池英博氏著   ダイアモンド社刊行

「歴史に学ばぬ者は歴史を繰り返す」――菊池英博氏の座右の銘

 この本は、0九年七月十六日に刊行された本である。この本の運命はまさに劇的なものがある。刊行されてから約一ヶ月半後、自公政権から民主党政権への政権交代の中でこの本はすっかり影が薄くなっていたが、一0年六月二日の電撃的な鳩山総理の辞任後成立した管内閣が唐突に消費税十%といいだした事で再注目され、急浮上したからである。
 菊池氏の経済政策への提言には多くの聞くべき事がある。彼の立論の根拠は、一九二九年のアメリカの大恐慌と一九三0年から一九三一年の日本の昭和恐慌にある。この時期に対する深い研究が彼の真骨頂である。彼の信念は、「経済学は簡単なもので、歴史に学べばすべて分かる」というものだ。彼は自らをエコノミストと規定することを嫌い、経済アナリストだと自己規定する。その理由については後述する。
 ここで本書の章立てを紹介する。
 はじめに 「基礎的財政収支均衡目標」と「金融行政三点セット」による消費税増税
 序章 なぜ政府は消費税引き上げに狂奔するのか
 第1章 国民はこんなに騙されている
1 国民を必死に騙す政府
2 最大の国民騙しは「偽装財政危機」
 3 新自由主義・市場原理主義の日本侵略―「規制緩和」「官から民へ」「小さい政府」 4 政府が必死に隠す「アメリカの対日年次要望書」
第2章 こんな愚策は絶対に許してはいけない
1 「郵政事業民営化」は、富の収奪、日本は金融恐慌になり財政が破綻する
2 医療費圧縮はアメリカの要求と「構造改革」のツケ
3 日本はすでに「平成恐慌」
 第3章 消費税は引き下げられる
 1 財源はいくらでもある
 2 なぜ財政危機という錯覚が継続するのか
 3 日本の消費税は低すぎるという嘘
 第4章 「財政の罠」に陥る三つのドグマ―「小さい政府」「均衡財政」「消費税病」
 1 「小さい政府」の錯覚
 2 「均衡財政」の誤解
3 自覚なき「消費税病」
 4 財政の使命を取り戻そう
 第5章 「社会的共通資本」の拡充が国を救う
 1 経済政策は歴史に学べ
2 財政政策の明暗―父ブッシュとクリントン
 3 いま日本で実行すべきは「クリントンモデル」
 4 「停滞・減収・増税」の構造改革モデル
 5 日本復活5カ年計画
 6 医療システム再構築が経済再生のベース
 7 新自由主義・市場原理主義経済学は「まやかし経済学」
 おわりに 日本財政の正しい考え方
これらの菊池氏の章立ては、実に具体的かつ全面的であり、私たちにも大いに参考となる。第1章の国民はこんなに騙されていると日本経済の再建策として「社会的共通資本」の拡充を訴えた事が本書の核心である。
 まず菊池氏は、日本の民主党はアメリカの民主党のモデルを参考にすべきだと提言する。
日本の民主党のモデルはアメリカの共和党のモデル、つまり法人税減税と所得税の累進制の引き下げを柱としたものなのである。今こそ「クリントンモデル」モデル、つまり法人税の増税と所得税の累進制の強化と投資減税と「社会的共通資本」の拡充を追求する経済政策を実行すべきだと菊池氏は力説している。
 すべての議論の出発となる第1章では、騙されていることを証明するために11の図表が使用されて丁寧な説明がなされている。第2章では6の図表が、第3章では6の図表が、第4章では6の図表が、第5章でも7の図表が使われており、菊池氏の論理展開を裏付けるものとなっている。驚くべきは、これらの図表の内の20が著者が公式発表の統計から自ら作成したものであるという事である。
 まさに経済アナリストの面目躍如といったところではある。その他の特別会計等についての3の図表は、「日医総研」の前田由美子氏等のものである。これらの図表は読者の目から鱗が落ちる貴重なものである。また巻末にある個々の事項索引も充実している。さらには「ちょっと道草」との名で本書の理解を助けるための6つのコラムがある。
 順に紹介しておけば、「なぜ日本はアメリカの民主党政権に尻込みするのか」、「なぜ日本は一党に統治されることに満足なのか」、「特別会計は『巨大な国立銀行』である」、「アメリカ大恐慌からの脱出時の中央銀行の役割」、「アメリカの社会基礎は大恐慌後の公共投資が始まり」である。菊池氏の歴史に学ぶとの姿勢が強く感じられるコラムである。
 こうして「国民が騙されないように、公開の席上で議論したい」との八面六臂の著者の行動は、10年2月に公述人として国会に招聘されるまでに大いに注目されてきた。
 「ユーチューブ」では、彼の理論を強く支持するフリージャーナリストの岩上安見氏との対談が数多く公開されている。国会での公述人としての発言も公開されている。
 また7月4日、菊池英博氏と岩上氏は、「財源はいくらでもある!消費税増税は反対!緊急国民財政会議」が開催して、ギリシャのようになると有権者を騙しながら法人税減税と消費税増税に走る管内閣の愚行を、この本の論理展開を踏まえて、参加者に訴えた。
 この会議の模様は公開されているのでぜひ視聴をと呼びかけたい。
 こうした菊池氏の行動の原点である本書の熟読を期待する。      (直木)案内へ戻る


亀井前金融担当大臣の置き土産―ゴーン日産社長の年間報酬8億9千万円の発覚と驚き

 3月12日、亀井静香金融担当相は閣議後の記者会見で、1億円以上の報酬を得ている上場企業などの役員に、個別開示を義務づける金融庁方針について「反対があってもやる」と発言、見直す考えがないことを強調した。この問題では日本経団連など経済界が「プライバシー保護の点で問題がある」などと猛反発して対立が続いていたが、結局は亀井大臣に推しきられた。彼の持論は「企業は社会的存在。公表してはならない理由はない」と述べ、予定通り2010年3月期決算から開示を義務化された。
 今回の義務化は、情報開示の強化が目的で、総額1億円以上の報酬を受け取る役員(取締役、執行役、監査役)の個人名と報酬額の内訳を有価証券報告書に掲載。現金、ストックオプション(自社株購入権)、賞与、退職金といった報酬額の算出根拠も示すことになっている。
 6月23日、日産自動車は横浜市内で株主総会を開き、カルロス・ゴーン社長の2010年3月期の報酬は、総額で約8億9000万円だったことを明らかにした。ゴーン社長の報酬は、これまでに判明した3月期の役員報酬では、ソニーのハワード・ストリンガー会長兼社長の総額約8億1650万円(自社株の購入権を含む)を超え、日本企業の経営者として最高額であった。
 日産ではほかに志賀最高執行責任者(COO)が約1億3千4百万円、コリン・ドッジ副社長が約1億7千6百万円、カルロス・タバレス副社長が約1億9千8百万円。西川副社長と山下副社長も1億円を超え、1億円超はゴーン氏を含めて6人という。
 このように日産の役員報酬は、トヨタ自動車の三役やホンダなどの同業他社の役員報酬が一億二三千万円台に比べて水準がなぜか大幅に高い。潮路機関解体の反動だろうか。
 ここ数年は株主総会の席上、「コストカッター」の異名を取り日産のV字回復を成し遂げたゴーン社長に対して、恒例のように退陣要求が突きつけられてきた。彼は姑息な逃げを打つばかり。ここ数年は経営手腕に疑問も呈されており、かっての勢いは全くない。
 今回ゴーン社長は、今年の株式無配当に沈む株主の先手を打って、会長挨拶の中で報酬について触れ、「会社の業績、個人の実績、他のグローバル企業との比較を基に決めた」と話し、決して高額ではないという見方を示した。まさに厚顔無恥という他はない。
 脚光を浴び得意の絶頂にあった彼は「成果が出せないのなら去れ(ゴーン)」とまで言っていたのだ。まさにこの言葉は今の自分に向かって言わなければならない言葉ではある。
 それにつけても資本家どもの傍若無人の強欲ぶりには驚かされるばかりである。ここ10年間法人税を全く支払っていない銀行業界でも、役員は1億円を超える報酬をせしめている。税金を投入されて銀行の経営危機が救われた事をどう考えているのだろうか。
 成功すれば功は自分に、失敗したら部下に責任をなすりつけるでは世の中は回らない。
 資本主義の破廉恥さが一層浮き彫りになった役員報酬の公開義務ではあった。(猪瀬)


映画 「密約」の紹介

「一組の男女は有罪となった。だが真に裁かれるべきは何だったのか?」
 映画「密約・・・外務省機密漏洩事件」(1978年 千野皓司監督)は、この字幕で終わる。当時この裁判を傍聴し続けていたノンフィクション作家、澤地久枝氏の原作をもとに作られた映画で、緊迫した法廷シーンを中心に、この事件をていねいに描いている。 密約の存在そのものを否定し続ける政府、しかも検事の起訴状の中の「ひそかに情を通じ・・・」の言葉から見事に本質をごまかし、焦点をずらした国家の力。そしてそれに流されたマスコミの、ともに許し難い犯罪行為は、38年たった今日、政権交代後密約の実態が次々と明らかになってもなお断罪されることは無い。
映画の中の、沖縄への取材シーンが印象的だ。畑の農婦と米軍の戦闘機とが、驚くほど近い。嘉手納町の78%をはじめとして、多くの町や市が面積の半分以上を米軍基地に奪われている数字が並ぶ。インタビューを受ける沖縄の人たちは、この事件の本質を見抜いていた。
今、世界72か国、5570か所に米軍は基地を置き(米国内にはひとつも外国の基地は無い)、中でも「思いやり予算」が付き、なおかつ好き勝手に使いたい放題の日本の基地、とりわけ沖縄の基地を保持し続けるため、密約、嘘、ごまかし、焦点はずしなどまだぞろぞろあるはずだ。国家や軍隊を守るために、沖縄の人たちに多くの犠牲を強いながら・・・。対米関係は、当時の構図と少しも変わっていない。
 真に裁かれるべきは、日本国家だ。
 土砂降りの上映最終日は、10人足らずの観客。それでも映画制作者と上映に深く感謝。(澄)案内へ戻る


読者からの手紙

 沖縄塾のこと

 7月6日の夜、大阪の大正区で、沖縄からの女性、本州の某大学の憲法学者をまじえてのパネル・ディスカッションがあった。沖縄の方は沖縄には基地はつくれない≠ニいう結論に至るまでのオバさんたちの動きを話された。
 辺野古移転の話がおこると普天間周辺のオバさんたちは辺野古の家々の戸を叩き普天間の基地を辺野古に移すことはさせない≠ニ告げたそうで、これを契機に辺野古と普天間の人々のつながりが、作られたそうだ。ここには自分のために他者を苦しめたら夜も眠れない≠ニいう沖縄伝統の精神が生きていると思う。
そして彼女のコトバは生き生きしていた。このように私が思えたのは帰宅後、家人に大正区の沖縄塾(私は大正区での集まりをこう呼んでいる)での話をしているうちに、こんなふうに思えるようになったからだ。そして沖縄の状況を少しは伝えることができたと満足した次第。 10・7・7夜 宮森常子


「ビデオニュース ドットコム」を申し込む

 この三月に退職し、時間的な余裕ができたので、本格的に情報収集をしようと決意しました。今までに購入した本を丹念に読むことをまず一番に取り組んでいます。
 さらに講演会等にも足を運んでいます。岩上安見さんに注目し、サポーターに名乗りを上げました。七月十七日横浜で集会があります。楽しみにしています。
 さらに二三年前、フォトジャーナリストの神保哲生さんが始めた「ビデオニュース ドット コム」も申し込みました。会員は約一万人います。月額は五百円です。宮台真司さんも常連コメンテーターです。
 六月から入会したのですが、折からの鳩山総理の電撃辞任と管内閣の成立についてはテレビでは絶対に放映されない生々しい情報を得ることができました。
 そんなこんなで退職した事で有意義な時を過ごしております。
 「ワーカーズ」もじっくりと読むことができるようになったので、紙面の充実をよろしくお願いいたします。      (笹倉)


色鉛筆−チャレンジド(障害者)を納税者に

 消費税が10%になったらと、あれこれと計算をしてみたら、ますます買い控えが現実的になってきます。税金には色んな種類がありますが、税金と聞いただけで一般市民は税金=悪のようなイメージを持っているように感じます。例えば、私の職場では税金対策で103万円か130万円に年収を抑えている同僚がほとんどです。しかも、夫の収入に扶養手当・家族手当なども付いてくるのですから、中途半端に働くよりもお徳というイメージが定着しているようです。
 神戸市在住の竹中ナミさんは、重症心身障害者の長女を育てながら独学で障害児医療、福祉などを学び、1991年に非営利組織「プロップ・ステーション」を設立しました。見出しの「チャレンジド(障害者)を納税者に」は、「プロップ・ステーション」のスローガンで、障害者も当たり前に働くことに取り組んできました。
 参院選前に、神戸新聞のインタビューで、竹中さんはこう答えています。 
「社会保障を充実させるにはお金がかかる。政府の財政制度等審議会委員を10年近くやって、公共事業よりも社会保障がいかに予算を必要とするのがよく分かった。超高齢社会を迎え、社会保障の財源をしっかり確保しておかなければ、今よりもひどい状況になるんやろうなと思う」
「重い障害のある人は福祉や社会保障の対象だが、社会を支える力はいっぱいある。わたしは小泉政権の時代からそう訴え続けてきた。新しい社会保障制度を生み出してもらうようにするのが、私たちの仕事であり、チャレンジドの願いだ」
 社会を元気にするのは金の力ではなく人の力、1人でも多くの人が自分が社会の支え手になろうという思いをもってほしい、と訴える竹中さんに社会の本来のあり方を教えられた思いです。誰もが納税者になる社会を構築し、働いて収入を得て、税金を納める循環を作ることで社会保障を安定させようと、シンプルで分かりやすい主張に、国政選挙に出馬し訴えて欲しいと思いました。みんなが働いて税金を納めて、社会を支えよう。そして、税金の使われ方には、納税者一人ひとりがチェックをしましょう。(恵)案内へ戻る


連載  マルクスの協同組合的社会の諸問題 ――――『ゴータ綱領批判』の再検討
            
                       2010,7,10  阿部 文明
 一、はじめに――社会と労働
 二、「社会的有用労働」の概念の確立
 三、社会に与えた分を取り戻すのは「ブルジョア的権利」か
 四、労働の給付に基づかない分配の意義
 五、「ブルジョア的権利」から国家が生まれるか?
 六、協同社会に不可欠な、補正のための再分配
 七、「社会的有用労働」の社会配分の具体的例
八、補――精神労働と肉体労働の分裂の歴史

一、はじめにーー社会と労働

 労働が社会形成の土台であることは、高校生でも理解できることでしょう。ある日突然に全労働が停止すれば、社会は滅びるに違いありません。だから労働は,必要不可欠な人間の根本的営為に他なりません。社会は労働により成り立っていることは疑う余地もありません。
 しかしながら、資本主義社会でどこにでも見られる長時間労働の存在は、搾取の存在のために人間の再生産をはるかに超えた労働のためであり、その結果として、人生の多くの時間を労働に捧げ尽くすものとなっています。人間ばかりではなくすべての生産諸条件を使いはたす、このような労働のあり方自体が、「利潤追求」を原理とする資本主義社会に由来するものなのです。
 では、資本主義を克服した社会ではどうなのでしょうか。労働が大切であり、社会の根幹を形成しているという普遍的な事実と、脱階級社会での労働のしめる社会的位置については、どのような法則が成立しているのでしょうか。この重要な点について論じられることもなく、「社会主義になれば生産力は飛躍的に向上する云々」と言ったことが自明のごとく語られるのが一般的ではなかったかと思います。しかしそこには「労働」に対する評価の大転換があると思われます。その辺から話をしてみたいと思います。
 部族社会あるいは、バンド社会等、搾取が無く、階級が無く国家が存在しない社会の現実から見てみましょう。余興、遊び、スポーツ、グループ活動、芸術活動、交際、その他の社会的つながり全体の中の,「一部分」としての労働であることが鮮明にみてとれます。どんなに労働のための条件が存在していても、未開人は、「一定量」の生産を超えて労働を実行しないことが、多くの報告に示されているのです。これは、サーリンズなどが言うところの「過少生産構造」(しかし、この表現は適切なものではありません。)と言うやつです。生産が一定満たされれば、労働は停止され、労働のための「有利な」資源や条件があったとしても放置されるというのです。そのかわりに他の社会的行為が実行されるということがこの際非常に重要な点です。祭りとか、祭儀とか、踊りとか、社交、食事宴会とか。つまり、支配階級が、搾取強化のために「いっそうの剰余労働実現のために」無理矢理長時間労働を押しつけなければ、労働は、本来の位置、つまり「協同体を再生産するための必要な最低の量」へと法則的な帰結を見るという、蓋然的な内在的制限を持っているのです。(この「最低の量」とは、その社会の文化的意識や歴史の発展段階によって固定的なものではありえないが。)
 要は、労働がどんなに重要だといえども人間の社会的行為の一部であるということです。このようなトータルな人間の協力・共同行動=全社会的行動の一部分としての「労働」であるのです。したがって資本主義を脱した時点でのこの「労働の社会的位置」というものは、あくまで協同社会の再生産のための全社会的行為の一部にしかすぎないことも確認しておくべきでしょう。「社会主義」が生産力主義であるかの考えやイメージは、まだすっかり払拭されているわけではありません。自由なアソシエーションは、資本主義に内在されていた、大量の不生産的・階級的労働を大幅に整理し,それによって労働の生産性や生産力自体の向上をともなうものであるとしても、さらに自覚的で主体的な労働諸力を「解放する」等々の理由で生産力が向上するとしても、けっして生産力主義ではなく、協同体の再生産、つまりよき共同体員を作り出してゆくすべての環境の整備にこそ力を注ぐであろうし、この問題に従属して初めて「労働」「生産」という行為を社会が適切に位置づけるでしょう。これらの視点が、これから論じられる問題の前提となっています。

二、「社会的有用労働」の概念の確立

 マルクスが、「ゴータ綱領」(ラサール派の理論的影響の元で作成された綱領)を批判的に検討したものがいわゆる『ゴータ綱領批判』です。ここでは、ラッサール批判の細部に入るのが目的ではなく、その「批判」を介して垣間見られるマルクスの「共産主義の第一段階」の社会システムに注目してみましょう。
 マルクスは、「労働収益」と言うことばを「労働生産物という意味にとろう」として、社会的な分配に論及しています。この要点は次のようなものです。
協同組合的社会が生産した労働生産物は、生産的労働者にそのまま分配されない。いくつかの「控除」がともなう。
@消耗された生産手段の補填。
A拡大再生産のための追加部分。
B事故や天災に備える予備元本等。
これらの必要な社会的「控除」は自明なところでしょう。
「さらに、各人に分配される前に、次のものが控除される。」
@不生産的な一般行政費(この部分は歴史的に徐々に減少する。)。
A学校や衛生設備等、不生産的だが社会的な意義を持つ事業(この部分は社会の発展と同時に増大する。)。
B労働不能者のための元本。

 マルクスの説明は、大要このようなものです。ここに語られている部分には不分明なものはないでしょう。労働価値説から説き起こせば、「生産的労働者の取り分」という視点でこのような説明になると思われます。
 ただし、このような説明は、「共産主義の第一段階」の社会における労働のあり方と分配の全貌を、したがってこの社会の生産のシステムを示すものではないと考えています。たとえばマルクスは「社会に給付された労働」に対応した――控除をともなうが――労働者の取得、を根本に据えています。しかし、「生産的労働者」以外の、社会的には有用だが直接に物質的生産に結びつかない「不生産的労働者」の扱いについては、なにも語られていません。生産的労働者たちから、不生産的労働者のための原資が「控除」されている、ということだけが理解できますが、彼らの労働はどのような社会的評価と計算のもとで、したがって彼らの間ではどのような分配原理が支配するのか? 『ゴータ綱領批判』のなかでは何らその答えを見いだせません。この問題をまず検討してみましょう。
 未開の共同体社会から学べば、狩猟に参加したものたちは、勢子(獲物を追い立てる役)やキャンプの火を起こしたものにも、射手と同量ではないものの、獲物の「取り分」が認められています。これは親戚や老人への「贈与」としての第二次分配ではなく、「集団的必要労働・有用労働」に対する分配、すなわち第一次分配なのです。このような歴史からも学べば、共同体としてのアソシエーション社会の労働は、おしなべて「社会的有用労働」として、直接に第一次分配の権利の土台となるでしょう。そのほうがよほど合理的で現実的でしょう。直接に獲物を捕る労働と、補助的な労働と、キャンプの火をおこすなどの、直接には「狩猟」と関わらない労働も、同等ではないが、有用な総合的な社会的労働の一部として評価されているのです。現代社会においも,階級的不生産的労働が廃止された後には、「社会的有用労働」として、すべての労働に同一の基準が定立されるべきでしょう。
 また、採取狩猟社会とはちがって資本主義以後の社会での労働は何千何万人あるいはそれ以上の社会的規模で行われます。したがって、その分配の基礎である「社会的貢献度」は、通常、労働時間として評価することが基本となります(高度科学研究開発、高度技能そのた創造的分野などはちがった基準も用いられるでしょう。詳しくは別に論じる必要があるでしょう)。
 あらためて整理してみましょう。社会の中で行使される労働は、けっして生産的労働だけではありません。福祉・医療・教育・娯楽等々、生産的ではなくとも(直接物を作らなくとも)、アソシエーション社会で社会的に有用な労働が存在するのは明らかなことです。日本のような高度な資本主義社会では、労働者のうち、すでに生産的労働と不生産的労働は半々となっています。労働者革命が資本主義経済のなかに含まれる、反社会的で不生産的な労働を大幅に削減する(たとえば軍隊)ことによって、短期的には生産的労働の比率が増大することはありうることです。しかし、長期的にアソシエーション社会では(マルクスの示唆もあるように)、生産過程の機械化やオートメ化が進行し、労働者はより少ない比率でこの分野をまかなうようになるでしょう。他方、直接には社会的には有用で不生産的な前記の諸労働がより大きな比率となると考えられます。不生産的労働が、社会的総労働の五○%を越えて増大するのは歴史的な趨勢とかんがえてよいでしょう。(国際的分業の問題がありますが、ここでは考慮の外に置きます。)
 住宅建設や自動車や食料、衣料品等々の消費物資、それを生み出す生産財等々の物質的生産は、社会的総労働の半分以下なのがアソシエーション社会の現実とみなくてはなりません。また、この社会では、各成員が一般管理事務にも生産労働にも研究開発にも教育労働等々にも参加し始めます(固定された単純分業の揚棄)。こうした事情もあり、社会的総労働は社会的に有用な不生産的労働も加えた全体とみなくてはなりません。もし、生産的労働と不生産的労働を別のもの、――もちろん両者の区別はあります――という理由から、経済計画上の「労働」という共通の尺度を否定することがあるとすれば、単純で統一的な経済運営を困難にするでしょう。生産的労働も不生産的労働も、「社会的有用労働」として概括し、そうすることによって社会的総労働時間を有効にかつ計画的に配分することができるのです。
 この「社会的有用労働」の概念は、人間の労働能力の系統的な行使であり、共同社会の総労働の一部を構成しています。けっして空虚なカテゴリーではありません。
 またそもそも、生産的労働であるのかもしくは不生産的労働であるのかは、有機的な経済連関のなかで、どの位置を占めるのかによってきまります。ある製品、例えばある種の照明器具を考えてみましょう。まず製品についての提案やアイデアが考え出されます。それを設計技術のレベルでまとめあげますが、もちろんコンピューターによる支援設計で、特別な技能者の専売特許ではなくなっています。それがさらに製造過程に進みます。これもマシニングセンターやCIM(コンピューター統合生産システム)などで、多くの人々が特別な生産技術によらず、生産過程に参加できる条件を創りあげます。注文のあった某劇場では、それを引き取ったあと舞台装置の中に組み込んだとします。照明係の操作の下で、それは大衆娯楽の目的で使用されます云々。照明係も今やコンピューターによる操作です等々。
 客観的にみて、生産過程の一部を担うのかその他なのかという違いはもちろん残ります。しかし、コンピューター中心の開発・設計・生産過程は、それにたずさわる人にとって、照明係やあるいはコンピューターによる福祉事務を執る人と、主観的には何ら変わることはないでしょう。自分が今生産的労働にたずさわったのか、それとも不生産的なそれかなど意識することは少ないでしょう。意識したとしても、それは個々の労働者に特別の意味をもたらしません。
 さらに再三ふれてきたように、この社会では固定的分業が緩和され、個々人がいろいろな職業に就くようになります。一人の人間が複数の労働をにないます。仕事は何日かおきには替わります。生産的労働にも不生産的労働にもともに就くのが当たり前となるでしょう。
 そしてなにより搾取の消滅、不生産的で階級支配のための「労働」たとえば「労務管理労働」それにともなう「精神的労働と肉体労働」の対立の緩和・融合は、この二つの労働の概念を「対立概念」として峻別する必然性を失わせるのではないかと思います。「生産的階級」としての労働者と直接に生産的労働ではないいわゆる不生産的労働や非生産階級との対立は、剰余価値の収奪の科学的解明にとって必要な前提であり、労働者と資本家との対立の消滅と共に、概念の区別はのこったとしても、「概念の対立」(階級対立を基礎とする)は意味を失うでしょう。
 なぜなら、今や不生産的労働も共同体の成員が行う社会的に有用労働としてのみ存在しているからです。また、このような客観的な労働の相違は、共同体内での「取得」の問題とは関わりのないものとなるからです。個々人の「取得」の土台となるのは、社会の総労働を構成する「社会的有用労働」という共通の質だけでしょう。ここで求められていることは、「等質の労働」を前提としない限りどんな体系的な経済の構成も不可能であると言うことでしょう。
 このようにしてアソシエーションの各成員は、どの部署にあっても、社会的有用労働の一構成部分をなし、また、それによってその労働時間を――多くの場合――比例的尺度として第一次の分配をうけることになります。さらにいうまでもなく、総「社会的有用労働」という把握があって、社会は、初めて各産業やサービス労働が一元的に計算され、また、合理的に労働が配分されるものだと考えます。(ここでは、各種労働の安全性や労働の強度や質の問題、したがってそれらに関する分配上の「配慮」についてとりあえず無視しています。) 以下次号に続く案内へ戻る


編集あれこれ

 切り捨てられ続ける沖縄、本紙前号1面においても、戦後65年目の「慰霊の日」報道を通じてその事実を指摘しています。かえりみれば、占領を脱した日本に米軍が居座り続けるために、サンフランシスコ講和条約と同じ日に安保条約が締結されたのです。安保条約とは、ひとえに米軍が日本に基地をおき、自由に使用するためのもの以外ではありません。
 米軍が日本を守るというのは幻想に過ぎません。かの「週刊金曜日」にすら、「日米同盟は有益であるのは間違いなく、米軍基地をなくせというのは現実的とはいえない」という投書が載るのですから、菅首相が「国民が多少の代償を払っても国を守り、育てようというのが外交の力だ。国民がどれだけ国のあり方に責任を持とうとしているのかで決まる。外交とは内政だ」と、安んじて沖縄を切り捨てることができるのです。
 岡田外相はもっとあけすけに「沖縄の負担を軽減しなければならない。だが、変えてはいけないものと変えなきゃいけないものがある」と語る。これをありていに言えば、沖縄は米軍の軍事占領の地位に甘んじろ、その枠のなかでの負担軽減≠ネら考えてやろうということなのです。彼らがこうした発言を街頭で行なうのも、国民の多数は鳩山前政権による日米合意を容認するだろうと踏んでいるからです。
 沖縄の現状は何とかしなければならない、しかし米軍基地をなくすのは心細い、だから沖縄の犠牲は仕方ない。この思考停止の堂々巡りのなかで、沖縄は切り捨てられ続けてきたのではないでしょうか。政権の行方はどうであれ、この罠から抜け出さない限り、沖縄差別に加担し続けることになります。
 8面には男女共同参画社会基本法成立10年について紹介され、世帯単位から個人単位への政策転換について述べられていました。こうした方向性についても大きな抵抗が付きまとっています。外国人地方参政権や選択制夫婦別姓の法制化が進まないのも、こうした抵抗によるものですが、地方自治体では陳情という形で広範囲に取り組まれたりしています。
 一例をあげれば、「子ども手当の廃止を求める意見書に関する陳情」があります。その趣旨をみると、笑ってしまいます。
「受給対象者を日本人に限定できなければ、日本を守るために制度自体を無くすべきです」「いずれにしても、子育ては、一義的には家庭でなされるべきです。『子どもを社会全体で育てる』という考え方の民主党政権は、家庭における子育てを軽視していると言って過言ではありません。このような考えから出来た子ども手当は、家庭を守るために廃止されるべきものです」
さすがにこの陳情は議論にさえ付されなかったようですが、笑ってばかりいられないのは、この手の陳情がいつの間にか通過してしまっているということもあり得るのです。
 前号では記者クラブ制度の弊害についても多く述べられていましたが、これによって新聞社は第4の権力≠ノ成り果てています。この制度が揺らぎ始めているのは、数少ない政権交代の成果のひとつです。鳩山政権は全てだめだったという全否定の総括ではなく、成果は成果として認め、これをさらに前進させたいものです。  (晴)案内へ戻る