ワーカーズ421−2合併号 2010/8/1
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資本の利害・資本の支配への挑戦を恐れず、労働者の新たな闘いを創出しよう
7月の参院選結果が示すように、昨年の衆院選における民主党勝利・政権交替として表された国民の「変革」への期待は、いま急速に失望へと変わりつつある。菅首相による消費税増税発言とその弁解に右往左往する姿は、いったんはメディアから遠ざけられた政治とカネ問題のほおかむり、普天間問題での変節への国民の記憶を呼び覚ませながら、民主党への幻滅感を拡大させつつある。
とは言え自民党に支持が戻りつつあるわけでは決してなく、注目を集めているのはみんなの党だ。みんなの党は、民主の支持層の一部を形成していた小泉流の構造改革路線の継続を期待する人々を、民主党から引っぺがしつつ支持を拡げている。
昨年の衆院選で民主党を支持した人々の中には、自民党の新自由主義政治、それが生み出した格差や貧困を批判する大きな流れが存在した。しかし彼らはいま、自民党はもちろんみんなの党にも支持を寄せることが出来ず、極めて消極的な仕方で、いわば仕方なく、民主党と菅政権を選ぶことを余儀なくされている。
いま、日本の政治は、旧態依然たるバラマキ政治、新自由主義的な構造改革政治、そして欧州型の社会民主主義の三潮流・三傾向が、未整理なまま、相互に混交しつつ、自民党や民主党やみんなの党、そして社民党や共産党などに組織的な表現を見いだしている。これら三傾向の間の対抗と対立は、当面は成長戦略、税財政、社会保障、日米同盟をめぐる論争として火花を散らしながら、その混乱に拍車をかけていくだろう。
これら三潮流の間の闘争が、これまでもそうであったように混乱と自己矛盾に陥らざるを得ないのは、それらがいずれも資本の利害・資本の支配を不動の前提にして、その枠の中での対立にとどまっているからだ。我々労働者は、これらの三傾向が共有しているこの土俵を超えることを恐れることなく、社会変革の戦略と展望を打ち出し、新しい労働者の闘いをつくりだしていかなければならない。(阿部治正)
ベーシック・インカム≠ヘ生活保障の跳躍台になれるか
──再配分システムでの生活保障の功罪を考える──
ベーシックインカムというあまり聞き慣れない言葉がじわりと拡がっている。
昨年の衆院選挙で田中康夫氏が代表だった新党日本が選挙マニフェストで掲げ、またホリエモンこと堀江貴文氏や反貧困運動の雨宮処凛氏など有名人が推進論者になっていることもあって、一定の広がりを獲得しつつあるようだ。今春には「ベーシックインカム日本ネットワーク」も設立されている。
社会保障の揺らぎや崩壊がいわれるいま、はたしてベーシックインカムはその救世主、跳躍台になり得るのだろうか。
◆ベーシックインカムとは◆
ベーシックインカムとは社会保障政策の一つで、すべての個人に基礎的な生活をまかなえる所得を無条件で支給するという「最低限所得保障」だ。生活のために必要な基礎的な所得を勤労所得への比例課税でまかなうというのが趣旨で、ベーシックインカム保障、ベーシックインカム構想ともいわれる。類似の構想としては、「負の所得税」「社会配当」「参加所得」などがある。
まだこの制度を導入した国はないが、部分的には生活保護、失業給付、子供(児童)手当などの形で広く導入されているともいわれている。民主党政権が提唱してきた税金による最低保障年金制度や子ども手当も、対象を高齢者や子供に限定した部分的、変形的ベーシックインカム制度とも言えるかもしれない。無条件で一律の現金支給という特徴は共通しているからだ。
ベーシックインカムの財源に想定されているのは勤労所得への比例課税。それも各種所得控除を撤廃した上での一律50%分というレベルの高率の所得税だ。総収入の半分が税金で徴収されることになる。これだけだと拒絶される以外にないと思われがちだが、推進者によれば現実的で実現可能な制度だとなる。
もう少し数字を紹介しながらベーシックインカムの具体的イメージを考えてみたい。
京都府立大学の小沢修司教授によれば、所得税50%で全国民に一律8万円の支給が可能になるという(『福祉社会と社会保障改革──ベーシックインカム構想の新地平』2002年より)。
まず必要な給付額。
小沢教授は生活保護費や老齢基礎年金、障害者年金と世帯の消費支出額調査などを踏まえ、ベーシックインカム月額を1人8万円と想定する。1億2000万人分では115兆2千億円になる(8×12×1億2千万人)。
ベーシックインカム導入によって既存の社会保障で現金支給される部分─公的年金、失業手当、生活保護、子ども手当など─は無くなる。この総額は43兆5千億円で、ベーシックインカムで新たに必要な財源は72兆円弱となる。必要額の4割近くがカバーされるイメージとなる。
実際にベーシックインカムで必要な115兆円を所得税で賄うとするとどうなるか。
02年度の給与総額は222兆8千億円だから51.6%、各種控除なしの給与支給額のほぼ50%強がベーシックインカムの財源として必要になる。
所得税50%と聞くと、もうそれだけで拒絶されるレベルだろう。が、ベーシックインカムで各世帯には最低所得保障金が支給される。その額は月額8万円、年額96万円だ。その結果、現行制度とベーシックインカム導入後の各世帯での可処分所得はほとんど変わらないか、あるいはかえって増えるケースもある、というのが小沢教授の試算だ(別表参照)。
◆崩壊するセーフティ・ネット◆
なぜ日本でもベーシックインカムの必要性が議論されるようになったのだろうか。
いうまでもなく医療や年金、それに介護や生活保護など、社会保障制度全般でその基盤が揺らいできているからだ。背景には、パラサイトシングル、派遣切り、ワーキングプアあるいは就職難民などに象徴されるように、働くことを前提とした従来型の社会保障制度の土台そのものが揺らいできている現実がある。いまでは高齢者や子供といった社会的弱者だけでなく、労働年齢の年代層にも最低限の生活保障が必要な時代になっている。
ところがこれまでの社会保障制度は、フルタイム労働者と専業主婦世帯、完全雇用を前提とした「戦後の福祉国家モデル」を前提としてきたものだが、いまではその基盤そのものが失われてしまっている。日本でも終身雇用や年功賃金、企業内組合と企業内福利に依存してきたセーフティ・ネットは、雇用破壊と非正規労働者の激増で、ワーキング・プアをはじめとして、新しい貧困問題のまえに形骸化が進んでいる。社会保障制度も、働いている限り生涯生活サイクルがなんとか満たされていた時代の制度を引きずっていて、新しい労働環境を踏まえた社会保障の仕組みへの組み替えは遅々として進んでいないのが実情だ。
◆理念とメリット◆
ベーシックインカムの推進論者(小沢氏など)は、すべての国民の基礎的生活保障を実現できることがベーシックインカムの最大の意義だとし、その上でいくつかの大きなメリットがあるとしている。
第一は、人々を性別分業から解き放つこと
第二に、生活保護での資力調査によるスティグマ(自尊心の損壊)を取り除き、行政コストも軽減できること
第三に、労働賃金への依存から人々の生活を解き放つこと、同時に完全雇用と結びついた「福祉国家型」社会保障制度の限界を乗り越えた普遍的なセーフティ・ネットを提供できること
第四に、労働の人間化や自主的市民活動の広範な発展に寄与すること
などである。
確かに最低生活が保障されれば、後はそれ以上の生活を望む人はいままで以上に働く生活でより豊かな生活が送れる。また働かなくとも誰でも最低限の生活が可能になることで自由な時間を持てたり、文化活動やボランティア活動など、賃金労働から解放された自由な活動にも専念できる。さらには個々人の判断で多様な生活スタイルを選択できるようになる。それだけでも失業や長時間労働など、様々な困難のなかで働かざるを得ない現状からすれば、人々の生活は様変わりする、というわけだ。
推進論者はこれらの他にも様々な利点を挙げている。
たとえば様々な制度に枝分かれしている現行の社会保障制度の単純化によって行政コストが劇的に節約され、小さな政府が実現する。子供が増えるとその分給付金が増えるので、少子化対策に役立つともいう。また給付額が全国一律の場合、物価の安い地方の方が有利になり、地方の活性化につながる、というものもある。
これらの利点は、確かにベーシックインカム導入を机上で考えた場合にはそういえなくもない。
とはいえ、あまりに単純なベーシックインカム万能論に対する警告の意味や否定論への回答の意味も含めて、ワークシェアリングとのセット論で推奨する見解もある。ベーシックインカムは労働・生活条件の改悪にも改善にもつながる可能性があるからだろう。現にベーシックインカムそのものの効果や持続可能性について多くの懐疑論や批判もある。次にそれを見ていきたい。
◆分離は可能か◆
懐疑論や批判のはじめは、まず1人8万円という給付額で足りるのか、という問題だ。先に見たケース1〜3では、何らかの形で働いている世帯では、導入後の総収入が導入前の総収入とさして変わらないか増える、と試算していた。とはいえ、独居老人や病人などの単身者、あるいは借家住まいの人などは8万円ではとても足りない。住宅補助や医療補助などがある生活保護より実質的にはだいぶ低くなる。小沢氏も指摘しているように、一律の支給額に傾斜を持たせるなどの修正や、他に住宅費補助なども必要だとなると、単純明快な話ではなくなる。
また50%の所得税で全国民に8万円のベーシックインカムが支給可能だ、とする試算だ。実際、112.5兆円の所得税といえば、02年度の15.8兆円という所得税実績の7.3倍にもなる。それほどの負担を受け入れられるのだろうか。それにこの試算では、公共事業、教育費、防衛費など、他の財政支出部分のための税金が考慮外だ。現時点での社会保障給付以外の財政支出を40兆円だとすると、総所得225兆円の2割近くになり、すべて勤労所得税で負担すると7割近くになってしまう。それに地方税の問題もあるが、それらは先に紹介した小沢氏の試算では、社会保障に限定した試算という前提からだろうが、抜け落ちてしまっている。
これらのたぐいの批判はその他にも多いが、もっとも根源的な批判は、最低生活費の保障を労働から切り離すことの是非に向けられている。
代表的な批判は勤労観に関わるもので、労働は単に対価=賃金のためだけではなくて、個人の社会参加や人間の成長とも不可分であり、社会全体の発展や個々人の達成感の充足にも反するというものだ。
それに働かなくとも生活できるという制度は、勤労意欲を削ぐことでその社会の発展や持続性が失われる。また働いた人の税金で働いていない人の生活を保障するというシステムは、社会全体の、特に働いている人の合意を得られないという批判もある。
また働かなくとも最低生活保障が得られるということで、企業にとっては首切りや賃下げをしやすくなり労働者の処遇も悪化する、というもっともだと思えるものもある。
◆空論?◆
すでに指摘されているこれらの功罪も含め、改めてベーシックインカムを考えてみたい。
まず財源論だ。
小沢氏はベーシックインカムの財源をすべて一律の勤労所得税で賄うとして企業負担を棚上げにしている。現実は年金にしても子ども(児童)手当にしても企業負担がある。企業にとって、現在と次世代の労働者なしには企業活動はあり得ない、という企業の社会的責任の観点からだ。新たな社会的富は大部分が企業活動によってつくられていることを考えれば、むしろ企業負担は増やす必要がある。
消費税増税論でもそうだが、企業が消費税引き上げに執着するのは、法人税や社会保険負担をはじめとした企業負担を回避したいからだ。小沢氏による試算では、ベーシックインカム導入で年金や失業給付部分の企業負担や扶養手当負担はなくなる。消費税を社会保障の目的税とする、という企業サイドの主張も同じ文脈からだ。要するに、社会保障に必要な財源は個々人の勤労収入での負担で賄う、という考えと小沢氏の主張は通底してしまう。
次は生活費と労働を切り離すこと、労働と所得を分離したことの是非である。結論的にいえば、こうした観点は空論に近いと言わざるを得ない。
ベーシックインカムによる定額の基礎的生活費保障は、一面では赤ん坊でも青年でも高齢者でも同じ額だという意味では、生活必要額ではなくて個々人という基準による形式平等システムという性格も無くもない。しかし、働いても働かなくてもという前提で考えれば、分配における実質平等原理に近い。
現在の企業社会は、国際的に見れば同一労働=同一賃金(異種労働=異種賃金)が基本原則で成り立っている。異種労働=同一賃金となれば、普通に考えれば社会主義的な分配原理だ。どんな労働者でも働いた時間分に比例した分配を受けることになるからだ。
分配をいきなり労働から切り離すことになれば、それは能力に応じて働き、必要に応じて分配を受けるという、共産主義の高度の段階の分配原理である。それだけベーシックインカムがめざす理念が高度のものなのだ、ということは理解はできる。が、ベーシックインカムの分配原理が空想だというのは、そうした分配原理を実現する土台そのものの変革という課題と切り離されて提起されているからだ。
◆模索◆
人々はこれまでどんな社会でも、生活に必要なものは社会的な生産関係で占める位置に応じて受け取ってきた。奴隷制社会での奴隷は生きて働けるだけの食料や最低限の衣服の現物給付、農奴(借地農)はこれも最低限の収穫物、そして資本制社会では生活費としての賃金だ。
いずれの社会でも人々の生活の根源的な改善のためには、奴隷制や農奴制、それに資本制社会という生産様式の土台そのものの変革が不可欠となる。が、ベーシックインカムが提起するのは、そうした一次配分の問題ではなく、企業社会を前提とした人為的な二次的配分、いわば再配分システムである。その場合、一次配分はその社会での位置関係に応じて資本家は配当、経営者は報酬、そして労働者は賃金を受け取ることが前提になっている。
いわば土台は弱肉強食の企業社会で、そこでは最大利潤を求めて生き馬の目を抜くような企業間競争が繰り広げられており、労働者は搾取労働、命令労働を強要されている。こうした土台の上で、人為的な再配分による最低保障給付システムが実現するのだろうか、あるいは持続可能なのだろうか。
私としては不可能だと考えざるを得ない。なぜなら、弱肉強食の企業社会という土台を残したままでは、労働と切り離した一律給付というベーシックインカムは、その土台そのものから滲み出してくる利己的力学を無視したり一掃することはできない。それに「働かざる者、食うべからず」といった社会的排除の観念や「働かなくとも食えるなら、自分も働かない」といった労働忌避の衝動を抑え込むのは不可能だからだ。それが可能になるのは、経済システムという土台そのものが、一つのもの(生産果実)を奪い合う資本制システムから、それを分かち合う協同的生産システムに置き換えるわった場合である。
かつて地域通貨が社会変革にとっての有力な跳躍台になるとの議論もあった。何か一つのシステムが新しい社会づくりや社会変革への強力な回路になるという議論だ。ベーシックインカムにも似たような意味合いが読み取れる。
しかしそうした発想には大きな弱点がある。土台を変えていく、という発想や取り組みが無いか弱いことである。地域通貨にしても、それが成果を上げるかどうかは、それを担う協同組織、協同グループの取り組み具合に依存していた。便宜的に地域通貨を採用しても、もともとの協同組織の運動が低迷していれば、地域通貨もうまくいかない。
ベーシックインカムでも同じことが言える。基本的な生産や分配の次元で協同的、連合的な運営が行われていて始めて再配分での協同型・共生型システムが機能する。こうした土台を欠いた人為的な再配分システムとしてのベーシックインカムは,結局は空想に止まるだろう。
とはいえ、ベーシックインカムが空洞化が進む社会保障制度の抜本的な対案として提起されている事情、それに誰にも必要な基礎的所得を保障しようとする生存権の確立に通じる理念は共有すべきものがる。それにベーシックインカムが提起するのは単に基礎的所得保障で止まるものではない。労働と取得の関係をいかに関連づけるべきなのか、あるいは所有権や労働権の関係はどうなのかといった、現在の社会システムに対するオルタナティブの模索では相通ずるものがある。相互間の対話が重要になる。(廣)
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ジブチ海軍基地の建設と怒りを忘れた共産党の対応
0九年三月、多くの反対があったにもかかわらず、「海賊対処」行動だと強弁して自衛隊はアフリカのソマリア沖に護衛艦二艦を派遣し、五月からはP3C哨戒機二機を派遣してきた。そして六月十九日、政府は「海賊対処法」に基づく対処要項を閣議決定した。
今年の七月十六日、二十三日にその時限立法が期限切れを迎える事を受けて、民主党政権は一年延長を決めただけでなく、ジブチに自衛隊初の「海外基地」建設を始めている。この前後からやっとマスコミ報道は解禁されたようだ。しかし民主党やマスコミは、その後も労働者・市民に対して周知させる義務を果たさず、ほとんどの労働者・市民はこの重大な事実を知らない。普天間基地移設をめざしている社民党と共産党の沈黙は不可解だ。
自衛隊の変質ともいえるこの件については、世界は機敏に反応した。四月二十三日、フランスのAPF通信が「日本が発の海外軍事基地を新設」と題する配信したのを皮切りにロシア等も報道を始めた。既に世界においては五月段階で大いに問題視されていた。しかし日本では、五月十一日に後述する岩上安身氏が岡田外務大臣に質問した事を除けば極めて少数のブログが発表されていたに過ぎない。新聞業界では岡田外務大臣に対する質問を一切報道しなかった。これは、まさに記者クラブが仕切る新聞マスコミの犯罪である。
七月十日、私は抗議行動の一環として、共産党と社民党の両党に対して、ジブチの軍事基地建設になぜ抗議しないのか、また公式見解を既に出しているなら送付をお願いしたメールを発信した。この三十一日の時点で三週間が経過したがいまだに何の返事もない。
こうした両党の対応には、彼らの常日頃の言動はともあれ、反戦平和を真剣に考えているかについて疑問を呈せざるをえないものがある。
「しんぶん赤旗」での初めての海軍基地の建設報道
一0年七月二十三日の「しんぶん赤旗」は、「社会リポート」として、「自衛隊、初の海外基地建設」の表題を持つ記事を、十四面に掲載した。つまり政治面でなく社会・総合面に載せたのである。どうしてこのような取り扱いとなるのだろうか。全く分からない。
この取り扱いにジブチ海軍基地の建設に対する共産党の立場が端的に示されている。この問題には、ただちに全国的かつ政治的な対応が必要な事は明らかなのに、共産党は問題を全面的に明らかにしょうとはしておらず、こうした姑息な対応になってしまうのだ。
では問題の「赤旗」の記事を引用する。
「ソマリア沖海賊対処」口実に ジブチに「軍事拠点」
17日、ソマリアの隣国、ジブチで、セレモニーが行われていました。自衛隊にとって初の海外基地建設の「起工式」です。
「海賊対処法」によるソマリア沖での「海賊対処活動」の長期化に備え、42億円をかけて自前の基地をジブチに建設します。
滑走路はジブチ空港のものを利用しますが、防衛省によると、「事務所及び駐機場の設置」、「大型倉庫」という名の格納庫、「航空機を離着陸させるのに必要な施設」と「必要な附帯設備」などの基地機能を備えています。
誇らしげに
起工式にはジブチ共和国の国防大臣などの政府関係者や駐在米国大使らが招待されました。防衛省を代表して現地派遣部隊の責任者、木村康張・派遣海賊対処行動航空隊指揮官(1等海佐)が、基地の概要と建設の意義を誇らしげに報告した、と見られます。
防衛省はジブチ基地を「活動拠点」と強弁します。
「海外初の基地と言いたくないはず。『拠点』は意味のない言い訳だ」と指摘するのは軍事ジャーナリストの福好昌治氏。アメリカ、フランス、ロシアなどの海外メディアはいっせいに「自衛隊、初の海外基地をアフリカに」と報じています。
陸上自衛隊は「基地」を「駐屯地」と表記し、航空自衛隊と海上自衛隊は「基地」が正式名称。ソマリアの海賊対処は海自が主力でもあり、「基地と呼ぶのが自然だ」(福好氏)。
陸上自衛隊もイラクではイラク駐屯地とはせず「宿営地」としました。海外での武力行使を禁じる憲法9条の建前から、軍事作戦のイメージを避ける方便です。
米軍の要求
しかし、42億円をかけてつくる「活動拠点」は明らかに軍事基地です。
なぜジブチに海外基地を造るのか―。海自幹部が明かします。「米軍からの要求ですよ」。自衛隊は現在、ジブチ空港に隣接する米軍基地に間借りしています。政府筋も「(米軍から)独自施設を求められている」としています。
日本はジブチと、自衛隊の現地での「駐留活動」を法的に保障する「地位協定」(交換公文)を締結しています。防衛大学卒で外務省幹部経験者の森本敏拓殖大学教授は、昨年6月の参院外交防衛委員会の参考人質疑でこう述べています。
「自衛官がジブチの町で傷害事件を起こしても日本が裁判権を全部行使できるようになっている。在日米軍が享受できる特権よりもはるかに日本にとって有利。この協定をモデルに各国と結ぶことができれば、非常に良い協定の基礎ができた」
確かに「自衛隊イラク派兵違憲訴訟弁護団」の川口事務局次長の「許せぬ恒久法先取り」として「ジブチ基地建設は、海外派兵を容易にする恒久法の先取りであり絶対に許してはならない。アメリカの『下請け』の形をとりながら自衛隊の軍事的拠点をアフリカまで拡大するという軍隊の本質が見えてくる。自衛隊はソマリア・ジブチから撤退し、憲法9条という日本の平和ブランドを生かした外交努力で国際貢献すべきだ」との抗議声明は添えられていたが、共産党のジブチ基地に対する見解はない。お粗末としか言いようがない。
一読して分かるようにこの記事には、労働者・市民に内緒で海外に軍事基地を建設している事に対する怒りが全く感じられない。現実に共産党は口を拭っていた。さらにはテレビでもおなじみの反動派の森本教授の「自衛官がジブチの町で傷害事件を起こしても日本が裁判権を全部行使できるようになっている。(略)この協定をモデルに各国と結ぶことができれば、非常に良い協定の基礎ができた」との発言を肯定的に引用するばかりで、ここでも共産党が問題指摘も何らの批判もしていない事に注目していただきたい。
周知のように、日米地位協定は、さまざまな「密約」によって、米軍が直接占領していた時代の「治外法権」を米軍・軍属に譲与する不平等極まりないものだ。
ジブチへの派兵に伴い日本政府が昨年ジブチ政府と結んだ地位協定は、基地の保護のために自衛隊が「必要な措置」を取る事や刑事裁判権を日本が「すべての要員について行使する」事を明記するなど、事実上の“治外法権”を押し付けている。事件や事故で被害者が損害賠償請求を起こす民事裁判でも、公務中の場合は裁判権が免除されているのだ。
この不平等で日本でも改訂すべきだと論議され始めている協定を、今度は日本政府がジブチに破廉恥にも押し付け、森本教授は良い協定の基礎となったと評価したのである。
米軍の駐留によって基地付近の住民に様々な苦痛や被害を強いる事に憤慨するのならば、今やわが自衛隊が海外で他国民に同様な仕打ちに断固抗議しなければならない。
共産党はアメリカの沖縄を植民地のように取り扱うことに対する憤激はあげるものの日本自身が、他国の主権を侵害する行動に踏み込む事には抗議を一切しないのである。
ソマリア沖に派兵された自衛隊が隣国ジブチでやろうとしている事は、沖縄におけるアメリカの行動のまさにそれである。この点で森本教授と共産党の立場は一致したのだ。
「海賊」とは何か―民主党の「海賊対処法」の一年延期決定
ソマリアの「海賊」には内戦に関わる政治的動機やイスラム過激派などの宗教的動機は見られず、物資押収や殺戮ではなく人質の属する船会社などから身代金を取る事が主な目的である。確かに「海賊」たちは人質に銃を突き付けるなどの荒々しい行為を行う事もあるが、金銭と交換可能な取引材料である人質に対しての暴力や虐待などは少ない。
そもそも「海賊」は、もともと漁業に従事していた漁民であった者が多いといわれる。八十年代のバーレ政権下、欧州や日本がソマリアの漁船や漁港の整備に対して援助を行っていた。魚を食べる習慣のあまりないソマリア国内では、漁獲のほとんどは、海外への輸出へと回し外貨獲得の手段となっていた。一九九一年のバーレ政権崩壊後は、内戦と機能しない暫定政府(無政府状態)が要因で魚の輸出は困難となっていった。
さらに、ソマリア近海に外国船、特に欧州の船団が侵入して魚の乱獲を行ったため、漁民の生活はさらに困窮した。そして九十年代に軍部と欧米の企業が結んだ「沿岸に産業廃棄物の投棄を認める」との内容の条約に基づき、産廃が投棄されるようになった。その中に他では処理が難しい放射性物質が多量に含まれていた。そのため漁民を中心とする地域住民数万人が発病し、地域住民の生活を支えていた漁業もできなくなった。この結果、困窮した漁民がやむなく自ら武装して漁場を防衛するようになり、一部が「海賊」に走りそれが拡大したとの説がある。
しかし、他方では、高速船の使用・武装の程度・訓練状況に見られる「海賊」の実態は、単なる漁民の困窮からの自然発生とは言い切れないものがある。「海賊」が外国メディアにインタビューを受ける際に、自らを生活に困窮した元漁民と称し同情を引きだして、自らの行為を正当化するための組織的な宣伝によるもので、最初から武装集団が「海賊」を始めたとの説もある。
この説によれば、「海賊」は、もともとはプントランドの有力氏族がイギリスの民間軍事会社ハートセキュリティ社の指導の下で創設された私設海上警備隊の構成員であるとされる。この組織がパキスタンカラチ港からインド洋・ソマリアを経由し他のアフリカ諸国やイエメンに対して、アフガニスタンから流入する麻薬や小火器を密輸しており、この密輸組織がやがて「海賊」化した経緯があるという。
0七年以降「海賊」行為の成功率の高さと身代金の高さに目をつけた漁民らが組織的に「海賊」行為を行うようになり、地方軍閥までが「海賊」行為に参入し「海賊」たちから利益を吸収しているのだとされている。
真の「海賊」対策とは、「海賊」発生の原因の追求と不可分の関係にある。この点を明らかにして原因を基から絶たない限り、「海賊」対策は対処療法にならざるをえない。
現実にソマリア沖では、日本やアメリカなど主要国が多数の軍艦や航空機を投入しても「海賊」行為が減るどころか、「海賊」被害は、むしろ広がるばかりである。「海賊」対策といっても、ソマリア沖では、各国の軍事的デモンストレーションの見せ合いがあるだけであって、もともと各国は、本気で「海賊」対策を考えているわけではない。
ところが、 今年七月二十日の読売新聞によれば、パトロールを行うNATOなどの各国艦船が日本政府に対して、インド洋で洋上無料ガソリンスタンドを提供したように、ソマリア沖での補給艦による無料の給油の要請をしてきているという。
政府はこの給油活動を新たな国際貢献策として検討しているが、補給艦を現地に派遣して給油活動を行うには、「海賊対処法」改正か新法制定が必要になる。一方で、来年三月完成予定で、そのための自前の基地を隣国のジブチに約四十億円かけて建設中である。
ジブチでの基地建設は、昨年に自公政権が決めた、いわば置き土産であり、民主党政権が引き継ぎ、具体化したもの。民主党は経緯を明らかにすべきだ。基地建設の狙いは「海賊対処」活動に名を借りた自衛隊派兵の長期化に対応する日本の軍事的力の誇示である。
もっともこの施設については、五月十一日、岡田外務大臣に対して、フリーランスの岩上安身氏が「基地(ベース)建設では」との質問をしたが、大臣はあくまで「ベースではなくスペース」と言い抜け、防衛省は「恒久的とは考えていない。プレハブをちょっと強化したような形」と説明しており、あくまで「活動拠点」と強調して逃げている。
海上自衛隊の「海賊」対策は、自公政権下の昨年三月、海上警備行動に基づいて、ジブチに護衛艦の派遣で始まり、六月から哨戒機P3Cを派遣し、七月には根拠法を「海賊対処法」に切り替えた。当時は海上自衛隊がインド洋で、テロ対策に従事する各国艦船に対し給油活動を実施しており、「海賊対処法」では外国船への給油は想定していなかった。しかし、民主党政権が今年一月、自民党などの反対を押し切り、インド洋の給油活動から撤退した。
七月十六日、政府は、「海賊対処法」に基づく対処要項を閣議決定し、「海賊」対策を来年七月二十三日まで一年間延長した。新たに浮上したソマリア沖での給油については公然と論議しなくてはならない。民主党や共産党は労働者・市民に問題の所在や真実を伝えようとせず、何を隠そうとこそこそとしているのであろうか。
防衛省によると、これまで飛行回数は二百六十四回、不審な船などに関する他国への情報提供は約二千百九十回に上った。NATOなどの各国は海賊取り締まりを強化しているが、海賊行為は二00九年には二百十七件発生。今年も七月十日現在で百一件と頻度は衰えておらず、自衛隊等の警戒監視活動の長期化が避けられない見通しである。
このように自衛隊の海外派兵が日常的かつ既成事実となると、当然の事ながら派兵先の国と自衛隊との地位協定が問題となる。日米同盟の強化を主張する民主党政権下にあっては、今や日本にとっての地位協定とは、日米安保上の地位協定だけを意味しない。派兵先国と日本とが、自衛隊と自衛隊員の法的地位を定める地位協定を結ぶ時代になったのだ。
民主党政権が日米同盟の強化の名の下に、米軍の再編成に付き従う先に何があるかは明らかである。アメリカ帝国主義国に唯々諾々と付き従う日本帝国主義の再認定である。
日本が海外での軍事態勢を強めている事に対して、諸外国とりわけアジア諸国の人々が警戒心を高めるのは必至である。私たちは日米軍事同盟の強化に反対する。
反戦平和を祈念し闘う労働者・市民の皆さん、ジブチ基地建設反対に向けともに闘っていこうではありませんか。 (直木)
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連載(第2回) マルクスの協同組合的社会の諸問題―『ゴータ綱領批判』の再検討
2010,7,10 阿部 文明
一、はじめに――社会と労働
二、「社会的有用労働」の概念の確立(第1回掲載)
三、社会に与えた分を取り戻すのは「ブルジョア的権利」か
四、労働の給付に基づかない分配の意義(第2回掲載)
五、「ブルジョア的権利」から国家が生まれるか?――レーニンの暴論
六、協同社会に不可欠な、補正のための再分配
七、「社会的有用労働」の社会配分の具体的例
八、補――精神労働と肉体労働の対立の歴史
三、社会に与えた分を取り戻すのは「ブルジョア的権利」か?
さらにマルクスは次のように述べています。
「個々の生産者は、彼が社会にあたえたのと正確に同じだけのものを――控除をした上で――返してもらう。個々の生産者が社会にあたえたものは、彼の個人的労働量である」。
「個人的消費手段が個々の生産者のあいだに分配されるさいには、商品等価物の交換の場合と同じ原則が支配し、一つのかたちの労働が別のかたちの等しい量の労働と交換されるのである。だから、ここでは平等な権利は、まだやはり――原則上――ブルジョア的権利である」。
マルクスの主旨には全く同意できます。ただ一点問題とするのは、そのような分配の原理がはたして「ブルジョア的権利」であるのかどうかということです。
『アソシエーション革命宣言』(社会評論社)の拙稿「われわれはどこから来てどこへゆくのか」で、多くの論及をしたように、このような分配、すなわち労働の給付に応じた「果実」の相互分配は、古来のものです。
それらは互酬性と呼ばれてきたものへの回帰と考えられます。つまり原始・未開の共同体的社会では、財は相互に分け合い提供し合う関係となっています。この場合、個別的労働の成果物は相互に少なくとも「同程度」のものを返さなければならないと言うことです。また、集団的狩猟(共同労働)による獲物の獲得と分配については、具体的システムは個々に多様ですが、つまるところ「成果に対する労働貢献度」に基づいて分配します。これらのことは現代風に置き換えれば、一般的には(質的・強度的要素も加味した)労働時間に基づく分配、ということになるでしょう。特別な希少なものを別とすれば物質的交換は、商品交換であろうが集団狩猟の分け前の権利や、相互に与えあう「贈与物」のやりとりであろうが、労働成果への「貢献度」つまり労働(の質も含まれるが)がどのくらい投下されているかが根底に存在するでしょう。商品交換も互酬性も、相互の労働の交流交換であり、そこの部分に一定の共通の原理があるのは明らかなことです。商品交換と互酬性の両者の歴史性や形態の相違については前述の拙稿を参照としてください。ここでは述べません。
さらに、上記の原理からすれば、あるものを作り上げるのにある人は二時間労働に参加し、他の人は一時間の参加であれば、前者が倍の貢献をしたと一般的には認められるでしょう。
ですから、社会的共同の富を、労働(時間)に基づいて分配することが、「商品等価物の交換と同じ原則が支配」しているとしても、それが必ずしも「ブルジョア的」ではないということになります。たしかにそれは「商品等価物の交換と同じ内容」ではあります。しかし、繰り返しますが社会関係はすっかり変わっています。すでに拙論「われわれはどこから来てどこへゆくのか」で論じたように、財の交流を支配しているのは労働(の量および質)であることは同じであっても、社会関係は違っているのです。互酬性が仲間的関係を基盤とする、共同体内部や、友好的な共同体間において成立するのに対して、原始・未開社会での商品交換の関係は、それらの外部において開始されるところにこの相違点がくっきりと現れています。商品交換はこのような仲間的・共同体的関係から切り離されたところに存在すると言うべきなのです。ですから、内容として「労働の等価の交換」と同じであったとしても、私的所有の揚棄された諸条件の下では――共産主義の第一段階では――、それは「ブルジョア的」なものではなく、協同体的なあるものだとマルクスは言うべきだったのではないでしょうか。
まとめてみましょう。マルクスのいう「共産主義の第一段階」は、当然生産者であるアソシエイトした労働者が生産手段を管理所有し、つまり私的所有が廃止されている社会であるはずです。このような共同生産・共同所有社会においては、消費財を労働時間に基づいて分配することは、決して「ブルジョア的」と呼ばれるべきものではないと思います。
すでに触れてきましたように「労働の給付に基づく分配」は、旧石器時代と同じと考えられているアフリカや南アメリカに現存する「バンド社会」でも行われていました。「ブルジョア」が登場するはるかまえから存在していたのです。そしてさらに人類の進化史のなかで、百万年を越える年月をかけて人間は対等性社会を維持・形成してきましたが、このような社会の根幹にこの「交換」方式は組み入れられていたと考えられるのです。
四、労働の給付に基づかない分配の意義
さらに重要な論点に移行しましょう。原始的社会においても、結局のところ二種類の分配「方式」が併在しています。第一が、共同労働のさいの分配で、労働の給付(労働の貢献度)による分配で、他方のは二次的分配(補正を目的とした再分配)で、贈与とも言われているものです。ややこしいかもしれませんが、共同労働でない個人的労働による取得物の分配は、最初から「贈与」(二次分配に相当)です。この二次的分配は、客観的には共同体内部で分配の谷間が生じないようなものとなっています。分配にありつけないものがいないような仕組みを支えているものです。先走って言えば、マルクスのアソシエーションは、社会進化に伴いつつ労働の給付に基づく分配を越えて、必要な人が必要なだけ取得できる社会へと移行するものということになります。たしかに分配については、社会的進化とともに「労働の給付」に基づかない分配、つまり個人がその必要に応じて取得するという分配が拡大してゆくことが考えられます。つまり「労働の社会への給付」に応じた分配は、アソシエーション社会では低位の(生まれたばかりの共産主義の)分配形態である、ということはうなずけます。そして「労働の給付に基づかない分配」が、さらに豊かさをくわえ比重を増してゆくことがより高次の社会に向けての社会進化、と言うことになるでしょう。
したがって「労働の給付に基づく分配」というものは、アソシエーション社会の第一段階として、つまり協同組合的社会といういまだに未成熟な段階の主たる分配方式であることを認めましょう。しかしながら、同時に未開社会に学べば、このような、「労働と直接に結びつかない」ところの「分配」「贈与」、つまり労働の給付に基づく分配の「補正」のシステムが存在しているのです。このような相互の助け合い・我慢し合いが存在していました。そうでなければ、子供は別としても、老人や障害者が生き延びることは困難であったでしょう。いや人は誰でも病気やケガや「スランプ」で十分に働けないという時期もあるわけですから。つまり、「協同社会」は、どのような未開・原始社会でも、むしろその不十分さ故に、富の「補正的再配分」を実行していかなければ、集団として生き延びられなかったのです。
共同の成果物への貢献度に対応した分配である「労働の給付に基づく分配」と言うものが、重大な歴史的原理であったとしても、それは常に他の原理、「労働の給付に基づかない分配」によって補正されていたのです。つまり、「協同社会」はいずれにしても、この二つの原理の統合によって構成されなければならないということがいえるでしょう。
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飯嶋・阿部・清野『アソシエーション革命宣言』を読んで
まずなによりも、永年の研鑽の積み重ねを1書に集成して公刊されたことに、慶祝の意をお伝えします。加えて、労働者自らが労働者階級の解放の事業を担うことが原則だと考えますから、現役労働者の手になる労作として本書が成ったことに敬意を表します。
本書も、最近の新しい社会主義像の探求としてのアソシエーション革命論の開拓のなかにあって、その流れを強め、広げるのに貢献するでしょう。
アソシエーション革命論の追求において、私自身も基本的志向を同じくしているのですが、ここでは理論上の主要な相違点を取り上げて、私見を記します。研究の更なる前進になにか資するところがあれば幸いです。
@、「原始共産制」の高次復活という問題構制が本書の基軸をなしている。「マルクスは、未来社会で打ち立てられるであろう共産主義社会を、かつての共同体社会がより高次のものとして復活するものだと理解していた」(68〜9頁)。そして、「原始共産制」(105頁)の高次復活にかかわる論考に、本書の3分の1を占める「U われわれはどこから来てどこへ行くのか?」―「協同社会の史的展開」(103頁)―があてられている。
しかしながら、マルクスは原始社会=共産主義と本式に立言したことはないし、原始社会の高次復活として将来共産主義社会を位置づけてもいない。マルクスは現存する資本主義社会の諸条件のうちに未来の共産主義社会への発展の展望を探りだす見地で終生一貫していた。かの「個人的所有の再建」論も、資本主義的生産様式の成立過程で生み出された個人的私的所有との関係論議であり、原始時代を振り返って歴史的に関連づけを図ったものではない。
「原始共産主義」、そしてその高次復活という問題構制は、モルガン『古代社会』を無批判的に受容したエンゲルスに由来し、スターリンの史的唯物論の社会構成体の発展段階論において定式化された。
「資本制社会に代表される階級社会に対する、太古の協同社会の優位性を承認する歴史観」(69頁)は、マルクス的では決してない。
こうした点では、共産主義社会をアソシエーションとして構想する場合、「アソシエーションという概念にはすでに、自立した個人、自発性、自由という内容が込められてい」て、「原始社会にアソシエーションが全くなかったわけではありませんが、この社会を『原始アソシエーション』と呼ぶことが不適当なのは明らか」であり、「アソシエーションは現代に胚胎するもの、未来に成長するものであることを表現する」(阿部文明「『アソシエーション社会』への道」5頁)という正当な見地から、かえって後退している。
A、所有(論)中心主義が本書全編をとおしていま一つの基軸をかたちづくっている。「所有についての理論は、マルクスの思想と理論の全体の焦点、核心をなしている」(2頁)。
これは、廣西理論の継承として研究が進められてきたことによるのであろう。そして所有論に関して所有と占有を中心論点として立ち入った考察が果たされている。
ところが、マルクスの論考を通観すると、初期の『共産党宣言』段階における所有の問題から、一方で資本主義生産過程の研究に邁進し他方では「国際労働者協会」に関与した中期以降には労働の問題へと、資本主義体制の認識と変革の根本問題の重点を移している。共産主義社会への展望としては、「私的所有の廃止」という所有論的アプローチに加えて、「労働の解放」という労働論的アプローチが存在するのである。
対比すると、エンゲルスは終始所有論的アプローチである。スターリンは、生産関係の基本として生産手段の所有形態を最重視し、そのうえで、社会主義の所有形態を社会的・国家的所有とした。
こうした事柄をも考慮しつつ、生産論あるいは労働論と所有論の関係を問い詰める作業をせずに、所有論が「全体の焦点、核心」に据えられているようである。
マルクスの「協同社会」の構想においても、「協同組合生産」「協同組合労働」と協同組合的所有が連動されているのだが、本書では所有の問題に絞りあげることによって、生産・労働との関連を含めて、経済の動態的な全体構造が不分明になっている感がある。
B、パンフレット「アソシエーション革命をめざして」(2001年)では、アソシエーション革命によって成立する国家の像が見えなかった。プロレタリア革命後の過渡期の国家に関して、象徴的にプロレタリアート独裁をどう扱うか、またソヴェト国家建設の理論と実践をどう総括するかは、緊切であるが難題であり、「ワーカーズ」では一致した明快な説をなかなか打ち出せないでいるのではないかと推測していた。
この国家の問題に踏み込んで「過渡期の国家像」(30頁)についての理論的見解が明らかにされたのは、本書の大きな前進と言えよう。
だが、前進はなお中途半端と言わざるをえない。端的にプロレタリアート独裁をめぐって、マルクスが「国家の支配関係の……本質的、究極的な概念として、資本制国家をブルジョアジーによる階級独裁だと捉え、その体制を揚棄する者としてプロレタリア独裁を対置させている」(28頁)とされている。しかし、あらゆる国家の本質を独裁と規定し一般化したのは、レーニン『国家と革命』(第2版)であった。マルクス、それにエンゲルスの独裁概念の本筋は、革命独裁―革命的変動の渦中での非常事態での一時的なもの―であって国家の本質―国家的支配の全時期にわたる常時的なもの―ではない。
マルクスは、最後までプロレタリアート独裁に拘泥したとも言えるが、それは他面での民主主義論の弱さとも不可分であって、国家や民主主義に関してはさほどの優れた理論的業績を達成できなかった限界との関係で理解すべきものであろう。
生産手段の国有化とプロレタリアート独裁とは、20世紀マルクス主義の革命理論の基柱であった。生産手段の国有化についての脱構築が図られている反面、プロレタリアート独裁につての脱構築にはなお抵抗があるようだ。
それでも、パリ・コミューンの分析を介して過渡期国家像を探る前進的がある。パリ・コミューンをプロ独とするエンゲルスに端を発する通俗説は斥けられているようだし、パリ・コミューンの実態の把握に努め、マルクスによる理論的な抽象と捨象を丹念に追跡するなら、レーニンのコミューン型国家論を含めた通説とは異なる論が導き出されるに違いない。
ともあれ、プロレタリアート独裁などの通説の共有から、通説の見直しへと漸進していることを評価したい。
ロシア革命後の新国家建設の分析に関しても、同じ様なことが言える。
C、「過渡期の国家像」に対応する過渡期の経済像に目を転じる。
通俗論への反論にあたって、「共産主義=国有・国営経済」(19頁)という集約が見られる。そして、共産主義=「協同組合の連合社会」の将来社会像が対置的に示されている。だが、ソ連などを社会主義とする通俗論を批判するには、ソ連などの実態は後進的な国の、一国的規模での社会主義への過渡期の歪曲形態であったという現実を踏まえて、「共産主義への過渡=国有・国営経済」こそが根本的に再審されるべきだろう。
つまり、目標としての、長期的な未来の「協同社会の理論と展望」が主題とされ提示されているものの、その目標を実現する道筋としての、現在と未来が交叉する中期的な「協同社会」への過渡期の経済はどう編成されるべきかについては、問題として検討されていない。
共産主義社会への過渡期の経済構造に関しては、マルクスもエンゲルスもほとんど論及していない。それだけに理論的開発には、破綻した20世紀社会主義の経験の総括から貴重な教訓を導出する必要があるだろう。
社会的総生産について計画と市場のミックス奈何、所有については協同組合的所有、自治体所有、国家所有、私的所有などの多元的な所有諸形態の相関、その他、「協同社会」構想と比べてより身近で切実な諸問題の解明が、広く待ち望まれている。
マルクスにも理論的限界や欠陥が当然ながら所在する。「マルクス、エンゲルス問題」を考慮する、そしてエンゲルス理論の難点を把握するのみならず、マルクス理論の絶対視から抜け出すことが求められる。21世紀において、マルクスを受け継ぎ甦らせるには、マルクスの絶対化からマルクスの「揚棄」への、主体的な批判的精神と創造的挑戦が欠かせないだろう。
D、本書は、「いまを生きる私たちにとってのリアリティーのある社会変革の思想と理論を形成していく」(5頁)真摯な理論的研究の第1作であるだろう。『アソシエーション革命宣言』の書名により一層ふさわしい姿をとって、21世紀に入った世界の経済、政治の現状に基づきつつ、現実により一層密着したアソシエーション革命の中長期的な構想が練られていくことを期待する。なかでも、日本でのアソシエーション革命に道筋を明らかにした点で先駆的で類例のない、パンフレット「アソシエーション革命をめざして」を増補改訂した新版を特に望みたい。(大藪龍介))
大藪さんの「『アソシエーション革命宣言』を読んで」に関するコメント 2010.7.4 飯嶋 廣
私たちの共著に対して貴重な時間を割いて意見をいただいたことに感謝します。ありがとうございます。これまで大藪さんが論究してきた観点については,私としても大いに学ばせていただきましたし、また指向する方向性についても共通する部分があると感じています。今後ともご教示をいただければ幸いに思います。
なお、大藪さんのコメントに対して再度、私の意見と問題意識を申し述べさせていただきます。
1,共同体の高次復活≠ノ関する「マルクスは原始社会=共産主義と本式に立言したことはないし、原始社会の高次復活として将来共産主義社会を位置づけてもいない……。という点について。
一点だけ例示すれば、「ザスーリッチへの手紙」には「この危機は、資本主義的生産が消滅することによって、(すなわち)近代社会が最も原古的な型のより高次な形態たる集団的な生産と領有へと復帰することによって、終結するであろう。」(第一草稿)、「資本主義的生産が最大の飛躍を遂げたヨーロッパおよびアメリカの諸国民のただ一つの願いは、協同的生産をもって資本主義的生産に代え、原古的な型の所有のより高次な形態、すなわち〈集団的〉共産主義的所有をもって資本主義的所有に代えることによって、おのが鉄鎖を打ち砕くことにほかならない。」(第二草稿)
とあります。
マルクスは、「本式に」かどうかはともかく、高次復活≠ニいう観点は終生保持していたのではないかと推察しています。
2,「マルクスは現存する資本主義社会の諸条件のうちに未来の共産主義社会への発展の展望を探りだす見地で終生一貫していた。」との指摘については、全く同感です。「資本主義の胎内で成長する未来社会の萌芽」に着目するという観点です。が、このことと1の観点については矛盾するものではない、と考えています。
3,労働論的アプローチについて
(……マルクスの論考を通観すると、初期の『共産党宣言』段階における所有の問題から、一方で資本主義生産過程の研究に邁進し他方では「国際労働者協会」に関与した中期以降には労働の問題へと、資本主義体制の認識と変革の根本問題の重点を移している。共産主義社会への展望としては、「私的所有の廃止」という所有論的アプローチに加えて、「労働の解放」という労働論的アプローチが存在するのである。
対比すると、エンゲルスは終始所有論的アプローチである。スターリンは、生産関係の基本として生産手段の所有形態を最重視し、そのうえで、社会主義の所有形態を社会的・国家的所有とした。
こうした事柄をも考慮しつつ、生産論あるいは労働論と所有論の関係を問い詰める作業をせずに、所有論が「全体の焦点、核心」に据えられているようである。
マルクスの「協同社会」の構想においても、「協同組合生産」「協同組合労働」と協同組合的所有が連動されているのだが、本書では所有の問題に絞りあげることによって、生産・労働との関連を含めて、経済の動態的な全体構造が不分明になっている感がある。)という点について。
私の小論については、ご指摘の通り、所有と占有との対比を論じながら個々人の本源的所有の復活を浮かび上がらせるという展開になっています。たとえば『資本制に先行する諸形態』などでも明らかなように、マルクスは所有の本源的な形態を「人間が自分の自然的生産諸条件にたいして、自分のものである諸条件にたいする様態で関わること、自分自身の定在と同時に前提されている諸条件にたいする様態で関わること」というような趣旨で記述しています。この場合、「関わること」というのはまさに労働であって、概念的には「所有・占有」と「労働」とは相互不可分の関連を別の視点から見たものであるといえると思います。私が今回の小論で依拠した「占有」については、労働する諸個人の「主権」を強調したいとの思いがあったからです。たとえば民法では占有について「自己のためにする意志を持って物を所持することをいう」と規定されています。この場合、「ものを所持する」というのは対象(労働諸条件=機械や道具など)への関わり、すなわち労働と同義だと受け止めています。だから「占有権=労働権」という観点を強調しているわけです。
とはいえ、やはり占有論的アプローチと労働論的アプローチは微妙ではあるものの無視できない違いもあるとは思います。そのあたりの相関関係を明確にすべき、というご指摘はありがたく受け止めさせていただきます。
4,国家論について
(……プロレタリアート独裁をめぐって、……しかし、あらゆる国家の本質を独裁と規定し一般化したのは、レーニン『国家と革命』(第2版)であった。マルクス、それにエンゲルスの独裁概念の本筋は、革命独裁―革命的変動の渦中での非常事態での一時的なもの―であって国家の本質―国家的支配の全時期にわたる常時的なもの―ではない。
マルクスは、最後までプロレタリアート独裁に拘泥したとも言えるが、それは他面での民主主義論の弱さとも不可分であって、国家や民主主義に関してはさほどの優れた理論的業績を達成できなかった限界との関係で理解すべきものであろう。
生産手段の国有化とプロレタリアート独裁とは、20世紀マルクス主義の革命理論の基柱であった。生産手段の国有化についての脱構築が図られている反面、プロレタリアート独裁につての脱構築にはなお抵抗があるようだ。……
ともあれ、プロレタリアート独裁などの通説の共有から、通説の見直しへと漸進していることを評価したい。)
私としては「プロ独」、たとえばブルジョア独裁、プロレタリア独裁双方について、マルクスは多重的に認識していたのではないかと理解しています。それはある階級による他の階級の支配、すなわち本質論的レベルでの階級支配の意味合いと、革命期の暴力的、あるいは専制的・権力的な形態に着目した支配形態を含む概念としての独裁概念です。前者の意味でのプロ独はボナパルティズムなど一時的な例外をのぞいてその体制つうじての規定としては一貫していたと受け止めています。
いま言えることは、革命的な変革期には、暴力的な手段をとるか、あるいは法的手段、労働者の闘いそのものによるか、あるいは補償との交換(納得ずくの服従)によるかどうかはともかく、何らかの形態で旧支配階級とその経済基盤に対する一方的かつ傾向的な包囲・攻勢行動は不可欠ではないかと理解しています。その行為や関係を私は「階級支配」という広い意味での「プロ独」と規定しているわけです。
ただし過渡期を含めて暴力的などの形態を含めた「プロ独」については、革命の諸形態と同様に、大藪さんのご指摘の通り、「防御型」も含め、かなり柔軟に考えていたのではないかと理解しています。今回の小論では、その多重的な概念の整理への踏み込みが不十分なものに止まっているとは自覚しています。今後とも、大藪さんなど先覚者の業績に学びながら自己了解を深めていきたいと考えているところです。
5,ロシア革命後の新国家建設の分析に関して。
(……ソ連などを社会主義とする通俗論を批判するには、ソ連などの実態は後進的な国の、一国的規模での社会主義への過渡期の歪曲形態であったという現実を踏まえて、「共産主義への過渡=国有・国営経済」こそが根本的に再審されるべきだろう。
つまり、目標としての、長期的な未来の「協同社会の理論と展望」が主題とされ提示されているものの、その目標を実現する道筋としての、現在と未来が交叉する中期的な「協同社会」への過渡期の経済はどう編成されるべきかについては、問題として検討されていない。
共産主義社会への過渡期の経済構造に関しては、マルクスもエンゲルスもほとんど論及していない。それだけに理論的開発には、破綻した20世紀社会主義の経験の総括から貴重な教訓を導出する必要があるだろう。)
「過渡期の経済」はどう編成されるべきか、という点についてですが、私としては本書についてもそのための基本的視点を提示しておいたつもりです。それはパリ・コミューンでの「放棄工場の接収」に関する次のような記述です。
(しかしそれ以上に私たちが注目しなければならないのは、企業の経営を労働者の協同組合に委ねるという方策である。……こうした方策に対してマルクスは高い評価を与えた。が、それはこうした方策とその拡がりこそ、資本制生産を共同的生産に変える具体的な転換過程に他ならない、と考えたからである。……なぜこうした方策に注目する必要があるのか、いまでは明らかだろう。それは資本家が放棄した職場や工場を、労働者の組織にゆだねるということの重要性だ。国家や政府にゆだねるのではないのである。……いわば放棄工場の労働者による運営は、マルクスをして資本制生産を共産主義的生産に変革する入り口、その決定的な第一歩だと位置づけられているのである。……しかし、個々の工場の労働者による管理とその全国的な連合が生産の主体となることこそ「可能な共産主義」だとする視点は、ロシア革命の展開とは対極にあるものとして銘記しておくべき事だろう。)(本書37〜39)
要は、これまで通俗論≠ノよる「国有化」は過渡期の方策としても原則的に放棄し、本流としては共同組合化など、労働者組織など当事者にゆだねる、ということだと理解しています。当然のこととして、その延長線上には「諸協同組合の連合」があります。
とはいえ、本書でもそれ以上の過渡期の経済的編成には言及していないことも事実です。たとえば大企業群の共同組合化と周辺の中小零細企業の存続など、いわゆる複合経済での再出発なども考えられますが、それはその場面での経済的、主体的状況に左右される要素も大きいと考えられます。あるいはどの時期に商品・貨幣経済から労働時間経済と労働証書経済に移行するのか、なども当然論点になるでしょう。それに何よりグローバル化した現代資本主義での対外関係を含む変革過程や過渡期のあり方についても考えていく必要があると痛感しているところです。
また大藪さんの(社会的総生産について計画と市場のミックス奈何、所有については協同組合的所有、自治体所有、国家所有、私的所有などの多元的な所有諸形態の相関、その他、「協同社会」構想と比べてより身近で切実な諸問題の解明が、広く待ち望まれている。)というご指摘も全くその通りだと受け止めています。とはいえそれらは他日を期す以外にないかと考えているところです。
6,マルクスの超克≠ノついて
(マルクスにも理論的限界や欠陥が当然ながら所在する。「マルクス、エンゲルス問題」を考慮する、そしてエンゲルス理論の難点を把握するのみならず、マルクス理論の絶対視から抜け出すことが求められる。21世紀において、マルクスを受け継ぎ甦らせるには、マルクスの絶対化からマルクスの「揚棄」への、主体的な批判的精神と創造的挑戦が欠かせないだろう。)
上記のご指摘、全く同感です。とはいえ今回の私の小論では、その前段での議論に止まっています。社会主義の再生のためには、まず正確なマルクス再解釈が前提になる、との思いから、とりあえずマルクスの相対化、マルクスの超克という課題は先送りにした、というのが正直なところです。この課題については、第三論文の阿部論文がマルクスの時代的制約を突破する、という視点で書かれていることを受け止めていただきたいと考えています。
7,新しい戦略構想について
(……21世紀に入った世界の経済、政治の現状に基づきつつ、現実により一層密着したアソシエーション革命の中長期的な構想が練られていくことを期待する。なかでも、日本でのアソシエーション革命に道筋を明らかにした点で先駆的で類例のない、パンフレット「アソシエーション革命をめざして」を増補改訂した新版を特に望みたい。)
暖かい叱咤激励と受け止めさせていただきます。なかでも戦略構想に関するご期待と今後の課題設定に関しては、伏してお礼を申し述べるのみです。私たちとしても先達の業績に学ばせていただきながら、ご期待に反しないよう努力を傾注したいと考えています。
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コラムの窓・話題の「ザ・コーヴ」観ました
調査捕鯨をめぐる確執については本紙においても紹介されましたが、イルカ漁についても告発の対象になっていたのです。ドキュメンタリー映画「ザ・コーヴ」は、久しくイルカ保護運動家の標的になっていた太子町の入り江(コーヴ)の秘密≠暴き、その野蛮なイルカ漁≠フ実態を世界に発信するものです。
日本国内で流通している情報はこうした動きとは隔絶され、クジラやイルカを食べてはいけないという批判は拒絶されているようです。必要なのはしっかりした議論ですが、国際社会・国際捕鯨委員会(IWC)で展開されているのは国益≠ニいう名の恥さらしに過ぎません。
そして国内で派手な動きを見せているのは、デマを操り「ザ・コーヴ」の上映阻止を叫ぶ、要するに事実を見ようとしない人々の排外行動です。「DAYS JAPAN」8月号に掲載されている写真を見ると、「3大情報テロ 南京大虐殺・従軍慰安婦・THE COVE」という主張が示されています。君たちこそ情報テロではないかと思うのですが、「とにかく観て、それから考えよう」という余裕がないのでしょう。
同誌は「イルカを捕ってなぜ悪いのか」を特集しており、イルカの軍事利用、湾岸戦争やイラク戦争での魚雷探知、毒矢を装着したイルカなど、欧米においてもイルカ虐待があることを指摘しています。ぜひ、DAYSを読み、コーヴを観てください。ちなみに、4メートル以内の小型のクジラ類をイルカと呼び、イルカはIWCの規制対象にはなっていないということです。
さて映画ですが、60年代人気テレビ「わんぱくフリッパー」のイルカ調教師リック・オリバーが、何故にイルカ解放運動の最前線で活動するようになったのかを語り、入り江の秘密をスパイ映画さながらの計画の下に撮影しています。深夜に監視の目をかいくぐり、隠しカメラを仕掛ける場面はドキドキハラハラですが、水中マイクがひらった殺されゆくイルカの声≠ノはいたたまれなくなります。
それにしても、太地がクジラ漁の基地であるということくらいは知っていても、そこで今も大量のイルカ漁が行なわれていることなど、大方の日本人は知らないでしょう。わたしもイルカの肉など食べたことないし、年間2万頭を超えるイルカの肉がどこで流通しているのか、それとも小型の鯨肉として流通しているのか、理解しかねます。
リック・オリバーはこうして入手したイルカ漁の映像をIWC会場に持ち込みます。この恐れを知らない大胆な行動、最も大きな効果をあげる可能性に突き進む力に、わたしは衝撃を受けました。彼はイルカショーを広めてしまった過去を悔い、イルカ解放に全力を投入しています。
イルカは人間のように無意識に呼吸しているのではなく、意識しないと呼吸できないのですが、彼の目の前でわんぱくフリッパーの主人公のイルカが呼吸を止めてしまった経験を持っています。これを自殺≠セとし、その翌日イルカを海に逃がそうとして逮捕されたのです。あの時、イルカを買い取って海に返すこともできた、そうすべきだったという思いが、彼をこうした行動に駆り立てています。
いずれにしても、クジラやイルカを捕ることは許されないという認識はかなり普遍的にあるようです。私自身は食べたいとも思いませんが、喰うのはけしからんとまでは思いません。これを日本の食文化≠セとかいう弁護論は、それはいまだに相撲は国技≠セとか言っているのと同じで、事実に反しているからやめてもらいたい。
夏休みに入り、須磨海浜水族園では夜間のイルカショー、「トワイライトライブ」を始めました。来園者の要望によるものだそうですが、これは更なるイルカの虐待ではないのか、と私は思ってしまうのです。(晴)
この映画には、多くの突っ込みどころがある。しかしそれでも残るのは日本の役人たちの答弁の薄っぺらさだ。それが暴かれているという意味で、本来は私たちが調査発表しなければならなかった問題を、彼らがやって見せた意義は大きい。こうした調査捕鯨の問題がバックにあって、太地町のイルカ漁がやり玉に挙がったと言えなくもない。しかし貧しい日本の水産政策の犠牲者になっているのはむしろ太地町の漁民ではないだろうか。
農水省、IWC委員はこの映画で描かれた問題について説明責任を果たすべきだろう。そうした方向に私たちが進むことによってのみ、この映画の「表現の自由」は大きな意味を持つのではないだろうか。(「DAYS JAPAN」8月号より)
郵便職場より ゆうパック大混乱の責任は現場には一切ない!
日本郵政の斎藤次郎社長や日本郵便の鍋倉真一社長ら幹部は責任を取り辞職せよ! 退職金も受け取るな! 損害賠償もせよ!
7月1日から、郵便事業会社のゆうパックとペリカン便との統合により、配達の遅れ等により大混乱があった。この大混乱の責任は、現場には一切ない。この責任は、ひとえに準備不足や要員不足のまま見切り発車をした、鍋倉真一日本郵便社長ら幹部にある。鍋倉社長は、今回の混乱について「不慣れな社員が仕事を停滞させた」旨言っていたがとんでもない。責任転嫁もいいところだ。
だいたい、お中元のシーズンに統合をしたことや、ゆうパックとペリカン便というシステムの違う制度を統一せず、そのまま持ち込んだこと、下請運送会社への委託料を大幅に値下げしたため運送会社が人手を増やすことができなかった等である。
私は、郵便内務の仕事ですが7月1日以降ゆうパックの遅配が多数あった。例えば、7月1日午前の配達希望が、その日の午後6時ごろの便で到着した。受取人に遅れたお詫びと、今から配達に伺いますがという電話を何件もした。ただそれは、まだましな方で、別の日には2日前に配達が終わっていなければならないのが、遅れて到着した。到着の数も感覚では今までの1・5倍ぐらいにはなっているが、人手不足は解消されていない。取りあえず、大幅な遅配は解消されているが、人手不足を解消しない限り混乱は続くと思う。
ペリカン便から引き継いだ顧客は、ゆうパックの料金の6割ぐらいのような感じである。これは、ペリカン便の人らは、他社から顧客を取るために値下げをしてきたといいます。そうしないと、仕事がないといいます。細かい料金は、顧客によって分かれているがこんなことをしていては駄目だ。料金は、平等にしないと不公平だ。それと、ゆうパックとペリカン便のシステムが違うのをどちらかに統一すべきである。そうしないと、細かいことにまで神経を使わなければならなくなり、ミスが増えてしまう。
今回の混乱で、利用者の信頼を失墜させたことや、現場労働者に多大な労力を使わせたこと、多大な損害などの責任を取り、日本郵政の斎藤次郎社長や日本郵便の鍋倉社長ら幹部は辞職し退職金も受け取らず、利用者や現場労働者に謝罪をして回るべきである。 (郵便現場労働者)
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何でも紹介 仙丈ヶ岳 山登りー今どきの山小屋ー
先月、梅雨が明けた翌日3033bの仙丈ヶ岳に登った。山登りの思い出はいろいろあるが、私たち夫婦が30年前二人の門出として山登りを選び、リュクサックにテント、寝袋、食料等を積んだ大荷物で南アルプスを縦走した。「若かったなあ」とつくづく思う。今では大荷物はないが山を登る時に息切れや動悸がして、降りる時は足ががくがくして帰った翌日は筋肉痛になるなど年を感じざるを得ないのだが、何故か山登りはやめられない。
今回登った仙丈ヶ岳は、山梨県南アルプス市と長野県伊那市の中間に位置する北沢峠から登り始める。私たちは山梨県側から入り芦安に車を置いて、芦安から広河原まではマイカー規制の為、乗合タクシーに乗って広河原へ行く。富士山に次ぐ日本第2の高峰である北岳を見ながら私たちは市営バスに乗り換えて北沢峠に向かった。北沢峠に行くのには長野県伊那市の戸台口からも林道バスが走っていて山梨県側より便がよく、北沢峠からは仙丈ヶ岳だけではなく甲斐駒ヶ岳(2967b)にもアプローチが出来るので着くと大勢の人で賑わっていた。
仙丈ヶ岳には小仙丈尾根と藪沢を登るコースがあるが、以前登ったことがある連れ合いの薦めで藪沢コースを登ることにする。歩き始めは足も軽いが傾斜がきつい道が続くと息が荒くなって苦しい(ああどうして山に登るんだろう)と、いつも苦しくなると思う。ところが、汗をいっぱいかいてハーハーしていると、さわやかな風が「ふっー」と吹いてくる(あー気持ちがいいー)と体中が幸せを感じてしまう。川の音を聞きながら沢沿いを苦しくても登ってふと後ろを振り返ると、青い空と甲斐駒ヶ岳がそびえ立ち(あーきれいー)と見とれてしまう。さらに登っていくと雪渓があってひんやりとした空気、まるで冷蔵庫の中にいるようでとっても気持ちがいい、(ああやっぱり苦しくても山はやめられない)と自分で思ってしまう。登り初めて約3時間半やっとのことで「馬の背ヒュッテ」という山小屋に着いた。1週間前に頂上に近い「仙丈小屋」に予約を入れると断られてしまったので、(今夜は野宿かな)と半信半疑で宿泊を頼むと「大丈夫ですよ」と言われてほっとする。持っていった食料で昼食を食べると元気になり頂上を目指す。午前中は雲ひとつないよい天気だったが、山は午後になるとガスが発生しやすくやはり何も見えない。ところが、心がけがよいのか頂上に着くとガスが消え、ときおり青空が出て近辺の山並みが見えた。16時30分山小屋に戻ると夕食の時間で今夜はカツカレーだった。今どきの山小屋はヘリコプターで運ぶので食べ物には困らず値段は高いがドリップ式のコーヒーや生ビールも飲める。30年前には考えられないことだ。夕食の時間山小屋の方から「うちは個人経営なのでこの時期にしか稼ぐことが出来ない、断らないので今夜も大勢の人に泊まっていただいている」という話しがあり、大部屋に50人近くがすし詰め状態で雑魚寝したが、建てたばかりなので小屋はきれいで毛布もふかふかだったので今どきの山小屋に驚く。(昔は汚くてかび臭い毛布が当たり前だった)夜は20時に消灯で翌朝は4時30分から朝食ということで明日のことを考えると、山で知り合ったご夫婦から私たちが明日、帰路とする道を朝から歩いてきて頂上から富士山や北岳がとってもきれいに見えたことを聞いたので、どうしてももう一度頂上を目指したいなあと思いながら眠りについた。
翌朝オレンジ色に輝くご来光を眺め、足の痛い連れ合いに頼んで小仙丈ヶ岳を目指して歩く。稜線にでると昨日とはうって変わって一面雲海が広がり、その向こうには八ヶ岳・北アルプス・槍穂高連峰・中央アルプスが見え遠く富山県の白山も見える素晴らしい大パノラマだった。途中、風力発電の羽がある新しい仙丈小屋に寄ってトイレを借りるとなんと水洗トイレなのでびっくりする(今どきの山小屋はすごい)地上と何も変わらないことに驚く。そして、(ひと登りすれば富士山と北岳が見える)と思うとワクワクして足も軽くなってひと汗をかくと「見えたー」と大きな声を出す。そこにはどっしりと北岳がそびえ立ちその後方に富士山がくっきり見え、登ってよかったという達成感を味わいやっぱり山登りはやめられないとつくづく思った。青い空ときれいな山を眺めながら歩き続け北沢峠に着き、バスを乗り継いで車に戻り芦安温泉でひと風呂浴びてから家に向かった。(美)
どうなる普天間飛行場!
鳩山から菅へ。「沖縄問題」から「消費税問題」へ。
それに即して、最近の本土マスコミではあまり「沖縄問題」が話題に上がらない。
4月28日の朝日新聞・「窓」欄に「普天間飛行場の値段」と言う記事が載っていた。
「米軍が世界にもつ海外基地は5570カ所あまり。米政府は毎年、それぞれの資産価値を発表している。・・・昨年度の海外基地では嘉手納(53億ドル)、三沢(45億ドル)、横須賀(39億ドル)など上位4位を占め、5位にドイツの空軍基地が登場する。国別総額では日本が406億ドルで1位。ドイツが377億ドルで、韓国が136億ドルと続く。焦点の米海兵隊普天間飛行場は、7.9億ドルで佐世保(7.7億ドル)と並び在日米軍基地では10位以下」と書かれていた。
このデータは何を物語るのか。米軍がもつ海外基地で最前線基地として最も有力なのは「在日米軍基地」であることを示している。
次に、沖縄の琉球新報は7月16日(金)の1面で、「在沖米海兵隊の不要論が最近、米国内で急速にわき上がっている」と論じた。
米民主党の重鎮であるバーニー・フランク下院歳出委員長が「米国が世界の警察だという見解は冷戦の遺物であり、時代遅れだ。沖縄に海兵隊がいる必要はない」と公に訴えたことがきっかけとなった。
ことの発端は7月6日、与党フランク氏と野党ロン・ポール氏の両下院議員が書いた論文「なぜわれわれは軍事費を削減しなければならないのか」がハフィントン・ポストに発表された。
内容は「2010年度の軍事費6930億ドル(約61兆円)は歳出全体の42%にも上り、経済活動や国民生活を圧迫している」と説明し、「財政再建と雇用創出が国の最優先事項だ。度を越した軍事費問題に取り組まなければならない」と結論づけた。
この記事が大きな反響を呼び、大手テレビに出演したフランク氏は「1万5千人の在沖海兵隊が中国に上陸し、何百万もの中国軍と戦うなんて誰も思っていない。彼らは65年前に終わった戦争の遺物だ。沖縄に海兵隊は要らない。超党派で協力し、この議論を提示していきたい」と訴えた。
彼が主導し超党派で立ち上げた軍事特別委員会が、6月に発表した報告書で「軍事専門家らを交えて軍事費を細かく精査した結果、欧州やアジアの駐留費の縮小、オスプレイなど軍用機調達の停止・延期などによって10年で1兆ドル(約88兆円)が削減できる」との試算を出している。
ワシントン・ポスト紙は、この報告書を踏まえて「海外駐留米軍の役割について国民的議論の必要性」を訴えた。
背景にあるのは、今米国は、「深刻な財政赤字」と「大量の失業者」を抱え、生活に苦しむ国民の不満の拡大がある。
その不満が膨大な軍事費に向き始め、米軍の戦略見直しと財政再建の必要性が合わさり、海外駐留米軍の撤退を求める声は拡大すると予想されている。
日本も大支出バラマキ予算をやり財政再建は人ごとではない。われわれも財政再建と若者の雇用創出が国の最優先課題である。度を越した米軍への思いやり予算や軍事装備費の削減に取り組まなければならない。
「在日米軍基地の削減問題」は沖縄だけの課題ではない。まさに日本全体の課題であることを肝に銘じよう!(英)
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色鉛筆・・・お母さんへ
お母さんがそちららへ行って、ちょうど2年。先日「三年の法要」を済ませましたよ。
お盆もあって、日頃無縁にしているお寺に係わることや仏壇飾りなど、あわただしく過ぎました。最近、高橋卓志和尚著「寺よ、変われ」(岩波新書)を読んで、深く考えさせられました。
生前お母さんは、毎朝仏壇の前でお経を読んでいたけれど、あれは生きづらい時や、子や孫たちの幸せを祈る時、きっと心穏やかにしてくれる行為だったのだなと今になって思います。(親不孝でしたね)
長野県松本市の神宮寺の高橋和尚(1948年生まれ)は、現代の寺や葬儀のあり方に根底から疑問を持ち、「変われ」と提起しています。実際、神宮寺では日頃から檀家と関わり交流し、死期が近づけば傍らに寄り添い、不安や苦痛を少しでも和らげるよう心を尽くします。葬儀は、おのおの故人や遺族の希望に添った、ひとつひとつ独自のものだそうです。生きている限りつきまとう生老病死の不安や苦痛。
お母さんが病院で亡くなる時、病院でも葬儀社でも、高橋和尚のように寄り添い、相談に乗り、共に苦しんでくれる人は居なかったね。私たち自身も初めての事で、右往左往するばかり。病院から葬儀社、そして寺へと既成のレールに乗せられて、事は運ばれましたね。後悔する事しきりです。(ただ二つだけ、納棺の時白装束を拒否したこと、そして葬儀の時8人の孫が一人づつあなたに感謝の言葉を述べたこと、それは自慢してもいいかな?)
確たる根拠があるのか無いのか知りませんが、死者を送るときには、こうするべきだ、あれをしてはならないといったいわば変な決まり事が多いような気がします。(言い過ぎかな?)それはまた、葬儀社や寺の収入に反映されることが多いので、余計に不信感・不満がつのります。葬儀のやり方をめぐっての、親族の間の拭えない対立などたくさん耳にします。課題は山積みですね。
高橋卓志さんは、世襲により僧侶になったばかりの頃、義務的に嫌々お経をあげていたのだそうです。ご本人はその頃「怠惰な生き方」をしていたと言います。その彼が劇的に変わるのは、1978年の戦没者慰霊の旅に同行したときの、太平洋戦争当時の激戦地ニューギニア北西のビアク島の洞窟での読経でした。足下には累々たる兵士たちの遺骨、背後では一人の遺族が地面にのたうち回って泣き崩れて居たと言います。それまで自分が、本当の死「いのちの最終段階に訪れる本人の痛み、苦しみ、みじめさ、寂しさ、恐怖、不安、不条理感、そしてそれを見る家族の悲しみや葛藤など」(本書より)から、ずっと目をそむけていたことに気づきがく然とします。遠い外国で、無念の死を強いられた多くの兵士の遺骨が、その後の高橋和尚の生き方を形作ります。
寺の仕事にていねいに取り組みつつ、ディケアや海外支援のNPO(タイのエイズ感染者や、チェルノブイリなど)、尋常浅間学校の開催、丸木夫妻の「原爆の図]展など様々なことに取り組んでいます。寺の山門はいつも開けてあり、寄せられる多くの相談に乗って居ます。こんなしんどいことは、なかなか出来るものではないけれど、彼は続けています。いのちを守り、平和を願う心でね。
いま、ますます弱者が切り捨てられ排除される世の中になり、誰にも訪れる生老病死の前で苦しむ人はあとを絶たない。神宮寺にかかわる人たちのように、共にいて寄り添う人がいる心安らかな最期を、誰もが平等に迎えられる世の中にしたいね。命と平和を守るために、変えて行かなくては。私自身が問われている気がします。
来年にはお母さんにとって2人目のひ孫が産まれる予定ですよ。見守って下さいね。(澄)
編集あれこれ
前号の一面と二三面は、民主党の敗北と自民党の復調を確認し、そうした結果になった理由を消費増税のためとして「大増税政権」に拒否反応を示したものと分析しました。具体的には、菅内閣の「生活が第一」等の昨年衆議院選挙の「マニフェスト」をあっさりと投げ捨てたことに対する政治姿勢や政治感覚に有権者が呆れたと論評し、労働者・市民を基盤とした第三極を切り開いていくように訴えかけました。
四面は消費税について考察し、「新しい社会を見越した税体系」の構築を呼びかけたものです。それにしても法人税減税はもっての他所得税の累進課税性の強化は必須の事です。
五面はタイムリーな菊池英博氏の『消費税は0%にできる』の書評を掲載しました。読者の皆様にはぜひ当面の論戦に向けた基本理論としてぜひご確認いただきたい。
六面には法外な報酬を当然とする資本画の強欲の暴露と映画『密約』の紹介記事を掲載しました。七面には読者からの手紙と「色鉛筆」を掲載しました。
八面から九面には、今回から四回ほど連載予定の「マルクスの協同的組合的社会の諸問題―『ゴータ綱領批判』の再検討」を掲載しております。一寸難しいでしょうが、ぜひ精読をお願いいたします。今後の展開にも期待しております。 (直)
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