ワーカーズ425号 2010/10/1
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国家主権至上主義≠乗り越えよう!固有の領土≠ゥら共同管理へ
尖閣諸島近海での日本の巡視船と中国漁船の衝突事件を巡る事態が急展開している。
当初は強硬姿勢で臨んだ日本政府。中国による矢継ぎ早の対抗手段に直面し、処分保留のまま中国漁船船長を釈放した。対する中国は、さらに謝罪と賠償を要求するという高飛車な態度をあらわにしている。
もとより両国が固執している尖閣諸島の領有権なるものは、たかだか数十年か数百年の話だ。元はといえば、地球上の土地には固有の所有者≠ネどいない。あえて言えば、土地は元々そこに住んでいる住民が利用してきただけの話で、国家固有の領土≠ネど最初から無い。今は無人の尖閣諸島も歴史の推移のなかで国家の領土に編入されたものだ。
中国が国家意志として自国領土だと主張している以上、それがどんなに傲慢なものであっても領土問題≠ヘ存在する。国家主権を掲げて争うだけでは、いつまでたっても決着しない。
領土・領海紛争に当たっては、我が国固有の領土≠ニいう、たかだか350年の歴史しかない国家主権至上主義と決別すべきなのだ。手始めは日中台≠ノよる尖閣諸島の共同管理である。すでに日中間では形式的ではあっても、東シナ海の海底油田で共同開発が合意されている。単純化すれば、こうした態度は竹島や北方領土でも適用すべきなのだ。
領土問題の解決で参考になるのはウスリー川の中州(ダマンスキー島)を巡る中ソの国境紛争だ。これは紛争地を二分する形で決着した。それ以上に参考になるのはEUの例だ。EUの原点は、重要資源の共同管理構想を基礎に、欧州の安定と経済の発展をめざして1952年に発足した欧州石炭鉄鋼共同体設立条約にある。欧州の再建に欠かせず、また重要な軍需物資だった石炭や鉄鋼を協同で開発・運営することで戦争を回避する役割を果たし、今日のEU結成につながった。ルール地方やドイツ・フランス国境付近のアルザス・ロレーヌ地方の奪還を巡って何度も戦争を繰り返した悲惨な歴史の反省に立つものだった。
警戒すべきは、領土紛争を激化させる日中両国の偏狭なナショナリズムの動向だろう。中国は経済大国化と並行するかのように,ナショナリズムが拡大している。列強に侵略された経緯を考えればムリからぬ面もあるが、半面では貧富の格差など国内矛盾をナショナリズムに誘導する中国政府の思惑もある。そのナショナリズムに変わりうるのは善隣友好関係≠めざす関係国の労働者・市民によるインターナショナルな連帯意志であり行動だろう。
こうした転換は、国家至上主義から抜け出せない現在の日中の政治体制の元では不可能かもしれない。国家至上主義を克服する新しい政治の台頭が不可欠だ。(9月25日 廣)
日銀の為替介入と非不胎化政策
日銀の為替介入と早くも疑問視されるその効果
九月十五日、民主党代表選挙の最中に急進した円高に、無策だとの批判を受けていた菅内閣がようやく6年半ぶりの為替介入を実施した。この為一ドル=八十二円台から一ドルイコール八十五円台にまで下がり、一時的ではあれ、円高は小休止した。
今回の円高は、世界的な通貨切り下げの中での円の独歩高である。確かに極めて限定された局面でいえば、その原因のほとんどは、『日銀不況』の著書を持つ森永卓郎氏や元財務省官僚の高橋洋一氏が明確に指摘したように、他国に比べて日銀による通貨供給の相対的な不足にこそある。
したがって管内閣による為替介入は、確かに当座は為替市場の需給関係を変えて一時的な円高を止める事にはなるだろうが、日銀による円供給を他国の中央銀行並みに増加させないと再び円高になるのは必至である。投入した資金は一兆八千億円だったが、ヨーロッパと一緒になった協調介入ならともかく、日本一国での介入など、無駄金の支出である。
過去においても、小泉・竹中政治時代には、二年十月から0四年三月までの一年半に、日本政府は三十五兆円ものドル買い介入を実施した。日本の為替介入は、結果としては日本政府が米国金融機関に提供しただけである。この介入により五兆円以上の為替損失を生みだしたのだ。まさに為替介入とは「売国」とも評すしかない愚策でしかないのである。
このところ円高ドル安を放置しているアメリカでは、ただちに日本の為替介入に対する非難が巻き起こった。今のところオバマ政権自体は冷静に対処しているが、米議会では日本の為替介入に不満の声が上がっている。現在、アメリカは中国に対しても人民元切り上げの圧力を加えつつある以上、当然の事ながら日本にも厳しくなっているのである。
すべては来る中間選挙で共和党優勢になるとの予想から、オバマ政権としても議会の感情を考慮せざるをえない。この点からも、日本政府による為替介入には批判的であろうし、それゆえ菅内閣はこれから先の無制限な為替介入はなしえないのである。
非不胎化政策とは何か
最近の十年間、日銀は為替管理政策として不胎化政策を採用してきた。非不胎化政策とはそれを否定する政策である。今回、日銀は為替介入後は非不胎化政策を採用する。
これらの概念について順序よく説明しておこう。固定相場制の時は、各国の政府はその国の中央銀行の資金を使って、為替介入をした。介入の仕方には、自国通貨を発行し外貨債を購入するか、自国通貨を回収して外貨債を売却するなどの方法がある。外貨を買うために自国通貨を発行すれば、自国の資金需給は緩み金利が低くなって、結局インフレになる。この意味で、その当時の為替介入は、自国の金融政策と完全に連動していた。
もし為替介入しても、自国の資金需給を変化させないようにするには、中央銀行が資金需給を「無効化する」事、つまり放出された円を市場から回収(資金吸収)する事が必要だった。それを不胎化という。その逆に中央銀行が何もしなければ、資金需給が変化することになり、それを非不胎化という。今回日銀は円を放置するのである。
その後、日本は、一九七三年に変動相場制に移行した。この制度下では、政府による為替介入は当然ながらほとんどなくなった。長期的には意味がなくなったのであるから。
国際金融には、トリレンマという概念がある。それは国際金融政策において三つの政策を三つ同時に実現する事ができず、二つしか同時に実現しかできないことをいう。その三つとは、固定相場制・独立した金融政策・自由な資本移動である。例えば、中国においては、「為替の安定(対米ドル固定)」、「中央銀行(中国人民銀行)による金融政策の自由度」を確保する代わりに自由な資本移動を禁じている。また日本や米国では、「自由な資本移動」と「中銀(日本銀行・FRB)による独立した金融政策」の代わりに、為替の安定を表向き放棄している(変動為替相場制)。他方、EU(ユーロ圏)においては、「資本移動(国境・関税などの経済的障壁の撤廃)」と「単一通貨(ユーロ)の流通(複数国による固定相場制導入と事実上同義)」を両立させているが、金融政策は欧州中央銀行(ECB)に握られており、加盟各国が個別の政策を採ることはできない。しかしこの事は、金融政策によってある程度の為替の動きをスムーズにできるという話でもある。
日本の外貨準備高が先進国で突出の理由
二00九年度末の時点で外貨準備高は、約八十八兆円、政府短期証券(以下外為証券と称する)の発行残高は一0年度末の時点で百四兆円にのぼり、中国に次いで世界第二位だ。なぜこんなにも多いのか。それは、日本がかつて「ダーティフロート」とかいわれ、為替介入を行う唯一の先進国であったからである。まさに非不胎化政策のツケなのである。
一九九九年まで、政府による為替介入の原資となった外為証券は、事実上全額が日銀の引受であった。このため、政府による為替介入は自動的に日銀による円資金の市場投入となり、それは実質的な通貨増と同じ事なのである。
しかし二000年から発行の外為証券は、市中公募となり、日銀による円資金の市場投入ではない。この意味では、日本は最近まで日銀が何もしない不胎化政策を採用していた。政府にとっては、外為特別会計で外為証券を発行して外貨債を購入する、いわば「円キャリーファンド」であった。それは、オペレーションに日銀を使っていただけで会計勘定は、政府の外為特別会計であり、金融政策に影響のある日銀の勘定とは無関係だった。
さらに、日銀は非不胎化したと報道しているが、日々の取引での資金需給だけでみるのはまだ早い。日銀が本当に政策として金融緩和するかどうかは、日々のオペをする日銀事務方では判断できず、政策決定会合で決めるべき案件なのである。
繰り返せば、今回の円高の原因は、九月十九日の日経新聞が報じたような「米国経済の減速懸念が主因」ではない。円はほとんどすべての通貨に対して高くなっているからだ。
それは、日銀による通貨量の不足により、他国の通貨に対して高く、自国の財貨・サービスに対しても高くなり賃金も下がる。つまりデフレとなっているのだ。したがって前号でも展開したが、賃上げすればデフレが克服できるとの議論は的外れである。別言すれば、円高とデフレとはコインの裏表の関係なのである。
真の円高対策とは何か
現在、日銀は金利を0・一%に据え置いている。今後とも為替介入を続けてると、つまり円資金の供給を増やしていくと、その結果金利が低下して、0・一%の政策金利の維持ができなくなる。日銀は、金利がゼロになった段階で、円資金の回収に向かう。これが不胎化政策だ。今まで日銀は不胎化をしていないとしているが、為替介入を続ければ、時間の問題で円の回収をせざるをえなくなる。そうすると、政府の為替介入の効果を、日銀自らが相殺する事になってしまい、元も子もなくなってしまう。したがって菅内閣が本気で円高を為替介入で押さえようと考えているのかどうかは、今後日銀がゼロ金利政策を導入するかどうかで、はっきりとする。
日銀がゼロ金利政策導入の構えを見せていない以上、基本的に円高の流れというのは止まらないとしかいえない。まさにここが正念場であるのになぜ明言できないのであろうか。
この円高問題を大局で視ると、真実が浮かび上がる。かって吉川元忠氏は『マネー敗戦』において、日本からアメリカへ定期的にカネが流れる「新帝国循環」のシステムがある事を暴露した。日本はアメリカにカネをむしり取られているのだ。今また孫崎享氏は、最近出版した『日本人のための戦略思考入門』において、今の日米関係をかっての英国とインドの関係に見立てている。インドも英国からむしられていた。日本はアメリカの「保護国」だと孫崎氏は断言している。まさにこの問題の本質は、三國陽夫氏らの『円ドルデフレ』であり、『黒字亡国』なのである。輸出依存の産業構造の転換や「通貨植民地」の脱却こそ今問われている。日本は内需を軸足とする自立した産業政策を確立しなければならない。
この問題は、デフレ克服とも絡んでいる。民主党の代表選挙の最終段階で、小沢氏はインフレターゲット導入を含め思い切ったデフレ克服策の採用を提言した。しかし菅氏は、この根本的なやり方に賛成していない。したがって焦眉であるデフレ克服の道は、相当遅れざるをえない。
菅政権が依拠する基本政策は、新成長戦略のメニューをみれば明らかなように、金融規制緩和がメインでしかない。まさに菅内閣の無為無策の極みではある。
結局の所、菅内閣は、財政引き締めと金融引き締めで生じるデフレ経済の中で、規制緩和を断行した小泉内閣時代の後半とほとんど同じ政策を採用する事になる。ここで読者に問うておこう、自民党から民主党への政権交代とは一体何だったのであろうかと。
菅内閣のこの間の無策の結果として、不況下の日本はますますひどい「格差社会」に向かって突き進んでいかざるをえない。まさに菅内閣は打倒すべき政権なのである。(直木)
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本の紹介
『通貨で読み解く世界経済』小林正宏・中林伸一 中公新書 880円
──不況のゆくえを考える基礎資料──
しばらく前の話だが、リーマン・ショック後の低迷にあえいでいた頃、当の米国では「日本の二の舞は踏まない、米国は日本のバブル崩壊以後の失敗を教訓に素早く不況を脱せられる」という観測が出されていた。
ところが実際は大規模な経済テコ入れ政策によって回復局面に入るかと思われた矢先、住宅需要の低迷や深刻な高失業が解消されないことなど、早くも回復に黄信号がともっている。いまではつい先日の楽観論は消え、米国の不況は長期化するとの観測が拡がっている有様だ。
他方、わが日本ではギリシャ危機以降の円独歩高という荒波のせいで、輸出企業を始め早くも景気の中折れの心配が出ている。菅民主党政権も景気の二番底の不安を背景に、市場に催促されるかのように円売りドル買い介入を余儀なくされている。
私たちの周囲では、一昨年以降の不況と失われた10年≠こえて20年にもなろうとする経済の長期低迷から脱出したいとの思いは、切実なものがある。とはいえ、私も含め普通の人々にとって経済動向の把握は分かりづらい。本書は、その分かりづらい経済動向を通貨の歩みという切り口で解説している本である。
本書の構成は次のようになっている。
第一章 世界金融危機とマクロ経済
第二章 基軸通貨ドルの将来
第三章 ユーロの課題と展望
第四章 東アジアの台頭と人民元
第五章 円高と日本経済
第六章 国際金融システム改革
こうした構成でも分かるように、本書では最近の金融危機を巡る各国通貨の動向や、それぞれの地域や国が抱えている問題点をわかりやすく解説している。新聞の断片的な経済記事だけでは分かりづらい出来事も、そのは背景や経緯も含めて解説してくれているので、今何が起きているのか、その全体像をつかむ材料を提供してくれている。
最初にIMF(国際通貨基金)と世界銀行の設立で生まれたブレトン=ウッズ体制成立のいきさつなど基礎的な解説がある。その上で本書が取り上げている期間は07年のサブプライム危機からリーマンショック以降の世界的な金融危機、そして最新のギリシャ危機までが中心だが、それぞれの通貨が戦後たどってきた紆余曲折をほとんどカバーしている。
本書の著述については、1人が金融実務に携わってきた人で、もう1人が研究者だ。なので金融実務の最前線で語られている専門用語や業界用語も交えて記述も詳しい。半面では記述が平坦で、読んでいて中身があまり頭に入らない嫌いもないわけでもない。それでもグラフを多用するなど、金融問題を整理して理解するための材料は豊富だ。そして何よりも最新の出来事まで取り上げていること、個々の出来事について因果関係など具体的に跡づけていることは、経済・金融事情を理解しようとしている人にとっては便利な解説書といえる。
ただし時系列的に出来事をなぞるだけで本質的な掘り下げは弱い。たとえば日本の失われた10年(20年)≠フ原因ともなった90年代以降の数次にわたる不況対策について、「円高不況回避のために累次の経済対策が措置され、徐々に財政赤字が拡大していった」とだけしか記述していない。また同時に深刻化したデフレについても「単に需要サイドの要因も大きく影響した」「バランスシート調整圧力が大きかったことを示唆している」としか記述していない。そのほかにも「当局と市場の対話が求められている」「政策協調が必要である」とか、「不動産バブルが懸念される」というように、単に現実を後追いしている感もなきにしもあらずで、評価や問題提起などでも斬新さは見られない。
政府関係の仕事をしてきた経歴や「新書」の宿命でもあるが、結局、本書を読んでも何が問題なのか、どうしていくべきかなどの根源的な問題提起はない。それらは本書を読んで自分自身で考えなければならない。そのための事実経過の解説書という位置づけが必要なようだ。あえていえば、本書の題名は『通貨で読み解く世界経済』ではなく『通貨で読む世界経済』がふさわしいか。(廣)
「第17回全国市民オンブズ(マン)北陸・富山大会」開催される!
去る9月4日・5日、全国から260名の参加者を集め、富山市において大会が開催された。その内容について報告し、あわせてオンブズ活動の現状と課題についても触れてみたい。
今年は記念講演がなく、都道府県と政令市を対象に行なわれた予算編成の透明度ランキング調査についての報告、各分科会の課題の提起などがたっぷり時間をかけて行なわれた。全国情報公開度ランキング調査では、今回全市を対象とし、854自治体から回答を得たことが報告された。ちなみに、昨年岡山大会で記念講演「末期的な自治体財政から真の地方自治を考える」を行なった片山善博・前鳥取県知事(慶応大学教授)が、菅改造内閣の総務大臣に就任した。安易な期待は出来ないが、少なくとも国会議員の利害に囚われない着想を発揮してほしいものだ。
自治体の予算編成に際しては予算書や予算説明書が公開されるが、市民がこれを見てもわからないし、議員もよく分からないので予算段階でのチェックが十分できていないのが現状である。予算案が組み立てられていく過程が明らかになり、さらに前年度の施策の評価を確認しつつ、これを検討できるようになってこそ住民自治が可能となる。「地方自治、とりわけ住民自治の基本は、自治体のお金の集め方・使い方を住民意思に基づいて決定するという財政民主主義にあるのではないか」、予算編成の透明度ランキング調査はこうした意図のもとに、行なわれたものである。
情報公開度ランキング調査では、情報公開条例において「開示請求権の乱用禁止」規定があるかどうかが注目され、38自治体において「乱用してはならない」といった規定が見られた。とりわけ、開催地の富山市情報公開条例においては、「実施機関は請求権の乱用と認めると請求を拒否できる」という条例改正(改悪)が行なわれている。これらは大量の請求を嫌い、これを制限・阻止しようとするものであり、知る権利を侵害するもである。
分科会は、私も悪戦苦闘の最中である政務調査分科会、「政務調査さいばん作戦会議」に参加した。事前にアンケート調査があり、52件の裁判が集約されている。毎年度行なわれているところもあれば、アンケートが漏れているところもある。いずれにしろ、政務調査費裁判は全国の自治体で取り組まれており、税金の対象とならない第2報酬として自由に使いたい議員と、これを容認する行政当局、これに付き従う監査委員という利害集団とのあくなき闘いが繰る広げられている。
ここに築かれた壁とは、@一件明白に違法な支出と認定できるもの以外については会派・議員の裁量を尊重する。A被告による支出の適法性の立証ではなく、原告による「一件明白に違法」の立証。B純然たる選挙活動・政党活動以外は認められてしまう。C会派控室で行われる活動はすべて政務調査活動としてすべての支出が認められる。D住民に対する広報広聴活動はすべて政務調査活動とされ、広報誌発行は認められる。E社会的常識・儀礼の範囲内であれば飲食費支出も認められる、という恐るべく高い壁である。
報告が行なわれた事例では、岩手県議会のグレートサスケが政務調査費の4分の3くらいをプロレス団体に入れている、というすごいのがあった。これは人と事務所にかかわる経費ということだが、11月にも判決が出るということだった。また、滋賀では自民党会派が県連に委託費を払っていた。年度末に切手等を大量に買っていたとか、任期切れで次期立候補しないのにパソコンを買っていた、などわかりやすいものも多くあった。
5日午前中、分科会報告と各地からの報告が行なわれ、最後に来年は長野県松本市で開催される、不便だが温泉地だという宣伝があった。報告を列記すると、@議会の議決による債権放棄、A住民訴訟敗訴に対する弘前市長の裁判費用請求、B判決で今はダム建設の必要性がないと認定されているのに6戦5連敗中の八ッ場ダム裁判、前中田市長の横浜開港150年イベントデタラメ支出に対する住民訴訟提起、C佐賀県警電子申請システム利用者ゼロで4億5千万円のムダ、等々。
地元市民オンブズ富山からは、市内中心街フラワーハンギングバスケット(街灯の花かご)175基に年6千万円の支出や、1台20万円の貸自転車シクロシティというまるで市長の道楽≠ニいうほかない税金浪費の実態が報告された。
我々の前にはなお多くの課題が山積している。議員は特権にあぐらをかき首長と馴れ合い、税金の浪費は止まらない。政務調査費支出で見れば、領収書等の公開は進んだが、「調査研究に資する」を都合よく解釈し、あらゆる議員活動をその対象にしてしまっている。そこで、前記の裁判花盛りとなっているのだが、結果は一進一退だ。
いま、さらに力強い闘いが求められているのに、この分野においてもご多分に漏れず高齢化が進み、大会参加者も漸減傾向にある。元来が、お役所相手なので平日の昼間動ける市民が中心となる。いきおい、定年後の世代が多くなる。更なる老人力の発揮が求められている、ということである。 (折口晴夫)
大会宣言
2010年9月4日から5日にかけて、私たちは、「予算づくり、市民も参加せんまいけ!」というメインテーマを掲げ、第17回全国市民オンブズ(マン)北陸・富山大会を開催しました。
わが国の財政は国も地方も危機的状態にあるといわれながら、そもそも予算がどのように決定されたのか、市民が容易に理解できる状況にあるとはいえません。そこで、私たちは今回、47都道府県と18政令市を対象に、予算編成過程の情報公開度を調査しました。その結果、予算編成過程を透明化している自治体や,住民の意思が反映できる制度を設けている自治体が極めて少数であることが判明しました。
また今回は、全国の855都道府県、市および区すべてを対象に、はじめて一斉アンケート調査等による情報公開度ランキングを行いました。その結果、これまで情報公開度ランキングの対象となっていなかった市・区の情報公開度が低いこと、開催地富山市を含む複数の自治体で情報公開請求を首長が一方的に拒否できることを内容とする濫用°ヨ止条項が制定されていることが判明しました。
政務調査費の情報公開では、領収証以外の情報の公開がいまだに遅れているのみならず、領収証自体にもマスキングがなされているといった問題が明らかになりました。
民主主義の発展のためには、国・地方自治体が説明責任を尽くし、十分な情報公開を行うことが不可欠ですが、今回の調査結果を見る限りいずれも不十分と言わざるを得ません。
その一方で、住民訴訟で勝ち取った請求権を議会が放棄するという住民自治を形骸化させる状況や、訴訟費用の敗訴者負担原則を安易に住民訴訟に適用する判決が行政監視活動を萎縮させる状況も存在しています。また、地域経済を保護するとの名目で入札制度改革を後退させる動きも生じています。さらに、住民訴訟のような制度をもたない国政においては、地方以上に民意を無視した事業や公金支出も相変わらずまかり通っています。
私たちは、今回の大会報告や討議をもとに、市民のための地方自治・財政民主主義の実現をめざし、以下の6点を大会宣言とします。
記
第1 予算編成過程の情報公開・説明責任を徹底するよう自治体に求めること
第2 実施機関の一方的な判断による情報公開請求拒否条項は憲法で保障された知る権利を侵害することを確認し,この条項を制定した自治体には改正を求めていくこと
第3 政務調査費情報を透明化するよう議員・会派・議長に引き続き求めていくとともに,議員・議会の活動を注視していくこと
第4 公益活動である住民訴訟の訴訟費用は原告の負担としない立法化等を求めていくこと
第5 地域経済の保護に名を借りた入札制度改革の後退を許さないこと
第6 国に対する公金検査請求訴訟制度の制定をめざす活動を引き続き行うこと
2010年9月5日
第17回全国市民オンブズ(マン)北陸・富山大会参加者一同
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連載(第5回)マルクスの協同組合的社会の諸問題――『ゴータ綱領批判』の再検討
八、補――「国家の完全な死滅の経済的基礎」とはなにか?
まずは、レーニンの主張を再度掲げてみましょう。
「国家の完全な死滅の経済的基礎は、精神労働と肉体労働との対立がなくなるほど、したがって現代の社会的不平等のもっとも重要な源泉の一つであり、しかも、生産手段を共有財産に移すだけでは、資本を収奪するだけでは、けっして一挙に除去することのできない源泉がなくなるほど、共産主義が高度の発展をとげることである」(『国家と革命』)。
「精神労働と肉体労働の対立」が「現代の社会的不平等のもっとも重要な源泉の一つ」であるのは誤っているとは思いません。また、「精神的労働と肉体労働の対立がなくなるほどに共産主義が高度の発展をとげる」という点も誤っているとまではいえないでしょう。(「対立」と言う言葉をどのように理解するかが問われますが。)
問題は、次の一点にあります。「共同所有の実現」も「資本の収奪」も、国家の消滅をもたらさない、ひきつづき精神労働と肉体労働の「対立」(この表現が問題だが)が残存するのであれば、国家は存在し続ける、というレーニンの見解です。この論点は重大な混乱ないし誤りがある思われます。
労働者の対等性にたつアソシエーション社会では、階級の消滅、固定的分業の緩和策、そして真の民主主義の実現などを通して、「現代社会の不平等の源泉」=「精神労働と肉体労働の対立」というものが、大幅に緩和され、「対立」から「融合へ」という大転換を遂げつつあるのです。そうでなければアソシエーション革命の意義がありません。この「社会主義」の内実をレーニンは無視しています。この社会は「精神的労働と肉体労働」の「分裂」が最終的に消滅したわけではないとは言え、両者の融合が意識的に追求を開始しているからです。つまり私見によれば、階級的な対立が排除され同時に民主主義が実現しているということで、精神労働と肉体労働の相対的な区別や比重の差の残存は、もはや「対立的」ではなく直接に階級の存在と結びつくものではなく、したがって国家を必然化するものではないとかんがえられます。たとえば、協同組合的社会での集団的、社会的作業には、「リーダー」や「計画作成上の中心人物」がまだいたとしても、それが階級の存在と直接に結びついているというものではありません(しかし、個々人の対等性と真の民主主義の発展のためには、つまり共産主義のより高度な発展のためには、さらに成熟した社会的個人の登場が必要ですが。)。
レーニンが大意として「精神労働と肉体労働の分業が完全消滅しない限り国家の存在は避けられない」と国家の消滅を途方もない彼方に遠ざけたのは、あまりの牽強付会であり国家という社会的強力を手放したくない、徹底的に利用したいというかくされた彼の願望の理論的表現ではないのかとうたがってしまいます。
具体的にみてみましょう。もし、素朴な分業でも階級を生み出しうるのならば、原始社会の「軍事的リーダー」は、ある種の「指揮労働」(精神労働の一つ)を実践するのですが、それは「精神労働と肉体労働の対立」なのでしょうか。原始・未開社会の社会的行動には、いずれにしても「リーダー」は存在しています。つまり、素朴な形態ではあれ、「精神的労働と肉体労働の相対的分離」は存在します。しかし、彼らの間には、「職業化」した「専門家」は存在しません。つまり「戦争のリーダー」は自らも一兵卒として闘う兵士、いや、全員の先頭に立つもっとも勇猛な戦士なのです。決して、天幕にのこる「司令官」ではありません。だからこの様な社会状態での精神的労働と肉体労働の相対的な「分離」は、階級もしたがって国家も発生させるものではないのです。
しかし、歴史がさらに進むと、代々の一般農民家系、あるいは神官の家柄とか、武門の棟梁の家柄とか、王家とか社会的分業が固定化し、――ここが大切なのですが――同時に別な諸事情から社会が階層化してゆくということです。社会的分業の固定化が、貧富や貴賎の区別と一体となるのです。ここに至れば階級の登場までは時間の問題となります。今や、本来、自然的で相互対等性と矛盾する存在でなかった分業は、社会の中で相互に対立的な関係として登場してくるのです。すなわち、階級として現れるのです。
このように、そもそも階級対立と結びつかない自然的分業が、社会内の対立的な存在となるのは、分業が集団や個人に対して「職業・専門」として固定すると同時に、氏族間、部族間、家族間にこのような社会的上下関係が発生し、搾取が発生することによってです。この二重の過程の結果として精神労働と肉体労働の「対立」が発生するのです。逆に言えば、「階級」や「階層」の発生や顕在化の以前の、素朴な分業時代には「精神労働と肉体労働」の相対的な区分は存在していましたが、決して対立的とまではいえなかったのです。
であるのならば、アソシエーション革命が、生産手段の私的所有を廃止し、社会的所有を実現し、搾取を直ちに廃止するとすれば、そして、分業の固定化を改善する諸政策を実行し、産業管理運営を民主的なもの、労働者の自主的なものにするのであれば、つまり精神労働と肉体労働の「融合」が開始されれば、分業の完全な融合が到達されていなかったとしても、精神的労働と肉体労働の「分離」は、ここではすでに「対立的」ではないし、ブルジョア的でもないのです。
「生産手段を共有財産に移すだけでは、資本を収奪するだけでは」精神労働と肉体労働の「対立」をけっして一挙に除去することができない(レーニン)、ということがそもそもおかしいのです。「社会主義」「協同組合的社会」の諸条件においてさえ精神的労働と肉体労働は「対立」ではなく「融合」を開始したものとして理解すべきでしょう。
このように精神的労働と肉体労働の「完全な融合」だけを「国家の完全な死滅の経済的基礎」であるとレーニンが主張するのであれば、――事実上その様に主張しているのですが――それは歴史理論を無視するものです。
レーニンの主張は、あきらかに転倒しています。精神労働と肉体労働の「分離」が直接に(ブルジョア)国家を発生させるのではありません。国家が発生するという状況に至るには、精神的労働と肉体労働の柔軟で素朴な分離が、固定的で搾取関係を内包した階級関係の土台の形成へと進化することが不可欠の前提なのです。階級は、たしかに分業の存在に淵源を持っています。しかし、「素朴な分業」と「階級」は、天と地ほど違ったことなのです。この歴史的事実にレーニンは気がついていません。あるいは無視しています。
原始社会の祭祀のリーダーや狩猟のリーダーあるいは軍事的リーダーは、そのままでは階級や国家を生み出さないでしょう。それと同じように、アソシエーション社会のさまざまな集団内に存在するリーダーも、もはや「管理労働」や「指揮労働」を専門業としているわけではなく、自らも肉体労働をする「一介の」労働者であるはずです。「管理労働」や「指揮労働」も、リーダーだけでなく、みんなで担うのが基本です。そのうえでこのような相対的な「差」の残存は、人間の個々の能力や経験の差からくるものといえるでしょう。彼ら「リーダー」は、自分ひとりで何事をも決定するわけではありません。もちろんそこには生きた民主主義が存在しなければなりません。そしてそのような差も克服されるべき課題として意識的に取り組まれなければならないのも当然です。しかしながら、一部の人間だけが「専門に」その精神労働をするのではなく、一緒に精神労働も肉体労働もしているのです。これは「精神労働と肉体労働の対立」と表現される状況をすでに乗り越えていると言うべきでしょう。
このような概観だけでも、「国家の完全な死滅の経済的基礎」が、「精神的労働と肉体労働」の自然的な素朴な「分業」に発しているのではなくて、この素朴な分業が社会的に固定化され、さらには搾取と階級の発生により、この「区分」が「対立」へと転化したということ、その対立の非和解性ためにこそ国家が生じたことを十分に示しているでしょう。
この点でのマルクスの『ゴータ綱領批判』は、やはり現代の視点からすればやや一面的ではないかと考えます。「共産主義の第一段階」では依然として「個人が分業に隷属的な従属」を強いられているという描写にそれが示されているでしょう。このような認識から、同じように「精神的労働と肉体労働の対立」という表現にもつながっています。そうではなく、現代の「共産主義の第一段階」(協同組合的社会)は、前節でふれたように、この時代からこの固定的隷属的分業の緩和と精神労働と肉体労働の融合を目指して、その克服を課題として意識的に努力することが可能な歴史段階として位置づけられるべきでしょう。(この論文は『アソシエーション社会への道』の一部を加筆したものです。)
了 2010,7,10 阿部 文明
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色鉛筆・・・「ドドドーンの音がする」
9月10日から9月23日まで、静岡県の東富士演習場で、沖縄の米海兵隊による実弾射撃訓練が行われた。1996年以降、[沖縄の負担軽減」を口実に本土内で分散して訓練を行っているもので、東富士では2006年以来で、今回9回目となるという。
これに対し県内の市民グループで、8月下旬に県に訓練中止の申し入れをし、9月12日には御殿場市で抗議集会とデモを行った。ジリジリと照りつける日差しの下、それでも元気に市内をデモ行進した後、陸上自衛隊滝ヶ原駐屯地と、米軍の「キャンプ富士」に、訓練中止の要請書を手渡すために、数台の車に分乗し20人ほどで現地に向かった。
そこで肝を冷やす光景が目に入る。米軍基地に隣接する空き地(県有地とのこと)に、県警のものものしい大型バスが3台!金網で覆われた窓のカーテンは全て閉められていてとても不気味だ。他にも数台の警察車両と、目の鋭い男性たち。ものすごい威圧感だ。
事前に、自衛隊に要請書を渡したい旨連絡をした時点では、その空き地に駐車してもよいとのことだったにもかかわらず、入り口は車で塞がれて入れない。4年前に同様の申し入れをした際には、それでも自衛隊駐屯地の門前で対応したが、今回は「この空き地の入り口で(門から道路を隔てて50メートル以上も離れている)受け取ります。」と自衛隊の人が言う。押し問答の末、車の通る道ばたで大声で要請文を読み上げ手渡すことになった。背後に多くの巨大な警察を配備しなければ、怖くて受け取れないか?こちらは丸腰の市民。80歳の老人や女性、草履履きのひともいるたった20人の市民だ。あまりの過剰な対応に、心底呆れると同時に底知れない怖さも味わった。
その後「キャンプ富士」の入り口へ移動。3メートル近い頑丈な門はぴったりと閉ざされ、その向こうに巨大なコンクリートブロック。そこに兵士が2人立つ。門の外から何度も英語で「要請文を渡したい。ここに来て」と呼びかけるが、無表情のまま無視。仕方なくここでも要請書を読み上げ、門の下の地面に置いてくる。その時遠くでドドドーンと地響きがした。一瞬(花火の音?)いやここは基地だ、実弾射撃の音だと気づく。平和ボケの私。
車に戻る途中の道で、見たこともない形の大きな自衛隊の車両が走っていた。まるでカブト虫の背中を鋭く三角形に尖らせたような形。これは米軍が実弾を撃った後の片付けのために出動しているのだという。「日米同盟」は、「同盟」などではなく「主従関係」であり、それを象徴しているかのような光景だ。
1996年から、[沖縄の負担軽減」のためという大儀のもと本土各地の演習場で実弾射撃訓練が繰り返されているが、本当に負担が軽減しているのか?軽減どころかむしろよりいっそうの米軍の訓練強化、日米軍事共同訓練の強化のほうに成果を上げているとしか思えない。(澄)
読者からの手紙
発覚した前田大阪特捜主任検察官の犯罪
前号に掲載された私の手紙でも触れたように「辻元清美のつじもとWEB」は、一0年九月八日更新の「ボチボチ社会へ。そのために全力を注ぎたい」の後、九月十七日に「新しい政治の波を起こす起爆剤、接着剤でありたい――『世界』(岩波書店)10月号にインタビューが掲載されました」が更新されました。この間の重要な事件、最高裁の上告棄却による鈴木氏の国会議員の失職と収監決定の事件については一切触れていないのです。
国会において鈴木氏を「疑惑のデパートではなく疑惑の総合商社」とまで舌鋒鋭く追及した辻元氏の変貌は余りにも明らかです。一体何時になったらコメントするつもりなのでしょうか。「新しい政治の波を起こす起爆剤、接着剤でありたい」とする辻元氏のこの鈍感ぶりには全く呆れる他はありません。まさに極楽蜻蛉ではないでしょうか。
ところで鈴木氏は、今回確定された受託収賄罪等で収監されるものの当時問題視されていた「ムネオハウス」・「ディーゼル発電」・「ODA疑惑」については立件されていません。一体なぜでしょうか。
それは、これらの事件に鈴木氏をつなげるキーマンとなった佐藤優元主任情報分析官が一切口を割らなかったからに他なりません。この為彼は五百四日拘留されたのです。
「これは国策捜査なんだから。あなたが捕まった理由は簡単。あなたと鈴木宗男をつなげる事件を作るため。国策捜査は『時代のけじめ』をつけるために必要なんです。時代を転換するために、何か象徴的な事件を作り出して、それを断罪するのです」
「見事僕はそれに当たってしまったわけだ」
「そういうこと。運が悪かったとしかいえない」(佐藤優『国家の罠』)
佐藤優氏から調書を取った西村検事は、調子に乗ってこう続けていってのけたのだ。
「被告が実刑になるような事件はよい国策調査ではないんだよ。うまく執行猶予をつけなくてはならない。国策調査は、逮捕がいちばん大きいニュースで、初公判はそこそこの大きさで扱われるが、判決は小さい扱いで、少し経てばみんな国策捜査で摘発された人々のことは忘れてしまうのがいい形なんだ。国策捜査で捕まる人たちはみんなたいへんな能力があるので、今後もそれを社会で生かしてもらわなければならない。うまい形で再出発できるように配慮するのが特捜検事の腕なんだよ。だからいたずらに実刑判決を追求するのはよくない国策捜査なんだ」(佐藤優『国家の罠』)
これが特捜検事の内在的論理というものなのであり、私には理解できないのですが、ある意味で彼らなりの最低限度の「職業倫理」なのでしょう。
外務省内の権力闘争に敗れた鈴木氏については、記者クラブメディアのマスコミの報道の絶好のネタとなりました。真実の経緯については、この間出版された佐藤優氏の『国家の罠』・『獄中記』、佐藤氏と鈴木氏の共著の『反省』・『北方領土特命交渉』、鈴木氏の『汚名』に詳しく記されております。まさに佐藤優氏の踏ん張りが鈴木氏を大きな意味で救ったのです。この結果、鈴木氏は「やまりん」「島田建設」からの領収書を切った四百万円が強引な検察庁調書により、受託収賄罪等とされて今回収監されました。まさに鈴木氏の長期拘留を正しかったと強弁したい検察のメンツを保つための無理筋の断罪です。
しかし前田主任検事は、自ら証拠のFDを改竄する事で、この最低限度の「職業倫理」すら踏み越えて、調書の整合性のために、犯罪を犯したのです。「正義の味方」が悪の権化に変身する一瞬でした。
彼は、必要とされた調書は必ず取る「割り屋」といわれてきたエース検事でした。強引さでも一流でありました。当局が異例のスピードで彼の身柄を拘束したのは、彼個人の資質に問題を矮小化するためです。いわゆる「トカゲのしっぽ切り」をしたかったのでしょう。これに関わってマスコミやNHKは相変わらず検察リークの垂れ流しを続けています。
そもそもこの改竄は今年の二月に行われ、上司も知っていて、「証拠採用していない」から問題なしとしていたのです。まさに彼らの認識は本質的にずれており、だから組織全体の問題であることは明白です。フリージャナリストの岩上安身氏のツィッターには「前田恒彦は取り調べの可視化要求」したとありました。これが本当の話なら、前田主任検事はまさに検察の手口を熟知しているからこその要求でしょう。彼も罪を一身に背負わせられたくはありません。彼も攻守の立場を逆転して、自己保身に汲々としているのです。
また大阪地検特捜のほとんどの幹部はこの四月に人事異動していた事も今回発覚しました。彼らの責任逃れはここまで徹底しているのです。しかし村木事件の捜査を指揮した前特捜部長等も事情聴取され、当然の事ながら騒動は検察中央にも飛び火しています。
警察官僚出身の亀井国民新党代表も「こんなことが警察で起きたら、現場の課長や署長が責任を取るだけでは終わらない」と語り、「立派な検事総長であれば分かるだろう」と言葉を続けました。当然にも検察トップの大林検事総長に責任があるのです。
日刊ゲンダイは「今回のスキャンダルは、前田検事と不仲の同僚検事が新聞社にリークしたのが発端とみられています。マスコミを使った世論操作が“お家芸”の検察が、リークで自らのクビを絞めているのだから皮肉です。いまや霞ヶ関では大林検事総長の辞任はもちろん、ナンバー2の伊藤鉄男次長検事、証拠改ざんを把握していたとみられる大阪高検の梶原一夫刑事部長、大阪地検の小林敬検事正、そして事情聴取を受けた大坪弘道前特捜部長、佐賀元明前副部長らにまで責任問題が及ぶ」のは必至との報道をしています。
しかも前田主任検事は、朝鮮総連本部の売却をめぐる緒方元公安調査庁長官や福島元県知事の佐藤氏の汚職事件や大久保元小沢秘書の事件も担当し調書作成に深く関与していました。今まで検察が我が物顔で好き勝手に描いてきた構図がすべて崩れかけているのです。
検察が危機に瀕しているこの時期に検察裏金を告発し別件逮捕された元大阪高検公安部長の三井環氏らを中心とする大阪市民が、前田主任検事ら検察官四人対して、検察官審査を申し立てたのです。三井氏の反撃がここに開始されました。私は断固支持です。
まさに「水に落ちた犬は石で打たなければならない」、足利事件の菅谷さんや松本サリン事件の河野義行さん達にとんでもない苦しみを強いて無反省な検察を、断固糾弾し続けとことん追い詰めていこうではありませんか。(笹倉)
東北アジアに平和を! ピースフェスティバル2010
先日、久しぶりに吹奏楽の演奏を聞く機会がありました。娘たちが小学校・中学校の時は1年に1回は合唱コンクールや音楽会などがあり、恒例で楽しんでいました。今回の演奏者は「神戸朝鮮高等学校吹奏楽部」の若者たちです。黒いカッターシャツに黒ズボン、そして赤いネクタイという今風の高校生ですが、きびきびとした動作に緊張感が伝わってきます。
有名な「イムジン河」には、思わず映画のシーンが重なり、熱い想いがこみ上げて来ました。音楽を伝えることで交流も生まれる、いいことだなあと思いました。また、兵庫県の宍粟市との交流では、現地の施設での合宿で食事のお世話もしてもらい、理解を深めるいい場となったようです。このシーンは映像で会場にも披露されました。
この演奏の司会は、朝鮮高等学校1年生の女子でしたが堂々とした態度に感心しました。日本における自分自身の立場を自覚し、日本政府の高校授業料無償化から朝鮮学校を排除する姿勢に、自分の言葉で批判し会場の人たちにもアッピールしました。参加者は私を含め年配の人たちが多かったのですが、同年代の若者に聞いてもらいたかったなあと、少し残念な気持ちになりました。
次に獅子舞ですが、「神戸中華同文学校 舞獅部」の小・中学生の元気な男女8人が演技してくれました。2人1組で舞う獅子舞は見ていて、息の合わせ方や隣の獅子との距離間など、余程の練習を重ねたことが分かる奮闘振りでした。獅子に頭をかまれると健康でいられるとの言い伝えで、会場の参加者にも獅子舞を目の前で披露してくれました。鐘の音がいつまでも耳に残っていました。
他にも、映画・日韓併合への道、朝鮮親善訪問ツアーなど盛りだくさんでしたが、印象に残った若者たちの催しを紹介しました。隣国なのに交流が少ないのは、歴史的な問題が根底にあることは間違いないでしょう。新しい世代に何を伝え、「紛争」関係をどう回復していくか課題は一人ひとりにあると言っていいでしょう。今回の領土問題も国家間の態度に左右されず、私たち民衆の相互理解を深める交流での解決を提起していきたいものです。(恵)
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コラムの窓・・・あまりにご都合主義な!
中国との関係が酷く険悪になっています。まるで、子どもの火遊びが大火事になったように、取り返しがつかなくなりそうな雰囲気です。国境や領土争いは古今、戦争の種となってきました。私たちにとっては、そんなものはほとんど意味ないのですが。こうした険悪な関係は経済的な利益を侵害するので、いずれ修正されるでしょうが、中国人観光客を当て込んだ企業にとっては気が気ではないでしょう。
中国人への個人観光ビザの発給が大幅緩和されたのは7月1日でした。この施策は、直接的には観光地やホテルの利益を図るものですが、そのおこぼれに預かろうと多くに企業がこの業界≠ノ参入しています。日本人観光客が大挙して買い物ツアーを始めたのはいつごろからだったか、すでに遠いものとなりましたが、今や日本を追い抜きつつある中国の経済力を見せ付けるものです。
さて、中国人観光客の人気はなぜか炊飯器だそうで、2、3個まとめ買いする人もいるといいます。昨年の訪日中国人観光客は100万人を超え、物品購入額は1人平均約12万円で、他の国からの観光客約3倍だというから、実に大切なお客様≠ナす。某大手電機メーカーの関係者は、「中国人にはおかゆ機能が付いた炊飯器が人気、今後大きなターゲットになるので、市場での傾向を見て商品の開発を進めたい」(7月2日「神戸新聞」)と言っているそうです。
その一方で、貧しい中国人には別メニューが提供されています。例えば、2009年度に27人の外国人研修生が死亡しています。「厚労省などによると、研修生らのほとんどが20〜30代。27人の内訳は『脳死・心臓疾患』が9人、『作業中』が4人、『自殺』が3人、『自動車事故』が3人、ほかは原因不明など。国別では中国21人、ベトナム3人、フィリピン2人、インドネシア1人」(7月6日「神戸新聞」)。ちなみに、過去最悪は08年度の35人です。
7月3日の「神戸新聞」には、中国人実習生は「過労死」というも見出しの、次のような記事もあります。08年6月、心不全により社宅で死亡した金属加工会社フジ電化工業の実習生の労災認定です。「外国人研修生問題弁護士連絡会によると、外国人実習生を過労死として労災認定するのは初めて。発展途上国への技術移転などを目的とした同制度をめぐっては、最低賃金以下での労働や暴力などの不正が多発。制度の在り方があらためて問われそうだ」
もうひとつ、最近の記事ですが、靴販売のヒラキ(神戸市須磨区)が人件費の高騰を理由に、中国から東南アジアに生産拠点を移そうとしているそうです。「神戸新聞」(9月3日)の報道です。「現在、商品の大半を生産する中国ではインフレに伴い、人件費や原材料が高騰しており、同社が強みとする低価格を維持できない恐れがあると判断。現地では電力供給も不安定になっており、より低コスト生産が可能なミャンマーなどを視野に事業化調査を始めた」
弱肉強食なんてありきたりの形容ですが、日本社会はますますそうした方向に純化されつつあります。ヒラキは通信販売で100円とか200円の靴を売っており、消費者にはありがたい企業です。ただし、どのような生産過程を経てそれが供給されているかを問わなければですが。資本が支配するこの社会にあっても、どんな時も友達であり続けるような、そんな人間関係を拡げたいものです。 (晴)
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編集あれこれ
第一面では、労働者民衆にとっての核心は、菅か小沢ではない事を明らかにし「変革は自らの手で」を訴えました。ここに核心があります。
第二・三面では民主党代表選挙の不毛を暴露しました。第四から五面には「デフレの原因」を分析しておきました。その他の記事も、「コラムの窓」や「マルクスの協同組合的社会の諸問題」や「読書室」・「色鉛筆」等、多彩で読ませる内容であったと総括しております。
今後とも読者からの手紙の充実を含めて、情況に対する的確な記事とこれに関連する読者との協同に努力して参りたいと考えます。(直)
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