ワーカーズ426号 2010/10/15    案内へ戻る
軍事植民地・沖縄へさらなる日米軍強化の押しつけ
 ・沖縄に陸自部隊2万人構想
 ・米軍、普天間飛行場にオスプレイの配備

 9月8日、尖閣諸島近海での日本の巡視船と中国漁船の衝突事件で「中国漁船の船長逮捕」との報道が飛び込んできた。この問題の詳しい論評は前号(425号)に記載。
 9月20日、防衛省は流動化する東アジアの安全保障情勢を考慮して陸上自衛隊の定員を現在の15万5千人から16万8千人へ1万3千人の増加を発表。年末に策定する新たな「防衛計画の大綱」に盛り込む考えで、増員すれば1972年以来、38年ぶりの規模拡大となる。
 具体的には、今回の中国漁船との衝突事件が起こった尖閣諸島への対応を視野に、沖縄県の宮古島以西への陸自部隊配備を検討。現在陸自部隊は沖縄本島に約2千人だが、これを2020年までに南西諸島を含めて10倍の2万人規模にする構想である。
 防衛省は来年度予算の概算要求の中に、沖縄県の先島諸島へ陸自の部隊配置を検討するための調査費3千万円を計上。既に、9月26日より陸自の隊員が宮古島や石垣島など南西諸島を現地調査していることも判明した。
 中国との尖閣諸島領有権問題が浮上する中、日本国内においては偏狭なナショナリズムを煽り立て、「島しょ防衛」の大義名分を揚げて、自衛隊のさらなる強化を画策している。
 一方米軍も、辺野古新基地建設が不透明の中、米海兵隊次期輸送機MV22オスプレイを12年10月から普天間飛行場へ配備することを明言する。
 このオスプレイはヘリコプターと固定翼機の機能を兼ねるため、不安定な構造で開発段階でも墜落死亡事故を繰り返してきたことから、米国では「未亡人製造機」との別名もあるほど危険なものだ。だからこそ、日本政府は「オスプレイの配備隠し」を続けてきた。
 住宅が密集している世界一危険だと言われている普天間飛行場に、このオスプレイが飛ぶことなど、沖縄県民は絶対認めないだろう。
 今、さらに沖縄県民を怒らせている米軍問題が発生している。
 嘉手納飛行場所属のF15空軍戦闘機などが、普天間飛行場を利用した訓練を開始している。これは、10月から始まった嘉手納基地の滑走路修復工事(2本の滑走路を順次工事する)に伴い、滑走路1本で運用する18ヶ月の間、嘉手納の戦闘機が普天間飛行場へダイバート(目的地変更)によるものだ。
 米軍はさらに、民間航空機発着の那覇空港の使用もあり得ると発表。その使用する根拠について「地位協定やそのほかの協定の範囲である」と問題にしていない。
 さつそく普天間周辺の住宅地で、F15戦闘機の騒音が123デシベル(120デジベルで人の聴覚の限界と言われている)を記録している。この戦闘機の爆音はもの凄く、ヘリコプターの騒音に加え、戦闘機騒音にも苦しむ普天間飛行場の周辺住民は悲鳴を上げている。
 在日米軍再編の中で、米軍と自衛隊の一体化・軍事融合がどんどん進行している。米軍・自衛隊の基地問題は沖縄だけの問題ではなく、日本全体の問題である。沖縄と連帯して日米軍の再編強化に反対し粘り強く闘っていこう!(英)


政権交代の課題 民主党政権は何からはじめるべきだったか!

 民主党の1年はまるでオセロゲームのように、次々と実行されるはずだった施策が覆され、行政の継続性が保たれることになった。官僚の抵抗や党内保守派の妨害、資本の要求など、変革を押しとどめる力は強大だった。しかし、それ以上に変革を求める力が弱く、どこから始めどこへ向かうべきかが明確になっていなかった。
 民主党による政権交代はひとつの実験、失敗が約束された実験だったといえるだろう。投票行動だけ、政権担当者に期待をかけるだけでは、変革は実現できないということを有権者は思い知らされた。やはり、国民意識を超える政治を実現することはできないのだ。この間のマスコミ報道が、国民意識を反映したのか、或いはそれを主導したのか、はたまた共依存関係にあるのだ。ジャーナリズムは市民的感情を超えて、理念や展望を語らなければならないのだが。
 さて、この国の明日を語るためには過去を、遅れてきた帝国主義国として植民地を獲得≠オ、無謀な侵略戦争を拡大した時代を経て帝国の崩壊へと至る過程を総括しなければならない。こうした視点から見るとき、今年が韓国併合100年にあたることはまことに象徴的である。軍人恩給や靖国神社合祀に見られる戦争勢力の延命があり、他方で在日朝鮮人は一方的に国籍を剥奪され、戦後補償からも締め出され続けている。
 その延長上にある現在の外国人処遇もあまりに拙劣である。外国人への地方参政権付与はそうした差別と排除からの離脱を、象徴するものとなるはずであった。しかし、国民新党との連立、亀井静香の入閣によって阻まれてしまった。もちろん、たった一人の閣僚の存在に帰すのは矮小であり、鳩山民主党に変革への執念が欠けていた。
 9月末、第三国定住制度の第一陣としてタイからビルマ難民が来日した。これによって、日本の難民鎖国≠ェ解消されるわけではない。血統による閉鎖的国籍によって高い壁を築き、在日が3世、4世になろうと権利としての国籍取得もできない。そして、国籍なき者は人にあらずといった処遇がまかり通っている。例えば、入国管理センターにおける劣悪な収容環境は、刑期なき拘束≠ニ相俟って刑務所にも勝るものがある。これを支えているのが、無概念な日本人≠ニいう優越意識であり、人はみな平等であるということを否定するものである。
 亀井大臣の存在はまた、選択的夫婦別姓の実現も阻んだ。あれもこれも、民主党内にも強固な反対派が存在し、時代錯誤な家父長制を引きずっている。こうした勢力との闘いなくして、内外人平等や男女平等へと向かうことはできない。ここには、さらに強固な反対勢力として、安価な労働力を求める資本の存在がある。外国人研修生・実習生が低賃金労働の最底辺にあり、その上に派遣や委託があり、男女差別がある。例外なき同一賃金への道は遠い。
 鳩山民主党は政権交代にあたり、有権者に多くの約束をしていた。そのなかに障害者自立支援法の廃止も含まれていたが、今や約束が違うよ、長妻さん≠ニいう事態になっている。長妻昭・前厚労相は就任時に、「応益負担を基本とする障害者自立支援法を廃止し、任期中に制度の谷間をつくらない新しい法律を当事者の意見を十分に聞いてつくる」と約束し、10月30日に開催されたフォーラムに参加し同趣旨のあいさつを行っている。
 年明けには障害者自立支援法違憲訴訟において基本合意に達し、4月には和解している。長妻大臣の言葉にウソはなかったであろうが、その後の厚労官僚や福祉予算削減を推進する勢力による巻き返しによって、この約束は踏みにじられようとしている。なお、こうした逆流に対抗するために、今年も10・29全国大フォーラムが開催される。
 敗戦後の日本が戦争勢力を一掃できずに、米軍の存在を前提に平和国家≠ヨと歩みだしたことが、その後のこの国の歩みを歪め、沖縄の米軍基地化、日本の侵略前線基地化を国民も容認することとなった。ことあるごとに噴出する中国民衆の反日、排日意識も、帝国皇軍の侵略が生み出したもであり、その後の清算なき歴史の遺産である。
 昨今の新聞投書には、防衛のあり方再検討の時期≠ニして「世界の国々が外交の切り札にするのは、経済力と軍事力だ」「軍事力と経済力をつけた中国にどう立ち向かうのか。私たち国民も覚悟を決めなければいけない時期なのかもしれない」なんていうのもある。これは果たしていつか来た道ではないか。鳩山民主党は普天間の移設ではなく即時閉鎖を、戦後補償立法による侵略戦争の清算を政権交代の第一歩とすべきであった。 (折口晴夫)

いまこそ進めよう!障害者制度改革
自立支援法廃止と新法づくりを確かなものに
10・29全国大フォーラム
日時 10月29日(金)11時30分集合(集会とデモ)
会場 東京・日比谷野外音楽堂
主催 フォーラム実行委員会 案内へ戻る


検察審査会 市民参加は住民自治の第一歩──本末転倒の検察審査会批判──

 小沢一郎元民主党幹事長が強制起訴されたことに対し、制度論やバッシングも含めて検察審査会への発言が百家騒乱の様相だ。飛び交っている賛否両論の中には政争がらみの発言や大局を見失った情緒的発言も多く見られる。
 検察審査会法の改正によって強制起訴の権限を付与された検察審査会。ふつうの市民も公訴権に関われるようになったことは民主主義の前進にとって大きな一歩になるはずだった。それが小沢一郎の強制起訴につながったとたん、批判意見がわき起こったのはなぜか。検察審査会について考えてみたい。

 ■思惑■

 検察が起訴猶予として灰色決着したかに思われた陸山会をめぐる政治資金規正法違反事件は、検察審査会による二度目の起訴相当(起訴議決)の議決で強制起訴されることになった。
 この事件が大きな注目を集めたのは、09年5月に検察審査会に強制起訴権が付与されてから現職代議士が強制起訴される初めてのケースになったこと、対象者が政権与党内で大きな影響力を持ち、政局を揺るがす事態になったからだ。
 検察審査会の議決内容は、政治資金収支報告書の虚偽記載は偽装工作だと受け止め、「検察官が説明した基準に照らしても不起訴は首肯しがたい」とした。そして小沢元幹事長の刑事責任の有無を検察の判断にゆだねるのではなく公開の法廷で明らかにすること、起訴について市民感覚=国民の責任を重視したという。当然の判断だといえるだろう。
 検察審査会の議決を受けて、実に多くの人から声が上がっている。賛成論は「よくやった」とか「市民感覚に沿っている」などで、反対論は「法律の素人に任せるのは危険だ」「証拠の法律的判断ではなく、推論が入り込んでいる」などだ。審査会が強制起訴して無罪となった場合、何年もの間被告の立場に立たされる政治家にとって政治家抹殺につながりかねず、審査会は責任をとれるのか、という趣旨の批判もあった。小沢一郎本人も「一般の素人が(起訴するのが)いいとか悪いとかいう仕組みがいいのか」と疑念を表明してもいた。
 普通の市民が専門家に比べで法的知識が不足しているのは当たり前の話だ。とはいえ、「起訴相当」や「起訴議決」は11人の一般市民から選出された審査員中8人以上、3分の2以上での議決が必要だ。しかも審査員は任期6ヶ月で半数が3ヶ月ごとに入れ替わる。メンバーが入れ替わった審査会で証拠も真剣に検討したうえで2度も3分の2以上で議決されるわけで、単に法律の素人だから強制起訴権を付与するのはおかしい、とはいえない重みを持っている。
 拘束力がなかった議決に拘束力を付与したのは、裁判所や検察も含めてこれまでの法律専門家の独善や一般の市民感覚からの遊離が進んでしまったとの反省にたっているからではなかったのか。こうした批判は、司法に民意を反映させるという司法改革の建前を否定するものであるし、普通の市民の司法からの排除を当然のこととする統治優先の大衆蔑視思想の反映という以外にない。
 裁判で無罪になった場合の審査会の責任論について言えば、恫喝そのものだろう。検察が起訴・上訴した場合でも無罪・破棄になるケースはあるが、そのたびに検察を責任を騒ぎ立てるのだろうか。確かに審査会も大きな責任はある。が、それは検察審査会制度の経験を蓄積するなかで克服すべき課題ではないだろうか。
 検察審査会への批判がかつてもあったが(明石花火大会歩道橋事故など)、小沢一郎に対する強制議決を機に拡がっているのも違和感がある。一面では単純な人脈関係から小沢弁護論としての検察批判もあるが、他方では対米自立指向をにおわせる小沢一郎への政治的な期待感を背景にしたものもある。そうした中には市民派や左派からのものもある。本来は自分たちの主体的な実践活動で実現すべき政治的課題をポピュリスト的な権力政治家に期待すること自体情けない話なのだが、そうした政治的思惑がらみの審査会批判で「たらいの水と一緒に赤子を流す」たぐいの過ちは犯すべきではないだろう。

 ■統治手段■

 検察審査会制度に強制起訴権が付与されたのは、裁判員制度の導入などと合わせて司法に民意を反映させるためだった。なぜその必要性が叫ばれてきたのかといえば、刑事事件における被告の推定無罪≠ニいう大原則が実質的に形骸化されてきたからだ。検察による起訴権の独占の中で裁判所と検察のなれ合い関係が形成され、検察が起訴した事件の実に99%以上が裁判で有罪になってきた。その結果、いったん検察が起訴した被告は有罪が確定したも同然だったし、その時点で犯人扱いされ、過酷な社会的制裁にもさらされた。そうした慣行の中で、検察の独善やそれを追認するだけの裁判の形骸化が進行し、あるいは多くの贖罪事件を生み出してきた。
 司法の歴史を少し考えてみれば、そもそも起訴権も含む司法の国家独占は、本来の国民主権とはかけ離れたものである。遠い昔から裁判権を誰が握るのかを巡ってせめぎ合いがあり、たとえば封建社会では領主・貴族や王が政治権力と裁判権を併せ持つケースが多かった。近代民主制では裁判権は主権者たる国民の負託に基づくものとされ、多くの場合三権分立など司法権は独立したものとされている。が、実際には裁判所こそ形式的には独立しているが、最高裁の判事は国会で指名され、また総選挙時の国民審査も全く形骸化している。裁判官の人事なども最高裁の事務総局など国民の手が届かないところで決められ、実際には国民の意思が及ばない官僚機構の一部になっている。公訴権を独占してきた検察も行政組織の一部として国民のコントロールが及ばないところでそうした裁判システムの一翼を担って強大な権力を行使してきたのである。
 国家による裁判権の独占、司法、検察による裁判権・公訴権の独占とそこからくる傲慢なおごりを土壌として、裁判所と検察の癒着や市民感覚からかけ離れた公訴・判例や贖罪事件も多く生み出してきた。いま世間のひんしゅくを買っている大阪地検特捜部を舞台にした意図的贖罪づくり事件も、そうした特権的検察のおごりや堕落を象徴するものだろう。証拠の改竄は不注意だった?いや、故意だった?こんなことで責任逃れの仲間争いしているのが検察エリートのぶざまな実情なのだ。プロに任せていれば大丈夫だという根拠はどこにもない。
 いうまでもなく、現行の検察審査会制度にも欠陥はある。法改正の趣旨でもある市民感覚≠ェ曖昧なことや被害者感情重視による報復優先の厳罰化傾向、それに申し立ての申請合戦が政争の具に使われかねないことなどだ。しかし、それがどんなに不十分で完璧ではないとしても、裁判や公訴権の一部を市民の手に取り戻すことは民主主義、国民主権を実体化させるうえでは一つの方策であり一歩前進なのだ。

 ■ターニングポイント■

 裁判員制度もそうだが、強制起訴権を付与された検察審査会制度も二面的な意味合いを持っている。一方では信頼が揺らぐ司法に国民の支持を取り込むことで現行の司法制度の基盤を維持することであり、他方ではそのことが司法の国家独占に風穴を開け、市民の司法参加に道を開くものでもある。こうした相反する側面を踏まえてさえいれば、それは民主主義の前進の一つの契機になりうるものといえるだろう。
 少し司法をとりまく風景に目を転じてみよう。
 これまでは裁判制度そのものが国民にとって統治する向こう側≠フものだった。裁判所や検察に自分たちが関わることなど考えることもなく、当然のこととして付随する責任を負うことも考えてこなかった。総選挙時の最高裁判事の国民審査で常に90%もの信任を与えてきたのも、白票が信任扱いされるところに象徴されるように文字どうり白紙委任だった。結果的にそこに風穴を開ける今回の一連の裁判員制度や改正検察審査会制度は、裁判は市民のもの、自分たちのものだと考えさせる当事者主権を育むターニングポイントになったわけだ。
 政治システムでもそうだ。日本の議会制民主主義は間接民主主義で、国民=有権者は直接統治には参加できず、統治者を白紙委任するシステムだ。数年に一度だけその国民の代表たる統治を受容するかどうかだけしか判断権を付与されていない。
 要は政治にしても司法にしても、民主主義国といわれるわが日本でも、主権者たる国民が主権の直接的な行使から排除されていることに変わりはない。言ってみれば、主権者=国民は劇場の観客席で政治や司法を眺めるだけの地位に追いやられてきたわけだ。
 こうしたシステムへの永年の批判や闘いの成果として、部分的には地方自治法のリコール権や住民投票法などが組み込まれてきた。が、それはごく一部のものに制限されており、主権者たる国民を統治から排除するシステムであることには変わりはない。
 その政治における国民参加は、「知る権利」などを通して間接的に、また選挙などで実質的に一部機能している面はある。近年ではマニフェスト政治など、有権者との契約関係を取り入れるような手法で、部分的に国民主権に接近している部分もある。
 裁判員制度も改正検察審査会も、その核心は統治され立場≠ゥら住民自治≠ヨの大転換の一歩なのだ。こうした大局は、見失ってはならない(廣)案内へ戻る


コラムの窓  若者よ大いに自分たちの政治を語れ!

 衆・参両選挙の年代別投票率の推移を見ると、20代が最低で、高齢になるほど投票率がアップしていることがわかる。政治に関心があるか無いかというバロメーターとして、若い世代ほど政治に無関心という人もいるが果たしてそうだろうか?
 衆院選の年代別投票率では下降しつつあった投票率が、43回衆院選を境に上昇しているのは、自民党中心の自社政権・自公政権から非自民の民主・社民・国民新の連立政権への過程でもあり、政権委譲への関心が高まった結果でもある。
 問題はなぜ「無関心」や政治離れが起きているかということであろう。10月3日の朝日新聞の記事に、『月刊誌「高校生新聞」を発行する高校生新聞社の今年のアンケートでは「政権交代して良かった」と思う人が3割。「政権政党が変われば世の中は変わるか」という質問に「そう思う」と答えたのは40%で、政治に対する失望感と冷めた気持ちが伺える。』と報道されていた。
 高校生にしても『政治に対する失望感と冷めた気持ち』が無関心や政治離れを起こしているのだ。
 永らく続いた自民党政権下での金権体質や能力・能率主義による人の軽視、職場や学校でいじめが横行するなど、人間関係は崩壊し、孤立感を持つ人々が増えていることが『政治に対する失望感と冷めた気持ち』の根底にあることは事実だ。
 『失望感と冷めた気持ち』の裏側には失望した政治からそれに変わる新しい政治を求める期待が潜んでいることは明らかだ。しかし今、その失望感から政権交代・民主党への期待として少し盛り上がった関心事も鳩山や管民主党政権によって潰されようとしている。
 失業問題、育児・教育問題、非正社員化と低賃金・長時間労働問題、平和と国際問題等々解決しなければならない問題は山とある。しかし、これらの諸問題の解決を、自民党や民主党などの既成政党では、大衆収奪とその犠牲の上にしか提起することしかできないのだ。
 若者の特権は、若々しく、新しい力で、古い体質や既成の政治との戦いを行うことが出来ることである。若者よ自分たちの政治を大いに語れ!(光)
 

日銀のゼロ金利導入によるアメリカ国債購入とノーベル賞との相関関係

日銀の為替介入と一時的だったその効果

 十月八日のニューヨーク外国為替市場において円相場は、一時一ドル=八十一円九十三銭に急伸し、八十円台を突破する勢いだ。この数字は約十五年四カ月ぶりの円高水準である。この背景には、米国の雇用悪化や近々に追加金融緩和が見込まれるとの推測があり、その事で東京市場での円高傾向をさらに拡大した。八日から三日間の日程で先進七カ国財務相・中央銀行総裁会議が開催され、日本政府が独自に円売りの為替介入に動きにくいとの予想が広がった事も円高の傾向をさらに強めたのである。
 ご存じのように九月十五日、急進した円高に無策だとの批判を受けていた菅内閣が六年半ぶりの為替介入を実施した。この為に一ドル=八十二円台から一ドル=八十五円台にまで下がり、確かに一時的ではあれ、円高は小休止した。しかしすぐにこの様ではある。
 今回の円高は、世界的な通貨切り下げの中での円の独歩高である。極めて限定された局面でいえば、その原因のほとんどは、他国に比べて日銀による通貨供給の相対的な不足にある。だから日銀による円供給を他国の中央銀行並みに増加させないと再び円高になる。投入した資金は一兆八千億円だったが、ヨーロッパと一緒になった協調介入ならともかく、日本一国での介入など、前号で警告したように全くの無駄金の支出とはなった。

日銀のゼロ金利政策の導入とその懸念

 十月五日、日銀は金融政策会合で、政策金利を現行の年0・一%から年0〜0・一%に引き下げる追加金融緩和の決定を全員一致で行い、事実上のゼロ金利政策を四年三ヶ月ぶりに導入した。その他注目に値するものとして、国債の他、投機的な金融商品も買い入れる事になったための五兆円程度の基金創設があげられる。
 この基金とは、一年後をめどとして、長短期の国債三兆五千億円、コマーシャルペーパーや社債、投機的商品である指数連動型上場投資信託、不動産投資信託など約一兆円等を買い入れるための資金である。まさに制度的にも資金的にも大冒険である。
 今回のこれらの決定は、「景気の下ぶりリスク」に対応する円資金を大量に供給するものだが、前号で詳しく分析した非不胎化政策とも相俟って、今後はインフレや金融バブルの発生も大いに懸念される。こうして日銀は未知の時代に踏み出した。
 日銀自身も「異例の措置」とし、白川総裁は「包括的緩和」と命名して、今回の「追加金融緩和」の画時代的政策を特徴づけたのであった。

日本の外貨準備高が増え続ける理由

 日銀の為替介入について疑問に考えない日本人が多いが、それも新自由主義者ほど自分の言葉に矛盾を感じない人たちもまれである。経済は市場に任せろというのなら、なぜ為替も市場に任せろといえないのか。彼らの身勝手さには呆れてしまう。世界では、日本の「ダーティフロート」として知られ、日本は為替介入を行う唯一の先進国であった。
 ここ十年前から発行の外為証券は、日銀による円資金の市場へ投入ではなく、市中公募であった。そして日銀が不胎化政策を採用していたので、政府は外為特別会計で外為証券を発行して外貨債、つまりアメリカ国債を購入する、いわば「円キャリーファンド」であった。それは、オペレーションに日銀を使っていただけで会計勘定は、政府の外為特別会計であり、金融政策に影響のある日銀の勘定とは無関係だった。
 このように日銀の為替介入とは、ほとんどの場合、税金を原資とする外国為替資金特別会計から、巨額の円を金融市場に放出し、金融市場が米ドルを買うよう仕向ける事だ。金融市場の円売り・ドル買いで円安に誘導する。しかし日銀の買い取る米ドルは日本では使えないので、大幅な円安にならない限り、結局米国債を買って、米国政府に還流されるだけの事になるしかない。
 この日本等からアメリカへの資金の流れを、まさに吉川元忠氏は『マネー敗戦』(文春新書)において新帝国循環と喝破した。また内橋克人氏も、世界的な視野から『悪魔のサイクル ネオリベラリズム循環』(新潮文庫)と名付けたのである。
 二0一0年八月末以降、日銀は円高対策と称して、三十〜三十五兆円規模の資金供給オペを実施中した。総額二兆一千二百四十九億円の為替介入した九月末には、前月末比三百九十四億四千六百万ドル増の一兆一千九十五億九千百万ドルになり、三月末に比較すると何と一千三十億ドルも増加させた。まさに減額するドルに注ぎ込む日本の狂態である。

日銀の為替介入とノーベル賞との相関関係

 さて筆者が注目する人物に『情報と技術を管理され続ける日本』(ビジネス社刊行)の著書を持つ山本尚利氏がいる。その彼の読むに値する卓論が公開されるブログに「新ベンチャー革命」がある。
 「二0一0年十月七日 No.二一0」には、「二人の日本人ノーベル賞受賞:日銀30兆円拠出のお礼だった?」との興味深い記事がある。
 二00二年田中耕一氏ら二人のノーベル賞受賞者が出て、二00八年十月にも、小柴氏ら四人もの日本人ノーベル賞受賞者が出てた。これらの事から、山本氏は日本人のノーベル賞受賞と日本政府・日銀の金融政策の間に、なんらかの相関があるのではないかと仮説を立てた。なぜなら二00二年には、小泉・竹中政権下で六十兆円規模の円売り・ドル買いオペが行われており、二00八年には三十八兆円も短期金融市場向け資金供給公開オペを行っていたからだ。私も当時これらの受賞者の受賞対象となった研究が余りにも昔の事で驚いたものであった。
 今回の日本人ノーベル賞(化学賞)受賞者も、受賞研究は、炭素化合物のパラジウム触媒クロスカップリングとのこと。また彼らの大昔の研究業績に与えられものだった。
 山本氏は、「この手の研究は他にもいっぱいあり、たとえば、今、話題の高性能永久磁石・ネオジム磁石(レアアース磁石)の技術(住友特殊金属・佐川氏ら発明)は、永久磁石にならない鉄・ネオジム金属間化合物にボロンB(ホウ素)介在させて強力な永久磁石にしたものです。こちらの方が、人類への貢献度は高そうですが・・・」「このような有価化合物分野(有機、無機含む)の研究者は世界中にたくさんおり、なぜ、上記の研究がノーベル賞なのか、なぜ、日本人研究者に決まったのか、疑問が残ります」と率直な感想を漏らしている。読者はどうお考えか。私は炯眼だと思う。ノーベル賞は政治的なものだ。
 なぜなら今回のノーベル賞受賞に際しても「二0一0年八月末以降、日銀は円高対策と称して、三0〜三十五兆円規模の資金供給オペを実施中で、なおかつゼロ金利政策を復活させ」たからである。

日銀の為替介入の役割と真の円高対策とは何か

 日銀の為替介入の果たしている役割とは一体何か。端的にいえば、日銀が巨額の為替介入オペを実行し、FRBの発行する米ドルが下落する相場を必死に下支えしている事につきる。アメリカの国力が落ちドルが減価する必然から、円高・ドル安の傾向は避けられない。その意味で、リーマンショック以降の金融危機に怯えるFRBにとって、日銀の為替介入つまり全面的協力なくして、米ドル相場を維持することはできないのである。とはいえオバマ政権もドル安政策を認めざるをえないのだが。
 この円高問題を大局で視ると、真実が浮かび上がる。かって吉川元忠氏は『マネー敗戦』において、日本からアメリカへカネが流れる「新帝国循環」のシステムがある事を暴露した。日本はアメリカにカネをむしり取られている。今また孫崎享氏は、最近出版した『日本人のための戦略思考入門』において、今の日米関係をかっての英国とインドの関係に見立てた。インドもまた英国から資金をむしりとられていたのである。アメリカの認識では、日本はアメリカの「保護国」だと先の本で孫崎氏は断言している。
 まさにこの円高問題の本質は、三國陽夫氏らの『円ドルデフレ』で分析されたように『黒字亡国』である。貿易収支の黒字が日本に環流しない事が問題なのである。
 今問われているのは輸出依存の産業構造の転換や「通貨植民地」の脱却である。日本は内需を軸足とする自立した産業政策を確立しなければならない。   (直木)案内へ戻る


色鉛筆  「孤育て」A・・心の支えはツイッター???・・

 『午前4時。3ヶ月になる長男の泣き声で起きた○さんは携帯電話に手をのばし〈夜中の授乳ナウ(今、夜中の授乳をしています)〉。ツイッターでつぶやくと、〈おつかれ〜〉、〈ねむいよね〉。同時刻に授乳中の全国の見知らぬママたちから、即座に反応が返ってくる』(10/8/10朝日新聞)この新聞記事を読みインターネット時代に子育てをしていない私はとても驚いた。真夜中に顔も知らない人に・・・私自身も29年前、初めての育児に不安を感じてマタニティブルーになったことを思い出すが、連れ合いや親、兄姉、親戚、友人などの周りの人に助けられて乗り越えることができた。ところが今、核家族化や夫の長時間労働などで世間話をしたり赤ちゃんの話をしたりする人が近所にいなく、子育てする母親の孤立化が進み「孤育て」が広がっているという。
 また、『夫の転勤で引っ越してきたばかりの時、心の支えはツイッターだった。〈娘が薬を飲まない〉とつぶやくと、〈アイスクリームに混ぜたらどう?〉とアドバイスをくれたり、〈無理しないで〉と体を気遣ってくれたり初めての土地でも心細さを感じることはなかった』『3人の子を連れての外出は難しいが、だれかに話を聞いて欲しいと思うことがある。ツイッターはすぐに反応が返ってくるので心強い』『孤立しがちな育児生活を同じ境遇にいる見知らぬ人たちと共有している感じ。140文字でノイローゼ知らずです』『ツイッターには同じ悩みを抱えた人がたくさんいて、寂しくない』等々、同じ新聞に書かれていた。私はツイッターで育児の不安や悩みを相談することで救われて心の支えになっている人たちが大勢いることを知って、命を守ることができるひとつの方法だと思った。しかし、人と話すことで自分の思いを伝えたり、相手の思っていることを聞いたりして答えが見つかっていき、いろいろな人と話すことでコミュニケーションをはかることができると思うのだが、話をしないで携帯だけに依存するのには心配を感じる。 
 子育ては母親ひとりでするものではなく父親も担うべきだが、国立社会保障・人口問題研究所の2008年の調査では、一番下の子どもが3歳未満の家庭の74%は、妻が育児の8割以上を担っているという。長時間労働で帰りが遅い父親は子育てができないために母親たちは孤軍奮闘し、ひとりで悩み苦しんでいるからツイッターが心の支えになっているのだろう。子育ては母親と父親がお互いに支え合って子どもの成長を喜び合っていくものだが、今の社会は母親だけに子育ての責任を負わせている。幼い子どもがいる家庭は、母親も父親も短時間労働で早く家に帰りゆっくり子育てができる社会にするべきだ。心の支えがツイッターではさみしさを感じるのは私だけだろうか?(美)


読者からの手紙

特捜検事たちのとほほ

 大阪地検特捜部の証拠改竄事件では、相変わらずのその場を見たようなリーク情報が飛び交っています。新聞記者たちは何を頼りに書いているのでしょうか。全く不思議です。
 前田主任検事は「誤って書き換えたと説明できるよう、前特捜部長らの指示で書き直しを命じられた」と素直に供述しています。これに対して、当の大坪前特捜部長は「改竄を隠したことは絶対にない」「(自分たちの逮捕は)恥の上塗りになる」と完全否認し、佐賀前副部長も「徹底抗戦」を口にした揚げ句に、「検察のストーリーには乗らない」と息巻いているというのです。そればかりか当局に取り調べの全面可視化さえ要求していると伝えられています。まさに事実は小説より奇なりな展開ではありませんか。
 特捜は、最初にストーリーをでっち上げて、後から調書を作り上げるのです。これが特捜部の伝統的な捜査手法であり、今回の村木冤罪事件の本質なのです。その当事者が「検察のストーリーに乗らない」なんて、全くのブラックユーモアでしかありません。副部長には人並み以上のユーモアのセンスがあるようです。
 今回の事件を、現場だけの犯罪に押さえたい最高検や大阪高検は「上司らもグルだった」という前田主任検事の自白を垂れ流しています。その手口を知り尽くす佐賀前副部長らも自己防衛のために逮捕前から「徹底抗戦」の情報を逆リークしていたのです。
 このように前田検事の供述ばかりでなく、別ルートで上司らの言い分も流されているのは、検察組織の鉄の結束が緩んで一枚岩でなくなっている証拠だともいわれています。
 この絶好の機会を利用して特捜の解体をめざしていこうではありませんか。(稲渕)


辻元清美議員の地金が自己暴露された

 十月三日、社民党を離党して、九月下旬に衆議院の会派「民主党・無所属クラブ」に入った辻元清美衆院議員(大阪十区)は、大阪市内で政治資金パーティーを開いたという。
 私など驚いたのだが、民主会派合流後、初のパーティーで、支持者らに「立場は少し変わったが、それを精いっぱい活用しながら歩みたい。総理、総理と呼ぶ立場から、総理、総理と呼ばれる立場を目指したい」と話したと報道されています。
 「辻元清美ブログ」の最近の更新を紹介すれば、「またまためまぐるしい日々」(2010年10月8日)、「政策実現のカナメ役として」(2010年10月11日)、「衆議院国土交通委員会・筆頭理事就任にあたって」(2010年9月28日)、「新しい政治の波を起こす起爆剤、接着剤でありたい――『世界』(岩波書店)10月号にインタビューが掲載されました」(2010年9月17日)、「ボチボチ社会へ。そのために全力を注ぎたい」(2010年9月8日)です。
 これらのブログを見ると国土交通委員会の筆頭理事になった事はよほど得意のようです。これらの更新で確認できるように、事ここに至っても、「疑惑の総合商社」とまで舌鋒鋭く迫った鈴木宗男議員の上告棄却による収監には、一切触れていません。保坂氏の真摯な反省とは大違いです。こういう時に人間の地金が隠しようもなく出るものです。
 一方でこんなにも大事な事にノーコメントなのに対して、他方では先に紹介したように「総理、総理と呼ぶ立場から、総理、総理と呼ばれる立場を目指したい」と周囲に得意げに話すのですから、辻元議員の地金が決定的に自己暴露されてしまいました。
 全くいい気なものです。この発言を聞いて辻元は良いなどと思う労働者民衆がいるのでしょうか。まさにこんなろくでもない議員はいらないのです。 (笹倉)案内へ戻る


編集あれこれ

 前号は8ページでした。1面は、尖閣諸島をめぐる日本と中国との関係悪化について述べています。尖閣諸島や北方4島、竹島等領土問題で言えるのは国家同士でもめるのではなく、当面は関係各国での共同管理ということがいいのでしょう。
 2・3面は、現在の円高に対する日銀の為替介入等政府のデフレ対策について述べています。内需拡大政策をとらなければならないのに、菅政権は金融規制緩和政策で結局は、小泉政権と同じ政策を取ることになると述べています。菅政権を打倒しましょう。
 4面は、第17回全国市民オンブズ(マン)大会の報告です。とくに地方議員の政務調査費については、無駄遣いだと思います。政務調査費とは、議員活動をするうえでの調査・研究をすることについての手当てです。この手当てでマンガ本を買ったり、政党の活動に使ったりしているのが問題になっています。高額な議員報酬や無駄な手当てを大幅に削減しなければなりません。
 読者からの手紙では、今回の厚生労働省村木さんへの冤罪事件にからむ、大阪地検の前田恒彦ら検察の腐敗ぶりについて述べています。それにしても検察はひどいです。今緊急の課題は、冤罪事件をなくすために、検察や警察の被疑者への取り調べでの被疑者側に立会人を置くなど可視化を進めることです。      (河野)案内へ戻る