ワーカーズ437号  2011/4/1      案内へ戻る

大災害を民衆力で乗り越えよう!−−−地震、津波、放射能

 未曾有の大災害が東北、関東地方を襲ってからすでに二週間がすぎた。死者・行方不明者数はすでに三万人にせまっている。
 誰でもが学校で習ったことがあるとおもうが、宮城県北部から、岩手県にかけてリアス式海岸が存在する。この地域は天然のすぐれた漁港として昔から栄えている町が多い。これらのまちまちが津波による壊滅的な打撃をこうむった。
●民衆力のたかまり
 他方では、復興に向けての動きもいまでは活発だ。現在では、自衛隊、行政、警察などが被災者救助、がれきの除去、道路確保、物資の輸送をおこなっている。これらの支援が必要なことは、間違いない。輸送手段、重機や燃料備蓄のある自衛隊などが、現在では災害支援の一つの軸となっているのは、当然であり、同時に必要である。
 しかし、地方行政や自衛隊の支援を十分には受けられない多くの地域で、住民自治が大きな役割を果たしつつある。この様な自発的な住民組織は、阪神大震災でも登場している。国家・行政・警察・自衛隊の力が及ばないところでは、あるいはそのような既存の組織が解体・マヒした状況では、当たり前のように民衆の力で、物資の確保・分配や治安警備、相互援助などの住民の助け合い組織が形成されているのだ。
 岩手や宮城の沿岸地域は、伝統的な隣人同士の助け合いのある地域社会を形成していた。このような基盤の上で、住民自治組織が避難生活や復興のための大きな力になるであろうし、なりつつある。
 商品経済・市場経済の中で、断ち切られてきたかに思われた本来的な人間関係が力強く回復しつつある。行政・国による社会統治とは歴史的にも性格的にも異なっている、アソシエイト(連携)した民衆力に基づく社会運営は、未来社会形成の基本的なエネルギーである。
 ボランティアの参加も、少しずつふえ出した。このような、人々の自主的な社会運動が、史上最大の災害の中で動き出したことは、おおきな希望である。
●廃炉は避けられない
 この様な国民的な必死の救済・再建運動のさなか、その足を引っ張り続けているのが、福島第1原発の大事故である。「安全神話の崩壊」などといえるものではなく、「やっぱり危険だった」と言うのが、多くの国民の感想ではないのだろうか。原発の危険性は、世界有数の地震・津波国である日本では何度も問題にされてきたのである。原発だよりの「経済大国」は、完全に崩壊した。「これからの社会」のビジョンは、今後大きな政治焦点にしなくてはならない。
 そもそも核廃棄物の処理問題を解決できていない「原発」は、つなぎの発電力以上のものではなかった。あらためて危険性が実証されたからには、政府はすべての原発を廃炉とし、代換エネルギーの開発に力を注ぐべきである。(仙台スズメ) 


原発推進政策の転換を!──破綻した原発の安全神話──

 3月11日、太平洋側の東日本を未曾有の災害がおそった。大地震と大津波、それに原発事故だ。天災によるによる膨大な犠牲者・被災者、それに紛れもない人災≠ニしての原発事故に伴う避難者の窮状が続いている。
 被災者の救助・捜索、被災者支援、避難者支援は、いまなお緊急で膨大な課題だ。また原発事故の収束作業も、放射線と時間との闘いで正念場を迎えている。
 そうした目の前にある危機≠ヨの対処と同時に、原発推進で突き進んできた歴代内閣の原子力政策を根底から見直すことも欠かせない。(3月25日)

◆想定外≠フ恐怖◆

 3月11日の未曾有の地震と津波。マグニチュード9・0、最大震度7,20メートルを超える大津波。別々に起こると想定≠ウれていた三つの震源域が連続して破壊された今回の地震は想定≠超えた規模であり、またその結果襲ってきた津波も、想定≠超えたものだった。
 とりわけ、プレート境界での巨大地震だったことで、当該地域の人々の想像をも超えた大津波で沿岸地域は軒並み壊滅的な被害を受けた。地震・津波対策先進地を誇ってきた三陸地方の防災体制も、想定≠越えた規模の地震・津波で吹き飛ばされた。被害は東北3県を中心に、東日本全域に拡がっている。3月25日現在、死者は1万人超、行方不明者は2万人にも上っている。それでも地震と大津波による人的・物的被害は、未だ全貌が明らかになっていない。今後さらに増える情況にある。
 大震災から2週間を経過した今、犠牲者の捜索と被災者の支援は十分ではなく、目下の緊急課題だ。被災地域の避難所に地域に暮らす被災者の生活環境の改善も待ったなしだ。あわせて北陸や首都圏にまで拡がっている避難者の生活支援も事情は同じだ。すでに行政や自衛隊・消防、それに医療従事者や多数のボランティアによる献身的な活動がおこなわれている。さらに、物資支援など、1人でもできることは様々な場面やルートをつうじて輪を拡げていきたい。
 それにしても未曾有の大地震や大津波といった人知を越えた災害の恐怖を、まざまざと見せつけられた。私たちは、自然のなかで生かされている。自然をコントロールできると考えること自体の傲慢さも思い知らされた。これまで以上に,自然との共生という感性を大事にした生き方が求められているといえるだろう。

◆人災=

 地震・津波によって引き起こされた福島第一原発の事故も、これまで振りまかれてきた原発の安全神話≠吹き飛ばすに余るものだった。
 想定≠超えた、といっても、実は90年頃までに、そうした想定≠ヘ不十分であり、不十分な想定≠ノ基づいた対策≠ナは被害を防ぎきれない、という指摘は何度もなされてきた。とりわけ地震(津波)の研究者などからだ。過去の三陸沖大地震では三陸地方で36メートルとか24メートルの津波が押し寄せたことも分かっていた。地震の規模での想定も不十分だという指摘もされていた。三陸地域に限らず、直下に断層が発見された原発施設も指摘されていた。
 ところが政府や電力会社は、コスト的に可能な地震・津波対策を積み上げ、それを逆算するかのような地震の規模や津波の高さを想定≠オてきた。そう受け取られても仕方がないような、最先端の知見を無視した旧来の、実施可能な甘い想定≠ノ執着してきたのだ。そうした意味でも、今回の福島原発の事故は決して想定外≠フものではないし、警告を無視、あるいは軽視してきたことの結果であり、まさに人災≠ナもある。
 とにかく起こりえない≠ヘずの原発事故は起こってしまった。飛散した放射線物質による放射能汚染も拡がっている。いまでも放射性物質の飛散・流出が止まらず、収束する見通しも立てられないでいる。

◆不安と不信◆

 その起こりえない′エ発事故によって、周辺住民は経験したことのない窮状に追いやられている。放射線被害を想定して、福島原発から半径20キロ以内の住民は圏外避難指示で遠距離避難を強いられた。20〜30キロ圏の住民は、屋内待避指示で飼い殺し≠フような状態にとどめられ、孤立状態に陥っている。
 遠くまで飛散した放射性物質は、直接的な被曝ばかりでなく、野菜、原乳、水道、それに海産物にまで及んでいる。地域によっては通常の1600倍以上の土壌汚染も検出され、すでに海洋汚染も拡がっているとみられる。
 原発周辺の市町村では地震と津波の被害の上に、放射線物質の飛散と高濃度の放射能汚染にさらされている。海岸に近い地域では、地震や津波の被害者の救出や捜索もできないまま、あるいは被害を受けた自宅などの状況の見られないまま、圏外避難や屋内待避を余儀なくされている。その圏外避難・屋内待避地域に住んでいた人は、汚染状況や今後の見通しも知らせられないまま避難・待避を強いられた。どこまで避難したらいいのか、あるいはいつまで待避生活を余儀なくされるのか、不安ばかりが膨らむ情況を余儀なくされている。

◆情報隠し◆

 拡がる混乱と不安の元はといえば、政府が周辺地域の放射能汚染の実態を公表しなかったからだ。
 政府や原子力安全委員会は、原発周辺地域の放射線量をモニタリング・ポストでの調査によって、事故直後から放射線被害の拡がりを把握していた。いわゆる緊急時迅速放射能影響予測(SPEEDI=スピーディ)というものだ。このモニタリング調査で、原発施設からの放射性物質の飛散状況を風向きや降雨の影響も含めて地理的・時系列的なシュミレーション分布図が作られていた。菅直人首相は、地震発生当日の11日に、最初は原発から3キロ圏内、翌12日には10キロ圏内、その夜には20キロ圏内の住民に圏外避難指示を出し、15日に20〜30キロ圏内住民に屋内待避指示を発令した。
 こうした指示は、そのシミュレーションを元にしたものだった。少なくとも安全委員会と政府は事故発生当日からそうした状況を把握していたわけだ。そうした情報はなぜか事故から10日以上たった23日になってやっと公表された。「生情報を出せば混乱が拡がる」というのが理由だったという。正確な情報を出さずに繰り返して「安全だ」と聞かされても、逆に不安と不信は拡がるばかりだ。
 そうした情報隠し、情報操作は、東電でも同じだ。東電も、検出された放射線量の低い数値を公表し、指摘されてから高い数値の検出を認めるなどという、従前からの隠蔽体質と責任回避の姿勢が露骨だった。
 同じようなことは、首都圏などへの放射線物質の飛散にも当てはまる。政府は、モニタリングポストでの検出数値の今後の予測も含めた時系列的なシュミレーション分布図を示さず、場当たり的な個別的な公表にとどめて「安全だ」を繰り返している。そうした隠蔽態度を見透かされ、ここでも人々に不安と不信のみ拡げることに終わっている。

◆英雄=

 原発現場で修復作業にあたる作業員の決死の活動≠ノ注目と期待が集まっている。応急処置で原発への放水・注水作業に当たっている消防隊員や自衛隊員、それに原発の暴走阻止と沈静化に当たっている東電社員や下請け会社の社員などだ。
 津波や爆発などで散乱した現場、しかも放射線という見えない敵≠前にした決死の活動≠セ。しかもそうした活動に当たる大多数の作業員は、政府や東電・原発メーカーなどが推し進めてきた原発推進政策には関わりのない人たちだ。それがひとたび事故の発生を期に、過酷な現場の最前線に立たせられている。たしかに、崖っぷちでの防御戦という崇高な使命を前に、我が身と家族の存在を省みることさえできない英雄的な行為に違いはない。
 とはいえ、100%英雄視できないのも現実である。
 ハリウッドの危機映画では、敵は宇宙からの巨大隕石だったり侵略者であったり、あるいは病原菌などだった。そうした場面で、外からの脅威に対処する英雄的な行動には100%の同感が得られる。またその結末のほとんどがハッピー・エンドだ。
 しかし原発事故は、外敵というより人間社会の営みの結果であり、それ以上に原発という国策推進の結果である。当然、推進者が存在する人為的な世界での出来事だ。これまでの経緯を考えれば、まさしく人災≠ニいう以外にない。
 しかも現地で実際に注水や復旧活動にあたる作業員の多くは、原発プラントや放射線の専門知識を持っているとは限らない。多くは受け持ちの作業内容と手順を指示されているだけで危険な作業を強いられている可能性がある。チェルノブイリでもそうだった。実際、3人の作業員が被曝した25日の出来事を見ても明らかなように、過酷な現場でノルマを課された危険な作業を強いられているのが実情だろう。

◆無責任◆

 今回の原発事故とその結果もたらされている現実に責任を負っているのは、そうした原発を推進してきた人たちだ。まだ責任を云々するのは早すぎる、という声もある。もっともな面もあるが、推進する側からのそうした反応には責任逃れの響きしか感じられない。放射線被曝という二次災害も拡がる中、曖昧にはできない。
 原発推進という国策≠ヘ、一つの内閣がどうこうできるような代物ではない巨大な力である。その原発推進派というのは、これまでの歴代自民党内閣、通産省や科学技術庁の官僚、電力会社や原発メーカー、それらと癒着してきた研究者、専門家、それに電力やメーカー出身の与野党議員も含めた原発族、それらの結節機構になってきた内閣府の原子力委員会、これらすべての推進派が積み重ねてきた膨大な意志とカネとエネルギーを基盤とした巨大な利益集団に他ならない。
 それらに関わるすべての人に責任があるが、なかでも無責任で卑劣なのが電力会社だ。
 今回の原発事故のさなかの3月14日、東京電力は事故処理を放棄してそれを自衛隊と米軍にゆだねる、という態度を示した。要は原発事故から逃げようとしたわけだ。一面では歴代政府に国策として原発推進を強要されてきたという経緯、それに今回の事故での初期対応で振り回されたという政治主導を掲げる菅内閣への不信の思いもあったかもしれない。それはともかく、現に、原発現場にいた数百人の保守員・作業員を引き上げ、50人ぐらいしか現場に残さない時期もあった。
 菅直人首相が15日早朝に東電本店に乗り込んで「撤退などあり得ない。東電は覚悟を決めてください。」などと発言したことが報じられた。この菅首相の行動は、普通であればやらずもがな≠ナ不適切な行動だったかもしれない。が、東電の放棄≠ニいう態度を前にした場合、むしろ必要な行動だったともいえるだろう。直後に、「福島原子力発電所事故対策統合本部」を東電内に設置し、東電社長を副本部長にした。東電に対して事故処理という縛りをかけたわけだ。
 その東電は、今回の事故でも様々な場面で情報隠し、責任逃れの姿勢が目立った。事故は起こりえない≠ニ強弁してきた東電だが、事が起これば自衛隊・消防頼りとは、あまりに当事者意識に欠けている。こうした東電に「安全」をゆだねることはできない。

◆原発政策の大転換を!◆

 東電がこうした無責任さをさらけ出すのも、歴代政権による国策至上主義の原発推進政策によるものだ。
 歴代政権は、核兵器保有という選択肢の保持とメガ装置産業での世界的な覇権という野望を背景として、原発推進政策を強引に推し進めてきた。それを東電など電力会社に担わせ、電力会社もそれに乗る形で原発建設やプルサーマル原発、高速増殖炉開発を推進してきた。
 歴代政権は、原発推進の立場からその安全審査を受け持つ原子力安全・保安院を、原発推進の政府機関である経済産業省に設置することで安全・安心をないがしろにしてきた。内閣府に置かれている原子力安全委員会は権限はあるが意志と力量を持ち合わせていない。原発の安全確保は常に原発推進の付録でしかなかったのだ。その不十分性を多方面から指摘されてきたにもかかわらず、である。
 こうした経緯を含めて、原発推進政策の根底からの転換が急務だ。いま、福島原発の破滅的な危機を目の当たりにして、日本のみならず世界中で原発依存政策の見直しの機運が拡がっている。安全基準の厳格化、原発施設の頑強化、原発事故への危機管理の強化などに終わらせず、原発に依存したエネルギー政策を太陽光発電などの再生可能な自然エネルギー推進政策への大胆な転換が不可欠だろう。
 目下の緊急課題は、いうまでもなく不明者救助、犠牲者捜索、被災者支援、それに原発事故の収束にある。しかし、それらの収束後に元の推進路線に立ち戻らせないためにも、いまからエネルギー政策転換の声を上げていきたい。(廣)案内へ戻る


政府・会社目線の専門家

 それにしても、テレビでの解説などに入れ替わり繰り返し登場する専門家≠ニいう人たちの厚顔ぶりにはあきれさせられる。
 枝野官房長官によるレクチャーが政権の意向≠含む意図的なものであるのはある程度推測できる。が、出てくる専門家≠ェ揃いもそろって「直ちに危険だとはいえない」「健康に影響はない」「安全だ」などとワンパターンで解説しているのには、不信感を通り越して怒りさえ覚える。
 そもそも原子力や放射線の専門家≠ニ言われる人は、その大多数が政府の原子力政策や原発産業の周辺で研究している人たち、あるいはそうした経歴を持っている人たちだ。当然、その地位や研究費は、政府予算や電力産業・原発メーカーに依存している。本来は、政府機関や電力会社の不備・不作為を指摘し、人命や生活の安全に役立つ視点で発言すべきなのだ。人々の安全や安心に貢献すべき専門家≠ェ、政府や会社の後追い発言に終始し、破綻した安全神話の上塗りに終始しているのは許せない。もっとも、そうした人しか登場させないというのが、政府やテレビ局の姿勢なのだろう。
 報道・解説しているテレビ局は、政府や東電の事故処理などの危機管理を批判することはできない位置にいる。後で追求されたり目を付けられるのが怖いからだ。危機感を煽ること、流言飛語・風評被害に荷担すること、パニックをもたらすことを防がなければならないという事情はわかる。が、実態はといえば、結果的に政府公報のお先棒を担ぐ役割に止まっている始末だ。
 政府も公式・非公式に、パニックを呼び起こさないこと、ネガティブ報道に陥らないよう、メディアに圧力をかけてるだろう。それがなくともメディア自体が自主規制している、としか考えられない事態だ。
 それ以前の問題として専門家≠ヘ、そもそも「日本では原発事故など起こるわけがない」「事故は起こらないから、放射線被害も心配する必要はない」と、一般庶民の無知をさげすむような対応を繰り返してきた。
 そうした中で起こってしまった原発事故と放射線物質の飛散。今度は「たいした量ではないから心配は無用」だと。政府発表の後追いや追認に終始している専門家≠フご託宣、それで安心する人がいるのだろうか。所詮、無理な話だろう。(廣)


発揮される人間集団の共同性

 地震・津波被害で、犠牲者が日ごとに増え続けている。あわせて避難所などに身を寄せている被災者も数十万人単位にふくれている。
 大震災に見舞われた3月11日の直後から、諸外国から「未曾有の災害でも商店の略奪などが起こらなかった」「被災者も厳しい状況の中にもかかわらず冷静に行動している」などと、驚異の目で見られている。商店からの略奪などは世界各地の被災地でみられるのに、なぜ日本ではないのか、あるいはそれがない日本はすばらしい、というような趣旨だった。
 こうした現象は実際には例外ではなく、むしろ人間集団が本来持っている共同性の発露以外のなにものでもない。米国でのハリケーン・カトリーナによる水害、スマトラ島津波、中国の四川大地震、直近ではニュージーランド地震でも、そうした光景は広く紹介されていた。多少の違いはあるにせよ、困ったときの助け合いは日本に限ったことではない。当該の諸国では、一部の暴徒や困窮者による略奪行為が大きく取り上げられたに過ぎない。
 こうした例は、日本でも北陸でのタンカー座礁事故や関西大震災でもみられた大規模なボランティア活動でもみられたことだ。ボランティアに貢献した人たちは、様々な動機があったとしても、損得の利害関係とは別次元で純粋にボランタリー精神を発揮した。世界の被災地でも同じだ。
 今回の大震災でも、被災地での家屋や車などからのガソリンや食料の抜き取り、あるいは被災者支援を名目とした詐欺行為など、個々には不届きな事例もあるようだ。が、全体としてみれば、避難所での助け合い、なかでもお年寄りや幼児、それに女性などへのいたわりなど、ほとんどの地域で、広く助け合いの光景が見られた。
 これらは人間が本来的に身につけてきた助け合い・共助精神の発露に他ならない。飲食にも事欠くような極限状況では、助け合っていかなければ自分も生きていけないからだ。普段は、人間本来が習得してきた共助の精神が、利害関係が分断された社会のなかで歪められているに過ぎない。そうした共助の姿を目の当たりにするにつけ、大震災という極限状況の最中によみがえった人間本来の姿の崇高性に立ち返させられる思いだ。(廣)


独立系ジャーナリズムを強化発展させましょう

 3月11日の東北関東大地震により発生した津波と原発事故で被災した人々のことを考えると胸が痛みます。他方で
放射線の大量被曝に晒されつつ原発事故のこれ以上の拡大を押し必死の決意で押しとどめようと奮闘している東京電力の協力会社の非正規労働者や東京都消防局等の職員の原発事故の労働現場での奮闘に感激しております。
 この間の放射能の多方向への拡大と機を一にして、官房機密費等に汚染されて久しい新聞各社とテレビ各社は、「このレベルの放射線量では直ちに人体に影響を与えるものではない」との呆れ果てた報道を垂れ流し続けています。とくにNHKの報道は御用学者と訳知り顔の科学部記者の偏向した説明と解説のオンパレードです。そんなに安全なら、直ちに影響がないと断言するなと言っている以上、原発事故現場への突撃取材を敢行して、その身をもって安全を示す誉れを全国に周知せしめていただきたいものです。しかし彼らが実際にしている事は、自分を安全圏においた上での無責任な放言を果てしなく続ける事だけなのです。私は彼らに恥を知れと言いたいです。
 これらのいい加減なマスコミに比べれば、例えばこの間京大セブンたちの1人や広瀬隆のインタビューを放映した神保氏のビデオニュース・ドットコムや汚職事件で失脚した佐藤栄佐久前福島県知事の体験的福島県発問題を追及した岩上安身の報道姿勢は立派です。もうすぐ岩上氏はインターネット・ウエッブ・ジャーナルを法人格で立ち上げます。
 すでに私は、神保氏を支援していますが、経済的には苦しいですが岩上氏の支援もするつもりです。「ワーカーズ」の読者の皆様も彼らの仕事の持つ意味を認識していただき、独立系のジャーナリズムの強化発展に協力して頂きたいと願って投稿親しました。是非ともよろしくお願いいたします。 (笹倉)案内へ戻る


紹介   かくも生きづらい社会にあっても

 人はどのように生まれ、生きぬき、死んでゆくのか。その多くは生れ出た社会によって決定づけられるのだが、最新の言葉で言うなら現在は無縁社会≠ニいうことになるようだ。戦前の家父長制は崩壊したが、それに代わるべき個人・人格が社会的に確立されることはなかった。
 新しい社会では、「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有する・・・」とされたが、家族は相変わらず個人の結びつきの所産ではなかった。税制は家族単位だし、労働組合も夫婦とその子を経済的な単位として年功賃金を要求した。こうした規範≠受け入れないものは冷遇される、少数者にとっては生きづらい社会であった。もっともそれは、多数者にとってもいまだ抑圧的社会であったのだが。
 ところが、これを支えた終身雇用、年功賃金という柱が資本によって破壊され、経済的単位としての家族が崩壊しつつある。ニートやパラサイトなど、成人した子が親に寄生できるのは、団塊世代あたりまでの親世代の安定した収入によってである。今やバブル崩壊後の就職氷河期に社会に出て、定職と収入にたどり着けなかった失われた世代≠ェ親世代になりつつある。過酷な労働と明日のない生活、そこからは何も生まれないような社会になりつつある。生きている以上、希望は捨てられないし、希望なくして生きるのあまりにつらい。
 こんな社会だからこそ、私たちはこの国の明日を思い描き、その実現のために力を尽くしたいと思う。ここでは、とりわけ現状を明らかにする著作を紹介し、理解を進める一助としたい。  (折口晴夫)

「無縁社会‐無縁死℃O万二千人の衝撃‐」(NHK「無縁社会プロジェクト」取材班・文芸春秋)

 本書は昨年1月31日、NHKスペシャルで放映された「無縁社会〜無縁死≠R万2千人の衝撃〜」の取材と、その後の消えた高齢者≠ネどを取材した記録である。消えた高齢者というのは昨年7月下旬、東京・足立区で都内最高齢の男性、111歳のミイラ化した遺体が見つかった事件に端を発し、全国で所在不明の高齢者が350人に達した事件である。
 その後、9月5日にNHKスペシャル「消えた高齢者 無縁社会≠フ闇」が放映された。この事件は親の年金に寄生していた子や孫が、親の死後も年金を受け取り続けるためにその亡骸を火葬できず、やむなく放置したもの。すべてではないが、大部分はそういう事情から生まれたものである。死体をどこかに捨てたり埋めたりしたら、それは死体遺棄という犯罪になるだろうが、それを自宅に放置することが犯罪になるのか、また年金詐取という犯罪として片づけてしまっていいのか。今後も起こり得る社会的問題として、その解決策を探らなければならない問題である。
 それにしても、自殺者数と同じ、年間32000人の無縁死≠ニは何か。それは、警察や自治体でも身元がつかめずに、「行旅死亡人」として官報に公告される数を集計したものである。これら誰にも引き取られない死体は死亡場所となった自治体で火葬され、遺骨は5年間保存の後、無縁墓地に合葬される。NHK取材班が無縁死≠ニ言うゆえんである。ちなみに、この10年で2倍に増えているということである。
 官報にはどのように記載されているのか、取材例で示されている。アパートの自室での孤独死であり、行き倒れではないのに行旅死亡というのは変だし、取材によって故郷も明らかになっている。しかし、すでに両親も死亡し、実家もなくなっており、遺骨の引き取り手がないのである。両親の墓も確認されているにもかかわらず、東京・新宿の無縁墓地に埋葬されたのである。建具職人として生活し、妻や子もあったが、借金の連帯保証人となったがために、家庭も失い東京で一人さびしく死を迎える、この無縁社会≠象徴するような孤独な人生である。
 今では、家族から遺骨の引き取りを断られることや、借金を抱えて失踪した息子が両親の遺骨や遺影を放置している例もある。一方で引き取り手のない遺骨を引き取り、供養する寺もある。取材最中の2009年3月、群馬県渋川市の郊外にある高齢者入所施設「静養ホームたまゆら」で火災が起き、10名の入所者が焼死した。そのうち6名が東京都民だったが、3名は引き取り手がなく無縁墓地に埋葬されたという。生きていた時から行き場がなかったのである。
 身元が明らかになっても、親族が引き取りを拒否したらどうなるのか。アパートの1室で亡くなった55歳の男性の場合、大学病院に送られ「献体」となった。生前に死んだら献体を希望する「篤志体」は不足しており、これを補うのが行き倒れや身寄りがないといった人々の提供だが、これは無縁死$狽ゥら除外されている。
 こうした無縁死≠ヘ誰にとっても他人事ではない。今は家族があっても、子はいずれ独立するだろうし、夫婦はどちらかが死ねば一人になる。結婚をしない、家族を持たない生き方も増えている。人は大多数は家族のなかで生まれるが、成人すれば個人としての人生を歩む。こうした生き方が確立されるべきだと思うが、それはどのような社会なのかいまだ明らかではない。そうしたなかで無縁≠セけが先行し、これを受け止め、支えるすべがない。今はそんな時代である。
 他人との共同住宅での生活や共同墓など、いろいろな模索が行われている。誰もがいずれは突き当らなければならない課題といえよう。取材班は次のように述べている。
「『無縁社会』 それは戦後65年が過ぎ、高度成長やバブルの時代を経て、成熟社会を迎えたといわれるいまの日本で、まさに現実に起きていることである。さらに日本社会は20年後、ひとり暮らす単身世帯が全世帯の40%近くに達する時代を迎えるという」「『無縁社会』を乗り越えていくことは、実に複雑に問題が絡み合っていて容易なことではない。地縁や血縁、社縁で固く結ばれていたかつての社会に戻れば良いのか? それとも新たなつながりをつくる方法があるのか? 今も取材は続いている」
 
西村賢太「苦役列車」(「文芸春秋」3月号)

 ご存じ芥川賞の、それも異例の受賞作である。これを私は掲載した「文芸春秋」誌で読んだ。当然もう一つの受賞作、朝吹真理子「きことわ」も掲載されており、いずれ読み比べようと思っている。受賞作は単行本として書店に平積みされており、「苦役列車」は話題を呼びべストセラーになっている。
 作品も異色であれば、受賞の言葉も異色である。今後も純文学ではなく、断然「私小説書き」である誇りを看板に、「ムヤミと冷笑に囲まれた私小説の一本道を、これからも歩いていくより他はない」と言いきっているからすごい。作品は、未知の世界が不可思議な文体で、癖のあるリズムで描かれており、興味深く読んだ。私は高卒直後の一時期、工場でフォークリフトの組み立ての仕事をしたことがあるが、その後はひたすらに郵便を配る続けてきたので、西村氏のような労働に経験は全くない。ただ、希望のない苦役のような労働については、最近の郵便職場の期間雇用社員に少しは見て取れるものである。
 中卒で働き始め、19歳にしてすでにどん詰まりの人生に突き当たっている、どうにも救いのない荷役会社での日々雇用の労働生活が描かれている。「自らの恥辱を他人事のように記してのける」という私小説であるが、どこまでが自らの体験かわからないし、そうしたことを詮索しても特に意味はないだろう。
 こうした苦役と形容するほかない若い世代の労働生活については、すでに雨宮処凛が活発な著作活動、実践的支援活動を行っている。雨宮氏は失われた世代≠ナあり、自らもこの世代の苦難を共にしてきたがゆえに、限りない共感を持ってこの社会に闘いを挑んである。西村氏はそれより世代が上であり、世代としてのワーキングプアではないし、フリーターとかプレカリアート、ネットカフェという言葉とも無縁な世代である。
 その西村氏が「日雇い特有のあの悪循環な陥穽に、手もなくすっぽり嵌まり込む格好となってしまったのである」。もちろんこれは主人公たる寛多の境遇であり、これは育った家庭環境によるものだろうが、西村氏は次のように自虐的性格を強調している。
「土台寛多のように、根が意志薄弱にできてて目先の欲にくらみやすい上、そのときどきの環境にも滅法流され易い性質の男には、かような日雇い仕事は関わってはいけない職種だったのだ。それが証拠に、彼はそれから3年を経てた今になっても、やはりかの悪循環から逃れられず、結句相も変わらぬ人足の身なのである」「ともかくあすこに行って数時間、牛馬のようにこき使われれば、夜には日当を得て、その中から千円だけ安ソープランドにゆく為の積立て貯金にとっておく他は、残りの金でまともな飯を腹一杯に食べて取りあえず酒も飲める。が、あの作業の、中世の奴隷に課せられたそれのように、ひたすら重いものを持っては移し、持っては移しする内容の厭ったらしさは、やはり肉体的にも精神的にもなかなかきついものがある」

 先のNHKスペシャルの放映後、「このままいくと、私も無縁死になる」「だめだ、心が折れそうだ」「行く末のわが身に震えました…」といったつぶやきが、30代、40代の世代から寄せられたという。心震えり現実である。かくも生きづらい社会にあっても、希望ある明日をめざし、闘おうと思う。案内へ戻る
 

コラムの窓・・・「原発安全神話と浜岡原発」

 3月11日に起こった東北地方太平洋沖地震と大津波は、「原発は絶対安全である」という原発安全神話を吹き飛ばした。
 「想定外」の言葉を濫用する電力会社とテレビに出る専門家と呼ばれる御用学者たち。まさに「想定外」のオンパレードである。
 この日本は地震列島で地震が起こることは必然であり、ある面「宿命」である。地震などの天災を最初からいつ、どの程度の規模で来るかを「想定」することは出来ない。
 浜岡原発を抱える静岡は、浜岡原発を止める裁判の中でも「地震列島に多くの原発を建設する事は大変危険である」「東海地震が過ぎ去るまで浜岡原発の運転を止めてほしい」と訴えてきた。
 今回の福島原発震災を受け、決して他人事ではない、明日は我が身の思いから、多くの県民が県知事に浜岡原発の即時停止を求める申し入れ行動を続けている。
 3月14(月)には、「浜岡原発を考える静岡ネットワーク」・「原水禁」・「全国署名連絡会」の3団体が中部電力静岡支店に「今すぐ浜岡原発を停止してください」との申し入れを行った。11時には静岡県庁前に「申し入れ行動」を知った多くの県民が集まり、「浜岡原発を止めよう」と道行く県民に訴えた。そして、静岡県川勝平太知事に直接面会を求めたが「知事は忙しい」ということで、原子力安全対策室長との面会となった。
 3団体の申し入れ書を提出するとともに、対策室に入りきれずあふれかえった県民が切実な訴えをした。
★市民「福島で起こっていることが、浜岡で起きないと考えているのですか?」
※室長「現在、福島原発での事象(ここで「事象ではない!事故だ!」とのヤジ)を調査している段階で・・・」
★市民「浜岡原発から20キロのところに住んでいるが、今の防災では10キロだ。きちんとした避難マニュアルはありますか?」
※室長「ありません・・・」
 震源域にある浜岡原発で原発震災が起これば、その放射能被害は風に乗って浜岡原発の東側に拡大していく。そうすれば静岡市周辺は勿論のこと、遠く東京までも壊滅的な被害を被るであろうことは多くの原発研究者が指摘している。
 だからこそ、「すぐ止めよう浜岡原発」運動は静岡ばかりではなく、東京や名古屋など全国に広がっている。そこで、読者のみなさんにもお願いする。
 下記の所に電話やFAXで「浜岡原発を今すぐ止めてください」などの意見を送ってほしい。(富田英司)
◎静岡県庁「危機管理局・原子力安全対策室」(電話)054−221−2088(FAX)054−221−3685
◎中部電力浜岡原子力発電所(電話)0537−86−3481(FAX)0537−85−3033


色鉛筆  みんなで復興を目指しましょう。

 二0一一年三月十一日午後二時四十六分、私は震度6強だった仙台市宮城野区のコンビニの駐車場にいました。仕事は泊まりあけ勤務で、修理に出していた自家用車を取りに行く予定で、代車をガソリン満タンにしたばかりでした。
 携帯の緊急地震速報がなり、車の中で一緒にいた三女と手をつないで 、車のドアを少しあけジェットコースターのように動く感じの大きな揺れが収まるのをじっと待っていました。目の前のコンビニの戸棚からどんどん物が落下しパリンという音とともに電気が消えました。大きな揺れが収まり車外に出ましたが、また大きく揺れ駐車場にいた母親と小さい子どもを囲んで、みんなで手をつないで揺れを収まるのを待っていました。
 一時間くらいの間、今まで一度も話したことのない人と情報交換しあい別れるときこれからの無事を祈るねとお互い励まし合いました。またコンビニの店長が欲しい物あればと私に携帯の電池式充電器と電池、水4本販売してくれました。
 車を運転し老人ホームに向かうと、電気も切れ暗い中毛布にくるまったお年寄りが不安げな顔をして「戦争中を思い出す」と話し寄り添っていました。当日は老人ホームに母と一緒に泊まりました。
 長女は山元町の小学校で働いており、津波が一度堤防にドンとあたった大きな音を聞く中、小学生二人と避難しました。ロッカーにあったコート、かばん、貴重品、購入したばかりの新車、全部海に流されてしまいました。お金1円もなく避難所で水のみで3日間過ごし、知り合いにお金を貸してもらいました。電話は公衆電話しかつながらない状態で、4日目に連絡がとれ逢うことができました。
 お風呂にも入れません。ガスの復旧の見込みはありません。ガソリンも半日並んでやっと手に入ります。原発もこわいです。今は知恵を出し合って助け合って生きていくしかありません。仕事も職場で今することが減ってくれば、私より大変な人のために一緒に協力しあって働きたいと思っています。九州や四国の給水車、新潟の電気復旧車、3時間並んだコンビニに商品を入荷しにくるトラックに貼られた「がんばれ日本」の文字に励まされています。
 商品を買い占めする人もいます。販売している商品はいつもの倍の値段です。だからお金ない人は泥棒します。それは悲しい事実です。
 国が混乱に陥っているさなかですが、自治組織が立ち上がりつつあります。阪神大震災のように。いまこそ、みなさんとコミュニケーションをとりましょう。手をつないで助け合い、分配しあい、一緒にがんばって生きましょう。みんなで復興を目指しましょう。(晃)案内へ戻る


ネルソンさんの詩アメイジンググレイス≠ニ、韓国のドキュメンタリー映画赦し≠ノついて

 ネルソンさんの作詞アメイジンググレイス≠フ中で
 まさかの神の恵み・・・・
 恥知らずを、私ごとき恥知らずを救うために・・・・
というのがある。恥知らず≠ニいうのはベトナム戦争で、多くのベトナムの人々を殺したのに、私は生きているという罪の意識から出たコトバであろう。アメリカ人の多くはクリスチャンであると聞く。神≠ェ私≠許し救ってくれた、とネルソンさんは償いの行為、ベトナムの記憶≠2000回にも及ぶ講演をして歩く。
 韓国のドキュメンタリーは家族を皆殺しにした犯人を赦す≠ェ、一人残された遺族の自分は救われず、生きつづける道を探しつづけキリスト教の洗礼を受ける。アメリカまで同じ悩みをもつグループとも出逢う。罪びとを赦せるのは神のみであろう。
 私はキリスト教についてはよく知らないが、ヨーロッパのキリスト教、神は裁く目をもった神のように思う。ネルソンさんが感じた神は救ってくれる神、赦し救う神であって多分に仏教的というか、東洋的なものの影響があるように思う。
 許せない自分を神の赦しと恩寵にであいネルソンさんはアメイジンググレイス≠歌った。こう見てくると韓国のドキュメンタリーの主人公は自らが神、つみびとを赦す神になる道を辿ろうとしているように見える。
 かつて神コンプレックス≠ニいう本を読んだことがある。神とは行きつかない己れ≠ニいうことであろう。己れを許せず、またどうにもならない時、人は宗教を見出すのかも知れない。救いの道として。パンのみにて生くるにあらず≠ニいう雑誌を刊行した(デカブリストの乱の頃か?)ロシアでは、宗教をどのように見ているのだろう。2011・3・5 宮森常子


さまよえるワン公

 東日本を襲った大津波、私はテレビにはりついていた。というのは、私は歩行困難のため関西に南海地震が襲ってきても逃げるまいと思っていたが、あの真っ黒い津波、汚い濁流を見ると、あんな汚い水を飲んで死ぬのは真っ平だと思ったから。
 避難する人々の群を見ていて、胸のつまる思いであったがホッとすえる場面も、カメラさんはとらえていた。クサリにつないで犬といっしょに避難するオバアさん。フロシキを首からさげてワン公の尻尾がのぞいていて、首からワン公をさげて水の中をジャブジャブと避難する娘さん。ワン公を箱に入れて胸に抱え水の中を歩いて行く小父さん。
 ネコはいなかった。ネコは家につくというから、こわがって押入れにでも入ってちじこまっていたので、家ごと流されて津波に飲み込まれてしまったんだろう。
 腹立たしく思ったのは泥まみれになったワン公が、多分ワン公を捨てて主人だけが避難してしまったのだろう。歩いて行く人の群れの中から自分の主人を探しているらしく、オッサンたち一人一人に寄って行く。オッサンの中にはワン公の頭をなでて過ぎる人もいた。
 戦後の焼け跡、闇市の時代を生きた私は、あのワン公の姿にギブミーシガレット、ギブミーチョコレートと群がる孤児たちの姿を重ねたが、このワン公はむしろ主人を求めたハチ公の方が、ふさわしいように思った。
 それにしても自分を捨てて去った主人を慕うワン公が、たまらなくかわいそうであった。主を持たぬノラ犬として、たくましく生きておくれと祈るような気持ちであった。それしかできない、私には。
 福島の原発が爆発。関西では堺市にシャープが大規模な太陽熱を利用するパネルを作っているという。これは関西の誇りではないか。どれだけのエネルギーを創り出せるか、知りたいものである。
  2011・3・13 宮森常子


大阪府議の「天の恵み」発言について

 東日本を吹き荒れている震災を「天の恵み」とした発言の考え方について書く。「天の恵み」(震災を)としたのは、一つの敵を作れば、みんなが団結するという古くからの政治の力学にもとずく発想であろう。
 そもそも「天の恵み」というのは、地方の祭りがそうであるように、五穀の豊穣を祈るものであろう。詳しくは知らないが、南米の太陽神は農作物の豊穣をもたらす貢物として、血と人の命を捧げよと命ずる。恐ろしい神だ。神の兵隊−虎? とたたかう犬、そういった彫刻が残されており、研究書も多い。
 震災を「天の恵み」としたのは「天」に対する畏敬であるかもしれない。またかつての日中戦争で分裂対立」していた国府と中共の対立をなくし、国共合作によって抗日統一戦線を結成しえたのは、日本の侵略を前にしてなしえたのだという発想に似ている。
 府議という位置にある政治家として、政治の力学に単純にもとづいての発言であろうか。しかし、あの多くの命を呑み込み、廃墟と化した家々、町の姿、そしてかなげに苦しみに耐えて生きようとしている人々を前にして、災害を「天の恵み」と言えるかどうか、考えてみたらいい、失言ではすまないものを感じる。そしていま、何をすべきかを具体的に考えられたらいい。  2011・3・22  宮森常子
 附記
 ロジンの「故郷新篇」の中の補天≠ヘ豊穣をもたらす「天」が破れ、一生懸命、天の破れ目をつくろう女神の話である。私はいま、東日本の地にあって原発の事故に立ち向かう人々、輸送路の確保、人間の生活に必要なあらゆる面での支援に奔走する人々に「補天」の女神の姿を見る。
 三島由紀夫は「豊穣の海」(4巻)で何を言いたかったのだろうか。これについては、次の機会に書くことにする。案内へ戻る


編集あれこれ

 前号1面で阪神大震災を超える天災、東日本大震災について報じるとともに、人災としての原発震災が始まってしまったこと、その深刻な事態について指摘しました。半月を経て、この最悪の事態を脱したとは言えない状態が続いています。外部電源が確保され、炉心冷却機能が回復したとしても、すでに大きく破壊された(放射能を閉じ込めるという)機能が回復されるまで、放射能汚染は続くのですから。
 福島県南相馬市、桜井勝延市長は「海水を入れると廃炉になる。1号機の事故の後、ほかの炉にも海水を入れて、冷却するべきだった。1号機以降の事故は人災だ」(3月16日「神戸新聞」)と述べ、後手後手となった対応の遅れは東電が廃炉を躊躇したからだと指摘しています。その結果、水道水から、野菜から、そして海水から放射性物質が検出されるようになっています。
 政府もマスコミも、ひたすら「人体に影響はない」と言い続けています。これまで、こうした危機の到来は少なからず指摘されてきました、しかし多数派の学者や専門家は安全だ、絶対そうした事故は起きないと断言してきました。まさに現在の危機に責任を負うべき人物たちが今、マスコミに登場して「人体に影響はない」と言い続けているのです。
 インターネットなどでデマ情報が流されているという声もあります。確かに、そうした情報は玉石混交ですが、原子力資料情報室やたんぽぽ舎などは信頼すべき情報源です。東電、政府やマスコミが報じない、隠そうとしている危機の本質を報じ続けています。原発推進という国策はいずれ変更されるもの思いますが、推進派はこの危機のなかでも「原発事故を防ぐ体制を強化すべきだ。対応を誤れば、国内外の原発活用が危うくなる」(3月13日「読売新聞」社説)と述べ、今後の原発活用≠ノ意欲を見せています。
 こうしたなかで、3月16日の毎日新聞がノンフィクション作家の広瀬隆氏を登場させています。広瀬氏は「想定すべき人災」とし、東電だけではなく、菅直人政権、経済産業省の原子力安全・保安院、原発を推進してきた大学や大学院の教授らにも責任があると言います。
「そもそも、東電は原発の単なる『運転者』なんですよ。詳細な構造は原発メーカーの技術者でないと分からない。保安院の職員も分からない。これを解説している学者も『現場』を知らない」「メディアはなぜ、東電や政府の発言を垂れ流すのでしょうか。放射能が漏れていても『直ちに人体に影響を与えない』と繰り返しています。しかし、発表されているのは1時間当たりの数値。365日×24時間で計算してみなさい。想像力もなく、レントゲン並みとか自然界の何分の1と報道している印象です。漏れるという『異常』に対する驚きも怒りも薄れている」
 それにしても、高濃度の放射能汚染に曝されている作業員の思いを、どのように受け止めればいいのか、私には想像もつきません。福島原発に駆け付けた東京消防庁隊員の妻の「日本の救世主になって」という言葉を、マスコミは大々的に報じています。しかし、これを美談≠ノすることは許されません。死に至るかもしれない任務、しかもそれを拒むこともできないなかで、まるでそれは悲鳴≠フように私には聞こえます。
 なお、当初1面は北アフリカの民衆反乱を報じる予定でしたが、震災報道に差し替えられました。当会会員も被害を受け、本紙の編集、発行にも障害が発生しました。さいわい、会員の安否は早期に確認できたし、「ワーカーズ」も遅れて発行することができました。今は何より、すべての被災者の消息が1日も早く確認できることを、福島原発の危機的事態が回避されることを願うばかりです。  (晴)案内へ戻る