ワーカーズ438号 2011/4/15
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原子力発電からの転換を!このままでは人類が滅びてしまいかねない!
3月11日に、東北地方太平洋沖地震が起きてから1カ月が経過した。被害は、4月10日現在で死者が1万3013人、行方不明者が1万4608人、避難者が15万1115人にもなっている。1995年に起きた阪神淡路大震災と違うのは、今回は津波で多くの家屋が流されたことや、原発事故が起きたこと、被害地域が広範囲であること等である。
私自身今回の被災された方々に何かできないかと考えていますが、郵便振替で義援金を送ったり図書館などに備えている募金箱にわずかなお金を入れることしかできていない。
今回の地震で、東京電力福島第一原子力発電所で放射能漏れや汚染水の海への流出など多大な事故が起きている。このような中、関西電力は以下の文書を出している。一部抜粋する。
「3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震により、運転中の東北電力女川原子力発電所、東京電力福島第一原子力発電所、福島第二原子力発電所、日本原電東海第二発電所11基が地震により自動停止しました。福島第一原子力発電所や第二原子力発電所では、外部電源喪失に加え、非常用予備発電機が起動しない状況となり、原子力災害特別措置法に基づき、国の原子力緊急事態宣言が発令される事態となりました」。
「なお、若狭地域にある当社原子力発電所は安全・安定な運転を続けており、影響はありませんでした。今後、当社は、原子力発電所を安全に運営する事業者として、今回の災害の状況や、このような事態に至った原因等について、積極的な情報収集に努め、原子力発電所の安全をさらに向上するための取り組みを早急に講じてまいります」。と述べている。要するに、関西電力の原子力発電は安全です、と言っているのである。しかし、もし今回のように大きな地震や津波が原子力発電所のある若狭地方で起きていたら被害はもっと大きなものになっていたかもしれない。
ここに、経済産業省資源エネルギー庁が発行した冊子がある。これには、原子力発電所の安全対策として、『万一、事故が発生したとしても「原子炉を止める、冷やす、放射性物質を閉じ込める」で、周辺に影響を与えないように安全対策をとっています』。と述べています。しかし、今回の原子力発電の事故はこれら安全対策が機能しなかったのである。
人類を滅ぼしかねない原子力発電から太陽光、太陽熱、風力、水力等自然エネルギーへの転換を。(河野)
やっぱり自然エネルギーだ!──復興は民間力、民衆力で──
3月11日の東日本大震災と原発事故。未曾有の大災害は、今なお多くの人々に避難生活と明日をも見通せない不安を強いている。しかも行方不明者の捜索、余震、原発事故、被災者の過酷な生活などは、なお現在進行中だ。こうした情況から一日も早く抜け出すためにも、大災害の復旧や復興にも思いを寄せる必要がある。
すでに政府や様々な方面から、大災害や原発事故からの復旧・復興のあり方に関する提言も出始めている。16〜25兆円とも見積もられる復興費やそのイメージ、あるいはそれを担う政治のあり方としての大連立の模索などもその一部だ。ここでは見直しが避けられないエネルギー政策のあり方について考えてみたい。(4月10日)
◆国債、それとも増税?◆
震災から一ヶ月。部分的には改善されつつあるものの、いまだ被災者は過酷な環境の中に置かれたままだ。多くの被災者は、今後の生活や職の見通しも見いだせない不安な環境下での生活を余儀なくされている。
とはいえ、仮設住宅の建設や二次避難所への移転も始まっており、日々の生活に追われながらも復旧・復興を見据えた一歩を踏み出す場面にさしかかっている。
その復興財源については、巨額の資金が必要だ。政府は生活インフラなどの復旧のために4兆円規模の第一次補正予算を組むとして,すでに成立した予算の執行停止や埋蔵金≠ネどをそれに充てるとしている。
とはいっても、本格的な復興に必要な資金として見込まれている16〜25兆円を賄うにはとても足りない。すでに、それを賄うために赤字国債発行か、それとも増税か、という議論もわき起こっている。
しかし、赤字国債にしても増税にしても、最終的にその裏付けとなるのは現在と将来の税収であり、結局は国民負担で賄う意味では同じ事だ。これまでの経緯を考えれば、なんらかの国民負担は避けられない。
しかし、ここで考えたいのは、赤字国債にしても増税にしても、結局は国家・行政主導での復旧・復興でしかないし、それでいいのか、という問題だ。赤字国債によるか、あるいは直接的な増税で確保するかの違いはあれ、いったん国家・行政に資金を集め、国家・行政主導で復興にあたる、そうした復興のあり方を見直すことが、いま、求められているのではないだろうか。
◆民間力、民衆力◆
端的に言って、もっと民間セクター、市民・住民主導での復興を考えるべきではないだろうか、というのがここでの問題提起だ。
国家や行政にいったん資金を集中し、国家・行政主導で復興を進める、ということは、不可避的に国家・行政の比重を大きくすることだ。当然、復興を担う行政機関の肥大化や存在感も大きくなる。結果的に国家・地方官僚主導の、上意下達の復興にならざるを得ない。
そうではなく、1人1人の生活者の視点での復興、身近なところからの復興を進めていくべきではないだろうか。そのためには、行政依存に終始することなく、地域社会やそれらをつなぐ民間セクター、社会セクター、地域セクターの役割が不可欠だ。
すでにこれまでの災害の経験から,多くの地域コミュニティー、ボランティア団体や支援組織も生まれ、有意義な活動を積み重ねている。これからの復旧・復興には、それらの全国的で多層的なネットワークを整備・活用すべきだろう。
前後未曾有の大災害を前にして、今すぐそれらの諸方策を国家や行政に取って代わるということは現実的でもないかもしれない。しかし、国家資金の一定割合を、それらの社会セクターや民間の支援組織に配分することはできる。住宅再建基金なども、当初は行政と社会セクターによる共同運営でもいい。職の確保のためには、職の紹介ネットワークとしての労働組合が果たせる役割は大きいだろう。要は、民間力・民衆力の発揮による復興こそ必要なのだ。
これまで大災害後の復興のために、激甚災害支援法などいくつかの復旧・復興策がとられてきた。それらは実際に被災者の生活支援に一定程度役立ってもきた。しかし反面、復旧・復興での行政依存・行政肥大化などで、当事者不在の箱物建設など、結果的に被災地のニーズに沿わない復興に終わってきた経緯もある。この際、社会的なインフラ整備から街づくりまで、民間力・民衆力による共助・共同型の復興計画へ、大きく舵を切ってみたい。
◆岐路◆
被災地の復旧・復興に関していえることは、原発事故にも当てはまる。
これまでの歴代自民党政権は、原発優先のエネルギー政策を進めてきた。政権交代を果たした民主党政権は、当初こそ目立った原発推進の姿勢は打ち出してはいなかったが、菅内閣になって、原発などインフラ輸出による経済成長の姿勢を鮮明に打ち出すようになった。歴代自民党政権のエネルギー政策を踏襲する姿勢を鮮明にしたわけだ。
ところが起きないはずの原発事故≠ナ、菅内閣の原発推進政策の先行きは不透明になった。とはいえ、現時点では原発推進政策の転換を打ち出してはいない。しかし、これだけの大きな負担と不安を振りまいている以上、福島原発の事故が一定の収束をもたらした段階では、確実にエネルギー政策の方向性が問われる局面を迎える。
その場面では、原発の縮小・廃止と、再生可能な分散型エネルギー政策への大転換が不可避だろう。
歴代自民党政権が推進してきた原発優先のエネルギー政策は、核保有の思惑と巨大システム産業での世界的な覇権の野望が背後に隠されていた。そうした原発推進の核心的意図にまつわる経緯は脇に置くとしても、ここでは原発という巨大システムが、地域独占の巨大企業という電力会社の利益に合致してきた、という観点からエネルギー政策の転換について考えてみたい。
◆モンスター◆
原発プラントは,他の民間企業や中小の発電主体では担いきれない巨大システムであり、結局、原発事業は電力会社の独占事業にならざるを得ない。だから原発推進は、即、巨大電力会社のさらなる肥大化をもたらし、それは電力会社の利益とぴったりマッチする。しかも放射性廃棄物の処理問題などで未完の技術≠ニいわれる原発は、国家的プロジェクトとして推進する以外にない。結果的に電力会社は、地域独占が保障された国策会社として利益を上げ続けられる地位を確保できるわけだ。
原発を国家プロジェクトとして推進するためには、巨額の国費の投入も避けられない。現に原子力委員会がとりまとめた今年度の概算要求を見ると、原子力委員会や文科省・経産省を中心に、一般会計、特別会計合わせて総額8369億円(原子力委員会の見積もり)もの巨費が投じられる。これまで何10年にもわたって投入されてきた累積額は数10兆円にのぼるだろう。しかもこれには原発の廃炉費用など、いずれ支出しなければならない費用は含まれていない。ひっくるめて、年間1兆円規模の税金が投入され続けるわけだ。
こうした巨額の原発関連予算は、直接・間接に電力会社や原発をつくる東芝や日立などのプラント製造企業、建物などの建設企業などを下支えし、それらを繋ぐ原発産業が形成される。巨費が動く原発産業の周辺には、当然のように政治家が群がり、また原発や放射線関連の研究者もその巨額な研究・開発資金に依存するようになる。あわせて、原発を国家プロジェクトとして推進する原子力委員会や執行機関としての経産省や文科省を横断する原発関連の官僚集団も形成される。
こうして米国での産軍複合体のような産業界・政界・研究者を貫く原発族としての産学官共同体≠ェ形成される。その力は一大臣や一内閣の力では押しとどめようもない、国策推進勢力となる。原子力安全委員会や原子力安全・保安院などは、その免罪符の役割を担うに過ぎない。
こうしたことは、原発が立地する自治体をも巻き込んでいく。働く場や税収に事欠く過疎地自治体の弱みにつけ込んで、原発の立地と稼働を受け入れさせる。国からの巨額の原発立地補助金と雇用の場の提供をぶら下げてだ。いったん原発が建設されれば、首長選挙や議員選挙では、原発容認派の候補者を原発事業者の代弁者として当選させる。資金も人員も原発関連会社の丸抱えだ。結果は自治体も議員も原発会社の言いなり、いわゆる原発城下町≠フ誕生だ。
結局、こうした国家プロジェクトとしての原発は、一旦始まれば誰にも止められない。いわば暴走車のようなもので、国民・有権者にとって、あるいは個々の推進勢力にとってもコントロール不能なモンスターのようなものになる。
◆分散型エネルギー◆
こうした国策会社による巨大システムは、止められないダム≠ニ同じように硬直化と慢心を併せ持つものだった。そのなれの果てが今回に大事故に他ならない。
原発は、一旦事故が発生すれば、その影響は空間的・時間的に他の事故と比較不可能なほどの災難をもたらす。これはいま眼前で進行中のことだ。そうした事故発生の可能性もあって、原発はほとんどが大規模都市から離れた過疎地の海岸近くに設置されている。福島原発を持つ東電はそれが際立っている。東電が建設した原発は、すべて供給地域である関東圏外の福島や福井に設置されている。当然、首都圏などへの送電には膨大な送電線や変電所などを必要とする。
こうした巨大な規模、圏外という遠隔地での立地という原発は、一極集中の経済成長神話と併せ、いまや自然との調和や人々の安心・安全というニーズに適合しない旧来型システムを象徴する技術になったといえるだろう。
いま求められている電力システムは、再生可能な自然エネルギーに依拠した分散型システム以外にない。具体的には太陽光発電を中心として、風力、地熱、水力、バイオテクノロジーなどを活用した、それぞれの地域に適合した発電システムへの転換だ
。太陽光発電などは、基本的に個々の家屋や施設単位の発電システムだ。風力や地熱でも小規模での事業が可能だ。当然、送配電も小規模で、それぞれの地域に適合した発送電の組合せも可能となる。万一、故障や事故があっても小規模で済み、バックアップシステムも簡単に構築できるだろう。
こうした発送電システムは、大規模な国策会社ではなく、小回りがきく地域密着型の発電主体に適合している。そうした規模での事業では、消費者の意向を供給側に反映させることも容易で、双方向での合意による運営が可能になる。
こうした転換の意味はと言えば、自分たちの衣食住に関わる基本システムを、国家や独占企業にゆだねるのではなく、自分たちの力を下から積み上げていくという観点から根本的に組み替えていく、ということにある。当然、それは自然にできあがるわけでも、あるいは簡単にできるというものではない。しかし、そうした将来を見据えた軌道修正の決意を固めることができれば、決して不可能なことではない。
◆脱原発は可能だ!◆
たとえば、太陽光発電だ。04年度まで世界一だった発電量が、家庭用発電への補助金が廃止された05年年にはドイツに抜かれてしまった。日本の太陽光発電は、いま全発電量の0・3%でしかない。風力発電も0・3%だ。自然エネルギー全体でも3・4%に止まっている。
なぜ低迷しているのか。それは政府の自然エネルギーへの消極姿勢が大きく影響している。
経産省は23年度予算で太陽光発電への補助金を429億円見込んでいた。これでさえも原発関連経費の20分の1でしかない。しかも10年秋の民主党による事業仕分けで20%削減され、349億円に減額されてしまった。一軒あたりの補助金も、7万円/KWから4・8/KWへと引き下げられた。このことだけ見ても、政府の消極姿勢は明らかだろう。これも原発関連企業の利益を優先する原発推進至上主義の結果である。
仮に、年額1兆円規模の財政資金を自然エネルギーの研究開発資金や補助金として投入すれば、全家屋・事業所での太陽光発電設備の設置などで、10年後に原発発電すべてを自然エネルギーで置き換えることは十分可能だ。30年で総発電量の大部分を自然エネルギーで置き換える可能性も見通せるようになる。原発新設をすべて中止し、既存の原発をすべて廃止することは十分可能なのである。いま直ちに、こうしたエネルギー政策への根本的な転換を決断すべきなのだ。
再生可能な自然エネルギーへの転換にあたっては、経済成長至上主義という価値観、大量生産・大量消費という生活スタイル、オール電化生活などという人工的で一元的なシステムへの依存、夏でもスーツにネクタイなどという自然の摂理に反した生活スタイル、これらすべての見直しが欠かせない。それらも合わせて考えていく必要があるが、いま言えることは、今回の原発事故の収束にあたっては、単なる復旧で元の姿に戻すだけに終わらせてはならない、ということだろう。(廣)
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コラムの窓・・・責任を問うということ
この国において責任を問い続けることは困難なことであり、時として非難の対象にさえなります。今も「犯人探しをしている時ではない」という声が聞こえます。しかし混乱が収まり、その時が来たら、責任を問うことなく水に流そうという声が、きっと高まるでしょう。
大日本帝国の侵略の果ての崩壊を経て、この国は新憲法を得ました。その新しい革袋に何を入れ、何を入れてはならなかったのか、厳しく選別しなければならなかったのです。最も責任を負うべきものは生き延び、1億総懺悔という無責任へと行きついたのです。責任を負わないために、責任を問うことを回避したのです。意識的にそうしたものもいるだろうし、無意識であったとしてもその責任は免れません。
福島原発の危機的状況を収束させること、確かに今はこのことが何より優先されなければなりません。しかし、そうすべき責任を負うものたちが原発の延命に汲々とし、責任回避に走っているのです。この勢力は強固であり、原発作業員の被曝労働や住民の大量被曝、環境に放射能をまき散らすことなどなんとも思っていないのです。その証拠に、今もってマスコミでは「直ちに健康に影響を与えるものではない」と言い続けています。
今のままの東電が生き延びることはできないし、原発も生き延びる道はないということ、すなわち、原子力ルネッサンスに終止符を打たないで人類が生き延びることはできないのです。今以上に悪くならないとしても、数年は放射能汚染が続くだろうし、すでにこの国の一部は立ち入れなくなっていることを直視しなければなりません。
こうした事態にもかかわらず日立は、原子力開発企業としての賠償責任について「ルール違反はなく、一切考えていない」とし、「日本のエネルギー政策上、原子力発電を一切使わないことはあり得ない」と強弁しています。そして、火力発電設備の増産によって「日本の復興をきちんと支えたい」としつつ、「原発の長期的な重要性は変わらない」と原発建設への意欲を捨てていません。
原発立地の首長たちも、何か被害者のように「騙された」とか「裏切られた」と言って責任回避を謀っています。首長たちは原発から流れ出るあぶくのごとき札束に目がくらみ、原発から放射能が漏れ出てくることを容認してきたのです。今さら「騙された」もないでしょう。それはまた、地域経済が原発に依存することでもあり、原発のない地域社会を思い描くことすらできなっているようです。
ここにきてまたぞろ、日本の力とか強い日本とか怪しげな言葉が躍りだしています。果たして、これは戦前への回帰ではないか。なぜ日本≠ナくくるのか、人々のエネルギーをからめ捕ろうとしているのでしょうか。国を信じてはいけない。お役人の言葉を信じてはいけない。私は「日本頑張れ」なんて言う人を信じない。自分自身の判断と責任において行動しないなら、何度でも国に、お役人に騙されるしかないのです。2011・3・11の原発震災後は、もう騙されるなと言いたい。「原子力 郷土の発展 豊かな未来」なんてきっぱり捨て去りましょう。これ以上騙され続けるなら、それはもう自らの責任であり、誰も恨むことはできないでしょう。
なお付け加えれば、フランスは世界最強の原発依存国であり、アレバ社はそのフランス最強の核企業です。990万キロワットのジャイタプール原発計画、165万キロワットの原子炉を6基、アレバ社はこれをサルコジ大統領のインド訪問という後押しを受けて実現しようとしています。180億ユーロ(約2兆円)の儲け話ですが、これが福島の原発震災で影響されないかと心配していることでしょう。原発を売り込む世界中の死の商人≠ノ退場していただきましょう。 (晴)
色鉛筆・・・「思いやりは弱者のために」
前号の色鉛筆の仙台からの記事が、生々しく迫ってくる。
この国は、関東大震災の折「朝鮮人が井戸に毒を投げた」「暴動を起こしている」というデマにより、数え切れないほど多くの朝鮮の人たちを殺してしまった。けれどもいまだに、国として事実の掘り起こしは行われていないし、まして謝罪や再発防止への取組もなされていない。
「福島原発の半径30キロ圏内は、自主避難」との政府からの指示に、連れあいは「沖縄戦でひめゆり部隊などをさんざん働かせた後、戦局が行き詰まるや日本軍が彼女らに発した『解散命令』と同じだな」とつぶやく。つまりは棄民である。戦時中多くの国民が見捨てられ棄民となった。戦後の中国残留孤児も棄民であった。
戦争中「いざとなったら神風が吹いて日本は絶対に負けない」と国民を騙していたのはつい65年前の事。その戦争が終わった後、きちんとした反省や検証、謝罪や戦争責任を取るなどといったことは、まるきり無かった。
だから「原発は絶対安全。地震にも耐えられる」と言い続けてきた人たちや、そのお先棒を担いできた人たちが「人体に影響は無い」などと言っても、まるで信じることができないのは当然だ。そして、きちんとした謝罪や責任を取るといった姿勢がまるきり見あたらないことも、過去の歴史と全く同じだ。
3月28日の朝日新聞夕刊で、福島原発の事故による避難を強いられた知的障がいのある子どもや大人200人が、避難先を転々とし(この時点で3カ所目)今も狭い体育館などで全員がひしめいていて、身動きがとれない状態、と報じている。
職員は、洗濯・掃除、物資の調達や薬集めに走り回っているが「みな疲れ果てており、もう限界。あと一ヶ月も持たない・・・」との、悲鳴が聞こえる。
一方で3月31日「思いやり予算年度内成立へ」(朝日新聞)の記事では、「2011年度から5年間の在日米軍駐留経費の日本側負担(思いやり予算)を定める特別協定案が30日、衆院外務委員会で民主・自民・公明各党の賛成で承認された。・・・日本側が毎年1881億円を負担・・・」とある。これを成立させた人たちのことは忘れないでおこう。
人災と天災が起こったとき、真っ先に障がいを持つ人や在日外国人、高齢者や子供達などに、手厚い救いの手をさしのべたい。今こそ思いやり予算は、そういう所に使うべきではないのか?過去の過ち、反省を乗り越える第一歩のためにも。(澄)
企業内組合の刷新も必要だ
日本中に深刻な被害を波及させている東日本大震災。とりわけ放射性物質の拡散などで非常事態が続く原発事故に対して、本来企業や政府に対して強力な規制・対抗組織であるはずの労働組合の存在感が薄い。
その全国組織である日本労働組合連合は、存在感が薄いというより原発事故に対してなんのメッセージも発することなく、まるで原発事故など無いかのように無視し続けている。
連合は、大震災発生後の3月14日に連合災害対策救援本部を設置し、被災地・被災者への救援活動などに取り組んでいる。とはいっても、その対策と救援とは、政府や経団連、各種企業関連団体へのありきたりの要請、それに緊急カンパやボランティア隊の派遣などに止まっている。それ自体は無意味だと言うつもりはない。が、傘下組合員も含めて多くの労働者が直面している過酷な情況を前にして、どういう運動・行動をしていくか明確な方向性を示さないのは、許されない無作為であるという他はない。
とりわけいまだ危機的状況を打開するに至っていない原発事故に対しては、明確なメッセージと対処方針を提起すべき立場にある。しかし、そうした気配も見えないことは、原発事故発生の土壌となった慢心・硬直性や無責任さが、労働組合をも蝕んでいることを示してあまりある。
なぜ連合は原発事故を無視しているのだろうか。現在の古賀伸明連合会長が、原発メーカーの組合員で組織される電機連合出身であれば、なおさら無視することは許されないはずだ。
古賀会長だけではない。現在の南雲弘行事務局長は東京電力労組などを含む電力総連出身であり、二代前の笹森清元会長も電力総連出身だ。これら原発関連会社の大労組は、その組織勢力と資金力で連合労組の中心的地位を占めてきた。それらの大労組は、最大の対抗勢力として原発優先のエネルギー政策をチェックするどころか、企業内組合として露骨な原発推進姿勢を貫いてきた。当然ながら反対の声を押さえ込んでの上に、である。
こうした原発関連労組を傘下に抱える連合はまさに当事者として、広範囲な地域に及ぶ避難住民ばかりでなく、いま原発で必死の収束作業にあたっている電力労組の組合員や下請け企業組合員にも責任を負っているはずだ。それでも原発事故を無視しているわけで、その意味でも二重の無責任さへの批判は免れない。
今後、原発推進は根本的に見直される必要がある。合わせて、それを支えてきた企業内組合の体質や役割のあり方も、根本的に刷新しなければならない。(廣)
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《連載》21世紀の世界 @民衆力とアソシエーション
●大災害と民衆力の高まり
東日本大震災は、この地方の住民に対して、筆舌に尽くせない苦痛と悲劇をもたらしています。
マスコミなどで、取りあけられることは、ごくごく一部であることはいうまでもありません。極限の状況の中で、人間がどの様に行動しているのか、伝わってきます。「法」「道徳」の分解もあります。もちろん、「ドロボウ」をはじめとする様々な行動も、「所有関係」が大混乱に陥っている現状では単純ではありません。仙台港の某ビール工場から流された莫大なビール・ジュースが拾われ利用されており、工場もそののち所有権を放棄したとか。漂流物を共同所有・協同利用している地区もあるとの話もエピソードとして伝わってきます。ちなみに、宮城県警によれば、3月11日以降一ヶ月の「事件」発生はむしろ減少し「治安は悪化していない」とか。誇るべきことだとおもいます。
こうしたなかで、治安を維持し、この地獄のような惨状から立ち上がろうとする動きも出てきています。地方自治体や国の支援がもちろん当面は欠かせませんが、社会危機のさなかには、人々の相互支援、住民自治等の民衆力が復活し活性化していることが、今注目されています。阪神大震災のときのように。
●社会秩序は人々が作る
被災当初、物流もライフラインも停止しました。そのさなかに「街角で弁当の配給あって、本当に助かった」という声や、「無料シャンプー」の美容室が登場しました。仙台のような大都会で、見ず知らずの人にも互いに親切に接する姿はすばらしいものです。自分の「利益」「都合」を放棄してまで、人に尽くす姿があちこちでみられました。また老人ホームでも職員や利用者が、暗闇の中で、気遣い合いものを分け合う姿はとても感動的でした。
大災害があったからというのではなく、これが本来の人間の可能性なのでしょう。
今、被災者やそうでないひとたちもともに協力して、自主的に救済、救護、物資輸送や分配、そして、治安の確保までも実行しています。「社会危機」と表見できるような事態に直面して、既存の国家組織の力がマヒするにおよんで、人々は相互に必要性に応じて連帯し、助け合うということを実証したのです。もちろん、現実には、地方行政組織や自衛隊の支援を側面では受けているのはご承知の通りです。しかし、国家や地方行政の弱体化・空白化という未曾有の事態の中で、自主的で組織的な行動を造り上げようとするエネルギーは賞賛に値することだと思います。
自衛隊の実態はよく分かりませんが、地方自治体の職員に関しては「職務」であるのかボランティアであるのか不分明な実態もあります(際限のない労働時間)。これは過労の問題もあり、是正される必要があります。他方では、飛び込みのボランティアは、「間に合っている」として断られるケースもよくききます。このようなミスマッチの原因や現状の把握も必要です。(ともに是正がすすめられています。)
●社会を変える力がここにある
反乱や内乱、革命的行動がなくては社会を変え得ないと考えている人は少なくありません。民衆をその様な方向に誘導することが「革命家の使命」と考えている「左翼」は最近までいたものです。
しかし、人類の歴史をふりかえれば、そんな単純な問題ではありません。社会を変える民衆力は、「国家の破壊」よりも「統治能力」こそがバロメーターであると私は考えています。たとえばかつてのロシアでは「ミール共同体」という農民の自治組織が存在しました。この組織は、地主やツアー(皇帝)のもとで、支配の末端組織としての役割も果たしてきたものでした。たとえば徴税の共同責任とか。しかし、この様な自治組織としての訓練が、1917年の大ロシア革命を実現したといっても過言ではありません。
過去の話は別としても、現代の資本主義・利潤主義経済の中で陰にかくされてきた、人々の直接的な「助け合い」「相互援助」等の協力・共同行動が大震災のさなかで展開されています。「社会危機」をきっかけとしてボランティアやNPO、当事者達の自主的な行動がいっそう盛り上がるにちがいありません。復旧を目指す地方自治体や国に対して民衆が「真の主権者」としての主導権を確保すること、つまり「当事者主権」が今こそ必要だと思います。
個々人が、経済上の分割された仕事を受け持ちつつ、協同で社会的事務管理もこなしてゆく。そのうえにたって国家つまり「専門的・職業的統治者組織」を二次的なものそして無用のものにししまう、という考えが「アソシエーション革命」の根本理論です。東日本大災害のあまりにも尊い犠牲のなかで、何を学び取り、立ち上がってゆくのかが問われています。(文明) (つづく)
沖縄通信 :米軍への「思いやり予算」を凍結し、被災地の支援に回そう!
今沖縄でも被災地救援のためのチャリティーコンサートが多く取り組まれいる。だが、同時に、米軍への「思いやり予算」を凍結し、被災地救援に回そうという署名活動も取り組まれいる。 その呼びかけの趣旨を紹介し、全国の皆さんにも協力を呼びかける。(英)
3月11日 、巨大地震と津波は一瞬のうちに住民の命・家・仕事・車・船・飛行機・田畑等あらゆるものを飲み込んで、東北・関東地方に壊滅的被災を与え、今も余震が続く事態となっています。加えて原子力発電所の崩壊による放射能汚染は日本全国への拡散で、いつ終わるのか先行き不明の恐怖をもたらしています。 一日も早い復興が望まれますが、報道によれば復興資金は(放射能汚染処理費は含まず)22兆円を下らないだろうと試算されています。 一方、貴内閣は昨年アメリカと米軍駐留経費を今後5年間にわたり、計約1兆円を提供するという合意を交わし、現在国会で成立を計ろうとしています。分かっていることは、未曽有の災害が起こった東北・関東地方の復興に、途方もない巨額の資金と歳月が掛かるということです。
この事態に対し、「思いやり予算」を凍結し、国家予算を大幅に組み替えて被災地の支援・復興、原発災害の収束に向けて国の持てる総力を捧げるべきです。
5年間で約1兆円が在日米軍基地の維持費に提供されようとしています。1兆円を被災者の支援に使うと50万人の人に、毎月5万円を向こう3年間支給する事が出来ます。
「思いやり予算」の凍結に向けてアメリカと再交渉すべきではないでしょうか。
世界中が今日本に注目しています。しっかり復興の道筋をたてるためにも、アメリカの協力が不可欠です。困窮する日本へ、アメリカの真の「良き隣人政策」が今こそ必要です。
予算執行を凍結し、アメリカ側から辞退させるべく、全力を挙げてご尽力下さるよう要請します。
呼びかけ人:「思いやりは被災地へ有志一同」:fax098861101
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数字のトリックにだまされない!
4月10日に開催された広瀬隆氏の講演は、午前の時間帯にも関わらず150名もの参加者で会場は埋め尽くされました。水俣病をはじめ公害病に取り組んでこられた広瀬氏の姿勢が、政府・東電・原発推進の企業への批判となって表れるのは、当然のことなんだろうと受けとめました。とりわけ、テレビに出てくる政府お抱えの御用学者たちの嘘には、避難生活で疲れきった人々への犯罪的な行為として、怒りが頂点に達する勢いでした。
「想定外」を理由に責任逃れをしようとしている原発推進者たちに、ほんの100年ほど前の1896年の明治三陸地震津波では、岩手県沿岸の綾里では38・2メートル、吉浜24・4メートル、田老14・6メートルの津波の高さが記録されていると、指摘。「想定外」の言葉を安っぽく濫用するな! 専門家の「国内最大級だった」とする弁解に、専門家を名乗ることを恥じよ! と強くその姿勢を批判されています。広瀬氏が昨年発刊した「原子炉時限爆弾〜大地震におびえる日本列島」には、今回の地震津波は既に予想されていたのですから。
被曝の安全基準値の出し方も、ごまかしばかり。1年間に一般人が浴びる許容量なので安全、ただちに被害は出ることはないと報道。例えば、「爆発直前の放射量は1015マイクロシーベルトで、これは1年簡に一般人が浴びる許容量を1時間で越える値だった」は、正しい計算の仕方は、365日×24時間×1・015=日常の8891倍、許容量のざっと1万倍になる。瞬間に浴びる放射能だけで済まされることは無いはずで、福島で避難生活をしている被災者たちは、そこで生活を強いられ逃げることも出来ず毎日、「微量」であれ被曝を余儀なくされているのが現状です。内部被曝となるとさらに深刻で、その数値は何万倍という単位を掛ける計算になり、5年後・10年後にはガン患者が増えることも予測されます。
広瀬氏の警告「若い世代・妊婦は西日本に退避せよ」は、ショッキングですが、事態はそれほど追いつめられていることを、私たちは自覚しなければならないでしょう。
講演会が終わり、午後の時間を駅前で署名活動を行ないました。福島原発を「廃炉」にしようと訴えるわたしたちに、安全管理を徹底すれば大丈夫・原発を無くしたら電気不足をどう解消するのか? という疑問が寄せられました。街角で、実際に呼びかけることで、考えてもらうきっかけになればと思います。引き続き署名は行なっていく予定です。各地で、行動を起こしましょう。(兵庫・折口恵子)
提案します
ここ浪速区日本橋3・4丁目かいわい、若い人々や男性の方々は、昼間はそれぞれの職場などに出かけ、居住地域に残っているのはお年寄りが多く見られます。主婦とおじいさん、おばあさんが主役の街といえるでしょう。
震災の地、東日本では復興へと目指しつつも条件が整わず、崩れ落ちそうな気持ちをお互い支えあって生き抜こうと、されている住民の方々の状況を見るにつけ、私たちの街も決してヒトゴトとは思えない危機感に襲われます。
ここ大阪の一隅に住む私どもも、家族という最小の共同体・相互間のつながりを日頃からもつことを願って、次のように提案します。
(試案)
・日時 日曜日 午後2時〜4時(月1回)
・場所 わが街レポート&メ集部が2Fにあるナニワ薬房の店先、(1F)
・テーマ 何でも≠ィしゃべり
困ったこと、うれしかったこと、腹立つこと、など
主婦・女学生・はじめ女性ならどなたでも、ご参加を!
わが街レポート≠フメンバーはできるだけご参加を!
まあ、気のおけない者同士のお茶会≠ニいったところでしょう。
2011・3・31 わが街レポート&メ集部 宮森常子
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