ワーカーズ449号 2011/10/1
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全国の津々浦々から「さようなら原発」の声を!
原発推進派の原発再稼働の企てと策動を痛打せよ!
9月19日、全国の各地で取り組まれた9月11日に続く全国的闘争として脱原発を訴える「さようなら原発集会」が東京の明治公園で開かれた。主催者側によると全国から約6万人が参加して、東京電力福島第一原発の事故に関連した集会では最大規模になった。
この日の集会は、新規原発計画の中止、既存原発の計画的廃止などを求めたもので、大江氏ら9名の呼びかけに応えて連合系・中立系・全労協・全労連等の労働組合や市民団体等により開催された。6万人参加の主催者発表は会場をどよめかせ、参加者は脱原発の闘いに確信を持つ事が出来た。これだけの数の人が同公園に結集したのは実に数十年ぶりだ。
集会では、原発再稼働に意欲を燃やす野田首相を鎌田慧氏が「原発の安全と信頼性は既に破綻した。再開するのは住民への敵対」だと批判、大江健三郎氏は原発を推進する勢力に対抗するには集会やデモしかないとして「私らは原発に抵抗する意志を持っているという事を政党の幹部に知らせる必要がある」、しっかりやっていこうと呼びかけた。さらに経済評論家の内橋克人氏は「さようなら原発今日は命輝く国。その一歩を皆さんと共に歩み続けたい」と語り、落合氏や澤地氏も発言した。ドイツから参加したワイガー氏は「脱原発は出来るか出来ないかではない。政治的にやるかやらないかだ」とその核心を語った。
福島原発事故の想像を絶する過酷さと電力資本と日本国家の無責任と破廉恥ぶりは、多くの人々に衝撃を与え、彼らの覚醒を促している。7歳の娘とデモに初参加した女性は「原発に無関心で無知だった事を反省した。子供の世代に、原発に依存しない社会を残したい」との決意を述べたが、こうした発言こそ原発推進派を最も震撼させる発言であったろう。
集会は脱原発への政策転換を求める署名運動「さようなら原発1000万人アクション」の一環である。今ほど反原爆と反原発の闘いの結合が緊急の課題となっている時はない。
全国の津々浦々から「さようなら原発」の声を!原発推進派の企てと策動を痛打せよ!(直木)
遺産を食いつぶした野田政権──限りなく自民党化へ──
発足した野田政権が何をめざす政権なのか次第に見えてきた。野田内閣での自民党政権時代の政治への回帰がはっきりしてきたからだ。民主党政権発足後たった2年、三人目の首相の登場で、あの政権交代の熱気や期待は雲散霧消してしまった。
発足時の支持率はV字回復したものの、第二自民党化への道を歩む野田政権。民衆に見放されるのは時間の問題でしかない。
◆第二自民党
党内の派閥談合で生まれた野田内閣。党内融和を優先させた組閣やねじれ国会下で自民党など野党への接近を印象づけたスタートだった。あの政権交代時に掲げた旗印はすでに色あせてしまった。
もともと松下政経塾出身の野田首相。社会変革などという目標は二の次、なによりも政治家としての自己実現が主な原動力だ。政治的・経歴的なインパクトも、これといったメッセージ性も希薄だ。当然のことながら、政権をとりまく諸勢力のバランスの上に乗った御輿の役柄でのスタートとなった。施政方針演説でも"現実主義"で"穏健主義"。各省庁から上げられた総花式の政策を並べただけだった。
発足当初は、菅政権の掲げた「脱原発依存」などの政策も引き継ぐかに見えた野田内閣だったが、官僚組織や産業界の声に押されて早くも軌道修正に舵を切った。
たとえば国連総会への参加のために訪米した場面で来年夏の原発再稼働を公言したことをはじめとして、マニフェストの見直し、自民党と同根の「税と社会保障の一体改革」、景気対策での企業へのテコ入れ、TPP参加への積極姿勢、官僚組織との共存姿勢など、あの政権交代はいったい何だったのか、と思わざるを得ないのが実感だ。
菅内閣末期の政治の停滞を見せつけられた有権者から見れば、野田政権の発足で民主党による改革政治が仕切り直されるのではないかとの期待は、早くもしぼみつつある。野田内閣が旧来の自民党的政治の後追い姿勢に舵を切ったからだ。
その象徴が野田首相による対米関係や普天間基地の辺野古崎への移転問題によく現れている。
◆食いつぶされた"遺産"
対米関係では、2年前の鳩山民主党政権の発足で深刻な亀裂をもたらした。「対米一辺倒の政治からの自立」や「在沖海兵隊基地の代替施設なき国外・県外移設」を明記した04年・05年の民主党マニフェストが発端だった。政権交代が現実味を帯びた09年のマニフェストでは「基地のあり方を見直す」と曖昧化したものの、09年の総選挙では、当時の鳩山代表が普天間基地の県外・国外移転を訴えた。それもあって誕生した鳩山民主党内閣は、県外・国外移設に加え、「東アジア共同体」構想も掲げたからなおさらだった。
その鳩山内閣は普天間問題で迷走を続け、退陣間際には辺野古崎への移設という日米合意に舞い戻ってしまった。その間、米国は表向きは日本の選択を見守るという姿勢を示してはいたが、水面下では日本の対米自立志向には強烈な牽制を続けていた。
鳩山内閣の後を継いだ菅内閣は、なんの将来展望も示せないまま対米関係の修復に追われ続けた。その菅内閣の後を継いだ野田内閣。野田首相には、はなから対米自立志向など無かった。就任記者会見では多極化などに言及しつつも日米関係基軸論を語るのが精一杯だった。
21世紀のこの10年をざっと振り返っても国際情勢は大きな地殻変動を見せている。大きなファクターは、世界第二位の経済大国として肥大化する中国の台頭、それにアフガン・イラク戦争やリーマン・ショック以降の景気低迷で疲弊する米国の国際情勢への介入力の後退だ。経済のグローバル化は結果的に多極化をもたらし、国家レベルでも新たな対外戦略の再構築が求められている、というのが変容を続ける世界のありようだ。
こうした様変わりした情勢のもとでの対米関係の修復作業だという。二年間に渡る舞台が一回りして、自民党時代の対米関係への復活に汗しなくてはならないというこの現実こそが、民主党政権の真実をはっきり示している。もしかしたら普天間基地は代替基地なしに沖縄の人々に返還されるかもしれない、という民主党政権に抱いた淡い期待と熱気は完全に過去のものになった。有権者の想いに由来するあの政権交代という千載一遇のチャンスは無様に食いつぶされ、民主党バブルはすっかりはじけてしまった。
◆事態を動かす民衆の声と行動
民主党政権への期待は泡と消えたといっても、沖縄の基地撤廃に賭ける熱い想いは政権を超えて米国に小さくない波紋を引き起こしている。米国議会や軍内部にも拡がりつつある普天間基地の嘉手納基地への統合、あるいはグアム移転、その先に垣間見える海兵隊の海外展開縮小案がそれだ。米国の相対的な退潮と多極化の現実を前にすれば、いつまでも世界の警察官気取りは続けられるはずもない。グローバル化と多極化の中、いま沖縄の人たちの熱い想いと体を張った闘いが米国を動かしつつあるのだ。
未来を切り開く闘いは、もう一つの焦眉のテーマでの闘いにも現れている。脱原発を求める民衆の自立した闘いの拡がりだ。
9月19日、脱原発を求める「9・19 さよなら原発 1000万人アクション」が東京の明治公園で開かれた。主催者発表で6万人が集った脱原発集会。一週間にわたる「脱原発ウィーク」に結集した草の根の脱原発の闘いの集約点に位置づけられたこの集会・デモ。ここには誰から強制されたのでもない、自分たちの命と生活を守るという思いで自発的に参加した多くの名もない人々がいた。市民団体、労働組合、あるいは個人で駆けつけた人も多かった。ここには脱原発を時の政権に期待するのではなく、自分たちの生の声と行動で政治を変える、政権を動かすという発想と行動が示されていた。
こうした直接民主主義、観客席からではない自ら舞台に登場しての草の根の大きな声と行動。こうした声や行動をいたる所、いたる局面で大きく拡げ前進していきたい。それこそが政治を変える原動力となる。(廣)
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コラムの窓---東北ボランティアを体験して
旅支度
九州にいると、震災・津波・原発事故の問題が、ともすれば「遠い東日本のこと」と見られ「このままではいけない」という危機感から、東北行きを思い立った。
書店で手にした「東北ウォーカー」のボランティア特集を参考に、早速、僕の住む北九州市の社会福祉協議会に出向き「ボランティア保険」に加入した。インターネットで被災地のボランティア募集状況を調べたり、ホームセンターの作業着コーナーで、日よけ付き防止、作業用手袋、マスク、ゴーグルなど、必要なグッズを買い揃えたりして、準備した。
仕事柄、長期の休みは取りにくいので、福島、宮城、岩手、それそれ二泊三日の短期旅行を計三回行うことにした。
福島県(南相馬市)で泥かき
一回目は知人と二人で福島県の南相馬町へ。活動先の鹿島区は、今回の原発事故で緊急時非難準備地域に指定され、子供たちの多くは県内外の、他の地域に転校しているという。
8月13日、前泊地の東京から朝一番の東北新幹線に乗り、7時半には福島駅に到着。予約していた駅レンタカーを運転して、東へ約二時間。南相馬市鹿島区の復興支援センターに着いたときには、午前10時。すでに第一陣は出発していた。我々は、途中から合流することになった。
長靴とスコップを借りて、マイクロバスに乗り、海岸近くの水田地帯へ向かった。側溝の泥かきが今日の作業だ。津波で水田は海水と塩分を含んだ泥に覆われてしまった。稲作の命である「水路」が泥に埋め尽くされている。これを約130人の老若男女が、A班、B班に分かれ、交代で泥かきにあたるのだ。
なにしろ暑い。炎天下のスコップ作業は、ものの十五分もすると息切れがしてくる。そうすると「交代してくださーい!」の号令がかかり、あぜ道をぞろぞろとテントまで帰り、水を飲んだり、梅干を食べたりして休憩する。
僕などは、野外の重労働は、学生時代の工事現場のバイト以来だ。スコップの扱いも慣れず、投げ捨てた泥が土手に跳ね返って、ビシャッと顔や衣服にかかってしまった。しかし、周りを見渡せば、若い女性や、年配のご夫婦も、慣れない手つきで黙々とがんばっている。負けられない。
昼の休憩をはさんで、午後3時前には作業を終了。支援センターに帰ると、スタッフが「ご苦労様!シャワーを浴びてくださーい」と声をかけてくれた。ありがたい。
帰りがけに、車で海岸近くまで行ってみた。道路は亀裂が入り、真っ直ぐに走れない。一面、無人の野。家屋があったと見られる所も、コンクリートの四角い土台らしきものだけ。防潮堤も、ところどころガラガラと崩れ落ちていた。電柱もガードレールもなぎ倒されている。ニュースの映像で何回か見たはずだが、実際にそこに立って見ると、激しい恐怖感を覚える。今回泥かきした水田に再び稲穂が実るのは、何年先のことだろう?
宮城県(石巻市)を歩く
8月29日、仙台からJR仙石線に乗って石巻市をめざす。
途中、松島海岸駅から先は、代行バスに乗り換える。バスから線路を見ると、電線をつなぐ電柱も傾いたままで、まだまだ、鉄道復旧には時間がかかりそうだ。沿岸が近づくにつれて、沿線の家屋の破壊状態が、だんだんとひどくなる。矢本駅から再び列車に乗り換え、やっと石巻駅に着いたのは昼前。
今回は日程の都合でボランティア参加の時間が取れず、とにかく被災地を歩いてみることにした。駅前の商店街から橋を渡り、港の方面まで歩いた。家屋の壁面には、くっきりと津波で浸水した痕跡がある。窓枠や玄関の扉がなくなって、ガランドウのようになった家屋が続く。壁もなくなり、一回部分が柱だけになった家屋。建物全体が傾いてしまっている家屋。
信号機も消えたままの交差点で、警察官が手旗方式で交通整理していた。港湾の復興工事のためだろう、ひっきりなしにダンプカーが行き交い、砂埃をあげている。小中学校の校舎の窓には、下着が干してあり、被災者が生活しているのがわかる。
駅に戻る時間がせまってきたので、たまたま出会ったタクシーに乗った。運転手さんに話を聞いた。「もう、何がなんだかわがんねえ。毎日、ボーッとして暮らしでるさ。」「この辺はまだいいほうだ。海の方は、家も無い。」「十メートル以上の高台にある病院が波をかぶったんだ。一階がやられたけど、今は二階以上で診療してるよ。」「学校に避難してる人も、だいぶ減ったよ。仮設住宅に引っ越して。」
遅々として進まない町の復興。建物も、人の心も疲弊していくばかりではないか?
帰りは平野を通る石巻線で仙台に戻る。車窓から水田地帯を見ると様々だ。津波をかぶったまま放置され、雑草が伸び放題の「緑色」の田地。一応、復旧作業が始まり、土が新しく「茶色」の田地。幸いにも被害に合わず、稲穂が実り「黄金色」の水田。
岩手県(釜石市)の病院で
9月11日、盛岡駅からJR釜石線、快速「はまゆり」に乗り2時間半。製鉄と漁業の町、釜石市に着いたのは11時過ぎ。駅前のボランティアセンターのあるテントで、受付をして、午後からの作業に加わることになった。
行き先は、市内の病院。敷地に隣接した土手が、津波をかぶり、海水の塩分で松の木や潅木が枯れてしまっている。このままでは患者さんも気分が落ち込むだろう。枯れ枝をチェーンソーで切り、雑草も刈り取り、軽トラでがれき処分場に運んでいくのだ。
作業に立ち会った病院の守衛さんや、近所の時計店のご主人が、いろいろ話をしてくれた。「北九州市からは、何人もの市職員さんが常駐してくれてますよ。」新日鉄の関係もあって、北九州市の企業も行政も、支援先は釜石市に重点を置いているためだ。
守衛さんの話「ここの病院は、一階の天井まで津波に浸かってしまったんですよ。一階にあったMR(放射線機器)はもうだめです。億単位の機械ですからね。当分無理でしょう。二階以上で診療はしてます。」
病院の建物を見ると、三階部分から裏山に橋がかかっている。津波の歴史をもつ岩手では、学校も病院もこうした避難設備がある。患者さんは橋を渡って、裏山に避難したのだそうだ。
時計店のご主人「実は津波は最初、海とは逆の方向から来たんです。何故かというと、まず川が逆流し街の中に溢れてきたんです。次に防潮堤を乗り越えて、今度は海の方向から水が来た。それを見て、私らも、この山に駆け上った。山の上には、千二百人位が避難したんです。」
「それから何日も、自衛隊員が担架で遺体を運んでいくのを見ました。道路の排水溝からも遺体が上がってきた。」その後の話は惨すぎて、とても文章にできない。
2時46分、町中に追悼のサイレンが鳴り響いた。ボランティア達も作業の手を休めて、黙祷した。目を閉じていると、まぶたの裏に、押し寄せてくる津波が、鮮明な映像のように見えてきた。そして、再び津波が海へ引かれていく光景も見えた。ああ、本当にここで、たくさんの尊い命が失われていったんだな、そう思うと、涙が溢れてきた。サイレンの叫びが胸に突き刺さる。
語ることから
こうして、一連の旅は終わった。職場に帰るたびに、控え室にお土産のお菓子を置いておくと、同僚から「今度は、どんなだったですか?」と聞かれる。そのたびに、現地で体験したことを語っている。
本もよく読むようになった。佐野慎一のドキュメント「津波と原発」、吉村昭の歴史記録小説「三陸沿岸大津波」、佐藤栄佐久(前福島県知事)の回想録「福島原発の真実」、堀江邦夫の体験ドキュメント「原発労働記」等々。
被災地の体験や読書で勉強したことも含め、九州の地でも震災復興や原発事故の問題について、よりリアルに語ることから始めたい。そして責任を持って、意見も言えるようにしたい。(松本誠也)
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円高介入の名による「新帝国循環」システムを断固糾弾する!
為替損失に触れず復興税のみ議論する不思議
2011年8月5日、政府・日銀は再度円売り・ドル買いの為替介入に踏み切る。しかし一時80円台まで円安になったが、再び78円台に戻して結局何の効果もなかった。このような日銀による円売り・ドル買いオペは3・11事件直後にも行われた。3月24日の朝日新聞は、3月14日より8営業日で総額102兆6千億円の資金供給が行われたと報道した。この巨大な金額に私達は驚くばかりだ。このように日銀はその都度、資金供給の規模を公表していたが、今回は資金供給の規模を公表していない。なぜだろうか。
今回もマスコミの報道姿勢は“超円高が続けば日本企業への打撃が大きく、日本企業の日本脱出が止まらない。日本経済は大変な事になり、国内雇用に影響が及ぶ”との危機感を煽りまくり、経済界や財界の人間に“何とか円高是正して欲しい”と悲鳴を上げさせて、日銀の為替介入を正当化している。しかし今回の介入の資金規模は報道しないのだ。
ところが不思議な事にマスコミは、苦境に立つ日本の円がなぜ買われるのかの理由は相対的に強いというばかり。米国連邦政府の財政危機で米ドル売りが起きている事は周知の事実だが、なぜ今苦境の日本の円が買われたのかは一切謎なのだ。さらにいうとなぜ高度経済成長の中国の人民元が今買われないのか。最近の対ドル人民元相場は長期的には右肩上がりだが、最近はむしろ下落している。まさにこれらの核心は秘密のままである。
自民党は民主党政権が実行した子ども手当、高校授業料無償化、高速道路料金無料化、農家個別所得補償などを「バラマキ4K」と呼び批判しつつ、財源がないのだから民主党にマニフェスト・公約を廃棄する確約せよと国会で論陣を張ってきた。しかし全く奇妙にも、日本政府が保有する1.1兆ドルの外貨準備金とその大半を日本政府は米国国債で保有してきた事やこの巨額の米国国債は日々減価して、日本政府がこの外貨準備で巨額の損失を計上し続けている事実に自民党は一言の批判もしていないのである。
自民党自身、歴代の自民党政権が生み出した巨額の為替損失をどのように評価するのか。2007年から2011年の4年間だけを考えても外貨準備での為替評価損失は、実に45兆円にもなる巨額の損失である。自民党は、民主党の4Kがバラマキで無駄だというなら、この間の巨額の為替損失にはどういう評価を与えるのであろうか。確かに45兆円の為替損失は国民の血税をみすみすどぶに捨てるに等しく、国民に対する背信行為そのものだ。まさに責任者は今すぐ出てこいの怒号が飛び交うのが不可避の展開ではないか。
今回の東日本震災からの復興に際して、政府は19兆円の財政支出案を提示した。しかし実際の被害の規模は極めて大きく、その事から推測すると復興費用としては30兆円から50兆円の規模の資金が必要となると判断するのが適当だと考えられている。
問題の所在は明らかだ。外貨準備での為替損失がなければ、現金でその必要なすべてを賄えたのだ。外為介入の権限は財務省にある。財務省は、為替損失で45兆円もの貴重な財源を吹き飛ばしておきながら、どの面下げて国民に復興税新設を要求できるのか。
財務省の大失態を追及できない事に日本国家の官僚主導が象徴されているのだ。
借金で回されている外為特別会計の闇を暴け
東日本大震災の復旧・復興事業の実施が急がれている。しかし民主党政権は延命しか考えていないようで、被災地、被災者など眼中にないかのようだ。本来直ちに本格的な総合経済対策を決定して、時限立法を最大のスピードで法制化し対処すべきであるのにもかかわらず、瓦礫の処理も滞らせたまま放置する状況を6ヵ月近くだらだらと続けている。
総合的な復旧・復興政策の規模を政府は、当初5年間で19兆円と提示した。そもそも5年という時間設定が役所体質を象徴している。言葉本来の意味で復旧・復興対策とは1年、長くても2年位をいう。民主党政権のようにほとんど何もせずに6ヵ月をむだに空費する感覚から、官僚達の5年というふざけた時間が浮上するのだろう。
第一次、第二次補正予算ですでに6兆円が計上されているから、残りは13兆円である。野田内閣はこの内10兆円を復興増税で賄うとしているが、正気の沙汰ではない。政府は復興債で資金調達するといっているのだから、直ちにその償還財源をどうするかまで本来なら検討する必要はない。復興債で調達する資金の投下対象は、長期間効用を発揮するインフラ資産が大半である。だから耐用年数を60年と考えれば、建設国債と同様に60年間での償還を考えれば良いだけの話ではないか。
当然の事ながら今ある政府資産を売却し復興対策財源とする事だ。JT、NTT、東京メトロ、日本郵政など、売却できる政府保有株式は大量に存在する。JT株式などは、この際完全売却を行い財務省からJTへの天下りを全面禁止する根拠とすべきものだ。
しかしまず第一に手を付けるべき財源が存在する。それは外貨準備資産だ。政府の外貨準備高は2011年7月末で1兆1378億ドル存在する。このような多額の外貨準備を保有する理由は全くない。そして外貨準備資金を保有するための資金は何と全額日銀からの借金、つまり100%借金で90兆円近くの外貨資産を保有している愚劣さだ。
さらに最大の問題は巨額の外貨準備で空前の損失を計上した事だ。円ドルレートは2007年6月に1ドル=124円台をつけた。これが現在は1ドル=77円台である。
1兆1378億ドルの円換算額を二つの時点で計算すると、2007年6月には141・1兆円だったのが、2011年8月には87・6兆円に変化している。両者の差は実に53・5兆円だ。残高は増加しており、ドルからの金利収入が日銀への金利支払いを上回るから正確な損失は若干縮小するが、それでも数十兆円単位での巨額損失が生まれている事は間違いはない。この事に対しては用心深く口を拭って、復興税新設には口角泡を飛ばす無責任で厚顔無恥の財務官僚に、私達はただただ驚くばかりだ。
財務省は財政赤字が深刻と称し社会保障費を毎年2千億円削減し日本社会をぼろぼろにした。財務省は一方で社保費を2千億円の削減をしつつ、他方で財務省は外貨準備保有で53・5兆円も損させたのだ。この事実がほとんど国会では追及されていない。
その財務省は日銀に支払う金利と外貨準備の米国国債の金利収入の差額だけを外国為替資金特別会計で損益処理し、この収支が黒字だという詭弁で外国為替資金特別会計の資金を使って海外出張での豪遊費用に充当してきた。これも財務省の利権の一つである。
今こそ百害あって一利なしの巨額の外貨準備を売却処分して、この財源を震災復興事業に充当するべきだ。民主党は財務省との闘争に勝利せねばならない。国家の一般予算予算が約80兆円に対して実に4倍の約330兆円の特別会計と称する財源を財務省が壟断している。まさにここにメスを入れない限り、どんな政治主導も絵空事になるであろう。
実にこれら特別会計の闇のため、何者かに唆された伊藤白水によって刺殺された故石井紘基議員の執念と意思に学びつつ国民生活再建のための財源として大々的に活用するよう提言する。暗殺当時、菅直人氏と小宮山洋子氏らは、声高に故石井紘基議員の無念と意思とを引き継いでいくと事ある毎に強弁していた。しかし彼らは今に至るまで何もしていない。事実は雄弁である。忘れっぽい彼らはもちろん今回財務相の全面支援の下に誕生した野田新総理大臣も財務省権力の解体のために働く気などさらさらないのは明白である。
私達は、民主党に対して「国民の生活が第一」と今でもいうなら、また政治主導を今でもいうのなら、真っ先に財務省の主管する外貨準備の財源に目を付け、またその他の特別会計を大胆に統廃合して官僚主導を根本的に転換させるよう呼びかけるものである。
円高介入という名の「新帝国循環」システム
政府による巨額の外貨準備の放置は、2007年6月から2011年8月までの4年余りの期間だけで、数十兆円規模の為替損失を生み出した。今現在政府、財務省、マスゴミが揃って増税論議にうつつを抜かしているが、そもそも財政再建をいうのならその前に財務省の財テク損失である巨額の為替損失を論じる事が物事の順序というものである。
しかしこの期間の前にも注目しておきたい。その期間とは一言でいえば竹中平蔵氏主導による日本の株式資産の暴落期と一致する。竹中氏は2002年9月末の内閣改造で金融相を兼務する事になった。竹中金融相は就任すると直ぐに「大銀行だからといってつぶさない訳ではない」との見解を公表し、この発言をきっかけにして日本株価が暴落した。
この時期、日本の株式と不動産を積極的に購入した勢力が存在する。米国を中心とする外国資本だ。彼らは状況証拠から見て、竹中金融相からその当時は大銀行倒産情報で株式の暴落を誘導しているが最終的には大銀行を公的資金で救済し問題を処理するとの方針を事前に知らされていた可能性が高い。でなければ金融恐慌が発生するリスクが高まる時期においても株式資産を一段と積極的に買い集める行動を説明する事はできないからだ。
日経平均株価は2003年4月28日に7607円にまで暴落した。この時、俎上に載ったのは「りそな銀行」である。竹中金融行政はそれまで「りそな銀行」を破綻処理すると思わせていたが、最後の局面で前言を翻し預金保険法102条の第1号規定を活用してりそな銀行を公的資金で救済した。竹中氏のいわゆる「りそな疑惑」の核心部分だ。
このように「りそな銀行」が破綻処理でなく公的資金による救済となったため、株価は猛烈に反発し上昇していった。つまり竹中金融行政は「銀行をつぶす」という「風説を流布」し株価暴落を誘導する「株価操作」を行い、最終的にりそな銀行を救済処理するとの情報を米国金融資本に流して、日本株式を暴落値で買い集めさせその後の株価反発局面で巨大利益を獲得させた「インサイダー取引」に関与した疑いが持たれているのである。
この同期間に政府は平均コスト1ドル=114円で米国債を42兆円も購入した。為替のチャートを見るとその後円ドルレートは1ドル=124円まで反発した。この反発した局面で購入したドルは本来は売却しなければならない。米国では為替介入に対して、議会が厳しい監視の目を光らせている。為替介入で損失を計上すれば、政府は議会から強い非難を受ける。なぜなら為替損失は国民負担になるから国民の負託を受けた議員は、当然の事ながら国会で政府を事の顛末において厳しく追及する。ところが日本政府はドル上昇局面でもドル資産を売る気配すら見せなかった。国会議員もまた追及しなかったのである。
2007年6月末の外貨準備残高は9136億ドルだった。これが2011年6月末に1兆1378億ドルにまで増加した。この期間の増加は2242億ドルである。円ドルレートは2007年6月の1ドル=124円から2011年6月の1ドル=80円まで円高・ドル安で推移した。ドル購入の平均コストを仮に102円としておくと2242億ドルのドル購入代金は22・9兆円になる。
2007年6月末の9136億ドルの当時の円換算金額113・3兆円とこのドル購入代金を合計すると136・2兆円になる。他方、2011年6月末の外貨準備残高を1ドル=80円で換算すると91・0兆円になる。両者の差額は45・2兆円だ。この4年間に財務省の作為により45・2兆円の為替損失を生んだ事になる。
会社経営に例えてみれば経営陣が経営危機に瀕して必死で経費削減、減量経営を実施していた時に、財務部だけが内緒で財テクに暴走し、史上空前の大損失を計上していたのだ。
もう一度いう。国会は2兆円や6兆円の補正予算を審議し数千億円の高速道路料金無料化、子ども手当、高校授業料無償化、農家の個別所得補償などを論じているが、なぜ4年間で45兆円もの損失を計上した財務省の外貨準備資産の巨大損失を論議しないのか。
為替介入権は財務大臣にある。円高・ドル安が秩序なく進行する局面で為替介入を行う事は、一定の制約の中で許容はできる。しかし政府が購入したドルは、ドルが上昇した局面で密かに売却するのが当然の事なのだ。為替損失させた財務省の作為は明白だ。
円高を抑制する事は輸出産業の利益にはなる。しかしこの介入で損失が生まれれば、その負担は国民が負う事になる。つまり外為介入は現在の図式では一般納税者から輸出産業への所得移転をもたらす。換言すれば一般国民から徴収した税金を輸出産業に対する補助金として支出する事に等しいのだ。また日本政府のように購入したドル資産を売却せずに永遠に保有し続けるならドル資産購入のために支払った円資金は、米国政府への献上金でしかない。国民の血と汗の結晶である税金が国民に断わりもなく「宗主国」・米国へ「献上」された事になる。この金融循環を故吉川元忠氏は「新帝国循環」と名付けた。まさに財務省の官僚はこうした役割を無自覚にでなく自覚的かつ確信的に行っているのである。
日本の労働者民衆は、このような「新帝国循環」システムを断固糾弾する! (猪瀬)
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原発こぼれ話---「コンセントからの旅」
9月19日の6万人集会とデモ、会場内ではそれほどに感じなかったのですが、上空を飛ぶヘリコプターからの写真や最寄駅が人であふれていたという情報から、本当にたくさんの参加者だったんだと思います。デモも出るまでに時間がかかったし、終わってから新宿駅の陸橋から後続のデモを見ていたのですが、延々と続くので最後まで見ることなく帰途についてしまいました。
その集会のなかで、ハイロアクション福島原発の武藤類子さんが、何気なく差し込むコンセントの向こう側に原発があることを考えてほしいということを訴えました。同じようなことですが、オンブズマンの全国大会の大会宣言で「福島原発に東京電力を入れてほしい」という修正案がありました。私たちは何気なく「福島第一原発」と言ってますが、それは首都に電力を供給するための「東京電力福島第一原発」なのです。
関西においても同じように、関電の原発は福井県の若狭湾にあります。そこに住んでいる人々の葛藤、多額の補助金や雇用が一方にあり、もう一方にそれによって自治は歪められ、放射能汚染の危険と共存しなければならない、等々。しかし、プラグをコンセントに差し込めば、そんなことはお構いなしに電気を使うことはできるのです。
もちろん、これは電気だけではなく、消費者はそのものがどのようにして供給されているかなど考えてみようともしません。不買運動というものもありますが、それが大きな力を発揮するということもなさそうです。いまなら、原発の電力はいりませんと不買運動を行いたいところですが、電力独占のこの国では一般消費者にはその選択肢がありません。エネファームと太陽光発電の組み合わせとかを家庭に導入すればいいのですが、庶民には手が届きません。
この夏、孫娘を大阪市立科学博物館に連れて行ったのですが、そこに「コンセントからの旅」という展示がありました。これは目の前のロープ(電気のコード)を引っ張ると、コンセントの向こう側の映像がどんどん引っ張られてくるようになっているのです。なかなか優れものの企画で、子どもたちは興味に駆られて一生懸命引っ張り、変圧器や電柱、変電所からさらに先の高圧線が続き、野を超え山を越え、海に至ります。そこにあったのは原発のマークの付いた発電所でした。
まさに、武藤さんが訴えたコンセントの向こう側にあるものを映像化したものです。それをさりげなく子どもたちに覚え込ませる意図があるのでしょう。しかもこの施設、関電本社の前にあり、私は関電への抗議行動参加のついでに、プラネタリウムでもみせてやろうと孫を連れて行ったのですが、子どもたちはこんな風にごく自然に、電気は原発のおかげということを刷り込まれるのでしょう。
実際そこには、ひたすらのどかな風景があり、海があり、発電所があります。それはまるで楽しいハイキングのようです。電気がなぜそんなに長い道のりを経て届けられるのか、子どもたちに疑問を持たせないような仕組みになっているのです。コンセントの向こう側にある真実も、このようにどんなふうにも描けてしまうのです。見ようとしなければ見えない、見たくないものは見えないふりをする、この国ではまだまだそういう風潮が主流です。原発とはなんであるかをもっと多くの人々に知らせ、脱原発の流れを確かなものにしなければなりません。 (晴)
読書室 「闇に消される原発被曝者」樋口健二著 八月書簡 1700円
1981年4月に出版された本書が、3月11日の福島第1原発事故を受け、今年7月に増補新版されました。30年を経た今も、原発労働者の実態はなんら改善されていないことを本書は明らかにしています。原発被曝者が後を絶たないのは何故なのか? 被曝の事実を隠すことに必死になる電力会社の現場責任者・医師・裁判所の関係があったからなのです。日本中の原発を温存するためには、被曝労働者の存在が不可欠です。この電気業界の利権を守るために被曝者を闇に消す体制に、著者は報道写真家として原発被曝者を追い続けルポを書き続けた・・・。そこから何が見えてくるか、ページをめくっていきましょう。
@福島原発事故に思う
今回の爆発事故で、東電は500人の社員を現地に投入したと、テレビで報道されたことに、樋口氏は、こう私たちに疑問を投げかけます。
「私にはマスコミ受けのためのおためごかしとしか受け取れなかった。なぜかと言えば、通常の事故、故障、定期検査では、東電の社員が現場に入って労働することなど絶対あり得ないからだ。危険な作業はすべて下請け労働者任せできたのが当然のことであったからである。東電の技術者を投入したのは、下請け任せでは世間の批判を浴びると考えての方策だったに違いない。
それにしても、労働者たちは放射能うず巻く現場に行かざるを得ず、緊急時ということで、最初100ミリシーベルトであった作業員の被曝線量の上限は、250ミリシーベルトまで一気に引き上げられた。そして4月28日時点で、被曝線量か100ミリシーベルトを超えた労働者(東電社員を含む)が、すでに30人に達したのである」。
3月24日、福島第1原発3号機のタービン建屋内で電気ケーブルの敷設作業していた3人の下請け労働者が、170~180ミリシーベルトの高線量を浴び、病院に搬送されました。、その内2人の労働者は、くるぶしから下を直接汚染水に触れるという大変な事態になり、東電はマスコミを避けるために天幕を張り、事実を隠し続けたのです。この一連の被曝事故についても、樋口氏は、東電の危機管理能力のなさを指摘しています。
「それにしても、長靴も用意していない東電という会社の危機管理能力のなさは厳しく問われていい。・・・その後も労働者たちは放射能の充満する現場へ向かわなくてはならないのに、命綱ともいううべきアラームメーターや外部被曝計器の数が足りないからと労働者に持たせないばかりか、彼らに放射線管理手帳を渡さず、会社が一括管理して線量を勝手に記録していたケースなど、あきれるような対応ぶりが表面化しているが、人間の生命を軽視するにも程がある」。
病院へ送られた3人の労働者は診断の結果「被曝はしているが、低いレベル」とされたが、これまでのルポの経験から樋口氏は、間違いなくベーター線被曝によるベーター線熱傷と判断、かつてベーター線熱傷で苦しんだ故・岩佐嘉寿幸さんの姿がよぎる、と・・・。
A困難な被曝者探し−岩佐さんとの出会い
原発被曝者を探す旅に出ること決意した1973年11月、それは新潟県柏崎の地元の住民の学集会で、原発の温排水・漁業権の問題・放射能の影響などをスライドで見た衝撃だった。そして、講師の話が原発労働者の被曝の話になった時、樋口氏は釘付けになってしまった。旅の出発点はここだった。まずは、福井県の美浜原発と敦賀原発へ。しかし、誰も口を開いてくれない徒労の旅と終わった。そうしていると、1974年4月、大阪の岩佐嘉寿幸さんが(58歳)関電敦賀原発を相手取り、国内初めての原発被曝者裁判を大阪地裁に起こした。
岩佐さんは海南土木という小さな水道会社の従業員だった。しかも不断水穿孔という特殊技能を持っていた。敦賀原発からの依頼は、原発内の400ミリのパイプに50ミリの穿孔工事だった。当初の原子炉外へ持ち出し工事をする予定から原子炉内での工事の変更が、岩佐さんに大量の被曝を浴びせることになってしまった。5月27日の工事から、たった1週間後の6月4日に岩佐さんに被曝の症状が表れている。裁判にかける岩佐さんの思いを、樋口氏の取材(数えきれないほどの)から紹介しましょう。
「被曝者はわたし一人ではないと思います。今さら、私のことなど隠すこともできんでしょうが、企業の圧力や様々な事情で社会の表に出られない、隠された被曝者も全国に数多くおられるはずです。救済される見込みとてなく、医療関係、生活問題、補償にしても相談相手すらなく苦境にあえぎながら、一日一日を過ごしおる人々と手をたずさえてゆかねばと思い、昭和49年4月15日、損害賠償訴訟を大阪地裁におこしたんです。それと、労災不支給取り消しを求めて闘ってきたのです。・・・私だけでなく、被曝が原因でガンや白血病の病気で死んでいく、多くの原発被曝者を、私の闘いが救える道をみいだしていくと確信しています。勝訴を確信していますが、この裁判は、政府の原発推進政策、大資本、電力会社を相手にしたものですから、また、エネルギー政策の将来を占うものですから、たぶんに政治的判断が下されると思うので楽観することはできません」。
残念ながら、「岩佐訴訟」は1981年3月30日、全面棄却という判決で幕がおりた。しかし、岩佐さんの勇気にどれほどの人が救われただろうと思う。2011年現在、原発被曝者は40万人超という悲惨な数字が、すでに「安全神話」が崩れ去っていることを証明している。
B敦賀原発内部へ取材
何度もあきらめずに内部取材を申し込み、やっとOKが出たのは、原発の安全面を取材するという名目だった。どんな理由でもいいからと、内部へと入るが、常に監視付きで写真許可の出たところだけ、しかも自分のカメラは持ちこめず、フィルムは1本だけ、という制限付きだった。原発建屋内は黄服と赤服とに分かれており、樋口氏は「汚染区域」の赤服を着用。炉内の温度は28から30度、マスクをつけていない樋口氏でさえ、重い長靴で足を運び息苦しさを感じる。
「階段を上って2階に昇ると、耳をつんざかんばかりの工事音が鳴り響き、職員の説明など口元まで耳を近づけないと聞き取れない。そこで、異様な光景にぶつかった。狭い通路に赤服の重装備に身を固めた労働者達が、体を寄せ合ってびっしりと座り込んだり、横になって身動きもせず、ある者はうつろな目で、天上を見つめ、またある者は下を向いたままだ。息苦しさが、ひしひしと私に伝わってくる。まるで、空気の欠乏した宇宙にでもいるかのような雰囲気が脳裏をかけめぐるのだった。このように、空気が薄くては、『マスクなどつけちゃ働けん』という下請け労働者の言葉が現実的な実感であろう。いずれ、この人達も病気になり働けなくなるのかと思うと、私の背筋は冷たくなっていく」。
原発がある限り、下請け労働者の被曝はさけられない。密閉された異様な世界は現代の監獄職場とでも表現した方が的確であろうと、樋口氏はその実態を訴える。そして、忘れてはならないのは毎日、放射能が充満する職場で働かざるを得ない労働者が居ることを。
樋口氏の旅の話では、元炭鉱労働者のいる筑豊や過疎の地方では、地元に仕事が無くて、家族とはなれて遠くの原発へと出稼ぎに行かざるを得ないという。また、原発の定期検査や事故では、1000人規模の労働者が駆り出されるという。私は、何気なく検査と聞きながしていたが、こんなに多くの人による被曝労働が行なわれていたとは知らなかった。企業の経済成長を優先するために原発は必要とする主張は、原発被曝者の存在、福島の人達の生命を守ることを無視していることになるのではないか。樋口氏の旅のルポを是非、多くの人に読んでもらい、原発の存在そのものを問うことに、気づいてほしい。
(折口恵子)
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「読者からの手紙」・・・
節電に思う
前号(448号)のコラムの窓に、「節電で思ったこと」の記事が出ていた。
「節電」対策の一つとして、家の前の街路灯が消されていた。でも、特別暗くもなく消されていたことに気づかないほどであったと言う。
では、なぜこんなにも丁寧に街路灯が設置されているのか?電力会社の需要喚起に乗った「明るい町づくり」計画の過剰整備に使われているのではないか?と筆者は述べている。 実は私も同じような経験をしたので投稿した次第である。
地方の都市を歩いていたときに見かけたのが、この写真(節電の為、しばらくの間運転を停止いたします)である。
前にも歩いたことがある歩行通路なので、一生懸命思い出してみたら、以前は水がたまり流れていた場所であることを思い出した。歩行専用の通路の真ん中に、人口の小さな小川が作られ、水がどんどん流れていた。
その時、私も「そんなに多くの人が通らない歩行道路に、こんな過剰な整備(大量の電力を消費して水を流す)が本当に必要なのか?また、その歩行通路も大変立派な石造りで、こんなに贅沢なものを作る必要があるのか?疑問を感じていた。
今回のような、贅沢すぎる道路建設や不必要な小川造り等などは、全国各地でも見られる例だと思う。行政が進める過剰に無駄な街造りにおいて、私たちの税金が浪費されている。結局はゼネコンや電力会社の儲けのために過剰設備が建設されている実態。
私たちは改めて今日の生活の在り方を見つめ考え直す時ではないか。
東北の人々の地震・津波被害は甚大であり、放射能汚染は東北だけでなく東日本にも波及している。徹底的な除染をはじめとする早急な復興支援が必要となっている。
東北に多くの人たちがボランテイァ活動に出かけている。現地の被災者からも感謝の声が届いている。だが政府は本気で復興支援をやろうとしているのか?疑問を感じる。
野田政権は消費税などの増税でこの復興財源を確保しようとしているが、増税の前にまずは徹底した節税が必要ではないか?
9月に、埼玉県朝霞市の国家公務員宿舎の建設が始まったと言う。この宿舎の建設費は、105億円である。一方に、住む家がない、生活費がない、もはやこれまでと自殺者が出ている被災者が多数いるのに、なにが「検討の結果、建設必要」であるのか。
民主党の議員諸君、君たちの「事業仕分け」はどこにいってしまったのだ。被災者の皆さんに対して恥ずかしくないのか。
宿舎建設の当日、約40人の朝霞住民が「建設費用を復興財源に回せ」などを書いたプラカードを持って抗議したと言う。
今、こうした朝霞住民のような行動が東北の被災者支援につながるのだと思う。(小林)
9・11から10周年に思う事
この9月で、世界に衝撃を与えた9・11から10周年になりました。
9月2日のロイター・ニュースで、今までアメリカの当局者が隠し続けた情報が、一部暴露されていました。参考のために紹介しておきます。
[シカゴ 1日 ロイター] 2001年9月11日の同時多発攻撃で倒壊した米ニューヨーク市の世界貿易センター(WTC)ビルで救助にあたった男性消防士は、がんにかかるリスクが他の消防士よりも19%高いことが、医学誌ランセットに発表された研究で1日、明らかになった。
これは、約10年前に起きた同時多発攻撃で救助活動を行った消防士全員のがん罹患(りかん)率を調べた初めての研究で、この中には約1万人の男性消防士が含まれている。調査では、9・11後の最初の7年間にがんを発症した例を調べた。
消防士らは当時、崩壊したWTCのがれきに囲まれ粉じんが舞う中、救助作業を行い、多環式芳香族炭化水素(PAH)やポリ塩化ビフェニル(PCB)、ダイオキシンなどの発がん性物質にさらされた。
これまでの調査では、心的外傷後ストレス障害(PTSD)やぜんそくなどの呼吸器系疾患の罹患率が上昇することは分かっていたが、がんは発症するまでに5―20年かかることもあり、これまでは小規模な調査しか行われていなかった。
今回調査を行ったニューヨーク市消防局のデービッド・プレザント博士は「世界貿易センターでの作業が、がんの罹患率を上げていることは今回の調査で明らかとなった」と語った。
一方、米国立労働安全衛生研究所のジョン・ハワード所長は7月、9・11とがんの関連性を示す証拠は十分ではないとする報告書を提出。ぜんそくなど呼吸器系疾患は「ジェームズ・ザドロガ9・11健康補償法」の対象となっているが、がんは補償されていない。
プレザント博士は、今回の調査結果により、がんが同法の補償対象となるのに役立つかは分からないが、ハワード所長はこの結果を知っていると語った。
世界貿易センター(WTC)ビルで救助にあたった消防士は、がんにかかるリスクが他の消防士よりも高いと報道されていますが、実際は19%などの低いレベルの問題ではないといわれてきました。既に300人は死んでいるともいわれていますが、真実に迫る本当の報道はいまだにされてはいないのです。そもそも彼らが防塵マスクを付けないで活動していたかのような報道はナンセンスでしょう。
一機たりとも飛行機の突入がなかった第7ビルの倒壊を初めとして、ペンタゴンへの飛行機突入の映像もしっかり撮ってはいるものの公開されてはいないのです。
10年後に消防士達にがんの発生があるのですから、核兵器が使われたという仮説もまんざら嘘とは言えない状況ですね。この事実も9・11自作自演説の根拠となるでしょう。
今後とも9・11は、辛抱強く調べていきたいと私は考えています。 (稲渕)
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脱原発集会に参加して
ワーカーズに掲載されていた「すべての原発いますぐなくそう!子どもたちを放射能から守ろう! フクシマと全国をむすぶ9・23教育労働者交流集会」に参加した。
三月十一日以来、初めて福島県にきた。高速道路をおりて、福島市内に入るといつもは手入れされている雑草が伸びほうだいで、さびれた感じがしたものの、JR福島駅周辺になるとだんだんと小ぎれいな町並みにかわっていった。
阿武隈川が雄大に流れ本当に美しい町である。集会会場はこの川の畔(ほとり)にあった。しかし地元の労働組合員の方の説明では、高水準の放射線物質が地面に軒下に存在しているとのことであった。ちょうど川向こうの集落あたりからはかなりの線量が観測されており、避難する住民が少なくない、というショッキングなお話も聞いた。
* * * *
東日本大震災により、福島第一原発が外部電力の全てを喪失するという大事故を起こした。それは広島型原発の168発分の「死の灰」を放出し、しかも今も放出は止まらず、空と海と大地を汚染し続けている。放射能は人々の命をおびやかし、住む地を奪い、生活を破壊している。いまも県外避難三・六万人 失業四・六万人。さらに畜産業・農業・水産業の放射能被害については具体的な改善策がみつかっていない。
各報告者の発言で以下のような現実が明らかにされた。
第一原発二十キロ圏内は人が住めなくなり、当然学校も臨時休業状態で、子どもたちの教育の機会均等、教育を受ける権利が著しく阻害されている。
多くの子どもたちは元の学校に籍を置いたまま県内外の学校に転入した。そして被災者でもある教員が分散した生徒のために片道60キロ以上の通勤を強いられたり、家族と離れ単身赴任をして他の学校に「まがり」して劣悪な労働状態の中働いている。
さらに来年度に向けての教員採用試験がなくなり、県教育委員会に抗議していること。教員の加配のみの対応で掛け持ち業務を無理矢理押しつけていること。 また二十キロ圏外であっても平常値を大きく上回る放射線が飛び交う中での学校生活の開始は、現場管理職判断にゆだねられ、親も教師も大変苦悩したまま始業式が始まってしまった現実が語られた。
また、福島の教員の身分で隣接地域で働けますという方針は交渉の結果やっとかなっているという。東京・奈良の教育採用枠で福島県枠をつくり、5年間働いて福島に戻れるという枠など、試行段階ではじまりつつあるが、問題もすくなくないようだ。
* * * *
原発の事故処理もめどの見えない福島で、しかもすでに高い水準の放射線が飛び交っているなかである。危険が迫れば逃げだすという選択肢も自然なことである。だから教師たちの悩みはたいへんであろう。しかし、地元労働組合員の多くは、これからも地元で放射線と向かい合って生きてゆく決意を語っていたように思う。「寿命は少し短くなるかもしれない」さらに「お土産には福島の桃をどうぞ」と語った地元の発言者の言葉をわれわれも重く受け止めなければならないと思う。政府の「安全基準」を信用していることとは全く別の事である。
原発事故は、子どもの権利を侵害し、学ぶ権利、教育の機会均等も危ういものとした。さらに将来にわたる健康への不安を負わせた。この原発事故は福島県だけにとどまらず、東北全体いや日本のすべての人の生活に影響している。隣の宮城県のわれわれとて福島県民と同じような悩みを共有している。いや、食物連鎖という意味では、全国民が程度の差はあれ同様の被害を今後は被ると考えるべきであろう。その意味では、「安全地帯」は無い。将来にわたる放射能被害の軽減を東電・政府に求めつつ、全国民が脱原発に向けて立ち上がってゆくべきなのだ。
安全な原発はない。そこで働く人々の雇用を再生可能エネルギーへの転換の中で保証することは可能であろう。福島そして全国の原発をなくすことが、私たちの使命だと強く思った。(宮城からの参加者)
敬老の日のまんじゅう
9月15日、町内の方が敬老の日のまんじゅうを配って来た。どこからかと聞くと、大阪市からだと言い、上からいわれたとおり持ってきたと言う。
私は、魯迅さんの出関≠ノならって想像をたくましくした。まんじゅう(紅・白の二つ)にするか、真宗の塩こんぶにするか(こっちの方が、少々お高い)、議論になったかどうか知らないが、安い方にきまったのだろう。
こんなおまんでも、大阪市内の年より全部に配るとなれば大変なお金。おまんをぺチャぺチャ食べちゃえばおしまい。何かもっと必要なものに当てればよいのに、と思う人もいてもおかしくない。
一方、大阪府の知事さんときたら、国歌≠起立して歌わないのはクビ、とこれまた議論の必要なことなのに、いきなりバッサリとクビ、問答無用とバッサリとは解せないが。橋下氏よ! 説明されたし。国民ための国という実感は戦中・戦後を通して、もてなかったのだが、生活の中では・・・。年末にお芝居で「歌わせたい男たち」というのをやるから見に行く。 2011・9・16 宮森常子
「fさんからの手紙」
前にも申し上げたように、小生、大病を患い、医療費等が重くのし掛かり、窮迫し た生存を送っている身なので、しかし、購読もやめられず、できれば減額されればと
思うが、それも難しいと思われるので、3ヶ月分を今回も納入。脱原発や、情勢に突 き動かされての受動的反応とはいえ、労働戦線の奮闘、新たなコミュニティ構築の活
性化等、希望を託し、人間の根源的な生きんとする力強い意志に鼓舞されつつ、日本 社会は他の諸国人民の闘いのような決起連帯を実感させるものとはなっていない。関
西地区生コンユニオンを中心とした労働者の実力闘争が目立つが、市民大衆の政治的 自覚、意識を目ざめ、奮い立たせるには至らない。脱成長、公正、共同、分かちあい
の対抗的社会構想を大衆に実感させるための運動とは何か?どうすべきか?(F)>
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"ぶれる"メディア
9月26日、朝日新聞は思い出したかのように「新しい公共の政治へ──市民の力で政治を変える」という社説を大きく掲げた。
「新しい公共」とは、平成不況や格差社会が深まるなかで浮かび上がってきた理念で、2年前の鳩山民主党内閣も新政権の旗印として取り入れたものだった。要は、国家(中心主義)でもなく企業(中心主義)でもない、人々自身による集団性・公共性に依拠した社会づくりをめざしたものだ。
鳩山内閣が掲げたこのスローガンは、生産活動や企業に切り込むようなラディカルなものではないし、抽象的で修辞的なものに止まった。が、方向性そのものはアソシエーション革命の理念に重なるものだった。
朝日新聞は、鳩山内閣発足時には政治主導の確立や東アジア共同体構想に共感するのと同じ地平でこの「新しい公共」づくりを持ち上げてきた。
ところがその朝日新聞。新しい社会理念の戦略的な把握ができず、他の理念との並列的な共感を示してきたに過ぎない。なぜかといえば、福祉国家指向での増税と大きな政府路線も同時に指向し、最近ではむしろ「税と社会保障の一体改革」という財務省主導の増税路線を一貫して持ち上げ、後押ししてきたからだ。
増税と大きな政府による社会保障という枠組みでは、高福祉社会という一面では正当な要求も、増税という「大きな政府論」に絡め取られてしまう。増税による「大きな政府論」や「国家による社会保障」という観点は、結局は裁量権に基づく行政・官僚大国につながることを棚上げしたものだった。
関連性は不明だが、同日の朝日新聞にはワーカーズ前号でも取り上げた例の朝霞公務員住宅の問題が取り上げられていた。あの事業仕分けで凍結とされた首都圏を中心とする公務員住宅25件の現状のレポートだ。記事には、なし崩し的に解禁される公務員住宅建設の実情がレポートされている。庶民の目に見えないところで隙あらばとお手盛りに走る官僚の習性が浮き彫りになったというわけだ。
そこでハタと思い起こしたかどうか不明だが、「新しい公共」だという。
「税と社会保障の一体改革」とは、他の支出はそのままにして伸び続ける社会保障費は増税で賄う、という考え方であり、結局は増税を可能にする財務省の論理そのものである。
当然、大きな政府を指向する増税路線と住民自治を指向する「新しい公共」とは相容れない。目先の課題と長期的な目標という二元的な視点にも解消されるはずもない。根底では相容れないものだからである。それを交互の繰り出す朝日新聞のスタンスは、ご都合主義、場当たり主義のそしりを免れない。
「新しい公共」という目標の過程でも個々人の負担増はありうる。が、それは同じ負担を担う場合であっても、ボランティアやNPOの活動を拡大することであり、民間社会セクターへの拠出を指向することである。結果的に国民経済に占める政府の比重は縮小させるというスタンスである。
「新しい公共」をもっと深め、もっと肉付けし、「協同社会」への道を大きく前進させたい。(廣)
色鉛筆 やっと半壊認定
三月十一日の東日本大震災から半年、やっと半壊の判定を受けることができた。住居がある仙台市宮城野区は震度6強、未だ余震がつづている。地震発生直後の家の中は、足の踏み場もないくらい物が散乱していたが、家は無事だと思っていた。
しかし、長時間家の中にいるとたちくらみ、めまいが続き、体調不良かと思っていたが、実は地面が大きくひび割れて、基礎にひびが入り、家が傾いていた。津波で家が流された方のことを思うと、家が傾いたくらいで、被害申請するのは気がひけていたので、最初は申請しないでおこうかとも思った。しかし長時間家の中にいることも出来ず、住めないのでは困り、やっとの思いで罹災証明を申請した。申請から二ヶ月後、外からのみの黙視のみで一部損壊の認定書が届いた。一部損壊は義捐金給付の対象とはならない。
家をもとのように修理し住めるようにするためには、家ごとジャッキアップして土台をかためる作業をする。そのためにかかるお金は、約三百万円かかるそうだ。家のローンもまだ残っており、五十歳をすぎ下降気味の給料では、きついものがある。 二次調査依頼をし、京都市と神戸市の応援職員が来訪し、基礎部分のひびわれ、家の中のたてつけのわるくなった扉やクロスにある多くのひびわれをみて、半壊の申請がくだされた。ありがたくいただける義捐金は半壊以上で五十万円だそうだ。
土地が地割れしていても、土地や外壁は査定対象にはならず、建物のみ対象となり不思議な法律だと思う。また歳をいかれた方は罹災証明を手続きすることも大変だと思う。
この頃の宮城県の景色はあちらこちらで一軒家・マンション・アパート・公共・商業施設や道路の修理がはじまっている。新たに出来たがれきの山脈も少しずつ片づけられている。復興は遠いけれど、負けないぞと文字が刻まれたTシャツを着て、歯をくいしばりがんばっている人はいっぱいいるし、多くの人と人が支え合って生きていると思う。 しかしまたまだ多くの問題も蓄積している。少しでも暮らしやすくなるように、周りの人と協力しあい私の出来ることを社会に訴えていきたいと思う。 (弥生)
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編集あれこれ
前号は10ページの紙面でしたが、読者からの手紙が4つもありました。非常にうれしいです。
前号1面は、「原発推進派の巻き返しを許すな! 9・19さようなら原発 1000万人アクションに参加しよう」と題する、9・19脱原発集会への呼びかけ記事でした。
このような中、9・11東京での脱原発集会で12名もの逮捕者が出ました。本当に腹が立ちます。しかし、いい動きもあります。以下9月26日、共同通信の記事より。
『中部電力浜岡原発の10キロ圏内にある静岡県牧之原市議会は26日午前の9月定例議会本会議で、同原発について「東海地震の(想定)震源域真上に立地しており、確実な安全、安心が将来にわたって担保されない限り、永久停止すべきだ」とする決議を賛成多数で可決した。同市や、浜岡原発がある御前崎市を含め、中部電と安全協定を結ぶ10キロ圏内の4市で永久停止を決議するのは初めて。』
2・3面は野田新内閣の大増税路線を批判する記事です。震災復興や原発事故の補償にお金がかかるというものですが、当初民主党は無駄を省けば財源はいくらでも出てくると言っていたのではないでしょうか。米軍への思いやり予算、八ツ場ダムを初めとする無駄な事業、原発予算等無駄を徹底的に省いてほしいです。
4面は、連載第1回「戦後66年・日米安保60年を考える」と題する記事で、1951年の日米安保条約締結時、条約の原文は式典の始まるわずか2時間前に新聞発表があり、みんな安保条約が結ばれることを知らされていなかったと言います。日本の形式的独立です。
5面は、コラムの窓で「節電で思ったこと」と題して、電力の使い方について述べています。なかなか読みごたえがありました。6・7面は、第18回全国市民オンブズマン大会の報告記事です。原発立地自治体の情報公開請求が、当該市民以外できないところがほとんどであるという問題点が明らかにされました。それと、原発差し止めの裁判を全国でやっていこうとの呼びかけもありました。
7面は、9月10・11日に行われた原発集会の報告記事です。前号も原発関連の記事が多かったですが、紙面の多面性から言えば他の記事がもう少し多くてもいいと思います。 (河野)
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