ワーカーズ450号 2011/10/15
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脱原発へ! 全力で取り組もう 強者の支配からの離脱を!
脱原発を求める世論が多数派となったと言われているが、本当だろうかと怪しむ。東電福島第一原発の原発震災は、一刻の猶予もなくすべての原発を停止しなければ、第二の原発震災を招くことを示した。地震の活動期に入ったいま、日本列島において原発を安全に動かせるところはなくなったのである。
にもかかわらず、脱原発を求める世論にあっても、大多数は穏やかな原発からの撤退を求めている。そこには事故さえなければ原発は有用であるという誤った認識がある。また、原発なき社会を受け入れることができないという先入観がある。しかし、原発は安全に動いていても使用済み核燃料の処理ができずに溜まり続けるし、つい一世代前には原発などなかったのである。
それにしても、かくも過酷な原発震災が発生したにもかかわらず、なぜ直ちに′エ発を捨てられないのか。事故直後の政府や東電の対応、マスコミ報道が事故を小さく見せかけ、放射能など怖くないという誤った認識をより強固に植え付けてしまった。さらに、計画停電や節電などという電力足りないキャンペーン≠ェ功を奏し、直ちに′エ発は捨てられないという多数派世論形成に至った。
沖縄に米軍基地を押し付けているように、原発は過疎地に押し付けられている。東電にあっては、原発稼働の恩恵は首都圏が受け、その危害は福島が負う。多数派の利益のために少数派が不利益を甘受する、この社会に長く根付いた悪弊だ。少数派には劇薬が投げ与えられ、生活の根っこから縛りつけられている。その結果、事故後も原発推進派の首長が再選されている。
こうして、原発と縁を切ることができない状態が続こうとしている。かくも非人間的な状態を強いている巨大な力、それは経済的・政治的な支配勢力である。これと一体となった司法、学会、マスコミがフクシマを出現させ、その地の人々を苦難に陥れた。これら勢力を許さず、責任を取らせることなくして、脱原発は実現しない。
変ってしまった世界のなかで、誰もがその位置に応じた責任を負わなければならない。無責任を決め込むことはできない。福島の人々の苦難を少しでもちいさくすること、第二のフクシマを出現させないこと、脱原発に全力で取り組もう。 (折口晴夫)
「トモダチ作戦」の真実とは何か
「トモダチ作戦」の正式名は「太平洋有事519作戦」
私自身すっかり騙されていたのたが、9月13日の「しんぶん赤旗」で元朝日新聞編集委員の石川厳氏が語った事によると、米軍が行った東日本大震災の救援活動「トモダチ作戦」の本当の姿とは、「太平洋有事519作戦」という軍事作戦だったという。
アメリカ太平洋軍(ハワイ)は、東日本に大地震と大津波が発生した直後、横田米軍基地に司令部を設置して米韓軍事演習に向かう予定だった空母を三陸沖に移動して、また空からは被害把握のための偵察飛行を行い深刻な津波被害に遭った仙台空港を、あたかも有事想定下の民間空港の奪取をめざした作戦のように特殊部隊を急行させ、空港での離発着可能にした上で、気仙沼等の救援には東南アジアから急行した沖縄の海兵隊が、揚陸作戦演習を目的とした仙台上陸を果たすなど、まさに軍事作戦訓練そのものであったのである。
この作戦は、アメリカの太平洋軍の第519司令部が行った作戦で、地域の突然の有事や災害に備える狙いで有事版と災害版があり、今回は災害版の作戦展開であり、有事版と災害版とは、実際に爆弾や砲弾を使用しない事に違いがあるだけなのである。
このように東日本での災害「救援活動」という名の下に、実際には大規模な「軍事作戦」訓練が展開されていた。日本政府は、この事を認識していたのかどうかは分からないが、日本のマスコミはこの有事訓練を「トモダチ」作戦と一貫して美化してきたのである。
石川氏は、この事実を月刊『軍事研究』(9月号)で暴露した。彼が「トモダチ作戦」の名称に疑問を感じたのは、津波で水没した仙台空港の機能を復旧したのが、彼自身が昔から取材してきた沖縄・嘉手納基地駐屯の悪名高い第353特殊作戦航空群(夜間の隠密作戦が多いので《コウモリネコ軍団》の異名を持つ)だと知ったからであった。
彼の調査によれば、大地震と大津波発生直後、東京:横田の在日米軍司令部内に“災害救援統合司令部(JSF)”の名でスタートした。これが“太平洋有事519司令部”だった。当初、指揮官は在日米軍と第5空軍司令官を兼ねるフィールド空軍中将だったが、決まりどおりハワイから 太平洋艦隊司令官のウォルシュ海軍大将が第519司令部要員90人と共に乗り込み、3月24日から在日米軍の実際の指揮をとった。
そして米韓演習に向かう途中だった空母レーガンを三陸沖に転進させたのをはじめ、米軍は総力を注ぎ込んだ。そして嘉手納の《コウモリネコ》軍団は演習に行っていた韓国から 地震・津波当日の3月11日には横田へ飛んできた。この軍団は数日を偵察飛行にかけ、16日に特殊作戦機MC−130コンバットタロン、同コンバットシャドーの部隊が仙台空港の離着陸を可能にした。彼らの任務は紛争地での民間空港の奪取と特殊部隊の投入である。この数年間、薩摩半島や屋久島空港などで猛訓練をやっていた。また在沖海兵隊は演習先だった東南アジアから日本へ急行して、4月1日には気仙沼等の救援のための揚陸作戦を実施した。これは彼らの「見せ場がほしい」との要望から出たものであった。
「トモダチ作戦」は「日本再占領」作戦
さらに4月5日までに大量破壊兵器(NBC兵器。核兵器・生物兵器・化学兵器)対策などを専門とする海兵隊の特殊部隊であるCBIRF RF(化学生物事態対処部隊)が到着した。4月6日までに「トモダチ」作戦は、被災者の捜索・救援の段階から、国家中枢を押さえて、福島第一原子力発電所事故への対応や復興支援の段階へ移行したのである。
4月6日、アメリカ合衆国連邦政府は、アメリカ軍が展開した「トモダチ作戦」の予算が最大八千万ドル(約六十八億円)である事を、クリントン国務長官を訪日させて日本政府に伝えた。こうして現場での「トモダチ」作戦は4月30日にほぼ終了した。たしかに米軍の働きは「めざましいもの」があったが、危機に遭遇した時に「トモダチ」といいながら近寄ってきて感謝されつつも、その後日本に勘定書を突きつけにきたのには、「トモダチ」とる行動とは真逆の立ち居振る舞いであり、私達は全くもって驚く他はなかった。
かくしてこの流れの中の一環として、3月中旬以降、「ワーカーズ」に掲載されていたように、首相官邸には国際原子力機関(IAEA)のbRであるアメリカ人のD・B・ウォーラー氏が、福島第1原発には核戦争・化学戦争の専門家である米国軍人であるランス・ガトリング氏が常駐していた。そして7月には、この災害で自衛隊と共同行動を取った実績を背景に、今後の必要とされる実働部隊の司令塔として朝霞駐屯地への米海兵隊の常駐が現実となったのである。
この一連の事実経過を見れば明らかなように「トモダチ」作戦とは、大災害等に覆い隠されてはいたが、内実としては「日本再占領」作戦だったともいえるのである。(直木)
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国家信用危機が生み出す新しい負の連鎖
7月末以来、世界同時株安、ドル・ユーロ安という事態が進行している。その背後に存在するものは、グローバル資本主義のさまざまな矛盾の蓄積である。
@08年の世界経済恐慌がまだ一巡していない可能性がある。A先進国も巻き込む「ソブリン危機(国家信用危機)」という新たな事態の裏には国家財政危機が拡大している。
* * * *
まず、破壊力を増す周期的恐慌について述べなければならない。というのも、商業新聞や経済評論家がそれをほとんど無視しているからである。
初めての「世界経済恐慌」は1825年に明確な形で発生したとされている(マルクス)。以来、経済恐慌は、変形や強弱をもちつつも資本主義経済の根本的矛盾の爆発であり、資本主義経済が他の社会システムに取って代わる他は無いなによりの証拠なのである。そのことをわれは今再確認できるのではないか。
戦後の世界恐慌は、74〜5年(第1次オイルショック)に本格的に爆発した、80年前後(第2次オイルショック)、そしてバブル経済後の90年を前後して(ややばらけて)リセッションが襲った。しかし、想定された2000年前後の経済的後退は日本ないしはロシアなどに限定され、「世界恐慌」の爆発として矛盾の解消が実現されなかった。
そして記憶に新しいところだが08年に、米国サブプライムローンの行き詰まりに端を発する信用崩壊が戦後最大の恐慌の爆発をみちびいたのである。それは巨大証券会社・投資銀行であるリーマンブラザースを破綻に追い込み、典型的な信用恐慌の大暴風雨として世界の資本家を震え上がらせたのであった。
* * *
今回の景気後退=世界同時株安は、この恐慌の「余震」といえるのかもしれない。いずれにしても、先進国をはじめ多くの国家がリーマンショック以降の「経済対策支出=財政出動」を増大させた結果、以前にも増して巨額な財政赤字をかかえ、それらの国家の国債の信用が動揺を開始したとい悪循環にはまり込みつつある。ギリシャ、アイルランド、ポルトガルばかりではなくスペインやイタリアも弱気の銀行や投機筋の標的にされかねず、すったもんだの末ドイツを中心にEUとIMFが80億ユーロの金融支援を準備している。
このように、世界株安=景気後退に直面しても世界各国は大胆な「財政出動による景気浮揚策」をとれずにいるばかりでなく、巨大化した財政赤字が欧州を中心に「ソブリン危機(国家信用危機)」という新たな信用不安の原泉となっていることが――皮肉を交えれば――画期的な今回の特徴といえるであろう。
しかし、資本主義は自動的に他のシステムに置き換わるわけではない。変革の主体である労働者勤労者の闘いと、新たな体制の「受け皿」としてさらに多数の労働アソシエーションが創発される必要があるのだ。
(阿部文明)
めざそう!共助型社会−− 「新自由主義」でも「大きな政府」でもなく
野田内閣が発足して、臨時国会では大震災からの復興策が議論された。そこでは復興債の償還財源をめぐって、増税派と経済成長派という"対決軸"が演出された。
これまでも何かにつけて繰り広げられてきたこうした"対決軸"。双方に取って代わる第三の道を踏み出すべき局面ではないのだろうか。
◆対立軸?◆
野田内閣は、震災の復旧・復興などを柱とする第三次補正予算を固めた。その場面では既存の予算の見直しにはほとんど踏み込まず、復興債の発行による財源の確保という点で自民党などもほぼ同じスタンスに終始した。
"対立"したのは復興債の償還方法だ。民主党は現役世代による復旧・復興を強調し、「将来世代にツケを回さない」として増税による償還を押し出した。対する自民党は、増税による景気後退などを根拠として、長期国債の発行で賄うべきだとし、目先の増税を回避する立場を押し出した。もともとは同じ増税派なのに、だ。
共産党は、大企業や富裕層への増税による財源捻出を主張した。その主張には、民主党政権のスタンスが庶民増税に偏っている事への批判的な観点が含まれてはいるものの、経済政策の長期的な展望はさほど語っていない。
二大政党の民主党と自民党の対立は、かつて自民党内部で繰り返されてきた「新自由主義」と経済成長を目指す「上げ潮派」の対立の延長線上のものともいえる。
自民党の立場は、政府のテコ入れによる経済成長を待って償還財源にする、というものだ。これはこれまでも繰り返されてきた論理で、結果的にはずるずると国と地方の借金を膨らませてきた。こうした考え方は、いわゆる政府による経済へのテコ入れを重視するもので、民主党にも少なからず同調者がいる。
野田内閣の立場は、国の借金を減らしていくという財政規律重視の立場だ。これは現役世代の責任、自己責任重視の論理でもあり、コスト削減による経済成長論でもある。こうした立場は、これまでは多国籍企業優先の格差社会をもたらしてきた新自由主義にも重なる。
とはいえ、予算の組み替えではなく、増税による民間セクター縮小と国家セクターの肥大化という"大きな政府"を指向する立場でもあり、新自由主義的立場を一貫させたものでもなく、むしろ財務省的発想が色濃いものといえる。むろん、自民党内部にもこうした立場に同調する者も多い。
◆窮民化◆
まず自民党が主張する「財政のテコ入れによる経済成長を待って復興財源を捻出する」という立場を考えてみたい。
自民党の主張は、大震災と原発事故で疲弊している状況の下で増税を強行すれば、消費を冷え込ませてなおさら景気低迷を招き、目的に反して税収も上がらない、というものだ。
確かにゼロ成長の現状の下、大震災や原発事故で将来の生活不安を抱えた買い控えなどで消費は低迷している。そこに購買力の低下をもたらす増税を行えば、景気低迷をもたらすのは目に見えている。97年に消費税率を5%に引き上げた橋本内閣の時も、翌年以降、税収は大きく落ち込んだ。
しかし、長期にわたる自民党政権のもとでの成長局面では、税の自然増収があっても国の借金を減らそうとはしなかった。逆に景気後退期には、巨額の財政資金の投入で産業界のために需要をつくり、あわせてゼネコンや農村票目当てのバラマキ政治を重ねて国の借金を膨らませ続けた。今回も"景気回復を待って増税"論が、説得力を持たないのは目に見えている。
一方の野田内閣の立場はどうだろうか。
2年前の政権交代以降、鳩山、菅、それに野田内閣の経済政策は、一面ではそれぞれの特徴を打ち出してはいたものの、基本的には自民党時代の成長戦略を踏襲したものだった。鳩山内閣は「新しい公共」「東アジア共同体構想」、菅内閣では「強い雇用・強い社会保障」などだ。しかし実情は、産業界の要請を受けた経済の成長戦略をずるずると追い求め続けた。鳩山内閣の中国・アジアにシフトした経済の拡大、菅内閣での原発輸出などによる経済成長路線だ。双方とも自民党時代と同じような、国内市場より海外市場を目当てにした外需中心の経済成長路線だった。
こうした道は産業界の要請にただ応えるだけで、多国籍企業などが潤えば国内の下請け会社や労働者などの「経済の下流」も潤う、という産業界の方便に依拠するものだった。しかしそうした詭弁は、この10年・20年の格差社会の深まりで根底から崩れているのが実情だ。
というのは、外需中心の経済成長構造そのものが、下請け単価や非正規雇用の拡大など企業コスト引き下げを前提としているからだ。そうした経済構造のもとでは、産業界の頂点が潤っても、その恩恵は下流には届かない。だから企業は史上最高益を上げ続けても下請けコストや労賃は低位に抑えられ続け、国内需要を当て込んだ投資も停滞して企業にお金が貯まり続ける、といった事態が生まれるのだ。企業が貯め込んだお金や国内の生産部門に投資先を見いだせない庶民の貯蓄が世界の金融商品に流れ込むことで、あのリーマン・ショックや最近のギリシャの破綻をはじめとしたユーロ危機に波及しているのは見ての通りだ。
経済のグローバル化が進んでいる中、外需中心の経済成長を追い求めていけば、低賃金・低コストを武器に拡大し続ける中国やインドなど新興国との競争は避けられない。その競争で生き残るためには、賃金や下請けコストなどはそれらの国のレベルまで延々と引き下げ圧力が働く。
こうした新自由主義的な成長戦略そのものが国内の市場縮小や格差社会を招いていることは、この20年の経験で明らかだ。それを続けても、生き残るのは限られた多国籍企業だけであり、国内の下請けや労働者にとってはまさに窮民化路線に他ならない。
◆共助型経済へ◆
財政のテコ入れによる景気拡大や新自由主義的な外需中心の成長路線は、すでに双方とも壁に突き当たっている。ではどういう経済モデルに取って代わるべきなのだろうか。
一言でいって、利益至上主義の市場型経済ではなく、共助型の経済モデルだ。協同組合型経済といってもいい。利潤を追い求めて極限までコストを下げる、といった企業モデルから、必要・需要に応じた生産や流通構造への転換をめざすことでもある。
めざすべき経済モデルを念頭に置けば、実際の経済・社会政策の場面での選択肢も提示可能だ。
たとえば新しい市場でもあり新しい雇用の場として期待されている介護や看護の業界。期待された規模と質を実現できないのは、ひとえに看護・介護の社会的な価値が認められないからだ。無償労働から有償労働に変わってきた看護・介護分野だが、何せ過酷な仕事に追われているのに低コスト・低賃金を強いられ、従事者が集まらない。財政からの助成も抑えられる傾向にある。
成長戦略では、研究開発減税や円高対策など、大企業に巨額な財政資金が投入される。そうした支援を看護・介護に回せば、業界自体が格段に拡大し、サービスの質や報酬も向上する。病気や老後の不安が少なくなれば、人は安心して目先の消費もできるのである。
同じ事は、巨額の財政が投入される中小企業対策や農業対策、それに企業への助成に偏っている雇用対策事業にも当てはまる。そうした助成を中小の協同組合や営農組合などの農事法人や消費者と生産者が協同出資する自立型事業体の助成に振り向けるべきだ。そうすれば、利益至上主義の経済セクターから共助型の経済セクターへの転換も進み、殺伐とした市場原理に基づく経済セクターの縮小へと向かうはずだ。
東日本大震災に見舞われた地域でも、農産品などの地場産業で消費者も協同出資した生産者との共同事業体の試みも各所に見られる。企業への漁業権の開放が議論された漁業でも、個人漁業者による旧来型の漁協体制ではなく、漁船の共同購入など本来の協同組合化による再出発の試みも拡がっている。単なる復旧ではなく、新しい共助型経済への可能性は、いま広がりつつある。
今問われているのは、まさに成長か財政再建かというような対立軸ではなく、市場原理のうえで拡大再生産を続けていかなければ倒れるという自転車操業か、それとも共助・協同原理にもとづく消費者と生産者の関係全般の再構築か、ということにあるのだ。
◆時代の要請◆
こうした社会システムの転換のためには、働く側の発想の転換も不可欠だ。
いま働く人々は、ともかく現状の生活レベルを維持することを最優先とした「働き過ぎ社会」を余儀なくされている。日本特有の長時間労働は解消される兆しもなく、「過労死」や「過労自殺」も後を絶たない。
いま、そうした「会社人間」生活は見直す時期に来ている。要は労働時間の短縮だ。各人の労働時間の短縮は、新たな雇用をもたらす。当然、個々人の消費生活のレベルは落ちるかもしれない。が、雇用での水平化は、正規雇用や非正規、また親企業や下請け社員など、労働者相互の格差構造の解消にもつながる。総就業社会では失業保険などの社会的コストも減らせる。
それに、たとえば夕食時には家族と一緒に食卓を囲める、休みの日には子供の相手をしてやれる、時には近所にハイキングやピクニックに連れ立つ。こうしたささやかな生活の価値を再発見する必要がある。
いま世界では生活レベルでの比較の物差しとして、GDPなど物質的な生活レベルではなく、「"幸福度・満足度」などといった指数も注目されている。生活の質や満足度は、なにもお金だけでは測れないのだ。あの東北大震災では、人間に生来そなわった助け合い・共助の取り組みが至る所で繰り広げられた。
こうしたたぐいの例証はいくらでも上げられる。少し発想を変えただけでも、拡大至上主義の競争社会とは別な世界が目の前に見えるはずだ。
面積で世界の0・25%で人口は2%足らず、相対的に縮小しているとはいえGDPで世界の一割弱を占めているという今の日本。低賃金を武器に世界の工場として追いつき追い越せとばかり成長してきた高度経済成長期の経済モデルの結果だ。しかし、こんな時代が永遠に続くと考える方がおかしい。現にそれができなくなったことの例証が、この「失われた20年」なのだ。いまそうしたかつての日本の位置にいるのが中国やインドなどで、やがてはそれらの国も後発国に追い上げられるだろう。
いつまでもかつての経済モデルを追い求めるのではなく、時代が求める経済モデルへの転換こそ見据えるべきではないだろうか。それらはアソシエーション革命につながる話でもある。(廣)
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色鉛筆・・・ここにも「米軍再編」という名の暴挙・・・・・岩国で見たこと
2006年3月12日、岩国で「厚木からの空母艦載機部隊の岩国への移駐の賛否を問う住民投票」が行なわれ、58.68%の投票率で成立。開票の結果、87%(全投票資格者の51.3%)の反対票が投じられた。同年4月の市長選でも圧倒的な得票率で「白紙撤回」を公約に揚げた井原勝介前岩国市長が当選した。
こうした2度に渡る岩国市民の民意は、その後の日米両政府によって踏みにじられた。この後の5月1日に日米安全保障委員会(2+2)において、米軍再編「最終報告」に合意し、5月30日には閣議決定。その後はお定まりの政府による「地域振興策」というアメとムチが振りかざされ、地元住民はズタズタにされてしまった。綿帯橋と昔の町並みが美しい城下町で、例えば基地に反対する家の子どもに、賛成する家の子どもが「非国民!」と呼ぶなど・・・。
こうした過程の後、2010年4月15日に、基地の新滑走路とその関係施設が日米合同委員会において米軍に提供され、5月29日に新滑走路の運用が始まった。そもそもは『騒音や墜落の危険を回避するため』という名目で、新滑走路を1q沖合に移設したもので、何千億円という思いやり予算が投入され、美しい藻場や干潟は埋め立て地の下に永遠に消されてしまった。「地元の負担軽減」という言葉とは裏腹に、山はけずられ美しい海は埋め立てられ、空には以前よりもっと大きな爆音が響きわたっている。
今まで市民が自由に出入りすることのできた海岸道路は、基地拡張によって失なわれ、替わりに「パブリックアクセス道路」なるものが出来ている。9月の晴れた日に、地元の人の案内でここに行った。道路の片側は、穏やかで美しい瀬戸内海。大小様々な島が浮かび対岸の山々の緑と共に、本当にすばらしい眺めだ。しかし真近な海上には米軍艦が止まり、万葉集にもうたわれたという美しい小島は、爆弾処理のためにもとの3分の1の姿にされ無残に土をさらけ出している。道路の反対側は見上げるほど高い屏が切れ目なく続き基地内を見ることはできない。屏の上の有利鉄線は、直線とらせん状と二重に張りめぐらされ厳重なことこの上ない。
道路には戦闘機を写そうと待ち構えている車輌がびっしり並び、ドライバ−は一様に望遠つきのカメラを持っている。彼らは、やがて米軍機が飛び立つとの情報が流れるとにわかに活気づきカメラを構えた。米軍機はパイロットの姿が地上の私の目からも見えそうな距離を、巨大な爆音を響かせ飛び立って行った。その爆音と不気味な機体に思わず鳥肌が立った。人殺しの訓練のためにこんな美しい海や空を飛んでいるのだ。
「米軍再編」だの「負担軽減」だの「地域振興」だのという言葉に騙されまい。さらなる基地機能の拡充強化だけが目的なのだ。人々の暮らす土地や空も海もどこにも軍隊は要らない。そうした強い意志を持った粘り強い長い長い闘いが、沖縄を始め全国のあちこちで取り組まれている。激しい爆音や危険の下で。心に深くとどめておきたいと思う。(澄)
シリーズ「戦後66年・日米安保60年を考える」
★第2回・・・「サンフランシスコ平和条約・第3条問題」
前号では、1951年9月8日の「サンフランシスコ平和条約」とともに結ばれた「旧安保条約」締結に関しての問題点を取り上げた。
ところが、この「平和条約」締結に関してもう1つ大きな問題があった。
それが「第3条」問題。余り知られていないが、51年に締結した平和条約の「第3条」項目によって日本政府は、沖縄(奄美・小笠原諸島も含むが)を切り捨てて米軍に譲り渡して、本土だけが独立を果たしたのである。
その「第3条」は次のように書かれている。
「第三条:日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む)、霜婦岩の南の南方(小笠原諸島、西之島及び火山列島を含む)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権利の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。」
ようするに、信託統治制度が提案され且つ可決されるまで、米国は沖縄を占領し続けると言うことである。
日本は平和条約を締結し7年間にわたる米軍占領から解放され独立したが、沖縄はそれ以後27年間も「米軍占領下」のまま放置された。
沖縄にとっては日本から切り捨てられた訳であり、それは大変大きなショックであった。その衝撃について元沖縄県知事の太田昌秀氏は著作『醜い日本人・・・日本の沖縄意識』(岩波現代文庫)で、次のように述べている。
「日本人は醜い・・・沖縄に関して、私はこう断言することができる。1952年4月28日に発効した講和条約に、日本政府は、吉田茂首相の言葉が示すように『欣然として』調印した。沖縄の人びとは、沖縄を分断してはくれるな、と有権者の72%におよぶ署名を集めて政府に請願したが、完全にその意思は無視されてしまった。そのため、沖縄では、講和条約が発効したその日を『屈辱の日』として、毎年、組織労働者たちを中心に抗議デモをくり返してきた。」
そして、本土国民に次のように訴えている。
「沖縄住民が、何度もくり返して本土の日本人に要望していることは、ぜひもう一度ふり出しに戻って考えてもらいたい、ということである。すなわち、本土政府と国民が、対日平和条約において、沖縄96万の住民の意思を問うこともなく、本土自体の独立をあがなう代償として、沖縄県のみをその住民もろとも異国に譲り渡してしまったということだ。したがって、沖縄問題は、決して単なる沖縄県のみの問題ではなく、本質的に『本土問題』であり、日本国民すべてが解決に当たるべき問題だということである。」
この沖縄切り捨てに関して、マッカーサーに大きな影響を与えたのが1947年の天皇メッセージであると言われている。
1979年、筑波大学の進藤栄一教授が雑誌「世界」に「分断された領土」と題する論文で発表したものである。
昭和天皇が側近を通じてマッカーサー司令部に伝えたメッセージとは。
「天皇は、沖縄にたいする米国の軍事占領は、日本に主権を残したままでの長期租借−−25年ないし50年、あるいはそれ以上−−の擬制(フィクション)にもとづくべきであると考えている。」
沖縄の人たちは、戦前の「琉球処分」(琉球王朝の廃止とヤマト・沖縄県への併合)とともに、戦後の「屈辱の日」(この1951年の平和条約・第3条による沖縄の切り捨て)を決して忘れてはいない。
今日の沖縄問題を語るとき、私たち(特にヤマトの人間)は、「沖縄問題は、決して単なる沖縄県のみの問題ではなく、本質的に本土問題である」ことを、しっかり認識する必要がある。(富田 英司)
紹介・・・ 浜崎あゆみのライブに行く
先日、娘の付き添いで浜崎あゆみのライブに行って来た。あゆのファンである娘は毎年ライブに出かけているが、今年も4月9日の埼玉ス−パ−アリ−ナからツア−が始まる予定だった。ところが、3月11日の東日本大震災により、仙台公演が開催できなくなり、埼玉ス−パ−アリ−ナが避難所となってしまった。4月9日の開催に向けて準備をしていたが急きょツア−タイトルを変更し、ツア−内容も変え5月7日広島から「POWER OF MUSIC=音楽のチカラ」いうタイトルで幕開けしたということを娘から聞いた。また震災後、あゆはツイッターを通して震災の情報を流したり、義援金を高額寄付したり、チャリテイーTシャツをデザインして収益を義援金にする活動を行い、私も娘と一緒にTシャツを購入した。さらにあゆのグッズの収益も義援金にするなど、資産をたくさん持っていながら何もしない政治家に比べれば社会に貢献しているのだ。5月7日からのライブでは、昨年まであったトークをやめたり衣装がえを少なくして節電を心がげたようだ。私が行ったライブも本来は4月30日に行われるものだった振替公演で、まさか私があゆのライブに行くとは夢にも思っていなかった。
当日会場の外ではあゆのグッズ売り場に長蛇の列ができ、娘がお目当てのグッズを買いに行く間私は座りながら周りを見ると、20代から30代の女性同士のグループが多く比率的には男性は少なく、いても一人か二人という少人数で女性と男性の違いを感じ、私と同年代だと思われる人たちがいると安心したりした。会場に入ると大勢の人たち(約1万5千人)が会場を埋め尽くし熱気が伝わってきた。10年前にも幼い娘の付き添いであゆのライブに来たが、すべてが進化していることに驚いた。まずステージが会場の真ん中にあるのでどこからもよく見え、四方の上に大きなスクリーンがあるので出演者の表情がよく見え、映像を使って雰囲気を盛り上げたり、歌詞の字幕も出るので全員で大合唱になって一体感が生まれ、音響、照明などすべてのものがすごかった。娘によるとこのステージはあゆの特設ステージでどの会場でも使われているという。また、あゆだけではなくダンサーたちのエネギルシュな踊りや、新体操メンバーによる技、ドラム、ギター、サックス、オーケストラなどの音に魅了されてしまい、観客を飽きさせない演出のすごさも感じた。
あゆがステージの真ん中の下から出てくると会場は大歓声に包まれ、「あゆー」「あゆー」と大きな声がとび我が娘も叫んでいたが、日頃の生活のうっぷん晴らしもあるのだろうか。そして歌が始まると会場の中がピンクのペンライトが動き始めなんときれいなこと、全員がひとつになって歌う会場はエネルギーが湧き出てくるようで、若者たちのパワーを目の当たりにして、いつの間にか私もペンライトを動かして一緒になって歌っていた。歌い終わるとあゆの顔が大きくスクリ−ンに映し出されると、必ず周りから「かわいいー」という声がどこからも聞こえてくる。彼女たちにとってあゆは遠い存在ではなく隣にいる友人のような気持ちになってしまうようだ。ライブの最後の最後にあゆがアカペラで「ありがとうございました」と大きな声で言って頭深くお辞儀する姿が印象に残っている。
ライブが終わった帰り道、興奮が冷めない私は「私にはこんな場所から この歌を歌う事でしか伝えられないけど もう一度だけ思い出して 僕らの地球(ほし)のあるべき姿そしてどうか忘れないで どうかどうか忘れないで」(A song is born)というフレーズを自然に口ずさんでいた。娘もあゆがかいた歌詞が好きで癒やされているようだ。
次の日、「経済格差や高い失業率に異議を唱える若者らによるデモが、米国各都市に広がっている。震源地は金融機関が集中するニューヨークのウォール街」というニュースが流れ、若者たちが立ち上がったことがうれしくなった。日本の若者たちだってすごいエネルギーやがパワーがあることを前日に感じていたので、日本の若者たちがいつか立ち上がることを信じたいと思った。現に日本でも脱原発デモが各地で続いていて、インターネットでゆるやかにつながり路上で行進する姿は、米国や中東で起きている若者たちのデモと同じだ。少しずつ少しずつ前進しているではないか。おばさん、おじさんたちも負けてはいられない。私は、ライブに行って若者たちからパワーをもらって元気になったが、足と腕の筋肉痛が後に残った。(美)
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読者からの手紙
アメリカの若者達はデモで逮捕されても就職できる!
今アメリカでは、ウォール街占拠デモが、全米に波及して盛り上がっています。10月5日の水曜日には公称1万人が参加して、『ニューヨーク・タイムズ』は、翌日の一面で取り扱い、6日にはデモの勢いは増して、先週末同様に警官隊との衝突も起きています。
ところでデモについて私はお国ぶりを感ぜざるを得ないことがあります。例えば9月11日の東京での反原発デモでは弾圧を意図したによる見せしめの逮捕者が出たのです。
日本では、デモをして逮捕歴などがつくとその人にとって不利益になることが多いので、労働者民衆を萎縮させるために日本国家は必死なのでしょう。しかしアメリカでは逮捕されても就職出来ないことなどないというのです。一寸した驚きですね。本当にカルチャーショックを感じます。これについては、ある評論家の解説を紹介しましょう。
一つには逮捕歴の取扱いの違いです。アメリカは銃社会であり、警察の防犯への努力の一貫としてFBIなどによる犯罪歴データベースは完備しています。ですから軽微な違法行為でも、犯罪歴は一生ついて回ると言われています。にもかかわらず、ブルックリン橋の「無許可デモ」で七百人も逮捕されて平気なのは、基本的に犯罪歴が就職に影響しないからです。
どうして影響しないのかというと、まずプライバシー保護の観点から、犯罪歴情報の照会が制限されているということがあります。また。仮に雇用主が採用する候補者が「過去にデモ参加による逮捕歴」があることを知ったとして、これを理由に採用を断ることもできません。というのは麻薬や凶悪犯など「職務遂行に支障のある犯罪歴」以外の理由で不採用になったということが立証されると民事法廷で懲罰的な賠償を取られるからです。
もう一つには社会的な価値観の違いです。アメリカ人はデモとかお祭り騒ぎが大好きです。そしてそうした「イベント」で「ハメを外す」ということは社会的に許容されるという文化があります。大学では新入生をハダカにしたり、妙な格好をさせたりという「イニシエーション」の馬鹿騒ぎはエリート校でも盛んです。
スティーブ・ジョブズの死にあたって、かつての盟友でアップルの共同創業者であるスティーブ・ヴォズニアックがNBCのインタビューで「まあ若い時には、一緒に相当悪いこともやりましたがね」と言っていましたが、その内容(例えば電話代をごまかすマシンの販売とか)はともかく、そうしたことを許容しある程度までは「逸脱も勲章」とする感覚があり、ジョブズの遺言にある「クレイジーであれ、ハングリーであれ」というのは、勿論ジョブズの全人生をかけた深い意味が込められており、そのことと若者の「ハメ外し文化」、そして今回の「占拠デモ」のカルチャーは、全く無関係とも言えないのです。
そして三つには、企業の採用姿勢の違いです。まずアメリカの場合は「新卒一括採用」とか「年齢制限」などはありません。ですから大卒後数年を経過したからといって、もう正規雇用はムリだと思い詰める必要はないのです。本当に能力があれば、そしてそれを「時代遅れ」にならないようにブラッシュアップしていれば採用される可能性は十分にあります。確かに景気のサイクルから来る「氷河期」というのはありますが、そこでチャンスを逃したからといって、一生ずっと氷に閉じ込められるわけではないですし、むしろ中高年のリストラが進んだほうが、中期的には若者の雇用には有利だったりするという考え方もあるのです。
では仮に採用面接などで逮捕歴はどうかというと、勿論あえて言う必要はないのですが、仮に「ウォール街占拠デモ」に参加していたことが分かったとしても、多くの企業はそれほどの悪印象は持たないと思います。確かにそこには企業カルチャーというのがあって、どちらかと言えば嫌う会社もあるでしょう。デモなんかに行っているヒマがあったら、専門性の勉強をしたり、思い切って起業したりした方を評価するという企業はあるでしょう。ですが、何もせずにボーッと家に引きこもっていたというよりは、デモで組織的な活動に熱心に取り組んだという方が評価されると思います。
そんなわけで、「占拠デモ」の若者たちは、決してデモに参加したからといって就職が遠のくわけではないのです。彼等なりにメッセージを発信して行けば、何らかの形で世の中が良くなって自分たちの回りの雇用情勢も好転すると信じているのです。勿論、閉塞感はあり、その閉塞を突破したいという思いはあるでしょう。ですが、絶望感というのとは違うと思います。デモに行くのは健全な自負心があるからで、その自負心は社会性やビジネススキルとは相反しない、むしろ親和性がある、大局的にはそうした価値観がアメリカにはまだ生きているように思います。
なるほど日本のように原発に対しての「国民投票」を考えもせず、福島県での被爆の実態を公表もしなし、デモ隊には逮捕の弾圧をするように民主国家のふりをしている国家とデモクラシーの国家とは、こんなにまでも違うものかと私は実に驚いたのです。(稲渕)
原発あなたはどうする? シール投票
日頃の街頭宣伝では、署名活動・ビラ配布で原発反対! を訴えています。しかし、朝・夕方は通勤時時間帯なので、ビラの受け取りはよくありません。本日のシール投票は、10月10日(月)の祝日の午後なので、少しゆったりと行なうことができました。
シール投票のルールは、実施する側は中立な立場でただシールを渡し、自分の判断でシールを張ってもらいます。原発を、続けるべき・わからない・やめるべき、の3択です。実施する側は、本当は原発はやめるべきと、言いたいのにそれが言えないのが、とてももどかしいのが本音です。署名はちょとなあと思う人も、シールならと応じてくれるので、予想よりもたくさんの人が投票してくれました。
結果は、実施時間約1時間半で、投票総数が117名、続けるべき11名、わからない22名、やめるべき84名。それぞれ、約9パーセント、約19パーセント、約72パーセントで、やめるべきが7割を越え、ホッとしています。皆さんも実施してみては? シールを渡す時、張り終えた時に会話のチャンスがあります。ぜひ、やってみましょう。(西宮・折口恵子)
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東葛ホットスポットからの報告
東京電力・東葛支社に向けて市民が抗議のデモ
東電の東葛支社に向けてデモを行いました。
デモと言うには、本当に地味な準備活動でしたが、それでも70人ほどの市民が参加者しました。
参加者は、各自のぼり旗、横断幕、プラカードを掲げながら東電の東葛支社の周辺を元気に行進。普段は静かな通りに、「子どもを守れ」「大地を返せ」「海を返せ」「原発を止めろ」「東電は被害者に賠償を行え」等々のシュプレヒコールがこだましました。
東電東葛支社前で、東電への要求書を読み上げ、応対した職員に手渡しました。東電前では、応対の職員に対して、参加者から激しく、強い声で、抗議の声もぶつけられました。
阿部の自宅の庭の線量は、0.46μSv毎時、側溝は2.3μSv。
自宅近くの南流山の駅前の歩車道の間の薄く土が溜まったところは、5.2μSv。
冬になって、土埃が舞い始めれば、確実にひどい内部被曝にさらされることになるでしょう。
最近は、ホントに、流山に住んでいるのが怖くなっています。
同時に、憤りがますます募ってきます。
このかん私の周りでも、子どもを抱えた若い保護者が、流山から引っ越す事態が相次いでいます。「ここでは子どもを育てられない」と、申し訳なさそうに断りながら。
私は、他に行く当てもないので流山に住み続けますが、そのかん何度でも、東電にデモをかけるつもりです。(阿部治正)
2011年10月11日
東京電力株式会社
社長 西澤 俊夫 様
東京電力が引き起こした福島第1原子力発電所の事故についての抗議及び要求書
原発止めよう! 東葛の会
さよなら原発 10・11東電・東葛支社前デモ参加者一同
2011年3月11日に発生した東京電力福島第1原子力発電所の大事故によって放出された放射性物質は、約200キロも離れた私たちが住む千葉県東葛地域にも事故の前と比べると数倍から10倍以上にもなる放射線量となって降り注いだ。その結果、水道水をはじめ野菜やコメなどからも放射性セシウムなどが検出されている。
そのために、この東葛地域に住む小さい子を持つ母親、妊婦さんなど多くの市民が外部被曝ばかりでなく、食べ物や飲料水などからの内部被曝も懸念され、生活への大きな不安にさらされている。さらに農家の方々には営農への不安も与えている。
また、子どもたちが集う保育所・幼稚園・学校などは、運動場の表土を削ったり、給食の食材の放射線量を測定したり、等々、子ども達を放射能から守るために必死になっている。そして、子ども達は、放射能によって動植物等の自然から遠ざけさせられている。このように、被害の及ぶ範囲は計り知れないほど重層的であり、かつ広範囲である。
さらに、東葛地域の自治体のゴミの焼却灰や下水汚泥からも高濃度の放射性物質が検出され、これらの処理に自治体当局も苦境に追い込まれている。
このような実態を踏まえ、松戸市・野田氏・柏市・我孫子市・鎌ヶ谷市の各市長が連名で「放射線量測定等に関する緊急要求」を東京電力に対して提出した。各市長連名の要求書によれば、8月下旬の段階で、東京電力の事故による放射線量測定に費やされた市民の税金は既に180万円を超えている。さらに環境から放射性物質を取り除く除染作業のために億を超える税金が費やされているのである。
にもかかわらず、この住民の代表である各市の市長による要求に対して、東京電力は、誠意ある回答をしようとしていない。
一私企業がもたらした環境汚染の除染のための経費は、その企業がすべて負うことは民主主義社会の常識であり、企業の社会的責任であることは言うまでもない。東京電力によってもたらされた市民への被害除去のための経費は、当然東京電力がすべて負担すべきである。私たちの税金を使うことを許すわけにはいかない。
福島原発の事故の責任はひとえに東京電力にあるのである。だが、事故によって発生したさまざまな被害に対して誠実に対処するという姿勢が東京電力にはまったくないと言わざるを得ない。
私たちは、このような不誠実な東京電力の事故への対応に対しての心からの憤りを表明するものである。
と同時に、下記のように東京電力は、多くの市民が被っている被害に誠実に対処することを強く要求する。
記
1.東京電力は、千葉県東葛6市による「緊急要求」に、誠実に応えること。
2.東京電力は、事故の責任を認め、福島県の市民をはじめとする多くの市民が心身に被っているさまざまな被害に対して誠実に補償すること。 以上
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編集あれこれ
本紙前号で、樋口健二氏の「闇に消される原発被曝労働者」が紹介されていました。初版は1981年、三一書房から発刊されたもので、6年後に続編の「原発被曝列島」が発刊されています。樋口氏は売れない写真家を自称し、91年には同じ三一書房から「売れない写真家になるには」という本まで出しています。
3月11日以降、反原発を主張した多くの旧著が新装版となり、書店に平積みされるようになりました。樋口氏が言うように、これら書籍はうれない&迫゙の属し、一部の脱原発をめざす人々に読まれてきたものです。そうした事実が、スリーマイルを経ても、チェルノブイリを経ても、この国の原発を増殖させてきたのです。
樋口氏の「原発被曝列島‐50万人を超える原発被曝労働者‐」も新装改訂版となり、争議を経て再出発した三一書房の最初の刊行物として8月10日に発刊されています。私はこれを樋口氏の講演会で購入したのですが、今年74才となるのにすこぶる元気で、被曝労働の実態について話し出したら電力会社への怒りもあらわに、熱を帯びて話し続けるのです。なお、同書の前書きにはこのように書かれています。
「テレビで解説に使われている図は簡略されているが、本物の原発は『パイプの森』だ。壁も床もパイプだらけだ。
そこらじゅうの継ぎ目から放射性物質を含んだ湯水が噴き出すのを、一つ一つ締めていく作業、よごれた床をふき取る作業を人海戦術で行うのが通常の定期点検での被曝労働だ。しかし今回はそんなものではすまない。近寄ることもできない汚染箇所での作業に当たらねばならないのだ」
主流派から排斥され、少数派として信念を持って苦難の道を歩んできたこうしたジャーナリスト、研究者の存在があって、脱原発をめざす市民運動も持ちこたえてきたのではないかと思います。その闘いがいま、決着を迎える時が来たのです。本紙もその一端を担うべく、多くの記事を掲載してきました。
野田政権はこうした脱原発への流れを断ち切ろうとしています。前号に掲載された「遺産食いつぶした野田政権」では、政権交代から2年を経て民主党政権はすっかり第2自民党になってしまったと論じています。曰く、「二年間に渡る舞台が一回りして、自民党時代の対米関係の復活に汗しなくてはならないというこの現実こそが、民主党政権の真実をはっきり示している。もしかしたら普天間基地は代替基地なしに沖縄の人々に返還されるかもしれない、という民主党政権に抱いた淡い期待と熱気は完全に過去のものになった。有権者の思いに由来するあの政権交代という千載一遇のチャンスは無様に食いつぶされ、民主党バブルはすっかりはじけてしまった」。
有権者の力で政権交代を実現しても、それだけでは政治的変革を実現できないことを、2年間の民主党政治は明らかにしたのです。脱原発も米軍基地の撤退も、私たちの闘いなしには実現しません。9月19日の脱原発6万人集会に示されたように、「こうした直接民主主義、観客席からではない自ら舞台に登場しての草の根の大きな声と行動。こうした声や行動をいたる所、いたる局面で大きく拡げ前進していきたい。それこそが政治を変える原動力となる」。
同論文のこの結論こそが、私たちが進むべき道です。7月21日、東京地裁(高橋譲裁判長)の靖国無断合祀撤廃訴訟判決に対して、原告の李熙子さんは「失望はしても絶望はしない」と語っています。私もまた、この国の実相に日々失望していますが、絶望はしていません。未来に希望を持って、この活動を続けたいと思います。 (晴)
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