ワーカーズ460号  2012/3/15    案内へ戻る

思想・信条の自由の侵害をやめろ!
橋下徹大阪市長が率いる大阪維新の会の暴走を許さない!


橋下徹大阪市長ら大阪維新の会のやりたい放題が続いている。まずは、橋下大阪市長は、大阪市職員約3万5千人に政治・組合活動に関する回答を義務付けるアンケートを実施した。質問内容は、労組への加入の有無、政治家を応援する活動への参加の有無、職場関係者からの投票要請の有無など調査範囲は勤務時間外のことまで含まれていた。これに対し大阪市労働組合連合会は、大阪府労働委員会に救済を求めた。大阪府労働委員会は、アンケートは労働組合法で禁止する労組への支配介入に当たる恐れがあるとして調査の中断を勧告した。これに対し調査の担当者である大阪市特別顧問の野村修也弁護士は、府労委の判断が出るまで調査を凍結すると表明した。橋下市長は「僕は全く問題ないと思っている。踏み込んで調査するのは当たり前だ」と語った。橋下市長は弁護士なのに、これが思想・信条の自由の侵害や、不当労働行為にならないと思っているのだろうか?権力を持ったら何でも出来ると思っているのだろう。
 また橋下市長は、大阪市労働組合連合会に対し庁舎内にある組合事務所の退去を求めた。これに対し組合側は、一時組合事務所から退去しつつ、大阪府労委に救済を求める方針であるという。
 また橋下市長は、大阪市バスの運転手の給与を4割削減すると言っています。4割も給与を削減されたら、生活はたちまち苦しくなる。橋下市長は、どこまで労働者を痛めつければ気が済むのだろう。
また、職員基本条例案や教育基本条例案は、同一の職務命令に3回違反した職員を免職とするなどひどいものである。
 また、橋下市長は大阪市民が求めている原発住民投票条例案について反対している。たしか橋下市長は脱原発の考えである。それなら、この条例案に賛成するのが筋であろう。
 このような橋下市長を、選挙で当選させた大阪市民の責任も大きいと思う。
以上見てきた橋下市長や大阪維新の会の反動政策に反対していくとともに、彼らに対抗できる勢力の結集を目指そう。(河野)


被爆地フクシマで「変えよう日本」の訴え
「原発いらない! 3・11福島県民大集会」の報告


 3月11日は、全国各地で反原発、脱原発の集会やデモが繰り広げられました。私は、郡山市で開かれた「原発いらない! 福島県民大集会」に、地域の仲間46名とともに、バスをチャーターして参加しました。
 3月とは言えまだ寒い会場の開成山球場に私たちが到着したときは、すでに歌手の加藤登紀子さんのライブが始まっていました。加藤さんが情熱のこもった数曲を熱唱した後、実行委員会の挨拶に移り「3・11の苦しい状況を共有しながら、今後への思いと決意を新たにしていく、福島と日本の新しい変革のスタートとなるよう願う」と、集会宣言が発せられました。
 続いて福島大学の清水修二副学長が登壇し、この一年間、福島県民が被ってきた様々な苦難について述べた後、「福島県民の痛恨の思いを込めた叫びを、全国の心ある人々のもとに届けることが義務であり責任である」と挨拶を行いました。
 集会にはノーベル賞作家の大江健三郎さんも参加し、政府や企業は政治的・経済的責任を云々するが、それよりも人間が生きていく上での倫理的責任がはるかに重要であると厳しく批判し、人間の営みと相容れない原発は廃絶されるべきだと強く訴えました。また大江さんは、ジョンレノンのイマジンに寄せながら、私はひとつ想像することがある、近いある日のある朝、この国のすべての小・中・高のグラウンドの生徒が集まる、先生があるいは生徒代表が「この国は昨日原発を全廃することを昨日決めました」と宣言し、生徒たちの大きな歓声があがり、その拍手が全国の隅々にまで響き渡る日のことを、そうした日を実現するためにともにがんばろう、と訴えました。
     ◆ ◆ ◆
 さらに集会では、様々な立場の市民から,次のような発言がありました。その一部をご紹介します。
 子どもと一緒に引っ越しを余儀なくされた市民は「米沢に転校したが、事故がなければ離れることはなかった、子どもを守りたかったが、副島を好きだと言うことは変わらない」と語りました。
 有機農業を行ってきた農民は「自然の循環と生態系を守る、健康な作物と家畜をはぐくんできた、子どもたちの命の再生のために有機農業者の打撃は深刻、第一次産業を守ることが、原発のない社会を作るために大事なことだ」「私たちは『頑張ろう日本』ではなく、『変えよう日本』の声を上げなければならない」と訴えました。
 また漁業者からは「一日も早い漁業の復活を望んでいる、元通りになるためには時間がかかるが、あのおいしかった副島の魚を全国に送り届けたい」と。さらに高原野菜を作っていた農業者からは、「原発事故ですべてを失ってしまった、一体誰の責任ですか。悲惨な原発事故を二度と起こしてはならない、この実態を風化させてはならない」との訴えがありました。
 そして17歳の女子高校生からは、「原発がなければ、被害に遭った人を助けに行けた。原発のせいで、それさえも出来ない。人の命も守れないのに、電力のため、経済ためとか言っている場合ではないはずだ」との、原子力村に対する厳しい批判が行われました。
     ◆ ◆ ◆
 集会の途中で、集会参加者の数がおよそ1万6千人に達していることが明らかになりました。確かに会場の開成山球場は、一塁スタンドも、三塁スタンドも上から下までびっしりと埋まり、座りきれなかった人たちはバックスクリーン側の芝生の中にも入り込む状態でした。
 集会の後デモに移りましたが、年配者たちは年配者なりの落ち着いた、風格のあるコールを行いながら行進。そして若者たちは若者らしく、テンポの良い鳴り物の音に合わせて、身体を揺らしながら、元気の良いシュプレヒコールを繰り返しながらデモを行いました。私たちの隊列は、途中で冷たい雨が降り始める中、「きれいな大地を返せ」「きれいな空気を返せ」「子どもたちを守ろう」「被曝労働を今すぐ無くせ」「原発はいらない」「原発はなくても電気は足りてる」等々のコールを行いながら、最後の郡山市庁舎前まで行進を行いました。
     ◆ ◆ ◆
 集会の最中、あるいはデモ行進の途中で、放射線量の測定器で線量を計りましたが、球場を取り巻く植栽の付近は、地上1メートルで1・6〜1・8マイクロシーベルト毎時という高い値が計測されました。また郡山に向かう途中の鏡石インターチェンジでも、歩道と車道の間の砂に線量計を近づけると、1・5マイクロシーベルト毎時を示しました。私の住むホットスポット流山でも、こうした線量を示す地点は珍しくありませんが、やはり福島県内に近づくほど、線量が高くなることを実感しました。
 避難が必要な人には避難の権利を、そして住み続ける道を選択した人々のためには徹底的な除染を、農業や漁業に対する万全の補償を要求しつつ、何よりもこうした悲惨な出来事を繰り返さないためには「脱原発」が求められていることを、あらためて痛感させられた一日となりました。(阿部 治正)案内へ戻る


色鉛筆−−「震災から一年」に思う

「この冬仮設住宅で、一人暮らしの90代の女性が下痢をして動けなくなり、丸一日たって隣人が気づき救急車で運ばれた。熱が出ても数日我慢してから受診し、肺炎で入院する高齢者も相次いだ」(朝日新聞3/6)という記事では、通院手段の困難(遠い)、お金への不安、そして医療施設復旧の遅れ、スタッフ不足など厳しい現状を紹介している。また、避難生活の疲労や震災のショックで体調を崩すなどして亡くなる「震災関連死」は、80市町村で1365人。“60歳以上が9割を超す”という。(朝日3/7)
 さて先日2月18日、天皇の心臓手術が無事終了した。皇居には宮内庁病院があり、医療スタッフは約40人。内科・外科・眼科など8科ある総合病院で、いつでも受診できる。さらに両陛下には、侍医長と3人の侍医がつき、24時間体制で交代の勤務をしている。ただ臓器の手術など高度医療の場合は「より体制と設備が整った施設で」ということで、東大病院での手術となったという。
深刻な医師不足をはじめとする被災地の厳しい状態とは雲泥の差の手厚い医療。命に関わる医療に、何故こんなにも格差・差別があるのか?誰もそれを問わないのは何故なのか?誰か明確に答えて欲しい。
 術後の弱った体を押して、政府主催の震災一年追悼式典への出席を強く望む天皇・・・こうした“美談”が語られる時、事故・災害をもたらした責任者・真犯人の存在は、霞のように消えてしまう。まして一年たった今も、寒さに震えながら将来への不安や放射能に怯える生活を強いられている被災者の姿、本心の苦悩など、かすれてしまうのだ。
 思えば震災直後から何度も避難所を訪れていた天皇は、その頃から美談の主人公として活躍していた。惑わされまい。「原発さえ無ければ」と自死した酪農家を、放射能まみれの、けれど見事に実った稲を捨てる農婦の涙を、その他にも数え切れないほどの苦しみを忘れまい。(澄)


「沖縄通信」・・・伊江島平和学習会

《第10回平和学習会》
 伊江島の反戦平和運動家の阿波根昌鴻さんが亡くなって早10年。
 毎年、伊江島の「わびあいの里」が主催する「平和学習会」が阿波根さんの命日(3月21日)前に計画され開かれてきた。
 今年も、 3月3日(土)〜4日(日)の2日間、第10回平和学習会が伊江村改善センターで開催された。
 記念すべき第10回目の開催と言うことで、全国各地から約170人が集まった。
《平和学習会の内容紹介》
 学習会の基調講演は、普天間爆音訴訟団団長の島田善次さんが「物言わぬ民は滅ぶ」というテーマで話をした。
 昨年より普天間爆音訴訟団は、第二次訴訟をめざして原告人を募集してきたが、なんと原告人が3,000人をこえて、3月中の提訴をめざしている。
 この爆音訴訟の闘いに最初に立ち上がったのが島田善次さんであった。
 「1979年に宜野湾に引っ越して来たが、普天間飛行場の米軍ヘリの騒音はすさまじく、まさに人間の住む範囲を超えていた。そのため、子どもが病気になってしまった。『静かな日々を返せ』と立ち上がったが、誰も参加してこなかった。でも、あきらめずにずっと続けて2002年原告400人で第一次提訴をして裁判が始まり、それが今日につながっている」と、これまでの闘いの歴史を語った。
 今回の学習会討論において、もう一つ印象に残ったのが、沖縄でも新右翼の活動が活発になっているとの報告であった。
 集会で採択された「伊江島平和アピール」でも、この事を次のように指摘している。
 「・・・橋下徹・大阪維新の会の動きのように、政治不信と不満のすき間を埋める形で、ファシズム的扇動と強権的政治を推し進めようとするドス黒い勢力も台頭しています。それは、八重山地区『育鵬社』教科書採択問題や、県による第32軍司令部壕説明板からの住民虐殺と日本軍『慰安婦』記述削除問題などの動きとも軌を一にしています。排外主義と翼賛政治の後に続くものは、新たな戦争への道であることは自明です。」 
《第32軍司令部壕の説明板問題》
 首里城を見学したことのある人はわかると思いますが、沖縄戦で旧日本軍沖縄守備隊の第32軍司令部は米軍との決戦にそなえ、首里城の地下一帯に地下壕を構築した。
 以前より「首里城に多くの観光客が訪れるが、司令部壕の説明板がない」との指摘があった。
 そこで県は、第32軍司令部壕説明板設置検討委員会に説明文の検討を依頼した。
 検討委員会は昨年11月、壕の構築や司令部の南部撤退の経緯、壕内に女性軍属・慰安婦が雑居していたことや、壕周辺で日本軍にスパイ視された住民が殺害されたこと、司令部の南部撤退が多くの住民の命を奪う原因となったことなどを記した説明文を県に答申した。
 ところが県は、証言が分かれていることを理由に「慰安婦」という文言を削除し、さらに「司令部壕周辺では、日本軍にスパイ視された沖縄住民の虐殺などもおこりました」という記述全てを削除した。
 県は検討委員会の答申内容を削除するという、前例のない方針を打ち出した。
 県の説明によると、説明文の記述内容をまとめた昨年11月22日以降、記述内容への批判(「慰安婦」「日本軍にスパイ視された住民が殺害された」との記述に対し、「事実と反している」とし、削除を求める内容)が、メールや電話、ファクスなど82件寄せられたという。
 こうした県の対応に対して、記述内容をまとめた委員らは「住民虐殺と慰安婦の存在は複数の目撃証言がある」「両論あるから削除するのは安易すぎる」と反発し、沖縄戦研究者からも「2点の表記は32軍司令部の本質を示す物で重要だ」との意見が出ている。
 「伊江島平和アピール」が指摘するように、橋下・大阪維新の会の国政選挙への参加、河村名古屋市長の南京虐殺否定発言、右派政党の大連合など、ファシズムが暴走する危険が高まっている。
《阿波根さんの運動のDNA》
 こうした時代だからこそ、私たちは阿波根さんの伊江島での闘いを学ぶ意義があると考える。
 「世界中、どこを探しても、戦争で幸せになった人は、一人もいません。私は、この世界の歴史から沢山の教訓を学び、勇気と自信を持ったのであります」と、阿波根さんは軍用地違憲訴訟の陳述で述べている。
 この阿波根さんの道理を持って諭すように語る「非暴力」の不服従抵抗運動が、現在の沖縄の反基地闘争に確実に継承されていることを感じる。名護市辺野古や東村高江の住民座り込み阻止闘争、嘉手納や普天間の爆音訴訟の闘いなどに継承されている。
 最後に、「伊江島平和アピール」のまとめの部分を紹介する。
 「私たちはこの沖縄が『人間の住んでいる島』であり続けるために、『戦争屋を喜ばせない』ために、今まで以上に阿波根昌鴻の平和創造のための根源的抵抗主義を継承していくことが求められています。全国で燃え上がる『脱原発』『反原発』『反核』と『反基地』『反安保』との結合をもって、日本の将来と私たち自身の未来を切り開いていきましょう!」
 機会があれば、伊江島の反戦平和資料館「ヌチドゥタカラの家」を訪ねてほしい。(富田英司)案内へ戻る


コラムの窓・・・  「まず、事実を認めよ!」

 河村たかし名古屋市長が南京市からの訪問団に、南京事件(南京大虐殺)はなかったと発言しました。ア〜ァ、言っちゃった。なんて無恥で愚かな政治家でしょう。勇ましいだけのこうした政治家は、こういうことを言いたくて言いたくてうずうずしているのでしょう。よく言ったと自分で自分をほめ、お仲間の石原都知事らの支持を得て悦に入ってるのでしょう。今後、反撃の大きさに戸惑い、言い訳に汗しなければならなくなったとしても、自業自得です。愚かすぎて、ひょっとすると、もっと開き直るかもしれませんが。
 話題はかわりますが、蒲島郁夫熊本県知事が3月7日、水俣病溝口訴訟の福岡高裁判決(2月27日)を不服とし、最高裁に上告すると発表しました。その理由は「認定制度の根幹に関わる判決を受け入れることは、行政の長として難しい。地裁と高裁で判断に違いがあり、上級の判断を仰ぎたい」(3月8日「神戸新聞」)というものです。
 ここで問題となっているのは、水俣病とは何か、溝口チエさん(原告溝口秋生さんのお母さん)は水俣病だったのか、ということです。ここに認定制度≠ニいうものがあり、その分野の権威が水俣病の病像を決め、まるでベッドの長さに合わせて旅人の足を切ってしまうように、認定申請者を切り分けるのです。その役割は、もっぱら患者を切り捨てることで、補償費用をより少なくすることにあります。有能な日本の官僚が考えだしたすぐれた制度で、原爆症の認定やあらゆる公害被害を切り捨てに赫々たる成果を上げてきました。
 福岡高裁では感覚障害や運動失調など複数の症状の組み合わせを必要とする現行の認定基準の妥当性が争われましたが、「個別具体的な事情を総合考慮すれば、認められる余地はある」として認定を義務付ける原告逆転勝訴判決となりました。溝口チエさんは1974年に認定申請しましたが、77年に死亡し、息子の秋生さんがカルテを調べることを求め続けました。熊本県が民間カルテの調査を始めたのは何と94年、すでに医院は廃院してカルテもありません。
 全くひどい扱いですが、県の小役人は「資料不足は棄却せよ、という決まりがありますので、チエさんの認定申請は棄却します」と言って恥じないのです。そして、厚生労働省の大役人は認定制度死守を至上の任務としています。大も小もこうした人格がそれぞれの権力を持ち、行使しているのですから始末が悪いのです。
 水俣病センター相思社発行の機関紙「ごんずい」(123号・2011年11月25日)から、溝口秋生さんの発言を紹介しましょう。
「おふくろは、知宏がこん人(妻)の腹におるときに、貝や魚ばいっぱい腹食べさせました。それで責任を感じとったわけですよ。袋湾まではうちから歩いて五分です。浜に行って二時間もおれば、カキやビナなどの貝類がいくらでも採れましたもんね。カキ、コロビナ、ニガビナ、マルビナ、アワビ、セボ、今では考えられないようなたくさんの貝がおりましたよ。私も袋湾で浮いた大きな太刀魚やボラの子なんかの魚をいっぱい獲って持ち帰りました。当時は手で獲れよったですもんね」「知宏が胎児性水俣病でないということは絶対無い。でも行政は認めない、不条理です」
 細野豪志環境相は認定基準の見直しは行わない、七月末の水俣病特別措置法による未認定患者救済制度の申請期限も延長しないと言っています。環境省官僚の言いなり、操り人形です。水俣病がチッソが垂れ流した有機水銀に汚染された魚介類を食べたために起こった事実を直視するなら、森口さん家族が認定制度から排除されることはあり得ないことです。河村氏を含めたこれらの人々に、事実を直視する勇気をもて!、と言うのみです。(晴)追記 2月26日、NHKのETV特集「花を奉る 石牟礼道子」が放映されました。見逃した方、再放送があればぜひ観てください。


【連載 第4回】岐路に立たされる兵営国家      金正日の死と世界史のなかの北朝鮮

目次
  はじめに
1 帝国主義時代が生み出した金体制
2 「社会主義」ではなく「国家資本主義」でもない兵営国家
3 軍事経済のもとで衰亡しつつある金体制
4 北朝鮮や旧ソ連の「巨大な歴史的意義」を讃えるのか?
5 20世紀の戦争と国家、そしてスターリン体制
6 金体制は路線転換が可能か?(本号)
7 改革開放への動向    以上

【前回までの要約:北朝鮮や旧ソ連は、「社会主義」などではなく、帝国主義戦争下で国家形成が行われ、その後も軍事体制・戦時経済を継続してきた退廃した社会です。国家成立当初の工業基盤の急拡大にもかかわらず、数十年経過した軍事経済は、工業力が衰退し経済不振をもたらしました。これこそ旧ソ連の自己崩壊の最大の原因なのです。北朝鮮も同様のプロセスのなかで、社会の全般的衰退に陥っていると考えられます。生成途上の国家において、軍事体制構築を追求することは、経済全体(さらには社会全体)の強力な国家統制(国家化)を必然的に呼び起こすのです。北朝鮮や旧ソ連特有の全面的「国有経済」は、そこに由来するのです。個々人の自由な連帯を基礎とする社会主義とは全く対照的な社会なのです。】

[6]金体制は路線転換が可能か?
 年末にテレビを見ていた際、金正日の元料理人だという人物の談話で「(後継者である)金正恩大将は改革開放を実行するだろう」と自信満々に述べていたことが印象に残りました。
 すでに述べて来たように、北朝鮮にしろ旧ソ連にしろ、それはらは「社会主義」でもなければ資本主義の発展史に名を残すような積極的な経済システムでもありませんでした。私的資本や市場経済に対する敵対的で抑圧的なスタンスは、くりかえし論じてきたように軍事体制を最優先するところにその客観的根拠を持つのであって、「社会主義」は労働大衆を欺瞞するための都合のよいイデオロギーとして利用されてきたに過ぎません。あきらかに自滅的な準戦時体制を継続してきたこの体制は、本来的に短命なものです。自壊をしたくなければ、何らかの転換はさけられられません。
 そこですぐに考えられることが中国流の「改革開放路線」への転換です。中国にならえばよいというわけです。共産党の独裁支配をそのままにして、経済路線が切り替わったのだから北朝鮮も同じ路線に切り替えればよいと。
 いまや中国は、国内の企業・資本を所有ないしは統制しながらも、国内・国際市場においては生産物を商品として販売し、剰余価値の獲得をはかり富を集積する典型的な「国家資本主義国」です。

 ◆ケ小平路線はどのようにして勝利したのか

 しかし、中国と北朝鮮ではその歴史過程がやや異なっていることに留意する必要があります。中国革命は、その主要な側面として小作農民の土地闘争の歴史、すなわち地主階級からの土地の収奪と土地の分配という過程がありました。中国共産党は、そもそも革命闘争のさなかで、私的所有、市場、資本を一定程度認めることをその路線としてきました。
 「資本主義のある程度の発展は・・進歩的である。」「すべての正当な私有財産は保障する。」(毛沢東『新民主主義論』1945年)。
 全国解放が終了したのが1949年ですが、農地の集団化が本格的に開始される1955年ぐらいまでは、自然発生的であったとはいえ、農民の土地の所有に基づく市場経済があまねく存在し、資本生成の下地が存在していたと考えられます。
 50年には「中華人民共和国土地改革法」が公布され、農民の土地所有と「富農経済の保護」までうたっていました。このような状況下で、当然農民間の貧富の差が発生し始めたとはいえ、全体としての農業は生産意欲の高揚にささえられ戦時下の不振から脱却したばかりではなく、おおいに農産物の増産が達成されたのです。(『中国の歴史』11講談社など参照。)
 劉少奇やケ小平に代表される「国家資本主義官僚」とその政治的指導部は、この様な下地の中で生成してきたと考えられます。市場経済や小資本の経営が一定の合理性を持っていることを理解でき,自らもこの様な経済に精通し、それらを管理する中で国家官僚としても個人的にもそこから利益をくみ出せることをよく知った新興の官僚層なのです。
 劉少奇は、農業集団化を漸進的なものとして提起するとともに「国家の主要任務は生産力の発展に変わった」と打ち上げています(1956年)。
 中国では建国当初以来、共産党組織や役人組織が官僚化しエリート化したのですが、注目すべきは、中国の小資本家や自営的な階層や、土地改革で大量に生成した独立自営農民との利害形成の中で国家資本主義官僚が一大勢力として登場したことでしょう。
 それに対して、スターリンばりの急進的「農民集団化」に傾斜していったのが、毛沢東派です。彼の大衆的威信とカリスマ性を別とすれば、少なくとも官僚層の中ではごく少数派であったとおもわれます。
 したがって、中国でケ小平の改革開放路線が定着するまでは、国家資本主義官僚とそれに敵愾心(てきがいしん)を燃やす急進的な一派の権力闘争が、労働者・農民・学生等を巻き込んで激しく展開されました。それが「農民集団化」「大躍進」「文化大革命」という内乱にひとしい諸闘争なのです。
 観念的で不合理な毛路線からの大衆的な離反が、当然にもケ路線への国民的期待へとつながり、毛派を圧伏できたのです。かくしてこの時点でケ小平を頂点とする国家資本主義官僚が、共産党と国家を支配することになりました。
 さらに国家資本主義経済の発展過程で、政治的にめざめはじめた市民や労働者、学生による反政府・民主化運動は、完全にブルジョア化した国家により徹底弾圧(天安門事件1989年)されました。国家官僚群を頂点とするブルジョア支配があらためて国民に押しつけられたのです。

◆旧ソ連での「国家資本主義路線」の敗北

 ちなみに、旧ソ連の場合も、類似した性格の軋轢が存在しました。キーロフに代表される、より「現実的」で「健全」な国家資本主義派は、工業や農業の現場に精通し経済建設を最前線でになってきた階層と言われております。
 ネップ(新経済政策)の中で成長してきた彼らは、国家官僚としての立場にもかかわらず、この時代の農業生産の急回復を目の当たりにして、市場の合理性や意義を一定理解し、農民集団化は漸次的なものとしその管理統制に自らの利益を見いだしました。同時にこれからの経済建設の展望の光をそこに見いだしていたのでしょう。
 1928年以来の農民に対する血の弾圧を含む短期間の全面集団化(怒った農民が家畜を大量に殺すなど農業生産は急激に衰退し、1933年には数百万人の農民の餓死者を出した)に直面し、急速にスターリンの路線と袂を分かち批判的になってゆきました。しかし、旧ソ連の場合このような闘争が拡大する前に国家資本主義官僚をリードしてきたキーロフは、スターリン派によって暗殺(1934年)されました。この事件はそれ以後に始まる「大粛正」の烽火(のろし)ともなりました。旧ソ連において、中国であるならば劉少奇やケ小平に当たる国家資本主義官僚層は、このときに一掃され、強権による独裁政治と急進的な軍事拡大路線であるスターリン派がほぼ一貫して国家中枢に居座ることになるのです。
 一般には「スターリンの急進路線に対して、キーロフの穏健路線」、というとらえ方がありますが必ずしも適切な認識ではありません。スターリンの急進的な軍事体制路線と、本来の国家資本主義官僚派との闘いであり、国家資本主義派の敗北ということが重要な点なのです。(『どこへゆく?ロシア』拙著参照。しかし、国家資本主義派官僚の粛正は、「スターリンの大粛正」の一側面にしか過ぎません。)

  ◆北朝鮮の路線転換?

 現在の北朝鮮と過去の中国やソ連とは階級情勢や国際情勢が大いに異なりますので、単純比較は困難ですが。とはいえ観念的で冒険的な「先軍政治」を掲げる金体制に対して、それに挑めるほどの国家資本主義官僚層がはたして北朝鮮にどれだけ育成されているでしょうか。この点をみてみる必要があるでしょう。
 北朝鮮の建国の歴史は、ソ連の「解放」(占領)から開始されました。当時ソ連は、戦勝国としてさらには新たな超大国として絶頂期にありました。親ソ派の金日成が、党内のライバルを失脚させ、スターリン型の国家形成を目指したのも当然のことでしょう。このような経緯の違いか、中国のような国家資本主義官僚派の活発な政治的動向はほとんどつたえられていません。
 すでにふれてきたように、国家資本主義官僚は、突然空から降ってきたものではありません。そのような経済的環境が一定期間広範に存在することが前提となります。したがって、政治的にも「スターリン型国家」を金日成指導部が目指していたばかりではなく、客観的にも国家資本主義官僚が育成される素地(中国のような)がいままでは十分に北朝鮮には存在しなかったと一応推定されます。
 『なぜ北朝鮮は孤立するのか』(平井久志、新潮社)によれば、「父子の路線対立・・金日成最後の闘争」が論じられています。
 それによれば、金正日が落馬し職務遂行不能になった時期(1992年)に、金日成が職務復帰し、息子の仕事内容に驚き、経済状態の危機を感じて「路線転換をこころみた」というものです。この路線転換のこころみは金日成の死(1994年)までつづいたらしいという事です。
 金日成による路線転換は、第三次七年計画の失敗を認めたことから始まりました。さらに人事として具体的に現れ、経済通の官僚、幹部を大幅に呼び戻し、貿易を拡大するなどの施策を実施。「農業第一、軽工業第一、貿易第一」の方針を提示したと。
 しかし、これらの諸方針が、全体として「調整期間」と位置づけられたように、金体制を特徴付けている軍事体制を微動だにさせるものではなく、国民ひいては軍隊内の不平不満を緩和せざるを得ないという、最高権力者としての危機意識の反映に過ぎないと思われます。
 つまり、金父子の路線的「違い」というのが、中国のような路線の大きな違いを反映したもの、階層的な闘争というものではないと言わねばなりません。
 追って後述する予定ですが、金正日の政治統治が、ときより「経済重視」に回帰するからといってそれは「先軍政治」や軍事体制から大きく転換しようとするものではないのです。軍隊にも、その家族にもそして国民全体にも最低限の衣食住が保障されなければ、自らの権力が倒壊の危機に瀕するからに他ならないのです。その程度の範囲での「経済改革」にしかすぎないように推測できます。(旧ソ連時代の数度の「経済改革」も、ソ連崩壊を延期させたとしても崩壊を阻止することはできませんでした。)
 あるいは、北朝鮮の新しい金正恩体制が、自ら「変身」して、改革開放路線へとカジをきりなおす可能性はないのでしょうか。
 しかし、軍や中枢の官僚を抑えて、さらには内部闘争を克服し内乱にも備える覚悟と能力が新体制に存在すると考えるのはすこし乱暴な見方だとおもいます。
 私見では、「先軍政治」を前提とした「経済改革」や「改革開放」はいずれにしても小規模にとどまっているようです。北朝鮮国家が、二兎を追うことはますます困難であり社会の衰退に歯止めをかけられるかはやはり疑問なのです。もし今後大きな変化がおこるとすれば、内部崩壊や分裂による新たな政治局面が生じる可能性が高いのではないかと考えています。
 しかし、不明の点も多く、異なった見解もありますので、それをもうすこし検討してみましょう。〈続〉阿部文明
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めざそう!分散型社会──《大震災から1年》を考える──

 大震災から1年。震災にまつわるものや原発事故にまつわるもの様々だが、東北三県を始め、日本中、いや世界中で《3・11》への想いを込めた催しが取り組まれた。
 一年経ったとはいえ震災からの復興は遅れに遅れ、また原発事故から避難を余儀なくされている人も10万人規模。震災や原発事故の復旧・復興は急がなければならない。
 が、目先の緊急課題とは別に中長期的展望も併せて考えなければ、目先の復旧・復興もおかしなものになる。その一つとしてめざすべき分散型社会を考えてみたい。

◆首都代替機能?

 「大阪維新の会」率いる橋下大阪市長が掲げている大阪都構想が耳目を集めている。、橋下市長はその大阪都構想を、首都圏での大災害に関連づけた首都機能の代替地としても位置づけている。
 確かにいま首都圏で発生が危惧されている大規模な直下型大地震が発生すれば、首都機能は壊滅的な打撃を受ける可能性が大きい。そのことだけ考えれば、首都の代替機能も併せ持つ大阪都構想の意義も、一概に否定できない。
 とはいえ、首都直下型地震発生の可能性から反射的に首都機能の代替地をどこかに探したり新しく造ろうという発想は、かつての新都心構想がそうだったように、どこか胡散臭さもつきまとう。
 橋下市長が代替地として名乗り出た大阪はあの阪神大震災でも大きな被害を受け、さらに地下活断層による直下型地震発生の可能性も指摘されている地域だ。そうした日本第二の都市地域に首都機能の代替地を求めたり想定するのは、むしろ二つ目の首都崩壊を準備するものでしかない。大都市での直下型地震ではどこであっても被害が甚大になるからだ。
 首都圏直下型地震による甚大な被害を憂慮するのであれば、代替地探しや代替地づくりを求めるのではなく、むしろ首都圏への一極集中の是正こそ求めるべきなのだ。
 今回の東日本大震災でも、首都圏では500万人ともいわれる帰宅難民が発生した。他にも液状化や長周期地震動、想定を超えた津波による地下街への浸水等々、これまで予想していないような被害の可能性が次々と指摘されている。その他、ビルの倒壊、地盤沈下、多発火災等、これまでも想定されていた被害も含めて、それらを完全に防ぐのは事実上不可能ともいえる。
 事情は近畿圏でも同じだろう。大都市での直下型地震は、一旦起きてしまったら激甚な被害は防ぎようがないのだ。
 今回の大震災では、津波被害でも原発事故でも、緊急対処の面では不手際が目立った。政府は原発事故状況や放射能飛散では事実を公表せず、首都圏ではJRが帰宅難民を閉め出した。それらのの危機対応は早急に立て直す必要があるが、首都機能といった中長期的な課題では、代替地づくりなどではなく、むしろ一極集中の是正と分散型都市づくりを進めていくことが大事ではないだろうか。
 これまでの日本では、戦後復興期の傾斜生産方式から高度経済成長期のコンビナートづくりへと、国の資源を基幹産業や輸出産業に重点配分し、企業と一体となって首都圏一極集中化にひた走ってきた。企業・産業の効率化・低コスト化・大規模化がそれを推し進めた原動力だった。政府もそうした一極集中の是正には動かず、新幹線建設や高速道路網の整備など、むしろ一極集中経済を後押ししてきたといえる。それを逆転させるわけだ。
 その逆転のためには、発想の転換、政策的な転換が不可欠だ。
 今回の大震災ではサプライチェーンの崩壊がいわれた。企業によるネットワークだ。そのネットワークは、事業の効率性とコスト計算から企業の判断で形づくられた。発想の転換とは、企業の効率性やコスト計算ではなく、人はどこで働くべきか、そのためにどこに事業所を造るのか、地方で働きつづけるためには労働時間はどうすべきか、等など、自分たちの自主的・自律的発想を対置することだろう。要は、企業による効率化とコスト計算を、生産者と消費者による自覚的な自前のネットワークに変えることでもある。
 政策的転換とは、たとえば首都圏税だ。首都圏を指向する企業や事業所に大きな負担を強い、それを地方に振り向けるわけだ。現在の自治体レベルによる地域振興策では不十分きわまりない。これまでの一極集中では、政治や行政がインフラづくりなどでそれを後押しした。それを逆転させ、首都圏税の導入と各地域の地域興しへの支援などで、逆に分散型社会へと政治や世論が強力に後押しすることが必要なのだ。
 大震災や原発事故が起こってしまったいま、また経済成長至上主義の転換点が指摘されるいま、一極集中構造の是正と分散型社会づくりは焦眉の課題になっているといえるのではないだろうか。

◆独占・競争?

 原発事故の関連して、当事者の東京電力の経営をめぐって攻防戦が続いている。
 東電は、原発事故の復旧や放射能汚染に係わる損害補償などで実質的な破綻が明らかで、巨額の国家資金が東電に投入され、さらなる投入も不可避の情況にある。その東電の当事者責任を問う意味でも、発送電分離や経営者の解任など、東電国有化の是非をめぐって政官業の間でつばぜり合いが続いている。
 事故発生の衝撃がさめやらない初期の民主党政権は、発送電分離や原発停止を視野に東電の国有化をめざす動きも見られた。が、現在の野田内閣は、産業界からの圧力もあって原発再稼働や東電存続に軌道修正している。あわせてエネルギー政策全般についても、一時浮上した再生可能な自然エネルギーへの転換も後退傾向にある。九電力体制再編の動きも弱く、また自然エネルギーへの転換のためのテコ入れも不十分だからである。
 この東電解体をめぐって初期に浮上したのがいわゆる発送配電分離、電力供給の自由化推進だった。発送配電分離そのものは他の民間発電事業や中小規模の発電事業者による参入も含めて、確かに東電による電力供給の独占に風穴を開け、東電解体につながる政策だった。現に、全原発停止≠ニいう現実を受けて民間事業所の自家発電も含めて東電以外の電力供給も増えているし、また各地域のベンチャーなど、太陽光発電や風力発電などへの新規参入も始まっている。
 とはいえ、これらの民間事業者の参入や再生可能な自然エネルギーも、一極集中の経済構造のなかでは自ずと限界がある。
 そもそも東北や北陸になぜ原発が林立したのか。首都圏や近畿圏の大消費地に安定した大規模電力を供給するためだった。結果的に原発依存や長距離の送電網がつくられた。
 要は、大規模発電、原発依存、九電力独占体制は、一極集中型の経済成長路線と不可分の関係だったわけだ。それらの土台で部分的に自然エネルギーの導入に道を開いても、それは旧態依然とした電力独占体制の生き残りに都合がよい範囲に取り込まれてしまうだけである。
 それにソフトバンクやシャープなどが始めたメガソーラー≠ネどという大規模自然エネルギー方式の違和感だ。自然エネルギーへの転換というからには、大企業による電力供給の独占に風穴を開けるものでなければ意味がない。大企業でしかできないような大規模発電を指向することではないはずだ。
 要は、自然エネルギーへの転換は、分散型社会・地産地消型社会・自主自律型社会、総じて協同・協調型社会づくりと併せて取り組むべき課題であって、一極集中型の経済成長至上型社会との決別でもあるはずだ。

◆分散型社会

 分散型社会を指向すべき根拠は、輸出主導経済一辺倒の経済成長路線の行き詰まりにもある。
 昨年は世界第二位の経済大国の地位を中国に譲ることになった。また昨年は貿易収支が赤字に転落し、債権投資や多国籍企業による収益移転など資本収支でやっと経常黒字を維持した。要は日本が生産基地から消費地・利子生活者の地位に様変わりした、ということだ。
 60年代から80年代にかけて高度経済成長を謳歌して東洋の奇跡といわれ、またその絶頂期にはジャパン・アズ・ナンバーワン≠ニいわれた時代は過去のものとなったわけだ。いまでは中国を始めとしたいわゆる新興国≠ェ台頭し、日本は抜き去られる時代に入ったことになる。
 しかしちょっと考えてみれば、戦後日本の高度成長はいくつかの条件が重なったことで実現した、きわめてまれなケースだった。いつまでも続くと考えるほうがおかしいのだ。そのいくつかの条件とは、戦禍による旧来型工場やインフラの消滅、豊富な若年労働力、低賃金、追いつき追い越せ型の活力、日本株式会社といわれた国家主導による大企業重視の経済成長政策などだ。これらは経済の成熟≠ニともに次第に失われたものだった。
 日本では高度経済成長の原動力となった黒字経済によって為替相場で比べた相対的賃金は上昇し、大家族社会は一極集中経済化も含めたお金至上社会のなかで少子高齢化社会に変わり、政官業の癒着と非効率化の弊害も露わになってきた。なにより日本の先進国化で、第二・第三の日本の登場の余地を拡げてきたからだ。
 中国などの新興国の推移は、まさに日本の高度成長期の再現であり、日本など先発国に取って替わっただけの話だ。最近になって中国で低迷の兆しが見られるように、その後発国でも永遠に続く高度成長などあり得ないのだ。
 これらを考えれば、国土で世界の0・25%、人口は2%足らずの日本、2050年には総人口9000万人で今より3500万人減少する日本は、世界で10%弱を占める経済大国の地位を維持することは無理なのだ。むしろ国家単位で2位だ3位だということ自体、あまり意味がない。むしろこれから目指すべきは、単に経済の規模や物質的な生活レベルの向上ではなく、利益やお金至上主義から脱した、大量生産・大量消費型社会から脱して満足感や幸福感を重視した社会ではないだろうか。大事なのはこうした発想の転換であり、社会原理の再構築だ。それは自然や周囲の人々との共生を重視した、再生可能・持続可能な生活スタイルへの転換であり、また一極集中経済から分散型社会への転換でもある。
 大震災・原発事故から一周年。思いは様々だろう。復旧・復興や脱原発の闘いも緊急勝つ重要な闘いではある。そうした目の前の課題に挑戦するとともに、より中・長期的課題とすりあわせた闘いと取り組みが求められているのではないだろうか。(廣)案内へ戻る


映画紹介『ブラッド・ダイヤモンド』 2006年製作のアメリカ映画。

先月テレビで再放映され、少しおもしろいなと思ったので紹介する。
「ブラッド・ダイヤモンド」(紛争の資金調達のため不法に取引されるダイヤモンド、いわゆる紛争ダイヤモンド)を巡るサスペンス映画であったが、「おもしろいな」と思ったのは、「内戦」状態の残虐性の暴露とダイヤモンドに対する欲望に関わるサスペンス映画だけでなく、「内戦」の背後で動く、ダイヤモンドという資金源の闇取引を暴き、すべての利権の背後には先進国の大企業等がいる事を暗に暴露している点である。
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【ストーリー】
 内戦(1991-2000年)が続くアフリカ西部のシエラレオネ共和国。貧しい猟師ソロモン(ジャイモン・フンスー)の村は反政府過激派のRUF=統一革命戦線に襲われる。家族散り散りとなり、ソロモンは捕らえられ、奴隷としてダイヤモンド採掘場に送られる。なんとしても家族の元へ戻りたい彼は、RUFの武器調達の資金源となるダイヤモンド採掘場での強制労働中、そこで偶然見つけたおよそ200カラット(おそらく時価数億円)のピンクダイヤの原石を、監視の目を盗んで隠そうとするが、RUFのポイゾン大尉(デヴィッド・ヘアウッド)に見つかってしまう。丁度その時、政府軍による攻撃が始まり、顔を負傷したポイゾンとともに、ソロモンは留置所へと連行される。
 一方、ローデシア(現・ジンバブエとザンビア)出身の白人傭兵のダニー・アーチャー(レオナルド・ディカプリオ)は、RUFに武器を調達し、代わりに受け取ったダイヤモンドを隣国リベリアへ密輸中に逮捕されてしまう。留置所でのソロモンとポイゾンのやり取りを聞いたアーチャーは、ソロモンが見つけた大粒のピンク・ダイヤを手に入れて、紛争の絶えないアフリカの地を脱出するための切符にしようと考える。密輸商人のアーチャーは、ダイヤと交換に彼の家族を探し出すと申し出る。アーチャーは、有能な女ジャーナリスト、ボーエン(ジェニファー・コネリー)にダイヤ密輸のノウハウという特ダネを渡す事と引き換えに、正規の報道パスの力で二人を紛争地から脱出させるよう頼む。
 紛争ダイヤの密輸の実態を追うジャーナリスト、ボーエンの協力を得たアーチャーは、ソロモンとともに採掘場を目指すが、ソロモンの悲しみと、シエラレオネの悲惨な現実を目の当たりにして心が揺れる。一方、RUFの首都制圧で自由の身となったポイゾンは、ソロモンの長男を拉致し、少年兵(この映画では、反政府勢力のRUF側にのみ少年兵が登場するが、実際にはシエラレオネ政府軍も少年たちを兵士にしていた。)として麻薬漬けにして、ダイヤのありかを突き止めるのに利用していた。さらにアーチャーの上官であるコッツィー大佐もダイヤを狙っていた。
 ダイヤ取引の情報をボーエンに託した後、アーチャーはコッツィーの部隊を誘導して採掘場を制圧する。そして、ソロモンと息子を人質にするコッツィーと傭兵達を倒すが、彼も被弾。ダイヤをソロモンに渡し、後に残って追手に銃を向けるのだった。
 ソロモンはジャーナリスト・ボーエンの協力のもとに紛争地から脱出し、証言台に立つのであった。
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 背景となったシエラレオネは高品質なダイヤ産地であると同時に、漂砂鉱床で採掘が容易という点があげられる。川をザルですくえばたまにダイヤが引っかかるわけで、大規模な施設を持たない(持てない)ゲリラ組織の資金源として狙われるわけだし、ここでゲリラたちが他の捕虜に対して行う残虐な行為の数々も、実際にRUFが行った蛮行として有名なものだから、結構リアリティなのだ。現実にもこの国はアフリカ最大の密輸国で、ダイヤを狙う紛争が絶えなく、世界でもっとも平均寿命の短い国としても知られていた。
 主人公のダニー・アーチャー(レオナルド・ディカプリオ)が自分の出身地をローデシアだと語り、暗に背景にいるものを示唆しているが、ローデシアとは今のザンビアとジンバブエのあたりの事だが、ローデシアとは、白人たちがローズという男性の名からとって名づけた国名なのだが、このローズとはいったい誰なのかというと、全世界のダイヤモンドの流通を長年独占し続けてきたデ・ビアス鉱業会社(映画の中では仮名が用いられる)の創始者セシル・ローズ(彼はデ・ビアス鉱業会社を通じてトランスヴァール共和国の産金業にも進出して、世界最大の産金王にのし上がるとともに、南アフリカの鉄道・電信・新聞業をもその支配下に入れるまでになった。)に他ならない。ブラッドダイヤモンドで一番儲けてるのは誰なのかを、この映画はここでさりげなく匂わせている。
成功と美の象徴であると同時に、死と紛争の象徴でもあるこの宝石について、その闇の部分に切り込んだのがこの『ブラッド・ダイヤモンド』のおもしろさであろう。(光)


石巻・女川の一年後

今度は、三月一日から三日にかけて、宮城県の石巻、女川を訪れました。
初日、仙台から東北方面に向かう仙石線はいまだ寸断されており、松島海岸駅から矢本駅は代行バスで、矢本から石巻まで再び電車に乗り継いで行きました。
やっとたどり着いた石巻で、旧北上川沿いに海に向かうと、ほぼ一年経てどもあちこち瓦礫の山がそびえたち、大規模な被災状況は変わっていません。ひたすら現場を歩き回り、地道にボランティア活動をしている方々のお世話にもなりました。
松島のまつひびさけて突き刺さる 心の被曝溶かす雪ありや
翌日は、バスに乗り継いで、石巻からさらに女川に向かいました。
駅がどこにあったのか、なにがなんだかわからない壊滅状況でした。港にごろっところがった建物、ぼろぼろの大きなビル、他に何もありません。昨年、岩手県の宮古から大槌町、山田町〜吉里吉里にたどったときの惨状が脳裏に彷彿して・・・。
尋ねるにも歩いている人もなく、ただひたすら徘徊し、おまけに午後からは大雪になりいつの間にか一つ手前の浦宿駅にたどり着きました。印象的だったのは、女川原発や東北電力の宣伝看板と被災の現実がパラレルにある目もくらむような落差でした。
ちはやぶる神も仏もなきものと 女川の港の空の空
二日の夜は、東北大学の都市・建築学専攻仮設校舎での「東北大学から始まる国際巡回展3.11東日本大震災の直後、建築家はどう対応したか」に参加しました。ゼネコンや大手のホームメーカーが復興ビジネスに群がる中、ささやかな試みも貴重かと思います。(津村 洋)
参照:『3.11万葉集 復活の塔』彩流社2012年3月11日 案内へ戻る


愛だよ愛! さよなら原発・集会とデモ

 3月10日、屋外での集会にしては少し肌寒い1日でした。けれど、メリケンパークの海から吹く風もものともせず、舞台では熱いアピールが続きました。七五三の時の晴れ着で登場した増山麗奈さんは、福島から子ども連れで避難してきた一人です。関西に住む私たちに、福井の原発が世界で最も密集した危険な原発であること、その福井の原発が再稼動するかどうかが、日本の原発の行方を左右する大事な時期にきていることを訴えました。
 14基もの原発が立ち並ぶ福井県の若狭湾。その若狭で昨年の12月はじめ、最も危険な「高速増殖炉もんじゅ」を止めるよう申し入れをするための現地集会に参加してきました。現地は、人影もなくひっそりとした過疎地、関西に送るために作られた電気を現地の住民の方は犠牲になって、原発立地の見返りを「恩恵」として暮らさざるをえなかったのです。このことを私たち関西に住む者が、深刻に受けとめ原発にどう向き合うのか、真剣に考えなければなりません。
 他にも、いわき市から神戸に避難してきた母親と小学生の子ども2人のアピールがあり、夫との別居生活で体調を崩し避難生活の大変さが切実に伝わってきました。それでも現地に残った子どもたちのために、給食の安全性を求める運動を初め福島とのつながりを大切にし、自ら行動を起こしました。「異色な賛同者」としては、西宮市出身の多田悦子さん、彼女は「WBA女子ミニマム級チャンピョン」で、夜間高校に通いながらボクシングを習得。自分は原発の詳しいことはよくわからないけど、こどもを守るためなら協力したいと反原発に賛同してくれました。
 何組かのミュージシャンが演奏し、アフリカパーカッションとダンスで集会は終えていきました。元気な若者のそれぞれの個性を生かした演出に、少し付いていけない部分もありますが、アピールのパワーには圧倒され感心させられました。デモのスタイルもシュプレーヒコールしか知らない私たちの世代からは、考えられないほど解放された自己表現に羨ましささえ覚えました。道行く人も振り向き注目する彼らの音楽・踊り・アイデアのある小道具に、学ぶこと多々ありのデモ行進でした。
 緊急課題としては、大飯原発3・4号機の「再稼動」が、国と関西電力によって強引に進められようとしています。再稼動に発言権があるのは福井県とおおい町のみです。福井県会議は3月16日、おおい町会議は3月22日が最終日です。3月議会で再稼動が議決されなかった場合、政府は3月23日から31日の間に、政治的な決着をはかる可能性もあるということです。関西に住み福井県の原発を頼っている私たちが、もう原発の電気はいらない! と、きっぱりと態度に示すことこそが再稼動の歯止めとなるのです。大事な時期を再度確認し、この政府の企みを阻止しましょう。(恵)


編集あれこれ
 前号は10面の紙面でした。もう少し記事があったらよかったと思います。さて1面は、「国民犠牲の財政赤字削減路線を許すな!・・・世界の労働者は団結しよう・・・」と題する記事でした。ギリシャの財政赤字削減案が、増税、公務員の定員削減・給与削減、年金削減など大衆犠牲に基づくもので到底認められません。EU内の資本家と政府が債務の完全棒引きと無償援助をするべきです。そして、日本も巨大な財政赤字があり、野田内閣は消費税大増税と社会保障削減をやろうとしています。増税は、一般大衆への負担増になる消費税ではなく所得税の累進課税の強化、法人税の負担増、相続税の負担増などお金のあるところからの負担増で対処するべきです。
 2・3面は『《税と社会保障の一体改革》を考える』と題する記事で、野田内閣がやろうとしているのは負担増と給付減であり、膨れあがった借金は主に企業と富裕層への優遇税政策と不況対策に使われています。負担能力のある企業や、金持ちからの課税強化を実行するべきです。そして、利潤至上主義の市場原理からみんなが安心して暮らしていけるような社会への脱却を目指しましょう。
4・5面は連載で北朝鮮や旧ソ連について述べています。6面は、「マイナンバー」という国民総背番号制について述べています。野田内閣は、これを法案として今国会に提出しました。1人1人に1枚のカードを配布して、所得や社会保障の受給実態を把握し、それぞれに応じた社会保障給付を実現することが目的です。しかし、個人情報を1枚のカードに集約すると情報が漏洩した時、すごい被害が出ます。そして、権力の暴走を止めるためにも、情報は分散していたほうがいいと思います。
 あと、色鉛筆や読者の声の記事も充実していました。特に読者の声では、福島からの記事で被災地福島の状況がよくわかりました。東日本大震災から3月11日で1年、被害を最小限にとどめるためにも脱原発を!
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