ワーカーズ468号 2012/7/15  案内へ戻る

小沢新党、維新の会・みんなの党は二度目の茶番
求められているのは労働者・市民自身による第三極の形成


 「国民の生活が第一」「コンクリートから人へ」「官僚依存政治打破」を掲げて政権を取った民主党は、今ではマニュフェストのほとんどすべてを投げ捨て、第二自民党と化した。
 民主党を批判する自民党や公明党も、変身≠オた民主党と同じく消費税増税、社会保障や福祉の抑制、TPP推進、沖縄の基地強化に意欲満々なのだから、その民主党批判は迫力を欠き、空疎なパフォーマンスに堕さざるを得ない。民主党は財界とアメリカの意向に忠実な官僚組織にその身をゆだねることで生き残りを図り、自民党は本来の保守≠演出することで後退を免れようと必死だ。両者とも、領土要求や天皇主義など困ったときのナショナリズム≠ノさえ訴え始めている。
 民主と自民のていたらくに乗じて、意気軒昂に見えるのは橋下維新の会やみんなの党、そして小沢新党だ。彼らは、自民と民主に代わる新たな第三極勢力として、急進的な革新勢力であるかにさえ装いながら、有権者の歓心を買おうと躍起だ。
 しかし、冷静に見れば、彼らの掲げるスローガンには、何の目新らしさもない。「維新」や「みんな」の公務員バッシング、社会保障や福祉への扇動的攻撃、民間的手法の礼賛、成長戦略の呼号は、小泉純一郎の新自由主義政治の二番煎じだ。小泉の新自由主義は格差と貧困を耐えがたいまでに深刻化させ、破綻した。小泉構造改革をさらに極端化した点に新味があるだけの「維新」や「みんな」の政治が、さらなる貧困拡大と社会崩壊を結果する以外にないことは、試してみるまでもなく明らかだ。
 小沢新党が主張する「国民の生活が第一」「官僚依存打破」などへの原点回帰≠焉A結局は頓挫した2年前の民主党の政策の焼き直しに過ぎず、鳩山から菅を経て野田に至る財界と米国と官僚への屈服の道を再びたどるしかない。
 求められているのは、ブルジョア政治のこうした種々の潮流、自民党が体現する伝統的保守政治、「みんな」や「維新」が極端化させようとしている市場と民間礼賛の政治、権力奪取のみが関心事で政策は新自由主義でもケインズ主義でも社民主義でも何でもありの小沢新党などと真っ向から対峙する、労働者・市民の立場に立った真の第三極の政治勢力だ。
 その依って立つところは、働く人々自身の自主的な協同と連帯に基づく社会を目指す立場だ。現在の生産力は、極めて高度な生産性を実現し、それぞれの構成要素が不可分な形で社会的に有機的に結びつくことで成り立っており、担い手である働く人々も同様に、意識するとしないとにかかわらず互いに宿命的な協働関係の中に置かれている。この協働関係の中に置かれた働くものたち自身が、全社会の生産と分配と消費を、自然環境との調和を配慮しながら、意識的・自覚的な協議に基づき組織していく社会。そうした社会へと接近させる方向で、深刻の度を増しつつある社会矛盾、労働や社会保障や福祉や外交や国際関係等々の問題解決を目指す政策綱領を持った新たな政治勢力を、働くものの共同作業を通して生み出していかなければならない。 (阿部治正)


動き始めたオランドの反緊縮政策と成長戦略は成功するか

付加価値税の増税を撤回、富裕層へ課税を強化

 7月4日、フランス政府は、今年度の補正予算案を閣議決定した。この中で付加価値税(日本の消費税に相当)の引き上げを撤回して富裕層への課税強化を打ち出した。
 この付加価値税の引き上げは、雇用対策としてサルコジ前政権が今年10月からの実施を決めていたもので、現行の最高税率の19・6%を21・2%に上げる予定だった。
 今回、オランド政権が付加価値税の増税を撤回させたのは、今年5月の仏大統領選挙において寄せられた圧倒的な支持であった。つまり国民負担の緊縮策を強いるサルコジ前大統領が敗北し、反緊縮政策と成長戦略を掲げ勝利させた選挙公約の具体化した一方、他方で同じく選挙公約であった富裕層や大企業への課税を強化したものである。
 この課税強化は、財政赤字削減の目標達成をめざしたもので、72億ユーロ(約7200億円)を盛り込んでいる。金融取引税も税率を現行の0・1%から0・2%に引き上げ、富裕層の資産を対象とする「富裕連帯税」は13年からの引き上げを前倒しして、高額の相続や贈与、株主配当金への課税も強化する方向を明確にしている。
 このように政府は、サルコジ前政権時代に導入された多くの措置を撤廃した。従業員20人以上の企業に対する残業代の税制優遇はその1つで、これにより今年9億8千万ユーロの税収を確保できる見通しだ。確かにサルコジの悪行を阻止した事にはなる。しかしながら全く意味をなさないとはいわないもののフランス国家財政の穴はとにかく大きく、72億ユーロ規模の増税だけでは、今年の財政赤字を国内総生産(GDP)の昨年の5・2%から4・5%に抑えるとの公約を辛うじて果たせるだけだ。
 それより一段と困難な事は、仏会計検査院の試算では赤字をGDP比3%まで削減するために穴埋めが必要となる330億ユーロの財源不足をどうやって解消するかにある。
 こうして大統領は、公共支出の中でも医療や福祉手当、所得移転などのコストが高い分野に切り込むとともに、問題になっている行政府の規模を縮小に手を付けなければならない。しかしこれらに手を付ければ支持層からの政治的批判が巻き起こるのは必至の情勢ではある。当然の事ながらこの難問の解決にこそ、成長戦略成功の鍵があるのである。

フランスの付加価値税とはどんなものか

 ここで読者のためにフランスの付加価値税について説明しておこう。
 付加価値税とは、1954年第2次世界大戦後の財政立て直し期にフランスが発明し、世界で初めて導入された間接税の仕組みである。
 それは従来の複雑な税制度を一掃して、もともと存在していた収入や売上に対する税金(所得税、売上税)に、付加価値税(購入行為ごとに一定税率を徴収)を加え、シンプルな2本立てにした。つまり入ってくる金と出ていく金にそれぞれ課税するものなのである。
 現行のフランスの付加価値税とは、さらに複雑化し品目によって課税の税率が19・6%、7%、5・5%、2・1%の4段階に分かれている。最高税率19・6%は、別の税率適用が定められた品目を除くすべての財とサービスの販売にかかるもので、映画・演劇・書籍などの文化や観光関係には7%、水や食料、ガスなどの必需品には5・5%が適用され、特別品目に分類される保険薬、新聞、テレビ受信料の税率は2・1%となっている。
 またこの税率の運用についてはかなり細かい規定があり、日本では信じがたい事だが飲食業界では経営形態で、また店舗内でも座る席により、課税率が違うとされている。
 ここで確認できる事は、食料品等の生活必需品には税率が低く、贅沢品には課税率がその4倍ほどであるという事実である。日本の消費税はこうした配慮が一切されていない事に注目しておかなければならない。それゆえ日本の消費税制度は5%と低率ではあるが、その内実は収入格差に対して逆進性が異常に高いまさに酷税とはなっている。したがって今回の野田政権の消費増税は、世界史上でも呆れ果てるほどの悪政なのである。

成長戦略の課題とは何か

オランド大統領は富裕層と大企業に増税を課す事で、フランスの有権者との約束を果たしたといえる。しかし当然の事ながら国家財政の穴は増税だけでは埋められない。しかも大統領は、選挙時にフランスの肥大化した公的部門の全体的な雇用水準を維持すると約束していた。それゆえ大統領の苦闘は今から始まるのである。
 ギリシャを見るまでもなく、公的部門の制度内改革は今後フランスにおいても避けられない課題となるであろう。大統領はすでにただでさえ物議を醸している賃金凍結を延長した。その次には公務員に対して昇進制度を改革せざるをえない事になるだろう。
 ここで大統領が経済再建と経済成長戦略を成功させるカギは、サルコジを敗北させた圧倒的な労働者市民と誠実に向き合う中にしかない。これは単に、秋に労働組合と合意する見込みの財政、労働市場改革にとどまる事はできない。まさに戦術ではなく戦略にある。
 それらの実行のためには、雇用政策と社会福祉の充実に力点を置いたフランス社会党の伝統的な社民政策の自己改革が不可欠になるであろう。彼らにその覚悟はあるだろうか。今求められているのは、矛盾に充ち動揺する資本主義社会の一時的な安定や再生ではなく、自立した労働者個々人の自律した新たな「労働社会」だからである。
 ヨーロッパでは、今緊縮策が反緊縮策かが大きな議論になっている。この課題の克服が歴史的な問題、また労働者階級が解決すべきものとしてまさに提起されているのである。
 この課題を解決するには、自立した労働者個々人の自律した労働組織を再建するマルクスの理論=「生産手段の共同占有を基礎とする個々人的所有の再建」を実現する以外ないのである。これこそ、現実に生起する諸問題の最終解決となるものである。   (猪瀬)案内へ戻る


「沖縄通信ーNO.24」・・・オスプレイの「事故隠し」

 琉球新報は7月10日「米海兵隊にオスプレイの『事故隠し』の疑惑が生じている」と報じた。
 開発段階から事故が多いと指摘されてきたオスプレイ。これまで、日本政府が公表しているだけで1991年以降、開発段階で4件、実戦運用開始後は3件の墜落事故を起こしており、死者は36人に上る。
 オスプレイの事故率は「1.28」で、海兵隊平均は「2.46」。ワシントンの米海兵隊総司令部航空局のオスプレイ担当者は「オスプレイの事故率は海兵隊の平均よりもいい、危険率が低い」と強調していた。
 ところが新報によると、米側はオスプレイの事故率について、200万ドル以上の損害や死者が発生した「クラスA」で算出しており、損害200万ドル未満やケガ人発生などの「クラスBとC」の事故率は含めていないことが判明した。
 事故発生状況のまとめは、米海兵隊サイト内の海兵隊総司令官安全課の発表資料として記載されているという。
 それによると、2006年11月〜11年12月のクラスA〜Cの事故が、計30件起こっている。
 クラスAの事故は2件。クラスB(50万ドル以上、200万ドル未満の損害や、一部永久的な障害が残るケガ人が発生)の事故は6件。滑走中に前脚が機体から外れる事故など。
 最も多いのが、クラスC(5万ドル以上、50万ドル未満の損害や致命的でないケガ人が発生)で22件。高い位置でホバリングした際、着陸帯以外で墜落する形で着陸する事故などが発生した。
 さらに今回、オスプレイの「事故隠し」の疑惑が生じている。
 現地アマリロ紙などによると、事故は06年3月27日に海兵隊ニューリバー基地(ノースカロライナ州)で発生。3人の乗員が機内で飛行に向けて準備していたところ、突然機体が上昇し、約9メートルの高さまで上がって地面にたたきつけられた。ケガ人はなかったが、エンジンが損壊した。飛行予定がなかったとの理由で事故の統計から除外された。
 また、オスプレイは09年6月の米議会の調査で、それまで予算付けし海兵隊に納入されたはずの145機のうち、海兵隊へのヒアリングによる保有数を「105機」と記載。40機が所在不明になっており、過去の事故が隠蔽されている疑いもある。と新報は報じている。
 このように米国でも、オスプレイの事故の多発と「事故隠し」が問題になっており、いくら森本防衛大臣が「米国は今まで苦労に苦労を重ねて、新しい技術を開発し困難を克服した。私はその運用に成功すると言うことに確信を持っている」と述べ、安全性に自信を示している。
 しかし、いくら自信を持っていると言っても、もし事故が発生した時誰がその責任をどのようにとるのか。仲井真知事が言うように「オバマ大統領ですか?」と聞きたくなる。
 沖縄では、オスプレイの安全性に対する懸念は日に日に強まっており。そうした中、事故が多発している実態があらためて明らかになり、また「事故隠し」の問題が浮上し、オスプレイ配備の阻止闘争はさらに高まりそうだ。
 いよいよ8月5日(日)午後3時より、宜野湾海浜公園で「オスプレイの県内配備に反対する県民大会」を開催する。(富田英司)


読書室『テレビは原発事故をどう伝えたか』著者 伊藤 守平凡社新書 780円

◆あの原発事故から1年半あまり。今でも原発周辺住民の避難生活が続いており、また膨大な人々が目に見えない放射能の恐怖のもとでの生活を余儀なくされている。その原発事故では、多くの情報をテレビや新聞など、大手メディアに頼らざるを得なかった。なかでも目の前で刻々と進行する原発事故をほぼリアルタイムで報道するテレビは多くの人が目にしていたし、福島県民のみならず人々に頼りにされていた。それだけテレビの影響力が大きかったといえるが、そのテレビ報道の多くは「大本営発表」に終始した。なぜそうなってしまったのか。それらを考える材料としてメディアで一番身近で影響力のあるテレビは原発事故をどう伝えたのか、ということを検証するのが本書のテーマになっている。
 本書はそのテレビ報道のなかでも事故発生から一週間に限って、NHK始め民放各社のニュース番組を中心に細かく検証している。私としても後日の検証目的もあって、新聞などは事故発生から一ヶ月分ぐらい手元に置いていた。が、雑誌の特集号など発行されるようになって、結局そうした新聞は回収に廻してしまう始末だった。新聞や雑誌などは保管して検証することはできなくもないが、テレビとなるとまた別である。NHKだけでなく民放各社もカバーした映像ビデオの保管は、個人としてはほとんど不可能だからだ。そうした意味でも、それらを一冊にまとめた本書はテレビメディアの検証にはとても役立つ一冊だ。

◆予備知識
 筆者は、情報の発信やその報道が「大本営発表」となった構造的な要因を権力の存在≠ノ観る。今回の事故でも、通報や報道の遅れ、それに《安全》《安心》の垂れ流しや意図的な情報コントロールが横行した。国家の威信をかけた原発推進に対する責任回避を優先するあまり、「パニックの回避という名目の下で、既存の秩序と体制の維持、経済的負担の回避が優先され、何よりも優先されるべきことがらが軽視された」と、権力やメディアを指弾する。『権力はつねに嘘をつく』現実が、またしても再現されたわけだ。
 本書が対象とする事故後の一週間の中でも、筆者は、地震発生から一号機の爆発まで、一号機の爆発、3月13日から14日の三号機の爆発まで、3月17日ヘリからの水の投下、という四つの場面に焦点を当てて検証している。観点は、〈権力との関係〉〈科学者・専門家との関係〉〈被災者や避難住民との関係〉という三点だ。
 事故後の一週間は、全電源の喪失、周辺住民への避難指示、一号機爆発、三号機爆発、二・四号機の爆発,ヘリや放水車による放水と続く。その過程で浮かび上がった問題も多い。たとえば事故直後の炉心の状態、一号機爆発をとらえた福島テレビの映像発表の遅れと解説の仕方、放射能の拡散をシミュレーションしていたSPEEDI予測図の隠蔽、炉心溶融に関する報道内容や解説、放射能汚染の拡散に関する報道、などだ。本書は、それらに関する政府の発表やNHK・民放各社の報道内容、専門家の発言などを丹念に文章化し、それらの発言や報道姿勢の中からいくつかの共通する意図をあぶり出していく。具体的には、政府発表への依存と追従、事態推移の楽観視、安全に対する根拠なき追随や誘導、専門家による明らかな詭弁と言い逃れなどだ。たとえば、誰が観ても爆発としてしか見えない一号機の水素爆発を映したビデオを目の前にしながら、「爆破弁による意図的な排気作業」と強弁した専門家とそれを誘導した局アナ、放射性物質のスクリーニングに対して、「被曝」ではなく「汚染」だと詭弁を弄する専門家の発言などは、その好例だ。

◆インターネット上の情報発信

 本書では、テレビメディアに対比する形でインターネット上の情報発信も検証している。著者はネット上の情報発信について手放しで礼賛する立場は取っていないが、それでもテレビよりもはるかにリアリティーある正確な情報を提供したと評価する。たとえば本書で取り上げている二つの情報発信だ。一つは事故翌日の3月12日夜にアップされたIndependent Web Journal(IWJ)による原子力資料情報室の映像記者会見であり、もう一つは福島県内の学校施設除染問題を取り上げたOurPlanet-TVの映像だ。
 そこでは原発プラントの実質的破綻という事態をほぼ正確に指摘しており、また核心に触れないテレビ報道を的確に指摘・批判していた。学校の除染問題についても、政府が設定した汚染レベルがいかに無謀で無責任なものかを、チェルノブイリのケースを参考にしながら浮き彫りにした。
 これらのネット上の情報発信は、と、著者は新たに生じた情報空間の変化を実感する。これまで情報を独占してきたと思われていたマスメディアによる報道を相対的なものにしたという意味で市民とメディアの関係を決定的に変えた、と。今回の原発事故報道で、テレビは人々の信頼を決定的に失ったのだ。
 そうしたメディアの失敗として著者は、
 確実な情報と政府の発表を同一視したこと
 確実な情報をメディアが所有し「知らない」国民に教える・伝えるという、情報を共有するという観点と正反対の情報観
と概括し、その上で問われるべきは、メディアが本当に市民の生命と健康と財産を守ったかの、ということに尽きると、指摘している。まさしく多くの人々が感じたことでもあろう。

◆本書の評価

 著者は社会学者で、専門はメディア文化、聴視者の研究者。本書でもそうした立場から〈メディアは熟慮民主主義社会の構築にいかに貢献できるか〉という問題設定で、〈情報の共有〉こそが重要だとして著者なりの観点を提示している。
 そのうえでテレビメディアの特徴を「楽観論の言説」「可能性の言説」「安全」「安心」の言説に終始したとし、マスメディアとネット上の情報発信の併存情況のなかで、「共同知」「集合知」の生成の萌芽、要するに集団的知性が形成されつつあると総括する。本来、人々が求める的確な情報は政府や企業の所有物ではあり得ないにもかかわらず、実際には政府やメディアの所有物として扱われている。そうした制約を突破することが必要なのだという観点は普遍的な意義を持つもので、なにも原発事故に係わる情報発信に限ったことではないだろう。
 それはたとえば偵察衛星の導入などでもいえることだ。
 偵察衛星の導入では対象国の実情をリアルタイムで把握することの防御的な意義が強調された。しかし、防御と攻撃は表裏一体のものであり、それに把握された情報は人々に共有されなければ正確な判断につながらない。が、偵察衛星では、得られた情報は国家機密として人々の目から隠蔽されるし、現にそうだった。それを知るのは政府だけであり、政府の独占物になる。
 事故から一年半、《大本営発表を垂れ流した》との批判が絶えないテレビ局は、自局の報道内容の真剣な検証をした気配もないし、今後もないだろう。国策に係わるような事態では常に《大本営発表》は繰り返されるものだ、と心得たい。(廣)案内へ戻る


コラムの窓・・・・臓器売買!

 本紙前号で、移植医療について触れました。その続編みたいですが、6月26日付けの「神戸新聞」にドリェバツ発の共同配信の記事が掲載されていました。見出しが「広がる臓器売買」という目を釘付けにするもので、ネット相場「腎臓200万〜300万円」≠ニあります。
 ドリェバツがどこかというと、旧ユーゴ・セルビアの都市です。アジアで表面化していた臓器売買の動きが欧州に拡大したと報じ、セルビアや隣国マケドニアのインターネット掲示板に「腎臓売ります。O型の健康体」「50代男性。生活費が必要」などの書き込みがあるそうです。
 さらに、次のような窮状が紹介されています。
「ドリェバツの主婦、ビオレタ・サビッチさん(43)は『子供のために腎臓でも肺でも血液でも、何でも売る』と話す。5年前に失業し、両親のわずかな年金が頼り。10代と20代の息子に1日1回、イモや豆の食事を用意するのがやっとだ。『近所の誰もが失業し、みんな飢えている』と語り、涙を浮かべた」
 腎臓は腹部の左右に一対あり、それぞれ尿管が膀胱に伸びています。血液を濾過し、老廃物や体内の水分を排出します。この血液を濾過する能力が低下し、ついに腎臓の機能がほとんどなくなる末期腎不全になると人工透析が必要になります。その原因は、高齢化や食事の欧米化に伴い増加している糖尿病や高血圧などです。
 こういう非常に重要な役割を果たしていますが、2個あるんだから1個取っても大丈夫、何とか生きていけるということなのでしょうが、肺も売るというのは余程のことだと思います。現実のはそんなことはないと思いますが、腎臓を売ったというような記事は前にも読んだことがあります。売血は日本でも過去にそういう時期がありましたが、困窮が人を追いつめ、文字通り身体を切り売りさせる、そうさせるものへの倫理的な非難だけではこの問題は解決しないのでしょう。
 そのことを思い知らせる別の情報が、北京発共同配信の新華社電「児童181人誘拐、802人一斉検挙」です。これは中国の公安当局が売買目的の児童誘拐グループを一斉摘発したという報道です。「中国では、売買目的の児童誘拐が社会問題化しており、公安当局が取り締まりを強化している」そうです。
 181人の子供たちは無事に親元に帰ったでしょうか、それとも売られて奴隷労働を強いられ、あるいは移植目的で臓器を取られてもう死んでしまっているのでしょうか。移植医療がこの闇の部分から目を逸らすなら、商品としての臓器≠フ供給は、さらにおぞましいもに成り果てるでしょう。 (晴)


曲がり角にたつ「アラブの春」
    エジプトの新大統領と革命のゆくえ


 去年の今頃はアラブ諸国に革命の嵐が吹き荒れていた。アラブの春ともいわれてきた。しかし、その中核的な存在であるエジプトでは、新大統領が確定し革命が新たな局面にはいった。
●大統領はムスリム同胞団
 大統領選挙第一回投票では、票が分散し誰も過半数に遠く及ばなかった。「革命」を主導した諸勢力も候補者を絞りきれず、票が分散した。その結果として残ったのが、一位二位のモルシ(得票率二五%)とシャフィク(二四%)であった。
 二人の決戦投票は、接戦となったがモルシに軍配が上がった。(モルシ五二%、シャフィク四八%)
 「革命」の主体である都市部の一般市民がしぶしぶ最後の段階でムスリム同胞団のモルシを支持した結果とみることができる。ムスリム同胞団の支持基盤は、貧困や政治腐敗に心を痛める知識階層や弁護士、その他多くは同胞団互助組織のなかで賛同を寄せてきた一般民衆である。去年の一・二月の革命の時点でも、ムスリム同胞団は陰ながら大きな組織的力を発揮したと考えられている。革命に参加した国民が二者択一を求められれば、軍閥政治家でムバラク政権の元首相よりも、ムスリム同胞団のモルシへの親近感は大きいだろう。
 一方、シャフィク候補はムバラク政権下で最後の首相をつとめたことで、厳しい批判にさらされてきた。ところが軍や財閥ばかりでなく、これ以上の混乱を今では望まなくなった国民大衆の支持をかなり集めたという見方もできる。あるいは「ムスリム支配」への危機感が予想以上に強かったのかもしれない。
 シャフィクを押してきた軍は、モルシ政権への「民政移管」を承認した。しかし、軍事最高評議会が六月十七日公布した「憲法宣言(暫定憲法)」で、解散された人民議会が再選挙されるまでは実権をはなさないことを明言しており、その後も「宣戦布告ほか軍に関する権限(国防予算)」を維持するとも。つまり一言で表現すればエジプトでは二重権力状態に移行しつつあるのかもしれない。
 ムスリム系の大統領が誕生したが、エジプトの急速なムスリム化と考える人は多くはない。そこで、エジプトで吹き荒れた「アラブの春」の現段階を検討してみよう。

●「七月革命体制」とムバラク政権
 ムバラクの体制の崩壊は、建国の父といってよいナセルの体制が行き詰まり、退廃していった結果として理解することができる。
 イギリスの半植民地的状態と王族や特権者たちによる富と権力の独占に対して、かつて大衆的な闘争が王政に対して巻き起こった(一九五二年一月)。この闘いは、少なくとも「アラブの春」より以上に深刻で激烈なものであった。
 政治的無秩序状態の中で、ナセル中佐の率いた「自由将校団」によるクーデター的権力奪取(一九五二年七月)が発生した。はじめのうちは、ムスリム同胞団や共産党との連携があったが、後にはたもとを分かち彼らを弾圧し独裁体制を確立していったのであった。若い将校たちは、地方の下層農民出身者が中心であったといわれている。腐敗撲滅と大地主の追放(農地改革)がその最初の政治的行動であった。
 しだいにナセルのスローガンは、「真の独立」「腐敗撲滅」から「アラブ社会主義」へと拡大されて行く。
 このナセルの「七月革命体制」とは、対外的にはイスラエルと対峙し、国内的には軍事的・警察的な強権体制である。すべての政党の禁止令が一九五三年に発令され、独裁体制は踏み固められた。経済的には農地改革と国有経済の拡大、輸入代替工業路線をとる。ようするに当時のソ連などをかなり模倣した社会体制を形成していったのだ。(ただし、ソ連のような農民の集団化はなかった。)
 さらにこのような指摘もある。「エジプトの七月革命体制は、あらゆる政治・社会運動を統制し、体制内に吸収してゆくという『アラブ的な全体主義』であり、形態は若干異なるが、シリアやイラクのバアス党体制などに対し、範を示すものであった」(『アラブ民衆革命を考える』国書刊行会)。
 さらに広く考えればムバラク体制とは、米ソ冷戦構造のなかで形成された「七月革命体制」の遺物であったといえるのである。今回の革命が、どこまでその遺物を一掃できたのかを検証する必要がある。

●「アラブの春」は市民革命
 ナセルの次のサダト大統領は、親米国路線に転換、イスラエルとも和平条約を締結(一九七九年)。外交的にはおおきく舵を切った。
 他方、経済的には、グローバル化の流れの中で、閉鎖的な輸入代替工業政策の転換を模索し外資導入などの開放政策に転換し一定の「自由化・開放経済」が推進された(註一)。
 しかし、ナセル〜サダト〜ムバラクという政権リレーは、すでに述べたように基本的な支配体制が維持される変化に乏しいものであった。つまり冷戦体制の遺物としての「アラブ社会主義」が変形しながらも護持されたのだ。サダト大統領が実施した多数政党政治の実現も、体制の根幹がかわらないかぎり不十分なものにとどまってきた。
 また、90年代にムバラク大統領によって実施されてきた「民営化」(註二)、つまり国有企業や財産の民間(特権的政商、親族など)への破格の払い下げも、国民の大きな疑惑と不満を蓄積させるものであった。さらにはこのような特権的で独占的な社会経済体制が是正されないままに、新自由主義的政策が展開され、中間的階層が現出する一方で、貧富の差の拡大、若者の大量失業、生活の不安定化や社会福祉・衛生の劣悪化といった問題が一挙におしよせてきたのである。
 そればかりではなくムバラクは息子への権力世襲を目指すなど、市民感情を逆なでし続けたのである。したがってこの体制の転覆は早晩避けれなかった。
 二〇一一年一月、チュニジアで最初の号砲がとどろいた。それはまたたくまにエジプトにも広がる。公務員労働者、民間労働者・失業者、その他の自営都市住民こそが「革命」の中心であった。他方には新興的ブルジョアジーによる一層の経済自由化を求める声もあった。
 ムバラクは去年一月の革命のさなかに「ナフジ首相以下、息子のガマール氏に連なる経済テクノクラーとをすべて切った。国民民主党(ムバラク与党)の組織委員長であった鉄鋼会社社長のアフマド・エッズ氏も党役員を辞した。特にエッズ氏は建設の鉄材の市場を独占的に支配し、二〇〇〇年に入ってからの建築ブームのなかで鉄材の値段をつり上げて、膨大な利益を得たという批判がある。」(『現地発エジプト革命』岩波ブックレット)。もちろん「トカゲのしっぽ切り」は手遅れであった。

●独自の権力としてのエジプト軍
 もともとナセルは「自由将校団」を率いる軍人であり、軍は政権の後ろ盾として重要な地位をこれまで一貫して保ってきたのである。
 しかし、ムバラクが去年、百万人規模の大衆行動の攻撃にさらされたとき、軍は自己保身のために彼をあっさり切り捨てたのであった。そして「中立」の「調停者」あるいは「革命の保護者」をこれまで演じてきた。
 エジプトにおいて軍は、単なる武装兵士集団ではない。この点は重要である。ナセルの「自由将校団」をはじめとして、政治の表舞台が混迷すると、前面に軍が登場した経緯がある。今でも影の統治者であり、そのことを一瞬でも忘れることはできない。
 エジプトの軍は、経済運営をも包括するコングロマリットなのであり、一つの政治勢力であるといってもよい。(「ニューズウイーク誌」はこれを「軍産複合体」と呼んでいる。)
 「中国や旧ソ連の軍隊と同様に、エジプト軍も軍事分野を遙かに超える広範なビジネスに関与している。軍は農業、製鉄、石油化学、などの多くの業界を牛耳り、アメリカからの年間13億ドルの軍事援助で購入した戦車や戦闘機の組み立てライン、修理工場を保有している。」「軍最高評議会は発電所や製鉄所、鉄道、港湾、投資銀行、製パン工場、家電メーカーなどから成る巨大な企業群を支配下に置いている。」(「ニューズウイーク日本版7/4」)
 軍こそ「アラブ社会主義」の負の遺産の一つ、いや最後で最大の遺物なのだ。軍がムバラクを切り捨てたのもこれらの権益を守るためであったろう。国家の資産がムバラクの親族や友人、軍高官に破格の安値で売却されたとか。モルシは大統領選挙戦のさなかに、ムバラク時代におこなわれたとみられる「怪しげな民営化を追求することも辞さない構え」をみせている(同上)。この帰趨(すう)は今後注目に値する。
 このようにして軍の存在は、政治的民主主義、情報公開、経済的公正を求める市民の要望とは対立することが容易に予想される。つまり「革命」は、ムバラク政府を瓦解させ、ムバラクを裁判にかけたが体制の根幹にはふれられていないのである。

●軍部と新大統領
 とはいえ正式に選出された新大統領モルシ政権を、武力で倒壊させることは軍といえども当面はできないであろう。ただし、「国民融和」を第一に掲げるモルシ政権だが、うまくゆかず大衆的な批判にさらされるならば軍が再び権力を直接奪回する可能性はある。(なにしろ、事実上の軍の代表者であるシャフィク候補が大統領決選投票で48%の得票を得ているのだから。)
 エジプトの労働者・勤労市民・失業者、自営市民は、モルシ新大統領による政治のムスリム化を厳しく監視しつつ、ムスリムの大衆と一致して軍の腐敗を追求し権力をそぎ落としていく長い闘いが必要であろう。
 モルシ新大統領は、旧支配勢力である最高憲法裁判所によって「無効」を宣告された人民議会選挙を「有効である」主張し七月八日「再招集」令をだした。これは当面の政治的攻防の焦点となるだろう。いっそう重要なものは新憲法起草委員会が動き出したことである。新大統領と軍の権限の関係あるいは労働者・市民の権利の新しい枠組みなどはまだ白紙のままだ。新憲法制定をめぐる攻防がその後のエジプト社会に大きな影響をもたらすだろう。

●「新市民革命」の歴史的意義は?
 歴史的な市民革命、たとえばイギリスの清教徒革命(一六四〇〜六〇年)やフランス革命(一七八九年)は、半封建的な旧体制の打倒ないしは変革であった。周知のようにこれらは、欧州の市民社会の形成と資本主義経済の発展に大きな役割を果たしたのである。
 ところが、約二十年前に「市民革命」が東欧諸国に吹き荒れた、ほかにも韓国、フィリッピン、南米諸国でも類似の変革が大衆的に闘われてきた。そして今、アラブ諸国でまさに闘われているのである。ここには一連の共通した条件がある。西欧に遅れることおよそ三〜二百年余の現代市民革命の意義をわれわれは問わなくてはならないだろう。
 これらの市民革命は、多くの場合十七〜八世紀の西欧にみられた封建的あるいは半封建的経済構造や身分制度、そしてそれらに基礎をおく特権者の政治体制との闘い、というものではすでにない。
 むしろ現代の強権体制のもとですでに工業が急速に形成されてきているケースが多い。そのなかで、より意識的に強行に外国資本の導入をもくろむ国家群も存在した。(韓国、台湾などの「開発独裁」諸国)
 エジプトにおいてもすでに述べてきたように、半世紀も前にナセルの「自由将校団」が、農地改革を断行さらには工業化の道を切り開いてきたのであった。現代の市民革命は、まさにこの様な体制に闘いを挑んでいるのである。
 市民革命は資本主義を解きはなつものではなかったのか? マルクス主義者はそのように理解してきた。現代の市民革命がそのようなものでないなら歴史上無意味だというのか。もし、意義があるとすればそれはどのようなものであろうか。
 二十世紀後半の市民革命は、エジプトがそうであるように軍事的独裁体制、政治エリートによる独裁、財閥・独占経済というような抑圧的体制に対して、政治的自由や人権の確保、そして経済格差の是正、特権の廃止として闘われてきた。
 ながらく強権政治のもとで抑圧されてきた人々も、徐々には経済的な地歩を固め、教育水準の向上、労働者の形成、中間的な経済自営者の拡大とともに自己の権利を主張しはじめる。財閥経済や政治的な独裁に不満を抱き、反抗するようになる。体制側の対応の悪さによっては大衆的な「革命」となるし、そうでないケースでも民主化を体制側も少しずつ推し進めざるをえないのである。

●「新市民革命」に連帯しよう
 この「新市民革命」は、封建的しがらみから資本を解き放ち資本主義を切り開く、過去の市民革命とは異なる。むしろ資本の次の時代を切り開くものである。
 エジプトの「革命」にもみられるように、国家や資本の抑圧から個々人の自立を促進すること、特権をみとめず格差や差別に反対すること、個々人の市民的権利を確保すること。ひいては個々人の連帯にもとづく協同の経済を生み出してゆくことである。
 現代の「新市民革命」はそれ自身で資本主義を廃棄するものではないが、資本主義経済を乗り越える前提である個々人のアソシエーションのひろい基盤を創りだす。
 これらのことは「先進国」である日本などにも当てはまることである。昨今の消費税増税の国会審議や大飯原発の一方的再稼働にみられるように、経済と政治は官僚と一部政治家に独占され引き回されており、大資本と国家による民主主義制度や市民権利の骨抜きがすすんでいる。また、制度的・法的不公正、政治反動は枚挙にいとまがない。先進国も経済格差がひろがっている。この意味では、われわれはすでに同じ舞台で闘っているのである。
 エジプト革命は、膨大な国民が参加した、それだからこそ比較的平和りにおこなわれた。約六百名の死者は、治安警察の発砲によるが、そのような場面はインターネットで国内外に配信され、そのために彼らは国民の信頼をいっぺんに失った。犠牲は決してむだではなかった、多くの人々をはげまし革命を推進してきたのだ。エジプトの市民革命は、大衆行動と社会変革についてわれわれに多くの示唆をあたえつづけている。

(註一)サダトのインフィターフ(開放政策)は、目立った変化をすぐには起こさなかったが、新たなエリート集団を形成した。かつての陸軍士官や情報士官であり、彼らの多くは有力な警備会社の提携者、半行政的な企業の指導者、実業家、起業家、議員。それと復権した王政時代の貴族的な門閥の子孫たちである。『エジプト 岐路に立つ大国』青土社より。
(註二)「IMF(新自由主義の牙城)は、エジプトの民営化プログラムを、もっとも成功した世界中のブログラムの上位四番目に格付けしている。」「財務省は、エジプトの巨大な年金制度の包括的な再構築(改悪)に着手した。二〇〇〇年代にはムバラク政権は、とりわけエジプトポンドの発行に関わる通貨の再構築、金融市場の完全な自由化、徴税制度の改革、社会福祉事業の支出の戦略的な削減を推し進めた。」『エジプト 岐路に立つ大国』(丸括弧内は阿部による)。(阿部文明)案内へ戻る


色鉛筆・・・『袴田巌さんの一日も早い再審開始と釈放を!』

「先日(獄中の巌さんに)いろいろ資料を差し入れ、(認知症も心配されているものの)何となく理解しているのではと思います。本人が、巌なりに闘っている。元気でいて欲しい。46年、長い裁判です。どうかご支援下さい!」
 6月30日、年二回定例の清水集会『静岡地裁は今すぐ再審開始を!』で、姉の秀子さん(79歳)が、まっすぐな姿勢で訴えた。この日は、ちょうど事件から46年目にあたる。
 1966年味噌製造会社専務宅で、一家4人が殺害された事件で、警察・検察は、住み込み従業員で元プロボクサーの袴田巌さんを逮捕・起訴。公判で無罪を主張する袴田さんに対し、翌年静岡地裁は死刑判決を下した。この直前に(事件から一年以上たっている)血染めの「犯行時の衣類」が“発見”され、これが有罪の決め手とされた。
 “捏造”の疑いを孕みながらも、1980年最高裁が上告を棄却し死刑が確定。81年から2008年の第一次再審請求は棄却され、続けて第二次再審請求中である。
 刑事訴訟法は再審開始の用件を「無罪にすべき明らかな証拠を新たに発見」した場合と定めている。かつては再審の扉はなかなか開かなかったが(少なからぬ無実の人が処刑されていたと言うことだ)、最近は「足利事件」のようにDNA型の不一致が判明し、再審で無罪が確定したり、「布川事件」では自白の矛盾が明らかにされ無罪となっている。6月7日には「東電OL殺人事件」で再審開始決定と同時に、刑の執行停止、更に釈放と驚く展開もあった。これらはいずれも無期懲役刑であったことが共通し、死刑判決の出ている「名張毒ぶどう酒事件」では、6月25日名古屋高裁が再審開始を認めず、死刑再審はハードルが高いという人もいる。
 「犯行時の着衣」とされた衣類の血痕が、袴田さんのものではないという“無罪にすべき明らかな証拠が新たに発見”(弁護側・検察側双方推薦人によるDNA鑑定によって)された今、即刻再審開始を進めるべきだ。
 再審請求の中で、検察庁がもつ事件の証拠が、2010年12月の静岡地裁の開示勧告によって、やっと提出された。全176点にも及ぶこれらの証拠は、自白テープや実況見分写真など真相解明にとって重要なものであり、45年間もだされなかったのは、「証拠隠し」「捏造荷担」と非難されて当然の犯罪的行為だ。袴田さんに対する46年間もの身柄拘束。そのうち30年は死刑執行の恐怖にさらされるという日々は心身共にボロボロに破壊し、姉の面会にも応じられない状態だという。一刻も早い再審開始と釈放、医師の治療を施すべきだ。
 7月9日静岡地裁は「DNA鑑定をした弁護人・検察側双方の証人尋問を10月19日以降行う」と決定した。姉の秀子さんは「一日も早い再審開始を」と前を向き訴え続けている。
司法の矛盾、残虐性を心にとどめながら、支援を続けてゆきたい。(澄)案内へ戻る


読者からの手紙
石原知事の尖閣購入は米国の意図どおり―天に唾する破廉恥漢

 『戦後史の正体』を出版予定の元外務省国際情報局長の孫崎享氏が、ツイッター上で石原知事の尖閣購入は、米国・米軍の意図を強化するものだと以下の様に批判しています。
「尖閣購入をぶち上げることによって、石原知事は英雄的扱いを受けている。待って欲しい。尖閣諸島は本来東京都と何の関係もない。彼は東京都と関係ある所でどうしているのか。そこで『愛国的』に振る舞っているか。
豊下楢彦氏は世界8月号で〈「尖閣購入」問題の陥穽〉を発表。尖閣の考察は素晴らしいがここでは石原氏に絞りたい。
東京都の米軍横田基地の存在である。『東京新聞』は『横田基地は必要なのか』と題する長文の社説(5月13日付)において、現在の同基地が、輸送機とヘリがわずかに発着するだけの『過疎』の状況である一方で、1都8県の上空を覆う横田空域が『米軍の聖域』になっている現状を指摘し、『首都に主権の及ばない米軍基地と米軍が管理する空域が広がる日本は、まともな国といえるでしょうか』と問いかけた。
まさに石原流の表現を借りるならば、『独立から60年も経って首都圏の広大な空域が外国軍の管制下にあるような国なんか、世界のどこにあるんだ』ということであろう。
しかし、この威勢のよい啖呵の矛先は、13年前に『横田返還』を公約に掲げて都知事に就任した石原氏当人に向かうことになる。石原氏は横田基地の即時返還を米国に正面から突きつければ良いのではないか」
「尖閣諸島の帰属問題で米国が『あいまい』戦略をとり、日本と中国が争う状況は米国に両国が弄ばれている姿。
石原氏は講演で渡米する前に、“向こうで物議を醸してくる”と述べた。それなら、1970年代以来の尖閣問題の核心にある米国の“中立の立場”について、なぜ“物議を醸す”ことをしなかったか。
東京都管轄の横田の返還を米国からとれず、尖閣に火をつけ政治的利益を計る石原は似非愛国主義者である」
 こうした孫崎氏の発言はまさに正鵠をつくものです。彼はまさに天に唾する破廉恥漢で、今度は野田総理も加わって尖閣列島の国有化をするというのですから驚きます。 (稲渕)案内へ戻る


郵便事業会社の現場から−次は書面による注意

 前回の始末書の提出後、しばらくして文書による注意を課長から受けた。
「さきに同種非違により指導を受けていたにもかかわらず、○年○月○日、普通通常郵便1通を誤配達した。よって、期間雇用社員就業規則第50条により適用される社員就業規則76条第1項第6号により注意する」。
 読み上げていた課長に、具体的に書かれている就業規則の内容を質問してみた。しかし、課長は即答できず、後日、規則のコピーを渡すと言って帰って行った。そのコピーによると、就業規則50条は「制裁」という項目に入っていて、「会社は、社員が、法令又は会社の規則に違反したとき等には、懲戒を行なうことができる」と書いてあった。
 法令順守については、以前から、よくミーティングや冊子などで、注意を促されていた。その法令も経営側にとって都合の良い法令に過ぎない。例えば、配達すべき郵便を会社のロッカーに隠さないとか、書留郵便を盗むなとか、まるで信頼関係など全く築けていない労働者を犯人扱いしていると言ってもいい。
 本来、守って欲しい法令とは、私たち働く者にとって働きやすい労働環境を作ってくれる法律だ。就業時間を規則正しく守り、残業も本人の意志が尊重され、ただ働きなど以っての他だ。経費節約のため、残業はするな! という管理者からの恫喝・パワハラは、どんなにプレッシャーとなって業務に支障を来たすことか。私は、自分に分担された仕事は、自分の納得したやり方、自分のペースでやることを心がけている。残業するな! は、労働者を一人前の者として見ていない、人格を無視した人権侵害と言ってもいい。
 今後、始末書を出す度に書面による注意がなされる、ということらしい。しかし、懲戒には訓戒・戒告・減給・停職・解雇とあり、だんだんと制裁がきつくなる。期間雇用社員・6ヵ月の雇用契約の私たちに、責任と義務だけを押し付け、労働条件は正社員には到底追いつかないひどいものだ。こんな不合理なことを当たり前とこなしている課長に、現場で体験学習をしてほしい。中学生のトライヤル・ウィークは、是非、管理者たちにも勉強になるはずだ。(西宮・恵)


福島からの便り(2012・6月)−わたぼうし

 6月中旬から福島は梅雨入りしました。さくらんぼは、雨が降ると割れてしまうので6月上旬に、ビニールを張り鳥よけのネットを広げました。40年前、母の実家ではさくらんぼを栽培していました。戦後、福島はさくらんぼの産地でしたが、戦後の食糧難で県がりんごを奨励したことと、ビニールを張る技術がなかったために、桜桃栽培は減っていきました。
 その頃はあした雨が降るという予報が出ると、一度に全部もぎとっていたそうです。子どもの頃はその割れたさくらんぼを頂いてきて、すごくおいしかった記憶があります。あの味が忘れられず、20年前から我が家でもさくらんぼを栽培しはじめました。その母の実家のまわりはすべて宅地になり、今は農家はやっていません。今では我が家からおすそ分けです。
 さくらんぼ栽培の難しいところは、どうしたら佐藤錦の木に程よく実をつけられるか、ということに尽きます。そのため交配用の別の品種を3割程植えますが、多いと花粉がつきすぎ実が小さくなってしまうので摘果しなければなりません。少ないと佐藤錦の実のつきが悪く、そのちょうど良いバランス(交配樹)が難しいのです。
 しかも、あまり実のつかなかったさくらんぼは、とても大きく甘く最高の味になりますが、一本の木から5〜6kgしかとれないのです。陽が当るように葉っぱを輪ゴムでくくり、木の下にシートを敷いて、とても手のかかるくだものですが、たわわに実ったさくらんぼはまるでクリスマスツリーのようです。
 今年もおいしいさくらんぼお届けいたします。出荷の前に放射能の測定をしています。簡易検査ですが結果表をおつけいたします(20ベクレル以下は不検出)。ただ今、桃の予約を承っております。今年の収穫発送は8月10日〜18日頃、お盆にかかりそうです。その後、品種が変わり9月上旬まで桃が楽しめます。 あっぷる・ファーム後藤果樹園案内へ戻る


編集あれこれ

 前号の第1面は、「民自公の談合政治と対決しよう!」というもので現下の政治闘争の核心を突いたものでした。是非再読を期待します。
 第2面から第6面は、フランスとギリシャの選挙分析と6月15日に「ワーカーズのホームページ」に掲載した「トピックス」、「EUの危機と『市場至上』経済の時代 財政赤字のしわ寄せと連帯して闘おう」でした。これらの記事は、労働者市民の間にEUを守る事が大問題になっているとの指摘と従来の解決策では全くできない事を鋭く暴いたものです。これらも今後の参考になるもので精読を期待するものです。
 第7・8面は、最近注目された子供の臓器移植を題材にした「移植医療を考える」です。
 また第8面には「色鉛筆」に「障害者支援とは?」を、第9面では「コラムの窓」の「沖縄の骨」の中で岡部伊都子氏を話題に取り上げております。
 第10面では「原発推進は核保有のため! 悔い改めない"原子力ムラ"」との告発記事を掲載しています。この記事では原発推進の本音が的確に暴露されている。
 第11面には、「原子力基本法に『安全保障に視する』と加える改正案の撤回を求めるアピール」を、加えて読者からの手紙「菅直人前総理はまたしても口先だけ!」を掲載しています。全くもってこの間の菅前総理のダメさ加減には驚かされます。
 第12面には「郵政事業会社の現場報告」として、一寸したミスに「始末書」の提出を求められる労働現場を告発した記事を掲載しています。
 前号も多彩な記事を掲載したと自負しています。今後ともワーカーズに期待を。(直木)案内へ戻る