ワーカーズ486号    2013/4/15      案内へ戻る
     
 国民主権から国家主権に変えようとする自民党の「日本国憲法改正草案」に反対する!

 自民党の安倍総理は、憲法96条を改正しようとしています。96条は、憲法改正手続きについて各議員の総議員の3分の2以上の賛成で、国会が発議し国民投票で過半数の賛成を必要としています。これを総議員の3分の2以上から過半数とするとしています。憲法改正手続のハードルを下げようとしています。
昨年の4月27日に自民党は、「日本国憲法改正草案」(以下草案という)を公表しました。憲法改正と言っていますが、内容は新憲法の制定です。現憲法は、個人の人権を保障するために国家権力を縛るものです。これを、国家が国民を縛るものに変えようとしています。例えば草案は、前文5条に「良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する」とあります。また、現憲法は前文で「日本国民は」「われらは」と主語は主権者である国民であるのに対し、草案は「日本国は」「我が国は」と主語が国になっています。国が国民を支配しようという考えです。
97条は、「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、・・・・・現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」とありますが草案は、これをすべてなくして国民に憲法尊重義務を課しています。国防義務、日の丸・君が代尊重義務その他で、国が国民に義務を命じることができるようにしようとしています。
 そして草案では、国民の権利や自由が「常に公益及び公の秩序に反してはならない」とされています。時の権力者がダメと言えば、権利や自由が大きく制限されることになります。
 そして戦争放棄と戦力の不保持、交戦権の否認を定めた現憲法9条を草案は、戦争放棄はそのままですが、国防軍という戦力を持ち自衛のための交戦権を認めるようになっています。過去の戦争は、たいてい自衛の名のもとに戦争が行われてきました。これらのようなことが、現実味を帯びてくるほど今の状況はひどいです。
 こうした状況には、ただ憲法改悪に反対するだけではなく具体的な場面での闘い、例えば沖縄の反基地、オスプレイ配備反対、脱原発等の行動を拡大していかなくてなりません。(河野)


 安倍自民党による改憲策動を許すな!──時代錯誤の自民党〝改正〟草案──

 安倍内閣の高支持率が続いている。アベノミクスとかいう財政と金融の大盤振る舞いに食いついたかのようだ。
 その安倍政権、7月の参院選挙までは経済中心での安全運転だという。だが、参院選挙後に手を付けようとしている安倍政権の〝レジームチェンジ〟=戦後体制の転換では、とんでもない危険で反動的な政策が練られている。
 その要は憲法改悪だ。戦前回帰の自民党改憲案を潰すために、いまから反撃の体制をつくっていくことが欠かせない。

◆敷かれるレール

 安倍自民党の反動政策メニューは、多岐にわたる。集団的自衛権の行使や武器輸出三原則の撤廃、あるいは国民監視にも活用可能な共通番号制の導入など、民主党政権でも進められたものも多い。が、国家主義教育の推進や価値観外交という看板での対中国封じ込め政策、それに靖国参拝など、安倍自民党が執着してきたメニューも多い。
 現に安倍首相は、首相就任前から集団的自衛権の行使や対中封じ込めの冷戦志向外交、それに改憲が必要な国防軍構想などにたびたび言及し、第一次内閣の時に実現できなかった政策の実現に執着してきた。
 とりわけ憲法改定は自民党の党是として永年にわたって追い求めてきたもので、安倍首相にしても祖父の岸信介の汚名返上にも繋がる系譜的な悲願として位置づけられているものでもある。そうした改憲志向の政治姿勢は、自民党歴代内閣のなかでも突出したもので、実際、第一次安倍内閣の時には改憲のための国民投票法を強引に成立させ、また改憲の提案権を持つ憲法調査会での審議に大きなエネルギーを割いてきた。その時点では、前のめりの改憲姿勢で民意から浮き上がり、健康問題もあって首相を退陣せざるを得なかっただけに、今回の第二次内閣での改憲への道筋づくりには執念を見せている。
 その安倍首相。改憲へのレールづくりの最初の突破口として、憲法第96条の改定を目論んでいる。96条では改憲の発議にあたって衆参両院の三分の二という高いハードルを明記しているが、これを過半数で可能にする、というものだ。96条は、内外で多大な犠牲を払ったあの敗戦の反省もあって圧倒的多数の国民が容認した新憲法を、時々の政治的多数派による安易な改定を防ぎ、野党も含めた圧倒的多数によってはじめて改定が可能にするという条項だ。それだけ改憲に高いハードルを課している条項なのだ。その96条改定を突破口として、本命である憲法前文や天皇条項、それに戦争の放棄条項の改定を目論んでいるわけだ。

◆極右化する自民党
 
 自民党改憲案は、もともと野党時代の自民党が発表したもので、民主党政権との対抗軸づくりもあって右傾化・国家主義化が際立つものだった。それが改憲に執着する安倍首相のもとで、いま再び政治日程に上ってきたわけだ。
 改憲姿勢は、いまでは自民党の専売特許ではない。みんなの党や日本維新の会などは、総選挙前から声高に叫んできていた。維新の会は石原新党との合流によって極右姿勢を押し出し、自民党の改憲志向をけしかけている。改憲派議員は昨年暮れの総選挙で議席を伸ばし、いまでは国会で3分の2を超える勢力を占めるまでになっている。
 その安倍首相。参院選まで経済・財政政策だけやるとして、改憲では96条改定だけに絞った発言に抑えてはいる。とはいえ、参院選で衆参のねじれを解消して改憲に道筋を付けるという思惑は隠していないし、参院選をにらんで改憲に向けた体制づくりには余念がない。
 いま世間はアベノミクスによる財政・金融の大盤振る舞いに浮かれている。しかしアベノミクスに踊らされているわけにはいかない。いまから自民・維新など改憲連合の野望を封じ込める活動を拡げていく必要がある。そのためにも、いま改めて自民党改憲案がどんな国家像を夢想しているか考えながら、反転攻勢のための対抗勢力づくりにつなげていきたい。

◆逆流のオンパレード

 自民党改憲案は、時代の変化に対応するとして国民に受け入れやすい条項も新設している。たとえば環境保全、国の説明責任、障害者の権利などだ。が、それらを差し引いても、戦後日本の再出発の想いを帳消しにするような条文改定や条文新設で埋まっている。改定箇所は別表のとおりだが、いくつか突出している条項を見ていこう。
 まず全文。ここはあの戦争にたいする反省をふまえ、主権在民や政府の行為による戦争放棄,あるいは平和的生存権など、戦後日本の再出発にあたっての理念と決意を明記した部分だが、草案ではほぼすべてが書き直され、あるいは削除された。代わって「天皇を戴く国家」「国と郷土を……守り……、家族や社会全体が……国家を形成する」という主権在国的な色合いが濃い理念が強調されている。憲法制定の目的も、「伝統と国家の継承」に置かれている。憲法は権力の制限のために制定される、という立憲主義の基本はどこへやら、国家による国民動員のための手段化されている。
 次は第1章の天皇条項だ。ここでは天皇=元首が明記され、また国旗=日章旗、国歌=君が代が明記され、あわせて国民による尊重義務が明記されている。
 次は第2章第9条の戦争放棄条項。「戦争の放棄」を謳った第1項では、「武力による威嚇及び武力の行使」を、「放棄する」から「用いない」として単なる選択枝のレベルに引き下げている。続く第2項では、「戦力の不保持」「交戦権の放棄」を、「自衛権の発動を妨げるものではない」とした。あらゆる戦争が自衛の名目で始まることは自明だからこれでは「戦争の放棄」になるはずはなく、章立ても「戦争の放棄」から「安全保障」に変更されている。この9条第2項はこれまで延々と論争が繰り返されてきたもので、これまでは憲法解釈によってなし崩し的に自衛権と自衛隊という軍事力を保持してきていた。それを憲法に明文化することで、公然と「戦争」と「武力行使」への道を開く、ということである。その他、軍事法廷=軍法会議の新設や、国と国民による領土保全義務を明記している。
 次は国民の国民の権利と義務を規定している第3章だ。憲法で保障された基本的権利の制限に関して、現法憲法が「公共の福祉のため」という制約を付けているが、草案では「公益及び公の秩序に反してはならない」と変更している。現行憲法の「公共の福祉」という概念は、「生存権」や「幸福追求権」などに密接に関連した意味合いで解釈されてきた。「公」という概念が国家や政府と安易に結びついて解釈されている日本では、「公益及び公の秩序」では容易に「国益」や「国家秩序」にすり替えられることになるだろう。個々人の人権が国家や国益に従属したものにされてしまうわけだ。
 次は第28条、労働基本権の制限だ。いまでも公務員などの交渉権や争議権は禁止している。が、それは国家公務員法などであって、憲法上は保障されているものだ。それを憲法の条文で制限するもので、これは国際労働機関などからの公務員の労働基本権承認の要請などにも逆行する、とんでもない代物だ。
 少し飛ばして、今度は第9章、「緊急事態」だ。これは日本が外部からの武力攻撃や内乱、それに地震などの大規模自然災害に際し、内閣総理大臣に緊急事態の宣言を発する権限を規定した条項で、むろん新設条項だ。この「緊急事態」は国会の事前承認は必要なく事後承認で宣言され、また延長も可能だ。緊急事態が発せられると、内閣は法律と同じ効力を持つ超法規的な政令を制定する事が可能になる。この条項でも実施法の制定が予定されており、具体的にどのような法律になるかはまだ明らかにされていないが、要は内閣専制政治に道を開くものに他ならない。
 この「非常事態」という概念は国家緊急権、あるいは戒厳体制と同じであり、立憲主義の立場からその当否自体が疑問視されてきたものだ。いまでも紛争国での独裁政権やクーデター政権がたびたび採用してきた手法で、強権政治を志向する政治勢力が執着してきた条項でもある。
 最後に第9章第100条、「改正」だ。これは安倍自民党が改憲のと鳥羽口として位置づける96条改正の部分で、両院の憲法改正の発議を3分の2以上ではなく過半数、それも有効投票の過半するにすることで、改定のハードルを引き下げるものだ。

◆改憲策動を跳ね返そう!

 96条改定を先行するという安倍自民党の姿勢自体も姑息なものだが、その改定のハードルを下げることでどんな憲法を準備しているか、あるいはその先にどういう国家づくりを妄想しているかは、これまでざっと見てきただけでも明らかだろう。そこで浮き彫りになるのは、自民党による改憲内容の性格、その意味合いについてだ。そこには国家と国民、権利と義務など、その関係性そのものがひっくり返そうという意図が貫かれている。
 第一は国民主権から国家主権への転換、第二に、非戦・平和国家から軍事国家への転換、第三は、福祉国家から自己責任・家庭責任への転換だ。付け加えれば、条項としては隠れているが、憲法の位置づけ転換、すなわち欧米で形成された立憲主義観にもとづく国民による政府への規制手段としての憲法観から、国家が国民を統治する手段としての憲法観への転換でもある。
 安倍内閣の誕生で勢いづく改憲派は、いまでは9条改定によって非戦・平和の誓いを棚上げにして公然と武力攻撃や戦争ができる普通の国家へと日本をつくり変えようとしている。しかも日本維新の会やみんなの党などと結託することで、国会で改憲勢力を形成する動きも強まっている。始まった両院の憲法調査会での議論などを注視し、改憲勢力による世論工作と対峙していく必要がある。
 むろん、現行憲法には様々な問題や限界が含まれている。が、現状の改憲策動は、どういう憲法がよいのか、という将来的な判断と選択が問われているのとは次元が違う。安倍自民党による戦前回帰の反動的な策動を,草の根も含めた反戦・反基地権利擁護の闘いを拡げることで跳ね返したい。国会での改憲勢力は水ぶくれしている。世論は自民党の改憲素案とは大きくギャップがある。跳ね返すのは可能だ。(廣)

 資料  自民党憲法草案の主な特徴

1,前文

○主権在民、戦争放棄・平和的生存権・から天皇制国家、愛国心、国家形成の強調

2,第一章 天皇

○象徴天皇制から天皇元首制へ
○国旗=日章旗、国歌=君が代を明記
○国旗・国歌にたいする国民の尊重義務を明記
○元号制の明記

3,第2章 戦争の放棄

○「戦争の放棄」から「安全保障」へ──章立ての変更
○「戦力不保持」から「自衛権の発動」の明記へ
○「国防軍の保持」を明記
○軍事審判所(=軍法会議)の設置
○領土・領空保全及び資源確保の明記

第3章 国民の権利及び義務

○基本的人権の不可侵規定について、「公共の福祉」による制限から「公益及び公の秩序」による制限へ
○「法の下の平等」に関して、「障害の有無」を追加
○選挙権に関する国籍条項の明記
○個人情報保護の追加
○「表現の自由」について、「公益及び公の秩序」による制限を追加
○国の説明責任を追加
○「家族の助け合い」義務を明記
○国の環境保全責任の追加
○国の在外国民・犯罪被害者保護責任の追加
○国の「教育環境の整備」(教育権)を明記
○公務員の労働基本権制限を明記
○財産権の不可侵について、「公共の福祉」から「公益及び公の秩序」による制限へ

第4章 国会

○総理大臣による解散権の明記
○政党条項の追加

5 内閣

○内閣総理大臣による指揮監督権を明記
○内閣総理大臣による国防軍の統括権を明記

第9章 緊急事態

○緊急事態=国家緊急権(戒厳令)の明記

第10章 改正

○憲法改正の議決要件について、両院の3分の2以上から過半数への変更
○国民投票での承認要件について、「過半数」から「有効投票の過半数」に変更

第11章 最高法規

○基本的人権の不可侵を削除
○天皇、国務大臣、裁判官などの憲法尊重・擁護義務(権力の縛り)を、国民の尊重義務(国民への縛り)に転換

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読書室
 苫米地英人氏『原発洗脳:アメリカに支配される日本の原子力』(日本文芸社 定価1470円)


 日本の対米「原子力協定」と「原子力」政策の謎:「核」を「原子力」と言い換える事により生ずる日本人の脳に生まれた「盲点」(スコトーマ)を暴く

 著者の苫米地氏は、1959年生まれで2012年末の衆院選挙では北海道から新党大地の立候補したが落選した。祖父は北海道選出の参議院議員の苫米地英俊であり、父親が日本興業銀行のニューヨーク支店勤務で中学生からアメリカで過ごし、叔父も米国三菱商事の社長で、米国三菱の公邸の様な場所に住んでいた事もあるという。大学卒業後の日本での活動では、オウム真理教事件の際元オウム信者の脱洗脳に関わった事で一躍有名になった。そんな関係でCIAの洗脳プログラムについての訳書もあり、洗脳をテーマにした文筆・評論活動を続け、「自己啓発」分野の本を多数出版している人でもある。
 この本でいう日本人の「盲点」とは、「核」を「原子力」と言い換える事で両者は全く違うものと思い込む事や、極めて端的に言い切れば「日本の原子力は今も米国に支配されている」という事である。先号のワーカーズの「何でも紹介」で、紙面のかなりを使って紹介された『本当は憲法よりも大切な「日米地位協定入門」』の「原子力版」とでもいうべき内容の本である。
 「改定原子力協定」は、中曽根派などによって日本の原子力外務官僚の中で、「初めて日米が対等に渡り合った交渉」(外務官僚の遠藤哲也氏の発言)というような「神話」が流布されてきが、この話はまさに「原発安全神話」と同様の全くの神話だったのである。

 この本の章立ては、以下のようなものである。
 第1章 「原発の嘘」に騙されるな
 あなたが信じ込まされているこれだけの嘘
 原子力村の情報操作と国民洗脳
 「日の丸原発」という幻想
 第2章 知っておきたい原子力の基礎知識
 原子力の基本的な仕組みを知る
 日本の原発は古すぎて危険
 アメリカが持つ最先端の原子力技術
 第3章 原子力の支配者・アメリカ
 原発ピラミッドの頂点にいるのは誰か?
 アメリカに操られる日本の原子力
 第4章 原発利権の構造
 日本における原発利権の構造
 こんなに儲かる原発ビジネス
 原発利権と政官財の癒着
 電力の「独占」が諸悪の根源
 第5章 原発とメディアによる洗脳工作
 アメリカのメディア・コントロール
 原発洗脳の「実行部隊」
 第6章 新エネルギーと日本の未来
 原発なしでもエネルギーはまかなえる
 国民の総意で決める「日本の未来」

 福一原発事故から二周年が経過しても、東電の私たちの予想をはるかに超える無責任体質により停電事故や汚染水漏れが続いている。こうした現状にあって私たちは、「原発は放射能をまき散らすから危険である」とか「原発を再稼働すべきでない」等の議論をしている事だけでよいのであろうか。私たちは真実を追求しなければならないのでは。
 こうした東電や原子力業界の「異常さ」の原因は、そして日本の原子力政策の「異常さ」の原因が何処にあるのかの議論こそが必要ではないだろうか。この原因は、そもそも日本の原発政策はかつての占領国であり、現在は「同盟」関係を結んでいる覇権国のアメリカの許認可によって成り立った、という歴史的な事実に起因している。そしてその最たる存在は「日米地位協定」である事は先号の「何でも紹介」で明らかにした通りだが、この「地位協定」に基づいた日米安保体制、日米「同盟」体制を維持したままでは、日本の原子力政策をいかに正常化させようとしても、また日米「同盟」態勢を既得権益化している日本の外務官僚たちやジャパン・ハンドラーズの思惑に絡め取られてしまうだけである。この現状を、苫米地氏は端的に「日本はアメリカの核燃料備蓄場」であると喝破した。
 具体的には、「日本の原子力の技術はアメリカではもはや古臭いものになった民生技術であり、本当に優れた高度なアメリカの原子力技術はウェスティングハウスの原子炉を備えた米原子力空母の軍事技術である」という事である。
 原子力官僚の洗脳である「原子力技術に関しては、日本は最高レベルだという意見」に対して、苫米地氏は、次のように反論する。

 確かに、日立、東芝、三菱は、世界の原子力の主要プレイヤーであり、東芝は高い原発技術を持つアメリカのウェスティングハウス・エレクトリックの原子力部門を傘下に収めています。
 しかし、ウェスティングハウスは東芝の傘下には入りましたが、核分裂を持つコアの技術は手放していません。がっちりと握ったままです。依然として中核技術の特許は押さえています。(略)
 ウェスティングハウスは、軍事機密の部門を切り離して、残りを東芝のコントロール下に置いたのです。東芝が買った技術は、原子力発電のいわば「メンテナンス技術」だけです。原子力発電のコアの部分である核分裂技術に関しては、何ら技術を持っていません。

 また次のようにその技術の核心を語っている。

 原発建設に関わった技術者を知っていますが、実際の現場では、GE(ゼネラル・エレクトリック)などの特許をマニュアル化した知的財産権のルールが細かく規定されていて、その範囲内で、マニュアル通りに技術者が動いているだけです。
 福島第一原発1号機は、GEが主契約者で、2号機はGEと東芝が主契約者でした。3号機と4号機は、東芝と日立が主契約者でしたが、東電からの元請けが東芝と日立というだけであって、GEの技術者が来て、その指示のもとに作ったのです。(略)このような実態がある中で、「日本が世界最高の原発技術を持っている」とは、とても言えないはずです。(略)
 言い方は酷になりますが、東芝と日立は、アメリカの原子力技術の販売代理店に過ぎません。日本企業がベトナムやトルコに原発を売れば、特許収入がアメリカに転がり込む仕組みなのです。日本の原発施設は、アメリカ企業にとって、住宅展示場のようなものです。

 その本家のアメリカでは、民主党のカーター政権はスリーマイル事故が起きた後、そのリスクの大きさ故に、使用済み核燃料の再処理を含めた原子力民生ビジネスに対して意欲を失っていく。その動きに比例するかのように日本では、田中角栄の「電源三法」に代表されるような、地方への原発誘致と引き換えに莫大な補助金を使って、地方の電力需要の必要以上に原発を54基も作ってしまった。まさに苫米地氏の言う通り、アメリカが属国から「金を巻き上げるビジネス」の一貫として原発誘致が機能していたのである。
 そもそもこの原子力ビジネスは、アメリカと日本が原子力協定を結んだからこそ、実施が許されたものであり、アメリカはライセンスを与える立場だからアメリカのお気に入りの中曽根政権になっても原発建設が止まらなかった事は容易に理解できるであろう。
 この流れで苫米地氏は、本当に優れた原子力技術とは何かも語っている。ウェスティングハウスの技術を駆使して作られたアメリカの原子力空母「ロナルド・レーガン」に2基搭載されたA4W原子炉がそれだと苫米地氏は断言した。

 空母に搭載している原子炉は、出力調整が可能な原子炉です。スロットルのように、「15パーセント臨界」、「50パーセント臨界」などの調整が可能で、必要な電力量に応じて、出力を自由に変えられるのです。商業用原子炉とは、比較にならないほど、高度なテクノロジーが使われています。

 原子力空母の原子炉は出力が自由に変えられるとは、私は知らずに全く驚かされた。それに比較して商業用原子炉の技術とは本当にお粗末だとわかるのであり、現在の東電の一連の体たらくが日本の原子力制御技術の未熟さ・レベルを示して余りあるであろう。
 いずれにせよ、今一番多いとされる日本の原発は、1970年代に開発された第二世代の原子力技術で作られたものである。しかもその古い技術で建設された危険な原子炉を他のインフラのメンテナンスもなく30年以上も、今また40年以上も使うという愚策も提案されている。つまりそれが福島第一原発の事故の主な原因だったという事だ。
 それでも福島の事故は、非常用の送電線やディーゼル発電機を複数確保すると対応が可能だった。それをコストを出し惜しみして東電が施工しなかった事と原子力安全委員会等の規制当局もそれを容認した事が事故の背景にある。そもそもこれらの準備があれば連鎖的な原子炉のメルトダウンは、本来起きなくてもいい事故だったのだ。
 このような記述は私たちにとっては、目から鱗が落ちるものである。最後に苫米地氏の「原発施設は、表面的には、日本の民間企業の施設ですが、現実にはアメリカ軍の『軍事施設』と言っても過言ではありません」との重大な発言を紹介したい。
 この発言は、即座に菅内閣に原子炉の冷却剤の供与を提案した事や原発事故の時首相官邸に米国の高官が常駐した謎や対核テロ部隊の動員や仙台に上陸作戦を敢行したトモダチ作戦を発動した米国の行動を、私たちに疑問の余地なく完全に裏付けるものである。
 まさに苫米地氏が喝破したように、私たちは原発洗脳されていたのである。戦後日本国家の真実を追求したい読者には、ぜひ一読を勧めたい。 (直木)    案内へ戻る


 伊達判決を覆したアメリカの公文書が発見された!

 4月8日、NHKニュースは次の報道を行いました。その狙いは一切不明です。
「昭和32年にアメリカ軍基地を巡って起きたいわゆる『砂川事件』の裁判で、『アメリカ軍の駐留は憲法違反』と判断した1審の判決の後に当時の最高裁判所の長官がアメリカ側に1審の取り消しを示唆したとする新たな文書が見つかりました。
 研究者は、司法権の独立を揺るがす動きがあった事を示す資料として注目しています。
 『砂川事件』は、昭和32年7月、東京のアメリカ軍・旧立川基地の拡張計画に反対したデモ隊が基地に立ち入り、学生ら7人が起訴されたもので、1審の東京地方裁判所は、 『アメリカ軍の駐留は戦力の保持を禁じた憲法9条に違反する』として7人全員に無罪を言い渡しました(注:伊達判決)。
 1審の9か月後、最高裁判所大法廷は、『日米安全保障条約はわが国の存立に関わる高度の政治性を有し、司法審査の対象外だ』として15人の裁判官の全員一致で1審判決を取り消しました。
 今回見つかった文書は、最高裁判決の4か月前の昭和34年8月、アメリカ大使館から国務長官宛てに送られた公電です。元大学教授の布川玲子さんがアメリカの国立公文書館に請求して初めて開示されました。
 文書には、当時の最高裁の田中耕太郎長官が最高裁での審理が始まる前にレンハート駐日首席公使と非公式に行った会談の内容が記されています。
 この中で田中長官は、『裁判官の意見が全員一致になるようにまとめ、世論を不安定にする少数意見を回避する』などと語り、全員一致で1審判決を取り消すことを示唆していました。
 文書には、田中長官の発言に対するアメリカ大使館の見解として、『最高裁が1審の違憲判決を覆せば、安保条約への日本の世論の支持は決定的になるだろう』というコメントも書かれていました。
 会談当時は、日米両政府の間で、安保条約の改定に向けた交渉が行われている最中で、アメリカ軍の駐留を違憲とした1審判決に対する最高裁の判断が注目されていました。
 文書を分析した布川さんは、『最高裁長官が司法権の独立を揺るがすような行動を取っていたことに非常に驚いている。安保改定の裏で、司法の政治的な動きがあったことを示す資料として注目される』と話しています」

 確かに司法が米国に操られる、これは大変な事です。しかし日米安保体制をみれば意外な事ではありません。日米地位協定には、次のような驚くべき記述があります。
「第一次の権利を有する国の当局は、他方の国がその権利の放棄を特に重要であると認めた場合において、その他方の国の当局から要請があった時は、その要請に好意的考慮を払わなければならない」。まさにこんな要求をされる日本は属国ではありませんか。
 つまり日米関係においては、裁判は厳格に中立性と公平を追求するものではないのです。このように「他方の国(米国)から要請があった時は、その要請に好意的考慮を払わなければならない」と露骨に書いてあり、今回の資料で明らかになった事は意外でも何でもなく、「他方の国(米国)から要請があった時は、その要請に好意的考慮を払わなければならない」で日本政府が対応している一つの事例であるにすぎないし、この種の干渉は日常的にあるのではないかと私が疑う根拠にもなっています。しかしこの事実は既に『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』で既に暴露されているのですから、何で今頃、NHK等がこんなに騒いでいるのかが私にはよく分かりません。情報解禁日だったのか。
 4月8日の「しんぶん赤旗」でも、この事が一面トップの扱いなので、私は全く呆れてしまいました。またまた共産党の呆れ果てた策動です。本当に共産党員は無知としかいいようがありません。私は、「赤旗」に『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』の書評がいつ載るかと大いに注目していたのですが、その書評が掲載されたのは何と4月7日だったのです。共産党の対応については大いに失望いたしました。  (笹倉)


【連載】オジンの新◆経済学講座② 上藤拾太朗

●つらい大震災の記憶だが
 第二回目の「講座」にようこそ! れからもこのオジンに気軽につきあってくれ、難しい話しはなしだから。
 あの大震災から二年が過ぎた。多くの人命が失われたばかりではない、大津波で町並みや自然までもが失われたショックは今も消えない。三ヶ月後の菖蒲田(しょうぶた)海岸は、仙台港からさらわれたコンテナで埋められていた。干潟も松林も!
 たしかに国道や仙台空港、仙台新港付近は、今ではその爪痕を探すのも難しい復旧ぶりだ。しかし、住民の離散はとまらない。町や村の復興はいまでも困難を極めている。
 希望は市民や住民の力だ。震災当時、物資の管理や分配、治安や救援活動まで住民がおこなった。役所や警察が一時は無力化していたのだから、自力で困難を乗り越えようとしたのだ。
これは阪神大震災のさなかにも起きていたことだ。不思議にもオジンは仙台と神戸に深い縁があった。
 O・ハーシュマンという反ファシズムのかつての闘士が、自然や社会の脅威が存在すると人々は連帯し団結する、と言っていたことを思い出す。
 そののちボランティアが(神戸でもそうだが)、全国からやってきた。それは今でも続いている。

●そもそも社会はボランタリー
多くの物を失ったが、人間本来の連帯や協同力が復活したのだ。そうは思わないか?これこそが新しい社会の「芽」なんだと確信できたんだ。
 「二十世紀社会主義」は、国の力により平等を実現しようとした。しかしいつしか、エリート政治家や軍人が国を牛耳り、庶民を抑圧する社会になりはてた。当然だろう。
 君は自発的に連帯する社会が空想的だと言うのかい? たしかに多くの困難があるが、けっして夢物語ではない。それが震災時に発揮された人々の助け合いであり、世界中で創られている協同労働やNPO、ソーシャル・ビジネスなど非営利事業の成長ではないか。これらはすべて「ボランタリー」がキーワードだ。
 安倍首相の新著『新しい国へ』で、人々の混乱と闘争の防止として国ができたなんて言うが、まるで間違っとる。
 歴史通(つう)を自認しているオジンに言わせてもらえば、そもそも人類は百万年もバンドという百人程度の集団とその連合を基礎として生活し、進化をとげてきたのだ。国家とか企業とかは一切存在しない。そんな場所でりっぱに社会生活を送ってきたのさ。
 単なるよせあつめ集団ではなく自発的に関わり協議し協働する。それがそもそも社会なのだ。戦争でも祭りでも狩猟でも。これがボランタリズムの大本(おおもと)だ。企業は今じゃ「社員のやる気」を出させることに苦労している。だがほんとうはちがう。
 こんな話しを教えよう。オーストラリアの原住民アボリジニでは「働く」は「遊ぶ」と同じ言葉だ。「上司に言われたから」「給料のために」働くのではない。
 とにかく集団の催し物や働くことは「ボランタリー」だったのだ。君は連休のあと「仕事がしたくないな~」とため息をついたことはないか? こんどその話しをしよう。 (つづく)    案内へ戻る
 
コラムの窓・・・「日付けの意味」

 このところ、にわかに「4・28」という日付けをめぐって、安倍政権と沖縄の人々が対立しています。勿論、これは他人事ではなく、この国に住まうすべての人々にとってもその姿勢を問われる問題です。その意味するところは、本紙前号のコラムの窓を再読していただくとして、ここでは日付けをめぐって思いつくことをあれこれ・・・
 まず思いつくのは8月15日という日付けです。昭和天皇が〝玉音放送〟で〝臣民〟に無条件降伏を知らしめた日、つまり大日本帝国の敗戦の日ですが、この事実に向き合いたくないこの国にあっては〝終戦記念日〟とされています。韓国ではこの日は「光復節」とされ、日本による植民地支配からの解放を祝う日となっています。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)ではずばり「祖国解放記念日」とされています。
 ちなみに、帝国政府が東京湾の戦艦ミズーリ号艦上で連合国に対する降伏文書(ポツダム宣言)に調印した9月2日、この日が第二次世界大戦が完全終結した日であり、交戦国にとっては「対日戦勝記念日」となっています。このように第2次世界大戦、帝国主義諸国による植民地争奪戦の終結をめぐっても、戦勝国、敗戦国、植民地・占領地となっていた国々、それぞれ違った意味を持っています。
 また、それらの国々にあっても、立場の違いによって違った受け止めになるでしょう。敗戦国日本にあっては、〝一億総懺悔〟という言葉の下に戦争責任が不問に付され、戦争責任者ら(天皇を筆頭に軍人や政治家・官僚から経済界や科学・医学界まで)が生き延び、戦後もこの国の支配権を握り続けました。敗戦直後、東久邇宮首相が「全国民総懺悔することが日本再建の第一歩」と記者会見したことに端を発したということですが、その時なし得なかったことが、今もこの国を歪め続けています。
 さて4・28ですが、この日は一昔前の郵便労働者にとって忘れ得ない日です。今は亡き全逓信労働組合は、1978年末から年始へ「反マル生越年闘争」を闘い、79年4月28日に現場労働者を中心に60名を超える首切り攻撃を受けました。全逓が闘争路線を変更して御用化を深めるなかで、7名の被処分者がこれに抗して闘い抜き、2007年2月13日最高裁で勝利判決が確定し、28年後の職場復帰を果たしています。
 かくして、私と同年代の郵便労働者(これも今や過去形となりましたが)にとって、年賀を飛ばすという苛烈な闘いへと上り詰め、その後の苦難の日々を思い起こす日付け、それが4・28です。それは若く輝いた日々でもありました。そう言ってしまうにはまだ抵抗がありますが、これからは老人力で輝きたいものです。 (晴)


グラミン銀行とソーシャル・ビジネス

『貧困のない世界を創る』ムハマド・ユヌス著(早川書房)
二千円

 二〇〇六年のノーベル平和賞受賞者ムハマド・ユヌスの著作である。したがって読者はこの著名な人物についてすでに知っていると思われる。ここでで改めて紹介することは時期を失しているかもしれない。遅くなった理由は、彼の業績を過小評価したためであり、筆者の視野の狭さのせいでもある。反省を込めて紹介させてもらいたい。

●マイクロクレジットの拡大
 ユヌスは、そもそも一介の米国・バングラデシュの経済学教授であった。しかし、祖国バングラデシュの貧困救済活動のなかからヒントを得て低利子の貸し出しを始めたのが最初のきっかけである。貧困の中にある女性が、カネを借りれば返済などおぼつかないので、一般の銀行ではそのような試みは存在せず、悪徳の高利貸しが貧窮民の血をすいとっていた。
 しかし、ユヌスらが始めた少額の金融は、女性達の生活改善の大きなきっかけとなっていったのである。立派な社会的事業として成長したのだ。これがグラミン銀行(一九八三年創設)だ。貧困の女性達は、誰よりも何が地域の住民に必要であるかを知っているとユヌスは語る。女性達はそのために少額の資金をもとに「ビジネス」をはじめ収入を得る。借入金は九八・六%の高い確率で返済されるという。
 「最初の最も重要な仕事は、個々の人間の内部にある創造性のエンジンのスイッチを入れることだ。」「企業家精神はだれでももっている」「だからグラミン銀行は、貧しい人々に施し物や交付金ではなく、信用貸し付けを提供している。自分自身で作りだす仕事で返済しなければならない、利子付きローンである」(同書)。「グラミン」とは農村という意味だ。
 その後徐々に「グラミントラスト」「グラミンファンド」「グラミンテレコム」などの企業群を形成。ソーシャル・ビジネスの概念が成立してくる。
 このようなソーシャルビジネスモデルは、後発国ばかりではなく先進国でも貧困対策として広がりつつある。
 
●「損失もないが配当もない企業」
 「ソーシャル・ビジネスの本質は、損害を被ることなく、可能な限り最良の方法で人々(特に私たちの中で最も恵まれない人々)と地球に奉仕する事だ」(同書)。
「社会的な目的を達成するために考えられた企業です。ソーシャルビジネスの企業は、配当を全く支払いません。会社が自己維持できる価格で製品を販売するのです。会社の所有者は、会社に費やした投資分を取り戻すことはできます。しかし、投資家に配当はありません。利益はすべてその中にとどめておくことができます。つまり融資の拡大や、新たな製品やサービスをうみだすこと、あるいは、世界にとってよりよいことをする、ということです。」(同書)。
「組織体においてはソーシャルビジネスは既存のPMB(利潤企業)と同じである。労働者を雇い、品物やサービスを生みだし、その目的にふさわしい価格で顧客に提供することは同じだ。しかしその目的は異なる。その基調となる目的(評価基準)は、かかわった人々の生活のために社会的恩恵を生み出すことである。会社そのものは利益を上げるかもしれないが、会社を支える投資家は、一定期間に投資したとの同じ額を取り戻す以外には、会社から一切の利益は持ち出せない」(同書)。

●チャリティー、NPO、協同組合との違い
 ユヌスは、NPOをチャリティと見なして次の様に言う。
 「バングラデシュは洪水と津波の後に何万人もの命が救われたと」感謝しつつも「NPOは地球規模の貧困に十分に応えられない。寄付の安定した流入に依存しているが、不足が生じれば事業はストップする。」「同情疲労」もあると。
 「協同組合は、強欲な会社の所有者による貧しい人々の搾取に対抗して始まったものである。しかしながら、本来、貧しい人々を援助し、あるいはその他特定の社会的利益を生み出すという目的のためには、協同組合という概念は向いていない。協同組合事業の所有権を作りだし共有するために団結する人々の目的と利害が一致するかぎり・・構築される。もし、利己的な支配に陥れば、協同組合事業は、社会のすべての人を助けるよりも、個人やグループの利益を得る目的のために・・・実際には利益を最大にするための会社になってしまう」(同書)。
 ユヌスの貴重な見解だ。「ソーシャル・ビジネスは社会的企業の一種」と自ら位置づけている。おそらく今後、既存のこれらの「非資本」としての経営体が、競い合い、混じり合い影響し合って新しい社会の基礎システムが創造されるであろう。

●非資本の新しい試み
 すでに明らかなように、ソーシャル・ビジネスは「配当」「利潤」を撤廃ないしは規制している。反貧困の明確な目的を持った「企業」なのだ。
 とりわけ、マイクロクレジットは新しい要素を明確に付け加えたと私には思われる。人の責任、自発性、創造性を引き出すものとして、ばらまき慈善、公共福祉事業とは異なる。「人」を育てること。個々人が経営主体として創意工夫と社会性を同時に追求するという、積極的なシステムといえる。
 個々人の自立や自己営業としての情熱が、貧困層の人々の中に渦巻いていること、そして、それを解きはなつという大きな可能性をユヌスは示したのである。このような貧困な村人が資金を得ると、他人を蹴き落とすような商売ではなく、コミュニティの存続のための必要な労働や製品をつくり、そして自立してゆくというのである。
 マイクロクレジットの実践を深く考えれば、資本主義企業の貨幣経済ではないものがそこに存在する事を見るだろう。
 ソーシャルビジネスの商品は、利潤の拡大ではない。G・・W・・W’・・G’が貫徹しておらず、利潤に拘束されていない。拘束されるのは(評価基準は)社会的意義なのである。
 この様な経済は、商品貨幣経済だが、資本主義経済とはいえない。つまり、ここでは貨幣は依然として商品やサービスの交換を媒介しているが、それは表面であり内容は互酬的である。
 「ソーシャルビジネスを後ろから推し進める原動力は・・人々は世界について心配し、お互いのことを心配し合っている。人間はできることなら仲間である他の人間の生活をよくしたいとという本能で自然な願望を持っている」(同書)。
 マルクスの言うように資本(剰余価値の発生)も商品交換の形態のなかにある。しかし、ソーシャル・ビジネスは形態が資本に似ていても、貨幣を媒介にしても、内容は別な要素がにじみ出ているのである。そこんとこを読み取るべきだろう。
 商品交換=資本関係が共同的で互酬的な交換関係へと変態しつつあるのではないのか。
          
●グローバル資本主義への対抗
 ユヌスはこうも語る。「ソーシャル・ビジネスのシステムを導入してゆくことにより、現在主流となっているビジネスの考えの外に残された非常に大きな世界的問題に取り組む力が資本主義に備わり、そのシステムを救うかもしれない」(同書)。
 またユヌスは、フランスの多国籍企業ダノンと一部で共同している(もちろんソーシャル・ビジネスとして)。PMB(利潤企業)が協調するなら拒まないが、競争して彼らに勝ち抜くことを宣言している。
 このようなユヌスの楽観主義は一抹の危惧を感じさせる。しかし、他方では資本主義・利潤主義に妥協する姿勢はみじんもない。
 地域の助け合いをビジネスとして自活の手段として(つまり社会的労働として)展開したところにユヌスの新しさがある。個々人の主体的社会参加の一つのあり方が示されているのだと筆者は考える。
        *   *   *   *   *   *
 ひいきの引き倒しにならないようにソーシャル・ビジネスの問題点を最後にふれてみよう。それは、高度なマネッジメント(会社経営)が、必ずしも大衆的ではない。民主的システムではないとおもわれる点だ。労働者協同組合などに比べて、現存資本の企業形態にとらわれていると思われ。
 しかしこのようなトップダウン型が、そもそも個々の労働者・貧困者の「創造性のエンジン」と対立するのではないだろうか。自己雇用(個人的営業)こそが、より積極的な事業展開を行うことが示されたからには、他人雇用はその反対物として創造性の障害物になるのではないか。(つまり集団的自己雇用を考えなければならないだろう。)
 連帯の経済、共生経済、協同組合、ソーシャルビジネス、社会的企業、NPO、NGO、幾多の慈善事業等々の良いとこを足してそのあとその数で割ればよい、というのではない。ハイブリッド型が創発されることをさらに期待する。 (阿部文明)     案内へ戻る


色鉛筆・・・「日本は平和じゃない」

 沖縄の闘いの中に立つ山城博治さん(沖縄平和運動センター)のお話を、静岡でお聞きした。躍動感あふれる語り口は、会場を圧倒し、また深い共感をも呼んだ。
那覇から車で約2時間半(高速道路なら1時間半)の沖縄本島北部には、広大な森が広がり世界的にも貴重な多くの天然記念物や絶滅危惧種の生物たちが暮らしている。同時にそこには米軍が持つ世界で唯一の野外戦闘訓練場「北部訓練場」がある。
 隣接する東村高江部落(住民160名)をぐるりと取り囲むように6つのヘリパッド(オスプレイにも対応可能なヘリコプターの離発着場)が建設されようとしている。「北部訓練場」の一部返還と引き替えに出されて来たものだが、一番近いヘリパッドは住宅からわずか400㍍の距離しかない。生活の破壊どころか命を脅かすものだ。
2007年に沖縄防衛局が工事に着手。現地は『ヘリパッドいらない(高江)住民の会』を結成して反対運動を続けている。
 ところが2008年に同防衛局が那覇地裁に、住民15人を「往来妨害」などを理由に訴えるという暴挙にでた。現場に行っていない7才の子どもまで含まれているというデタラメさ。“国が国策に反対して座り込む住民を訴えた”のだ。この話の時、山城さんは悔しさのあまり涙ぐんだ。
 反対運動を萎縮・分断させようという悪巧みは失敗。その後、住民ひとりを除いては「無罪」を勝ち取り、24時間の監視体制などで工事を阻止続けている。山城さんは、一年のうち7~8ヶ月を「山の中(高江)」で暮らすという。防衛局はあらゆる汚い手を使って、隙あらば工事を進めようと躍起になっている。作業員を山の反対側から工事現場に侵入させ「一施設を完成させた」と豪語したものの、無理な森林伐採から一部が台風で決壊し土砂崩れしており、「完成」とは程遠い。とはいえ、高江部落を「標的」とする(!)米軍のオスプレイ飛行訓練場を、一刻も早く完成させたいことは明らかで、まだ監視・阻止行動は続けてゆかねばならない。
本土の私たちの目に触れることはないが、今こうしている現在も、高江で、普天間基地ゲート前で、あるいは辺野古の海で、住民・市民が粘り強く抗議行動を続けている。機動隊にゴボウ抜きされ、ある人は骨折し、ある人は打撲を負い、悔し涙を流しながら、気の遠くなるような長く苦しい闘いを強いられ続けている。
 記憶に新しい沖縄の抗議の為の県民大会だけでも、1995年の少女への米兵らによる性暴力に抗議して9万人が、2007年には、教科書検定撤回を求めて11万人が、2012年にはオスプレイ配備拒否で10万人以上が立ち上がっている。今年一月には、県内41市町村全ての首長・議長ら144名の首相直訴団が「オスプレイの配備撤回・普天間基地の県内移設断念」を求める『建白書』を安倍首相に手渡した。沖縄県民の総意を全て無視して、オスプレイを強行配備し、辺野古移設を推し進める日本政府は、同じ事を他の県でやるのか?やれるのか?
 「沖縄の問題は本土の問題だ」と山城さんは言う。オスプレイの訓練ルートを米軍用語そのままに「オレンジルート」「ブラウンルート」などと日本政府は発表したが、それは「四国ルート」「東北ルート」など日本の地名で表すべきで、地元の反発を予想してこうしたごまかしで通す、思えば「普天間基地移設問題」も、山城さん風ならば「普天間基地閉鎖・撤去問題」と言い表すべきなのだ。巧みに「本当のこと」ははぐらかし覆い隠され、厳しい沖縄の現状は本土のマスコミで報じられることがない。
 福島から沖縄に避難している少なくない人たちが、沖縄では「放射能が怖い」「日本政府はおかしい」と本心を語れるという。裏返せば、本土にはそれが言えない縛りがあると言うことだ。
 経済を優先させ、原発・改憲を推し進め雇用を破壊する日本の政治は、被災者や生活保護受給対象者、在日や老人・病人など弱者を差別し痛めつけている。沖縄にとっては「屈辱の日」の4月28日に「主権回復の日」式典を強行することもそのひとつの表れだ。
 沖縄の側から日本の政治を見ると、その本質がはっきりと見えてくる。4月7日、ミサイル発射に備えて破壊措置命令を出し「国民の生命と安全を守るべく万全の態勢をとっている」(菅官房長官)と発表した。2007年5月18日、当時の久間防衛相と安倍首相が、新基地建設に反対する住民に対して辺野古沖に自衛隊の軍艦を派遣したことを、沖縄の人は忘れない。「国民の生命と安全を」脅かしているのは、日本政府自身ではないのか。「日本は平和じゃない」オスプレイが強行配備された普天間基地前で一人の女性がつぶやいた。私たちは沖縄の現状・痛みを共有し、山城さんの言うように「命や人権・平和を守る為に」共に闘ってゆきたい。(澄)


トピックス2013/4/10   「国会審議入りした共通番号法案に反対しよう!」

 安倍内閣は3月1日、個人番号制度関連4法案を閣議決定しました。自公政権は今国会での成立を目指し、国会審議を急いでいます。民主党政権においてマイナンバー法案として提案され、税と社会保障の一体改革のために必要とされたものです。全住民に生涯不変の番号(マイナンバー)を付したICカードを所持させようとする、この目論見は法案が廃案となり潰えました。
 自公政権はこれを更に国家による住民監視を強化し、民間利用も拡大させたものとして、実質常時携帯させようとしています。自民党が長年導入しようとして出来なかった、国民総背番号制(国内パスポート)そのものです。世相が殺伐とし、そのはけ口が少数者や立場の弱い部分に向けられるなか、番号によって人々を管理、選別・排除するカギを国家は持とうとしているです。
 失敗した住基ネットには、巨額の税金が垂れ流され続けています。今度は持たせて管理しようとする安倍首相の〝軍事化と監視〟を象徴するこの法案に反対しましょう。

レイバーネットTV・3月28日放送「共通番号制・プライバシーゼロ社会がってくる!」http://www.ustream.tv/recorded/30519795

声明 ― 国民監視のための「共通番号法案」の採択に反対する ―
2013年3月27日
  監視社会を拒否する会
   共同代表  伊藤成彦(中央大学名誉教授) 田島泰彦(上智大学教授)
          福島 至(龍谷大学教授) 村井敏邦(大阪学院大学教授) 

(1)自民党安倍政権は3月1日、私たちの反対の声をふみにじって、共通番号制度を導入するための法案(*)を閣議決定し国会に提出しました。
この共通番号法案は、国家が国民一人ひとりに付けた番号で個人情報を一元的にコンピュータ管理するものです。政府は、共通番号制度をあらゆる行政分野と民間においても利用することを狙って、この法案の「基本理念」の条文に、共通番号は、社会保障と税の分野だけでなく、「他の行政分野及び行政分野以外の国民の利便性の向上に資する分野における利用の可能性を考慮して行われなければならない」という文言を盛り込みました。政府は、この法案を「民主党政権が提出して廃案となったマイナンバー法案とほぼ同じ内容」などと押し出して、今通常国会での採択を強行しようと
しています。

(2)安倍政権は、〝脱税や社会保障サービスの二重給付・不正受給対策に共通番号制度は必要だ〟などと宣伝し、共通番号制度の導入を急いでいます。彼らは、国債の濫増発によってつくりだしている深刻な財政赤字を穴埋めするために、税・保険料の徴収を強化し、生活保護費をはじめとした社会保障費を削減しようとしているからです。それだけではありません。
病歴等の医療内容、成績や指導内容を含んだ学校教育などのきわめて秘匿性の高い個人情報をも、政府は共通番号によって管理することを検討しているのです。そのために、共通番号を利用するときの本人確認のためと称して、国民に顔写真付きのICカードを交付し、実質上常時携帯させようとしているのです。さらに同時に、安倍政権は、治安対策を強化するために、法案に「刑事事件の捜査」にも共通番号制度を利用することを明記しました。のみならず、これを新設するとされている第三者機関の監督の対象外としたのです。共通番号制度を使って、<誰が、いつどこで、何をし
たのか>を、国家が監視=管理し、国民のプライバシーは丸裸にされてしまいます。しかも、「国防軍」の創設をその改憲草案において提言している自民党は、軍事化と監視化を強めるために、国民のすべての個人情報を掌握する重要なツールとして共通番号制度の導入を図ろうとしているように考えられます。
 
(3)私たちは、このような狙いをもった共通番号制度の導入が、憲法13条で保障されたプライバシー権(自己情報コントロール権)を侵害するものであり、高度情報化社会における国民総背番号制を確立しようとする提案に他ならないことを憂慮します。「行政の効率化」を名分として、国家が国民を監視し管理する監視社会の進行を許すわけにいきません。私たちは、共通番号法案の採択に反対し、法案をただちに撤回するよう強く求めます。

(*)「行政手続における特定の個人を識別するための番号の利用等に関する法律」案
連絡先 〒164-0001 東京都中野区中野5-32-11-504
電話03-5380-2931 FAX 020-4665-3089     案内へ戻る

読者からの手紙
 
懐疑と希望

 最近、自分自身の関心テーマである、変わらぬ、変えようとしない日本社会の病根としてのニッポンイデオロギーの実相を鋭く突く「8・15と3・11」を世に問う本を贈したので一読した。私は横浜市を中心に活動する「厭戦庶民の会」の求めに応じ、12・16総選挙後の日本を憂うエッセイを寄稿した。
 内容は、3・11ショックでも変わらないニッポンの国家とは何か? それは、再び、あってはならない戦争の原因と総括をしないまま、戦後復興・再生にのめりこんだ日本人の心性(精神なき、実利功利主義一辺倒)に懐疑し、内なる改革は果たし可能なのかを自ら問い、チェンジする不屈の市民と左翼の自己批判、実現を担う党派を未来のかすかな気望を託す。そんな一文を記したが、笠井はさすが、私よりもはるかに根源的実証性に富み、私の知的刺激を促す、労作だ。
  
 理論、実践とも軽佻、浮薄な大衆レベルの一員でしかない私ですが、それでも露骨な階級格差とウルトラ右翼の日本に抵抗する気持ちは強くあり、絶滅危惧種の某政党と距離を置きつつ、交流を図り、教宣を主とした活動を行なう。ワーカーズの各記事は、私の欠如した実践的裏付けのある分析鋭い明快な主張として、大いに参考になる。
 それにしても愚痴になるが、これだけ痛めつけられ、原発・安保・TPPなどもはや、人民に生き難く絶望でしかない悪政を黙認し続けるのか? 日本人であることを私は恥じ入り、空しくなる。(深町)

日常性と大阪風

 失ってはじめて知る、その大切さ、値打ちを知るものの総括として日常生活がある。
 花森安治は戦時中、野戦にかり出されて、はじめてこれまで何気なく過ごしてきた日常性の大切さを知り、日常性の中に埋もれてきた女性の目線こそ、戦争否定の戦後の目線だと考え、復員後スカートをはいて歩き回り、形から変えていこうというところで「くらしの手帖」を始めたらしい。
 また、ふり返ってみると明治維新は新しい生活を始めたようで、実際には何が変わったのか、旧態依然どころか人間の本当の幸せを、ふんずけていく日本社会の様相、こわされていく人間の様相を夏目漱石は小説に書いた。そして時代は戦争へと突っ込んでいく。
 鉄砲かついだ兵隊さんの行進を眺めていた永井荷風、集団主義を嫌い、不安な様相を伴いながら個を守ろうとした人々がいた。難波の書店・油屋さんはブックカバーに目隠しされた馬が車を走らせ、車に乗った知識人はあさっての方を向いて読書三昧、馬をぎょするムチは肩にかついで・・・、という全く世相をよく表現したシニカルなカバーを本にかぶせて書物を世に送り出しておられた。
 文士の織田作之助氏は、そうした馬とムチを肩にかつぎ本を読む知識人のあいだに御者として乗り込み、ムチを手にとり馬の歩みを進め、大阪風をつくったと言えまいか。群衆に向かい合う時、作之助氏は決して対立的にとらえていないことは、言うまでもない。
 最近、世の中の風潮にどっぷりつかりながらも、己の外側の世界との乖離、すき間を鋭く感得している人が増え始めているのではないか、その頭上に貧困と災害の不安がおおいかぶさってきている今日この頃、これが現在の日常性であろう。目かくしをとり払った馬は、いずこへ。
2013・3・30   大阪 宮森常子

附記
 3・11は人間にとって、何が大切で、何が本当かをつきつけた大自然の起こした事件であったが、大阪に生まれ、関西に住むことの永かった私の経験は関西に限られるので、経験と言っても戦時・戦後に関するものが多いので、上記のような視点に立たざるを得なかった。      案内へ戻る

編集あれこれ

 前号のワーカーズの第一面は、「安倍政権の三ヶ月」を総括した記事でした。今後安倍政権に対しては、反TPPと憲法改悪等の旗幟を鮮明にして闘っていかねばなりません。
 また第二面には、「アベノミックスで加速する経済衰退」と題し、インフレを導入するやり方に対して、実体経済を協同経済の追求の中で再建せよとの主張を展開しました。
 第三面の「コラムの窓」では、安倍政権の「主権回復の日」式典に対して、沖縄県等を切り捨てた謝罪決議をすべきとの提案を対置しました。まさに醜い日本人達の式典です。
 第四面では、この間何回も中央交渉を実現させた関東ホットスポットの市民の活動報告を掲載しています。この活動は大きな意義のある活動です。拡散に協力をお願いします。
 第五面には、「色鉛筆」を掲載し、TPPについて地元からの話題を提供しています。
 第六面では、3月16日のみやぎアクションの報告、また「新★経済講座」の連載も開始されました。ワーカーズの看板である「アソシエーション革命」の今後の展開も予定されているとのことですので、この連載には大いに期待出来るでしょう。お楽しみに。
 第七面には、「またしても雇用が標的にされている!」と題し、今議論が進められている「雇用可能な正社員」問題に対して、理不尽な解雇に反対する闘いを呼びかけています。
 第八面から九面には、「キプロス危機の深層とは何か」で、EUとロシアの水面下の闘いを論評しています。第九面では、「無理な『業務命令』を出すな!」との告発記事を掲載しました。第十面には、読者からの三本の投稿記事を掲載しています。
 前号も多彩で読み応えある記事を集める事が出来たと自負しています。読者の皆様の紙面改善に関するご意見を期待しております。 (猪瀬)

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