ワーカーズ497号  2013/10/1    案内へ戻る
 放射能汚染の脅威--終わりの見えない原発事故   健康被害の拡大を許すな!

◆無為無策の東電--垂れ流しの汚染水
 四月に地下貯水槽から漏れ出たことが発端だった。その後地上タンクからの漏れや、堤からの溢れやバルブの「閉め忘れ?」など、次々と放射能汚染水の垂れ流しが報道された。
 管理能力ゼロの東電だが、これには理由がある。根底には「置くところがなくなれば、海に捨てればよい」という東電の信じがたい発想だ。事実、すでに海洋投棄を提案している。なんという無責任ではないか!これも安倍政権の容認的態度と無関係ではない。これ以上の海洋汚染を避けるために国家は全責任を取るべきだ!
◆原発事故の困難と安倍首相の嘘
汚染水は毎日四百トン増大するという。そもそも汚染水の発生源である原発の廃炉への道もまるで見えない。タンクの増増設も、耐久性も限界はみえている。
 その上、地下水が毎日千トンも原発施設の下を流れている。すでに地下に浸透した汚染水は地下水とともに海洋に流れ出ているのは確実だ。
 今切り札とされている、凍結による障壁建設も、莫大な電力を別としても万全とは言えそうもない。
 危惧されていたとおり原発事故が一旦生じれば、人類的な脅威が発生し、途方もない労力が必要となることを、改めて痛感せざるを得ない。だが安倍政権には事故と向かい合う意志も能力もない。
 安倍首相は「汚染水は0・3平方キロメートル内に完全にブロックされている。コントロール下にある。」云々とくり返す。
 原発事故を過小評価し過去の事にしておきたい、原発ビジネスやオリンピックの障害になっては困るという、目先の政治的意図だ。むしろオリンピックや原発ビジネスこそ、福島復興の障害になっている!
◆支援法の精神に基づく政策を--危険な帰還政策
 一年以上たなざらしになってきた「原発事故子ども・被災者支援法」だが、やっと出てきた基本方針は安倍政権の意図により骨抜きされたものだ。チェルノブイリ法によれば、年間一ミリシーベルトを超えれば移住の権利が発生し、支援を受けられる。五ミリシーベルトを超えれば、移住の義務が発生する。より広範に危険地域を設定し、住民の安全を重視しているのに、今度の「基本方針」は支援対象地域を、福島県浜通と中通りを中心とする33市町村に狭く限定した。「放射能を怖がるな!」これが安倍政権のとんでもない基本方針だ。
 九月十七日、原子力規制委員会は政府の指導の下で、避難指示解除に向けての検討会を開いた。席上内閣担当者は「百ミリシーベルトまでの被曝線量でのガンのリスクは(胎児・子供を含めて)確認されていない」主旨を強調したという!
 今後、県民の望郷心を逆手に取った、「安全宣言」や強引な帰還政策が採用される危険性がある。危機管理どころか、健康被害を人為的に拡大しかねない安倍政権と断固闘わなければならない! (阿部文明)


 消費増税   アベコベの消費増税対策──馬脚を現すアベノミクス──

 安倍首相が消費税増税の実施を決断し、10月1日に表明する。あわせて、消費増税による景気腰折れを防ぐための経済対策も打ち出す予定だという。
 それにしても、消費税引き上げをめぐる安倍自民党の厚顔ぶりには呆れかえるし、怒りがこみ上げてくる。結局は、消費税で吸い上げた家計からの税金を内部留保をため込む黒字企業に注ぎ込むという、企業優先政治の本性が露わになったからだ。
 〝賃上げ〟要請は言葉だけのパフォーマンス、企業へのテコ入れに熱を上げる安倍自民党を徹底的に追求し、反転攻勢につなげよう!

◆企業支援

 安倍首相による経済対策は、露骨な企業優遇があからさまだ。総額5兆円の中身は次のようなものだという。
 企業減税では設備投資減税などで総額数千億円の減税、復興法人税の廃止で9000億円の減税などだ。
 家計支援では、住宅ローン減税と給付措置、それに自動車車体課税の引き下げ(消費税10%時の取得税廃止はすでに決めている)。低所得者(住民税非課税世帯)への1人1万円支給、児童手当の5000円上乗せ、現金給付の総額は3000億円……。
 来年4月に予定されている消費増税では、3%の引き上げで年間8兆円の増税、家計では6兆円の負担増と試算されている。1人あたりでは年間5万円の負担増だ。その大部分を企業に投入しようとするのが、安倍首相のいう経済対策だ。マイホームも車の購入も予定のない大多数の庶民には何もないし、低所得者の1回きりの1万円給付でどうしろというのだろうか。
 それに、住宅減税や自動車減税は、個人というより住宅産業や自動車産業への支援が目的だ。他の個人・家計への支援は手薄いものでしかなく、全体としては、家計の負担で黒字企業が潤う仕組みになっている。結局、企業へのテコ入れ策を家計の負担でおこなうというものだ。
 アベノミクスはデフレ脱却への3本の矢として、金融政策での異次元緩和、財政支出によるゼネコンなどへのテコ入れ、それに成長戦略だった。これまで実施されてきたそのいずれもが企業へのテコ入れであり、デフレの原因だった賃金をはじめとして低迷する家計へのテコ入れは言葉だけだった。そのうえでの消費税引き上げ時の企業テコ入れ策の大盤振る舞いである。またしても、という以外にない。
 社会保障の充実のために使うとしてきた消費増税の方便が、ものの見事に吹っ飛んでしまった、ということだろう。消費増税は、社会保障以外の財政支出を守るためにこそ導入されたのだ。そうした消費増税の真相が浮き彫りになった企業優遇ぶり、本末転倒ぶりには怒り心頭、あきれかえって言葉もない。

◆本末転倒

 安倍首相は、デフレの克服のために企業減税が不可欠だという。なぜ企業減税か。安倍首相は、企業が潤えば廻り廻って労働者の収入の増加に繋がる、という。いわば企業や富裕者が潤えば、やがては家計や低所得者の収入として末端まで恩恵がしたたり落ちてくる、というトリクルダウン理論だ。が、トリクルダウンは,すでに破綻している。企業利益の増加が勤労者の収入増に繋がっていないからだ。にもかかわらず、安倍首相はトリクルダウンに固執する。
 それを象徴するのが、企業の復興増税の前倒し廃止だ。
 東日本大震災からの復興にあたっては、家計は所得税を25年、地方住民税を10年にわたって引き上げ、企業は法人税引き下げを3年間遅らせる復興増税で、震災復旧に必要な25兆円の内、10・5兆円を賄っている。それを企業増税だけを一年前倒しで廃止する、というものだ。
 震災復興をないがしろにするかのような復興増税の廃止の是非はここでは脇に置く。その上で、なぜ所得税増税の前倒し廃止ではなく、企業の減税延期分の前倒し廃止なのか。ここに安倍政権の姿勢が端的に、また露骨に現れている。
 安倍首相は、デフレ脱却のためには企業の利益を賃上げなどで労働者に還元しなければならない、と言ってきた。企業が利益をため込むだけなら需要は増えず、景気は上向かないからだ。そうであるなら消費や家計に直接テコ入れすること、すなわち、個人所得税や地方住民税こそ前倒しで廃止すべきだろう。
 しかもこの10数年、企業は賃金などを削って利益をため込み、それが内部留保として巨額な規模に膨らんできた。今では日銀調べで220兆円にも膨らんでいるのだ。だれが考えても、企業ではなく、家計に直接テコ入れをすることこそが必要なのだ。
 それなのに安倍首相は、今また企業へのテコ入れに執着する。結局、安倍首相は、企業が潤ってそれが家計に廻るという〝好循環〟を掲げてはいるが、実際には、ともかく企業が活動しやすい環境づくり、企業が豊かになることが決め手だと、ノー天気に考えているだけなのだ。
 安倍首相は産業界に賃上げの要請はしている。そんな暇があったら、労働者の賃下げによって企業利益の拡大を追い求めてきた企業の労働政策にメスを入れること、それに、企業減税ではなく労働者や家計の減税こそ実施すべきなのだ。
 安倍首相によるアベノミクスや経済対策、誰が考えてもアベコベだという以外にない。

◆政官業利権政治

 消費税増税は、本来、税と社会保障の一体改革を建前としていた。が、安倍首相は、12年度補正予算や13年度予算、それに14年度概算要求で、公共事業や軍事費の増大に傾斜しする姿勢を打ち出した。これらはすでに税と社会保障の一体改革という消費増税時の方便が投げ捨てられたことを意味する。それはすでに民主党政権末期から始まっていた。
 少子高齢化などで増える社会保障費をまかなうためには、本来、他の支出を抑えて社会保障に振り向ける、というのが大原則のはずだ。ところが、現在の官僚的縦割りの財政構造にあっては、増える支出の財源を探すのは、担当する省庁や族議員の仕事になっている。他の省庁は、自分の既得権や縄張りを死守する。だから復興予算が必要だといわれても、自分たちが確保してきた予算を復興に廻すことなど考えない。他方では、復興予算での無関係な支出への流用も無くならないし、反省もしない。
 そうした縦割り意識と構造を抑えて予算の組み替えをおこなうのが、内閣とその首班である首相の仕事のはずだ。それができない、する気もないというのが、政官業利権政治に乗っかっている安倍内閣の真実なのだ。
 これまで野田前首相はじめ政府は、消費税はすべて社会保障に使う、としてきた。しかし、消費税法には、使途として社会保障に限定するとの規定はない。社会保障に使うというのは、内閣としての単なる考え方を言ったもので、消費税は特定財源ではないのだ。結局、安倍首相は、企業優先と各省庁の縦割り構造を追認しているだけ、というわけなのだ。税と社会保障の一体改革ということ自体が、欺瞞に過ぎないことが、今また露わになった。

◆安倍内閣にノーの声を!

 安倍内閣の支持率が高いのは、改憲や軍事大国化への姿勢ではない。集団的自衛権の容認や改憲要件の緩和などには反撥も強い。それでも安倍内閣の支持率は、9月はじめの時点(朝日新聞調査)で、支持57%で不支持24%と、比較手に安定している。その安定した支持率は、あくまで低迷する経済の立て直しや景気回復に繋がるかもしれないという、アベノミクスへの支持に他ならない。が、消費税についてみると、以前は拮抗していた支持率が、このところむしろ低下傾向にある。9月はじめの調査では、消費税引き上げ賛成が39%(前回 43%)、反対が52%(同49%)となって、反対がはっきり賛成を上回っている。
 これは安倍内閣の消費税引き上げが、すでに触れたように、当初、有権者が受け止めていたものとズレてきたことを感じ取っているからだ。消費増税は社会保障の立て直しのためなどではなく、家計の負担でゼネコンや大企業などへの大盤振る舞いに廻すという、家計軽視、企業優先の姿勢があからさまに示されたからだ。
 内閣支持率が落ちるだけでも安倍内閣にとっては打撃となる。安倍内閣への包囲網を形成し、〝安倍内閣ノー!〟の声を突きつけ、反転攻勢を拡大していこう!(廣) 案内へ戻る


 報告  9月23日、「もんじゅを廃炉に!関西集会」

去る9月23日、大阪において「もんじゅを廃炉に!関西集会」が開催された。もはや廃炉しかないと銘打って開催された集会、500名ほどの参加者があり、吉岡斉九州大学副学長の講演「脱原子力のカギ・核燃料サイクル」、パネルトーク「もんじゅの継続に何の意味があるのか」(社民党福島みずほ・無所属山本太郎・民主党福山哲郎各国会議員出席)・小出裕章汚染水緊急ビデオインタビュー・朴保の歌など盛り沢山のプログラムだった。
集会決議採択後にはデモも行われ、私も「もんじゅを廃炉に!」という決意を再確認した。1995年のナトリウム火災を超える事故、そんなことになれば関西は消滅する。子どもたちの明日を守らなければならない。
今年の夏、京都で伊藤若冲の釈迦三尊像を観た。中央に釈迦が描かれ、左脇(向かって右)に獅子に騎乗した文殊菩薩、右脇(向かって左)に象に騎乗した普賢菩薩が描かれていた。新型転換炉の原型炉を「ふげん」、高速増殖炉の原型炉を「もんじゅ」と名付けられているが、普賢菩薩は慈悲を象徴し、強大な力を持つ巨獣を慈悲で完全に制御しているらしいが、「原子力の巨大なエネルギーも、このように人類が制御し、科学と教学の調和の上に立つのでなければ、人類の幸福は望めません。原型炉『ふげん』は、これらの願いを込めて名付けられた」と言うことだ。
そのふげん、今はあえなく廃炉となっている。もちろん、文殊菩薩は智慧を象徴しているのだが、現世のもんじゅはまるで愚かさの象徴だ。こうした命名に示された原発推進勢力の願いもむなしく、新型転換炉も高速増殖炉も破綻し、釈迦にも見放されている。ふげんももんじゅも〝御釈迦〟とは、皮肉と言うほかない。(晴)

 「もんじゅを廃炉に!関西集会」集会決議

 今日、私たちは「もんじゅを廃炉に!」の強い思いを持って、関西各地から集まりました。開発から半世紀、1兆円という莫大な国費を投じてきた高速増殖炉「もんじゅ」は、一体、国民に何をもたらしたでしょうか。
 1995年12月、ナトリウム火災事故を起こして停止、2010年に3トンもの炉内中継装置を落下させて再び頓挫し、2012年、1万3千件もの機器の点検漏れが発覚、原子力規制委員会も「こんな組織にまかせられない」とあきれ、「もんじゅ」の運転再開準備の停止を命じました。
 しかし文科省は8月8日、組織と名称を変えて「もんじゅ」の研究開発を継続すると発表しました。
 18年間、もまともに動いていない炉を再び動かすなど世界に例がなく、言語道断、正気の沙汰ではありません。「原子力依存からの脱却」というのなら、核燃料サイクル政策とは矛盾します。再処理も頓挫、実用化の目処も全くない中で、どこをどう探しても「もんじゅ」を継続する大義名分はかけらもありません。
 原発はひとたび大事故を起こすとどうなるか、今、私たちは福島で目の当たりにしています。安倍総理の発言とは裏腹に、汚染水は「毎日600億ベクレル」外洋に放出されていると9月19日、報道されました。もはや制御不能ではないかと絶望的になってしまいます。
 まして「もんじゅ」には1400キロのプルトニウムと1700トンのナトリウムがあり、止まっていても安心できないのです。一刻も早く廃炉を決断するよう強く求めます。
  2013年9月23日 「もんじゅを廃炉に!関西集会」参加者 賛同者一同


 色鉛筆・・・ あきまへんどすなあ議員さん

 第20回オンブズ全国大会が京都龍谷大学で行なわれました。この見出しをまさに証明するかのような議員さんたちの議会活動を、どうしたら少しでも改善できるのか? 「議会」分科会の会場では、最初から意見が活発に出て、時間内では発表時間が足りなくなるほどでした。これまでは、政務調査費の不正使用を中心にオンブズ活動を行なってきた私たちでしたが、他の視点からの評価も試してみる価値があることを教えられました。
 全体会でも報告された議員通信簿は、以前、尼崎オンブズによる調査用紙を見せてもらったことがあります。議会中に居眠り、私語をする、質問の回数などが調査の対象だったと思います。しかし、この分科会では議員の一般質問の内容にも目を向け、通信簿に取り入れた結果報告をふまえ、改善策を出し合い議論しました。 議会での質問の回数もさることながら、質問内容があまりにも貧弱であることに、何のための一般質問なのか? 質問するだけの意義あるものなのか? 誰もが感じることです。
 千葉からの発言は、議員の質の向上に向け第三者委員会を設け、チェックシステムを導入することの提案でした。これは、たんに市議会だけでなく、県会・国会にも広げていくべきとのことでした。このチェックを議会事務局が出来たら、何の問題もないのですが、これまでの議員さんとの力関係を見ていると、とても無理やなあと、諦めざるをえません。
 チュックシステムといえば、現状では監査委員会がありますが、監査委員のメンバーに現職議員や市の元幹部などを含み、公平性に欠く機能であることは、既に明らかなことです。現行の監査委員会の改善も併せて、要求したいものです。
 栃木からは、勉強しない議員に、条例に研修制度を設け、議員の質を向上させるのに役立ててはどうか、と提案がありました。これは、少し甘やかせ過ぎではないかと思ってしまいました。そもそも、自分が議員になることの自覚や、議員になって何をしたいのか、自ずと勉強の必要性が出てこないと、議員になった資格が無いといっても言い過ぎでないと思います。このように、議員に必要なスキルを持てるように育てようと、「温かい」配慮は福知山の現職の議員さんからも提案されました。
 他にも議会での質問内容が事前通告制であることに、問題があるのではないかと意見が出され、当局側との打ち合わせ通りにスムーズに終えることに、異議が出されました。確かに、傍聴している者にとって、当局側の返答は文章の棒読みで、数字だけの結果報告なら、何ら響いてくるものもないのは事実です。後、委員会の傍聴で、傍聴人からの質問を受けたらどうか、という提案。議員の一方通行ではなく、市民の声を聞くことも勉強の一つではないか。
 京都は近くとあって、今回は西宮から5人の参加となり、心丈夫でした。議会の傍聴、政務調査費のチェックは、時間も労力も必要ですがこれからも粘り強く続けるしかありません。他市では、教育委員会の傍聴に取り組んだ報告がありました。傍聴の日時も公表されていない現状の問題を指摘し、要求してやっと傍聴の当たり前の権利を得たなど、興味深いものでした。全国からの情報は、自分たちの活動の視野を広げてくれ刺激になります。そして毎回、短時間の観光も兼ねての全国大会、少しはリフレッシュできたかな? と思います。来年に向け、歩み始めましょう。   (恵)  案内へ戻る


 連載12  オジンの新◆経済学講座 「ソーシャル・ビジネス」の衝撃(中) 上藤拾太郎

 ソーシャル・ビジネス(ユヌスの言うタイプⅠを中心に)の意義を再度まとめてみよう。
●利潤の放棄!
 利潤の放棄。これは協同組合でもなしえなかったことである。マルクスですら協同組合の配当をシブシブ認めていたとオジンは記憶するぞ。
 ユヌスによれば、企業経営から発生した収益は、従業員の生活費と設備等の更新の予備といった事業経費を除けば、社会事業(貧困撲滅)の拡張に費やされる。つまり、経営収益が利子や配当として資本の致富活動につながる道は閉ざされている。剰余価値は従業員に分けられ、また事業の拡大に支出されるなら「資本による剰余価値の搾取」はないことになる。
 投資家達の元本は保証されるが、一円も増加することはない。だからソーシャル・ビジネスへの投資家達(多国籍企業であったり、慈善事業家であったり、社会活動家であったりするが)、自分の資産が社会貢献することの「名誉」と満足以外に得るものはない。

●参加者の自立心と誇りを高める
 グラミン銀行のケースでも、その他のケースでも参加者が個人的な創意工夫と努力で、道を切り開かなければならない。零細企業の経営者のように、万事自分の双肩にかかっている。
 雇われ、働かされ、管理された労働とは根本的に違った物だ。個人の自立的精神が大いに育てられる。しかも、この仕事が自分の生計の確立みならず、地域社会の経済的向上と結びついているとすれば、参加意欲も高まるだろう。
 まさにボランタリーな労働の復権である。

●NPOとどこが違うのか
 「非営利組織」という特徴ではNPOとの類似性は高いが、ユヌスはその違いを強調する。NPOは、福祉事業や環境改善、社会教育、人権救済、慈善事業やボランティアの差配などが活動の中心だ。これらは地方自治体などの業務に連動した、本来資本家企業になじまないものだ。財源としては、一般の寄付以外に地方自治体からの補助金の支援もある。
 他方ソーシャル・ビジネスは、銀行業、靴製造販売、携帯電話会社、健康ドリンク会社など参加分野をみればわかる。従来、資本のみが参入してきた分野が目立つ。会計はあくまで独立採算の「ビジネス」だ。寄付や補助金をもらい続けることはない。
 貧困撲滅にはソーシャルビジネスこそが効果的だとユヌスは言う。

●市場を利用するスタイル
 本連載の(9)ですでに見てきたように、地域通貨の運動の代表的なものは、共通の目的、例えば相互扶助のためのアソシエーションである。だから「通貨」にもかかわらず、労働証書であり、互酬的助け合いの決済などとして利用される。市場原理は機能せず、変動する価格というものがない。「需要」と「供給」はコーディネーターなどの差配で結びつけられる。
 ソーシャル・ビジネスは、この点だいぶ異なっている。まず、一般の市場を前提としたビジネスである。
 しかし、想像力を発揮してくれ。利潤を廃した経済活動が、貧困救済の運動として今後も成長してゆくとすれば、そして多数の企業が相互連帯を深めてゆくとすれば。その部分から私的所有は次々と意味を失い始めるであろう。連合的所有が拡大し、そのとき貨幣商品関係は互酬性へと変容してしまうだろう。連載(7)「商品交換が互州性に吸収される可能性」を再度ごらんあれ、オジン理論ではそうなる!
 ユヌスは「資本主義を打倒せよ!」とは叫ばない。しかし、ソーシャル・ビジネスが、どうしていつまでも資本主義の「利潤最大化企業」と天下を分かち合えるだろうか?
 ソーシャルビジネスが、各種製造業や通信業務等により本格的に参入することになれば、その社会変革のエネルギーは計り知れないだろう。地域通貨や現在の協同組合の比ではない。
    *   *    *    *    *
 ソーシャル・ビジネスは、互酬性の復活をベースとし同時に時代の流れに乗った創造的な企業でもある。世界の貧困や大災害が報道され、「何とか助けてあげたい!」という社会的使命感が人々のこころにある。「隣人愛」「人類愛」と言ってもよい。他方では、自立心旺盛だが、仕事がなく貧困にあえいできた人々がいる。これらを結びつけ継続的なシステムとしたのだ。資本のもうけ主義への嫌悪感から、人々は社会的使命に燃える新たな経済を求めている。そうだろう?
 ソーシャル・ビジネスは百年前なら成果を上げることはなかったであろう。(つづく)


 コラムの窓・・・ 「歴史離れ」の中の「世界史ブーム」とは?

◆歴史離れ◆
 「日本人のための世界史入門」(新潮新書)の中で、著者の小谷野敦氏が、ちょっと気になることを書いている。
 「最近の若者が、歴史に関心がない、知識がなくなっている、ということは、私もかねて感じている。(略)彼らは、宗教とか哲学とか、あまり前提となる知識が必要でないことがらについての本を読みたがったり、議論したがったりする。人気のある学者評論家も(略)議論として前面に押し出すのは、現代社会や「ポストモダン」を論じることだったりする。(略)長引く不況、天変地異、不安定な政治などの中で、自分はどう生きるべきか、といった不安から、哲学や宗教に救いを求めるのだろう。しかしそういう人が何か言っているのを聞いていると、どうもろくに歴史を知らないのじゃないかと思えることが少なくない。やはり歴史をふまえておくことは大切なことである。」(前掲書より引用)
 小谷野氏のこの感想には、僕も同感だ。そういう僕自身、胸に手を当ててみると、歴史を踏まえないで、様々な「価値観」について、勝手な解釈をしてきたのではないか、思い当たるところは多々ある。だからこそ、世界史を学び直してみたいと思うようになったわけだが。
◆世界史ブーム◆
 ところで、「若者の歴史離れ」を危惧する声があがる現在、その一方で社会人の間で「世界史ブーム」が起きている。これは、いったいどういうことだろうか?
最近、途上国支援の市民組織に関わっている若い人と話したとき、たまたま話題を「歴史」に振ったところ「僕は歴史が大の苦手で」と言われてしまい、別の話題に切り替えたことがある。直面する社会問題について、自分の生活と直接に関連するか否かにかかわらず、深い関心をいだき、活動に参加していることは、本当に感心させられる。それなら、その「途上国の歴史」にも大いに関心があってしかるべきではないか、と思うのは、どうも僕の方の思い込みであって、その若者との間には「歴史」について意識のギャップがあるのだろう。
では、どんな人々が「世界史」を学び直したいと、求めているのだろう?おそらく、この若者とそれほど違いはないのだと思う。あえて違いを言えば、社会的な活動の経験をある程度積み重ね、自分が思ったような成果が得られない等の挫折にも何回か遭遇し、より深いところで、その答えを見出したいと思うような地点に至った人々なのかもしれない。
◆モデル探しの歴史観◆
これまでは、失敗しても「モデル」は与えられていた。高齢者の介護の問題なら、ドイツの介護保険制度がモデルになった。失業者の問題なら、イギリスの職業訓練制度がモデルになった。地方自治と税の問題なら、デンマークがモデルになった。ビジネスの問題なら、アメリカがモデルになった。特に「歴史」を学ばなくても、モデルを追って、キャッチアップしていけば、ある程度それで済んでいた。
明治以来の世界史教育には、一貫した目標があったように思われる。日本という国民国家を確立するため、西欧の進んだ国民国家の歴史を学ぶことだ。ルネッサンスや宗教改革、共和制政府や産業革命により、近代国家を形成した西欧の歴史に学ぶことが歴史教育の眼目であった。古代・中世史も、かつての日本が先進文化を取り入れた、中国の歴史を振り返れば十分であった。
◆新しい世界史像を◆
今や、それでは済まない時代に立ち至った。モデルに相応しい国民国家はもう見当たらない。そればかりか「国民国家」それ自体の相対化が求められる時代だ。そんな状況の中で、これまでとは別の視点で世界中の歴史から、今日の我々にとって、何らかの有益な歴史的経験を掘り起こさなくてはならない。
「歴史離れ」は現代の課題に合わない「化石化」した既成の歴史教育への拒否反応ではないか?そして「世界史ブーム」は、既成の歴史教育に飽き足りない人々が、何らかの意味で、新たな歴史像を求めていることの表れなのではないだろうか?(誠)案内へ戻る


 「沖縄通信・NO41」・・・「標的の村」の全国上映

 9月25日夕方、米軍普天間飛行場にオスプレイ追加配備の最後の1機が到着した。米海兵隊は7月に岩国基地に追加配備のオスプレイ12機を搬入し、8月に11機を普天間に移動させたが、1機だけ岩国にとどまっていた。原因は故障で、その修理のために1ヶ月以上かかったことになる。(やはり欠陥機ではないか?)
 これで、昨年10月に配備された12機と合わせ、24機の配備が完了した。今後、県内各地でオスプレイ24機による飛行訓練が本格化する事になる。県民の反発と不安は一層高まっている。
 オスプレイ配備以後、日米間の騒音防止協定で運用が制限されている午後10時過ぎの夜間飛行が日常化していた。しかし、この9月には4日間も連続した夜間訓練が行われ「とてもうるさくて眠れない。生活破壊だ。もう我慢でない」等、10時過ぎの夜間訓練を4日間も連続して受けた伊江村や宜野湾市の住民から怒りの声が上がっている。
 こうした沖縄の基地被害の状況や沖縄県民の怒りの声が、本土の皆さんになかなか伝わらない。
 現在全国上映されている「標的の村」は、今の沖縄の現状を鋭く伝えている。是非見てほしい。沖縄で今何が起こっているのか知ってほしい。その現実から行動をおこしてほしい!
 東京上映(ポレポレ東中野)では、立ち見や入場出来ない人まで出たとのこと。映画を見た人たちからは、驚きの声が上がっている。
 事実、この映画を見た若い夫婦や若者たちが、「標的の村」の舞台になっている高江まで支援に来て、現地の座り込み活動に参加している。
 この作品の監督は、琉球朝日放送(QAB)の三上智恵さん。これまでも「海にすわる」(辺野古の海上闘争を描いた作品)や「英霊か犬死にか」(金城実さんの靖国裁判を描いた作品)等、沖縄問題を鋭く描いた作品を多く世に出している。
 今回の「標的の村」は、もともとはテレビ放送用に作製した30分作品であった。しかし、「2012年9月29日。アメリカ軍・普天間基地は完全に封鎖された。この前代未聞の出来事を『日本人』は知らない。全国ニュースから黙殺されたドキュメント」との立場から、91分の映画作品に直し全国上映に踏み切った。
 映画の最後の方に、昨年10月岩国基地を飛び立ったオスプレイが次々に普天間飛行場に到着し、抵抗むなしく、絶望する大人たちの傍らで高江の少女が言う。「お父さんとお母さんが頑張れなくなったら、私が引き継いでいく。私は高江をあきらめない」と。
 この11歳の少女の決意を皆さんはどう受け止めますか?
 現在の沖縄での基地闘争の現場は、昨年9月から始まったオスプレイ配備阻止闘争(米軍普天間飛行場の野嵩ゲート前と大山ゲート前の闘い)。もう17年も海にも陸にも基地を造らせないと続いている辺野古新基地建設阻止闘争。そして、「オスプレイパッド」建設阻止の闘いを6年も続けている東村・高江の住民の皆さん。
 今、高江のオスプレイパッド建設阻止が重要な基地闘争になっている。高江に新しいオスプレイパッド六ヶ所が建設予定。昨年、一カ所建設されたが、赤土の流失で問題になり、完全には完成していない。
 今年7月から新しい工事会社による建設工事が始まったが、この建設工事を阻止するために北部訓練場ゲート前で工事車両をチェックし、工事会社の車両をゲート前座り込みで入らせない活動。この活動は朝、昼、夜関係なく毎日24時間の活動になっており、夜21時にゲートが閉まっても絶えずゲート前に泊の監視者を置く活動で、質・量ともとても厳しい活動になっている。(富田英司)

 
 集団的自衛権の行使・・憲法(第9条等)解釈変更の行き着く先

 安倍政権は集団的自衛権の行使を可能にする憲法解釈の変更に向け、議論を進めている。
 自衛権には「個別的」と「集団的」の二つがあり、「個別的」は他国からの武力攻撃に対して、自らを守るために戦う権利で、「集団的」は自国が直接攻撃されていなくても、密接な関係にある国への武力攻撃に対して、関係国とともに戦う権利。
 集団的自衛権は国連憲章により認められ、歴代の内閣も「国際法上有している」としてきたが、戦争放棄と戦力不保持を定める憲法九条を踏まえ、その行使は「自衛のための必要最小限度の範囲を超える」と解釈し、禁じてきた。しかし、日本の経済の立ち直りと国力の増強による海外進出が進むにつれ、国際的協力や国連憲章を縦にイラクなど海外にも自衛隊を派遣するようになり、自衛隊を地球の反対側に派遣する可能性を指摘する声も出始めたのだ。
 集団的自衛権の行使が認められると、自国が攻撃を受けていなくても、関係国と海外で武力を行使できる。例えば、日米安保条約の同盟国米国が攻撃された場合、敵が日本から遠く離れた地域にいても、ともに戦う可能性が出てくる。今は、「非戦闘地域」での人道支援や後方支援に限った派遣で、他国との武力行使の一体化を避けてきたが、集団的自衛権の行使を認めることは、その一体化を解禁し、同盟国の戦闘に巻き込まれるだけでなく、同盟国の自衛を理由にした戦争も行うことが出来るということなのである。
 かつて、大東亜共栄圏の建設を目指し、欧米諸国の植民地からの解放と称し、東南アジアに進出していった日本。安倍首相が言う「強い日本」とはまさにこのことなのか?!
 自民党や軍事産業を担う財界は「戦争放棄」と「戦力不保持」を定める憲法九条を改憲しようといろいろ画策してきたが、平和を願う労働者や市民の反発に遭い、直接的な憲法9条の改憲を腹に秘めながらも、「憲法解釈」の変更をもって自衛隊という「戦力」をもち「戦争」遂行能力を得てきたが、残るは戦争行為へのお墨付きのみ、今や「解釈」の域を超えようとしているのだ。
 「戦争放棄」と「戦力不保持」の憲法9条は、歯止めが効かなくなった憲法解釈の変更により、棚上げされ名ばかり状態と言えるのだが、改憲論者も「平和国家」を自認する以上完全に9条のもつその理念をなくすわけにもいかず、憲法解釈の変更を繰り返すというジレンマに陥っている。
 早々に、憲法改正の動きを打ち出してくることは明らかで、「解釈」変更と併せて反対して行かなければならない。
 本当の平和をもたらすものはなんなのか。差別や抑圧、搾取や収奪のない社会の実現。軍事力の行使が必要のない社会、等々、学び・創りだしていこうではありませんか! M)


 投稿

「どんな状況でも必死に闘い、人間を信じ、少しでも前進を図ろうとする人達に心より敬意を表し、共に闘わんとする気持ちはある。が、生来の人間的弱さと前期高齢者の仲間入りと同時に発生する、決して軽症ではない疾患は、老人性ニヒリズムを増幅させる。新たなもう一つの社会を熱望・構築せんとする動きとは真逆のおよそ最低の民主主義すら放棄する無気力、無関心の膨大なアパーシー。選挙への非参加、橋下・石原・阿倍らの極右ファシストを容認あがめる相互不信の日本に希望、救いは見い出し難い。愚痴ペシミズムの私にとり、貴兄達はまぶしい存在であるが。」(F)案内へ戻る


 編集あれこれ

 本紙前号は奇しくも、関電大飯原発停止の日に発行となりました。ここで、誰しも願うのは再稼働阻止です。しかし、原発のない社会を実現するということは、戦後日本が脇目も振らずに目指していた経済的豊かさの追求を見直すということです。そのことを欠落させたままでは、目前の実利を振りかざして再稼働を迫る勢力に勝つことは出来ません。
 1面で今こそ大量消費から舵を切ろうと呼びかけ、マスコミまでがオリンピックやリニア新幹線に浮かれているのを批判しました。今さらカネまみれのオリンピックに税金を投入する愚かさを、誰かが「お・も・て・な・し」を〝裏がある〟と言ったとか、言わなかったとか。リニアは既存の新幹線の3倍もの電気を喰うから原発再稼働が必要だとか。要するに、オリンピックもリニアも原発と同根なのです。
 2面の国は子ども被災者支援法を「棚ざらしの果てにお蔵入りにすることを狙っていた」という報告、6・7面の秘密保全法・特定秘密保護法案の危険性の指摘、どちらもパブリックコメントに付されていました。しかし、それは短期間の形ばかりのものに過ぎませんでした。そうは思いつつ、このどちらにも私はパブリックコメントを送りました。
 子ども被災者支援法については、対象地域を福島県内に限ることは不当であり、汚染の基準を年間追加線量1ミリシーベルト以上の地域とすること、子どもたちの転地学習を保障することを復興庁に求めました。特定秘密保護法案については、現在の喫緊の課題は情報を隠すことではなく公開することである、秘密の増大は民主主義を後退させる、最高刑が懲役10年などとんでもない、内部告発者をもっと保護すべき(公益通報者保護法は充分機能していない)、法案に反対という意見を内閣官房内閣情報調査室に送りました。
 8・9面では台湾ダークツーリズム、観光客が行かない台湾旅行記が紹介されました。ダークツーリズムとは何かについては、斎藤環筑波大教授が毎日新聞(8月13日夕刊)に「『ダークツーリズム』の享楽」と題して、東浩紀責任編集「チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド」(福島第1原発観光地化計画の一環として出版された)について論じています。
「本書に関わった執筆者の動機はさまざまだが、共通するのは『事故の記憶の継承』だ」「『ダークツーリズム』の問題は、それがくつろぎと癒やしを求める快楽的な観光ではなく、〝享楽〟的な観光である点にある。〝享楽〟とは、苦痛すれすれの喜び、痛みや憎悪と一体化した両義的な快楽を指している」
 一方で斎藤氏は「原子力の享楽を警戒せよ」という発信を行っており、東氏らの計画に対して最終的な脱原発志向を明確に打ち出すこと、すべての死者への鎮魂などを求めています。という風に紹介しても、やはりよく分らないところです。ダークツーリズムが単にグルメツアーなどの対極にあるだけではいけない、ということくらいは理解できそうです。
 旅行記で紹介されていた、ドキュメンタリー映画「台湾アイデンティティー」はさっそく観てきました。「かつて日本人だった人たちが語るそれぞれの人生」という副題がついており、霧社事件前後の時期に生まれ、日本語教育を受けて育った世代の人生を追った映像です。誰もが日本による植民地支配、日本の敗戦後に台湾を襲った白色テロによって人生を狂わされています。それでも、映画に登場した皆さんは自らの人生を生き抜いて人生の終わりを迎えようとしています。顧みて、わが怠惰を恥じ入るばかりです。 (晴)
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