ワーカーズ506号 2014/2/15    案内へ戻る

何が足りないのか? 何を知るべきか?
労働者・市民の闘いの課題を照らし出した東京都知事選挙


 東京都知事選挙は、自民・公明、連合が支持した桝添氏が211万票を集めて勝利した。脱原発や反貧困・格差拡大反対、福祉の充実を訴え、共産党と社民党が支持した宇都宮氏は98万票で次席。原発ゼロをもっぱら訴え、小泉氏と二人三脚の選挙を行った細川氏は95万票。安倍政権に最も近いのは自分だと訴えた田母神氏は60万票を取った。
 桝添氏が勝利したとは言え、それは原発推進の立場を「原発依存を減らす」「原発は国の問題」などと言って誤魔化し、元厚労大臣という前歴を強調したり連合の支持を得ることで反労働者・反福祉の立場を隠し、中国や韓国などを敵対視する排外主義を国際政治学者の肩書きで煙に巻くなど、自らの本性を徹底的に隠すことで得た偽りの勝利に過ぎない。もし桝添氏が、その本音をもう少しあけすけに語っていたならば、また対立陣営がその本性を的確に曝露し得ていたならば、200万票の票を得ることは無かっただろう。
 宇都宮陣営は、社会矛盾を知る意識的な有権者層を良く結集し、格差と貧困に直面する若者たちの間にも支持を広げ、善戦をしたと言える。しかし、桝添陣営の争点隠しを打ち破り、その本性を的確に曝露し、無自覚層を覚醒・啓蒙し、動揺する層に確信を与えて自らの陣営に引き寄せるところまでは闘いを深めることができなかった。しかも、脱原発の意識を持った市民の少なくない部分を、細川・小泉連合に持ち去られてしまった。
 都知事選挙において細川・小泉連合が名乗りを上げたのは、自民党が安倍晋三の下で国家主義化を深め過ぎたことや、福島原発事故への無反省に対する保守勢力内からの反発、統治の危機への不安の表れであり、その意味で根拠と理由を持った動きだ。それが成功したかどうかは別として、国家主義や排外主義を強める安倍自民党に対抗し、別の保守政治勢力を立ち上げようと行動を起こしたのだ。
 問題は、この小泉・細川の政治運動に対して、「彼らは改心した」「脱原発のための二度と無いチャンス」「自民を負かすためには反桝添候補者の一本化を」「反ファッショ統一戦線を」などと叫んで細川支持に走った一部の脱原発の活動家、左翼崩れ、知識人や文化人たちだ。
 彼らは、原発が持つ問題を格差や貧困や福祉切り捨てなどの社会問題と恣意的に切り離し、それらの社会問題やその根っこにある利潤至上・弱肉強食の経済システムの問題と原発の抱える問題とを別のものとして扱えると浅はかにも考えた。だから、格差や貧困やみすぼらしい福祉にほとんど関心を示さぬどころか、そうした現状に拍車をかけた小泉氏や細川氏でも、脱原発の闘士になり得ると愚かにも信じた。
 そればかりか彼らは、細川氏が都知事になれば本当に脱原発が実現できるという、途方もなくナイーブな幻想を持って回った。彼らは、仮に細川氏が都知事になっても、もともとが脱原発運動に疎遠な立場にあり、この課題実現のための知的、人的、運動的資源を持たない彼の号令が、何の実質的な力にもなり得ないという政治の常識が理解できていない。原発を維持しようとする勢力の背後には、福島原発事故で大きな痛手を負ったとは言え、それ故にこそさらに既得権益への執着を激しくする財界や官僚を中心にした原子力ムラの強力な結束がある。これを打ち破るためには、労働者・民衆の中に深く根ざし、多くの信念と志のある専門家や政策マンの信頼を集め、彼らの力を結集していくことができる政治勢力が総力を挙げて都知事を支えていく必要がある。細川氏や小泉氏がそんな資質や条件を持った政治家でないことは、現実を少しリアルに見れば分かるはずだが、脱原発の活動家や知識人や文化人の一部は、浮き世離れをした妄想に身を委ねたのだ。
 今回の都知事選挙は、反原発運動に限らず、反貧困、福祉切り捨て反対、反排外主義等々の労働者・民衆の運動において何が欠けているか、何を知り、何を学ばなければならないかを明らかにしてくれた。桝添氏に都知事の職を奪われたからと言って何も落胆する必要は無い。この敗北の中から何を学ぶかと言うことこそが、決定的に重要だ。(阿部治正)案内へ戻る


教育委員会改革
肝心なのは親(地域住民)の教育への参加


 通常国会が始まり、安倍内閣の税・財政政策を中心に、攻防戦が繰り返されている。その中で、安倍政権の目玉政策の一つでもある教育政策と不可分の教育委員会改革が攻防の俎上に上っている。
 焦点に浮上しているのが、自治体の首長が直接教育行政を指揮すべきか否かという点だ。要は民意か政治的中立性か、ともいえる。とはいえ、肝心な点が覆い隠されている。問われているのは保護者(親)や地域住民による教育への参加ではないのか。

◆経緯と思惑

 安倍教育改革で際立っているのは、愛国心教育、教科書での領土の明確化、道徳教育の必修化など、復古調の教育改革だ。加えて教育委員会改革も政治日程に上げられている。主眼は、教育委員会の権限を自治体の首長に移し、政治主導の教育行政に変える、というものだ。実現すれば公選制の廃止に続く教育委員会制度の大転換となる。
 安倍首相がもくろむ教育改革は、第二次内閣発足前から準備されたものだった。安倍首相は、政権発足直後の昨年1月に教育観を共有する「識者」を集めて首相直属の教育再生実行会議を発足させ、安倍首相はほとんど毎回出席してきたという。その会議は、これまでに4次にわたる答申を行ってきた。
 安倍内閣で教育改革を担う文科相に就任したのは、復古調の歴史認識で首相に近い下村博文だった。その下村文科相は自民党が野党時代に発足させた教育再生実行本部の本部長だった。それだけで安倍内閣の教育改革の性格がわかろうというもので、いま進められている改革の主なテーマは第一次安倍内閣の時に浮上したもので、これまで自民党や文科省や中教審で議論されてきたものばかりだ。
 安倍首相にとって追い風もあった。繰り返されるいじめ自殺事件などが大きな反響を呼んでおり、学校教育や教育委員会のあり方への風当たりが強くなっていた。
 政治的な思惑もあった。もともと自民党は、文教族を軸に文科省と二人三脚で教育政策や学校現場に影響力を行使してきたわけで、教育委員会制度を抜本的に変える態度を示してこなかった。ところが大阪維新の会の橋下知事が教育委員会の頑迷さに腹を立て、民営で選ばれた首長に学校運営の指揮を教委から首長に移すべきだ、と主張し、実際に大阪では首長権限を強化した条例によって学校現場に対する介入を強めていた。安倍自民党が教育委員会改革を打ち出した背景には、当時勢いがあった大阪維新の会、及び橋下市長との連携も視野に入れながら、そうした動きを復古調の安倍教育改革に取り込もうというわけだ。

◆不毛な選択

 ざっと振り返れば、教育委員会は、過度な政治の干渉から政治的中立性を確保するとの目的で1948年に設置されたものだ。当初は公選で選ばれていた教育委員は政治的な影響の弊害を口実として1956年に公選制が廃止されて以降、現在は自治体の首長に任命された5人の教育委員によって構成され、実務を取り仕切る常勤の教育長は5人の教育委員(非常勤)の合議で任命される。
 安倍政権が狙うのは、教育行政の実権を担う教育長を教育委員による互選による任命から首長による任命・罷免制に変えることで、教育行政への関与を首長(政治)が直接的に確保できるようにすることだ。現行の教育委員会は、首長の付属機関として諮問会議的な地位に縮小される。
 今回の改革案が出てきた直接の契機は学校をめぐって起きた悲惨な事件だ。
 たとえば大津市中のいじめ自殺事件や大阪市立高の体罰自殺事件などだ。前者では教育委員会の隠蔽体質がメディアなどの批判に晒され、後者では、テレビで凄惨ともえるいじめ現場のビデオまで報じられた。これらの事件では、当該学校と教育委員会の対応があまりにずさんだったことから、教育委員会の対応の遅さや隠蔽体質、それに責任逃れの態度に批判が集中した。この種の悲惨な事件は後を絶たず、そのたびに学校と教育委員会の対応に批判が集中する事例が繰り返し発生してきた。
 確かに学校や教育委員会には問題はある。現状は教育委員会の政治的中立性を建前として外部(首長も含む)からの干渉を排除する閉鎖的姿勢が強いのも確かだ。その教育委員は各地域のそれなりの名望家や首長選挙での功労者などが選任されることが多い。なかには誠実な人もいるかもしれないが、多くが行政にとって無難で都合がよい人選がほとんどだ。地位的にも非常勤で会議も月に数回程度、結果的には教育長の提案を追認するだけ、というのが実情だ。現行の警察システム上の国家公安員会とまったく同じ構造なのだ。
 それに対して教育行政の実務を担う教育長は、そのほとんどが地方公務員や教員出身者がほとんどで、その経歴や専門性で教育委員会の実務を取り仕切ってきた。教員人事や教科書の採択では、首長の意向にかかわらず、文科省の指導の下で強力な権限を行使してきた。その教育長を任命するのは形式的には自治体首長だが、実際上は、教育委員会から上がってきた候補者を追認するだけだった。
 では実際は誰が教育長を決めてきたのか。各都道府県の教育長をつうじて全国の教育行政を采配してきた文科省だ。だから各地域の教育長は、自分を直接任命した首長ではなく実質的な任命者でもある各都道府県の教育長や文科省の意向を常に意識し、見てきたわけだ。現行の教育委員会制度の政治的中立性と文科省による官僚的な教育行政とは、メタルの表裏になっている。そうした官僚制度の無責任体制は今に始まったことではない。
 では、改革案が掲げる、民意で選ばれた首長による教育行政の統制が現状よりいいかといえば、必ずしもそうではない。頻繁にお変わり得る首長の独断による弊害も小さくないからだ。実例もある。大阪の橋下市長主導による、首長の関与を強めた府・市の新条例によってに任命された教育長が、卒業式の君が代斉唱時に教員の口元を調べさせて報告させたこともその一つだ。常軌を逸した介入ぶりが多く関係者からの批判に晒されたことは記憶に新しい。また静岡では、学力テストの低い学校と校長名を公表するとかで物議を醸した事例もあった。民意で選ばれた首長による教育介入がいいとは限らないのだ。

◆参加型改革

 現行の二者択一の選択枝は、結局は官僚か政治家かで違うといえども、結局は権力による教育統制という点では
何ら変わるところはない。
 現状の教育行政改革の選択枝が、政治から独立した教育委員会か、それとも民意で選ばれた首長か、という二者択一に矮小化されること自体が本末転倒の不毛の選択枝なのだ。そもそも現行の制度で政治的中立性が保障されるとの解釈は、事実に反している。賛否が対立するあの「日の丸・君が代」法制化の時、国会で強制はしないと答弁しておきながら実際には政治が教委に圧力をかけ、教員の懲戒処分を乱発してきたことなどを見れば明らかだろう。逆に、民意による教育行政を掲げる橋下市長も、「日の丸・君が代」に反対している教員の厳罰化を叫び始めたのは、知事に就任してから突然のことだった。民意という有権者の付託だなどといえる代物ではなかったのだ。
 では、どういう方向で現状の教育行政の硬直化などを打破していけばいいのか。
 教育制度の改革に不可欠なこと、それは父母をはじめとする子どもの保護者、及び地域の住民がもっと学校教育や教育行政にかかわっていくことだ。現状では文科省・文教族・教育委員会によるトライアングルで采配されている学校教育と教育行政を、保護者(住民)・公選教育委員・教員集団によるトライアングルに変えていくこと、これこそが対抗案の中軸になる。教育の権利主体が子ども自身にあることを前提とすれば、父母などの保護者や地域住民が学校運営などにもっと関わっていくことで教育システムや学校運営を改善していくべきなのだ。
 たとえばいま公選教育委員といったが、教育委員公選制も不可欠だ。ただし教育や学校運営への保護者など地域住民の関心や関わりが弱い現状では、公選制も実質を伴うことはない。いまでも学校ごとに評議委員も存在するが、これもお飾り的な存在に止まっている。。
 外国には実例もある。数年前にテレビでも報じられたこともあるが、たとえばどんな校長を招致するか、あるいはカリキュラムはどうすべきかなど、地域の人が理事や評議委員に専任されて、積極的に学校運営にかかわっている実例も紹介されている。またそれを可能にする財政的裏付けも、各学校に配分された予算という形で確保されている、等々。むろん、保護者や地域住民の責任も格段に重くなる。
 こうした地域ぐるみでの学校運営や教育行政への関与を強化、拡大していくことで始めて子ども自身の権利をふまえた、地域に開かれた教育行政や学校運営が可能となるのではないだろうか。

◆包括的な対抗戦略が不可欠

 先に教育行政や学校運営に保護者や地域がもっとかかわるべきだ、と簡単にいったが、現実には実に困難な課題ではある。
 元はといえば、家族の在り方や構成、あるいは保護者の雇用状況など、保護者による教育への参加のハードルが次第に高くなって生きた現実があるからだ。言い換えれば、それだけ保護者や地域住民の教育への参加の機会が奪われてきたのが、この間の経緯だからだ。核家族化や夫婦共働き、長時間労働による家庭の教育力の弱体化と平行して、保護者の学校教育への参加がより困難になってきたわけだ。受験戦争に巻き込まれた詰め込み教育の受け入れ、PTAの役員は押し付け合い、公開制の教育委員会議には誰も参加しない、できない。何でも学校依存、家庭でのしつけさえも学校にお任せするような状況では、教育への保護者の参加など、絵に描いた餅だろう。
 こうした現状を打破して保護者や地域の人々の教育への参加を拡大するには、長時間労働の是正、保護者(子ども自身)による教育権の確立、教育への参加の拡がりなどが前提となる。安易な二者択一は解決策にはならないのだ。
 結局、第三の方策が不可欠なのだ。それは、文科省・文教族・教育委員会主導の教育行政に風穴を開けるために、親(地域住民)による教育主権の確立、学校運営への保護者(住民)の直接参加、保護者と教員の連携に基づく学校運営への転換の取り組みを拡げていくことこそ必要なのだ。
 政府の中央教育審議会は、すでに教委の権限を首長に移す改革案を答申済みで、この3月には改正案が提出されるという。官僚か政治家という不毛な二者択一に惑わされてはいられない。(廣)案内へ戻る


ハノイ短期滞在記--3日目

●ホー・チミンに会いたい!
 3日目の今日はクリスマスイブだが、ベトナムとはお別れだ。深夜にハノイを飛び立つ予定だ。
 今日は,アンさんが通訳をしてくれる予定だ。朝、ホテルのロビーで初対面。小柄でとっても若い女性だ、というより女子高生のような幼さが残る。でも、彼女は大学四年生で、アルバイトで兄の日本語学校の講師だという。つまり、大学生が他の大学生を教えているのだ。「日本には行ったことはない」というが、二日目のリンさんに劣らず日本語は上手だ。ハノイ大学の日本語専攻だという。日本で言えば「東大」ということになるのか。
 最初に行く場所は、私のたっての願いで、ホーチンミン廟だ。私たちの世代で、ホーチミンの存在は大きい。「行列になりますよ」とアンさんが念押ししたが、ハノイに来て、これを外すことはできない。
 しかし、この行列の間にいろいろとアンさんと話ができてよかった。ベトナムの歴史や特にベトナム戦争の話しは、若い世代でも語り継がれているのだろう。当時の日本でのベトナム反戦運動に参加していた事などを話して聞かせた。もちろん共感してくれた。
 私が「正直にいってベトナムが米国に勝利するとは思わなかった」といったら、「ベトナム人民は強いんです」とアンさんは柄にもなく大きなガッツポーズをした。笑うしかなかったが、これはベトナムでの印象的な場面として記憶に残った。
 また、彼女はこうもいった。「ホー主席の国に住めて私たちは幸せです」。これには返す言葉がなかった。

●マルクス・レーニンは哲学者?
 ホーチミンは、薄暗い部屋の中でまるで眠っているかのように横たわっていた。その脇を無言で行列は通過する。われわれの世代にとって、若い時代の記憶は「ホーチミン」と切り離せない。やはり感慨というか、熱いものがこみ上げた。
 たくさんの軍人が立っている。前を歩いていたお年寄りが階段でよろめいたとき、軍人達がとても親切にサポートしていた。ここにいる軍人達は、規律も正しくハノイ空港の連中とまるで違う集団のようだった。
 その後、北ベトナム当時を復元したホーチミンの執務室や居室も見て回った。マルクとレーニンの写真が飾ってあった。アンさんは言った「あれは哲学者の写真です」。私「…?」。
きっと、日本の老人がマルクスなど知るはずもないと思って、そんな言い方をしたのだろう。
 隣接したホーチミン博物館はつまらないと聞いていたが、たしかにつまらないところだ。ホーチミンにかかわる当時の新聞などの文献資料がほとんどだ。だが「世界中の人がホー主席を讃えています」と自慢げなアンさん。私は「…」。

●美味しかったホー
 次に絹の製造と販売に特化している村に案内された。わるいが、あまり興味がなかった。観光者のお決まりのコースだろう。アンさんの気持ちも考えてつきあった。
 外国に行く理由はそれぞれだろうが、風光明媚なスポットや名所旧跡よりも、人々がどんな暮らしをし、何を思っているのかこそ私は知りたい。
 ところが、観光客ははさっぱりいなかった。店番をする「おばちゃん」達はとてものんきで、刺繍とおしゃべりに夢中な様子だった。
 ハノイ市内に戻ってホーを食べた。今までの案内されたレストランは、やや「高級」なところだったが、今日の昼食はあこがれのホーの専門店だ。ベトナム風の味付けにもなれ、さっぱりしてとても美味しかった。

●文廟で思う
 次に案内されたのが、文廟だ。孔子が奉られており、隣接してベトナム最古(十一世紀)の大学がある(遺構)。
 アンさんの話では、受験の神様となっているので「受験生はご利益を得るためにみんなお参りする」らしい。おしゃべりのアンさんは「私はお参りなどせずに合格しました」と自慢話を付け加えた。みんなで笑って「すごいね~」とほめた。
 ハノイに来てこれだけハッキリ主張する人ははじめてだ。若さ故なのかもしれない。
同時に、「ベトナムに国民はいても市民はいない」という兄の言葉を思い出した。
 きつい言い方かもしれないが、アンさんの考えはおおかた「自分の考え」というより社会主義風のイデオロギーだ。学校やメディアで美化されているが故に、若いアンさんは影響をうけているようにも思う。
 しかし、彼女自身は苦学生だ。一人娘だというが、授業に出るかたわらめいっぱいアルバイトをしている。恵まれた家庭ではないだろう。ベトナムは若くして家庭をもつのが普通だが、アンさんの父親はかなり高齢だ、やっとできた一人娘だろう。父は年金暮らしの生活のようで、大変さが感じられる。祖父は中国人だという。いろいろな苦労があったと想像してしまったが、これ以上立ち入るわけにもいかない。
  ベトナムの大学の卒業式は六月だ、もう半年しかない。ところがアンさんはまだ就職が決まっていない。かわいそうにこの話しの時ばかりはアンさんの顔は曇っていた。
 ところで、後日、帰国してから反中国の集会がハノイであった。ニュースには見覚えのある公園で、市民が「愛国的」スローガンを掲げて決起していた。記憶に新しいが、中国でも「愛国的」反日デモが一年前に吹き荒れた。アジア市民たちの国家からの精神的自立はまだまだ遠いのか複雑な思いだ。

●桜の花はピンク色?文化と言語
 最後に、できたての地下街巨大ショッピングセンターに案内された。ハノイの新名所と言ってよい。よく知らないが、豪奢なブランド店らしき店が果てしなく連なっていた。スケートリンクもあった。
 地下には巨大な滝壺があったり、日本庭園風のひょうたん型の池や、桜を模した造木・造花があしらわれていた。日本人がデザインしたか、少なくとも日本人客を意識したものに思われた。
 私はアンさんから日本のことをよくきかれた。たとえばホーチミン廟近くで「これは日本では池ですか、湖ですか」と。ベトナムでは大きめの「池」のようなものでも「湖(ホ)」という、同じ言葉でも意味する物はちがう。
 地下街で「桜」をみたアンさんは「似ていますがこれは桜の花ではありませんね、何の花でしょう」と。私が「どうして?」と聞き返すと「桜の花はピンクです、この花は白いですから桜ではありません」と答えた。  
 たしかに色は白っぽい。しかし、近くに日本庭園風の池があり、デフォルメされていても枝振りはソメイヨシノという桜を模したものであることは、日本人の私にとっては明らかだ。しかも、日本を代表するソメイヨシノは、つぼみはピンクだが満開時はかなり白っぽいのだ。
 この説明は、アンさんに容易に通じなかったようだ。言葉を知ることは同時に文化を理解する必要があるとつくづく思った。
 たった三日間の経験とは言え、書ききれる物ではない。また工業団地、集団農場なども観てみたかったが無理だった。
 ドイモイから二十五年。中国の後を追う形のベトナムだ。多国籍企業の流入は、手頃な賃労働を求めて都市へと移動する農民を増大させる。資本と賃労働は人間的繋がりを分解し格差を増大させるだろう。凶悪事件は少ないが、万引きやスリは結構あるらしい。 
 しかし、礼儀正しく勤勉で、まっすぐな人が多い印象はある。これは、伝統的な社会の存続を思わせるし、国家の福祉制度なども一定機能していることを示しているように思われる。
 ロシアのエリツィン改革での大混乱(一九九〇年代)、鄧小平以来の改革開放での社会軋轢に悩む中国に比較して、ベトナムの現状はクラクションがうるさいのを別とすれば、相対的には落ち着いていたといえよう。(個人名はすべて仮名です。 阿部文明)案内へ戻る


コラムの窓 広がるガールズプア

◆ワーキングプアの新段階◆
 1月27日のNHK「クローズアップ現代」は、「広がるガールズプア」として、若い女性が陥っている貧困について報じたが、その内容はショッキングなものであった。十代、二十代の女性の多くが、正規の職に就けず、最低賃金ギリギリのバイトを掛け持ちし、それでも年収百十四万円以下(つまり月収9万円以下)の貧困層が増えているという。インタビューでは「将来の結婚や子育ての望みなどない」と語っている。非正規労働者の割合が男女共に増加し、特に女性にその傾向が強いのである。
◆シングルマザーが風俗へ◆
 さらに深刻なことに、シングルマザーの多くが、託児所のあてもなく、家賃も払えず、やむをえず「風俗」の仕事に就かざるをえなくなっているという。理由は、風俗営業店が従業員専用の「託児所」や「寮」を準備してくれるからだそうだ。公的なセーフティーネットからも零れ落ち、何と「風俗業界」が就業と引き換えに、そのセーフティーネット役を担っているというのだ。そんな環境で精神を病む女性も増えている。
◆その先に児童虐待が◆
 番組の取材はそこまでだったが、僕にはその先が見える。僕の勤める小児科の救急医療現場には、貧困ゆえの小児の栄養不良による下痢・嘔吐・脱水・熱発などの子供が、昼夜問わず運ばれてくる。その中には、児童虐待を疑う症状(顔や体にアザがある、年齢に比して著しく虚弱である等)の子もいる。児童虐待と判断されれば、警察と児童相談所に通報しなければならないが、その社会的要因は貧困による母親の精神疾患である。
◆クッションの喪失◆
 ワーキングプアの存在そのものは、一九九〇年代のバブル崩壊と非正規雇用増加以来のことで、特段新しいことではない。では何が違うのか?それはクッションになっていた「家族社会」が崩壊したことだろう。これまで正規社員として働いてきた「団塊の世代」の世帯に若者が親子同居できていた時代は、貧困の深刻さは表面化しにくかった。また女性が非正規でも、正規雇用の男性と結婚できた間は、「ママさんパート」として、なんとか夫婦で家計を維持できた。だが団塊世代が定年退職し、あるいはリストラで失職し、また若い男性労働者も非正規化が進み、あるいは失業が続き、その犠牲として「ガールズプア」が急速に表面化しているのだ。
◆わかっていたはずでは?◆
 ワーキングプアは、もはや賃金における貧困問題にとどまらず、労働者とくに女性の精神的危機をもたらし、それはうつ病や自殺さらには児童虐待となって、家族の荒廃をはじめとした社会的危機へと発展しつつある。児童虐待は世代的に連鎖していくケースが多い。なぜなら貧困が世代的に連鎖するからだ。ワーキングプアの問題に、この二十年余りきちんと対処できてこなかったツケが、今、深刻な様相で「ガールズプア」に圧し掛かっている。いつかこうなることは、わかっていたはずではないか?今改めて、警鐘を鳴らさなければならない!(誠)


連載18 オジンの新◇経済学講座 --GDPを下げて豊かな社会になろう(上) 上藤 拾太郎

●宝の山+ゴミの山=GDP
 金融緩和と放漫財政のこの一年だが、アベノミクスの効果はあったのだろうか。まあ、プラス成長があったとしても、せいぜい一~二%。そのうえ勤労者の収入が増えたとか、生活が楽になったわけではない。
 豊かさが実感できない理由は多々ある。まず富の分配の問題だ。第二に政府が民間から商品を購入すればGDPもまた増大する。だから大盤振る舞いの「財政出動」によりGDPを押し上げる手法は古い手だ。アベノミクスの目新しさは一千兆円の借金を未来に残すことに罪を感じない厚かましさだ。『経済成長神話の終わり』(講談社現代新書)などを参照してくれ。
 つまりGDPを国民的富、豊かさの評価基準だと考えるのはおかしい。GDP世界三位とか。一人あたりのGDPで世界で十六位とか、最貧国だとか、どれだけ意味があるのか大いに疑わしい。その中身を吟味しなくてはいけない。もちろんGDPの中にも誰でもが必要とする野菜や肉、家電製品や衣料品その他の売買が含まれてはいる。だが、どうでもよいものや「ウソ~」というものも含まれている。
 GDPを検討し「本当の富と豊かさ」を改めて考えてみよう。

●こんな例もある
 二〇一〇年、英国Bpのメキシコ湾深海油田で大事故が発生。原油が漏れ大規模な海洋汚染を起こした。Bpは二兆円を対策費に使った。汚染された海は戻らないが、大金が動けばGDPを押し上げるから「成長に貢献」した。同じように福島第一原発事故処理に今後とも多大な費用がかかる。残念ながら県民の生活は元に戻らないにもかかわらず、GDPを確実に押し上げる。社会が乱れ凶悪事件が多発し刑務所を十箇所増設したとする、建設会社の売り上げ増だからGDPにプラスになる。
 GDP(GNPも同様)などは「付加価値」からできあがっているからこうなる。さらにこの付加価値の元は、財とサービスの販売からうまれる企業の「売り上げ」だ。(付加価値はダブりをなくすために売り上げから中間財・サービスの価格を引いたもの。年間GDPは年間総付加価値に一致する。)。
 だからこんな事にもなる。母親が赤ちゃんに母乳をやるのをやめてメーカーの粉ミルクに切り替えればGDPが上昇する。さらに効果的なのは、国民全員が自宅での調理や食事をやめコンビニ食や外食にすれば、オジンの大雑把な計算でもGDPは三%増加する!以下同じことだ。家庭菜園をやめて野菜をスーパーで買えば…町内会のドブすくいを業者に頼めば…おばあちゃんに頼んでいた子守をベビーシッターに替えれば…。
 そうだ、わかっただろう。「GDPの成長」とは、物とサービスの市場化・商品化の規模を示しているのだ。だから庶民の「豊かさ」の指標ではない。人と人との助け合い、支え合いと逆ですらある。
 その通り、互酬性と市場経済は逆比例の関係にある。人間に固有の互酬経済と市場経済がせめぎ合っているのだ!

●互酬経済の復活で豊かさを実感できる社会に
 「村八分」とは昔の仲間はずれのことだ。『ブリタニカ』によれば「村や組の決定に背いた」ばあい「冠婚葬祭、建築、火事、病気、水害、旅行、出産、年忌」のうち「火事、葬」を除いて仲間はずれにする。
 逆に言えば、かつては生活の要所でよく助け合っていたし、そうでなければ生きられない時代だ。たとえば家屋は入会地で木材をとり、集落などで協力して建てる。加えて米・野菜、味噌や醤油も自家製品だ。不足した物は互いに補い合える。だからこの立派な経済の仕組みは「付加価値」を生まないしGDPを一ミリも押し上げたりしない。
 最近アジアの貧困国を旅したが、日本の一人あたりGDPの十分の一以下だと聞いた。月に一万円の収入では、東京で生活し家族を養うことは全く不可能だ。しかし、「最貧国」でも次世代は立派に育っている。物価も安いが、伝統的なコミュニティや共有地がいまだにあるからなのだ。
 だから伝統的社会では、住み心地がよい割にはGDPは低く現れ、「最貧国」だと哀れみをうける。実は商品化・市場化経済が生活の隅々まで行き渡ってないだけのことだ(国や地域にもよるが)。今の日本でも田舎に行けば、そのような雰囲気は残っている。
 このような「非市場経済」とは、つまるところ互酬経済を支える人の繋がりだ。セーフティネットにもなる。
 けっしてノスタルジックに昔し話しをしているのではない。開放的な現代コミュニティの形成、これが第一のポイントだ。第二は科学技術とアイデアで、地域経済復活のイノベーションを起こそう。よいとこ取りのハイブリッド経済で、互酬原理のアソシエーションを目指すのだ!(つづく)案内へ戻る


色鉛筆-これでも罪は問えないのですか!‐福島原発告訴団

 福島原発事故から来月で3年が来るというのに、事故の責任を取る者がいないという現状に、怒りを覚えざるをえません。同時に、マスコミが福島の真実を伝えようとしていない姿勢は、事故責任者を隠蔽する役割を犯しているというべきでしょう。
 被災者を中心とする福島原発告訴団は、2012年3月16日に福島で結成され、その年の6月11日に東京電力の幹部・経産省の役人など33人を刑事告訴しました。告訴団の数は、目標の1000人を突破し、福島県民1324人となり、その後全国へ募り、合わせて14716人の大告訴団が結成されたのでした。相次ぐ、全国からの原告への申し出は、福島県民の告訴団にとって大きな励みになったはずです。
 そんな告訴団の思いを踏みにじる福島地方検察庁の「不起訴処分」の公表は、2013年9月9日でした。東京電力の勝俣恒久前会長・清水正孝元社長、斑目春樹元原子力安全委員長ら計33人と東京電力株式会社は、告発・告発されたにも関わらず、何の責任も問われないとは、どういうことでしょうか。このまま引き下がる訳にはいきません。
 「被告訴人全員を不起訴にしたことは、福島原発事故という史上最悪の企業犯罪を引き起こした加害者を免罪したことになる。また、処分決定当日に、事件を福島地検から東京地検に『移送』したことは、私たちが求めていた、多くの被害者のいる福島県での検察審査会で審理を受ける権利を奪う暴挙である 」と検察に抗議すべく、福島告訴団は力強く声明を出し、東京検察審査会に審査申し立てを、10月16日に行なったのです。
 告訴団は、別に2013年9月3日、東京電力福島第1原発の放射能汚染水の海洋放出についても、「人の健康に係わる公害犯罪の処罰に関する法律3条2項及び4条」の被疑事実で、東京電力の幹部と法人としての東京電力株式会社を刑事告発しました。毎日、400トン程度の放射能汚染水が海に放出されている、その責任は国内にとどまりません。その後12月18日には、第2次告発人が加わり全体で、6042人に増えこの事件の関心の高さがうかがえます。この告発人には、私たちも参加しています。
 福島原発の告訴団の団長は、武藤類子さん。最初の刑事告発人の50人の陳述を本にして、2013年8月に「これでも罪を問えないのですか!」を出版しました。この本の「あとがき」には、武藤さんの切実な訴えがあり、紹介したいと思います。私たちは、日頃の生活に追われ、どうしても福島のことも忘れがちです。だからこそ、意識して情報を入手し少しでも思いを共有する努力が必要と、つくづく感じました。ぜひ、陳述書を読んで下さい。
「被害者が自らの被害を自覚し言葉に表すことは、苦悩の中から血を吐くような行為であったと思います。しかし、それは深い傷を受けながらも凛として責任を問い、新しい一歩を踏み出す行為でもあったと思います。・・・・諦め黙っていたら、この事故は福島の中に封じ込められ、被害者の救済は行われないでしょう。辛いけど、被害者自らが声を上げ、立ち上がっていかなければなりません。私たちは馬鹿にされて生きていてはいけません。今この世界を変えていかなければなりません。・・・・この告訴は、生き物たちや子どもたち、未来世代、そして自分に対する責任の取り方のひとつであり、新しい価値観の世界を創る道のひとつです。この道を共に歩もうと参加してくれた、14716人の勇気ある一歩に対し、尊敬と感謝の気持ちでいっぱいです。どんな時代であっても、暗闇に光る蛍のように自らを燦めかせて生きていきましょう。」 (恵)


何でも紹介 中高年女性に筋トレ?ー30分健康体操教室に無料体験ー

 年の初め、友人からの年賀状に「私は日々、体を鍛えてウォーキング、筋トレに励んでいます」と、書かれていた。ウォーキングはうなずけたが、筋トレ?中年の女性に筋トレとは??と、疑問に思っていたところ、職場の同世代の同僚から「女性だけの30分健康体操教室カープス」の1回無料体験のチケットをもらった。通勤途中にビルの2階にあることは知っていたが、同僚は「仕事帰りに行って汗をかくと気持ちがいいの、ストレッチもやるから筋肉痛にもならなかったよ」と言う。こんな話を友人や同僚たちに話すと、年老いて人の世話にならないように、健康でいるには筋肉を鍛えることがいいらしいことや、最近周りの女性たちがカープスに通っていることを聞いたりした。 
 女性たちに人気で筋肉を鍛えるにはどんなことをやるのかな?と、興味を持ち私は、事前に予約をして土曜日の午後無料体験に出かけた。ドアを開けると、ワンフロアで前面ガラス張りで明るく中央にマシーンが置かれ、「こんにちは」と、若い女性たちが迎えてくれた。教室が13時までとは知らなく会員は誰もいなく、3人のスタッフだけなので少々緊張するが、ひとりの若いスタッフが親しげに話しかけてくれ、まず1対1で私の健康状態について聞いてきた。今のところ、肩こりを感じる程度で問題がないこと等を話すと「いいですねえ」と、褒めてくれこちらも気分がよくなって話し出すが、話していくうちに「今のままで年をとっていくと筋肉が弱まって骨密度が低くなり、体が思うように動かなくなって寝たきりになってしまうかもしれない」と言われてドキッ!。さらに、簡単な体力測定をやると「年齢より10才程度衰えている」と言われてまたドキッ!。驚いている私の内心を見過ごしているかのようにスタッフは、「加齢によって基礎代謝力が落ちて、体脂肪が増えて、筋力が衰えてくる中高年にとって、筋肉を鍛えて基礎代謝を上げる筋力トレーニングは欠かせない運動なんですよ」と言われてしまう。
 そして、女性専用に開発されたマシーンのうち肩こりがスッキリするというショルダー・プレスに座り、両腕を上下に動かすのだがなかなか力がいる。これを30秒やったらステップボードで30秒歩いて筋力を休めて、次のマシーン(12種類のマシーンがあって自分に合ったものを選ぶ)も30秒やってステップボートを30秒歩くことを繰り返し、上半身・下半身のマシーンを体験したが、筋力がないことを痛感されやりたくなってしまう気持ちになってきてしまった。これが、無料体験の怖いところでそういう気持ちにされてしまうのだろうと、我に返って話を聞いた。
 スタッフも入会してもらいたいので、「会費は月に何回通っても6700円なので週2、3回通うと1回500円ぐらいなんですよ。入会金は15000円ですが今なら半額で入会できます」とお得感を言い、「平日は17時までやっているので仕事帰りにどうですか」と必死だ。さらに初めの健康状態の話の時に趣味は何かと聞かれ、私は山歩きをしていることを話したが、「山歩きでは太ももの内側の筋肉がつかないんです、通っている方で山歩きをしても筋肉痛にならないそうですよ」と、痛いところを突いてくる。(山歩きの後はいつも筋肉痛になっている~)話を聞いて体験をして筋力をつけることが大事だということはよくわかったが、今の私には平日は仕事と家事だけで精一杯で余力がなくてとても通えないし、教室が土曜日は午前中だけで、日曜日が休みでは通う時がないので今は入れないことを伝えて帰ってきた。
 カープスは近所感覚の体操教室で、40~60歳代が中心で運動が苦手でも自分のペースで気軽にでき、なんといってもいいのは1回わずか30分で予約はいらなく好きな時間に来て、待ち時間無しですぐにできることだ。会員もスタッフも女性だけなので、男性の視線を気にしないで運動できるというのも魅力のようだ。今の中高年の女性たちにとって家事をやりながら孫の世話、老人介護、ボランティア活動、趣味等の合間を見て通い、おしゃべりをしながら筋トレができるのがちょうどいいので人気なのだろう。ビルの1室を借りて少ないスタッフでマシーンを置いておくだけで儲かる仕組みになっているのだからよく考えたものだと感心してしまう。2005年に設立され、全国で1247店舗あり会員数は53万人というのだからここ9年で急成長しており、カープスもコンビニにや牛丼店などが同一のマークやイメージ、品添えでチェーン形式で営業するフランチャイズチェーンシステムで運営されている。
 生きにくい社会になって子供から大人まで自分の健康に気をつけなければならなくなって、様々な健康ビジネスがまかり通っている。そのひとつに子供たちは近所にあそぶ場所がなく小さい時からスイミング・体操・サッカー等の教室に通い、大人たちは運動をするのにわざわざスポーツクラブ等に通う。そこに目をつけた企業がチェーン店にして健康増進と謳いながらボロ儲けしているのだ。健康でありたいと願うのは誰も同じで、安全な環境・食べ物でいつも笑顔で身も心も健康でいられる社会を願いたい。(美)

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