ワーカーズ515号  2014/7/1      号案内へ戻る

 与党協議による憲法改訂を許すな!
 集団的自衛権ーー二転三転する政府・与党の説明


●「自衛」ではなく海外軍事展開だ
 「国民の命を守る」「限定的行使」で「イラク戦争や湾岸戦争のような武力行使を目的とし戦闘行為に参加することはない。アフガニスタン戦争(への参加)もない」と安倍首相はこう言葉を連ね、集団的自衛権の行使容認に理解を求めてきた。

 しかし、5月の末になると、首相は自衛隊がペルシャ湾での掃海活動(戦争行為)に参加すべきだと強調。さらに、集団的自衛権を使って自衛隊がペルシャ湾に行き、米軍艦以外の船も守ると言いだした。「行使の対象が際限なく拡大する懸念が広が」った(朝日)。
 政府は与党との協議にあたり、集団的自衛権の行使などが想定される15事例を示した。しかし、軍事の実態を知る防衛省関係者はこう言い切る。
 「政府が示す事例はフィクション(虚構)だ。実際の戦争で起きる1万も2万もある事例から、たった15事例を示したに過ぎない。現実の戦争になれば、自衛隊の活動が事例に縛られることはあり得ない」(朝日6/5)

●集団安保=多国籍軍への参加も
 さらに6月20日、公明党との与党協議の中で、政府=自民党は集団的自衛権以外に集団的安全保障の観点を持ち出している 。
 自民党側は、機雷の除去など「集団的自衛権を行使中に、国連決議で多国籍軍が結成されるなど事態が集団安全保障に移ると、自衛隊は活動をやめなければならなくなると懸念する。」ゆえに「集団的自衛権」と「集団安全保障」を同時に認めなければ、実際上自衛隊の軍事行動が疎外されてしまうと言い出した。
 かくして、一旦「集団的自衛権行使を容認」すれば、とめどもなく戦争行為の渦中に引きずり込まれる。
 多国籍軍に組み込まれれば、自衛隊員は「日本を守る」どころか見知らぬ他国民に対して「敵」とし軍事行動をすることになる!ここにはさらなる憎悪の「ドロ沼」が生まれる。
 だからこそわれわれは主張してきたのだ、安倍首相の言う「日本の自衛」「最小限の」「限定的な」「日本にとって死活問題の場合」という言いぐさは信じるなと!一旦ストッパーが外されれば、転がる岩をとめることはできない。
 なんとしても「集団的自衛権」の行使や「集団安全保障」の参加の閣議決定に反対の声を最後まで上げなければならない。(文)


 法人減税
 何が成長戦略だ、法人減税! 企業・財界奉仕の安倍政治


 安倍内閣が改訂版の〝成長戦略〟を閣議決定した。すでに報道されているように〝残業代ゼロ〟制度の導入や法人税減税が中心だ。
 第一次安倍内閣以来、民主党政権を挟んで歴代内閣によって、企業優遇と家計の負担増が繰り返されてきた。消費税の段階的な引き上げと法人実行誠意率の段階的な引き下げがまさに同時並行的に進んでいるという現実が、それを物語っている。
 家計を収奪することで企業に大盤振る舞いを繰り返す安倍政権を糾弾するとともに、本来の労働者の闘いの目標を明確にし、それを推し進めることで労働者・庶民の生活を切り開いていきたい。(6月25日)

◆露骨な企業・財界優遇

 安倍首相が産業競争力会議を舞台装置として検討してきた改訂版成長戦略が、安倍内閣の経済財政諮問会議が検討してきた来年度の「骨太の方針」とあわせ、6月24日に閣議決定された。その中には財界から強い要請があった法人減税の来年度以降からの段階的な実施も明記された。
 昨年6月に出された成長戦略の改訂版となる今回の新成長戦略には、学童保育の拡充による女性の活躍促進、外国人技能実習生の受け入れを3年から5年に延長、 混合診療の拡大、〝残業代ゼロ制度〟(年収1000万円以上の労働者が対象)の創設などが掲げられている。これらも様々な問題を含んでいるが、なかでも成長戦略の目玉として法人減税は露骨な財界優遇措置が際立つものだ。
 その法人減税。現在の実効税率35・64%(国税と地方税あわせたもので、東京都の場合)を来年度以降数年で段階的に20%台に引き下げるというものだ。どこまで引き下げるか、具体的な税率はまだ覆い隠されている。財源としては赤字企業にも課税する外形標準課税や租税特別措置の見直しなどを上げているが、これもまだ具体的には明示せずに後廻しされている。
 安倍内閣が成長戦略にこだわるのは、〝三本の矢〟の性格による。アベノミクスで経済再生と財政健全化を目指す安倍首相にとって、第一の矢と第二の矢と称する金融緩和や財政出動は、一時的なカンフル剤にしかならない単なる対処療法と見られているからだ。より持続的な成長のあゆみを確かなものにするためには、好循環を生み出す成長政策が欠かせない、というわけだ。
 とはいえその実態は、財界がもっとも望む残業代ゼロなどの労働規制の緩和や企業の懐を直接膨らませる法人減税であり、結局は消費増税分を企業にばらまく企業・財界優遇政治という以外にないものだ。

◆実効税率は高くない!

 企業・財界が執着してきた法人減税の根拠は、諸外国との比較だという。西欧やアジア諸国に比べて割高の法人税を下げなければ日本企業の競争力を妨げ、日本の経済成長にも支障を来す、というものだ。それに応えるかのように安倍首相も、法人税を引き下げることで企業が成長し、それが賃上げなど内需にも波及することで着実な経済成長を達成することができる、と繰り返してきた。
 確かに法律上の税率でいえば、日本は米国などとともに欧州諸国やアジア諸国より割高になっている。しかし、各国の課税ベースはそれぞれ異なっていて、日本の法人実効税率が本当に高いかというと、実際はそうでもない。現時点では米国40・75%、日本35・64%、フランス33・33%、ドイツ29・59%、中国25%、韓国24・2%などだ。企業・財界は、第一次安倍内閣時に欧米並みの30%台半ばを要求してそれを段階的に実現させ、今またアジア並みの20%台への引き下げを要求してきた。後で見るように、欧米並みという要求さえも実態隠しのうえでの話であって、それを後発国と同じレベルにまでの引き下げを要求するのは恥知らずな要求という以外にない。
 企業や財界が日本の実効税率は高いという。が、実際に納付しているのは名目的な税率よりかなり低いのが実態だ。
 一例を挙げる。2003~2009年度決算データから経常利益の上位100社で集計したというもの(税経新人会全国協議会)だが、それによると法人実効税率40%での実際の法人税負担率が低かった上位3社は、ソニー12・9%、住友化学16・6%、パナソニック17・6%だ。その他、ブリヂストン21・3%、三菱重工業29・7%、トヨタ自動車30・1%など、軒並み40%より少なくなっている。全体の100社平均で33・7%で、6・5%程度少ないものだ。現在の実効税率の35%に置き換えてみれば、すでに実質的には20%台になっているだろう。
 少なくなっているのは、租税特別措置という研究開発や中小企業支援などに向けられた法人減税があるからだ。そのほか、繰り延べ欠損金で税負担を逃れるというのもある。これは過去に巨額の欠損が出た場合、現時点で利益が出ても過去の欠損金が解消するまで法人税を納付しなくてもよい、というものだ。現にメガバンクなど、巨額の利益を得ながらも繰り延べ欠損金で何年も法人税を納付しなかったケースもある。これはマイホーム減税で上限と年数を限って減税されるケースと比較しても、企業に大甘のべらぼうな制度だ。
 それに企業は様々な節税にも余念がない。日本企業が法人税が低い海外に子会社などをつくり、そこに利益をため込む事例が多い。中でもオランダへの直接投資残高は米国に次ぐ投資額だという。税率がタックスヘイブン(租税回避地)以外に最も低い25・5%だからだという。日本の法人税法では、海外の子会社の利益には法人税がかからず、日本に持ち込んだ段階で課税される。だから多国籍企業などは、できる限り海外に利益を温存し、必要最小限でしか日本に還流させないといわれる。こうした“節税(脱税?)”策が様々採用されているのだ。
 実際、日本の法人税額(国税)は、税率の段階的な引き下げもあって減ってきている。1989年度のピークには20兆円弱あった法人税は、しばらく10兆円台前半を推移した後2006年度に15兆円になってからまた下がり、ここ数年は10兆円を割り込んでいた。13年度は10・5兆円だ。実に89年度の半分しか法人税を納入してこなかったのだ。

◆軽い企業負担

 企業負担といえば、なにも法人税に限ったことではない。私は企業や経営者が法人税率などで欧米並みを叫ぶ際には、必ず社会保険料負担も含めた比較が欠かせないと主張してきた。企業は納税とあわせて社会保険料の負担も義務づけられ、それらを併せた企業負担で比較するのが実態に即しているからだ。その比較でいえば、日本の企業負担は欧米企業に比べて遥かに低いことが分かる。少し脱線するが、それを見てみたい。
 平成11年度と多少は古い資料(現在もそれほど変わっていない)だが、たとえば日本の医療・年金保険料や雇用保険など各種社会保険料率でいえば、日本は22・16%でフランスは41・58%、ドイツ42・2%だ。フランスや独は保険料率自体が日本のほぼ2倍でそれだけ社会保険での拠出と給付が手厚い。が、ここでの問題はその拠出割合だ。日本はほぼ労使折半だが、フランスでは本人負担が9・61%で事業主負担がなんと31・97%もある。企業が労働者より3倍も多く負担しているのだ。スウェーデンも35・53%のうち本人負担が6・95%で事業主負担が28・58%だ。一方米国やドイツでは労使でほぼ折半だ。
 そうなっているのはそれぞれ歴史的な経緯があるが、企業や内閣が法人税を持ち出すときにこれらの事実にほおかむりし続けてきた。同一レベルというのなら、企業の社会保険料率も含めた同一条件を俎上に載せなければならないのにだ。まさにつまみ食いという以外にない。
 同じ事は連合など労働組合にもいえる。社会保険料率の負担割合の改善を闘い取るという決意と取り組みが不可欠なのに、そうした課題を長い間放置し続けてきたからだ。
 そんなこんなで今企業は膨大な内部留保を抱え込んでいる。12年度では304兆円にも膨らんでいる。その上まだ法人減税を要求してやまない日本の企業や財界のどん欲さには際限がない。

◆要求を争点化させよう!

 繰り返しになるが、歴代内閣は民主党政権も含めて、これまでも企業優遇策を採り続けてきた。第二次安倍内閣では、それが露骨になっている。
 安倍内閣は14年度予算でも設備投資減税を実施した。また東日本大震災での復興にあたっては、法人税引き下げ分をそのまま徴収して復興財源の一部としたが、それを前倒しで打ち切って減税した。個人には今後20年にわたる復興増税が今年から始まったばかりだというのにだ。ここでも企業優遇、家計切り捨ての姿勢が露骨に現れている。
 結局、段階的な消費税引き上げと段階的な法人実効税率の引き下げが同時進行しているのだ。それを別な角度からみれば、家計から吸い上げた税金を企業にせっせとばらまいていることんある。おまけに安倍内閣の13年度補正予算や14年度予算では公共事業や軍事費などが膨らんでいる。さらには6月18日に成立した地域医療・介護推進法では負担増・サービス切り捨てが並んだ。安倍内閣が成長戦略の理屈付けでなんといおうとも、結局は企業・財界への優遇だけが際立つものでしかない。
 不思議なのは既存の労働組合などだ。法人税引き下げと消費増税は並行して進む中、労働界から政府への糾弾と自前の闘いの決意が見えてこない。連合などは法人減税にちょっとばかり遺憾の意を表明して賃上げなどへの還流を求めるだけだ。本来は法人減税など争点として浮上させず、世界を舞台とする法人減税競争に対抗する国境を越えた闘いを作り出したり、あるいは社会保険料率での企業負担引き上げを大きな争点に浮上させることの全力投球すべきなのに、だ。
 これも一例だが、世界的な法人減税競争に怒った英国の市民団体「UKアンカット」(削るな英国)が始めた企業の税金逃れを糾弾する闘いが、英国で瞬く間に拡がったこともある。世界に拡がる法人税の引き下げ競争の結果はといえば、結局は消費増税などの大衆課税に置き換えられるだけでしかない。そうした闘いを全世界で拡大することこそ私たちの課題なのだ。
 私たちとしては、単に法人減税反対などを叫ぶだけでは足りない。はっきりした目標を持って、私たち労働者の要求を争点化させるような状況を作り上げることが重要だ。そうした状況を切り開くには、いずれにしても私たち労働者自身の決意と行動が欠かせない。(廣)号案内へ戻る


 民主主義から独裁へ!

●強権政治が選ばれる時代とは?
 近年、逆流とも思える「民主主義から独裁へ」という政治的転換が、世界的には多く目撃される。
 その例をあげるのは、残念なことだが容易である。エジプト、タイ、ウクライナ、南米の故チャベス大統領の後のベネゼェラ、その他の中南米ポピュリスト政権も「独裁予備軍」といえる。
 また内戦状態がつづき、その先には独裁的体制を予想させるのもイラク、シリア、アフガンなどだ。
 改めて考えれば、欧米が主導したグローバル化時代だが、中国をはじめロシア、サウジアラビヤ、イラン、トルコなど、経済的に市場経済が興隆しても、政治形態は「強権政治」のままだ。少なくとも欧米型民主主義にはほどとおい。
 インドも「国政の議会制度」は機能しているが、カースト制度、貧困層の存在など、底の浅いものだ。モディ首相の新自由主義が、治安の悪化や経済の不安定化をもたらせば、一気に強権政治に結果する現実性がある。 

●民主主義より治安とパンを求める国民
 強力な軍や官僚組織といえども、国民の支持をある程度つかまなければ長期独裁はできない。
 貧富の格差や内戦・内乱が長期化すれば、無力な「民主制度」や「議会」に物足りず、軍部指導者やカリスマ的扇動者(ポピュリスト)を、国民自らが積極的に選挙などを通じて権力の頂点に押し上げていることを見いだす。(エジプトが最近の典型だ)
 もちろん、軍人やカリスマ扇動者の「公約」が実現しうる可能性はほとんどない。なるほどそれを笑うことは簡単だが、失望感が国民を彼らの下へと追いやるのである。そこが問題だ。
「権威主義的な中国を手本とする国が増加している皮肉」(『ニューズウイーク日本版』6/10)という指摘もある。もしも経済的おこぼれが少しでも期待できれば、人々は「民主主義を売り飛ばす」。それほどに世界の諸国民は、治安の悪化と生活不安に悩ませられている。

●ロシアを選ぶ「ウクライナ国民」の事情
 先月の欧州議会選挙でも、偏狭な排外主義=極右が台頭した。ウクライナでも、国内ロシア人を追放しようとする極右ファシストが台頭著しく、ウクライナ新政権にも参加した。
 その結果、ウクライナ東部のロシア系住民は、難を逃れるためにロシアに接近しプーチンの保護を公然と熱望している。
 ここでも内戦や迫害に追われた住民に、プーチンという独裁者が選ばれようとしている。クリミヤ半島を併合し、国民的人気を博したプーチン。民主主義はこの地域でも置き去りにされている。

●安倍政権の国家主義も同じ流れ
 「右翼民族主義」「国家主義」の国際的評価を勝ち取った安倍首相も、足元を見れば同じような状況にとりかこまれている。
 自民党政治は、戦後六〇年の治世に倦み腐れ、官僚化し、国民の意識の変化の中で支持は下降するばかりだった。
国民も変化を求め「コンクリートから人へ」の民主党政権になったのだが、それがご存じの大失態の連続で、国民は完全に離反した。
 民主党の敵失で転がり込んだ「棚ぼた」安倍政権だが、安倍氏にもどんな展望もない。国民のいらだちや経済界からの圧力に、自らの「政治的使命」を無理矢理重ね合わせて、暴走がはじまった。
 「特定秘密保護法」や集団的自衛権の行使をめぐる「解釈改憲」を足がかりに、戦後民主主義の柱であった憲法の骨抜きに政治的照準をあわせている。
 私には、安倍氏が戦後の基本枠組みであった民主制度を掘り崩しているばかりでなく、TPP参加や農協改革を通じて、良くも悪くも自民党の支持基盤までも分解させているように思われる。

●衰退する欧米型民主主義
 民主主義とは何か?という問いを改めて発する必要がある。
 先月、欧州議会選挙での極右排外主義の快進撃は何を意味するか?
 右翼の幼稚なスローガンに、あれほどの国民(フランスでは第一党)が賛成するのか。格差や貧困の深刻化こそが、現代民主主義の衰退原因なのだ。失業、貧困、治安悪化などの現実の前では、まがりなりにも存在した欧州型民主主義自体が、大衆にとって無用でありむしろ嫌悪の対象となりつつある。
 「空虚な自由より仕事を!」「議会のおしゃべりより治安を!」
 戦後日本の民主主義制度自体が魅力を失いつつある。欧米型民主主義は、大金持ちも貧困者も「法的に対等」とする。これが欧米型の民主主義の限界だ。この転換無くして民主主義の蘇生はありえないだろう。
 「法律上平等」でも富豪と労働者という格差は厳然として拡大するばかりだ。そればかりではない。正規労働者と非正規雇用の格差。そのうえ年金などの社会福祉制度の劣悪化が進行して、富の再分配も機能しにくくなってきたのなら、国民がその「民主主義制度」をどうして熱心に擁護できるのか?
 欧米型民主主義は、マネー資本主義の奔流、多国籍企業の一人勝ち、膨らむ官僚制度の足下で萎(しな)びかけている。民衆はそれらを守るべき理由を見いだせなくなった。

●新しい民主主義は創り出すほかない
 それに代わる新しい民主主義が提起されなければならない。
 労働者勤労者の、対等者同士の民主主義である。協同労働の基礎の上に造り上げる大衆的な民主制度こそが、今提起されるべきなのだ。法的な「平等」を越えた経済的な、つまり実質的な平等が新しい民主主義制度の土台なのだ。(文)


 コラムの窓・・・「成果」による働き方でなく、人間生活に基づいた労働時間制度を!

 安倍政権の「経済財政運営と改革の基本方針」(骨太の方針)に盛りこまれているあらたな労働時間制度は、労働時間は原則1日8時間、それを超えるときは企業は残業代を払う義務があり、上級管理職などに限り、例外として労働時間にかかわらず賃金を一定にして残業代を払わないとされていた労働基準法を改正し、労基法の例外部分を一般社員にも広げ、「年収1千万円以上」「職務範囲が明確で高度な職業能力を有する労働者」で、本人が希望した場合に適用するという、要は「働いた時間ではなく、成果で評価される仕組み」と合わせて労働時間の規制を外した新しい労働時間制度で、来年の通常国会で労基法改正を目指すという。

 厚生労働省の調査では、2013年の正社員の年間労働時間は平均2018時間。長い間2千時間前後で推移し、減少しておらず、週60時間以上働く人は同年で474万人(全体の8・8%)に上り、特に30代男性に多く、業種では運輸業や建設業などが目立つと発表している。
こうした長時間労働が蔓延している中で、何時間働こうが、給料はあくまで仕事の結果で決め、一部の労働者の労働時間配分を個人の裁量に委ね、労働時間や残業などの規制を無くすと言うことは、残業代の支払いを止めることによる人件費の削減とブラック企業が問題視され、過労死も無くなっていない現状を追認し、長時間労働と低賃金を強いられる労働者をますます増やすということにつながる。

 そもそも"成果"とは何なのか?資本主義経済の企業社会にあっては「成果」とは、ひたすら「利潤」を上げること、儲けることが企業本質だから、企業利益の向上の為には、人間生活の営みなど二の次、三の次、労働者保護の労働法など認めたくも無いだろうけど、分業が発達した生産現場では、幾人もの人々が、それぞれの工程で、いろいろな個別作業をしながら商品生産に関わり、その集大成としての商品が新しく生産され、運送や梱包・保存などの工程を経て、市場に出て、社会生活に役立ち、消費されていく。"成果"とはこの過程を経た上でのもの、集大成ではないのか!
 公平な交換が行われている限り、私的な一企業の利益は誰かが損をしない限り発生はしない、詰まるところ、労働者を搾取しそこから利潤を得ることにつきるのである。賃金を減らし、長時間労働を強いるのは資本=企業の常套手段であって、能力給や成果主義の導入による賃金格差を行うのは、労働者を競争させ、分断する為で、職場のチームワークをあえて崩しても、労働者意識を薄め、団結を崩しておいた方が、利益=利潤を上げることができると判断しているからである。
 人間は、衣・食・住といった基本的な生活維持の為に労働を行ってきた。まさに生きる為に労働が行われていた。
 狩猟生活から農耕生活を経て、自然的現象を理解し、生産性が上がり、あらゆる分業が行われるにつれ、個人から集団へ、社会的な人間社会を築いてきた。社会的な協同によって生産性が上がるにつれ、生きる為の労働だけでは無く、文化的労働も発展し、それらが互いに混じり合いながらより文化的で高度な社会(地球上にはまだこの段階に到達していない地域もあるが)を形成してきた。
 今の資本主義経済社会は人間が形成してきた高度な社会の一つではあるが、社会的生産関係と私的所有という矛盾を含んでいるので、そこから得る利益は社会全体に行き渡ることは無いという限界がある社会。
 利益追求の資本=企業と、生きる為に働き、生活向上の為に努力するという人間労働は目的として違いがある以上、そのしわ寄せは弱い者に降りかかってくる。
 「成果」の評価基準は企業が判断し、その配分も公平とは言えず、曖昧なものだから、自分の生活維持以上に「成果」を求められるとそこに矛盾を感じ疎外感が生まれる者も出て、肉体的疲労や精神的苦痛の増大がおこるのが自然であろう。
 今の生産力をもってすれば、生活を維持すべき労働時間を最小限にし、残りの時間を趣味等を通じた自己形成と社会奉仕などの社会貢献に当て、社会全体の向上を図る事は可能であるから、企業の利益だけを考えた「成果主義」による「あらたな労働時間制度」ではなく、人間生活に基づいた「労働時間制度」を提起していくべきである。(光)号案内へ戻る


  歴史散歩 日本初の労働争議。甲府雨宮製糸工場で、(1886年)日本初のストライキ
  
6月12日は、NHK朝のラジオ放送「今日は何の日」で、日本で最初のストライキが行われた日と放送がされた。
放送では1886年(明治19年)6月12日、甲府雨宮製糸工場で働く女工たちによる長時間労働と賃金切り下げに対するストライキが行われた日として放送されただけであるが、記念すべき日本で最初のストライキ実行は、細井和喜蔵が1925年に記した紡績女工のルポルタージュ「女工哀史」や「寄宿流れて工場が焼けて門番コレラで死ねばよい」「カゴの鳥より監獄よりも寄宿住まいは尚つらい」などの女工小唄で唱われているような、女工達に対する、監獄のような寄宿制度と、労働時間は、朝4時半出場(勤務)、昼食時間30分、午後7時半退場の、なんと14時間余。そのうえ、賃金の引き下げ、厳しい取り締まり、遅刻早退の大幅賃金差し引きに対しての、近くの寺に立てこもり、実行された抗議ストライキということであった。6月16日の交渉で、「出勤時間を1時間ゆるめる、その他優遇策を考える」、ということで争議は解決したが、この雨宮製糸のストライキは、同じようなひどい規制で苦しめられていた他の製糸工場へとひろがっていったと言う。  
 日本における労働組合組織は、人力車夫の結社で、馬車鉄道に対抗するために組織化した車会党(1882)が時期的には最初だが、職工による義友会(1897)が組合結成を呼びかけ、高野房太郎や片山潜によって労働組合期成会(後の鉄工組合)を立ち上げたのが発端とされている。
 それより前、当時の大日本帝国憲法には労働権に関する規定はなく、労働組合を組織することや労働者の権利を保障する労働法制などまだ制定されていない中での、女工たちの組織的なストライキ闘争と言うことになり、歴史的に名を残してはいないものの、労働者の組織化と活動は各所で行われていたことがうかがわれ、「労働組合期成会」結成はそうした各地の活動を得た上で結成されたと言うべきであろう。
 工場規模や資本家の少なかった明治初期の資本主義経済の未発展な時代、明治政府は「富国強兵」・「殖産興業」の名のもとに急速な工業化を推し進めた。賃金を得て働く労働者数も1886年(明治19年)7万4956人から1900年(明治33年)38万7796人、日露戦争後の1909年(42年)には80万9480人と大幅に増えていき、劣悪な労働環境や長時間労働・低賃金などに対する労働者の労働争議も行われた。
 幕藩体制から明治政府にかわった(1868)後の日本初の労働争議事件は、1888年に雑誌『日本人』で、コレラにかかった者が生きながら火葬にされた事実も暴露され、当時大きな社会問題になった1878年(1872との記述もあるが)の高島炭鉱事件【高島炭鉱の労働力は囚人などの下層所得者を集めて働かせ、しかもその実態はタコ部屋などの封建的・非人道的な制度に支配され、一日12時間労働という過酷な労働条件、低賃金、重労働にもかかわらずほとんど手作業、「死んでも代わりはすぐ見つかる」といった認識がまかり通るなど労働者虐待と劣悪な労働環境などに対して100人(1500人以上とも)が参加した事件】は、暴動事件と呼ばれたが、甲府雨宮製紙工場では日本初のストライキと称されているのである。
 同じ労働争議ではあるが、争議に参加した者が、賃金契約がない囚人などで構成され、鉱山庁舎の乗っ取りや破壊行動等が行われた高島炭鉱争議と、女工を中心とした賃金労働者による長時間労働の廃止と賃下げに抗議という明確な要求をもって行われた争議行為を区別したからだと考えるが、もっと深く研究するのもよいかもしれない。
 「暴動」であれ「ストライキ」であれその真意を、正しく分析することは必要なことである。
 今日、一般的に言えるストライキとは、「労働者による争議行為の一種で、労働法の争議権の行使として雇用側(使用者)の行動などに反対して被雇用側(労働者、あるいは労働組合)が労働を行わないで抗議する」と定義づけられている。
 今では、法律(労働法等)で定められている権利としての争議権は、日本語では「同盟罷業」(どうめいひぎょう)あるいは「同盟罷工」と呼ばれ、「スト」と略されているが、権利が認められていない時代(法律で定められていない時代)には、「騒動」とか「暴動」とか言われており、支配者に楯突くことは秩序を乱すものであり、許されざる行為として定義づけられていた。現代で言うなら、「テロ」行為として決めつけ、その本質を語らないで、悪者扱いするようなものである。

 初のストライキ以後、労働者人口の増大と共に、権利意識も高まり、労働組合や労働者政党の結成など行われたが、明治政府による1900年の治安警察法の制定によりストライキを違法行為として定められた後、労働運動の弾圧が始まり、権力の力による弾圧と労働組合を抱き込み「大政翼賛」化等、1945年の太平洋戦争終結まで労働運動に対する弾圧は続いたが、政府や企業による抑圧や労働条件の改悪がある限り、労働者の怒りは消えることはなかったのである。
 
 今の日本国憲法では「団結権、団体交渉権、団体行動権(争議権)」などの労働三権は認められており、民主的な権利も保障されているように見えるが、ブラック企業の存在や成果主義の導入により苛酷な労働環境と長時間労働・低賃金などなくなってはいない。
権利があっても行使しない企業丸抱えの右翼的な労働組合も多くあり、労働者の真の団結を阻害さえしているが、労働者の闘いを振り返り、権利は与えられるものではなく勝ち取るものであることを再確認し、労働者の力強い団結を創っていこう。(光)


 集団的自衛権行使は「イジメ」と同じではない
  ゆがんだ人生観ぽろりーー麻生語録


 自民党副総理の麻生氏は『学校で一番いじめられるヤツはどんなヤツかと言えば、けんかは弱い、勉強もできない、しかも貧しい家の子と、三つそろったらまず無視。いじめの対象になりません。しかし、勉強はできない、けんかは弱い、だけど金持ちの子、これが一番やられる』と述べた。ある状況が重なるといじめにあうと受け取られる発言で、いじめが深刻な社会問題になる中、波紋を呼びそうだ。(朝日)

 6月21日の講演での集団的自衛権をめぐる麻生副総理の「たとえ話」だ。
 氏の貴重な見解によると「勉強できない、ケンカ弱い、金持ち」とは日本のたとえなのだ。これが「学校で一番いじめられる」とか。他方では「勉強できない、ケンカ弱い、貧乏」は「無視される」のだそうだ。
 一般には全く根拠のないことだからこそ、この表現には麻生氏の人生観や社会観がにじみ出ているものだろう。歪んだ差別意識というほかはない。

●失言?いや本音です
 麻生氏と言えば去年の夏、東京都内でのシンポジウムで「ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていた。誰も気づかないで変わった。あの手口に学んだらどうかね」など憲法改正の「知恵」を披瀝(ひれき)して、ユダヤ人団体から厳しい抗議を受けた「異次元」の政治家だ。
 こんな人物が総理や副総理を務める自民党政権の意識こそ問われるべきだ。

●集団的自衛権とイジメ?
 国家間紛争をイジメ問題と同じように考えるばかばかしさは、ここでは無視してもいい。
 問題なのは、集団的自衛権の行使により、「弱い日本」を米国が守ってくれる、という氏のファンタジック政治コメディだ。そんな馬鹿話はどこにもないのだ。
 そもそも日本は、世界で四、五位の軍事大国で、少しも弱くない。
 だから現実の国際情勢の中では、米国が手を焼いている「テロリスト」や「テロ国家」に対して、軍事大国日本の支援と出動が米国により期待されているのである。その証拠に、安倍政権の集団的自衛権容認方針を、コメントまで出して一番喜んだのが、米国政府である。
 だから、実際の国際情勢は麻生氏のたとえ話とは全くの逆なのだ。
 安倍首相も、中東まで行って、戦争行為である機雷撤去作業を自衛隊がやる、といっている。「弱い」日本ではないのだ。強大化した自衛隊の海外軍事展開なのだ。これは他国にとって脅威ともなりうる。

●右派論陣のマト外れ
 右派論陣は、いずれも麻生氏と似たようなものだ。集団的自衛権をめぐり「友達がいじめられていても、助けないのか」とか、「国を守る気概を持て」とか、そもそもがおとぎ話なのだ。
 集団的自衛権の現実の相手は米国だ。米国をどの国が痛めつけるようなことがあるのか?
 いま問題になっているのは、中東、アフリカ、中央アジアなどで苦戦する米国軍への日本の軍事支援のことだ。米国が「テロリスト」なるものに手を焼いているのを軍事的にどれだけ支援できるか、あるいはすべきでないかである。
 だから「国を守る気概を持て」などマト外れだ。「日本を守る」というのは安倍氏の苦しい言い訳であり、日本を守るだけのことなら公明党の言うように集団的自衛権は必要がないのだ。(文)号案内へ戻る


 テロリストは誰のことか?

「テロリスト」「テロ組織」という言葉が、ニュースから流れない日は残念ながらない。こんなに乱用されるとまるで意味が不明である。世界中の権力者達は、武装した政敵を「テロリスト」と罵倒するのが常だ。
 だが私が不快に感じるのは、昔なら「アカ(共産主義)」のような現実を無視したレッテル貼りに堕していることだ。
「テロ」「テロリスト」とは本来何か?
 語源は「テラー」つまり恐怖である。恐怖による支配を意味する。これが政治用語としてつかわれたきっかけは、フランス大革命後のジャコバン派による、政敵の暗殺を多用する支配だ。大衆的に政治的対立に決着を付けるのではなく、政敵個人を標的にする暗殺を意味してきた。これが長年使用されてきた「テロリズム」の理解であった。
 ところが、ブッシュ米国大統領が9.11以後「テロとの戦い」を呼びかけてから、その意味が具体的な事象を指す政治用語ではなくなった。まるで「悪魔」や「魔女」のような、相手を罵倒するだけの、抽象的で感情的な罵詈雑言へと堕してしまったのだ。
 「テロとの戦い」は今や世界の独裁者に支持され、支配者たちの都合のよい合い言葉となった。
 中国の習金平、ロシアのプーチンなど、力と暴力を独占する彼ら独裁者にとって都合のよい言葉なのだ。彼らに逆らう者たちがすべて「テロリスト」なのだ。「テロとの戦い」と言えば大儀がなりたち、そのためにはどんな弾圧も許されると思っているようだ。
 彼らはチェチェンやウイグル族の独立派に、「テロリスト」「テロ組織」の烙印を押している。
その背後関係つまり、中央政府の弾圧や悪政などの肝心な問題を脇に置いてしまう。いや、わざと問題を覆い隠すためにこそ「テロリスト」というレッテル張りが行われているのだ。
イラクの内乱が始まったが、「国際社会」は彼ら反政府運動をテロとしている。しかし、ISISをテロ組織と呼ぶことに、どんな意味があるのか。ISISは、正規軍といってもよいような軍隊を組織して、首都に進撃している。それがテロ組織か?意味不明だ。
 テロリズムをいうのなら、米軍がアフガンやパキスタン、イラク、アフリカで行った無人機殺人こそ、典型的なテロリズムではないのか。(独眼竜) 


 「国際武器展示会」に日本が初出展

 6月16日、三菱重工業等日本軍需産業界は、はじめて国際武器展示会(ユーロサトリ)に参戦した。
 いよいよ日本の兵器産業も、飛躍をかけて国際市場に打ってでたのだ。
 これを可能としたのが、安倍政権が今年4月に、事実上武器の輸出を禁じてきた「武器輸出三原則」を38年ぶりに破棄したことだ。閣議決定された新しい「防衛装備移転三原則」は「実質的な輸出解禁といえ、日本の軍需産業が〈開国〉した瞬間だった」(『週刊ダイヤモンド』6/21) 。

     *  *   *    *    *    *    *
 この防衛装備「移転」というのがミソのようだ。「その意義は実は輸出にあるのではない。」「ほんとうの眼目は、国際的な共同開発プロジェクトへの参加ができること、その一点につきる」(同上)。
 現代の戦力向上は、兵器のハイテク化にある。兵器は複雑化し、研究開発は巨大なプロジェクトとなる。一国ではもはや開発は限界がある。「米国ですら、新型戦闘機のF-35では国際共同開発の道を歩んだ。」
 三菱重工などの国内兵器産業も、純国産路線をとうの昔に放棄して、国際共同開発を模索してきたのだ。その結果としての今回の安倍内閣の「解禁」閣議決定であった。

■許せない!殺人マシーンの販路拡大 
 つまりここでも、グローバリズムと市場化がキーワードである。すでに米国はイラク戦争後(2003年)、国内兵器産業の整理統合を完了している。日本も後じんをはいしてはいけない、というわけで、有力な技術に特化したり、コストに見合わない競争力に欠ける分野を放棄したりと業界再編が予想される。
 かくして兵器が自動車やパソコンのように「市場化」される時代だ。安倍首相は例のごとく「規制緩和」して兵器産業を成長産業にする気なのだ。
 それにしても高性能の殺人マシンが大量に出回るという恐怖について、政治家たちはあまりに鈍感ではないか!
 兵器が商品化され、大量に販売されるということは、安倍首相やオバマ大統領のいう「国際テロ組織」だって、さまざまなルートで武器を大量に入手できるはずだ。
 殺人マシーンの拡販路線をとる政治家諸君!あまりに矛盾した愚かしい政策ではないのか? (上)


 世界中で覇権争う日・中

★中国の膨張主義という一面的見方
 中国の軍事的圧力や無法ぶりを、政府と一部マスコミは日々さわぎ立てている。
 日本政府の言い分は、尖閣列島の領有権や防空識別圏の設定は不法だと。さらには中国の一方的な(国際法無視の)領海侵入。「自衛隊機への異常接近」「ロックオン事件」等々である。
 一方的な中国のせいで日中国交回復以来、両国は最悪の時期を迎えた云々。
 間違いなく中国は、軍拡主義・大国主義である。中国共産党指導部の国民支配の一環として愛国主義を鼓吹し、民族主義を煽って国内問題から眼をそらそうとしてもいる。しかし、それは日本政府もそれほど違うわけではない。
 これは日中政府ともに、「歴史認識問題」や従軍慰安婦、南京大虐殺の評価をめぐり、互いに国民をあおり立てた危険な政治ゲームだ。国民に憎悪の火種をつけかねない。
 だが、より広い視野から見れば、日・中の政治経済をめぐる世界覇権競争の、アジアでの一局面だとも言える。

★日本と中国のせめぎ合いは広がるばかり
 海外のジャーナリズムは、その点冷静で客観的だ。
「日本と中国が東シナ海はもとより、世界各地で勢力争いをしていることは誰もが知っている。尖閣列島の領有権をめぐって世界規模のPR合戦に加え、東南アジア、アフリカ、ヨーロッパなどで地域つばぜり合いをしている。」
「ロシアに対する日本と中国のラブコール合戦も、・・同じくらい熾烈だ。」「安倍のロシアへのラブコールはASEAN各国へのラブコールと同じく、もっぱら中国との関係悪化が原因だ。」「(安倍は)ロシアがクリミアを併合したにもかかわらず、安倍は終始ロシアとの関係改善に意欲を示した」。(『ニューズウィーク日本版』ディプロマット誌記者)
 こんなことはさらに付け加えることができる。インドのモディ新首相への安倍首相の外交急接近も同様の脈絡で考えられる。新たな日本の参入市場をめぐり、安倍首相と中国当局の闘いはグローバル規模で火花を散らしている。
  スウェーデンのストックホルムで、5月末に日本と北朝鮮の政府間協議がおこなわれ、日本人拉致被害者の再調査などについて話し合いが行われた。この安倍外交も、中国と韓国への対抗意識につらぬかれているのはあきらかだ。
 尖閣や歴史認識をめぐる角逐は、日本と中国が軍事的、経済的、政治的な対立を世界規模で展開している一局面にすぎなくなった。だから、いまやそれらから日中対立を見るべきではない。
 安倍が首相就任以来、世界各国でトップセールスを展開し、世界の首脳と直接外交を展開しているのは、押され気味である中国(や韓国)に対抗しようという意図がみえみえだ。

★そして集団的自衛権
 こうした世界規模での日中の全面的なつばぜり合いをみれば、中国の急拡大する世界的プレゼンスに、地球規模で対抗しなければならない、安倍首相のあせりが見えてくる。
 だがまだ打つ手があった。集団的自衛権の行使を容認し、それにより米国の力を利用しつつ、自衛隊を世界展開できる。これで少なくとも軍事的には優位に立てるだろうと。
 中国封じ込め戦略は、米国以上に安倍氏のほうが執念を燃やしているようだ。しかし、現実国際政治のなかでは、安倍氏の思惑は空回りしている。インドのモディもロシアのプーチンも、さらに中東各国、さらにさらにアフリカ諸国政府も、中国の台頭や接近政策を喜んで受け入れているのが現実だ。
 こんな安倍氏のへそ曲がりな古い政治には早くお別れしたいものだ。(上)号案内へ戻る


 サンケイの魔女狩り!
 
産経新聞による〝魔女狩り〟は、今さら取り上げるまでもないと言えなくもありませんが、その攻撃はまるでファシズム下でもあるような、あくどいものとなっています。5月21日朝刊1面の「歴史戦 第2部 慰安婦問題の原点」はその一典型です。
 見出しに〈広島大講義で「蛮行」訴える韓国映画〉とあり、韓国籍の男性准教授の講義でドキュメント「終わらない戦争」が上映されたことを取り上げています。講義を受けた一学生の「いつから日本の大学は韓国の政治的主張の発信基地に成り下がってしまったのか」という発言を足がかりに、〝慰安婦問題の歴史戦〟を展開しています。
 それにしても、仮にも全国紙が一面でこうした個人攻撃を行うことの是非を、産経新聞は考慮しないのだろうか。その程度の冷静さも持ち合わせていない、それが産経新聞のサンケイらしさなのでしょう。このようにして差別・排外の右翼的攻撃対象を指し示す行為は、魔女狩りの扇動というほかありません。
 この記事が出た翌日の紙面に、「自衛隊を侮辱した加藤紘一氏」という記事が載りました。政治部編集委員のコラム(だと思うのですが)「阿比留瑠比の極言御免」で、見過ごすことのできない危険な内容です。ネタに使用されているのは有川浩「広報官、走る!」です。
 自衛隊協力のテレビドラマで、国籍不明の潜水艦を追尾する海自の潜水艦士官役が「恐いよ俺・・・生きて帰って来られるかな」と言い、この場面を見た本物の隊員たちがげらげら笑いころげたそうです。隊員曰く、「我々にとっては領海侵犯や領空侵犯なんて日常茶飯事なんです。いちいち恐いなんて思っていたら自衛官なんか務まらない」「『恐いよ俺』とか吐かす隊員がいたら、自分は機が離陸しててもそいつを蹴り落としますね。そんな奴が乗ってたら、足引っ張られてこっちの身も危ないですから」
 何とも勇ましい限りですが、こんな隊員ばかりだと、命令されたら市民に向かっても銃を向けかねません。これに輪をかけて怖いのが、自衛隊おたくといわれている有川氏の次のあとがきです。「自衛隊は命令に従うことしか許されない組織です。そしてその命令を出すのは内閣総理大臣です。(中略)どんな理不尽な命令でも、彼らは命を懸けるんです」
 気分は20世紀前半の阿比留氏が加藤氏を非難するのは、「しんぶん赤旗」(18日)に加藤氏のインタビュー記事が掲載されたからです。それによると、加藤氏は「集団的自衛権の議論は、やりだすと徴兵制まで行き着きかねない。なぜなら戦闘すると承知して自衛隊に入っている人ばかりではないからです」と発言しています。
 阿比留氏はこの発言にいたく立腹し、自衛官への侮辱だ、「彼らは全員、入隊時にこう『服務の宣誓』を行っているのである」と言う。
「事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に務め、もって国民の負託にこたえる」
阿比留氏はもちろん戦争体験などないと思います。他人事の勇ましさはいくらでも言えますが、他人の命を弄ぶのはよくありません。
 このように、実に早手回しに自衛隊員を死地に追いやる雰囲気づくりが進んでいます。兵士は命令のみによって前線に赴くのでしょうか。社会がそれを強制し、家族すらその強制に従い、息子を、夫を死地へと追いやったというのが、あの愚かな戦争の真実ではなかったでしょうか。そんな社会の再来を、見たくはありません。 (晴)


 色鉛筆・・・働き続ける

 働き初めて三十四年、まあ途中一年間休みましたが。アルバイトを含め色々な仕事を経験しました。年金をしっかり貯めておかないと将来退職してから大変だと母から言われ、そのことを意識しながら働き続けることが今の社会で必要だと考え、過ごしてきました。
 働き続けるために、私は休みの日に、まとめ買いをして、一週間分のおかずを作って冷凍しています。月曜日から金曜日までなるべく集中して、働けるように、お弁当も手作りを持っていけるように、一週間の準備に力入れています。
 職場の若者を見ていたら、コンビニ食かカップ麺が多いです。まして、おかしなど周りの人に何かあげて、一緒に食べようという雰囲気はだんだんと薄れてきました。また、ダイエットで食べない人もいます。
 年功序列から実力主義、評価により給料が決められる時代になりギスギス感が強くなったように感じます。自分の仕事は社会の中でどんな役割を持っているのかを考えての、取り組み姿勢ではない人が増えてきました。評価を下げないために、自分の仕事に創意工夫を持たず、失敗をしないための管理ばかりが先行しているように感じます。管理職でない人が、あちこちで管理職気分になり、お互いに管理しているときもあります。
 いつからこんなぎギスギス感が?給料が年功序列より実力主義で上がることが当たり前のようになり始めたあたりなのかなと感じます。でもそれは、年功序列での給料体制で賃金を支払うことは、限界を感じ、おもむろに下げますといえないから、実力主義を持ち出して始めたように感じます。実際実力主義の賃金体系で一番優秀な成績をとっても、以前の年功序列の定期昇給と比べても4000円低いです。社会体制という土台が悪いからです。職場で賃金関係の署名を回すとみんな書いてくれます。人には責任はないのです。  私ができることは、美味しいお菓子でも持っていって、みんなで食べて、地道に意見交換していくしかないですね。そして、私もお菓子を食べさせたから私の意見に従ってという態度を見せず、対等に話しをできる雰囲気作りを作っていくことが大切だと想います。私も若者も年金は多分すんなりもらえず、六十歳過ぎても、働き続けることになるでしょうから…(宮城 弥生) 号案内へ戻る


 編集あれこれ

 前号のワーカーズ514号は、ワーカーズの視点が一杯の紙面作りが成された、と私たちは高く評価している。
 まず第一面。マスコミ等が喧伝している集団的自衛権の問題を、個別事象として取り上げるのではなく、「暴力を振るう側(端的に殺す側と言ってもいいのだが)」の視点から見て根本的な批判を展開している。
 折から最近公開されたインドネシアでの大虐殺を扱った映画「アクト・オブ・キリング」を紹介しつつ、若者や自衛隊員を死地に追いやるべきでなく、愚かな歴史を繰り返すべきではないと訴えたものであった。
 続いて第二面。6月から東日本大震災を理由にした均等割税率が引き上げられた市民税・県民税を話の枕にして、「思いやり予算」等、軍事関連予算の驚くべき内実を暴露したものである。特に沖縄新基地建設関連の建設費と「懐柔費」の突出ぶりには、私たちの目を見張るべきものがある。
 第三面。5月末の欧州選挙で極右の台頭が目覚ましかった。まさにEUは分裂の危機の最中にある。
そして拝外主義者たちの欧州横断組織の結成とは、まさに現実が生み出すパロディではある。
 私たちはEU支持でも極右容認でもなく、労働者市民の国際連帯の強化・発展こそ欧州の未来を切り開くものとの立場である。
 第四面。「たちかぜ」裁判の岡田弁護団長の話を論評したものである。彼自身が当初は自衛隊の存在は憲法違反だと考えてきたが、この裁判の中で自衛官と接する中で「九条」が自衛官の命を守るとの立場に立つ事で自衛官の人間を考えるようになったという。反自衛隊でなかったからこそ、勝利判決を勝ち得たとの話は貴重である。
 しかし秘密保護法の成立以来、勝利判決を担保した内部告発の道はふさがれつつある。今着々と進められている「解釈改憲」をどのように阻止するのか。私たちは彼の視点を重要なものと評価する。
 第五面。カジノ促進法案を廃案への記事だが、どうしてカジノのようなものが声高に叫ばれるのか。
私たちは認めないし、安倍政権の本質をそこに見るものである。ついでにいえば、お隣の韓国ではパチンコの営業は禁止されている。日本ではなぜできないのか。そこに警察等の利権があるからだ。
 第六面。集団的自衛権の容認は「戦争国家への一里塚」とする本格論文である。精読を期待したい。
 第七面。「色鉛筆」では、郵政職場の一人の退職者の発生による四時間勤務から六時間勤務への変更を巡る問題を論じたもので過酷な郵政の労働現場を活写している。
 第八面。「何でも紹介」では、宮崎駿氏の「風立ちぬ」を「ふたたび焼け野原にならないために、どう生きるべきかを考える」作品として評価する視点から紹介している。
 第九面。読者からの手紙が掲載されている。安倍内閣の追求する戦争理由が「自国防衛」と告発したものである。
 第十面。「五輪は誰のため」の視点から、「新国立競技場」の無駄と無意気を告発している。
 このように全紙面を丁寧に紹介したが、これらを見ればワーカーズの記事の多彩さが、読者にも充分確認できると私たちは確信している。(直木)

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