ワーカーズ540号(2015/7/15)     号案内へ戻る

 動揺する国際信用制度
  ギリシャ危機だけでない 中国バブルの崩壊か


中国株式市場が、未曽有の危機にあるのかもしれない。

たまたま、ギリシャのディフォルトが目前と言う事態に世界はピリピリしているさなかだ。

中国の株下落は「調整」といったレベルのものとはおもえない。「日経平均に当てはめると最高値の2万952円から、わずか3週間で1万4666円に暴落したことになる」(日刊ゲンダイ)という深刻なものなのだ。ギリシャ発の信用不安も、仮にEUとの合意がなされたとしてもそれで収まるとは限らない。世界経済が、ダブるショックに挟撃されるおそれもでてきた。だれもが、目を離せない。

深刻なのは、バブルがこれまでに膨らみすぎて、まだまだ収縮すると市場が考えていることだ。

中国当局はあからさまな株価下支えに乗り出している。中国は、証券会社を統率して株価維持をさせている。さらなる強硬策も間髪を入れず発動された。株の売買を規制し、新規株の発行を禁止し、カラ売りを厳しく取り締まり、また、株暴落が政治的謀略であるかのデマをテレビを通じて流している。つまり、株下落の原因が、あたかも「某政治勢力」にあるかに広めてもいる。

これは当局が取り締まりを強化する口実であるとともに、暴落の責任を回避しようとする相変わらず卑劣な宣伝である。実際に、中国株価は、誰が見てもわかりやすいバブルであり、これが「いつの日か崩壊するだろう」ということは、みんな知っていたことだ。

今回も、リーマンショックに引き続く信用制度全体のバブルの崩壊として完結してゆくのか、管理された株下落として推移するのかは市場と国家の闘争だけが決定するだろう。

 このような事態は、現代資本主義が生み出した経済の金融化の一つの帰結である。中国の高度成長の終わりに発生したバブルであるだけに、今後社会矛盾の激化が予想されるだろう。(竜)


 エイジの沖縄通信 (NO・14)

①宜野湾市議会が百田氏に「発言撤回と謝罪要求」

 百田氏の事実誤認のウソ発言に宜野湾市民は怒り心頭である。普天間飛行場を抱える宜野湾市議会は、さっそく6月29日の6月定例本会議で「百田氏発言に対する抗議決議」を全会一致で可決し、百田氏に一連の発言の撤回と謝罪を強く要求した。

 宜野湾市議会は基地問題を抱え、自民党系と革新系議員の対立は激しく、今回のような全会一致で抗議決議を採択したのは珍しい。その決議の全文を紹介する。
 「マスコミ報道によると、6月25日に開催された、文化芸術懇話会において、発言した内容は『普天間基地は田んぼの中にあり、周りに何もなかった。基地の周りに行けば商売になると、
みんな何十年もかかって基地の周りに住みだした。基地の地主は大金持ち。基地が出て行くとお金がなくなるから困る。沖縄は本当に被害者なのか』などの発言は沖縄の歴史に対する無理解からくるものだ。

 現在の普天間飛行場は戦前の10の集落があり、村役場や郵便局が存在する村の中心であったが、先の大戦によって強制的に奪われた。宜野湾市のど真ん中に481ヘクタールの基地があるがゆえに基地の周辺に住むしかないという現実がある。

 軍用地主が大金持ちとの発言も誤りだ。宜野湾市内の軍用地の借料は平均200万円で、事実と異なるばかりか、県内外の人々に誤解と不信を与えかねない。加えて先祖伝来の土地を強制的に接収された地主の尊厳を傷つける発言で容認できない。

 『沖縄2紙はつぶさないといけない』という発言は表現の自由を封じる言論で看過できない。宜野湾市議会は発言の撤回と謝罪を要求する。 宛先 百田尚樹殿  沖縄県宜野湾市議会」
 また、百田尚樹氏から「沖縄の二つの新聞はつぶさないといけない」と名指しされた琉球新報と沖縄タイムス2社は、7月2日日本記者クラブで抗議の会見を開いた。

 百田氏が「(米軍普天間飛行場は)もともと田んぼの中にあった。基地の周りに行けば商売になるということで人が住みだした」との発言に対して、琉球新報の潮平芳和編集局長と沖縄タイムスの武富和彦編集局長の2人は次のように反論した。

 新報の潮平編集局長は「百田氏発言冗談で済む話ではない」「事実に基づかない言説を流布するのは表現者の取るべき態度ではない。発言の撤回、訂正を求めたい」と批判。
 タイムスの武富編集局長は「普天間飛行場の成り立ちについて甚だしい事実誤認がある。もともと九千人を超える人が暮らしていたが、米軍に勝手に接収された。仕方なく近くに住んだだけで、商売目的と言われたらたまったものではない」と。さらに「自民党議員には自分たちこそ正論だというおごりがある。沖縄の世論にゆがみがあるのではなく、安倍政権のひずみだ」と強く批判。

米軍は沖縄戦で宜野湾を占領し、B29による本土爆撃のためにすぐに滑走路を建設した。1952年に日本は独立したが、沖縄は米軍占領地のままで米軍基地の拡張工事が「銃剣とブルトーザー」で強行された。この普天間でも基地拡張に反対する「伊佐浜闘争」が激しく闘われた。今でも、普天間飛行場の中に多くの市民の「祖先墓」があり、4月に年1回しか基地に入り供養する事が認められていない。

 私も「無知と無関心」の本土の一部の人たちから「沖縄は基地反対と言うが、基地や政府補助金がなければ生活できないだろう」とか「基地地主はみんな大金持ちで遊んで暮らしているだろう」等などの発言を聞くことがある。

 しかし、社会的責任のある作家や自民党国会議員が、こうした事実誤認のウソ発言を流布する事は許されない。しっかり責任を取るべきである。

②外務省09年、普天間移設で世論誘導か!

 今から6年前の2009年、米軍普天間飛行場の「県外移設」を模索していた民主党の鳩山政権時代の話。鳩山氏が提案していた普天間の「県外移設」に対して、外務省は米国政府がその提案に対して大変怒っており問題になっているとの情報を盛んにマスコミに流していた。

 しかし、その「米の呼び出し」が虚偽だった可能性が高いことが判明した。

 2009年12月21日、外務省はヒラリー・クリントン米国務長官(当時)に、藤崎一郎駐米大使(当時)が呼び出されて会談するとの通知(「至急・重要」との形式で)を各報道機関に連絡した。

 会談後、藤崎駐米大使は報道陣に「長官が大使を呼ぶのはめったにないことだ」と説明し、日米合意(辺野古移設)を推進する米側の圧力を示唆。外務省も「クリントン国務長官から日米問題の重要さ、沖縄の基地問題の重要さについて話があった」と説明していた。

 一方、米側はクローリー米国務次官補(当時)が翌22日の記者会見で「呼び出したのではなく藤崎大使の方からクリントン長官とキャンベル国務次官補(東アジア・太平洋担当)を訪れた」と説明していた。

 最近クリントン氏は2016年米大統領選の民主党最有力候補とされており、国務長官在任中の公務に個人メールアドレスを使用していた問題が急浮上して、この問題に伴い米国務省がこのクリントン氏の個人メールの内容を公表した。

 「藤崎氏に関するメールは、米国務省が6月30日にインターネット上で公表したメールの一通。メールでは『藤崎大使と明日会談するキャンベル(前国務次官補)が、あなた(クリントン氏)に彼(藤崎大使)と少しの間会えないか聞いている』との内容で、クリントン氏が異例の呼び出しを行った事実がないことが読み取れる。藤崎氏は本紙の取材に応じていない」(琉球新報、7月6日付より)

 鳩山氏は政権崩壊後、霞ヶ関の官僚に潰された事実を語っていたが、この外務省の「米の呼び出し」虚偽もその一つだと言える。(富田 英司)号案内へ戻る


 繰り返すのか、〝政府による戦争〟──アベ戦争法案を廃案に追い込もう!

 時の政権の裁量によって武力行使=戦争に突き進める安保法案=戦争法案が、正念場を迎えている。安倍政権は、今月中旬にも衆院を通過、参院送付をもくろんでいる。

 国会審議を進めれば進めるほど、反対や批判の声が拡がる〝戦争法案〟。なんとしても廃案に追い込む以外にない。

◆政府による戦争

 首相:左手は西、右は東、私は正面に向かって歩いて行く。

  A:それでは首相は北に向かって進んでゆくことになる。
  首相:いや、北に向かって進むとは言っていない。正面に向かって進むのだ。
  A:左が西で右が東なら、正面は北以外にはないではないか。
  首相::いや、一方的に北だとレッテル張りをしないでほしい。私は正面に向かって進んで行くのだ。こんな押し問答が繰り拡げられてきた安保関連法案を巡る議論。

 こんな安倍首相とのやりとりを聞いて、安保法案に支持・理解が深まるハズもない。逆に当然のことながら、「もっと議論を」「もっと説明を」という声が拡がっている。それは首相の説明が信用ならないことと同義だ。時の政権による独断的な憲法解釈で、日本が戦争当事国になることが格段に高まるという危惧の念が拡がっているのだ。

 そんな情況が拡がるなか、3人の憲法学者の発言がターニング・ポイントの意味合いを帯びることになった。発言は、歴代政権の憲法解釈を前提としても、集団的自衛権の限定容認やそれを反映させた今回の安保法案はその範囲を逸脱しており、法的秩序の安定性を壊す憲法違反のものだ、というものだった。そのとおりだろう。

 憲法違反といえば、元はといえば、憲法9条のもとでは自衛隊の存在そのものが憲法違反と言わなければならない。が、数々の憲法解釈の変更によって現在の軍事大国日本が存在するわけだが、それは敗戦という歴史を背負った日本の宿命的な矛盾そのものなのだ。が、それはさておき、現行の憲法前文には次のような記述がある。「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、」という記述だ。

 安倍政権が懸念や批判が拡がる今回の戦争法案でやろうとしていることは、まさしく「政府の行為による武力行使=戦争」そのものではないだろうか。実際、今回の法案には、政権の裁量の余地が大きい武力行使の三要件など、政府の主導によって国民の声や願いに反した武力行使=戦争に突き進むという構図がはっきり反映されている。

 国民の意に反して、ということについては、次の数字を見るだけで明らかだろう。衆参両院で圧倒的多数を握っているとはいえ、安倍政権を圧倒的多数の国民が支持しているとはとはとても言えないのだ。圧勝したとされる昨年の総選挙でも、自民党の得票率は33・1%(比例区)、全有権者に占める割合は17・4%でしかない。

 さらに今回の安保法案に関する世論調査でも、批判や反対の声のほうが圧倒的に高い。共同通信の調査(6月20~21日)では、法案が憲法違反だとする解回答が56・7%でそう思わないとする回答は29・2%でしかない。朝日新聞の調査(6月20~21日)でも法案に「反対」が53%、「賛成」が29%で、違憲50%、合憲17%だ。

 今回の安保法案は、単に違憲だから反対する、ということに止まらない。今回の法案に対しては、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにする」ための努力そのものが、国民の権利であり義務でもあるというべきだろう。

◆パワーゲーム

 今回の戦争法案の核心は、時の政府の判断で戦争に突き進む〝武力行使の三要件〟にある。

①我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態、②国民を守るために他に適当な手段がない、③武力の行使は、事態に応じ合理的に必要とされる限度、という「三要件」は、概念が抽象的であるなど、明確な歯止めにはなり得ない代物だ。時の政府が、「明白な危険」や「合理的な武力行使」など、なんとでも説明できるだろう。

 その安倍首相、今回の法案の必要性について、東アジアの安全保障環境が変化してきたことを根拠に上げている。これもおかしな話だ。安保環境の変化というのは自然現象ではない。お互いの国家としての主体的な意志や行動のぶつかり合いの結果が、現状の安全保障環境をつくってきたのだ。

 安全保障環境というのは、相互関係だ。一方の当事者である日本は、一体戦後何をやってきたのだろうか。北朝鮮にしても、冷戦構造のなかで米国に追随して北朝鮮封じ込め政策に荷担してきたのは日本だ。韓国にしても、領土問題や歴史問題で根本的な解決への努力を怠ってきた。

 中国にしてもそうだ。内戦や文化大革命などで混乱を続けた中国に対し、米国と一体となって対中封じ込め政策を続けてきた。中国の軍事力が弱体だった時には、中国の領土・領海のすぐ際まで警戒・監視行動を続けて威圧してきたし、米国はいまでも続けている。仮に中国が、カリブ海で同様の行動を取れば、米国がどういう反応を示すかは、あのキューバ危機を持ち出すまでもないだろう。中国が経済成長とともに軍事力でも米国に挑戦する力を付けつつあるいま、中国が自国の軍事的影響力を拡大しようとする危険な動きを見せているのは確かだ。だからといって、東アジアの緊張を中国のせいだけにするのは一面的な見方だという以外にない。

 同じ事は北朝鮮や韓国、それに中国でも当てはまる。国家間関係のなかで軍事力を背景としたパワーゲームの比重を肥大化させることそのものが、緊張と危機を増幅させるのだ。

◆隠されている武力行使

 今回の戦争法案への支持が拡がらず、逆に危惧や批判の声が拡大している背景には、法案の中身そのものが戦争当事国となるにおいが充満していることがある。安倍政権が例示する個々のケースに限らず、法案には「それ以外」のケースがあり得る、との思いを抱く人が多いのだ。安倍首相も「例示することは難しい」と言っているように、法案には書かれていないケースでの武力行使の可能性が大きいのだ。

 たとえば今回の法案に先立って日米で改訂が合意された日米防衛協力のための指針(日米安保ガイドライン)でも同じことがいえる。このガイドラインは、日本で安保法案が提出されてもいない今年4月に外務・防衛担当閣僚会合(2プラス2)で合意されたものだが、その中では次のような記述が目に付く。

 平時からの協力措置として警戒・監視や防空・ミサイル防衛、それに海洋安全保障や後方支援などを上げ、「これに限られない措置」をとる、としている。また日本の安全に関しても、海洋安全保障、非戦闘員の避難、後方支援などをあげ、これらに限らない追加的措置をとる、としている。

 また、国際的な活動における協力についても、「この指針に必ずしも明示的に含まれていない広範な事項について協力する」としている。こんな記述が9カ所も出てくるのだ。

 これを読むと、実は公表された文書の背後に秘密合意文書があるのか、それとも付属覚え書きなどが存在するのか、そうとしか思えない書きぶりになっている。それを前提として公開文書を作り、国会答弁などで、その範囲で答弁しているとしか思えない。そう考えれなければ、一般的には禁止されているという集団的自衛権行使の例外が、機雷掃海や邦人輸送中の米艦防護、それに第三国のミサイル基地への攻撃など、次々と例外を拡大する安倍首相の答弁も納得できないというべきだろう。

 現に、今回の戦争法案では安倍首相も、「総合的に判断する。例示がすべてではない」「最初から固定的に定めていくのは難しい」と発言している。また中谷防衛相も、「(6累計は)あくまで事例で、すべてを網羅的にしたものではないとし、安倍首相も、あらかじめ具体的なケースを例示すれば敵国に手の内をさらすことになると説明もしてきた。議論されている武力行使の事例は限定的……実際はもっと多岐にわたるのは間違いない。

 政府は、この15,16日にも衆院特別委員会と本会議での採決を強行し、延長国会での衆院再可決も視野に入れた強引な成立をもくろんでいる。いま、大きく拡がっている戦争法案への批判の声と行動をさらに拡げることで、戦争法案を廃案を追い込む以外にない!(廣)号案内へ戻る


 もしマルクスがピケティ『21資本』を読んだら・・?ピケティのγ>gは、つまり剰余価値>労賃
  上藤 拾太郎

あらためて当連載の目的を述べてみます。

ピケティは、歴史的な統計からの演繹として、格差の拡大をγ>gとまとめました。資産価値の増大スピードであるγが、経済成長率gよりも一般に高いばかりではなく、gの低下により(低成長)その「差」が拡大すること。つまり、資産家たちとその他の人々の「格差」が増大するのは避けられないと。

 しかし、そもそもかれのよって立つ経済理論(経済概念や統計)は、ひにくにも旧来のブルジョア的なものなのです。

 ということで、ピケティの定式つまりγ>gが、演繹的で論理的なものをもたないという欠点は、避けられないのです。

 同時に指摘したいのは、資産家たちと労働所得者と格差の問題の根本が「剰余価値の搾取」であること、このもっとも根底的な問題がピケティの著作で論じられることはありませんでした。
 その限界をふまえつつ彼の目指す結論=格差の暴露と格差の強化への歴史傾向を労働価値論に立つ一貫した論理性から再検討してみて、どう評価すべきか、というのがこの連載のテーマでした。

■ピケティのγ>gは、つまり剰余価値>労賃

膨大な世界中の資料を駆使して抽出されγ>g。かなりの状況で当てはまっている。ピケティがいう「資本主義の第一基本法則」α=γβ(『21世紀の資本』p56)も含めて、基本統計から社会の格差実態が逆に想定できるのだ。

 少し説明すればβはGDPで資産ストックを割ったものである。大戦直後で数字をとれば、2、3。その後じわじわ上昇し現在の日本・ヨーロッパでは5、6あたりだ。(ちなみに19世紀末は7に達していた。21世紀に再び7、8・・とならない保証などない。)γはご承知のように資産収益率で5%あたり。とすると、資本(資産)所得率αは当然γの倍数で急増する。だから変化の乏しいγがたとえ5から4%に低下しても、資産所得率はやはり急増するのだ。

これは、賃金労働に頼るしかない私としては、背筋も凍る恐ろしい数式なのだ。大衆の窮乏化を具現する定式なのだ。このように、その国の資本主義としての成熟過程で、資産家に富が偏在する傾向をわかりやすく示している。

 話をもどそう。だから労働価値論から見てもピケティの数式には「真実」が、含まれていることが前提なはずである。だからまずその核心部分を見極めることが必要だ。
ピケティの土俵の上での議論をさらに進めてみよう。

 あらためてγ>gとは。γは「資本収益率」とピケティが呼んでいますが、実態は企業資本(→利潤)ばかりではなく土地→地代、株式→配当、預金→利子等々の総合されたもの。ゆえに単位当たりの資産が生み出す利益=「資産収益率」と読み替えたほうがピンとくるのではないか(連載①参照)。剰余価値÷資産=資産収益率だ。γの核心は剰余価値であることを押さえておこう。

 他方、gは国内総生産の成長率である。つまり付加価値の年間増大率である。(連載②参照)この付加価値=資本利益+人件費+公租公課だが、公租公課は考慮しないことにしてきた。であるなら付加価値=人件費(賃金)+資本利益となる。

 さて、うみだされた付加価値の約7割が事実上賃金(人件費)なので、gはその増加率だと置き換えうる、これは本質的な読み替えであり問題はない。もちろんピケティもそのようにみなしていると考えられる。

 (ピケティ解説本でも(高橋洋一『図解・ピケティ入門』など)同様に理解されている。)

だから、ピケティのγ>gはつぎのようになる。

資産増加率 > 賃金上昇率

つまり左辺は剰余価値の変数。右辺は賃金の変数なのである。

ピケティのγやgは、さまざまな「皮」をまとっているが、その核心部分は剰余価値と賃金なのだ。このことは決定的に重要である。剰余価値増加率>賃金増加率、という実態があるからこそ、ピケティのγ>gという式が大まかとはいえ、資本主義社会の実態を映しだすことができるのである。

 だから搾取を踏まえた格差の原理は、本来であれば剰余価値率と言うことになる。
剰余価値率=剰余価値m÷賃金v×100

この剰余価値率は、全労働者のものではなくあくまで「搾取の現場」ともいうべき生産的労働にかかわる労働者のものである。「剰余価値の増大が賃金の増加より大きい」というのはマルクスが解明済みのことだが、大切なことなので簡単に反復してみよう。

マルクスが明らかにしたように、商品価値は様々な製造機械や組み立てパーツやエネルギーなど諸経費=不変資本(C)と労働が新たに生み出した価値、つまり賃金(v)と剰余価値(m)からなる。w=C+v+mである。つまり一目瞭然の通り労働者が新たな労働で付け加えた価値のうち、労賃(v)を超えた剰余価値を生み出すのだが、これが資本により搾取される。完成した商品は資本家のものであるから、賃金部分のみが労働者に返却され、「剰余価値」は資本家の懐に入る。資本主義的生産では、資本の制度は労賃をできるだけ伸びを抑え剰余価値を拡大するシステムだ。これは競争にさらされている企業の宿命でもある。

 賃金は、文化や歴史、階級闘争などの多面的な結果として決定されることになるが、対資本との関係では、「労働力の再生産費」としての位置づけに押しとどめられようとする。資本家としては、賃金が少ないほど手元に残る剰余価値が大きくなることはすぐにわかることだ。剰余価値の伸び率>賃金の伸び、これは資本主義的生産関係の本質なのだ。このような核心を含むがゆえに、γ>gは妥当性があるのだ。

 では、ピケティの数式ではなく、はじめから剰余価値率や搾取に基づく「格差拡大」の数式を用いればよいのではないか?
ところが、おりにふれ述べてきたがこれが困難なのだ。

 剰余価値の研究者は次のように書いている。「特定の国における特定の時期の剰余価値の計算には、統計の制約など多くの困難がある。剰余価値は目に見えない、本質的なものであって、直接には調査できず間接に推計するほかはない。しかもブルジョア統計では、推計に必要な数値を十分に与えていない」(『経済学辞典』「剰余価値率」の項。岩波書店)

剰余価値(率)を統計的に確定するのは壁があるのだ。いくつかの研究は存在するが確立された方法は今のところ存在しない。企業にあってもこの通り。だから搾取・剰余価値概念でピケティのやったように資産階級全体の成長(富の増大)を把捉するのは現実的には困難なのだ。だからこそピケティの研究の意義はそこにある。

■γ>gの長所と短所

 ピケティの不等式の利点と限界をまとめてみよう。

 利点は、現在の国民経済統計から、どの国でも知ろうと思えば各国共通の基準に従って統計を得ることができるということだ。そこから格差の現在や近未来を予測することができる。その上で社会に警鐘を鳴らすことができる。たとえばあと数十年もγ>gが続くとすれば、あたかも十八世紀のフランスのような王侯貴族や大地主の跋扈する富の偏在の時代が来るし、同時に民主制度の崩壊が待ち受けているという予言も成り立つ恐ろしい数式である。

 また、ピケティの数式の積極性は、搾取と言うものが、生産点・生産的工場の資本家たちだけではなく、土地や株などの擬制資本の発展の中で、これらの資産家たちにより急速に吸い上げられている現実をも反映させている。生産的資本家による搾取より広く「資産家による社会的収奪」に網をかけている。ここにも長所がある。とはいえ、この意義を理解できるためには、マルクスを前提としてピケティを読むことが必要である。両者の結合が欠かせない。

 逆に欠点は下のようなものだ。

最大の理論的問題は、この不等式γ>gが、すでに明らかなように左辺は剰余価値(の増大率)であり、他方右辺は実態として賃金(の増大率)である。ということは剰余価値と賃金と言ういわば双子のカテゴリーをピケティはばらばらに扱っている。

 例えば左辺の資本収益率を五%程度として想定し、右辺の経済成長率を先進国なら一、二%。後発諸国は数%あたりで高い、などなど、相互の内在的連関として考察されることはない。

 このようにピケティは賃労働と資本と言う社会関係に対する認識が希薄である。資本主義的生産での搾取を認識しないし、当然、剰余価値の概念がない。

だから我々が注意すべきことがある。すでに上記したように、現実にはマルクスの概念である剰余価値は統計の中で明確には表れない。国民統計で確認できるのは「国民所得」とか「付加価値」とかである(これも正確と言うわけではない)。

この連載でこれらの国民経済統計のカテゴリ、例えば「資本収益率」「国民所得」「付加価値」とかの意味のある「核心部分」を析出するように努めてきた。とりあえず不必要な「皮」ははぎ取ってきた。しかし、この皮は、リンゴの皮のような薄皮ではなく、玉ねぎのように多層性だ。

 だからγ>gを利用することができるが、その場合はいくつかの留保や例外、一見逆転する現象などの複雑な動きを想定するしかない。

γは資産収益率なので、資産の増大速度が早ければ剰余価値の増大があっても下がることがありうるし、逆も当然ありうる。gは剰余価値+賃金の合計の増大率なので、高成長を実現していても、搾取率が高まれば賃金が絶対値で減少することもある。もちろんその他いくつかの組み合わせがありうる。

 これらの保留や注意が必要ではあるが、それを前提としていれば、ピケティの数式は簡便でかつ有効であると考えてよい。

■経済の金融化が推し進める「資産資本主義」と大衆窮乏化

 上記したようにピケティの論考の良さはマルクスの搾取=剰余価値論の理解を前提とすれば、国民経済統計で多面的にこの論理を補足するということだ。

 地代も擬制資本もマルクスやそれ以前から存在する。しかし、その傾向は金・ドル交換停止(1971年)が大きなきっかけとなり「過剰ドル・過剰貨幣資本」が世界的現象となり現代の資本主義を金融革命に導いた。その後はバブルと収縮を繰り返しつつ、金融経済はグローバルな事象となった。株式、債券、金融商品等々擬制資本は土地も含めて大所有者にとっては「金のなる巨木」となっている。ここから生じる「格差」をピケティは明るみに出したのだ。

 ようするに剰余価値の収奪者は、生産的企業の資本家ばかりではない。「資産家」たちは、一度たりとも企業や工場の経営にタッチすることなくして、剰余価値の一部を確実に入手できる。私的所有と信用制度の肥大化、そして国家による信用制度の安定装置のおかげでそうなる。

 資産家の雇用する資産運用のプロは、完璧なポートフォリオでその増大にまい進する。

一方、企業資本家たちは、株主など資産家への配当を稼ぎ出すために生産性を向上させ、節税に励みまた労働賃金をさらに抑え込む・・・。

 日産のゴーン社長のような、報酬が十億にもなる企業資本家=スーパー経営者ばかりではなく、総資産家の存在こそが「格差」「階級差別」の実態であることがトータルに見えてくる。これがピケティの貢献なのだ。

 限界を知ることを忘れなければ、ピケティの数式はかくして有効なのだ。そしてこの結論はピケティの「処方箋」である累進課税の導入による格差是正策を懐疑的に思わせるのに十分だろう。理由はすでに明瞭だ。累進課税が導入されても「剰余価値の増大>労賃の増大」という資本主義に根差す長期傾向を覆すことは、ありえないのだ。

 本連載は、一般の「ピケティ入門書」とは一線を画している。なにより、賃金労働者のために書いたし、労働価値説の正当性を確認するために叙述した。賃金労働者は団結して社会を変えよう! 変えるしかない!(了)号案内へ戻る


 コラムの窓 ・・・「4分の3勤務」になって思うこと

 この三月に定年となり、四月から「再任用(再雇用)職員」として、「四分の三勤務」で働くようになって三ヶ月が過ぎようとしている。

◆人員不足の中で

 再任用制度は、以前は「フルタイム」か「ハーフタイム(二分の一勤務)」しか選択できなかったが、近年その中間の「四分の三勤務」というのを選べるようになった。いろいろ考えて、僕はその「四分の三」を希望することにした。

 理由は、職場の人員不足にどう対応するかだ。フルタイムを希望してしまうと「一人役いる」とみなされ、新人の補充が入らない恐れがある。人員増は要求しているが、なかなか改善しないなかで、若い新人を迎えられない事態は避けたい。「四分の三」か「二分の一」だと「一人役に満たない」ので、人の補充要求が通りやすい。

ただでさえ、救急医療に従事する医療技術職場は、夜間の交代勤務のため、いつも「夜勤入り」で二名、「夜勤明けで二名」、「土日祝の振替休」で一~二名、つまり常時五~六名が欠員状態で、日勤業務を各部署の助け合いで回しているのが現状だ。

それなら「午前中」だけの二分の一勤務より、「午後三時頃まで働く」四分の三勤務の方が、職場のためにはなるのではないか?そう考えての作戦だ。

◆手取りは半分以下に

 「四分の三勤務」というと、給料も四分の三かというと、全然甘くない。

 まず三月までの「係長職」から「主査(主任)職」に一級格下げとなる。格下げされた給料の額に「四分の三」を乗じる。これだけで、基本給はざっと半分に減る。

 これに夏と冬の「一時金(ボーナス)」の「率」も半分になる。職員の夏の一時金が、確か「約一・九ヶ月分」位なのだが、嘱託職員や再任用職員はその半分の「約一ヶ月分」。これで、年間収入は、これまでの半分を大きく下回る。

 加えて社会保険料や税金の引かれ方が並ではない。所得税の他に、「市県民税」を引かれるのだが、この市県民税というのは「前年の所得」をベースに引かれる。給料は半分なのに、税金は前年の所得で引かれる。

 差し引き支給額(手取り額)を見てびっくり。なんと生活保護基準額以下である。まあ来年になれば市県民税も、現在の所得に合わせて減るのだろうから、経過措置として、しのぐしかないのだろうが。

◆市民運動には参加しやすく

 給料が減った代わりに、時間的な余裕はできた。おかげで市民運動のいろいろな集会や会議や行動には参加しやすくなった。

 これまでは、交代勤務や残業続きで、平日の夜間に集会があっても夜勤や残業で行かれなかった。土日に集会があっても、土日出勤で参加できなかった。会議にも出られないから、市民運動の委員などは、とても責任もって引き受けられなかった。

 四月以降は、いろいろな市民集会や運動団体の会議に出やすくなった。けれど、それはいいことだろうか?現役労働者が全然参加できない職場環境はそのままで、リタイア組や主婦や学生しか、運動を担えないということは、そうした運動の基盤において、労働者的性格が薄くなっていくことを意味しないだろうか?

 社会運動に関わる時、いつも気をつけなければいけないことは、「来れない人々」のこと、一般の労働者のことだと改めて思う。やっぱり駅前や会社の門前で、ビラをまいたりマイクでしゃべることは、やめてはいけない。「ビラをまいてもどうせ来ないから」という発想は間違っていると思う。

 本当は、一般の労働者にこそ「四分の三」勤務を実現し(せめて「五分の四勤務」でもいい!)、労働者全体が社会運動に参加できるような社会環境をめざすべきなのではないか?(松本誠也)


 アベノミクス=財界戦略のワナ
   「雇用逼迫」なのに労働者所得が低下・・なぜ?


今年のはじめころから、景気がいまだにパッとしないのに「雇用逼迫」が言われるようになりました。安倍内閣は、ここぞとばかりに「景気の好循環」「アベノミクス効果」だと宣伝に利用してきました。実感ないけどどうして? 今回はこれらの点を中心に考えてみます。とりあえず、最近のデータを。

「総務省が26日発表した5月の完全失業率(季節調整値)は3.3%と前月から横ばいとなった。厚生労働省が発表した同月の有効求人倍率(季節調整値)は1.19倍で前月から0.02ポイント上昇。1992年3月以来、23年2カ月ぶりの高水準となった。

15━64歳の生産年齢の就業率が過去最高となるなど雇用情勢は引き続き改善している。

完全失業率は、3.3%は18年ぶりの低さとなった前月と同水準。このうち女性は3.0%で、1995年2月以来、20年3カ月ぶりの低水準となった。

季節調整値でみた4月の就業者は前月比19万人増の6357万人で、3カ月ぶりに増加。このうち雇用者は同18万人増の5619万人となった。完全失業者は同1万人減の218万人で、4カ月連続の減少。【ロイター六月二十六日ここまで】

 たしかに雇用関係では労働者・雇用者に一見「明るい」ニュースが増えてきた感がありますが、そうではないのです。

■「格差景気」という現実

 安倍政権は、雇用の改善や大企業などの税収増大などのから、景気は回復しつつある。「デフレ脱却宣言を出そう」などと、経済全体やわれわれの実感とはなれてアベノミクスの「成果」をあいかわらず押し出そうとしています。

もちろん、そうではないのです。

 五月の内閣府発表統計では、「十四年度GDP成長率」はなんとマイナス一%と言う発表がありました。リーマンシュョック不況には及ばなないにしても、「オイルショック不況」「バブル崩壊不況」を上回る戦後でも有数の「不況」といえるのです。去年が、記録的な大不景気であったことが、数字でも確認されているのです。ところが、政府も大マスコミもこの情報をほとんど無視してきました。意図的ですね。

 ところが国内総生産=国民総所得がマイナス一%なのに、去年から今年にかけて大企業が「空前の経常利益」を上げているという新聞見出しが連日のように躍りました。おかしなことですね。たしかに今まではこんなことは見たことがないでしょう。大不況なのに大企業は空前の大儲けとは?このからくりは何?

 そうなのです、「国民総所得」の大半が個人的所得ですが、そこが大幅に減少したのです。事実、六月にも、「労働者の実質賃金が二十四か月連続で低下」という統計発表がありました。企業で働く労働者は賃金抑制・低下。その分の利益で企業は大儲けなのです。

「ニッセイ基礎研究所の調べでは、企業が生み出した付加価値に占める2014年10―12月期の「労働分配率」の割合は、過去20年でもっとも低い。

それによると、昨年10―12月期の労働分配率は季節調整済みで60.4%と、1990年代初めの水準まで落ち込んだ。製造業では54.8%と、80年以降で最低となっており、同研究所の斎藤太郎経済調査室長は「好調な企業業績にかかわらず、人件費の抑制姿勢は変わっていない」と指摘する。財務省が2日発表した同じ期の法人企業統計によると、調査対象約1万9000社の経常利益の総額18兆円余りと消費増税前の1―3月期を上回り、四半期として過去最高だった。【東京 6月4日 ロイター】

 また『財界戦略とアベノミクス』によれば、98年から07年までに大企業の付加価値は12・5兆円増大したが人件費は3・9兆円減少しています。つまりこの人件費の減少により企業分配(営業純益など)が拡大したことがわかります。人件費の切り下げによる利益の拡大です。

 さらに言えば大企業でも、「空前の経常利益」と言いながらも、本業=営業利益がそれほど伸びていません。モウケの多くは折からの金融大緩和をうけて「内部留保」を駆使した財テクと言ってよいのです。だから新規の投資が乏しいので実数としての雇用はそれほど拡大せず、賃金の上昇にはつながってきません。さらに財界路線を踏襲してきた歴代政権の労働法制改悪の結果、非正規雇用が正規雇用に置き換わることが進行してきたのです。

 大企業は人件費抑制により得た潤沢な「内部留保」を活用して株式の売買や配当で大きな収益を上げています。以下の「ロイター」は世界的傾向ですが、日本企業法人も当てはまるでしょう。国内ばかりではなく海外株投資で大きな利益を上げたからこその「史上空前の経常利益」なのです。

■新財界路線=非正規雇用化推進

 このように財界は、二十年以上まえから低成長下でも、節税と賃金の抑制で内部留保の積み増しを重ねてきたのです。この巨額の内部留保で、有価証券=主に株式取引とその配当収益において「低成長でも高収益」という経営を実現してきたのです。

人件費削減(労働分配率の低下)及び金融資産(株式取引による利益や配当益)という新しい致富手段を開拓してきたのです。二〇〇〇年以降は、まさにその通りとなっています。

 「雇用逼迫」という事象も上記の新財界路線と深くかかわっています。
そもそも、労働力人口は、今後一〇年で三百万人が減少するとみられています。人口減少ともにいわゆる団塊の世代の労働人口からのリタイヤが進んでゆくからです。長期の少子化がそれを加速しています。

財界は、そこで戦略的に激しく労働基準法を攻撃し、換骨堕胎させようとしてきました。

つまり、正規社員を減らして非正規ないしはパート職員による人件費削減の政策を着々と推し進めてきたのです。すでに、非正規雇用の比率は四十%に接近しつつあります。また、管理職を除けばじつに四十七%が非正規雇用という数字もあります。

 財界戦略は、歴代政権の下で着々と進められてきましたが、経済の金融化、株高政策、法人減税そして労働法制ではとりわけ安倍内閣において一層顕著な動きがあります。

1つは派遣法改悪、2つ目は残業代ゼロ法案、3つ目は年内に審議会で議論される首切り自由化法案です。これらによって人件費を削減しながら、雇用逼迫を緩和し「不景気であっても利益を上げる経営」を目指しているのです。

■雇用の「拡大」と貧困が同居する?

 このように雇用が拡大し、ひっ迫すれば当然賃金が上昇する、という通念は通用しなくなったことを理解するひつようがあります。景気が多少改善しても同じです。

もはや、雇用者は、団結して待遇の悪化を止めたり、改善を要求することなくして生活を守れないのです。

 就業人口が増大するという事象は、非正規雇用が拡大し収入が減少したので共働きが一層拡大したことを意味しています。

要は家族を養う賃金がこれだけ低下すれば、働ける人は(例えば家庭の主婦)もまたパートなどにゆくほかはなくなるのです。

 つまり、財界路線は、一人一人の労働者の所得を下げて人件費を抑制しながら、雇用を拡大することができるのです。だから従来であれば、「雇用逼迫」=売り手市場というわけで賃金が大幅に上昇するはずですが、そうはならないことになってしまったのです。(竜)号案内へ戻る


 色鉛筆・・・「私、訓練生になりました」

 今年3月末で退職して、本当は少しのんびりしたいと思っていたのですが、職業安定所に雇用保険の手続きに出かけた際、職業訓練のことを知りました。職業訓練の条件は、雇用保険受給資格中なら国から授業料と交通費が保障され、訓練中には失業手当も支給されるという好条件でした。雇用保険は労働者の退職後の生活保障のためにあるもので、無条件に支給されると思っていたのですが、求職活動が義務付けられ、提出書類を職安で検査された結果で、保険の支給が決まるという、受身的なものだったのです。

私が通うことになったのは、「介護職員初任者研修・視覚障がい者ガイド実践コース」の訓練で、1日6時間、土日・祝日を除く3ヵ月間を要します。男女20名のクラスは、私を含め60歳以上は5名で、20代から65歳までの幅広い年齢層は、色んな意見を尊重し認め合う作業を実践できるいい機会になりました。

 2000年に介護保険が導入により介護が社会化され、「措置」から「契約」に変わり、利用者は自分でサービスを選択できる様になりました。そうなると、受け入れる側の施設、事業所はより充実した介護内容が必要になり、優秀な人材を集め、職員にも教育を受けさせスキルアップが必要になります。郵便局でも半年毎にスキル評価された苦々しい思い出がありますが、どこの職場も「お客様」相手に、働く者を評価し優劣をつけ競争させるのは、同じだなあと感じました。

 この訓練は、先にも書きましたが国からの費用が出ていて、その訓練を請け負った事業所が、私たち訓練生の授業のプランを立てお世話をしてくれています。その事業所は、神戸にあり手広く特別養護老人ホームをはじめ、各種サービスを行っていて人脈も豊富です。だから、私たちの授業には、保健師・看護師・ケアマネジャーなどを経て、グループホームを経営している60代の女性、トラック運転手やサラリーマンを経て社会福祉士・施設長の40代の男性、大学の講師をしながら介護認定審査会にも関わる40代で3人子育て中の女性など、教材を通してそれぞれの方の生き様も勉強になります。

 と言うことで、私は40年ぶりに授業を受け、学校に通う訓練生になりました。これまで、通勤も通学も電車を利用した経験はなく、この度、初めての電車通学となり慣れない生活の変化に戸惑っています。これから、盛夏に向かい実習がはじまりますが体力が続くよう体調管理に気を付けたいと思っています。その後のことは、またお知らせします。(恵)


 2014「死刑判決と死刑執行」

 アムネスティ・インターナショナルが2014年の死刑判決と死刑執行について報告書を発表した。それによると、昨年死刑が執行されたのは22カ国。前年より22%減で、少なくとも607人だが、この数字には死刑執行を国家機密扱いとしている中国が含まれていない。中国は死刑適用減を目標に掲げ着実に減らしていると主張しているが、年間数千人の死刑が執行されているというから、完全に統治の一手段として死刑が利用されているというほかない。

 死刑判決でみると、55カ国2466人が死刑判決を受けている。前年の57カ国1925人と比べて大きく増えているのは、エジプトの109人から509人へ、ナイジェリアの141人から659人へ、この2カ国の大量の死刑判決によるものである。

 日本で執行されている絞首刑は、銃殺とあわせて多くの国で行われている。処刑方法としては、他にサウジアラビアでは斬首、中国や米国、ベトナムでは致死注射で執行されている。石打ちや公開処刑が行われている国もあり、こうなると治安維持目的の見せしめという意味が露骨に読み取れる。

 日本はどうか、昨年3月27日、世界で最も長期間服役していた袴田巌氏が再審決定によって一時保釈となった。検察は異議申し立てを行っており、未だに再審は開始されていないし、検察は再び死刑囚に戻そうとして執念を燃やしている。再審決定のなかで証拠捏造まで指摘されているのに、何の反省もなく過去の誤りを繰り返そうとしている。ここに、権力というものの傲慢さが見て取れる。

 死刑執行は6月26日と8月29日の2回、3人だった。安倍政権下では2006年の第1次と合わせて約3年半で22人に執行されている。22人目となるのが、6月25日執行された「闇サイト殺人」の神田司死刑囚である。なお130人の確定死刑囚が存在し、死刑判決の多さはあきれるばかりだ。しかも、その中には裁判員が関与したものもあり、社会が殺人犯をひたすら排除したがっていることを暴露している。

 死刑を維持している国は今や少数派だが、日本では国民的意識に支持され、国家権力は安んじて死刑を続行している。例えば、6月26日の中日新聞には「闇サイト殺人」の被害者遺族の「人を殺しておいて、死刑にならないのはおかしい」という思いを紹介している。被害者遺族の気持ちとしては当然だと思うが、マスコミがそれを掲載するのはこれに同意している、あるいはそういう意識を助長することになるのではないか。

 安倍自公政権は今、戦争法成立に向けてなりふり構わず暴走している。例えばそれは、現状では自衛隊員が外国で誰かを殺したら正当防衛か殺人かが問われる。安倍らにとってはこれでは困るのであり、自衛隊員が安んじて殺人を実行できるようにしたいのである。アメリカンスナイパーは100人を越える人々を狙撃したが、殺人罪に問われることなく英雄視すらされている。国家による殺人とはこんなものである。

 「アムネスティ・ニュースレター」458号に元刑務官・坂本敏夫氏のインタビューが掲載されている。矯正職員という肩書の刑務官がこれに反する「人殺し」を強いられている立場からの発言である。死刑は「刑罰のひとつ。それ相応の悪いことをしたのだから、命で償うのはしょうがない」という考えから、死刑反対にかわった理由をこう述べている。

 多くの死刑囚と向き合ってきた中で、「人は変われる」ということを、強く確信したからです。どんな悪党でも更生できる。私だけがこう考えているわけではありません。ある死刑に立ち会った検事が、死刑囚に握手を求められて礼を言われ、自分が殺害した人の遺族への謝罪を託されたことがありました。その検事は「極悪人という定義も、矯正困難という慣用句も今はガラガラと音を立てて崩れた」と述べたそうです。刑罰の目的は制裁と矯正教育による改善更生です。死刑はその目的からみて大いに矛盾している。悔い改めた者を処刑する。殺すことで悔い改める機会を奪っているのだから。

 この国は異端者を大急ぎで排除する方向へとどんどん転落しつつある。人殺しは死刑に、敵意を持つ国には軍事的圧力を、そして自衛隊員は戦死して当然。これに対抗するために、国家による合法的殺人である死刑と戦争に反対しよう。 (折口晴夫)  

  号案内へ戻る